ドラグーン

3


 予選前日、夜遅く。
 シンジは、兼ねてから想いを寄せていた、一人の女性の元へと向かった。彼女の名は、アキ。工場の社員食堂で働く、地元の娘だった。意志剥きだしのようなキツイ目鼻立ちが印象的な、美人である。
 だがその瞳の強さのとおり、猛烈に気が強かった。皆は言う。「アキちゃんは美人だけど……ちょっとね」。しかし工場の、「働く男達」を向こうに回して食堂を切り盛りするには、これぐらいでなくてはならない。
 芯から優しいシンジは、そんなアキの力強さに、惚れていた。そしてその強さの後ろに、優しい一面を持ってることも、知っていた。幾日も徹夜ぶっ続けで走る耐久テスト、いつも遅くまで残ってブツブツ言いながら夜食を作ってくれたのは、ほかならぬアキである。

「……なによ、シンちゃん、こんなとこ呼び出したりして! 明日は予選なんでしょ? こんなところでサボってていいの!?」
 一つ、年上だった。
「アキちゃん……これを……」
 パドック・パス。チーム関係者しか入れない、ピット内に入ることのできる通行証。
「? なにこれ?」
「これがあれば、どこでも入れるんだ。ウチのピットにも」
 アキも、シンジには好意を持っていた。
 どこまでも優しいその瞳その物腰と、テストコースを走るその姿に。ただ黙々と、誰よりも多く、誰よりも速く。その姿は、誰よりも、カッコよかった。
「見に来いっていうの!? フン、アタシは忙しいのよ! レースなんて、見にいけないッたら」
 アキは、素直ではなかった。特に最近、虫の居所が悪い。ドライバーが発表されるや、取材陣がシンジに群がった。自分の側に居たシンジが、どこか遠いところへ、行ってしまったようだった。
「そう……もっちーやイナやシュンやコウジも、頑張ってるんだ、みんなのために、応援に来てくれないかな、と思って……」
「フ、フンだ、ウチの工場きっての悪ガキブラザーズじゃないの。アンタ達みたいなナイトの恥さらし、わざわざミカサ・スピードウェイにまで見に行くなんてそんな酔狂なことできませんー」
 イーッって。でも、レースがどこで行われるかは、知っている。
「そう……でも、その方が、いいかな」
「?」
 いかにも残念そうに目を伏せたシンジ。小さなズタ袋から、小さな箱を取り出す。
「じゃあついでに、これも、預かってくれないかな」
「何コレ?」
 それは、宝石箱だった。
 中を開けると、小さなダイヤの指輪が、入っている。
「ひぇっ!? な、ななななな、なになに、なによこれ、ひょ、ひょっとしてぷ、ぷぷぷ、ぷろぽーずとか言うんじゃないでしょうね! ダ、ダメよ、アタシの王子様は銀の甲冑を身にまとい白馬に乗って……」
「母さんの形見なんだ。僕の一番、大切なもの」
 オタつくアキに、シンジは優しい声で、それだけ告げる。
「ふぇ? 何だ、そうじゃないの……エッ!? そ、そんな大切なものどうして……」
「大切だから、アキちゃんに預かって貰いたいんだ」
「え……」
 シンジの真剣な表情に、アキの動揺も収まる。
「テストコースと違って、レースは、何が起こるか、わからないから」
 レーサーはよく、死んだ。
 シンジはテストコース限界走行ですら、一度も事故を起こしたことなどなかった。クルマをいたわる愛情が、どこまで限界走行しても、事故には結びつかなかった。クルマが、シンジを守っていた。
 その彼が、そう言う。
 死ぬかもしれない、と。
 それほど厳しい、クルマと自分を追い込む、戦いだった。
「シンジ……」
 その瞳に全てを飲み込む。その指輪を預ける意図も。
 そしてアキは、預ける相手に自分を選んでくれたことを、誇りに思う。
「わかった、預かる。絶対に、なくさない」
「ありがとう。頼んだよ」
 それだけ告げると、背を向けてまだ作業の終わらぬ、ドラグーンの待つ建屋へと歩いていく。

(バ、バカ、こんな時にはキスとかするもんじゃない……バカ……)

 アキは、素直では、なかった。


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 シンジは眠れぬ身を起こした。
 いつもなら、どんなことの前でも睡眠だけはぐっすり取れる彼が、興奮で寝つけない。去来する様々な想いが、頭の中を一杯にして、瞼は、一向に重くならない。午前、2時。
 ふと、こんなことを想い出す。外国の、有名ドライバーのジンクスを。
「私はレース前日の夜中にこっそり、自分の愛車に会いに行きます。そして誰にも見られないように、キスをします。明日の勝利を、祈って」
 それをやってみよう、と思った。
 わざわざそんなことをしなくても、クルマへの愛情は誰にも負けないシンジだったが、藁にもすがりたかった。そして実際、眠れなかった。

「おや?」
 ずらり並ぶピットの一つだけに、あかりが点いている。人の声すら、する。まさか、泥棒やスパイではあるまいが……思いながらも警戒して近寄る。そう、ウチのピットだ。半身で、覗く。

「……あうぅ、こんなのでホントに効くの〜? イナー」
「アホ! ワックスでツルツルにしたらちょっとでも空気抵抗を減らせるんや!」
「ホントかな〜」
「できることはなんでもやらなあかんやろ! これでトップスピードが 10キロ上がったら、めっけもんや!」
「絶対にそんな上がらない。コンマ1キロも無理だな」
「なんやねんシュン、うるさいなあ! お前は何してんねん!」
「お守り、作ってる」
「お守りぃ!? ちょー待てや、もうコイツには1gだって載せるもんは……はっはあ、それはええな。さっすがシュン。芸が細かい」
「どうも」
 コウジとモトヤマが、イナがかける極細コンパウンドの後に、ワックスを塗り込めていく。両手の指で。少しでも、傷つけないように。
「でもこのワックス、奇麗だよね〜、見たこともないぐらいぴっかぴかだよー」
「せやろ!? 本社ショールームからパチって来たった。舶来のコンクール用やで。これ一瓶でウチらの給料半月分」
「えええええ〜〜〜」
「ま、それぐらいでないとこのボディにはあわないかな。さすがイナ、いい仕上がりだぜ」
「アホ、俺はなんもしてへんっちゅーねん。コイツの素顔が、美人なんやて」
 鉄の地金を露わにされたドラグーンはしかし、目を覆わんばかりの銀色に、光り輝いていた。薄暗い、白熱灯の元ですら。
「へへへ、明日は頼むでー」
「そうだな!」
「……勝敗はどうでもいい。GPとドラグーン、それにシンジが、全力を出せれば」
「無事完走、これが目標だね!」
「ああ!」「おお!」「そう!」「せやな!」

 シンジは、くだらないジンクスに頼ろうとした自分自身に、恥じ入る。
 そんなことしなくても、何よりも頼れるクルマが、ここにある。
 何よりも頼れる仲間が、ここにいる。
 黙って、踵を返す。部屋へと、急ぐ。


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「アキちゃん! こっちこっち! 早く早く! スタート! スタート!」
「う、うん!」
 細長いピットの中を、モトヤマに導かれ走るアキ。レースを観に行くのなんて初めてで、何を着ていっていいかわからなかった。だから着た、一張羅の純白のワンピース。汗と油にまみれたつなぎの猛者達のなかで、浮きまくっている。
 でもそんなこと、気にしてはいられない。もうすぐ、始まる。シンジの、戦いが。

 決勝のスターティンググリッドについた各車を見て、超満員芝生部分すら埋め尽くす二十万人の観客は、ため息をついた。
 一台だけ、格の違うクルマがいる。
 それはもちろん、黒い翼竜、ワイバーン。改めて並べて比べると、他との差は一目瞭然、だった。そして観客達は、それを駆るドライバーが、優勝カップを掲げる姿しか見たことのない、「天才」ザイゼンであるということも、知っている。ボンネットに、勝利を約束するがごとく描かれる、カーナンバー、1。
 だが。
 通、クルマ好き達が注目したのは、その隣、フロントロー2番グリッドに佇む、ドラグーン。ヘッドライトを取り去り、ただの鉄板でフタをしてある。なにより、イメージカラーまでもを落とした煌めくような鉄地肌のシルバーは、最後の最後まで勝負を諦めていない、ギリギリの軽量化の証。ゼッケンは、0。それも、素顔のクルマ、ルーキードライバーに、よく似合っていた。
(ナイトなら、あの連中なら、何かやってくれるかもしれない……)
 ほんの小さな、ほんの幽かな希望の光が、輝くボディに反射する。

 オールクリアのグリーンフラッグ。
 シグナルが赤から青へ。
 レースが、始まった。

 恐るべき加速力、他の全ての全開加速が止まっているようにしか見えないそれを見せつけて飛び出したのは、予想通り、ワイバーン。しかしドラグーンも、いつものドラグーンとは思えないほど爆発的なダッシュを見せ、ワイバーンに食らいつく。
 1コーナーへ吸い込まれていく、二台。ホールショットは、ワイバーン。
「よし! まずOKや!」
「うん! これからだよ!」
 無事にスタートを切り、作戦通り敵にピタリと、ついた。後は、シンジの技術にまかせるしか、ない。

 そのレースは、まだ珍しいTVでも、生中継された。
 国中のクルマ好きが、いや、クルマ好きでなくても娯楽に飢えていたこの国の人々が、かじりつくようにして見ていた。街頭に置かれたTVの前には、黒山の人だかりが、できていた。
人々はその、トップを走るクルマが、外国のクルマだということを、知っていた。そしてそれがどう見てもまるで別格の強さを持っていそうであることも、一目見て、わかった。
 それでも。
 固唾を呑んで見守った。拳を握って見守った。
 ところどころから上がり始めた「頑張れ」という声援は、瞬く間に大きなうねりとなり、叫びとなってその場の人々全てから放たれる。
 黒いクルマにしがみつくように追いすがる、銀色の小さなクルマに向けて。
「頑張れ! 頑張れ! 頑張れドラグーン! 頑張れシンジッ!」

 最初は予想通りの展開に、ため息ばかりのサーキットの観客の空気が、変わってきた。
 まるで首根っこを押さえられて引きずり回されるように、最終コーナーを立ち上がってくる、一位ワイバーン、二位ドラグーン。黒と、銀。
 何周も、何周も、その姿が続く。
 ワイバーン、そしてザイゼンの余裕のおふざけかと思われた。いずれちぎって、手の届かない遙か彼方を一人旅……に、いつまでもいつまでも、ならないのである。
 なによりラップタイムが物語る。ワイバーンは予選で出した16秒17秒台など一度も出ない。1分19秒前半をウロウロする。そして、ほぼ同じタイムで、ドラグーンがピタリ、と追走。この予選タイムすら上回る約1秒は、シンジの超絶技巧、そして仲間達の懸命の努力のたまものだった。
「違うぞ! 遊ばれてるんじゃない! 逆だ! 追いつめられてるのは……ワイバーンだ!」

 モトヤマの出したセッティングはパーフェクトだった。まるでサーキットが、田園風景の続くワインディングロードになった。鼻歌すら出そうになるぐらい、運転が楽だった。そして何より……楽しかった。シンジは、思う様その実力を発揮する。
 シュンの読んだ、天候曇り、温度低め気圧低めを狙ったキャブレター・セッティングはどんぴしゃり、だった。もともと信頼性には定評のあるGP20、完全バランス・直列6気筒ならではの、天井知らずの吹け上がりでシンジの右足に応える。
 コウジの選んだタイヤも、決まっていた。最初は固めで、グリップが足りないかと思われたが、何周してもタレない。へたらない。しかもその、スリップ時の穏やかな特性変化は、シンジのタイヤの能力を100%引き出すドライビングに、ピッタリだった。
 イナが喚きながらかけたワックスも、心なしか効いているようだった。いや何より、光り輝くボディは目立った。周回遅れがタップリと道を空けてくれる。もちろん、彼らは黒く見辛いワイバーンには、故意でないにせよ、冷たかった。


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 二十周目のサインボードを掲げようと準備していたモトヤマの後ろから、ガモウ監督が声をかける。
「モトヤマ、もう前との差やラップはいい。あいつなら、承知の上だ」
 よ、と自らしゃがみ込んで、ラップタイムを示した数字の板を、外していく。
「ど、どうされるんですか?」
「ん?……シンジへの、メッセージだ」
 組み替えていく数字に、モトヤマが笑顔になる。監督に、こんな洒落っ気があったなんて。
「奥さん! これを掲げてくださいませんか!」
「お、奥さん!? あ、あのあの、ア、アタシち、違います!」
 ピットで食い入るようにレース模様を観戦していたアキが驚く。
「あれ? シンジの奥さんじゃないんですか? じゃ、なんです?」
 遠慮会釈のないガモウの素朴な問いに、アキは頬を紅にして小さくつぶやく。
「……こ……恋人……です……」
 微笑む若者、四人。
「ああ、ならなおいいです。お願いできますか、重いですけど」
「は、ハイ!」
 そしてピットロードを渡った先にある、コンクリートの低い壁の際まで行く。周りのピット、そして正面スタンド満員の観衆から、「何だありゃ」という視線とどよめきが起きる。
 ピットに突然咲いた、白い花。
 油臭い男達の中で、その姿は嫌でも目立つ。
 しかし彼女はそんな周囲の目に少しもビビらず、食器運びで鍛えた腕で、誰よりも高く、サインボードを掲げ上げた。
 サインを見て、観客、そして近くのピットのメカニック達までもが、沸いた。


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 ドラグーンのダッシュボードには、昨日までシフトノブに掛けられていたナルタガワ交通安全お守りが、寸分違わず彫刻されていた。シュンの、手業。そのお守りに見守られるかのように、シンジは、いい感触を楽しんでいた。
 クルマは完璧だった。そして作戦も驚くほど上手く行っていた。相手は、明らかに焦りや疲れや、不安を抱えて走っている。それに比べて、自分はいかに恵まれているか。いかに楽しんでいるか。
 笑みさえ、零れそうになる。
 だがこの闘争心の無さは、シンジの悪い癖だった。
 いつの間にか、相手へのプレッシャーを忘れていた。そう、この作戦は、くっついていくところまで。そこから先は、相手のミスを待つしかない。しかも相手は、不調とはいえ天才・ザイゼンだ。ありとあらゆるプレッシャーを後ろからかけ続けてミスを誘発しなければ、勝ち目は、ない。
 そんなシンジの、ケツを叩いたのは。
 二十周目ホームストレート。ピットロードに掲げられた、いつもと違う、おかしなサインボード。
 たった、これだけ。

「5 5 5」

 シンジは一瞬、理解に苦しむ。何かの暗号、作戦を示すコードネーム、あるいはピットへ入れというサイン……そんなもの、決めてたっけ?
 だがそれは一瞬だった。視界の違和感。いつもと、違う。
 そう、サインボードを掲げるのは、もっちーではなく……
(……アキちゃん!)
 その顔は、不安と、祈りと、そして叱咤激励に、満ちていた。
(バカッ! もっと頑張りなさいよッ!!)
 その瞬間、シンジはそのサインを理解し、その命令を了解する。
 右足を、もう全開のアクセル・ペダルを、更にきつく、厳しく踏みつける。床が、抜けんばかりに。

(GO! GO!! GOーッ!!!)

 女神に捧げるものは、勝利、しかない。


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