大左右衛門



 一年半前、ウチに大左右衛門(だいざえもん)というネコが居た。

 彼は野良で、生後数週間かそこいら、ウチの玄関先に迷い込んできたところを ネコキチの母に拉致(保護ともいう)された。

 保護された日に、おなか一杯ミルクを飲んだ後、 僕と一緒のふとんで寝た。
 嬉しかったのだろう、あまり警戒もせず、すぐにふとんの中で丸くなった。

 このときの経験がよほど気に入ったのか、彼は成長しても、人間の寝てるふとんの上が一番好きで、夏場はともかく冬場は閉口した。
 ただでさえ重い冬ふとんが、彼の重みでさらに重くなる。
 別の場所に座布団など置いて、そっちへ移しても、すぐに帰ってくる。
 横に空いている弟のふとんがあっても、人間の寝てる上で寝る。

 いいかげん腹も立つ。
 えい、
 とふとんの中から足を延ばして、蹴っ飛ばす。
 寝バナをくじかれた彼は、何事が起こったのか理解できないままきょとん、
 と首を振る。
 でもすぐに、なんでもなかったかのように人の上に乗る。

 またふとんを蹴り上げる。
 転げ落ちる。
 乗り直す。
 蹴る、転げる、乗り直す。

 三回もやるとこっちの根がつき、足をずらして、ふとんの中で斜めになる。
 そうするとまた、斜めになってる足の方へ寄ってくる。
 どんどん斜めになる。
 おしまいには45度。
「寒い……」
 諦めて足の重さに耐えて、寝る。

 僕のところにいなければ、父か、母の上だ。
 特にどうも、男の足が好きなようで、ターゲットは主に、僕、弟、父。
 男の方が睡眠中の体温が高いから?
 世のお母さんにコタツ代わりに使われているお父さんは多い。
 
 美猫、だった。
 美男子である。

 なんということはない、ただのキジトラだ。
 アメリカンショートヘヤー模様の、日本猫を想像していただければ。
 ただ、顔立ちが抜群に整っていて、猫らしい、顔。

 猫の顔は、鼻面の出方、瞳の位置でだいたい美男美女が決まる。
 模様はあんまり関係ない。
 おかしな風にぶちのかかってる三毛猫でも、よく見ると美形は美形である。

 以前から居たペチャ、はペルシャ猫。
 チンチラ系だが、純血種ではない。
 それでも名のごとく、ぺちゃっとつぶれた顔をしている。
 本式のチンチラでは、つぶれてればつぶれてる方がいいという。
 ブルドックとかも、そう。
 もう、そのゾーンになるとマニアゾーンで、くさやはくさければ……って話になるので、わかりにくくなるんだけど。

 彼女と比べると、普通の日本猫らしく、鼻面も適度にでてるし、毛の長さも適度。
 毛量が多く、寸詰まりに見えるペルシャと違って、猫族独特の体の曲線が、美しい。
 グレーのトラ模様が精悍で、本当にいい男っぷりだった。

 ペチャさんは、もう8歳になんなんとするおばさん猫だったから、遊び相手としては不足だったらしい。
 彼はことあるごとに人間にじゃれついた。

 力のコントロールが効かない。
 爪や牙の力のコントロールは、幼少のみぎりに、兄弟や親とじゃれている間に学んでいくものらしい。
 相手から受ける攻撃や、自分の攻撃での相手の反応を見て、フィードバックをかけて経験でつかんでいくもののようだ。

 その経験のない彼が、力一杯噛む、力一杯爪を立てると、そりゃもう、痛かった。
 そら、ネズミもスズメも狩られるわ。
 そう、文字通り「痛感」した。

 だが一人猫、甘え上手。
 そうして人間に懐いてくれると、人間としても嬉しい。
 特に父はまさに猫かわいがりだった。

 猫には二種類居る。
 人間に抱かれるのが好きなタイプと、嫌いなタイプ。
 ペチャは後者だった。
 だいたいにして長毛種は抱かれるのが苦手である。
 人間みたいな体温の高いものと密着していたら、それこそ我慢できなくなるからだろう。
 現に彼女は、コタツの中で丸まるなどという歌詞通りの行動はしない。
 冷たい玄関の板の間に座り、外を眺めている。
 冬でも。
 対して大ちゃんは抱かれるのが大好きで、抱いているといつまでも腕の中でごろごろと鳴いた。

 父は犬派だったこともあるし、そもそも息子二人が抱かれるのが嫌いなタイプだったこともあって、べったりと抱いた。

 犬、猫を飼っている家庭でも、彼らにとって家庭内順位があって、本当のメイン飼い主、を選択する。大ちゃんにとっては、明らかに父だった。
「父の猫」
だ。飼っているのは、ウチ全体、エサをやるのは、母か祖母、一緒に寝るのが、僕や弟が、多くても。

 ある日彼が、悲鳴を上げながら血塗れになってウチに飛び込んできた。
 見ると、しっぽのよう。
 途中からあらぬ方向へと曲がったそれ、には黒く固まった血がついていた。
 どうしようもなく痛むのか、それとも別のところも痛めているのか、弱々しく、いつもと違う鳴き声−悲鳴を上げながら、よたよたと家族の元へと近寄る。

 血相を変えた父と母が、緊急に近所の動物病院へ運ぶ。
 対応が悪い。
 明日朝、馴染みの、信頼の置ける、しかし家からはクルマでかなりある病院へ連れていくことに。
 僕はその段階で、家に帰った。
 悲しげに、辛そうに電気を切ったコタツの中にうずくまる大ちゃん。
 命には別状なさそうだが、辛そうと言えばこれほど辛いことはない。

 家族、恋人、友人……自分でない、自分の大切なものが、辛い目に遭っている。
 これほど辛いことはない。
 自分自身が辛い目に遭うより、何倍も、辛い。

 翌朝、仕事の父に代わって僕が、連れていった。
 しっぽが途中で中から折れ、それとともに下半身の皮膚が後ろへと引きずられており、
 ひょっとすると内臓にも悪い影響がでてるかもしれぬ、という。
 血尿も出てるが、それがショックによるものか、内臓を痛めたせいなのかまではわからない……
 先生の話によると、外的要因だが、猫同志のケンカではない。
 人間が、しっぽを掴んで、振り回したような。
 そんなケガだという。

 本当のことは何もわからぬ。
 だがしかし、傷つけられた大ちゃんを見て、得体の知れないどす黒い気持ちになった。
 なんという理不尽だろう。なにがどうだから、コイツがこんな目にあわなければならないのか。
 理由は何もない。
 ただ、現実として悲しげに、痛みに疲れ果てて泣き叫ぶ元気もない、大好きなネコがいた。

 言葉にできない感情を、どうしていいものかわからず黙る。
 母はしかし気丈。泣きながらも
「先生、治るんでしょうか……」
「手術してみないとわかりませんが、大丈夫だと思います。
 ここだけ、なんとかなればいいわけですから。」
 女医さん。落ち着いて話す。
 こんなケースはよくあること、そうとでも言いたげに。
「よかった……お願いします……」
 涙声の母、黙って頭を下げる、僕。

 こころのそこから、頭を下げた。
 
 傷は回復した。
 しっぽを根本からほとんど失い、一週間ばかりは下半身をミイラ男のように包帯でぐるぐる巻きにされていたが、元気な若猫だったことも効いて、みるみる治っていった。
 包帯がとれ、塗り薬になる。
 相変わらず、薬のついている下半身を自分で舐めないように、首にパラボラアンテナのようなカラーがつけられていたが、それをいじって遊んでいたりもした。
 家族は喜んだ。
 完治すると、また元のように、暴れ回って、走り回る。
 懲りないのか、外へも遊びに行った。
 運動神経がいいのだ。
 ネコ歴45年の母にして、歴代トップの栄冠を与えるほど、抜群に運動能力が高かった。
 ペチャにはできぬ、塀を乗り越えての外出もお手の物だった。
 夜歩きは雄ネコの華。
 毎夜出歩く。
 
 そして。

 ある日、居なくなった。

 仕事先から疲れ果てて帰った僕を待っていた、涙目の母の報告。
「いなく、なった。」
 それは都会では、たいていの場合、死を意味する。
 交通事故。野良猫狩り。殺鼠剤の誤食。悪質ないたずらの果て。

 確かに、可能性としては、
 雄ネコの習性である「旅に出る」という奴かも、しれない。
 雄ネコが1-2年の旅に出ることは、よくとはいわないまでもわりとあること、らしい。
 また、美猫であるから、どこかの子供か何かと友達になって、そのまま家に持ち帰られ、そのまま幸せになってるのかも、しれない。
 元は野良であるから、飯と宿さえ出れば、そしてそうやって拾ってくれるような愛情があれば、そこに住みつくことも、あるだろう。

 だがしかし。
 現実として、今ここにある現実としては、
 大ちゃんはもういない。

 いつおかしいと気づいたか。どれだけ探したか。
 母は話すうち、声を震わせる。目を伏せ、こめかみに手をやり、
 鼻を、すすった。

 傍らの父は、下唇を噛んだまま。
 彼が、何かに耐えるときに、やる、癖。
 じっと、母が話し始めたときに、音を消した、テレビを見つめていた。
 目には、何も映っていなかった。

 静かな暮らしが戻った。
 一日、
「どうしたの?あの子がいないけど?」
と鳴いていたペチャも、もう黙った。彼女にも、わかっているのだろう。
 彼女が来てから、家にいた犬が居なくなり、インコがいなくなった。
 そうした別れを、彼女は知っている。

 応接間で音楽を聴いていると、突然ぬっと顔を出して、抱けという。
 夜3時、食堂で一人、夜食のラーメンを作っていると、何か僕にもスペシャルは無いのか、とねだる。
 仕事時間のズレで、誰もが起きている時間に床につくと、これ幸いとばかりに、ふとんに乗ってくる。

 もう、重い思いはしなくてもいい。

 それがどんなにつまらないことか、考えたことも、なかった。

 彼がいなくなって、母は一刻も早く忘れたいのか、
「死んだ、死んだ、交通事故で死んだ。」
といい続ける。
 そんな証拠、どこにもないというのに。
 あまり動物が好きでない祖母も、ペチャのご飯を用意しながら、
「まとわりついてくるのがいなくなって、楽やわ。」
とつぶやく。
 哀しげに。
 僕は意識から飛ばす。
「きっとあのアホのことだ、要領よく、ウチより金持ちのどっかで、よろしく楽しくやってやがんだ。」
 その根拠も、もちろん、なかった。

 そして親父は急速に老け込んで、弱っていった。
 病いが、彼を、恐ろしく速いペースで、蝕んでいった。
 いろんな重荷と苦しみを背負っていた親父の、大切なこころの支え。
「父の猫」
は、父の、最後のよすがだったのかもしれない。
 そして3ヶ月後、父は逝った。

「大ちゃんがいなくなってから……」
 父の話、になると、その話になる。
「美男子やったな。」
「うん。」
 僕は必ず、こう言う。
 それ以上、続けられたくないから。
 

 大ちゃんが居なくなって一年と少し。
 父が居なくなって一年より少し前。
 僕と、母と、祖母は、ネコを、拾った。
 墓地の入り口に捨てられていた、ネコを、拾った。
 四匹。

 どいつも瞬く間に元気になった。
 男、四兄弟。
 家中を傷だらけにし、部屋中のものを床に落とす。
 イヤホンの頭を食いちぎり、ミカン箱をひっくり返してミカンを玄関中にぶちまける。
 僕の部屋で相撲を始め、描きかけの原稿に、梅の花。

 異常な状況に面食らい、安らぎの場を求め逃げ回るばかりだったペチャも、最近は諦めつつある。
 大ちゃんがおいたをしたときには顔をしかめていた祖母も、もう何も言わない。
 朝、運動会が始まるとさすがに辛いので、睡眠の大切な職についている弟は、寝るときに部屋の扉を、締める。
 だけど、もしその時に誰か居たなら、追い出そうとは、しない。
 一人の時なら。僕も。

 重いふとんで眠れることは、
 重いかもしれないけど、
 眠りにくいかもしれないけど、
 幸せなことだから。

 それを大ちゃんに、教えてもらったから。


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