7/31 FZもカタログ落ちなんですね |
「……それももう四六時中見てるようなアイデアですねえ」
「せやからアイデアで勝負するタイプではないと何度言ったら」
「じゃあ何で勝負するんですか」
「勝負に至るまでに勝敗を決するのが戦上手というものだろう」
「すでに勝ってるんですか」
「かなり負けてます」
「駄目じゃないですか!」
「だから『勝負するタイプではない』と」
「キー!」
「それはそうと編集の女の子は要するに流乃タイプなんだけど」
「やるんかい。はいはい、そのラインナップだとそうでしょうなあ」
「バイク乗せていい?」
「ダメダメダメダメダメ。あーダメダメダメダメダメ。
ヤマハの中型ツアラーでしょ?赤のストロボカラーで。
キャン赤のジェットヘル・スモークスクリーンで上だけバイクジャケットの革パンですよね。
ジャケットの肩んところにテリーマンよろしく星とか貼ってあるんだ。
あーもー絶対ダメ。死んでもダメ」
「違う違う、ジャケットは赤黒ツートンなの! なんかバックルとか一杯あるヤツ!
袖ワッペンはウルフパックね。背中に『VF-1 SQUADRON』とか嘘八百書いてあるの」
「デテールはどうでもいいんです。トムはもうすぐ退役ですよ」
「設定資料集で欲しいパーツの名前とか呟いてたりするのね」
「どうしてそう80年代テイストにこだわるんですか。
どーしてもバイクというならせめてフルチューンマジェスティかな。
YZRのエンジン載せてね」(註:レース用エンジンの載った大型スクーター)
「古ッ! そのテイストの方が生臭い!!」
「そーですかー?」
そんな軽く鬱々とした夏の日々、皆様いかがお過ごしですか。
昨日、うちのぐらんまま上と一番仲のよかったいとこさんがお亡くなりになりました。
2週間ばかりの入院で、持病の心臓だそうです。
最近こういうことが起きると哀しいのが、
おばあちゃん自身が「死ぬ時はぽっくり逝きたい」などと言い出すことで、
母と二人「まだまだ生きてもらわな困る」と怒るのですが、
こればかりは当人の心の動きゆえ、どうしようもありません。
周囲に惚けてしまったり長期入院で家族に負担を掛けている例を見ると、
そう思ってしまうのはしょうがないところ。
僕でも同じ環境ならそう思ってしまうかも知れません。
逆説的ですが、「大丈夫やで」と声を合わせる暖かい家族にこそ、
負担を掛けたくないと思うものかもしれません。
70年も80年も一生懸命生きてきて、
人に迷惑もかけず、社会の一員として今も現役で活躍しながら、
「死ぬ時はぽっくり」
などと思わにゃならん今の世の中はなんだ、と軽い憤りを感じたのですが、
いやしかし。
それはどんなに医学が科学が社会が進もうとも、
人間が常に思う事柄なのかもしれません。
老いなくとも。
自分が自分でなくなってまで、生きていたくはない、と。
……まあ、そうなったらそんなことも考えなくてすむのでしょうけれども。
そしてそれすらも欲、あるいは執着であると言われればそれはそう、
他力でも自力でも結局、
「なるようになる。しかしなるようにしかならん」
「なるようにしかならん。しかしなるようになる」
どちらでも可。
とりあえずは寝入りばな、
「ああこのまま死んでもしょうがないか」
と思えるぐらいは頑張りたいものです。
最近もう全く、なにがなんだかさっぱりわかりません。
生きる、って何?
7/30 マイ女神様 |
「……温めなくてよいのか」
「この冷たいのがまたエエねん」
そんなものがエエのであれば夏のお好み屋の店頭に
「冷やしお好みはじめました」
というポスターが貼られると思うのですがどうでしょう。
一般基準から外れたものまでも愛せるのは
マニアの鑑と誉めるべきかもしれません。
しかし、「愛するが故に許せる」程度ならまだしも、
「愛するが故にそれがよい」とか言い出すと混乱のもとで、
こういう人は平気で「美味いから」という理由で
「こちらのことを思って」
キンキンに冷えたお好み焼きを出してきてくれたりするのです。
なんか街の下っ端宗教勧誘員みたいですな。
うちですか?
うちは心配ないですよ、だって誰にも与えず
(いや別に欲しけりゃ黙って喰えばいいのですが、もちろん誰も喰いません)
一人で全部食べますもの。
してみると勧誘などというのはとても簡単なことで、
いかにも美味しそうに独り占めしていればいいだけかも。
「だめだよぅ、私の神様だもん。ひとりじめっ★」
とかなんとか。
そうすると人間それがどうにも欲しくなるという……
別名ソーヤー作戦。
そんなまま上は宗教勧誘を蛇蝎のように忌み嫌っており、
「こないだな、『説法聞きに行こう』って誘われたんやけどな、
『やめて』ってハッキリ言うたったわ!
あんなもんだいッ嫌いや!!」
と食卓で吐き捨てるのですが、舌の根も乾かぬうちに
「来年はパパの七回忌やからおばあちゃんの部屋の壁
塗り直さなあかんねん」
と遠大な都市整備計画を吐露してくれます。
まあ何事も既得権益握ってる連中が有利で
後から沸いて出るとしんどいのは同じ、
勧誘員の皆様にはソーヤー作戦でもローラー作戦でも
炎天下お体にお気をつけて頑張ってください。
ちなみに我が家はインターホンにCCDカメラがついており、
これが鬼のように便利です。
ウォシュレット・食器洗い機と共に
電脳一家が皆様にも強く強くオススメする逸品でございます。
話は元に戻りますが
もしも「マイ神様」方式(なぜ守護霊とか守護天使とか言わんか)
が成り立っているとするならば、
モテない=すごいヤキモチ焼きの・でもとびっきり可愛い女神様がついているから、
で確定ではないですか。
「もぉお、和久ったらまたこんなメール書いてる〜!
きー! びりびりびりびりびり〜!」
最後のは電撃の擬音を口で言ってるわけですね。
おお、これはなんか萌える。
「というわけでこんなアイデアで一本書いてみたいかな、と。
どうです斬新でしょ?」
「腐るほどあります。いにしえより」
そうなの?
いや生まれてこのかた岩波文庫しか読んだことなくてですね。
「ばっ、バカ、やめろ、マシンが、マシンが壊れる!壊れる!」
「『喫茶店で待ち合わせ』って何それー!!」
「仕事だ仕事! 打ち合わせなんだから喫茶店しかなかろうが!」
「絶対嘘だ……きっと2本のストローで1つのジュース飲んだりするんだ。
それも必要以上にドロドロでエロティックなミックスジュースだ」
「飲みません。
いいですか女神様、そもっそもっこのメールの相手は……
男です!!」
「……」
「わかりましたか」
「……ひっ、ひどいよ和久ーっ! わたし、わたし男の人にも負けてるのーっ!?」
「だからそーじゃなくてだなー」
「どうせまた長居のデニーズでしょ!?
わかった。その日全国ゲートボール選手権の予選大会を開催して
その時間熟年の皆様でいーっぱいにして入れなくしちゃうから。
いい?禁煙も喫煙もだよ!?みんな長物持って白い登山帽かぶってるんだよ!?
あの世界にも男と女のラブゲームとかあるらしいよ!?ぐちょぐちょじゃない!」
「回りくどいなあ……いいよ、じゃミスド行くから」
「そしたらその日だけ山下達郎と中島みゆきの声を交換するもんねー。
魂ブルブル震わせて
『♪お〜おぉお〜 君のっためっどぉおおおなぁあああつ』」
「だから関係ない多くの人に迷惑をかける邪魔の仕方はおやめなさい。
つか仕事なんだってば」
「……ほんとに?」
「ほんとほんと。だから邪魔しないで、ね?僕の女神様」
「う、うー……わかった」
「よしよし」
「じゃ、ね、邪魔しないからついてってもいい?」
「え?んー……駄目」
「どーしてー!?やっぱ浮気だー!」
「違う違う。えーとな、そのー打ち合わせ相手が割と男前なんだよっ」
「で?」
「……誰かさんにポーッとなられちゃ、困るだろ……」
「……か、和久……
しゅきーーーー!!」
「わ、ばか、やめろって、こらー」
その様子、夜食にと持ちきたる冷やしお好み頬張りながら、
影で見つめる母一人。
”……また独り言言うてる……
やっぱり私の育て方が悪かったんやろか……”
その通りです。
春日大社は結婚式を頼みに行くと
「うちの神サンは女の人でっさかいそういうのは苦手ですねん」
とやんわり断るそうですよ。
女神様のご機嫌取るのはたーいへんなのです。
7/29 樹墓 |
桜や松や杉や白樺やポプラ……といった木々の根元に骨を埋め、
その樹を墓標にするような静かな墓地、なんて結構いいのではないでしょうか。
贅沢を言えば一人一本ですが、たくさんの人と一緒だと、それはそれで
いつも供物や花が絶えずに賑やかかもしれません。
もちろんその花も、その苑で摘めたりするといいですね。
幾種類何本もの美しき木々、生前にでも
「俺はあの樹が」
と指定できたらいいかもしれません。
桜なんか人気高そうですが、命日が紅葉の頃なら楓とか。
逆に常緑樹なら、いつお参りしても青々してて美しいでしょう。
宗派もカネの有無も関係なし。
子孫が絶えたら、なんて細かい心配も要らないし。
樹も、いずれは枯れるものでしょうが、
枯れる頃には忘れられてる方がいいではないですか。
山を御神体として拝む風俗のある日本ですから、
馴染むようにも思います。
もうどこかにあるのかもしれませんが。
墓石スタイルがどうにも実感沸かなくてそんなことを考えているのですが、
こういうお墓なら微笑ましくまた楽しいもの。
とどのつまりは死んだ後ぐらい、もうちょっと気楽にいきましょうよ、
というところです。
どの元に、となればやはり桜を選びそうです。
普段はさほど好きな樹でもないのですが。
淡い白と淡い黒のコントラストが、そういう世界を想起させる……
というより、DNAですね。
幸も不幸も日本人。
できれば別れそのものも、畳の上よりその元がいい、愛する人の膝の上……
と思いかけましたが、それはエエカッコをしすぎです。
7/28 言葉の定義 |
ところが。
こないだある人物(ここでは仮にS上博士としておきましょう)と話してて謎が解けました。
「あの人は『さわやか』という言葉の定義を変えようとしている」
なるほど、と。
俺=さわやかの基準、という方程式を人々に浸透させる、そんな遠大な計画だったとは。
さすが数学者。
考えてることの次元が違う。
日本の未来はすぐそこです。
日本の夜明けは明るいです。
7/27 日々是雑感 |
それよりも皆の者御覧になられたであるかあの久保の2発を。
あの黒ひげ危機一髪のような垂直上昇ヘッド、
あのウォシャウスキー式ワイヤーアクションヴォレー、
ありゃどうしようもない。
スーパー久保状態の彼はホント、ワールドクラスです。
あとはあの状態が起きる確率さえ高めれば間違いなく日本のエースなんですけど……
ああいう大砲が一門あると、コンビFWもう一枚に
どんなタイプでも合わせられるからいいですよね。
横浜というサポートに恵まれる強いチームで、一皮剥けて欲しいものです。
---
ダヴィド・ベッカム23番が練習で言葉が通じなくて困ってるそうですが、
フジの青嶋アナはツール・ド・フランス中継のためにフランス語を勉強したとか。
プロですねえ。
そういうお話を聞くと、仕事以外余暇以外で
「勉強」というものに、体系的に取り組んでいない自分がちょいと情けない。
しかし僕らの場合はTV観ても本読んでも映画観ても勉強だ、
と言えてしまうのがまた始末の悪いところ。
意識低いままケタケタ笑ってるだけでは勉強にはならない……のかな?
それでもいいのかな?
いや、やっぱりそういうことは「参考」にはなるかもしれないけど
「勉強」にはならんのですよ。
純化された感情をぱくぱくいただいててはそれは栄養にはなるけど訓練にはならない。
こう、根を掘って葉をちぎって矢で射て水で洗って火で炙って……
試合・練習・オフと3つに分けるとするなら、
この3つうまくバランスされてるのが大切。
しかし練習(たとえばこれ)は練習で楽しいので、試合から逃げてるのが最近の僕。
わーん。
負けてもよいのでパンチを出そう。
そこにしか安らかな時はないのだから。
7/26 Routesアンソロジー発売ですよー |
もちろん買いに行きましたとも。
読ませて頂きましたとも。
嬉しいなあ(泣)
WebでCGなど描いておられるのを見せて頂いても大変嬉しいのですが、
コミックとなると、書いたセリフがそのまま(あるいはアレンジしていただいて)
載ってたりするじゃないですか。
ライターとしては一段と嬉しいものでございますです。
あるいはまた思いっきりオーバーにデフォルメされて(絵柄も言動も)
想像もつかない大活躍してると、そのキャラの可能性を見せて頂いてるみたいで、
これまた楽しいものです。
変な話ですが参考にもなるし。
そして、また頑張ろう、って気持ちになります。
作家陣の皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。
もちろんお読み頂いた皆様も。
7/25 だいじょうぶ! |
「どんなに駄目な時でも根性さえあれば70点は獲れる」
というのが受験勉強を通じて手に入れた数少ない実感の一つで、
逆に言うとそういう設定になってない勝負は勝負ではなく、
そういう状態からは早く撤収すべきです。
大学だと60点がいわゆる単位点ですが、
教官も鬼ではあるまいし(中には鬼、人外もおいでですが)
「フツーにやれば60点はまずまちがいない」
という設定をするわけです。
ちょっと力入れると70点や80点は獲れるはずで、
お腹痛いとか病気のネコが心配でも、そういう勉強しておけば
少々崩れてもまあ単位は取れる。
悪い時にも悪いなりに試合を作ってくれるのが
信頼の置けるピッチャーで、「あ、今日は調子悪い」と思った瞬間
立ち上がりから打ち込まれ、2回5失点1敗、
それは8回を味方援護無く3失点1敗、というのとは全く違うわけです。
誰だって好不調あって、好調の時はいいとして、
不調の時にいかに崩れきらずに支えるか、というのも一つ大きな
信頼の基準になる。
ものすごい地味な努力で、厳しいのですけれども。
しかし、尊い努力であることは確かですが、
それに甘えてしまうこともある。
こうやって頑張っていれば70点は獲れるから、間違いは無いだろう……
ところが間違い、っていうのは起きるもので(笑)
ある日突然メジャーリーガー達が観光に来たりもするのです。
全く歯が立たない。
持ってるポテンシャル自体はそうは差がないはずなので、
死ぬ気でしっかりやれば互角の戦いもできるはずなのに、
70点的まとめ方を身体が知っているために、無惨な結果に終わってしまう。
ありがたくも過保護なこのオートマチックに、
常に喝を入れる必要があるようです。
たまに入れすぎる人もいますがそれは俺か
んーまーそのー
どっちかというと一人称でカッコよく言うと
まとめてる自分が許せない
んですが、これを横から見ると
まとめる努力がめんどくさい
とも見え、それは同じことなので、上で落としてみたり上げてみたりしてるわけです。
しかし、なにか創ることというのは
オートマチックじゃかなり駄目で、何故かというと
こちらのハートが動いてないからで、
それでは受け手様のハートも動くはずがないわけです。
無論嘘のつきようもいくらでもありますし、
結果として動いてればそれでええやんという気楽な考え方も大賛成なのですが、
それと納得とは別です。
短い人生ですから、なるべく納得した時間を送りたい。
あまりそれに汲々とするのも、よくないと思いますが。
訴えたい、あるいはさらに叫びたい、中心物
(テーマという言葉を使うとちょと違う気が)
があったならば、手業オートマチックもある程度までは許されると思います。
ただ、人はそうそうたくさんそういうものを持っているわけではないです。
強烈な体験をした(してる)人ならばそういう一筋があるかもしれませんが……
司馬の叔父貴が「僕の小説は全て20代の僕への手紙かも知れない」とどこかで
書いていたと思いますが、そういう大きな種があれば、
無数の発芽があるのかもしれません。
と、考えて僕のぽややんとしたこころの中を覗き見てみると……
愛か(笑)
まあ、人が損得を超え利害を超え人の造った何かを超えて、
「誰かのために」戦う姿が好きなので、
それはまとめて言えばその言葉になります。
勇気も正義もその言葉で方向をもたらしめなければ、意味がないわけですし。
土方歳三も新撰組時代はただの優秀なテロリストなのですが、
北海道へ行くあたりから俄然カッコよくなるんです。
滅び行くものの方へ、あるいは近しい手近な兵達のみへ、かもしれませんが、
ハッキリと方向を持った意志がそこに現れるからだ、と思っています。
あまり難しく考えず、この大本をもう一度きっちり見つめ直して(ここが喝)
シンプルに行けば、(ここはオートでも……って、簡単なのが一番難しいのはペペロンチーノに同じ)
あまり間違いはないのかな。
「できないこと」どころか「できなかったこと」が急速に増えてきておるのですが、
それはそれで、気持ちさえ引き締めれば、
「こうしたいんだ!」
という気持ちを未来永劫引き出せるというメリットとも考えられ
……言っててちょっぴり切ないですが……
できなかったが故に、成し遂げられたことに
無限と永遠のスパイスを無邪気にふりかけることができるのかもしれません。
……言うててものすご切ないですが。
人の心に多かれ少なかれある、
原罪――ここはどこわたしはだれ――について、
「だいじょうぶ!」
と、人はみな他人のことならば言えるはずです。
家族友人がそれを苦にすれば誰しも必ずそう言う。
でも、自分のことになると途端に不安になる。
そんな時にいつでも力強く、
「だいじょうぶですよ!」
と語りかけるのが僕らの仕事の結果ではないかな、と思います。
もちろん、歌い手さんは歌で、絵描きさんは絵で、アナウンサーさんはしゃべりで、
学者さんは学究と教育で、エンジニアさんは製品でサービスで……
同じことをしているのですけども。
そうそれが、人の世というものかもしれません。
幾分目的が不純な気もしますが、
強い言葉には何もなければ何もない方が、いいのかもしれません。
でも、だいじょうぶ、っていうのは他人に言ってもらわないと絶対駄目な言葉で、
そのためには、ありがたい何か、つまりは家族や友人や支える人が居てくれないと、
いずれぺちゃんこになってしまいます。
それを覚悟でバカスカ捨てていく勇気は……無いです。
というよりも、自分で抽象化した自分像はともかくも、
生の声でも、心の底から、
「だいじょうぶ!」
と言っていたい、そんな気がします。
というギリギリのところを狙って、今日もフラフラと生きていくのだ。
おかまいなしに、夜は更けて、日は昇る。
7/24 首タオル |
そういえば高校生ぐらいまでは、僕も家ではそうしてました。
鼻炎と掌多汗症が持病なもので、ティッシュじゃ追いつかないんです(笑)
いつの頃からかそれをしなくなったんですけど、
(たぶん大学入ってイイカッコしたかったんでしょうね)
先日。
また風邪ひいちゃって、ところがたまたまその時読んでた本に、
「ちょっと喉に違和感がある時は、僕はバンダナを巻いて寝ます」
とあったんです。
これは、と思いタオルを巻いて余った分をTシャツに突っ込んで眠ってみると、
翌日は随分と楽でした。
そこには、
「西部の荒くれ男達も風で喉を痛めないようにバンダナを巻いてる」
とあって、なるほど、あれはそういう意味合いだったのか、と。
首というのは非常に放熱能力が高いらしく、
だからマフラーというのは防寒性能が高いのですが、
逆にそこをガードすれば大きな体温変化=負荷を避けることができるのかもしれません。
そういえば上岡龍太郎さんもパペポかなにかでそんなことを言ってたように記憶します。
彼の場合はしっかりタオル等々で摩擦して血行を良くし、
クリームだかオーデコロンだかを塗って保護してた、とか。うろ覚えですが。
しかし家やスーツの要らない職業の職場ならまだしも、
お外を歩く時、特にマフラーのない夏はなかなか首のガードは難しい。
スカーフは古代守もしくは佐々木功さんぐらいのよほどお洒落さんでないと似合わないし、
バンダナは日本橋でないと似合わないですしねえ。
タオルは即売会かな。あと矢沢さん。
ま、しょうがないので移動中はさておいて、
喫茶店に入った時に使ってみました。
この時期の大阪の喫茶店は冷えすぎてる場合がほとんどで、
長い時間読書に熱中してたりすると、知らずに身体を冷やしてる場合も多いです。
結果はかなり良好。
首に一枚巻くだけで全然体感温度が違います。
でも、タオルってあのモコモコしたのが今ひとつ垢抜けません。
で、アウトドア用のヘッドバンドなんかで、めちゃめちゃ暖かい新素材でできてるのが
あるではないですか。
ああいうのでちょっと小綺麗に首をガードできる品があると、嬉しいかも……
って、あまり密着するとムチウチの人みたいな風体になるかな。
ともあれ、羽織るもの用意するよりもずっと手軽、
寝る時に巻いておけばクーラー寝冷えにも少しは抵抗できるかも。
この夏はタオルで乗り切ろう、と思ってしまった風邪ひきさんです。
7/23 すみません。 |
もう少し気楽に行きたいのですが、よいです?
---
ここんところ、だらしなさといい加減さで人に迷惑をかけてばかり、
謝ってばかりです。
そういう人間にだけはなるまい、と思っていたのですが、
そういう人間になってしまいました。
そこから脱却したいのですが、
おわかりのとおりそこから脱却したいと思いつつ31年、
結局何の進歩もしてません。
というよりも、ベクトルは違えど常に余計な一歩を踏み出すタイプらしく、
その余計な一歩を治そうとはしてこなかったので
(それを止めるとすぐ死んじゃう)
とどのつまりはこれからもずーっと迷惑をかけるようです。
すいません。
申し訳ないです。
ごめんなさい。
……大阪のとある電機メーカーは、サービス部門の優秀さでは
業界でもトップクラスと賞賛されていたのですが、その理由は
「よくぶっ壊れてサービス出動の機会が多いから」
という幾分ほろ苦いものでした。
しかし雑草のような彼らは転んでもただでは起きず、
「あらこんな丁寧なアフターサービスがあるのなら次も買おうかしら」
と勘違いしてもらえるように、日々努力を怠っていませんでした。
そういうメーカーはそういう社員を採ってしまうようです。
誠にあいすみません。
7/22 トイレみつを |
デパートの書籍売り場でみつをフェア。
民族風の癖に押しつけがましい喫茶店に入ればみつを。
慌ててトイレに逃げ込めばそこにもみつを。
内容もこれと電光走るようなものではない。
そもそもからして無茶苦茶な暴論を吐くと、
日本の詩には必ずと言っていいほど妙に「ささる」部分があり、
それは諦観であったり大きな悲しみが背景の場合にのみ輝きうる透明感であったり、
世への拗ねであったりする。
あるいはそれをこそ詩心と呼ぶのかもしれないが、
ともあれ一見優しく美しくという皮を被りながらその後ろに
刃物もたれているようで、個人的にあまり好きではない。
日本の文化には奇形願望……というと言葉が強すぎる気もするが今少し他の表現を
思いつかない……みたいなものがあって、
盆栽であり俳句であり、軽自動車がそれである。
与えられた窮屈な枠内で精一杯花を咲かせ、
その努力と事実として咲く花は確かに美しい。
個性的でもある。
なにもそこまで窮屈に縛らなくても、というコンセプトの良し悪し自体はさておいても、
ただデメリットとして本来伸びやかに育つべきごく真っ当な分野が、
それに喰われて育ちにくいという点はある。
9000回転まで回るミドシップオープン2シーターなどという
滅茶苦茶にゴージャスな軽が存在する一方、当時の国産コンパクトといえばようようにして
2代目マーチがなんとか国際標準、あとはもう、というレベルであった。
それは物理の当然であって、
母数が減れば割合が同じであろうと絶対数が減る。
自由詩はそういう意味で作詞という派手で社会性の高い商売、
コピーライトという実にカネになる商売、
俳句という巨大な歴史的バックボーンを持つ商売、
に邪魔されて、どうしてもそれらから外れた個性しかそこへ辿り着きようがないような気がする。
そう考えると、必要以上の拗ね感疎外感哀れ感を感じさせるものが多いのは、
成り行き上しょうがないのかもしれぬ。
くどいようだが酷い極論である。
と、好きでない理由を考えた。
あるいはまた、あまりにも溢れすぎている、という要素もあるかと考えたが、
それは日本のあらゆるところあらゆることで見られることであり、
さすがにもう慣れている。
しかしそれにしても妙に拒否反応が出る。
が、友人と電話中ハタ、と思い当たった。
こういう商売をしているからこうなったのか、あるいはこういう人間だからこういう商売をしているのか、
僕はラジオも人の声が入るともう駄目で、
つまりは言葉に対して過敏に反応するらしい。
そういう人間にとっては「意味を持つ言葉」が黒々とした字で
不意打ちをかましてくる、その事実自体が強烈に嫌、なのであって、
内容は問わない。
みつをでなくても嫌であって、みつをだから嫌というわけではない。
みつをさんごめんなさい、勘違いしてました。
---
あるカーデザイナーがあるクルマを指して(現行日産セレナだが)
「俺の前に現れるな」
と絶叫したと聞いたことがある。
良い悪いではなく、意図しない意識しない時に一番センシティブな部分をいじられるのは、
誰しももの凄く嫌なことであろう。
人目を惹く、ということはそれだけ人目に刺さっている、ということでもあり、
もし責められるとするなら、
そういうインパクトなモノをインテリアとして使うのはどうであろうか、
という使い手の一点であろう。(それすらも好き嫌いと言えばそれはそうである)
作り手に罪はない。
逆に言えば居間で額に入るよりも、手持ちぶさたで小さな時間ができてしまう
トイレの方がそういうモノにフィットしたステージである。
トイレにみつを
というのは実に適材適所であって、
トイレ用のそれを考え出した人のセンスと見識の高さに脱帽せざるをえない。
ひとつのトイレみつをにもこれほどの深慮遠謀がある。
現代の、売れるコンテンツのしゃぶり方は実にたいしたモノである。
作品同様小うるさい相田みつを美術館のWebを見ながら、そんなことを思った。
7/22 大好きな着彩が待ってます、頑張りましょう。 |
タブレットがおかしくなった時には?
ドライバをアンインストールして再インストールするのですが、
その際タブレットの上にスタイラスを置いた状態で始めましょう。
なんとなく治ります。
……3時間格闘したッス(泣)
---
なぜ色をつけるのが苦手なのでしょう(泣)
着彩こそが楽しくてしょうがないという人が羨ましいです。
なんかもう、めんどくさくて。
鉛筆描き終わった時点で「できたー」感一杯で、それから後は行みたいに感じてしまうのです。
そういやプラモも色塗りはほとんどやらなかったなあ。
デカール貼るのもめんどくさくて。
ウォーターラインもハセガワの飛行機もガンダムもかなり作りましたけど、
ちゃんと色塗ったというと数えるほどしか記憶がない……
じゃあ、ってことでそういう鉛筆画であったり塗ってないプラモだったり「が」いいのか、
っていうとそんなことなくって、他人様が作られたモノでしたら、
綺麗な絵やピシッと仕上げられたプラモの方がいい、と思うのです。
してみるとやっぱり根性不足なのか。
あるいは「形作る」ところまでが好きで、それ以降は別にいいや、
という性向の持ち主なのかもしれません。
……と考えると背筋が少し寒くなるので、
なにかつけるいい薬とかありましたら紹介してください。
風景画とか、色塗らないと始まらないものを描いてみると
色の楽しさがわかってくるのかもしれませんね。
7/21 小説? |
形式や定義についての論議はひとまず置くとして、
もしも、観念としてのテーマ、主題があり、それを登場人物や事件や情景を動かすことで
表現していくのが「小説」という表現形式ならば、
僕にはそれは書けません(笑)
というかほとんど書いたことがないので書けるかどうかも知らないです。
出来事であったりイメージであったり登場人物の心の動きであったりストーリーであったり、
それを追っかけて描くことばかりをやってきました。
抽象的な何か
――それは「愛」でも「友情」でも「現代社会における不安定な心の拠り所」でもなんでもいいのですが――
を具象に落とし込む、という作業については
あまり興味もなかったですし、必要も感じておらず、
そもそもそれくさいもの
(例によって上等のものは匂いはしない)
を読むのは大変に苦手だったりもするので、
別にいいや、と思っていたのです。
で。
書き手にはそういうのが得意なタイプと、
具象を描ききるのが得意なタイプが居て、
(もちろん両方できる人もいるし、そもそもできあがりのモノ自体も峻別できるわけではないのはいわずもがな)
どうも観念→具象の落とし込みが自由にできる人をして
「小説家」と呼ぶのが「今は」適切らしい。
そういえば同人の時も自分の書いたもの指して「小説」というのになんだかすごい抵抗があって、
「まあ長い散文は一様にそう言っても構わないから」
と無理から納得していた記憶があります。
なぜそんなことを突然言い出したかといいますと、
落とし込みたい抽象概念が出てきちゃったからで(笑)
ま、いつものとおりここでチマチマコネコネやっててもいいのですが、
一つ「小説」とやらにしたててみたらどうなることなのやら、と思ったわけです。
で、ここんとこその落とし込み方に頭を悩ませているのですが、
そもそもからしていい設定を思いつきませぬ。
で、考えてみればそこからしてほとんどやったことがなく、
ああ、芥川賞とかああいうの獲る方、というのはこういうところがぱぱっとできちゃうんだろうな、
と思ってみた次第。
まあ、別に無理矢理そうしたいわけでもなく、
いざとなればまたエンタメ志向で薄めてしまう手もありますし、
エロというカウンターサッカーのような伝家の宝刀もあるので
(頼りすぎると「最悪の結果だけを免れるだけ」という結果になる点まで同じ(笑))
まあ、あんまりきゅーっとはなってないんですけど。
言うまでもありませんがどっちが貴賤とかそんなことこれっぽっちも思ってませんよ。
強いて言うならおもろいのが勝ちです。
ただ、感動には具体的なシーンシチュエーションによってゴリゴリと引き起こされるものもあれば、
文章が触媒となり、そこから自分の感性や知性が反応を起こして沸々と
沸き上がるものもあると思います。
後者のようなものも書くことができたら……
……と、変換してて思ったのですが、今の最後の一文は「書く」という変換で
素直に決定しました。
いつもは「描く」というのを意識的に混ぜてる……のはコアなほえなが読者(笑)なら
ご存じだと思いますが、この漢字の使い分け一つも、
両者の性格の相違を現しているように思います。
ただ……上にも述べましたがそういうモノで押しつけがましいモノがかなり嫌い、
という事情もあり、また、
「なにがなんだかよくわからんけど深遠なものを見せられた気がする」(例:Zガンダム)
は正直、(恣意的でないのは百も承知の暴論ですが)
タチの悪いごまかしに感じてしまうので、
無理っぽかったらすぐアホにしてみます。
上手くいけばあと一月ぐらいで……
無理かな(泣)
実は大学生ぐらいの頃にもそれをやってみたくてやってみて失敗した記憶があるので、
今回も駄目っぽい香りはぷんぷんするのですが、
まあ、10年も歳を取ってることだしあの頃とは使えるカードも質量ともに
随分違うので、再挑戦。
……やっぱり憧れがあるのかなあ。
できないことほど、やってみたくなるものですしね。
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あるいは小説、というのは分類不可能なもの全てを指す単語なのかもしれません。
ミステリはミステリ、ピカレスクはピカレスク、歴史は歴史、伝奇は伝奇、
ファンタジーはファンタジー、SFはSF……
とジャンルごとに分類され、中にはライトノベル、なんていうわけのわかったような
わからないようなジャンルもあるわけですが、
それでもそう聞くと「ああ、だいたいああいう感じの」とイメージが浮かびます。
しかしそういう接頭語がつかない「小説」となるといきなり、イメージがなくなる。
ということは、その言葉を聞いた時人が想像するモノ、
それこそがその人にとっての小説、なのかもしれません。
ある人は司馬遼太郎「坂の上の雲」かもしれないし、
ある人は宮部みゆき「パーフェクト・ブルー」かもしれないし、
ある人は夏目漱石「こころ」かもしれない。
ある人は「ミラクルズ!」かもしれないし〜(笑)
ともあれ、
テーマとイメージ、そのどこにバランス・ポイントを置くのか、
それもその書き手の個性の一つではあると思うので、
ズラしてみるというアクションは有意義であると思います。
と、いうことは変にまぜこぜするより、「魔の山」みたいな形もありやなしや?
でもそれだったらここでコネコネしてもいいし……
とか、いろいろおもしろがって悩んでみてます。
おもしろがってる時点で失格くさい気もするのですが(笑)
7/20 妄腹筋 |
症状が進みますと、大好きな食事シーンなど妄想してると、
実際にいつメシを喰ったか忘れてしまい、
食後すぐ、食卓に皿が並んでいる状態で「お腹減った」と言い出したり、
晩ご飯だよ、と呼ばれてみればついさっき食べたような気になって食欲がなかったり、
それはもう菊次郎爺さん。
「ごはんまだでしたかいの〜」。
ところで朝起き抜け、時々思い出したように腹筋を20回ばかりやるんです。
お腹出ちゃわないように。
今日朝起きたら、頭の中で腹筋を始めてしまいました(笑)
しかし情けないことに「つらい」と思って3回ぐらいでギブアップ(泣)
ちょっと疲れのバランスが悪いようです。
散歩行てきま。
7/19 磐田vs市原 |
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首位決戦である。
市原の好調など所詮フロックであろう、と高をくくっていたが実戦を観て驚いた。
今まさに旬のボランチ阿部がワイドワイドへ展開、
サイドアタッカーがとにもかくにもチェへ放り込む。
となればと、チェを怖れてサイドを捨て置くと勇気を持って中へ切れ込み、
積極果敢に勝負を仕掛ける。
2点目のPK、藤田が倒したシーンが象徴的であった。
切れ込むのは磐田守備陣にすればどうということはない選手ばかりだが、
よく練られた約束事とそれを丹念に実行する運動量、双方がよく機能して、
攻撃的MFである藤田が1on1で身体を張ってサイドアタッカーを止める、
そのシチュエーションを創り出していた。
その場面をひねり出した時点で勝ちで、PKは結果でしかない。
あの王者磐田が、後半ほとんどを相手の意図に翻弄される姿を晒した。
選手間距離が長くなり持ち味のパスが通らなくなり、
ついにはコントローラである藤田を代えて相手の望む殴り合いにシフトせざるを得なかった。
に、してもそれで追いつけるのは王者の王者たるゆえんであり、
残り2節勝ち点差2、まだ死んではいない。
それにしても市原。
チェと阿部以外でせいぜい人目を惹くのはサンドロ止まり、
あとは名も知れぬプレイヤーばかりの目を覆う貧弱な戦力で
望みうる最上以上の素晴らしい戦いぶりをしている。
調べてみればなるほどオシム監督は90W杯でユーゴを率いた国際的名将であった。
サッカーではやはり、監督はチームの非常に重要なパーツである。
得点力のあるFW1枚以上にはチームの戦力を左右する。
ただ、これで例えステージといえども優勝できるかどうかといえば疑問である。
後半ロスタイム、触れば1点のクロス。
あれを外すチームは自力で優勝をもぎ取れるチームではない。
歴戦の将・オシムの試合終了後の激しい憤りがそれを明らかにしている。
と、なれば敵失が条件になるのだが、残り2戦の相手は清水と浦和。
難敵である。
鹿島や横浜のような明かに格上で頭を真っ白にして戦わねばならない敵か、
京都や大分のようにチーム状態がズタズタで多少ミスっても勢いで押し切れる敵であれば、
今の勢いであれば2連勝自力優勝にもある程度見通しも立ったように思う。
その上、勝ち点差1で追う横浜、そして磐田には市原よりもはるかに勝者のメンタリティが備わっており、
この両者にこれから先2戦で敗北や引き分けは期待できない。
特に、勝ち疲れかモチベーションの低下か守備が不安定な磐田よりも、
ユ・サンチョルまでをも手にして意気上がる横浜には要注意であろう。
市原にとっては負けた瞬間に負けが決まるヒリヒリした戦いが続く。
過去似たような状況で、直接対決、雨中の死闘を制しながら最終戦、
J2降格の決まっていたチームになんの意味もなく奮闘され、
あまつさえ浦田というちょっとぐぐっても今季はどこにいるのかはたまた引退したのかすらわからない選手、
まるでこの瞬間のために生まれてきたかのような選手に一世一代のジャンピン・ヴォレーを決められVゴール負け、
優勝を逸したチームがある。
力を使い果たし精根尽き果てたそのチームは翌年2部へと堕ちた。
あの悲劇が脳裏をよぎる。
しかしいかに名将が率いようともあの程度のチームが延々と首位に立ち、
磐田ともあろうものがチェ・ヨンス程度のFWに好き勝手やられてる様を観ると、
2ステージ制の歪み、とぐらいは言い放ってもよかろう。
ただそれも、だからこそこうした珍しいチームが優勝する可能性があるわけで、
かつ2ステージにしてもここ7年年間優勝はアントラーズかジュビロ、
ステージ優勝にしてもマリノスとエスパルスが1度ずつ顔を覗かせているだけで、
決して奇抜なチームが成績を残せるシステムでもない。
欧州に合わせ秋-春シーズン制は早急に導入すべきだと思われるが、
こちらの方はこれでもいいような気もしなくはない。
事実、昨年の磐田の完全制覇にちょっとだけ寂しい思いをしたサッカー好きは多かろうと思う。
アメリカンなスポーツ好きにはもっとラジカルにプレーオフの重要性を高めろ、
という意見まである。
欧州ではリーグ戦はもちろんのこと1シーズン制だが、
実質プレーオフ戦のようなチャンピオンズ・リーグがあり、
こちらはこちらで大変盛り上がる――どころかR・マドリードのように国内リーグを半ば捨ててかかる
強豪すら存在する――ことを考えると、あながち奇抜な案とも言えない。
2ステージ制の矛盾の例としてよく引き合いに出される、
鹿島が1st11位2nd1位ながら、チャンピオンシップで磐田に勝って年間優勝を決めた'01シーズンがある。
が、あれがあるからこそ翌年の磐田の有無をいわさぬ完全優勝があり、
かつ以前に(99年)磐田は清水に同じような苦杯(年間勝ち点最大のチームが優勝できない)をなめさせており、
4年越しの大ドラマと言えなくもない。
ともかくも攻守めまぐるしく時の経つのがとても早い、面白いゲームだった。
少なくともチャンピオンズ・リーグ準決勝、インテルvsミランなどより遙かに面白く、
純然たるパフォーマンスよりも選手の気持ちや気迫を観戦できる日本人には、
(その最たる例が甲子園であることは論を待たない)
2ステージが合っているのやもしれぬ。
次節も観よう。
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※やってはみましたが2回目なのでやっぱり熱が足りないような気がします。
文体の差ではなくて。
やっぱり随想はできたてが一番……かな?
7/19 磐田vs市原 |
市原は強いですが……
思い切りワイドワイドに構えて、どちらかのWBを突っ込ませて
(もしくはチェかサンドロが開いてアンブッシュ)
チェの頭に合わせてそこへ2列目以降がかならず3人突っ込む、
というのをずーとやるんです。
王者磐田ですら後半は市原に合わせて開いて構え、
選手間距離が長くなったおかげでパスが通らなくなり、
結局はコントローラである藤田を代えてまで状況を打開せざるを得なかった……
それでもそこそこ打開できて追いつけるのが王者の王者たるゆえんで、
他のチームだとひとたまりもなかろう、と思いました。
チェが怖いからとサイドほったらかしにするとそのまま勇敢にも切れ込んできて、
もちろん磐田守備陣にすればどうということはない選手ばかりなのですが、
(その選手自身へのサポートもほとんどない)
その時間で真ん中へ人が殺到するのでますます中央が苦しくなる。
結果PKを与えた藤田のシーンが象徴で、あそこで藤田が1on1で身体張ってまで守らなければならない
状況を作った時点で勝ち。
ただ、話題の運動量も確かに素晴らしいと思いましたが、
あくまでも基点になってサイドにボール散らせる阿部と好調のチェが前提のシステムで、
たぶんこれだけでは長い1シーズン制だと通用しない。
(ある程度の成績は残ると思いますが)
このぐらいのチームがたとえステージといえども優勝してしまうのは(まだしてないですが)
やはりJリーグの歪みで、1シーズン制が早く始まらないかと心待ちに。
逆に言うとあの程度の戦力で、磐田に意図を押しつけ倒す、
そんなサッカーができるのはさすがW杯ベスト8コーチ、というところでしょうか。
サッカーでの監督の位置はやはりチームの重要なパーツの一つ、ですね。
それでも市原の敢闘には賞賛の言葉しかないのですが、
それよりも磐田の「停滞感」みたいなものが目につきました。
長年同じようなプレイヤーが揃い実績もこれ以上無いぐらい出しているだけに、
変な余裕がありすぎる。
後半開始からの市原のラッシュでも、明らかにサイド引っ張られて中央に人手足りなくなる
場面が何回も起きているのに、修正の圧力がかからないんです。
で、それでも最後の所はバシッと押さえる、って気配があればいいんですけど、
そのまま食いちぎられてる。
相手が市原だったから2点で済んでて、
そりゃ鹿島相手なら5点獲られてもなんの不思議もない。
同じシステムでやってきたことの制度疲労、というよりも、
なんだか「勝利」よりも「思うプレーをやりたい」という風にさえ見えてしまいました。
それが(今の)磐田に流れている風なのかもしれません。
僕が大学生の頃、関西学生アメフト。
まだ立命館が勝ちきれず関学と京大が覇を競っていたのですが、
関学の戦い方っていつも美しくスマートで理論的で、
もちろん選手層は豊かで、KGの文字に憧れて全国から入ってくるアスリート達に加え、
高校からサラブレッドみたいな選手が上がってくるから、
京大の「4年でなんとか作りました」みたいな荒武者プレイヤーと違って、
実に「アメフト選手」な、インテリジェンスに溢れたカッコイイ選手ばっかりだったんです。
でも、じゃあ常勝か、というと京大に泥臭く守り勝たれたり、立命に力で足元すくわれたりする。
で、それでガックリくるか、というとそうじゃなくて、
また次の年も同じようにカッコイイチームができて、カッコよく戦う。
最近見てないからなんとも言えないのですが、
それが「校風」、「チームスタイル」ってヤツなのかもしれず、
一度固まってしまうとなかなかそこからは抜け出すのが難しいのでしょう。
また、それで結果もちゃんと出してるわけだし、
本人達も変革するならその延長線上で、となる。
ジュビロといえば日本一カッコイイサッカーのチーム、
昨シーズン望まれてもいないのに(笑)両シーズン完全制覇というこれ以上考えられない
結果を出してしまって、
大雑把言うと「勝ち疲れ」みたいなものがあるのかもしれません。
勝利に対する飢えがない、
かつ似たようなメンツで戦うが故にチーム内緊張感もあまりない、
欧州のようにチャンピオンズリーグみたいな別のご褒美もあまりない、
ちょっと活躍したからといって目も眩むような条件での移籍が待ってるわけでも(ほとんど)ない、
そんな場合にモチベーションを維持するには、
高みを目指して求道者のようなサッカーをやるしかないのかもしれませぬ。
それをやるには今戦に限れば隊長と福西を欠き、今や高原も奥も居ないジュビロでは
幾分キツイように思うのですが……
ま、それでもDFラインから前線に至るまで、
長短のパスを散らし相手を翻弄するあのスタイルは、
サッカー本来の楽しさに溢れています。
多少の結果のブレはさておき、磨いてまた魅せてもらいたいものです。
残り2戦、横浜も含めた三つ巴は結構見逃せません。
予想?
んー……横浜、かも。
ロスタイムの触れば1点、あれを拾えていれば市原だったような気がします。
あれを拾えないチームは、自力では勝てない(敵失がどうしても必要)のですが、
残り2戦の相手、清水も浦和も、そういうモードでは難敵かな、と。
と、思うと年2回ひりひりした戦いが観れるのはそれはそれでありかもしれず、
百年構想にまんまと餌食になってる一サッカー好きがいるのでした。
7/17 風邪をひいて随想 |
パヴェル・ネドヴェドというチェコ人サッカープレイヤーが居る。
今季ユヴェントス・スクデットの立役者であり、
今最も旬なオフェンシブハーフである。
芸術性や我の強さが必要とされ、自己主張の強いスター選手が揃う
攻撃的MFというポジションにありながら、
そのスタイルは極めて自己犠牲の精神に富んでいる。
驚異的な運動量で正確無比なプレーを90分間倦むことなく飽くことなく続けるその姿は、
畏敬の念を込め「鋼のロボット」とまで賞される。
彼は試合の終わった翌日日曜日の朝、
この世も終わりかのような疲れ果てた姿で現れ、愛妻に
「……もう引退だ引退。今季で終わり終わり」
とボヤくそうだ。
ところがそれが月曜になると
「あと2-3年はやってもいいかな」
になり、火曜になると
「要らないと言われるまではやろう」
となる。
書くことには辛いこともある。
やってる最中は「どうしてこんなことを仕事にしてしまったのだろう」
と泣きたくなることも多い。
書き上がった当座は
「もういい、一月ぐらい休もう。充電だインプットだ、出してばかりいられるか」
と本気で思うのだが、
1日キーボードに向かわないとうすら寂しくなり、
2日休むともう駄目である。
とにかく何か記さねば、と強迫観念にかられPCの前に座る。
風邪をひいていても、鼻水と脳汁の混じったものをネピアに吸い込ませながら、
ディスプレイの前に座る。
結局、どんな書き物であれ、もはやそれ無しでは人生が成り立たなくないというのは
幸福なのか不幸なのか本人にもわからない。
ただ確かなのは、自分が
精神と感情を、あるいは人間と自然とを文字に換えて記す、
その作業自体の麻薬性に冒された中毒患者である、という事実だけだ。
どなたもご存じの創作の喜びの他にも、
無我の境地があらゆるものごとを忘れさせてくれる、というありがたい一面を持つ。
書いている間は、今を生きており、そのほかの何もない。
これはおそらく他の表現手段全てがそうであり、
下手をすると、喜びという積極的理由よりも、
悲しまない、という消極的理由の方がより創作への燃料になるのかもしれない。
痛めば痛むほど、痛みを止めたい、という欲求が強くなる。
そのこと自体を素材に使う……のは副産物のような気がする。
そうして頭真っ白にして脳内麻薬に溺れるのであるが、
たとえ自家生産麻薬であろうとも中毒患者であるにはかわりがなく、
危ういことは確かである。
それは本人達が一番よくわかっているのであるが、
わかっているからとてもう止められない。
状況はパヴェルより過酷で、
我々は、要らないと言われても、やりつづける他はない。
それはしょうがないとして、やりつづける上で、
上手くなりたい、とは思うし、克服すべきいくつかの弱点も判ってはいる。
が、それよりもなによりも大切なのは
記すべき感動がそこにあるかどうか
の一点であって、逆にそれさえあれば、巧拙はともあれ、
人は何かを書ける、し、書いてもいい、と思う。
そうして懸命に記された何かは、存在に足る=読まれるに値する文章である。
逆に言うと、そうでない何かに、その価値はない。
文章の良し悪し、というボーダーラインは「本来は」その一本しかない。
簡単である、が故に、非常に厳しい。
---
随筆、エッセイというものは簡単で気楽な形式に見えるが、
とんでもない。
これほどその人の人となりをさらけ出す文章形式はなく、
キツイ言葉でわざわざ言えば、
つまらない人間の随筆は驚くほどにつまらない。
それがたとえ著名人であろうと、功成り名を遂げた名士であろうと、
いや、たとえ物理的に良い内容、種になる良い話が紹介されていようとも、
酸っぱさが漂い読み切る前に閉じたくなる。
言葉に関しては誰もが知ってる有名人、
その随筆を読んで上記のごとく愕然とした。
こんなものが流通していては、それは活字離れも起こるだろう。
品の悪い老人の脳に固着した何かの滓が白い紙をただ汚していた。
小説なれば現れようはずもないその生々しい嫌らしさに身をすくめ、と同時に、
そういや「ほえなが」って随筆だよな、と身が震えた。
人間性全てを丸出しにする随筆は、局部をさらけ出すような詩などより
はるかに「恥ずかしい」形式なのではないか。
冗談抜きであんなものを垂れ流すぐらいなら死んだ方がマシで、
そういう場合に備えて流行りの練炭システムをいくらか考えようとするが、
しかしあれは自分の意志が必要であって、
そんな状態になった自分にそんな意志が芽生えるとは思えない。
ならば居るであろう(と信じたい)配偶者の手を煩わせるしかないのだろうが、
こんな私にくっついてくれるような人はテレサも吃驚の聖母式人物であろうから、
そんな酷なことを押しつけるわけにもゆかぬ。
無論私には不釣り合いに幸せなことに、
「どうよ」と訊けば「駄目だ」と答えてくれる友が幾人も居る。
が、そうなってしまったら訊ねることすらおそらくしなくなるのだろう。
若いうちはどれほど傲岸不遜でも許してもらえる節はある。
「あいつはまだ(いろんなことを)知らないのだから」
というのが理由であって、現に恥ずかしながら私も随分と許してもらったのだが、
しかしそれは還暦もすぎた老境に至っては通用するまい。
長年生きてきたことでいろんなものを見切れてるつもりになってるのかもしれないが、
あまりにも広大な自然の前に置いては20か60かなどタダの誤差、
何も知らない度合いは同じである。
いや、その40年で知りうることといえば
「なんぼ頑張ってもなんもわからん!」
という事実だけであろう。
その事実一つ知るか知らないかがおそらくは大人と若者の差異であり、
そして老人にとっては若干切ないことに、20でもそれを知っているヤツは知っている。
無論知識としてではなく体験として。
もうこの歳(31)でも忘れかけているが、若者の一年は、長い。
あまりに腹立たしかったのでつい口を極めた。
主体的に歳を取ることができる人間などいないのだが、
取っていく歳を意識することは誰にでも出来よう。
いい歳の取り方を、などと贅沢は言わない。
ただ、何が駄目で何がいいか、その根本だけは忘れないでいたい。
静かな日々に潜む心を動かす何か。
それを自分という媒体に反応させて描く。
ただその当たり前のことを、いつまでも当たり前にやっていたい。
7/16 電子レンジにダイヤルを |
電化製品が壊れると母は笑う。
新型に買い換えられるからだ。
この時ほど自分がこの人の息子であることを確認する瞬間はない。
今回も飛びつくようにWeb情報やネット通販ページなどのチェックにいそしむ。
しかし毎日使うものはやはり触れてみなければ判らない。
近くの家電量販店へ連れてゆかされた。
驚いたことに、最近の高級電子レンジには時間を決めるダイヤルがない。
あっても小さくまたどのタイミングで使えばいいのか皆目わからない操作系であり、
安物のレンジのように「全ての主役」然とコントロールパネル中央に
鎮座ましましてはいない。
数機種その操作パネルを眺めるに、要するに今は
「おまかせあれ」
というボタンだけを押せ、とこう言いたいようだ。
冗談ではない。
センサーの精度や制御ロジックの精密さ、そういう問題ではない。
たとえば100%の精度で内容物を思った温度にできたとしても、
マニュアルは絶対に必要である。
なぜなら、「最適」を決めるのはユーザー本人であるからだ。
現にそのような機種を購入、到着翌日、
祖母が一杯のミルクをおまかせにて温めてみて、
「こんどのは熱すぎる……」
と漏らした。
孫というよりも、元家電メーカー社員として情けなさと申し訳なさで
涙が零れた。
5万も6万もする高級機、出来ないものなどないと豪語するかのごとき
分厚いレシピ集がついてくる最新鋭の電子レンジにして、
お年寄りがミルク一杯温めることができない。
そんなものに「家庭」電化製品と名乗る資格があるのか。
その点では価格10分の1以下、韓国製なら5000円で買える
時間調節ダイヤルを回すとスタートする、
あの古き良きスタイルの電子レンジの足元にも及んでいない。
あれならば熱いと思えば「ちょっと」ダイヤルを戻すだけである。
ダイヤルが機械式ではなく精密コントロールのできる電子式で、
大きな7セグ蛍光管の
(液晶でもよいが闇夜でも目が潰れるほどの高コントラスト・ライトつきが絶対条件である)
時間表示があれば完璧であろう。
ダイヤルの直径は何もシンボルとしての意味ではない。
直径が大きいほど小角度が大距離に換算されるダイヤル・コントロールは、
手に馴染む範囲であれば大きければ大きいほど使いやすいのだ。
無論家電屋にも反論の余地はあり、
「数量変化や細かな環境の変化、あるいは全く新しい物品などの際、
人間の経験と目分量で対応しきるのは不可能である。
センサーを用いたオートマチックにはかなわない」
それはそうである。
そうであるが、それは優秀なマニュアル操作系が存在しない言い訳にはならない。
オート部分が優秀だと豪語するなら、
おまかせボタン一つあればよいはずである。
しかしそれ以外のボタン・スイッチを用意する理由、
それは技術への不安でもユーザーへの親切でもなんでもよいのだが、
それがある以上は使いやすいマニュアルコントロールが存在しなくてはならない。
#無論このようなことはメーカーの人間は痛いほどわかっている。
#わかっているからこそあえて傷口に塩をぐりぐりとねじり込んでいるのであり、
#黙っていれば、つまりユーザーからの不満がなければ、彼らにしても切り替える口実がない。
##まれに何もわかってないメーカーも存在するが、そういうメーカーは意識の高いメーカーが
##舵を切ればそれに倣うので、問題はない。
……と、いうようなことを売り場で泣きながら考え、
その中でも大きな液晶画面に細かな操作系を集約してまだシンプルなパネルを
実現している機種を選んだ。
「大きな液晶」でピンとこられたかもしれないが古巣製である。
であるが古巣だからといって選んだわけではもちろんない。
(在籍時からそういうメンタリティが無い不良社員であった。
と、いうよりもあの社には卑屈なほどそういうメンタリティがなく、
逆に言えばその柔軟性、「いいものはいい」と認める風が業績にもよい影響を与えているように思う)
現に祖母にそうこぼされてしまったわけだが、
それでも他社製同クラスの1200%わけのわからんモデル(この僕が、でも!)
よりは、遙かにマシだと母と二人で判断した。
使ってみれば1000Wマグネトロンは岩をも砕くハイパワー、
前任者とは比較にならぬスピーディな調理に家中が狂喜に乱舞、
件のセンサーも非常に優秀、ターンテーブルも無いのに電磁波もよく拡散しており、
全体的にムラ無く柔らかい仕上がり、これまた前任者とは10年の歳月を感じさせる。
全金属製の精悍なボディは男の僕でさえ色気を感じる鈍い光を妖しく放ち、
つまりは性能に関してはなんの文句のつけようもない。
で、あるが故になおさら、その一点だけが残念で残念でしようがない。
中級・高級電子レンジ市場、20000円クラスから上を席巻するのは
実に簡単である。
大きな時間設定ダイヤル、これだ。
さすれば蜜を求め花に群がる蝶のように、おばはん共がダイヤルの回りを舞い踊るであろう。
7/15 CPUファン換装 |
結果。
また別の音が目立つように(泣)
いや、どうもHDD起源らしき高周波音が。
最初ファンかな、と思ってちょっと押さえたりしてみても音変わらなかったし、
そもそも1500rpmだかなんだかの低速ファンなので「キーン」って音はするはずもないし……
あと静かになった副作用として、
mp3聞いてると「あ、しょぼ」と思うように(泣)
それとついに部屋の蛍光灯安定器の「ジー」音が聞こえてくるように(泣)
加えてやはり「静音にアルミケースはダメ」。
音の透過がよさそう、っていうのは気のせいにしても、
軽いのですぐ共振起こしてビビリ音が出るんです。
重しに厚めの本でも置けばいいのですが、本末転倒。
駄目だこりゃ。
絶対音量は順調に下がってるんだけどなあ……
取り付け自体は簡単でした。
M/B作りつけのCPUファン用の枠を取り外す必要がありますが、
これはM/Bの裏面から、出っ張ってる足の中にある白いパーツを
要らないボールペンなどで表側に押し出すと、
足自体がきゅっと幅を縮められるようになって、それで抜けます。
ただし、要はフル分解なので、面倒は面倒。
もし興味お持ちの方で新型機を組む予定があるのでしたら、
制作時に組み立ててしまうのが吉かと。
静音のために
・電源2個買い換え
・ビデオカード買い換え
・CPUファン買い換え
と大散財。(あとチップセット用ファンもとりはずし)
かつこのマシンは120GBのHDDを2台壊しており、
鼻水出そうなほど金食い虫です。
しかしこうなるともうヤケクソなので、
今度はケースの中に貼る吸音材の類に手を出してみようかと画策してます。
あと実はケースの外側に毛布みたいなものを掛けてみようかと。
全面ではなくて、側面上面だけでもだいぶちゃうかも……とか。
タイトにぴったり着せちゃうんじゃなくて、吸気排気を妨げない程度に
ホントにざっくり、って感じで。
あ、ちなみに交通費とめんどくささ考えて直接通販にしたんですが、
注文した次の日、日本橋に行く用事が出来てしまうというグッ・タイミン(泣)
ま、それでも小音量でもmp3聞いてるとファン音ほとんど聞こえなくなったので
無理矢理満足してます。
新しいPowerMacG5には9個ファンがついてるそうですが、
HDDにしろディスプレイにしろ昔の見て笑うものなのに、
なんでCPUファン&ヒートシンクだけは順調に巨大化が進むんでしょう。
アナログレコード末期のようなターンテーブルのウェイトを競うような時期なのかな?
昔はヒートシンクすらついてると珍しかったのに……
もう少しするとビックリするようなブレークスルーが出て、
「ケースの中にファン!? そんなパッパラパーなことしてたの昔の人!?」
とか言われるようになるのでしょうか。
ていうか早くなって。
7/14 爺免 |
胡散臭さで悪名高い交通安全協会であるが、
大阪府の場合(他府県は知らない)上手く誤魔化されている。
警察署で更新申請すると
「2週間ぐらい先のある日に警察署に講習を受けに来る」か、
「その日のうちにすぐ近くにある交通安全協会の建物で講習を受ける」かが選択でき、
当然のことであるが一発で済ませたいほとんどの人がその日の講習を選ぶ。
その講習費用の幾ばくかが安全協会に落ちるようだ。
それはまあよい。
必要悪とまで言うと言葉が汚すぎる。
そこに働くおばさんおじさん達も自らのポジションの危うさはよくわかっているらしく、
非常に親身で愛想抜群。
3年もしくは5年に一度、数百円ならば落としてもいいかな、とは思わせる。
パチンコ店すぐ横の景品交換所や、ソープランドの動かないサウナ機同様、
極めて日本的な曖昧システムだが、
目くじらをたてるよりも「それはそれこれはこれ」式で事に当たる方が無難であろう。
現にかなり高齢のおじいさんが、受付の異様にハキハキとした
おばさんに実に親身に申請のやり方を教わってる姿を見ると
「これをいちいち警察署でやってては皆が迷惑する」
とも思った。
曖昧システムは一種のバッファ、緩衝地帯であり、システムの「遊び」である。
これがないタイトなシステムは常にチューンとアジャストが必要で、
それはそれで神経つまりエネルギーを相当に喰う。
ポルシェ乗りが「パラノイア」と揶揄される、あれである。
遊びに対してどこまでコストを払うか、
遊ばないようにしてアジャストにコストを払うか、
それはその国や民族や時代の性向によりけりで一概に良し悪しは論じられない。
今、このケースそのもので言うならば
「これでもいいんじゃないの?」というのが感想である。
それよりも、免許更新の手続きさえ分厚いサポートが必要なほどに
聴覚・判断能力・応答速度に不安がある高齢の方に、
ポロッと免許が手渡される方が不安になった。
その辺は国土交通省もよく認識しているらしく、
70歳を超えて更新する際に必要な「高齢者講習」は、
なんでも自動車教習所へ赴いて3時間ばかりの講習を受ける必要があるらしく、
結構なハードルにはなっている。
確かに建前としてはどんな人にもモビリティの自由がある。
特に地方ではクルマ無しでは生活できない地域もある。
ゆっくりと走るお年寄りのクルマがあれば、それに合わせて
のんびり走るのが正しいのは間違いない。
ただ、それを幹線道路混雑時間帯にやられると事故原因になりかねない、
というのもまた、厳然たる事実としてそこにある。
きめ細かな公共交通網で高齢者の移動の自由を確保する……
と言っても、「赤字を許された公共交通機関」がどれほど酷いことになるのか、
我々は未だ精算されてない巨大な負の過去を抱えながら知っている。
簡単にそうしろは言い切れない。
以前、三菱自動車がモーターショーに、
運転席がエレベータ式に降りてきて簡単に乗り降りできる大型トラック
を展示していた。それに対してある自動車雑誌が
「運転席にもよじ登れない高齢ドライバーが巨大なトラックを操るのは恐ろしい」
と疑問を呈していた。
もっともである。
結局は各人の意識の持ちように期待するしかないのだろうか。
本田宗一郎氏は晩年、免許を返上されたと聞く。
クルマの酸いも甘いも知り尽くす彼ならではの見事な所業であり、
私も「あ、だめだ」と思ったら素直にそうしたい、と思う。
歩行中は交通弱者であるお年寄りが、クルマという「力」を手に入れた瞬間、
傍若無人の強者と化す。
寓話のようである。
あらゆる「力」は、持つことよりも使いこなすことの方が難しい。
7/13 赤福 |
デパートにて三重物産展でもやろうものなら赤福ブースの前からは
文字通りの長蛇の列が「三階下まで」辿り着いてしまうらしく、
それも「お一人様2パックまででございます」などと大手同人サークルのような
注釈がつくらしい。
そのパック自体も3個入りだのといったこちらでは見たこともないような
リトルサイズとか。
関西圏における「赤福」は551の豚まんやモロゾフのプリン、
神戸風月堂のゴーフルなどと並んでお土産の定番、
子供時分から当たり前のように食べ続けており、さほど物珍しさは感じない。
最近でこそ食の多様化が進み頻度は減ったが、
昔は1年に5回や6回はあの20個入りがおやつの時間を彩ったものである。
TVCMも頻繁であり、
「えっじゃないかえっじゃないかえっじゃないか
いっせ〜のめいぶ〜ぅつぅ〜
あかふく〜もちはえっじゃないか」(権利関係不明)
というなんの具体性もないが、であるが故に押しつけがましくもない歌詞とリズムにのって
マスコットキャラ「赤太郎」が妙に軽快に踊りまくる様が脳裏に焼き付いている。
どのぐらい当たり前の存在かというと、
消費期限が夏期2日間冬期3日間という極めて生ものであるにもかかわらず
(経験的には1週間ぐらい余裕でいけるのだが、味わいを優先した設定だろう)
例えば新幹線新大阪駅周辺のみやげもの屋ではまず間違いなく
当日製造のそれが平積みにされており、
つまりはそれだけ購入消費されている。
しかしこの現代日本においても、生産地から少し外れただけで、
たとえ札幌という大都会でも3フロア下から並ばなければならない貴重な品になる……
というのが、「なんでもできる」と思いこんでいる人間の限界を感じさせる事象であって、
なんとも可笑しかった。
同時に、「生ものであるから通販などはやりようもない」、どころか
「夏は品質が保ちきれないから各種物産展へ出ない」
という「赤福」の姿勢は非常にすがすがしい。
ちょいと有名になると大手企業に命よりも大切なその名を切り売りし、
本物とは比ぶべくもない不思議品を売りまくる各種ラーメン屋に爪垢だろうか。
創業江戸中期宝永年間、戦後統制品に指定された小豆や餅米や砂糖が
「正々堂々と手にはいるまでは」
と昭和24年に至るまで休業、その間社員達は別職にて糊口をしのぎ、
再開なるや否やわずか数年で市場を荒らしていた類似品を駆逐した……
という社史はあまりにもカッコよすぎる。
あのシンプル極まる菓子一本で現代に生き残る、それにはそれだけの理由があった。
甘い物が比較的苦手な我が家一同においても、赤福は捨てた記憶がない。
この時期、伊勢の本店では
「赤福氷」という簡単に言えば餅入り宇治金時が食べられる。
これがまた、小豆サッパリ抹茶の薫りもかぐわしく餅あくまで柔らかく、相当に美味い。
そしてかなりのボリュームにしてわずか400円というリーズナブル・プライスタグ。
あの涼味はこの背筋の伸びから生み出されるものだろうか。
太陽神・天照大神のお膝元、その火照りを冷ますかのような
「氷」―通は単にこう呼ぶ―に舌鼓を打つ。
夏のお伊勢まいりの喜びの一つである。
7/12 閣下夫人 |
我らがヒーロー、北の大地に熱く燃えるスペース係長・大先生閣下が
愛を生涯を誓った奥様予定者を見せびらかすから名古屋まで来やがれ貴様ら、という。
7040円を金券屋に支払いアーバンに飛び乗った。
なんといっても彼の女性は以前より我々アホ連一の面食いで鳴らすあの閣下が
「横山めぐみなど彼女の前ではイチローの前のサブローのようなもの」
「言われんでも(幸せに)なるっちゅーねん」
などと言い放つほどの大物である。期待と興味は嫌がおうにも高まる。
しかし白状すると行きの車中では
「それは恋という魔物が見せるイリュージョンではないのか閣下よ」
と答えの出ぬ自問反問を繰り返していた。
が、そのような手前勝手な疑念こそがイリュージョン、
それは集合場所のお店にてお会いした瞬間に知った己の予見の甘さである。
お美しい。
g石、R女史、閣下、閣下夫人……予定ではあるがまあよかろう……
という面々で串焼きどて焼きを頬張りながらお話をお伺いするに、
美しく、気さくで、よく気がつき、しっかり者であり、人生経験も豊富で、
ものすごいヤらしい話だが自営のお父様の一人娘で
名古屋コーチンが遊ぶ庭付きの二世帯住宅に住んでおられ、
なにより、閣下にあい対する姿勢には異性愛と母性愛、
つまりは愛という愛がにじみ溢れ決壊してもうどうしようもなくなっている。
なんですかこれは。
なんなんですかこれは。
冒頭の拗ね言葉ばかりが頭の中心の中を駆けめぐり、必要以上に酒が巡る。
それは閣下に訪れた幸福に対するやっかみというわけではなく、
もちろん、我が身との対比にわびしさを覚えるというほど僕は若くもなく、
ただその圧倒的な幸福の前に、世の無常、不条理を感じた。
ジャンボで3億当てた人を目の前にすると、こういう感想を持つのかもしれない。
あまりの不幸には神の不在を疑える余裕があるだけまだマシかもしれぬ。
あまりの幸福には、神が居ながらしかし、その力をあまりにも合理性無く因果律無く
まき散らしている姿しか想起できない。
そちらの方がよほど切ない。
ヴィンセント・ファン・ゴッホのその短い生涯に、
神は才能と心優しき弟以外何一つ与えたもうことがなかった。
しかし彼は今も我々に、無限の愛と光と色を与え続けてくれている。
大先生閣下はすでにもの凄いギフトを神様から受け取ってしまった。
では、少なくともゴッホごときは上回る大活躍をせねば、
閻魔様がレシートを突き出した時につじつまが合わせられない。
あんなものを受け取ってしまっては人生完全勝利だが、
逆に言えば、ここまで勝っちゃうとあとつまんないんじゃないの?
……と、これはもう完璧な負け惜しみである。
キングのようにふんぞり返る
(いやそれは腹が出てきて物理的にそうなってるだけか)
閣下の隣に決然としかししとやかに控えるクイーン。
その絵面はすでに小学生ぐらいの子供が居ても一点の疑問もない。
結婚を控える二人というのはどんなに恋の季節が長かろうとも
ある種の初々しさにあでやかに彩られているものだが、
そういう軽みよりも巌のごとき安定感ばかりが目だった。
その点非常に珍しいが、もちろん、悪いことではない。
結局、このようなつまらぬことをぐるんぐるん考えて悪酔いし、口をついて出た言葉は
「ウチの閣下をよろしくお願いします」
だった。
神が居ようが居まいが、現実に彼女はここにいる。
あの、子供みたいなとこがあるヤツなのでいろいろワガママ言うと思いますけど、
まあそこが可愛いと思いこんで優しく包みこんでやってください。
よろしくお願いします。
7/11 入り込み方拾い方 |
では僕も、ということでソファに座りてテーブルでPCを打ち、
疲れたら90度回ってソファに寝ころび、頭と心を休めて……
……ガ〜。
すぴ〜。
ムリ!
寝まくり!!
このまたソファってのが、中途半端に眠りに入りやすく、
その割には熟睡できてないのでいくらでも眠れる、という強力な罠。
ソファに座ってやる時には、一区切りつくまで横にならない強い精神力が逆に必要です。
宗教的なものにせよ武道的なものにせよ、
「瞑想」では本来一番リラックスできるはずの「寝た姿勢」をまず取らせません。
あれは「寝ちまう」というデメリットを良くわかっているんですよね。
鬼六先生やっぱエライや……
でも、日常から離れてみる、というのは非常に有効で、
ノートPC万歳なわけです。
缶詰、というのは物理的にそれしかできなくする、という意味もありますが、
いつもの場所ではない、
という一点の方がより重要ではないかと思います。
いつもの場所だと、意識自体が「いつも」にふわーっと拡散していく。
あ、免許の更新来てる、あ、Joshin夏のセール、あ、阪神14点、あ、井村屋のあずきバー……
ながた的プチ缶詰はデニーズで、
3時間それだけに向かい合うと、なんとなく何か書けるものです。
この、「なんとなく何か」というのはとても大事で、
例えば最終的には1文字も残らないぐらいなぞり書きが必要なモノであったとしても、
骨格のあるなしで書きやすさ違いますし、
また、それを読んでるうちにすーっとそこへ「入っていける」ので、
そこの効率も全然違う。
小道具小技に頼らずともスッと「入っていける」人は偉い、といつも思うのですが、
凡夫ゆえ何とかして何とかしようといつも身もだえております。
スイッチング儀式を用意する、という手もあるのですが、
あれも良し悪しで、
きっちりと定義づけされないとそれ自身が日常に喰われてしまいますし、
されたらされたで今度はそれが無いと何も始まらない、という副作用も出ます。
一杯のコーヒーでスタートすると決めて、
スタートできない日があると儀式としての重みがどんどん減りますし、
上手く条件付けできたとしたら今度はコーヒーが切れると死んでしまいます(笑)
ま、この悶えは一生続くのかもしれません。
幾分胡散臭い言い訳になりますが、
ノートPCをぽんぽん買い換えるのもそれで、
その時々の、それで書いたものが、それとともに日常になってしまうんです。
僕にとってのs30はテネで、
あれを前にするとテネを書いてた自分、という日常にスリップする(ことがある)
んです。
次作にかかると、その最初の方はそのイリュージョンとの闘い(そんな大げさなもんか)
があって、結構面倒です。
ある程度時間かけて乗り越えれば、その幻影が消え、
今度はその作品とs30とが強く結びつくのですが、
次行くとまた同じです(笑)
ただ、これをずーっと繰り返していると、イメージが拡散し手やペンのように馴染んでしまって、
「書くこと」とそのPCとがマッチします。
僕にとってのC1はそういう機体でした。
ただ問題はそういう場合、その機種いやその個体から離れられなくなる、
というケースが出てきて、
だもので職業ライターでも同一機種を長年使い続けるのは、
もちろん一番大きいのは道具としての手への馴染みなのでしょうが、
そういうイメージの馴染み、もあるように思います。
ヘビーモバイラーが「なんとかの後継」なんてことに変にこだわるのも、
こういうイメージ連続性が欲しいから、という理由が幾分あるのかも。
各社のエンジニアには「小さいのやりたい」という人がやはり居てるそうですが、
買う方も買う方でそういう自分の中のイメージや手触りを大切にする
高度な客、言い方悪ければうるさい客、なので、
そういう人相手にして儲けはある程度さておき鍛えてもらう、というのは
とっても大切なことだと思います。
特にデスクトップ互換のフルサイズならばショップですらホワイトボックスノート
作れるようになってきた昨今、
どこで差つけるか、っていうとそういう手触り、のところ以外はないと思うのですけど。
またPC談義になっちゃった。
タテマサにセレ600Aが載るのをただひたすら待っておるのですが、
それだったら今Let'sのR2行っちゃえばいいじゃん、とマイスイートリトルデビルが囁いてます。
どうしましょう。
話をぐーっと元へ戻しますると、
ただ、鬼六先生のお書きになるいくらかエロティックなもの、というのは
やはり日常に対する非日常……というよりも辺縁であって、
活動と睡眠の辺縁であるそういうスタイルでお書きになっている、
というのが印象的でした。
遼太郎おじさんが
「やっぱ昼書かなきゃ駄目だね、昼書かなきゃ」
とどこかで言っており、
書くものでスタイルが違う、いやスタイルが違うからできるものが違うのか、
身体と心に与えるお互いの影響は……
なんていろいろ考えておりました。
してみると、街の中に入り込んで、見ず知らずの人の中で書いている、
というのも、その書き物の中になんらかの影響を与えているのかも知れません。
雑踏の中にこそ孤独がある、とはよく言われることですが、
身体のセンサーがそれを捉えていないはずはなく、
拡散した意識を自分サイズに縮める以外にも、なんて言うんでしょう、
めちゃくちゃ大げさに言うと歴史の中、人類の中に自分を置いている、
という感覚が、きっと何かの影響を与えているように思います。
物書きには旅をひたすら好むタイプと死ぬまで書斎から動かないタイプが居ますが、
前者はそういうエネルギーを外から拾い、後者は自分の中にある良知を徹底的に見つめる、
という感じでしょうか。
え? 僕ですか?
拾うのヘタクソやからどっちでもないです(泣)
というか今日は5段目までと上のパラグラフだけでいいですね。
ま、それもほえながスタイル、ってことで〜(笑)
7/7 七夕 |
いや。
今でも「いい」のは絶対前者なんですけど、
それをやりきれる自信が無くなってきました(泣)
自分で自信も無いものを人に勧めるわけにもいきませんしね。
いやいや。
きっとそうやってごまかそうごまかそうとしてるだけで、
どうせその場になったらまたボロンボロンになるまでそれをやるに違いない、
だって僕だもん。
たださすがに、少しは上手く……
できないんですよね、きっとこれが。
ただそれでも、自分はともあれ僕は彦星を応援しますよ。
バカにはしないし笑いもしない。
がんばれ〜。
とか妙に浪漫を感じてたら午前1時。
過ぎてるやん、七夕。
---
今日はちょっと疲れました。
「疲れる」と「憑かれる」の音が同じなのは単なる偶然でしょうか。
妙な考えに取り憑かれるとぐったり疲れますね。
ああいうものは「考えないでおこう」と思えば思うほど
喰らいついて離れないものです。
また、別のことを考えようと思っても、
かさぶたにおそるおそる触れるように、またそこへ戻ってしまうこともしばしば。
結局、「それ、考えたいんじゃないの?」と自問自答までしてしまいます。
なんでも、辛いからやりたくないかというとそんなことはない。
辛い後に褒美があるのはもちろんのこと、
辛さ自体をスパイスにしてる面も無きにしもあらず、とか。
辛いと辛いは同じ字で……
そんな暇無いハズだよ〜〜〜〜〜(泣)
そう、そんなしょうもない自己消費して遊んでる暇があったら、
もっと外向きに辛いこと、挑戦しがいのあることにガンガンぶち当たっていくべきで……
わかっちゃいるんですけど、わかっちゃいるんですけど〜〜〜
まあでも今日は、
「しっかり休息を取らないと脳のエネルギーが無くなってしっかり書けない」
とこまで久しぶりに追い込んだので、
そこそこぐっすり眠れそうです。
あ、なんか今日は日記風だ。
7/6 ハリガネみたいな選手 |
土・日のヤクルト2連戦を観るともなく観ていたんですが、
久しぶりに野球中継観てて「ああ面白い」と思いました。
ヤクルトも強いし頑張ってるんですけど、阪神の「勝利への信頼」、
―ちゃんとやったらきっと勝てる、という気持ち―
みたいなものが上回ってるように感じました。
リードされても何の苦もなく簡単にひっくり返すあたり。
その信頼をベースに、無我夢中野球に取り組む姿は、観てて実にすがすがしいです。
競争意識などが盛んにクローズアップされますが、それはキッカケであって、
頭の中真っ白で全力をぶつけるぶつけ方、
それを各選手が思い出してるように思います。
藤本や赤星のようなハリガネみたいな選手が大活躍し、
今岡がちょい前とは別人のように素直でスムーズなセンター返しで打ちまくる姿見てると、
野球に筋力とか関係ないんじゃないか!?
なんてことまで思ってしまいます。
まだ筋トレが重用される前の野球界では
「無駄な筋肉をつけると邪魔」みたいな考え方もあったそうです。
いやもちろん今は科学的医学的に「ここをつければ」みたいな理論は
ちゃんとあるんでしょうけれど、
でも医学常識ほど一夜にして180度ひっくり返る信頼置けないものはありません。
ボールとバットという器具を力の媒介にし、
ピッチングバッティング共に実に複雑で非日常的動作を繰り返す以上、
そういうのを還元的に取り出してここを強化すればこうなる、
なんてのは簡単には言えないように思ったり。
強化、にも筋肉だけでなく反応する神経や関節の能力も関わってくるだろうし……
イチローが一番バカスカ撃ったのは(マークや研究がどうこう、という要素はあるにせよ)
210本撃った年で、一番痩せてたりしましたよね。
もちろんその後に文句つけるわけではなくて、そういう事実もあるなあ、
というだけですが。
カズが筋肉つけたがばっかりにその後長らくエライ目にあい続けてる事実とか、
ロナウドが怪物であること、つまり爆発的なバネで暴力的加速力を誇ること、
を止めたが故にあんなぽっちゃり体型で余裕ぶちかましながら21ゴールも挙げてみたりするのを見ると、
筋力の量と質だけが勝負の大半を決める競技
#といってもそういうのをパッと思いつかないのですが
#重量挙げとかでもそういうと選手の方が怒りそうだし……
以外は、ほんとは筋肉ってさほどクリティカルファクターでは無いように思えたり。
いや、もちろん最低これだけ必要、っていうのは絶対あるのでしょうが、
ある一線を超えると持っててもしょうがないものになる、ような感じで……
ものすごいヘンテコなたとえをしますと、
小説の面白い面白くないに文章力あんま関係ないじゃないですか(笑)
(もちろん最低あるレベル必要ですけど)
あとマンガの面白い面白くないに画力があまり関係ないように。
かなりムチャなたとえですが、この伝で行くと、絶対レベルが上下というよりも、
自分の使いこなせる武器として持ててるか持ててないかがより重要で、
それを超える筋肉があったとしても、
あるいは神経が間に合わずあるいは大脳の処理が間に合わず
あるいは骨や関節に負担をかけて怪我の元になる。
身の丈にあった力、というか、
力を手に入れるために動くのではなく、
実践の中で力を伸ばしていく、というか。
ま、スポーツ全般まるでダメな人間ですのでなんのリアリティも伴わない
妄想なのですが。
元メジャーリーガー伊良部はんが
「甲子園は世界一の球場だ」と話したそうですが、
7回裏攻撃前を見るとそうおもいます。
浜風にはやっぱり、「Take me out to the ball game」よりも、
ジェット風船がよく似合う。
ファンならずとも球場に行きたくなる、ディスイズプロ野球〜。
7/5 微笑み返し |
どなたかは忘れたのですが、木彫りの仏様を彫るのに
「木の中にいる仏様を表にお出しする」
みたいな話を聞いたことがあります。
何かを現す時に、イメージを掴んだら、
無理矢理そのイメージに合うようにこれでもかと手業を奮うのではなくて、
自然とそうなるように手を添えていく、
ような感じで……
と、言うは割と簡単行うは非常に難し。
「こうしたい」という余分な熱は我慢でなんとかなるにしても、
「これでいいのか」という疑念も湧きますし、
そもそも「それって楽しいのか」という自問自答もあります。
しかしこれは実に淡泊ながらも実に「いいきもち」で、
熱病に浮かされるようなラッシュラッシュもいいのですが、
また甲乙付けがたい良さがあります。
フレンチ・フルコースに対してごはん・お味噌汁・漬け物・お茶の朝食ただし手の込み具合はまるで同じ、
とでも表しますか。
そこそこ長年「表に」「現す」やってますので、
ごく稀にそういう瞬間があります。
勝手に成っていくのを見届けるだけ、みたいな。
そういうのって、もうまぐれまぐれでなきゃ無理だと諦めてたのですが、
どうもそうではないらしい。
心の持ちようを変えていくと、頻度が上がりそうな予感がする。
それが、冒頭に描いた感じです。
イメージにはいろんな表情があります。
つんとすましたもの、怒ってるもの、泣いているもの、叫んでいるもの、
でも、こっちを向いて微笑んでくれているものが、たいていあります。
なければどれかが微笑んでくれるのを待つか、
あるいはさらに周りをふわりふわりと見回すか。
(ぎろりとやるとびびったり強張ったり反応が出るので本来の姿から変化してしまう)
で、その笑ってくれてるのに、
こちらもにっこり微笑んで、(できるだけいい笑顔で(笑))
手を携えて、
僕の場合なら言葉に、絵描きさんなら線と色に、音楽家なら音に、
変わっていってもらう。
気持ちよく変わっていってもらうと、気持ちいい言葉に形に音に、なってくれるような気がします。
9人の女神に対して
「楽しませてやろう」なんてのは実はすごくおこがましいことで、
「一緒に踊っていただけますか?」というのが正しいんでしょうね。
もちろん女神様ですから、前者のようなデートの申し込みでもにっこり笑って、
若さと蛮勇を喜んではくださるんでしょうけれど。
ここんとこ何回か描いてますことと関連するのですが、
結局そういう優しい手業を繰り出そうとすると、
リラックスして肩の力抜いて、何が起きてるかをよくよく見て、
何をなすべきかよくよく考えて、
ゆっくりと身体を動かさねばならないように思います。
で、具体的方法としてヒントになりそうなのが、
先日述べた古武術の先生も、ヤキ=インディアンも(というかカスタネダですけど)
あるいは中嶋悟も言ってるのですが、
ある一点を凝視するのではなくて、意識を拡散して全体を見る、
みたいな感覚、
が必要なように思います。
「ぼんやり見る」と表現されるのですが、
それは散漫な注意力、ではなくて、全体を全体として捉える能力、といいますか。
上手く言えないんですけど
身体中全身どこでもが一パーツのような、
一パーツどこでもが全身のような。
ああもどかしい。
もちろん言うまでもないことですが僕がそういうのできる、ってわけじゃないですよ。
レインボーマンじゃないんだから。
そうじゃないのかなあ、って思うだけで、
で、それっぽい意識を持って生活していれば、
そういうこともできるようになってくるような気がするんです。
意識行動のオートマチック化とそれに伴う現実感覚の希薄化、
若者向けに言えば「生きている実感」の低下は、各界多くの方が指摘されてます。
極端に言えば戦争状態では自殺者が激減する例のように、
オート化を回避する具体的方策は、
「オートではどうにもならない偶発的な出来事が起きる(起こす)」
ことだと思いますが、
欲望にせよ宗教にせよ生きがいにせよ、それはそれで毒をもって毒、みたいなヤバさもあります。
現に僕ならもの書くのが生きがいで、事実「当たる」とこの上ない多幸感、
法悦のようなものを手にしますが、逆にそういう経験をしている以上、
「外れ」てる時の苦しさといったらない。
決定打にはならないんです。
ならば逃げるのではなく、オートorマニュアルを自在にコントロールできるようになったら?
極端なことを言うと、
何の変哲もない水道水を一杯飲んだだけで、涙をボロボロこぼすような状態に
自分でスイッチングできるのではないかと。
それがいいか悪いか、あるいは果たしてそれが「解決策」
―馴染みの単語使うと宗教色濃くなるので控えます―
になるのかどうか、はわかりませんが、
とりあえず「おもしろそうだ」とは思います。
で、その具体的なスイッチング・メソッドの一つに、
この、「全体で感じる感じ方」と、それから導かれる、
「微笑むものへ手を添える」やり方、があるのではないのではあるのでは、とかとかとか。
そのためにはやはり集中力が必要で、
物事に丁寧に当たっていく、という至極当然の行いがどベースになるのでしょう。
おそらくほとんどの宗教に「真言」があり、
「アヴェ・マリア」であったり「南無阿弥陀仏」であったり「ラーマラーマラーマ」であったりするのですが、
それもスイッチの一つ、緊張状態に置かれた時にその言葉を口に出すことによって同時に、
ゆるやかな心でひとつひとつに丁寧に当たる、その姿勢を思い出す、
のが一番の効能であって、決してそれで神さんが帰ってきたウルトラマンみたいに
降ってきてくれるわけでもなんでもない。
だから言葉自体はなんでもよくて、「ナカヤマ・タイチョウ・ゴンゴール」でもいいんですきっと。
自分自身を「自我」としてではなく、自然の構成要素の一つ、と捉えることは
(「自我」の対義語として)非常に神的な態度であり、
可愛く言えば「自分の中にいる神様(相当品)を引っ張り出す」という姿勢そのものです。
真言はそれを導く非常に簡単でかつ効果的なメソッドで、
さすが昔の人は賢い。
聖書曰く「はじめに言葉ありき」。
そこをスイッチにして全てが始まる……というのはさすがにうがちすぎですか。
太古より言葉を扱う人間はその具体的労働のゆるゆるさ加減に反比例して
非常に畏敬されたわけですが、
そのベースにはこうした「スイッチ製造業」としてのプラスポイントが載ってるのかもしれません。
もちろん絵も音もスイッチなのですが、
言葉はモバイルに最適でしかも誰にでも完全コピーが取れる。
そう考えるとある程度文脈の必要なペーパーバック・ライターより、
詩人の方が格式が高いのはしょうがないところですね。
とりあえず「今この瞬間を生きる」というのは難しくもなんともなく、
こうして必死こいて丁寧に物事に当たっていると、
過去も未来も不安も欲望も沸いてくる暇なんかゼロ。
結果として、一瞬一瞬をめいっぱい生きてるわけです。
今ここに大自然の一部として参加できてるだけで、何と素晴らしいことだろう……
そんな「無我」「無私」の心映えに常にあればこんなに素晴らしいことはありませんが、
どっこい人間はどこまで行っても人間で、
腹が減り眠くなりエロゲが欲しくなり、
無視され徹夜が効かなくなり歯が痛くもうすぐ死ぬというのにまだ何もしていない。
まるでサーモスタットのように、知らない間にそっち側にスイッチが切り替わってる。
だものでまあ、
こだわらない程度に(こだわらなくなる方法にこだわる、のは皮肉です)
スイッチ入れる方法を自分なりにいろいろと考え、
実践していく他はないかなあ、と思います。
また、人間の趣味趣向の幅たるや常に小説より奇なりですから、
既製品完コピーでは既製服のようなもので大抵ぴったりフィットとはいきません。
(その代わりどこでも安価に手に入りアフターサポートがついてくる(笑))
また、時間とともに成長変化するわけですし、
結局そこのところで頭使わないとダメ、なようです。
かくいう僕も白状しますと、真言の話を聞き「それはいい」と軽く実践してみたのですが、
「ラーマ」
と言うたびにマーガリンが思い浮かび、
「南無阿弥陀仏」
と言うたびに中条きよしの背中が思い浮かんでいかんともしがたい。
無宗教国日本のほんの少し切ない一面です。
何事も簡単な道はありませんね。
肩の力の入り抜きは別にして、
熱情が集中するか拡散するかは別にして、
スイッチどっち側かは別にして、
真剣に取り組まなきゃダメ。
でも真剣さ、っていうのは凝縮方向なので、
こっちばっかり意識しすぎると、リラックスが減っていく。
これを両立させるのは理屈ではなくて身体で覚えるしかない……
その時の目安になるのが、
微笑み見つけて微笑み返せる、
そのバランスのいい心の持ち方、かもしれません。
優しくすることまではコスト高すぎて難しくても、
少なくともチェックには使える。
心と身体は密接ですから、無理に微笑むのも存外効果的なのかも。
ということで必殺「微笑み返し」を覚えたい、最近です。
7/4 幸一 |
「すわ今度のルパンはそんなメロドラマ展開なのかまたパンチ先生がお怒りに」
とは私の慌てふためき損であり、
幸一とはとっつぁんの名ではなく元日本代表DF「闘将」柱谷哲二の兄、
モンテディオ監督の方である。
私は幸か不幸か「悲劇」
(形容詞をつけない「悲劇」とはドーハのそれを指す)
あたりからしかサッカーを見ておらず、
若かりし頃、FW幸一が瓜二つの弟DF哲二と代表でコンビを組み、
変幻自在なポジションチェンジで敵と味方を混乱に陥れ、
秘技スカイラブバリケードで敵陣味方陣をズタズタに切り裂いた事実は知るよしもない。
名選手であったようだ。
もちろん若きオランダのデ・ブール夫妻がこの東洋の神秘兄弟をモデルに双子を生産、
無事オランダ代表にまで育て上げた事実は世界中のサッカーファンの知るところである。
ちなみに兄、フランク・デ・ブールは全盛時はその攻撃的ディフェンスと
正確無比のフィードでオランダ代表を支える世界最高のセンターバックであったが、
近年衰えるスピードを意識しない典雅なプレースタイルで違うベクトルから
世界中を魅了、このジャンルを世に拓いたイヴァン・カンポと共に
「DFファンタジスタ世界一」
の称号を争うまでに成長した。
移籍市場開幕と同時にカンポ擁するボルトン・ワンダラーズがバルサを放り出される
フランクを取る、という噂が流れ、かつ、
結局はペテン師に負けた友人の会長選挙の援護にと、
愛し麗しのロビーの居るブレッシアを出てバルサに帰った
漢グアルディオラまでをもその前に配置するという話が出て、
夢のファンタジック・トライアングル実現か、と世界中が狂喜乱舞した。
どうせ弱小ワンダラーズ、プレミアシップは元よりFAカップですら獲るなどというのは夢のまた夢、
ならば話題と笑いで世界に貢献するしかないと思い詰めた結果かと
ワクワクが止まらない毎日を過ごしてみたが、
しかしそれは移籍市場によくある妄想がらみの風説に過ぎず、結局カンポですら
スペインへと帰っていった。
いちおー念のため申し上げるとバカになどしていない。
それも一つのプロとしてのスタイル、センス、テクニックである。
例えばイエロの遅さや秋田のボーンヘッドに、そのような狂おしいまでの愛嬌はない。
そう、誰もがファンタジスタになれるわけではないのだ。
話が逸れた。
モンテディオはこのJ2中盤になって8試合負けなしと調子を上げてきている。
監督の手腕がようやく実を結びつつあり、
サンフレッチェはともあれ強豪アビスパやコンサドーレにエンジンがかかりきらない
今、下手をするとあるいはまた万が一昇格もありうる。
そんな時、チームをそこまでにした監督を切る、
というのはよほどドロドロと汚らしく穢らわしく実に青少年の育成に
悪影響を及ぼすような不倫模様なのだろう、と想像してニュースを読み進めると、
問題の相手はNHK山形の古瀬絵理アナウンサーだという。
「それは、しょうがない」
少し前からネットで旋風を巻き起こしていた彼女の画像は皆様にぐぐっていただくとして、
御覧になればわかるとおり「それは一体何の冗談ですか」という
魔乳
の持ち主である。
ご当人出身地の特産品にも比し「スイカップ」などと激賞されるその大いなる自然の胸囲を
朝の5時台から見せつけられては、
お父さん達は仕事にならず少年達は学校にならないだろう。
もちろん幸一だって監督にならない。
萌え心エロ魂が掻き立てられるられない以前の問題として、
「この物体は一体何か?」
という真理追求自然探求の心、つまり好奇心が沸いてくるのはもはや
男というよりも人間の心理人類の欲求、
これを否定するには相当の理性の作用が必要である。
いや、好奇心は理性と密接に結びついているものであるから、
理性を働かせれば働かせるほど好奇心も盛り上がるというマッチポンプが劇的に作動する。
とどのつまりはこの魔物から逃れることは不可避であり、
まさに「乳との遭遇」である。
書いてて「あ、これはちょっとボーダー切ってる」と思ったがまあ語呂合わせの上乗せ分で
甘く見てやって欲しい。
それはともかくかような神秘が己の近くに存在すれば、誰しも、
特に知性と理性を働かせる職業に就く人間であればなおさらに、
探求への欲求は止められまい。
昇格を目指す幸一としてはどんな知識体験でも吸えるものには
吸いつきたいであろうから、
これはもう不可抗力、自然災害の類である。
職務に忠実であるが故にその職を追われる、
それは史上枚挙に暇のない「いつものこと」とはいえ、
あまりに虚しくあまりに哀しい結末であろう。
しかしながら、しかしながら日本の社会には「建前」という怪物が未だ潜んでおり、
この建前の前には時にどのような実績も結果も理念も愛情すらも通じないことが多い。
かの怪物に対する配慮を欠いた、という一点は責められても致し方ない。
今にして振り返れば「よく頑張った」としか言いようがない戦いぶりをしたにもかかわらず、
偏狭で卑屈なサッカーマスコミにボロカスに叩きまくられ、その雪辱を期する天王寺高校出身
我らが”岡ちゃん”が心血注いで作りあげた汗と努力の好チームがある。
道産子の星、コンサドーレ札幌である。
岡ちゃんに率いられ悲願のJ1復帰を遂げたこの可憐なチームを昨年、
惚れ惚れするような史上最速ペースでJ2に叩き落とした監督がいた。
弟、哲二である。
血統的に向いてないのかもしれない。
7/3 稽古法 |
でも、そういう「当たってる日」の翌日って筆が進まないんですよ。
ごく軽い燃え尽き状態、かな?
古武術の研究家の方が、
「稽古というのはノリにノってくる最高潮の手前で止めておかないと、
翌日その後に情熱が持続しない」
とおっしゃってました。
これ(ほえなが)というのは僕にとっては稽古みたいな側面も多分にあるので、
ああ、なるほどと膝を打ちました。
稽古、というとできうるのならば倒れるまでやるものでは、と
ジャンプ黄金期世代の我々は思うのですが、
やはり合目的性合理性は持たなければダメっぽい。
筋肉量や酸素供給能力のトレーニングで、
一旦負荷を止めて再開すると「超回復」を起こして
許容力そのものが上がっていく、というやり方がありますが、
それはどんなものにも当てはまるようです。
大体にしてからが聖書でさえ
「神さんは7日目に休まれた」
とわざわざ休んでることを記述してるわけで、
休息「も」トレーニングになるわけですね。
無論強負荷訓練を連続してやることで「ど根性」や「自信」といった
精神的スペックが上がることは上がるのですが、
これまた水物といいますか、訓練だけで得た根性や自信は
割と簡単に崩壊したりするものです。試合で。
じゃなきゃダメですしね。
負けてるのに俺強い強いって言ってるとそれはちょっと……
まあ、幸せそうではありますが。
「書く」ということも身体を使う技芸である以上、
科学的具体的なトレーニング、「稽古」方法があるはずですが、
これこそ非常に個人個人に依存するものなので、
実はその稽古方法自体も自分で開発していかねばならないようです。
もともとそういうのは嫌いではないのでチマチマ考えています。
というか、どうも稽古そのものよりも稽古方法を考える方が好き、
という変な癖があるらしく、そういえば大学受験の時も受験勉強そっちのけで
「いかに効率よく受験勉強を進めるか」
というところに凝った記憶があります。
もちろん現実逃避がかなりのパーセンテージ占めるんですけど、
それ以上にそういうのが好きっぽいですね。
#基本反復練習が泣き出すほど嫌いで
#(効能を認めてないわけではないです。それがフィットする人は多いです)
#日本の学校教育というのは基本的にそれなので、
#そこから逃れたいがために無い知恵絞った側面もあります。
##というか日本人はアレがやたらめったら好きですね。なんでなんでしょうね。
##「努力」という一つの物差しだけで計りたいのかな?
##それって公平なようで鼻水出るほど不公平なんですけどね。
そういうのがしっかり体系化・具現化・言葉化できれば
普遍することもできるような気もしなくはないのですが、
例えそこそこのものが出来たとしても、
Web上のお絵描き講座あるいはマール社の「やさしい人物画」以上の意味はなく、
「結局頑張るのは俺かい!」
というのは変わりないんですけど(笑)
それでも、
「いかに書くべきか」
ということを考えることには書くこと自体にも良い影響を与えると思っています。
正岡子規が
「シブ柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺隊」
という名句を残したのは彼が独自の歌論をこねくりまわし
「写生」というコンセプトをひねりだし、それに乗っ取って作句したわけで、
あんな感じで、軸になるコンセプトをいくつか、
いや一つでもいいんですけど、
いや一つの方がいいのか、
見つけられたらなあ、とボンヤリ思っています。
7/2 9500円 |
まあ、ダメなところはいつまでもダメでしょうが、
辛い時期乗り越えてガンガン儲けだしてる企業もたくさんあるようだし、
明るい兆しですね。
1万円超えるとみんなが「お?」と思って社会全体のマインドが変わってくるでしょうから、
さらに明るくなってくるかもしれません。
環境問題も高齢化社会も、言ってみれば「変化」であり、
社会が動く以上はビジネスチャンスが存在するはずです。
2サイクルエンジン売れません、それは4サイクルエンジンに買い換えるってことじゃないんですか?
まあバブル期みたいな無茶はもうできないでしょうけれど、
少しずつ少しずつ良い方向に向かう、というのはできるように思います。
ただし楽観は禁物で、道路公団みたいな
どうしようもない負の資産が社会の奥深くで巨神兵のように半腐りで放置されてます。
今日友人と話したら、名古屋の彼の家の近くでは
リニアの線路が鬼のような勢いで延びているらしいです。
何がなんでも既成事実先行させてやろう、みたいな古い人達の悪臭がしますね。
また水道管メーターで談合が発覚したじゃないですか。
だから、もう、そういうのは、やめましょうよ、と。
もっと罰則規定厳しくていいと思いますよ。
2,3社お取りつぶしでいいんじゃないですか?
社会システムに対する挑戦はそれすなわちテロなので、少なくとも実刑刑事罰を科すべきではないでしょうか。
どこかが立ち上がればどこかが凹むのはしょうがないことで、
「蒸気機関車の釜炊き機関士を守れ」
みたいな話をすれば子供でもそれがどんなに愚かなことかわかります。
同じことで、もう(新しい)道路と鉄道は要らん。
別のどこかで、そのお金が必要な何かがある。
それだけのことです。
誰も使うななどと言ってるわけではなく、(使いすぎはもちろんダメですが)
使い甲斐のあるところへ使って欲しいだけです。
純一郎・平蔵コンビは小さくガッツポーズでしょうか。
株価落ち込み平蔵が叩かれまくってた頃、記者会見か何かで
「冷笑ばかりで建設的な批判意見はほとんどない」
みたいなことを言ってました。
今の日本ではどこでも見られる実にくだらない光景で、
それに負けなかったのは素直に偉いと思います。
ただ頑固なだけかもしれませんが、ま、政治の世界こそなによりも結果オーライな世界なので。
何かの改革を行う時に一番大切なのは、
多少の不足や瑕疵があってもそれをやり遂げることで、
途中で放棄するというのがなによりも良くない。
当たり前のことですが、この当たり前を人はなかなかやりきれないですね。
7/1 「Meets」 |
少し前の「Meets」は、確かに歯ごたえガチンガチン、
もの凄い噛みごたえの雑誌ではあったが、
こんなに頭が痛くなるような情報の詰め込み方はしてなかったように思う。
昔は本当に「知る人ぞ知る」モノを徹底的に自分の足と目で丁寧に拾い集めるイメージがあったが、
今は「ちょい年かさ向け関西一週間」という印象が拭えない。
情報、というものは取捨選択まで含めて価値があるものであって、
玉石混淆でただ掻き集めればいいというものではない。
少量でも玉だけが並べば、それは素晴らしい価値があり、
どんなに大量でも玉と石との区別がさほど明確にされていなければ、それは電話帳である。
ならば「関西一週間」「なんとかウォーカー」あたりの方が
デートならデート、タイアップならタイアップと筋と企画を通している分、
こちらのスタンスも取りやすい。
しかしハタと気づいた。
この「Meets」を買ったのはコンビニである。
昔、この雑誌はそんなところで簡単に買える雑誌ではなかった。
要するに売れているのである。
どちらがニワトリでどちらがタマゴなのか、それは知らない。
ただ、売れてはいる。
つまり、誰にも文句はつけられない。
例え読者にも、という妙ちきりんなアイロニーを付け加えても、あながちただの言葉遊びではない。
アウトドア雑誌、というと誰もが思い浮かべるのは「BE-PAL」であるが、
あれも創刊当初を知るもの皆が「昔は良かった」とホロリと零す。
より多くに受け入れられていくためには売らなければならない魂があるのだろうか。
それというのは「雑誌作り」の本望から外れる矛盾でしかないと思うのは、
あまりにも青臭い感覚だろうか。
それとも「いや大丈夫、根幹は忘れないから」と胸を張られてしまうのだろうか。
しかし、そう言って、魂は愚かそう言ったこと自体すら忘れていった人々をたくさん見ているような気がする。
気がする、というのは、そういう人を私も忘れるからだ。
ただ。
京阪神エルマガジン社といえば老舗のタウン情報誌屋(「エルマガジン」発行)
であり、その丁寧な作りと濃い内容は粗製乱造雑誌の多い中
「よくできている」と太鼓判を押せるにもかかわらず、
営業力とマーケティング力、つまりは雑誌作りの本道とは割とズレた部分の力で
圧倒的に優る「ぴあ」に当初から押しこまれ、遙か後からカネ目当てに乗り込んで来た
「ウォーカー」と「一週間」に追い立てまくられ、今や往年の勢い見る影もない。
そんな彼らにしてみれば「Meets」片手の20代後半が
「まだKansaiWalkerなんか見てんの? 子供っぽ〜」
などと言ってくれたりするのは
20年に及ぶ臥薪嘗胆が結実した鮮やかな復讐劇完遂の瞬間であり、
もし私が全てを見てきている古株編集者であったとするなら
コンビニのカップ麺の棚の影で右の拳を握りしめ瞼をしばたたかせるであろう。
現にWebのトップページは社名を戴く「エルマガジン」ではなく「Meets」が彩っており、(7/2現在)
彼らの意気込みと気持ちが、伝わってくる。
ただしかし、売れる、という未曾有の事態にはしゃぐ気持ちは痛々しいほどよくわかるが、
根幹にある、「足で稼いだ自分でいいと思うものを紹介したい」気持ち、はどうか忘れないでいただきたい。
何冊かのガイド本にいつもお世話になってるだけに、強くそう思います。