街道へゆこう! プロローグ 「Good morning!」

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 シャーッ……
 パチパチパチ……パチパチ……
 コンコン……
 プシュワアァアアアアアアアアアアッ……

 いい色のベーコンの上にタマゴが落ちて、一段落。
 あらためて、徐々に鮮明になってくる意識と共に、昨日の夜を振り返る。

 どうして時間見てなかったんだろう。
 どうして宿取らなかったんだろう。
 簡単なことなのに……

 そう。
 あの頃なら、それは僕がやるべきことだった。
 だからきっと彼女は、それをしなかったんだろう。
 普段なら素晴らしい手際で、微に入り細に入った計画を立てるのだろう。ちらり、と覗いた分厚いシステム手帳の、びっしりと書き込まれた字を思い出す。
 いいかげんに見えてきっちりしていて、
 お転婆に見えて実は気配りが細かくて。
 バカな冗談に大口開けて笑って。

“……はは、それもあの頃と同じ”

 零れる笑みを止めようもなかった。
 けど、笑ってる場合じゃない。
 昼にはみどりが帰ってくる。
 こーんなところ見つかろうものならどんな誤解されたってなんの言い訳もできない。
 たとえ何事もなかったにしても、だ!
 ……今からでも何事のひとつやふたつは可能でないこともないような気がしなくもない……
 だってそもそもそういうことなんじゃないだろうか。
 流花(るか)的には。
 ……だよな。
 もう高校生じゃないんだからな。
 というか高校生でもそうだろ。

 いやちょっと待て。
 ちょっと待て遼太郎。
 物理的可能性を論じる前に倫理的可能性を検討しよう。
 密室殺人のトリックを考える前に、殺人はやってはいかん。
 僕には愛する妻がいる。
 そう、彼女のことを思えば……
 彼女の笑顔を思い出せば……
『がるるるるるる〜!』
 角を二本ばかり生やしたみどりが、ダブル包丁で迫ってきた。右に出刃左に柳刃。
 ぶるぶるぶる。
 メスネコの背中、掻き掻きしてあげるだけでヤキモチを焼くあれのことだ。
 そのようなことがもしバレてご覧なさい。
 阿部定もある程度覚悟しなくてはならない。
 ……チョッキーン。

 それは……嫌だ……
 嫌だよーーーーーっ

「泣いたり笑ったり、忙しいね」
「ひゃっ!?」
 振り返ると、キッチンの入り口に男物シャツ一枚の流花が立っていた。
「……おはよ」
「あ、うん。お、おはよ」
 挨拶を返すと、流花はちょっと目線を逸らした。
 恥ずかしいのかもしれない。
 僕も、そう。
 思い切り着痩せするタイプ、持ち上げられた胸元から皺が伸びる。斜めの裾の下から、白い長い脚が伸びていた。
 壁に寄っかかると、なお綺麗に見えた。
 しょうがないから、フライパンに目を戻す。
「……よく、眠れた?」
「……うん、まあ……
 あの、これ」
「ん?」
「着せてくれたんだ」
「あ、ああ……うん。そのままだと、風邪ひくかな、と思って。はは」
「……盛大に脱いでた?」
「んーっと、そこそこ。止める間もなく、ね」
「……ごめん。ほらあたしさ、運動好きだからさ、今も軽く走ったりしててさ、だから体温上がってくるとすぐぱーんって上がっちゃって、熱くてしょうがなくなって、でさ、でね、その……
 ……ごめん」
「別にそんなに謝らなくていいって。目の保養になったし」
「……嘘ばっかり」
「ほんとだよ」
「そんなにじっくり見たの?」
「は!? いや、じゃなくてでっきるだけ見ないようにしてた! こう、それも手探りで着せた!」
「手探り?」
「いやその!」
「……ごめ。冗談。
 ……ありがと」
「いやあの……その……うん……」
「……なに、作ってるの?」
「あ、朝ご飯。ベーコンエッグでいい?」
「ん。もちろん。気、遣わせるね」
「はは、いいって。僕も食べるし。
 あれ、ひょっとして朝はあんまり食べない?」
「そんなに不健康そうに見える? ちゃんと食べてるよ?」
「じゃパンはバゲットかな」
「お。あたり。遼太郎も?」
「ざーんねん、トースト。それも山形。敵国人?」
「酸っぱくて固いライ麦パン食べるよりはマシだね」
「はは……あ、バター切らしてる。買いに行った方がいい?」
「いいよぉ、そんなの」
「マーガリンなら」
「何もつけない方がいいかな」
「はは、だろうと思った」
「ふふっ、お見通しだね」
「コーヒーにミルクは?」
「オ・レで。意外?」
「……ははーん。読めた。本日の朝ご飯に一番足りない物」
「せーの」
「「チーズ!」」
「あはは……」
「ふふ……」
「今度買っとくよ。ナチュラルの美味しそうなヤツ」
「……今度?」
「あ……いや、その」
「……ブルーとかゴルゴンとか、バゲットに合うの」
「あ……ん。バゲットも一緒に」
「ふふ……
 あ、ところでさ」
「あ、もうできるよ。向こうで待ってて」
「あ、うん、あの……」
「コーヒーも淹れていくよ。ミルクも温めるんだよね」
「うん。……えと」
「あ、まだ何か欲しいものある? 冷蔵庫にあるものならなんでも……」
「んと、たぶん冷蔵庫にはない」
「ん? 歯磨きは朝食前、とか」
「でもなくて、その……」
「ん?」
「……パンツ、どこかな」


   §


「んふふ」
「なにか楽しい?」
「ん。誰かに作ってもらった朝ご飯なんて、久しぶり」
「ははっ……まあ、ありきたりで悪いけど」
「んん、そんなことないよ。作ってくれた、って事実が大事だね」
「はは」
 ハリハリハリ……
 小気味いい音を立ててトーストがパン粉を散らした。
「……柔らかいのも、たまにはいいね。このパン、美味しい。パン屋さんだね?」
 瞳だけこっちに振って、そんな感想。
「ん。駅に美味しいパン屋さんがあってさ。一週間分冷凍作戦」
「ほへ、冷凍なの?」
「うん」
「冷凍でもこんなにもちもちしてるんだ」
「パンがいいのと、あとトーストのコツがあるね」
「どんな?」
「ちょっと余熱してから放り込むんだ。外はかりかり、中の水分は余り逃げない」
「へ〜……遼太郎さ」
「ん?」
「主婦みたい」
「はは……」
 くすくす……と体育座りのまま、肩をすくめた。シャツの裾から伸びる艶々の太股が気になってしょうがない。
 結局……ぱんつは見つからなかった。
 僕のを貸すわけにもいかず、どうするのかと訊けば「いい」とだけ言う。
 「いい」って言われても。
 こっちはよくない。
 目に毒……いや毒じゃないか。でも薬でもない。
「……仕事柄、時間が不規則だから、朝……というか一日の始まりは、自分で作って食べる習慣があるんだよ」
「なるほど、ね。
 ヨーグルトももらっていい?」
「もちろん」
「じゃ……おー。これは美味しそう」
「見てわかる?」
「クリーム層分離してるヤツには外れはないね」
「流花向きかも」
「美味しい?」
「濃い」
 それには応えず、ちょっ、と目を細めて、スプーンで一口。くわえたまま、もにょもにょやっている。
「……流花向き」
「ははは」
 気に入ったのか、クリーム層を丹念に混ぜ込んでいる。

 これ――流花――逢沢流花(あいざわるか)とは、高校の同級生になる。

 僕の勤める新聞社は小さな小さな……主筆自らが「吹けば飛ぶような」と笑う地方新聞社である。文化部など専任は僕含め三人という小所帯だ。
 しかし創業1919年、刻んだ歴史は伊達ではない。中高年層・地元企業を中心に根強い購買層を持ち、士気は高い。
 人気の秘訣は地元密着のきめ細やかな情報と、毎年替わりの一点豪華企画。昨年度などは各種文学賞受賞者五人にリレー小説を書かせるという大胆な挙、発行部数までが若干伸び、単行本は結構な数を売って話題も呼んだ。
 気をよくした経営陣、今年は兼ねて僕がやりたいと進言してた企画に判をついてくれた。
 それは、旅。
 日本各地の、できれば世界のいろんなところを巡り、そこに様々な随筆を交え、読み物として楽しい紀行文を連載する――言えば簡単だが、地味でそれ故に記者の観察眼教養文章力、つまりは力量が問われる。言い出しっぺ本人が「いいんですか?」と確認してしまった随分な博打企画だ。
 しかも前年の実績から、大手出版社がバックアップしてくれるという。こちらも随分な乗り気で、旅の手配はもとより、なんとイラストレーターまで挿絵担当として差し向けてもらえるとか。細々とした打ち合わせにこちらの担当を差し向けます、いついつ何時に御社に……

 来た、その担当を見て、驚いた。
 もちろん、彼女も、驚いていた。

 それが昨日。流花と十年ぶりの再会。
 仕事の打ち合わせそこそこに、飲みに行ってつもる話をお互い夢中になってやってたら、日付が変わっていた。あとはまあ、さっき思ったとおり。
『宿なんか取ってない』
『じゃうち泊まれよ、あ、しまった、みどりが出張で居ない』
『その方がいいじゃん』
『あ、そか』
 二人ともへべれけのまま帰って、さらに家中のアルコールをひっくり返して煽ってるうちに、二人ともよれよれになって前後不覚で寝た。
 うん。
 そういえば下着だけになった流花がのしかかってきた。
 それはなんとなく覚えてる。
 しかし遼太郎は偉いぞ。
 ちゃんとそれを払いのけ……
 ……。
 ……あー。

 ……その時だ。
 大粒の涙ボロボロ零して泣き出して、
 何を言っても聞いてくれなくて。
 ごめん、ごめんって謝って頭を抱いてたら……
 寝た。
 自分のシャツを着せて、運んだ。

 ひどい話だな。
 そりゃ……泣くよな。

 涙の意味なんてなんだっていい。
 泣かせた。それは事実。
 相変わらず……駄目な男だな。

「遼太郎、どしたの?」
「……ん? あ、いや、なんでもない」
 そんな夜の記憶など欠片もないかのように、流花は微笑む。もしあったとしても、そうやって微笑む。
 僕に気を遣わせないように。
 それが、彼女だった。
 変わってない。
「……あ、ほら、ヨーグルト、ついてる」
「ん?」
「ここ、ここ」
 右の唇の端を指し示すと、流花は……
 あのー。
「……どうしろと」
「とって」
「自分で取りなさい」
「とっ・て」
「もおーしょーがねーなーもー」
 ぴゃっと取った。
「ティッシュティッシュ」
「……それ、あたしの」
「流花〜〜〜。朝です〜〜〜」
「朝だから。
 ……はい」
「あー……もー……
 ほら!」
 ぱく。
 にた。
 僕の人差し指、くわえてチェシャ猫。
「早く離しなさいっ」
「ふぁい」
 ちょっと糸が引いた。
 前言百八十度度撤回。
 いかん。
 隙を見せるとヤられる。
「隙を見せるとやられる、とか思ってるでしょ」
「……」
「『隙』より『好き』を見せて欲しいな」
「どどいつ歌ってんじゃないんだから」
「……あ。あたしヨーグルト食べるの下手くそ」
「む」
 嫌な予感がする。
「……またついちゃった。
 とって」
「唇のは自分で舐めて取りなさい!!」
「とっ・て!」
「おまえ……あいっかわらずっわがっままだなー」
「誰がこんな風にしたの?」
「俺もした覚えはないっ!!」
「……もう全部昔のことなんだ……」
「だからだなー」
「とっ・って!!」
「もーーーーーーー……」
 そうだ。
 十年前もこんな感じだった。
 こいつのワガママに振り回されて、でもその時は……
 俺も、随分勝手なヤツだった。
 いつもこんなじゃれ合いから喧嘩になって……
 なって……
「……勝手にしろよ」
 ハッ……
 流花の目の色が、変わった。
 言ってから自分も、自分の中にある得体の知れない突き上げてくるもの、に気がついた。
 これは……いけない。
 洒落にならない。
「……って言った方がいい? それとも、恥ずかしそうに、指伸ばした方がいい? あはは」
「……どっちでも。
 遼太郎の、好きな方」
 醒めなかった。
 潤んだ瞳が、突き動かす。
 肩を取って、引き寄せる。
「あ……」
「これは? なし?」
「……あり……だよ……」
「流花はどれがいいの?」
「……遼太郎の、好きなの……」
「流花は、どれが、いいの?」
「…………キス……」
「ん」
 瞳を閉じる流花。
 まっ赤な唇に、白がのる。
 じらすつもりはないけど、その距離を楽しむように、
 ゆっくりと、そっと……

「りょうたろーーーーーーーーーーーーーっ!!」
「「うわああああ!!」」
 ガチャ!!
 ガチャガチャガチャ!!
 ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャッ!!
「ただいまーーーーー遼太郎ーーーーー!!
 あれー!? 開かないですー!
 大阪弁で言うとあきまへーーーーん!!」
「「いかーーーーん!!」」
 帰ってきた。
 みどりが帰ってきた。
 これはピンチが危機だ。
 ちょん切られるかもしれない。
「ハッ、ハモってる場合か、とっ、とりあえず寝室へ行って寝たふりしとけ寝たふり!!」
「こっ、ここのは!?」
 ガンッ! ガンガンガンガンッ!!
「あれっ!? どしてチェーンしてるのー!?
 遼太郎さーーーん!! 開けてよーーー!! 寝てるーーー!? 寝てていいからチェーンだけ外してよーーーっ!! 遼太郎なら、きっとできる!!」
 相変わらず無茶言うなあ。
「テキトーにごまかすから!! 現物が居たら誤魔化しようもないだろ!?
 早く!!」
「わっ、わかった!!」
 背中を押すようにして廊下を忍び足で走る。
 ほのかに忍者気分を味わいながら、流花が寝室の扉を閉めたのを見計らって、玄関にとりついた。
「……ちょっ、ちょっと待って、みどり!」
「あ、遼太郎ーーー! 寝てた?」
「あ、いや、起きたて。すぐ開けるから」
 チェーンを外すと、飛ぶように……というか文字通り飛んで……みどりが抱きつく。
「ただいまーーーーーーっ!!」
「おっ、おかえりみどり、は、早かったね」
「うんっ! 午前中の仕事キャンセルになったの! 朝一の新幹線に飛び乗っちゃった!!」
「朝一、って六時の!?」
「うんっ!!」
「そんな……ゆっくりしてればいいのにー」
「だって……
 遼太郎に一秒でも早く会いたいもん!!」
「それは嬉しいけど、眠かっただろ?」
「だいじょうぶー! 新幹線で椅子三つ使って爆睡したよーっ!」
「またそんなオヤジもやらないような大胆なことを」
「あ、お土産もちゃんと買ってきたよ!」
「朝一なのに?」
「車内販売! じゃん! 夜のお菓子うなぎパイ〜!
 ど!?」
「ど、と言われても……ん〜……とっても浜名湖」
「でしょお!? 今夜一緒に食べようね!!」
「うんうん。
 ……あの、あのさ、みどり」
「ほえ?」
 みどりは非常なヤキモチ焼きだが、根は優しくて純粋で正直な人だ。ちゃんと事情を説明すれば問題はない。
 そう、やましいことは何もないのだから。
 やましいことはっ!!
「……あの、昨日、『仕事の』関係で『編集の』人と会ってさ、遅くまで『歴史と文学について』語り合っちゃってさ、その人終電無くなっちゃったから泊まってもらったんだけど」
「そうなの!?
 ……じゃ大きな声出しちゃダメだったね」
「そうなんだ」
 声を潜める彼女にあわせて、僕も声を低くした。
 後は寝てるから、ということで時間を稼ぎ、疲れてるみどりを寝かせてから流花をこっそり逃がすいや追い出そう。
「今、寝室で寝てらっしゃるので、このままにして、起きてこられたら帰ってもらうから。とりあえずそーっとリビングへ行こう」
「うん。
 あ、でもその前に洗面所で顔洗ってうがいしてくるね」
「OK。ガラガラは小さく、ね」
「うんっ」
 チャンスだ。この間に朝ご飯を一人で食べてたように加工しよう。
 ――僕は静かにその作業を終えた。
 後は何喰わぬ顔をしてみどりを寝付かせれば勝利は我が手に……

「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
「どっ、どうしたみどりっ!!」



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