ドラグーン

1


 その国は、戦争に負けた。
 大きな戦争だった。
 たくさんの人が死に、たくさんのものが傷ついた。
 山も、海も、畑も、街も、人のこころも。

 占領軍が来た。
 彼らは予想に反して、とても友好的だった。威圧的では、なかった。
 そこで人々は初めて、どれほど強大な敵に無謀にも立ち向かっていったかを、思い知る。
 その国には珍しかった軍用車両、上級将校しか乗れなかった「クルマ」を、ごく普通の兵隊が乗り回していた。それも、街中至る所で。
 技術力が違う。工業力が違う。国力が、違う。

 その国の人々は、変わり身の早さが民族的特徴だった。そして思ったよりも合理的だった。あれほど傲岸不遜に背伸びをしていたのに、負けたとなるや卑屈なまでに腰を折り、頭を下げた。
 それは決して悪いことではない。
 自らが足りぬのなら、補うべきである。
 自らが幼いのなら、成長するべきである。

 何もない焼け野原でお腹を空かせた子供達は、その兵隊へと、クルマへと群がった。そうすれば、何かが貰えたからである。
「おや? あの子は何も欲しがらないな」
「そうだな、どうしてだろう?」
 その男の子は、うっとりとした目つきで、彼らの乗っている無骨な鉄の塊を、見つめたまま動かない。
「やあ! 君にも何かあげようか?」
 子供好きで知られたその兵隊が声をかける。チョコレートを片手に。もちろん、言葉は通じない。
「……」
 その子は黙って首を振り、熱心にその鉄の塊を見つづける。兵隊はようやく、その子の意図することを知る。
「坊や、クルマが珍しいのかい?」
 その子はちらり、と兵隊を見ると、ニッコリ笑った。
 それならば……手招きしてやる。周りの兵隊三人は少し、驚く。
「おい、そんなことして問題にならないか?」
「大丈夫さ。クルマ好きに、悪い子はいない」
 男の子は逡巡したが、クルマの魔力には勝てなかったようだ。意を決し、これ以上ないような硬い顔をしてクルマに飛び乗る。彼にとっては、見知らぬ街へ行くよりも決意の居ることなのだろう。
 そんな小さく、だが大きな決意を微笑ましく思いながら、兵隊は幼い頃、父親の運転するトラックに乗って牧場を駆け回った自分を思い出す。

 クルマは、走り出す。
 いなや彼の硬い顔は崩れ、これ以上ない笑顔に変わる。
 屋根もフロントガラスもない軍用車両、彼の顔にはこれでもかというほどの風が当たる。
 だがその強風でさえ心地よい。
 だが髪の乱れさえ気持ちいい。
 スピードを上げ、なんの障害もない焼け野原を、右へ、また左へと駆け抜ける。
 少年は英雄気分になる。
 そしてハンドルを握りギアを操作するドライバーは、魔法使い。
 小さな手業で、この鉄の塊を思うまま操る。
 少年は憧れる。
 そして、憧れに憧れていた「クルマ」というものが、思った通り……
 いや、思っていたよりはるかに素敵なものだという事実に、酔いしれる。

 めくるめく大冒険はわずか十分ほどで終わった。
 地区を一回りして同じ場所に帰ってきた兵隊は少年を下ろし、手を振って去っていく。
 だが少年にとってその十分は、運命の十分だった。
 オレンジの街、夕陽に誓う。

 いつか、じぶんのくるまで、すきなだけ、はしる。

 そして、強く想う夢は、必ず叶う。


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「なんやて!? 『ワイバーン』が出る!?」
「嘘だよ! どうしてこんなところへ!?」
「嘘じゃない! こんなことで嘘を言って、何になるっていうんだ! これを見てみろ!」
「……合同通信社の配信ニュース……なに、『世界最大の自動車メーカー、GC社は、我が国の第二回『グラン・プリ』に、自社のレーシングカー『ワイバーン』を参戦させることにした。なお、供給を受けるチームはザイゼン・レーシング……』なにぃ! ザイゼンだって!?」
「なんやそれ!? ワークスが乗り込んでくるんならともかく、買ったんかいな!」
「何を考えているんだ! 『グラン・プリ』は我が国の自動車の発展のために開かれるレースだぞ! 金に明かせて海外のレーシングカーを買ってそれで出場して、一体何の意味があるっていうんだ!」
「でも……『ワイバーン』か……」
「……」
 その名がもう一度出た瞬間、興奮に満ちていた場の雰囲気が、急速に醒めていく。
 それは、彼らにとって、あまりにも厳しい宣告だった。

 その国は戦争の傷跡から着実に復興した。
 もともと持っていた勤勉さ実直さという国民的な性質に加え、高い教育水準、多い人口、そして何より、「自分たちは劣っている」という謙虚さ。どん欲に過ぎるほどのあらゆるものへの吸収意欲で、急速に工業生産水準を引き上げる。
 すでに鉄鋼、造船、工作機械などの分野では、戦前をはるかに上回る規模で生産が進み、世界的に見ても屈指の実力を誇った。右肩上がりの成長はとどまるところを知らない。

 そして、時の通商産業を司る大臣は、気骨ある慧眼の持ち主だった。
 これからは、クルマだ。
 人間を、一日にして千キロ移動させ、一度に千キロの荷物を運ばせる魔法の靴、クルマが人々の生活を変えていく。戦争で出遅れた我々は、この産業を何としても立ち上げねばならぬ。
 情報通で海外経験の長い大臣は、そのために洒落た方法を強力に推進する。
 『グラン・プリ』=偉大なる賞典。自動車レースだ。
 競争はあらゆる技術、あらゆる経済の原点である。競争が急速な技術の発展をもたらす。
より速く、より強く。それを、より安く、よりたくさん。
 そして自動車レースという最高の娯楽は、クルマに興味を持つ人を増やす。買いたい、欲しいと思う人を増やす。それがまた、クルマという産業を振興させる……

 勃興しはじめていたクルマ屋達は、飛びついた。
 もともと技術屋は、職人気質が多い。
「アイツのクルマより、オレのクルマが速い」
 そんな単純なものさしに、夢中になった。
 戦前からクルマを造っていた大メーカーが、本気になって復活を画策する。工作機械や電気機器を造っていたような小さなメーカーが、一山を狙って海外のクルマのコピーを造る。今までクルマなんて乗ったこともないような町工場のオヤジが、見よう見まねと自らの創意工夫だけを頼りに、不格好な手作りのクルマを、造り上げる。
 百花繚乱。クルマを取り巻く状況は、一気に盛り上がる。

 紆余曲折を経て開かれた第一回『グラン・プリ』の優勝チームは、国内五位のメーカー、ナイト自動車だった。ナイトのクルマは、少々高価で華麗に過ぎ、実用性が低い嫌いはあったが、低いレベルのなかでも懸命な技術者魂を感じさせる、実に「熱い」クルマだった。
 優勝車の名は、『ドラグーン』。
 『竜騎兵』。戦いの主力である重装歩兵と、偵察・連絡などを目的とする軽装騎兵の中間に位置し、その機動力と高い戦闘能力で神出鬼没獅子奮迅の活躍をする、古の戦いの花形である。
 その名を冠されたそのクルマは、当時珍しい「スポーツ・セダン」というジャンルのクルマだった。セダン、といえば人を乗せて走るもの、丸々と肥え太り客室容積を極大化させたようなデザインがほとんどの国産車の中で、ドラグーンは際だってスマートだった。
エンジンは、当時高級車専用以外の何物でもない二千t。そしてその大排気量の生み出す、圧倒的なパワー。
 美と力を兼ね備えた、当代随一の人気車である。

 もちろん、クルマはおいそれと買えるものではない。
 おいそれと買えるような人は、当然、よりスマートで性能もいい、外車を買った。人気車といっても、セールス上の話ではない。あくまでも人気投票するならば、だ。
 だが、本当のクルマ好き達は、「いつかは、自分たちの国で創られた、ドラグーンのようなクルマが欲しい」と思っていた。
 その憧れのクルマが、並み居る大メーカー達の不格好なセダンを薙ぎ払い、ブッチギリで優勝したのだから興奮もする、盛り上がりもする。
 ナイトの評価は更に高まり、気をよくした経営陣は、技術陣にできうる限りの贅沢をさせてやる。

 翌年の第二回『グラン・プリ』に、ナイトはドラグーンに人々があっと驚くようなチューニングを施した。
 エンジンの換装である。
 ボディをフロントガラス前でぶった切って伸ばす。そこに上級車『ファランクス』用の直列6気筒を二千tにスケールダウンし、超高回転型レーシング・チューンを施したスペシャル・エンジンを詰め込んだ。
 『グラン・プリ』の三ヶ月も前にできあがったプロトタイプは、お披露目の後、早速自社テストコースでの過酷なテスト・ランに入った。
 周囲のメーカーは恐怖した。あれほど高い性能を誇るドラグーンに、あそこまでされては、果たして勝機があるのか、と。
 逆に人々は、またもドラグーンが並み居る強豪をバッタバッタと切り捨てる痛快無比のレース展開を想像し、期待に胸を膨らませた。

 それが、この発表である。

 GCの『ワイバーン』は、強かった。
 ドラグーンの「強さ」などとは、レベルが何段も違う。
 それは、V型8気筒をミッドシップに積む、設計段階からレースで勝つことだけを目的に作られた、生粋のレーシングカー。そして、世界各地の自動車レースで、無敵の進撃。
 そのぐらいの情報は、ここにいるナイトの若い技術者達も、知っている。当時創刊されたばかりの自動車専門誌に、毎月のようにワイバーンが勝つ様が掲載されていた。自動車先進各国で開催される、大小様々な各レースで、勝って、勝って、勝ちまくっている。
 それが、来る。
 のんびり田舎で楽しんでいる草野球リーグに、プロ野球球団がなぐり込みをかけるようなものである。いや、レベルの差はもっと酷いかもしれない。

 もう一つの問題は、それを買ったのがこのレースからレースシーンに復帰してきた、「ザイゼン・レーシング」だということだった。
 戦前から活動していた、この国随一の名門レース屋。メーカーが直接参戦するワークス・チームとは違う、レースに勝つために存在する集団である。だから、勝つ、勝てるクルマであるならば外車でも、買う。
 特に名門の復帰第一戦。スポンサーや、これからのことを考えても、どんな手段を使ってでも、勝ちにゆく。例えどんな非難を浴びようとも、レースの世界では結果が全てである。
それは道義的にはともかく、レギュレーション的には何の問題も、なかった。
 そして。
 ザイゼン・レーシングがワイバーンを走らせるということは、ドライバーは当然、監督兼オーナーの息子であり、現在自他共に認める国内最速、「天才」ザイゼンである、ということだ。
彼は、第一回『グラン・プリ』で、ドラグーンを優勝に導いている。

 最強の敵の出現、そしてこちらの最大の切り札である最速ドライバーの損失。
 二つの凶報が、同時に来たのである。

「失ったものを悔やんでも、新しい敵の出現に無闇に恐怖していても、始まらないぞ! やれることから一つずつ、自分たちの強みを増やしていくんだ!」
 レース総監督、ガモウは、力強く若い技術者達にハッパをかけた。
 だが時は残酷である。
 効果的な大逆転の策は見つからないまま、日は過ぎて、いった。


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