吼える! ながたさん!

随想随筆、軽く素直に面白く。

4/30 Books

本日は4/10から4/30までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)
いちおう、自分的にまるっきりダメだったものは掲載しません。
特に一般的におすすめできそうなものにはひとこと入れます。

★ゲーム★

「アルルゥとあそぼ!!」 通常版 (Laef)

 ・不肖ながた、「Routes」ミニシナリオにて参加しました。
  未プレイの方にも「なんとなく楽しそう」感が伝わりますように、と頑張ってみました。
  お買いあげの方、ご一読いただければ幸いです。

「リアライズ」 (PLAYM)


■本■

「イチロー・オン・イチロー―Interview Special Edition」 小松成美 (新潮社)

「新型クラウンのすべて」 (三栄書房)
「MAZDAアクセラのすべて」 (三栄書房)

 ・「すべて本」は三栄のに限ります。

「民俗学の旅」 宮本常一 (講談社学術文庫)

 ・宮本先生の自伝的書物です。先生を取り巻く人間模様が、素晴らしいです。
  「忘れられた日本人」 宮本常一 (岩波文庫)
 も、超付きのオススメ。「土佐源氏」は、文学です。

「街道をゆく」22 南蛮のみちT 司馬遼太郎 (朝日文庫)

 ・「街道」は外国編が特に面白いです。今回は聖ザビエルを訪ねてのバスク。行きて〜!


---

ネットに復帰すると愕然と読書量落ちました。
特に歯ごたえのある本を避けるようになります。
来月は注意して、もちょいガンバリマス。


4/30 よい悪人

僕は、作品中の人物を描き込んでいく時に、
「傀儡」(人形)は基本的に使いません。
これは書き手のやり方のごくテクニカルな部分なので、
いいも悪いもなく、
またそれが僕もたまに使います
「抽象概念の擬人化」(たとえばラスボスは純粋な悪の権化(?)とか)
とどう違うんだ、といわれると自分でもよくわかってないのですが、
まあとにかく、動かす限りはしっかり「人」として描こう、と思っています。
ごく大雑把に言えば「キャラ・オリエンテッド」なわけです。
繰り返しますがそれが良い、というわけではなく、
単に好きだからそうしてます。

それにより、密度が上がり肌触りが滑らかになると思うのですが、
反面、イベントドライブの力が弱くなったり、
ストーリー展開の制約が厳しくなったりします。
キャラに引きずられるわけです。
「この子はここでこうは動かん」と思えば、
「そう動くキャラを出す」か、
「そのキャラがそう動くイベントに変える」必要が出てきます。

それはまあ、「ハマれば強い」という事実の裏返しなのでしょうがないのですが、
もひとつ弱点として、
「描きたくないキャラを描かないようになる」んです。
これは、作品世界が浅くなったり狭くなったりするので、
あまりいい傾向とは言えません。
(パステルカラーが悪いわけではないですが、飽きる)

僕は特に、負の方向性を持つ、「マイナスキャラ」みたいなのを描くのが
苦手なんです。
描いてても何も楽しくない。
だからといって傀儡で、というのは、せっかく一生懸命フルコース作ってるのに、
そこだけ冷凍食品温めるみたいで非常に気持ちが悪い。
しかし出すと出さないではその世界の厚味が違う。
半ばしょうがないので、「全く見せないけど実はいいひと」というあたりで
なんとかかんとかやってるのですが、
どうしたものかな、と。

で。
こないだ「リアライズ」やって、名手・高橋さんの描く
春秋や邦博、それから沙耶あたりを見て、
あるいは「雫」の月島会長や「痕」の柳川を思い出して、
「ああ、こういうのがある」
悪は悪なんですが、バックボーンを知れば憎めない、
どころか肩入れしたくなる。
そういう悪。
(基本的に善で悪に見える、のとは違う。実際に悪事も働く)

考えてみれば人には、よほどの聖人でない限り、
誰しも闇の部分があります。
道端でこっち何も悪くないのにクルマにクラクション鳴らされりゃ、虫の居所によっては
「クソボケ死ねアホグァ!」
などと心の中で吠えてしまうもの。
でもそれを、抑えて、飼い慣らして、上手く発散して、生きてる。
しかし稀に、なんらかの状況により、タガが外れて出てしまう。
その、善←→悪の揺らぎ、それ自体を描くことは、
とりもなおさず人間そのものを描くことに他なりません。
悪人も善人と同じ人間であって、違う側面が出ているだけ、です。

この、
「違う側面が出てるだけ、だからまた別の面では普通、ヘタすると善人」
という人間描写であるならば、
やって嫌ではなさそう、というか楽しそうですし、やりがいありそうです。
(「リアライズ」で言うなら邦博と千佳の会話とか)
また逆に、主人公サイド善サイドでもこれを応用すれば、
苦悩や気持ちの揺れをよく表現できそうです。

よーし、次描く時はそれを意識して……
と思ったのですが、よー考えるとあんまりそういう対立構造自体描かないや(笑)
「克つべきは己か運命」
という点にいつもフォーカスを当ててるので、あんまり敵役が必要ないからかも。
でもケーキ屋さんにもビターチョコ使ったチョコレートケーキがあるわけで、
描けるに越したことはありませんしね。

「むっ、この敵役、憎たらしいけどカッコイイ!」
そんな「よい悪人」を描いてみたいものです。


4/29 空心

半年ぶりぐらいに剣道に復帰した、鉄心五段との会話から。

「久しぶりに稽古やると、めちゃめちゃ上手いんだよ。
 邪心がない、って感じで」

そういう経験はありますよね。
余計な何か、垢のようにこびりつく何かが全くなくて、
自分の100%、持ってるものが全て出る。
100%出してるから、そこでアクシデントに対応すると、その場で成長もする。
そしてなにより、気持ちがいい。

ただ無心、真っ白で、鉄心五段曰く
「境界線がボケてくるような」。
僕も、完全に没頭していると、作品世界なんだか現実世界なんだか
わけわかんなくなってます。
駅のベンチに座り込んで泣きじゃくる可憐を、背後から見てる。

これなんです。
この状態を任意で出せれば、強い。
そして楽しい。

まず。
それは普段、なにかの行動を起こす時に、そのいくらかを受け持ってくれている
「ロボット」が、目を覚ましていない状態ではないか、と考えることができます。
オールマニュアルで動いている。
だから余計な邪魔が入らない。
自分の意図と意志が、ダイレクトに動きに変換される。
いや逆に。
フルオートではないか、と考えることもできます。
身に付いた、「身体が知っている」やり方に全て任せてしまう。
理性、頭で考える余計な要素を一切入れずして、
「スッとやる」。

共通して言えるのは、
ロボットにしろ自分の意志にしろ、
「雑味」を入れない、という点です。
ムリせず、自然体で、おもいきり。

無心、というのはひとつキーワードだと思うのですが、
無心だからこの境地に至れる、というわけではどうも無さそう。
(ニワトリタマゴで、一つの要素かも知れませんが)
ただ逆に、この境地の時は、無心ではある。

しかし、完全に自分が「無い」かというとそうでもない。
上の例で言うと、見てる自分はちゃんと居る。
「空」っていう便利な概念がありますが、あれでしょうか。
有って・無い。
居て・居ない。
だから無心、というと言葉ちょっと違って、
「空心」
とでも呼びますか。

視点を外す、ズラす、移動させる、高める。
その境地に至るに有効ではないか、と思って
意図的にそういうことをやってみたこともあります。
しかしどうも違うくさい。
(必死になって修練を積んだわけではないので、
 本当に違うかどうかはわかりませんが、スジは悪いくさい)
おそらくこれは、一段低次の物理メソッドに過ぎません。
僕で言うなら、「そのシーンを描く時によりリアリティを増すための」とか。
根元的に自分自身の状態を遷移させるためのメソッドではない。

たぶん、スイッチがあるんです。
ひとりひとりに。
そのスイッチの入れ方はおそらく、その人によって違う。
この存在と入れ方を把握してると、すごく楽だろうな、と。

僕はまだ、確固としたソレは持ってません。
後から見て、「ああそういう境地でした」に至ってたことは多いですし、
そこに至ること自体に苦労しない、方なのですが、
逆に、であるが故に、
そこに至るための何か、というのはとっかかりも見えない感じです。
見えて無くても発動できるし、頻度も実は余るぐらい起きてるので、
恵まれてるといえば恵まれてるのですが、
まあ、できれば見えていたいなあ、と。

「センス」とか「向き不向き」っていうのは、
こういうレベルの話かも知れません。
表現系の、特に「作家」と呼ばれる方々にはここで苦労するタイプも多く、
(原稿用紙丸めてクシャクシャ頭抱えてグシャグシャ)
それ考えるとすごいアドバンテージがある……
と、一瞬思ったんですが、でもあんまりそこのトリガーが軽いと、
どーでもいいものをバリバリ量産しそうな気がしますね。
……実際そうかー!?
ま、下手鉄砲、という言葉もありますが。

ただひとつ思うのは、小さい頃から
「生きてると、アクセルを床まで踏まなきゃならないことがあって、
 その時には何が起きようが踏まなければならない」
とは思ってるし思わされてるし、です。
ウチのまま上は最近こそ丸くなりましたけど昔は鬼のような、
いや鬼そのものの教育ママでしたし、
当人もなんとなくそれに従って大きくなっちゃいましたから。
踏み慣れてはいる。

すごい簡単なことを言ってるようですが、
実は結構、踏めない人も多いんです。
口幅ったいこと言うようで恐縮ですが、
「お前なんでそこで踏めへんねんッ!」
ということは、人見てて多いです。
(さすがにプロはそんなことほとんど無いですけどね)
エンジンの性能や信頼性は別として、
まず踏まなければ結果なんて出ないはずで、
踏んでない結果なんか出ても、自分の実力もわからなければ
これからどうしたらいいかもわからない。
そんな結果なんか出たってしょうがないじゃないですか。

え?
お前は不必要に踏みすぎ?
ごもっとも。
よく壁に激突してます。

しかし「踏まなきゃ」という意識と、「踏む」蛮勇。
それは最低条件として必要な気がします。
ま、当たり前ですわね、
「どうやってアクセル全開にするか」
って話なんだから。

一週間ぐらい前に掴んだのは大戦略で、いわば
「空母を中心とした機動部隊を主力とす」
みたいなところです。
これは、「先制攻撃これおそらく必勝」というレベルの話で、
先制攻撃はどうやって掛けるのか、
人にはそれぞれ持ち技がありますね、
僕は割と先手取れてるんですけど、どうやって取れてるかは自分でもわかってません、
ただ、「先手必勝」といつも思ってはいます、
というお話でした。


ところで「空心」っていうのちょっと気に入ったんですけど、
これを僕の号にしちゃダメ?(笑)


4/28 「蔵童子」閉まる

まきをちゃん「蔵童子」ラストライブ行ってきました。
鉄心さん、yokkun、久しぶりに会ったイチロー(鉄)と4人で、
途中からポンちゃん登場。

ラスト、ってのはどんなものでも評価不能です。
「蔵童子」という店自体が閉まる(移転)のですが、
まきをちゃんも歌い続けますしマスターも料理を作り続けるわけで、
何も終わらない。
でも、ひとつのパッケージが終わった、というのも事実で。
「二人で屋台でも引くか」なんて言ってた鉄っちゃんと同時に就職が決まったり、
いろいろと思い出深いお店でした。

「蔵童子」に、「おつかれさまでした」。

そうそう、新婚ホヤホヤのカップルがお越しで、
まきをちゃんの歌声をまさに手に手をとって、
たとえば奥様が旦那さんの背中に寄りかかるようにして聴いてたりするのです。
今の曲はどうだ、なんて感想を語り合っているのでしょうか、
唇の距離などもうキス寸前。
後で聞けば先週もお越しで、その時は感極まってご夫婦でダンス・ダンス・ダンスとか。
気分はもはやソウル・トレイン、そうセマウルー号ですよ。

ああ、いいなあ、うまやらしいなあ、と。

旦那さん69奥さん59。
若いってのは、E!


4/27 FF小咄 (闇杖見参)

今日はFF話。
久しぶりに晩ご飯〜就寝までをFFで過ごしてみました。
といってもたかだが一月ぶりですが。

闇杖。
買いましたとも。
バージョンアップ当日残り2本、タッチの差で55万のが売れて
60万払わされましたとも(泣)
(日本円にして約600万円の買い物です)
昨日久々のレベリングで初使用。

安い。

てか100万でも買いです、これ。
いやもう、別ジョブ。
「人シーフと猫シーフではザクとシャアザクだ」
とはよく言われますが(そうか?)
闇杖持ち人黒と樽黒だったら二念なく闇杖人黒ですよ。
つまり貴方の黒もこれ一本でシャアザクに。
うん、ちょうど3割ぐらい戦闘力が上がります。
レジ上等タゲ取りホーダイ3系砲台。
ファストリキャストつきサポ赤でラッシュラッシュ。

心:『うりゃうりゃうりゃうりゃうりゃ〜〜〜!』
モンス:ポテ。
顔:「すみませ〜ん、タゲ取りすぎですね〜」
PT:「いえいえ^^ 黒さんに頑張ってもらわないと〜^^」

むはははのは。

イメージは砂丘。
そう青春のあの頃の、無邪気なキモチ。

てかこれが黒魔道士だろッ!!

もちろんこれでも狩人さんはもちろんモンクさん暗黒さんにもトータルダメージでは
及ばないですよ。
まだ誤解されてる方多いですが、黒はNukerでAttackerではないのです。
70以上の召喚さんを除けばあのゲームでNukerジョブは黒しかないので、
目立つのは目立つのですが。

あ、そうそう、
ジョブチェンジミスって初めてやる羽目になったのですが、
サポ赤めちゃめちゃ使いやすいです。
連射力も次発装填時間もブリンクの貼りやすさも。
これからは要求されない限り基本サポ赤で行こうかと。

最近は一戦の戦闘時間も短くなってきて、
next経験値さえ見なければ随分楽になった気がします。
次は68ブラクロあたりまでコツコツ行きますかねー。

---

闇杖買う時に思ったのですが、
やっぱり僕はバクチ(株等含む)に向いてません。
バージョンアップ終わってログインして、すぐずっと気になってた
闇杖の値段見に行ったんです。(中断前は100万強)
一月経ってるから安くなってるだろ、って。
で、最終履歴54.8。残り2本。当日の履歴がズラーッ。
つまり
・闇杖以上のアイテムは追加されなかったっぽい。
・ここからはまたしばらく値が上がる一方である。
・手持ちは58万。
ここで躊躇無く55を入れて買うべきだったんです。
一瞬迷った。
どこに迷う理由があるのか自分でもわからないんですけど、
迷ったんです。

だって、中断前からなんとかお金貯めて買おう買おうとしてたアイテムが、
今手持ちのお金で買える。
なら、何を迷うことがあるのでしょう。

で、5分後見たら残り1。最終履歴は55。
「うわあ、しまったー」
で慌てて55入れてダメ。55.5を入れてダメ。56を入れてダメ。
最終履歴54.8の時点で56を入れて駄目な場合、おそらくは60なわけで(泣)
泣きながら5千刻みで手持ちオール58.いくつまでやって、
「神様売れませんように」って祈りながら倉庫回って送金して、
で、58.5、59、59.5、60、落札。

あの迷い一つで5万G。(日本円にして約50万円)
バクチ打ち(あるいは商売人)は、たぶんこの迷いが無いはずです。
スッ、と手が動いて、「何の気なしに」55でラス前を落としてるはず。
そしてこのへんのセンスとか動きって、やっぱり天性のものもあるし、
金というものにたいするコダワリ、が生んだりすると思うんです。

もう少し自分を分析すると、「55ぐらいで買える」という事実を見た時に、
僕にとって大事なのは「買える!」という事実であって、
55っていうのはあまり大事なファクターじゃないんです。
だから、無意識の上では、手持ち全部(75万ぐらい)払ってもいい。
それが迷いを生んだわけです。
あの時点で残り1本なら、30秒ぐらい迷って
(これも時と場合によっては致命傷になる)
55を入れてると思うんですが、残り2本だったから、
1本分「迷えた」というのもありますね。
実際、「60払っちゃったよー」と言いながら僕にとって大切なのは買えたことで、
満足もしてるし。

金にこだわりが無ければバクチや商売でガツガツ稼げるはずがない。
それは、当たり前のことです。
いやはや、当たり前のことなんですが、思い知りました。
やはり僕は小銭の似合う小工房職人で(泣)
コツコツがんばりまっさー(泣)


4/26 ニュー風呂

風呂が。
風呂ができましたよ風呂が。

ざぶ〜ん。

(現実には湯を張りながら入ったので
 ずざざざざざ……ぽちょん・ちょぴん……うふふふふ……
 なのですが、心象風景として)

幸せ。

もうね、なんぼほど幸せかということです。
脚の伸ばせるサイズの浴槽に、どっぷり肩まで漬かる。
焼き肉屋で対談する山崎拓と加藤紘一ぐらいホットですよ。
思わず脚を伸ばして「ぷぷっぴどぅ〜」。
そして立ってシャワーを浴びて意味もなく腰をひねる。
大きな鏡を手で2往復、映った自分に軽くウィンク。

ガマの油が取れます。

それはいいのですが、
まあ、2週間ぶりぐらいに心おきなく入れた風呂であることと、
今ちょっと風邪気味なのと、例のサロンパスかぶれの部分をぎやーって洗えたのと、
いろいろ複合したのもあるのですが、非常に気持ちよかった。
ど新品なので、古びた水回りにある独特のジメジメした汚れ、
得体の知れないカビとか水垢とか、本気で気持ち悪いアレ、
が全くないんですね。
前の風呂は、僕が物心ついた時にはもうできてましたから、
実に25年ぶりぐらいに「新しい風呂」という体験をしたわけです。

で、本格派檜風呂、って実は、毎年作り替えもしくは削る、らしいですね。
そこがポイントなんですよ、「サラ」っていうのが。
もちろん丁寧に徹底的に掃除すれば、タイルでもホーローでも
新品「同様」には戻るでしょうけど、でもそれ、「サラ」ではないんですね。
新品の持つ感覚的な精神的な意味合いとはかなり違う。
古びたものを新しくしたものは、「またあのように古びる」という予想がつく。
新品にはそれがない、だから貴重なのかも。

ま、そんな抽象的な話しなくても、
25年の歳月は風呂周りも非常に進化させており、
ユニットバスの機密性、お湯がさほど高温でなくても浴室全体が温かい。
床は樹脂で、マット等々置かなくても清潔かつ滑らず、
しかも「カラリ床」ってヤツで数時間で乾いてしまう。
スゲースゲーと一人で唸ってました。
予定では320万ばかり掛かるようなのですが、
こんなスバラシイのならエグザンティアの代わりに(そのぐらいしました)
家族サービスでやったげてもよかったような気がするぐらい。
もうね、1日3回入りたいほど。
そりゃアルキメデスも法則見つけるわ、と。

日常のなんということはない部分、地味でみんなが無視する部分、
でも、実は、生きていくことのすごく大きな割合を占める部分。
風呂とか、トイレとか、炊飯器とか、布団とか、
私だとキーボードとかそうなんですけど。
あと難しいですけど空気と水。
ここには、お金……は難しいけど、エネルギー、知恵は、
掛けて掛けすぎることはない、と強く思いました。
もっともっと、
「一番自分の芯に近いものは何か」
を考え、感じて、そこにエネルギーを費やしていきたいものです。

ここちよい生活を目指して。
ベンツより風呂。
……できれば両方。

とりあえず風呂万歳!


4/25 ぜんぜんだめ

「恋には木が必要なのだ」   司馬遼太郎

---

今日はほんとにダメなので、雑感です。
すみません。

消化できない異物に苦しんだ週末でした。

もう、そういうのは止めようと思っていたのですが、
目の前に定評あるお店の美味しそお〜なステーキがあると、
そりゃ食べたくなるじゃないですか。
金曜までは元気一杯で気力も充分充実、
「よし、このぐらい食いちぎってみせるぜ!」
みたいな気分だったのですが、アサハカでした。
違う、調子いい=感受性上がってるから、ショックも大きいんです。

よくないことにソレは古い嫌な記憶まで(いい記憶もありますが)
十把一絡げでくっついてくるものなので、そっちでもダメージを受ける。
もう小さいけど、受けなくてもいいダメージを受ける。
視野もぎやーって狭くなる。

「信長の野望」とかシミュレーションゲームで、「防衛戦」ってあるじゃないですか。
少しゲーム進むと、隣国が攻めてくる。
あれってすごくムカつきますよね。
不利益被るのに、守りきってもご褒美も何もない。
力落ちてるからそのまま逆に隣国に攻め入って落とす、ってのもやりきれないし。
あんな感じ。
あいや、ちょっかい出したのは自分なので、
出さなくていい出兵して返り討ち、這々の体で帰国した、かな?

なによりその、己の未熟こそが情けない。
わかった気になってたのに、この程度のことで全部おじゃんです。
いや、本当は、おじゃんではなくて、一度身に付いてるから
ちゃんと自転車に乗ってるんですけど、
自転車に乗っている、という事実を忘れる。
ただ乗ってる。
それは、本人としては乗ってないのと同じ……

……と、思えたりする時点でいくらか復帰しており、
2日ぐらいでそのぐらいまでリカヴァーする/できるのは成長かな、
とか思ったりもするのですが。
「苦しめられてる」と理解できてる時点で、かなり消化できてるような気がします。
もうそこで視点上がってるし。
また、このぐらいのことでこのぐらい苦しめる、っていうのは、
センサーの感度上がってる、ってことなのでヨキコトかな、とか。
でもモヤモヤしてるのは事実。

ああもう。

しかし、「これも試練かもしれん」といつものセリフを呟いてみれば、
まあなんというか卒業試験みたいな気もしなくもなく、
乗り越えてみせましょう。

---

風呂って大事ですよ(泣)

無くしてわかる大切さ、
生活の中でちょっと滞ったら風呂に入ってリラックス、
そしてあの中でまたいろいろと考えていたようです。
銭湯にはその要素ゼロなので……
そりゃしばらく通えばそうなるのかもしれないですが。

その時間がスッポリ落ちてるので、リズムまるっきり取れない。
上の「ああもう」って瞬間に、ぬるい風呂にすっぽん入っちゃう、
という「いつも取ってる」行動が取れない。

僕はそういうのに特に弱いので、しんどいです。
旅行とか、「スペシャルです」って時にはなんでも我慢するんですけど、
日常に食い込まれるとキツイ。

そこで考えたのですが、もし大雑把に人間の精神生活を
入力→処理→出力
の繰り返しだとすると、
僕はこの「処理」のところにエネルギー使うらしい。
だから黙想中、集中処理中に中断はいると、ダメなんです。
すごいエネルギー無駄にしちゃうので、「無駄にした!」というダメージと、
「またこれもう一度か……」というダメージが一度に襲ってくる。

だから邪魔の入らない夜型なんですよー。

入出力には朝型の方が効率いいのはよくわかってます。
それでも、それを若干捨ててでも集中が持続する方がありがたい。
だから高層マンションの一室にでも缶詰になれば、
朝でも昼でもかまわないのだと思います。
宅急便が鳴ったらお終いですけど。

そういえば、文章を書く、というのは出力なのですが、
処理と出力が細切れで切り替わっていく、という作業なので、
純出力中だとあんまり気にならないですわ。
「ああ、今いいとこなんだけど」とは思うんですが、いらつきはしない。
逆にもう処理終わってるから、ちょっと気分変わっていいかも、とか思ったり。
手が止まってる時=処理中の方がキツイですね。
入力中の邪魔はかなり平気です。
本読んでたりしても止められても大丈夫。
「続き読みたい」とは思っても、腹は立たない。

まあそれでも、おおぐくりで見れば
「集中を切らされている」のでできれば避けて欲しいのですが、
生活はそうも言ってられないですからね。
集中時間が月〜金の午前8時〜午後5時、とか決まってればまたいいのでしょうが、
ウチらは7・24・365だし。

ただ、最近はそれを「邪魔」ではなく、
「視点変更の機会」とでも捉えられることが多くなってきました。
その瞬間、今までのモノの見方が途切れる。
それは、違う方向から見るチャンス。
違う方向から見ること自体や、その結果よりも、
「視点が軽くすぐ動く」という点が重要で、
その訓練になると思えば逆にラッキー……
って、それでも母が「ご飯は〜!?」と叫ぶとムカッとくるんですけどね。

すべてをいい方へ。
精進精進。

---

今回は、脂のしたたるごついステーキを消化しきれず悶絶したのですが、
やっぱり、現代生活は入力過多ではあると思います。

「修業」とは、「自分の教育」と言い換えることもできます。
教育、というものが、その人の可能性を引き出すものであるとするならば、
与えられるものはその方向のものであるべきで、
なんでも与えられりゃいいってもんじゃない。
その、「何を食べるか」からまず考える、それも修業です。
そんなのは格闘家や武術、スポーツの方なら充分ご存じのことなのに、
こと精神生活になると割といい加減ですよね。
「なんでも取り入れりゃ」みたいな。

ムリ。
かなり、ムリ。

わたしゃこれでも入力の幅の広さと柔軟性ならそこそこ自信ありますけど、
それでも最近「いや、それはムリかも」と思います。
「自分」というものがある程度大きくなれば、
少々の毒でも異物でもガバッと丸飲みして消化して無害化できると思うのですが、
しかしそれも、「そんな毒はそもそも取っても意味無いのでは?」とも思いますし。
毒というのは薬にもなりうるから、チャレンジする意義があるのであって、
簡単に無害化できるなら、別に無視すればいい話です。
栄養もないし。

「処理できない」……というか、「処理したいと思わない」入力に、
はたして意味はあるんでしょうか。
「お?これは?」って興味持つ。
興味あるから取り入れる意味があるのであって、
無いのに取り入れても、たとえ毒でなくても、身体の中スルーするだけで。
そのくせおなか一杯になってるから、
本来美味しそうなものが目の前に現れても、食べられない、とか。
実害ある。

最近さすがにそれはスルーできるようになってきたのですが、
「あーこれゾーンじゃないけど美味そう」
というのには相変わらず弱い。
実は美味いモノ、ほどインパクトあるものなので、
ゾーンでないなら慎重にいかねばならない、ようです。

例えて言うなら、とてもお金持ちだったとして、
クルマ好きだけど走り好きではないのに、フェラーリ買っちゃう。
そしてホームセンターへ行く時苦労する。
マーチにしておけばよかった……

……ちょっと違うかな?

でね、マーチもフェラーリも(メルセデスもミニバンも)……という生き方が、
「ある」、少なくとも「可能である」と言われてたんですが、
最近のキーワード「身体性」を考えると、やっぱりそれはぶっちゃけ、
「ない」んです。
人間の身体ひとつ、170cm程度70kg弱、1日は24時間。
2台では、半分になるんです。
マーチだと思ったら、基本マーチで。
そりゃたまには友達に貸してもらったり、レンタカーで借りたりするのは、
いいと思いますけれども。


……なんてダラダラ書かせてもらってると、落ち着いてきました。
普段乗らないクルマに乗って、なんだか運転の感覚がおかしくなっちゃったような、
そんな感じですね。
マーチに戻ります。

やっぱり、ひとつひとつ丁寧にやっていきます。
飛びつくんではなくて。
未熟者です。


4/24 サロンパスかぶれ

なんかね。
「また体調悪いなー」とか思ったので、へたってたんです。
おかしい、何が原因なんだろ、昨日まであんなにはしゃいでたのに。

起き出してふと鏡見ると、頬が真っ赤に腫れ上がり。
うわ。
おたふく風邪はやったはずだけど……
リンパがどうのとかそんな病気?
あるいはダニとかアレルギー系だろうか。
ヤだなあそういう時間かかりそうなのは……

そんな私の顔を見てまま上がひとこと。

「……『サロンパスかぶれ』やな」
「『サロンパスかぶれ』とわ!?」
「新品のサロンパスをいきなり使うとよーそーなんねん。
 だから私はバカにしたヤツを常時10枚ぐらいキープしてる」
「バ、バカにする(密封袋から出して放置しておく)のは
 効力をまろやかにするだけでなくそういう意味もあったのですか(泣)」
「あんたと私は肌の質が似てんねん」
「そりゃ親子ですからねえ(泣)」
「もちろん貼り続けるのは肌に悪い。
 睡眠時限定とか、一枚貼ったら半日空けるとか必要やね」
「だってあの2日間はとにかく痛む歯をごまかしたい一心で連続装用(泣)」
「そして貼った後はノリだか薬品だかがこびりついてるので、
 風呂でよく洗うことや」
「いま風呂が使えないじゃないすか(泣)
 洗面台も給湯器の関係でお湯でないし」
「ま、しゃあないな」
「……」

言われてみれば、ちょうどサロンパス型にくっきりはっきり。
こりゃかぶれに違いない。
よく見れば肩にも同じかぶれが。

問題は。
サロンパスを貼っていたのは月曜日までなんですけど。
なぜ、今頃。

歳を取ると筋肉痛などが遅れて出てくるようになりますが、あれですか(泣)
つまり身体の反応が鈍くなっててかつ新陳代謝が遅いと(泣)

せつなすぎる。

……まあ、冷静に考えれば歯の治療でもらった
抗生物質&消炎剤が3日分だったんです。
これが体内で切れたから、かも。
しかし、それでなお思い出したようにかぶれる肌も肌なら、
かぶれさせるサロンパスもサロンパス、
そしてそんなものをブロックし続けるケミカルもケミカルです。
なんといいますか、人体というのは奥深い。

ここにオロナインを塗る、というさらに話をややこしくする手段を
採るべきか採らざるべきか。

【本日の教訓】
「効く薬には副作用」

幸せって……遠いなあ……

せつなすぎる。


4/23 ブランジェリ・タケウチ

といえば、今「大阪No.1?」と呼び声も高いパン屋さん。
生まれはパリ育ちは東住吉、炭水化物には小うるさいながた、
突撃してまいりました。

もうね、場所からして挑戦的。
本町ってビジネス街の、駅から徒歩10分のはずれ。
本町と阿波座の真ん中、靫公園の近く、というと大阪人にはわかりやすいでしょうか。
住宅街でもなんでもないめちゃめちゃ不便なところ。
あたりに人通りなんてゼロですよ。ただぽつん、とある。

で、2時半ぐらいに辿り着くと、シャッター閉まってて、
店の前には10人ばかりの列。
貼られた紙見れば朝の分は売り切れてて、3時から再開、と。
ローソンで時間潰してもう一度行ってみれば列が3倍。
わしゃアホウか(泣)

しかもパン屋さんって回転遅いじゃないですか。
もう、入る前も入ってからも延々待たされて。
中は10人も人がいればパンパンの、小さなお店。
入る前は
「いやいや、ここはやはり食パンとバゲットからでしょう」
などと大量に買う人をちょっぴり嗤ってたのですが、
店内に入るやその魔力にずるずると引き込まれ、結局、
リュックに入らないバゲット、食パン(6枚切り)、メロンパン、
ベリー載せタルト、マンゴーのデニッシュ、チョコクリームパン、
ハムとチーズを挟んだサンドイッチ、クリームチーズと黒胡椒の固いパン。
8品でお値段は1617円とまったく普通。
いやむしろ安い!?

で、ああいうのって「匂い」がするじゃないですか。
美味そうとか不味そうとか。
もう、びんびん来てるので、店出て50m歩かないうちに、
袋の一番上の(そして本人的に一番狙いの)
チーズ&ペッパーパンに路上でかぶりついたんですよ。

これがもう、ねえ。

美味いものを初めて食べた時の、一口目。
口に含んだ瞬間に胸のあたりから笑いがこみ上げてくる、
あれ。

チーズはコク深くとろけやがるくせに悪い乳製品の嫌味ゼロ、
黒胡椒はその場で弾けて上アゴの薄皮を刺激的に直撃、
もちろんパンの全粒粉が歯ごたえもち〜んかつ穀物の薫り高く、
炭水化物の旨みギッシリ。
上にまぶさってる粉の舞い上がりが鼻をくすぐる様さえキュート。
あまりの味と舌触り歯触りと香りのコンビネーション・アタックに
突然五感が目覚め、そしてそこは中央大通り。
クルマの排ガスまでが一気に鼻孔に雪崩れ込んできました。
そのぐらい、身体が驚いたんです。

でもそこで中断して公園で……なんて我慢できないんだなあ、これが。
空腹のライオンが獲物を喰むように、喰い千切り散らかしてしまいました。
最高ですか。最高です。

家に帰って少し間を置いて、パリジャンのあたくしは早速バゲットに挑戦。
美味しいフランスパン、ってかっぱえびせんのように、
「やめられない止まらない」じゃないですか。
あれ。
もちろん何もつけない、焼きもしない。生のまま、
ちぎっては食みちぎっては食みちぎっては食みちぎっては……
いかんいかん、一人で一本喰う気ですかー。
最高ですか。最高です。

明日朝、食パンをトーストにするのが非常に楽しみです。ふひひ。

固めの、がっしり・しっかりした食感のパンが得意なようです。
(「ハード系」と言うらしいです)
普通のクロワッサンとかバターロールみたいなのも期待してたんですが、
(今日は?)ありませんでした。
でも、なにも特別なことはしてないんですね。
タケウチ氏(らしき人)以外のお弟子さんもバンバン捏ねて焼いてるし、
個人の天才的技術ってわけでもない。
そして価格考えれば、めちゃくちゃな特選素材使ってるわけでもない。
でも、本当に美味い。
感動し、そしてすごく考えさせられました。

本当にイイモノとはなにか。
そしてそれは、どうやってつくるのか。
これを、どうして他のパン屋さんはできないのか。
できるけれどもやらないだけなのか、それともやっぱりやれないのか。
もしこれが「パン」だとするなら、普段食べてるアレはなにか。
アレは皆が求めてそうなってるのか、それとも押しつけられ騙されてるのか。

美味しいものは、人を哲学者にします。

パンの名店を多数知ってるわけではありませんが、
僕的にはパン屋さんではもちろんベスト、美味いものオールでも
相当上位に来るお店でした。
大阪市西区靱本町1-16-14 06-6444-2118 日曜定休。

大阪もまだまだ捨てたもんやおまへんで。
ウチもがんばる〜〜〜!


4/22 R3雑感

今日はノートPC雑談です。
相変わらずの堂々巡りです。

えーっとノートPC欲しい病は宿業であり、たぶん一生治りません。
「Let's note R3」のこんなリリース見ると血が瞬間沸騰します。

ここで800g700gって方向じゃなくて、9時間駆動を選んだのは見識です。
もちろん、軽ければ軽いほど幸せです。優れてます。それは間違いない。
でも、カタログ3時間だと
(つまり実駆動2時間ちょいだと――特に最近はスタンバイ消費がゴツイのと、
省電力モードとACモードの性能差がありすぎて、その辺近づけようとするともっと短い)
物足りない、という事実も厳然としてあります。
でもカタログで9時間なら、1dayミッションであればまあ、大丈夫。
予備バッテリ1本、あるいはACアダプタ分、150gだか200gだかが鞄から無くなれば、
その分軽量化したとも言える。

ボロカス言われたキーボードは、横が縮まって相対的に横長度が小さくなったのかな?
これは打ってみないとなんとも。
まあでも、正常進化としてとてもよいと思います。
最近この手のサブノートが選択肢非常に限られているので、
R3には頑張ってもらいたいところ……
と、R1デビュー時から言ってますね(泣)

---

当方先天性サブノートオタク、主戦ノートは常にシングルスピンドル、
(ドライブがHDDしかない)でしたが、最近少し変わってきました。

on-the-wayでのPC作業(僕の場合はほとんどテキスト打ち)が、すごく減ったんです。
外へ行くこと自体は今も多いのですが、では喫茶店でファミレスでなにをするか、
といえば多くは本を読むか、もしくは、メモを前にしてニタつきながらアイデアを練る。

そっちの方が、よりそのシチュに合って自分にとって心地よいようで、
最近はほとんどPCを持ち出しません。
持ち出す時は、逆に「さあ書くか!」と言って持ち出しますので、
気分的には2kgクラスまで行けそうです。
どうして軽ければ軽い方がいいのか、というと、
「いつ使うかわからないから、いつも持ってたい」からですよね。
だから逆に、「使うから持ち出す」と決まっていれば、そのぐらいの重さまでは行ける、
というのが経験則としてあります。

で、最近、2kgクラスっていうと間違いなく光学ドライブ載ってるんです。
もう全然別ジャンルの商品になっちゃう。
いや、Let'sのW2とか、VAIOのTRだと、1.5キロクラスなのにDVD持ってる。
こういうのと、シングルスピンドルで1.2キロ、というのとだと、すごく微妙ですよね。
その300gでできることの幅がガーンと拡がるなら、そっちしようか、と。
2キロ超えるとかなりしんどい、1キロ切るとかなり楽、
でもその中間の揺らぎは、決定打にはなりにくい。

ですから、シングルスピンドル機今非常に苦しい。
だったら、ということで小さくても光学ドライブを載せる、
というLOOX Tみたいな方向もあるといえばあるのですが(TRもそっち寄り)
でもハードモバイラーには、キーボードとか画面とかで我慢させられてるのに、
普段使わない光学ドライブがガーンとあるのは実にバランス崩れて見える。

んじゃ、となって、やっぱり12インチのシングルスピンドル機、
IBMのX40であったり東芝のSS/Sであったり、になるのですが、
ここでループになってて、「あと300gで」ThinkPadならTシリーズが、
VAIOならZも505Vもあって、どうしてもそっちに引きずられる。
いやいや、W2ならわずか1.3キロ。
X40と同じ重さで光学ドライブ載ってる。

ハードモバイラーなんて「業」みたいなもんで(笑)
その昔は2キロぐらいのものを持ち歩いた経験ありますから、
(ThinkPad535でも1.7キロあった)
それからすりゃ夢みたいな環境で、「じゃあW2でいっか」となる。

フル機能を持たせようとすると、どうしてもキーボードと画面で、
下限サイズというのがあります。
僕は、それはLet's開発陣と同じ考え方、10.4インチXGAだと思います。
底面積もそのサイズいっぱいいっぱいで、ちょうど少し小さめのキーボードと
ポインティングデバイスが収まる。
これを切ると、小型機ではなく、「特殊機」になっちゃう。
古くはVAIOのC1、最近でもLOOXがやってる
横はそのまま、縦を切るという作戦は、確かにフットプリント小さくできるんですけど、
Webがダメなんです。
Webというのは縦長なものなので。
480なんて論外、600でもゼイゼイ息切れします。768無いと始まらない。
そうすると横の解像度必要以上高くなる。見づらい。
ここで袋小路入っちゃって、で、C1系は滅びたわけです。
もう二度と(ノートPCの使われ方が劇的に変化しない限り)現れないでしょう。
モバイルギアが滅んだのも、ここにも遠因一つあると思います。

でもここ、この
「小型機下限いっぱいいっぱいがどうしても欲しい」
なんてお客さんはそもそもものすごい少なくて、
直上に12インチ系が、まして1.3キロで光学ドライブまで載ってこられちゃ、
みーんなそっち行っちゃう。
それでも、「機能が落ちてるから安い」というのならまだ買う人もいると思いますが、
PCの場合小型軽量化すればするほど金がかかるので、
どんどん高くなる。
ますます誰も買わなくなる。

切ないですが、もう、シングルスピンドルサブノートの時代は
終わったのかもしれません。
逆にこの時代にR3が存在してくれるだけでも有難い。
(もちろん、エクストリームやタテマサも忘れてませんよ〜)
でも別に悲観することはなくて、次はこのサイズに光学ドライブ、で、1キロ。
んで、FF11もぎゅんぎゅん動いちゃう。
もちろんファンレス無音で。
そんな感じで進化して欲しいなあ、と思いつつ、リリースを見つめていました。

---

ぜんぜんちなみに、ですが、僕の使ってるメモは、
無印良品の
「ダブルリングノート・ドット方眼・A6・ポリプロピレンカバー」。
315円です。ファミマでも売ってると思います。
硬い表紙が本紙を守り、リングノートの有利で畳めばまさにA6、コンパクトです。
これにPentelのSHARPLET Fineというシャーペンの0.3にHBを入れて、
常にセットにして持ち歩いてます。
これが僕の今のサブノート(笑)

個人的には、このon-the-wayはこのサブノートで、
でもノートPCは、トランスポータブル、拠点間移動しつつそこでフル作業ができる、
そういう環境として1台欲しい。
さすがに、s30のP3-600ではXPが辛いんです。(ずっと言ってますが(泣))
じゃ、もう、2キロ級まで考えてもいいかー、と思って見渡すと、
やっぱり、あんまり、無いんです。
大きい機種はどんどん汎用化一般化が進んで、
ノートPC本来の色気、輝きが無い。
その割に別に安くも何ともないんです。最近の機種は。
エプソンダイレクトとかデルなら安〜いのあるんですが、
さすがにそこまで魂売りたくない。
あのクラスでもちょっと小綺麗な、そう、「持つ喜び」もあるような機種は……

PowerBookG4とかどうかな(泣)

さすがにそれは敷居が高いのですが、
で、ないとするなら、ThinkPadならT41、VAIOならZ。
ところがこの両機種はすごい高い。
だったら、だったらー……

と、堂々を巡りながら、s30に鞭を入れる日々。

5月になると、IntelのモバイルPC用CPU(Pentium-Mと呼ばれる一群)
が、プロセス代わった分が投入されるそうで、それに合わせて各社から
新製品が出る模様です。
これを見て、どうもピンとこないようなら、真面目にG4とか考えちゃうかも……
だってどうせテキストしか打たないし。
ATOK16もあるし。

最近は、「ここちよい」ということに、ここちよくないぐらいこだわっています。
iPod使って思ったんですが、
やっぱりプロダクトとしての魅力に富む「モノ」だと、
少々の不便は我慢できちゃうんですね。
(さすがにそれを愛せるほど人間ができてはいませんが)
iPodも、PCとの同期うまく行かなかったり何かの拍子でリセットの必要があったりと、
もうまったく家電商品・オーディオ商品としては失格もいいとこなんですが、
でもあの半透明の白い肌とステンの背中を撫でてると、
「ま、いっか」
と思えてしまう。
で、それが、「モノ」として一番大切なことなんじゃないかなあ、と。

s30に不満たらたらなのは、輝いてたころのThinkPad知ってるからで、
あの頃のThinkPadはモノとしての魅力がありました。
今の、RやGはしょうがないにしても、X40もかなり売り場で埋没してます。
T系ぐらいかな……あれもかなり没落貴族の高飛車娘、という匂いがするのですが。
もう少し、なんとか頑張ってもらいたいです。

昔に比べてノートPCが認知されて、
ファーストとしても普通の人にガンガン使われるようになったのに、
ノートPCとしての魅力に富む機種がどんどん減ってるような気がします。
そもそもデスクトップみたいな形がおかしくて、ノート型こそPC本来の姿、
ならば一般化されていく波に呑み込まれていくのは当然……
なのかな。
それならなおのこと、もっと個性に富んだいろんな機種があってもいいと思うのですが。

贅沢過ぎかな。
やっぱり、買う買わないは別にして、R3がある日本は幸せ過ぎますね。
僕もその幸せを思い切り享受できるよう、
もう少々経済状況を好転させねばねば。

長々書きましたが、僕にとってのノートPCは、
大工さんの鉋と同じ、イチローのミズノのグローブと同じ、
大切な大切な身体の一部なのです。
だからより良いモノを、と偏執狂になってしまいます。

開発者のみなさん、がんばってください。


4/21 「あ、これか」

……ということで、掴みました。

はやっ(笑)

ここ一月悩んでた疑問に、おそらくこれは、という自分なりの答えが見つかりました。
それは何かと言いますれば、ここまでの一月おつきあいいただいた皆様には
すぐおわかりになることだと思います。
なので、伏せておきます。

もったいぶってるわけではなくて、
もちろん教えるのがもったいない極意みたいなものでもなくて、
ただやっぱり、それを用いて実践でどうか、というのが大切です。
間違ってると成果でませんでしょうし。
それを出してから、一緒に。
一年後、ここででも。

行きついてみれば、バカみたいに当たり前のことで、
アホみたいに「自分自身」であることでした。
いやもう、わかってるやん、そんなこと、っていうぐらい。
たぶん他の人が見れば、
「いや、だって、それがながたさんじゃん」
と言われるようなことです。
でも、本人のことは、本人が、気づかないんですね、一番。

---

教育の大切さを思い知りました。
もし僕に、全幅の信頼を置く師匠のような人がいて、
その師匠が折りをみて「君はこうかもねえ」なんてサジェスチョンしてくれてたら、
もっと早く気づいたのかもしれません。
それともやっぱり、それは甘やかされの一つ、なのかな?
自分で掴まなければダメなのかも知れませんね。

それはともかく、「これ」を軸に、骨に、センターに、
あとの自分をそれに向かって合わせていく、それを強めていく、
そんな感じでがんばっていきたいな、と思います。

たぶん大丈夫、どう考えてもこれっぽい(笑)
人間は変化しますから、これも変化する可能性はありますが、
僕の場合は(いや、たぶん誰の場合でも)
まさに三つ子の魂なので、
変化させたくても、させられないような感じすらします。
それは一面限界なのですが、アメリカ大陸ぐらいの限界なので、限界ではないです。

断崖を登ってみれば、頂上ではなくて、
いや頂上なんですけど、頂上がアメリカ大陸でした(笑)
「えっ!?どうするのこれから!?」みたいな。
なにも終わってなくて、ゼロから始めるのと全く同じ、はじまりです。
「わひょー、そーゆーことですかー」
って驚きと同時に笑ってしまいました。
なるほど、神様は非常に上手い。
こういう構造なら、そりゃ破綻しないはずです。

よくニューエイジ系の「おはなし」で、最後に目覚めた人達が
光に包まれて旅立っていきますが、あれ、嘘です。
旅立っちゃ目覚めた意味無いじゃないですか。
そそ、そういえばあそこにいつもひっかかってたんです。
なんでこんなに釈然としないんだろう、って。
そりゃ一種の逃避じゃないのか、とか、それって解決なのか?とか。
麻薬と一緒ですよね。キメ続けりゃハッピー。
んなわきゃないですよね。
あるいは、じゃそこで終わりなの? もいっこ上はないの?
ハッピーカムカムパラダイス、
いや、そんなとこ、行きたくないよ。
家族も居ないし、友達も居ないし、好きな人も居ないし。
違う違う、全然違う。

目覚めて、そこから、
いつもと同じように、いつもと同じ街を歩いて、いつもと同じ仕事に取りかかるんです。
いつもの朝と、同じ。

ああ、だからアレ系が「大人達」からバカにされるんだ。
なるほど。
大人達は、たとえ自分がそうでなくても、勘でそういうもの、を識ってるし、
なにより、稀に近くにそういう人も居て、それを見てる。
ごく当たり前の、市井の人にも居る。
だから、「アレ系は嘘もしくは間違いだ」と、識ってる。
うーん、やっぱり、「しっかりした大人」の言葉には、耳を傾けなければなりませんね。
そういう人がすごく少ないのは、現実としてありますけれども。

なんのことはない。
我々はどこまで行っても人間です。
ここで、この世界で、なにを、どうするか、
自分のできることと、やりたいことを考え感じながら、やっていく他はないんです。
どこにもユートピアなんか無いし、理想の人間など居ない。
ここをユートピアにして、自分が理想の自分になるほか、ないんです。

……と、ちょっとクサめに真実を。

---

「ロード・トゥ……」を書いたのが20日深夜で、
21日の朝起き抜けにハタ、と気づきました。
いや、気づくと言うよりも、昨日書いてたことを反芻してそれを種に拡げて……
ってやってたら、自然とそこに行きつきました。
別に突発的な閃きでも、電撃に打たれたわけでもなく。
「あ、そか、こうだ」
って感じです。

ジャンプアップは、理論的に詰めていってもできるようです(笑)
理論としては整然とひとつずつ詰めてるんだけど、
結果としては飛躍的な画期的な証明ができてる。
そういうジャンプもある、と、識った瞬間でした。
思うにこれが、ガツガツ努力するのと、パッと閃くのの中間あたりに位置する、
非常に自然な、知のあり方、なんでしょうね。
両翼バランスよく、って感じで。

ポランニー先生の「暗黙知」、つまり「身体は知ってる」。
まさに今回も、身体は知ってる状態でした。
というか、身体の方が、ニブイ脳に「こうだよ」と教えてくれたような感じ。
とういかというか、身体はもうすで、「そう」、なんです。
それを、脳が、理性が、精神が、心が、なんと言い換えてもいいのですが、
そいつが把握する、それだけのことなんです。
何も特殊なことを新しく見つけるわけでも何でもない。
掘り出すわけでも、創り出すわけでも。

ただ、「僕はこうです」というのを、僕全体を、
ようやく理性という一部分が理解した。
だから知ったわけです。
理性というのは実に頼りない!
ていうか、身体中で一番アホや、と。

まさにまさに、コンピュータです。
計算だけする場所で、データも取ってこないし、
アプリケーションソフトウェアも書いてない。
ソフトは身体にあるんです。しかも勝手に動いてる。
脳はOSみたいなもので、そのソフトちゃんと動かすのを下支えするとか、
その程度の役割しか担ってない。
なのに万能の神みたいに思っちゃうから、だから全部間違う。
こいつ、ほんと、何を生み出す能力もない。
ただし、こいつが無ければ各ソフトが走れないし、
かつデータのやりとりや、ネットワークを掌握してるから、
もちろん非常に大切です。
どこかのソフトが逝かれても、ここが生きてれば代替が効く。
けど、ここが(完全に)壊れるともう何もできない。
そういう意味では一番大切と言えば大切。

ただ、繰り返しになりますが、なにも生んでない。
だから、実際に問題に取りかかってる各ソフト、
身体のサイン、快・不快、好悪、そういうものによく耳を傾ける、
それが自分自身を把握し、また問題の質を把握し、
それに適した解決策を見つけていくことに、非常に大切になるようです。
「身体が知ってる、理性も知ってる」
これが、一番強い。
逆にここがズレてると、ものすごく、辛い。

そして、近代社会はそういうものを、常識とか社会性とか、それこそ知識とかで
理性をある方向に縛る。
でも、身体は本当にその人その人それぞれ個性豊かなので、
(先天的にだけでなく、後天的にもまさに「人に歴史あり」です。
 同じ人などどこにもいない)
いかに他人にフィットする知識常識でも、しないことも多い。
そこで起きたズレが、ものすごいストレスになる。
もちろん完全自然児にはなれませんが、
ある程度「ごまかしてる」という意識をもって身体をなだめすかしたり、
妥協してもらったり、その辺でお互いに歩み寄る、
できるだけ一体化する、
その必要が、これからますます強くなるのではないでしょうか。

もうおわかりのように、特に切ないことに、
人の気持ちがわかる優しい人、人の言うことを聞ける素直な人、
正しいことを行えてしまう真面目な人、
の方が、ストレスかかるんです。
だからそういう方々は、まず自分に優しく、素直に、真面目になる、
ということをなるべく意識した方がいいのではないでしょうか。
それが結果的には、周囲にもよりいいものをもたらすのですから。

---

ということで。
一段落したので、ほえながももうちょっと考えて書こうと思います。
(上の一本は照れ隠しのフタね(笑))
一月余り独り言に長々つきあっていただいた皆様、
本当にありがとうございました。
もしこの過程自体が、あなた、もしくはあなたの周りの悩める誰かの、
なにかちょっとしたヒントにでもなれば、これほど嬉しいことはありません。
また、そうやって薦められるような何かを残せるよう、がんばる所存です。

よ〜し……
ふふふふのふ。


4/21 ロード・トゥ・モンパルナッス(補足)

補足です。

えと、「描きたいものを最優先で、描きたいように描く」。
それはつまり何かというと、マンガです。そう、
「全ての絵はマンガ」
なんです。

ゴッホが浮世絵見てひっくり返って「これだ!」と思ったわけじゃないですか。
あれ。
西洋風要素分解、物体を把握してそれを強調あるいは省略して表現する、
それを極限まで突き詰めていく。
浮世絵(日本画)は違いますよね、もうハナからそんなこと諦めてる。
富嶽三十六景の富士山とか、真っ赤だったり稜線しか描いてなかったり、
でも富士山。
歌舞伎役者の大首絵もそうです。
バランスおかしいとか言う前に、あんなもの人間ですらない。
でも、どこをどう見ても、当代人気役者なわけです。

つまり丸ごと捉える必要などゼロ、
捉えたいところだけを捉え、それを思いっくそ表現する、
それが浮世絵で、そしてその伝統は今にいたるまで、
マンガという形で脈々と受け継がれている。
手塚治虫先生のお描きになる女性キャラは、キツネでもエロい。
あれです。
色気があることが大切であって、人間かどうかすらどうでもいいのです。

ここの発想の転換。
「全部ちゃんと描く」のではなく、「描けるものを描く」。
まさにインターネットですな(笑)
届かなかったら届くまで送ろ〜ってノリ。
届くことを100%保証しない、期待しないところに、
安価であったり柔軟であったりオープンであったり、
という価値と意味が生まれてくる。

そしてそれは、人間の認識の方法にも非常にフィットしているように思います。
人間は、見たいモノしか見ません。
だから、見たいモノだけ描いてあればそれで満足なのです。
それ以外は、それをアシストするための舞台道具に過ぎない。
書き割りです。
「心斎橋」と書いた板を置いておけばそこが心斎橋。

印象派以降の絵画がぐちゃぐちゃになったのですが、
絵描きさん達はみんなその事実に、気づいていたり気づいてなくとも感じていたりして、
だからもう、写実的な絵に執着する人が少ないんですね。
特にそれこそ象徴的なのはピカソという人で、
あの人は人生の途中でそれに気づいてマンガ描き出したんです。
谷岡ヤスジ師匠ですよね、どう見ても。
そりゃ両方に失礼か。

#逆に写真家がたまに長襦袢美人を背中から撮るような妄想エロ写真を撮りますが、
#ああいうのにぜんっぜん魅力無いのは、「事実が一番強い」という
#写真最強の武器を捨ててるからです。
#それならダーティ松本先生にマンガ描いてもらう方がよほどエロい。
#好きでやる分にはもちろん、否定できませんが……

ということで、
「ああなるほど、マンガ描きゃいいのか」
というのが、昨日気づいたことでした。

え?
そんなこと子供でもわかる?なんて幸せな人だ?
おっさるとおり(泣)

あ、でもなんか、表現に限りませんが、こういう修練を必要とするものって、
「一回行って、帰ってくる」
という作業が必要なようです。
そそ、最初描き出したのは間違いなくマンガなんです。
子供の絵。
太陽ぐりぐりオレンジ色、60年代のアメ車みたいな3ボックスのクルマがあって、
サザエさんのエンディングみたいな家があって、地面が茶色で。
全部嘘。
もうそこからマンガなんですね。
なにも見てやしない。描きたいイメージを描いてるだけです。
で、もちろんそれは悪いことではなくて、それこそが絵の原点です。
いつか、ここへ戻らなければならない。

そして戻る時には、すでに手にしているモロモロは、邪魔だと捨てるのではなく、
それをうま〜く使っていくと、
子供の絵とは違う、しっかりしたものが作れる、と思います。
そういう意味では技術は力強いアシスタントなのですが、
その力はもちろん非常に従属的なもので、
まず、イメージ、どんなマンガを描くか、どんな嘘つくか、どんなホラ吹くか、
それあったればこそ、の話です。
それが無い、もしくはあまり大したことなければ、技術に出番はない。
こねくり回しても、ネタが悪いから美味しい料理にならない。
逆に強烈なホラだと、技術はまるっきり要らない。
すんげークロマグロが揚がっちゃった。
じゃあ切って出せ、って感じです。
そこでは、邪魔にすらなる。
これが表現者がいつも惑う、表現と技術との関係ではないでしょうか。

商業的な意味合いでいいますと、
ネタが少々悪くても悪くない料理に仕立て上げる、
その腕は非常に重要です。
んなね、いつもいつもいいお魚は揚がりません。
でも、純粋に作品的観点でいうなら、そんなもの無くてもいいのです。

……というわけで、誠実にホラ吹いていこうと思います。
本気の嘘をつきながら。

---

なんか今日も当たり前のことを暑く語りましたねえ(泣)

最近、ほんと、自分がバカなんじゃないかと思います。
それもまたよし、と許してしまっているのがまた、始末に負えない。
まあ、負えないならもう諦めようよ、なんて3人目まで登場する始末です。

あの、なんでもわかってたような若き日のながたさんは非常に劣勢です。
しかし、あの頃はたぶん、なんでもわかってたんだわ。
いや、何もわかってなかったんですけど、
だからなんでもわかってた。

そこがポイントなんです。

奥へ、先へ、進めば進むほど、のめりこむほど、視野は狭くなる。
若き日の僕は、「俺は何もわかっちゃいない」とは思っていたので、
「とにかく何かをわかろう」としたわけですね。
そして知識を得、経験を得、代わりに広い目を失った。
逆に、どんどんわかんなくなってったわけです。

大学入ってすぐに、理論系経済学の講義受けて、
「こいつらアホか」
と思ったんです。
『リンゴ5個とリンゴ2個なら、人はリンゴ5個を選ぶ』
100%嘘ですよね。
ダイエット中の女の子はどうすんねん、もったいないオバケはどうすんねん、と。
こんな嘘前提だらけを元に何をどう組み立てたって、砂上の楼閣じゃないか、
思考ゲームに過ぎない。糞の役にも立ちゃしない。
いや、役に立たないなら立たないで静かに、
「でも知とは、知ることそのものに意義があるのです」
とでも仙人風に語られれば納得もするのですが、
経済の連中はギトギトギトギトでこを光らせて、あまつさえ自分達のことを
「社会学の女王」とか平気で曰う。
まるで自分達が役に立ってるかのように顎があがってる。
もう一度丁寧な言葉遣いでその時の気分を詩的に言い表せば、
アホかと。

よく経済学者を揶揄して素人さんが
「そんなに経済のことがわかってんねんやったら株で儲けたらええねん」
とおっしゃいますが、120%おっしゃるとおりです。
それこそ逆に、
「僕は去年の株式運用、回収率400%で回したよ?」
と言う先生が居たら、講座超満員ですわ。
でもそんな人、おらへん。

てことで、すっぱり経済学辞めました。
その時、こういう人間にだけはなるまい、と固く心に誓ったのですが、
なんのことはない、やってることが経済じゃないだけで、
どんどんそんな人間になってました。
リンゴ5個がエライ、という人間に。
猛省です。

#ホローしておきますと、経済学というのは幅広いモノでして、
#そういう数値触って現実に役立つものもいっぱいあります。
#交通経済学とか。あるいは現地調査を元により暮らしを豊かにするには
#どうしたらいいか考える農業経済学とか。
#「経済のことを考える」という意味での「経済学」は、人間の営みを考える上で、
#学問として不可欠のものだと思います。
#ただ、アプローチがね、というお話を、誇張して述べているだけです。

「知」は、いや全ての「認識」はやはり、現地主義、現場主義でなければなりません。
その場その瞬間でのたうち回って苦しんで、
何が真実なのか、何が軸なのか、何が骨なのか、何が中心なのか、
見極める。
理論は、手助けしてくれる時もありますが、よく暴走して、こちらを惑わせもします。
コンパスですけど、それが正しいかどうかは、誰も保証してくれない。
その新しい土地には磁場が充ち満ちていて、役に立たないかもしれない。
でも、それでも、太陽はいつも東から昇って西に沈む。
北極星は真北に輝く。
そういう変わらぬ指針――おそらくは人間そのものについての洞察――も
存在するわけで、決して完全に手探りでもない。
そういう、できるだけ根元的な、生の、手がかりを元に、
一歩一歩自分で歩む他はないのでしょう。

なんにもない、空っぽでいきたいと思います。

からっぽからっぽ。


4/21 ロード・トゥ・モンパルナッス

本日はあまりにも低レベルでわかりやすいと絶賛大好評、
「ながたさんの顔から火が出るリアルタイム中継
 ロード・トゥ・モンパルナッス」
でっす(泣)

えーっと、マキを描いて「掴んだ!」と思ったのですが、
なにも掴んでおりませんでしたッ!(泣)

というよりも、確かに「立体の把握」という点ではジャンプアップがあったのですが、
それだけでは絵は描けない。
ストレート150キロ、じゃあ20勝できるか、って、できないわけです。
いやそれだけでは、1つ勝つのも難しい。
(もちろん150キロ出てませんけど、例です例)

いくつか描いたり塗ったりしてますと、
なんとなくいい感じのような、しかし消化不良のような。
「掴んじゃったからもう驚かなくなったのかな?」
とか納得しようとも思ったのですが、どうもそうでもない。

私本業は物書きですから知ってますが、
いいの、っていつ何回書いても、「ああ、いいなあ」って自分で思えるものです。
そしてそういうのは、古くなっても、恥ずかしいしアラ見え見えなんですけど、
でもちゃんと読める。
3年半も前の「ドラグーン」は、今でも読める。
そこまで行かないと、納得、とは言えないのです。

ま、そんなこんなで3-4日前に、こんなのを描いてみました。

モデルはウチ(といえばミラクルズ)から、天満蘭。
大型犬のような素朴で自然な性格に似合わぬハリウッドボディ、
ピッチではどんな強敵をもブッ潰すパワーディフェンダー。
それっぽく、ちょっとしなっと、でもナチュラルに。

びみょ〜 に引っかかるんですけど、でも、まあ、悪かないな、と。
ポイントは身体の方です。
顔の方は、ミラクルズの連中のは描き慣れてるので、
手が勝手にそれくさくごまかしてくれちゃうので。
あ、塗りは酷いのでスルーしてくださいね(泣)

では、CBのコンビ組む梅田ももも描こうかな、と。
で、下絵がこれ。


納得いかねーーーーー!!!

ちょっと前屈みに腰を折ってる感じを出したいのですが、
まるっきりダメです。
なんじゃこりゃ、と。
似たようなシチュの蘭はちゃんと描けるのに。

う〜ん。
やっぱり、掴んだと思ってた立体把握がまるでまだ初歩も初歩で、
まだまだだったのか。
では立体把握をもう一度おさらい。別キャラ別ポーズでやりなおし。
今度はGK、吹田千里。


う〜〜〜〜〜ん〜〜〜……

ちゃんと描けてるといえばちゃんと描けてるんですけど。
問題はない。
これも下半身とか丸ごと描き直したりして、
立体把握に丁寧に気を配ったので、おかしくはない。

でも、なんでこんなに「固い」んだろう。
これが僕の絵柄、画風ってヤツか?
でも、ほぼ同じメソッドで描かれてるマキは、もっと印象強いんですよね。

ちがう。
またなにか足りない。

ということで1日冷却期間を置いて、困った時にはキャプテンです。
キャプテンは何がいいかって、一番描いてるので、
どこをどう描いてもキャプテンになるんです。
そう、一番大胆にアグレッシブに描けるキャラ。
てことで、顔適当に描いてて、角度ちょっと横向きだったので、
「ふむ、じゃ『お?』って表情にするかな」
と思って顔を描いて、
右手はだいたいこんな感じ……
ってところで、「ハッ!」としてGo。

「ひょっとして、『だいたい』でいいのか!?」

(笑)。

てことであとは、立体把握もへちゃらも捨て去ってわしゃわしゃと
だいたいでテキトーに描きました。これ。

うむ。割とキレイに決まったではないか。
この表情が出そうなシチュをよく表現している(と、自分では思える)

これか!

そういやマキの時も、かなり「だいたい」でしたわ。
では、ということで飛びつくようにもう一度ももを描き直し。
今の僕なら描けるよきっと!

……てことで、こんな感じに。


もう一度最初のと見比べていただくと一目瞭然。
イキイキしてますよね。
とりあえず、これが同一人物が同一キャラを描いたものとは思えない。
しかも時間差3日。
最初の蘭よりもずっといいです。
なにがこの差になるのか。

---

また、たぶん、でしかないんですけど。

どこがポイントかというと、この絵は、「もも」なんです。
僕はももを描こうと思ったわけですから、描かなければならないのは、ももです。
いや、ふとももじゃなくて。
そのキャラ(人物でない場合もそのモノの)が、
「いったいなにか」
を、訴える。
全ての線と、そして(僕はまるっきりまだまだですが)色は、
そこへ向かって存在しているわけです。

訴える僕に迷いがあっては、何も通じない。
「いや、ももってのはこのぐらい胸がばーーーんとあるんです!」
って気持ちで訴えないと、何も伝わらない。
立体としての説得力、というのはあくまでもそれをサポートするものであって、
訴えさえ強力でユニークであるならば、
立体として完全におかしくて、無限階段みたいになってても、大丈夫。
この絵も、右の腰のあたりとかどないなっとんねん、という感じですが、
そんなこたどーでもいーのです、
「こんな感じでおしりからふとももがぱーーーん・むちーーーーんです!」
っていうことが、なによりも大切で。
そう、花形満の髪型ですとも。
なんかイカス髪型だ、ってのが大事で、
三次元化できるかできないかなぞどうでもよろしい。

間違えてたのは、
「完璧に立体を把握して、それをデフォルメ(誇張・省略)すれば
 より表現力が出る」
と思ってたことです。
これは間違い。
「表現したい何かを、より強くより激しくよりクッキリとよりそれだけを、
 (つまりデフォルメ)表現するために立体把握がある」
立体把握は「よりよい表現のための」十分条件ではもちろんなく、
いや必要条件ですらなく、一手段に過ぎませんでした。

(ただ、非常に強力な手段・道具であり、
 この道具が自在に使えるとすごく強いのは間違いないです。
 ストレートの球威みたいなもので、とりあえずこれ磨いておくと、負けない)

もうちょっと砕いて言うと、
「でかい胸描きたけりゃまずでかい胸を描け、話はそれからだ」。
逆の面から見て言うと、
「描きたいもの無いのに絵なんか描けるか」

両方、すんごい当たり前のこと言ってるようですが、
いや実際当たり前なんですけど、
よく見失うんですよ。
絵を描くのが好きな人は皆さん知ってると思いますが、
「絵を描きたい」という気持ちは非常にシンプルで、
とにかく眼前に紙とペンソーを寄こせ、というものです。
で、白紙目の前にして
「さて、何を描きましょうかね」
と考える。
それじゃダメ、いやダメではなくまずそのエンジンが不可欠なんですけど、
次のステップ、「何を描くか」のイメージ持ってないと、
いい絵は描けないわけです。

うわああ、すんごい当たり前のことゆうてるう(泣)
ていうかこんなこと今気づいたのか俺は〜(泣)

---

たぶんそれは表現系のものはなんでもそうで、
歌を歌いたいとか、ギターを弾きたいとか、あるいは文章を書きたいとか。
ただ、どうやっていいかわからない。
そのポイントはたぶんこの一点で、
「小説書きたいんですけど、どう書いたらいいんでしょう」
という方はおそらく、「何を書いていいか」がまず、まるっきり無いんです。
そそ、これはわかってましたよ、マジでマジで。
そゆこと訊かれたら、
「どうも何も、書きたいように書きゃいーじゃないですか。
 腕がどうのっていうのはその後ですよ。やりゃ上がるし」
て答えます。

えーっと本日の告白コーナーはさほど恥ずかしくない事実です。
僕が「書こう!」と意識して、ちょっとだけ助走して、
しっかり本格的に書いたのは「ミラクルズ!」のこっとんのがそうです。
(高校まで結構書いてたので正確には「復帰」)
今読まれると死ぬほど恥ずかしいので読んでいただきたくないのですが、
読んでいただくとわかりますとおり、
「古都がチョコレート作った」
というだけの話で、それ以上何一つ書いてません。
でも、小説というのはそういうもので、
書きたいところを、ぴしっと思いっきり書けば、それが小説です。
起承転結はおろか、ストーリーも要らん。世界観も要らん。
キャラも立ってる必要なし。特別な事件も起きなくていいのです。
(もちろん、そのどれかを徹底して書きたいのなら、
 いくらでも追い込んでいいと思います)
文体? 今は少々変わってる方がいいんですって。
句読点が異常に多いとか、1センテンスが異常に長いとか、
ぜんぜんウェルカムだと思いますよ。それも個性。

……まあ、仕事でとなるといろんな制約もありますからそうも言ってられなくなり、
ある程度デコレートする必要がでてくるのですが、それはともかく。

話を戻しますと、
「何が描きたいか」
というのは、物理的な物体でもいいし、色とか光でもいいし、
もっと抽象的な雰囲気とか空気とか、感情とか人間関係とか、
そんなものでもいいのです。
前のキャプテンの絵なら、「『あ』という気づき」が絵になってますね。
それを、絵というのです。
マキの絵は、立体把握もできてたんですけど、
たまたま、知らぬ間に、「マキ」を絵にしてたんですね。
ダイナミックなポーズ、挑戦的な表情、ボディコンシャスな服とジーンズ、
全部「マキ」へと向かってる。
だからあの絵は、魅力的なんです。(当社比)
この「もも」ももちろんそうで、ぽわんと開けた半開きの口元、くねったポーズ、
そして胸とふともも。
全部が、(自分のイメージしている)「もも」へ向かってるから、しっくりくる。

くどいですが確認しますと、
胸を大きくふとももを太く描いたから「もも」になったんじゃない。
「もも」を描こうとした結果、胸が大きくふとももが太くなったんです。

そして、「こう描こう」という、その種になるもの、
それを「イメージ」というわけです。
いいイメージが無くては、いい絵は描けない。

ですがそれは、あくまで、頭の中だけにあるものではなく、
白い紙の中にもある。シャーペンの中にもある。その芯にもある。消しゴムにもある。
自分の指先にもある。
つまり、やらなきゃ出てこない。

---

ここまではいいのですが、
ここから先がぼんやりしてます。

現場その瞬間に、描きながら、描かれたものと対話しながら、固めていく……
にしては、一気に行けすぎます。
このももの絵、いわゆる「当たり線」(バランスをとるために前もって引いておく線)
がほとんど見られませんが、これ、消したんじゃなくて最初から無いんです。
もちろん上から主線なぞってますけど、ほぼ一発目に引いた線の上。
前の方のももの絵の線がぐちゃぐちゃしてるのに比べ、非常にすっきりしてますよね。
水墨画とか、ああいう一発ものってなんぼほど熟達が必要なんだろうと
思ってましたが、この絵描いてわかりました。
イメージ掴めてると、一発で引けるんです、線。

先日お話ししました、「スッとやる」というヤツです。
今日はスッとやれた。
でもなぜスッとやれたかは、わからない。
強いイメージがあったからか。
いや、前の方のももの時と、ももに対して持ってるイメージが変化したとは思えません。
テキトーに、肩の力を抜いてだいたいでやったからか。
それは大きな要素だと思うのですが、肩の力抜いてやればいつでも同じことができる、
という自信はゼロです。必要条件の一つかも知れないけど、
クリティカルファクターではない。

それらの複合された、それこそ「暗黙知」……というところで、
「それを要素分解したって意味無いって、ちょっと前からうるさく言ってたのは
 あんたじゃん!」
と怒られそうです。
で、いつもの堂々めぐりなんですけど、それはそうなんです。
それはわかってるんです。
全部の要素、全ての力のベクトルが、ぴたっと同じ方向を向いたその結果が、
スッと出てくる良い結果だと。
では、「どうやったら」、自分の身体に、同じ方向を向かせることができるのか。
集中しつつ、でも肩の力を抜いて軽く、囚われない自由なイメージを持って、
大胆に繊細に……

ちがうちがう、それは状態・状況を説明してるだけです。
メソッドじゃない。

文字化できなくてもいいんです。
他人に伝えられなくてもいい。というかたぶん伝えられない。
でも、自分では「ああ、これか!」と思いたい。
自転車の運転を忘れないように、もう二度と失わないように、ハッキリと掴みたい。

と、思って、絵など描いてみているわけです。
文章ではあまりに距離が近すぎて、
そして邪魔をする技術、持たなくていい意識、等々の夾雑物がありすぎて、
うまく行きそうにないから。
あと必要以上に凹みたくないし。
反省はいいことですが落ち込みからは何も生まれません。
でも文章は人生掛かってるので、不必要にシリアスに考えがちなのです。

絵でできるのか、と問われると、たぶんできます。
それは、「表現」をする上で必要な「なにか」、
視点というかこころがまえというか感覚というか、そんなものだと思います。
身体の動かし方が質的に転換できれば、
剣道から陸上からバスケからダンスから介護まで、
どれにでも使えますよね。
それとたぶん同じなんです。

ならなお一層のこと、一番得意な文章でやるべきではないか、
と思われるかもしれませんが、
上述どおり要らないファクターが多すぎるのと、
なんとなく、「まだその時期ではない」と身体が囁くのです。
反復練習とかそんなんではないので、
イザ、となったら、量は要らない。
だって「流乃アゴ」からこのももまで、ホントの落描きまで含めて
描いた絵はたった13枚。
「ああわかったわかったこれか」から、ある程度フィックスするまで、
2本も書けばいけそうな予感がします。

思いついたキーワードを、
ほぼ常に携帯してるメモ帳にメモってます。
微妙にそれっぽいもの、たとえば
「人間の距離感を遠近法で表す」
とかそんなことが寝ぼけた筆跡で書いてあるわけですが、
いや確かにそりゃそうなんですが、
でもたぶんそれを眺めていても何も出なくて、ある日突然わかるんだと思います。
ニーチェがツァラトストラを思いついたのは散歩中ですしね。

もうすこし、がんばろうと思います。

絵の方は……次は色かな。
苦手やなあ(泣)

苦手意識を無くして、
「とにかく塗りたい色を塗りたいように塗る」
ところからGoですかね。
でも、このぐらい描けるようになってきて、ちょっと欲出てきました。
絵でも、「表現」ができるようになりたい。
「梅田もも」だとか、「長居美緒」だとかいうところからはじめて最終的には普遍的な、
「可愛い」とか「美しい」とか、そこまで。
「ああ、これは夏祭りですね」
と誰もに納得してもらえて、しかも、
「楽しそうなお祭りだ」
と思ってもらえるような。

うん、それは文章とまったくおんなじなんですけど。

ということは、世間一般基準はどうあれ、
自分の中では絵と文章とでフェイズが並びつつあるような気がします。
どっちかで壁を超えることができれば、もう片方も。

うちにあるイメージのもやもやと、
現実に表す線や言葉とのダイレクトさ。直結度合い。

もうすこし、もうすこし。
なちゅらる、なちゅらる。


4/20 どのポジションも

相変わらず絵ばっかりです。
昨日はちょっとまた掴めたような、掴めてないような、
なのでまた、まとめてから。

「無駄なことを全力でやろう」と思っています。

実は、人としてのパフォーマンスを上げていく過程には、
「無駄なもの」などひとつもない。
それぞれの経験が、その人の「ユニークネス」を鍛えています。
そしてそれ、個性こそが一番大切なものであって、
ならば、無駄ならば無駄な方がいい。
そこが一点。
もう一つのポイントは「全力でやる」というところです。
何をするかどうかは別にして、思い切ってやる。結果として
(1)たくさんユニークになる
そして、
(2)この能力が高いと、何にでも使える。
という副次効果もあります。

つまり、誰とも違う、力一杯変わった人になりたい。

絵がそこそこ描ける文章書きなんて、蕪村みたいでカッコイイじゃないですかー。

---

と、思っていたら、またシンクロで、「ほぼ日」の古いコンテンツで、
Appleの原田社長(当時・今はマクドの社長さんでしたっけ)と、
Microsoftの古川会長(当時)の対談を読みました。
二人ともおもしろいんだこれが。
実に好対照なような、しかし根は同じような。
とりあえず、「語れるヤツ」になりたいです。
語る言葉と、語れる経験と、語れる情熱。
三つ持ってる人に。
お二人ともオヤジなのに、少年であり、性別もいくらか消えてる。
まあ、そうなりたいな、と。

---

日本の教育、のなにが一番問題かというと、
人材育成の幅が狭すぎることです。
あまりにもスタンプすぎて、サッカーで言うところの
「走り回りMF」しか作ってない。
11人いて、GK(バイオリニストとか特殊職業)を除く10人で、
8人がそれ、2人がどこかのポジションの適職型で、
しょーがないからこの2人でくじ引きして10番、主役決めてる。
そんな感じです。
いくら日本人が性質的に走り回りMFに向いてるからって、あまりにも酷い。

僕だってそうですよ、どう考えてもウィンガー、
世の中斜めに見てナンボ、のこの選手がへたすりゃ10番やらされる。
鉄心さんとかもそうです。屈強な頼れるCBって感じなのですが、もう10番。
いやそりゃ、やれといわれればやりますが、
それよりもやっぱり、ウィングやセンターバックやる方が強い。
そして、あるべきところにあるべき人が居る方が、
世の中ももっとうまく行くと思うんです。

思うに、「10番がエライ」と言いすぎたから、みんな逃げ出してる側面もあると思います。
あんな責任だけ重いのに、そしてちょっとミスるとボロカス言われるのに、
そして報酬も大して変わんないのに、どうしてやらなきゃならないのか。
走り回ってりゃ誰かがなんとかしてくれるさ。
違う違う。
やっぱり、誰かが思いきってチャレンジしないと世の中は変わらないし、
新しいものはできない。
それを10番がやってくれるなら、やってくれるように自らはブッ潰れつつ
必死で支えるのが本来のサーバント型MFであって、
そんな簡単なものでも甘いものでもない。
遠藤をご覧なさい。
俊輔があんなハーフウェー手前自陣でやらんでええしょーもないドリブルして
敵に奪われ一気にピンチ、それを泣きながら必死でカヴァーするじゃないですか。
あの尊い犠牲こそがサーバントMFです。
そして10番はその犠牲の上に立って、
このようにクソミソ言われながらも一発一点を狙う、
それが役割です。
つまりは、どのポジションも尊い。

それをもっとはっきり、
たばこ屋のおばあちゃんも大工さんも小泉首相もみんな偉いんだよ、
と言ってあげつつ、
その子その子の特性を見て育てて行ってあげて欲しいなあ、と。
そのポジションにプライドと自信を持てるようにね。
そうするときっと、もっと楽しい世の中になる、はず。

なんでユニットバスの南と西を間違えるかな(泣)
土建屋のホコリを持てい(泣)

……最近、苦手なポジションや合ってないポジションをムリにやるよりは、
やりやすいポジションでやりやすいように、そしてやりたいことをやるほうが
よほど人類の幸せに貢献できるのではないか、と考えるようになりました。
実はウィング向きだと思ってますが、ボランチの方が向いてるかもしれません。
そりゃわかりませんが、そこも探りつつ、
とにかく自分のポジションでできるだけのいいプレーをしていきたい、です。


4/19 銭湯の極意

【本日のたぶん真理】

シンプルに行けないことには、どこかにゴマカシがある。

---

ザブングルぐらい銭湯してきました。
独りで銭湯、ってものすごいぶりです。

悲しかったことは、洗い場眼前の鏡で頭の地肌が丸見えなことで(号泣)
嬉しかったことは、体重が67キロを切ってたことで(パン1込み)。
さ、ささやかな喜び悲しみだな……
まあ、銭湯ってのはそういうのがいいような気も。
360円で楽しめる娯楽としては上等過ぎます。
本格喫茶のコーヒー一杯より安いもんね。
風呂が改装されてもたまに行こうかと思いました。

そこはもう十年以上前に改装して、大風呂二つ(差は温度差のみ)から、
メイン、電気風呂、横たわり風呂、サウナ、スチームバス、漢方湯、水風呂……
と細分化。
一時は駐車場が溢れるぐらい人出があったのですが、
今はさほどでもないようです。
(それでも夜12時でも結構人がいるんですけどね)
そういうのを楽しみたい人は、大型クアハウスの方へ行っちゃうんでしょうか。
当時最新ピカピカだった設備も今や古びて、そうなると、
そうであっても尊ばれる、いやむしろそれが喜ばれる古き良き大風呂と違って、
ちょっぴり切ないです。

新しいものは、新しくないと価値がない。
10年前のものは、無価値どころかマイナスなんです。
だから一旦そっち行くと、ずっと行き続けなければならない。
これが辛い。
Dynabookのロゴ変更の時も思ったんですけど、我慢してりゃ味が出るんです。
一回捨てると、またやり直しもしくはさらに10年後また莫大な金がかかる。
やるときは、やる瞬間のコストしか考えてないんですけど、
実はその後も延々とコストがかかる。
そしてここにはもう、たぶん、改装して戻す力はない。

あの頃は、みんなああでした。
今にしてみればやらんでええことなんですが、
やれば何かが変わると思った。

今やヘタすりゃ家の風呂にもついてるジャグジーに打たれながら、
そんなことを思いました。
こんなものよりなにより、「泳げるほどの巨大お湯空間」それこそが銭湯の魅力。
それを失って、得るものなど何もない。

もって他山の石です。

---

その銭湯には、今は少なくなった「富士山の生絵」が飾ってあります。
日付を見れば2003.10。
ナウアップデーティング。
あれを描く職人さんってもう全国でも数少なくなってて、
しかもあんなもんだけでは食べていけないので、
普段は鮮魚市場に勤めたりしたはるんですね。
(魚市場、というのは朝が抜群に早いので、
 昼遅めでかまわない人の「バイトとして」地味によく使われます。
 つまり魚屋さんじゃないのにあそこに行く人は、「まだやる気がある」人なんですね。
 ただ、体力的にはごっつしんどい)

でね、ぶっちゃけどってことない、西伊豆でヨット浮かべて富士を望む、
っていう凡庸極まる実につまんない絵なんですけど、
でもやっぱり、富士だけはいい。
描き慣れてるというかポイントはここだけ、というか、
富士だけは上手い。
そしてこれだけで、この絵にはとても価値があるんです。

あれは、たいてい一営業日の準備時間中に描き上げる絵だそうです。
昼の数時間。
それも含めて見ていると、描き上げた瞬間の職人の唇に浮かぶ、
不敵な笑みが想像されてちょっぴり悔しかったです。

---

そこを押さえなければならない、ポイントがある。
そこを押さえてないから、不安になって、複雑になってしまう。
そしてあまり、インパクトはない。
シンプルにする、というよりも、
シンプルにしても大丈夫、あるいは勝手にシンプルになっちゃう、
そういうものでなければ、たいしたものではない。

complexになるもの、ってやっぱり熱力学と同じ、
破綻して崩壊に向かうところなんですね。
ファーストポイントが直で見つからなくても、そういう破綻点を見つけて
「いや待て待て、ここ何かがおかしい」
と探り直す、それは一つテクニカルなやり方として有効だと思います。
・よそはすっす行く力をつけ、
・「ひっかかってる」と自分の状態を見抜くセンサーを大事にし、
・ひっかかりを解消する手段・知識等々を持つ、またはその場で手に入れるよう努力する。
その繰り返しを、地道に丁寧に、我慢して続ける。

「負けない」戦い方は、たぶんこれです。

いつも勝てるわけじゃないので、負けないことも、非常に大切。
実際それは、「自分に勝つ」ことですし。
そして負けなくなると、「勝つ力」がさほど傑出してなくても、
トータルではすこぶる強い。

……と、「銭湯」の本質を考えてみました。


4/18 傀儡

「イノセンス」を観、息子がケーブルTVで楽しむ「エヴァンゲリオン」を観て御大が訊く。
「あれを作ってる人々はいくつぐらい?」
「たしか僕(1971産)より10ちょい上ぐらいです。
 ……どうしてです?」
「『傀儡』って考え方やな」

(後で調べると士郎正宗 1961.11.23 庵野秀明 1960.5.22
 押井守監督は 1951.8.8 ともう少し上)

つまり、なんだかわけのわからん、人智を超えたそれこそ人間なのかどうかすら
わからないような黒幕達が、陰謀術数の限りを尽くしてこの世界を支配する。
(たいていはしきれていないわけですが)
そういう世界観。
陰謀史観とか、ユダヤがどうのとか、ローゼンクロイツとかそーゆーの全部。

そう、その世代は、そして「攻殻」と「エヴァ」が作られた時代は、
まだその考え方ができたんです。
たぶん、これが通用しなくなった……というか、
「あるかも」といううっすらした説得力が無くなり、
「剣と竜」と全く同じファンタジーの位置に後退した、のはやはり、
1995インターネット革命、だと思います。

あれのおかげで、世界最強の国のトップが、
ただのアホボン
であると世界中の人間が知っちゃうようになったわけです。
それを、「一族の誇り」みたいな、1日2時間睡眠で頑張る超秀才、
チェイニーやパウエルが必死こいて支えてる。
それがあの、世界いや人類史上でもおそらく最強の国家。
それは今や、IPリーチャブルな国のちょっと気の利いた中学生でも知ってる事実です。

どこにも、ゼーレみたいな連中もいないし、碇司令もいないし、
素子はもとより荒巻部長すらいないわけです。
あんな凄いの。
ちょっと変わり者の純ちゃんが、ボロカス言われてキレるのを我慢しながら
「平ちゃんどうしよ」
「たぶん中国がよくなってきそうだから大丈夫な予感がするんだけど」
なんてやってるのが、この、世の中なんです。
それ以上でも以下でもない。

そして。
彼らを選んでいるのは間違いなく我々です。
棄権も白票も参加という意味では同じです。「選ばない」という選択を駆使してます。
彼らがどんなに愚かであろうが、逆に優れていようが、
それは我々の選択の結果、その以外ではありえません。

95年以前は、たとえば「田中角栄キングメーカー」みたいなイメージ操作が、
意識的無意識的問わずできました。
向こうはそうしたいし、マスコミは(常に)真実や事実ではなく、
「何を見せれば売れるか」しか伝えませんし、
我々も、そうだったらいいなと思ってみてる部分が大きいわけです。
なぜなら、責任を転嫁できるから。
悪いのは角栄だ。ヤツの金権政治だ。
違う。
新潟で角栄さんを落とすのは不可能でも、
各選挙区で自民候補を落とすのはたやすいことです。
比例代表の参院選ならもっと簡単。
でもそれを、誰もやらなかった。
悪いのは、自分なんです。

我々は得体の知れない黒幕に操られてるわけではなく、
我々が純ちゃんを操って、イラクに自衛隊を派遣しているのです。

最近起きる、戦争や紛争、そしてそれに対する普通の市民の反応、
には、そういう人類の意識の変化、みたいなものが少しずつ出てるように思います。
フランス人はもとより、イギリス人の多くが「戦争は避けたいなあ」と思いつつ
でもなぜか、戦争に突入した。
アメリカでも結構多くの人が、「もうやめようよー」と思っていると思います。
イラクの人も、これは想像でしかないのですが、
「6月で出てくって行ってるんだからもう殺し合うのやめようよー」
と思ってる人はたくさんいるような気がします。

それはとてもいいこと、というか当たり前のことで、
ただ、それが意志決定機関や国政担当者を、まだ、
動かしきるまでには至っていない。
そこに溝があり、為政者はあくまで為政者の顔でありつづけ、
「人間」の顔を捨てたままです。
お互いが人の顔に戻って話し合えば、通じる話もたくさんあると思うのですが、
疑心暗鬼と憎悪の連鎖が、それを許さない。
でもそれも、多くは、自分達で作り上げたモノだったりするんです。
自分で自分を縛り上げて、辛い方へ辛い方へと、お互いで傷つけ合う。

えらい人には、もう一度「ひと」に戻ってもらって、考え直して欲しいです。
人を殺して解決するようなことは、ほとんど何もない。
そしてどんな国の人々も、そんなことをして問題を解決して欲しいとは、
思っていない。

誘拐とか暗殺とか、あまりにも原始的なところへ先祖返りしてるような気がします。
なんだか、「実はただの人だった」ことがバレるのをおそれる為政者達が、
必死に虚勢を張ってるようで、見てられません。
北朝鮮の高官の態度とか、
「お前それ自分の家族が誘拐されて言える台詞か!?」
って思うじゃないですか。
やっぱり、政府高官である前に外交官である前に人間でないと。

なにも普通の人だからってバカにしてるわけじゃない。
普通の人だから任せられるのであって、
秒刻みスケジュールで研修生と浮気一つできない激務を、
みんなに代わってこなしてくれているのだから、
大変に敬意は払ってます。
それでいいじゃないですか。

もう、良く見せようとか強く見せようとか、そういうのは止めましょう。
道徳論じゃなくて、合理的に。
だって無駄だから。
みんな知ってるから。
あの人がアホボンだと。

我々も、そして為政者も、傀儡、人形ではない。
人間です。
我々が、自分自身で、我々の住む人間の世界を、
ほんのちょっとずつ、動かしているのです。


4/17 ぴんち・ぱんち・ぷんち

いろんなものを漂白できそうに歯痛ーです。

119をコールしたいぐらいで、額ににじむ脂汗。
しかしこんな時に限ってやってくる公明党の宣伝カー。
「DVは犯罪です!」
お前がDVやと。
思わず手元で対戦車ロケットランチャーを探してしまいました。

ロバートアッテン・ホローしておくと別に公明党が嫌いでもなんでもなく、
いや嫌いなんですけど、どこの政党の宣伝カーでも、土日はやめてください。
というか、繁華街回ったらいいじゃないですか、なんで住宅地に乗り込むかな。

しかしあの宣伝カーを爆破してももちろん歯痛は収まらない。
よし、こうなったらアメリカのプロ・スポーツ界で流行の兆しを見せている、
NASAも認めた最新治療メソッド、「サロンパッシング」にGet challenge。

痛い方の頬、肩、首に4枚ばかりベタベタと……

……しみてもっと痛い……

つかこれ、サロンパスの刺激で痛みを上書きしてるだけじゃないの!?
なんか目の奥までメントールなんですが。

……しかし古来伝わる民間療法、バカにできないもので。
30分もすると見事に上書きされました。
とりあえず、噛みしめたりしない限り大丈夫。
すごいすごい。
月曜日まで持てばいいから、これで行こう。

弱点は人前に出るのがすごーく恥ずかしいことぐらいです。
こんなカッコで銭湯行ったらもう75のおじいちゃんじゃないスか……
いや。
むしろそれを愉しむ!
ほら!ギャルゲーなんかでも「絆創膏キャラ」っているじゃないですか!
あんな感じで、サロンパスキャラ!
もちろん、すごくツンとしてるのね。

ダメかな……

--- after 8 hours ---

ということで約8時間後。
相変わらず見事に抑えてくれてます。
肩こりも楽で。
(こっちが本業ですから当たり前といえばそうなんですが)
サロンパス、クセになりそうです。
これで純ケミカルではなく、漢方系とかあるいは生姜湿布みたいなのを
簡便化してくれたものなら言うことないのですが……

とりあえず今日は「サロンパス最高」の日です。

最近、真面目に素直に
「ピンチはチャンスだ」
と思えるようになりました(笑)

サッカーというスポーツの一番の魅力は、まさにここにあって、
押し込まれて攻められてる、そこはまさにカウンターのチャンスなんですね。
で、それ一本磨き込めばヴァレンシアのように
欧州の頂点に立ちかけることもできたりする。

歯痛にならなければサロンパスのこういう使い方を
身をもって知ることはなかったわけで、
それは知識で「歯痛に効く」と知ってるよりも、はるかに、文字通りの、
「身に付いた」知識なわけです。

知識というのは、知る、記憶するだけではあまり意味が無くて、
それ、またその応用を適切なポイントで使えないと、
「生きた知識」ではないわけです。
また逆に、そういう「生かし方」が上手い人は、知識のデータベースの量は少なくても、
すごくなんでもできる。

その分岐点、ポイントはやはり、僕のサロンパスのように、
「やってみたかどうか」
もしくはそれに近い「痛感する」という体験があるかどうか、
そしてそれを同種体験に拡張できるかどうか、
このあたりのようです。
最近、「身体性」という言葉がキーワードとしてもてはやされてますが、
それはなんのことはない、
「やりゃあわかる、やりゃあ」
ということです。
つまり、どれだけ現代の生活が「やってみる」というところから離れちゃってるか、
ということの裏返しなんですね。

なんでもそうですが、一つの物事、というのは、
ものすごい数の各要素が、複雑怪奇に過ぎるネットワークで結ばれており、
なんぼ切っても切っても、ただ「眺める」だけでは把握し切れません。
それはもう、はっきり無理です。
なので、「味わう」とか「聴く」とか「触る」とか「嗅ぐ」とか、
つまり「する」、とにかく全人的に、持てるあらゆるデバイスを使って、
そのものへと向き合っていく、かかわり合っていく、
その作業が必要だと思います。

ピンチ、というのは、「普段」では対応しきれないことが起きる、
ということですから、そういう「かかわりあい」を新しい物事に対して持てるチャンス、
なのです。
それがこうして、「歯痛にはサロンパス」という程度の物事でも、
理解を深めたりもする。
すると、じゃサロンパス他にどう使うか、とか、
歯痛って肩こりと連動してるよなあ、とか、
バンテリンじゃやっぱりダメなのか?とか、
別ネットワークが立ち上がって、発火する。
その拡がりが、非常に大切なんですね。

---

それともちょっぴり関連してですが、
最近、机の上とか部屋とか、またちょっと片づけないようになりました。
でもそれはわざとで、(ホントだよ(笑))
「片づけられない/片づけるのをサボっている」というインコントロールではなくて、
「片づけない」というコントロールなんです。

キッチリぴっちり片づける、というのは、裏を返せば
「こうである」という自分の想定されたシチュエーションでしかありえません。
そこへ持って行こう、そこへ持って行こう、とする動き。
それってもういいかな、と。
片づいてなければ、いろいろなことが起きますが、
その度に何か新しい発見がある(かもしれない)。
またどうしようもなくなって片づける気になっても、
新しい片づけ方、自分にとっての重み付け方が、見えてくるかも知れない。

「管理しないという管理」
ってフレーズにちょっと心ひかれてるのですが、それはあり得ると思います。
野口(ゆ)先生の「超整理法」はまさにそれで、
あれは「時間」という一軸だけを管理して、あとの諸条件を全部捨てる(管理しない)
という管理方法でしたが、
そういう管理――つまりモノの捉え方――が、いろいろできたらいいなあ、と思うんです。
で、その管理方法、一軸なんですけど、それは何か。
(これをあまり硬質にfixで持ってしまうと、
 これまたこだわりになっちゃいますが)
それは人によって、またその状況によって、おのずから違う、と思います。
たとえば今の僕なら、抽象的で申し訳ないですが、
「自分を通るか通らないか」
「通る」ものは、入ってくるものも留まるものも出てくるものもすごく大切で、
(そして「通る」ために力を貸してくれるモノ、たとえばPCとか、そういうのも大事)
「通らない」ものは、もう別にどうでもいいもので、捨てていいものです。
どんなに高価でも、貴重でも。ジャンルも問いません。本でもデータでも。
非常にヤな言い方ですが、人間でも。

で、その軸で見る時に、どうしてもA型で
「自分のパターン」に持って行きたがるものですから、
たまに軸ごとシェイクしてくれるような、ピンチが起きてくれた方がいいようです。
「軸を通さざるを得ない」
という出来事が、軸の汎用性と精度と性能を上げる。
片づけないのも、プチピンチというほどではないですが、
「自分の想像してなかった何か」を期待していたりして。

そしてそういう訓練は、
「今、なにが大事なの?」
という大本の大本、DNAみたいなところに引き戻してくれます。
「歯さえ、歯さえ痛くなければ!」
「机の上散らかってるけど、なんだ、このぐらいスペースありゃ絵は描けるな」
「公明党うるさいなー……俺、静かじゃなきゃダメなんだ」
それは裏返せば、
サロンパスさえあれば虫歯が何本あっても頑張れる、って証明だったり、
いくらでも大きい天板の机が欲しくなるのを抑制してくれたり、
将来家なり部屋なり借りたり買ったりする時に、判断材料になってみたり。
そしてまた、
「そこを外さなければ他はまあ、別にいいよ」
という寛容や余裕、外から見れば優しさにつながるのではないかなあ、とか。

えらいポジティブ・シンキングに見えますが、あの方法論のように
「そう思いこむ」または「そうだと思ってることにする」のではなくて、
だってホンマにそうやもん、というところに達したい。
やっぱり、今の僕はまだ、まずロケットランチャー探しちゃうんです。
で、歯痛が止まって夜になって静かになって、
「いやいや、あれはあれで」
とようやく思える。
それが、最初からそう思えたら……
まあ、かなり「いいひと」ですわな。

でも、それって生来の優しさとかそういう天性のもの、持ってなくても、
こういうノリなら、充分なれるような気がしませんでしょうか。
本人全然そんなつもりないんだけど、
「ああ、ながたさんはどんなときにもどっしりしてるなあ」
と、見える。
それはとても素敵なことなので、それも副次効果として視野に入れつつ
(この辺がどうしても生臭さの取れないところで、すみません)
本軸は
「いや待てこれ、ホントに良くないことか?」
ってすぐ思える感じられる考えられる、
そんな軽い視点を持つことを目指して。

逆もそうですよ、「理想の何々」も捨てないと。
これ最高、で留まっては、何の進歩もないわけです。
これもまた、結構大変なことなんですが。

で、先ほど管理方法のところに「人間」がでてきましたが、
モノと違って人間は変化します。
いつの間にかとんでもなくいいのになってみたりもするし、
あんなに良かったのにズタボロになってみたりもする。
ある日突然大化けすることもあれば、蝕まれるように崩れていくこともある。
だからおもしろくて、興味深い。
なかなか、捨てきれるものではありません。

軽くスムーズに、どこまでも動く視点。
それがおそらく自分の軸になると思うのですが、
では、それは、どうやったら身に付くのか。
意識して出してればいいものなのか。
(だとすると常に意識するにはどうすればいいのか)
あるいはまた、身に付けば意識せずとも自由自在に動くものなのか。

これが最近頭と歯を痛めてる課題です。


4/16 絵、いろいろ

【本日の生涯のテーマ】

「ご妄想におまかせします」

----

メンタルはフィジカルに影響しますが、
フィジカルもメンタルに影響します。

もうね、歯が痛くて何を書いてもダメ。

よりにもよってこんな家改装などという時期に被せなくても、
といつもの小悪魔的女神様をちょっぴり小憎らしく思
……ひょっとして、美人と呑みに行ったから妬いてる?

しかし、これも試練かもしれん。

---

ということで絵を描いてまー。

いやあ、こないだ書きましたとおり、ちょいOpenEyeしたので面白くて。
ほんと一か所なんですよ、あれだけわかっただけで、
まるで関係なさそうなところまで影響が出る。
つまり「立体の捉え方をある程度マスターした」らしいので、
立体がらみのことがどれも飛躍的によく理解できるようになったんです。

まずポージング。
もうシェー人形(画材屋さんで売ってる人型の人形いや人形は人型です)
要らない。
新しい視点でいろいろ、自分の身体動かしてみますと、
人間の身体、関節ってホントよくできてて、
たとえばヒジ、腕を前に出してヒジを下にすると、普通手のひらは上を向きますが、
この手のひら、特に苦労しなくてもくるっと180度下を向くんですよね。
つまり、ヒジ位置決めれば、上腕や手のひらの角度は相当無理が効く。

わかってないからビビるわけで、
わかってしまえばその範囲では大胆になれるし、
場合によってはウソもつける。

あと色つけ。
以前は色塗るのかなり苦痛だったんですが、
立体がわかると明るい部分と暗い部分がおおよそわかるようになったので、
がっくり楽になりました。(これが「陰」)
あと光源だけ意識してモノが落ちる「影」をテキトーにつければ、
それくさくはなります。

そういう目をもちつつ、ちょっと練習しようと思って、
ある女の子のプロモーションDVDのジャケットを
(主に色中心に)ジロジロ見ながら塗ってみたんです。
するといろんなことがわかります。
やっぱり人物撮影@スタジオですから、レフとかで光源拡散しまくり、
あらゆる角度から光入ってるから、陰らしい陰は表には出ないんです。
個性というのは凹凸部分に出ますから、
そこが飛んでるとずいぶん「整って」見えるんです。
ソフトフォーカスとかも原理同じで、細かいアバタエクボを
「まま、いいじゃないすかいいじゃないすか」
ということで飛ばすんですね。

で、それはいいんですけど、つまりこんなもの塗っててもちっとも
「光と陰」の練習にはならないわけです。
よっぽど机の上の茶筒塗ってる方がいい。
「モデルは現物に限る」
というのは、そういうことですな。
あるいは、写真としては駄目駄目な素人スナップみたいなもの、とか。

サイズも。
全体の比率さえ把握してれば、理論上どんな大きな絵でも小さな絵でも描けるのです。
A4の紙って持て余し気味だったのですが、
今日初めてA4をぶち破るようなサイズの絵を描いてしまいました(笑)
いやあ、キャンパスはみ出すの、って結構快感です。
物理サイズ、ってバカにできない威力があって、
やっぱり眼前にA4オーバーがあると、迫力あります。
絵の上手いマンガ家さんがでかい原稿用紙使わはるのもよくわかった。
描き込める、ってのは副次要素で、
でかい絵、ってことに意味があるんです。

あとはドラマかな。
「いま、なにをしてるところか」
が表現できれば、説得力が飛躍的に上がります。
当たり前ですけど。
首から上ばっかり描いてると、そこがなかなか表現しづらい。
当たり前ですけど。
たとえバストアップでも、手とか入るだけでぜーんぜん説得力違うわけで、
それが「イキイキ」に非常に効きます。

絵を描かれたことある方ならご存じのとおり、手というのは非常に複雑で難しく、
できれば描きたくない勢いなのですが、
これも厳密には4ブロックぐらいでできてる手のひらと、
3ブロックずつでできてる4指、2ブロックの親指、
あと4指の一つめの関節は水かきの位置ではなくそのさらに奥、
手のひらは手首の位置では手首と同じぐらい厚みがある、
ぐらいのポイントがあって、
この数多い小立体の組み合わせである、と把握してれば
(もちろんものすご省略するのですが)
まあそんなに大崩れはしない。
で、描けると、非常に複雑なだけに表情が非常に豊かで、
第二の目というか、いろんなことを言ってくれます。
当たり前ですわね、世にはそれでコミュニケーションとってる方々も
おられるぐらいなんだから。

毎度の話で恐縮ですが、
特に手なんて典型的で、これを反復練習によるパターンマッチで描けるようになる、
なんてとんでもないわけです。
そんなことあり得ない。
描ける人、はおそらく、頭で理解してなくても、
こういう立体ブロックの集合体として認識・把握していて、
それをイメージ上で組み合わせて出力してるんです。
だから、この把握の方法、これそのものを練習すると、
質量互換の法則で、
のんべんだらりんと何十個も手を描いてるよりずっと修得が早い。

初級の絵(特に人物画)のポイントはどうもここ、
立体把握
にあって、だから人物画のちゃんとした本とか買うと、(そして今の目でそれを見ると)
執拗にワイヤーフレーム人体が出てくるわけです。
頭身バランスとかわりと枝葉末節というか結果論で、
本人が納得してれば翼君みたいに12頭身ぐらいあってもおかしくない。
「これは人体ですよ〜」
という書き手の自信が、一番の問題で。

---

……と、いうようなことを頭で考えずとも「もう識っている」のが、
「センスがある」
という状態でして、言えば次元が違うわけです。
100と120とか、そういう直線上の比較対象ではない。
ただし、別に落ち込まなくても、それ自体も手に入れることもできる。
時間かかるかもしれないけどね。
そして、苦労して手に入れると忘れないけど、
生まれ持って持ってる人は、その価値がわからないから捨ててしまったり、
ある日見失うともう一度手にできなかったり、する危険もあるわけです。
なにも天才を羨む必要は、ない。

---

そうそう、僕は形に執着ある方なんですが、
文章に得意不得意ジャンルがあるように、
絵にも色が得意な人(というか色に執着がある人)、
光が得意な人、パースというか構図、レイアウトが得意な人、
いろいろおいでです。

特に最近はCG環境が凄いですから、色が凄い人が巷に溢れてて、凄いですな(笑)
これはもうクセというか特性というか個性で、
たとえば僕なら、日常生活から色のうるさいの嫌いなんです。
白、黒、生成り。
木の色キャンバス色畳の色、鉄板でも鉄板の色。
だからあの、シルバーって色が結構嫌いで、「嘘やん」と。
今のPCケースはアルミ生色だったから買ったんです。
そんな人間が華やかな色なぞ塗れるはずもなく。
ええもう、これからも地味〜に塗ってまいります。
地味なりに、コントラストや明暗でキレイに見せていこ〜、と。
(でもやっぱりちょっと羨ましい)

デフォルメ、つまり誇張や省略、も実はあまり得意じゃないです。
自分でも意外だったんですけど。
記号化のセンスがない、のもそうなんですが、
記号化しすぎると生臭み、生の良さが飛ぶじゃないですか。
あれがどうも苦手くさい。
その方向は、簡単にコンビニのショートケーキになるんです。
「ケーキ食べた」という体験しか提供してない。
我々が提供すべきは「美味しさ」であって。
極端に言えばケーキでも無いわけです。

今の世は特に、この「体験の記号化」みたいなのが
異常に進んでるような気がします。
「ホンマに楽しいんかそれ!?」
っていう。
美少女キャラみたいなのでもそれが異様に進んでて、
それ自体はバリエーションとしては別にいいと思うんですけど、
「そうでなきゃダメだ」が出だすと怖い。
可愛らしさや美しさは、リボンのサイズやいかに幼児体型であるか、
などというところには依存しないはずです。
もちろんそれも力を貸すわけですが、全てがそこにあるわけじゃない。

お金稼げる人、っていうのは、どの分野でも、この
「今どの記号が求められているか」
のセンサーが発達してる人かもしれません。
そこさえフィットしてれば、中身はスカスカでもジャカスカお金が落ちる世の中ですから。

いや、そういうのがあってもいいとは思うのですが、
あんまりちょっと行きすぎてるんじゃないかなあ、と。
それは大衆化とか多様化とはちょっと違う。
で、コンビニへ行くと、
「ちょっと高くても、なんの味が付いて無くてもいいから、美味しいパンが欲しい」
という願い、こんな簡単な願いが叶えられないんです。
山のように様々なパンが、毎日捨てられるほど並んでるのにね。

最近、本当に心から「美味い」と思えた「白ご飯体験」っていつです?
そんなことひとつできないなんておかしいじゃないですか。
おかずなんかその後です。

などと、思っても、みたり。
またこの話はいずれ。
最後はなんとなくそれっぽくなったので、R2-C2を抱きながら眠ることにします。

こんなことして気を引かなくても、僕はいつでも君のそばにいるじゃないか。


4/15 はっさくの木

家の改装が始まった。
重機を入れるため、庭に敢然とそびえ立っていた、はっさくの木を薙ぎ払った。

母は、その木を、大昔から、植木鉢から育てており、できれば切りたくないと言う。
いただきものかなにかで、2階のベランダで育てていたのを、
庭に植え替えるとすくすく伸びたという。
成るはっさくがこれがまたスカスカで美味くもなんともないのだが、
黄色い実がたくさん成る、という事実はなんとなく嬉しいものである。
何の効用も無さそうなはっさく風呂に、よく入った。

物心ついた時にはそびえ立っていた。
25年はそこにいる。

しかし、それがそびえていればユンボ・アームは実に窮屈な動きをせねばならない。
いやなにより、いい加減大きくなりすぎて始末に負えなくなりつつもあった。
毎秋、ボタボタと僕の車のトランクに落ちる実の始末。
季節を問わず降る樹液、宿る鳥達の糞。
母自慢の、人ぐらい簡単に殺せる電動高枝切りも届かぬてっぺんの枝。
山と積もる落葉。
「しょうがない、切ろうか」
母も最後は諦めた。

現場の人は早い。
朝起きると、もう、倒れていた。
土から切り離された横倒しの姿。
見ていられなかったので、逃げるように外へ出た。

一日の作業が終わると、作業エリアギリギリに植わっている牡丹が、
踏み荒らされ気味でかなり危ない。
母が半ば諦めながらも半ば哀訴する。
「牡丹を守ってやってくれへんか」
「なにをしろっていうねん」
つい反問は、強い調子になる。
横たわるはっさくの目の前で、牡丹を救うための作業ができる、
そんな合理的な神経はもっていない。

母を責めているわけではない。
はっさくが倒れて辛いのは母である。
玄関に塩をまくのも母である。
しかし人間は身勝手であり、母は人間であり、そして僕もそれだった。
こんなことを言いながら、今日もまた野菜の煮物を食べて、
生のまま引き裂かれたレタスにオリーブオイルをぶっかける。
どうするつもりもなければ、どうしようもない。
だが、そうであることは、忘れないでいたい。

すまない。

「庭に実のなる木は植えるな」
と昔から言う。
それは、こういうことである。


4/14 人の形をしているのは、人だから。

マッコリは美味しいけど堪えます(泣)
昨日はしゃぎすぎたので今日は一日フラフラでした。
なんか一年近くぶりに歯痛までが復活(泣)

人間にはやはりキャパがあるようです。
ながたのキャパはまだまだ小さい。

甲野先生がおっさってるのですが、
武術には「居つかぬこと」「準備をしないこと」がとてもとても大切だ、と。
それは生きること全般にそうであると思います。
言い換えれば「こだわらず」「その場でパッと」ですが、
まさにそこからしか生まれないいろいろ、(あるいはそれでしか避け得ない事態)
これこそが大切。
居ついてこだわって、小さな新しい芽を動きを捨てては、進歩がない。
準備万端で、できうることをできうるようにやってたのでは、進歩がない。

……てことで、「遊びに行こうぜ」と電話もらったら「おしゃー」と遊びに行ったのです。
そして呑みすぎ。

もう若くないわ……

しかしもちろん、非常に楽しかったので後悔なぞしてませぬ。
するとするなら次はにんにくのオイル焼きはヒトカケラまでにしようと(臭)
マッコリ(韓国の濁り酒・生酒でガスが出てる)も非常に美味しかったのですが、
「あかん、これあんま呑んだら本格的にケロロ軍曹だ」
と思ったので我慢しました。
もう少し手前で我慢すべきでした(泣)

そう、この辺の見切りの悪さ、つまり「居つきすぎ」が、反省点なのです。
朝まで呑んでたことは別によい。朝までFFだってできるんだし。ただ、
「わはーひさびさーアクセルぜんかーい」
と、「ここはこうでなきゃ!」とか、「今日はほら、久しぶりだから特別」とか、
それを毎日やっちゃいけない。
そりゃ単なる甘えです。

まあ、この辺の隙だらけ加減がながたらしい、といえばそれはそうなのですが。
というか今まではええそうでしたとも。
しかし、隙までもコントロールできるようになると、そりゃ強いんじゃないかなあ、と。
そこまで生きたいのよ。
オン・オフじゃなくて、ニュートラルから出し入れ。
そうそう、「隙をコントロールしたい」のではなくて、
「どんな場面でもニュートラル出したい」
という欲求なんですね。

キャパはある程度以上しょうがない面があって、
僕は鉄心さん(石渡流酒道大開祖・家元・そして師範)のように呑めるわけじゃない。
でも同じ6時間お酒を楽しむことは、考えてみればすごい簡単なわけです。
師範が1斗、僕がコップ1杯でいい。
それを、「僕も1升ぐらいは」と言い出すと、いろいろ問題が起きる。
欲こきすぎです。
まず集中すべきは宴席楽しむことで、酒量はどうでもいいんです。

キャパの小ささを嘆く前に、そのキャパをいかに使うか考える。
エコデフレ時代の新発想。

つかねー、もー30超えると限界が見えてるからねー、
しかも今さら「酒呑める量増やしたい」とか言い出したらアホですしねー、
シフト・ザ・考え方。ながたさんです。

まあ、酒席はそもそもそーゆーのをぜーんぶとっぱらうから楽しいんじゃん、
という本質的制約があるような気もするのですが、
楽しいからこそより楽しみたくも思ってみたりするのは、僕だけではないかなと。

ちょっと話戻すとやっぱりニュートラル出てると、いや、出せると、強い。
それは間違いない。
軸とかボーンとか、呼び方はなんでもいいんですけど、
それがあるからこそ「パッとやる」というのができるし、また、
「パッとやる」のをやっているならば、徐々に徐々に、ニュートラルが
形成されてくるような気もします。
そのフィードバックの繰り返しが、トータルでのその人間のキャパシティを増やしていく、
そんな気がします。

ただいつもの話ですが、「ニュートラル」ってほっとくと出ないんです。
(人によっては出てるかも知れませんが)
現代社会の都会生活で土からも水からも風からもお日様からも隔離され、
そしてヤヤコシイ、ヤリタクモナイことをいっぱいいっぱいやりながら、
会いたくもない人としたくもない会話を繰り広げていれば、
まるっきり出なくなる、と言ってもいいと思います。
だから、出す、という意識と実践は、どうしても必要なように思います。

よく「童心」と言われますが、僕なんざ自分でも覚えてるほど
えらいヤな子供でしたので、それで行くと意識ないぐらいまで行かないとダメです。
だし、子供だったら考えなくていいことも考えなきゃならん、
という現実はそこに横たわってるわけで、それから逃げるわけにもいかないし。
もっかい生まれ直した、ぐらいの感覚で……

---

ここ数日、「自分に足りないあと一つ」を探して悶々としています。
そうすると揺り戻しが来て
(揺り戻しが来たからそうなったのかもしれませんが)
呑み過ぎる有様です。

不調や失敗も成功への一里塚、かつまたいつもパーフェクトであるはずもない、
それは頭では理解していても、
「あれができたのにどうして今はできない」
そのイライラはかなり果てしなく、辛い。

結局はやっぱり、ステップを登ってはいないから、起きることです。
登ってしまえば、もうこんな辛い目カッコ悪い気持ちにはならないだろう、
と思うのですが、それははたして、いつの日なのか。

揺り戻しに対しても、どう対応していいかわからないのです。
例えば、肩が凝る。
するとまた、ファイテンのアレを巻こうか、と思う。
一度捨てたメソッドなのに。
後ろ向き。
でもでも、今の自分は一度捨てた時の自分ではない。
ならば、再チャレンジにはそれなりの意味があるのではないか、とも思う。
それは、前向き。

イチローがメジャーに挑戦するにあたって、
よく観察するとタイミングが日本のピッチャーとは違う。
では、と引っ張り出してきたバッティング・フォームは、振り子以前の、
オリックス二軍時代のものだったそうです。
そんなこともある。

そんな揺れ戻る日々になると、こう、歯痛もそうですが、
次々に続々「揺れ戻りイベント」が起きるんです。
地べたなところではFFやりたくなったりね。
正直キツイ。
「そっとしといてよ今いいとこなんだから!」
とか絶叫したくもなるのですが、それは一番良くなくて、
揺れ戻った少し昔、にどう対応できるか、いや、
どう対応するのか、
試されているような気がします。
いつもの小悪魔的女神様に(笑)

そんなチャンスだったのに、進歩もなく呑みすぎてべちゃっと崩れてたのが、
少し残念だったな、と、反省。
ただ、ノーウェイトで「あ、行く行く」と意識もせず言えた自分は居て、
まあ、そこの得点で今回は良しとするか、とか。
で、そういう時の酒宴はやっぱりめちゃめちゃ面白く、
まるっきり思いがけない人物と7-8年ぶりぐらいに再会できて、
だからまあ、いいじゃん、とも思ったり。

---

しかしまあ、火曜日などというケの日にんな電話寄こすのは
だいたい似たような職業についてる連中に決まっており、
そんなヤツだったんですけど、そしてどうせ読んでるからいうんですけど、
あんた女神様ですか(笑)

あれは、言おうと思えば誰にでも言える。
しようと思えば、誰にでもできる。
ほんとに、実に実に簡単なことなのです。
でも、それを本当に言い、本当にやれる人間は、滅多にいない。

感動して尊敬しました。
家帰って寝て起きてフト思ったんですけど、
神様や仏様が人の形をしてるのは、人だからです。
だから、私にもなれる、私でもできる。
神も仏も、仮想の理想のなにか、ではなくて、そういう人々、なんですね。
「ああ、俺もなりたい」と思いました。

我々のやってることは、やろうとしていることは、結局、
「そういう人になる」ことではないでしょうか。
ステージの上だけでも、文字の上だけでも。
そりゃできれば、いつも。

がんばりますか。


4/13 記録する本能

こないだね、ある結婚式(披露宴じゃなくて、式の方)で、驚いたんです。
新婦入場、が一つ序盤の華ですよね。
その時、新郎側新婦側両方から一斉に掲げられるデジカメ、ビデオ、
そしてそのフラッシュ。
なんの記者会見場かと見まごうばかりの閃光の嵐。

こういう光景って、今までありませんでしたよね。
そんな時は普通、拍手しながらただ見守るもので。
そういう「ここ一番」でカメラ持ってる人、って、
プロ、もしくは親類に一人はいるようなカメラマニアのお兄さん、
あるいは兄弟姉妹のような結婚式でのサーバント役。

少し前まで、「カメラで写真を撮る」という行為は(もちろんビデオもです)
一部趣味の人好きな人を除けば、単なる「記録」としての行為であって、
まあ言えばメンドクサイコト、だったわけです。
ところが、デジカメや携帯カメラ、特に後者が、
「カメラで写真を撮る」ことの敷居をがくーーーーーんと下げてしまった。
結果、とりあえずちょっとでも物珍しいことがあったら、すぐカメラが出てくる。
一億総林家ペーパー。

その光景を見て、一瞬、
「見ろよ! 花嫁さんを! 自分の目で!」
とか思ったんです。
だってあの小さな液晶モニタや光学ファインダーでわざわざ切り取って見なくても、
その場、現場に本物がいるわけじゃないですか。
写真を後で見るしかない人にはわからない情報をたくさん感じ取れる
特権的地位にいるのに、それを放棄する。
そんなもったいないこと、ありませんよね。
その素晴らしさを捨てて、後世への記録にいそしんでくれたり、
表現というフィルターを掛けることで芸術に挑戦したり、
それがプロや趣味人であるわけで。
一般人は目で見りゃいいじゃん、と。

僕、カメラそのものは大好きですし、写真も好きなんですけど、
そういうイベントの場になかなかカメラ持って行かないのは、結局そこなんです。
シャッターチャンス=一番いい場面
ですよね。
一番いい場面を自分の目で見ずにどうするよ、と。
天才・秋山真之だってバルチック艦隊を自分の目で睨みつけていたわけです。

しかしその、また、退場で新郎新婦二人揃って出て行くとなると、
顔とカメラが入れ替わったような、シュールな最新デジカメ・ケータイ展示場になって、
ふと、気づきました。

『あれは、その場によりコミットする(かかわりあう)行為なのかもしれない』

カメラ撮る、ってパッと出してカシャと撮る、それだけじゃないですよね。
まず、被写体をしっかり見つめる。
そしてフレーミングとか、ズームとか、タイミングとか、
「若干思考力に自信のない方でもどんな国籍の方でも簡単に撮れるカメラ」
でもそれぐらいは考える。
そしてシャッターを決断して、切る。
その、「見つめる」「考える」「決断する」という行為、これは、
ただ漫然と「眺め」、ただ漫然とキレーと「思い」、ただ漫然と脊髄反射拍手する、
そんなオートメーション化された反応よりも、
はるかに人間的で力強い反応、いや対応です。
「見ろよ」と思った僕よりも、デジカメな皆さんの方が、見てるかもしれません。

また、撮ってしまえば何度でも楽しめる、という、
結果的にトータルの楽しみ「量」が増える。
今ちょっと我慢すればあと楽しいよ、というのはこれがまた日本人の得意技。

ただ、それでも。
ただそれだったとして、ポーッと突っ立ってるよりははるかに積極的行動だったにしても、
大事な友人の晴れ姿を「まず記録」というのがどーにも解せません。
それが例えば、「おかあちゃんに写真撮ってこい言われてんねん」などという
マイホームキャッシュ購入間近パパの行動であれば、
「ああ、そりゃ友人なんかよりおかあちゃんの方が大事やからな」
と得心もいくのですが、とりたててそうでない方もたくさんおられる。

してみるとやはり、人間には「記録する」という本能があるのかもしれません。

しかもそれは、今まであまり意識されてないけれども、
かなり高次(低レベル、と言った方がいいのかな?)な本能かもしれませんね。
素人投稿雑誌なんかに「最中の写真」送るような人にとっては、性欲すらも凌駕してる。
いや、あれは記録欲で性欲をブーストしてるのかな。
とまれ、古来、「書記」というのは非常に重要な職能であったわけで、
そう、考えてみれば記録によって、人間はここまで進歩してきたわけで。

そもそも僕だって、毎日こんなもの書いてる。

文字やイメージ(絵とか)で記録する、のはかなり特殊訓練が必要です。
僕だって結婚式一つ、永久に残すからあまさず記録しろ、って言われたら
死ぬ気でやってもできるかどうかわからない。
でも、カメラならビデオなら、何百年後の人が見たって、老若男女や国籍を問わず、
一目でなにがどうなのか、理解できる。
こんなものすごいデバイスは無い。

その本能と、デジカメやカメラ付き携帯のような、撮影・管理コストをがくーんと
下げてくれるデバイスの登場がピタッとマッチしたのが、
あのフラッシュの放列だったのかも。
となれば、これからはあれが当たり前で、僕みたいなのは
「なにあのおじさんカメラも持たないで!
 結婚式なんだからもうちょっと真剣に出席して欲しいわね!」
なんて言われちゃうのかもしれません。

怖いなあ(泣)

まあそうなったら、
「ああ、あの人はライターさんだから。
 記録は、文字でする特殊な人なんだよ」
とでも説明してもらうことにしよう(泣)

「身体性」というキーワードを考えると、やっぱりちょっとおかしいわよ、
と私のゴーストが囁くのですが、
それって「新幹線は速すぎる、おかしい」って言うのと変わらないような
気もしたりするんです。
それともまた、やっぱり新幹線は速すぎるのでしょうか。
コミットするだけなら、最近あまり見かけなくなった、
「いきなり泣きながら黒田節を舞い出す花嫁のおじさん」みたいな方向性もあるわけで、
そない恥ずかしがらんでも、なんて思ってもみたり。

とりあえず、「カメラで撮っておけばよかった」と思うことが無いぐらい、
しっかり自分に記録、すなわち記憶したい。
それは、僕の目標。


4/12 「おもしろい」って、何!?

いくぶん疲れ気味ですので、本日はダラダラ雑感で。

●アソシエイト
↓のとおり、Amazonのアソシエイト登録してみました。
上のリンクや、リンクページ内のバナーからAmazonに飛んでいただいて、
そこでお買い物していただけますと、
わたくしがいつの間にかフェラーリに乗っているという寸法です。
ぐへへ。

いや、本の紹介するぞ→Amazonへリンクだ→どうせならアソシエろう、
という単純な思いつきです。
こういうのがお気に召さない方もおられるでしょうから、
その場合はご面倒ですがご自分のブックマークから、もしくはURL直接入力して、
あるいは紀伊国屋など別の書店をお使いください。
本義は本の紹介でございます。

●フェラーリといえば
大昔、BEKKOAMEがものすごい価格破壊で
個人のインターネット接続サービスへ殴り込みをかけた時に、
当たり前ですが加入者殺到、おかげさまでテレホタイム(これも懐かしい)など
これっぽっちも繋がらない、という悲惨な状況になったことがあります。
BEKKOAMEに問い合わせても
「いやNTTの回線増強が追いつかず」
の一点張りで、純真な私などは「そういわれればしょうがないな」と思ってたのですが、
よく考えればキャパオーバーして会員募ってる方が商売としては不誠実。
巨大席数のファミレス開店して、コックさん1人しか居ないようなものです。

Yahoo!BBの最初のように、今ならそういう、
「できもせんのに受付だけするのは不誠実」
という社会通念ができあがってますが、
当時はそんなこともみんなわかんなかったんです。

しかしあまりにもあまりにも繋がらなかったので、
大手、富士通、ソニー、NECあたりが参入してきたタイミングで超速乗り換えました。
(だからウチのページはwww2「a」っていう早い文字なんです)
ちょうどその頃、(ホントかウソか知りませんが)
「BEKKOAMEの社長がフェラーリに乗っている」
という噂を小耳に挟み、
かつ男の目からはどう考えても何の魅力もないトレンデー俳優が
(当時はこういう用語があったの!)
同じくヘラーリのGT、456に乗ってるのをワイドソーで目の当たりにして、
「ああ、やっぱりフェラーリに乗るにはなにかやましいことをせねばならぬようだ」
と見当違いの感想を持ちました。
まだミヒャエルが勝ちまくる前のことです。

懐かしい思い出です。

●もうひとつフェラーリといえば
612スカリエッティがデビューしまして、ちょうど3000万ぐらい。
日本人がメインデザイナー、と聞くからか、目触りがよくて個人的には好きです。
ただ、目の処理。
最近のフェラーリ全部あの、ランプ以外同色で塗って極力存在感消そう、
ってヤツですが、でも「ある」という事実は隠しようがないので、違和感あります。
諸要件からリトラがキツイ、というのはわかりますが、ならもう諦めて
マルチリフレクターでキラキラさせた方が表情がついていいように思うのですが。
他と一緒はイヤ、なのかな。

もうこういううねうねしたデザインって、普通のクルマでは許されないようです。
Cd値、堂々の0.335。
クラウンが0.27、メルセデス・Eが0.26のこの御時世に。
デフューザーついてるとかついてないとかそういう次元の問題じゃない。
悪だ、って言ってるわけではなくて、そんな非空力ボディを
5700V12で無理矢理走らせる、それを万人が認めてくれるメーカーは、
もはや世界にいくつあるか、って感慨だけです。
そのユーザー共々、幸せなメーカーです。

でも結構いいなあ。
ながたさん子供の頃からクーペ好き、生まれて初めて好きになったクルマは
近所にいつも停まっていた、真っ赤・白FRPルーフというとんでもなくバタ臭い
マツダ・コスモ・ロータリークーペ
というクーペ・エリート(笑)ですから、こうした
「非スポーツカーの大きいクーペ」に弱いのです。

でも、しょうがないといえばしょうがないのでしょうが、
最近のフェラーリもポルシェもあまりにも大きすぎ、
たとえ庭から石油が出ても買うかと言われると小首を傾げます。
もすこし、ちっちゃいのを。

でも最近のクルマってどれも大きくなってて、
●マツダのネスカフェ・アクセラ
といえば「ファミリア後継」って頭がありますから、
ちっこいクルマだろ〜、と思ってたんです。
で、街を歩いてるとUFO戦士みたいなペチャッとしたカッコイイのが停まってる。
「むむ?」
とよく見ればアクセラの4ドア。

でか!

調べてみれば堂々の4540*1745*1465(4ドア23S)、
エグザンティアより大きい。
そりゃ2300も載るわ、って感じです。てかこんなクルマに1500なんか載せなさんな。
あ、でもウェイトは1260か。
まあ、1500でもなんとかなるギリギリですかね。アンダーパワーは間違いないですけど。
ベストバランスは2000かなあ。
この車重で最新の2000のエンジンなら、結構スポーチーなのではないかなと想像。
ところが2000には5MTが無いんですよね。
売れないのはわかるのですが、輸出で・しかも同じ工場でMTをガンガン作るわけですから、
受注でも設定だけはしておいて欲しいかも。
そういう設定をすることによるロス、ってそんなに大きいのかな?

このクルマ、実はティーザーキャンペーン始まったあたりから
すごく気になってて、で、実車見て割と真面目に「いいかも」と思ってます。
5ドアももちろんですが、4ドアがいい。
トレッド広くておしり切ってるので、タイヤがパンッ、と張って
めちゃめちゃスポーティなんです。
写真より実車の方がいいです。
目の付き方とか、セダンのトランクのハイデッキっぷりとか、
かなり大胆です。

作りも非常に真面目です。
もともとマツダは「真面目なんだけど力はちょっと足りない」という感じだったんですが、
今回はフォードのカネとボルボのクチバシも入ってますから、
その「なんとなく物足りない」感がずいぶん無くて、力強い。
たとえば、欧州ではこれはモロにゴルフ5やプジョー307とぶつかるわけですが、
全然負けてないですよね。
というかむしろデザインなら勝ってる。
欧州でヒットして、逆輸入的に「アクセラっていいらしいぜ」と日本市場でも
売れてもらいたいクルマです。
だってほら、今ステアリングにテレスコついてるクルマなんて
500万ぐらい出さないと買えないですよ?
真面目です。

#R32スカイラインについててR33で綺麗サッパリ廃止されたテレスコピック機構、
#というのはステアリングの前後調節機構です。
#チルトよりはるかにドラポジ合わせに効きます。
#特に腕が長い・短い、脚が長い・短いという体型特徴のある人間には非常にありがたい。

欧州でのネーミングもカッコイイですよ。ただ、
「マツダ3」。
アテンザがマツダ6、デミオがマツダ2だそうです。
BMWよりもさらに思い切ってていいですよね。
アメリカ人がよく、クルマをメーカー名で指し示すじゃないですか。
「君のホンダの調子はどうだい?」
みたいに。
あんな感じで、非常にメーカー、つまり作り手とユーザー、使い手の距離が小さい、
いい名だと思います。

「そんな簡単じゃないよ」と言われるのを承知で素人の暴論を吐きますと、
イメージリーダーとして、ゴルフのVR6のように、ぜひ、ロータリーを。
ファミリアにもあったんだから。
500台限定のコーチワーク・カーでいいと思いますが、
盛り上がると思いますよ〜。
それかもうちょい状況が立て直ったら、またWRCに。
この5ドアにフルタイム4駆ターボは非常に似合いそうです。

3000万の612は非現実ですが、200万のアクセラは現実です。
現実で夢が見れる、っていうのは、非常に素敵なことだと思います。
僕なら4ドアの2300・5MT、
希望ナンバーで「3」か、ちょっと郷愁こみで「323」、
いややはりここはロータリーでなくともマツダ栄光のナンバー「787」か。
色はもちろん、ベロシティレッドマイカ。
ファミリアといえば、ファミリアじゃないけど、赤です。

もひとつクルマの話題になりますが、先日街を歩いてて、はるか前方に
●純白のスポーツ・セダン
がハザード出して停まってる。遠目からでもやたらカッコイイ。
「なんだなんだ?メルセデスの新しいチューナーでも上陸したのか?」
なんて思って近づいてよく見ると、
クラウン。
もちろん、どノーマルのロイヤルサルーン。

12代目やっぱりカッコイイです……

FRのカッコヨサ、ってあの頭を下げ腰を上げ、今にも獲物に飛びかからんとするような
「前傾姿勢」
だと思うのですが、今度のクラウンはクラウンにも関わらずその姿勢なんです。
FRの名車を斜め前から撮ったショット思い出してください。
E30のM3、190Eの2.5-16、R32のGT-R(ベースFR)……
BMWだって7とかはそんな姿勢とらないですよ。
同じトヨタでも、セルシオもマーク2もとってない。

ほんでまたあの、トヨタ必殺のスーパーホワイト2。
目が潰れるような純白ですよ。
都市景観とのマッチングとか、時代をリードする提案性とか、カラーセラピーとか、
そんなくだらないイイワケはナッシング、
ただ、ただ、まっちろ。
そう、あれは、「花嫁の白」なんです。
私が主役。
有無を言わせない。異議は却下。
あるいはまた正義の味方カラー。
健・マツダイラ・オブ・アバレンヴォーが駆る白馬。
ガンダムは連邦の白い奴。
そして宮内洋はビッグ1。
「おろしたてみたいだね」洗濯機で糊付けニューキーピング、
あれに日本人はひっじょ〜に弱い。
僕も弱い。
トヨタの意地というか、日本人の白への執念の結集した色ではないかと。

あれ買うならあの白かな。
パール系の白特色、って各社各車よく設定されてるんですが、
あれはちょっと汚れるとパンツみたいな色になって凄いきちゃない……
と思うのはわたしだけすか?
でも黒もカッコイイんだな、今回は。
ロイヤルの黒にアイボリー革内装、なんてどこの矢沢永吉ですか、
ってぐらい不良中年ですよ。
きっちり40代取れると思います。50代は当然ですし、ウチら30代前半でも
色選べばギリギリいけそう。
もうね、E320とかそんなん乗ってる場合じゃない。
んなカム1本しか無いようなクルマ。
まして同価格なら好き嫌いも言えますが、
鼻水出るほどお値段の差があるじゃないですか。530iとかもそうですけど。
3リッターロイヤルたった400万ですよ。半額までいきませんけど6掛けぐらいです。
ブランド、ってそういうもんじゃない、っつっても、クラウンも日本一の老舗ブランドなわけで。

今、クラウンを買える環境にある人は幸せです。
これで世界一悔しいのがたぶん、セルシオに乗ってる人で、
「あんだよあっちの方がカッコイイじゃないか!!」
って感じ。
もう、「えんじんが1300おおきい」ってなどうでもいいところに慰めを見いだすしかない。
アメリカだったら訴訟起きかねないぐらいのユーザーへの裏切り行為です(笑)
マジェも楽しみですが、いやもう、
「R33を待った人々の悲劇」
を繰り返さないためにも、「いい!」と思ったら即買いで。

私が買えるなら?
内外装は間違いなくロイヤル。
だってあーた、「ロイヤルサルーン」ですよ?
ロイヤルっつーとロイヤルホストのロイヤルですよ?
つまり「王室御用達特別客車」。
こんなものに平民の我々が乗れちゃうわけだから!
民主主義万歳。
エンジンは3000。ここでケチっても意味無し。
Gの無意味に豪華な装備にも心惹かれないわけではないですが、
70万は大きいので、Gでない方かな。
ロイヤルとアスリートでどれほど足が違うかわかりませんが、
そもそもかっ飛ばすなら別のクルマ選んだ方がいいですから、
ロイヤルでいきましょう。
色は……スーパーホワイト2とブラックで、実車引っ張ってこさせるぐらい悩むかな。
ホワイトならグレー布のままでも可、ただしブラックなら躊躇無く革内装選択して
アイボリー。

でも、「クラウン」と聞くと、革よりもあのモケモケ内装なんですよね。
(今回はモケットではなく織物ですが)
どぎついエンジとかああいうエグイ色の。
90カローラにも使ってましたね。
当時は「エグッ」と思いましたが、今となっては懐かしい。
白や黒に特色で戻ってこないかな(笑)

……しかし「4ドアセダンを知らぬ男」と畏れられ、
購入5台いずれもセダンではないこの私も、
こうした4ドアが気になるお年頃になってまいりました。
人は変わりゆくものです。

--------------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------------

と、たらんかたらんか書いてきました。
気がつけば、たくさん。

ごく最近、どう「ほえなが」を書いていいか見失うことが多いんです。

ちょうど端境期で、新メソッドはまだ見えず、
旧メソッドは弱点が見えすぎてて使うのが辛く。
今日のはもう、よくお読みいただいてる皆様ならおわかりのとおり、
旧メソッドそのままです。
こんなもんならいくらでも書ける。
24時間でも書ける。

で、これだと、今は、満足できないんです。
こんなもん書いててもしょうがないんです。
書けるものを、書いていても。

当たり前ですよね、練習ってのはできないことをやれるようになる作業で。
(忘れないように整えるのは調整)

ほんの小さなことでいい、
できないこと、やったことがないことを、やる。
その要素が無ければ。
工夫、成長、挑戦、なんと言い換えてもいいんですけど、それがなくては。

テーマがどう、とかじゃなくて、
同じクラウンの話書くのでも、もっともっと面白く書けるはず、なんです。
調子の良し悪しとか、当たりはずれとか、気迫とか、
そんなんでもない。
もちろん、それらの要素も密接に関わってくるんですが、
気合い入ってればいいのが書けるわけではないし、
馴れたテーマだから飽きてるってことでもない。

なんか、もうちょい違うところにあるんです。

上でも紹介してますが、M・ポランニー先生の「暗黙知の次元」で、
「ある上位構造は下位構造の諸要素からは導かれない」
という事実(と思われる)がありました。
すなわち、「単語」の構造をいかに熟知していても、「文章」は作れない。
「文章」をいかに上手く作れても、「作品」は作れない。

今はこころの中に、ちょうどその、上位構造を把握できる元になる、
ガス雲みたいなのがあるんです。
でも、ピタッと把握はできてない。
だから意識して書く場合、
従前の、下位構造に張り付いた今までのやり方で、ほえほえ書くしかない。
ただ、時折、ピントが合いそうになる時間があります。
その時には、今までではないやり方が「自動的に」動く。
そう、こういう時はまさに「身体が勝手に書いてくれる」状態なんです。
あんまり考えてない。
(ノリってのとはちょっと違います。
 ノってる、っていうのは現有技術を100%使い切ってる感じ)

つまり、意識しなければならないのは、
文章そのものに張り付いた小メソッド群ではなくて、
「その状態を作り出すこと」
そのものなんです。
で、そのための方法論は、今はまだ、無い。
ただ時折、偶然にしろなんにしろ、それが出る、時がある。
なら、「どうしてそれが出るのか」を見つけることができるはずだ。

その「コツ」、絵の「流乃アゴ」のようなそれを見つけそれを固定化して、
(固定化すると、上限が確定されるので、一旦そこで止まります。
 ただ、それは今のパフォーマンスからすれば全くはるか上空なので、
 次はまたその上限付近で悩めばいいことです)
自在に使いこなしたい。

ところなのですが……

うーん、なんかいいところまで行ったんだけど
波の揺り戻しが来て陸地が遠ざかった感じ。
いつか上陸できるのだろうか。
いや、波があっても、陸地に向かって泳いでいれば、
いつかは着きますよね。
よね?

---

そういえば。
いつもお世話になってる御大は測量の仕事をされているのですが、
基準点の上に機械を据える時に、三脚使うんです。
で、その三脚の上の台に測量器械載せますから、水平にする。
でこぼこの地面で、三本の脚の長さを調節して、その水平を出します。

普通、その水平面に着いてる水準器を見て調節します。
あの、水みたいなところに気泡が一つ入ってて、それを円の中心に持ってくる、
洗濯機にもついてるアレです。
結構難しいですよ。
三脚なんてそんな豪華なもんじゃなくてすごくプリミティブですから、
ネジ緩めて脚伸ばして、またネジ締めるだけ。
電動で「ちょい上」とか、そんな微妙な調節なんかできないんです。
これを、測量に従事する専門家なら、毎日何十回とやります。
時間掛けてられないから、できるだけ手早く。

すると、この道何十年のヴェテランになると、
「一発で決める」
ようになるんですよ。
どこのセンサーが働いてるのかわかりませんけど、
脚伸ばしてトン、と置いて、ひどい時にはもう決まってる。
そこまでいかなくても、ネジ緩め1か所とかでスポッと決めちゃう。
そうそう、「基準点真上に機械を置かねばならない」というシバリもあるんですけど、
これは水平面上であれば据え付ける位置はちょっとだけ余裕あるので、
後決めできる余地がある。
でも名人は、その要素も含めてポン、と置いて決めてしまう。

あきらかに、なんかわけのわからん統合能力になってるわけです。

そういや、例えば我々だって自転車乗るわけですが、
あれすごい高度な乗り物ですよね。
かなり練習した。
でもあれって、コツはたぶん一か所で、
「倒れそうになると前輪が倒れる方向へ切れて立て直す力出るので、こねない」
ぐらいのところだと思うんですが、
それが身体が覚えてしまえば、なんの意識もなく乗れる。
あれを
「身体で左右バランスとりながら、脚を高速で回転させ、腕でハンドル操作する」
と考えると凄まじく難しい乗り物です。
実際、今でも一個一個考えながら乗ろうと思ったら、乗れたもんじゃないですよ。
でも、乗れてしまえば全然そんなことない。
酔っぱらってても大丈夫。
これもまた、程度はシンプルですが統合能力のひとつ。

でも、やっぱり、その統合能力も、最初から得られてるわけではない。
上の例では、御大は「スッとやる」といつもおっしゃってます。
でも素人がスッとやっても、なにも問題は解決しない。
でもでも、上手いからスッとやって決まる、という「結果」としてスッと、ではなくて、
「スッとやる」こと自体がこの能力を発揮させてることも事実で、
自転車は、何も考えずに乗る方がいいのです。

このハードルを、いつ、どう突破するのか。

ひとつ、
「方向性を明確にする」
というのはヒントかもしれません。
自転車なら「こけずに前に進む」、測量機器なら「基準点真上水平」
という目標がハッキリしている。
ところが我々の、文章などというものは一体どこを向けばいいのか、
さっぱりわからない。

「おもしろい」。
「おもしろい」って、なんです!?

そこから始めなければならないのかな?
とりあえず自分の思う「おもしろい」それが自分の目指す方向。
他者との関係性は、そのあとですかね。
それだと独りよがりな可能性がある気がするのですが、
まあ、幾分はそれもしょうがない、のかな。
とりあえずどこ行っていいかわからない時に、
「いやそっち行ったら危ないかもしれないから」
とか言ってる場合じゃないですよね。
まず歩けと。

ふ〜む。

……はい、今日も恥ずかしい告白コーナーになってまいりました(泣)

ながた二等兵、「自分の面白い」もよくわかっておりませんッ!

……こうして考えてくると
「よくあなた他人様に読んでもらおうなんて思ってましたね」
っていうぐらい何も考えずに書いてましたね。

ずみばぜん。
ほんとずびばぜん。

でもあの、いつもと同じイイワケですけど、
それでも最終的には、「自分で面白い」と思えるものになるまでは
頑張ってきたつもりですので、まあその、あの、あの……

もうすこしかかりそうですねえ(泣)

でもこう、毎日のように、
「これが足りなかった」と気づくこと、
「こんなにアホだった」と識ること、
それはすごく嬉しいことなのです。
問題点がわかれば、いつか解決法も見えてくる。

またあしたも、がんばります。

-------

そういえば
●ADSLが突然回復しました。

何もしてなければ変わったこともないのですが、いきなり繋がりました。
速度も以前同様、いやむしろ速いぐらい。
なんだったんだろう……
光ファイバーはキャンセルする予定です。

しかしこの2週間半の(ほぼ)ノーネット、すごくありがたかったです。
まずどれほど依存してたか、どれほど無駄な使い方してたか、思い知りました。
それと、やっぱり情報は入手するだけじゃダメで、
それを自分なりに消化・昇華させていかなければ、文字通り消化不良を起こします。
ひさびさに頭を使いました。
これは忘れてはなりません。
これからはもう少しキッチリ、「使う」という意識持って、漬かりすぎないようにします。
何と言ってももう手放せない「道具」であることは、確かです。

こんな機会を与えてくれた、いつもの小悪魔的な女神様(ちょいつり目)に、感謝。

そうそう、
●表紙のマキ
ですが、4/9の絵描いてから彼女の肌が褐色であることに気づいて、
肌だけ塗り直しました(泣)
肌塗ってから服の色決めつつ塗ってくので、
こういうことすると本人的には微妙にオカシイのですが、
まあ、いいや、って(泣)

e加減、というのもひとつ、たいせつな要素ではないか、と思います。
「テキトー」って意味も「適切」って意味も、
要は力配分を示しているようです。
無理は無駄を生む。

なちゅらる、なちゅらる。


4/11 Books

本日は3月から4/10までに読んだ本をずらずら列挙してみます。
(先頭の■□がAmazonへのリンクです)

いちおう、自分的にまるっきりダメだったものは掲載しません。
特に一般的におすすめできそうなものにはひとこと入れます。

---

■本■

「ホーキング、未来を語る」 スティーヴン・ホーキング (アーティストハウス)

「強く生きる言葉」 岡本太郎 (イースト・プレス)

「自分の中に毒を持て」 岡本太郎 (青春文庫)

 ・「若い」あなたへ。

「武術の新・人間学」 甲野善紀 (PHP文庫)

「古武術からの発想」 甲野善紀 (PHP文庫)

 ・甲野先生える・おー・う゛い・いー。

「整体入門」 野口晴哉 (ちくま文庫)

「アルケミスト―夢を旅した少年」 パウロ・コエーリョ (角川文庫)

「今日の芸術―時代を創造するものは誰か」 岡本太郎 (知恵の森文庫)

「至高体験―自己実現のための心理学」 コリン・ウィルソン (河出文庫)

「巨頭会談」 ビートたけし(対談集) (新潮社)

「生命エネルギーを高める西野流呼吸法」 西野皓三 (知的生きかた文庫)

「マザーネイチャーズ・トーク」 立花隆 (新潮文庫)

 ・あ、これは普通におすすめです。ちょっと古いですけど、日本のエースが揃い踏み。

「生命の意味論」 多田富雄 (新潮社)

「キャッチボール―Ichiro meets you」 イチロー×糸井重里 (ぴあ)

「「奇跡」のトレーニング」 小山裕史 

「1mウォーキング・ダイエット」 デューク更家 (講談社の実用Book)

「「体を温める」と病気は必ず治る」 石原結實 (三笠書房)

 ・HGT(蜂蜜生姜紅茶)、愛飲中。

「暗黙知の次元」 マイケル・ポランニー (ちくま学芸文庫)

 ・哲学書なのでガチガチの歯ごたえですが、なんとなく面白いです。

□CD□

クイーン 「ジュエルズ」

 ・最高。いい音楽にジャンルの垣根は、無い。

クイーン 「グレイテスト・ヒッツV」

---

月末ごとにズラズラッと並べ……られるといいなあ(泣)
入力→思考→出力のサイクルを上手く回したいものです。
智慧の狩り、智慧の狩り。


4/10 好きと向き

「好き嫌い」と「合ってる合ってない」って別ですよね。

僕は苛烈なまでにここが乖離してる人で、
子供の頃からずっと悩んでたんです。
どうして好きなことは上手くできず、
上手くできることは好きでもなんでもないことなのだろう、と。

で、今朝フト気がつきました。
そりゃもう恋と同じ。
「自分に無いから好きになる」んです。
だから当然、合ってない。

わかってみればあったりまえのことでした。
最近、自分がアホウなのではないかと本気で心配してます。

---

こないだも、部屋の模様替えしてて、
たまたまオイルヒーターを椅子の真後ろ持って行ってて、
で、薄ら寒くなったので、ぽち、と点けてみた。
するとめちゃめちゃ暖かい。
あたりまえですわな。直近ですからな。
でも、僕は、「オイルヒーターは対流を用いて部屋全体を温めるもの」という
固定観念に囚われてて、ずっと離れた場所に置いてました。
温度があまり上がらないオイルヒーターこそ、
身体の間近に置いても全く問題のない暖房器具だというのに。

最近、ほんと、こんなことばっかりなんです。
そこに「気づく」っていうのはいいことだと思うんですけど、
どうして気づいてなかったんだ、って考えると実に情けない。

---

さて「好き嫌い」「合ってる合ってない」ですが、
そう考えるとクルマとか失敗(とは言い切れない、「チャレンジ」かな)ばかりです。
自分に合ってないのばっか買って、でまた買い換えて。
今のエグはたまたま、「好き」と「合ってる」がかなりの範囲で被ってくれてたから、
買い換えずに済んでるだけです。

チャレンジ精神というとカッコイイんですけど、
それ、やらんでもええチャレンジですよね。
自分に合ってるゾーンでも、やれるチャレンジはいくらでもある。
ノートPCなんかは逆に、「道具」だから、合わないものは絶対買わないんです。
でも、時折、「使ってみれば新しい領域が拓けるかも」とチャレンジに出る。
VAIOUとかそうでした。
それは失敗に終わっても、リスク管理してるから痛くなくて、
逆に経験という血肉になるんですね。
そういうこともちゃんとできるわけで、
もう、合わないものなんか買う必要ない。

する必要もない。

「お!それいいね!」とハートムーヴしないものはもういいや。
だってムーヴしてるものカヴァーするだけでもすごいエネルギーと時間を
使っちゃってるのに、それ以外なんて無理です、無理。
NOと言うながたさんです。
あ、ごめんフランス生まれだからニエットと言うながたさん。

合ってないことをしない、と、合ってることをする、というのは、
実にこのように密着してまして、
「それは別にいいや……」と思ったのなら、なら、何ならいいのか。
ノンから始まる恋物語もあるわけです。
じゃどうすればデートに行ってくれるの?
そうね、まずハゲを治して?
治しますともシャンプーを換えて(号泣)

それは、ノンなのにダラダラコミットした時よりも、
はるかに行動の地平が拡がるんです。
新しい領域に足を踏み入れる。
だから、ノンも見ようによってはウィ。
そこにヒントがある。
一番どうしようもないのが、ノンでもウィでもないことに、
タイトに過ぎる貴重な人生リソースを費やすことでしょう。
それは避けなきゃ。

もう一つ、「好き嫌い」と「合う合わない」を丁寧に見ていきたい理由。

僕の文章ってこってりたっぷりじゃないですか。
だから「あっさり」とか「しっとり」とかに憧れるんですけど、
憧れてもしょうがなくて、どうせできない。
やるべきこと、目指すべきものは「美味いこってり」であって。
そこで「あっさりが好きだから……」って言い出して描き出すと、
これはすごいマズイわけですね。
そこはバッチリ分けておかないと。
そして、よそのこってりも、同族嫌悪みたいな狭い心もたずに、
どんどん味わってみていいとこ盗んだり、参考にしてみたり。

はい。
今日も切ない告白コーナー。
いままで「好き嫌い」と「合う合わない」=「得手不得手」、
グチャグチャでございました(泣)
さすがに身体が拒否するので、あまりに合わないものは
書いてないつもりなんですが……ですが……
そこすら自信ない(泣)
その時の気分にはもう戻れませんからねえ。
また、本人の気分とファイナルクオリティは、
これがまた幸か不幸か全く関係がないもの、と相場が決まってまして。

ただやはり、不得手で無理するよりは、本田宗一郎オヤジさんのおっしゃるように、
「得手に帆上げて」の方が楽で楽しくて効率もいいわけで。

得手を見つける、なんてものすごい変な感じの日本語ですが、
今までの僕はそうだったんです。
だから、アホウではないかと心配してるって言ってるじゃないですか(泣)

---

考えてみれば、「好き」が「向き」と乖離してる、というのは、
若い(あるいは幼い)証拠なのかもしれません。
青い鳥はそこにいる。
ネズミの婿さんはネズミ。
しかしそこで自分に自信ができてきたり、自分を大切にする気持ちが増してくれば、
「向き」が「好き」になってくるような気がします。
また逆に、「向き」をよく見て、あるいは「好き」をホントにそうか?とよく考えれば、
結果的に自分を大事に育てることになる。
僕の場合で言えばノートPCみたいに、いつも「向き」なモノが助けてくれてる。

「憧れ」と「愛情」の違いとか。
いくらでもなんにでも憧れればいいのですが、
愛を傾け大切にしなければならないものと、それとは、別。

やっぱり、メーテルとは結婚できないんです。
シャンプー代かかってしゃーない。

それがまた、「身の丈」っていう言葉かもしれません。
長いもあれば短いもある。自分にフィットしたモノ・コトを。
探しつつ、やりつつ、見極めつつ。

一つヒントは、やっぱり「やっててここちよいかどうか」なんでしょうね。
でもそのセンサーって、センサー自身がセンシティブで、よく麻痺してたりします。
常識とか、因習とか、義務とか、経験とかで。
そこにも気をつけながら、楽しくいきたいもの。

そう思うと、「こんなこと気づかなかったなんて俺、アホウか!?」ってことが
あればあるほど、センサーが生きてる証拠。
取り立てて心配することはない、と自分に言い聞かせ、
さらに・できるだけ・アホウ度を増していきたい、と思うのです。

なちゅらる、なちゅらる。


4/9 発火点

どこまで表現しきれるかわかりませんが、
いつもの話をまたひとつ。
あくまで個人的な話ですが、いつかどこかでご参考になれば。
ものっそ低いレベルの話ですので、笑いたければ笑ってくれい(泣)

今トップ飾ってる流乃の絵
あれは僕にとっては画期的な絵なんです。

どこが画期的かといいますと、耳の下のアゴのライン。
見ていただきますとおわかりになるとおり、
途中で折れてアゴの先端へと向かってますよね。

これが、わからなかったんです。
ずっと。
ずっとずっと。

死ぬほどお恥ずかしいのですが、これはもうこれから絵を描こうとする方のため、
いや人類のために、昔どういう絵を描いてたか、一番酷い絵を。
2002年の年賀状、今から2年4ヶ月前の絵です。
これ
耳のあたり見てください。
無茶苦茶でしょう? なんじゃこりゃって感じ。
頭蓋骨なんて想像もできませんよね。
これ見てから、上の流乃の絵見直してください。
ちょっと前髪とかおかしいですけど、ずっとマシですよね。

ここがわかったことで、頭の骨格、つまり頭蓋骨がバッチリ決まったんです。
頭蓋骨を立体的に把握できるようになって、それに伴って、
その上にあるパーツの位置や向きが把握できた。
目の位置、眉の位置、鼻の位置、口の位置、その向きやサイズ。
それから髪のつき方と流れ方。
そして頭が決まると、首のつく位置が決まります。
頭蓋骨のサイズがきっちり決まってると、首の長さも。
そこから逆算して、上半身の体幹ボックスのおおよそのサイズと、つき方。
ここからはさせたいポーズ次第で、
それが決まると、肩から上腕部のつき方。
上腕部が決まれば下腕、手首、手のひら、指。
戻って下がって、おなか。
おなかから腰、ふとももパーツ、ひざ、ふくらはぎとスネ、足首、足。
で、完成です。

つまり、アゴのラインが変わった、ただそれだけで、
耳が目と水平のあるべき位置にぴしゃりと決まり、
よって頭蓋骨が立体として(自分自身に)ばっちり把握されて、
さらにそれを元に、身体全部が立体として把握できるようになったんです。
身体が決まれば、服とかもかなり楽になります。
服を服として捉えてるとキリがないですが、
身体を包む布、と捉えると、どこにどうあるべきか、がおおよそわかる。
ポーズもそうで、そりゃ正確なものは筋肉や骨格をちゃんと学ばないとダメですが、
でも、おおよその各部の長さや関節の感じ、
それが空間のどこにあるか読めてくるので、
よっぽどヨガなポーズでない限り、ポーズ集めくらなくても対応できる。
すっごい描くのが楽になりました。

今までにも稀に、単なる偶然で、あるいは角度とか髪型とかでゴマカシが効いて、
耳の位置が決まった絵があるんです。
たとえばこないだまで貼ってましたこの可憐
今見れば首の位置が明らかにおかしいんですが、(前につきすぎ)
でも全体としてはそこそこちゃんとできてる。
頭が決まってるから、身体が決まってるんです。
いいかげんなりに、本人的に(無意識にも)納得しながら描いてるから、
説得力がある。

でもほんと、この一点。
この一点だけが長らく理解できなくて。
で、絵の腕がさっぱりあがらなくて、どうしていいものやらまるでわからなくて、
やっぱり裸婦デッサンからやらないとダメなのか、と思ってみたり、
でも、絵を描く方なら皆さんご存じのとおり、
他人のイラストはもちろんですが、写真もダメなんです。
すごい嘘だらけ(あたりまえです、それが表現ですから)で、
それをトレースしても、まるで役に立たないんです。
「どないしたもんかいなー」と泣きながら思っていました。
なんのことはない、たったそれだけ。

やはり、進化というのはステップ状に起こります。
バラバラだった小さなネットワークや要素要素が結びつく、
たった一つの発火がどこかで起きる、
その瞬間、巨大ネットワークがいきなり完成して、動き出す。
じわじわじわじわ手を伸ばして拡大していくイメージじゃないんです。
そのたった一つの発火、それ自体はそんなものすごいコツでも宇宙の真理でも
なんでもなくて、ただ、その人にとって「欠落してる一点」なんですね。
でも、それが欠けていることで、全ネットワークが死んでる。
もしくはまるでレベルの低い機能でしか働かない。

もちろん何回かやってますよ、リアルな絵や写真の頭の部分の写生とか。
でも、それを自分の絵に落とす時に、結びついてこなかった。
その流乃の絵でアゴのラインの折れを発見したのも、単なる偶然。
いつもどおりヘロヘロ描いてて、きゅっ、とアゴのライン跳ね上げてみた。
もうほんと、手の向くまま、って感じです。
意図もなにもない。
ところがそこで、「おや?」と思う。
目とか鼻とか入れていくと、ズバズバ決まる。
「おお!?」てなもので、どうしてこんな快調に行くのかよくよく眺めながら考えてみれば、
どうやら頭の形が立体として把握できてるらしい。
「なるほど!」。
でも、あの絵は胸元で切れてるので、そこで満足しちゃって、
注意はバックの文字とかあっちへ行っちゃったんですね。

で、次に描いたのはモデム。
髪型上耳見えてませんけど、もちろん忘れてなくて、意識して描きました。
すると、身体がすごく描きやすい。
あんなポーズ描いたことないんですけど、特に違和感なくゴマカシが効いた。
おお、と。

そして数日。
ここからいつもどおりニューエイジ入るんですけど、
書店へ行った折り、「テニスマガジン」の今月号が目に止まったんです。
表紙が今をときめくダニエラ・ハンチュコワ。
股上の短いジーンズ履いて腰骨丸見え、ベラボウにエロいんだこれが。
ちくしょーと思いながらその表紙のためだけに出しましたとも700円。
書物は一期一会です。

そしてまた数日。
昨日、いつもどおりほえながっておりますと、なんだかみょ〜に調子悪い。
ここんとこずっと快調に飛ばしてきたので、なんとかしようともがいたんですけど、
ダメ。
ヤケになって、
「ああもう、ヤメだヤメだ、今日はハンちゅをモデルになんか絵でも描く!」
と思い、
「じゃ、こんな派手なカッコとなるとマキあたりかな」
と、思って描き出したわけです。
もちろん、ポイントは「腰骨出したジーンズ姿」ですから、
意識して全身描こうとしたわけですね。
できるだけアクティブなポーズつけて。
そして当然、顔の描き方は、流乃と同じです。

するとこれが今まで考えられなかったぐらい描きやすい。
ずばばばばば〜〜〜っと瞬く間に、
描いたこともない大見得ポーズが描けたんです。
自分で「ひええ」とか驚きました(笑)

これ。
さっきのキャプテンと見比べてください。
どこで拾ったモノリス使ったんですか、っていうぐらい見映えいいでしょ?
というか、「安心して見てられる絵」ですよね。
……そうでもない?(泣)

目の描き方とかもいつも迷ってて、決まった描き方なんか無かったんですけど、
こうして描いてみれば、もう「こう描くしかないな」みたいな描き方が見えてきました。
まつげのつけ方とか、鼻のつけ方とか、全部そうです。
とにかく小さな「ここどうしよう」と思ってたいろいろが、
バタバタバタバタ〜〜〜と決まった。

そこで、あのアゴのラインがもたらしたものがなにか、わかったんです。
たぶん、空間における立体の把握、そのコツを掴んだ。
だから上手い人が各パーツ細かく見れば嘘だらけ間違いだらけだと思うんですが、
(右の二の腕が長すぎるとか……)
本人的には非常に納得いってるんです。

きっと誰かが描かせてくれた(笑)
きっといつもの、やきもち焼きの小悪魔的な女神様(ちょいつり目)に違いない。
そう、流乃みたいな。
あの気分の悪さは、「今描いて吐き出せ」という身体の訴えかもしれません。
そうして振り返ると、あの流乃のアゴ、あれも偶然ではなくて
身体が、手が、勝手に教えてくれたものなのかもしれません。
「いい加減気づけよ、こうだろ、こう!」

ま、そりゃどっちでもよくて、描けた、ってのが大事で。

で、ここまで来て初めてスタート、って感じで、
本当はここから、たぶん、
・現物をよく観察・研究して、各パーツの割合を追い込む。
 割合だけ合ってれば少々誇張されてても違和感はないものです。
 非常に上手い人がとんでもない巨乳のキャラ描いても違和感無いのは、それ。
・骨格と筋肉の付き方と可動域をよく学習して、無理はさせず、でも大胆に。
 箱並べていく作戦である程度はいけるんですが、
 それ以上は例えば肩が前へ出たらどう見えるのか、とか、
 それでは追いつけない領域になると思います。
・脂肪の付き方でどこに丸みがでるか。
・陰はどうつくか。
といったあたりを攻めていくと、腕はあがるだろう、と思います。
そこから苦手な光と色……
さらに苦手な背景とかテクスチャとかそんなん……
しかし苦手だからといってグラベル走らないとWRCは戦えない……

それと全く並行して、「表現力」という要素があるわけです。
なにをどう描いて、どう訴えるか。
これは、幸か不幸か、画力とは関連性ゼロです。

しかし自信、というのはすごく大切な要素で、
「もちろん完璧じゃないけど、ある程度の説得力はあるよ」
と自分で言える、というのは非常に大きい。
表現力にしても、自信なければ沸いてきません。
持て、って言われても、意識して持つものじゃないですからね、自信ってヤツは。
でもほんと、ようやくスタートラインに立てた、という感じが自分でして、
思わずビール買いに行ってしまいました。

うれしい。

ゴルフでも歌でも、「レッスンプロ」という人々がおられます。
別にツアーで連勝するとかヒットソング連発とかでもない人の元に、
何勝もしてるプロや、ヒット曲多数の歌手が集う。
なぜか、というと、そういう人々は、こういう目を持ってるんです。
「あ、ながたさん、そのアゴのライン、途中で折ってみると辻褄が合うよ」
この一点にあたしゃ何年悩んだか。
いや、そもそもそこが問題だと、問題が解決してから理解したぐらいで。
この一言を掛けられる人、それが
「教えることのプロ」なわけですね。
現実に戦うとなるとゴルフなら体力やメンタル、歌なら表現力や個性が絡んできますから、
そこがいかに見えてても、実戦ではイマイチ、なことも充分ありうる。
しかしそれは、そういう人もいてこういう人もいて、で、いいことだと思います。

---

また、ある程度説得力に自信ができると、
ついていい嘘がつけるようになったり、言わなくていいことを言わない、
というコントロールが効くようになります。
前者はより大胆な表現力に、後者は作品の完成度へと直結します。

ついていい嘘悪い嘘、というのは、ちょっと例としては不十分かもしれませんが、
未来都市を表現する時に、クルマを走らせる。
そのクルマが、6輪車やキャタピラついてると、ダメなんです。
デザインはなんでもいいし、エアカーでも反重力カーでもいいんですけど、
技術の発展する方向からして、もうそっちはありえない。
(と、多くの人が無意識にも思っている)
それが出てくると一気に未来都市じゃなくなっちゃうんです。
(だから異次元や異星の現代文明ならかまわない)
それがついちゃ駄目な嘘。
あとは、人の乗れないデザインになってるとか。
それこそ「ボーン」ですけど、「クルマ=パーソナル移動手段」、
というコツから離れると、もうそれはクルマじゃないわけです。
説得力が無くなる。

言わなくていいこと、というのは、
そうは言っても人間、得手不得手がありますから、
全部が全部完璧に把握して描写しきれるわけじゃない。
やりにくいなら描かなきゃいいわけです。
だけど全体の説得力に自信がないと、ディテールにリアリティを持たせて、
なんとかそれがリアルであることを訴えたくなる。
たとえば人物イラストなら、スニーカーだけ写実的に描き込んでみる、とか。
文章でもそうです。やたらめったら長々風景描写して、
今どこにいるか、を訴える。
そんなことを恣意的に明示的に行わなくても、
例えば水戸黄門ご一行が歩んでる道は江戸の街道以外にはありえませんよね。
土埃の舞う道を、脚絆手甲に振り分け荷物の旅の若者が足早に……
とか、別に描いてなくても、「そこが江戸の街道だ」と誰でも知ってる。
それが、説得力なんです。
そしてそれは、全体から醸し出されるものであって、
部分部分はそれに力は貸すけれども、部分一発書き込めば出てくる、
っていうような甘いものじゃない。
(もちろん、風景描写にはそれそのものに表現としての意義がありますから、
 やらない方がいいって言ってるわけじゃないですよ)

全体の説得力が、ある一定以上の閾値を超えると、
そこに自分で自信が持てるようになると、
この2点のエンジンも点火する。
まさにターボ過給です。
それによって得られたさらなる説得力が、また文章や絵の力にフィードバックされて、
ますます腕が、表現力がどーんとあがる。

だからそこの閾値をなんとしてでも突破することが、
突破するためにあらゆる努力と知能を傾けることが、
非常に大切なんです。

---

はい。
ここで悲しい大胆告白をすると、
まだ文章では見えておりませんとも!(泣)
いままで力ずくこれ一本でまいりました。
いや、もちろん、自分の納得いくものになるまで
血反吐吐きながら血反吐吐いてましたから、
今までの結果については胸張れます。
上の例でいえば、いつもあの可憐が描けるまで頑張ってたわけです。
不良品をザバザバ捨てながら。
これがしんどくてしんどくて。
だからこの「流乃のアゴ」みたいな一点、「ああそうか!」が欲しい。
それさえあれば、どんなものでもいくらでも、自由に楽しく書ける。はず。
そうすると必然、クオリティも上がると思います。
一発一発が納得いく打席なら、きっとヒットやホームランの確率も上がる。

おとついぐらいに述べましたように、それを見つけて、
自分の持ち技全てが有機的にネットワーク化されたもの、
それこそがスタイル、なんでしょうね。
つまり、スタイルっていうのは「作るもの」じゃなくて「できるもの」なんです。

で、まあ、今、そのキーを探しているところなのですともってばさ。

しかし、「流乃のアゴ」が突然見つかったように、
観察や研究も必要かもしれませんが、とりあえずガツガツいろんなものにぶち当たる。
それこそが、今やらねばならないことなのかも。
そしてこればっかりは、個人一人一人にユニークなものなので、
自分でつかみ取るしかない。
だって流乃アゴだって、それはキッカケに過ぎなくて、
その後ろに膨大な、発火を待ってる小さなネットや要素があるからこそ、
それを自分で築き上げてきたからこそ、
キッカケになったのだから。

ドクトル先生とか、武術の話絡めて「ミラクルズ!」で忍様とか、ビビル三世とか、
最近いいネタコロコロあるんですけど、
それを描き始めよう、というエンジンが掛からないのは、
ここを探しているからのようです。

ヒントになるのは、今回もそうだったんですが、
「要素分解ではなく、全体把握」
っていういつものフレーズ。
アゴのラインを分析するんじゃなくて、全体をまとめていく過程で、
「アゴのラインはこうだよな」と大雑把に自動的に、しかし的確に掴む。
それを繰り返せば、いつかフォーカスがピシャッ、と合って、
「ああ!」と思える気がします。

リラックスして楽しくやる、というのもひとつだと思うのですが、
「楽しくやろうぜ!」といって楽しくできるもんでもない、ですよね。
もちろん気の持ちようも大きいのですが、
楽しさというのは対象から、また行為自体から自然に沸いてくるもののように思います。

『自由自在にテキストをコントロールでき、
 それを用いてあらゆるものを表現する喜び』

これが、ものを書く楽しさの原点ではないかと。
とすれば、「楽しく楽しく」と思うのは、ちょっぴりズレてますよね。
良いものができる時、それが楽しい時なので。
楽しくしてれば良いものができる、というのとはちょと違う。

とにかく今は、できる範囲で(もちろんナチュラルな、無理のない範囲で)
書き散らかして、
いつか起きる発火のための下ごしらえ・仕込みを必死こいてやろう、と。

もうすこし、もうすこし。
これを掴むまでは、死ねん(笑)


4/8 車庫付き三階建て長屋

都市部で今、小さな戸建てを建てる、となると、
ほぼ間違いなく三階建て、一階が駐車スペースと玄関とあと水回りぐらいの、
あの形になります。
狭い敷地を合理的に有効活用しようとするとそうなるのは疑いようもないのですが、
一世代前のトラックみたいなタウンエースのために
毎朝毎晩家族中が階段登り降りさせられるの、それはどうなの?
なんて思っていたんです。

ところが今日、そんな街並みを歩いててハタ、と気づきました。
あれは、高床式住居なんですね。

日本の住居は気候と素材上、湿気との戦いです。
正倉院宝物庫を引っ張り出すまでもなく、床を高くすれば空気が適度に乾燥し、
澱まない。
地面からの、夏の照り返しも、冬の底冷えも、届きにくい。
加えて都市部は排ガスやわけのわからんダストがうようよしてますから、
そこからも逃れられる。
快適で生活しやすい。健康にもいい。
メイン居住空間(リビング)を2階へ上げてしまう、というのは、
実はちゃんとメリットがある。
なるほど、と。

---

「高層住宅好き」というのは一定割合必ず居て、
911の悲劇を目の当たりにしててもなお、
60階とかそんな超高層マンションが新築されれば上から下までピシッと埋まる。
あの上へ上へというジャック豆の木欲求、
あれは景色・景観の要素も大きいでしょうが、
加えて、「きれいな空気が欲しい」という無意識の欲求なのではないでしょうか。

また、ネコは高いところ好きですが、そういう、
「高いところは外敵に襲われにくい」
というプリミティブな本能も、働くのかもしれません。
してみると私のような高層嫌いは、
「襲われにくいかも知れないが逃げにくいじゃないか」
というところに重きを置いてしまうのかもしれません。
サルもニホンザルのような地上生活者とゴリラのような樹上生活者に分かれたわけで、
ここの閾値は人それぞれなのでしょうね。

あるいは高層嫌いというよりも、地べた好き、なのかもしれません。
目線ほぼそのままに、いろいろがある、というのが。
高層な方々は、おおぐくりでいろいろ見れる方が好き、なのかも。

などといろいろ思ってみてみれば、
あの細長い住宅もそれはそれで素敵なものです。
そもそも第三者がヘナヘナそんなこと思わなくても、
都市部で同じだけ出せば同じ以上の床面積で便利なマンションが、
あるいは所有にこだわらなければより広い一戸建てが借りれたりするのに、
あの水のペットボトルが6本入ったダンボール箱のような住宅を欲する、
というのは、それよりもこれよりもこれがいい、と思う人々なのでしょう。

ここを見て、
・他の全てを犠牲にしてでも土地・一戸建てに執着する日本人の悪い習性
と捉えることもできますが、逆に、
・鬼のような制限の中から、価値をいつの間にか見つけ出す、いや作り出してしまう
世界に誇れる「あいまいさ」
と捉えることもできます。
ファミレスもコンビニもトヨタのクルマも、
一面の見方ではどうしようもないシステムですが、
別の面から切ればあんなに優れているシステムもない。

「ここにある」
というのは極めて大切な事実で、
なぜここにあるのか、そしてなにがこれをここにあらしめているのか、
そこのところをよく理解すると、いろんなものが見えてきそうな気がします。

私も、「そんな無理しなくても」と思っていましたが、よくよく考えれば、
でかい一戸建て(ウチもそうですが)はそりゃ住みよいんですけど、
凄まじい管理コストがかかります。
ちょっと直すとはい300万はい500万はい1000万。
マンションはずっと気楽でずっと合理的ですが、やっぱりちょっと、
それが過ぎる、ところが多いです。
(高品質マンションというと、必ず大型で価格もシャレにならない)
そういう目で見直せば、
あの住宅は日本の誇る「盆栽」みたいで、随分可愛く見えてきます。
自然そのままの木は大変。でも、草花じゃなくて木も手元で愛でたい。
そこで手頃な盆栽を。
Nゲージなんかもそうですよね。
あるいはサブノートパソコンとか。
そうそう、軽自動車。

要素要素のサイズをギリギリまで切りつめ、多少ずつ使いにくいかも知れないけど、
全要素があって、しかも管理が非常にしやすく、
場合によってはその姿形、フォームファクタそのものが、
大でも部分でもありえない新しい良さまで生み出してしまう。
このパターンは、日本人の得意技なのかもしれません。
そう考えると、あれぞ日本の住宅。

ものは考えようだよな、と最近よく思います。


4/7 健康本をいくつか・とか。

最近すっかり健康オタクと化し、いろんな本を手当たり次第に。
売れ筋ばっかり(笑)

■「体を温める」と病気は必ず治る 石原結實
■「奇跡」のトレーニング 小山裕史
■1mウォーキング・ダイエット デューク更家

石原先生のおっしゃってるのは要するに、もう、タイトルで全て表現されており、
(これは素晴らしいことです)
「身体ぬくめろオラァ!」。
で、わたくしもやってみましたハニー・ジンジャー・ティー略してHJT。
「ジンジャーはG。Gingerだよ」
「失礼、HGTですね」
「まったく、ノージンジャーなんだから……」
美味しい。
あ、僕は吉野家では3回は紅ショウガのフタを開け、
コーラの次はアクエリでもスプライでもなくカナダドライ、
結婚式はぜひ神式で、
というジンジャー・マニアなので参考にはならないかもしれませんが、
この飲み物すごい美味しいですよ。
蜂蜜のエグみ、生姜の辛さ、紅茶の苦みと渋み。
各々のヤな部分が、3つ合わさると消えるんです、不思議なことに。
コーヒー大好きなんですけど、さすがに4杯目ぐらいになると辛くなってきます。
アナザーチョイスを探していたので、これいいな、と。
作り方はもう文字通り。紅茶に、すりおろしショウガと蜂蜜をブチ込むだけ。
蜂蜜は黒砂糖でもいいそうです。
(普通のお砂糖は身体を冷やす食べ物なんですって)

ていうか、やっぱ「生搾り」ってのが非常に強い(美味い)んですな。
ショウガは室温保存も効きますし、お湯を沸かしてる時間でちょちょちょーっと
すれちゃいますから、実に手軽です。
いや、この飲み物を教わっただけでも1300円の価値ありです。

実際、効果もかなりあります。
熱湯で作り、
(料理酒に安酒がいいように、HGTの場合はよい紅茶ではなく、
リプトンの一番安いティーバックが良いのかもしれません)
生ショウガ入ってるわけですから、
もう飲んでるそばから額にうっすら汗が出る勢いです。
実に血行良くなりそう。
後味も、蜂蜜たっぷりのはずなのにさっぱりしてるし、
これはいい飲み物です。おすすめ。

あとは、持病の微妙な腰痛のために腹巻きでもするか、と。
やっぱり痛い時って、触ると冷たいんです。血行も悪くなってる。
それをカバーするのは悪いことではない。
で、血行という観点でみれば、ジーンズをベルトで縛る、というのはやっぱり
よくなくて、とすると柔道着の下みたいなのを、紐で軽く止めて、
(紐は微調節がすぐに利く。ゴムはそこが融通効かない)
で、腹巻きを巻く、というのがベストなのかも。

だからバカボンのパパはあんなに健康なのか、とか。

---

小山先生の御本はハチャメチャに読み辛いのですが、
(理由は述べません。書店で覗いてもらえばわかります)
ただ、おっしゃってる内容は目から鱗系。
例えば、かけっこのスタートを、今までのやり方、とご自身の初動負荷理論に基づく
やり方、と並べてあって、で、そのとおりちょっとやってみると、
「ああ!」
ってすぐわかる。
こうやって教えてもらえば、運動も嫌いにならなかったのに、って感じです。

甲野先生とも激しくオーバーラップするのですが、
筋肉とか骨格とか、そこから導かれる純粋な力、トルクは運動能力とは関係ない。
パワーを引き出すには、各部のトルクをどう上手く力学的に組み合わせるか、
が問題であって、そこを鍛えることこそが運動能力向上に繋がる、と。

ただ、現在のところ、この理論を用いてトレーニングするには専用の機材が必要で、
で、実際にそれを使って効果を上げている選手はイチローや伊東浩司始め
キラ星なのですが、おいそれと我々が簡単にできるものではない。
できれば、我々でも手軽にすぐ、いつでもできるような体操みたいなのに
敷衍していただけるとありがたいなあ、と思いました。
小山先生、ここからが頑張りどころです。

---

流行りの更家先生のは、もう少し現実的です。
てか、さすが元ファッションショー・プロデューサー、
動き自体としてはかなり大きめ、キツめのものも多くて、
「そりゃこれやってりゃ鍛えられるわ」
って感じです。いわば、当たり前と言えば当たり前。
でも、それをウォーク(といってもホント数歩でOK)と組み合わせることで、
楽しくやれる、ものに昇華させたのが大ポイントです。
実際、「ベーシック・ウォーク」といって全ての基本、
モデルさんのようについてる足の外側の斜め前に次の足を着地させる歩き方、
あれなんかやってみますと、
勝手に背が伸びて胸を張って両手が大きく振れて、いい感じなんですね。
で、まるでモデルさん気分になって
「あっはっは、俺、アホや」
と、誰も見てなくてもめっちゃ恥ずかしい。
でもそういう、「あはは」な気持ち、っていうのは、
今までのストレッチやダンベル体操にはなかったものですよね。
ここが新しい。
だからみんな飛びついてるんですね。
なんたってウチのあの運動嫌いのまま上、
300m歩かされるぐらいならタクシーを呼ぶあのまま上でさえもが興味を示し、
「DVD買うてきて!」と吠える始末。

結局、これ系の軽い運動シリーズ、っていうのは
「やるかやらないか」
だけが勝負で、やりさえすれば毎朝ラジオ体操やるだけでも相当違う。
でも、人はそれができない。
なぜ、となれば「つまらないから」。
「健康のために、やりたいとはちっとも思ってないけどやっている」
というのは、雨とかそんなので簡単に挫ける。
だから、「やりたい」とさえ思わせれば、つまり、
「おもしろい!」とさえ思わせれば勝ちなんです。
そして更家先生の方法論には、そういう要素がけっこうある。
だからポイントは、ヘラヘラ笑いながらテキトーに、でも、「やる」ってところに
あると思います。

---

3冊共通して思うのは、やっぱり2000も4年になりますと、
「ダメだダメだと言っててもダメだ」
という共通認識が、社会的にも意識的無意識的問わずできあがりつつあり、それが、
「とにかく新しい何かをせにゃ」
という動きになり、そういう動きをみんなで尊重する流れになってるのかな、と。

その最たる例が小泉首相。
僕も文句つけたいことは一杯ありますけど、でも、
こけつまろびつ、間違えつつ頭ぶつけつつ、
「今のままじゃダメだ、だから『方法論から』変えていくんだ」
という姿勢が常にある。
だから、多くの人が、いろいろ思ってはいても、そこは支持せざるを得ない。
この時期には、ああいう人でないとダメなんでしょう。

少し前の自民党総裁選を思い出してください。
小泉さん以外の顔ぶれの訴えの、実に退屈な内容を。
公共投資による景気誘導をはじめ、あまりにも古臭い。
「それでは、抜本的解決にならない」
ともう、誰しもがさんざん思ってることを「今とりあえずは」なんて言われても、
冗談じゃない、って感じでしたよね。
よそのちっちゃい野党も同じです。
社民も共産も、昔やってたやり方そのまま。
それじゃもう、まったく支持もへちゃらもありえないんです。
伝統芸能として保存する文化的本能はいくらか働いたとしても。

さすがに民主党は、というか小沢一郎という男はその辺わかってて、
自分はそうではない、とわかってるからこそ黙って菅直人、
小泉純一郎とほぼ同タイプ、「今やるならこれ」というカードを前面に出してる。
(小沢さんは途中から権力のための権力志向をすっぱり捨て、
 「己の信念を政治活動によって表現していく」本物の政治家になりました。
 あれ、あそこまで行ってそれができた、というのはすごいと思います)

でも、本当は、小泉を倒し政権を狙うなら、
もっとラジカルにガツガツ変えていきそうなタイプを
(もしそういう若手が党内にいれば)
一気に切ってみる、というのが一つ作戦としてはあるかもしれません。
40代中盤ぐらいの。それこそ当選回数2回とかそんな勢いの。
ブレア作戦とでもいいますか。
だってあーた、スキピオが国政最高責任者に就任したのは30よ?

えーと、1971生まれから見ると、その辺りの世代は
経済成長期に幼少期を育ち、バブル期に青年としての人格を形成してしまった
「ボンクラ揃い」
としか表現しようがないのですが、で、あるからこそ、その世代で意識高い人、
というのは、とんでもない能力・才覚・努力力の持ち主である可能性があります。
10年ずつ区切れば1000何百万人も居りゃ、一人や二人は居るでしょう、
そういういいのが。

今すぐは無理でも、それを党首にして2-3年馴染ませて、
人々に元気がどんどん戻ってきて、
「小泉じゃ物足りないよな」
と思った時に一気に逆転を狙う。
そんなタクティクスはいかがでしょう。
てか、同タイプで同じ戦略では、トップには勝てないですよ。特に日本では。
それじゃ換える必要ないもの。
ラガーを地の底に引きずり下ろしたのはスーパードライなわけで。

まあでもなんとなく、陽が当たってきたような感じがします。

---

あと、めちゃめちゃどうでもいいことなんですけど、
最近の本って、「帯」に異常に力が入ってて、
帯がついてる状態が標準、というデザイン・装丁がなされてるんですね。
だから帯剥くと、下1/3ぐらいスッカラカン。
僕は読む時手にひっかっかる帯が大嫌いで、買ったらまず剥がすんです。
するとメチャメチャ寂しいですよ。
紙カバーつけてもらった時は別ですけど、最近ほとんどつけてもらないし。
(紙カバーつけると、積ん読にしておくとほんといつまでも積まれたままなんです。
 アピールしてこないから)

この3冊もそんな本でした。
フロー情報(何部売れたベストセラー!とか)も
ストック情報(デザインとしてまとまった綺麗な装丁)も盛り込みたい、
という気持ちも非常にわかりますし、
重刷の際にアピール点をフレキシブルに切り替えられる、
などメリット多いんでしょうけど、
屋上屋、って感じは否めません。
だって、カバー、ってのが本来そういう役目だったんじゃないの?とか。

困りゃしないんですけど、なんだか、なんだか。

……と、そんなことを思いつつ。
「いい本が無い」などと呻く前に、
「いい本を探しに行くんだ」という気持ちで狩りに赴くのが、
書店だと気づきました。
猛省。


4/7 骨盤を立てる!

関連してもう一件。

デューク先生の「ボーンコンシャス」という考え方を読んでて、
「ああ」と気づいたんですけど、
というかそんな当たり前のこと今頃気づくな、なんですけど、
「いい着座姿勢」って、ポイントは骨盤なんです。
骨盤がピシッと、そう、背筋の伸びたいい姿勢で立ってる時のように立ってる、
これが背骨に負担を掛けない「いい着座姿勢」なんですね。

だから意識は、背骨のカーブに置くんじゃなくて、
骨盤を前傾でも後傾でもない、立った時と同じ位置・同じカタチにする、
ことに置くのが、文字通りの骨(コツ)のようです。
(これはデュークさんの受け売り)

で、そこからふとももを90度曲げて前へ出す。
楽なのはもうちょっと角度浅い方が楽なのですが、
そうやって膝を下げると、ふともも自体の重みが膝側へ働き、
骨盤を引っ張って、下が前へ上が後ろへ、ロールしようとする。
これはマズイ。
骨盤が回ると、必然的に背骨が曲げられて猫背になります。
逆に膝が立っちゃうぐらい深く曲げると、今度はおなか苦しいので、
またこれも自然と骨盤がロールします。
体育座りすると背中丸まりますよね。あれ。
だから90度にして、太腿の重みを真下へ(座面へ)逃すんです。
なので、膝と股関節が水平であれば、膝下はどうでもいいというか、
前でも後ろでも適当に遊んでればいいみたいです。
ただ、机上作業はどうしても上半身が前へつっこみがちになるので、
どっちかというと後ろへ折ってる方が楽、というよりも、
骨盤を正しく支持しやすいみたいです。
この辺は個人差あると思いますが。

結局のところ、常に「腰を立てる」感じで
(逆にこれをやると、自然とおなかがへっこみ背筋が伸びます)
「骨盤をまっすぐにする」意識を持ち、
またそれを身体が覚えて、疲れるまでずっと実行してくれる。
これに優る「いい座り方」はないようです。
いい椅子とは、それをその人に合った形で、サポートしてくれる椅子のこと。

アーロンは、その姿勢を保たせてくれようとする椅子です。
でも、ギプスではないので、そこに甘えきる、というほど固定してくれるわけじゃない。
(そんな椅子もイヤですが)
膝で支える健康椅子みたいなのありますが、
あれも上体を良い形で支えやすいのですが、
結局肩を前に出して背中の途中から丸めてしまっては、同じです。
(その前に膝という本来重量を支える機能を持ってない部分に負荷を掛けてる時点で、
 あのコンセプトは間違ってるんですけどね。ええ、私昔買いましたとも)
つまり、値段や形はクリティカルファクターではないわけです。
ポイントは、繰り返しますが、
「骨盤を立たせ続けやすいかどうか」。
ここ一点。

ただ、ぴよ先生にご指摘受け、またまきをちゃんに教えてもらった
クッションの能書きを読んでも思ったんですけど、
「座面のクッション性」
はかなり重要だと思います。
なぜとなれば、骨盤を立てると、おしりのところに二つ、骨のでっぱり出ますよね。
そのまま座ると、あそこ2点で接地してるんです。
上半身全ての重量、というすごい負荷があそこだけにかかる。
だから身体は、それが嫌なものだから、骨盤を後傾あるいは前傾させ
その刺激を逃そうとするようです。
だもので、マニフレックスでもテンピュールでもココヤシ繊維でも綿でも
マイクロビーズでもなんでもいいんですけど、
とにかく、そこ2点ではなく、体圧をバラして、
おしり全体で受け止めるようにすると、良いようです。
(ふともも裏まで使うかどうかとなると、好き嫌いが出ると思います。
 ちなみに僕はかなり嫌い)

そして、そこが成り立てば、つまり骨盤の回転さえ起きにくければ、
上体に楽をさせる方法はなくはない。
若干後ろに反り返り、背もたれに背中の真ん中あたりをもたせかけます。
その状態で足がつらければ、オットマン(足置き)を用意する。
なに、そんな大層なもの必要ないです。
ただの段ボールに要らない本でも詰めておけば充分。高さはお好みで。
つまり、膝支点のリクライニングですね。
ほとんどの椅子がそもそも背もたれだけリクライニングですし、
もし膝支点だったとしても
「リクライニング状態でロックする」という機能はなかなかないと思います。
だから自分で作っちゃう。

というわけで実は、アーロンにマニフレックス・枕を敷いて座ってます。
足元には売れない「ドラグーン」が詰まった段ボール(笑)
結構いい感じで、快適です。
テンピュールには座布団ありますから、(12000円もしますが……)
あれをつかえば普通のOA椅子もかなり快適になるかも。
少々蒸れるかもしれませんが。

(ただし、この作戦はあくまでもPC作業向けで、
 通常机上作業、鉛筆で紙に、という作業にはまるで向きません)

……と、積年の難方程式はあらかた解けて、ちょっぴり嬉しいのですが、
11万の椅子に12000円の枕敷いて座ってしみじみ思いますに、
一番いいのは
「1時間ごとに立って軽く運動」
「疲れたら寝ころぶ」
です(泣)

まあしかし、「いい座り方」そして「自分にとってのいい椅子の選び方・調節の仕方」を
知っておくことは悪いことではない、と骨盤を立てております。


4/6 スタイル

また、似たようなことを繰り返し書きます。
自分へのメモみたいな感じなので、適当に読み飛ばしてください。

本当に定着してしまえばこういうメモも不要になるのでしょうが、
今はまだフラフラしてる感じなので、不安なのです。

「絵柄」っていうのがあります。
マンガ家さん、特に長期間一線で活躍するマンガ家さんは、
ある時期にピタッと決まると、もうあまり変わりません。
(あるラインの延長上にジリジリ変化していくことはありますが)
手塚治虫先生から鳥山明先生から荒木飛呂彦先生から……

絵、などというものはいかようにでも表現できるものです。
毎日浴びるほど絵を描き続けるマンガ家さんならば、
基本的にはどんな絵でも描けるはずです。
ではなぜ、「絵柄」ができてしまって、それが動かないのか。

たぶん、マンガというものが、絵だけでは決まらないものだからです。
絵はマンガ、つまり「表現したい総体」のほんの一部であって、
他にストーリーがあり、セリフがあり、キャラクターメイクがあり、舞台設定があり……
と、検討創造していかねばならないことは山のようにあります。
そして人間の時間は有限です。
締め切り云々もですが、それよりも「早くこのイメージを定着させたい!」
という欲求からくる時間制限も、創作活動にはつきものです。
絵を描くことにいつまでもこだわってるわけにはいかない。
となると、自然、
「自分の最も描きやすい」そして
「自分が表現したいことがおおよそ表現できる性能がある」
絵、絵柄、で落ち着くようです。

そして、そこからが本当の勝負なんです。
武器を、道具を手にしてようやく、
さあ、じゃあ、どうやってイメージを料理していきましょうかね、と。
で、問題はやっぱりここであって、絵柄なんてのはもう、どうでもいいことなんです。
もちろん絵柄により性能差あるので、ジャンル何向きとか、早くできるとか、
見映えがいいとか、いろいろあるとは思うのですが、
それはマンガ家本人にとってはさほど問題ではなく、というか問題にしようもなく、
「だってこれしかないもの」
というところに至るのが、「絵柄」だと思われます。

僕は今まで、
「自分の思ったものを思ったとおり表現できる」
のが、初級から中級への一つの大きなステップだと思ってました。
それはどうも半分あたりで、半分はずれ。
「自分の思ったものを思ったとおり表現する『手段』を持つ」
というのが、正確なところのようです。
マンガ家なら絵柄、歌手なら歌い方、テキスト屋なら、○○節。
ちょっと知ってる人が触れれば「ああ、ながた節」とわかってもらえる、
そういう、「カタチ」を手に入れる。
そここそが、中級ステップ、のような気がします。
得意のゾーンへ来たら確実にスタンドへ放り込める。
あるいは2ストライクまで追い込めば必殺のフォークが唸りをあげてほぼ確実に三振奪取。
「必殺技」「パターン」も含め、
そこへの持って行き方、持って行く戦術・戦略の数々、
そういったものすべてをひっくるめた、「スタイル」の確立。
それができてようやく、「戦える」という段階に入る。

正直に告白するのすごくお恥ずかしいのですが、
今まで、「ヒットが出りゃいいんだろ」という打席への立ち方でした。
どんな打ち方をしても、ヒットはヒットだと。
それはまさにそのとおりで、で、現実社会との関わりとしてはそれでいいのですが、
それでは、行き詰まる。
ヒットの打ち方がわかってない、と、
いつまでも、「次にヒットを打てるのか」不安ですし、
一球一球ヒットを打つために死にものぐるいで戦う必要があるし、
まして、「よりたくさんヒットを打つためにはどうすればいいか」なんて、考える余裕もない。
とにかく、めちゃめちゃ大変なのです。
あるスタイルを確立し、「この球が来たらこう打てば確実にヒット」という確信を得ていく。
これがどうしても必要になる。
そうすれば、余裕も出来ます、ボールも見えます、
調子が悪い時、結果が出ない時に落ち込む必要もなくなります、
さらにそのスタイルを変えて進化する方向も見えてきます、
すなわち、戦えます。

で、今現在の僕は、「↑ということがわかった」。
という段階で、その自分の「スタイル」を模索しているところです。
いろんなことをやりながら。
だから、初級と中級の間の壁を必死でよじ登ってる、どちらでもない人、
というのが本当のところだと思います。
これは、結果としてできてくる作品のクオリティとは、直接関係ないんです。
特に表現は、プロスポーツとか人間を相手にするものではないので、
神様降ってくることもありますし、ものすごい本マグロがいきなり釣れることもある。
それ食べて美味しい美味しいと言ってくださることもある。
でも、それは、本人の手柄ではないんですね。
誉められても心底嬉しいものでもなかったり、
(より正確に言うと、誉めてもらうこと自体はメチャメチャ嬉しいのですが、
 それは誉めてもらうことそのものの快感であって、中身関係ないんですね。
 詳しく話詰めて、まるっきり意図でないところでエライ喜んでもらってたりすると、
 ふくざつーな気持ちになります)
なにより自分に手応えがない。
それでは、長続きしないんです。

だから、そういう「戦える」身体作りを、いそいで、でも焦らずに、
やっていきたいなあ、と、まず思うのが一点。

さらには。
上級者、というのは、その「スタイル」からも自由になれた人なのだろう、と想像します。
どんな球が来ても、変幻自在に食らいつき、持てる力を100%出して
強く叩いてホームランにしてしまう。
それには、複数スタイルを並べて場合分け対処、
とかそんな量的な変化ではなく、やはり、質的転換が必要なのではないか、と。
ここまで行けりゃそりゃ楽しかろうと思いますよ。
どんな素材持ってきても泣きそうに美味い料理に仕立て上げられるんだもの。
たぶんそうなると、「ながた味」なんて言い方はされなくて、
「ああ……いいなあ……」とだけ感想が出るようなものになってる、はず。
あれは彼にしかできない、とは言われるけれども、
その結果をズラリと並べてみても、物理共通点は見いだせない……
そんな感じに。
カエサルの戦争の勝ち方、というのがそうだそうです。
決まったパターン無いんですけど、連戦連勝。

でも、どうせ中級から質的転換が必要になり、
なおかつ結局最終的には「スタイル」に囚われない、とするのならば、
最初からスタイルにはこだわらず、一気にここを目指す方法論も、
ありえないわけではない、かもしれない。
あるいは、「自分にはスタイルはない」と思いこんでいるのがそもそも間違いで、
もうスタイルはあるけれども、「よりよいスタイル」というところにこだわりすぎてたり、
「このスタイルじゃ読者ウケ悪いよな」なんてどうでもいいところばかりに
気を囚われていたり、するのかもしれない。

で、振り返って絵柄の確立したマンガ家さん達を考えてみれば、
上に挙げた大家の方々は上手い人多いんですけど、
取り立てて純粋に絵としては「上手い」とは言えないスタイルの人も、
たくさんおいでです。特にギャグ系とかは。
思うに、スタイル=個性であって、習熟度とか物理的な技術量とかそういうのは、
あることはあるんですけど、必要とされる量は実はかなり小さい。
それどころか、実は、下手な方が、表現の可能性という意味では強いおそれすらある。
ものすごい技術あって、今風の絵柄でキュートな女の子を
自由自在にめちゃくちゃリアルに描けるとしましょう。
現代学園ものはそれでいいですけど、じゃあ原始時代を描く作品にとりかかる、
となると今度は、原始時代に現代と同じだけのリアリティを持たせるために、
ものすごい資料を元にものすごい想像力を働かせて、
ものすごいエネルギー掛ける必要が出てくる。
ヘタクソなら簡単です。
毛皮着てマンガ肉描いてマンモス出して石のお椀でスープ飲んでりゃいい。
実に、長所と短所はつねに表裏一体なのです。
そして表現というものは、本質的に、
見るものが見てないものを見せる、
というものですから、「可能性に制限がかかる」、というのは実は、
かなり致命的な弱点と言い切っちゃっても、
あながちヘタクソのやっかみとも言えないのです。
で、ピカソはヘタになっていく自分を喜ぶ。

ということは、
スタイル、といってもあまりこだわりすぎず、
冷静に客観的に、斜め上一歩上から自分自身を見つめて、
「これはやっててきもちいい」「これはなんだかよくウケた」
「これは好きなパターンだ」「ここはちょっと追い込んで積み立ててみよう」
と、常にスタイル自身を変化させていく、
そんなアメーバーみたいなスタイルを持つことが、とりあえずいいのではないか、
と感じてみたりします。
(一気にノースタイル・イズ・ベストスタイルみたいなところには、
 さすがに行けない気がするので)

そこで大事にすべきは、
・自分の気持ちや心の動きを鋭敏に・素直に捉える感受性。
・周囲や一般、常識といったものに囚われない自由な心。独立した心。
・変化、そして結果としての失敗をおそれず、できれば楽しむ、勇気、謙虚、好奇心。
・すべてのものに意味がある、良さと悪さは表裏一体と思える、高い視点・動く視点。
といったところでしょうか。
なんだか中学校の教科書みたいになってしまいましたが。

冷静に考えてみれば、他人様の指摘を待つまでもなく自分の文章には、
独特のくどさや熱病みたいな瞬間、変なリズムが突発的に現れる、
地の文の極端な省略、会話文における言文一致への執念、
シーン重視でストーリーが従属している、
キャラクタードリブンでイベントドリブンではない、
などなど、いわゆる「小説」と呼ばれるもののイメージから、
わりと大きく外れている部分があります。
他人様から見れば、そこがすごく気に入らない場合もあるでしょうし、
個性だと認めていただける場合もあるでしょう。
しかし、自分としては、外から何と言われても
「いい」と思ってるからやってるわけで。
(そこはさすがに外したことはありません。
 物理的な制約がある場合は別ですが……)

それって、やっぱり一つスタイルで、
本人が認めてなかっただけなのかもしれません。
で、あるならば、そのスタイルのいいところを純化してさらに伸ばし、
悪いところやあまりにもクド味になる部分は和らげたり薄めたりし、
より自分のやりやすいように、より豊かな表現ができるように、
手を加えていけばいいわけです。

そう考えるとやっぱり中級者で、上級の壁に向かって走ってる最中、
なのかもしれません。
ま、それは別にどっちゃでもいいことなのですが。

好き嫌い得意不得意を見極めながら、
そしてそこに手を入れながら、
いろんな素材の調理にチャレンジしてみよう、と思うのが、昨今です。
ですので、「いつものあれが食べたいなあ」というお客様には、
少々お待たせしてしまうかもしれません。
でも、また作る時にはきっともっと美味しいあれを作れるようになってると思いますので、
なにとぞご容赦。
たぶん、もう何年もかかることはないと思います。
たぶんたぶん、何ヶ月のオーダーで。

……というようなことを言えるぐらいには、なんとなくじわじわ小さな核(の基)
になるものができてきたような、まだ核とも言えずガス状星雲のような。
それでも、そういうガス雲がある、というのはとてもいいことだと思います。
焦らず、少しずつ、やっていきます。
頑張るってわけでもなく、実は結構、楽しんでます(笑)
この楽しさを、忘れないようにしたい。
そう思って、これを書いてます。


4/6 太鼓持ち

中山秀征というタレントが大嫌いである。

誰にでもへばりつく無節操と自分の無さは言うに及ばず、
マイケル・J・フォックスでさえ30を超えた3作目で高校生役をやることに
恥じらいを見せていたというのに、あのいつまでも若手気分で目尻に皺。
そして何よりもなんの魂も心もこもっていないあの空虚なコメント。
いつ何時でもSFXかCGと見まごう同じ笑顔。
存在意義がわからない。

しかし存在意義がわからない、赤瀬川原平兄さん言うところの
「トマソン」は世の中に数あるが、彼は偶発的もしくは突発的なトマソンとも違い、
TVの世界芸能の世界で積極的に起用され続けているのである。
わけもわからない。

「なんでこんなカード切ってんだ、俺なら絶対に使わない」
とTVにあのセメントで固めた笑顔が出てくる度に不愉快になっていたのだが、
月曜夜、BSにてメジャーの開幕直前情報番組をひねってみればまた出ていた。
現実に戦ってる伝統の巨人阪神戦しかも開幕3連戦、よりも
メジャーの開幕情報の方がおもしろい、というところにかなり絶望的な何かがあるのだが、
それは今は置く。
「またコイツか……」と苦々しく思いながら内容自体に興味があるので我慢して見ていた。

すると案の定、「ヤンキース強力打線において我らが松井が何番を打つか」という
設問に対し、「やっぱり4番打ってもらいたいですねえ、ねえ!」などと
心の中ではこれっぽっちも思ってない、予定調和極まるセリフをまたあの美顔パックで
固めた笑顔と共に吐く。
よほどチャンネルを堀内監督の美首拝見番組に(長さと寿命に興味がある)
変更しようかとも思ったが、小早川が与田が
「いやいやまあまあ、そう言いたいところですけどやっぱり6番7番……」
と至極真っ当な話をしたので、やっぱりNHK抑えるところは抑えてる、
これが民放でつくるとなんの意味意義もない礼賛番組にしかならんのだろうな、
と思って、ハタ、と気づいた。

「ああ、ここにヒデさんが要る」

そう、この番組において中山の役目は一般人代表であって、
さほど野球に詳しくない人がそれを見た場合、思うこと、
「松井ってそのすごい選手達の中でどのぐらいなのだろう」
という疑問自体を体現することが役割なのだ。
「やっぱり4番を」という一言がそれである。
それに対して、一応プロの立場から、小早川が与田が
「いやいや、そうではなく、これこれこういう理由があるから、このあたりで」
と解説を加える。
設問に対していきなり専門家が答える形よりも、はるかにわかりやすい。

ではなぜヒデなのか。他のカードはないのか。
このあたりからあの男の凄みが明らかになってくる。
さすがに野球と無関係では視聴者も鼻白む、
ダンカンか。無理だ。要らんことをしゃべりすぎ、イレコミすぎて収拾がつかない。
山田雅人か。止めよう。ヤツには悪霊が憑いている。今年一年のメジャー中継を
ボロボロにされかねない。
では森脇健児あたりの毒でも薬でもない路線はどうか。
ダメだ、彼はあまりにもハゲ上がりすぎている。
それで思い出したそうだパンチョだ。パンチョしかない。
死んでいる。
方向性を変えよう。
たけしさんやさんまちゃんのようななんでもこなせる一流どころはどうだろう。
確かに抜群に盛り上がるし100%上手くやってのけるだろう。
だが、あまりにもコストがかかりすぎる。
そしてそのクラスに応対させるのが、小早川・与田・佐野では今度はこちらが凹む。
番組の主眼はあくまでメジャー情報であって、爆笑トークではない。

そう、こんな場面で使えるカードが、実はものすごく少ないのだ。
パッと思いつく範囲ではあとは今田耕司ぐらいだが、彼も笑いへの意志が強すぎる。
そして実はアドリブに弱く、困った時に単独でどうにかできる
センターフォワード、9番タイプではない。
あくまでも弄り弄られの11番なのだ。
ユースケ・サンタマリアには素質があったが、彼は途中から
「心にもないことを適当に述べる」それ自体を芸にしてしまう安易な道を選んだので、
もう、こういう真面目な場面では、つまりNHKでは、使えない。

そしてそういう視点でヒデ芸を見つめれば、
これはもう名人芸以外のなにものでもない。
あくまでも出しゃばりすぎず、話の中心を外れず、自分を殺して番組を活かす。
本当の自分を見せないのは、悪意でも何でもなく、
あそこは、彼の本当の自分など見せてはいけないところなのだ。
火を吐くほどのロドリゲス・ファンだったとしても「松井を4番に」と笑顔を見せ、
6つの時からのメジャー通であったとしてもアナウンサーや解説諸氏の言ったセリフを
ただオウム返しに繰り返して視聴者に優しく復習させ、
そして根拠も意味もない明るさで、放っておけば自然、専門化・オタク化しようとする
「メジャー情報」を一般化する。
(オタクはこういう明るさが大嫌いである。だから、暗い部屋に籠もる)
無個性こそ最高の個性。誰にでもどこにでも、どんな主題にも合う。
まるで青山のスーツである。
しかも、手軽だ。小早川クラスでさえ、彼が相手なら構えなくて済む。

おそろしい。
現在日本最高の太鼓持ちである。

日本文化は「整える」文化である。
稲作農業と徳川支配300年の歴史的経緯からか、
「みんなと同じ」「いつもと同じ」ことに必要以上に神経が使われる。
なにか突出した「意味」が突然変異的に生じたとしても、
それはこの「整える」作業に置いて均一にならされてしまう。
しかしもちろん、それは悪いことばかりではない。
懐石料理をいただきに行き、板長に「あはは、僕吸い物苦手なんで無しです〜」
なんて言われてはたまったものではない。
「かたち」があるからこそ、上下左右の区別もつくし、こちらの認識も進む。

宴席に太鼓持ち。
それはそういうもの、という「整え」にすぎない。
しかし、いずれの段階かでそういう「整え」がコンセンサスを得た、という事実はやはり尊く、
やはり、いろいろと便利だったり、効果があったりしたのだ。
本来はそうした原理的役割なども知った上で活用するのが理想なのだろうが、
下手な考えよりも歴史の重みが優る場合は多い。
そしてそういう宴席――この場合は番組――を一席、となり呼ばれるのはやはり、
「頼りになる太鼓持ち」である。
いつも笑顔で、みなの機嫌を取り、ただただ宴席を盛り上げる。
ただそれだけの、しかし非常に重要な一つの役割を、担う。

彼のおべんちゃらはとどのつまり、視聴者に向けたものである。
力のない連中がよく間違う、番組中の大物へ向けたそれではない。
だから、軽く聞き流せるのだ。
誰が聞いても嫌味ないおべんちゃらを使いこなす、
そんな人物が身の回りにいるだろうか。

私は今でも、「整える」ことも大嫌いならば太鼓持ちも大嫌い、
中山秀征も大嫌いである。
だが、好き嫌いと良い悪いは別だ。
ヤツはプロ中のプロである。
日本一だ。
それは認めなければならない。
そして、ホンモノのプロの芸と姿勢には、見習うべきものも、多い。


4/5 ビビル3世

せっかくの日曜日が風邪ひきで雨ふりだったので、
アホ絵描いてました。解説。

モデム……3世誕生の瞬間一目惚れ。2世に暇を乞うてフリーズドライに入り、
3世成人後目覚めたためにいささか時代遅れ。
しかしそこは昔取った杵柄、ナース・巫女・高校生・教師・警官・妹・ウェイトレス・
フライトアテンダントからアイドル歌手まで、変身できないものはない。
が、3世があまり戦わないので、昼寝以外の仕事がない。
しょうがないのでご主人様にじゃれついて遊ぶ毎日である。

ポセイどん……進化すなわち性能向上への飽くなき欲求こそロボの本能、
陸上生活、そして平成16年度排ガス規制に適合するため、あのビッグボディを捨てた。
気だての良さと聞き上手、草創期からの息の長い活躍、そして水陸両用。
「おっかさん」と人生相談にくる若いロボも多い。
「いやね、わたしなんかただのおばさんよ」が口癖。
手料理、特にフォン・ド・ヴォーから作るシーフードビーフシチューはこれまた絶品。

課長ロプロス……怪気炎を吐きながら夜の街を飛び回り、「会長」とまで称された
プレイボーイっぷりも今は昔。悪い女に引っかかって赤ん坊を押しつけられる。
DNA鑑定を待つまでもなくその毛並はどう見ても自分の息子。
それを機に無頼をやめ、小さな電設機器商社に就職して課長に至る。
「飛べない鳥は、ただの鳥だ」。ここまで頼りになる男、そうはいない。
足の上で大切に育てる息子の名は歳三。「誰にでも優しく」。その願いからである。

ちなみにその名の通り極めて優しい3世はフリーのWebデザイナー。
隔世遺伝らしくて超能力はゼロ。
でも父親同様、コンピューターに囲まれてます。


4/4 書斎

風呂のリフォームに320万。
浮き足立つ我が家。
家中を弄りまわすついでに、僕も部屋を換えようかと思い、
行政府に相談してみました。
ちなみに立法権も司法権も一個人に集中させる、三権合立という最新システムです。

「まま上、部屋を今寝てるところにしてみたいかと思ってみたりするのですが」
「あー……あそこはこの9月のお父さんの七回忌の時に、みんなで食事してもらおうと
 おもててなあ」
「じゃいいです」

決して5ヶ月も先のいかようにでも解決のつくくだらない一瞬のために、
息子の永続的な幸せを一顧だにしてくれないことに腹を立てたわけでは決してなく、
「誰かが来た時に入れる可能性がある場所を書斎にする」
などとんでもない、と思ったのです。

書斎、というのはあくまでその人のプライベート空間であって、
読みかけの国家機密から使いっぱなしのエロ本まで、自由に放っておける、
その閉鎖性にこそ価値がある。
そうして自分をさらけ出している「自分空間」は、まさしくパンツの中に同じ。
それを覗かれるのは、ソレを覗かれるのと同じぐらい恥ずかしい。
稀にそれをすごくお悦びになる方もおられますが。

大学教授なんかがどーんと座ってる、本に囲まれ書類に囲まれた空間、
あれは「研究室」であって、一人用仕事空間の拡張されたもの、なんですね。
だから学生や来客対応も織り込み済みで。
物理的にはそっくりですが(その人の個性も出るし)、微妙に違う。

そう考えると、狭く暗くモノが多く外の音がよく聞こえ風通しが悪く冷暖房効率が最悪、
すなわち居心地抜群の現在の部屋も、「閉鎖性」という一点では優秀であり、
(というか閉鎖空間だから物理特性が良くない)
まあ、しょうが、ない、と。

で、思い出したのが結婚して所帯を持った友人達。
そういえば、彼らの「いつもいる部屋」は、独身時代の彼らカラーから、
結婚したその瞬間に奥さんカラーに染め上げられており、(たいてい新居だし)
いえば「自分の空間」が無い。
確かに、書斎のような空間を持つ者も中にはいるのですが、
(生活覗いたわけではありませんが)
緊急時以外、家帰ってきてまでそんなところには籠もりたくないでしょうし、
結局居間、リビングに居着いちゃうんですね。
でもそこは、奥さんの空間なんです。
いや、正確には奥さんのプライベート空間でもないんですけど、コントロール権はある。

ウチの父は生前、居間の一角、自分のいつも座るテーブルと椅子の周りを、
自分の趣味の本や書類で固めてました。
今思えば、あれが「彼の空間」だったんです。
我が家には父用の立派な机も本棚もあり、それは「応接間」にあるのですが、
上述通り、「誰かが来た時に使う空間」など、とても書斎に使えたものではない。
でも若い頃の僕は、自分の部屋があまりに居心地がいいこともあり、
「おとうちゃんはあんないい部屋あるのに、
 なんであんなところでぐちゃぐちゃやってるんだろ」
とねたみ半分に思ってました。
あの世で軽く謝らねばなりません。

とどのつまり、居間の一角がご主人によって散らかされるの、
それにはそういう生理的理由があるからで、
叱ってばかりではなく小綺麗な小物入れを用意するとか、
サポートもしてあげてください奥様。
だって、家中すべて、あなたの空間なんだもの。
一か所ぐらい。
そしてそんな時には、黙ってTVもぷつりと消してあげて、
静かに読書でも編み物でも、旦那様の横顔を見つめるのでも。

「……ん?なに?なにかついてる?」
「ううん。見てるだけ。
 ……だめ?」
「いや。別にいいけど。なにも面白いことないだろ」
「うん。面白くないよ。
 ……かっこいい」
「……ばか」
「ふふ。今度は、かわいい」

ああ僕には僕の部屋がある。
しあわせ!めちゃめちゃしあわせ!!!
ガーーーー!!!


4/3 大鉄人

ACクラーク原作、スタンリー・キューブリック監督、
「2001年宇宙の旅」
といえばSF映画名作中の名作、私もまだ観てないのですが、
その中に宇宙船をコントロールする「HAL」という
スーパーコンピュータが出てきます。
この名が、コンピュータの代名詞「IBM」の一つずつ前の文字で、
「IBMよりも先進」という意味を持たせたものだ、というのは、
ちょっと少年期に「クラッシャージョウ」を貪り読んでたライトSFファンならご存じの小咄。
僕に金髪碧眼コンプレックスがあるのは、どうもアルフィンがアーキタイプくさい。
いやまて、セイラさんか!?

それはいいんですけど、そこで思い出したんです。
「大鉄人17」を。
そう、あの伝説の青いヤツの、一歩前へ。もう一歩先へ。
思いをこめて、「大」までつけて。
なんと気宇壮大なネーミング……

ちいちゃい。あまりにも目標がちいちゃい。

もう主題歌の最後に「ワンセブーン」と呻いてる声しか記憶になく、
17自身がどんな姿だったかぐぐれない今では思い出すよすがも無いのですが、
そりゃその程度の志では記憶にも残らんわな、と得心しました。

日本は非常にネタ文化の国で、
「アレのパロのそのパロのまたパロの……」
というのに、非常に簡単に火がつきます。
しかしそれあんまり行きすぎると、誰もわかんないところで
引きつけ起こしながら感動してることもありえて、
(同一エネルギーならゾーン狭い方がインパクトは深いですからね)
それは、楽しむ方は別に全然いいと思うのですが、
作る方としては巻き込まれすぎないようにしないと。
気分は常に世界戦あるいは歴史戦で。

肝銘。

……17の話しながら世界戦もなにもないような気もしなくはないのですが。


4/2 モデム

コーンピューターに囲まれた、バベルの部屋に住んでいる超No力少年ビビル2世。
本日はマママシンの接続に挑戦。

「モデム!モデーーーム!」
「♪にゃにゃにゃにゃにゃーにゃにゃにゃーにゃにゃにゃーにゃにゃ
 お久しぶりですご主人様、なにか御用ですか?」
「早速で悪いがBIGLOBE接続を頼む」
「なによ! 何年も何年もほったらかしておいて、電話ひとつよこさずに、
 都合のいい時だけ『お願い』だなんて! わたし、そんな便利な女じゃない!!」
「便利じゃないなら捨てる。ボロ雑巾のように捨ててしまう」
「にゃ〜!お助けを繋ぎます繋がれます接続させていただきます」
「ていうかあんたのできるこたそれだけなんだからがんばりなはれ」
「了解!
 ……あの、ところでご主人様」
「なんだい」
「相棒のMacitoshさんは、どちらに?」

にゃにゃにゃにゃにゃーにゃにゃにゃーにゃにゃにゃーにゃにゃ。

久しぶりにAppleTalkの双方向矢印を見つめてしまいました。

ということでいざ鎌倉ソフマップギガストア。
む。あすこに休日ともなれば海賊物語の料理人総受け本を力の限り掻き集めてそうなメガネはキュートな女性店員さんが。

「モデム!モデ〜〜〜ム!」
「♪にゃにゃにゃにゃにゃーにゃにゃにゃーにゃにゃにゃーにゃにゃ
 お客様、なにかお探しで?」
「だからモデムを」
「このあたりに」
「えと、デスクトップなのでPCカードじゃなくて……」
「このあたりに」
「あの、箱開けるの面倒なのでできれば外付け……」
「もうどこのメーカーも作ってません。在庫もこれっぽっちもありません。
 中古にもまれにしかでてきません」
「はう」

しょうがないので2800円ぐらいのPCIボードのを買い、
「アルルゥとあそぼ!」を10本予約して帰ってきました。
モデムといえばほんの数年前はロデムを質に入れてでも、
いやポセイドンの方が質屋的には喜ばしいのでしょうか、
とにかく手に入れなければならない大切なPCパーツだったのに……
お客様にご満足いただける豊富な品揃えのソフマップギガストアにも無いとは。
お客様にご満足いただける豊富な品揃えのソフマップギガストアにさえ。

さて、開けて挿してドライバ入れて回線のチェックして繋いでみると、ちゃんとOK。
やっぱり電話回線に変なもの乗ってるらしくて、
昔使えてた分配器とか使えなくなってたのですが、
モジュラーからダイレなら問題ないので、まあ我慢することに。

「……えと、まま上、まま上号が制限付きながらも接続可能になりまして……」
「あ、ええよええよ、メール携帯でやってるから」
「いや、あの」
「ええねんええねん、気つかわんでええって、大丈夫やから、大丈夫やから。
 ライフ行ってくるわ」
「あのー……」

イエス!100%ムーダボーン!

帰宅した弟にそのモデムの話をすると、
「そんなんヤフオクで手に入れたらええやん」
とグッ・アドヴァ〜イス。

ああ、宝箱のカギは宝箱の中に。

---

原始生活に戻って一週間以上経ちますが、もう馴れかけてます。
結局、「巡回Web」というのは「自分用カスタマイズ日刊雑誌」みたいなもので、
まあ、無くてもいいものなんです。
困るのはほんとに実用で使ってた連中で、Google、Amazon、Mapionといったあたり。
それも、ダイヤルアップでも接続さえできればなんとかなりますからね。

ギャグSFなんかで、ホログラム・デッキみたいな、その中ではなんでもできる
イリュージョンを作り出してくれるマシンに入り浸って出てこない人、
なんて描写がありますが、Webもその面あります。
そこでどんな大事件が起きてようとも、実は現実社会にまで影響が及ぶことは、
ほっとんど無い。
(「○○オフ」のような、構成員同士で現実に進出してくるのは、
 社会的なインパクトはあまりない)
「吉野家フラッシュ」といえば我々は誰でも知ってますから、
「ちょっと聞いてくれよ○○よ」で始まれば、それがそのノリの元始まる会話だという
共通認識がありますが、
「接続度」の低い人にとっちゃなんのこっちゃサッパリわからん。

それは、別にネットだけではなく、プロ野球でもサッカーでも、なんでもそうです。
未だに日本代表のことを「全日本」という人もいる。
でも、そういうのは、入れ込む人も入れ込まない人も、ある程度以上
「現実のほんの一部」ということを認識しています。
が、ネットはありとあらゆるものがあるが故に、ホロデッキ化しやすい。
まるで現実、の情報側面を見てる、ような気になる。
一面そうなのですが、実は被ってる部分はものすごく薄い。

心理学では心の中のファクトのことを、言葉そのまま、
「サイキック・リアリティ」というそうですが、
「ネットワーク・リアリティ」みたいなのもあって、
そこでは事実なんですけど、「実際の現実」とは、
小さなコンセントみたいなところでしか絡まないんですね。

離れてみてそんなことを思いました。
いいとか悪いとか、別にないんですけど。
ただ、それが主現実になっちゃうと、夢に生きてる人みたいで、
ちょっと現実現実的には問題あるかも知れません。
ネットゲーとかはそれをもう少しピュアな形で見せてるだけで、
Web(ブログ・ニュース含む)一日巡ってる人も、似たようなものです。
そうは言っても、20年前にあんな(というかこんな)、
「自分新聞」みたいなのを毎日出す、なんてことは不可能だったわけで、
それは素晴らしいことだし、後戻りするつもりはまるでないんですが。

光かダイアルアップか、それはDVDか蓄音機の違いで、本質的差はない。
ただ、情報を(音楽を)時間と空間を超えて運べる点で、等しくパワフルです。

でもやっぱ速い方がいいよう(泣)
モデム、モデ〜〜〜〜〜ム!!


4/1 ここちよく

「自分らしく」なんて、なんぼほど難しいか。

言い換えれば「自然体」、それはやりたいことをやりたいようにやる、
ってただそれだけのことなんですけど、
社会的制約、外的要因による制限がなくても、
すごく難しいことです。
なぜなら、人は日々変化するから。
そして人に影響を与える環境も、変化するから。

僕はお風呂は「ぬるぬるめ長時間」の人なのですが、
こないだたまたま熱めのお湯だったとき、ふと「あ、もう満足」と思ったので、
そこで上がってみました。わずか数分、普段なら考えられない烏の行水です。
ところがこれが、気分スッキリ、とても快適。
「あれえ!?」って感じでした。

その一件前後から、ご飯も注意してるんです。おなかと真面目に相談して。
どのぐらいの量、どのぐらいのスピードで食べるか。
これもね、びっくりするぐらい幅がある。
パン一つ珈琲一杯で満足の一食もあれば、脂おかずバクバク、ご飯3杯でも
まだいけそうな時もある。

こんな簡単なことでも、人は、経験や知識から得た、
「こうであるはずだ」
という先入観、ロボット、考えなくていい楽さ加減、みんなと同じ安心、
そんなものを選ぶようです。
まして、感じ方や、考え方、はては生き方、
なんてタダでさえ難しいものになったら……
無意識、自動的にいい方向へ向かってくれる、
と無邪気に信じることは、できそうもありません。

今日の私は、昨日の私ではない。
そんな当たり前のことも、当たり前であるが故に、
人は忘れてしまうものなんですね。

また社会も教育も悪い。
こうであるはずだこうであるはずだこうであるはずだ、それが転化した
こうあるべきだこうあるべきだこうあるべきだのオンパレード。
三食喰え野菜喰え朝起きろ軽い運動をしろ眠るのは8時間90分1セット……
うるさい。
「標準的人間」なんか、どこにもいない。
それはおおよそ、うまく行ったうまく行ってる結果から
統計的に導き出されてるだけのもので、
「三振を奪るのはストレートが多い」だから「ストレートで三振を奪りやすい」、
そんなことはない。
もちろん、同じ考え方を、自分の中でも再生産し続けるのですが。

怖いなあ。
悲しいかな、しかしありがたいことながら、
自分の生き方を決めるのは、自分だけでしかありえません。
同じ結果の責任を自分で負うのならば、
自分の納得の行く生き方をしたいものです。
ひとつひとつ、その場で見て感じて気づいて考えて。
めんどくさいけど、楽しい。
ここちよさは連鎖的にここちよさを生み、拡大していきます。
そうしていけば、「理想の自分」に近づいていけるような気がします。
「明るい自分になりたいな」と思ってる、ってことは、
「明るい自分」がおそらく「心地よい自分」であって、
なら、ちょっとだけでも心地よくしてみると、つまり、明るくしてみると、
明るくなります。
あたりまえのことですけど、なんだかすごく大事な気がします。

……と、コムズカシク考えなくても、ゲームみたいで、
「よし当たり!」って、楽しいものです。
そうして楽しんでると、自然、いい方向へ向かっていくでしょうしね。

さくら全開の4月、自分にとっての「ここちよさ」とは?
にこだわっていきたいと思います。
生活も、つくるものも。

---

余談ですが、整体の野口先生おっしゃるには、人のエネルギーは
過剰すぎてもダメだそうで、そう言われてみれば僕はどちらかというと、
過剰型っぽいです。
疲れてないと眠れない。
燃料タンクのサイズが小さいんですね。
軽い分一発は速いけど、持久力まるで無い。

持久力がないので、今まで自分で不足型だとばかり思ってました。
だから結構大事に大事にしてたんです。長く寝るとか、きっちり食べるとか……
それは、小さなタンクに無理矢理燃料詰めるようなもので、逆効果だったのかも。
少なめを、欲した時に、って感じでいこうかな、と思います。
満たされて「よーしやるぞー!」じゃなくて、
「足りない!」と感じた時に、パーッとエンジンがかかるタイプのようです。

エネルギーという善そのものに見えるものすら、
多けりゃいいってもんじゃない。
実に生命というのは、多彩なものです。



以前のほえなが
04年 3月 2月 1月
03年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
02年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
01年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
00年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月後 6月前 5月後 5月前 4月後 4月前 3月後 3月前 2月後 2月前 1月後 1月前
99年 12月後 12月前 11月後 11月前 10月後 10月前 9月後 9月前 8月後 8月前 7月後 7月前 6月後 6月前 5月後 5月前 4月後 4月前 3月後 3月前 2月後 2月前 1月

「吼える!ながたさん」インデックス
2003年 2002年 2001年 2000年 1999年

<-Index