ノリにノってる今月末は、サーヴィスでもう一本よ?
……もう身体が持たなくなってきてんですけど……
TARO先生の人生を賭けたキャッチフレーズは皆様ご存じの
「芸術は爆発だ!」です。
いいコピーですよね。これ自体がもう芸術。
それはもう間違いないのですが、しかし私思いますに、
爆発だけではないような。
大いなる感動、至高体験、素晴らしい経験には、2種類あります。
高揚と静謐。
全能感とでもいうべき、己が神になったかのような感覚の中で感じる
圧倒的な意味爆発、噴き上がるような身体の内奥からの衝動。
意志の力、力への意志。
まさに「超人」状態の高揚体験は、文字通り「爆発」のように思われます。
しかし逆に、大自然、もっと言えば大いなる宇宙に包み込まれ、
それと一体化するような、溶け込むような安らぎ、幸福感、
静かに満たされる感覚、「すべてはだいじょうぶ」と「わかる」あの安心感。
こちらは、「爆発」と評するよりも、「溶融」あるいは「浸透」とでも
言い換えた方がよいでしょうか。
これも、ある。
ま、簡単に言えば、感動には
「うおおおおおおおお!」てのと
「ああ……いいなあ……」てのがありますな、と。
最初からそう言え。
で、芸術というものが人から感動を引っ張り出すものであるならば、
このどちらを引き起こすものも、芸術と呼んで差し支えない、と思います。
TARO先生が叩ッ斬ってた、たとえば工業製品や広告宣伝店舗設計の
「小綺麗な」デザイン、いや、「よくできた」集団制作物である映画やアニメ、
もっと極端に突き詰めれば円山応挙の「職人」芸。
そう、職人芸、も、もちろん芸術だ、と思うんです。
今月のJAFメイトの特集が、各地の伝統工芸品で、
塗りに鉄瓶に曲げわっぱに……
どれもこれも「今すぐくれ!」と叫びたくなるヨダレ・グッズですよ。
これを感動と言わずに何といいますか。
であるならば、
これを芸術と言わずに何といいますか。
TARO先生ずっこいのは自分ではそういう、
「ああ……いいなあ……」てなものをちゃんと創ってるところで、
ご自分のお墓。
一平さんかの子さんの間にあるご自身の墓の墓石は、
子供がうつ伏せになって両肘ついて笑ってるものなんです。
めちゃめちゃエエ感じですよ。
こんなもん爆発なわけないじゃないですか。
「上手くあってはいけない」「綺麗であってはいけない」「心地よくあってはいけない」
若き頃に轟然と言い放った芸術の三原則、
自分で全部ブッチですよ。
それも人生最後の最後を飾る一品で。
責めてるわけではなくて、もし今もいらっしゃったら、
「『爆発』もですけど、もう一つの軸もあるんじゃないでしょうか先生」
と問うてみたかった、です。
そうするとまたあのお得意のポーズで、
「ムッ!?」と吠えて考えてくださったかもしれない。
「これも爆発」とか言われちゃうかもしれないけど。
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人間、というシステムは、部分が全体を内包するフラクタル構造の一階層です。
社会の中のパーツであり、細胞の総体です。
爆発、高揚、全能感というのは、この構造自体を、
いける精一杯上から、あるいはひょっとすると一次元上から、
眺めた時に起きるものかもしれません。
「私はすべてを把握している」。
逆に静謐、安らぎ、溶融感、は、いける精一杯下から、
あるいはひょっとすると一次元下から、眺めた時に起きる。
「私はすべてに繋がっている」。
この視点の揺らぎ、切り替え、動き、
言い換えれば世界観の転換、価値観の転換は、
ここのところずっと言ってますように、
眼前の問題や障害を、解決もしくは無問題化してくれるのに非常に役立ちます。
だから、それを引き起こす芸術は、とても尊いのです。
そして、それを引き起こさない、
いや、引き起こせるかどうかは受け手にもよるので結果からは一概には言えませんが、
少なくとも、引き起こすつもりのない、ものは、
どんなに上手かろうとどんなに綺麗であろうとどんなに心地よかろうと、
もちろん逆に、
どんなにヘタだろうとどんなに醜悪であろうとどんなに人を不安にさせようと、
芸術でもなんでもないのです。
ガラクタ。
テクニックは要りません完成度は要りません人にどう思われるか考える必要もありません。
ただ、「変化」への強い意志は必要なのだろう、と思います。
ほんとうは、ここ「進化」と言うとスマートなんですけど、
人間としての個体は、種が辿ってきた進化をまた飽きもせず最初からなぞり直します。
食いたい・安全でありたい・モテたい・帰属したい・そしてようやく、自己実現。
で、どの段階でも強烈な意志があれば、そこに芸術が生まれうる、のでしょう。
そういう意味では、その人にとっては、進化、と言い切ってもいいかもしれません。
しかし、いつであれ、たとえ食うためでもモテたいためでも売れたいためでも、
常に白い紙をキャンパスを前に、あるいはたたずむ楽器を手にする時、
いつの間にか、その意志は、
「美しさ」への渇望
へと変わっているはずです。
そしてその望みを背に、描き出されたもの、それが、その人のその時の腕や力や
気迫、それらすべて、つまりその人そのものを「表現」する、
それが、芸術と呼ばれるのです。
ここの変換が起きず、「上手く見られたい」「世間を驚かせたい」「こう作っておかなきゃ」etc……
そのままで作られたものなど、芸術とは呼ばれません。
そしてこれは、いつでも、毎回、誰にでも等しく起きる試練です。
その試練乗り越えれば、それはなんであろうと、芸術。
だから、駆け出し作家のペーパーバックにも芸術があれば、
なんとか芸術アカデミーの終身会員の大家の大作にもガラクタがあるのです。
3/27のとおり、人間は、
「質量互換の法則があるかぎり、
視点を変えつついろいろやってりゃなんだってできる」
と、思います。
ただ、どうも引っかかってる一点があって、
「じゃどうして誰でも彼でもがそうではないのか?」。
そう、たった一つ、前提条件として必要なものがあります。
それがこの、進化への意志、向上への意志。
その意志の強さ自体はさほど強くなくてもいいのでしょうが
(もちろん強い方がいいでしょうが)
とにかくこれがないと、始まらない。
南の島には文明が発達しないんです。
もう、いいから。満たされているから。
しかしまたそれもニワトリタマゴであって、
届かない思いは持ちたくない、あるいは忘れる、
それも人間の大切な機能です。
「そんなこと言うけどああはなれないもの。だから上なんか向かない」
それは正しい。
でも、だとすると、「ああなれる」としたら、上を向かざるを、得ない。
だから人は、辛く苦しく悩ましくとも、
「ああなれる」という確信、を持とうとしなければならないでしょうし、
また、持てるまでは、七転び八起きでがんばるしかない、と思います。
(ここはループしちゃうんですけど、身体的なタイム・パワー・サイズのスケールを考えると、
質的転換の方法論自体には質的転換は必要ないと「思われる」)
芸術家が尊いのは、自分自身を含めた人間に対して、
「世界観は変わりうる」
ことを、作品を通じ発信し続けてくれるから。
作品に触れた時の感動、爆発でも溶融でも、その感覚は、
意識と視点をシェイクします。
今も昔も、ものすごいコストを、犬の餌にもならない芸術家達に投げ与え続けていることが、
人々が無意識にもそれを欲し続けている証拠だと思います。
そして欲するところには、いつかそれが満たされる。
それこそが人間の革……
とはいかないのが人の世のおもしろいところで、
100年持たずに人は死に、世代が変わる。
ニューカマーはまたゼロからやらなきゃダメなんですね。
しかし、人間には文字を始め「情報を蓄積する」という能力があります。
奴隷制度はもうありませんし暴君もほとんどいません。
テロは起きますが核戦争はまあもう無いでしょう。
100%コタツ蜜柑でハリウッドです。
そう、「コタツ蜜柑でハリウッド」を実現するのにどれほどの人間的エネルギーが
(物理的エネルギーもですが)時間軸まで含めてつっこまれてるか考えると、
どれほど恐ろしいことを、そしてどれほど素晴らしいことを、
我々は何一つ考えずに成し遂げているか。
同じことが、精神や心にも、起きていく可能性は、
極めて高そうに思えちゃうのですが、いかが?
文明が4000年だとすると、一世代30年としてたった130サイクル程度で、
頭脳の方は月へ行って帰ってきました。
ハートの方も、それぐらいのことができるようになるのに、
そうたくさんのサイクルは必要ないような気がします。
(進化が速い、ということはクラッシュも速い、ということでもありそうな気もするのですが、
まあそこは人間を信じて目をつぶろう(笑)
どっちにしてもクラッシュすりゃお終いなんだから、考えるだけ無駄ですね)
と、いうことで人類の未来は明るい。
そして、なにか創ってる連中は、
その証を見せつけ続けなければならないのです。
それが彼らの(僕もか)存在意義、存在証明。
アリがキリギリスを見捨てる原作は、創作家のよく陥る自虐趣味でしかありません。
それを誰かが、招き入れる結末に描き直した。
多様性を確保しお互いに無いものを尊重し合う。
あるべき姿だと思います。
ま、甘やかすこた、ないですけど。
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何度も同じこと聞いて辟易されてるかもしれませんが、また。
個人的には、野球のピッチャーで言うと、今まで一生懸命
持ち球の精度、威力、配球、新球種開発、牽制技術からフィールディング、
そんなことを追求してきたんです。悩み抜き苦しみ抜いてもがきながら。
理想の投球術、理想の投手像を追い求めて。
ちがった。
それはまあ、もういいんです。
いや、大事なんですけど、それより遙かに大事なことを、
おろそかにするほどのものではない。
その大事なこととは、もうお分かりのとおり、
「勝利への意志」。
理想のボール、理想の投手、そんなものはどこにもない。
勝つ投手が理想の投手、空振りを奪ったボールが理想のボール。
その場面その瞬間で、最高の結果が出るであろうと自らの思う、
自分の最高のボールを叩きつける。
そしてそのあとは、知ったこっちゃないんです。
だってもう、それ以上なにもできないもの。
結果が出なかったら、また、鍛え直すだけです。
そしてその姿勢その戦い方は、
やってみればこれほど清々しいものはなく、
身も心もすっからかんになって立ち向かうとっても楽しい戦いで、
実に久しぶりに、ためらいなく「ああ、書くって楽しい」と思えました。
ちょっと前なら、そう思ってはいても、どこかに引っかかりがあったものです。
もっといい表現があるのでは、もっといい構成があるのでは。
違う。
その時、身体にまかせて描き出したもの、
全身でそれ以上はないと選択したものなのだから、それが最高の表現です。
その時点の自分にとっての。
なんといわれたって、もう開き直るしかない。
ありもしない「理想の〜」の影に脅える必要など、ないのです。
「どう思われるかわからないけど、俺はとてもいいと思う」
それを積み重ねるしか、僕に、いや我々にできることはない。
と、思います。各々のレベル、シチュエーションにおいて。
「なにを書いていいかわからなくなる」
「どう描いていいか壁にぶつかる」
ならば、大昔、楽しそうに駄文を打ち、落書きをしていたあの頃に
戻ってみるとよいと思います。
自分のイメージが、白い紙に具現化されていく喜び……
それはいつだって同じです。
だったら、マンネリだろうと、逆に誰が見るんだこんなの、と思うようなものであっても、
それを、思いっきり、やるのが一番です。
技術の進歩の無さにガックリくる?
いーじゃないですかもう諦めれば。
どう考えてもくそどヘタな名作は、どの芸術にも山のようにあります。
手塚治虫先生は死ぬまで「絵が下手だ」というコンプレックスに苛まれてたそうですよ。
んなことまるでどうでもいいことなのに。
イメージが前と同じ?
ホントにそう?ホントにそうですか?
人は毎日変化しますよ。体調だって変わる。毎日、同じものを美味しいとは思わない。
同じカレーを作っても、同じ味、同じ「美味さ」には仕上がらない。
同じモチーフを描いても、まるで違ったものになるかもしれない。
心が躍らない?
じゃあ、休みましょう。
そりゃもうしょうがないですよ、そういう時期じゃないんです。
無理するより、また、ピンと来る何かを、全然別のところで見つけるまで、我慢する。
それは決して無駄な時間じゃなくて、ためてためてためて跳んだ方が、
高く跳べるというものです。
ドストエフスキーを史上最高の作家たらしめてるのは、たった4本の作品です。
いや、あのうちの1本だけで充分世界史に残る。
あれほど多作で粒ぞろいの、夏目漱石の実働年数はたった12年。
いつからでも、間に合います。
……と、思い切り、
「よ〜し、もうぐちゃぐちゃ悩むのはやめだ!
俺の最高のボール、打てるもんなら打ってみやがれ!」
と投げてみると、ジャカスカ打たれました(号泣)
そこで初めて、明らかになるんです。
「うひょ〜、力ねえ〜」
理想などという空想があると、
「いや、俺はこういう理想の途中だから(打たれてもしょうがない)」
「理想の俺が出れば、誰にも負けはしない」
とか、なんの意味もないこと思って誤魔化しちゃうんですね。
そんなの嘘で、だってその時点ではそれだけの力しかないもの。
しかし、そこから、
自分の力わかって、で、はじめて、
「じゃあどこに何を投げたらよかんべ」「何が足りない、おいらには?」
「や、やつの弱点はどこだべさ!?」「いやまて、このボールは結構効いてたぞ?」
とか、いろいろ考えること、やることがハッキリしてくるんですね。
そしてあまりに膨大なやるべきリストに呆然とする(笑)
ただ、得体も知れない正解かどうか誰もわからない、茫漠たる「理想」に向かう、
などよりははるかに効率良く、間違いのない道だと思います。
これを【中級者の憂鬱】と名付けましょう。
なにをしていいか見失うところから、
開き直る瞬間、
そして膨大なやるべきリストをこなしていくところまで。
#さ、さすがに僕もう中級って言って差し支えないですよね!? ね!?
実は、ここを乗り越えきれない人は、プロでもものすごく多い。
「あの人結構良かったのに、どうしていなくなったんだろ」
って場合、ほとんどこれだと思います。
特にインパクト優先、味の濃いもの描いてたタイプは、
あっと言う間に行き詰まる。
(いや、僕もそっち側ですので)
周りからは順調に見えてても、
当人的に同じこと(よくて微増)の繰り返しに感じられてきて、
すごい窒息感があるんです。
自分の話で恐縮ですが、「ミラクルズ!」ってもう、大マンネリもいいとこなんです。
ヒロインに事件が起きて、それを大ちゃん絡みで解決して、
試合でピンチになって、ヒロインが大活躍して大団円。
「こればっかりでいいのか!?」って悩むわけです。
でも、マンネリは筋書きだけで、それ以外でバリエーションなんかいくらでもつけられるし、
違った面白さを持たせることも全然できる。
そんなことで悩む必要なんかゼロ。
だってそんなこと言い出したら、
「水戸黄門」も「暴れん坊将軍」も新喜劇もこの世に存在しませんよ。
でも、毎週見ても面白いわけです。
問題は、「面白いかどうか」ただ一点であって、
「マンネリかどうか」なんてほんとどうでもいいことです。
(驚きが減るから、ちょっと不利にはなりますけどね。
でも逆に、安心感で「期待された盛り上がりがそこに現れる」という大衆演劇的
双方向性=「待ってました!」を手に入れると強引に言えなくもない)
そうやって視点変わってみれば、
「なにをしていいか」なんて言ってる場合ではなく、
やらなあかんことややってみたいことで世界が埋まっており、
別の悲鳴が上がります。
これを一通りこなし、思ったものを思ったとおり、まるで誰も見たことのないような
イメージで表現しきれる、そんな「上級者」になれるのは一体いつのことやら……
皆目見当もメドもつきません。
でも、しばらくはその方がいいのかもしれませんね。
そうやって自由自在にイメージを新しい姿で定着していけるようになったら……
どうなるんだろ?(笑)
ただ楽しさと美しさだけがあるパラダイスなんでしょうか。
ちょっと想像もつきません。
今からビビってもしょうがないのですが。
己の思う美を、己のできるだけで表現する。
それが、我々が毎日、やってゆくことです。
それだけが。
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【これからの目標・メモ】
さて、今月言ってきましたとおり、
自分の精神(肉体)に質的変化をもたらすには、
「視点変更・世界観/価値観の転換」
が非常に大切だと思うわけですが、
じゃどうやったらそれがより効率よくなされるか。
その手法を、小さいのから大きいのまで、物理的なものから心構えまで、
コツコツ集めていきたいと思います。
繰り返しになりますが、この「価値観の転換をもたらすための価値観の転換」までは
必要ないように思われるのです。(もちろん、あって悪いものではない)
そこにこだわりすぎると、プログラミングツールに凝り倒すようなもので、
ゲームで使う絵を一枚800*600で切り出せばいいだけなのに、
Photoshop(目的よりはるかに高機能で複雑なツール)作っちゃうようなことになる。
そして、こういうものって非常に個人的なもので、誰に効くから誰にも効く、
ってわけでもない。
でも、ま、ヒントにはなる、だろうし。
もしジャンル問わず創作家、いや、頭脳労働全般の方で、いや、
発想法という観点でいえば別に人間であれば誰でも同じ、
(ネコの方に「サンマをしっぽから食べるといいアイデアが」
と言われてもちょと困るのですが)
「私はこんなときこうしてるけど」
なんてのがありましたら、ぜひお教えいただきたく。
またディスカスしましょ〜。
「あの人は実際ああしてる」というのが、なにより説得力ありますからね。
いずれまとめて本にできたりするといいなあ、などと夢見ています。
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