ドラグーン

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 ザイゼンは苦悩する。
 セッティングが出てない。付け焼き刃は所詮、付け焼き刃。一から身につけ、血となり肉となっていないから、応用が利かない。天候が変わり温度が変わり長い距離を走らなければならないのに、エンジンも、サスも、タイヤも、昨日ほどのパフォーマンスを、出してくれない。
 買ってきた技術など、技術では、なかった。
 それに周回遅れが道を譲らない。まるで勝利のために外国のクルマを選んだ自分に、抗議するかのように。それは単なる被害妄想だったが、順風満帆、晴れの日しか知らぬザイゼンには、あまりにも堪える現実だった。
 なにより。
 敵が、速い。
 特に二十周を超えた辺りから急に、アタックが執拗に、激しくなっていた。ここまで追いつめられたのは、レース人生で初めてである。
テストドライバーあがりなど、毎レース死と隣り合わせで戦っている自分の敵ではないだろう、と思っていた。
 それは、完全な間違いだった。シンジは、毎日毎日、挙動の定まらない赤ん坊のようなクルマ、パーツの信頼性無くいつどこでブレーキやステアリングが吹き飛ぶかもしれない試作車、そして今日はトラック明日はスポーツカー……そんなクルマ達を相手に、ラフで路面の悪い、砂利や水やオイルの浮くテストコースを、命を賭けて走っていたのである。
走ってる時間の長さなら、レーシング・ドライバーなど問題にしなかった。まして、今、今乗っているクルマと、共に過ごした、共に走った、時間なら。

 自由自在に、まるでクルマと人とが、一つの生命体となっている。
 人馬一体、野を駆ける。

 まるで言葉の壁があるかのごとく、言うことを聞かないクルマ。そのクルマに、苛立つ自分。こんな関係では、ない。そして自分でも驚く。
 その一人と一台は……羨ましかった。

 バックミラーで見るそのドライビングも、初めて見るスタイルだった。
 大げさなドリフトを多用し、派手な挙動変化で右に左にクルマを振り回す。ドリフトはグリップより遅い、という教科書を信じるザイゼンにとって、どの道滑るのなら、逆に滑らせてそれをコントロールしよう、というシンジの走りは、まるで魔法だった。

「コイツ、俺より、速い」

 急速に胸の内に膨らんでくるその疑念。負けたことなど一度もなかったザイゼンが、認めたくない事実。こちらは世界最高のレーシングカー、我が国随一のプロフェッショナル・メカニック。あちらは市販改造車、若いサラリーマン・エンジニア達。なのに相手は、こちらにピッタリ、ついてくる。
 エリート・ザイゼンは知らない。
 大切なのは、想いの強さ、だけであることを。
 それが誰であるかとか、それが何であるか、などということには、一片の価値もないことを。

 様々なマイナスの感情が、彼のドライビングを不安定にしていた。
 それでもトップを走れるのは、天才的センスの賜である。
 だが、それはギリギリのバランスだった。
 ほんの少しの小さな要素で、崩れるほどの。

「マズイッ!」
 バックストレート三分の二を過ぎたところで、コーナー入口付近にヨタヨタと向かう、周回遅れを発見する。この調子では、ちょうどコーナーへの飛び込みで重なる。先ほどから周回遅れには煮え湯を飲まされっぱなしだ。どうせコイツも、見ていない。
 アウトから被せて、強引に抜きに行く。
 それは、ミスだった。
 黙って後ろについて、のんびりホームストレート出口でのフル加速を、待てばよかったのである。一瞬でも隙を見せれば、後ろにやられる。その緊張感が、不要な焦りを、生んだ。
ワイバーンがまさにラインを変え、アウトに飛び出したその瞬間、その周回遅れはよろよろとアウトへと流れてきた。
 道を、譲ろうとしたのである。
「しまっ!!」
 更に大きくアウトへ逃げて、数センチで接触を回避する。だがそのラインからでは、コーナーを曲がりきれない。機敏な動きを約束するミッドシップが、その過敏なスピン特性の牙を剥く。
「クッ!!」
 フルカウンターとアクセルの芸術的コントロールで、故意にハーフスピンに持ち込む。飛び出して砂利に掴まれば、お終いである。ワイバーンは、ほんの少し、翼を休めた。
その横を駆け抜ける、銀色の、小さなクルマ。
 ゼッケン、0。


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 遠くから地響きのような大音響が聞こえてくる。
 最終コーナーの先に設けられた仮設スタンドからだ。
 正面メインスタンドの観客達は、何事ぞと立ち上がる。
 そして見る、奇跡のような、瞬間を。

 最終コーナーを立ち上がる二台のクルマは、最初に銀、そして、黒。
 トップは、先頭は、我らが、
 ドラグーン。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ……」
 興奮した観客達にできることは、雄叫びを上げることか、スタンドを壊さんばかりに手足を打ち鳴らす、ことだけだった。
『ドラグーンだッ! ドラグーンだッ! ドラグーンだッ! ドラグーンだああああああああッ!』
 サーキットアナウンスの上擦った連呼さえ、観客の怒号にかき消されていく。

 銀の甲冑をまとった竜騎兵は、退治した黒い翼竜を引き従えて、
 ホームストレートを突き進む。
 どんな英雄の凱旋よりも、雄々しく、優雅で、美しかった。

 国中のTVの前ラジオの前で、絶叫が起こった。
 街頭で、家庭で。
 手を叩いて悦ぶ人々。老いにも若きにも、男にも女にも満面の笑み。クルマのことなど知らなくても、レースのことなど知らなくても、今ここで起きた事実は、すぐにわかった。
あんなに凄い外国のクルマに、僕たちのクルマが、勝った。
 その、事実である。
 そしてその事実は、見るものに勇気と、熱い気持ちを、熱い泪とともに、奮い立たせた。
「おとうさん! あの銀色のクルマは何!?」
「……ああ、あれは、『ドラグーン』っていうんだ。俺達の、世界一の、スポーツカーだよ!!」

 俺たちは、やれば、できる。
 頑張れば、できないことなど、ない。


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 その瞬間を、同じサインボードを握りしめたままピットレーンに立っていたアキは、メカニック達の怒号のような雄叫びをバックに、見つめていた。
まさか、本当に、銀の甲冑を身にまとった王子様が、竜退治を終えて自分の元へと駆けつけてくれるなんて。
 ただぼんやりと見つめ続けるしかなかったアキの肩や腕が、乱暴にバンバンと叩かれる。いつもの、悪ガキ達だった。どの顔も、笑いと涙で、くしゃくしゃだった。監督までが、髭面と深い皺をぐしゃぐしゃに濡らして、号泣していた。
 だけではない。
 周りのピット……トミタや実産のメカニック達でさえ、自分たちのクルマ、自分たちのレースそっちのけで、ガッツポーズを作り雄叫びを上げ、手を叩いていた。帽子を叩きつけ、握った拳を突き上げ、そして……笑っていた。泣いて、いた。
 その輪の中心に、自分が居た。
(シンジ……シンジ……か、帰ってきたら……帰ってきたら結婚してやるんだからッ!)
 アキは、素直になった。


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 奇跡は、長くは続かない。
 そういつもいつも起きては、奇跡とはいわぬ。

 次の周回は死にものぐるいのブロックでなんとか抑えきったシンジだったが、その次のバックストレートエンド、ワイバーンに軽やかに抜き去られていった。
 抜かれた、負けたことが逆にザイゼンの闘志を蘇らせ、そのテクニックが蘇った。その後は一度たりとて、トップを譲ることはなかった。そのまま、チェッカー。

 だが結果なんか、どうでもよかった。
 誰が一位で誰が二位、そんなことは、どうでもよかった。
 誰が何といおうと、我らがドラグーンは、トップを走ったのである。
 世界一速いクルマより速く。
 すなわち、世界一、速く。
 その事実とその感動は、詰めかけた二十万の観衆……いや、TVの前ラジオの前でこの戦いを見た者聞いた者何千万の人の心に、深く深く、刻み込まれた。

 いつまでも追いつけないと思っていた相手が、追いつける、いや追い越せる相手だとわかったこと。
 劣っていると思っていた自分たちが、そんなに捨てたものでも、なかったこと。

 表彰式、メダルとトロフィーの授与、そしてファンファーレが鳴った瞬間、ザイゼンは一位の台にシンジを引き上げる。そして三位、トミタのモトと共に、シンジの両脇に立ち、両手を取って、高く高く、掲げ上げた。
 君が、一番である、と。
 満員の観衆は、そんな男らしいザイゼンと、そしてもちろん、二度と無いような奇跡を起こしたシンジに、心からのエールを、万雷の拍手を贈りつづけた。
 いつまでも、止むことはなかった。
 いつまでも。


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