吼える! ながたさん!

おもいつくままに、随想随筆。

3/31 なぜ芸術が存在するのか

ノリにノってる今月末は、サーヴィスでもう一本よ?
……もう身体が持たなくなってきてんですけど……


TARO先生の人生を賭けたキャッチフレーズは皆様ご存じの
「芸術は爆発だ!」です。
いいコピーですよね。これ自体がもう芸術。
それはもう間違いないのですが、しかし私思いますに、
爆発だけではないような。

大いなる感動、至高体験、素晴らしい経験には、2種類あります。
高揚と静謐。
全能感とでもいうべき、己が神になったかのような感覚の中で感じる
圧倒的な意味爆発、噴き上がるような身体の内奥からの衝動。
意志の力、力への意志。
まさに「超人」状態の高揚体験は、文字通り「爆発」のように思われます。
しかし逆に、大自然、もっと言えば大いなる宇宙に包み込まれ、
それと一体化するような、溶け込むような安らぎ、幸福感、
静かに満たされる感覚、「すべてはだいじょうぶ」と「わかる」あの安心感。
こちらは、「爆発」と評するよりも、「溶融」あるいは「浸透」とでも
言い換えた方がよいでしょうか。
これも、ある。

ま、簡単に言えば、感動には
「うおおおおおおおお!」てのと
「ああ……いいなあ……」てのがありますな、と。
最初からそう言え。

で、芸術というものが人から感動を引っ張り出すものであるならば、
このどちらを引き起こすものも、芸術と呼んで差し支えない、と思います。
TARO先生が叩ッ斬ってた、たとえば工業製品や広告宣伝店舗設計の
「小綺麗な」デザイン、いや、「よくできた」集団制作物である映画やアニメ、
もっと極端に突き詰めれば円山応挙の「職人」芸。
そう、職人芸、も、もちろん芸術だ、と思うんです。
今月のJAFメイトの特集が、各地の伝統工芸品で、
塗りに鉄瓶に曲げわっぱに……
どれもこれも「今すぐくれ!」と叫びたくなるヨダレ・グッズですよ。
これを感動と言わずに何といいますか。
であるならば、
これを芸術と言わずに何といいますか。

TARO先生ずっこいのは自分ではそういう、
「ああ……いいなあ……」てなものをちゃんと創ってるところで、
ご自分のお墓。
一平さんかの子さんの間にあるご自身の墓の墓石は、
子供がうつ伏せになって両肘ついて笑ってるものなんです。
めちゃめちゃエエ感じですよ。
こんなもん爆発なわけないじゃないですか。
「上手くあってはいけない」「綺麗であってはいけない」「心地よくあってはいけない」
若き頃に轟然と言い放った芸術の三原則、
自分で全部ブッチですよ。
それも人生最後の最後を飾る一品で。

責めてるわけではなくて、もし今もいらっしゃったら、
「『爆発』もですけど、もう一つの軸もあるんじゃないでしょうか先生」
と問うてみたかった、です。
そうするとまたあのお得意のポーズで、
「ムッ!?」と吠えて考えてくださったかもしれない。
「これも爆発」とか言われちゃうかもしれないけど。

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人間、というシステムは、部分が全体を内包するフラクタル構造の一階層です。
社会の中のパーツであり、細胞の総体です。
爆発、高揚、全能感というのは、この構造自体を、
いける精一杯上から、あるいはひょっとすると一次元上から、
眺めた時に起きるものかもしれません。
「私はすべてを把握している」。
逆に静謐、安らぎ、溶融感、は、いける精一杯下から、
あるいはひょっとすると一次元下から、眺めた時に起きる。
「私はすべてに繋がっている」。
この視点の揺らぎ、切り替え、動き、
言い換えれば世界観の転換、価値観の転換は、
ここのところずっと言ってますように、
眼前の問題や障害を、解決もしくは無問題化してくれるのに非常に役立ちます。
だから、それを引き起こす芸術は、とても尊いのです。

そして、それを引き起こさない、
いや、引き起こせるかどうかは受け手にもよるので結果からは一概には言えませんが、
少なくとも、引き起こすつもりのない、ものは、
どんなに上手かろうとどんなに綺麗であろうとどんなに心地よかろうと、
もちろん逆に、
どんなにヘタだろうとどんなに醜悪であろうとどんなに人を不安にさせようと、
芸術でもなんでもないのです。
ガラクタ。
テクニックは要りません完成度は要りません人にどう思われるか考える必要もありません。
ただ、「変化」への強い意志は必要なのだろう、と思います。

ほんとうは、ここ「進化」と言うとスマートなんですけど、
人間としての個体は、種が辿ってきた進化をまた飽きもせず最初からなぞり直します。
食いたい・安全でありたい・モテたい・帰属したい・そしてようやく、自己実現。
で、どの段階でも強烈な意志があれば、そこに芸術が生まれうる、のでしょう。
そういう意味では、その人にとっては、進化、と言い切ってもいいかもしれません。

しかし、いつであれ、たとえ食うためでもモテたいためでも売れたいためでも、
常に白い紙をキャンパスを前に、あるいはたたずむ楽器を手にする時、
いつの間にか、その意志は、
「美しさ」への渇望
へと変わっているはずです。
そしてその望みを背に、描き出されたもの、それが、その人のその時の腕や力や
気迫、それらすべて、つまりその人そのものを「表現」する、
それが、芸術と呼ばれるのです。
ここの変換が起きず、「上手く見られたい」「世間を驚かせたい」「こう作っておかなきゃ」etc……
そのままで作られたものなど、芸術とは呼ばれません。
そしてこれは、いつでも、毎回、誰にでも等しく起きる試練です。
その試練乗り越えれば、それはなんであろうと、芸術。
だから、駆け出し作家のペーパーバックにも芸術があれば、
なんとか芸術アカデミーの終身会員の大家の大作にもガラクタがあるのです。

3/27のとおり、人間は、
「質量互換の法則があるかぎり、
 視点を変えつついろいろやってりゃなんだってできる」
と、思います。
ただ、どうも引っかかってる一点があって、
「じゃどうして誰でも彼でもがそうではないのか?」。
そう、たった一つ、前提条件として必要なものがあります。
それがこの、進化への意志、向上への意志。
その意志の強さ自体はさほど強くなくてもいいのでしょうが
(もちろん強い方がいいでしょうが)
とにかくこれがないと、始まらない。
南の島には文明が発達しないんです。
もう、いいから。満たされているから。

しかしまたそれもニワトリタマゴであって、
届かない思いは持ちたくない、あるいは忘れる、
それも人間の大切な機能です。
「そんなこと言うけどああはなれないもの。だから上なんか向かない」
それは正しい。
でも、だとすると、「ああなれる」としたら、上を向かざるを、得ない。
だから人は、辛く苦しく悩ましくとも、
「ああなれる」という確信、を持とうとしなければならないでしょうし、
また、持てるまでは、七転び八起きでがんばるしかない、と思います。
(ここはループしちゃうんですけど、身体的なタイム・パワー・サイズのスケールを考えると、
 質的転換の方法論自体には質的転換は必要ないと「思われる」)

芸術家が尊いのは、自分自身を含めた人間に対して、
「世界観は変わりうる」
ことを、作品を通じ発信し続けてくれるから。
作品に触れた時の感動、爆発でも溶融でも、その感覚は、
意識と視点をシェイクします。
今も昔も、ものすごいコストを、犬の餌にもならない芸術家達に投げ与え続けていることが、
人々が無意識にもそれを欲し続けている証拠だと思います。
そして欲するところには、いつかそれが満たされる。
それこそが人間の革……

とはいかないのが人の世のおもしろいところで、
100年持たずに人は死に、世代が変わる。
ニューカマーはまたゼロからやらなきゃダメなんですね。
しかし、人間には文字を始め「情報を蓄積する」という能力があります。
奴隷制度はもうありませんし暴君もほとんどいません。
テロは起きますが核戦争はまあもう無いでしょう。
100%コタツ蜜柑でハリウッドです。
そう、「コタツ蜜柑でハリウッド」を実現するのにどれほどの人間的エネルギーが
(物理的エネルギーもですが)時間軸まで含めてつっこまれてるか考えると、
どれほど恐ろしいことを、そしてどれほど素晴らしいことを、
我々は何一つ考えずに成し遂げているか。
同じことが、精神や心にも、起きていく可能性は、
極めて高そうに思えちゃうのですが、いかが?
文明が4000年だとすると、一世代30年としてたった130サイクル程度で、
頭脳の方は月へ行って帰ってきました。
ハートの方も、それぐらいのことができるようになるのに、
そうたくさんのサイクルは必要ないような気がします。

(進化が速い、ということはクラッシュも速い、ということでもありそうな気もするのですが、
 まあそこは人間を信じて目をつぶろう(笑)
 どっちにしてもクラッシュすりゃお終いなんだから、考えるだけ無駄ですね)

と、いうことで人類の未来は明るい。
そして、なにか創ってる連中は、
その証を見せつけ続けなければならないのです。
それが彼らの(僕もか)存在意義、存在証明。

アリがキリギリスを見捨てる原作は、創作家のよく陥る自虐趣味でしかありません。
それを誰かが、招き入れる結末に描き直した。
多様性を確保しお互いに無いものを尊重し合う。
あるべき姿だと思います。
ま、甘やかすこた、ないですけど。

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何度も同じこと聞いて辟易されてるかもしれませんが、また。
個人的には、野球のピッチャーで言うと、今まで一生懸命
持ち球の精度、威力、配球、新球種開発、牽制技術からフィールディング、
そんなことを追求してきたんです。悩み抜き苦しみ抜いてもがきながら。
理想の投球術、理想の投手像を追い求めて。

ちがった。

それはまあ、もういいんです。
いや、大事なんですけど、それより遙かに大事なことを、
おろそかにするほどのものではない。
その大事なこととは、もうお分かりのとおり、
「勝利への意志」。
理想のボール、理想の投手、そんなものはどこにもない。
勝つ投手が理想の投手、空振りを奪ったボールが理想のボール。
その場面その瞬間で、最高の結果が出るであろうと自らの思う、
自分の最高のボールを叩きつける。
そしてそのあとは、知ったこっちゃないんです。
だってもう、それ以上なにもできないもの。
結果が出なかったら、また、鍛え直すだけです。

そしてその姿勢その戦い方は、
やってみればこれほど清々しいものはなく、
身も心もすっからかんになって立ち向かうとっても楽しい戦いで、
実に久しぶりに、ためらいなく「ああ、書くって楽しい」と思えました。
ちょっと前なら、そう思ってはいても、どこかに引っかかりがあったものです。
もっといい表現があるのでは、もっといい構成があるのでは。
違う。
その時、身体にまかせて描き出したもの、
全身でそれ以上はないと選択したものなのだから、それが最高の表現です。
その時点の自分にとっての。
なんといわれたって、もう開き直るしかない。
ありもしない「理想の〜」の影に脅える必要など、ないのです。

「どう思われるかわからないけど、俺はとてもいいと思う」
それを積み重ねるしか、僕に、いや我々にできることはない。

と、思います。各々のレベル、シチュエーションにおいて。

「なにを書いていいかわからなくなる」
「どう描いていいか壁にぶつかる」
ならば、大昔、楽しそうに駄文を打ち、落書きをしていたあの頃に
戻ってみるとよいと思います。
自分のイメージが、白い紙に具現化されていく喜び……
それはいつだって同じです。
だったら、マンネリだろうと、逆に誰が見るんだこんなの、と思うようなものであっても、
それを、思いっきり、やるのが一番です。
技術の進歩の無さにガックリくる?
いーじゃないですかもう諦めれば。
どう考えてもくそどヘタな名作は、どの芸術にも山のようにあります。
手塚治虫先生は死ぬまで「絵が下手だ」というコンプレックスに苛まれてたそうですよ。
んなことまるでどうでもいいことなのに。
イメージが前と同じ?
ホントにそう?ホントにそうですか?
人は毎日変化しますよ。体調だって変わる。毎日、同じものを美味しいとは思わない。
同じカレーを作っても、同じ味、同じ「美味さ」には仕上がらない。
同じモチーフを描いても、まるで違ったものになるかもしれない。
心が躍らない?
じゃあ、休みましょう。
そりゃもうしょうがないですよ、そういう時期じゃないんです。
無理するより、また、ピンと来る何かを、全然別のところで見つけるまで、我慢する。
それは決して無駄な時間じゃなくて、ためてためてためて跳んだ方が、
高く跳べるというものです。
ドストエフスキーを史上最高の作家たらしめてるのは、たった4本の作品です。
いや、あのうちの1本だけで充分世界史に残る。
あれほど多作で粒ぞろいの、夏目漱石の実働年数はたった12年。
いつからでも、間に合います。

……と、思い切り、
「よ〜し、もうぐちゃぐちゃ悩むのはやめだ!
 俺の最高のボール、打てるもんなら打ってみやがれ!」
と投げてみると、ジャカスカ打たれました(号泣)
そこで初めて、明らかになるんです。
「うひょ〜、力ねえ〜」
理想などという空想があると、
「いや、俺はこういう理想の途中だから(打たれてもしょうがない)」
「理想の俺が出れば、誰にも負けはしない」
とか、なんの意味もないこと思って誤魔化しちゃうんですね。
そんなの嘘で、だってその時点ではそれだけの力しかないもの。
しかし、そこから、
自分の力わかって、で、はじめて、
「じゃあどこに何を投げたらよかんべ」「何が足りない、おいらには?」
「や、やつの弱点はどこだべさ!?」「いやまて、このボールは結構効いてたぞ?」
とか、いろいろ考えること、やることがハッキリしてくるんですね。
そしてあまりに膨大なやるべきリストに呆然とする(笑)
ただ、得体も知れない正解かどうか誰もわからない、茫漠たる「理想」に向かう、
などよりははるかに効率良く、間違いのない道だと思います。

これを【中級者の憂鬱】と名付けましょう。
なにをしていいか見失うところから、
開き直る瞬間、
そして膨大なやるべきリストをこなしていくところまで。

#さ、さすがに僕もう中級って言って差し支えないですよね!? ね!?

実は、ここを乗り越えきれない人は、プロでもものすごく多い。
「あの人結構良かったのに、どうしていなくなったんだろ」
って場合、ほとんどこれだと思います。
特にインパクト優先、味の濃いもの描いてたタイプは、
あっと言う間に行き詰まる。
(いや、僕もそっち側ですので)
周りからは順調に見えてても、
当人的に同じこと(よくて微増)の繰り返しに感じられてきて、
すごい窒息感があるんです。

自分の話で恐縮ですが、「ミラクルズ!」ってもう、大マンネリもいいとこなんです。
ヒロインに事件が起きて、それを大ちゃん絡みで解決して、
試合でピンチになって、ヒロインが大活躍して大団円。
「こればっかりでいいのか!?」って悩むわけです。
でも、マンネリは筋書きだけで、それ以外でバリエーションなんかいくらでもつけられるし、
違った面白さを持たせることも全然できる。
そんなことで悩む必要なんかゼロ。
だってそんなこと言い出したら、
「水戸黄門」も「暴れん坊将軍」も新喜劇もこの世に存在しませんよ。
でも、毎週見ても面白いわけです。
問題は、「面白いかどうか」ただ一点であって、
「マンネリかどうか」なんてほんとどうでもいいことです。
(驚きが減るから、ちょっと不利にはなりますけどね。
 でも逆に、安心感で「期待された盛り上がりがそこに現れる」という大衆演劇的
 双方向性=「待ってました!」を手に入れると強引に言えなくもない)

そうやって視点変わってみれば、
「なにをしていいか」なんて言ってる場合ではなく、
やらなあかんことややってみたいことで世界が埋まっており、
別の悲鳴が上がります。
これを一通りこなし、思ったものを思ったとおり、まるで誰も見たことのないような
イメージで表現しきれる、そんな「上級者」になれるのは一体いつのことやら……
皆目見当もメドもつきません。

でも、しばらくはその方がいいのかもしれませんね。
そうやって自由自在にイメージを新しい姿で定着していけるようになったら……
どうなるんだろ?(笑)
ただ楽しさと美しさだけがあるパラダイスなんでしょうか。
ちょっと想像もつきません。
今からビビってもしょうがないのですが。

己の思う美を、己のできるだけで表現する。

それが、我々が毎日、やってゆくことです。
それだけが。


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【これからの目標・メモ】

さて、今月言ってきましたとおり、
自分の精神(肉体)に質的変化をもたらすには、
「視点変更・世界観/価値観の転換」
が非常に大切だと思うわけですが、
じゃどうやったらそれがより効率よくなされるか。
その手法を、小さいのから大きいのまで、物理的なものから心構えまで、
コツコツ集めていきたいと思います。

繰り返しになりますが、この「価値観の転換をもたらすための価値観の転換」までは
必要ないように思われるのです。(もちろん、あって悪いものではない)
そこにこだわりすぎると、プログラミングツールに凝り倒すようなもので、
ゲームで使う絵を一枚800*600で切り出せばいいだけなのに、
Photoshop(目的よりはるかに高機能で複雑なツール)作っちゃうようなことになる。
そして、こういうものって非常に個人的なもので、誰に効くから誰にも効く、
ってわけでもない。
でも、ま、ヒントにはなる、だろうし。

もしジャンル問わず創作家、いや、頭脳労働全般の方で、いや、
発想法という観点でいえば別に人間であれば誰でも同じ、
(ネコの方に「サンマをしっぽから食べるといいアイデアが」
 と言われてもちょと困るのですが)
「私はこんなときこうしてるけど」
なんてのがありましたら、ぜひお教えいただきたく。
またディスカスしましょ〜。
「あの人は実際ああしてる」というのが、なにより説得力ありますからね。

いずれまとめて本にできたりするといいなあ、などと夢見ています。


3/31 ピロートーク

先日「緊張-標準-緩和」みたいなお話をしましたが、
今、お布団で困ってるんです。

以前、いいバランスで取り立てて不満なかったんですけど、
ある日まま上がマットレスのカバーを開いてみますと、
もう、ウレタンが経年劣化でぐずぐずになってて、
手で触るとワーって崩れちゃうぐらいだったんです。
こりゃ身体に悪かろう、と。
で、18000円ぐらいの低反発敷き布団を買ってくれたんです。通販で。

安物は……あきません……

数ヶ月でべこべこにへたって、中央が凹みました。
(テンピュールとかああいう高級品はまた別だと思います)
でね、低反発の抜本的弱点として、あたりまえですけど、低反発なんです。
だもので、腰回り、肩回り、っていう重い部分がガボッとくぼんで、
横から見ると身体が弓なりになってるんです。
「立って普通にしてる時の姿勢が、寝てもそのまま保てる」
というのが低反発のウリのはずじゃないですか。
とんでもない。
どうして気づいたかというと、ある日横向きの姿勢のまま、
何かの拍子で目が覚めたんです。
(僕は仰向け・うつ伏せ・横向き、いろいろで寝ます)
すると、足は普通に折れてるのに、
上半身エビ投げハイジャンプか思うぐらい反り返ってて。
無茶苦茶ですよね、普通横向き、ってのは、
胎児のように、背中を丸めて全体に丸くなる姿勢のはずなのに。
こりゃダメだ、と。

使用開始直後はそうでもなかったので、やっぱりヘタリが主原因だと思います。
安いウレタンは、へたるんです。
クルマのシートなんかでも、昔の安価な国産車とか、中古でちょっと距離もしくは
年式行ってると、もう乗れたもんじゃないのは、これ。

でね。
沈み込まないようにしよう、と思って、究極に沈まない布団、すなわち
ノー布団
にチャレンジしたんです。
畳の床に毛布一枚、そして睡眠。

なるほど確かに、なるほど確かにエビ反ったりはしない。
こちらの方がよほど自然だ、それは間違いない。
しかし。
しかし肩が、背中が、おしりが、皮膚が痛い……

3日で挫折しました。
決定的なのは姿勢の自由度の無さで、基本的に床睡眠、っていうのは
仰向けオンリーなんです。
横向きとかうつぶせは身体の一部に負担掛かりすぎて、
とても実用にならない。
あと、まだ今の季節だと、床から冷えが上がってくるのが負担になります。
これはまあ、アウトドア用のマットとかあるいは段ボールぐらいでも、
ごまかせるとは思いますが。

板の上に寝る健康法、っていうのがあるのですが、
上述どおり、この作戦には向き・不向きがあるようです。
睡眠姿勢が仰向け中心以外の人にはまず全く向きません。
また、やっぱり睡眠には「リラックス」っていうすごい大切な要素があって、
いかに血行が良くなろうと骨の位置が正されようと、
身体のどこかに負担掛かってる状況、ってのが本当にリラックスなのか、
甚だ疑問です。
どうも玄米食同様、
「いや、いいのはわかるけど、食事って、栄養だけじゃないし」
という感じです。

ということで、お布団はせんべい布団を押入から引っ張り出すことにして、
枕換えてみることにしました。
イタリア生まれの「マニフレックス」です。
ちゃんと東急ハンズ心斎橋店で寝転がって、ハードタイプと比較の上
スタンダードで。
テンピュール(低反発系)とは違って、高反発が売りです。
テンピュールはにゅ〜んと沈み込んでピタッととまる、って感じですが、
こっちは沈み始めはスッ、と入るんですが、沈んじゃうと、くっ、と
押し上げてくれるような感じ。
またしばらくしたらレポします。
これが良ければマットレスもマニフレックスに挑戦。

でもその前にやっぱり、腕利きのカイロor整体に行って
「正しい身体」にしてもらった方がいいかな……

あ、あと椅子も、やっぱりテンピュール座面の椅子っていいですねえ(泣)
アーロンの座面がテンピュールならなあ……
そう、椅子は座面だけで決まるもんじゃないんです。
なんかねえ、アーロンvsテンピュール椅子、って、
Realforce vs Naturalって感じで、どっちにもそれぞれいいところが。
ピシッとやればすごく強い vs 少々崩れてもソコソコ強い。
コラボしてくれ……

アーロンは、ファーストインプレでお届けしたとおり、
「正しい姿勢にハメて楽」っていう椅子で、自由度低いんです。
変な姿勢が取れない椅子なんですね。
そう、それはいいんですけど、床睡眠・玄米食のように、
「椅子っていうのは、ピシッと作業するだけのものじゃない……」
なんで白石ひよりさんのDVDを背筋伸ばして見てるですか(泣)
だからぶっちゃけ、リラックス用の椅子が欲しくて(泣)
でももちろん捨てきれないのは、やっぱり普段アーロン座ってて、
たとえばキッチンの椅子とか座ってノートPC弄ってると、
あっと言う間に猫背の、腰の曲がった悪い姿勢になってるんです。
「あ、やっぱりあの椅子は正しい。間違ってるのは俺だ」と。
ま、もうしばらくがんばります(泣)

あ、そうそう、イトーキ(アーロンの正規代理店)が、
廉価版アーロンみたいな椅子出してました。
(輸入なのかな?こういうときパッとぐぐれないのがイタイ……)
ベスレアルチェア。4万円ぐらい。
ネット座面・背面とか、膝支点のリクライニングとか、多彩な調節とか、
アーロンのエッセンスだけ取り込んでて、いい感じでした。
ちょっと座っただけですけど、あれたぶんいい椅子だと思います。
アーロンほどタイトじゃなさそうだし。
(どっちつかず、って危険性もありますけど)

ほおっておくと家に椅子が3つも4つも届きそうになったので、
慌てて帰ってきました。
東急ハンズには、魔物が住んでます。


3/30 TOTO(世界語)

小さな沼に熱した石を投げ込み、浮いてきた魚を捕るような生活から、
マグロ一本釣り漁船に乗り込もうかと考え中の年若き畏友・O君と。

「こないだTOTOのショールームへ行ってきまして」
「そういえば浴室リフォームとか言うたはりましたなあ」
「うん。……いいね、あそこは。ワンダーランドだね」
「そうでしょう〜。ウチは家建てる時に見て回ったんですが楽しいですよね〜」
「ジャグジー風呂とか、スチームミスト風呂とか、浴室乾燥機。
 TVなんか当たり前なんだね」
「オプション次第ですからね。ウチなんか浴槽は蛍光イエローですよ」
「うう〜ん、いいねえ、憧れるねえ。
 1.5坪に、円形の2人入れそうな巨大風呂があってさ、ローマの皇帝気分ですよ」
「いいですな。どうです一発大風呂装備の一軒家なぞ」
「いや、小さな奥さんと一緒にまずここに見に来るわけよ。
 『ねね、ほら、あっちのお風呂大理石みたいできれい〜』
 『あ、これとかすごいよほら、泡がわーって出るって!』
 『ほら、このお風呂なら二人一緒に入れるよ?毎日一緒に入ろうね☆』
 『うわあ、こんなに洗い場が広いといいよね、遊べちゃうよねここで〜。
 ……あ、あの、や、やっぱりマットとかは敷いておいた方がいいのかな、く、空気のとか。あっ、でも、そんなのお客さんが来たときに見られちゃうと困るよね、どうしよう、ね、どうし』」
「お客様、あの、お客様!?」
「……はっ!?いや、失礼をば」
「いつものこってす。
 奥さんはともかく、頑張って稼いでそのぐらいの家をブッ建ててくださいよ」
「いや、嫁の実家」
「甘ったれるなッ!」

電話の向こうからビリヤードの9番ボールでほお骨のあたりをぐりぐりされました。

でもホント楽しかったです。
キッチンのコーナーとかも、「いやあ、そりゃこんなキッチンなら料理も作りたくなるわ〜」って感じ。
結局我が家のは、サイズは1.25坪で1620だかなんだかとちょい広め、設備はフツーの。
まま上はトップにもガラスの貼ってある出窓と、その張り出しに観葉植物を置くモデルをいたく気に入ってたのですが、窓だけで22万と聞き断念しました。
基本的にオプション商売ですから、ちょっと変わったことしていくと簡単に倍ぐらいのお値段になっちゃうんですね。
ま、手頃なところで我慢するのが吉のようです。
もちろんINAXにも同様のショールームありますが、「ウォシュレットを開発してくれた」という一点だけで一生TOTOファンであろうと決意したので、今回もTOTOさんで。

「……ということで私の方もいろいろ将来を考え、これからどうすべきか、
 転職王ながたさんにグッ・アドヴァ〜イスをいただこう、かと。
 会社って、どうやって辞めるのがいいんですかね?」
「突然がいいね。もめるとお互い後味が悪いので、
 モメヤメぐらいならニッコリ笑って我慢して辞表」
「なるほど」
「で、どんなところ行きたいのよ。
 経験者は語るけど行きたいとこ無しに辞めるとた〜いへんよ〜」
「できれば、自分にあったところで」
「ふむ」
「お姉さまがちょっとかがんで目線をあわせて、
 『そんなことしちゃ、めっ☆』
 って叱ってくれるような職場。
 どきどきしちゃって、何も耳に入ってないの」
「目線は胸元に釘付けだしね。
 その見えるような見えないようなペパーミントグリーンの小さな布に」
「さすがながたさんわかってらっしゃる!!」
「甘ったれるなッ!!」

そんな榊原良子姉様のお声を聞いただけでなにかが出ちゃうお姉様フェチO君の、
ベッド真上の天井を飾るのは、等身大の峰不二子。
私32歳O君26歳共に独身実家住まい、

Where are the tomorrow?


3/29 基本が一杯コワイ。

基本は怖いッスよ、基本は。

また甲野先生なんですけど、
「『基本』というのには疑問を感じる」と。
で、甲野流の「基本」的動き、みたいなのは無い。
有名な「井桁術理」も、とりあえず使いやすく説明しやすいから採用してるだけで、
これ以上のものが見つかればすぐ捨てる、と。

その姿勢はすごく大切だと思います。
特に「これぞ!」というものが見つかった、と思える時が一番怖い。
今の僕とか(笑)

いや、あのね、3/25「ドクトル先生」は自画自賛よくできてて、
「いやあ久しぶりにあたりあたり」とか一人でニヤケてたんです。
で、昨日ちょっと書かなきゃならないものがあって、書き始めたんですよ。
すると、ドクトル先生で使ったテクニック、方法論を使いたがるんですね、
身体が勝手に。
気づいて「やっばー!」って、慌てて滝に打たれに行きました。

テクニック、ってのは本来、
その場の状況をよりよく打破するために選択、もしくは作成されるもの、
です。
そのテクニックを使って、上手くいった、それはその場限りの結果であって、
そのテクニックを使えば、いつでも上手くいくわけじゃない。
上手く行きたい、と思うと、過去に使った「上手く行ったテクニック」を選びたがる。
やばいやばい、それはすごいやばい。
一度ウケたギャグを何度も何度も繰り返すのとまるっきり同じです。
もちろん、テクニック自体にも性能の良し悪しがあるので、
汎用性高くて耐久力高くて、シンプルで、そこらじゅうで便利に使えるテクニック、
って存在します。
それが、「基本」と呼ばれます。

ならば、その基本ぐらいは使えばいい?
実はここに落とし穴があって、
新しさやユニークであること、人の感性にスパイクを入れる、
それはやっぱり、どこかしら「ズレ」てるところから生まれるんですね。
そのズレは、基本からはほぼ絶対に生まれない。
だってズレないように上手に効率よく仕上げるためのテクニックが、基本だもの。
表現の世界はちょっと特殊かもしれませんが、
武術だってスポーツだって、「相手に読まれない」というのはすごく大事だし、
この情報化社会だと、「誰もが知ってる基本にのっとった作戦・訓練」
なんてやってちゃ、相手は出し抜けない。
ビジネスもそうですよね。

もちろん、使わない、っていうわけではなくて、
基本であろうとなかろうと、すべてのテクニック、手法、ものの考え方、は、
その場その場で、現場合わせ現物合わせ、その人合わせでカスタマイズして、
できうる範囲で最適・最高の結果がでるものを選んでいく。
それが大切だな、と。

いい結果出すために存在するのが「基本」のはずなのに、
それに縛られて結果の幅を狭めてしまったら、本末転倒もいいところです。

特に「よく効く基本」ほどタチの悪いものはなくて、
それ一本でそこそこ行けるんですけど、そこでピタッと進化が止まる。
そうなるとかなり取り返しつかないですよ。
取捨選択の能力も経験も無いわけですから、そこからはどうしようもない。
リセットするには惜しいぐらいの結果出てたりするし。
そしてまたそういう、そこそこの人が自信たっぷりに言うんだ、
「基本が大切だ」って。
そりゃそうですよね、その人はそれでそうなったんだもの。
しかし、スポーツ選手なら選手寿命まで持てばOKかもしれませんが、
人生に引退はありません。
「基本」なんてどこの馬の骨が作ったともわからないものに縛られて、
可能性、自分から狭めること無いのです。

ま、もっとも、右も左もわからないうちは大きな指針になることは間違いないのですが、
要するに、どんなものにも縛られるな、と。
エラソウに言って僕も、もちろん、どこでなににどう縛られてるかわかりません。
常に、「ホント?それ?」と思う気持ちを忘れないでいたい、です。


3/28 「ゆるゆる」

イモムシが蝶になる時に、サナギになりますよね。
イモムシ・システムとチョウチョ・システムは何から何までまるっきり違うので、
サナギ、というシステムチェンジの期間が必要です。
動かず、栄養も取らず、ただシステムの再構築だけを黙々とやる時間が。
外見から見れば「死んでんじゃないか?」と思われるその時間が、
実はすごい大事なんですね。

そこを無理矢理早めちゃうと飛べない蝶になっちゃいますし、
それを怖がるとずっとイモムシのまま。

心配して、「これどう?あれやる?それ食べる?」とか、それも邪魔なんです。
ちょっと待って今勘弁してそれどこじゃない。
手持ちの栄養を用いてシステム変更に手一杯で、
ホント他になにかやれる余裕なんか無いんです。
逆に考えると、その時点までに手持ちの栄養がしっかりないと、
蝶になれないのかな?
いや、逆かな、充分な栄養がたまったからこそ、
サナギ・モードに入るのかもしれませんね。

でも、これ、ただサボってるのと全然区別つかないんで、だから困る。
強いて言えば蝶の人が見て
「あ、だいじょうぶ、あれサナギだから」
って判断くだして、できれば当人にもそう伝える、ぐらいでしょうか。
それも現実問題として、とても難しいし。

でも……アクシデント起きない限りサナギがちゃんと蝶になるように、
サナギになれるイモムシは、ちゃんと蝶になれるのかもしれません。
希望を求めるからこそ、絶望もできる。

---

最近は、こういうサナギみたいな状態の人を、十把一絡げにして簡単に
「鬱」ってレッテル貼って、ものすご効く精神的な物理的なお薬ジャカジャカ出して
無理矢理治そうとしますが、
そして、それが必要なほんとに危機的な人も多いみたいなんですけど、
本来は自分の身体のバランスの崩れなので、
自分で治す、解決策を見いだす他ないんですね。

つらい。
なぜ辛いのか。
では、その辛さはどうすれば、なにをすれば、どう感じれば、
自分の中で消化(昇華)できるのか。
既存の自分内システムで消化しきれないのなら、
どんなシステムに変化しなければならないのか。

極端にいえば風邪と一緒です。
お薬は症状止めてくれるけど、それだけです。
根元的に崩れたバランスの身体は一ミリも変化してないし、
次にまた同じ風邪をひく。
散歩か、ラジオ体操か、乾布摩擦か、食生活か……
なんでもいいから、根本的に変えていく、変わるきっかけをもっていかないと、
風邪に強い身体にはなれない。

また、怖いのが、軽度な風邪をごり押しで治していると、
身体もサボるようになると思います。
身体が、風邪のホントの治し方を学習してない。
だからちょっと重い悪性のヤツがくると、全軍が崩壊する。
本来はそこで、手が足りないなりに抗戦しながら警告を出す、
っていうのが身体の役割なのに、
経験がないからパニックになって同士討ちとかまで始めたり。

もちろん僕も同じなんですけど、怖いですね。
ナチュラリティというか、できるだけ不自然なことはやらずに、
なるべく自分自身でバランスを調節する、
っていう訓練、若いうちからしてた方がいいようです。
精神も肉体も。
経験に基づくシステムができあがってない、
若い頃の方が物理的な耐久力はある。だから無理が効く。
そして、現代社会はあらゆる意味で過剰です。
そういう対応システム作ること無しに、物理耐久力を超える無理をも、
クスリだのなんだのでごり押しで治せる。
ますます根元的な力がつかない。
でも、物理的には30歳あたりで明らかに落ちてきますから、
そこでその手法しか持ってないと、治ってたはずのものも治らなくなるんですね。
物理耐久力+外部システムの合計耐久力が落ちちゃうから、守りきれない。

僕らはまだ、ごくごく簡単な例を出せば、
小学生の頃は「冬でも半ズボン」という世代ですし、スキヤキが御馳走だった世代です。
それでも32歳の今にして思えば、
なんて脆弱な心と体だろう、と情けないことこの上ないです。
まして今の子達は……
寒中水泳に放り込む、とか、そういうのもいいんですけど、
もう少し日常生活から、
自分の標準状態はどうあるのか、
それがどんな原因でどう崩れるのか、
またそれはどうやったら治るのか、
小さなところから組み立てる訓練をした方がいいのかもしれません。
くどいようですが現代社会はあまりに過剰なので、
なにもしない=過保護です。
また、そのくせ、メディアや日常からは色・形・音・意味(文字)の
異常刺激が暴流のように襲いかかってきて、
ちいさな変化を見つけ出してくれるはずの各種センサーを、
ズタズタに麻痺させつづけてます。
(その一旦になっておいてこんなこと言うのもアレなんですが)
僕らの世代だと「ゲームは1日1時間」でしたが、
少し上だと「テレビは1日1時間」。
真面目な話、そのぐらいでいいと思います。

ただ、別に悲嘆にくれる必要もなくて、
人間の能力、順応力って恐ろしいほどあって、
たぶん縄文人をもってくれば情報過多で30分で発狂して死ぬような現代社会で、
我々はぽけーっと生きてられます。
逆も可能で、センサーの精度を粗くも出来れば密にもできる。
それどころか、ゲームみたいな絵と音と意味とを叩きつけ、さらには
「操作する」という意志まで引きずりだすようなエゲツナイ刺激に対して、
「ああ……癒される」
なんて感想を持つような、センサーの感覚対象の変化、みたいなことまで
出来てしまう。

大切なのは、自分にとってのナチュラルがどこにあるか、
そしてそれを大事にする、という姿勢そのもののように思います。
また、そういうモードに入れる自分なりの小さな儀式を持つとか。
僕の場合は散歩かな。
(だから一日行かないと、とても「気持ちが」悪いです)

---

「ゆるめる」という表現が、最近のお気に入りなのですが、
普段はやっぱり、気がつかないうちにいろんなツッパリが身体中に入ってるんですね。
こころにもからだにも。
ぽかーん
と抜いてみる。
整体界世紀のスーパースター、野口晴哉先生の本にもそんなことが書いてあって、
ぎゅーっと力を入れる動きをしたあとに、
「ぽかーんとします。好きなだけ」
とある。で、これが大事だ、って。
普通、運動やストレッチの本って、その動きをどうやるか、ってところに重心があって、
その後のこと、緊張のあとの弛緩についてはヘタすると書いてないんですけど、
野口先生は常にそこを意識させる。
力を抜くのは、力入れるのと同じぐらい大切だ、と。

で、難しいのは、締める方は方法を手順化しやすいんですけど、
緩める方はどれぐらい緩めればいいか難しいですよね。
おふとんの中に入って、身体の力緩めていく緩めていく緩めていく……
っても、数秒するとどこかしらに力が入ってる。
あるいは、「どこかを抜く」と意識した瞬間、どこかに力が入るとか。
実は簡単じゃない。
矛盾しているようですけど、集中力……ちょっと違うかな、
「よし、ゆるめるぞ」みたいなのが要るんですね。
だからほんとのゆるみ、って寝る直前にしか起きないのかも。

僕も、まるで手順なんかもってないですけど、
フトした時になるべく「ゆるめる」、の方向を意識したいと思います。
緊張の方は、生きてりゃ勝手になるので。
ヨガとかはこっち系のメソッドあるのかなあ。
ちょっとまた、調べてみます。

なんていうか、緊張←→緩和の二極じゃなくて、ほんとは、
緊張 - 標準 - 緩和
の三極(三極とは言わないか)なのかもしれません。
で、大切なのはやっぱり「標準」で、
センター出すためには両極振り切ってみないとわからないですよね。
だから、緩和も大切。
二極だと考えて、あんまりぶんぶん振り回しすぎると、キツイような気がします。
それは両極でバリエーションつけにくいし、2パターンだと見切られやすい。
それを打破するには両極でインフレ起こすしかなくて、
でもそこには物理限界があって……

ああ。枝雀師匠……

標準、そうすなわち「自然体」をしっかり出して、
そこから右振り左振りを出せば、ほんの少しでも充分緊張になり緩和になる。
だから、名人芸があっさりしてるのに面白いのかもしれません。
でかい動きをしなくても、センターをじっくり見せつけておいて
ポン、とちょい早めを出す。これがすごく早く感じる。
それよりまだちょっと早いのを出す。するとベラボウに早いように感じる。
遅い方も同様。
遅いのをスタンダードにするんじゃなくって、真ん中もってて、
さらに遅いのを持つ。
すると早さのバリエーションが理論上無限に、そうでなくても数段階は持てる。
こんな感じでしょうか。

「ゆるんでる」=「自然体」じゃ、ないんですね。
てことは……もっと難しいじゃん(笑)
ゆるみ、しめ、ちゅうぐらい、
で自分なりに「だいたいこの辺」を見つけていくのがいいのでしょう。
孔子大先生が「中庸中庸」ってうるさかったのは、こういうことだったのかも、
しれません。

で、それって結局、「自分」(の真ん中)なんですよね。
だから、自分の本来の姿をじっくり見つめてみれば、
おおよそその周辺に自然体がある。
やりたくないのにやってること、やりたいのにがまんしてること。
もちろん社会の一員として無軌道にはできませんが、
例えば視点を変えて、駅まで歩か「ねばならない」と考えず、
駅まで歩けて健康にいいや幸せ!と考えて……
ってのが、簡単にできりゃ世話ないんですけどね(笑)

とか、テキトー言ってみました。
ゆるゆるになってきます。


3/27 Power your heart

わかった、わかった。

まるでまとまってないのですが、
断片を少しずつでも散らしていこうと思います。
みなさまの、何かのヒントになれば。

「質的転換をはかる方法論自体には、
 質的転換をはかる必要はない」

これが「私にとっては」かなり革新的な「気づき」でした。
(発見ではなく、そこにあるものに気づいた)

ツッコまれる前に一応。
言葉、というものは日常平面を記述するために発達(効率化)してきたものなので、
ワンセット外にあるものを記述するのがすこぶる苦手です。
メタなこととか特に。
で、そこをこねくり回していると「論理に合わない」という事態が往々にして生じるのですが、今、大切なのは「論理にあうかあわないか」などという意味のないことではなく、
「それをそれと思えるか」
というところです。
さらに言えば「僕はそう思ったの!」という分であって、
別にそれが普遍的真実である必要すらありません。
ただ。
ただ、もし、それでも、なにかみなさまの考えるヒントにはならないかな、と思い、
言葉を用いて書いてみます。
どのように解釈されるもご自由です。
真実ではないと思われても一向かまいません。

本題です。
甲野先生が次々に身体の動きの新次元に気づいているように、
身体的に別次元の力量を発揮するには、
「動きの質的転換」
が必要です。
まるで違う方法で動かされた身体の部位は、
次元の違うスピードやパワー、いや、そういう量の多寡では計れない、
認識のズレを含む「違い」を持ち、相手を圧倒します。

身体がそうであるならば、精神、そして心もそうなのではないか?

ドクトル先生が日本刀を持つヤクザを追っ払うのに、
「より強い物理力」ではなく、「政治力」を使ってもらったように、
質的に転換された視点は、問題をおそろしく簡単に解決します。
「ひらめき」「アイデア」と呼称されるものです。
そこまでは誰にでもわかること、経験していることなのですが、
問題は、
ではどうやってそれ、認識のジャンプ、新しい視点、を引き出すか、というところです。
この方法論がわからない。

天性を持ち、最初からわかってる人間がいます。
でもこれには今からは、なれない。
史上振り返ると、どうやら後天的に手に入れた人間もいます。
しかし彼らの言う方法論はあまりに単純で、しかしあまりの努力を伴います。
そして結果すら保証されない。
禅の極意はただ座れ、しかしそれをやり遂げて悟れる、
その膨大な量的努力をこなせる能力は、そもそも後天的に取得不能な
「才能」なのではないか?

自分の進もうとする道、自分の好きなもの、情熱傾けるもの、
それにおいて自分が、
「どう頑張っても誰かには敵わない」
と考えるのは非常な苦痛です。
「あそこまではいけないけれどもできるだけいこう」
それは、辛い。
(少なくとも僕は非常に(笑))
裏付けのないプライドとかそういう問題ではなくて、
だって「もう誰かが行ったところにも行けない」ってことですよね。
そんなことやる意味ゼロじゃないですか。
その人がもうやってんだから。

特に、しばらくやって中級者あたりになってくると、
己のパフォーマンス、そしてその伸びと、そこにつっこむ努力の量、
それが計算されてくるわけです。
そして一旦頭も打つ。壁に当たる。先が見える。
「このぐらいをこう押さえたらこういう成果が出る」
という流れが見えてくると、
「なにが起きるんだろう!」ってワクワクが減って面白くなくなりますし、
前述通り「誰か」も非常に気になるわけです。
「どう考えても、今の僕は彼にはなれない。
 気が狂うような努力をすれば別次元が見えるかもしれないし、
 運命の女神が気まぐれに微笑んでまぐれなら一発があるかもしれないけれど」
ヤですよねえ、これ。
ステップを上がりたいわけです。
ヤツら――天才・伝説的達人達――は「なぜ」それができるのか、知りたい。

そう、ここで甲野先生が見せてくれた世界は、
「彼らは『質的に転換された動き』を手に入れていたようだ」
「そして私は、それを少しずつ手に入れ、少しずつそこに迫っている」
この2点。
特に重要なのは、もうお気づきの通り、2点目。
甲野先生は屈強な身体を持って生まれた天才児でもありません。
3歳からバイオリンを持たされたような英才教育、膨大な努力の数を積み重ねた人でもありません。
そう、失礼なようで失礼でない言い方をすれば。
そこいらにいる凡人なのです。
わたしと同じ、あなたと同じ。

つまり、誰にでも、それはできる。

質的な転換、新しい視点を常に忘れず志向しつつ、
日々コツコツと小さな気づき、小さな創意工夫を繰り返し、
トライアンドエラーを厭わなければ、
それは、いつかもう少し大きな飛躍へと結びつく。
そしてそのいくつかの飛躍は、また、もっと大きな飛躍へと結びつく。
ステップだ、壁だと思われていたところは、
実は壁ではなく、
そこに手がかり足がかりが、ちいさくちいさく、でも、たくさんたくさん、
出ていたのです。
これを、ひとつひとつ、手に掛け足に掛けていけば、
その間ずっと、前には進んでない、前には進んでないんですけれども、
いつか壁を登り切って、大きく前に進める段階に、至るんです。

その小さな気づき自体が才能が必要……
うるさい。
もう一生寝てろ。

確かにそれも真実かも知れませんが、閾値はがっくり下がってる。
よほどセンス無い人、つまり逆才能がある人でない限り、
人間は誰にでも、なんでもできる。
甲野先生、ボブ・サップが相手でも、
「肩を取りに来た手を払って押さえ込む」のならば、たぶんやってのける。
僕らはボブ・サップにはなれないけれど、甲野善紀になら、なれそうです。
まして好きなこと、やりたいと思ってることなら、
少々のセンスの無さなど、それこそ努力でカヴァーできる。

では同じことを、精神の動きでできないはずはなさそうですよね。
ドストエフスキーにはなれないけれど、彼の小説に匹敵するような文学が、
ゴッホにはなれないけれど、彼の絵に負けないぐらい熱い絵が、
アインシュタインにはなれないけれど、彼の理論に負けないぐらい宇宙の真理を、
創れる、描ける、知ることができる。
あるいは、
スキピオにはなれないけれど、同じぐらい叡智と勇気に溢れることが、
マザー・テレサにはなれないけれど、同じぐらいの慈愛を誰かに注ぐことが、
マハトマ・ガンジーにはなれないけれど、同じぐらい誇り高く苦しむ人々を救えることが。

ここで飛躍と言われればそれはそうです。
でも、そう考える方がナチュラルな気がしません?
心と体は、そうキッパリ分けられたものではないように思うのです。

そう、この、質的に転換されきってない世の中においては、
誰もがみんな、新しい地平を切り開くスーパースターになれる可能性が、
あるんです。

何百年か、何千年かすればみながそうなって、そこでの争いや
そこからの脱却が問題の焦点になるかもしれませんが、
それはその時の人に悩んでもらえばいいことで(笑)
とりあえず今、人間の潜在能力をこれっぱかしも発揮し切れてない現在では、
人の一生、物理限界的時間制限もって100年、などでは
とうていやりきれない、やるべきこと、やれることが横たわっている。
世界はあまりに膨大で、
「もう誰それがやった」
などという領域は、あまりにもあまりにも、それこそ無視してもいいぐらい小さい。
リンゴの表面を、小さな小さな虫がかりこり囓ってる程度で、
それ以外に食べでのある部分が、豊かに美味しそうに、残されているんです。
それを食べるのは、あなた、そしてわたし。
ひとりひとりが、おのおのの気づきを元にトライ・エラーで手にした、
新しい武器を日々次々に試しつつ、
その豊穣なる「世界」に挑戦していけばよいのです。
あなたは、よりあなたに。
わたしは、よりわたしに。
個性を大事にするもなにも、
自分が気づいたことを自分で工夫して自分で挑戦していくわけですから、
そりゃ、もう、自分以外ではありえないんです。
より自分。

そう考えると、がぜん楽しくなってきますよね。
誰と比べてどうとか、考える必要はない。
いや、そんな暇はない。
自分で戦う戦い方を見つけるのに、小さな小さなしるしを見逃さないように注意するのに、
発見を具現化して道具として使えるよう工夫するのに、
その道具を使いこなせるよう習熟するのに、
実に忙しい。
一番大切なのは、自分が自分であることなので、
自分の要素は、自分の環境は、すべてが大切なんです。
一般にはマイナスに思えることも。
お金がない。貧乏にしか見えないものはいっぱい、いっぱいあります。
「やったぜ、今日は高いお魚屋さんのお魚だーーー!お魚美味ぇえええええ!」
(もちろん逆も同じですよ、省略しますけど)
腰が痛い。腰痛持ちにしか見えない世界がいっぱいあるんです。
どの椅子が人のことを考えてて、どの椅子は考えてないか。いい椅子とは、なにか。
老いもそうです。
病いもそうです。
弱者などいない。
違うこと、それは、そのこと自体に、意味があるんです。
人とは違う、なにかができる、という可能性そのものに。
だから、違えば違うほど、いい。

ちょっと宗教がかってしまいました。
そりゃ腰は治って欲しいです(笑)
でも、そこに拘泥するよりも、もっと大事な、というか、
もっとおもしろいことが、
そう、この挑戦――というには悲壮感はない――
この修練――というほど真面目さが必要なわけでもない――
この生活――てのはあまりにも上向きイメージが足りず――
とにかく、遊んでるような楽しんでるような、
努力とも呼べぬ集中、試行錯誤とも呼べぬあれかなこれかな、
少しでも、それをやりたい。
子供の頃、新しいゲームを手に入れた日のわくわく。
初めて女の子とデートするあの日の止めようのないどきどき。
ハマった趣味に出かける朝の、あの飛び起きる元気。

そして世界はどうやら、一生掛けても解けそうになく、飽きそうになく、
そして次々に新しい顔を、魅力的な顔を、見せてくれそうです。
少なくとも、たとえば僕の場合なら、
「こころ」ぐらいのものを1つぐらい仕上げないと(笑)
そしてその、楽しげな日々自体が、
次の世代へ譲り渡せる大きな財産ではないでしょうか。
「この世界はあまりに楽しい。そして君は、ここでなんでもできる」
その証以上に、次の世代に残してあげれるものはないでしょう。
「あの人みたいに、楽しく生きたい」
それが、大人ってヤツです。

---

もう一度最初に戻って、もう少し言い換えると、
【質量互換の法則】
とでもいいましょうか。
宮本武蔵先生が「千日の修業を鍛、万日の修業を錬」とおっしゃいました。
てことは、万日修業すれば、武蔵クラス、
すなわち常人では太刀打ち不能の、一次元上がった人物になれるわけです。
厳しい集中と節制の中、365日修業すること27年。
無理ですな。
(逆に言うと伝統工芸のヴェテラン職人さんに、超人的技術の持ち主がゴロゴロいるのは、これがどんな人にもどんな芸にも成り立つ普遍法則であることの証明かも)

しかし、ヒントは「千日を鍛」というところにもあって、
(ここからめっさテキトーです。まあ、イメージで)
1dimension-change = 10change なわけですね。
1日必死で量的修業をこなすことを1energyとするなら、
1change = 1000energy。
(1dimension-change = 10change = 10000energy)
しかし、おそらくここに、もう一つ隠されたサブ単位があるんです。
1idea = 100energy
ぐらいの。
ただ、この単位は、現代のお金における「銭」と同様、換金、つまり現実化が不可能で、
100energy持ってるからって1ideaを目に見える形で手にできるわけではない。
しかし、ここがミソなんですけど、
1changeは、1000energy「相当」であれば現実化してくれるので、
10ideaでも、5ideaと500energyでも、もちろん1000energyでも、
1changeになるんです。
めんどくさい、しんどいのイヤ、だと思ったら、
10ideaをどこからか調達してくれば、ノーenergy、つまり量的修業ゼロでも、
1changeが手に入る。
そして、ここもミソなんですけど、
change以上はいきなり手にはいることはない(先天的にはありうる)
んですけど、ideaっていう単位ならば、ある日突然手にはいることがあるんです。

(たぶんここ以下もフラクタル構造で、いきなり手に入ってるっぽい
 ideaってのもより小さなkidukiとganbariの相互補完で手に入る、
 とかあるんでしょうけれど、
 人間の身体性にフィットした物理的時間感覚や力の感覚からいくと、
 そのレヴェル(と、もちろんdimension-change以上のレヴェル)は、
 あまり考えなくてもいいように思います)
(もうひとつ、change以上も(ヘタをするとdimension-change以上も)
 潜在能力的にはすでに人間にインプットされているという考え方もありますし、
 「オカルト」と分類され目をつぶられてる例もいくつかあります。
 でもそれをいいだすとややこしくなるので今はとりあえずスルー)

てことは、我々の目標は、とりあえずいまんとこ最終的には
1dimension-changeですから、
ideaいっぱい集めて、100ideaもあればそうなれる。
27年厳しく苦しい修業、と言われるとハナからやる気なくなりますけど、
「あ、そうか」を100個、と言われればどうです?
ものすごい気分楽になりますよね。
そして、なにかを発見する、っていうのはすごーく楽しいことです。
その、すごーく楽しいことを100回やるだけで、ほら、こんなにスゴイ人に。
歴史の教科書に名前載っちゃうよ?

しかしこの、dimension-changeどころか、
「1change(1000energy)壁」
っていうのが音速のようになかなか突破できないんですね。
3年。
で、フツー挫ける。
すごい真面目に頑張る人は突破するんだけど、突破すればしたで、
「これを、この辛いのをあと何回やればいいのッ!?」
「あの人はこれを一体いくつ突破してるんだ……俺には、無理だ」
と絶望する。

たとえば、受験勉強ってこの1changeレベルなんです。1000日。
だから力づくで突破できるけど、突破したらしたで
「こんな辛いのもうイヤ」と投げ出す、and/or
「このメソッドを繰り返せばなんでもできる」と勘違いする、
という危険がある。
てゆーかあたしがそーでした、はい。もちろん両方でっす。
目立たない成績の子が思い立って、夏休み以降ぐらいから驚異的に
成績伸ばしていい大学受かっちゃうことあるじゃないですか。
つまり、勘所さえ押さえれば、今の例で言うとideaの単位を集めれば、
そのぐらいの時間と労力でぜんぜん行けるんです。
よゆー。
やり終えてみればわかります。すさまじく無駄な努力してた。
僕は効率第一主義で努力の大嫌いな男でしたが、
その僕でさえものすごい無駄出してますから、
塾とかなんかドグマ的教科書の類で言うてるような生活してたら、
無駄しかやってません。
そもそも塾の講師なんかおまんまの源泉である自分の教科以外は見てないですからね、
だからあんな無茶な量と質を押しつけられるんです。これだけやれば大丈夫って。
そりゃ大丈夫だろうけどそれが何教科あるとおもってんだよ。
それは余談。
追い詰められて、とにかく
「方法論を変えて効率を劇的に稼げなければ間に合わない」という危機感が、
通常よりも高い視点とシンプルで的確な努力の投入対象のプライオリティづけが
できるんでしょうね。

だからよく、「セルフ追い詰め」っていうすごい危ない方法論が使われるのです。
禅って理念的にはそうですよね。
精神状態や認識を危機的環境(常識崩壊)にわざと置いて、
そこから認識のジャンプアップを図る。
危ない危ない。
麻薬で見る極彩色の世界みたいなものです。っていうかそのまま。
そのジャンプアップがホンモノか、あるいは脳内麻薬によるトリップなのか、
その方法論ではわかりにくいじゃないですか。
だからもう一度、もう少し……と進んで
(「進んでる時点ですでに間違ってる」と気づかなければ)
「あー……」ってことに。
ちゃんとした禅をちゃんとした師についてやれば違うんでしょうけど、
あの方法論は簡単にここへ堕す。
禅に限らずこの「セルフ追い詰め」は、
「ウサギ跳びやっちゃダメ」っていうぐらい、
今はもうやっちゃ駄目な方法論のように思います。
特に土・自然・身体から遠く離れた現代人は、
戻れる場所・手触りのある拠り所がないから、簡単に逝っちゃう。
自分で自分追い詰めてると、
普通は、辛くなって追い詰めること自体を止めるのですが、
システムとしてなにかしらの強制力持たせちゃうと、その歯止めも効かない。
特に意識高い、なんとかしたい人だからこそ
そういうシステムに依存するわけですし。

元へ戻りますと、とどのつまりは、
「圧倒的努力は、1つのアイデアと互換である」
いいかえると、
「凄まじい努力をしなくても、アイデア一発で逆転できる」
「出そうにないアイデアや質的相違も、めちゃめちゃ頑張れば埋められる」
の、「両方」です。
エネルギー=アイデア×でっかい定数。

ここが甲野先生の見せてくれた世界です。
ある程度、「互換性はあるのでは」という感触自体は、昔からあったのですが、
確証がない。自信もない。
なんたって自分もいっしょうけんめい生きるのに精一杯ですから。
でも今ここ同時代に、その生ける見本、動く実物、そして進化を続ける人がいる。
「互換性は、ある!」
と「僕は」確信できた。

で、そういう目で振り返れば、いろんな人が、天才や達人の一部優しい人が、
なんとかしてそれを伝えようとはしてくれてるんです。
(ご存じの通り、能力と人格はなんの関係もありません。
 逆に執拗なまでにあることに執念燃やす資質があるから、
 根元的には「ナチュラルにいいひと」である可能性は低い。
 ただ、イケてる連中は浮き世のつまらんことなんかどーだっていいので、
 そして違う視点持ってるために価値を認める幅が広いので、
 「結果的にいいひと」である可能性はとても大)
「技術なんか要らん」とか、「ああ……俺30年無駄なことしてた……」とか、
「土へ還れ」とか、
闇雲な努力をしようとする後進に、視点を変えることの重要性を説いている。
でも我々は、言われてること自体がさっぱり把握できなかったんですね。
だって言ってること自体の視点が変わってるもん。

---

と、いうことで必死になって顔真っ赤にして吼えまくってきましたが、
「ながたさん、なに当たり前のこと言ってんの?」
と思われたかも知れません。
気づく、ってのはそういうことで、「当たり前」のことなんです。
その、当たり前のことが、血肉となり、身体で理解できる、
それが気づき、ひらめき、えうれーか。

また、最初にお断りしたとおり、こうして言葉にしてしまいますと、
一番大切な「程度」とか「雰囲気」とか「匂い」とか「感じ」とか、
ぜんぶすっぽんぽんに落ちて無くなっちゃうからタチが悪い。
マックスぺちゃっと平たく言やあ、
「いろいろやってりゃなんでもできる」
って青春ソングか思うような結論です。
ただ、それがどうやら努力目標でも願望でもなく、真実であるということが、
僕本人として「わかった」のがすごいでかいことなんです。

だから、これ読んで「うおおおお!」と思ってくださる方もおられれば、
「なに言ってるかさっぱりわからん」と思われる方もおられれば、
「んなのあたりまえじゃん」と思われる方もおられると思います。
この、気づき、idea、changeっていうのは、非常に個人的なものです。
誰かにとってはある一言が革命的なヒントになっても、
別の誰かにとってはなんでもない一言だったりします。
リンゴは昔からぽとぽと落ちてたわけで、
ニュートンの前で初めて落ちたわけじゃない。
だけど落ちたから、ニュートンは気づいた。
甲野先生が僕のリンゴだったんです。
(そして彼をそうだと思う人は、雀鬼・桜井さんはじめとても多い)
ですから、最初に申しましたとおり、どなたかのリンゴになればこれ幸い、
と思い長々書いてみました。
まるでまとまらず散発的で読みにくかったと思いますが、
「なんとなくなんかひっかかるぞ?」
というのもまた、考えるよすがになるかと思い、
今の時点で考えてることをそのまま書いてみました。

これに気づいたのが今週頭、21とかぐらいだったんですが、
その前、3月に入ってからぎゅーんと何かが渦をまいてて、渦に巻き込まれてて、
思い起こせば今年に入ってからは、
いやまて去年の12月ごろには、
いや、そもそも10月ぐらいから違和感あったよな、
と、やっぱり、蓄積された何かがあるわけです。
それが、changeしたのが、今週あたま。

もう、ほんとに眠れないぐらい興奮しちゃって、
一日中クタクタになるまでこればっかり考えて、
思考に言葉の構築が追いつかない、
という経験をものすごい久しぶりにしました。
誇張でもなんでもなく、つい前の日に考えてたことが古く狭くバラバラに感じられるぐらい、
急激な認識のインフレが。

俺ってすごいことに気づいたんじゃないか!?
人類史上初!?ひょっとして歴史の教科書に載っちゃう!?
なれる、なれるよ、すごいひとに!
なっがたさん!なっがたさん!

で。
熱に浮かされて「ドクトル先生」描いて、一呼吸。
あ。
「壁の登り方はわかったけど、まだ登ってないや」
あっはっは。

笑い事です(笑)

やっぱ身体性って大事ですね。
身体動かすと、自分がどこにいるか、自分になにができるかなにができないか、
すぐわかる。

潜在意識というのはでも、ほんと、侮れないもので、
そう考えると、やっぱりNetworkの前につける言葉を
「Power」にしたのは、なにかしらそういう予感があったからのようにも思います。
上述どおり、「Super」や「New」ではないんですね。
自分は自分でしかなくて、言うなれば、「より自分」。
超や新では、変わっちゃってる、って語感が強い。
一つのアイデアが、脚立に乗ることだと考えれば、その脚立そのもののイメージは、
そしてそれによって結果として出てくる力のイメージまで含めると、
「Power」だったんでしょうね。
そしてなぜ単純な英語かといえば、80年代テイストが好きという以上に、
おそらく世界戦を意識してたのかと(笑)

とりあえず永らく永らく悩んできた(ほぼここまでの一生です)
やり方もわかったし。
結構なところまでいけそうだし。
(世間様的評価はわかりませんが、自分の納得できるところという意味では)
そしてなにより、すごく楽しそうだし。
あとはやるだけです。
それも「やらなきゃ」とか「がんばらなきゃ」とかじゃなくて、
FFのパッド取るように、わくわくしながら「さあやろかー」という感じです。

そしてふと振り返ってみれば。
子供の頃、ものを書いてた時は、そんな感じでした。
遊び心が必要、なんじゃなくて、遊ぶのと同じ楽しさが、そこにある。
僕の場合は。
「あーあー、そういえばそうだったそうだった」
と、少し懐かしく、でもさっぱり新しい気分です。
運命というものがあるのならば、
そんな、小学生の時に連絡帳に小説書いて友達に見せてたなんて、
どう考えても僕はこういう運命に定められてるっぽいのですが、
しかし、まるで別の運命を歩もうとしていた時期も確かにあって、
それもなにかがどうかしてたら、
経済学が面白ければ、
ネットワークTVがすぐ出来て世に受け入れられてたら、
やってたソフトが売れて小銭を手にしてたら、
歩み続けていたかもしれなくて、
「運命は、完全に定められてるけど完全に自由」
ってのもすごくよくわかる気がします。

とりあえず、僕も、文章における甲野先生のようになりたい。
「あのヘタクソな、内容のない、冗長な、キレの悪い、ケレン味だらけの文章を書いていたあの人が、あんなにいい文章を書けるようになるなんて」
何年後かにはじめて僕の文章を目にした人が、
いいなと思ってくださって、
興味を持って古いほえなが見てみたら、
「なんじゃこりゃ!? 誰これ!?」
そんなふうに。
その事実そのものが、多くの人に夢と希望と勇気を与えるじゃないですか。
小難しい小理屈こね回されるより、その事実一つの方が嬉しいですよね。

凡人であるということは、大変に尊いことです。
天才は、気づきや努力を繰り返す方法を知らない。
だからそこまでです。
でも僕は、方法論を知っているから、それをやってきているから、
いくらでも伸びることができる。
……実際どこまで伸びるかは別にして(泣)

いくらでも他に向いてる仕事があるのに、
よりによって、よりにもよって一番才能の無いものを選んでる、
というのが、これがまたながたさんらしくて好き(笑)
また、ちょっとセンチメンタルに言えば、センスや才能でごり押しできない場所に、
わざわざ誰かが置いてくれたんですね。
きっと小悪魔のような女神様に違いない。
ちょっとだけつり目の。
そんなことまで含めて、人はそれぞれ、そこにいるままでそうであるままで尊く、
そしてそこから、なんでもできる可能性が、ある。

そんなところです。
お読みいただきありがとうございました。
これからもじゃんじゃんばりばりじゃんじゃんばりばり、いろいろ書いてまいります。
またお気が向かれましたら、お読みください。
リンゴが落ちるかもしれません。

高い視点と軽いフットワーク、
ゆるめた頭とこころで世界がちらりと見せてくれるアイデアを見逃さず、
おそれず飽きず諦めず、試して鍛えて手に入れる。
自分から、より自分の好きな自分へ。
より自分のなりたい自分へ。
やりたいことを、やりたいように。

Power your heart.


3/26 非・常時接続生活開始

常時接続が奪われました。
不自由です。

モデムの取り替えやNTT回線チェックなど、いろいろやりましたが今回のケースは
「ADSL回線に干渉が起きてデータが変になっちゃってる」
というものらしく、要するにYahoo!BBにもNTTにも、そして我が家でも
どうしようもないらしいです。
イエス、お手上げ。

今家のほんとにすぐ前に大きな病院が建設中なんですが、
そろそろ内装に入ってて、なんだか電線とか電柱とか弄りまくってます。
たぶんそれが原因っぽいのですが、因果関係なんか立証できませんし、
届かなくなっちゃったものが元に戻るわけでもない。

「わあ、キャンプ生活みたいだー」
などと喜んだのは2枚目のWebページ開くまでで、もう嫌です。
ウチはADSL化する前から、ISDNダイアルアップルータでフレッツISDNという
半常時接続だったこともあって、2段階後退なのです。
つまり、ウォシュレットからポットントイレ。
耐えられない。
従ってまたBIGLOBEのいつまで経っても何がどこにあるのかベラボウにわかりにくいWeb
(サービスインすぐからのユーザーですが、その頃からずっとです)
を開きに開いてBフレッツそう光ファイバーコミュニケーション回路全開夢操作ワンを
申し込んでしまいました。

しかし光はご想像通り工事が大変らしく、
「まずできるかどうかのご相談を」
やらねばならず、その「ご相談」の日時を指定するのですが、
これが「最速でも」「8営業日以降」つまり3/26現在からですと実に4/7。
4/7まで常時接続が無いだけでも気分はリオ・ファーディナンド
(イングランド代表およびマンチェスター・ユナイテッド守備の大黒柱、世界屈指のCB。
 ドーピングチェックを軽い気分ですっぽかして出場停止「8ヶ月」。
 もちろんもうすぐユーロ2004。)
だというのに、そこから工事までさらに短くて数週間長くて数ヶ月、
いや、ヘタをすると諸般の事情で「今はまだ無理ですねえ」とか。

不自由子ちゃ〜〜〜ん(ダイブ)

んーと、まあ自分は日に一度ThinkPad引っ張り出してダイアルアップ、
メールとWeb巡回とほえながアップロードでもいいんですけど、
モジュラーから遠い母マシン弟マシンには、ネット接続手段が無いんです。
そう頻度は高くないとはいえ、二人ともメールもWebも通販もしてるわけで、
IT担当相としては非常に心苦しい。
でもどうしようもない。

ということで、通信回線は今や完全にライフラインです。
ADSLはこのように、いつ突然ダメになるかわかりません。
個人宅はまだしも、SOHOや事務所でADSLに依存してる方は、
まともに動いてるうちに光なりケーブル会社のケーブルなり引いた方がいいと思います。
そうナウ今すぐ。
今すぐ。
今すぐ。
よろしゅうございますか、思い出してください数年前を。
アナログモデム56kでは1MBのファイルのやりとりさえ苦労します。
10MBになるとMOを宅急便です。
数台のPCで回線を共有することもできません。
「いま回線使ってる〜!?」と声を掛け合う毎日。
思い立った時に資料をWebで探すこともできません。
そう、Googleアンリーチャブル。

つまり、仕事になりません。

今すぐ。
お仕事でネット使われてる皆様は、今すぐ光ファイバー会社にお電話を。
0120・ヨイファイバー・ヨイファイバー。

止まってからでは、遅すぎます。

---

しかしなっちゃったものはしょうがない。
これはきっといたずら好きの小悪魔のような女神様(ちょっとだけつり目)が
「ふふ、『不自由も自分らしさ』だなんて、
 和久、またあんな生意気言ってる。
 じゃ不自由にしちゃお☆」
と、右手小指をかわゆく『くいくいっ』とやっちゃった結果ですな。

真実はともかく現実問題として3日も離れてみれば、
(旅行なんかと違って、しばらく帰れる見込みがなくなれば)
巡回してたほとんどが「ま、いいか」てなところであることに気づいたり、
PC前に座る時間が減って、別のことしてて、それはそれでよかったり、
まあ、まじめに、悪いことばかりではありません。
もう一度「何が必要だったのか」「何を楽しんでいたのか」
見直すきっかけにしたいと思います。

3/22「PowerNetwork」を書いた直後にネットワークから寸断されるとは、
なーんだか妙な符合ですねえ(笑)


3/25 ドクトル先生

【ゲルトベルグハインリッヒャー】

ヨハン=ハインリヒ=アドルフ=ステッペンウルフ=ディ・ミケーレ=フォン=ゲルトベルグハインリッヒャー。ゲ博士。
56歳。南ベルリン大学ムー研究所(ムー研)、ポストドクター。

イタリア人の父とオランダ人の母の間に生まれた生粋のボンっ子で、幼少のみぎりより「30年に1度の逸材」と誉れ高く、15歳で南ベルリン大学(以下南ベ大)に入学。
当時の専攻は宇宙物理学。
しかし大学院卒業間近の17歳の夏休みにいたり現代知の方法論に疑問を感じ、大学を出奔。生協で買った青春18きっぷを握りしめチベット・インド・アフリカ各地・バスク・ニューヨーク・マチュピチュ・アマゾン・南極・常夏の島フィジー・雲南省・東大阪などを約3週間放浪。
帰国後、南ベ大にてテント生活に入る。

悟りを開いたのは東大阪。
工事現場の事務所で就寝中、上層部の地元対策のミスから日本刀を振り回すヤクザ一団の襲撃を受け、ヨハンが鉄筋でディフェンスしている隙に現場監督が右翼の大物に電話をかけ話をつけてくれた経験から。
「刀は、要らない。人類皆、兄弟」。

視点を変えれば問題は、恐ろしく簡単に解決する。

ズル剥けに脱皮した彼の知性はもはや異次元の様相を呈し、
「みずほ銀行はどのぐらいエライゆうて、イカの塩辛でゆうたら桃屋やからな」
「メジャーのすごさは、ものさしでは計れない。例えば、おっぱいとか」
など、どう考えても真実としか思えない公理系を毎日のように発案、ゲーデルとその弱腰に喧嘩を売り続ける。
そんな右か左に200年タイムスリップすればノーベル賞間違いなしの彼には大学側、また教授陣も一目半置かざるを得ず、
「まず彼を呼べ。彼の話を聞け」
と、各種宴会にひっぱりだこ。黙認どころか大学内部での完全なる自由と完全なる独立、いくばくかのお小遣いを与えられている。

上記のとおり語学のセンスも天才的で、10ヶ国語に不自由しない。
すなわち、ドイツ語、大阪弁(船場)、大阪弁(主に関西圏の大学で使われている変に標準語が混じった粘り着くような学生言葉)、河内弁、泉州弁、奈良弁、和歌山弁、三重弁(津以南)、神戸弁、京都弁である。
また学問以外にも多芸多才、37の称号を持つ男と呼ばれたい。その37とは、「37の称号を持つ男」「ジャニーズ」「教育物理学者」「ドイツNo.1」「ツァーリとは呼ばないで」「惑星評論家」「消防車」「トレパン」「おい、そこの」……(中略)……「誠実なペテン師」「お兄さん」。

悟りの地・日本をこよなく愛し、好物は唐揚げ茶漬けと序盤の酒井法子。アイドルではマジェスティック12。食後の一服はもちろん、烏龍茶である。
オタク文化にも造詣が深く、好きなキャラクターは「『ゴッドシグマ』で最後まで裏切りっぱなしだった博士」と、名前すら覚えていない。
また、書物も日本の若者向けライトノベルなどを愛読、最近面白かった本は「新・人間革命」池田大作。

家族は息子のような人が一人。奥さんのことは聞いてはいけない。
まるで似てない息子ヨアヒムは黒縁メガネの素敵な28歳。篤実温厚、業績中の上の銀行員で、この秋には幼なじみで12歳からのガールフレンドであり、栗色の髪は美しい許嫁・グレーテヒェン=フランクルと結婚の予定。ヨハンは
「赤いゲートルを巻くまでには(ドイツでは60歳を還暦といい、赤いゲートルを巻いて祝う)初孫の顔が見たいのお」
と日々プレスを掛け、女性経験といえばカブスカウトのキャンプファイヤーのフォークダンス程度しかないヨアヒムの顔が赤くなるのを楽しんでいる。
しかしここに問題が一つ。
グレーテヒェンの年の離れた末の妹に(ユダヤ系フランクル家はユダヤの伝統にのっとり貧乏人の子だくさんであり、8人姉妹)、若い頃に限定するならロボットのような美人が多いドイツでもとびきりの美少女・アンナがおり、このアンナが飛び級で入った南ベ大でなんとヨハンに一目惚れ。アンナ当年とっていまだ14歳、入学年次でわかるとおりヨハンをも上回る「50年に1度の逸材」であり、
「柴漬けに、ときおり全身ふにょふにょのキュウリが混じっているの、あれはなぜだ?」
などというヨハンにもすぐには解けない難問に対して
「それ、おナス」
と、明朗快活な正解を瞬速で叩きつける。故に彼はまったくもって頭が上がらない。
しかしアンナにとってはほぼ唯一の全力を出せる相手らしく、なにかにつけてテントを訪れてはヨハンの膝の上を独占、精神的にも物理的にも尻に敷いている。もちろん、ヨハンも満更ではない。
彼(そしてアンナ)にとって怖いのは法律でも常識でもなく、己の理性だけなのだ。

しかし健全なる常識人グレーテヒェンの明朗で高潔で単純で平凡な精神にはそこが理解できず、アンナが
「ダーリンはぜーんぶあたしのものだからね、ぺんぺん」
などとラッコ座りでヨハンの両膝を叩く、それを見て近未来の夫ヨアヒムがヘラヘラ微笑みをうかべ
「うらやましいですなあ、おとうさん」
などと感想を漏らす、この情景にまず耐えられない。
私じゃダメなのあなた、と。
ジェラる前にその夜にでもやってみればいいものを。
しかしそれも結婚後、都ベルリンから1時間半ぐらいの地方都市に、イージーオーダー一戸建て、間仕切りばかり多いプレハブ二階建てを30年ローンで買うまでの辛抱だわ、TOTOの色はペールピンクが飽きないわね、と、ヘタをすると義理の父が義理の弟を兼任するかもしれないというメビウス・シチュエーションにおいて精神の均衡を保っている。

夕暮れ時には、「環境のためなら地球なんかどうなったっていい」というお国柄、南ベ大では厳禁されている薪を用いて火をおこす。ヨハンがおこした小さな火が大きくなる頃、学生教授から警備員、食堂のおばちゃんから犬にいたるまでがその火を囲む。みな、破れる規則を誰かに破ってもらいたい善良な人々と犬なのだ。
もちろん彼はそんなことなど意に介さず、中央学食で売れ残った「Gekkingcarahhacurrypang」(ドイツ風の、とても辛くとても黄色いシチューを包んで悪い油で揚げたパン。ちなみに彼の故郷ボンの名物はこのシチューで、これを「ボン・カレー」という)を自家製の電子レンジでボン(爆発)させたものと、その辺の木の根とその辺の草、それを水道水で煮込みあげる。
それは第二の故郷・東大阪の郷土料理、「オカイサン」。
南ベ大夕べの風物詩、その中心にはいつもヨハンがいる。

そんな平穏な日々を送る彼にもしかし、一つだけ大きな悩みがある。
それは、知人、学生、教授陣に至る彼を取り巻く人々が、せっかく3週間夜寝ずに昼寝てでっち上げた37の称号を、どれ一つとして使ってくれないことである。
人は彼を、単にこう呼ぶ。
「ドクトル」(先生)。

「なぜ、テント生活を?」
「首を伸ばせばすぐ星が見れるからさ。
 こう見えても宇宙物理学者だからね」

チラシの裏紙と記念品の鉛筆を手に、ドクトルは今日も、知の地平を駆け抜ける。


3/24 鼻

僕は、大阪弁で言うところの「鼻つん」(物理的に鼻が利かない人)です。
慢性の鼻炎持ちで、風邪ひくといつもズルズル。
鼻呼吸下手だし匂いにも鈍感なんですね。
「まあ、そりゃもうしょうがない」と諦めてたんですが、こないだ。

ワインって、よくわかんなかったんです。
好きなビール以外でも、日本酒、焼酎、ウィスキー、ブランデー、バーボン、
どれも「ああ、このラインが好き」とか、「これはいいものですねえ」という、
好嫌良悪の判断基準が自分なりにあったのですが、ワインはそれが無くてできなくて。
で、こないだふと気づいたのが、
「これってひょっとして香りを楽しむものか!?」
ひょっとしなくてもそうでした(笑)
ワインって香りのお酒で、魅力に占める香りの割合が、
他のお酒とは比べものにならないんですね。
だから、鼻つんの僕には、よくわかんなかったんです。

これはまずいぞ、と。
鼻が利かないと、ワインだけじゃなくて、香りを楽しむ人生の楽しみを
捨ててることになるじゃないですか。
と、思えば、ウチのまま上は園芸が趣味ですが、あれも、
言えば香りの趣味でもあるわけです。
薔薇の香りかいで恍惚と乙女の表情を浮かべる56歳。
なんじゃありゃ、と思ってたのですが、
なるほど、よい香りならばそれもむべなるかな。
本能直撃、文字通り酔えますからね。よい香りには。
そしてそれ、香りを育てる、それは楽しいですよね。

そう思い、いつもは無理ですけど、フトした時、
例えばご飯の一口目をいただく時、コーヒーを淹れた時、
咲き誇る梅の下を通る時、
両の鼻の穴から思いっきり空気を吸い込んでみました。
気分はサブちゃんもしくは糸井ダーリン。
そのぐらいやらないと、香りが嗅覚中枢まで届かないんです(泣)

でもそうすると、やっぱり芳しき香り、さすがに届く。
そして、「ああ、梅のすっぱいにおいだ〜」と感動できるんですね。

「鼻の大きい人はアレがナニ」
と申しますが、その伝で言えば太さビールびん・長さビールびんはまちがいない
攻城加農砲を所有していると推定されるバンキング大艦巨砲主義、
ドイツの教育物理学者・ゲルトベルグハインリッヒャー博士おっしゃるところの
「新婚ホヤホヤ」
のokbちゃんですが

「モノ言いがあまりにもオッサンくさい」
「すみません」
「でも、私こんな鼻ですが利かないんですよ〜」
「なんと」

「鼻が利かない」という慣用句は、世渡りがヘタな様を表現するによく使われます。
ヤバイ匂いを嗅げず、それを回避できない。
苦しんでるのは当人なので、一種ほのかな憐れみも香るこの言葉、
そういえば僕もokbちゃんも、鼻が利きませんや、あっはっは。

笑いごとではない。

逆に鼻の効く人といって真っ先に思い浮かぶのが畏友・M澤先輩で、
彼は何かにつけセンスがいい。
上述のような、私ならどっぽん片足つっこんじゃうところからの
危機回避能力も高い。
と、そういえば。
M澤先輩は初見の食べ物や飲み物を、たとえ見るからに美味しそうな一品でも、
人目はばからずまずは、くんくんお嗅ぎになるんです。
その様はまさにソムリエ王・シンヤ・タサーキ。
あ、なるほど、文字通り鼻が利いてるんだ、と。

いや、鼻、大切です。

香り、匂い、嗅覚というのは感覚の中でも慣れが一番早く、
そのくせ、訓練によって分解能を極限まで高められる
(特定の匂いに関しては犬以上の方もいるそうです。
 100億分の1濃度で利根川の水を嗅ぎ分ける方が水道局におられるとか)
不思議な感覚らしくて、
だからこそいろんなものがごちゃごちゃありすぎる、
都会の日常生活では自己防衛のためにリミッターが掛かってるのかもしれません。
そしてそのリミッターは、嗅覚だけでなくいろんなものにありそうな
悪い予感ももりもりするのですが、ま、それはとりあえず。
こうして意識して香りの世界に戻ることも楽しいな、と。

いいわけはなし、やれることをやれるだけやろう。
そんなお話の、ひとつ。


3/23 足っくす

【本日の「セレッソのCBぐらいなら俺に任せとけ」と鼻息も荒い1969の森本君と同い年・中学卒業したてのぴろさん】

「最近、『エヴァンゲリオン』に凝ってまして」
「ほう。
 ……ぴろさんは綾波派?惣流派?」
「両方」
「だから」

こうして大阪の男の子は大きくなっていくわけです。

---

身体の話の続きです。

そんな甲野先生の本を読み、朝、いつもの腹筋をやろうと思って、ふと。
「僕は別に腹筋を6つに割りたいわけじゃない」
もともと腰から警戒信号が出てたので、それを押さえるために始めたものです。
腰痛の話になると必ず腹筋・背筋を鍛えろ、と言われるので。

でも、普通、当たり前のことですけど、
腹筋運動というのは「腹筋を鍛える」ためにやるものですから、
腹筋を鍛えるわけです(笑)
で、アメリカなんかで最近流行りの方向が、
「スロートレーニング」でしたっけ、
とにかく筋肉を意識しながら、ゆーっくり動かすことで、
よくない負担は掛けず、安全に負荷を高める方向です。
運動系の部活動なんか経験ある方はよくご存じだと思いますが、
腹筋って「腹筋だけでゆっくりやる」のが一番きついんですね。
信じられないぐらい負荷が高い。
反動つけて、おしりの筋肉とか太腿の裏の筋肉とか、背筋とか、
首を前に出す勢いとか、手を頭の後ろで組んでたら、それを畳むようにして、
肩胛骨のところの筋肉使うとか、とにかく身体全部使った方が楽。

プロレスラーの方とかで、一日腹筋2000回、とか言われるじゃないですか。
彼らのやってる腹筋はおそらく、こういう身体全体使う腹筋なんです。
たまにこういう方とかボクサーの方とかトレーニング風景で腹筋運動写ると、
めっちゃ速い。(そりゃ2000回ゆっくりやってたら他のトレーニングできない)

でね、たぶん、その方がまだマシなんです。
スローで腹筋「だけ」鍛えるっていうの、おそらくほとんど意味がない。
どころか、いろいろ良くない効果がありそうな気がします。
もちろん、腹筋だけ鍛えにはそっちの方が効率よくて安全で適切なんでしょう。
でも、上述のように、腹筋運動してる人は、「世界美麗腹筋コンテスト」
に出ようと思ってやってるわけじゃない。
格闘技だったり球技だったり陸上だったり、全身の中で一つのパーツとして
腹筋を使おうという人々なんです。
そして、それは我々も同じ。
ちゃんと日常生活でスムーズに楽に動いてくれる身体を取り戻す、
もしくはメンテナンスするために軽い運動をするわけで、
腹筋のために腹筋をやってるわけじゃない。
腹筋だけが鍛えられてしまうと、背筋とのバランスが崩れて、よくないかもしれないし、
もしそういうデメリットが全くなかったとしても、あまり効果のないことに
多大な時間を費やしてる、というマイナスはあるわけで。

要素分解してそこだけ強化する、のは、
常に、こういう問題点があるようです。

じゃあどうやって鍛えるんだよ、という話になると、
専門家じゃないからわからん(笑)

ただ、我々一般人の場合は、先ほどのスロートレーニングも非常に効きそうで、
負荷の面よりも、筋肉の付き方とか動き方とか、
どこまで使えるとか、そういうことをひとつひとつ意識する、
ということは、非常に大切なように思います。
ストレッチもそうですけど、
凝り・滞りを無くして、スムーズな動きを志向する。
質的転換、とまで言い出すのは甲野先生にとりあえず今のところお任せしておいて、
必要なパーツが、水のように、流れるように連動して、
必要な場所から必要な場所へ届く。
そんな感じで。
それには、パーツ単位での強化はあんまり必要ない。
むしろ相当考えてやらないと邪魔なことも多い。

メーカーの工場、は最近、そういう
「トータルで上手く動くには」
というところで徹底的にいろんなアイデアが走ってて、おもしろいです。
工場実習でエアコンの室外機組み立てラインに立ったことがあります。
配線図描いたシールを裏側に貼るんですけど、それを貼る機械がある。
でも、それはラインから外れてるので、別のラインから、人間が、
室外機カバーをその機械に載せて、シール貼っていただいて、
もちろんシールが切れないように神経を使いながら、
そして人間が、また元のラインに戻すんです。
ラインに僕が立って貼った方が、3倍効率がいい(笑)
もちろん今は、こういうことを日々ものすごい論理的に詰めまくってるので、
(そこが日本のメーカーのお家芸)
例えばキヤノンの複写機は最終組み立ては一人の人がずっとやる、とか、
「トータルで」という考え方が浸透してるんですけど。
Dellの工場もそうだそうですね。最終組み立ては人力。
Amazonの配送センターも、ものすごい機械システムかと思いきや、
人が本棚から選んでセットする(すごい大規模だけど)そうです。

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うちには4匹のネコがいるのですが、
一番運動センスあるのは、一番小柄なマイケルです。
コイツの動きはまさに「ネコ」という言葉からイメージされる通り、
音もなく歩き、しなやかに軽やかに跳び、極めて静かにすとんと着地。
見てて惚れ惚れするような動きです。
特徴としては、なにかヒントにならないかな、と思うんですけど、
初めと終わりのスピードが遅いんですね。
すっ - すーっ - ふわっ
っていう感じで動作する。
跳ぶのでも一番高く遠く跳ぶんですけど、
大地を蹴ってる感じはあんまりしない。
ほんと、「すっ」って跳ぶんです。
もちろん、狙い定める予備動作はしますけど。
あれ見てると、パワーは関係ないや、と思いますし、
じゃスピードか、って、一番「止まって見える」のはコイツなんです。
マイケル・ジョーダンもそうでしたけど、単純なスピードじゃない。

そしてこの動きは、美しい。
日舞とか能とか歌舞伎とか、目指すべきはたぶんこの動きなんでしょうね。
文楽の人形も、上手はそういう動かし方されてますね。
でもそれって、
「動かすべきところを速く、止めるべきところをきっちり」
なんて要素分解では説明しきれないと思います。
以前、TVでパパイヤ鈴木さんが、「彼らは日本のトップダンサーですよ!」
ってな方々4人と一緒に踊っていたんですけど、
一番上手いと思ったのはパパイヤさんでした(笑)
身体能力では敵わないので、他の人が止めてるところ省略したりするんですけど、
でも、一番綺麗。
「てかこんなん見せたら『俺が一番上手い』ってアピールにしかならないじゃん」
などと感想持ちながら見てました。

そうそう、あと、ナイジェリア代表、スーパーイーグルス。
絶対的な身体能力を誇りながら、途中で気持ちが切れる、
という弱点を持つとされてますが、
もちろん精神的な面もあると思うんですけど、
それに加えて、あの、天性のバネでポンポン跳ぶ動き、
あれがものすごい身体に負担掛けてるんじゃないでしょうか。
だから、精神的にちょっと辛くなるともう、身体が動かない。
(もちろんいろんな要素があると思うんですけどね、食べ物とか)
かと思えば今野みたいな、なんでもなさそうな選手が、
90分走り回る。
それは、根性とかコメ食ってるとかそんなレベルではない、
身体の使い方が効率いいから、疲れない。
そんな何かがあるような気がします。

もちろんこれは仮説で、逆側を大々的に組織的にやって成功した例はまだ乏しいですし、
またその「逆側」ってのをどうすりゃいーんだ、ってところを、
甲野先生はじめ日本中の有志の方があーでもないこーでもないと
お悩みの最中だと思うのですが、
もし、その考え方からすれば、学校教育の体育とか、
パーフェクト逆方向に間違ってますよね。
鍛える、というのは各個人によってちがってて、
ある子は背筋が強いから腹筋鍛えると飛躍的に動きがよくなるだろうけど、
ある子は腹筋はもう強すぎるぐらいで、それ以上鍛えると背骨悪くする勢いだ、
とか、絶対あるわけです。
でも「とりあえず腹筋30回」。
水泳でもランニングでも、スピード競争させるじゃないですか。
競争でなくても、自己タイムと比較して速くなった、偉い。
それは、抜本的に、間違ってる。
遅くなっても質的に優れた動きに進化してるという可能性を全否定してる。
なにより、心地よい動き、身体を動かして気持ちいい、
そんな要素をほぼ無視してますよね。
こんなもんを教育と言えるのか。
批判多い他の教科だって、でも、四則演算できない子に二次方程式は解かせませんよ。
だのに体育だけは、「とりあえずグランド10周」。
どうして寝ながらでも10周走れる子と、1周走るのも死ぬ思いの子を
同列に扱うんでしょう。
そこからの脱却だってそんな難しい話じゃなくて、
「5分走するからとりあえずお前ら全力で走れ」
にするだけでも全然違いますよね。(もちろん他者比較は意味ゼロ)
ほんとはそれも、5分走るのが死ぬほどしんどい子と、5時間でも走れる子は、
分けて考えるべきなんですけど。

では、具体的にできる範囲でなにをするか……って、
たぶん気持ちいい範囲でのストレッチ、全身各部いろいろ、っていうのが、
現在一番近いところにあると思います。
各パーツの可動範囲の確認と、使ってないところ動かし、
いろんなものを送り込むメンテナンス。
そういうストレッチを、流れるように一セットまとめたものがあればそれを
朝起き抜けに一つやればその日一日快調に……

それを「ラジオ体操」といいます。

リトル松井がラジオ体操してたら、同僚に
「なんだいその不思議な運動は!?」と訊かれ、
「カミカゼ・ストレッチさ!」と答えたと聞いたのですが(一部嘘)
考えてみれば国民みんな知ってる全身ストレッチエクササイズがある、
ってすごいことですな。

先人の智慧侮りがたし。

---

僕は、歩くのと水泳は好きなんですけど、
で、どっちも割と、かなり長時間やってても苦にならない方なんです。
でも、めっちゃ遅い。
小学校低学年の時、家族で四国は金比羅さんに旅行に行ったんですけど、
あそこ、延々続く階段が有名じゃないですか。
1/3ぐらいのところに前宮(だったかな)があって、もうそこで疲れちゃった家族が
「ここで待ってるから上行きたかったら行っといで」と。
で、一番奥の奥に、奥の院っていうちっちゃーい祠あるんですが、
好奇心にまかせてそこまで行っちゃったんです。
今にして思えば、そんなちっちゃい子の方が持久力ないはずで、
(もちろんその頃から大の体育嫌いですよ、念のため)
でも、自分のペースで自分の使いやすいように身体を使えば、
そのぐらいの子でも、大人も嫌がる、あるいは登れない階段を、
しっかり登っちゃう。
ポイントは、ここのような気がします。

余談ですが帰ってくると家族にエライ怒られまして。
「いつまで経っても帰ってこない! 心配した!」
それを聞いて、
『だって「いつまでに」とか一言も言うてへんやん……
 自分のミスを何怒ってんねんこの人達は』
と思ったのは、今と同じです。

でも、今も街には、学校教育と同じ身体の動かし方が氾濫しています。
健康のために歩きたい、と思って、ウォーキング系のWebとか見に行ってご覧なさい。
やれペースはどれぐらい、かかとから落として力強く大地を蹴る、
20分以上でないと脂肪燃焼に切り替わらない……
そんなこたどうでもいいんです、競歩選手で五輪に出る訳じゃないんだから。
そしてものすごい勢いで早朝の長居公園を突っ歩く人々が
山のようにいるわけですが、
その姿はこれっぽっちも美しくない。
そう、美しくないんです。
そんな動きが身体にいいはずないじゃないですか。

これも先日お話しました情報のS/N比で、
たいていどっかの情報の孫引きひ孫引きなんです。
自分で試してどう、とかいう情報はほっとんど無い。
試してても、もちろん先入観バキバキで追試験してるわけですから、
「やっぱり20分だよ!」ってことになる。
「どこにでも書いてある情報だから信頼できる」
っていうことはこの時代もうあり得ない。
それは、ただ「コピーしやすい情報」という価値の証明でしかないわけです。
人の性質・体力・体格・体調、気候条件に季節の条件、
公園か道路か都会か田舎か、時間帯はいつか、
「20分」なんて目安としても出てくるはずない。
でも、「20分」って「言いやすい」から言ってるだけのことです。
Webの場合顔も見えないので、ヘタすりゃ歩いてもいないヤツが言ってますからね。

ま、「脂肪燃焼」を目的としてウォーキングされるのなら、
負荷は掛ければ掛けるほど良いのかも知れませんが、
ウォーキング、歩くこと、はそれそのものが非常に楽しいことです。
その場合、ここでようやく話がぎゅーと戻りまして、
負荷は軽ければ軽い方がいい。
どこまでも行こう!
というノリの方がいいわけです。
逆の発想で、「疲れずにいつまでも歩ける」という歩きを、最高の歩き、と定義する。
そしてそれに近づけていく。
それにはおそらく、というか確実に、「スムーズな動き」であることは必須です。
力強く蹴る、とかたぶん絶対ダメ。衝撃こないような着地と離陸で。
歩幅を大きめ、絶対ダメ。関節に負担掛けない無理ない歩幅で。
ましてペースなんて、自分の歩きたいペース、
歩いて気持ちいいペース以外はあり得ない。
目安も、ない。
ていうかそのいい加減、「どうやって楽しんだらいいんですか」という質問はやめなさい。
楽しさを見つけるところがかなり楽しいんです。

各部のタガを緩めて、ふにゃ〜んとさせて、
そこからスムーズな動きを指向して、
自分の動きたいように、動いて心地よいように動く。
凝り張りが出てきたら、休んでそれを取り除く。

これは、生き方の極意そのものですなあ。
なかなか、そうはいかないんだけどね。
ま、そんなきもちで。

話が今日もあっちこっち。
結論といたしましては、御大に借りたアシックスのスニーカー最高、ってことで。
やっぱり日本人の足には日本の靴だよ!


3/22 PowerNetwork

【本日のキーワード】

イモコロリ。

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今をときめく甲野善紀先生の御本がおもしろくて読みふけっております。

武術に限らず、身体を使うものはなんでもそうだと思うんですが、
「認識のズレをついた動き」
ができると、単純なパワーやスピードとは異次元の強さを発揮できる。

ウチ(といえばミラクルズ)のありすをファンタジスタに仕立て上げようと思った時、
イメージの大本になったのは小野伸二の1本のパスでした。
コンフェデかなんかで右脚アウトサイドで西澤(と記憶)に送ったダイレクトパス。
あのパス1本で、スタジアムの、TVの前で見てる者の、
そして敵も味方も、シンジ以外の全員の時間が歪んだんです。
「これだ、このパスは誰にも止められない」

スピードとか球威とかDFの間を縫うとか、そんなんじゃないんです。
計算づくしは、どれほど精密にやり遂げても、同じ計算のできる相手には通用しない。
少なくとも相討ちには持ち込まれてしまう。
「計算外」のことをやる。
相手が認識できない、予測と違う(以上でも以下でも可)動きができる。
だからこそ「『ファンタジー』を現出できる人」なのであって、
俊輔とか松井とかファンタジスタとか言われると鼻水出ます。
もちろんめっちゃ上手い。
でも、「上手い」のと「それ」とは、根本的に違う。
彼らのプレーは、100馬力のエンジンがあったとして、
「素材に動弁系に設計に工夫に改良を重ねて110馬力出るようになりました」
というものなんです。今問題にしてるのは、
「ターボつけて300馬力です」
というエンジン。
「豊かなイメージ・溢れるアイデア」なんて言われちゃったらダメなんです。
把握されてるわけだから。
「それはなに!?」って言われないと。
しつこく言うと、「上手い!」って言われちゃダメなんです。
それは、見る者の認識できる範囲の中にあるから。

#クライフが壊れたオルゴールのように「テクニックテクニックテクニック……」
#と呪文唱えてますが、たぶん、彼の言ってるのは、これではないかと。

ジダンのトラップ、アンリのトップスピード、ベッカムのクロス、ロナウドのダッシュ、
どれも時間が歪みます。
見てる者が三半規管に狂いを生じさせられて、文字通り「酔う」んですね。
じゃ、アンリ速いって、陸上の金メダリストより速いかってそんなことないわけです。
でも、世界戦の100m決勝見てたって味わえないような「クラクラする」速さがある。
つまり、実際の速度がものすごい必要はない。物理法則を越えてる必要はない。

サッカーじゃなくても、全盛期のマイケル・ジョーダンのジャンプは
「なんでそんなに飛んでるんですか」
ってヤツだったじゃないですか。
でも人間も物体である以上、一旦跳んでしまえばあとは引力に従って落ちるだけだから、
落ち方は同じに決まってる。
それなのにどうしてそう見えるのか。認識が歪むのか。
空中での姿勢なのか、跳ぶ軌跡が人と違うのか。
その辺の「なぜ」はまるっきりわかんないんですけど、
とりあえず「ズレ」が、そこにある。

---

さて。
その技さえ手に入れてしまえば向かうところ敵なし百戦百勝なわけですが、
ではどうやってそんなものを手にできるのか。
もちろん基本的な資質がすごく大きいんでしょうけれども、
天才と呼ばれる人達だって最初にその競技に触れた時は初心者だったわけで、
では、どこで何をどう気づいたのか。

それが簡単にわかりゃ誰も苦労しない(笑)

ただ、単純反復練習とか、負荷を段階的に上げていくとか、
そういう「既存の比例上」には、「おそらく」このズレは無いわけです。
ステップ登ったところにあるので、その崖を何としても越えないと行けない。
今までの歩き方では、その崖は越えられない。
じゃあどうするんだ、フリークライミングを練習するのか、
バネのついた靴を作るか、トランポリンを練習するか、
あるいはヘリコプターをチャーターするか……
とにかく質的に全く異なる何かを考え、試み、感じ、見極め、捨て、また考え……
をやっていく他はない。
それって苦しいですけど新しい発見の連続、楽しいことであって、
これこそが修業の醍醐味。
反復練習にマゾヒスティックに耐えることが修業の醍醐味では、ない。
(それが楽しくてたまらない人もいるでしょうけれども)

もちろん身体を動かすことだけではなく、
学問も芸術もみなそうではないかと。
あるいは生き方も。

TARO先生が「上手くなんかなくていいんだ!」と絶叫されてるんですが、
それも結局同じことで、「技術で小綺麗に描けてる絵」なんて何の価値も意味も無い、
んですね。(芸術的には。商業的には別ですが)
上手いのは別に困らないじゃん、
というのも実は微妙で、筋トレと同じ、反復技術訓練というのは、
上述の根本的な鍛錬に目をつぶって、「何かやった気」になりやすい。
で、実際時間やエネルギーもたっぷり使う。
それはマズイ。
手慣れてるし、上手ければ上手いほどそれが通用もするから、
それで誤魔化す誘惑も強くなる。それを捨てる勇気も無くなる。
で、結局そこで止まる。
だからあの異常に上手いピカソが、後半、
「ああ、俺どんどん下手になるよ!イヤッホー!最高!」
と叫んだわけです。
下手になればなるほど、新しい何かを手にする可能性が増える気がして。

---

個人的に、ひとつキーワードになるんじゃないかな、と思うのは、
「スッとやる」
というイメージです。
甲野先生が「タメをつくらない、アソビがない」とおっしゃってますが、
「思い立ったら、ノーシンクノールックノーウェイトでやってみる」。
下手な考え休むに似たり、一生懸命熟慮を重ねて選択した行動なのに大失敗、
ってことはよくあります。それも、失敗してからなら
「どうしてこの大事な要素を、もっと大切に考えなかったんだろ」
という簡単なポカのことも多い。
結局、還元的に要素分解してウェイトを決めて方程式を解く、なんて、
人生はそんな甘いもんじゃないんですね。
そんな浅知恵よりも、
「やろう」と思った一瞬、その一瞬は、心とか頭とか身体とか
「私」全体が感じた総合的な判断なのですから、
そこですぐ、気持ち的にはゼロ時間でやってみる。
「やろう」と思った時には「やってる」、という勢い。
撃とうと思ったら撃ってた、という剣の極意と同じです。

ビギナーズラック、というのも、妙な蓄積データによる邪魔が入らないから、
よく働くんじゃないでしょうか。
それと似たような、クリーンな状態、構えでない構え。
そこから、スッとやる。

そういえば雀鬼・桜井章一さんも「3秒以内でツモって切れ」と教えてました。
大事なのは秒数ではなくて早さでもなくて、
そのぐらいスムーズな動きの中で、さらさらさらっと流れるような手でないと、
いい上がり手にはならない、ということではないでしょうか。

それが一つ。

もう一つは、「流れ」というのは無理に言い換えれば「総合的な判断」とでも
言うしかないと思うのですが、
これをより強く、的確に得るためには、やはり普段から修練が必要です。
そしてそれは、繰り返しになりますが、
要素に分解して、各要素を個別に鍛えるとか、そんなのでは身に付かない。
全体を全体として鍛える他はない。
おそらく。
ただ、そこへ至る道しるべとして、ほのかな灯りを照らしてくれてるのでは、
と個人的に思うのが、
要素間の関連の仕方、ネットワークのあり方、なのではないかな、と。
(これも要素分解なのですが、まあ、全体性把握への足がかりとして)

人間の身体は恐ろしく複雑で巧妙です。
A地点からB地点まで腕を伸ばす、そのやり方、筋肉・神経・骨・関節……の使い方は、
無限にある。
で、普通の人は普段の動作の延長上の動きをするから、
どんなに鍛えてもある程度予見できるんですけど、
この各種要素のつなぎ方、ネットワークの組み方に置いて、
普通ではない、今までとは全く違う組み方を持っていれば、
普段の動作とは比較にならないようなパワーとスピード、
そして予測不能な動きができる。

で、そのネットワーク経路のチェックをする時には、
当然のことながら上空から俯瞰する視点と、
問題意識を一つ上に置く姿勢が、必要です。
A→Bが詰まってます、ではCを経由して行こう、それだけではなくて、
B通らなきゃダメなの? とか、 Aから出発しなきゃダメなの?
とか、前提から考えたり、
あるいは例えば、CにもB行きのデータがある、DにもB行きのデータがある、
って時には、
A→B(と、C→Bと、D→B)ではなく、
A→C→D→Bと組んだ方が効率いいんじゃないの?
と、トータルで考えたり。
それは、AのポテンシャルとかA→Bの→の太さとか、
そういう要素分解→解決、とは違う、問題意識の持ちようが必要です。

おそらく、それ、「問題意識の持ちよう」そのものが究極奥義なんですけど、
悲しいかな、これを言語化するのは甚だ難しいんですね。
だから武蔵師匠のように「ただ斬れ」
道元師匠のように「ただ座れ」
わかっとる、っちゅーねん。
でも彼らにしても、それ以上は言えない。
それ以上の部分を言語化すると、そこで要素分解が始まるから、
濁るし、嘘も混じる。

で、ぐるぐると因果は巡るわけですが、
これを体得するには、ネットワーク俯瞰視点と意識を持ち、
なおかつ具体的な行動・生き方へと落とし込むのは、
一体どういう訓練をすればいいのか、
それが欲しいわけです。誰しも。
意識してなくてもうすうす気づいてはいるから、
「かもめのジョナサン」とか「アルケミスト」が読まれるわけです。
ちょっと古いけどカルロス・カスタネダとか。
僕はコリン・ウィルソンが大好きなんですけど。

でも、こんなんいくら読んだって、目覚めちゃった人の目覚ましい活躍は書いてても、
「目覚め方」はこれっぽっちも書いてないんです。
世界の言葉を聞けー
聞けたら聞いとる、っちゅーねん。

「MATRIX」の最初のがすごい名画だというのは、
このおおよそ人類永遠のテーマに対して、
一つ考え方として実にスマートなものを表現してたじゃないですか。
「夢だから、夢と気づけばなんでもできる」って。
このテーマを正面から描く時に、最もよく使われるのは
非常に便利なある現象を持ち出すことです。
で、なければ「そういうものなの」と言い切るか、ぼかして誤魔化すか、
せいぜい先達超人を出して導かせる。
このパターンばかりの中に、(僕が知る限りでは)
初めてめちゃめちゃ小綺麗なスジを通してて、
だから最後非常にスカッとするんです。

もちろん、詭弁です。
同語反復というか、夢が現実で現実が夢(認識外)というループ作ることによって、
<認識の目覚め>を現実の<朝の目覚め>と同値化して、
誰にでもわかりやすくしている。
でも結局、同じところくるくる回ってるだけで、本当は何一つ解決してない。
現実は実は夢だった、だからなんでもできる。
じゃ、夢(元現実)の中はいいとして、夢を見てる現実(元認識外)
の方をなんとかするには、どうしたらいいの?
……だから、2と3は、作ること自体が間違いなんです。
綺麗に決まった詭弁に、つけくわえることなど無い。いや、できない。

ズレついでに。
前述の非常に便利なある現象、がタイトルになってる僕の小品がありますが、
その現象は起きません。
そう見えて、それは、紛れもなく人間が起こした動かしがたい事実である、
というのが、あの小品で(というよりも僕が常に)言いたいことです。
それは、自分の手で、起こすものだと。

さて。
ネットワークを上位俯瞰する、というヒント自体は昔からあって、
要するに部分が全体を内包するフラクタル構造全般、
代表的なのが曼荼羅ですね。
集合的無意識をコネコネしてる人達とか、ケストラー先生のホロンとか、
ニューエイジ系全般へ行っちゃうんですけど、
ほんであたしもだいぶそんな系は読んだんですけど、
どうも「出口は見えない」。
言ってることはウンウンなるほど、「それで?」
なんです。最後は。
しいてひっこぬけば「強い意志が大切」とか「愛だろ愛」とか。
いや、だから。

で、甲野先生大ウケ、っていうのは、
そこへ敢然と立ち向かってるじゃないですか。文字通りの徒手空拳で。
具体例をひとつひとつ解決しながら、一歩ずつでも。
そして、桑田投手なり桐朋学園バスケ部なりあるいは末續選手なり、
っていくらかの結果が出ちゃってる。
「これだ!」って感じですよね。
まさに進化のミッシングリンクなんです。
言うだけでやってないわけじゃない、もちろんペテン師でもない。
そのうち先生、空飛ぶかも知れない。
いや冗談抜きで。
そうすると、人間の認識自体がガラッと変われるじゃないですか。
「空、飛べるんだ」
そうすると、次の世代には、もっと飛ぶヤツ出てくるかもしれないですよね。
これを目覚めと言わずになんと言いますか。

甲野先生は武術の身体の使い方から、
そういう認識の変え方にまで至ろうとしている、
少なくともその可能性がある。
では、我々は、おのおのの、一番親しい、得意とする、好きな、ことで、
もちろん、僕の場合は「かくこと」なんですけど、
同じように真摯に質的な転換や視点の位置を動かすこと、
そういったことに取り組んでいけば、
いずれ先生と手を繋いで、空を飛べるようになるかも知れない(笑)
なんてことを妄想します。

もちろん、それだけのためにやってるわけではなくて、
基本は読んでいただいた方に楽しんでいただきたいのですが、
まず自分が楽しんでなければ、人様も楽しめるわけはなかろう、
とも思います。
で、この修練は、くりかえしになりますが、根性でどうにかなる反復練習ではなく、
道筋もなく、おそらくは達してると思われる先人達も何一つ書き残してくれておらず、
非常に困難で、そもそもなにをどうやってよいかすらわかりません。
わからないんですけど、わからないなりに、
いろいろやってみよう、と思う、昨今でございまする。

---

大学出る寸前ぐらいにも似たようなことを考えてて、その時は
(94年あたり、まだ「インターネット」という言葉が大学でしか聞けなかった頃)
「人間同士の物理的ネットワークが発達すれば、
 精神面でも大いなる変化が見られるだろう」
と勝手に結論づけ、それをわくわく待ちました。
というかケナ気にも「家庭用ネットワーク機器」を作ろうと苦心惨憺、
結局ものすご売れなかった商品をでっちあげる片棒を担いでしまい、
(言い出しっぺです)
それは今思い出してもすまんかったと思うのですが、
そんな日々、
「要素要素のパフォーマンスを個別に考えるのではなく、
 ネットワークとしてのパフォーマンスを考えた方が、
 結果的には劇的に効果があがるのでは?」
と思いつき、てか当たり前のこと言ってんですけど、
(システムにハメ込む全体主義ではなく、
 要素の個性/特徴を最大限生かせるようにネットワーク/システムを組んでいく感じ)
そういう各要素にとってもパラダイスであり、
もちろん総体として無駄なく無理なくすごい力を発揮する、
そんないい状態の、素敵なネットワークのことを、
「パワーネットワーク」
と名付けて独り喜んでました。
これが、当サイトの名前の由来です。

ちょうどあれから10年。
物理ネットワークの発達は、思いもしない夢のような情報生活を生み出しましたが、
でも、人の中身は、あんま変わってません。
相変わらず戦争が、犯罪が、貧困が、誤解が、世界に渦を巻いています。
予想は、いい方にも悪い方にも、大ハズレでした。
人間の想像力なんて、そんなもんです。
でも、想像もつかないことが起こるからこそ、おもしろい。

個人的には転んでばっかりの歳月だったように思いますが、
その前の中学高校大学合わせた10年よりも、
ずいぶんいろんなことをやったような気はします。
たくさん転んでる、ってことは、たくさん起き上がってる、ってことですからね。
振り返ってみれば、たのしかった。

2014年3月にも、同じことが言えるといいな、と思います。

それでは最後は、本日のキーワードを皆さんご一緒に。
せーの、


イモコロリ!


10年前ならストレート、10年後なら投げようと思わない。
今できることを、今やろう(笑)


3/21 何があるかわからない書店

書店とは、
「知らない知識を与えてくれる(くれそうな)本を探しに行くところ」
です。
ですから、予想のつく本=POSデータでよく売れてる本、ばかり売ってる書店は、
どんなに広くても何冊本を置いてても、
コンビニの雑誌コーナーと同じ価値しかない。

Amazon(本のネット通販)使ってて何が困るって、
「○○さんの××がおもしろかったよ」ではなく、
「私は○○さんに非常に影響を受けて……」なんて紹介されてる時で、
ではその○○さんの著作を……って、どれ買っていいかわからない。
しょうがなく売上順とか出版年月、レビューで当たりをつけるんですけど、
そんなのより書店でパラパラめくって自分に合う合わないの決定下す方が、
はるかに的確ですよね。
やっぱり、本屋さんには本屋さんの意味があるわけです。
当たり前ですけど。

また、BOOKOFF等々の大型古本屋さんというのも微妙な存在で、
「古物商」というのはどのジャンルどの商品でも
「売れる可能性のあるものしか並ばない」、せいぜい
「過去に売れたものしか並ばない」
ので、商品の幅は、実は新品を売る店よりもグッと狭いんです。
(価値のある古物そのものを売るコンセプトの古物商――
ミニ屋とかアンティークジーンズショップとか――はまた別ですが)
新品は、売れなくてもとにかく並んではいるので。

ちょっと余談ですけど、てきめんなのが18禁コミック。
「まあよくもここまで」というぐらい微妙な物しか並ばないですよ。
人気作家、例えば今でしたらゼロの者先生とか月野定規先生とか、見たことない。
良作はそもそもタマ数が少ない上に、出たら即売れなんでしょう。
本は特に、(人気あればあるほど)あまり違わない値段で新品という選択肢もある。
ここがいかに名車であろうとも「もう新品は手に入らない」という中古車と
大きく異なる点で、本そのものが貴重だった時代の古本屋さんと違って、
現代型の大型古本屋さんは、品揃えの面でシステム的に弱点を抱えている。

家賃の高い日本の都心部では、
粗利率が小さく売り場面積を求められる本屋という業種が厳しい、
それはわかるのですが、しかし、
潜在顧客の数、来客頻度、月当たり客単価などは、
「上手くやれば」ユニクロとかあんなんとは比べものにならないぐらい
可能性があるのでは……というのは、素人考えでしょうか。
いや、素人考えですけど。

で、それでもやっぱりとにかく、集客しないと始まらないわけで、
今の書店は、上述のように効率を追求するあまり、「書店ならではの魅力」、つまり
「知らないワクワクと出会える場所」という魅力を、
どんどん削ぐ方向に行ってるじゃないですか。
そんなんでお客さん、というか人は来ないですよ。
もちろん、立ち読みOKとか喫茶ゾーンとかも一つ手段だと思うのですが、
基本はもう、「どれだけバラエティに富んだ本を並べるか」その一点に掛かってる、
と思います。

CD/DVDショップやゲームソフト屋さんなどでは当たり前ですけど、
新刊/旧刊の混ぜ売りとか。
図書館や古本屋さんのワクワクも取り込んじゃう。
あるいはCDとかDVDとかゲームとか、親和性高いものでも、
「売り場は別」ってところがほとんどですよね。
攻略本なんかソフトの横に置くべきで、実際ソフトショップはそうしてる。
商品管理上の問題とか、買い取りのソフトと委託の本とを並べにくい、とか
いろいろ理由はあると思うのですが、それは本屋の都合であって、
お客さんの都合ではない。
ドンキホーテみたいに「管理しない」という方法もあるわけだし、
そもそも本屋というのは「商品が無くても許して貰える」というこの現代社会に置いては
非常に恵まれすぎてる認識をみんな持ってるわけですから、
それを利用しない手はない。

中学高校の帰りには、天王寺の旭屋とユーゴーには大変お世話になりました。
行けば「知らない何か」があったところだから、何も買わずとも
「とりあえず本屋よろか」
と足を向けたと思います。
その魅力を醸し出すには、店のサイズや立地には、あまり関係がないような気がします。
「あの本屋には、あれがある」ではなくて、
「あの本屋には、何があるか今もってわからない」というのが、
良い書店なのではないでしょうか。

とりあえず長居に一つ本屋ください。
ホントにここは文明国ですか。


3/21 真実はあたりまえ

【本日の豪速球】

世界NO.1シェアのコンドームメーカー、Durex社のマスコットキャラクターは、
「スペルマン」
だそうです。

---

「知識・情報には固有のS/N比があって、その比はメディアによらない」
という法則でもあるのでしょうか。
やれ2chがブログが情報速い・真実に近いといっても、
それを手に入れるために払ってる労力(コスト)は冷静に考えればものすごい分量で、
「そりゃそれだけ費やせばどのメディアでもどんな情報でも得られるのではないか?」
などと思ってしまう、オカルト系ニュースサイトを4時間眺めた深夜2時。

軍事アナリスト小川和久さんが、
(湾岸の頃だったと思いますので今とは状況が随分違うのですが)
「主要な情報源は雑誌のバックナンバー」
みたいなことをおっしゃってて、当時大学生の私は驚きました。
専門家というからにはなんか特別な、特殊な情報ソース・ルートがあるものだとばかり。
そうじゃないんですね。
考えてみれば雑誌だって各部門のスペシャリストが多数集まって記事載せてるわけで、
それを数紙・何年分か丹念に読み込めば、それはものすごい情報を手にできるわけです。
もちろん、現地の雰囲気とか風とか匂いとか、欠落してる情報もあるでしょうけれど、
現地行ってもわからないものもたーくさんある。
#雑誌の記者・編集者の能力が落ちてんじゃないか、という疑問はひとまず棚上げ

「優位者5%説」というのがあって、
リーダーシップを発揮し人々を引っ張れる性質を持つ人間は、
状況にかかわらず常に5%、という理論です。
実際この法則に基づき、朝鮮戦争の時、人民軍が多数のアメリカ人捕虜を
リーダー的要素を持つ人間を重点的に監視することで管理コストを減らしたとか。

ちょっと例えが乱暴に過ぎますが、
情報にもそういう面があって、
「真実は何%か」
しかないのではないでしょうか。
いや、もう少し正確に言うと、真実にはいろんな面があって、
みんなが見てる面よりは、素顔ではない面であることがほとんどで、
でもやっぱり、素顔が一番、その真実の本当の姿(変な日本語だな)を現している。

「なぜ」そうなのか、と問われればかなりノーアイデアなんですけど、
それはひょっとすると物理法則みたいな、
抜け出すことのできない、人間の心と頭の動きなのかもしれません。

ただ一つには、真実に近づこうとするあまり、人為的にこんぐらがりまくって、
真実から遠くなる、という例はいくらでもありそうな気がします。
「これは真実に近づく道では?」と細い道進んでるうちに、
まるっきり大きな方向すら見失う。

また、人間は「真実ではなく、見たいものを見る」という特性を持ってます。
これはもう、しょうがないんですけど、油断するとすぐこれになる。
そしてこれを利用して騙そうという連中も多い。
ライトプレッシャーターボなんて存在価値ゼロです。
排気量上げろ排気量を。
特に真実を掴みたい、と切に願っている時ほど、人は誰しも不安です。
そういう時には、逆に、普段見えるものも見えなくなる。
予備校の講師の時に、「そこは出ないからいい」と言っても聞いてくれない
生徒さんはたくさん居ました。
知識欲はわかりますし僕も受験生でしたから不安もわかりますが、
それこそが今一番欲しい情報のはずですよね。

また、S/N比が変わらない理由のもう一つに、
真実は非常にシンプルで数少ない
という性質もあるかもしれません。
シンプルであるからこそ、表現がしづらく、
わかってる人間は伝えにくく、わからない人間はいつまでもわからない。
結果、総情報量に占める割合は、いつまで経っても変化しない。

以前、肩こりが酷い時に信頼しているDr.Hammerに相談したところ、
「肩を上げ下げ20回、ぐるぐる回し20回、毎日」
と処方箋をいただきました。
いや、まさにおっしゃるとおりで、たぶんこれですっきり解消する。
でも、それを人はやらない(笑)
そして巷に溢れかえりまくる、肩こり解消グッズ、本、情報、マッサージ。

つまりは、「あ、いや、そうなんだけど」という、実に当たり前のことが、
真実なのではないでしょうか。
いや。
真実なんだから、当たり前なのが当たり前ですね(笑)

なに言ってるかよくわかんなくなってきたんですが(笑)

最近、ぼつぼつ本読んでるんですけど、
なんか結局、えらい人って誰も彼も、
「いや、ほんとはそんな難しくない。むしろかんたん」
と言ってるような気がして、そんなことを考えてました。

世界はシンプルで、
だからこそ美しい。


3/20 より誰にでも

現代に近ければ近いほど日本の文学があまり好きではなくて。
いや、ハッキリ言って嫌いなんです。
まだ明治期はいい……というか好きなんですけど、昭和に入るともうダメ。
なんでだろなんでだろ、と思ってたら、アテネ行きに燃える若者達の勇姿を見て
ハタと気づきました。

ヤツら、世界戦をやってないんです。
だからつまんないんです。
(ごく一部例外もありますが)

もちろん、文章・言語というものは時代と地域に非常に密接に関わってますから、
その要素を抜きにして語るわけにはまいりません。
でも、そんなのを越えて読まれる外国文学はいくらもあるわけで、
それを言い訳にしてはなりません。
結果はともかくとしてそういう、普遍性に対する意識が低い、ように思えます。
世界の誰が読んでも、おもしろい、感動できる、っていう。

むしろごく最近の方がマシなんじゃないでしょうか。
あるいは、ミステリやライトノベルと言われるジャンル、
純文学(これも定義がよくわからない)よりも低めに見られがちなものの方が、
世界性普遍性を持ってるような気すらする。
対象を絞っているとはいえ、「ドラゴンボール」も「キャプテン翼」も世界の子供達が
大喜びなわけで、日本人だから(日本語だから)そういう能力が低いわけでは、
決して無いですしね。

共感と感動は微妙に違う。
びちゃっと現実にくっついてる方が共感は呼びやすいけれども、
共感すればするほど、感動から少しずつズレていくような気がします。
感動というのは、基本的には驚きであり、
目が開かれたような感覚であったり、
自分が小さいながらも変化(成長)するような感覚であったり、
というもので、それは、「うん、わかるわかる」からは生まれない。
わかってる時点で既知のものですからね。

だから、素人参加系のものって、TV番組でもVOWみたいな本でも、
すぐ飽きるんです。
基本的に共感狙ってるから、ただ眺めてその場でへらへら笑う以上の喜びは
ありえない。
それは、あまりよくなくて、
なんと言っても今はメールで共感しあえる友人家族との距離が近く、
Web・掲示板・ブログ等々で感覚近い同好の連中との距離が近いから、
わざわざ古いメディア経由でそんなもの仕入れる必要、ないんですね。

アフリカのサバンナで水汲んでる女の子でも、
イヌイットの男性が銛を片手に読んでも、
心動くものがそこに描かれている。
そうでなくては、ならないと思います。
ポップスだってそうだし、映画だってそうだし、イラストも写真も料理も、
みなそうですよね。
微妙に立場似てるのは芸人さんかな。
でも、本当におもしろいもの、って、「訳しにくい」という物理的障壁さえ突破できれば
(実現可能性はともかくとして、作者と同じセンスを持った訳者が当たる、とか)
どこででも通じるものだと思いますよ。
アメリカンジョークだって、結構笑えるもの。

やっぱり、日本のプロ野球の上の方の老人達と、川淵キャプテンでは、
魅力が違うもの。
ああでなくてはならん、と思うんです。
対照軸わかりやすく「日本」と「世界」にしてますが、別にサイズは問わないところで、
「地方」と「日本」でもいいですし、「業界」と「一般」でもいいです。
とにかく、より高い普遍性への志向があった方が、健康的だ、と思います。
(結果はどう出るかわかんないんですけど)
そしてそういうものが、僕は好きです。

すっきりした(笑)
僕の場合、日常の好き嫌いも、随分そこ、「普遍性への意志」みたいなところで
かなり決まってるみたいです。
「挑戦心」と言い換えると雑過ぎてて、
「俺は日本一の寿司職人になるんや」などと言われると、
「このご時世に狭っ! 世界を握ってこい世界を!」
などと憎まれ口を叩きたくなってもみたり。
それでも、無いよりはマシですけど。

今回ばかりは自分棚上げではないのは、
一応振り返れば、そんな方向でやってきたように思えるからです。
意識はもちろんしてませんし、やりきれてるかどうかは別にして。
これからも、そうでありたい、と思います。

……だから結果はいーじゃないですか、結果は。
もう(泣)


3/19 Formula 「その子もダメじゃない」

ここんところ、(書くことをお仕事にするようになってからかしら)
ほえながに個人メモを残すのは恥ずかしかったのですが、
原点に戻ります。

僕の置かれた環境に、似たような立場にある人もおられるかもしれず、
また、将来似たような立場に立たれる方もおられるかもしれず、
そんな人々の、もし一助にでもなれば、
生まれてきた生きてきた甲斐もあろうかというもの。

そんな「気づき」を一つずつ。

推敲というのをやるのですが、
これってご経験ある方も多いと思いますが、やり出すときりがないんですね。
もっといい表現はないか、もっといい表現はないか……
酷い場合は、どうしてもごそっと変えたくなって、
ごそっと変えて、取り返しのつかないことに。
推敲のやめどころ、止めどころ、というのは非常に大切です。

で、そのやめどころを見極める見極め方なんですけど、
こういうのはどうでしょう。

「そのマイナス、プラスになってない?(ならない?)」

じぇんじぇん話が違うような同じような話になりますが、
つんく大先生がモー娘。のメンバーを選ぶにあたり、
「単体で、よりも集団にした時に輝く娘を選んでいる」
みたいなことをおっさってました。
(随分昔なので、今はどうか知りません)

文章の1フレーズも、あるいは絵のワンポイントも、音楽の一小節も、
あるいは同じかもしれません。
単品で見れば実にひっかかるような一点だったとしても、
いや逆に、それは「ひっかかる」という特性を持っているわけだから、
上手く活かせば、美点になりうる!?
という視点でチェックしてみる。
直す、のではなく、変化させる。
それによってひょっとすると、全体の方を弄らなければならないかもしれませんが、
それでもまだ、そこだけを切り取って無難なパーツをはめ込むより、
おもしろいかも。
新しく良いパーツを作ってはめる、というのは非常な困難を伴うので、
最後は良心の呵責と魂の不納得に苛まれながら「無難」に逃げるしかなかったのですが、
この考え方なら、少なくともそのつまらなさからは脱却できそう。

そう考えると、異質なものであればあるほど、
新しさ、違うアイデアへのこより一筋、かもしれません。

(前提として、「明らかにミス」を潰せる能力が必要になりますが、
 それはまあ、そんな高度なことではないので。
 また、もっと腕があがれば、ミスをそうやって活かす閃きや、
 意図通りミスをする、ということもやれそうです。
 アングルの「グランド・オダリスク」の背中は、意図したミス(嘘)ですよね)

絵を、手慰みに描いてますと、そういう瞬間ってあるじゃないですか。
もう、テキトーに引いた線なんだけど、
「む。こっちの方がいいかも」
で、そこからそっち向きに絵を変化させていく。
文章、というのはそういう無軌道なことを非常にやりにくいメディアですので、
(試みはたくさんなされてますがロクに成功してるようには
 (少なくとも僕には)見えません)
どこまで応用できるかわかりませんが、そういう視点を持ってみたい。
「よりいい表現を!」ではなくて、
その子もいい子で、この子を活かす道は無いか、と。
いい選手金で獲ってくるんじゃなくて、いる選手の力をどれだけ引っ張り出すか。
そうするとひょっとすると、
できあがりにも優しさがにじみ出たり、するかも!
こいつダメあいつもダメつまり俺が一番ダメ、って思いながら書くよりも、
ずっと健康的な気がします。

なんだか聖職者か先生みたいなこと言ってますが、
どんな職業にも愛と思いやりは必要だ、てことで。
それをもって、励みたいです。


3/18 アテネ行きまっする日本

アテネ。
とりあえず行けたぞ。
偉い偉い。

個人的にシリーズ通してのMVPは今野。
ディフェンシブ・ディフェンシブハーフとして非常に効いてました。
彼が居なくてはこの切符を手にできたかどうか怪しい。
遠藤あたりとも少し被りますが、サーバントタイプ守備的MFとして、とにかく走る。
特に啓太と組んでると、守備範囲が非常に広い。
DFラインのスペースを、真ん中・外側の右左問わず埋める献身的な動きが印象的です。
彼のおかげで3バックと両アウトサイドが非常に楽できたのでは。
あと球際強い。ま、相手のレベルが低めなのもあるにしても、
アタック一発で素早くボールを狩れるのが、守備の負担を減らしていました。
山本監督は積極的にフォーメーションやスタメンを弄るタイプですが、
それでも、(闘莉王が負傷したというアクシデントがあるにせよ)
阿部という非常に優秀なタレントをリベロに下げてまで
(ボランチタイプの人間を3バック中央で使うのも山本さんの個性)
今野をMF真ん中で使ってました。
よほど信頼があるのでしょう。
地味なプレー地味な顔、しかし成長が楽しみな人材です。

山本采配も、今までの代表監督にはなく積極的(攻撃的)でよかったです。
前戦で勝ってても、前田・松井と並べたオフェンシブハーフが機能してないと見るや、
(そしてそれまでの試合で「トップ下」というポジション自体が有効に機能していないと
 判断して)
平山の両脇に達也と大久保を並べてみる。
なかなかあの勇気は持てません。
あと、石川と高松の使い方も非常にドライで、ちょっと驚きました。
突破力で見れば魅力的な石川を、バランスを重視して我慢しきる。
高松もスタメンで使って力が出ないと見るや二念なく平山に戻す。
芯のある采配は逆にこっちが「えっ、もう戻すの?」と思うぐらい。
一戦の勝利に囚われない、かつ、目指す方向性をブラさない、
見事なものです。
ヒディングのようだ、と言えば誉めすぎですか。

本番に向けての不安要素、といえば、
攻撃的MFの使い方。
トルシエ直系のあの3-5-2はなにが大変といってトップ下に非常な負担が掛かるところで、
だからヒデの控えは俊輔でもシンジを上げるでもなくて森島だったわけで、
松井も山瀬も優秀ですが、あそこでは使い切れない。
今回のように、1トップ+ダブル1.5トップ、で中央はなんとか、
あとは左右アウトサイドの仕掛けに期待する、
つまり「攻撃的MFを置かない」というのも、一つの解かも知れません。

ちょっと話はそれますが今、リーガ・エスパニョーラで鬼の快進撃を繰り広げる
バルセロナが、伝統的なスタイルでの攻撃的MFをおかない、
4-3-1-2で、1は左右どちらかのウィンガーなんです。
ルイス・ガルシアかオーフェルマース。
3がトリプルボランチ、下からコク、ダヴィッツ、シャビ。
前後左右アンシンメトリカルな中盤構成で、
位置ではなく役割で4人を配置するのが、流行るかもしれません。
(まあ、「バルサだから」と言われればそのとおりなんですが)
#ちなみにウチ(といえばミラクルズ)もそうです(笑)

もう一つは、皆さん思われてると思いますが、GK。
林さん、確かに止めてくれた点も記憶に残ってるんですが、
ヤバイシーンも同じぐらい残ってます。
短期決戦でのGKの取り替えにはリスクがあるので、避けたのだと思いますが、
本番までにはもうちょっと安定感を増してもらうか、あるいは……

いや、でも、行けてよかった。
どんどんいいチームに進化していると思います。
「なんだよコイツら技術あるのになんでこんなにスカスカやねん!」
と思ってたあの頃が嘘のようです。
若者は、あれよあれよと見てる間に、成長しますなあ。
負けてられないものです。

この調子で、ぜひアテネでも一暴れ。


3/18 Memo セカンドチョイス

個人的なメモです。

見えてきても身体が追いつかない。
そんな状況です。

今までの技でも、見えてなかったパスコースにパスを出せば、
パフォーマンスは上がってることにはなるのですが、
パスそのものは同じなので、
本人的にあまり面白みが感じられない。
贅沢かな。
サッカーだと試合結果で納得しちゃえるかもしれませんが、
文章書く、というのは、まずもって自分が「おもしろい」と思えるかどうかが
非常に大切なので……

左タッチ際、正面にDF、いつもならドリブル突破一択、でもちらりと見える。
「ああ、右いっぱいいっぱい開いてくれてる、どフリー……」
でも40mをぴたりと通せる自信なし。
てことでバックパス。
こんな感じです。

ドリ一択ではどんなに磨いても可能性に限界がある。
1つだと、「1」か「0」なのですが、
2つだと、「1」、「2」、そして、「0」が変質して「1でも2でもない」になる。
これが大きい。
「ダメだった」という運命ではなく、
「ここは引いておいた」という積極判断になる。
(気のせいと言われればそれはそうですが、それも重要なファクターです)

その結果、「突破」という成果が得られる可能性がばーんと増え……
そうな気がします。

しかしそのためには40m通す必要があって、
そんな訓練したこともなくて、「どう訓練したらいいのか」そこから考えてるところです。
プログラミングで言えば開発ツール作ってるところ。
まだもうちょっとかかるようです。

---

少々前までは
「そんなこと言ってたらあらゆる技を身につけなければならないじゃん、
 そんなのムリムリ」
と思い、
「とりあえずドリブルでは負けないようにしよう」
とがんばっていたのですが、
それは容易に手段と目的の逆転を呼んだり、また視野の狭窄、
ストイックであることへの酔い、
いろんなあまり良くないものを呼び込みがちです。
大事なことでは、あるんですけれども。

実は「あらゆる」なんて必要はなくて、
「セカンドチョイスひとつ」
でがばっと世界が拡がる、のです。
2つめ、B、というのは、それ自体の存在と共に、
1つめ=Aではない何か、CもDもZもΩも、つまり
「世界は無限」
という当たり前の、であるが故に常にすっかり忘れている事実を、
思い起こさせてくれる。

それも特段難しいわけではなくて、
「フィールドのどこからでもどこへでも蹴れるように」
なんて考える必要なし、(もちろんその方がいいけど)
「40mぴったり」
が蹴れれば、あとは身体の向きとか位置とかタイミング、受け手との息や練習で、
まあなんとかなる。
一番大切なのは、そのセカンドチョイスを持ってる、という事実だと思います。

蛇足ですがサード、フォースは要らんのではないかな、と思います。
2個でもびっくりするぐらい大変なのに、それはムリ。
上述の屁理屈でいくと、3つめ以降はあまり意義もないし。
そういや偉大なピッチャー達も、あんまり(どれでも勝負できるという意味で)球種多彩な人っていないですよね。
直球はベースとして、Nomoのフォーク、江川のカーブ、大輔のスライダー……
まあ、(よく磨き込まれた)2つあればなんでもできそうだ、ってことで。

それで思いついた。
あと、やらしい話ですが、受け手あることでもありますので、
一択だと出来不出来が比較簡単でモロにでちゃうんですけど、
違うチョイスしてると「あ、今回はそっちか」とはぐらかすこともできる。
そういや、コンスタントに長くやってる人って、看板2枚の人が多いかも。
(逆に一本で長年やってる方は、ものすごい寡作・遅筆の人が多い)
ほら、飛龍乱先生も妹モノと人妻モノで……

それはともかく、
そのセカンドチョイスも、腹案は無くは無いのですが、
今ひとつピリッとこないので、コネコネしてる最中です。
蕎麦打ちと同じで、無理に固めようとするよりも、コネてる内に固まるのを待ってます。

もう少し、もう少し。


3/17 吉野すし

ドイツの心理学者・ゲルトベルグハインリッヒャーの提唱した学術用語を用いて言えば
「新婚ホヤホヤ」
のokbちゃんにおすしおごってもらいました。
吉野すし」。
(「すし」は「差」という字の「エ」を「魚」にしたみたいな字)

おいしかった〜

大阪寿司、というと「押し寿司」が有名。
鯖を使った「バッテラ」を始め、穴子やハモ、エビ、あるいは小鯛の押し寿司は、
関西の人間にとっては幼少時より馴染みの深いものなのです。
しかし、であるが故に逆に、スーパーで買ってきた歯が欠けるほど固い、
そしてやたら酸っぱいバッテラをおやつ代わりに喰わされてきてもおり、
「えーまたバッテラー?」
という物体でもあります。
彼らが最新のシステムではない小資本回転寿司屋さんで、誰の注目も浴びず
くるくるかちかちくるくるかちかちと干からびてゆく様は、
世の無情をこれ以上なく現し、哀愁デイトを誘います。

いやあ、ここのはあんなんではないですよー。
もちろんぎゅっと押してあるんですけど、ぜんぜんカチカチではない。
この辺のびみょーな力加減が、たぶん機械ではできないんでしょうねえ。
ふとテーブルを見るとお醤油がない。
自信だけあって実力が伴わないことは世に多々ありますが、
ここはもちろん大丈夫。
味わい深く、後付調味料の類を全く必要としません。

いただいたのはまず押し寿司と巻きもの。
太巻きって内容物どおり、手を抜くとどーしよーもないものにしかならないんですけど、
もちろん逆に言えば気合い入れて作れば本当に美味しいものになります。
歯ごたえ充分・粘る海苔がまた香り高く。
お土産までいただたんですけど、
「上巻きになると穴子が入ります」
と説明され、「いや、要りません」とこの穴子好きの私がノーマルを選択したぐらい。
……もちろん今にして思えば上巻きにもいつか挑戦せねばならず……

押し寿司は真ん中の層に潰し椎茸が入れてあるのですが、
これがまた甘く切なくジューシーなアクセンツ。
椎茸嫌いのお子様に食べさせれば一発で治る予感すら漂います。

そして「蒸し寿司」。
冬季限定の「温かい」お寿司です。
酢の物を暖めてはあの酢の香りがもわあっと……
というのはもちろん杞憂で、錦糸卵の優しい味わいと口溶けもあって、
「ほう、こんなお寿司がこの世の中に」
と驚いた一品でした。

サイドオーダーは船場汁。
鯖切り身と大根を具にした、船場に伝わる伝統のおすましです。
(と、もちろんあとで調べました)
これもまた、滋味深く味わい深く。
鯖もブリかと思うほど大きく脂がのってて……いや、ブリだったりして(泣)

お値段もクオリティ比で考えれば文句なし、いやむしろ安価、
江戸前にぎりと違い、鮮度がさほど重要なファクターではないので、
お土産にも最適。
(梅田・阪神、なんば・高島屋、あべの・近鉄とバランスよく出店してるあたりが
 さすが地元)
「スーパー・すし女」
(週2回はスーパー寿司を買わなければならないほど寿司依存症の女性)
であるマイ・まま上を連れて行かねば、と心に誓うと共に、
大阪から持って帰ってもらう(持って行く)お土産のレパートリーが
一つ増えたことを心から喜ぶ、お彼岸前の一日でありましたことでありますよ。

老若男女、そしてシチュエーションや貧富を問わず、
たとえ時代が移り変わろうとも間違いなく楽しめる。
大阪芸能の真骨頂を見ました。
見習いたい。


3/16 専門家の出した子供でも出せる結論

 別に尚子ファンでもないのですが、あそこは高橋だと思うんですけど。

 えと、どうして陸連とかああいう組織があるのかというと、大所高所に立った見地から、「合理的に」日本の陸上の結果を求め・普及に尽力し・強化を推進するわけですよね。
 今回のケースで高橋以外(3番手は坂本さんだったようですが)を選ぶメリットは、
「金の可能性が若干増える(と陸連的には判断する)」
という1点だけ。逆にデメリットとして考えられるのは、
「3人とも金を獲れなかった時に(たとえ2-3-4フィニッシュであろうとも)
 多くの人が納得できない」
「取材などの物理的負担、期待などの心理的負担を一身に担ってくれる
 (そしてそれでは潰れないことが実証済みの)
 高橋を連れて行けない」
の大きな2点がありますよね。
 視聴率とか外国有力選手へのプレッシャーとか、情実要素不確定要素を除いても、どう考えてもメリットよりデメリットの方が大きいと思うのですが。

 そりゃ「金を獲る確率をできるだけ上げる」という一点だけ見れば、高橋を外すのも一つの見識だと思います。
 でも、昨今の五輪競技は各国のバックアップ組織同士の戦いという側面もあって、組織としてはやはり、危機管理の思想も持っててもらわなくては困る。
 それができんのならそんな組織要らん。
 「一番強いのから三つ〜」なんて答え、ポケモンやってる小学生でもしない。
 それなら一発選考方式にして上位3人を選べばいいだけじゃないですか。
 専門家を何十人も雁首並べて4発も選考レースやる必要性なんかゼロ。

 それも1枚しかカードが切れないなら、「オフェンシブに行く」こと自体が一つのコンセプトですから、反対もしにくいのですが、3枚も切れる。
 なら、1枚ぐらいは鉄板のカード切る「べき」なのではないでしょうか。

(ここでポイントは専門家的に何をどう見るというのはあまり問題ではなく、多数の人々に支えてもらって陸上競技が成り立ってる以上、その多数の人々(つまりTV見てる素人)がどう思うか、というところ)

 よく瀬古さんのソウル選考が引き合いに出されますが、あの例とは状況が全く違う。
 瀬古さんは当時のトップランナーですが五輪の実績はなし(前回14位)、対する高橋は女子陸上界初の金メダリスト、つまり日本でただ一人の勝利経験のある選手。
 0と1ですから差は無限です。
 「一度でも勝ってる」のと「強いけど勝ったことはない」というのには、目に見えぬ記録には出ぬ絶対的な差があり、それはスポーツ選手が誰よりも一番よく知ってるはずです。
 だからこそカール・マローンはプライドも輝かしい実績もファンも、何もかも捨ててレイカーズに行ったわけじゃないですか。
 ちょっと主旨から外れてやらしい言い方をすれば、「史上初めて勝った選手」を「勝ったこともない人間」が集まって落とす、それってどうよ、とか。

 高橋・小出陣営だけではなく、結構多くの人が(好き嫌いや願望は別にして)
「ま、選んでも文句出ない結果出したんだから、高橋でいいだろ」
と思っていたと思うのですが、専門家だけがそうではない判断をした。
 それは日本人がときおり見せる高潔に過ぎる、また純粋に過ぎる目的指向性で、
(もちろん欠点でもあり美点でもある)
「金を獲るんだ、金を!!」
 それしか見えてないんですね。
 繰り返しますが、それは選手のやることで、バックアップする組織のやることではありません。
 歩兵は敵を倒すことだけを考える、でも参謀本部は負けた時の撤退方法も考える。
 社員は売り上げアップだけを考える、でも経営陣は売れない時のことも考える。
 専門家、というのはそういうリスクヘッジとか、将来を見据えてとか、素人では届かないはずの目を買われてるはずなのに、そこを素人よりも軽視もしくは無視する、というのは、どーにもこーにも……なーんかよく見る、やな図式ですね。

 てか。
 やっぱり五輪はお祭りですから、もう人気投票で決めるのはどうでしょう(笑)
 それだとみんな納得できると思うんですけども。
 責任も取らなくていいし。
 あるいは人気投票1、陸連推薦1、一発選考会1、とかね。

 とりあえずでも、選ばれたお3人さんには、
 雑音気にせず思いっきり頑張ってもらいたいものです。
 あと高橋さんには世界記録あたりをブチ立てて、
「ああ、あの時高橋を選んでおけば」
と末代まで語り継がれる走りなぞ、一発。


3/15 向き合う時間

某クレジットカード、ノーマル→ゴールド→プラチナ、
その上は「ブラック」だそうです。
年会費は16万円。
でもそれが全く惜しくないぐらいサービス充実してるんですって。
空港から「宿取ってよ」と電話するとすぽーんと取ってくれるとか。
確かに、そういう人雇ってると考えればベラボウに安いですわな。

FFやってて思うんですけど、
やっぱりお金持ちはどんどんお金持ちになるようになってます。
でかい投資に出れるのはもちろんのこと、
普段遊んでられるから、手間がかかって確率の悪いけどすごい一発のある博打に出れるとか、
率・単価ともにすごく小さい稼ぎでも、もの凄い数量やれて結果として結構稼げるとか、
以前お話しました「太公望の竿」みたいに、スタートさえできればあとは自動的に寝ててもジャカスカお金入ってくる手段が手にはいるとか、
とにかくお金儲けの幅ががびょ〜んと拡がるわけです。
手段が増えると、今まで使えなかったあまり時間や動いてない時間を使えるお金の稼ぎ方、とか、さほど気合い入れなくても簡単に儲かる稼ぎ方、とかでますます効率上がりますし、
またさらに、ライバルの出現や社会システムの変更にも柔軟に対応できる。リスクも回避しやすい。

知識、や、体験、も、似たところがあるような気がします。
ベースになる一定の知識・体験があると、
それを元手に、「手の届く範囲」がぐぐっと拡がるんですね。
するとますます知識や体験が手に入るようになる。
そうすると「勘所」もわかってきます。
「儲からない」=「これは(私には)要らない」という判断がすぐつくようになって、
効率も上がる。

問題はその自動インフレ、S字曲線の立ち上がり、産業革命がいつ起きるか、
なんですけれども、
こればっかりは個人差と状況によりけりなので、誰にもわからない。
たぶん神様も知らない。
これさえ前もってわかってれば、「あそこまでいけば、あそこまでいけば」と頑張れるのですが、最初はそうではなくて、全くの五里霧中ですね。
だから辛い。
でも、山ですから、登る他に高くある手段はないわけで、黙々と登る他はないのでしょう。
ただいつかそういうインフレも来ると信じつつ。

---

しかしまた逆に。
まるっきり矛盾したことをぬかすようですが、
お金も同じで、それで浴びるほどゼニがうなって、
じゃあどうするのか、
という問題が立ちはだかるわけです。
安心して生きていたかった「から」、何か欲しかった「から」
お金を稼いだはずで、それはいつか叶えられたはずです。
でも、一旦インフレ起きてると、それとは関係なくお金が入ってくる。
そうなると今度は、使うことに汲々としてしまい、まるでお金に使われてしまうとか、
あるいはお金を増やすことが目的化してしまう。
(これはこれで一つ道と言えなくもないでしょうが)
そんな例は古今枚挙暇です。

苦労人ではなく、センス良く若くして実業で成功した人々が口を揃えて、
「お金は稼ぐより使う方が何倍も難しい!」と言います。
貧乏な私などは「だったら使わなきゃいいじゃん」と思うのですが、
それはエンジンの存在そのものを否定するようなもので、
納得できないみたいですね。

それはいいとして、
知識にもこれまた似たところあって、
インフレ起きてしまってちゃっちゃかちゃっちゃかちゃりんちゃりんと勝手に入ってくるようになりますと、考えなくても手にしてるそれを適当にパッチしたり、
酷い時には考えてる気になってるけど実態としてはどこかで手に入れた何かを
貼り付けていたりする。
これは非常にヤバイ。

「考える」「感じる」ためのひとつの手段であったはずの知識が、逆にそれを阻害する。
空理と空論を複雑玄妙に操りながら、どこかから仕入れてきた原料を
レシピ集通りに料理するのを繰り返し、完成されるまったくの無意味。
そこに陥ってしまうぐらいならいっそ、
なにも知らないでひとつひとつ一回一回考えた方が、
よほど我が身にあった、正直な、純粋な答えが出てくるかも知れません。
それは、世間的には間違いであることも多いでしょうが、
世間の正解、なんてのは10年で変わってしまうことも多い。
でも自分で出した答えは、常に正解以外ではありえないんですね。
だってそれが間違ってるなんて、もう誰にも証明できないもの(笑)

最後は詭弁くさいですが、まとめてみれば
「常に自分の心と頭と身体で考えよう」
です。
そうしてさえいれば、すっからかんのアホウでも、パニックになるぐらい知識があっても、
ぜんぜんだいじょうぶ。

ちなみに私は(不十分なのは本人が一番承知)
これを書く、またこれのネタ考える時間がそういう時間です。
ある人はジョギングで身体にそうさせてるかもしれませんし、
ある人は庭を弄りながら、心を緩めているのかもしれません。
自分と向き合う時間。
「自分の時間」というのは、何をするとかどこにいるとか一人でいるとかそういうことではなくて、そういう時間だと思います。


3/14 押したい背中

 心身共に改造中。
 相変わらず座り方一つ掴み切れていない毎日です。

 考えてみればもう20年近く間違った姿勢で暮らしてきたわけで、そんな身体が一週間やそこらで言うことを聞いてくれはしません。
 しかも、どこか一つを直すと、全部に影響が出る。
 一例挙げますとキーボードで、あれほど馴染んでいたNaturalキーボードが合わなくなってきました。
 背筋を伸ばし、肩を開き、手を前方に突き出すと「ほんのわずかに」ディスプレイ側が狭く身体側が広い「ハ」の字なんですね。Naturalはかなり強い「ハ」の字なので、微妙に合ってないんです。
 すると正直なもので、微妙に誤字とか多くなって。
 以前の姿勢は、腰前に出して肘をアームレストに置いたままだったので、ガバッと「ハ」の字になるから大丈夫だったんです。如何に悪い姿勢だったか(笑)
#もう少し肩幅が広ければ、合うかもしれません。
#やっぱりアメリカ人基準なんですね。

 そもそもが「肩の力を抜いて」ると、首の後ろから腕を吊ってる筋肉にひどく負担がかかって、それはそれで辛いんですけど。
 ある程度肩の筋肉も協力して初めて、腕という重いパーツが支えられてるような……それともやはり、僕の身体が歪みすぎてるだけでしょうか。

 同様に、以前もお話ししましたがぴったりのジーンズは、座るとお腹が厳しいし。
 しかし半ズボンを履かなくなってからジーンズしか履いてない僕には、他の選択肢なんか無いし(泣)
 ベスト・ジーニストが貰えなくなっちゃうじゃん。

 で、脚・足・腰が一番楽なポジションに高さ合わせますと、今まで使ってきた机でも若干高い。
 これは実は、僕の環境だけではないオフィスの根本的大問題なんですけど、
 「ものを書いたり読んだりする作業」に最適な机の高さと、
 「キーボード操作」に最適な机の高さは、
 かなり違うんです。たぶん5cmぐらい違う。
 で、机は伝統的に書き物に最適化されてるので、(天板が地上72cmとか)キーボード操作すると間違いなく誰にでも高すぎる。
 これで身体に負担掛けてる人は多いと思います。
 対処療法としては、長時間のキーボード操作する時だけ椅子の座面を上げる。
 面倒ですがこれだけでもだいぶ違います。
 足がぷらつきますが、それは足元にオットマンを置いたり、まあテキトーな段ボール見つけてきて踏み台にするとか。

 実はそういう姿勢で操作すると、ノートPCってのも微妙で、画面が低すぎるんですね。
 首が辛い。
 もちろん、普段の読書でも机の上に本を置くと辛いので、腕が辛いのは我慢して、目の前に捧げるように持つわけです。
 で、「あ」と思ったのが、本居宣長とかが正座して本を読む姿でイメージする
「書見台」。
 あれ、必要に迫られたものなんですね。
 あの高さまで持って行かないと、本来辛いはずなんです。
 そういう目で見ると、昔の「文机」ってベラボウに低いんですけど、筆の動かし方はキーボード同様、肘を直角にして、紙面(≒机の天板面)から何センチか上空を動かしますから、あのぐらい低い方が楽なんです。鉛筆基準の高さだと、高すぎる。
 合理性ちゃんとあります。
 昔のモノだからって、バカにできないものです。

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 ……なとど、自分の身体見てますと、
「どうもここが根本原因ではないか」
 と思える、背骨の歪みが一か所あるんです。
 こないだもそこを、日本を代表する若手数学者にぼっきりやってもらって、たまらなく気持ちよくて喘いじゃったんですけど、やっぱり疲れてくるとこの周囲が張って、凝る。
 ここをカヴァーするために左右のバランスも悪くなってるようで、後ろから見るとおそらく、下から右、左、右、と「く」の字になってるみたいです。

 では、ということで取りい出しましたる足裏マッサージャー(オムロン謹製)。
 ごいんごいんと爆音をかき鳴らしながら足裏を強烈にほぐしてくれるファイナル・ウェポンでございます。
 これの上から仰向けに寝て、背中のその部分に当てて運転開始。

 ぎょいんぎょいんぎょいんぎょいんぎょいん……

 ……き、効くなあ……

 5分ばかりイタ気持ちいいのをやると、
「む。件の部分が確かに軽くなってる」
 で、身体をねじる運動などしてみますと。

 ……すこー……すこー……

 な、なんか骨の擦れる音が身体の中から聞こえてくるよー!

 あまり強烈な刺激をイキナリ加えない方がいいようです(泣)
 俗に「もみおこし」などと言いますが、暴力団と同じ、悪い部分も「それを前提としたシステムができあがってる」ので、それが突然無くなると、身体のあちこちで破綻が生じるようです。
 ゆっくりちょっとずつ、機械クスリ外部施術者にはあまり頼らず、自分の身体と相談しながらやっていく他ないようです。カール・ゴッチ方式。

 どうなんでしょう、やっぱり一年ぐらいかかるんでしょうか。
 ああ、背筋の伸びた、白い歯の綺麗な笑顔は、まだまだ遠い。

 あ、もちろん歪んだ背骨を毎朝毎晩やさしくプッシュしてくれる方も24-365大募集中。


3/13 「家を買う」だって!?

 数学のえらーい先生のお話。
「我が最愛の妻が、私のこよなく愛する『群論』の美しさを理解できないのは悲しい事実だと思い、一週間、『群論』のレクチャーした」
「一週間後、テストをしてみると、妻はまるで理解していなかった」
「『一週間何を聞いていたんだ』と叱った」
「次の日朝起きると、妻がいなくなっていた」

 ……ああ、やっぱり文章にすると面白みが伝わらない(泣)

---

 g石アナの新居にお邪魔してきました。博士と一緒に。

 新婚家庭はいいね。
 どこもかしこもコーディネートされてピカピカで清潔で。
 電化製品の色まで合わせてあるところにおぐりえ改めげんりえさんの意地を見ました。
 さすが東海圏。
 お邪魔しましたそしてごちそうさま。

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 名古屋の人には「名古屋ブランド」っていうのがあって、名古屋の都心部へ20分の一宮よりも、1時間かかる名古屋市緑区の方が人気が高いそうです。

 そういう差別的意識っていうのは階級の低位にある方に強く芽生えるのはサルの順位闘争など見てるとよくわかるらしくて、ある群れに新規のあまり強そうではないサルを入れますと、まず敵意剥き出しに叩きに来るのが、低位のサルだそうです。まるで普段の鬱憤を晴らすかのごとく。

 つまりそういう意識が存在すること自体、「非常なる田舎」の証拠として他地方の人間に笑われかねないので、注意された方がよろしいかと。

 なんどもゆーてますが首都圏以外はみな田舎です。
 それも段違いにすごい田舎です。
 フランスを「パリと畑」、韓国を「ソウルと田んぼ」、などと笑ってまいりましたが、我々も今や同じでございます。

 田舎だからよくない、わけではなくて、田舎には都会に無いいろんないいものがあるわけですから、胸張ってそれを誇ればいいだけの話です。
 それを、「都会になりたい」と言い出すから無理とボロが出る。
 無理。
 日本の人口だって止まってるんだから、これからますます東京へ集中する可能性はあっても、地方に逆流する可能性は無い。
 ネットは逆にますます人オン人の重要性を高め、
 Amazon使ってるといい本屋が少ないことが嘆かれ、
 PCパーツ通販してると秋葉原が近くにないことが嘆かれるわけです。

 さすがに本当の田舎の皆さん(の一部)はそれに気づいて、
 いろんな作戦を練って特色出して、量ではなく質で勝負に出てるわけですが、僕勝手に思いまするに、「勝負に出る」こと自体がもうちょっと古いような気がします。
 まず楽しそうに村人が暮らしていれば、いいんじゃないでしょうか。
 そうすると吸引力も勝手に出てくると思います。
 楽しそうに暮らせる街なんて、そうそうはありませんから。

 そんな中相変わらず「人を集めてなんとか、なんとか」というノリでなにかがどうにかなる、と思って万博やったり空港作ったりする。
 だってもう15年前に大阪が万博やって関空作って、でも結局何一つ状況は好転しなくて、よっぽどUSJを外国から買ってくるとかヨドバシ一つが東京からやってきた方がエネルギーになった、なんて経験してるわけで。
 後ろに京都・神戸という資源と歴史的経緯、そこそこのオリジナルコンテンツを持ってる大阪でさえ、なんともならなかった手段を使ってなにをどうできるという見通しがあるんでしょう?
 もし真面目になんとかなると思ってるなら無能です。
 わかってるけどいろんなアレのためにやるだけやってるなら不誠実きわまりない。

 ……と、いつものごとく吼えてみて、ハタ、と思ったんですが、
「15年遅れでそれができる」
というのが才能の一つかもしれず、それこそが東海圏の特色なのかもしれません。
 遅れているから悪い、とは必ずしも限らず、早すぎて失敗することも世の中には多々あります。「わかりきってることを15年後にやってみる」というのは、それはそれで一つのやり方、なのかもしれない。

 ただ、それにしてもトヨタのノア/ヴォクシーやウィッシュのように、
「わかってる弱点は徹底的に潰し・
 勝てる(誰かが勝ってる)勝負にリソースを集中する」
という戦略が必要で、それはどうも無いような気がするのですが……


 ……まあ、てなことで家を買うなら自分が住みやすく・便利なところに限る、
 と実家住まいののほほんな私は思うのですよ、g石アナ。


3/12 あっ!今、今ヨーグルトを!

 あのね。

 普通、ごく普通に考えて、病気で倒れた人に3ヶ月後の仕事の話はしませんよ。
「今はそんなこと忘れて、とりあえず身体治せよ!」
 って励ましますよね、普通。
 友達倒れたら、お父さん倒れたら、普通そうですよね。

 こんな当たり前のことが当たり前じゃない、この国はホントに大丈夫でしょうか。
 それもモノ知らない若者じゃないですよ、いい年こいた経験もあるジジイがそんなことを言う。

 あと見舞いに行った人叩くのもどうかと思いますよ。
 例え迷惑になっても空気読んでなくてもどう考えてもアホでもあるいは売名行為に見えても、見舞うという行為自体は人間的な良い行為であって。
 少なくともある一人の病人に対し24時間へっぱりついて一挙手一投足をプライバシーもへちゃらもなく「あっ、今、ヨーグルトを食べました!8時26分18秒、ヨーグルトです!ヨーグルトを食べました!明治ブルガリアヨーグルトです!」と垂れ流し続ける連中に何か言われるような筋合いの物事ではない。

 最近マスコミのやり口汚いなあ、と思うのが、福男の時もそうでしたし浅田農産の話もそうですけど、生モロ出しで見てる者を煽るでしょう。
 結果わかりきってるのに。
 これも根はおんなじですよね。
 長嶋さんの病状自体は天皇陛下と同じかと思えばニュース価値あるししょうがないかなと思えなくもないけど、誰が見舞いに来たって晒し上げる必要なんかゼロ。
 それをわざわざ「この人こんなことしてます!」って見せて、で、大衆にリンチさせて、自分はそれをすらもリソースにしてますよね。
 自分がイヤにならないのかなあ。

 それに乗っかる方も悪いんですけど(これを書いてる僕も含めてね)
 あんまり黙ってるのも腹立たしいのでちょっと乗りました。
 こういう、わけのわからんことぐちゃぐちゃが日々垂れ流され、それをシャワーのように浴び続ければ、誰だって麻痺します。
 抗体のない若い子や、人の言うことを聞けるまっすぐな人の方が、混乱する。

 犯罪の被害者加害者の実名報道の話も一向に進展しないですしね。
 もういい加減被害者は匿名で、加害者も軽度なものや過失がベースになってそうなものは匿名で、でいいんじゃないでしょうか。
 ヒデも怒ってましたよ、ミックスゾーン以外で写真を撮る記者が居たって。
 ルールすら守れないのかと。
 政治報道や大規模犯罪報道など、時には法を犯してでも真実を明らかにする必要もあるでしょうが、サッカー選手へのインタビューはどこをどうひっくり返してもそんな必要ないでしょう。

 報道はエンターテイメントではないのだから(その殻を被せて一世を風靡したニュースステーションが、役割を終え幕を下ろそうとしている)もう少し考えてもらいたいものです。
 取材される方も、なにも特別に構える必要はない。広報なんか用意して情報逐一出すから、甘い蜜に蛾が群がるわけです。
 ……ま、出す側もそれを恣意的に利用してるとすると、あまりにも切ない世の中ですが。

 やっぱり人は、知識欲や好奇心を満足させたくてメディアに触れるわけですから、口当たりは辛口でもいいけれども、難しい味でもいいけれども、不思議な世界料理でもいいけれども、
「美味しいもの・身体にいいものを食べてもらおう」
という意図の元作られた料理でなければならないのではないでしょうか。
 それは全ての商売の基本だと思うのですが、あの商売だけがそうではないような気がして、だからイライラするのかもしれません。
 わかってる人はたくさんいると思うのですが、わかってない人がそれと同じぐらいたくさんいる。「わかってなければ見放されて潰れる」という一般の常識が通用しない。だから腹立たしい。
 ちょっと前の銀行さんと同じ。
 しかもどんなにムカついても使わざるを得ないし。

 とどのつまりは、病人はそっとしておいて快復を祈りましょうよ。


3/11 切り口いっぱい。

「天才というのは新しい事実を発見する人ではなく、
 もうわかっている旧事実を再発見する人である」
とかなんとか、確かスキピオを評して塩野七生姉さんが書いてました。

ある一つの事実には、球体の金太郎飴のように諸要素がぎゅーっと詰まっており、
それをある切り口で切ってみると、断面にはいろんな表情が浮かんできます。
緯度で切ればある模様、経度で切ればまた別の模様、
斜めに切ればまた別の模様、
あるいはゆで卵の切り方のような薄く削ぐ切り方をしてみれば?

しかし、世の人というのはたいてい、ある切り口でしか見てないものです。
何かを見つめて自分で判断することは大変しんどいことなので、
(特に今のような情報の早い社会では)
誰しもが、誰かが切ってくれた断面を見て、わかった気になっています。
だから、誰も彼もがわかってるつもりでいて、
切り口はひとつ、あるいはその対極軸を入れてふたつ。

しかし、誰も切らない切り口で見てこそ、誰にも見えてない表情が見える。
たとえばみかんみたいなものを、誰もが経度で切ってると
「房はいくつか」
っていう簡単なことさえわかりませんが、
(そもそも「房がある」という概念すらよくわからない)
緯度で切った瞬間「8つ」とかすぐわかる。
霊感だの閃きだの、というのは、事実を思いつくことではなく、
その事実が見れる見方・切り方に気づくこと、をそう称するわけです。
事実は、見る者の見方に関わりなく、常に同じにそこにあるんですね。

気がついてみれば、どうしてこんなことに気がつかなかったんだろう、
というぐらい当たり前のことも多い。

自分の(同じ)切り軸を常に持つ、
というのとは微妙に違って、それは有効なことも多いのですが、
こだわるとこじつけになる。
やはり、そういう手持ちの視点も使いながら、一度一度、
これは「どう見るのだろう」と思い返すのがいいのかもしれません。
なかなか大変ですが。

そんな時一つの手段になりうるのが、
やはり自分を客観化して見てみる、
別の自分に自分を見てもらう、ことではないかな、とボンヤリ思います。
松本人志は誰がどう見ても天才なわけですが、
あの人キレてる時にはよく自分のギャグで笑ってるんですね。
それは、やはり別自分一枚がいて、彼に言わせて、自分は笑っている。
あるいは、セルフ・パロディとでもいいますか、
「『本官は小悪魔ニョロよ?』というキャラを演ずる」ということを演じている
感があります。
あれでチェック掛けてるのかもしれません。
自分も笑えるキャラだから面白いに違いない、って。
「「ほら、これが正しいだろ!?」と叫んでいる自分」を叫んでみる
と、「ホントかそれ?」と意地悪い笑みも浮かんでくるかもしれない。
そうすると、それほどでもないことに見えてきたり、
いや、意外と冗談だと思ってたけど真実かもしれない、と思えたり、
するかも。

人は、見たいものを見て、見たくないものを見ない。
でも、見えてなかったものが見えてくる楽しさ、
誰も見てないものが見える楽しさ、は絶対あるはずで。

そしてそれを見るために必要なものは、
特殊な視力や分解能を持つ特殊な目、天性ではなくて、
常にいろんな視点からものを見られる、精神の腰の軽さみたいなものっぽく、
それは意識と訓練である程度はなんとかなりそう……
な、気がします。

ひょいと動こう。


3/10 家族の季節、彩るガラクタ

ユーヴェがベスト16で敗退ですよ。マンチェスター・ユナイテッドと共に。
ん〜……優勝予想は根拠無くアーセナル。
アーセナルにはCL優勝の経験がないんですね。
ヴェンゲル先生にぜひ一つ獲っていただきたいものです。
そしてRマドリードがびっくりするような巨額でアンリを引き抜く……
やれやれ。

---

我が家には倉庫があるのですが、風呂の改修に合わせてこれを壊そうという話が母の中で盛り上がってしまい、もう誰も止められない。
てことで中身を分け分けしてるのですが、出るわ出るわガラクタ……というか、もう二度と使いそうにないグッズの数々。主に食器。

ギョーザ作り器とか。
ゼリーの型とか。
ちょっと古めの喫茶店で、コーヒーの横に付いてくる、ステンレス製のフレッシュ入れとか。
ステーキ用の一人用鉄板とか。
カレーのルー入れるアラジンの魔法のランプみたいなアレとか。

ミニバンの広告などで「家族の季節」なんて言いますが、まさにその通りで、
彼らはその、一度は通る家族の季節を彩ってくれたものばかりです。
確かに使った。
でも面倒だから、いつしか使わなくなった。
今はゼリーなんか作らずに買ってきますし、コーヒーフレッシュは僕がドトールやミスドでもらうたびに持って帰ってくるヤツですし(ケチクサ)、ステーキもカレーもお皿で普通に出てきます。
それは、「そんなものを使わなくても家族じゃん」と言える成熟なのか、
いや、他のモノが取って代わってるだけなのか。

それはよくわかりませんが、
ただ、そういう彩りを加えようと、
主に母が頑張ってくれたその結果であることは間違いなく、
それにはちょっぴり感謝な気持ちがわき起こりました。

いつも思いますがチャレンジには、たとえ失敗に終わろうとも、
最悪でも「チャレンジした」という結果が残ります。
結局、それを積み重ねることが人生なのではないかな、と。
成功か失敗かとかそんなんどうでもよくって、
ただ、「やった」ってのが、一番大事なんではないかと。
もへもへになったビニール袋の中にうずくまる、
黄ばんだプラスチックのギョーザ作り器を見ながら、そんなことを思いました。

僕の部屋もガラクタが一杯ですが、まだそういう、
「誰かのための」ガラクタは限りなく少なく、
いろんな意味でがんばらなあかんなあ、と。
……まあ、うちの母に限って言えば楽しんでるだけのような気もしますが(笑)


3/9 飢餓状態であり続ける人々

 昨日の続き。

 腹が極端に減ってる時に、ジャンクフードの方が美味しそうに思える。
 飢餓渇望モードに入った人は、その意志決定に通常とはかなり違う判断基準を用いるようです。
 昨日の「刷り込まれた体験」もその要素の一部なのですが、要するにより根元的なレベルを直接的に満たしてくれるものに、よりひかれる。
 「美味いものが食べたい」のではなくて、まず、
 「はらいっぱい食べたい」がくるわけですね。

 美味しいものって大抵お上品に食べますから、あるいは「お腹一杯」記憶よりも「美味しかった」記憶が優先的に残ってますから、朝のぺこぺこ腹に「ああ、『吉兆』の懐石が食べたい」とは思わないわけです。

 なんらかのものに対してオタク的・マニア的状況にある、というのは結局、こうした「飢餓状態」に「ある」、もしくは自らすすんで「いる」ということのようです。
 だからオタクが喜ぶモノと一般的な判断基準で喜ばれるモノとは、往々にしてズレる。
 往年の偏執狂的メルセデスは、モノマニア的クルマニア的には垂涎の「モノ」なんですが、一般的な意味はほとんどない。ブランドモノのバッグなどでも、興味のないものからすればどー見ても悪趣味でしかない図柄のモノが、「それらしい」という理由でよく売れる。最近のアニメではナイス・ブレストな女の子の胸が左右独立して駆動するなど、もはや「そこは笑いどころですか」と思うような表現があるんですが、それすらも許容はおろか喜ばれてしまったりする。

 とにかくお腹が減ってるわけですから、より味が濃ゆく、満たしてくれそうなモノへと流れるわけですね。

 それはそれでいいとして、ただそれが極まっていきますと、当然「普通の人がついて行けない」という状況になります。市場に置いては集客母体が減る、というのは、例え客単価が少々上がっても、先細る、大仕掛け打てない、など、業種によっては致命的な状況を生み出しかねない。
 自動車産業は装置産業、数出した方が勝ち、という面が色濃くありますから、メルセデスはそこを極めて怖れてて、で、以前の作りは止めて、作り上げたブランドを上手く操作しながら、失望はされない程度のモノを、お客の自尊心を徹底的にくすぐって作り続ける道を選択したわけです。
 オタク的には非常に寂しいことですが、生き残る、ということの判断について本人以外のものがとやかく言っても責任は持てませんし、また、結果は神のみぞ知る、とやかく言っても結果出すのはこの道かも知れません。それは誰にもわかりません。

 ただその、自らもいろんなオタクを軽くやって思うのですが、オタクだから価値判断・状況判断に優れるか、というとこれは決してそうではなく、むしろ、たとえば「コスト・パフォーマンス」あたりのわかりやすい基準一本で判断を下す、一般人の方が(結果的に)正しいモノの見方をしていることも、多い。

 昨日もいいましたが大人達はその辺じゅーぶんわかってて、
 かっぱげるところからかっぱぐ、
 金取れなくなったら捨てる、
という行動を繰り返します。
(そしておおよそ、逆の立場なら自分も同じことをしてます)
 そして、彼らは非常に冷徹にこの、「とりあえずお腹減ってる」という状況と、その時に何を与えれば喜ぶか、という理屈と実際を掴んでおり、フスマに化学調味料をまぶしたものを水と一緒に差し出すわけです。
 味が濃くて爆発的にお腹いっぱいになる。
 そしてあとには、何も残らない。

 そこにあまり踊らされすぎないように、気をつけたいな、と思うのです。
 そこで踊るのが楽しいんじゃないか、と言われればそれはそうなんですが、まあ、あまりそればかりも虚しいのかな、と。
「いや、俺は踊らされてるんじゃない、踊ってる!」
って、悪い女(男)に引っかかってる人も新興宗教にハマってる人も同じこと言いますからねえ。

 ただ、年季の入ったホンモノのオタクは違います。
「ああ、それはイイモノだけど一般人にはすすめないねってお前誰だよ」
 と、いろんな切り口で判断ができる。
 幾分お腹が減ってても、そういう人でありたいものです。


3/8 刷り込まれた体験

こないだね。
朝早く起きて街に出たんです。
前日夜遅くまでまたFFやってて、もちろん朝ご飯は食べてなくて、
ものすごいお腹減ってて、てくてく歩いてるうちにぐぅと鳴り出すぐらいで、
なにか食べようと。
針中野駅前には、ドトール・ミスド・マクドが固まってるんですが、
その時に「食べたい!」と思ったのは、ビッグマックセットでした。

その時フト、思ったんですけど、
たぶんこれは、ビッグマック自体が食べたいんじゃなくて、
「ビッグマックを頬張った時の喜び」をもう一度経験したい、
のではないかと。
朝だからさっぱり、とかそういう合理的な、あるいは生理的な判断さえ押しのけて、
「お腹がとっても減ってる時に食べた、あのビッグマックは美味しかったなあ」
という思い出が、意志決定のキーを握る。
もう一度あの幸福に満ちた経験をしたい、と。
ドトールのミラノサンドの方が美味しいのに、
ミスドならコーヒーがおかわり自由だというのに。
理性が、なにか得体の知れないものに負けてるんですね。
いや、理性だけならまだいい。
身体が求める栄養素とか、お腹がこのぐらいのものを食べたいよ、という欲求、
そういう低めの次元のものですら、太刀打ちできてないかも知れない。

マクドナルドはご存じのように子供の取り込みに非常に熱心で、
小さな頃にマクドの味を刷り込むと、大人になっても食べてくれる、
というのがその理由らしいのですが、
「味」ではなくて「体験」ではないでしょうか。
そういやお誕生日会とかやりますよね。
そういう心と体に染みついた思い出が、
こういう瞬間に効いてくる。
ジャンクフードはなんでもそうです、コカ・コーラも日清のカップヌードルも同じで、
だから、「それ」であって、ペプシコーラは「コーラの別選択肢」という少々なりとも
優位な立場ではなく、コカ・コーラとその他(飲まない、も含む)という立場でしかない。

そのスイッチを受け手の中に作ってしまえる、
というのはまた力のある商品やサービスで、
それはそれでいいことだと思うのですが、注意しなければならないのは。
常にこのスイッチは動いてるので、
スイッチが起動して引きつけられる魅力と、
それそのモノの良し悪し、という価値判断とは別だ、ということです。
「いや、俺は好き嫌いでは言ってない、
 お前は冬の部活明けの夕方、学校の側の駄菓子屋で食べる
 カップラーメンの美味さをしらんのだ」
しらんしらん。

大人達はこういう仕掛けをもちいて、
たいして可愛くもない女の子をまるで天使のように(「〜のように」の部分は千差万別)
演出して回路を形成させ、そこからお金を吸い取ろうとしています。
たいして美味しくもないご飯、たいして綺麗でもない服、
たいしてカッコよくもないクルマ、たいして便利でもないデジタルガジェット。
生き方でさえそうです。
たいして自慢もできない、それでほんとに笑って死ねるのか、てな生き方。

もちろん、のっかろうとしてそれにのっかるのはかまわないと思うのですが、
気がつくと。
気がつくと、お腹ぺこぺこの朝の僕のように、
ビッグマックへと吸い寄せられるようになっているのかもしれません。

全てのオートマチックを切って、理性にしろ身体性にしろを用いてひとつひとつセレクトしていくのは、現代社会ではあまりにも大変かも知れませんが、
そんなことすらできないぐらい忙しい、情報の煩雑な、現代社会っていったいどうよ?
とも思います。
疲れているのに疲れていないように思えるサービス、
面白くもないのに面白いように感じるサービス、
逆もまたあります。
今は、逆の方がお金が動いてるかも知れませんね。

「MATRIX」の最初で、ああいう人類の姿を見せられるのですが、
(現実は、培養器の中に入っている脳の夢、のたぐい)
あのイメージ自体がもう古い。
#から悪いと言ってるわけではなくて、全てのSFはファンタジーですから、
#それは別になんだっていいんですけど。

今、という現実は、お互いがお互いに妙な夢を見せ合う、
そういう世界なのかもしれません。

それは、人が人である限りそうであって、
たまたま技術や手段や方法論が発展したから濃いめに出ているだけなのか、
いや、やはり人が変質して、大地から身体から離れつつあるのか、
そこんところまではよくわかりません。
あと、自分自身も歳を取るので、それによる変化という要素も勘案すると、
ますます見えなくなります。
しかし、真実はわかんないんですけどなんとなく、
気持ち、もうちょいナチュラルな方がいいんではないかな、と思います。

……それすら、「そういうのが流行り」てのに蝕まれてるのかもしれませんけれども(笑)


3/7 結婚式スピーチ講座

結婚式評論家のながたです。

本日は「あなたにもすぐできる結婚式スピーチのコツ」と題してお送りしましょう。
講師はスピーチ歴8回、プロでもなく素人でもないあたりが悩めるあなたにぴったんこのながたでございます。

のっけからスピーチの真髄をお教えしましょう。
・誰も聞いてない。
これでございます。

誰も聞いてないのですから、失敗したって大丈夫。面白くなくたって大丈夫。どもったって噛んだって忘れたって大丈夫。
「そんなバカな」とお思いですか?
ではあなた、今まで出席した結婚式のスピーチで、内容覚えてるものがいくつあります?
覚えてたにしても、「○○の時の恩師のスピーチが良かった」程度ではないでしょうか。
その中身まで覚えてるなんてこた、まあ100回あって1回あるかないかです。

例外的に聞いている人間が2人だけ居ます。
それはもちろん新郎新婦なのですが、ま、この2人少なくとも片方は、そういうセレクションをしてる時点で仲間・共犯ですので、なんの遠慮がありましょう。
どうも気になるようなら、「挨拶頼みたいんだけど」と言われた時に念を押しておきましょう。
「どうなってもしらんで」と。

ほら、これでだいぶ気が楽になったでしょう?

さらにもういっちょ、追い打ちかけます。
結婚式スピーチの真髄その2!
・上手くてはいけない。
心に残ってはいけない。感動させてはいけない。
これでございます。

よろしいですか、結婚式の主役は誰ですか。
あなたですか。
違いますね。新郎新婦ですね。
今ココでこれをお読みになってる時点では誰もが知っているこの事実、しかしあのマイクの前に立つ、あの高砂の横に立つ、特設されたステージを用意される、そうなるとすっかり忘れてしまうのが、人間の非常に興味深い精神の動きでございます。
もしも、もしも万が一あなたが「あーいはばどりーむ……」などと大衆の心を強く打つ歴史に残る名演説をぶちあげてしまってごらんない。
人はその結婚式を思い出すたびに「ああ、あの名演説の!」と思い出す羽目になります。
そんなことは例えマハトマ・ガン爺でも許されることではありません。
結婚式の主役は二人。
二人を霞ませるようなモノは全て排除、排除、排除でございます。
ヴァチカンで輝く「白」の着用を許されているのはローマ法王ただ一人。
あとは彼を輝かせるために黒っぽいのを着てるわけです。
今時の常識を知らないバカ娘どもでも、さすがに結婚式に白着ていくアホは居ない。
同じことでございます。

しかも!
結婚式では、他にたいてい、「飛び道具」が用意されております。
新婦の姉妹がその小さな子供達を連れて、新婦と共に涙ながらに大合唱、
なんてネタを見た時には
「なんて卑怯な」
とひっくり返りました。
そこまで卑怯でなくても、特に新婦側で、ぐでんぐでんに酔っぱらって泣き出す叔父とか、
そんなI.C.B.M.がどこから飛んでくるかわかりません。
そんなもの引っ張り出されちゃ、少々上手くスピーチしたって全部吹っ飛びます。
つまり、やらしい話ですが、「上手くやるだけ無駄」でもあります。

さあ、
・誰も聞いてない
・面白くてはいけない
これ以上楽なべしゃりがこの世にあるでしょうか?
高校のホームルームだってある程度みんな耳傾けてます。
会社の朝礼だって少々いい話しなきゃなりません。
それよりも、ずっとずっと楽な場なのです。
好きなことを好きなようにしゃべればよろしい。

もちろん絶対にしゃべってはいけない話題はあります。
新郎新婦の異性関係。
でもほんとそれぐらいで、あとはまあ、失敗談も悪意がなければ笑いがとれるものですし、
なんということのない平凡なエピソードでも、あの場はご祝儀相場で空気動いてますから、
面白いように、いい話のように聞いてくれるものです。

「なにか『ためになる話』をしなくてはいけないのでは」
と思い悩まれることはありません。
そんな話はもうみんな、うんざりです。
ここでもご自分振り返ってみてください。
そんな話聞きたいです?三つの袋とかそんなん。
ちがいますよね。聞いてみたいのは若い二人がどんな二人だったとか、出逢いのエピソードとか、結婚に至るまでのエピソードとか、そんなこと、
いわば「彼・彼女にユニークなこと」「オンリー彼・彼女なこと」ですよね。
誰も「プロイセンの名将、クラウゼヴィッツ曰く」なんて話聞きたくもない。

どんな高級品でも、高島屋で買ってきたものは高島屋で買ってきたものです。
どんなに不細工でも、手で作ったものは手作りのものです。
人生にたった一度の(予定の)結婚式。
どちらが喜ばれるか、またどちらが心伝わるかは自明の理でしょう。
中には「こんな不細工なのより高島屋で買うてきてくれたらよかったのに」と言い出す
新郎新婦も居るかもしれませんが、そんな二人とはさっさと縁を切りましょう。
これから先ロクなことないです。

しかし、ここに一つだけ落とし穴があります。
どんなスピーチにも共通して、会場全体が嫌がる一要素。
もうお気づきかと思いますが、
「長い」
ってヤツです。
もちろん、面白ければある程度長いのは許されるのですが、
自信がないならばできるだけコンパクトにまとめるのが吉です。
短くて短すぎることはありません。
また、短くまとめよう、と意識すると、シェイプされていいものに仕上がりがちなのは、
言語表現の大物理原則でもあります。
結果的にいいスピーチになることも、多い。

ほら、実に簡単。
あなたがよく知る新郎もしくは新婦の一面を切り出し、
上手くやろう、面白くしようなんてこれっぽっちも思わずに、
無理な無駄な装飾なんか気にせずに、
まるで居酒屋でしゃべるようにぺらぺらぺらっとやってしまえばいいのです。

え? そんな軽いので大丈夫かって?
大丈夫、覚えてないから。誰も。
万が一覚えてても名前までは絶対覚えてないから。
あなたにはなんの義務もない。
いやむしろ!
同じご祝儀出して同じ料理しか出ないのに、他の出席者と違う責務をしょいこまされてむしろ損してるとすら言えるのであります。
それはまさに宴席の多くの身代わりとなってゴルゴダに磔られるイエズス。
イエス、イエズス!
今ナウこの瞬間にも神に召されると思えば、どう見られてるどう見られたい、そんなことはハナクソのように小さなことであります。
どうしても不安なら、逆にいいカッコせずに、ぴしーっとした原稿を作っていって、それを浪々と読み上げてしまう、なんてのも、今となってはすごく個性的でイイかもしれません。

とにかく、主役は二人。あなたはどうでもいいのです。
「あれ? お前あの時スピーチしたっけ?」
と言われるのが理想の結婚式スピーチ。
ああそれなのにそれなのに、世間で売られてる本にはそれに反してスピーカーが目立とう目立とうとするスピーチ術がてんこ盛りです。
わかってなくてやってるなら、あまりにもアホウです。
わかっててやってるなら、あまりにも詐欺です。
こんなもので金を取るなど、私には恥ずかしくて到底できません。
大人の世界は恐ろしい。

ということでみなさま、おわかりいただけましたでしょうか。
気軽に、楽しく。それでももし頭の中が真っ白になっちゃったら……
「おめでとう」
を繰り返していればいいのです(笑)
「うれしい・たのしい・ありがとう」
この3ワードだけで新郎挨拶をやってのけた新郎を、私は知ってます。
しかし気持ちは伝わった。
大切なのは、そこです。
話の中身でもなければ、まして話し方などどうでもよろしい。
いやむしろ飾れば飾るほど、上手ければ上手いほど、
芯の心は遠くなりにけるものです。

そこさえ忘れなければ、あなたもわたしもどなたでも、今この瞬間から
名結婚式スピーチャー。

ひとつでも多くの、あなたの心が伝わってくる、
ヘタクソなスピーチを、
聞きたいと思っております。

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……つーよーなことをほえながに書こう、
と頭をそっち方向で働かせることで緊張を逸らしておりました(笑)
やり方わかってるわかってないとか、場数踏んでる踏んでないとか、
それと緊張するしないとは全く別物です。
これはもう個人の資質なので。
米朝師匠だったかな、舞台の前は死ぬほど緊張する、とおっしゃってました。
だもので、緊張しいの人は、「緊張はしょうがない」と開き直るのも、
ひとつコツだと思います。

と、蛇足で補足。

真理が見えてきた頃には、だいたい片づいて機会ががっくり減ってる、
というのもなんだか芸事やスポーツと同じですな。
若人の苦労が少しでも減りますように。


3/6 okbちゃん結婚式

結婚式評論家のながたです。

若い頃、暗い倉庫でレーサー型自転車の後輪を回転軸に固定したエアロビクス・エクササイズマシーン通称「ローラー」で共に汗を流し、
「ほら先輩、この辺がこんなに細くなってますよ」
「いやん、貴方の方こそ下腹部のあたりがすこやかですわ」
とお互いの皮下脂肪をまさぐりあった後輩、
okbちゃんが結婚しました。
お相手は順当にたーこさん。

結婚式、というか披露宴というものは、新郎新婦の人柄が出ます。
これはもう、どんなにショーアップしてもどんな人が祝辞を読んでも、
いや、誰にどんなことをさせるか、それを新郎新婦が完全に主導権を取って検討する昨今では、その人選そのものからして、新郎新婦の雰囲気をそのまま表現しています。
だもので真面目な二人の宴はとことん真面目、
アホ(誉め言葉)な二人の宴はとことんアホ。
これはもうどうしようもないことでございます。

この二人、人も羨む明るく笑顔の絶えない美男美女。
いやこれはお世辞でもなんでもなくてホントにホントに。
ご両人とも目鼻立ちぱっちりのパーツ大きい系で、ジャニーズの4番手ぐらいのグループの男の子が、本人の名前は聞いたことないけど専属してる雑誌名は聞いたことあるモデルさんと結婚したその披露宴、とか言われても「ああそうか」と思うぐらい。
えてしてそんないい男いい女はツンとすましてるものですが、この二人は実にジョークのわかる、そう、ジョーカブルなお二人で、愉快なカッポーなんですよ。
okbちゃんが初めて引き合わせてくれて、3人で食事して、帰り際。
要らんというのに地下鉄のホームまで見送ってくれて、扉が閉まったので笑って手を振ると、二人して(ここ重要)ホームの端までダッシュで追いかけるマネをしてくれたんです。
「ああ、この二人は上手く行くんだろうな」
と思いました。
やっぱり、「ノリが合ってる」というのはヒッジョーに大切な要素ですからねえ。

そんな素敵な二人ですから、宴もとてもなごやかで笑いが絶えず、
妙な緊張もなく、楽しく進みました。

リーガロイヤルだったんですけど、ごめんぶっちゃけ、
「さすがリーガ」。
披露宴会場コンパクトで天井普通で横長なんですけど、これがアットホームな雰囲気を熟成するのにすごい効いてるんです。
そういえば鉄心さんのオークラの会場もそうでした。
最初入った時は
「やっぱり伝統あるんだろうけど、その分古いよな」
なんて、新鋭ホテルの天井ものすご高い巨大披露宴会場とか思い出しちゃったんですけど、時間が経つにつれて気にならない。
いやむしろ全体の「空気」が馴れてくるスピードが速いんですね。
伝統というのは恐ろしいもので、やっぱり「最適サイズ」ってあるんです。
そこの勘所がわかってる空間設計っていうか。
あと、あそこの宴会場のウリは、外を見せるんです。
すると(たとえ夜でも曇天でも)箱に入れられてる感がどーんと減って、息苦しさが少ない。
長時間になってくるとこれが効く。
3時間コースだったんですが、「え?もう終わり?」って感じでした。
もちろん二人の人柄、それを取り巻く人々の人柄が会場の雰囲気を作るのですが、箱の力そのものもバカにできないなあ、と改めて思いました。
(だからもちろん、もっと派手な二人にはもっと派手な式場がいいかもしれません)
というかやはりこれも、ここを選んでる時点で、
そういう資質の二人、っていうことなんですなあ。

リーガは、以前知人のTさんが結婚した時も呼んでいただいたのですが、その時のフレンチもバリバリに美味しくて腰を抜かし、いいイメージがあります。
気になって調べてみると純日本系(しかも大阪発祥)のようですね。
だからオークラにも通ずる勘所の押さえ方ができてるのかもしれません。
向こうから来た系のホテルは、やっぱり圧倒されますし、その非日常空間がいいんでしょうけれども、「安らぎ」とかそういう話になるとちょっぴりズレてるかもしれませんね。

しかしまあ、
式を見て幸せな二人に拍手を送りながら、
今までになく、しんみりしてしまいました。
時の経つのは早いもの。
初めて知り合ったのは、彼がまだ高校生で僕が大学の1年とか2年とか。
あれからもう10年。
ちょうど弟が同じ歳なんです。49年生まれ。
だからもう、友人が結婚するよりも弟が結婚したみたいな感じで、
羨ましいとかなんとかより、「がんばれ」って気持ちの方が強かったです。
奥さんも、友達の奥さんだと
「む。あんな美人もらいやがって!」
みたいな気持ちになるんですが、
「ウチのokbをよろしくおねがいいたします」という気持ち半分、
「き、君も頑張ってくれ!」みたいな若者を見守る気持ち半分、
なんだかもうおじいちゃんです(笑)
不思議なもんです。
しかし、そういう気持ちにさせる、というのもまた、その二人に魅力があるからです。

愛は地球を救うね。
そりゃもう間違いない。

たくさんの笑顔に囲まれた和やかな宴にたゆたいながら、
そんなことを思いました。
これからもより多くの笑顔に囲まれるような、
もっともっと楽しい二人であってください。
笑顔の足りない世の中に、たくさんの笑顔を供給してやってください。

「お幸せに」という言葉があまり聞けない宴でした。
もうしあわせだ、と、みんなしってるからです。
それは、とてもステキことだと思います。

おめでとう。


3/5 U・A・E

 UAE戦。
 僕のモスト・インプレッシボーは達っちゃん。
 いいね。
 ちょっと前までただこちょこちょドリブルしてるだけ、みたいなイメージだったのに、最後まで勝利諦めない執念、1点獲ってなおミドルシュートを枠に飛ばすひたむきさと技術、いやもう、頼れるストライカーです。フル代表見渡したって、あそこでああいう精神状態とプレースタイルを保てる選手が何人いるか。まさに「男子三日会わざれば刮目して見よ」ですな。
 いや、若手見てるとこういう喜びがあるから楽しいですよね。(もちろん逆に伸び悩む苦しみも共有せざるを得ないのですが……)
 今季のJでのエメルソンとの2トップが楽しみ。後ろに山瀬、啓太、トゥーリオも居ますしね。浦和はそれに加えて三都主と酒井も獲っており、(岡野も帰ってきたよ!)ブッフバルト新監督も白馬にまたがって指揮を執るなど、フレッシュな魅力が一杯です。要チェック。

 しかし、これがあの「森崎ツインズの一人、森崎です!」とTBSにバカにされていたへなちょこU-23か、と思うほど、ガッツありました。聞くところによると、原因不明の下痢で多くの選手が体調を崩しながら戦ってたとか。
 やっぱ日本人はなにかそういう、カセがあった方が力が出るんでしょうかね。

 ともあれ、俄然日本ラウンド、いやオリンピックが楽しみになってきました。
 山本さんに例えば8強とかそういうハクがついて、ジュビロ帰ってちょちょっと優勝でもすれば、代表監督に岡田・山本と選択肢が二つできますよね。これでもう20年は大丈夫。
 だってそうなると、外人連れてくるにしても、もうトルシエ・クラスの中途半端なの連れてくるわけにはいかないですし。ヴェンゲルをリッピをファーガソンを持ってこい、と誰もが思う。
 そんなの来ない?
 わっかんないですよー、例えばザッケローニあたりがいつまで立ってもアズーリからおよびかからないのにキレて、「日本を率いてアズーリを倒してやろう」なんて目覚めてくれちゃうかもしれない。
 くれちゃわないかもしれない。

 ま、ともかく、結果ではなく、「試合を見たい」と思わせるのが好チーム。
 U-23もようやくそうなってまいりました。
 ああ、早く日本ラウンドを。


3/4 布団を送る

 空前絶後の400勝投手金田正一。
 現役時代を知らずロッテ監督のイメージしかない僕はてっきり、
 がーと行ってばーと投げる
 式の、天賦の才にまかせた力ずくピッチャーなのかなー、と思っておりました。
 さにあらず。
 身体にはめちゃめちゃ気を遣ってて、昭和26年とかあのあたりですでに水道水は一切飲まず、1本500円(当時のお金で!)のミネラルウォーターを手放さなかったそうな。
 で、遠征先の旅館には、自分の気に入ってた布団と枕を送りつけて、それで就寝。

 すごいですな。

 ちょっとうるおぼえですが釜本さんが現役の頃も、自分自身で体重を細かく管理して、食事のメニューなどを考えていたと聞きました。「今日は何グラム体重が落ちてるからステーキ食べるか」とか。
 今はもちろん、球団やチームが、そういう面ではできるだけのバックアップをするのでしょうが、他人に「してもらう」のと自分で試行錯誤を繰り返しながら「する」のではやはり違う。
 効果がどうの、という前に、そういう心構えでやっていると、ハウリングのように自分にフィードバックするわけですね。
 ここまでやってんだから、ここまでやってんだから、と。
 それが自信にもなるし、「これでダメならしょうがない」というリラックスにもなる。

 逆に今のように知識や情報がある方が、惑わされやすい。
 多数の中から、自分にあったものを取捨選択していく必要がある。
 人の身体はあまりにも千差万別ですから、ある人にてきめんなのがある人に全然、ということは多いですよね。正露丸だって効く人と効かない人で極端だし。
 筋トレ一つでもほんと微妙で、そういう仕事されてる方には失礼ながら、医療常識ほど猫の目のように変わるものはないので、「おおよそ多くの人に効く」すら怪しい。
 僕が子供の頃って、今ほどスポーツ選手故障しなかったような気がします。横綱大関があんなに休んだり、一年棒に振る野球選手とか、そんなには居なかったように思うのですが、それは、こういうところからきてるんじゃないでしょうか。
 「こうすればいい」というの鵜呑みにして、実はバランス崩してる。
 結局、自分の身は自分で整備していく他ない、のはいつの時代も同じようです。

 いやー、しかし人は見かけによらぬもの。
 あのテキトーそーな金田さんがねえ。
 やはり何かをやった人は、ちゃんと何かをやっているようです。
 金やんがそこまでやっていたのなら、凡夫の私なぞはより厳しく細かく、目的に集中すべく周囲に気を配らねばなりません。とりあえず新しいマットレスを……
 違う?


3/3 3つの机

先日、「儲ける方法」みたいな本を読んでおりまして。

僕、割と好きなんですああいう本(笑)
最近の本は良くできてて、情報のタイムラグが映画がDVDになるぐらいの感じで、
割と新しめのテクニックとか惜しげなく載ってて、面白いんですね。
今、ナウ、非常に有効な手段とかはまだ隠されてたり、
方法論はわかっても具体的な手法にはノウハウが必要だったり
(たとえばGoogleの検索結果でできるだけ上位にでてくる方法とか)
するんですけれども。

そこに、「仕事をする机を3つ持て」と。
まず2つは、

・並列作業で柔軟なアイデアを手にしつつ、いろいろな仕事をこなす机
・一点集中用のそれオンリーな机

僕も、学生の頃は、本気で勉強する時は部屋ではなく、
居間のコタツへ一揃え持って行って店を広げました。
今も「ミラクルズ!」とか描く時は、
別の部屋へThinkPadを持って彷徨ったり、
真夜中にデニーズめがけてトボトボ歩いたりします。

ぐちゃぐちゃから生まれる/からしか生まれないタネもあります。
これ(ほえなが)はそういうものです。
だから、(できるだけ)毎日ライブ更新でないと意味が無い、と思っています。
IEにメーラーにiTunesにと、いろんなウィンドウがぐちゃぐちゃ開いてるところから生まれるもの。
しかし逆に、真っ白のキャンパスに白装束で向かわないと生まれないタネもあります。
イージーリスニング・ミュージックでさえ邪魔になる、真剣勝負のもの。
庭の一角に伸びる名も無き草も大切、
温室で撫でさするように育てる胡蝶蘭も大切。
どちらもやりたいのは欲張りだけではなくて、目をあまり偏らないようにする意味もあります。
蘭狂いになって野の花の美しさを忘れるわけにはいかないし、
野の花至上主義になって、蘭に込められた人の愛情を忘れるわけにもいかない。
だから、両方。

で、3つめというのは、

・他人の声が聞ける、気分転換にもなる部屋の外の机

「人の話」というのも、視点を変えればためになるものです。
家族友人に限らず、赤の他人でも、書物でも、Webでも他メディアでもなんでも、そこから入る声。
バランスを考えてても、その両極端そのものが、他人、違う次元から見れば、同じ次元での目くそ鼻くそであることもしばしばです。そういうツッコミをもらえる。
そしてホントに良いモノは、ジャンルを超えます。
例えばウチのおばあちゃんにも「いいね」と言ってもらえるはず。
「?」マークが乱舞するようでは、やはり普遍性のある良さとは言い難い。

今まであまり、3つ目は意識しなかったですが、そういう、
「引いた視点で目の前でやってることを見直す机」
にはとても意味があるような気がしてきました。
そしてそこからまた、似たようなゾーンのぐちゃぐちゃに埋もれてる以上の斬新なタネが、パッと生まれる、そんな気もします。
結局PC上でどんなデータを開いていても、そのデータ達は「PCを経由できるデータ」というくくりからはまぬがれません。
社会は世界はそんな狭いものではない。

快い季節になってまいりました。
いろんな声の聞ける街に出ましょう。


3/2 ごたくはいいから大画面をよこせ

最近、また物欲の虫がウズウズしてまして、
電器店なぞにまいりますとアレも欲しいコレも欲しいと指をくわえて
ヨダレをしたたらせております。

個人的にはこれは活性が上がってる証拠なのでウェルカムなのですが、
それはさておき、
シャープの37型液晶TVなんか見ながら、感慨に浸ってたんです。
僕が居た頃は、ちょうど
「14インチ4枚貼り合わせ28型、もちろん世界最大」
というワンオフ・モデルが世間の度肝を小さく抜いていた頃。
輸送なんて三億円事件みたいなジェラルミンケースで、
護衛が4人ばかりつくんです。社員ですけど。
あれからまだ7-8年しか経ってないのに、
それより大きな一枚液晶が、ジョーシンの店頭でフツーに見れるようになるとは……

でも、ハタ、とそれ見ながら思ったんですけど、
私達はもはや、「これが欲しい」んですよね?
プラズマでも液晶でもいいですけど、「薄型大画面TVが欲しい」んですよね。
「アテネ五輪を綺麗に観たいから欲しい」
っていうモチベーションの人、どのぐらい居ます?
まだ結構居るのかな?

家電といえば便益指向、
「ほら、これを使えばこんなに素敵な生活が」
という訴えをしてきたわけですが、
僕は大画面TV売り場の前で、
「とにかくこの画面をくれ」
と思ったわけです。何を写すかなんて考えてない。

考えてみれば、どんなモノでもいつかは
便益中心と意味中心に二極分化していくわけで、
クルマでも実用車と高級車はまるで作り方訴え方売り方が違います。
家電も、これからはそういう、
「モノ魅力」
そのものを売り込む商品が増えてくるのかなあ、と。
その際に必要なのはブランド力ですが、
それは、例えばヴィトンと提携してLVマークを入れるとかそんなんじゃなくて、
あるいは高名なデザイナーにお菓子をイメージしたデザインを依頼するとかでもなくて、
機能と信頼に立脚した
――なんて言わなくても昔から家電メーカーがやってることですが――
「ブラウン管はトリニトロンですよ何を言ってんですか」
というヤツなんでしょう。
だってやっぱり、家電の魅力、というのはそこにあって、
「うわあ! 汚れがよく落ちるぅ!」とか、
「ひぇえ! このテーブルタップコンセント差し込みやすっ!」とか。

そこキッチリ詰めていけば、やっぱり日本のメーカーは
信頼性を中心とした丁寧なもの作りでは世界一ですから、
白物家電でもなんでも、まだまだ頑張れるような気がします。
(少なくとも国内市場では)外国製品にビビる必要もないし、
なにもコンテンツ側にへこへこ頭下げる必要なんか無い。
アテネ五輪なんかどうでもいいもん。
デカイテレビが欲しいんだもん。

HDD/DVDレコーダなんかもそうで、
僕テレビ見ないんです。でも欲しい。
逆に、買ったらいろいろ見そう。
今までと立場逆ですよね、
「俺らがHDD/DVDレコーダ作ったから、TVの視聴率上がってんねんで?」
という。

ま、どっちが強い弱いなんて議論は無意味ですが、
とにかく持ちつ持たれつであって、
例えば「mp3にできないCD」ってもはや、
「HDDレコーダに録画できない映像コンテンツ」みたいなもので、
「じゃいいよ録らないから」
言われてお終い、のような気がします。

ともあれ、
TVなんて成熟商品もいいとこだったのに、
「薄くてデカイ」
ただそれだけで異常な盛り上がりが戻ってきたわけですから、
「ユーカリの風が吹いてくるドライヤー」とか「目を潰れるようなペンダント照明」とか、
「和室によくあう木製扇風機」とか、
なんかわかりませんがとにかく、
まだまだ家電も面白くなる余地はいろいろありそうです。
そんな予感のする、元気一杯の大画面TVコーナーでした。


3/1 いろいろ。

高原が大活躍するブンデスリーガで、現在得点王を走るのは
ブレーメン所属ブラジル出身、アイウトン。
その彼に我らがフィリップ・トゥルシエが
「カタール代表にならんか」
とジャッカー電撃隊もびっくりのスカウトを。
「ブンデスの得点王がんなバカなことするわけないじゃん」
と思うのは素人のあかさたな、で、本人満更でもないらしくて
「考えんこともない」と言い出して、上を下への大騒ぎ。

その理由は「このままじゃセレソン(ブラジル代表)なんて一生無理だもん」。

なるほど。
大怪我でも無い限り、あと5年はロナウド軸に残り枠1。
誰だってワールドカップ出たいですからねえ。
層が分厚すぎるフランス代表などでも似たようなことが起きてるとか。
イタリア代表のカモラネージもアルゼンチン人ですよね。

浦和のエメルソンが帰化申請の準備をしてるとニュースで見て、
ちょっとビックリしたんです。
でも、当人の気持ちはもちろん全然わからないですが、
確かに日本ならワールドカップで戦える可能性非常に高いし、
決勝トーナメントぐらいに乗り込む可能性だって充分ある。
エメルソンなら今のところエース格ですわ。
大活躍でもしてごらんなさい。
欧州ビッグクラブからオファーきますよ。
今はナカータやシンジみたいな実績だってありますしね。

……と、考えるとまあ、合理的にも悪い選択じゃないですね。
もちろん、こういうのは本人の気持ちが一番大切なんでしょうけれども。

あ、当然ながら、諸手を挙げての大歓迎なんですが、
三都主と闘莉王がDFラインに並んで
エメルソンとカレン・ロバートが前線を走って、
ましてスタッフに呂比須やラモスが居たりすると……
なんだか楽しいなあ。
いろいろで。
フランス代表だってそうですよね。
移民の子とか多いから、アルジェリア系、バスク系、スリナム系……
それがあの強さを生む。

いろいろ、というのはこれからますます大切だと思います。
ボビーや新庄がいるだけで、パ・リーグが面白そうではないですか。
それもただいろいろを集めた、なのではなくて、
決意を持って、結果としていろいろになっちゃってる、というのが素晴らしい。
本来、そうなるはずのものですよね。
大目的をきっちり見据えれば、
必要なパートパートに特別な能力を持つ人が集まって、
だからこそあとの部分はバランバラン、個性豊か、という……
音楽のバンドとかも。
多様性は、進化の過程ではリスクヘッジみたいな捉えられ方をしてますが、
それ以前に、なんというのでしょう、コンペイトウのトゲみたいに、
突出した個性がセンサーになって、
集団の領域を拡げる効果があるのかもしれません。
その、手の届く範囲、意識できる範囲の差が、強さを生む。

だから、大砲ばっかり集めるとか、スターだから集める、
ではやっぱり弱いんです。

……レアル・マドリードは首位ですが(笑)
「みんなで守らんとヤバイ」という意識があんなにいい方に転ぶとは。
いやはや、サッカーはほんと、なにがどうなるかわかりません。

とまれ、自分の中にも、
ストライカーの自分、センターバックの自分、
スターな自分、脇役な自分、
いろんな自分を、持っていたいものです。



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