吼える! ながたさん!

随想随筆、軽く素直に面白く。

5/31 BOOKS

本日は5/1から5/31までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■□がAmazonへのリンクです)
いちおう、自分的にまるっきりダメだったものは掲載しません。
特に一般的におすすめできそうなものにはひとこと入れます。


■本■

「司馬遼太郎全講演(1)」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

「街道をゆく」23 「南蛮のみちU」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

「街道をゆく」24 「近江散歩・奈良散歩」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

「自動車ロン頂上作戦」 福野礼一郎 (双葉社)
 日本のクルマ好きは、福野礼一郎の存在に感謝せねばなりません。

「武」 甲野善紀/井上雄彦(対談) (宝島社)

「動きの達人入門」 (ムック) (ベースボール・マガジン社)

「上達の法則」 岡本浩一 (PHP新書)

「スランプ克服の法則」 岡本浩一 (PHP新書)

「アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉」 エリコ・ロウ (扶桑社文庫)

「世界最高のクラシック」 許光俊 (光文社新書)

「トッティ王子のちょっぴしおバカな笑い話」 フランチェスコ・トッティ (ベースボール・マガジン社)


●コミック●

「シュナの旅」 宮崎駿 (徳間書店)
 アニメ化、というよりもDVD化希望。

「自虐の詩」(上) 業田良家 (竹書房)
「自虐の詩」(下) 業田良家 (竹書房)
 感動もの。前半後半でガラリと印象変わります。僕はどっちかというと「愛は無敵だ」という上巻の方が好きですが、ラストに向けてのラッシュは圧巻。隠れた名作。

「カラダニキイテ」 ゼロの者 (一水社)【18禁】
 前巻で「これ以上(絵も作調も)崩すとちょっとマニアックすぎるかも……」と思っていたら、ぐっと戻してこられました。原点回帰の香りもする今作、さすがです。

「マゾママ」 LINDA (コアマガジン)【18禁】
 今や鬼ノ仁先生・月野定規先生と並ぶメガストア・ハイテンション三羽ガラス。エロは情念だと思い知らされます。

全然関係ないですが先日、
「それは、史上最大の愛のための戦い……
 『エロイ』」
というキャッチを見ました。
たくましいなあ、と感心しました。

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5月はなんだかあっという間でした……
今月一番ずしんと胃に重かったのはokbちゃんに借りた「自虐の詩」かな。
エレカシのライブと共に、「本質と表現」について随分考えさせられました。
そして、「愛ってなんだろう」(笑)
愛はともかく、「本質と表現」については6月頭からシリーズものの予定です〜。


5/30 パワード

朝寝を楽しんでおりましたら、どことは言いませんがとある政党の広報カーに
叩き起こされました。

「♪公明公明公明公明公明党〜〜〜
♪公明公明公明公明公明党〜〜〜」

しかもナマ声ではなくエンドレス・テープ再生。
自分がドムでなくてよかったと思いましたよ。
ホバー走行でジャイアント・バズ一弾倉叩き込んでるところでした。

あのね。
想像してください。季節も頃よい5月の晴れた日、のんびりした土曜の昼前に、
突然家電メーカーの宣伝カーが居座って大音量で広告始めるんです。

「パナソニックパナソニック! ディーガにヴィエラにレッツ・ノート!
 パナソニックパナソニックパナソニック! イエス!パナソニック!
 電池に電球、便座にケータイ、二股ソケット・コウノスケ!
 オゥイエアパナソニィイイイイイイイイイック!!」

「二度と買うか」思うでしょ?
うん、わかってますよ、わかってます。
一生懸命のあまり勇み足踏んじゃったんだよね。
テープの出来映えもよかったもの、組織ぐるみの犯行だよね。
「生活与党」として生活者の日常の一時を守りたい、
その気持ちが大音量テープ再生に繋がったんだよね。
あ、こんなことを言うとどこかバレちゃうかな(^o^)

勘弁してください。

---

クルマ乗ってて「怖いなあ」と思うのは、あれって凶器じゃないですか。
簡単に人を殺せる。包丁とかよりずっと確実で簡単ですよね。
現代社会にはそういうものがいろいろあります。
人間の力をブーストさせてくれるパワードスーツ(のパーツ)。
PCだってそうだし、携帯だってそうだし。

「外部動力の有無」というのが、文字通りパワードかそうでないかの境目だと
一応考えると、パワード/ノンパワードというのは、「道具」か「機械」かの、
大きな区別になるかも知れません。
(次の区分は頭脳、CPUを持つか持たないか、電子化されてるか否か、かな)
自転車と原付の差。
パワードされてる物体を利用する時は、馬にでも乗ってるように、
慎重に扱う必要があります。
小さな子供が前に来たら、非常に危ない、と。
この機械の馬たちは、主人に従順すぎるが故に、非常なる暴れ馬です。
おとなしい馬は主人が暴れん坊でもそれをある程度吸収し、
砂浜をアイキャッチの間に颯爽と走ってくれるだけで済むかも知れませんが、
機械の馬たちは、暴れん坊主人の言うことをよく聞いて、ただ暴れます。

スピーカー一つでも、「日本一声の大きい男を連れてきた」と思えば、
どこでどう叫ばせればどういう反応になるか、考えると思います。
でも、機械の大声男達は、あまりに簡単なので、
それを考えずに実行できてしまいます。
んで、こんなことになる。

機械のレベルならまだよいのですが、これが頭脳を持ち、電子化されると、
あるいはその先の、ネット化・情報化、されていくと、
どんどん影響力が巨大になってくる。
ネットデマ書き込み一発で何億といういわれのない風評被害が出る時代です。
普通に健全に淡々とやってきた何人もの何年何ヶ月分の労働の成果が、
誰かが鼻ほじりながらぽちょぽちょっと書き込んだそのデマ一つで全部吹っ飛ぶ。

ネットはちょっと行きすぎですが、スピーカー一つでも、
「生身の人間の行動」
に立ち戻れば、答えは最初からわかってるはずです。
今ががなり立てるべき時か場所かは。
人間がやれること以上のことを、機械化、電子化、情報化して行う時には、
「さてこれはホントに生身でやってもいいことだろうか」
という視点が、要るのかもしれません。

でないと、逆の、
「これだけの力が持てたのだからこれぐらいのことをやれるだろう!」
の考え方では、どこかに無理がでるように思います。
それが先ほどの宣伝カーであり、
「作れるから作った」ダムや干拓地や高速道路などの各種の公共投資ブツ
であるのではないかな、と思います。

---

人のことは全然言えなくて、
僕は今、こうして、PC使って、webで随想みたいなものを書いてます。
もう、パワードもパワード、最新鋭マキシマムパワードです。
ではこれが、たとえば紙に鉛筆で書いて、ガリ版(これは微妙ですが(笑))で刷って、
友達に見せる、それができる・またしたいものか、と問われれば、
一瞬言葉に詰まります。
「……ま、まあヒマツブシぐらいには」

それって、ホントに書く価値あるのか?

本にする、って例えコピー誌でも、物理エネルギーが結構必要です。
そのハードル超えるだけのエネルギーを持ってないものに、
読んでもらう価値があるのか。

もちろんながら、パワード・メディアであるがゆえの特性
(即時性・双方向性・超低コスト等々)
を存分に活かした、またそれにマッチした内容も多々存在します。
webコンテンツベースの、たとえば笑い話集めた奴とか、
掲示板のエッチな話集めた分とか、それこそP2PソフトのHOWTO本とか、
ああいうのは正直、出版物よりナマwebの方が迫力ありますよね。
それはいいと思います。
現に僕のこれも、刷るとスカスカです。
でもwebだと、このぐらいスカスカでちょうどいい(笑)
どんなメディアでも最適化されるものです。

ただ、古典的なエッセイなり小説なりは、
本、もっといえば手書きの原稿でも「うん!」と思うようなもの、
つまりノンパワードでもなお価値あり、
というものでなければ、お話にならないなあ、と思ったりするんです。
「まあ、webにあるから手軽に読めるから読んでみてよ」
というのは逆で。
「あんなに面白いものなのに、webで簡単にタダで読めちゃうよ!」
というのが、タダシイアリカタ……かな、と。

---

文明の力は、我々をとことんパワードしてくれるようになりましたが、
結局、どうやってもパワードされない部分こそが本質であって、
そこが磨かれなければ何も始まらない。
だから、磨こう。
パワードスーツは、ちょいと横に置いといて。


5/29 報道

(初出時には言葉が足りなかったようです、追補してます)

日朝首脳会談「報道」を見て、うんざりしました。
もう、TV新聞の「報道」は見ない方がいいかも、とまで思ってしまいました。

---

まず個人的な感想として。
「あの」北朝鮮相手に人質5人を持って帰ってきた、という一点で、
及第点、60点をあげてもいいと思いました。

割とお忘れの方多いですが、相手はシャブ中の銀行強盗です。
話の通じる相手ではない。

自国の利益のためにどこかの国の人をさらってくる。
許されざる行為ですが、頭では理解できます。
し、過去人類は何度もそれをやってきました。
もちろん日本もそうです。
WW2戦時中の強制連行、あるいは秀吉が朝鮮から陶工をどれだけ持って帰ってきたか。
また、その事実を突っ込まれた時に嘘をつくシラを切る。
これもまた、よくわかります。もちろん許されざる行為ですが。

ですが、それを認め、「すまんかった」と謝り、
その被害者達を返してなお、
「返した連中を(北朝鮮に)帰国させないのは日本の約束違反だ」
と言い放つ言動と神経、
これが僕には、まるっきり、どこをどうひっくり返しても理解できないんです。
旧ナチ戦犯を追い詰めてるのはドイツ本国です。
日本も、慰安婦や強制連行の問題で、賠償はしにくいけどゴメンでした、
とは思ってるじゃないですか。
それがない。ゴメンと思ってない。
もう、理解の埒外、理性の埒外の国なんです。
つまり、話の通じる相手ではない。

シャブ中の銀行強盗に、弁当差し入れて人質を5人開放させた。
もうそれで充分及第点じゃないですか。
差し入れた弁当が「吉兆」のだった、コンビニ弁当で充分のはずだ、
あるいは8人いけたはずだ、5人じゃ足りない、
それもこれも真実ですけど、でも、だから5人引き抜いた事実が霞むわけではない。
で、もうくびきの無くなった蓮池さんがべらべらしゃべりだしましたよね。
ああいう効果もあったわけです。
「もっとうまくやれただろうけど、やれたのは偉い」
てのが普通の評価じゃないのか……
なあ、と思ったわけです。

次に。
でも、家族会の怒りの絶叫、これはもう「わかる」なんて言葉を簡単に使えないほど、
心中察するにあまりある。
彼らは両国政府に対しどれほど叫んでもどれほど罵声を浴びせても、許されます。
今回も根本解決ではない以上、
(そもそも時が失われている以上、根本解決はありえないのですが、
 現状出来うる限り、を上限と考えると、上限以下ではある)
泣きながら絶叫する、それはもう、当たり前のことです。
我々も見て、「辛かろうなあ」と思うわけです。
特に、ちゃんと家族ぐるみで帰って来れた人達までいるわけで、
不公平感、というのはやるせなさを大きくします。
自分が同じ立場だったら耐えられるだろうか、と思うほどの苦しみだと思います。
だから、家族会の方は声高に訴える権利がある。

しかし。
政府というものは、総合判断で動かなければなりません。
前述通り、北朝鮮は核ミサイルを振り回す話の通じない銀行強盗です。
追い詰めすぎると何をするかわからない。
カードは向こうが握りしめてるわけです。
「もういい」と言われればそれで終わりです。
もちろん国内事情からしてそうは言えないだろう、という予想も立ちますが、
それはあくまで理性のある人間同士の場合であって、
あそこはそういう理性が通じる相手ではない。
「交渉が継続する」ということが、被害者の人命を優先する場合、
なによりも大切なことなのではないでしょうか。
今回は一応それも満たしている。
「10人は再調査」を、「実質ゼロ回答」というのはあまりにも誤訳でしょう。
問題の存在を認め続けている時点で、ゼロではない。
覚えてますか、つい3年前には彼らは拉致問題自体を存在しないと
言い張ってたのですよ?
そう考えれば一歩進んだ時点をキープしてる時点で、間違いとは言えない。

また、政府というものは、国民全ての利益のために動かなければなりません。
僕は思ってないですが、極端な話をすれば、
「わずか数人のためにそんな米や薬(つまり多額の税金)を出す必要はない、
 悪いのは連中なのだから、ただ制裁を加え続けて音を上げるのを待てばいいんだ」
という考え方の人だって、居るわけです。
そういう人達にとっては、同じ「失敗だ」でも、家族会の人達とは全く意味合いが違う。
でも、こういう人達の意見も吸い取って、
施策を決めていかなければならない。

そして最後に、繰り返しになりますが、相手がいることです。
たとえば思考実験として、国民総意として「このラインで行こう」とコンセンサスが
取れたとしても、あのパーマの人が一言「イヤ」といえば、それで終わりです。
交渉ごとというのは、一旦決着がついてしまえば、
それをつついても・悔やんでもしょうがないことです。
「このラインを譲るべきではなかった」という結果論は簡単ですが、
じゃあそれで今回5人帰ってこなかったら、それは成功ですか?
3ヶ月待てば8人になる、そんなことが誰が保証できるんですか?
「どんな犠牲を払ってでもまず5人」
というコンセプトのもと動いたとするなら、
これは100点だ、という考え方だってあるわけです。

それやこれやを考えて、僕は上述通り、
「まあ、60点だな」
と思いました。
致命的に取り返しのつかないミスないですし、
不明10人やジェンキンスさんのも継続ですし、
見返りは甘すぎると思いましたが、
なんといっても5人帰ってきた。これが大きい。

で、多くの人がそう思ってるだろうなあ、なんて思ってたのです。

ところがどっこい、夜のニュースは、あの天下のNHKでさえ
ど頭で家族会の絶叫から。
大失敗ムード、「こんなもの駄目だ」の大合唱。
それが延々深夜までスペシャルスペシャルで続くわけです。
「ええ!?」と驚きました。
俺の感覚はそんなにみんなの感覚と違うのか、と。

極めて悲しい気持ちになりました。
これで及第点あげなければ、じゃどこがボーダーなのだ、と。
手ぶらで帰ってきて、
「舐めたこと言いやがったから席立った、ガハハ」
とでも言えばよかったのか。
ああ、(理性的判断のできない)この国はもうダメだ、と一瞬思ったんです。

ところが。
翌々日でしたか、新聞に、会談直後の世論調査出ますと、
6割前後の人が「一応評価」している。
胸を撫で下ろしましたよ、「そうだよな、そりゃそうだよ」と。
全体の割合を個人の中の割合にしちゃうのは乱暴だと承知の上で暴論しますと、
60点なんです。
みんなが思ったのは。

はい。
ここで問題なのは。
「報道」によって、僕を含めた我々は
「ええっ!?これって失敗なの!?」
と思っちゃったわけです。
まるでそれが周囲の多くの人々の意見のように。
それは、事実に反しますよね。

「報道」たるものが、事実に反する気持ちや感情を呼び起こさせる、ミスリードさせる、
そんなあり方でいいのか。
違いますよね。
「報道」たるべきもの、事実を、できるだけ多角度からいろんな切り口で我々に見せ、
また、いろんな意見を
(その意見を支持する人の量で重み付けぐらいはしていいと思いますが)
聞かせる、
その上で、我々見てるもの、聞いているもの、読んでるものが、
総合的に判断して、
「うん、まあ、このぐらいならしょうがない」とか、
「いや、やっぱりもっと強く出るべきだった!」とか、
そういう自分の意見・考えを持てるようにしてくれる、
それが「報道」の意義ではないでしょうか。

---

非常に問題だ、と思うのが、報道機関自体が今回の問題、
自分達がどれほど間違っていたか、
これをまるっきり把握してないように見える点です。

そのさらに数日後、毎日新聞には、
「報道と世論調査結果のズレに戸惑い」
という記事が載りました。
何を言ってるのかサッパリわかりませんよね。
こんなタイトルあげてること自体が、
「報道」に報道機関もしくは見せ手の意見、考え方、それをねじり込んでる、
その証拠です。
言い換えましょう。
「カメラと街頭アンケート結果のズレに戸惑い」
おかしいでしょ? 日本語として。
これをおかしいと感じられないぐらい、もう何がなんだかわかってないんです。
しかもわかってないまま、それをも何がなんだかわからない記事にしてる。

「あれ、俺は『こんな結果じゃ駄目だ』と思って紙面組んだけど、
 国民はそうじゃなかったんだよな、失敗した」
と理解しているならまだいいんです。
それは悪意がありますし、不偏不党という原則から外れる、
よくないことだとは思いますが、まだ治りうる。
そんなことすら思ってない。理解できてない。

あまつさえ、今日(30日)の毎日の朝刊には、
家族会へ批判メールが殺到した事象を取り上げ、そんなこっちゃいかん、と言う。
批判メールが殺到した理由は、あなた方です。
だってぶっちゃけ、夜遅くまで何度も何度もあの絶叫聞かされりゃ、
僕だって思ったもの。
「しつこい。あんた達のためだけに国が動いてるわけじゃないんだ」と。
でもそのあとハッと気づいて、
「いや、家族会の人はどんな声をあげたっていいんだ。
 これは報道がしつこいんだ。だって会見は一回だもの」
世の中には理性のストッパーが掛からない人はいっぱいいます。
その行動自体は確かに、無思慮極まる浅薄な行動です。
でも、今回のあの報道を半日見せられりゃ、そりゃ家族会にメール出しちゃう気持ちも、
わからなくもない。
そして全部後出しで、家族会から、
「報道されてないけどねぎらいの言葉も感謝の言葉も出た」
と、「報道される」。

報道機関によって歪められた像目がけて、石礫を投げる愚かな人。
でもその礫は、生の人に当たる。
それを見て報道機関は、石を投げる人を扱き下ろす。
悪いのは誰ですか。
投げる人だけですか。

もう一度言います。
問題は、報道機関の人間が、「今何が問題か」すら、さっぱり理解してないことです。
あなた方は今、
「何を伝えるべきか」
を完全に見失っています。
そして、我々に要らないものばかりを、垂れ流し押しつけています。
そこが、問題なんです。

だから僕は、「もう見ない方がいい」と思いました。
見る価値がない、じゃなくて、
間違っていたり見当違いの情報を叩きつけられるので、
見ると害毒があるのです。

---

まとめます。
我々は「報道」に、事実、もしくはできるだけそれに近いもの、と、
自分では思い至らない他人のいろんな意見や考え方、
それを求めています。
「なるほど、そういうことが起きているのか」
「うーん、そういう考え方もあるか……」
それが「報道」の意義ではないでしょうか。

見たいものを見せてくれる必要などありません。
あなたが訴えたいものだけを声高に訴えてもらっても困ります。

それが新しいあり方だ、とは、「僕は」認めません。
それはドラマやwebの役割です。
新聞でも、社説でやればいいことです。
TVなら、論説委員のコメントでやればいいことです。
生報道に、それは要りません。

---

松本サリンの河野さんを、僕もてっきり犯人だと思ってしまい、
(河野さんホンマすいません)
それ以来「マスコミの言うことは話半分に聞くぞ」と肝に銘じていたのですが、
今回はしゅるしゅると、その半分も抜けました。

ひょっとするとこれは、
「マスを対象に」「直接報酬を受け取らない」システムが宿命的に持つ問題
なのかもしれません。
戦時中の大本営発表とか、報道側が被害者面してますけど、
あれは必然的にそうなっちゃうもの、なのかもしれません。
(圧力が怖い「だけではなく」深くコミットしすぎて大局観を失った報道しかできなくなる)
だとすると、これらのマス・メディアによる報道は、
歴史的な役割を終えつつある……のでしょうか。

現場には有意な方もまだまだおられると思います。
上で言ったようなこと、わかってても集団として動いてしまってて、
忸怩たる思いを胸にしてる人も、多かろうと信じます。
そういう皆さんには、可能性と本義を睨みながら、頑張っていただきたいと思います。
やはり、無いと困るし、寂しいし、不自然ですしね。


5/28 ユーロ2004予想

……の前に、U-23対トルコ選抜戦。2点。

・今野最高。
平山もそうですが、見てくださいあの地方都市の駅前の本屋にいる中学生みたいな
ど派手なルックス。まさに日本の誇るサムライファイター。
今や阿部・啓太をさしおいて1stMFです。
アテネでも大活躍を。

・ある選手が後半ロスタイム同点、両軍必死の戦いの最中、球を「待つ」プレーして、
見事奪われました。
「今なにをすべきか」わかってない選手は、全軍の士気に関わるので要らん、
と思うのですがどうでしょう。
山本さんが足掬われるとするなら、この「優しさ」に、かもしれません。
誰とは言いませんよ、坂田だなんて。

……もういっちょ、深夜のCL決勝。

ビッグイヤーはポルト。
V・バイアの雄叫びが印象的でした。
モリエンテスがオフサイド判定に泣かされてました。2つは確実に損してますね。
ジュリーの負傷退場もあって、モナコに運が無かったです。
どちらも洗練された守備システムが印象的でしたが、
であるが故に先制されて前に出ざるを得なくなると辛かった。
モナコは左サイド・ロテンを基点に攻めるんですが、
持っても次の一手が無いんですね。個人技だとポルトのDFのが上。
で、止められて押し返される。
ジュリーが居れば……と何度も思いました。

しかしディディエ・デシャンという人は、強運持ってますねえ。
ビッグイヤー、W杯、ユーロ、もちろんスクデット。
全部持ってる人は珍しいですよ。ジーコだって持ってませんからね。
そして今監督としても決勝進出、来季はユヴェントス、って話まで。
幸せな人です。

---

さて。ユーロ2004です。
欧州のスターが集う4年に一度の戦いで、
W杯と同じくらい格式のある(=選手が一生懸命)イベントです。
TBSでも9試合ばかりやるそうですので、
あまりご存じない方のご参考になれば、と思い。
(といっても風評だけの口サッカーですが(笑))

上から順に強そう順。

◎イタリア
なんといっても穴がない。
伝統のDF・GKの守りはもとより、ボボ・アレックス・トッティ等々の
アタック陣も無駄に豪華。
なにより、長年の課題だった「ゲームの組み立て」が、
二頭の狛犬に守らせたピルロを軸にする、ミラン・システムでもう大丈夫。
率いるは(ちょっとold timerっぽくも思えますが)名将・トラパットーニ。
天敵・韓国もいない。文句なく優勝候補です。

○フランス
アンリ・トレゼゲをジダン・ピレスでコントロール、それをヴィエラとマケレレが支える。
ここまでは疑いようもなく世界一です。
ただ、CBが。デサイーもさすがに寄る年波、若手は「超一流」には今一歩。
全体のバランスがここで破綻しそうな気がしなくもないです。
GKもバルデスがようやく「復調の兆し」って感じなので、はて、間に合いますか。
あと、サンティーニ・コーチの手腕にも疑問符。
アネルカとの子供っぽい諍いや、大きな国際舞台での経験不足も。
その3点が弱点、あとは強豪国に共通ですが、あまりにスター選手揃いなので、
レギュラーシーズンでかなり疲れてます。それをどう誤魔化すか。

△イングランド
今回はジェラード&ランパードが大きいです。
守備的MFがバッチリ決まれば、W杯チームよりもグッと強い。
ただ、選手層が薄い上に、リオ不在を始めケガと不調の渦巻くCBが不安。
ここを知将エリクソンがどう捌くのかが見物です。
オーウェン・ルーニー・スコールズ・ベッカムの攻撃陣は、
当たればなかなかの破壊力。ただ、調子の波が……
デイビッド若大将の、レギュラーシーズンでの鬱憤を晴らす大暴れに期待したいところ。

▲オランダ
いつものメンツが並びますが、それが故に間違いなく強い。
そして、それが故に間違いなくいつものオランダ(笑)
ここねえ、ここ一番でいつも美しく散りますからねえ。
そして毎回、「今回こそ今回こそ」いわれて、また散る。
ドロー次第ですが、またいつものように、優勝国と準決か準々決で当たって
悶絶名勝負やって散る、そんな気がします。
また、みんなそれを期待してたりして。
攻撃力はずば抜けて一番だと思いますが、ちょっと高齢化も気になるので、
イングランドの下に。

×スペイン
選手層はバランスいいと思いますが、この国はいつもまとまりがない。
力あるんですけど、まとまらないうちにポポン、と2点も取られればそこでジ・エンド。
今回も強力なリーダーシップ取る顔は見えず。
本来ならラウールがその役を(ベッカムのように)果たすべきだと思うのですが、
あの人、それはやらないんですよね。
(レアルで実証済み。そこが非常に低評価な人も多い)
優勝は事故でも起きんかぎり、無理です。
スペインの弱点はそこなんですが、いつまでも直りませんなあ……
無敵艦隊がどうして負けたか、観てると歴史の勉強になります。

・ポルトガル
相変わらずマジカルな中盤、でもトップが「パウレタか……」てことで、優勝はキツイ。
ですが、地元ってこともあってかなり頑張ると思います。
ポルト(その名の通り、ポルトガルの名門です)がCL獲りましたし、いい風は吹いてますね。
今シーズンキレまくってたフィーゴが楽しみな、大穴馬券です。

・ドイツ
無理。

・チェコ
ネドヴェドを軸に、予選結果も凄くよく、ダークホースとしてちょっと期待してました。
(96ユーロで準優勝)が、今の日本代表にやられちまうようでは……。
ここもどれぐらいかき回してくれるか、って感じでしょうか。

・デンマーク
いつもなーんとなく強い(笑)グループリーグでイタリアをどういじめるか、がポイントです。
個人的に、ミランでサブ扱いされても愚痴をこぼさず結果を出し続ける
ヨン・ダール・トマソンはかなりファンです。
シンジはこの人や、今回オランダ代表にも呼ばれてますファン・ホーイドンクに
ベルベット・パスをガスンガスン送っており、
なんといいますか欧州のスカウトはなんぼほど見る目がないねん、と。
どうすか、油モビッチさん。

---

イタリアとフランスが軸、そこにオランダとイングランドがどう噛みつくか。
トーナメントでは、「負けない」チームが強いです。
ということは、人間で言えば腰にあたる、GK・CB・ボランチのダイヤモンドが
ガッチリ決まってるチームが強い。
となると……イタリアかなあ、と。

イタリアは4年前、手に入れ掛けた欧州王座のタイトルを、
後半ロスタイムで同点に追いつかれ、延長で逆転されて
フランスに持って行かれました。

観てたんですけど熱かったですよ〜。
ロスタイムに入ってね、「勝てる」と思ってるのはイタリアの選手とベンチだけなんです。
フランスの選手はもとより、スタジアムも、観てる世界中の我々も(イタリア人を除けば)、
「いや、このフランスなら最後までわからない」と思ってました。
当時は98W杯チーム基本で脂乗ってましたからね。
で、ウィルトールの同点弾決まった時点で勝負あり。
後半終了、この世が終わったようなイタリア陣営、
満面ガッツポーズのウィルトールと共に引き上げるフランス勢。
まだ同点、もう一度気持ちにリセット掛けるべきじゃないですか。
それができない、っていうのは、その力がもう無いんですね。
だから失った魚ばかり追う。
「ああ、こりゃフランスだ」と思いました。
でやっぱり、トレゼゲが決めちゃった。
サッカー、いや勝負の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。

その時、ウィルトールだったかトレゼゲだったかをマークしてて、
ボロカス叩かれたのがDF・カンナバーロ。
でも、ヨレヨレのイタリアを
(中盤構成力がカスカスだったんです。02W杯はその延長に過ぎない)
そこまで引っ張ってたのはどう見ても彼の超人的活躍で、
当時「イタリア人はなんて厳しい」と思ったものです。
そして今回キャプテンマークを巻くのは、そのカンナバーロ。
98フランスでは優勝フランスにPK負け、
00ユーロは決勝で劇的逆転負け、
02コリアジャパンでは赤いスタジアムになんだか負け。
そろそろ、巡ってくるような気が。
アズーリは、彫刻のような濃ゆい男前達の汗だく姿を観てるだけでも楽しいです(笑)

名勝負期待〜。

ユーロのオフィシャルサイト↓
http://jp.euro2004.com/index.html


5/27 HDD/DVDレコーダ

やってみないと本質がわからない、やってみればすぐわかる、
そんなことはたくさんあります。

弟のHDD/DVDレコーダが、LDK(早い話が台所)にやってきたんです。
正直、興味なかったんです。
あれはヘビィ・TVウォッチャーが使う物で、僕にゃ関係無いと。
ところが、まま上が使い出した。
「冬のソナタ」と毎週日曜の「趣味園芸」を録るために。
「趣味園芸」って8時何分かからなので、それまでもビデオデッキで、
忙しい朝は録っておいて、時間ができたら観る、というタイムシフト視聴してたんですね。
あれって、まさにそういう使い方にぴったりじゃないですか。
で、実際「実に便利だ」とめっちゃ使いこなしてるんです。

負けてられませんな(笑)

触ってみたわけです。
一見複雑そうに見えるリモコンやインターフェイスも、結局ビデオと一緒ですから、
ものの10分もやってると慣れます。
時間とか直接入力でも簡単ですし、Gコードならもっと楽。
一瞬。
記念すべき初録りは米朝師匠の落語。
その日の深夜1時からだったんですけど、翌日の食事時に再生。
一瞬。
前座は要らん。飛ばす。
一瞬。
CMは要らん。CMスキップ。
一瞬。
松之助師匠は聴く。
見終わった。消去。
一瞬。

うおおおおおおお便利いいいいいいい(泣)

高野さんごめんなさい。
もうVHS使えません。
ADSLが来たあの日。液晶モニタが来たあの日。
そのぐらいの衝撃でした。
舐めてました。ごめんなさい。

ビデオ録画の面倒くささ、って、実は「操作」じゃないんですね。
テープそのものをゴチャゴチャ用意したり、巻き戻したり、
巻き戻してなかったら途中で録画切れて泣きそうになったり、
爪折ったり、保存するかしまいか迷ったり、
そう、「テープそのもの」が面倒だったんです。
「ビデオ予約」といえばわかりにくいインターフェイスの代表格として、
今まで叩かれに叩かれ続けてきましたが、あれ、冤罪です(笑)

だもので、私のようなライト・ユーザーこそ一番恩恵を受けます。
「これ観たいけど、録るほどじゃないよな……」という心理抵抗が一切無くなる。
「その時歴史は動いた」とか。微妙でしょ?(笑)
副産物ですが絵もキレイですよ。カセットとMDの差ぐらいあります。

「もう元へは戻れない」
「人に『使え』と絶叫したくなる」
が、普及する工業製品の二大特徴。
現在普及率7%程度だそうですが、ま、見てる間に100%ですな。
携帯やカーナビに同じ。いや、ビデオの完全アッパーコンバチだから、それ以上か。
急激に進歩してる最中の商品なので、3ヶ月待てばいいものがガンガンでてきますが、
今のベーシックなモデルでも充分その便益は手に出来ると思います。
メーカーもどこでもいいんじゃないですかね。
焼く、ってことは永久保存ですから、どれでもできる-Rでいいわけです。
Bluerayなんか待たなくていいです。本質は、そこじゃない。
オススメです。

MPEGエンコードやHDD書き込み自体には余裕あるらしくて、
2番組同時録画なんか簡単らしく、上位機種にはそんな便利なものも。
今度のVAIOには「7チューナ」なんてふざけた機種もあるとか。
「チャンネル争い」とか「お兄ちゃん私の予約取り消したでしょ!」とか、
そういう言葉が死語になるんでしょうねえ……

おかげで、
「ビデオデッキが壊れる前に、膨大なVHS/8mm資産をなんとかしないと」
と幾分焦り気味です。
だってほら、レコードプレーヤだって一瞬にして消えて無くなりましたからね。
そのぐらい、インパクトありました。

やっぱり、愛と電化製品は地球を救うのです(笑)
ビバ・サイエンス。


5/26 First Principle (4)

昨日のもずき。

「一つの根本原理(FP)を定め、それに「だけ」焦点を絞った戦い方・鍛え方をする」
のは、普遍的に有効なことではないか、と。
料理人さんならば「塩加減だ!」とか。そしてそこを徹底的に追い込む。
すると、相当上手く行く。これが、中級の卒業証書ではないか。
それは人に固有のものなので、そこの意識を忘れないようにしつつ幾多の経験を積み、
自分で見つけるしか無い。
日本人はそういう戦い方が(今は)苦手ですが、
それがあると、他者を認めやすく、シンプルに生きれるような気がしますねえ。

---

ただ、過剰な情報の奔流は、日本だけでなく先進諸国どこでも起きてることです。
(日本人はたまたま前述のような素地があったから、ビビッドに出てるだけで)
その中で、
人間の行動が極端にスピードアップされ、(でないと追いつけない)
マニュアル化され、(でないと対応できない)
人間の動物としての限界、「身体性」を超えようとしているような気がします。
考える時間も、感じる時間すらなく、
自分が作ったと思いこまされている、誰かの作った、
(もちろんこの誰かもさほど人生込めて作ったわけではない)
マニュアルのチェック項目を潰すことで毎日を過ごす。

工業製品でもサービスでも映画でもゲームでも本でもそうですが、
2年3年、多くの人の手間暇がたっぷり掛けられたものが、
一月で話題にも上らなくなる。
それでは食べていけないので、与える側はますますオートメーション化し、
マニュアル化し、効率を上げ、作り出すまでのスパンを短くする。
そんなものが心なんか打ちゃしないですから、
また、それは波の波形を鋭くするだけで、悪循環。

悲鳴のように定番へ逃れるのですが、
「定番紹介本」が毎月出てくる末期症状。
「流行りの定番」なんて矛盾した言葉が、なんの疑問もなく使われている。

まさにレミング。

「もうちょっと落ち着いてー!」って絶叫する人も居てくれるのですが(笑)
この轟然たる流れの中では、「落ち着く」ことにこそ、
凄まじいエネルギーが要るのです。
「スローライフ」って、ATM並んでる時に後ろでイライラしてる人にニッコリ笑ってどうぞ、
そんなんさらにストレス溜まる。
楽でも簡単でもなんでもない。
(向いてる人もいるでしょうけど……かなりレアじゃないかな……
 「あずまんが」の大阪みたいな子、ってそうザラに居ないですよね)

だ、もので。
流れに流されるのはもうしょうがないとして、
ただ流されるだけでなく、
ただ棹さして無駄な力を使うのでもなく、
流されつつもぴょぴょぴょ、とヒレを動かして、自分の望む方へ望む方へ行ってみる。
そーんな感じで動いてると、
楽で速くてカッコイイ……かも。

そういう人が増えると、濁流であっぷあっぷしてる人も、気がつくじゃないですか。
「どうしてあの人はあんなに楽しそうで、あんなに楽そうなのに、
 あんなに上手くいってるの!?」
そうすると、濁流も徐々に落ち着く、かもしれない。
あるいは濁流のままでも、「こっちじゃないよな」ってみんなが思う、かもしれない。
するとまあ、少しはマシな方向へ、流れが向かう……かも、しれない。

理想論ですかね。
でも、核・テロ・環境・プロペラシャフト脱落、
種まるごとの自殺手段を色々持っちゃってる以上、
社会的な動きから完全に無関心でいられるわけはありません。
そりゃ、逃げです。
小さくとも声を上げ、ささやかでも行動で見せないと。
だから、「こっちのがいいんじゃないすか?」と。

---

「情報過多が本気でヤバイ」
と思い、行動に移してる人は、実は結構居るようです。
こないだ、福野礼一郎(自動車評論家)兄さんの本読んでたら、
「PCも携帯もFAXも『捨てた』」そうです。
んなことやってたら自分を亡くす、と。
その前には甲野先生と井上雄彦先生(「スラムダンク」の)の対談本読んだんですが、
井上先生って出版業界人でも「連絡がつかない」とか。
でね、僥倖なんですけど、3月〜4月に一月ばかり、うちのネット止まった時に、
何もかもダイヤルアップでやって、
「あれ? 結構いけるな? というか、こっちの方がいい?」(笑)
礼兄さんみたいな極端をやる勇気は持てないですが、
たとえば携帯持つにしても、出る時だけ、とか、やりようはある。

その頃から、「ほえなが」もかなり考え方変わって、
「せめてダイヤルアップでも読みたくなる程度には」と。
(といっても毎日なので、時には崩れちゃうんですけど)
つまり、「多少の代償を払っても、あれは手に入れたい」
と「意識的に」思ってもらわなければなるまい、と。

それは、ネットや携帯が悪いのではなくて、
ひっきりなしの情報そのものがマズイのです。
本も雑誌もテレビも同じ。
いや、字や絵や音だけじゃないですよ。
街の風景さえ、どれほどうるさいか。
ひっきりなしにある意味の薄いイベント、毎日がつまらないお祭り。
社会制度もそう。
「お前の将来のためやゆうたってるやろ年金払え殺すぞ!死ね!」
「ゆとりの教育を!ゆとりゆとりゆとりゆとりゆとり!キーーーーーッ!」
で、繰り返しになりますが、
「勘弁してよ〜」とフラフラ彷徨ってますと、
「お客様どのように癒されるのがお好みでいらっしゃいますでしょうかこちら西インド諸島で1960年代から伝わります伝統の美味エステでありまして当店ではAセットBセットCセットを基準といたしましてご自由にアペリティフ・サラダ・メイン2品・デザート・飲み物がお選びいただけるようになっておりますセット価格でなんと20円お得(ただしポイントは除外)もちろんマイルもプレゼントされます(有効期限は最終搭乗日から2年が経過する日までに弊社のフライトをご利用いただけない場合(チケットを既にご購入でご搭乗がまだの場合は除きます))」
って。

そりゃ、ま、一旦止めちまうほーが早い(笑)

しかし前述通り、止めてしまうのもそれはそれで大変。
だもので、濁流に曝されながらもFPで判断して、
「あ、それは要らん」「これはこの部分だけ要るな」
てのが、トータルで楽なのかなあ、と思います。

「毎回判断」ってコスト高に思えますが、
部屋の掃除を思い起こしてください。
出したらすぐ直す・毎日ちょっとずつ整理する
を続ければ、常にキレイで、かつ大労力も使わなければ、大崩壊も起きないですよね。
結局、コスト払わざるを得ないなら、その払い方が一番なんです。

(捨てる、のは「払わない」というやり方です。
 これはたぶん、別のところで払ってるんです。
 たとえば、仕事部屋としてホテルに缶詰になる、のと同じ。
 片づけコストゼロですけど、お金ぶちまけてますよね。
 もちろん、だから悪い、ってわけじゃなくて、解決法の一つですが)

と、いうことで、
こんな感じで、根本へ根元へ真ん中へ基本へ初心へ初めの一歩へ、
自分の中の小さな核、しかしそれが無ければ自分ではない、という大切な核へ。
いつも戻っていたい、と思います。

---

話が大げさになってしまいました。
まとめると、「ピッチングの真髄は真っ向勝負」ってことで(笑)

自分の真髄を見定める。
それが、「強さ」の真髄のようです。

---

蛇)
レミングですが、あれって自殺ではなくって、
みんなでガーッと移動せざるを得ないから、(餌がないので)
「みんなと一緒に懸命に走ってたらそこが川でした、溺れる〜」
って感じらしいです。
移動行動を起こすこと自体、種としての集団自殺システム、と言えなくはないですが……
どっちにしろ、人間社会の現況と変にマッチします。
こわいこわい。


5/25 First Principle (3)

一昨日のもずき。

「一つの根本原理(FP)を定め、それに「だけ」焦点を絞った戦い方・鍛え方をする」
のは、普遍的に有効なことではないか、と。
料理人さんならば「塩加減だ!」とか。そしてそこを徹底的に追い込む。
すると、相当上手く行く。これが、中級の卒業証書ではないか。
それは人に固有のものなので、そこの意識を忘れないようにしつつ幾多の経験を積み、
自分で見つけるしか無い。

---

で。
日本では、この戦い方が、あまりなされません。
思うに、巷に溢れる口うるさい多種多様なメソッド、情報、お節介なクチバシ、
茶々、冷笑、無責任な批判、
これらが、この戦い方を遠ざけている。
もちろんのことながら、子供の頃から、
こうした「剛球一本」の育て方なんかこれっぽっちもされてない。
学校は言わずもがな、社会の一員としても、です。

M澤先輩が、N.Y.で世界に冠たる大企業に長期出張してて、メールくれました。
「日本では、全てのことに綿密な精密さが要求されるけど、
 あまりキチンとしていなくても世の中は動くんだ(動いているんだ)(笑)
 ということを知り目からウロコです」

まさーしくーおっしゃるーとおーりー。

コンビニの祝儀袋とか、そういうのはもういいんです。
ああいう小綺麗なのがあるから、それをやってないと、
「なんだそんなこともできないんですか」みたいな話になる。
そうじゃないですよね。
ご祝儀、っていうのは気持ちが一番大事で、次が金額(笑)
茶封筒10万とコンビニ美麗封筒3万、どっちが嬉しいですか。
はい、前者ですね。

ここで、騙されてはいけないんです。
コンビニの祝儀袋に。
こんなものに、価値はゼロです。

今の日本にはこーゆーのが多すぎます。
それは、丁寧で繊細で几帳面、なんでもピシッとできちゃう日本人の美点の
裏返しなので、しょうがない面もあるんですが、
でも、行き過ぎ。
年金の話もそうです。
「20年前に6ヶ月払ってませんでした、すいません総理大臣辞めます」
おかしいでしょう!?
これを、おかしくないと思ったら、おかしいですよ。いや、マジで。

物事のプライオリティをつける感覚器官、みたいなのが、
あまりの情報量と新規の情報が加わるスピードに耐えかねて、
オーバーフロー起こしてる。
天秤が、まるっきり正常に作用してない。

日本人は制限の中で頑張るの非常に上手いです。
軽自動車をご覧なさい。
あんな涙ぐましい無駄な努力、ありゃしない。
悪いように言い換えますと、
横並びの中でいかに自尊心を満足させるか、それがやたら発達してる。
同じ3万の中で、どれだけ印象よく受け取って貰えるか。
んなこと考えてる間に10万渡せ。

ヤバイなあ、と思うのが、最近、
「さすがにそれはヤバイだろ」と考えて、
茶封筒で10万出す人もぽつぽつ出てきたんです。
でも、そんな人に向かって、
「ぎゃはははは、なんて失礼なヤツ!」って嗤う。
もちろんコイツ出してるの1万とかですよ。
もっと酷い事態になると、受け取ってる本人が、
「10万はいいけど、祝儀袋に入れてくれたらよかったのに……」って言う。

やばい、でしょ?

しつこくねちっこくいきますよ、たとえばケーキ屋さん。
「美味い」ってのがなによりで、あとはまあ、いいじゃないですか。
ちょい高めでも、ご主人の奥さん(おばちゃん)の白箱たたむスピードが遅くても。
ところがどっこい、今の日本じゃ
・美味しさ ・接客態度 ・店員の制服 ・ビニールの剥がし易さ
・銀紙へのクリームの付着度 ・ドライアイス計量の的確さ
・ケーキ箱の堅牢性 ・母の日にカーネーションをくれるかどうか
・そばにカラオケ屋があるかどうか
・フルーツゼリーの容器が使用後、コップとして再利用できるかどうか
でいちいちいちいち採点して、
それだけならまだしも、
「各持ち点10点ずつの100点満点」
って採点をしちゃう。
ヘタすると、「・美味しさ」が0で残りフルマーク、で90点取る。
で、みんな、心の底ではこれっぽっちも満足してないのに、
「90点だから」とか、一生懸命満足しようとする。

で、FPの話に戻ります。
ごちゃごちゃごちゃごちゃ多方面の切り口を考えすぎるから
話がややこしくなるのであって、
「俺のケーキ屋基準は、何はさておき味やッ!!」
と決めれば、スカッとするし、選択も間違わないし、満たされた生活ができる。
それが、「これ」、first principle。

シンプルライフ、っていうのはそういう生活を指すのであって、
ただモノが無いだけじゃない。
修行僧みたいに生きてても頭の中ガラクタだらけな人もいれば、
最新デジタルガジェットに囲まれても、めちゃめちゃスッキリな人もいる。
捨てる、んじゃなくて、整理し直す。
本棚見てください、99%の本が、ここ1年見たこともないものだと思います。
だって本なんて、技術書(専門書)と辞書とエロ本除けば、一度読めばいいもの。
だからそんなの、捨てれなくても、段ボールに詰めて押入でいい。
だのに、本棚ばかりを通販生活で買い求める。
すいません僕です。
もちろん、モノだけじゃないですよ。
ネットワークとか、考え方とか、姿勢とか、なんでも、そうです。

欲を捨てるんじゃなくて、欲をひとつに絞る。

我々は、捨てられない凡人であり、多くを同時に求められない凡人ですから。

そしてそれが身に付いてくると、
他者や社会を見る目にも、バランスが戻るのではないでしょうか。
「僕の軸はこれ」
「だからこの軸から見ればダメだけど、
 ひょっとするとこういう軸の人には、いいかもしれない」
「これ最高だと思うけど、でもこの軸は社会的には大外れだよなあ(笑)」
とか。

もちろん世には、祝儀袋に1000円掛けて、百貨店常駐の代筆屋さんに
表書きしてもらって、袱紗に小笠原流で包んで、1万円持っていく、
そういう価値観があっても、いいと思います。
でもそれと同時に、茶封筒に10万包んで、
「ほいよ。おめっと。少なくて悪りぃけど」
という価値観があっても、いいと思うんです。

どっちも認めるには、逆に自分の中心、FPが要るような、気がするのです。

もう一回もずきます。
なぜこうなっちゃったか、だけ。


5/24 エレカシの夜

すみません、ちょっと割り込み。FPシリーズはまた明日。

---

2時間立ってると膝が痛くなる奇病のためユーロ2004を断念した
「西北のベルゴミ」(西北=西宮北口。早稲田ではない)
ことokbちゃんと、ライブ行ってきました。
エレファント・カシマシ。

ザッツ・エンターテイメンツ!(笑)

いや、あのね、ぶっちゃけ、ファンでもなければ、CDも2枚聴いただけッスよ。
その感想も「ほほぅ、ロックですなぁ」なんてご隠居意見。
ロック系のアーティストだからって、斜に構えたイメージ勝手に描いてたんです。

ぜんぜん。
大衆演劇(笑)。
なんかもう、最初から終わりまでニヤニヤしっぱなしでした。

過剰演出一切無し、音合わせ軽くこなせばライト・オン、
一曲目からフルスロットル。
何言うてるかわかりません。
でも「こうだろ!?」って叫ばれたら、「うんうん!」って、うなずいちゃう。
ボーカル宮本さん、歌いながら見得を切る。
もうね、歌舞伎と同じ。
カーンッ!ってポーズ決められちゃ、こっちはもうワーッ!って手を叩くしかない。
それが、「ほら、ポーズ決めるから拍手してよ」っていう「お約束ごと」ではなくて、
ホント、内なるものを爆発させればこうなりました、って「本物」なんですよ。
未開人の祭りの踊り。
だからこっちもノる。
ほら、ロックって、ボーカルが時々ギターやベースの人と絡むじゃないですか。
あれも、絡むために絡んでる、んじゃなくて、
ほんとに体内に渦巻いた行き場のないエネルギーを、
ギターの人を被害者にして発散させてる。
だからそれでまたこっちも盛り上がる。
ギターの人もやられっぱなしじゃなくて、
そのエネルギー受け止めて自分のエネルギーにする。
で、ギュアンギュアン弾きまくる。

ロケンローですよ、転がる岩ですよ、ええ、もう。

でも、一人で逝ってしまってるのではなく、こっち向き。
でもこっち向きなんだけど、媚びたりおもねったりは一切無し。

ロックが若者の心を激しく捉えた理由が、
お恥ずかしながらこの歳で初めてわかりました(笑)
あれね、要するに
「俺達でもできるんじゃねえか!?」
ってのが一番のポイントなんです。そして、
「やってみよう!」
と思わせる。で、実際やっちゃう人も多い。
楽器なんてなんだっていい、曲もてきとーで鼻歌でいい、
自分の一番「イイタイコト」を、心の底からの大声で、叫んでさえいれば、
それがロックです。
ボーカルだけじゃなくて、各楽器も同じね。
逆に言うとそうでないものはロックでもなんでもない。
つーか、人に聴かせる音楽でもない。

もちろん音を作り込んでいくタイプの音楽に価値がないとか、
そんなことは全然思いませんが、
これが原点のひとつだ、というのは間違いない。
音楽の最初ってば、そうだったはずです。
他にも、労働を軽くする楽しくするもの、静かな時間に彩りを添えるもの、
楽しいお祭りをさらに盛り上げるもの、描いたイメージを音で表したもの、
神様含めた大自然に畏敬や感謝を捧げるもの……
いろいろあるでしょうが、
「俺、こう思うんだけどどうよ!」
ってのも、人にとって、コミュニケーション、会話の延長と考えれば、
非常に「刺さる」ものではないでしょうか。

でもそれって、このタイプの音楽が一番ジャストフィットするの、って、
やっぱりこういうライブハウスなんです。
CDじゃ情報落ちすぎ。ていうか、楽しみ方が全然別物。
もちろんTVでもDVDでもダメ。
武道館とか、ああいう大きな箱もちょっと違う。
3階席から100m先のものを観る、ってそういうのじゃない。
ロックは、そしてエレカシは、ライブに限る。

そうそう、「俺でもできそう」とか言いましたが、絶対できません(笑)
2時間、フルスロットル・シャウトっぱなしです。
僕なら5分で倒れる。
もちろんボーカル以外の3人も全開全開大全開。
ドラムの人なんかドラムも本人も壊れるかと思うぐらい。
しかし息バッチリで、ボーカルのワガママをちゃーんと拾いまくって、
しかも出しゃばったりはしない。
心地よいシンプルな大音量の上に、「叫び」という言葉が乗る。
まさに基本です。
飾り気ゼロの大衆食堂、トンカツ頼んだらめちゃめちゃ分厚い美味いヤツが
ガーン!って出てきた。そんな感じ。
「演出もいいけどさ、その前にやることあるだろ?」
って言われてるみたいで、ちょっと赤面。
ラスト3曲のラッシュなぞ、アンコールの拍手をしながらも
「いやもう、バラードかなんか静かなオマケでいいから」
ってこっちが遠慮しちゃうぐらいでした。
これをツアーとなると1日おきで1ヶ月、日本中を移動しながら、15回ぐらいやっちゃう。
バケモノです。プロです。
ロックは、スポーツですか。

いや、おみそれしました。
元気になりました。
元気って、伝染しますよね。

これは、「ディズニーランドへ行く」とか、「美味しいもの食べに行く」、
「大作映画観に行く」、と並列で並べるような、「楽しみに行く」ものです。
ファンでもなんでもない者に、「おもしろかった」言わせる、
それはなかなかのものです。

楽しかった。

---

その後okbちゃんと新婚若奥様たーこさんと一緒に、
地元の焼鳥屋でくだまき。
ここがまた美味くて安い。
okbちゃんはこういうとこ見つけるハナが凄いよく効きます。

いやしかしアレですな、この夫婦は。
古き良き時代の少年誌にラブコメ載ってるじゃないですか。
高校生のカップルがメインの。
具体例挙げると「キックオフ」とか思い出してください。
古いとか言うな。
でも、現実というのは厳しくて難しくて難しくしてて、
そんな二人がそのまま幸せになったりしないですよね。多くの場合。
ところがそれが、そのままくっついてしまった、そんな感じなんです。
見てて非常に羨ましいそして微笑ましい。

そんな高校生活を送ってみたかったものさ。
む? okbちゃん高校どこだっけ?
え? 僕と同じ?

ドコデ ミチヲ フミハズシタ コトヤラ。
コウカイハ シテナイヨ?
シテナイ。

(ナミダ)。

帰りはまた二人で、電車見送りダッシュをやってくれました。
okbちゃんの出足は、ユーロに充分間に合いそうでした。
トラ爺に電話しておきます。

いい夜でした。


5/23 First Principle (2)

昨日のもずき。

「一つの根本原理(FP)を定め、それに「だけ」焦点を絞った戦い方・鍛え方をする」
のは、普遍的に有効なことではないか、と。

---

スポーツのみならず、勉学でも趣味でも稽古事でも、
先日の「手法中心」じゃないですけど、
今はもう、ホント、山のような「ああしろこうしろ」が、
当人の周囲でブンブンと唸りをあげています。
ヒッジョーにうるさい。
しかも、それを一個一個詰めていくと、とってもじゃないけど、
人間のカヴァーできる範囲をすでに超えています。

つまりもう、好むと好まざるに関わらず、
「時と場合に応じて柔軟に戦術を変更し、ありとあらゆる事態に対応する
 強固で重厚で堅牢なシステムを作り上げる」
というやり方が、無理なのではないかと。
いや、無理ではないにしろ、それが出来るのは、
そのゾーンゾーンで寡占されてしまう。
メジャーで言えばヤンキース、(巨人と違って)隅から隅まで名選手だらけ。
でもあれができるのは、ヤンキースしかない。
だからって、他のチームも勝利を目指さなければならない。

だからもう、「全部やる」ってのは諦めて、そうした雑音に惑わされずに、
自分の中に、ファースト・プリンシパル、コア・タクティクス、
根本原理、第一原則、核理論、要するに要するに
「これ」
という一点、そこをまず、見つけ、定めていく。
そこから始めるのが、いいのではないでしょうか。
そうすると、堅牢で重厚なシステムにも、一点突破で勝てる可能性が出てくる。

---

たとえば、ですけど、料理人さんだったとしたら、
「『美味い』とはなにか」
を追い求めていった結果、(その人にとってそれは)
「塩加減だッ!!」
と開眼するかも知れません。
と、なれば、もう塩加減一本で味を組み立てていけばよくて、
他の甘いとか酸っぱいとかそういうのは、塩加減に従属させていけばいい。
そこを、自信がないうちは、雑音気になるので、
「いややっぱり甘みから組み立てる味もあるだろう……」
とか、気になってしょうがないわけですね。
で、その気になって探せば、いくらでもそういう知識・情報が海になって存在する。
呆然とする。
でも、ラーメン職人がパリで店開けるパティシエの知識知ってる必要はない。
(もちろんあってもいいんですけど)
そんなヒマがあったら、塩加減を極めに極めた方が、
よほどラーメンの味は良くなる。

繰り返しになりますが、
上原の「これ」が井川や松坂の「これ」ではないように、
「これ」はその人によって違います。
おそらく、その人の成長段階に応じても、変化していく。
前の「これ」に囚われると、そこで止まる。
でも次の「これ」が見つからないと、逆に落ちることすらある。

ちょっと脱線しますが、
しかし、上手くやれば、落ちるのは防げるような気がします。
落ちる、っていうのは、さっきのラーメン店主人の例でいうと、
「塩は極めた! 次は甘さだ!」
みたいな、
「並行した要素・かつ以前の『これ』とは相反する要素を含む」
場合ではないでしょうか。
これを避ければいいわけです。
塩極めたなら塩はそこでfixして、
まったく新しい系列として、味噌に挑戦するとか、クリームラーメンに挑戦するとか、
今までの「これ」を、拡大・延長するような戦い方。
あるいは、
店構えの研究をしてみるとか、全国展開に打って出てみるとか、
女性客を引き込むにはどうすればいいか考えるとか、
ひとつ高次元の「これ」に立ち向かってみる。
また、どれぐらい早く作れるか、とか、弟子をどれだけ育てるか、とか、
そういう別次元の「これ」もいいですね。
挑戦というのは、どこにでも転がってるもので。

ものすごい優秀な人が、この、
「相反する『これ』を求める地獄」
にハマって、ある日からバッタリどうしようもなくなること、ってあります。
「あんなに強かったのにある日突然弱くなってしまった」
という場合、これなんではないかなあ、と。
今までの「これ」の限界が見えているので、もう戻れない。(戻る気になれない)
しかし、新しい「これ」は見つからない……
特にスポーツみたいに、一旦状況が悪化するとどんどん悪い方へ追い込まれる
(出場機会がない、とか、放出され環境が変わる、とか)
ものでは、心理的な焦りがさらにマイナスの回転を掛けるのかもしれません。

その場合は、その「これ」はひとまず元へ戻して、
そうでない拡大・延長版や、別次元や高次元の「これ」に目を移してみて、
頑張ってみる、とか、がいいのかも。

戻ります。
ということで、ではその、FP、「これ」、真ん中の核、
それはどうやって手にするのかというと……
まあ、がんばるしか(笑)
というか、「自分に合った頑張り方」を手にするには、
やっぱり、当然ながら、「いろんなやり方で頑張ってみる」というのが、
回り道に見えて、一番の早道。

最初からロジカルに、あるいは心理テストみたいなのYES/NOで答えていけば
自分向けFPが見つかる、なんてことになってればいいんでしょうけど、
どっこいそうはいかない。
「向き不向き」と「好き嫌い」って全然別なんです。
恣意的・意識的判断を下すと、どうしてもここが混ざる。
また、自分内判断と社会的判断(客観的判断)はまた全く違う。
当人に取っては当たり前のプレー(だからちっとも重要性がわからない)が、
社会的には魔法のような超絶プレーの可能性もある。
これは、机上理論を自分で・意識で追い込んでるだけでは、
絶対に理解できない。
だから、やるしかない。
最初はやたらめったら総当たりでも。

そしてそれには前提として、料理人さんの例で言えば、
「僕にとって『美味しさ』ってなんだろう」
と、ずっと問いかけ続けること、ではないでしょうか。
それが、いろんな経験を経て、ある日突然、
「塩加減だ!」になる。
同じように上原選手にとってのFP、
「ピッチングとは、『三振を奪り四球を出さない』こと!」
を、導き出したのは、
幾多の努力、創意工夫、研究熟考、もちろん成功と失敗、勝ちと負け。

いつもの話で言いますと、
たぶんこの、自分のFPを把握した、「頑張り方」が判明した、
それが、中級の卒業証書のような気がします。

む?
「ところがそうじゃない」とか言っておいてちっともそこに触れないままですね。
あしたにもずく(笑)


5/22 First Principle (1)

巨人のエース・上原がなぜ強いのか。

ヒントになりそうなデータを見かけました。
K/BB(奪三振/与四球)という値です。
これが上原は、8.43(194/23)というずば抜けた数字なんです。(昨シーズン)
2位下柳が5.40(135/25)、3位木佐貫が4.09(180/44)、
MLBトップですらハラデー(サイ・ヤング賞)の6.18(204/33)。

上原は、三振が奪れて四球が少ない。
だから、強い。

なにをあたりまえのことを、そんなこた小学生でもわかる?
そうなんです。
でも、それを実行するのは、とても難しい。
技術的にももちろんながら、考え方が根本から逆なんです。
だからやるには、大変な勇気が要る。

三振を奪る/四球を出さない、というのは言い換えると、
「常時真っ向勝負」です。一切逃げない。
だから被本塁打数は28と、割と多い。
被本塁打見ますと、
井川15、野口12、斎藤19、松坂13、清水14。
で、彼らの四球数は、60前後もある。
ということは、今の先発完投型エースの標準スタイルは、
おおよそ中核打者に・ピンチでは、
「本塁打を喰らうぐらいなら逃げる」
です。上原は、逆。
「本塁打を打たれてもいいから、三振を奪りに行く」。

そういえば彼には、
ピンチで強打者に、ベンチから敬遠のサインを出されて、
涙流して悔しがった、という名シーンがあります。
あれは、勝負したいしたくないという低次元の話ではなく、
「自分のスタイルそのものの否定だった」
から、どうしようもなく悔しかったんです。おそらく。

ピンチに強打者、「臭いとこ突け」って当たり前のように言われますが、
それで四球出したら、内野安打打たれたのと同じですよね。
真っ向で勝負すれば、かなりいいバッターでも確率は1/3程度しかありません。
でも、四球出すと、100%で安打打たれたのと、同じ。
満塁策、って簡単に言いますけど、たとえば走者1塁3塁、
例えそこで敬遠せずに勝負行っても、最悪の結果がHR打たれて3失点、ですよね。
ヒット一本で1点、長打なら2点。
でも、満塁策やると、最悪の結果がHR打たれて4失点、
ヒット一本で確実に2点、長打ならヘタすれば3点入る。
65%以上もある「生きる可能性」をわざわざ自ら捨て、しかもリスクを拡大してまで、
ホームベース周りのゲッツーとニアベースフォースアウトの確率を引き上げるのが、
そんなに大切なことなのか。
ここで上原の奪三振力も効いてきます。
2死ならともかく1死では、ボールが転がれば何が起こるかわからないですが、
三振なら、何も起きない。
(盗塁はありえますが、失点はまずない)

要するに何が言いたいのかと申しますと、
「(四球になってもいいから)臭いとこつけ」というのが、
汎用的によりベターな戦術『ではない』ということです。
特に上原ぐらい奪三振力があれば、常時真っ向勝負に出てる方が、
いい結果を残せる、かも知れない。

そうして振り返れば、野茂や江川の勇姿を思い出せば、
そんな「ピンチになったから」といって慌ててゾーンの隅ばっかり
こちょこちょ突くようなこと、してなかったですよね。
ピンチだろうがそうでなかろうが、
豪直球と、野茂ならフォーク江川ならカーブをびゅおんびゅおん投げるだけ。

もちろんのことながら、このやり方は「上原に合っている」というだけで、
このやり方自体の性能が高いわけではありません。
井川も斎藤も20勝してるわけで。
そもそも、これができるのは球威と制球がある程度以上あるからこそ、であって、
その能力があれば、標準的な戦い方でも、同じぐらいの結果が残せるかも知れない。

しかし、時と場合に応じて戦術を変えるよりも、
より目的に適合する・かつ・自分に合った(重要)
一つの根本原理を常に適用、
(これを適当にfirst principleと呼んでみましょう)
その原則をよりよく遂行するために必要な力と技術に絞って、高めていく……
というやり方が、すごく参考になるような気がするんです。

なんとなれば、
・戦術を考える必要がない
 =負担がない=迷いがない。
・相手(状況)に合わせる必要がない
 =関連する負担がない。(情報収集や研究の)
・必要とされる力や技術の切り出しが容易
 =向上が容易。
・負けても敗因がハッキリしやすい
 =引きずらない。精神的に安定している。
・勝つと絶大な自信になる
 =技術や能力を、「勝ち方」というパッケージにできる。
  次からはこのパックを並べるだけ。
という、かなり大きなメリットが、あるように思えるんです。
だものでこのやり方、
FP定めてそれ一本、
というやり方は、結構誰にでも、普遍的に有効なやり方なのではないかなあ、と。

イチローが言ってたと思うのですが、
「メジャーのピッチャーはほとんどが、自分の自信のある球で勝負するタイプ」
(制球で打者を翻弄するタイプではない)
とか。
そういえば上原も、メジャー志向を公言してますね。

え? そんなのあたりまえじゃん、って?
ところがそれがそうじゃないのですよ。
だって野球なんて狭い狭いゾーンでも、
日本のピッチャーのほとんどが上原型では無いわけで。

あしたにもずく。


5/21 雑感

なんとか伝えたいことを伝えたい、と思ってますと、だらだら書いちゃいました。
なので今日は雑感扱いで。
ちゃんとした読み物ではありません。すいません。
自分のHPやもんで許してください……

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「ミラクルズ! #1 心の守護神」
18日夜、クランクアップです。

今回は1stGK、守口忍様のおはなし。
いつものように、ちょっと笑ってちょいほろり、小さな危機を乗り越えて、
忍様がスーパープレーでチームのピンチを救います。
大マンネリでございます(笑)
だから「暴れん坊将軍」のファンなんだってば!
GKが武術使いだというのは若島津君以来日本の伝統ですが、
それっぽい話も織り交ぜつつ。
楽しく書けました。
最初から設定しててよかった(笑)

6/6のComicCommunication6にはコピー版を出荷の予定です。
「ミラクルズ!」シリーズはいつも迷うんです。
コピーにするかオフセットにするか。
コピーには手作りの良さがあります。オフセットには小綺麗さがあります。
帯短襷長で。
マンガでしたら、絵というのは「キレイ」というのにすごく価値がありますから、
できれば印刷する方がいいのでしょうが、
文章は高度に抽象化されている、「メディアはなんでもいい」ってのが
一番の強みですから、キレイになったから、って価値は上がらない。
だからいつも、迷います。
司馬の叔父貴がコミケに出たとして(笑)
売り物がオフかコピーか、そんなもの見もしないですよね。
そんな感じです。

特に「ミラクルズ!」シリーズはもう、趣味丸出しなので、
なんとゆーか「体裁整えて商品として売る」という行為自体が気恥ずかしい。
(「ドラグーン」なんかだと、「これ読んでよ!」って感じですので、
 あまり抵抗無く、というか刷りたくて刷っちゃった、のですが)

まあ、また、手作り野菜のように、コピーを一枚一枚折ることにします(笑)

どっちにしろ6/6に出します。
夏コミ、受かってれば持って行きますので、そちらでも。
よろしくだす〜。

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クランクアップ(撮影終了、和製英語らしいです)
と表現しましたが、要するに「一通り最後まで上がった」ってことで、完成はまだです。
これから地獄の編集作業が待ってます。
(お恥ずかしながら、文章の場合これをどう表現するか、知らないのです。
 「草稿」というともっと作りかけっぽいイメージなのですが、
 やっぱりそれを使うのでしょうか)

でも僕の場合、この瞬間が一番ホッとします。
実感としても「ああ、できたー」って一番思えます。
最悪そのまま出しても、「できてる」と言えますし、
あとは仕上げ作業というか、プラモデルで言うとデカール貼りで、
楽しくないことはないんですけど、本質的な楽しさとはちょい違う。
本になった瞬間よりも……というか、別の種類の嬉しさ、かな。

今回随分意識したんですが、
作品の力は、骨で決まります。

よくできてるものは、クランクアップ時に、つまりお体裁を整える前に、
すでに「ああ、納得」と思えますし、
今ひとつなものは、どんなに最後まで白壁を厚く塗り固めても、
「なんだか」と不満が残ります。
だから、上がった時にほっとできなければ、
もう一度書き直すぐらいの方がいいのです。

今回ですか?
うん、当人的にはまずまず(笑)
当人基準値は充分満たしているので、
ミラクルズ・サポーターの方はご期待ください(笑)

---

今回は、当人的には、非常にエポックな作品です。
中身ではなく、やり方です。
クルマで言えば、クルマそのものではなくて、生産技術が画期的に進みました。
3月中旬からいろいろ考えてきたいろいろを、
できるだけいろいろ意識しながら、やってみたのです。
一言で言うと、

・無理なく書く

に集約されてしまうのですが、それを実現するために、
精神状態や物理的状態の持っていき方に随分気を配り、
一日に進む量もおなか一杯直前で我慢したり、
書いて詰まったら強引に突破せず少し冷ましてみたり、
とにかく、ヤケを起こさず、沸騰しそうになる頭をどうどう言いながら、
いろいろやってみました。
今までがフルスロットルフルブレーキングだけで走っていたとするなら、
ハーフスロットルや軽いブレーキも意識的に使いまくった、
って感じです。あるいは、
今までは、「あの電柱まで走ろう」「あの角まで走ろう」でなんとかゴールに
辿り着いてた42.195キロを、ペース配分して走った、走れるようになった、
という感じ。

やってみると、存外上手く行きました。
いや、上手く行くだろうな、とは思っていたのですが、
スピードはかなり落ちるかな、ヘタするとクオリティもある程度犠牲には、
と予想してたのですが、さにあらず。
結局、190KBを2週間、だったので、悪いペースではないです。
(僕の自分なりのクオリティ保証ができるトップスピードは、
 500KB/月、50KB/日といったところです)
しかも、今までのパッツンパッツンのやり方に比べてはるかに楽で、
もう今からでもまた次の一本描き始めたいぐらいです。
今までは、一本終わるとまっちろになってました。
(「可憐」の後とか1月半ぐらいまっちろ)
しかもしかも、クオリティ的にも、「うぉりやああ!!」って必死で描いた「可憐」に、
ちっとも負けてない。
むしろ自分的には、こっちの方が「進んで」る。
良いか悪いかは読者さんの決めることですが、
イメージを、よりナチュラルに表現できてるような気はします。

でもそれは、全力投球してない、ってことでは全然なくて、
ストレートだけ力込めてあとは抜けた球だったのが、
緩急のコントロールつけられて(まだまだ未熟ですが)
「投球全体として」全力を投入した、って感じです。

これが今回最大の収穫です。
戦い方を変えてみて、それでちゃんと戦えて、結果的にも悪くない、むしろ良い。
そしてその戦い方は、すごく楽、で、楽しい。
いぇ〜 って感じです。
いけそうな変な予感はあったのですが、実現してみると、また格別です。

ミラクルズシリーズとしては7冊目に当たるのですが、エピソードナンバーとしては
(その巻のヒロインの背番号がつけられます)
#1なのが、変な符合(笑)

でもまだまだ、この戦い方自体定着してませんから、(ビビリのA型……)
もう何本か、同じような気持ちで、上手に戦ってみたい、と思ってます。
次は、この生産技術の向上もさることながら、
この生産技術なら、どんなクルマが作れるか、
そこに挑戦してみたいと思います。
(そのための生産技術向上だ)
本人も楽しみです。

---

今回途中で、改めて「可憐」読んでみて、自分で自分に大感心(笑)
あれを描いた頃、去年の10月頭ぐらいって、もう精神的にはズタボロ、
底辺の辺だったのですが、あの状態でよくもまあここまで描けた、
よー頑張ったエライエライ、と(笑)

しかし、翻って考えますに、
人は、辛い時こそ、楽しいこと明るいことを、求めます。
だから表現に、どうしてもその渇望がにじみ出てしまうんですね。
ちょっと切羽詰まった感じにはなるんですけど、
モノ的には逆にキラキラしたモノになる。
欲しいんです、それが。
愛とか友情とか優しさとか強さとか、そういう「いいもの」が。
だから、それを描く。
もちろん、楽しい時に辛いことを求める人は居ません。
楽しい時は、「ほら、こんなことが楽しいよ!」って、楽しく描ける。
僕はどうも、辛い時も楽しい時も、
文芸表現にすがりついて生きている人間のようです。

誰にもその、すがりつくなにか、があるような気がするのですが、
それを見つけることは、幸せなようでもあり、不幸せなようでもあります。
見つけてしまったら見つけてしまったで、
そっちでうまく行かないと、もう、なにもかもがお終いになってしまう。

すがるもののない生き方、
それも一度やってみようかとも思い詰めたのですが、
僕には、無理でした。
つまんない。
ぺちゃーっとした春の野原をどこまでもいつまでもあるいて、にこにこ笑ってる。
そんなんイヤです。
あっちに針山こっちに血の池、でもほらあそこにはオアシスが、
の方がずっとおもろい。
で、そういう道を進むには、やっぱり、銃でもコンパスでも己の肉体でもなんでも、
「これで勝負だ!」ってものがあった方が、いいような気がします。
それが僕にはたまたま、なんかゴリゴリ書くことだった、ってことで。
でも、春の野原式も、いいと思いますよ。
ウチの弟なんか完全春の野原方式なんですけど、「スゲエなあ」って尊敬できますもん。
向いてる方、選べばいいと思います。

---

そのことと関連しますが、ある程度行っちゃうと、ある閾値以下には下がらないのが
頭脳労働の有難いところで(肉体はそうは行きませんから……)
一度解けるようになった問題は、死ぬまで解けるんです。
だもので、昨日の「切り出せ!問題点」そのもので、
「ここはつっかかり、ここはOK」っていうのが見えてくると、
そしてそれをどう潰していったかを身体が覚えていくと、
腕は確実にあがる。
ちょっとずつだけど。
お料理で言うと、その人の人生をピザ職人に歪めてしまうようなものは、
そうそう簡単にはできませんが、
「美味しいねえ」のひとことなら、腕上げていけば、なんとかなる。
絶対になんとかなる。

ってことを、実感として持てたのも、大きかったです。
どこが問題で、どのぐらいの労力を投入するとどんなリターンがあって、
結果としてこれぐらいクオリティが上がる(上がりそうだ)
リーズナブルな解決策が判明している問題は、問題ではありません。
あとはやるだけで。

この二ヶ月で得たものを要約するとこの、「問題把握力」と言えるかも知れません。
「高い視点」とか、言い換えはなんぼでも効きますが、
現実問題に適応する名称を、つけるとするなら。

ま、それが上がっただけ、というかその重要性に気づいただけですので、
受験勉強で言えば
「ひょっとして数学を平均まで上げればそこそこいけんじゃないの?」
と気づいたばっかりですので、
くどいですが、ファイナルクオリティはさほど上がってませんよ(笑)
これからです。

---

人には、やり方がいろいろあります。
直球一本磨きに磨いて勝ち負け度外視で三振の快感に酔いしれるタイプもいれば、
投球術とコントロールで凡打と併殺、あっぷあっぷなのに試合はなんとなく勝ってる、
ってタイプもいる。
僕はどうも、7回を2失点でまとめるタイプみたいですが、
その、「戦い方」を手に入れるまでが、やったら遅い。
三振奪るのにこだわったり、ストッパーになってみたり、回り道ばかり。
本格的に書くことに復帰して5年、その前に中2〜大学1まで6年、
まる10年以上掛かって、ようやくなーんとなく
「こゆことですか?」
ってのが見えてきたような、見えてこないような、です。

見えてくると、自分の愚かしい間違いも見えてきます(笑)
いやお恥ずかしい話、「これは使えるボールだろ」と思ってたボールが、
まるっきり平凡な打ち頃のボールだったり、
逆に、当人的には「こんなのどってことないボールじゃん」と思ってた
ナックルボールが、魔球だと言われたり。
(誰も投げないからなんですけどね(笑))
見えてくると、いつもそれを投げなくても、
ピンチでどっち投げるか、って時に間違わなくなる。

いやはや、やっぱり、相手のあることです。
必死こいて渾身の力を込めてストレートを投げても、
キレーな回転130キロじゃ、ぱかーん打たれる。
ニヤニヤ笑いながら遊びのように投げるナックルでも、
バッターが見たことない変化をすれば、ブンブン三振が奪れる。
ここが難しくて、
ここが面白い。
表現に限らず、料理でもスポーツでも、「相手のあるもの」は、
最終的にはそこが一番の肝になるような気も、しますね。
それはウケ狙いとかそういう話ではなくて、(大きく言えばそうなるんですけど)
「おもしろさ」とは、「美味さ」とは、ってことの本質を垣間でも見るには、
ひとりじゃできない、ってことです。

冒険は一人ではできないじゃないですか。
いや、実行は一人でも、社会的インパクトという意味で。
それが無ければ冒険じゃない……というと言いすぎですが、
今南極点にヘリに行っても、誰も冒険とは認めてくれないですよね。
当人にとって大冒険でも。
そんなイメージ……です。
よくわかってませんけれど(泣)

---

と、まただらだら書いてしまいました。
このエネルギーをまた作品にのせていけますよう、
頑張らずにがんばる、
そんな所存でございます。
うひひ。


5/20 切り出せ!問題点

メソッド・オリエンテッド、手法中心ではダメで、
全体把握から問題点を切り出し、適切な解決法を考え、そしてそれを実行する。
プロブレム・オリエンテッド、問題中心でなければなりません。

ものすご当たり前のこと言ってますが、
人はこれが、なかなかできない。
かつ、世の中には、そこを外したものが多すぎる。

M澤先輩に教えてもらった本を読んで、どうにも腑に落ちなかったんです。
言ってることはすごくわかりやすいし、整理されてるし、正しい(と思われる)し、
じゃなんでこんなにイライラするんだろう、と。
その本には、手法が一杯載ってたんです。
どの問題点にはどの手法が効く、というところも載ってる。
でも、問題をどう切り出すか、自分がどの問題を抱えているかをどうやって把握するか、
そこが無い。(ごく小さい)。

「ヤングアダルト情報源」なんです。
彼女とデートするなら、ここ!
そうじゃないですよね(笑)

例えて言うなら、彼女のハート射止めたいと思った時に、
まずその彼女が、遊園地が好きなのか、アウトドアがいいのか、美術館が好きなのか、
あるいは出不精でそんなのイヤなのか、そこから考えないといけないですよね。
それが、問題の切り出しです。
そこを、手法中心で、「ほら、USJで楽しいデート!」と書いてあるからといって、
駅前のUFJ行ってALLONE口座を二人で申し込んでも、
その彼女はみずほがメインバンクかも知れない。
そうだとしたら、その手法、意味無いどころか、逆効果なんです。

手法というのは単なる道具であって、道具は、使い方次第。
使い方誤れば、ケガをする。

#フォローしておきますと、この本の主眼・主目的は「解決法の提示」でしたので、
#そこが無いからと言って駄目な書物、意味のない書物ではありません。
#むしろ解決法の整理と提示という意味では、非常に優れた書物です。

そして、記述するのが非常に難しいからか、
このメソッド本、ってのは世にあらゆるジャンルに山のようにあるんですが、
問題の切り出し方本、もっと言うとどこをどう問題と把握すればいいのか、
問題の把握の仕方
を教えてくれる本は、ほっとんどない。
いいコーチ、っていうのは、まず外部から、その選手の問題点をズバリ、
見抜いてくれますよね。
「打率悪いんです」「お前ボール全然見てない」「!」
でも、もちろんのことながら、選手にはその問題がどこか、
それがわかってないからこそ、伸び悩んでいます。
問題点さえわかれば、コーチなんかいなくても、
ボール見る特訓して、克服すればいい。

仕事でも技術でも優秀な人、というのはこの、
「問題点切り出し」が早く・適切で、かつそれに対して克服努力
(これがまたしんどいんだ。問題点なんだから当たり前ですけど)
を丹念に丁寧にやってのける人、のようです。
でもやっぱり、そのレベルに達するには、
自分のどこが問題か見極める能力を持つには、
まず相当やってないと、ダメなんですね。
たぶん中級ではまだ足りない。
上級の人なら、意識してるしないは別にして、
やってなければ上級ではない、って感じかな?
「敵を知り己を知らば百戦危うからず」の、
「己を知る」というのは、ココを指しているようです。

---

例え易くて数少ない自分の成功例でもあるので(笑)
よく例示しますが、受験勉強ってそれがすごくわかりやすいんです。
得点獲れない教科が問題点で、それを潰せば、飛躍的に成績は上がる。
例示するまでもないですが、80を5つ集めれば400点ですが、
100を3つ揃える頭脳を持ってても、残りの2つが0なら300点にしかなんない。
(事の是非は今は関係ないのでおいときます。事実として)

じゃその、0とか20とかの教科を真正面から見据えて、
どうして点が獲れないのか考える……までもないですよね。
そんな点じゃ、基礎の基礎からまったくもってわかってないんです。
だとすると、それこそ中学の教科書に戻って、
「どこからわかんなくなったのか」
見極めて、そこからコツコツやり直すしかない。
焦らなくても、高校生ならばトータルの思考力が多少進歩してますから、
理解は早い。すぐ追いつける。
で、先ほどの例なら、平均点、60なんか獲れるようになっちゃうと、
ちゃんと420になって、80を揃えるという苦行をこなさなくても、
いやそれ以上に、目的が達せられる。

受験勉強だと各教科はおろか各単元ごとに
明らかにどこがマズイかわかります。
どっこいそれでも、なお、人間というのは怠惰なもので(笑)
その問題点に目をつぶり、得意な教科ばっかりやって勉強した気になって
(たしかにそれも勉強なのですが)
最後の手段は苦手科目のない大学受けちゃう。
まして、仕事とか技術とか、そういう切り出しにくいものについては、
ますます、切り出しそのものを先送りにして、
あるいは切り出しても放置して、
ただなんとなく話を進めていく……ことが多いように、思います。

したがって、ここんところ、
「問題点の切り出し能力を高める」
これを意識的にやっていくことが、
力をつける一番の方法論ではないかなあ、と。

そしてこの方法論は、記述しがたく、かつ個々ケースによりあまりに様々なので、
適切な参考書等々はほとんどありません。
コーチとか師匠とかも、そこまでちゃんとやってくれる人、っていうのは
実に実に稀ですので、宝くじみたいなもんです。
その人自身凄くても、育てる能力ゼロの人はいくらでもいる。
愛情とかそういう問題じゃなくて、
問題点切り出し→解決、
というロジカルなタクティクスで戦ってきたのではなく、
なんとなくこうかも、という直感が鋭い、あるいは、
無茶苦茶な努力で可能性あるメソッド総当たり、で、やってきてるタイプには、
そもそも「問題点切り出し」ということがどういうことか、すら理解できないわけです。

#もちろんですが逆もそうで、直感型に「ここをこうすれば」と切り出した問題を
#提示しても、結果が上がらないこともありそうです。
#そこを直すと、本人の中にある全体バランスが全部崩れてしまう。

ま、大切なのは、繰り返しですが、鍛える「手法」ではなく、
何が問題なのか(何が大切なのか)識る力、
ってことで。
あ、あと識った後そこを鍛える小さな努力と情熱かな。

---

蛇足になっちゃいますが、手法中心は上述の危険性、
間違った使い方をしてしまう、ので怖いと思いますが、
それでもデートは行かないより行った方がいい、という考え方もあり、
一概に否定ばかりしていてもしょうがないです。
行って顔色伺うとか感想訊くとかも立派な問題解決への道筋で。

ただ、こういうのって、創始者考案者の手を離れると、簡単に
「これさえあれば」
になります。それは、ちょっと違うと。
まず問題ありき、ってのは共通のはず。

(創始者の中には、目的志向でまず広めんがために、
 そこを黙ってゴリ押す人がいます。最近は特に。
 僕は、それはちょっとギルティだと思うんですが、これは考え方次第。
 思いこみも激しいエネルギーを引き出すので……)


5/19 粘菌問題

記念碑的に少し。
僕も、#辞めた後の1年ちょいぐらい、確か未納です。

・システムをわかりやすくしてくれい。
 このインターネット時代ですから、自分がどこにいくら払っているのか、
 webで見れるようにしてください。
 また、国民皆年金がタテマエなら、厚生←→国民の切り替えぐらいは、
 オートでやってください。

・払いたいヤツには払わせろ〜
 たった2年を過ぎると払えなくもなる、というのは本末転倒はなはだしいです。
 物価換算とか、期間平均利率でもかけりゃいいだけのことでは?

・これってそんな大層なことか?
 少なくとも一国の官房長官とか、政権狙える大型野党の党首とか、
 そんなものと天秤にするような、重大なことではないと思います。
 汚職事件や学歴詐称のように、「公平でない」「嘘をつく」という政治家の根幹に
 関わるものではないような……

・だから、こんなものを振り回し合って政争してるヒマなんかないんだってば。
 問題は常に山積です。
 年金払ってる人、ではなくて、優秀な人気持ちのある人、に政治やってほしいです。
 「自爆テロ」は自分達のコミュニティも傷つける、実に不毛な作戦だ、
 って凄い好例になっちゃいましたね。
 テロは、合理的にも、愚かな選択です。どんなときも。

・ということをマスコミがもっと指摘しろ〜
 政争煽ってどーすんですか。
 国民は前米大統領のエロ報道と同じぐらいウンザリしてますよ。

だから、払ってなかった人みんなで「ごめん」っていって、
当該金額を社会保険庁(ここもまた無駄金ジャバジャバ使ってるらしいですが)
にちゃんと収めて、「さあ、ゼロからスタートだー」でよろしいのではないでしょうか。
せっかく中国特需と五輪需要で景気もいい感じになってきたのに……

一番問題は、繰り返しになりますが、
たぶんこんな感じで多くの人が「しょーもない話やなー」と思ってると思うんです。
それが、国の中枢や報道機関の意識と、ズレにズレてる。
それが怖いです。
もうこんなことホンットどうでもいいので、大事な問題、イラクとか北朝鮮とか、
しっかり行きましょう。ね。

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蛇)
タナボタもいいところの民主・岡田さんですが、
あれでも前回に勝ち目無くても代表選出てるとか、細かいTVにしょっちゅう出てるとか、
融通効かないぐらい堅物だとか、やることやってるからゴーサインも出るわけで。
もちろん、あと10年待てば満を持して、だったのでしょうが、
10年前に稼げる、っていうのはまさに天命、風が吹いてます。
50で当選5回なんて、昔の自民党なら主要閣僚にもなれやしない。
90年初当選ですよ? 時代は変わりましたねえ。

田中角栄元首相が、
「幹事長・大蔵大臣までは、努力でなれる。
 だが、総理(総裁)になるには運が要る」
とおっしゃってたそうですが、運は、指揮官に非常に大切な性能です。

なんといいますか人生何が起こるかわからないので、
腐らず、奢らず、です。


5/18 いないと、さびしい。

僕は、おばあちゃんっ子なんです。

少し前、おばあちゃんが体調を崩しました。
食事前後の方には失礼ですが、大の方が詰まってしまい、出なくなったんです。
でも身体は出そうとしますから、一晩中、5分と経たないうちにトイレに行きます。
それも脱肛を併発して、痛むらしくて、うなり声が聞こえてきます。
出ませんから、食事も入りません。
当年とって79歳。このぐらいの年齢になると、2、3日食を取らないだけで、
劇的にやせ細り、骨皮筋になってしまいます。
病因は肛門なのか消化器なのか、それすらわからず、母と共にオロオロしてました。
本人は辛いのか、「寝てる」とだけ言って、でもまたトイレへ行くんです。

もうだめなのかな、と、考えなくてもいいことを考えてしまいました。
母と弟と、3人だけの家の様子を、想像してしまいました。

寂しい。

それは、あまりにも寂しい様子で、困る、と思いました。
今も別に、おばあちゃんは洗濯や掃除のサポートが終われば、
ただ座ってナンクロを解いてるだけで、何をしてるというわけではありません。
耳が遠くなってしまったので、文化住宅の管理の仕事も、
去年あたりから母が引き継ぎました。
夜も早いです。
僕のやってることは、よくわからないらしくて、
(ボケてるんじゃなくて、ゲームにシナリオ、ってのが理解できないんですね)
ふとすると「なにか資格でも勉強して、就職して嫁をもらえ」と言います。
一度それで怒って見せたので、もう言いませんが。

ただもう、何をしてくれるとかどんな意味があるとか、そんなことじゃなくて、
家族というのは、ただただ、居てくれないと困る。
そう思いました。

連休明けに、手に手を取るようにして、100m先の医院にクルマで運んで、
診てもらいました。
とりあえず、原始的ながら先生が物理的掻きだしを決行。
しばらく休んでると、顔色も良くなり、家に帰ると、数日ぶりに熟睡。
そこからは状況が好転し、要するに出す能力が一時的に弱まってるのだから、と、
浣腸や座薬を駆使、下剤を投与してみたり止めてみたりして、
一昨日には遂に、なにもせずに出たそうです。
まだ100%とは言えませんが、今はもう普通に立って歩いて、洗濯物を干してます。

「死にたい」と思ったことはありませんが、
「死んだらどんなに楽になるだろう」と思ったことは、何度もあります。
その度にそれを打ち消してくれたのは、
「おばあちゃんと、それから母を泣かせるわけにはいかない。
 僕は、男の子だから」
という、ただそれ一点でした。
どんなに社会の片隅で、何もせず紙くずのようにあるいは寄生虫のようになって、
世間の人々にどんな目でみられて何を言われても、
この二人がいる限り、この二人を泣かせる真似だけはできない。
そう思いました。
(弟なら、話せばわかってもらえるかもしれない、と甘えてしまいます)

できれば、僕が死ぬより先に死んで欲しくないのですが、
両親はもとより、夫、兄、そして婿までを先に亡くしているおばあちゃんに、
そんな無茶は言えません。
でも、できるだけ長く、一緒にいて欲しい、と思います。

「居なくなったら、寂しいな」
と、80になっても、なにもせずとも、ただそこにいるだけで、
家族でも友人でも思ってもらえる。
おばあちゃんのように、生きたいものです。

ネコ達も、おばあちゃんが大好きです。
マイクルとアイ吉は今日も、おばあちゃんの足元で眠ります。
一番辛い日、真夜中、二匹をどけようか、と訊くと、
「おいといたり」
とかすれた声で言いました。

とても優しい、自慢の祖母です。


5/17 プレゼン文化

「冬のソナタ」が「冬のソナタ」が、と聞くものだから、
一回観て、あらすじを調べてみて。

だから、あれは(日本の)プレゼン文化を通らないんです。
「超王道少女マンガを、完璧清楚ヒロインと超スウィート二枚目俳優で行きましょう」
アホか、言われます。
「そんなものは企画とは言わない」と人格を否定されます。
だから、存在しないんです。
どころか、その要素すら存在しない。
ジウちゃんもヨン様も、日本で誰使うか、ってなると「うっ」ってなりますよね。
160キロストレート右の本格派が、いつのまにやら存在すらしなくなってるんです。

プレゼン文化、
つまり作り手とファイナルの受け手の間に大きすぎる防壁があって、
そこを突破することに必要以上のエネルギーを費やされる文化、
というのは、非常に恐いです。

#に入ってすぐ、研修で、海外の模様なんかを学んだのですが、
北米担当の営業の方のお話を聞いて、
「これからはカスタマーのお声をよく聞き、
 そこにフィットしたモノを作っていく必要があります」
ちょっと待ってよ、と。
あまりにワケがわかんなかったので、血気盛んな22の僕は、
今にして思えば問わずもがなの質問をしたんです。
「家電屋が、カスタマーの言うこと聞かずに誰の言うこと聞くんですか」
「とてもいい質問です」
笑いながら、でもちょっぴり痛いとこ突かれた、って顔で、
「アメリカでは、流通(小売店とかディスカウント屋とかスーパーとか)が
 強いんです。今までは、そっちに向きすぎてました」
なるほど、と。
つまり、流通が欲しがるモノじゃないと、売ってももらえないんです。
だから、そっち向く。

おかしいですよね。

で、これ結局、広い意味でのプレゼン文化で、社の内外問わず、
担い手(作り手)と、受け手の間の、わけのわかんないバリケード、
ここを突破するのに、アメリカは特に、日本でも最近は、
非常なエネルギーを費やされているのです。
アメリカでは可搬型プロジェクターってなわけわからんモノが
びっくりするぐらい売れる。
ビジネスソフト、というとワードエクセルの次にPPが来る。
それだけ、まず「プレゼンありき」なわけです。

エネルギー費やせば、当然、になうこと、つくること自体のエネルギー削られます。
だから、クオリティに影響が出る。
それはまだいいんです。
それだけならまだ、「そこも含めて商品価値」とも言えなくもない。
だけど、これは簡単に、
「そこの防壁を突破するのに最適化する」という奇形化が進むんです。
特に日本人は小器用ですから、簡単に・しかも的確にそれをやっちゃう。
大雑把にいうと、ウケ要素をコード化して、そのコードどれだけブチ込むか、
の勝負をするわけです。
でも、皆様ご存じのとおり、そんなコードのあるなしなんて、
おもしろさにはなんの関係もない。
(このコードの量と質だけを問題化していくのが、
 いわゆる「オタク化」だと思うのですが、それはまたいずれ)

で、できたのは、流通が喜んで消費者に売れないモノ、
局やスポンサーが喜んで視聴者が見ないドラマ。

で、インターネットが発達して、デルが流通すっ飛ばしたPCで荒稼ぎ、
韓国ドラマが日本で大ウケ。
報い、というとデルやソナタに失礼ですが、当然の結果です。

---

思うんですけど、プレゼンせなあかんようなモノは、あかんのとちゃいますか。
「少林サッカー」ってもう、題名聞いただけで「おもろそうだ!」って
腰が浮くじゃないですか。あれが一番で。
戦争でも、局地戦の戦闘目的は単純な方がいい、と言います。
「説明聞いて納得させられる」ということには、それ自体罠がある。
説明要らんぐらい明快、な方が、モノとしては正しい。

今までは、たとえその弊害がわかっていても、
プレゼン文化を突破して、そうした巨大システムを動かさないと
にっちもさっちもいきませんでした。
でも今は、ネット始め、小規模でクルクル小回り効かせながら、
でも喰うなら何とか、というモデルが、ポツポツ出始めてます。
そこで我々に必要なのは、
「あれは地味に見えるけど、でも良かったよ!」
と口コミネットワークに載せてもらうぐらいクオリティを上げていくか、
「これ地味だなあ……あ、でもながたか。悪いものじゃなかろう」
と個人(チーム)単位で信頼を得ていくか、
あるいはその両方か、
だと思います。

なに当たり前のこと言ってんだって?
だからそれが、10年前の僕の思ったことなんですってば(笑)
そして今でも状況は変わってません。むしろ悪化してる。
で、それに風穴開けるものが現れたかなー、と思うと、
デルの真似して直販して、
ソナタの真似した少女マンガが焼き直されるだけ、なんです。
「デル式です」「ソナタみたいなヤツです」
と、プレゼン文化を突破しやすいですからね。

やっぱり上述のように、作り手は覚悟決めて、
巨大システムに乗らなくても(乗りにくくても)、イイモノを志向すべきですし、
受け手も目を磨いて、
システムが推してるからイイモノだろう、という考え方を捨てる。
それをちょっとずつやってく他ないんじゃないですかね。
そして、それはほんの少しずつですが、できつつあるような気もします。
状況は真っ暗だけど、希望の光はポツポツある、て感じで。

逆に、そうなると、信頼を裏切れない、という厳しさもできてきます。
個人的には、望むところですが。


5/16 掃除で安上がリフレシュ

家の改装は未だ完了してないのですが、
ごちゃごちゃとそれに関連した模様替えなどやっております。
小さな倉庫を一台組み立てたり、庭に落ちてる小さなゴミを拾ったり。
そんな風に身体を動かしてますと、ハタ、と気づきました。

よく小坊主さんが掃除させられてますが、
あれは精神修養や修行の場を清めておく、という形而上的意味合い以外にも、
物理的に、身体を動かすことによって、
いったん「身体知」みたいなものをリセット/リフレッシュしているのではないでしょうか。

掃除は、散歩や洗濯と違い、
身体の動かし方が比較的多岐にわたります。
負荷自体は軽めですが身体の動きは大きく、
かつ手頃な時間で一息つけて、「キレイになった」という結果も出ます。
で、気分も気持ちもすっきりして、
また頭脳を感覚を研ぎ澄ませて修行に戻る、と。

ものを考える、って、頭だけではないような気がします。
身体もアシストしてくれているので、そこを刺激するのは、効果がある。
哲学者の散歩好き同様、宗教家は掃除をするのかもしれません。

心理学用語でアクティブレスト/パッシブレストという言葉があって、
大雑把に言うと仕事で疲れた時に山に登りに行くのがアクティブレスト、
家でゴロ寝がパッシブレストだそうです。
掃除はたぶん、小さな小さなアクティブレスト。

掃除は「ワシが本気でやったら、家中をぴかぴかに輝かせてしまう!」というタイプで、
本気になるのが4年に1度オリンピックイヤー、だったのですが、
そう気づいて、毎日ちょこちょこやってます。
いや、だから、キレイになんなくてもいいんです。
掃除というのは、掃除すること自体に意義があって、
キレイになるならないは別にどうでもいい。
量も場所も頻度もどっちゃでもよくって、まあ、ただ、こちょこちょやってると、
気分が変わりますねえ、と。

そういえば友人連の頭脳労働者では最右翼のS上博士(数学者)なんかは、
部屋とかものすごキレイですわ。オフィシャル/プライベート問わず。
そおそお、テスト勉強の直前になると、なぜか部屋を掃除したくなりましたよね。
ひょっとすると逃避行動以外にも、こういう理由が隠されていたのかも。

あと、腕の立つ職人さんって、たいてい仕事場をすごーくキレイにしてます。
TVとかで見てると(TV入ってるからかも知れませんが)
削りクズとかいっぱい出そうな工芸品でも、すごく整理整頓された空間で
シャーッとやってる。
大工さんでも、腕いい人は道具箱とかめちゃめちゃキレイで。
やっぱり、基本なんですねえ。
反省。
いや、待てよ、僕はいつも、本気で書く時はノートPC一丁ですわよ?
綺麗な空間を作るのではなく、綺麗な小空間を全空間だと思いこむズル技……

ま、ともあれ、子供の頃から「整理整頓なさい」と教わるのですが、
そこにはこういう理由がある、
「掃除をすると、結果ではなく行為そのもので、気分一新元気になれる」
って教えてあげると、
ほんの少しだけ、掃除好きも増えるかも。

実に安上がりなリフレッシュ方だなあ、と埃にまみれています。


5/15 ハーフスロットル

M澤先輩が5/13「やわらかさ」についてレスしてくれました。
(僕が展開するので文章関連ばかりになっちゃいますが、
 ご自分の関心事に適当に読み替えてください)
やり方自体ノーアイデアだ、という頼りない私に、

「やはり、「どう表現したいか?」「そうするにはどうすればいいのか?」
 という視点で考えるのが一番だと考える」

と指摘していただきました。
まさしく、おっしゃるとおりです。
「どう表現するか」という視点が、まず根本にある。
ピーク、一番の盛り上がりどころ、はやはり、「言いたいこと」が詰まってますから、
フルスロットルなわけです。
で、そこに至る盛り上げ方、表現の仕方、
これがハーフスロットルの使い方、過渡特性です。
そこが流れるように自然に、そして自由自在に描ければ、
これは実に安心して安定して読める、そしてイイモノに共通する、
作者の手の内で遊んでいるような、豊かな感覚が得られるのではないかと。

ピーク部分なんざ大昔から変わっとらんわけです。
死ぬとか愛してるとか頑張って大成功とか。
結局、その核や到達部分が不変ならば、
盛り上げ方、過渡特性、ドライバビリティ、
そこが良くできてることこそが、
「よい」「おもしろい」そして「ここちよい」文章になるのではないか。

そこにしっかり意識を置かないと、
ピークばっかり注目してそれをそれを、と考える。
どうしても派手な動きや強烈なインパクト、奇抜な仕掛け、
そんなものに気を取られます。
もちろん、それはそれでいいのですが、
ピークパワーは出てるに越したことはないのですが、
でも、「美味い」っていうのは、カレーライスでも美味い。
満漢全席でも東ティモール風水牛料理もいいんです、でも、
カレーだからたいしたことない、ってのは、ちょっと違う。

「なに当たり前のこと言ってんの、そこのところ考えるのが、作り手じゃないの?」
とご指摘受けそうですが、
プレゼン文化を突破しやすい、というヤな要素はおいといても、
やってると自然と、どうしてもピークに目が行っちゃうようになるんです。
「ガツーン!」ってパンチ入った方が、「おお!」って思うじゃないですか。
あればっかり考えちゃう。KOパンチばっかり。
(で、実際、KOパンチ一発「だけ」で成り立ってるものはいくらもある)
で、ジャブやフットワークがおろそかになって、負ける。

やはり全体を見渡して、ピークに至るその至らせ方、
そこを十二分に練る、その意識と視点をしっかり持ち続ける、
それが基本のようです。

僕の描き方は特に、シーンオリエンテッドでストーリードライブが弱いのですが
(わかってるわよんなことッ!(泣))
どうしてか、と考えるに、このピークへの意識が強すぎるのかもしれません。
だから一幕一場ごとにピークピークって考えちゃう。
そうではなくて、
「死に場」は作らなくていいと思いますし、感情は起伏はガンガンあったにしても、
泣きの次は笑い、その次は燃え、その次はほのぼの、その次は……
と場を上手く配置して、
ピークへの「流れ」(ハーフスロットルコントロールですな)を美しく作っていく。
そこんところの意識を、もっと持たなければならないようです。

研究中でございます。

もちろん、今までも意識してないわけではなかったのですが、
貧乏性とサービス過多症を併発してるものですから、
「これどう!?あれどう!?これもどう!?」
ってすぐ思っちゃう。そっちの力の方が、強かったみたいです。
それは、一席の懐石が終わって最後に、
「いかがでしたか」
と訊くべきで、その時の印象も、「あれがよかった」よりも、ただボンヤリと
「とても美味しかった」の方が、いいわけですね。

まあ、それもある段階ある段階で、一品でちゃんとした料理が作れない人が、
美味しいコースなんて作れるはずがない。(と、僕は思います)
だもので、まず一品(1エピソード、1シーン、1イベント)鍛えるのが
手始めなのかな。
いや、組み立てから徐々に一品ずつのクオリティに手を入れていく人もいるかな。
ちょっとここんところは、自信ないです。
僕はどっちかというと、「いい焼き物焼けなくて懐石も何もねえだろ」という方だ、
ってだけで。

ただ、作品は暴れます。
書いてるうちに、じぇんじぇん違うこと描き出しちゃう。
また、そうやって暴れた方が思いもかけぬいい結果が出たりもする。
そしてそういう時は、書いてて非常に面白い。
だから、スタートから組み立てばかり意識しすぎて、それでタイトに縛る、
というのもまたよくないと思います。
描く直前まではできるだけボンヤリ、
描いてる時には自由な気持ちで、指が暴れるままに。
これもまた、どの程度縛るか、というのには個人差あると思います。
オーケストラもジャズセッションも、いちおーのシバリはある、
けどシバリ方が全然違う。
で、どっちが優れてる、とか別にないわけです。

どっちにしろ、「ピーク出さなきゃ」と考えるとヒジョーに辛いです。
先日言いましたとおり、ピークって神様アシストもあるので、
そうそういつもいつも出るもんじゃない。
しかし、「ピークに至る至らせ方」ならば、経験もモノを言うし、
修練で割とちびちび上がってくれるし、そもそもあんまり落ちない。
そして楽しいんですよね。トライ/チャレンジ&エラーがパズルみたいで。
楽しくやってると、良くなる可能性は高い。
そして、そこが良いと、ピークばっかりガンガン出てるより、
いいものになる可能性も、充分にある。

この事実を把握したことで、非常にココロが楽になりました。
これが僕の一大転機で、
これからはもう、文章を書くこと自体で悩むことはない、と思います。
具体的メソッド等々で苦しんだり、売れなくて困ったりはすると思いますけど(笑)


蛇足ですが、
だからってピークをあんまりにもおろそかにしすぎるのもまたおかしいです。
ハーフの追求の面白さがわかっちゃうと、どうしてもそっちばっか一生懸命に
なっちゃう危険性も、なきにしもあらず。
「勝って」「強い」のが理想で、どちらか片方では、
おもしろさの全てを手にしてるわけではない、ように思います。
いや……ハーフ追える人は、いつでも勝てるのかな?
まだそこまで行ってないからわがんねッズ。

良き友との語らいほど、楽しいものはありません。
これは事実です。


5/14 HGT(コツ編)

長物が続いたので、今日は軽くHGTの話題なぞ。
HGT、すなわち蜂蜜生姜紅茶、いろいろ試してみたのですが、いくつかコツがあります。

・紅茶をちゃんと作ってから、そこにショウガと蜂蜜を入れる。
 ショウガと蜂蜜をあらかじめカップに入れておくと、ちゃんと紅茶が出ないっぽいです。

・ショウガは、新鮮なものを。
 ひねショウガで新鮮、というのも変ですが、要するにすりおろして空気との
 接触面増えますと、乾燥してどんどん味が落ちるので、ラップして冷蔵庫にでも。
 これで全然違います。

・すり器は、目の細かいのが。
 大根おろし用の、丸い穴の周囲に突起が出てるタイプは、パワフルなのですが
 すりが粗いです。あれよりも、細かい突起がたくさんある昔ながらのタイプが、
 ショウガの味を引き出してくれます。

・紅茶は、なるべく一番煎じで。
 ショウガも蜂蜜も味がキツイので、二番煎じだと負けます。
 かなりまずくなっちゃうので、二杯目作る時には、一杯目の時に二杯分作っておいて、
 紅茶だけ残しておいて、あとでショウガと蜂蜜入れてレンジでチン、がいいかも。
 一番は、その都度一杯ずつ作ることです。

・味の決め手は蜂蜜。
 クドめあっさりめ、コントロールは蜂蜜の量が肝。
 いろいろ試して、またその場の気分で、蜂蜜量を決めてみてください。
 蜂蜜ごとの味の違いも、実に良く出ます。レンゲとクローバーでは全く違う。
 結構楽しいですよ。

当たり前と言えば当たり前のことばかりですが(笑)

今も日に2杯〜4杯ってペースで愛飲しております。
これ飲むと、少し肌寒い朝とか、体温がパーンと上がって、エンジンが掛かります。
また、思わぬ効果として、お通じがとても快適になりました。
もともと軟便家なのですが、これを飲み出して痛いほどのしっかりしたものに(笑)
また、糖分の直接補給とショウガの刺激、あと温かさで胃腸がリラックスして、
間食代わりになります。ダイエットの方にも、効果的かも。
あと、これは僕の特殊事情ですが、
コーヒーと水・お茶の摂取量がかなり減ったので、
胃が楽で、お手洗いの回数が減りました。
やっぱり、そっちの方が健康的ですしね。

あとはどこの大手メーカーからペットボトルに入って出てくるかかな(笑)
ショウガがモラモラにしてるのが、見た目的にはよくないですが、
まあそれはつぶつぶオレンジなんかと一緒だと思えば。

あいからわずおすすめだす〜。


5/13 やわらかさ

昨日のもずきっぽく。

サッカー選手のボールタッチに、
「やわらかい」と呼ばれるものがあります。
強いパスを「ふぅわり」という感じで足元に吸い付けたり、
まるで糸でもついてるかのように変幻自在なドリブルで相手を抜いていったり。
文字通り「やわらかい」動きで、ボールを思いのままに操る状態を指します。

どんなジャンルでも、超上級者の動きには、この「やわらかさ」があります。
言い換えれば、始めと終わりがゆっくり見える。
ミハエル・シューマッハーが550マラネロでフィオラノを走った映像見てても、
鼻息混じりで、まるでトリノの街中走るようにステアリングをゆっくり回しています。
やわらかい。
機械を考えてみると、「動きだし」と「止まる」には、慣性の法則に反する必要があって、
動いてる状態をキープするよりも、難しい。
だから、「上手い」人は、ここが上手い、ことが多い。

逆に、では、そこを鍛えれば、上手くなれるのでしょうか。

なにかを上達しようとした時、私達は、
フルスロットルマキシマムパワーばかり鍛えようとします。
で、それが上がれば、上手くなると思っている。
もちろん、それは非常に大事なことで、それだけで何とかしている超上級者も
見られるのですが、上記のことを鑑みるに、ひょっとすると、
この動き出しやお終いのまとめ方、フルスロットルではない部分、
フルスロットルに至るハーフスロットル部分と言いますか、
あるいは、スロットルという概念外の部分と言いますか、
とにかく、そこの鍛錬こそが、非常に大切なのではないか、と。

---

サッカーでは、全盛期のリヴァウドがフルパワー・タイプでした。
もう、力ずくのバケモノプレー連発でバロンドロール。
確かに凄かったんですけど、でも彼にはバッジオやジダンの持つ
「やわらかさ」は無い。
だからか、今たかだか31なのに、ミランで出して貰えず母国へ帰っても
あまり調子よくなく、来季はボルトンなんて話が出てる。
(プレミアシップで、ロートルスターを集めて中位を狙う、別な意味での人気チーム)
力ずくタイプは、その力が衰えるともう、どうしようもない。
人間の生物的ピークは25〜30前後にありますから、
(純体力的にはもうちょい前だと思いますが、経験のアシスト等々を総合すると)
そこ超えると途端に、できてたプレーができなくなるんですね。
逆にジダン。リヴァウドと同い年ですが、ぜーんぜん衰えてない。
(さすがに疲れは溜まるようになってるみたいですが(笑))

ここで参考になるのがロナウドで、
膝壊すまではパワータイプだったと思うのですが、
特に2度目をやっちゃってから、考え方変えたようです。
「フルパワー出さなくても(出なくても)、要は点獲りゃいいんだろ」と。
で実際、今年はたぶん得点王。
今年のギャラクティコが無冠とは言え途中まで体裁が整ってたのは、
ロナウドの決定力におんぶだっこで、実際、あれだけ得点力のあるラウールが
今年は全く点がとれてないんですね。
ラウールの不調というより、その程度のチームだったわけです。

#逆に言うとロナウドが居たからシステム的矛盾の噴出が遅れ、
#(ちょっと見る目がある人間は誰にでもわかってたんですけど!)
#最後の最後で一気にクライシスになったとも言える。

だからこれは、考え方次第である程度の融通は利きそうです。
もちろん、どっちにしろ鍛えなきゃダメなのは共通ですが、
鍛え方、鍛える部分が、全然違ってくる。

---

ではこの、「やわらかさ」を鍛えるには、どうすれば?
実はまだノーアイデアで(笑)

ただヒントは、それが
・動きの最初と終わりに出る。
・フルスロットル状態ではない。(とは違う。)
というところにあるかもしれません。

スタートからフルトルク掛けてしまうと、動き乱れますよね。
フィニッシュ直前までフルトルクの場合も同じです。
じわっと徐々に出す、徐々に落とす、その出し方落とし方、
これがスムーズで速くて、的確。
クルマのスタート・ストップでの、アクセルワークやブレーキワークと同じです。
路面とタイヤと相談しながら、出せる駆動力(制動力)のマックスを探りながら、
瞬間瞬間で変化し続ける状況にぴったり食いついていって、
その最適解を出し続けて、フルスロットルに至る。
その時間を、極限まで縮めていく。

具体的メソッドとして、運動の場合は、
基本「型」の徹底した、かつ精密な反復練習が大きくものを言うと思うのですが、
これは、それをやったらやわらかい動きが身に付く、というものじゃない。
意識を「やわらかさ」に持って、「どうしてそれが得られたか」を反芻しながら繰り返す、
という意識そのものが、一番肝要で。
トラップなら、ぽとん、とまさに吸い付くように強いボールを落とせた。
では、これをやった自分は、一体どうやってやったのか。
そこを考える感じるのが一番大切で、練習自体の手法が問題ではない。
難解なことよりは基礎的なことの方が、
要素分解されてるから、より問題の切り出しがやりやすい、ってだけで。

文章の場合は……どおでしょおねえ。
フルスロットルが山場だとすると、
山場への持って行き方、とかそういう考え方になるんでしょうか。
僕は個人的に、山場山場山場が好きなので(笑)
谷作られるとイライラしてくるのですが、
(そして谷作ろうとして作ってるものがいわゆる小説には多くて、
 それがしんどいと思ってるのは僕だけじゃないはずだ!(笑))
でも、本当にいいものの谷って、良くできてて、そこも山なんですね。
たとえば「ナウシカ」だと腐海の底でアスベルとイチャイチャするとことか、
谷なんですけど、でもあそこもいいシーンですよね。
懐石でおしのぎのお寿司が出てくるとか。
そんな感じなのかな?
ちょっとズレてます?

もう少し考えます。

---

ともかく、フルスロットル訓練・実践ばかりではなくて、
「やわらかさ」を志向した訓練・実践が、おそらくはフルスロットルよりも大事。
どんなにパワー持ってても、それを引き出せなければ無駄。
点は、ボールをゴールに入れさえすれば獲れるわけで、
250キロの豪シュートが撃てる必要など、ゼロです。

これを身につけ、実践で使えるようになると、
戦い方の幅が抜群に拡がって、
身体と精神への負荷もはるかに楽になって、
結果として、成果もずっと良く出る。

……と思うので、さて、具体的にはどうしたもんかいな、と(笑)
ハーフスロットルの精密コントロールを身につければいいのか、
それとも、元来のパワーやスピードという概念とは全く違う身体の(精神の)
動かし方を修得せねばならぬのか。

とりあえず、そういう意識持つ、というのは大前提っぽいので、
それを記してみました。


5/12 納得を。

「納得」と「満足」って、微妙に違いますね。

満足を得ようとすると、かなり大変なんですが、
納得なら、しっかりやれば、割と確度高く手に入る。
というか、「しっかりやること」=「納得いくまでやること」ですわね。

納得のボーダーラインって、どのあたりにあるんでしょう。
そこで、一昨日の琢磨の話を思い出したり。
「予想できる自分のパフォーマンス100%」
近辺でしょうか。
だとすると、納得するためには、
・的確に自分のパフォーマンス予想が立って
・それを出せる
という2つの条件が必要になります。
実はこれ、両方とも難しい。

まず自分がこれぐらい力が出せる(出せない)の判断自体、
相当当該技能を回数/時間こなさないとできっこないし、
その上、周囲(同等)のものを見回して、第三者的に客観評価できる、
(完全には無理でもある程度)ことが必要になる。
特に表現とかは大変です。どうしても身びいきになる。
(でなきゃやっとられんし)
野球なら、打率出るからある程度はわかるんですけども。

ただ、それがおぼろげながら見えてくる頃には、
出すのは出せるようになってる気がします。
自分の力把握してると、自分の持ちパターンとか、
それ以外でもチャレンジしうる手法とかの、
自分内データベースがかなりくっきりできてるように思いますので、
トライ&エラーでしばらくやってりゃ、まあ精度高く仕上がる。
できれば一発で決めるに越したことはないですが、
一発で決める、ってのは結局、
顕在的潜在的持ちパターン中最適解を引き出す、という作業なので、
出りゃあ目的達成、「一発で」というのはおまけ要素。
麻雀であくまで一発はロンに付属する要素、みたいなもので。
まず和了らんと。

と、すると、「自分を知る」というのがまずある。
実はこの、「自分の能力を的確に把握できる」というのが、
上級へのパスポート(の一つ)ではないか、と最近思います。

これ持ってると、「納得」、つまり100%近くを並べることができるようになる。
よって、パフォーマンスががぜん安定するんです。
これはでかい。
すこぶるでかい。
どんな技能でも、「120もあれば70もあるよ?」よりも、「100がズラッ」の方が、
使いやすい。
本人の気分も安定してます。
バラついてると、モチベーションMAX、全ての要素を完璧に整えてやらないと、
70が怖い。
120が欲しいから、って口では言うんですけど、実は70を怖がってるんです。
だってへこむじゃないですか、その差50ですからね。
でもそれは嘘で、120なんてのはたまたま偶然、神様のプレゼントで、
実力でもなんでもない。
70も出ちゃう、ってことは、実力的には90ぐらいかもしれない。
でも、それ、「僕は90ぐらい」てのがわかってないから、常に120を求めてしまう。
あれが出せるはずだ、って。
90ってわかってれば、70が出ても、
「まあ、今日はちょっとダメですねー」ぐらいで済みますけど、
120と思いこんでて70が出ると焦りまくります。
で、そういう、技能面でのマイナスの感情感覚思考は、
パフォーマンスに悪影響しか与えません。
(全然別要素でのマイナスのもの、たとえばハングリーだとか
 フラれたとか家が火事だとか、そういうのは生存本能に火を点けて
 力が出ることはままありますが)

そしてそこで安定すると、「ここ以下にはならない」と安心できるので、
チャレンジもできる。
すると、120や、150も、出る可能性が増える。
出れば、その時、100の自分にどんな要素が加わったらそうなったのか、
把握しやすいので(自分がわかってるし、何を加えたかわかってるので)
それを自分のものにして、パフォーマンスそのものを120にできたり、する。
そうやって延々と伸びていける……
これが、上級者なんじゃないかなあ、と。

---

最近、なにか書くときに、まず「納得」を目標にしてます。
以前はどうも、「満足」だったんですね。
これが、辛い(笑)
ていうかそんなの、無理。
めちゃめちゃエネルギー掛けて、でも駄目なことが多くて(当たり前)、
そのたびごとに凹んで、また泣きながらやって……
と、いつしか大変な苦行に。
そりゃこんなやり方やってりゃいつか壊れますわ。

逆に、今は、
とりあえずやってみて、それを納得レベルまで持ってくる、
それを繰り返して、自分のパフォーマンスを把握する、
うっすらそんな感じで、やってます。
これだとかなり楽。
しかも、やってる結果は、あんまり変わらない。
視点が引く分、改良点や味の調え方が、よく見えるような気もします。
となると、楽しくもなってくるんですね。

てな感じで、いい感じです。

---

ただ、繰り返しになりますが、「自分を知る」てのがまずそもそも
ヒッジョーにムズカシイので、最初は無理です。
とりあえず基礎技能一揃え揃えて、
「やるだけならなんでもできる」中級者になってから、
その探求が始まるような気がします。

僕が大きく勘違いしてたのは……
「やるだけならなんでもできる」
と思った時に、必要以上に自信持っちゃったんです。
で、実際にその時点で、でっち上げるならなんでもでっち上げられたと思うんですけど、
その結果と本人の満足とは、まったくリンクしないんですね。
ただ力任せにやってるだけで。あとは運任せ。
これは、すごくつまんない。
で、どうして「なんでもできる」と思ってたのに、こんなにつまらないんだろう、
と悩んでみました。

答えはわかってみればごくごく当たり前で、
要するに自分というものががさっぱりわかってなかった。
「やれる」の中にも程度があって、自分基準で見て、
やりやすいものやりにくいもの、好きなもの嫌いなもの、あるわけです。
やりやすいものの方が「満足」できる可能性が高く、
やりにくいものはその可能性が低い。
だから、面白かったり、つまんなかったり、する。
それを、「納得」視点に切り替えれば、
やりにくいものでも、自分がどれだけパフォーマンス出せるか、
っていう点でやってみれば、そんなにつまらないものでも、ない。
(客観的に見て出来がいいかどうかは別ですが(泣))

こなす、というのとはまた別ニュアンスで、
自分の力をそのフィールドで如何に全部発揮できるか考えて工夫する、
って感じです。
本業はボランチですが、トップやれと言われればシュートも撃ってみます、と。
結果は知りませんが。
トップに入ってもボランチのプレーをしようとすると、これがもう、大変。
まして、それでかつボランチの時の100%を出すなんて、現実問題として無理です。
ではなくて、
じゃあ、本職トップの人の持ってないような、たとえば
スライディングタックルでボール獲っていきなりミドル、とか、
開いてサイドバックからボールもらって、コンビFWに40mのパス送ってみるとか、
自分を活かした「納得できるプレー」、があるはずで、
それが、面白かろうと。
結果は知りませんが。

すみません、最近はこういう技能論ばっかりになってますけど。
夏コミ(受かれば〜)あたりにはまとめてみたく思ってみたり。

何度か言ってますが、今僕は中級と上級の境にある巨大な壁を
四苦八苦登ってるところ……だと思います。
攻略ルートがおぼろげながら見えてきたので、あとはコツコツ登らなければ。
そうなんです。
壁も、結局は、トランポリンが降ってくるのを待つのではなくて、
ルート調べて見つけて、ハーケン打ってピッケル叩いてワイヤー掛けて、
ちょっとずつ登るほかない、ようです。

でも、ちょっと登るたびに視界が拡がって遠くまで見えるので、
楽しいです。


5/11 Green & Black

【本日のそういえば】

「もうそろそろ、次を。」
サインの色違いティッシュって、いつから出なくなったんでしょう?

---

5月は一年で一番、緑の映える月。
新緑が成長しきって止まった瞬間、
まさに「青春」の緑が、生命力溢れる黒々とした幹と、
きついぐらい強烈なコントラストをなして目に迫ります。
今年は雨が多いので、水分でますます輝いて見える。

長居公園も、ついこないだまで梅の桃の桜の白と赤が幅を効かせていたのに、
今はすっかりグリーン&ブラックです。
夏が進むと逆に、光線が強くなり乾燥した土埃が舞って、
このコントラストが主役じゃなくなって、白というか土色というか、そっちになる。
でも、ここの、いつが一番いい季節か、と言われると返事に困ります。
桜もいいし緑もいいし、真夏はちょっと暑いけど秋もいいし真冬もいいし。
四季のある日本、少し幸せ。

恵まれてるなあ、と思うと同時に、長居公園程度でさえ、
「四季美しく」という目論見の元、管理チームがコントロールしなければ
この美と安らぎは得られない。
まして人が手を入れた山や林野では……
やっぱり、すごくコストとエネルギーがかかっています。
「そこんとこにお金使うから」と言われれば、
税金も年金も幾分払いやすいんですけどね。
新幹線になっちゃう。

水もドロドロ空気もドロドロで、わずかばかりの緑に逃げ込んで息をつく。
そんな都会生活やってますと、「なにやってんだろう?」とふと、思ったりします。
公園が気持ちよければよいほど、普段いかに息が詰まっているか、わかる。
楽しく便利に暮らしたくてこうなったはずなのに、まるっきりストレス。
プラスの面を忘れてるわけではありませんが、ちょっとバランスが悪すぎる。
生物としての最低条件を、切っちゃってるような気がします。

そこで田舎へ逃げるんじゃなくて、 もうちょい緑と共存した都市生活もあろうかと。
(田舎に幻想を持つと「そりゃあんたたちゃ普段都会に出てるからだよ!」
 と田舎人が怒る(笑))
園芸好きのご主人がいるのでしょうか、長屋前に山と盛られたプランターと、
そこで頑張るいろんな草花見てると、
この国なら、やってやれないことはないのに、と思います。

そういえば、色違いティッシュが出なくなった頃、
水を買って飲むようになったような気がします。


5/10 琢磨走る

「予選3位やぞ!」
とM澤先輩に教えてもらったので、今日は琢磨の力走を観てから書こうと。
もちろん、予選日本人最高位です。

実は、琢磨は非常に気になるドライヴァーなんです。
新世代。今までの日本人ドライヴァーと、全く違う。
才能じゃなくて、その視点というか、自分の鍛え方磨き方、そこが。

ピットストップがハマらず5位に後退、
そこで南米人やイタリアンなら、リタイア上等で闘志剥き出し、
ガツガツ4位アロンソを追うと思うのですが、それをしない。
ここなんです。
勝手な憶測ですけど、彼の中では、たぶんこのレースは
「100%やれば3位を獲れる」レースなんです。
そして、そのように戦う。
状況が悪化して5位になったら、それはそういう条件になったわけですから、
無理をしない。
「この状況なら、この位置キープのレース」
に切り替わってるわけですね。

「持てる力を100%発揮して一つでも順位を上げるべく走る」
というファイター視点で言えば、確かに物足りない。
しかし、16戦を俯瞰して1ポイントでも多く獲る、とか、そういうレベルの話ではなくて、
もう少し高めに、琢磨の視点はあるように思うんです。

・自分のパフォーマンスはこれぐらい、環境要因はこのぐらい。
・ということは結果はこのぐらいは予想できる。
・それをしっかりやり遂げる。
・こなせない要因が発生すれば、そこで修正する。
・それができたら、次の目標を立て、自分のパフォーマンスを上げていく。

この考え方で観れば、レース後の琢磨のコメント、
「くやしいけどやれることはやったのでハッピー」
がよく理解できるのではないでしょうか。
琢磨的には、獲れる予定の3位が獲れなかったのは悔しいが、
5位でちゃんとまとめ上げたきったのが、よくできた、と。

で、この、高めの視点で自分を冷静に客観的に見つめて、
ステップを上げていく、そしてそれで結果を出す、というのが、
日本の若手スポーツ選手には多くなってますよね。
ナカータ、イチロー、スポーツじゃないですが、将棋の羽生名人とか。
これをやれる琢磨は、結構伸びるんじゃないかと。
純ドライヴァーとしての腕前やセンスは、それほど伸びないかも知れません。
だから劇的に速くなることはなく、涎の出るような天才的パフォーマンスを
魅せることはなくても、周辺環境を整えてすごく「強い」ドライヴァーに
なれる予感がする。

そもそもが、大学まで自転車の選手ですし、
慌てず1年休んで復帰するなど、
「琢磨式パフォーマンスアップ・プラン」
みたいなのをしっかり立て、それをしっかり実行できる、
そしてそれで結果を出してきてる。
カート始めて6年でF1パイロットですよ。
5歳からカートに乗ってる、というよりある意味ではスゴイ。

皇帝ミヒャエル・シューマッハーの何が恐ろしいかといって、
あの人は当時今ひとつのフェラーリに移籍して、
それを最強無敵軍団に作り替えちゃったんです。
あれが凄い。
(もちろん、それを許したモンテゼモーロ社長も偉いのですが)
結局今年も、ブリジストンを完全に取り込んで、
(BSはトップチームではフェラーリにしか供給してない)
フェラーリ専用、もっといえばミヒャエル専用のタイヤを作らせてますよね。
そりゃ強いですよ。
ミシュランみたいに個性の違う4チームに供給する必要があるより。

で、そこまで含めて、「強さ」という。

琢磨には、もちろんミヒャエルに比べればとてもプチですが、
そういう視点があるように思います。
それが、今までの「私走る人」っていうドライヴァー達と違う。
(もちろん、サトルの時代はそれだけでもベラボウにエライことだったので、
 彼らの偉業が霞むわけではないですが)
あとはこの調子で、経験と実績を積めば。

今年はセナ没後10年だそうで、今にして思えばあの頃は、
個性豊かなドライヴァー達が、F1の一番の魅力でした。
モータースポーツも、やっぱり、当たり前ですけど、プレイヤーが基本。
最近の若手には薄味の人が多いので、ぜひ琢磨には
「アイツはニコニコ笑ってばっさり斬るよ!サムライ!サムライ!」
みたいな濃ゆい目のドライヴァーに、育ってもらいたいものです。

ということで、今年は琢磨をちゃんと観ようかな、と思いました。
「成長の可能性がある」というのは、観てて気持ちのいいものです。


5/9 ひとつ

濃ゆい面々と朝まで非常に楽しく呑んで、思いました。
シチュなんかどうだっていいんです。
楽しい人々こそ一番の御馳走で、一番の美酒。

人が贅沢になったのはモノやサービスだけじゃなくて、
ココロもそうかもしれません。
オールオールパーフェクトハッピーハッピーな日々を、
求めすぎているような気がします。

そんな理想はあまりに遠い。
その前に、ハッピーばっかりだったら、それが普通になって、
ハッピーじゃなくなります。

なのに求めるから、足りないから、くたびれる。

それよりは、
「これは今日は素敵だった!」と強く思える「ひとつ」がある日。
それを、自分で頑張って作っていく、そんな日々がいいように思います。

僕の日々にも、小さなトゲがぐさぐさあります。
でも、「いいの書けた」のたった一つで、その日の収支は黒字になる。
それは、すこし幸せでもあり、
書けなければ黒字にしにくいという意味では、ちょっと大変でもある。
でも、自力でどうにもできないものにぎゅおんぎゅおん振り回されるよりは、
「ああ、今日はちょっと力及ばず」
と思える方が、まだしも。

求めなければ与えられもしない、とは思いますが、
なんでもかんでもあれもこれも求めても、神様だってリスト見てゲンナリする。
本人も求めるのに費やすエネルギーで、疲れる。
三食美食ではなくて、二食粗食で一食御馳走、の方が身体にいい。
一番欲しい、「ひとつ」、でいいと思います。

気を抜くと、すぐ、「楽しませてくれなかった」「今日は面白くなかった」と
誰かを何かを恨む。
その前に、自分の大切な「ひとつ」をもとに、
「楽しんだか」「面白くしようとしたか」を思い出すようにします。

その方が、シンプルで、楽で、コントローラブルで、自然で、
結果的に、楽しい。
そういう、「楽しそうな人」になりたいものです。
そういう人の周りには、また楽しそうな人が吸い付けられていきますしね。

……え? あんたは充分楽しそう? っていうか「楽してそうな人」?
まあ、漢字同じなんだからいいじゃないすか(笑)
ひとつ、やっていきたいと思います。


5/8 アドリブ・ラリードライバー

いきなり大胆発言。

かなり間違っておりました(泣)

えと、一昨日からまた、半年ぶりに「ミラクルズ!」を描き始めました。
僕にとってあれは、帰るべき故郷というか初心といいますか。
もう、一生書こうかと思ってます。
最後の方は老人ホームであの連中が巻き起こすラブコメで。
それはともかく、ここ一月半ばかり一生懸命考え、感じてきたことを、
そろそろぶつけてなければ、と思い、気合いを入れて、いざ。

製作半日。
感想。

「ここんとこやってきたことは……
 あんまたいしたことじゃなかったよ(泣)」

「書くこと」の方法論を一生懸命探してるつもりでした。
でも、視野が狭かった。
一つの作品を作るのに、必要な要素がA、B、C、D、E、とあったとすると、
Aの能力アップとその方法論ばかり追いかけてて、他ほったらかし、
という感じです。

Aは具体的には、純粋な表現力です。
(「文章力」というと複合要素が絡みすぎるので)
しかしもちろん、一品はそれだけで成り立つわけではない。
構成力、テーマ、世界観、キャラクターの魅力……
様々な要素が多重に絡み合ってできてるものです。
純表現力だけが高くても、あとスカスカだと……
マリア・カラスにアイドルソング、それもそろそろ飽きられ始めた
3rdアルバムの9曲目ぐらいを、歌わせるようなものです。
逆に、披露宴で花嫁の父が歌う「娘よ」は心を打つ。

そんなことは重々わかってはいたのですが、
メソッドの単位で色々考えていると、それそのものが楽しくて、
いつしかそればかりやってました。
で、実作に戻ってみると、
「うわ、役に立つ範囲狭っ!」
クリティカルでもなんでもない。
「これさえわかればあとはもう」
みたいなこと言ってましたが、あれ、嘘です。
すいません。

例えて言うなら、そう、受験勉強。
国立大5教科必要ですよね。
わかったのは、「現代国語でコンスタントに9割が狙える方法」ぐらいかな。
そりゃ、わかんないよりわかってる方が絶対いいんですけど、
これだけで受験に成功するものではない。
しかも切ないことに、実は現国は得意教科で、ほおっておいても得点源なんです。
得意な教科を80から90にする方法論を探し求めて、
うひひうひひと悦に逝ってた。
もちろん、それはそれでいいんですけど、
60の教科を80にした方が、40を70にした方が、総得点は上がる。
マイナスが潰れる、というのは、プラスと同じ、
もしくは「バランス」「安定感」という意味では、実はそれ以上の効果がある。
しかもそっちの方が、頂上付近追い込むより、
基本的な手法や知られた定石を使えて、タイム・パフォーマンスがいいことが多い。
そして、人間の時間は、有限。

そう考えて周囲の声とか思い出すと、
「いや、そこはOKだと思うよ」
みたいなこと言われてた気がする(泣)

うーん。

例えも何も、実際の受験でも得意の国語ばっかり勉強してたなあ……
どうもそういう性癖を持つ人間のようです。
得手に帆を上げ……
っぱなしでどこいくねーん! と。

でも逆に、この一月半やってきたことの位置づけもよくわかったし、
これからやるべきことのおおよそも見えてきたし、
もちろん無駄ではありませんでした。
要するに同じことを、苦手な要素で淡々とチャレンジしていけば、
レーダー図がま〜るく広く描かれるわけです。
そういう意味では、とてもいい感じです。
よくがんばりました、と珍しく自分を誉めてみたり、してます。

たった半日でそんなこと思ったりするのだから、
やっぱり、僕は、「走りながら考える」タイプのドライバーらしいです。
アドリブ・ラリードライブ。
刻一刻変わる状況に、その場その場で判断して決断して、なお、最速を求める。
時に断崖からゴロゴロと落ちてみる(泣)
でもナビと二人でクルマを起こして、また走り出してみる(笑)
その緊張感と、アクシデンタルな状況、わけのわからんさ、こそが、
僕にとっては、Writingやってて、
「たのしい!」と思える要素なのでしょう。

ということで、とにもかくにも、書かんとダメ。
考える前に、とっかかり叩き台を書いてみる。
その、「書くことそのもの」で、ノっていこう。

では。
エンジン回して、荒野に戻ります。


5/7 演劇的な、きわめて演劇的な。

劇をやったからそうなったのか、そうだから劇をやってたのか。
クサいのが好きなんです。

ユヴェントスの監督、マルチェロ・リッピが成績不振の責任を取って辞任しました。
スクデット(リーグ優勝)5回、イタリア一の座をカペッロと争う名将です。
それを聞きつけたボローニャ(今ナカタの居るチームです)の大ヴェテラン・
マッツォーネ監督。

「マルチェロが辞める?
 なあに、長くは遊ばせはせんぞ。
 アイツにはアッズーリ(イタリア代表)という仕事が待っちょるからな!」

演劇的ですねえ(笑)

演劇的、というのは、「酔っぱらい」とは微妙に違います。
劇、というものは見る者見られる者で成り立つもの、
観客に対するインパクトを考えながら自発的に「演ずる」ものです。
稀に天才的な役者が憑依状態で演りますが、それは例外……
というか、憑依であっても「自分」からは離れた別人格になっているわけで、
それは自分自身に中毒症状を起こしている「酔い」とは別物です。

必要以上に演じることは胡散臭さ、信頼のおけなさにつながりますが、
こと「なぜ」演じるかが周囲の楽しさや喜び、つまりは幸せを志向している場合、
少々のことは許されるのではないかな、と思います。

日本では素直であることが非常な美徳とされ、
(もちろんそれはそうなのですが)
「演じる」ことは、そこまでいかぬ単なるオーバーエクスプレッションであっても、
嫌われる傾向にあります。
昔からこれがどうにも解さなくて、
「演じててもいいじゃん、いいひとなら」
と思うのです。
演じなくてもいい天才や、演じもしない無努力に比べれば、
演じることの努力は認めてあげるべきではないでしょうか。

繰り返しになりますが、演じることには、自分の客観化・客観視が必要になります。
マッツォーネは非常に愛されてる監督なのですが、
(日本で言えば阪急時代の上田さんあたりかな)
実力的には下位のチームを残留させるのが上手い、ってぐらい。
代表監督、という話になれば、リッピの他にもカペッロ、ザッケローニ、
一度率いたゾフ、若手ですが経験豊富なアンチェロッティ……と、
あまり目はない。
その、「自分の立ち位置」がわかっているからこそ、出るセリフなんです。

あたりまえですよね、主役には主役の、通行人には通行人の、セリフがある。
そういうセリフは、世界という一つの大きな舞台を、参加しつつも観ている、
そんな楽しさを生むのではないでしょうか。

もちろん、誰もが自分の人生の主人公です。
お父さんならば、家族の主役でしょう。
でも、職場ではそうとは限らない。
また、いつもいつも主役である必要も、別に無い。
劇を何度かやってると思いますが、
脇役もまたすごく面白いのです。
「主役を光らせるために潰れる」というのには非常な技術とエネルギーいりますし、
プレッシャー無い分のびのびやれて、主役を喰っちゃう脇役なんて、
よく居るではないですか。

日本でも、昨年の甲子園での阪神巨人最終戦、
原監督の肩を抱く星野監督、は実に演劇的でした。
むせび泣く若大将、敵地に響く原辰徳応援歌。
スポーツにクサい芝居は要らない、と言う人もいますが、
んなこと言い出したらそもそもスポーツ自体がこれっぽっちも必要のないものです。
せっかくの人生ですから、細かいこと言わず
思いっきり楽しんだ方がいいと思うのですが。

まあ、なんといいますか、
相変わらず『暴れん坊将軍』や『釣りバカ日誌』で手を叩いて喜ぶ人が多いのに、
どうも「演劇的であること」が相変わらず不当に卑しめられてるなあ、
と思って、こんなことをちょいと。

日本にも、なんでもかんでも「劇的」にしてしまう人々がいます。
それは、おばはん。
「ひぇえっ!? 息子さんアメリカ行ったはんのッ!?
 ふぅわぁあああああ……まぁあ、たいへんやねええええ……」
あんたなんの関係もないやん。

で、彼女達が人生をとてつもなく謳歌しているのは、みなさまご存じのとおり。
いくぶん、参考になる部分もありそうです(笑)


5/6 half fasting DIET

連休終了スペシャル。

世にダイエット法はあまたありますが、僕が成功した秘密の大作戦を、
「あなただけに」「特別に」「タダで」お教えしましょう。
173cm、76kg前後から67kg前後まで落としたものです。

題して「半日断食ダイエット」、略してHFD。
やり方はたった一つ。
「一日に12時間以上何も食べない時間を作る」
これだけです。

朝8時に朝ご飯食べる方なら、夜8時以降は何も食べない。
仕事の都合などで夜10時半に晩ご飯、という場合でしたら、
朝抜いて10時半頃にカロリーある果物ジュース系を飲む。
(パンとか食べてもいいと思いますが、それするとお昼きつくなるので)
どうしても我慢ができなくなったら、
牛乳とか果物野菜系のジュースならば可。
(言うまでもないですがアルコールはインパクト強いのでダメです。
 カロリーだけあるコーラとかもなるべく避ける)

ただ、これをずーっとやるだけです。
ほら、意識しない間にあなたの身体もすっきり適正体重に。
まま、騙されたと思ってやってごらんさい。
体重は気にならない人も、半日休める胃腸の調子が良くなって、
体がスッキリしますよ〜。

---

ダイエットについて2点、未だに大きな勘違いが横行しています。
第1に、
「やりきれなければ100%成功しない。やりきれる方法こそが最高の方法」
という事実。
低炭水化物ダイエット!?
アホですか、肥えてる人はたいていご飯にパンに麺、炭水化物が大好きです。
ありえない。
そんなもの、「勉強が嫌いだけど成績上げたい」って子に
「勉強しろ」言ってるようなものです。
何の問題解決にもなってない。
未だに書店に行くと、「なにだけを食べろ」とか「1日これだけの運動で」みたいな本が
ゴマンと転がってます。
いや、やれりゃ効果あるでしょうよ。
でも、できない。
やれなけりゃ、どんな方法も効果ゼロです。

だから、「できる」ことをまず第一に考える。
HFDならその点バッチリ。
食べてかまわない12時間中には、何をどれだけ食べてもOKです。
夜中おなかが減ってきても明日の朝ご飯、腹一杯思いっきり、
しかも美味しく食べられると思えば、なんとか乗りきれるもの。
(ここで翌朝も制限されてると、我慢が効かなくなる)

まず狙うべきは「最大の効果」ではなく、「最小の努力」です。
たとえ効果は小さくとも、長続きすればトータルでは絶大な効果になる。

第2の点は、「ストレスは絶対に良くない」という点です。
人間は、ストレスで簡単に体調を崩します。
こんなことはもう、皆さん超・ご存じのことです。
なのに、ことダイエットになると(健康法でも多いですが)
身体にストレスを掛けまくる。
間違ってます。
ストレス掛かると、身体の防御機構が働いて、現状を維持しようとします。
入ってくる食物が減れば、そこから限界まで栄養素をこそげ取り、
またそれをガッチリ貯め込み、使い惜しみするようになります。
つまり太りやすく痩せにくい身体になる。
当たり前ですわね。
人間も厳しい自然を生きてきた動物だもの。

だから、「これだけカロリー制限する」とか、「これだけ運動して消費する」というのは
極論を言えば全て間違ってます。
でもHFDなら大丈夫。
食べられない気持ちは、おなかいっぱい食べる快感で補償されます。
それ以前に、体調がよくなってストレスどころか健康に。

「ノーストレス」はさすがに難しいですが、
ストレスを掛けたらそれ以上楽しさがある、
ぐらいのやり方を考えなければ、成功は遠ざかる一方です。

---

ダイエット法には向き不向きがありますので、
HFDで必ず痩せる、とは言い切れません。
ですが上の2点は事実で、「やりきれない」「ストレッシブ」そういうダイエット法は、
間違いとは言い切れなくても、その人には向いてないです。
例え短期的には体重が落ちても、すぐリバウンドする。
だから、そう思ったら、別のやり方に切り替える、
あるいは自分で改良してみる、ということが必要だと思います。

ともあれ私はこれで落として、今もこれで維持してます。
飲みに行ったりするとリズム崩れるので、
次の日は半断食みたいな感じであまり食べ物摂らない、とか調節しながら。
体重は簡単に動きませんが、胃腸の調子はすぐよくなるので、
苦痛になりません。
逆に寝る前までダラダラ食べた翌日など苦しくて、自然とHFDに戻るぐらいです。

ダイエット何度も失敗している方、一度お試しあれ。


5/5 バスクそして大阪

ピレネーの豊かな自然に囲まれて生きるバスク人。
生まれ持って木こりの彼らの中で尊敬される男性は、
・よく走る人
・力のある人
・速く草を刈る人
だそうです。

時と所が変われば、人の評価など変わるもの。

okbちゃんの披露宴での僕の漫談スピーチが、
彼のまま上である最終兵器熟女「塩川正十郎を待たせる女」セツコさんに
どうも大ウケしたらしく、未婚の娘、つまりokbちゃんの妹に向かって
「ながたさんなんか、どうや?」
などという空恐ろしい会話が繰り広げられたとか。

義兄さん。

それはともかく、
「オモロイ」
というのは大阪においては最高の資質の一つで、
オモロイ人物は何はさておき大事にされます。
面白さ、というのは機転・頭の回転や引き出しの豊富さ・知識から
導かれることも多いので、たいてい仕事もできたりするのですが、
中には天然で面白いだけで仕事とかそーゆーのさっぱりな人も居ます。
でも、そんな場合でも一目置かれる。
例えば高校の掃除当番でこれっぽっちも働いてなくても、
「ま、あいつはオモロイから」
で、許されるとか。

もちろんながら「オモロイ」は大阪の男の子にとって最高の誉め言葉であって、
「カッコイイ」とか「賢い」とか「優しい」とか、そんなものより遙かに上位に位置します。
逆に「オモンナイ」というのは最大の攻撃用語。
若干の客観性を含むが故に、そう言われるとただただ凹みます。
中にはマジで逆ギレる人もたんといるので、大阪(関西)の男の子に
この言葉を吐く時は、「マザーファッカー」クラスの覚悟をしてください。
「アホ」などよりはるかに禁句です。

芸都(かつ昔は商都)大阪には、
芸が生み出す「笑い」や「楽しさ」、あるいは「感心」や「驚き」の、
人生においての意味をよく知る人々が多く、
だからこそ「オモロイ」ということに非常な価値がおかれているのでしょう。
商売においても同様、「他と違う」というのは決定的な商品価値です。
そういう地域で育つ人間は、やっぱりそこに価値を置くようになる。
この「人の個性」こそが、地域の特色、個性だと思います。

それはとても大切で、かつ誇りにするべきことですが、
一歩外へ出た途端、神通力を失うことも大いにあります。

大阪(関西)では「面白い」「面白くない」という評価にかかるはずのものが、
土俵に乗りすらしないこともある。
もっと酷い場合、「面白い」ということに価値を置いてくれないことすらある。
この溝は、言葉が違うより大きい。
しかももちろん、その事実を変えることもできませんし、
それを怒ったり凹んだりしてても、進歩はない。
大事なのは、あまりその差異に惑わされず、
自分が「良い」(この場合なら「オモロイ」)と思うものを、
しっかりやっていくことでしょう。
というか、それしかできませんしね。

バスクの村で「速い」と言われているなら、それはもう間違いなく速いわけです。
それは胸を張ればいい。
でもパリの街では、だから偉いってわけじゃ、ない。
そこは謙虚に。

と、オモロイ言われて舞い上がってる大阪の男の子は思うのでした。


5/4 ギャラクティコ

ギャラクティコ(銀河系選抜)レアル・マドリードが3連敗、
残り3試合で首位バレンシアとの勝ち点差4。
今季はどうやら、CL(欧州チャンピオンズ・リーグ)・リーガ・国王杯、
3つとも無理のようです。

でもね。
こんな結果は僕程度のライト・サッカーファンでもシーズン前から
簡単に予期できたもので、逆に前半戦あんなにゴマカシが効いてたことこそが
今にして思えば「さすがギャラクティコ」です。
簡単に言えば今のサッカーで最も大切なポジション、
ボランチをこれっぽっちも重視してない、のが根本原因なのですが、
まあそれはもうよろしい。
問題は、どうしてああいうチーム編成をしたか、です。

ベッカムを獲るのはアジア(というより日本)対策、金儲けのためだ、
と言われてますが、
「なぜ金が儲かるのか」といえば
「人気があるから」(入場料が増えグッズが売れ関連収益が上がる)であり、
「なぜ人気が上がるのか」といえば
スポーツの世界では古今東西、たった一つの理由しかありません。
「強いから」。

これはもう一つの例外もなくそうで、
たまに「人気あるけど弱いチーム」が存在しますが、
それらも強くなればもっともっと客が押し寄せるのは、
去年の阪神を引っ張り出すまでもありますまい。
まして、「強いけど人気のないチーム」など、
オラジュワン率いるロケッツぐらいしか思い出せません。

全てのチーム作り、選手獲得は第一義として
「強くなるために」行われるべきで、
その上で、たとえばほぼ同じ能力なら男前を獲る、とか、地元出身を獲る、とか、
そういうのはかまわないでしょうけれど。
ベッカムはもちろん超一流のタレントですが、
レアル・マドリードの弱点はまずもってセンターバック、
(そして宇宙人揃いのアタック陣に比べれば)守備的MFです。
特に去年その守備的MFとしてMVP級の活躍をしたマケレレが
ゴネて出て行ってからは決定的で、獲るならここ。
大活躍した選手の穴を埋めるパーツを用意せず、
さらにはキャプテンであり衰えたりとはいえ経験豊富なCBであるイエロを切って、
センターバックまで弱点にしてしまった。
要するに攻撃10守備8ってチームが、
攻撃10(あまり2)守備6になったんです。
そりゃ、ダメですよ。

繰り返しますがこんなことは世界中のサッカーファンが一目見てわかることで、
後から一年の敗因を考えて、
「ああ、そう思ってみればマケレレが頑張ってくれてたんだなあ」
なんて専門家レベルの話じゃない。
地球の裏側からテレビ観てわかる程度の事実です。
それは、いくらなんでもやっちゃダメ。

なのに、会長とGMはそういうチームを作った。
そして追い打ちを掛けるように、カルロス・ケイロスという「名古屋の敵」はやはり
「世界最強軍団の指揮官」という器ではない。
「守備的MFが足りないCBが足りない」とボヤくばかりで、
それを埋める有効な戦術を生み出さない。
極端な話エルゲラしかCBが居ないなら、ロベカル・ミッチェルと3人で
高速3バックやってもいいわけです。WBは左ソラーリ右ベッカム、とか。
フィーゴのポジションが無くなって相変わらずボランチ不足ですけど、
それならカンビアッソ+グティでもなんとかなりそうな気もしなくもない。
「スペインで3バックは……」って、デル・ボスケは結構やってましたし。
でもそーんな工夫はゼロ。
要するに自分の型に選手はめて使うタイプの指揮官で、
だからユース監督であり、ファギー(マンUの名監督)のアシスタントなんです。
型からはみ出ることで自分を表現するクラッキ(名手)達のコントローラではない。
これも明かな失敗。

#余談ですが指揮官にも器はあります。
#大きいのを動かすのにいいひと、小さいのを強引に引っ張るのがいいひと。
#ユーヴェの来季は現パルマのブランデッリらしいですが、
#僕どうもこの人は「そこそこの戦力で限界まで結果を出す」のに長けるタイプで
#(日本人馴染みで言えばアルディレス)
#「常勝軍団をまとめあげる」という資質はあまりにも未知数だと思うのですが。
#昨シーズンのナカタの使い方とチーム戦術を見てると。

これらの施策をわかっててやってんならギルティですし、
(スペインではクラブの会長はソシオと呼ばれる会員の選挙で選ばれます。
 強い(あるいは会員が納得する)チームを作らないのは、背任行為)
この程度のこともわかってないなら
アホウ
です。

しかし。
それでこそスパニッシュといいますか、
「すごい攻撃の選手をいっぱい獲ったらすごいチームだよ!」
というのを素直にやっちゃうところが、スゴイと言えばスゴイ。
無敵艦隊が世界一狡い(戦い方に長ける)イギリス人にやられちゃった理由が
実によくわかる一例です。
と同時に、
この国の代表チームはよほどの外的要因(幸運)がなければ
W杯を掲げることは無いだろう、とも思います。
戦力がどうこうではなくて、戦う者のメンタリティではない。
戦いは勝つためにやるもので、戦うためにやるものではないのです。

……と、日本人の僕が言ってもあまり説得力はないのですが。

レアルも、来年はいいボランチといいCBを獲って
(今回、契約寸前まで行ってメディカル・チェックではねたミリートって
 アルゼンチン代表CBがいるのですが、これがサラゴサでだーい活躍。
 今季を象徴してます)
メンバーシート見るだけでヨダレの出る、
ホンモノの銀河系選抜を目指して欲しいものです。
CBコンビがネスタとリオとかね。

それと来年はNHK頑張って放映権奪い返して〜(泣)

---

極東の野球チームにも、小学生でも「抑えと中継ぎがいない」と弱点解析できるにも
関わらずそこを補強せず、またも他球団の4番を2枚も買いこんで
満面の笑みを浮かべている素敵な球団があります。
やっぱり、打「線」てのは
足の速いヤツ、小技がうるさいヤツ、一発があるヤツ、勝負強いヤツ、
ヒットなら簡単に打つヤツ、妙なところで突然打つヤツ……
とバラエティに富んでる方が、投げてる方も一人一人やり方を変える必要が出てきて
疲れると思うのですが……

と、考えてその監督がかつて大球団の大エースだったことを思い出しました。
おのれ流・力ずく・ごり押しで、なんとかなったのかも知れませんね。
だから、そういう「勝つために考える」ことが、あまり必要なかったのかもしれません。

塞翁が馬、ある時有利だった環境は、有利であるが故に(偏りがあるが故に)
条件が変わると逆に不利になる。
環境優位にあぐらをかかず、不利にくさらず、
常に何がポイントなのか考えていくのが大切なようです。
真のギャラクティコを目指して(笑)


5/3 キの字

大坂城公園でキャッチボールすると、
20分で4人全員肩を壊し、心拍数がトップガンぐらいデンジャーゾーン。
QK。

「……絶対おもんないから。100%おもんないから」
「わかってんねんって! せやけどな、
 『どのぐらいおもんないか』っていうのを見たい気持ちってあるやろ!?」
「ショージさんか……
 しかし先輩。ワシらもう32だんねん。
 人生70年とすれば、もう半分終わってますねん。
 もうそんなことに時間掛ける余裕はどこにもありませんねん」
「そうなんだけど! そうなんだけど!
 でもタダやったら見たいやろ!?」
「……まあ、タダなら……いやしかしタダでも……
 むしろ嫁がもっと協力すべきやな。
 主題歌を歌えと。むしろイサオとデュエットだと」
「あ。じゃあ嫁のCDを買ったら入場券が入ってくる。
 BUY ONE GET ONE!」
「抱き合わせか……勝つためには手段選んでたらあかんな」
「しかしなぜアレなんだろう」
「アレはほら、当時画期的だった『孤独なヒーロー』ですから。
 それにひかれたんじゃないの?」
「孤独と言えば妖怪人間が……」
「あれはファミリーでやってんじゃん」
「あ、そか」

アメコミを実写化したスーパーマン・スパイダーマン・あるいはX-MENなどが
そこそこ面白いのですから、コンセプト自体は間違ってないと思います。
ただ、それでもタイトルは大画面・2時間尺に向いてるモノを
選んだ方がいいような気がかなりしまして、同じ製作会社に
「Scientific Ninja Team」
などというまさに今の世にぴったりフィットした、
そして絵面的にもとても派手派手でCGアクション向き、
かつ1シナリオを切り出し易いタイトルが……
そうはいってもしかし、
「ヤルッチェ・ブラッキン!」(うる覚え)
「ヒヒヒヒヒヒヒ……お前は死にはしない。
 壊されるだけだからな!」
「なに!?」
などの名セリフがどう表現されているのか、
それを見るだけでも見てみたいような気もしなくもなく。

確認ですが主題歌はイサオ先生ですよね?

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「日本の誇る三大自律行動型ロボット」といえば
アトム、ドラ、そしてマルチですが、
「ロボット」というのはやはり科学の象徴で、
それぞれ60年代(63年アニメ化)、80年代(79年アニメ化)、90年代後半(97年リリース)の
「人間と科学技術の距離感」
を表しています。
そう、公害や環境汚染が明るみになり、石油ショックが日本と科学をズタズタにした
70年代がすっぽり抜け落ちてるんですね。

調べてみると件のアニメは本放送開始72年。
ラスボス(逆面の主人公)はフランケンシュタイン(の怪物)で、
人に造られたにも関わらず意志を持ち人に反旗を翻す。
それに挑む主人公は、
人であるにも関わらず自らの意志で人を捨て機械の身体を手に入れる。
そして人のために、人に石を投げられながらも戦う。
そういう、距離感のわからなかった時代だったようです。

「いやでも、そりゃ石も投げられるって。
 荒廃した街で、まっ白な全身タイツの男が口元隠して甲高い声で
 『アンドロ軍団の鉄クズめッ!!』
 とか叫んでたら。子供怖がって泣き出す、っちゅーねん。
 青い変なロボット犬つれてるし」
「そういや……
 ロボのイヌ、できたなあ」
「……できたな。ちょっと違うけど」

人間の想像力など、今を見るので精一杯です。


5/2 ケチャップの袋

GWで帰省した友人達と、
「マルヨシ」で腹一杯ヒルメシ→大阪城公園でキャッチボール→IMPでお茶→
okbちゃんyokkun入れて心斎橋でビール。

元気になります。

最後にロイホで話しながら、自分で「そうだよな」と肝に銘じていたのですが、
アメリカンクラブハウスサンドに、ケチャップとマスタードの袋がついてきました。
僕らは、
「この袋をちぎると、ちゃんとちぎれない。なってない」
などという議論(この場合議論ですらなく単なる文句)をするべきでありません。
サンドイッチがベラボウに美味ければ、誰もそんなこと気にしない。
そもそもケチャップなどつける必要もないかもしれない。

問題の性質、大小、優先順位、自分との距離、そこで自分は何ができるか。
ケチャップの袋に気がつくことは決して悪いことではないですが、
そこに拘泥してしまっては、いけない。
ましてそれが原因で店員に殴りかかるなど、暴走もいいところです。
ケチャップの袋ならばそれがどのぐらいバカバカしいことか
誰にでもわかるのですが、(最近はそれがわからない人もたまにいますが)
自分のフィールドにおける「ケチャップの袋」に悩まされていることは、
とても多いです。
僕も、多いです。

学者、経理屋、エンジニア、銀行員、不動産業、と、
他のフィールドの友人と話をすると、自分がいかにそういう
「ケチャップの袋」をたくさん抱えてるか、思い知ります。
そしてそれを、「たいしたことではないもの」という箱にポイ、と放っておける。
それはとてもありがたく、また気持ちが楽になる。
と同時に、僕もまた、誰かに対して、
「そんなケチャップの袋どうでもええやん」
と、直接間接問わず、指し示していけたら。

それが「友」のありがたみであり、
それには、能力とか環境とか社会的なポジションとかヒストリとか、
そんなの全然関係なくて、ただ、その場で一個の人間として、
「ほぉ。それは、そんなに大切なんだ」
と、話を聞いて、自分のままに感じる、それだけでいい。

ひとつひとつ、まっすぐ。
少々熱苦しいですが、人と人とは結局それだなあ、と思う夜でした。
ま、熱苦しいのは芸風なので許してください。


5/1 別の居心地


僕、何か書く時はいつも、ノートPC持ち歩いて、
キッチンだの応接間だのデニーズだのドトールだのでやってます。
ふと、ソポクな疑問。
「なんで自分の部屋でやらないんだ?」
書きにくいんでしょうね。
じゃなぜ書きにくいの?

……居心地が悪い?

自分の部屋居心地が悪い、って変な話で、そんなはずはない。
実際、「ほえなが」は部屋で書いてますし、
落書きとかも別にずっとやってても苦にならない。
マジモノだけが書きにくいんです。

で、はたと気づきました。
居心地が「違う」んです。

ものを書く、というのはパンツのヒモ緩めておソレソレを引っ張り出し、
「見て見てほら〜」
と振り回す変態行為です。
それって、日常生活の場ではやれないですよね(笑)
孤独、というか、いつもと違う場所、でないと非常にやりにくい。
(没入してしまえば、つまり出してしまえば開き直るのですが……)

自分の部屋、というのは究極の日常空間です。
だからやりにくい。
机・椅子ではリラックスできないから、コタツ・座椅子に変えてみよう、とか、
そういうレベルの話ではないのです。
逆に、いつまでもそこに籠もりたいリラックス空間にすればするほど、
安逸な日常として幸せにすればするほど、
ものを書く、という行為からは離れていくような気がします。

では、そうだとして、じゃあどうしましょう(泣)

一つには、逆転の発想、自分の部屋をスペシャル・プレイスにしてしまって、
リラックスはよその部屋、居間とか台所とか、という手があります。
しかし、僕のリラックス・タイムと言えばおおよそ本かゲームかWebかスポーツ観戦で、
これが家族の「TVを観る」という行為と非常に相性が悪い。
またウチの家族テレビ好きでね〜。
この手は厳しい。

じゃ、ちょっと搦め手ですが、部屋を2ゾーンに分けて、
こっち日常こっち非日常、ってやってみま……
って、昔やったんです(笑) 遊び机・勉強机。
見事失敗。
やっぱり、「その空間で一番棲みやすいところ」に落ち着いてしまうんです。
人間の感覚って面白いもので、
ある部屋で座るところ、って人によってだいたい決まっちゃうんですね。
そこ以外に座ると、落ち着かないのです。
ほら、AVの実用ポイントが一本につき一か所しかない、というのと同じです。
同じか?

理想は、そういう外界の状況に囚われず、
一瞬にして自分のモードに切り替えられる強靱さを持つこと、ですが、
人間のパフォーマンスは日によってバラツキもありますし、
なかなか難しいですね。

てことで、しばらくは妥協点、相変わらずノートPC持ってウロつくほかないようです。
なんで「ほえなが」の方がいい環境で書いてて、マジモノを書いてるのが
3年落ちのキーボードカピカピThinkPadなのか、って疑問が沸々してくるのですが……

あっ。
ひょっとして、液晶とRealforceと椅子を持ち歩けばいい?


新緑薫風の5月です。
今月もさわやかに、そしてこってりまいります。



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