吼える! ながたさん!

随想随筆、楽しまなきゃ人生わ。

7/31 Sonomamade

本日は7/1から7/31までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)
いちおう、自分的にまるっきりダメだったものは掲載しません。
特に一般的におすすめできそうなものにはひとこと入れます。


■本■

「街道をゆく」31 「愛蘭土紀行U」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

「街道をゆく」32 「阿波紀行、紀ノ川流域」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

「街道をゆく」33 「白河・会津のみち、赤坂散歩」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

「街道をゆく」34 「大徳寺散歩、宇佐のみち」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

「東洋的な見方」 鈴木大拙 (岩波文庫)

「海馬 脳は疲れない」 池谷裕二 糸井重里 (朝日出版社)

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池谷さんの本ならまず「記憶力を強くする」(ブルーバックス)の方がおすすめです。
あれを読んだ後の方が楽しめる……かな?

「海馬」で一番びっくりしたのが、池谷さんなんと九九ができないんですって。
(東大卒の脳の研究者ですよ!)
9×8を、90−9×2で解いてるそうです。
「このやり方なら10倍する・2倍する・半分にするの3つの方法を知っていればいい。
 九九を81個覚える必要はない」
このくだりが一番この本の価値を下げてるような気がする(笑)
んなことを教えてもらいもせずにできる人に
「いや脳は疲れないんですよ!」
とか言われても、ねえ(笑)

それは冗談。
面白い本です。

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大拙先生の「東洋的――」もさすが岩波に入ってるだけあり、
短編集でもあるので読みやすいです。
読むだけで禅がわかったような気になります(笑)

それも冗談で、真面目に自分の考えをまとめるのを随分アシストしてもらいました。
最近よく言ってます「やらにゃ」というのがそうで、
結局のところ、禅でもなんでもいいのですが、
それによって全き安心を得、全き幸福の中を、春の日和のように生きていけるとしても、
結局、生きていかなあかんのです。
大拙先生はそれをキッチリ把握しておいでで、
「いや、結局、ぽけーっと生きてくわけにはいかんよ。
 だってそんなの、おもしろくないじゃない」
とピシャリ、言い切ってくれます。
あれほどの先達にそう言われますと、素直に
「あ、そうですよね、やっぱり」
と思えました。
となれば、惑う悟るはどうでもよくて、己の楽しめるがままに生きる、
それこそが「生きる」。

それは非常に大雑把な言い方をすると、なんにでも応用の効く捉え方で、
たとえば私の場合、
「面白い作品とはなにか」
を常に考えてるわけですが、
「答えはない」というのが「答え」で、
つまりどこまで行っても、
「思うがままに描くこと」と、
「みんなに楽しんで貰えるものを描くこと」との間を、
おたよたおたよたとうろつき続ける他ないのです。

永遠に続くみちの途中を歩いてると思うと泣きそうになりますが、
大きな野原の中をそぞろ歩いてると思えばどうでしょう。
到達点なんか、無いんです。
だからその場その場で、自分がその野原の中でどんな自然を見つけ、見いだし、
そして楽しめるか、それが全てである。
速く走ってもいいですしどこかに向かってまっしぐらに駆けてもいい、
でもその場でクルクルと遊んでてもいいわけです。

ものを描く、ということは、
理想と現実の狭間で悶えること、
それ自体であって、
それを取り除こうとする、またそこから逃れようとする、
またその先になにかヘブンがあると信じる、
そうではない。
子供の粘土細工と同じで、「それを作ったらどうだ」とか「それになんの意味があるか」
などという問いは、意味がないのです。
心のおもむく作りたいものをこね上げて、
友達に見せて、
「おほほ、かわいいネコだね」
「トラ」
これが、ものを描くということです。

……と、思えるようになりました。
まだ具体的にテクニカルなところで悩みはいろいろありますけど、
まあそれは楽しい悩みであって、苦しい悩みではないです。

大拙先生にはそんなところを教わりました。
悟れ悟れと言われるばかりで悟ってからのことはなかなか描かれないものですが、
悟ってる人に「いや、一緒」と言われると、これほど心強いことはありません。
まさに「いわんや悪人をや」で、
「なんだ、悟ってなくてもいいんじゃん! おんなじじゃん!」
と、悟れるわけです。

まさに禅問答(笑)

親鸞上人が「オイラは諦めることを諦めたよ」と嫁はんもろてロンゲで通したわけですが、
あの人やっぱり大天才で、
「いっしょやろ、結局!」
という痛烈に行動で見せつけたわけです。
例えば日蓮上人とか、気持ちはわかりますけど、他宗排斥口を極めて罵りますよね。
実に見苦しい。
あんたホンマに宗教家か、と。
そこで完全に矛盾が生じてるわけです。その矛盾、
「そういう誰をも救えずに何が仏様ぞ」
という点を突いたところがあの人の偉いところ。
歴史上一人しかできませんが。

7月に何度も言っており、繰り返し恐縮ですが、
ねずみの婿、もしくはメーテルリンクの青い鳥で、
「そっちへ行けばきっと幸せだろう」
と思っていたわけですが、実はそうじゃない。
そっちはそっちで別の苦労がある。
ネコがすずめ獲ってきて「可哀想に」と思えずしてなんの人生ですか。
そう、到達点などどこにもない。
春のヨダレ野原もあり、ヨシカツが4本止めて絶叫するのもあり。
端から端まで楽しみ尽くす、
そのために自分の立ち位置や視点をその都度変えてみたり、
いややっぱり俺はこれで、と思ってみたり、
思いもかけない幸運が降ってきたり、
力一杯がこれっぽっちも通用しなかったり、
不合理もたんとありますが合理もたんとある。
不合理と合理のないまぜを不合理と呼んで嘆くのは簡単ですが、
嘆いていても笑っていてもどうしようもなく陽はまた昇るわけで、
それならばそのないまぜを、ないまぜのまま、
「まあ、そういうもんやろ」
と笑って明日の陽を待つ方が、いいに決まってる。

そのままで。

8月はそれを踏まえ、初心に還って、
もう一度基礎の基礎、ど真ん中真中心、センターそしてオーソドックス、
そのあたりを、コツコツ見直してやり直して学び直していこうかなあ、と。
自分に開いてる穴がボコボコ見えてきて、
「それが俺や!」と頑固に強弁するよりも、埋めるぐらいは埋めてもいいかな。
あと、得点力上げたいならバントも一応、クリーンナップ以外はできるように
なっとかなあかんでしょう、みたいなところ。
「全員で打ち勝つ野球や!」
理念が美しくとも結果が出なければ、ねえ。
バントなら100%やってくるからバスターが効果的なわけで、
そういう、「落としてる基本」を拾っていくと得点力上がるような気がします。

前半バテバテだったことを除けばまあ、
こういうことがわかったので楽しい7月でした。
来月は誕生月、もひとつ楽しく。



7/30 すすめすずめ

すずめ好きの母が戯れに庭にカゴを置き、
その中に食べ残しのお米などを入れてみれば、
すずめたちは争うようにやってきます。
あれって面白いもので、もう2日目ぐらいには、どこでどう情報が伝達されるのか、
何十羽と来るようになるんです。
まるで夕暮れの電線のように、フェンスにとまって今や遅しとコメを待つ様は、
なかなかに可愛らしい。

しかしすずめたちにとって不幸なことに我が家には4人のハンターが居てですね。

もちろん彼らの牙が爪が届かぬよう、カゴはフェンスの高い位置にあるのです。
でも、「見切り千両」とはどこの世界でも通じる格言らしく、
一度コメをあげると、それが無くなると、
「まだ無いか」と地上へわざわざ降りて探すヤツが出てくるのです。
頭の中コメで一杯ですから、注意力も散漫になっており、
そこを我らが白黒ハンター・リッキーさんあたりが、
あらかじめ潜り込んでおいた自転車のカバーの下から狙い撃つ。

ネコ飼っておられる方はご存じだと思いますが、
彼らはこうした狩りの結果を、見せに来てくれるのです。
自慢なのか、誉めてもらいたいのか、それとも安全なところでじっくり賞味したいのか、
それはよくわからないのですが、とにかく
「とったー!」
とばかりに駆け込んでくる。

我が家のネコは栄養過多ですので、腹減って獲ってるわけではないので、
たいがい生きてるのです。
もう家中大騒ぎ。

よく、ヒーローものの番組で、まあ「Aチーム」でも「ガッチャマン」でも
なんでもいいのですが、正義の味方を掴まえた悪の親玉が
「フッフッフッフ……そうやって張りつけられては手も足も出まい!
 いい格好だな変態仮面! ワッハッハッハッハ!」
「フォオオオオオ……」
などといたぶるシーンがあるじゃないですか。
あれ、「どうしてさっさとバキューンと殺してしまわないのか」と疑問が沸くのですが、
悪人というのは基本的に
「ちゃんとしたことをちゃんとやる」
ことからドロップアウトしちゃった人々なので、
目の前に面白そうなことがあると、ガマンできないんですな。
というより、そういう「効率」を求めるようなことをするなら、
100円ショップでも経営すればいいわけで、
にっくきヒーローをいたぶれる、いたぶらいでか、
それだけの理由なわけです。
だから悪は滅ぶ。

そんなリッキーさん、本人はすっかりハンター気分。
メシだけ喰うとすぐいつもの場所へ潜り込んでジッとすずめたちの到来を待つのです。
この暑い季節に。
普段からそういう気分なので、家にいる時に撫でてやったりしても、以前ほど悦ばず、
「いや、俺はハンターだから」
みたいにツーンとしてるのです。
独特のアホっぽさが無くなり、かわいげが無くなりました。

「俺、イケてる」と思いこむことほど、よくないことはありませんな。
それは人間の得手勝手な見方であるにしても、
少なくとも、やってることで、顔は変わる。
かなり簡単に。

あまりに頻頻そんなことが起きるので、
ついに母はコメを与えるのを断念しました。
残酷物語のようですが、高所カゴのコメだけ食べてれば絶対安全だったものを
欲こくほうが自業自得ともいえ、まことに自然は、厳しい。

無理矢理はよろしくなく、
たまに紛れ込んだすずめさんを静かに見守るのが、誰にとってもよろしいようです。

待てど暮らせどすずめたちがやってこなくなったリッキーさん、
最近はだんだんハンター顔からアホ顔に戻りつつあります。
どちらにでもどこにでも、変身はすぐできるもの。

気楽なような、怖いような。



7/29 粗雑感

もう雑感ですらないような気もして。

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大先生閣下から新婚旅行土産をいただきました。
メトロポリタンのBookmarkという実に私にぴったりのここ爆笑
ナイス・スーベニアーであり、
人間結婚するとこうも変わるものかと驚きました。

奇妙なのはBookmarkなぞというものは
買い置きで冷凍した551の豚まん、あるいは暑い盛りに駆け込んだコンビニで普通にかき氷系にすればいいものを効いた冷房に惑わされ思わず買ってしまったハーゲンダッツしかもチョコ系とかそんなんぐらいに
「1つでいいもの」
だと思うのですが、2本もいただきました。
これはサッサとそのBookmarkを渡すようなナイス・コンビを結成しろということでしょうか。
M澤先輩と……
いや彼ほどのナイス・ガイが残ってるのが不思議、ヤツはきっとそのうちアメリカで青い目の奥さんをもらうに違いないので、いい加減友離れしないといけませんな。

そそ、そのM澤さんのアメリカ土産は歴代アメリカ大統領が描かれたペラ紙で、
どこでどのように使えばいいのか皆目見当がつきませんが、
こういうおバカ・グッズ私大好きです。

ああそうそうそういえばg石アナにTシャツ貰ったんですが、
黒地に華やかな赤・金の縁取りで描かれている俺達のメッセージは
「Abarenbou Shogun - Ken Matsudaira - 」。
こういう着れないTシャツも大好きです。

みんなのお土産に対して出不精の私に返すものなどあろうはずもなく、
「ふるさとの友人」 priceless
でお返しはひとつ。

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「その時歴史が動いた」を観ました。
歴史というのは、運命と同じ、
必然であり、偶然でもあり。

「暗号文を解読してアメリカの妥協案を知っていたことが逆に日本の外交を鈍くした」
「大輸送船団が南下しているという誤報がルーズベルトを動かした」
という偶然が、歴史を大きく動かしたのですが、
それでも結局、そのifが成り立ったとしても当時の日本の状況ならば、
どうせ戦争状態にはなっただろうし、そうなれば100%負けてる。
同じことです。

で、それはそれとして両国にとって悲劇なのですが、
まあおかげさまで昭和初期の悪弊をかなりキレイに掃除できて現在の日本があるわけで、
今でも「進め一億総火の玉だ」などと言って、
塗炭の苦しみを舐めながら満州権益を血みどろになって意味もなく守ってる、
そんな国だったりしたらわたしゃ今頃耐えられず生きておりません。物理的に。

戦争を回避しようとした努力は尊いのですが、
もしそれが実っていれば、今ほど幸せではなかったかもしれない。

もしも今を肯定するとするなら、
(そして日本の今は、否定するにはあまりにも贅沢に過ぎる)
全てが「いいように」転んだと考えられなくもない。
乱暴な考え方ですが。

そこまで言わなくても、「無理は無理」という事実もあり、
結局のところ帝国主義に勝者なし、イギリスもフランスも最後は全てを放り出したわけで、
同じことと言えば同じことです。

もし、「今がいい」と思えるなら、失敗も間違いも全てが輝く。
そして「いいと思える今」を作っていくのは、
今、ナウ、この瞬間の自分でしかないわけです。
「いい」と思うコト、モノ、ヒトをよく知るのは自分であって、
(たまに近しい人の方がよく知ってることがあるのですが)
そこへ近づいていくのも自分の足ですし、
それを手に取るのも自分の手ですし。

つまり「いい」を志向する日々を淡々と営む、それが、もう変更の効かない
辛い過去や苦い思い出さえ「いい」ものにしてしまう。
スバラシイ(笑)
だから、まあ一生懸命、ひとつひとつやりましょう、ってことで。

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最近、ひどくめんどくさくなってきてて、
イメージをまとめる気力がおきません。

まとめると、落ちるんです絶対。
詳細を記述しようとすればするほど落ちる。
繊維質みたいなものしか残らず、肝心の果肉が落ちる。

それではもちろんよからず、で、
例え欠片であろうとも肉質あり果汁ありでなくては、美味しくないのです。

しかし果肉をそのまま描いてますとね、
「それで?」
ってなるんですなあ。

しかし詰まるところその「それで?」でも感動できるものは多々あり、
例えばフェルメールなどは窓際でおっちゃんがコンパス持ってるだけでまさに
「絵になる」。
それでなんやねんという意味はどこにもない。
でも、「おお」と思う。

となるとやはり、結局のところ、「芸」か、技術か、artか、っていう話になるわけです。
それもちょっとちゃうかなあ、いや、それはアリというかアリアリなんですけど、
それはあくまで手段、従であろう、という前提は突き崩せない「ハズ」です。
現にものすごくよくできてるけど空虚なモノ、というのは常にある。
(念のため、ですがおバカ・グッズはそうじゃないですよ)

桃があります。
甘くてjuicyで柔らかくて、美味しい。
そこをどんどん改良して強めていくと、どんどんいい桃になる。
……ですか?
あるところから、桃じゃなくなるような気がするんです。
ある程度繊維質があって、ある程度歯ごたえがあって、ある程度酸味もあって、
はじめて桃じゃないかと。

最近のトウモロコシとか間違ってる気がしませんか。
甘さ、っていうのはトウモロコシの美点「の一つ」であって、全てではない。
昔、露天でしょうゆ焼きされてたヤツってやたら美味かったような記憶があるのですが、
思い出の美化でしょうか。
いや、ある程度固さがあって甘さがなかったから、「醤油」「焼く」に合ってたように
思います。
ミカンもそうですよね。
昔は一冬で一人100個とか簡単に食べてた気がしますが、
(昔はダンボール単位で買いましたもんね)
今年の冬はいくつ食べただろう?と振り返ります。
甘すぎるから、要らないんです、2個も3個も。
果物食べてるのに、お茶が欲しくなる。

ほななにか、品種改良もせず延々と昔のままの桃をモロコシをミカンを
作ってたらよかったんか、
というと、そう、でも、ない。
それはそれ、尊い努力であり、我々はそれを美味しく食べ、
農家的にも1個で10個分の価値が出れば、いろいろと楽ではある。
たぶんこんなこと言ってても僕も買わないんですよ、酸っぱい蜜柑はね。
だけどだけど、より甘くより甘くとばかり言ってると、
それは桃では玉蜀黍では蜜柑ではない。

そこで登場するのは「より桃らしく」てなわかったようなわからんような言葉で(笑)
まあ、芸術作品で言うなら「より人間らしく」ですかね。

しかし「なにをもってして人間らしくというのか」とパーツごとに要素ごとに見ていく、
これはまた罠です。
それはやってもいいけど、常にバランスを、全体性を考える・感じる必要がある。
つまり結局のところ自分が
「これは桃らしい桃だッ!」
と断言できる桃を、納得いくまで作り続ける、そこにしか解はない。
それが世の人とも当然ブレがあるはずで、
(というかブレてる、満足してないから「より美味い桃を」などという情熱が沸くわけで)
ブレてる人間がそのブレを持ってして
「より人間らしく」
などいうところに、面白みと悲劇が待ち受けてる、わけです。

ともあれ、自分をブーストして、おのれみずからが「より人間らしく」あらねばならん。
聖人君子石部金吉でもいけませんし、ダメすぎてもいけない……
というよりも、両方わかってないと駄目なのかな。
個人的にはスイート志向ですが、(志向というよりもそうなっちゃうのですが)
人はいろいろですので、ビターなところにこそ「人間らしさ」を見る人もいたり、
で、それについては何も言えないのですが、
笑ってる方がいいじゃん、とはいつも思います。

「なんかわからんけど楽しいなあ」
というのが、今のところ私が書きたいものの方向です。
それがどーゆーものか伝える、そんなことにエネルギー使うぐらいならまあ、
実際描いてる方が良かろう、
というのが、最近の私。

ちょっと前まで、この「たのしさ」を生み出す方程式みたいなのを
見つけ出したくてもがいてたのですが、
どうもそんなのは、無い。
そんなものあったらお笑い芸人さん苦労しないものね。
良いイメージこねて、良いシチュエーションを描いて、
良い人々が良い言葉で良い行動をする、
それをコツコツ削ったり貼り付けたりしていく、
ただそれを黙々とやるほか無いような気がして、います。

---

もう少しまとめて言うなら、
「どっちゃでもええねん」
という事実と、
「こうでなければならない」
という事実は、
おたがいに助け合うものであって、対立してるわけでも二軸でもない。

人間はどうせ死ぬのですが、そのくせ生きているのです。

「でなければならない」ことは、「どうせ死ぬし」で全て否定されますし、
「どうでもいいじゃないか」というと、「だけど楽しく生きたいじゃん!」と思うわけです。
この絶対矛盾こそが「人間」というもので、
この矛盾を抱えたままゆりかごから出て棺桶に入らねばならない、
それは誰にも逃れられない。
無くすことはできません。
目をつぶることはできなくはないです。
どっちかに軸足を置いて逆を排していくことに情熱を燃やす、それはそれで生き方です。
ただ個人的には、
その矛盾をそのまま呑んでしまうことも、できるんじゃないかと。
いや、できるはずだ、と。

その具体的方法が、ひとつには、
手を動かして頑張ってみる、ことではないでしょうか。
手を動かしている間、人間は神様みたいになれる。
「でなければ」も「どっちでも」もない、
ただひたすらに無心に、しかし生きている。
結局、それしかないかな、と思います。

「苦しみから逃れるには」
「とにかくやんねや」

アホですか、と言われそうですが、
ゴマカシではなく、忘却でもなく、心と体を一つに安心を得るには、
これしかない、と一周回って戻ってきた、そんな感じ。
「世界一強い者を婿にしよう」と思ったねずみが世界を回り回って、
結局婿に取ったのはねずみでした。

7月はそんな結論になりそうです。
まあ、クソミソに暑かったことを除けば、悪い7月ではなかったです。



7/28 たんぽぽの強さ

あ、でも下痢をするほど高カロリー脂分とアルコール分を注ぎ込んだおかげで、
夏バテかなり解消。
ようやく夏モード……だといいなあ。

サッカー五輪代表・アテネ五輪最終予選UAEラウンド、
多くの選手が下痢など体調不良を訴えたそうで、
原因は水の摂りすぎでは、とも囁かれます。
山本監督の書物を読むと、日本代表は昔から、
大きな国際大会に出場するには暑い国(中東勢)と戦う必要があることから、
「暑さ対策」のノウハウが蓄積されているそうです。
ピッチ脇に置くボトルも、ちょうど試合中にいい具合に氷が溶けて
飲みやすく冷たーいようにきめ細かく用意する、とか。
何週間も前に暑い国へ合宿に出かけて汗腺を開いたり、とか。
(一回開くと一月開いてるそうです)
山本さん自身も
「過保護と言われるかもしれないが、やれるだけのことはやってやりたい」
と。
今回はあまりに手厚くやったのが逆に悪い結果に繋がったのかもしれません。
冷やしすぎたり、内臓に負担を掛けたり。

環境は、「整える」のがいいのか、「自分が合わせる」のがいいのか、
答えなど出ないです。

東大へ行った同級生にホントどこからどう見ても偉いヤツがいまして、
大家族であまりお家広くなくて下町で、
隣の居酒屋から騒ぐ音がガンガン聞こえ、耳の遠いおばあさんが大音量でTVをかけ、
もちろんお母さんが炊事をし妹がマンガを読み、イヌが転げ回り吼えまくる、
そんなダイドコのちゃぶ台の上で勉強して、現役で。
悲壮感とか別になくてね。
当人にとっては子供の頃からそれが当たり前だから、という見方もありますが、
にしてもうるさいものはうるさいもので、
当たり前に「する」というところに、偉さがある。

逆にそういう厳しい環境にしてもなお「身が入ってる」時というのは、
本当に身が入ってるわけで、のんべんだらりんと「やった気になっている」よりも
吸収がよいのかも知れませんね。
本なんかでも、ペローッと読むといくらでも読めますが、それが頭に入ってるか、
ってと、残ってないことも多いじゃないですか。
忙しい時に限ってなんだか趣味に身が入り、また楽しめる、
そんなことも多いし。

阻害要因が多いほど、マイナスに取り囲まれれば普通のテンションでも
相対的にプラスになる。
鯉は障害が多いほど燃えるというヤツです。
わざわざ用意する必要まではないと思いますが、
「あったらあったでそれもまたよし」
と心の片隅に置いておくと、余裕を持って対処できそうです。
そういう余裕を持てないものこそ障害だ、とも言えますがまあ、
人間いつかは死ぬものですし、
死へ向かってまっちぐらに走ってるという障害に比べれば、
居酒屋から大塚愛が聞こえてくることぐらい屁でもないでしょう。

越後のある地方(だったと記憶するのですが)の稲作の記録フィルムで
壮絶なヤツがあり、泥濘地みたいなところで水稲農業をやってるんです。
田植えは腰まで泥に漬かって、一歩一歩もがきながら植えていく。
なんでそんな苦労をするんですか、と。
アイルランドにも農業に適さない土壌の地方があって、
そこの農民は岩のくぼみに溜まった風が運んだ土を両手ですくい取っては畑に撒く。
「街道をゆく」で須田画伯がそれを見て言った言葉が、
「人間はたんぽぽのように落ちたところで生きていくのですね」
良い環境を目指して駆け続ける動物的な強さも尊いのですが、
ある環境で生き抜いてしまう植物的強さ、
それも人間にはあって、それもまた、尊い。
ガタガタ言ってたってたんぽぽはそこで育つしかないわけですからなあ。

「上手いことやってる」ばかりでなく、「やってる」ことそのものに、
もう少し目を見張らねばと思いました。
反省。

あのひとは、これをやってる。
自分は何をやっているのか。
たとえそれが牛乳のキャップ集めでも。



7/27 NASAの国

ハマー先生+g石アナ、ハマー先生+M澤先輩の2連戦。
大阪の母。

g石アナとは結託してご結婚プレゼント、扇子をペアで高島屋。
先生用は渋柿色の地に黒でギザギザと「誠」、新撰組スタイルで。
奥様用には藍地に小さく白い花咲く物を。
二人合わせて「あいとまこと」。
扇子いいでしょ?

ていうか原作も読んだこと無い。

「なんばパークス」の7階「浪花麺だらけ」(うるおぼえ)の横には、
南海ホークスの名選手達のパネルが飾られ、
(パークスは大阪球場の跡地に建てられた複合商業施設なのです)
猛虎ファンにして熱心な太平洋リーグファンであるところのg石アナと盛り上がる。
一番盛り上がったのは「野村がいない」という事実でした。
もういいじゃない、歴史になってるんだから……

杉浦さんとか。
選手時代は存じ上げませんが、
ダイエーに譲られた時の監督でもあることから我々若輩者にも馴染みがあります。
長嶋アテネ監督と同期・立教大学で、
二人して南海の名監督鶴岡一人に誘われ、(当時強かったんですね)
しかし我々には知ることのできない種々の理由から長嶋さんは巨人へ。
泣いて悔しがる鶴岡さんに言った言葉は球史に残る名セリフ、
「鶴岡さん、僕は男です」
そしてシーズン38勝4敗防御率1.40、日本シリーズその巨人を相手に4連投4連勝。
その時の言葉は
「今夜は独りで泣きたい」
凋落した南海を率い最後まで付き添い、身売り後も監督を1年。
最期はマスターズリーグで遠征中に、心臓発作で逝去されました。
まさに、男です。

メジャーでMVPも球宴でホームスチールも4年20億もよいのですが、
こういうカッコヨサは、随分、減りましたなあ。

合流して三人で「和民」。「Turry's」で茶しばいて心の故郷デニーズ長居公園店。朝まで。
三人ともヘロヘロ。いや、体力的には大丈夫なんだけど眠い……
眠気覚ましにと明け方3時頃ハマーせんせがカツカレー、
g石アナがピピンバーグをカッ喰らっうのには驚きました。
私は呆れてそれを眺めつつ
冷製パスタ。

で、翌日はまたもなんばで、今度はM澤先輩。
日本式チェーン居酒屋のお次は大阪の香りってことで、
本店鶴橋の焼肉屋さん「とらちゃん」の道頓堀店。
焼き肉屋のコツは、ちょい高級店では高めのお肉を、
カジュアルなお店では普通の肉を狙うのがよいです。
日本酒の地酒なんかでもそうなのですが、
そのお店にとって「よく出るもの」に一番力が入ってるのですよん。
(肉は新鮮であればいいのかどうかは知らないのですが)
ということでちょっと高めのセットで大舌鼓大会。
季節に一回ぐらいはとびきりのお肉食べないといかんね。
世界で一番旨いもの塩タン、溶けるロース、さくさくのカルビに脂身を囓り取るようなバラ。
最高ですか最高です。
焼肉は人を笑顔にします。
もちろん財布のことは気合いで忘れます。

またも「Turry's」で「M澤先輩アメリカをゆく」写真見せてもらう。

NASAの国ですな。

どんな国にもいいところ悪いところありますが、
アメリカの史上最も強力な魅力は、
「なんにでも一生懸命」ってところじゃないでしょうか。
月へゆく。
実に愚かしい人間生活に何の意味もないことに
これほど一生懸命になってくれる人々がいるおかげで我々は、
無邪気に人類の、人間の可能性を信じることができるのではないでしょうか。

いやそれは、ピラミッドでも万里の長城でも太平洋大西洋横断でも
なんでもよいのですが、
今、ナウ、誰かがやっていてくれる、それが大きい。
本国版USJだからJは要らん、の写真や、
オーランドの巨大アウトドア・ショップの写真も見せてもらったのですが、
まあ実にアホ丸出し、街ぐるみ目一杯アホやってます。
考えてみればハリウッドでもアメリカン・スポーツの類も全部そうで、
「なぜあなた方はそこまで」
というところまで突き詰めてしまうのが、彼の地の魅力のようです。
もちろんそれは、日本でも伝統工芸なんかもそうであって、
茶筒に込められた職人の人生70年、もちろん非常に尊いのですが、
まさにあちらは「合衆国」、
「みんなで」その「そこまで」を支えている、参加している、創造している、
それがさらに素晴らしい。
月へアームストロング船長を送り込んだのは、私達である。

むろん弊害も多々あり、近年はその方が目立つのですが、
そうは言ってもあの国がそしてそこに住む人々がもしいなければ、
世界はもっと暗く寂しくドンヨリと停滞したものになってしまうような気がします。

携帯もネットも無いコンピューティング・パワーも今とは比較すらできない1970年代、
しかしその頃月へ行っちまったわけで、
最近毎日思うのですが、
ガタガタ抜かしてる暇があったらロケットの図面を引いた方がいい。

近しい日常こそ最も尊いものですが、
生活から完全に離れた無駄、それもまた最も尊いもののように感じました。
ロケットが飛ぶから、安心して稲を植えていられるし、
稲を植える人が居るから、ロケットが飛ぶ。
どちらもあるということが、人間が元気に楽しく生きている、その証拠のように思えます。
エンデバーとディスカバリーは、また飛ぶのです。
死んだ兄弟の分まで。
それは間違いなく尊い。

ただ、俺も飛ぶからお前も飛べ、というのだけちょっと勘弁して貰えれば。

旅心は、「なにを」という軸ができると沸き立つものです。
初めてパリへ行った時決めていたのは、「ルーブル」ただ一点でした。
「J・F・ケネディ・スペースセンター」はそんな「なにを」になったかも。

M澤先輩がNASAのロゴ入りポロを着てウロウロしてたら、
「お前は(NASAの)エンジニアか」
と現地人に問われた、嬉しそうに話してくれました。
(本職は半導体製造装置のエンジニア)
やはりスピリッツ・酒精分は滲み出るものですな。

とりあえずハマー先生、奥様ともどもまたフロリダで頑張って。
いつでもおばちゃん大阪で待ってるさかいに(笑)



7/26 あたりまえだからこそ、まちがってるかもしれない。

「キレイに剥けるゆで卵の作り方」
を『伊東家』かなにかでやってたのでチャレンジ。
話は簡単、ゆでる時に熱湯に突っ込むだけ。ただそれだけ。

これがねえ、実にキレイにつるん、と剥けるんだ、これがまた。
しかも、黄身の周りにできちゃう濁った灰緑色の薄い層、あれができない。
ほんとに真っ白と真っ黄色の美しいゆで卵に。

しかし昔家庭科今生活科で習った時には、
「ゆで卵は水から、割れないように」
だったはず。
確かにこの裏技、大きめの鍋でたっぷりのお湯でないと、割れるんです。
どうも卵が顔を出しちゃう(温度差ができる)と、パリッといっちまうらしい。
逆に言えば、たっぷりにしっかり浸かればなんの問題もない。

世界は知りませんが日本の家庭の多くてお母さんは水からゆで卵を茹でてたはずで、
そして剥きにくい卵を熱い思いをしながら剥いてたはずで、
その経済的損失たるや何兆円……
いや、なんというか、知識というのは、
「みんなで共有しているから正しい」
というものではありませんな。
逆に、みんなが当たり前だと思うことこそ、罠。
誰も「そういうもんだ」と突き崩そうとしないし、突き崩す人が居ても、
「そんなことありえないわ」と無視されて受け継がれない。

イモ洗う猿の101匹目の話と同じで、
ある日から爆発的に拡がって、その後なら
「なぜこんな簡単で効果的なことをやってなかったんだろう」
と思うのに、それがなかなか出てこない。
馬に乗る時に使う「あぶみ」、足を置くあのパーツ、
が発明されたのは11世紀らしいのですが、
あんなどう考えても鞍考えた時点で当たり前に考えつくだろ、
というものを人類総出で何百年も気づかなかった。
いや、気づいた人がいるのかもしれないけど、普及しなかった。

あたりまえなことほど、変えるには大きなインパクト、
もしくは101匹ほど多数(になるまでの時間と条件)が要る。
つまり、「革命」でないとひっくり返らない。

なんとなく教育めいてますが、
そういう知識は、今もこのゆで卵のように、
いくらでも転がっているのかも知れません。
あと、「ゆで卵剥き器」なんて半分ジョーク・グッズがありますが、
物事の解決策というのは対処療法では限界がある、ってこってすな。

気づかない方はまだいいのですが、
「ゆで卵水から」みたいに間違ってる(効果的でない)ことも
我々の日常になんだか多々ありそうで、
人類はまだまだアホで、
だから面白い、とか、
色鮮やかでつるつるのゆで卵を食べながら思いました。



7/25 ウェスタ

「日本三大ハラマキ」といえば
カトちゃん、寅さん、バカボンのパパ
ですが、彼らは共通して、一年中ハラマキをしています。
キング・オブ・ハラマキトリオがそうするからには、
あれこそが真のハラマキの着用法ではないでしょうか。

夏の秘密兵器がようやく届きました
ほぼ日」で煽られて買ってしまったのはそう、ハラマキ。

HGT(生姜紅茶)で明かな便通改善が見られて以来、
「現代人の健康の肝は体幹にあり」
と勝手に信じこんでいます。
生姜紅茶の石原先生は「とにかく冷やすな身体を」というコンセプト。
で、皆様ご痛感のとおり、夏こそ、クーラーや扇風機で冷えることしばしば。
どこよりおなか、普段なら服や下着で守られているこの大事な部分が、
素肌にTシャツ、それも裾を出すがゆえに剥き出しになることも多い。

てなことでハラマキ。
地肌に直接、ジーンズのベルトラインに被せるようにして着用です。
これでおなかをガード、ベルトラインの隙間も塞いで、腰の温度も保つ。
「ほぼ日」では毎回、色やデザインを工夫してて、
僕の買ったのもネイビーブルーと白のツートン。
見せるのはさすがに勇気が要りますが、
もし見られても「もう一枚シャツ?」って感じで違和感はない……と思います。

まだ使用3日目ですがかなり良いです。
当たり前ですが、多少肌寒いクーラーに当たっても、
完全ガードのおなか部は全く冷たくなりません。
素材はコットンなので肌触りもバッチリ、よく伸びる素材で圧迫感もありません。
軽い副次効果として、弱々コルセットみたいな効用もあって、
背筋も伸びます。

しかしなんでもこうしたものは、やってみた当初は抜群に効果的な気がするもので、
またしばらくして第二次感想などを。

もし素晴らしい効用がありながら若者達に敬遠されているとするならやはり、
「ハラマキ」
という語感ではないでしょうか。
おっさんくさいおばちゃんくさい。
しかしツッカケをミュールと言い換えたり、パンタロンをブーツカットと言い換えたり、
トレーナーをカットソーと言い換えたりするだけで
なんだか別のオシャレブツに思えてしまうのが服飾品。
そこで名称を考えてみました。
ウェスト・サポーターを略して「ウェスタ」てのはどうでしょう。

「この夏はウェスタで決まりね☆」

わはは。
ダサ。

つか、「はらまき」って言う方がダサカッコイイかもしれませんね。
「下駄」はどこまでいっても「下駄」の方がいいし。

今はどうか知りませんが、僕らが高校生の頃、
合宿の帰りのバスで「大相撲」のラジオが流れてきたりすると、
もう、大盛り上がりでした。
びっくりしましてねえ。
うちも、ひいお爺ちゃんが大の相撲ファンだったので
北の湖が憎たらしかった頃を知っているのですが、
なんか普段MTVがどうのとかあそこのブランドがどうのとか
(そういう時代だったの!80年代後半は!)
言ってる連中が、大乃国や北勝海の活躍に一喜一憂ですよ。

ああみんな日本の男の子だと(笑)

EuropeだのPoleSmithだの横文字並べてた若人も、
そのうち腹巻き巻いて股引履いて団扇片手に西瓜をカッ喰らう。
伝統というのは、恐ろしいもんです。
それだけの力があるから、残っている。

だってほら、三大ハラマキの方々はみんな不必要に元気じゃないですか。
秘訣はきっと、「腹」にあるのですよ。



7/24 キムチ茶漬け

「冷やし茶漬け」という言葉がありますが、
私は茶漬けといえば「冷や」です。
できれば冷やご飯冷茶、少なくとも冷茶。
居酒屋行って「締めにお茶漬け!」という時に反応が鈍いのは、
あれは私にとってあまりお茶漬けではないからなんです。

だって熱くて食べにくいしおかきふにゃふにゃするしわずかな隙でご飯粒も膨らむし!

そんな私がおすすめする夏の冷茶漬け、それは
キムチ茶漬け。
作り方は……ご想像通りです、キムチのっけて上から冷茶をだばだばと。

キムチというのは非常に味のキツイ食品で、
かつ日本で売ってるキムチは日本人チューンだからか、それとも流通の都合か、
和風の漬け物で言うところの「古漬け」的なパンチ効いたのが多くて、
食べにくい面もあるかと思います。
が、こうして周囲の赤いアレを流してしまうと、かなり食べやすくなります。
赤い部分も結局はお茶と一緒に流し込んでますから、栄養もばっちり〜。

ポイントはキムチだけにする、ってとこかな。
お茶漬け海苔とかプラスすると、味が複雑になって焦点がボケます。
あと豚肉置いたりとか、そんな小細工は要りません。

ただ、キムチはちゃんとしたものでないとダメかも。
たまに、というかよく、化学調味料味のする赤い汁に漬けただけっぽいものがありますが、
あれではたぶん、気持ち悪い食品になります。

大阪はおそらく、日本の中ではキムチの旨い土地になると思うのですが(笑)
駒川商店街にいいお店があるらしく、そこでまま上が買ってくるものは
かなり旨いです。
無愛想な韓国or朝鮮の方がやっておられるそうですが、
それは別に民族性でもなんでもなくて、顔を覚えられてしまった母は
最近よくおまけしてもらえるらしいです。無愛想なままね。
どこでも、商売ってのは同じですな。

バテて食欲無くなって、でも押しこんどかなきゃ、
そんな時にはお茶漬けがありがたいものですが、
これで栄養もかなり稼げると思います。
唐辛子で、体温も上がって元気になりますし。
想像するよりずっとあっさりした食品ですので、
ぜひ一度おためしあれ。



7/23 冷やしCPUはじめました

現代社会は知識・経験ともあまりにも先端化細分化が進みすぎ、
あるジャンルでは当たり前もいいところのことが、
違うジャンルではまるで無かったことのように無視されたりします。

最近、メーカー製PCなどでも「水冷」ものがあります。
CPUに、まあ水袋みたいなものを押しつけて、
その水を循環させて、冷やしてまた押しつける。

そもそもがCPUにファンがついててそれが止まるとお終いな時点で、
ミッション・クリティカルな機械としてどうなの、と思うのですが、
空冷ならまだ百歩譲るとして、水冷液冷になると、
可動部分や管理を要する部分が大きすぎる気がします。
PCは今や冷蔵庫みたいなもので、壊れてもらうとその日から困る家電です。
流れに逆行しているような気がしてなりません。

が、まあ、同じミッション・クリティカルな機械であるところの
「自動車」が、結局はほぼ全て空冷から水冷になってしまった例もありますし、
そもそもその冷蔵庫からしてが冷媒をコンプレッサーでグルグル回して
冷やしてるわけで、水冷ユニットに積極的なのがHITACHI、っていうのが
なんとなく「まあHITACHIなら」とか変な安心感があったりもします。

ただ水冷というのは、冷やす対象に一番近いところが水なだけで、
温まったその水を冷やすのは、空気なんです。部屋の空気。
だもので、水冷だろうが空冷だろうが、PC点けると暑いんです。
逆に、水冷が必要になるような熱いCPUを使っているPCの方が、絶対熱い。

余談ですが、高速増殖炉というのがなぜ成り立たないかといいますと、
政治的思惑よりもなによりも技術的に根本的に設計が狂ってて、
エネルギーを取り出す炉心を冷却するものが、「ナトリウム」なんです。
それをさらに冷却するのが、「水」。
ご存じの通りナトリウムを水に入れると爆発的反応を起こします。
そこんとこの配管にちょっとでも亀裂が走ればエライことになるわけですな。
繰り返しますが工学的に狂ってる。
原子力論議は宗教論争になりがちですが、
その前に「いや、殺人はどっちにしろいかん」という絶対前提条件はあるはずで、
高速増殖炉はそこからおかしい。

何十年も前の机上の空論を、何千億円も掛けて検証を続ける、
冷戦時代の産物ですなあ。

そうそう、本田宗一郎オヤジさんが最後まで空冷にこだわった理由、というのが
「だって最後は空気で冷やすじゃないか!」だったとか。
クルマは、性能&信頼性の向上、というメリットが大きいから水冷に
なっていったわけですが、PCは果たしてどうでしょう。
特にCPUパワーって、今は売りとしてかなり弱いですよね。
それより小さいとか静かとかDVDドライブの能力がどうとか、HDD容量がどうとか。

で、こんな熱苦しいCPUを作ってしまったのはintelなのですが、
当の彼らもここにきて「あ、無理だ」(問題は熱ばかりではないそうですが)
と思ったらしく、Pentium4系の後継をキャンセルしたらしいです。
こういう潮目の時、って、別の魅力を持ってる商品が
一気に市場を奪う可能性もあるのですが
(最大の成功例は「スーパードライ」かなあ)
残念ながら半導体は装置産業、AMDやIBM、TransmetaあるいはVIAに
それだけの力はありません。
多少いい/安いぐらいでは誰も選んでくれませんし、
かなりいい/安いとなると今度は供給が全く追いつかない。
戦いは基本的に数でごり押し、
ドズルの旦那はギレン様よりたぶん賢い。

と、考えるとintelが一つ方向を間違えただけで世界中の何億という人々が
暑いPCに苦しんでいるわけで、
まあなんといいますか、独占禁止法は大切ですな。

最新最高のノートPC、てかてかした液晶で絵が綺麗な、
なんかスピーカーが銘柄もの、そんなのを25万だかなんだか出して買っても、
DVD見てるとフトした時に
ふぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜んふご〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と温かい排気と快ろよい騒音をサービスしてくれたりします。

こんなもんで「快適DVD鑑賞!」とか言えるのはこの口かこの口かと
引っ張りたいところですが、
要するに絵を作ってる人と冷却担当してる人と宣伝文句考えてる人は
全部別で、誰も嘘はついてないのです。
各人の基準では「よし、いい出来!」って思ってるわけでしてね。
これも、細分化の弊害でしょうか。

ともあれこの季節、
部屋の扉を開けるとムッとしてムッとします。
水冷もいいのですが、使い勝手を広くトータルで考えた時に、
そこを欲しているのはごくごく小さな層ではないかな、と思うのです。
普通の人はノートPCで全部やって、使わない時は閉めとけ、ってのが、
一番いいような気もします。
それにしたって上述のようにうるさい熱いわけで、まあ、とにかく、
もすこしcoolに。



7/22 憎いアイツはライジング・サン

20日は記録的猛暑で、40度を超える場所も出ちゃいましたが皆さん生きてますか。
僕は死にかけです。
日中2時頃外をうろつくという自殺行為をやってしまい、
浜辺で残酷焼きされる伊勢海老の気分をたっぷり味わいました。
灼けましたよわずか10数分で。
キツネ色に灼けた肌、たるたるの横腹の脂身、透けて見える頭皮。
今年の夏は浜辺でガルの視線釘打ちです。

Nagatasanは失意体前屈の構え。

ほら、アラブ諸国あるいはインドなどで、ターバン頭に巻いて、
白いヒラヒラした全身覆う服着てらっしゃるじゃないですか。
あれ、当たり前ですけど、生活の必然なんですな。
こうなってくると、「日射しを身体に浴びない」というのがまず第一義で、
Tシャツ短パンよりも、薄目の長袖長ズボンの方が過ごしやすくなる。
(もちろん室内に入ると状況は変わりますが)

そろそろ日本も、夏用ファッションとしてアラブ風を取り入れねばならぬのか。
ジュディ・オングみたいなの。
いやターバンでハゲ隠しを狙ってるんじゃなくて。
それとやっぱりニュース映像見てても思いますけど、
スーツはもう止めましょう。
「衣替え」を7/10あたりにずらして、その代わりアロハ。
あれ、犯罪です。
あれで営業外回り中に熱中症で倒れたら、労災認定ですよ。
で、2、3人死んでから「なんとかしましょか」って話になるでしょ、また。
そもそも見てる方が暑苦しい。
北朝鮮のマスゲームを見て我々は嗤うわけですが、
自分の命を危険に曝して黒いスーツを着てる、それじゃ同じですよ。
もう法制化法制化。
消費税の込み表示みたいなどうでもいいこと法制化してる暇あったら、
夏はスーツ禁止。
もちろん冠婚葬祭でもです。スーツ可は新郎だけ。喪主だけ。
区役所に届けるんです区役所に。

ていうか暑いッ!

我が家では最近、昼間、南側の縁側を締めて、分厚いカーテン引いてます。
開けて熱い空気が入るより、密閉空間にした方がなんぼもマシだとか。

その昔「パッ缶ズ」というプロ野球チームを持ってた缶詰のマルハ、
アラブ諸国へ商品を輸出したところ大ブーイング。
なぜかといえばCI前のロゴマークが、
水平線から燦々と昇る日の出のマークだったんですね。
で、彼の地では太陽はどちらかというと悪者なんだそうで、
まあ日本で言えば地震と台風がセットでマークになってるようなもんでしょうか。
いや、毎日のことだけに、もっと厳しいのかもしれません。
ということで月のマークに変えて出した、とかそんな話を伝聞孫引き。

確かに、ここまで来ると憎らしいですな。
「北風と太陽」、あれは
「厳しくするだけでなく優しくすることが人の心を開かせる」教訓だ、
などと拡大解釈されてますが、実は単なるガチ勝負だったりして。

台風もガツガツ来たし、ひょっとすると今年はまた大豊作なんでしょうか。
そんなことでも考えないとやってられません。
何事も過ぎたるは及びたるがごとし、です。



7/21 半日型

私は半日寝ないと死んでしまう星人で、
高校生の頃から帰宅後すぐ2-3時間寝て晩ご飯で起きて、2時3時まで起きてました。
夕方の睡眠がないと夕食後が極めてキツくほとんど植物状態、
集中力思考力運動能力全てゼロ。
合宿では苦労したものです。
で、そこでバタッと寝ると、夜中12時頃起き出しちゃってもうどうしようもないんです。
もちろん眠れないから明け方までゴチャゴチャやってると、
睡眠時間2-3時間で学校へ行くハメになり、今度は学校がキツイ。

夜型だと思ってましたが実は「崩壊型」それが差別用語なら(笑)
「半日型」で、要するに24時間(25時間)サイクルが回ってない。
だから時差ボケには滅法強いよ!いつもボケてるからね!
いやほんとに。
欧州行きも帰りも「これだけ長旅ならこのぐらいの疲れは」みたいな感じでした。

普通夜なら夜朝なら朝で固定されるらしいのですが、
で、学生時代は「7時」に無理に起きていたので夜だと思いこんでたのですが、
どうも違う。
リズムが、無い。

ハマー先生に聞くところによると、そのサイクル(サーカディアンリズムでしたっけ)を
司る遺伝子があるらしく、もしそうなら私はおそらく欠損してます(笑)
製薬会社の方から実験のオファーでもいただければ
人類のために我が身を投げ出し高額の報酬をいただきたい。

田中角栄元首相が、この「半日型」だったそうです。
詳しいタイムスケジュール忘れましたが、確か昼間に睡眠を取って、
一日を二日にして使っておられたと記憶します。
睡眠時間は合計で7時間ぐらい取ってるんですけど。
半日型の利点は「人が使えない時間を使える」ところで、
例えば8-16と20-4が活動時間の場合、夜12時-朝4時、
というのは実に静かで温度変化も少なく、外乱要因が無くて快適です。
かつ、完全な夜型と違って、日常的な用事は8-16の方でほぼ完全にこなせる。
(完全夜型、たとえば16時起き8時就寝、は社会生活が営めないのが弱点です)

睡眠時間短い方の英雄伝説は枚挙に暇がありません。
宮崎駿大先生は「仕事場に」朝9時に来て朝4時に帰る(笑)らしいです。

思うんですけど、睡眠環境っておつうじみたいなもので、
人によって本来、ものっすごいバラバラなんじゃないでしょうか。
どこかのマンガで読んだのですが、あるご夫婦は
「毎食後排便する夫」と「10日に1度程度の妻」のコンビで、
「だから我が家は普通の人がどんな風にトイレに行くかわからなかったんですよ〜」
とか、そういうのんきなことが現実に。
実はそのぐらい幅があるけど、社会生活を営むためにみんながガマンして
合わせてるだけで、ほおっておくと
「1日寝て2日起きる3日型」とか、
「6時間起きて2時間寝るを3本繰り返す1/3日型」とか、
そのぐらいの人は、何千人かに一人程度ならいそうです。

考えてみれば僕は長時間睡眠の方は「できない」タイプで、
連続だと10時間を超えたことはたぶん人生で無い。
どんなに疲れてても一回起きてぼけーっと数時間ダラダラ過ごさないと、
二回目の睡眠に入れません。
よく冗談で時計を見て朝の8時と夜の8時を間違えた、
つまり4時間のつもりが16時間寝てた、そんな話がありますが、
僕にはそれ、不可能なんです。
起床時間も睡眠時間も、短い方にシフトしてるのやもしれません。

遺伝子は基本的にランダム要素を持たせて、
種として多様性を常に生み出すことで、環境の変化に備えています。
さすがに天体の運行はそうそう変わらないとは思われますが、
なにかの拍子で日中活動するより夜活動した方が都合がいい環境になる、
そんな可能性はなきにしもあらず。
(ものすごい暑い気候になっちゃって日中はとても活動できないとか……)

と、考えると、そのまま生きててもまあええんじゃないかな、とか思っています。
忍者とか、夜型向けの職業もいろいろありますしね。

身体的ハンデ持っておられる方の気持ち、ってなかなかわかりにくいものですが、
僕にはこれがあって、この程度のことでも生まれてこの方三十余年、
凄まじい社会的プレッシャーがあったので、
大変だろうなあ、という想像はつきます。
よく言われることですが、
ハンデがあることそのものが大変なのではなくて、
(それはその人にとっての当たり前だから)
ハンデに対して社会が周囲が無理解であることが、最も辛い。
それで何をしてくれ、っていうわけではないのですが、ただ、
「朝起きれないのはグウタラだからだ」
と言うのは、(いやまあ、その可能性も大きいんですけど)
「目が見えないのは根性が足りない」
と言われるのと同じなんです。
そういう認識をすることが、人を傷つけることもありますよー、と。

また今日もダラダラ書きました。
キーボードがRealforceだと書きすぎてしまう気がして、最近とんと迷っています。



7/20 Do it yourself

「創発」なんて新語がありますが、
人のココロもしくはアタマになにかの発火を起こす、
それは簡単なことではありません。

こないだ読んだ本で(「海馬」)脳の神経細胞のことが書いてあって、
情報伝達は受け手主導だそうです。
Aが送り手Bが受け手だとすると、
同じAが2つあっても、Bは1つとしか結びつかないのですが、
同じBが2つあると、Aは両方に結びついて情報を送り出せるようになる。

我々は普段、「お、こりゃいいこと聞いた」なんて思うのですが、
それは「いいこと」であることがクリティカルなのではなくて、
「いいことだと思える自分」であることが、クリティカルなんですな。

考えてみれば人類文化発祥以来4000年、今も60億の人間が世界中で暴れ回り、
その情報もいくらでも手に入れられる世です。
もう、「いいこと」なんて、掃いて捨てても捨てても捨ててもまだあるぐらい、ある。
いいことだらけ。
問題は、それを「いいね!」って感じられる身体かどうか。

ではどうすればそういう身体になれるのか。
結局、やっぱり意志もって「じゃんじゃんいいと思っていこう」ってことと、
いろんな物事を肯定的前向きに考えてみて、「いやまてこれっていいことなんじゃ?」
という視点を忘れないこと、
の2点に尽きてしまうように思います。
また意地張らずに「いいと言われる外部ソース」は素直に認める、のも一つ。
古典は、当人には響かずとも「多くの人がいいと思うもの」というイメージが
掴めるだけでもめっけものです。

「いい!」は自分で作る。

楽しみも美しさも穏やかさも心地よさも、
刺激を受け入れる開いた心と、簡単に発火する発火点の低さ、
オープンにシンプルに、
みたいなところが、よりたくさん、そうしたいいものを引き出してくれるようです。

---

僕は、そういう発火を引き起こすような、外部ソースを作っていきたい、
またそういう人でありたいなあ、と思います。
最近、手段やメディアは別になんでもええかな、と思います。
文章でなくても、とも。
コダワリは、強い力にもなるのですが、限界をも作る。
ちょっと前から考えればウソみたいな心境の変化ですが、
結局のところ、発火起きてパーッとなってるのを見るのが好きなようです。
「火つけたのおれおれ、おれだよ!」とは言いたいようですが(笑)
自分もそうやって発火させられて随分助けてもらってますしね。
点けてもらった分ぐらいは、点け返せたらなあ、と思うのです。
もらったもののでかさに比べて、返したものの小ささを痛感し、
相変わらずオタオタヨロヨロとキーボードを叩く、
そんな海の日です。



7/19 あなたにパラナ

FFより。

ウチのLSには純白(基本状態が白魔道士の人)が1人しかいません。
ということで、状態異常(麻痺や沈黙)をガンガンやってくる敵を相手にする時は、
私(黒魔道士)も必死で異常回復をやります。
もうね、攻撃魔法なんかそっちのけ。
何魔道士だあたしは。

FFの6人パーティは、
盾 アタッカー アタッカー アタッカー 回復 戦闘補助
で組むのが基本で、見ておわかりのとおり、肝は盾と回復。
その2人が居ないとパーティが組めないのです。
そして主回復を張れるジョブは、白魔導士だけ。

しかし、白さんというのは、とても少ないのです。

ゲームに限らず本でもアニメでも、剣と魔法の冒険者ものの、
あ、そうそう「ロード・オブ・ザ・リング」の登場人物の1人になれると考えてみてください。
大剣を振り回し戦う勇者、古の魔術を用いて敵を屠る賢者、
機敏な動きで敵を攪乱する騎兵や軽装歩兵、敵の主将格を狙い撃つ狙撃弓手……
を、ただ黙ーーーってずーーーっと治し続ける看護兵。
赤チン塗って包帯巻いて。
「ドラゴンが来たぞ!正面の守りを分厚くしろ!」
ヨーチン塗って包帯巻いて。
「くそ、物理攻撃が歯がたたねえ!精霊魔法部隊を正面に回してくれ!」
オロナイン塗って包帯巻く。
「勝ったぞ勝利だ!エイ・エイ・オー!」
そして馬に乗り過ぎて痔になった将校に、ボラギノールを入れてあげる。

嫌でしょう!?

でももちろん、戦場で戦う人間にとってはこれほど有難い人々はなく、
まさにナイチンゲールは白衣の天使。
女性キャラでも「姫」と呼んでもらえるのは白魔道士だけです。
いかにジョブとして優れていても詩人も赤もナイトも姫とは呼んでもらえません。

しかし現実ならばそこに生きがいを見いだすことも多々あると思うのですが、
これはゲームです。
やはりいくらか「日常ありえない」カタルシスを得たいが故にやってるものであって、
なんのカタルシスも無い白魔導士は放っておくと需要>供給になる。
現実の医師・看護婦さんでさえそうなんだもん、ましてや。

で、この時取った政策がよくなくて、
「医師が足らんなら医師みたいなことのできる人間を増やせばいい」
具体的には赤魔道士をハチャメチャなボーナス・ジョブにして人数を増やし、
「主回復は赤でもなんとかなる」
ようにしちゃった。

これで白さんが拗ねてねえ。

その直前に、「レイズ2」という入手難易度が異常に高い魔法を導入された時点で
かなり挫けそうになってた白さん、ここでボッキリ挫折した人が多かったです。
あのね、例えて言うなら普通のお医者さんが
「病気を25%の確率で治せる薬」しか持ってないところ、
「病気を75%の確率で治せる薬」が開発されました、
でもその使用ライセンス金額は1億円です、
そんな感じ。
町医者に「死ね」と言ってるのと同義です。
(FF2年ちょいの中でもレイズ2の導入方法はワースト1ミステイクだと思います)

その後数々の飴をふるって若干は戻り気味なんですが、
それでも、身も心も真っ白な白さんって、随分減ったような気がします。
つまり、「人を癒すことが楽しくてしょうがない」ような人。
そういう人は、私が状態異常回復で先手打ったりすると、
もう意地になって少しでも早く治そうとしてくれたりするのですが、
最近は「やってくれるならやってもらお」みたいな人まで居て、
テリガン岬でひっくりかえりそうになります。
医者や看護婦が、まあ言えば救急救命士が病院の中でまで
包帯巻いたりしてるのを放置しているようなもの。
ま、それでも居ないよりは、居た方がありがたい。

たしかに、「医は仁術」なのですが、
だからといってお医者さん看護士さんの気持ちと努力だけに全面依存するのは考え物で、
なにも飴をねぶらせろとは言いませんが、
労働条件的にちゃんと働けて、のほほんと言われたことやってるだけのジョブよりも
いい経済状況になるくらいのことは、やっても罰が当たらないように思います。

おもしろいことにこのゲーム、盾役の忍者さんも、最強アタッカーの狩人さんも、
お金をジャバジャバ掛けないとできないジョブなんです。
つまり、
「有意義な人物ほど自助努力を求められる」
というのはまあ、いいとしても、
「それが目に見える形で圧倒的に認められることは【一切】ない。
 得るのはただただ己の満足」
というのが、どうにもこうにも日本的。
というより、一生懸命2年掛けてシステムを弄くりまわしたら、
結果としてそういうバランスになってしまった、
またそのバランスでプレーヤーが遊んでる、
それが微妙に面白い。

しかし「なぜ」それでも人がそれをやるか考えますと、
強敵に立ち向かうのに派手な攻撃魔法ではなく麻痺回復呪文ばっか唱えてる
黒魔道士の私思いますに、
「好きやから」
以外になく、まあ、なんというか、人生は簡単なものですな。



7/18 カメラ位置

結局、結論の出ないことをもひもひ言えるのがこうしたwebのいいところで、
バシッ!キシッ!としてれば、本でも書けばいいわけですからね。
売り物にもなるし。
しかし、バシキシでは無いところにも、落とされている猥雑な部分にも、
神様は同じように宿っている、のだと思います。
八百万八百万。
日本人web日記が鬼のように大好きらしくて、
ここまで異常に発達してるのは日本だけ、と聞いたのですが、
それもそういうDNAが囁くのかも知れません。

ということでいつものごとく、整理されぬ頭の中をそのままに。

---

視点移動、というのはモノを観るのに非常に大切です。
カメラの回転(別角度から見る)と、ロング・アップ(全体と詳細)。
3次元+0.5次元みたいな感じですかな。
もう1次元、時間軸まで考えられればよりベターかもしれませんが、
それはさすがに難しい。
というよりも、それを予測したりあるいはそのために生きる、というのは大変に困難です。
人間は結局、自分さえそして今さえよけりゃいいので。
教育者、というのはこの時間軸を体感出来てる人のことを言うのかもしれません。

しかしカメラの移動というのにはエネルギーとコツが要るので、
人は割と視点固定で生きてしまいがち。
それでなんとでもなりますしね。
あるいは、自分の都合のいい視点へ視点へとカメラを移動させる。
うん、でもまだその方が、カメラ動かせるという意味ではいいのかもしれない。

少ないサラリーマン生活ですが「仕事の出来る人」というのは、
カメラ動かすのが巧くて速くて早いです。特に早い。
僕はそれが嫌いでねえ(笑)
「昨日言うてたことと違うやろお!!」
ビジネスの世界では信念とか理念とかそういうものはゴミみたいなものです。
状況はお客さんのハートは日々刻々変化しますからね。
あの世界は、「儲ける」という大前提があるので、
その上にそういうキラキラした飾りがつくだけで、
飾りは中身無いと意味無いんですなあ。
(逆に言うと儲かりゃどんな奇抜なこと(悪事はいけませんが(それも通す会社もいっぱいあるようですが))でも通る)

それはいいとして、しかし、
あまりフラフラカメラ動かしても、酔う。

最近のながたはどうも、フラフラ動かしすぎて酔ってます。
いや、どうも昔からその癖があるのですが、
「視点を動かすのが大事だよ!」
といって、ぎゅいんぎゅいん動かして「おえっ」てなってる。

だって、「あれもよしこれもよし」言うてたら、話が進まないじゃないですか。
どこかに視点を置くから、
軸が出来て、対立軸が出来て、矛盾や衝突が生じて、それがドラマになる。
そのダイナミズムこそが人生。
これをいちいちカメラ動かして撮ってると、
ただ、写しているだけで手一杯になってしまう。
ここで素人ホームビデオとビデオ・ジャーナリストの差が出るわけで、
やはりどこかに軸を置いて、「そのまま」であるにせよ、
どの「そのまま」を撮ってどの「そのまま」を撮らないか、
もしくは撮った後残すか切るか、
そこに「上位の」とでもいうべきある視点が必要なんですね。
コンセプトと言われるものですが。

「ものを観る」
ということは、結局、カメラの位置の移動力や、カメラの精度そのものよりも、
その「どういう視点から見るかという作戦」、というかそれほど理屈っぽくもなくって、
「どう観るかという気持ち」
こそが、重要なんですな。
もちろんそれは観る対象物によって随分影響されます。
「くぎづけ」ってやつで、むしろ対象物に視点を縛られてしまうもの。
そこから自由になって、自分の「いつもの」視点からも自由になって、
「よし、今回はこれで!」
と観れる、人が、柔軟性に富む人なのだと思います。

どこからでも観れるんだけど、
その場に応じた一番いいカメラ位置を見つけられる、
あるいは、
「俺はこう」というその人にしかありえないカメラ位置がある、
そのあたりが、人の魅力に繋がるような気がします。
でまあ、魅力という言葉に「力」が入ってますように、
それはパワー。

そうした視点が集まれば集まるほどさらに力になる。

---

最近は、「僕はこう思うんですけど」をもうちょっと積極的に
ペラペラしゃべらないといけないかな、と思っています。
え?充分?うるさい?
いや、なんかまだ足りないような気がするのですが。
あ、これwebだからですよ。
実物は非常に寡黙な好青年ですもの。
僕の視点がいいでしょ?っていうんじゃなくて、
こう考えるんですけどどうでしょう、という例示が、
読んでおられる方の(実物では聞いておられる方の)
どこかをピリッと刺激して、
それがまた何か生み出せばいいのかなあ、と思います。

いや、最近でもなくてずっとそう思ってきてたんですけど。
若い頃は押しつけがましくて。
自分正しいと思ってますからね、どうしても。
実際正しいことが多かったし(笑)
しかし、「正しいなどということには何の意味もない」とも、いずれ知るのです。
世と人生は矛盾と不合理に充ち満ち溢れ、
そもそも己の存在自体が様々な生命を(人間含む)刈り取って
クーラー効いた部屋でFFやってるわけで、
貴様そんな偉そうな口を利くのはこの口かこの口か、と。
んではなくて、
「こっちの方がたぶんよりよい方向なんじゃないかと……」
「あ、そうかも……」
という流れのようなものを、作るというとムチャで、ぱちゃぱちゃ波を起こしてみる、
その方が大事やなあ、と思うんです。
「ほらみろ俺の言うたとおりやろ!?」とか言っててもなんの意味もないですからね。
それよりはそんな事が起こらないためには何が要るか何ができるか、
そしてやれることをちょっとでもやった方がいい。
赤い羽根募金10円、でも日本人全員でやれば12億円です。
「地球のみんな、オラにちょっとずつ現金をわけてくれ!」というアレです。

---

なんでんなことツラツラ考えてるかといいますと、
最近ちょっとweb個人HPの限界みたいなものを感じてたんです。
えーっと、友人のO君に教えてもらったweb日記で
「ゆきまさ」さんという方の日記があって、リンク張りませんというか張れません、
ぐぐって行ってみてください、これがちょっとねえ、いろんな意味ですごいんですよ。
(99%ホンモノっぽいのですが、もしこれネタで書けてるならものすごい力量の持ち主です)

でね、日記だけじゃなくてその他のコンテンツもあるんですけど、
それ見てるとね、まあ、僕もやってることは「おんなじ」なんです。
ただちょっと、整ってるか整ってないかだけ。
その日記もすごい読者志向で(笑)
めちゃめちゃフレンドリーで詩的でね。

そういう外の視点から見せつけられるみたいな感じで、
「ああ、あれと『要するに』同じかー」
とガックリ来てたんです。(失礼ながら)

でも、振り返ってみれば、友達からもコレについて
電話もらったりメールもらったり、あるいは呑んでる時に話したりしてもらってます。
レスポンスがあるんだから、小さな小石を誰かの頭の海に投げ込んでいるんだから、
それでいいじゃん、と思い直し、
またその、僕にできる数少ない社会貢献の一つが(笑)
こうして小石投げることかなあ、とも思い直しました。
もちろんできれば、その石が大きくなることを望んでいるのですが、
小石が思わぬ波紋を起こすこともあり、
巨石がなんの波も起こさず吸い込まれることもあり、
そこまでは、考えず。

ま、気負わず気取らず、ぼちぼち行きます。



7/17 30

弟が19日に30になるのですが、同学年のokbちゃんとちょっと話したところ。

ボンヤリ思っているだけですが、
30までと30以降とでは、戦い方が根本的に違うような気がします。

30までは自分のパフォーマンスをあげることに熱心で、
そしてそれで勝とう(結果を出そう)とするのですが、
30以降は自分の持つネットワークの総合力で勝負する、
そんな視点が出来てきます。
もちろん、後者の方が10倍も20倍も強いわけです。
個人が必死になってやっても、1の力がある人は1.2とか1.3ぐらいまでしか出ませんが、
1の力がある誰かにお願いできれば、それは2にも3にもなる。
もちろん何人もの力を合わせれば数十倍数百倍。
0.5になったりマイナスになったりする危険性はないことはないのですが、
そういう行き当たりバッタリなシステムではなく、
「少なくとも悪くなるこたねえな」
と思える力を借り方・フォーメーションの組み方、ちょっとドライな話をすれば
ギブ&テイクや貸し借り、かごに乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人、
ポジションややり方が見えてくるものです。

というよりも、高校大学で部活だサークルだというのは、
そういうシステムに慣れてどんなシステムが自分に向いてるのか
あるいはどういうシステムは失敗するのか成功するのか、
そこを学ぶのが一番の肝かもしれません。

僕がやってる「ものを書く」などということは極めて個人的なことですが、
これとて要するに普段所属する多数のネットワークからの入力を、
僕というフィルタを通して出力しているだけで、
個人としてのフィルタの優劣を向上させることはもちろん必要ですが、
どれだけ「よい」ネットワークを持っているか、ということも大変重要です。
(もちろん人つながりある仕事なら言わずもがな)
ネットワークの構成要素、セルは人だけではなく、
モノもサービスも場所もメディアもそうなんでしょうが、
とりあえず人が最も情報タンクとしては広帯域で容量が大きく、
エッセンス化の能力が高い、すなわち優秀です。
PCのネットワークに例えれば、人がPCで本やモノは単なるネットワークストレージや
プリンタやスキャナみたいなもんです。

で、「よい」とは、一言で言うならバラエティ、多様性です。
変わった要素がいろいろあるから、可能性の幅が、
すなわち創造性が拡がるのであって、
自分と同じのが何個あってもしょうがない。

しかしこれは難しいもので、歳を重ねるにつれ
「自分のゾーン」みたいなのがわかってきますから、
心地よい自分のゾーンに安住したくなるものです。
それはそれでいいですし、精度もあがると思いますし、
やっぱりどう考えてもダメなものも世の中たんとあるのですが、
しかし行きすぎた頑固を抱えて凝り固まってしまう、のは避けたいところです。

その境目もまた、30のような気がします。
30超えても以前と変わらずアメーバのようにぱくぱくバクテリア食べてるヤツもいれば、
もう俺は花の蜜しか吸わないから、と華麗なヤツもいます。
よくよく振り返ると若い時から方向性的には定まってるような気も
しなくはないのですが、(ちょっと切ないことながら)
歳を取って社会的に「そうであることが許される」もしくは
「そうでなくてはならない」(最近はさすがにこれは少ないと思いますが)
と、人は恐ろしい勢いでオッサン化オバハン化します。

ゴルフへ行くお姉さんの居るお店へお酒を呑みに行く、
それがオッサンなのではなくて、
「そうでなければならない」ということに抵抗しなくなる、
これがオッサンです。
「ホントにそうか?」と思い続けるのが、いくつになってても、
若者ではないか、と思います。
くどいようですが、30を超えると、社会の目が、周囲の目が、
「そうでなければならないことを受け入れる人」に甘くなり、
「そうでなければならないことを受け入れない人」に厳しくなります。
高校生の頃と逆になる。
そこでボロ、というと怒られますが、腹と本性が出る。
ほんとはおかしいですよね、
強い風当たりに向かってこそのロックンロールじゃないですか。

でもまあ、それはそれなり、とも思います。
30すぎてまだ「いや!?」と思える人は思い続ければいいですし、
思わなくてもいいなと思えれば思わない方がいいです。
「素直な自分」というところに重きを置けば、
逆に言うと、素直になれる境なのかもしれません。

ただそうであるにしても、よいネットワークがあるのとないのとで
日々の楽しさは随分変わってくるような気がします。
抵抗のない範囲での多様性を取り込んでいく行動ぐらいは、
ちょくちょくやっていった方がいいかもしれません。

己の無力と限界を知って初めて、
ネットワークの力を思い知り、その活用
(もちろん活用するということは活用されるということでもあります)
に思いが至ります。
で、勝負はそこからじゃないかなあ、と、最近よく思うのです。

ネットワークっつったって簡単なもんじゃないですよ、
その構築と管理にはすごいコストが掛かるわけです。
ただ、「楽しい友人と呑みに行く」と思えば、コストだなんて誰も思ってないだけで。
時間も労力もお金も使ってる。
すなわち、ものすごいコストを掛けても見合う、
と思えるようなネットワークを組んで整備して、
そのこと自体も楽しんじゃう、
それが30以降なのかなあ。

高校生の頃は会社帰りのサラリーマンが
焼鳥屋でくだを巻く心境が理解できませんでしたが、
あれ、会社はいるとすぐわかる。
まあ、ネットを構築してるわけです。
そうでもしないと、月金ハードワークで、主に人的なネットを構築する時間がない。
アメリカ人がホームパーティ開くのは、居酒屋やパブが使いにくいからちゃうやろか、
とか思うのですがアメリカ人では無いので詳細はわかりません。
もちろん、呑みに行くだけが会って話すだけがネットワークでもないのですが。

ま、とにかく。
戦い方が抜本的に変わってくる、
そしてその戦い方でなければ基本的には無理だ、
いやまあ結果はいいとしても、そっちの戦い方の方がずっと楽しいですよ〜、
というのが、30すぎ丸3年になろうかな、というわたくしの思うところでございまする。



7/16 雑感

昨日の複雑な気持ちは、一夜明けてみますと
「新しいことをやろうとしているのに、
『ミラクルズ』という古い殻でやろうとしたのが失敗なんじゃないの?」
と簡単に理屈付け。

ましかし、完全に変えてみる、ナウな言葉で言えば「不連続的変化」だけが変化ではなく、
むしろ同じ日常の中に如何に変化を見いだすか、
それこそが今取り組もうとしているところで、
そういう意味では『ミラクルズ』でなきゃいかんのです。
あの古い殻で、どんな新しいことを見いだしていけるか。
そこ!

……とかなんとかDODO考えて時間を潰せる、安上がりな男。

---

勘のいい方はこれの更新の時間が不定期になるのでお気づきかと思いますが、
またちょいとFFに復帰してます。
今回のコンセプトは「エプロン」。
細かい説明は抜きにして、
「日に小一時間頑張ると、平均2500ポイントぐらい貰えるシステムがあって、
 (それ以上は貰えない)
 それで10万ポイント集める」
と、エプロンが貰えます。
ざっと40日。
6末あたりからやってます、1日だけ、素材があまりに高くて断念した日があるのですが、
それ以外は毎日。

えらいもんでね。

始めた時は「40日先なんて!」と思いながらやるのですが、
習慣になってしまえばさほどの苦労でもなく、
昨日、実に順調に半分、5万ポイントを超えました。
「半分」というのはこれまた偉大なもので、
そこで初めて見通しがつくわけですね。
「今までの経験を折り返せば、終わる」
この辺の見通しのつくポイントは、その人それぞれかもしれませんが、
僕はどうも「半分」にとても大きな意味を意味を見いだすようです。

親父が死んだ時もそうで、27の時54で死んだんです。
ショックでねえ。
「うわ、あと同じだけ生きたら死ぬんか!」
同じ屋根の下暮らした曾祖父が亡くなったり、中高6年を共に過ごした同級生が
亡くなったり、お世話になったプレイボーイのヤンチャおじさんが亡くなったり、
死は身近なもののはずだったのですが、
人間なぞというものは実に得手勝手、
自分に置き換わらないと「実感」が無いんです。
「ああ、人間いつ死ぬかわからない」
などと口ではいいますが、言うてるだけ。
「お前もう半分!」
と大自然に言われて初めて、「はた」と気づくわけです。

羽田さんの一番偉いところは、今でも夏にあの省エネルックを着るところ。
有言実行、あれぞ政治家ですよ。

■e(スクウェア・エニックス)の巧いところは、
「嫌味にならないギリギリでガマンする」ところで、
「エプロン」と聞いてすぐ「裸」という接頭語をつけたくなるような
大きなお友達対策もバッチリ、
下のTシャツとセットになってるお洋服なので、
そーゆーことはできないようになっている。
しかしながら、下の服はなんでも選べるので、
ホットパンツでも、サブリガ(ブルマみたいなもの)でもなんでも履いて
生足びよーん、へっへっへ。
ここが巧い。
これをズボンまで一体化すると、夢も千房も大たこない。
よくわかっておられる。

でまあ、昨日はひさーしぶりにレベリング(経験値稼ぎ)など行ってきました。
時の経つのは早いもの、中断前には贅沢装備だった品々を、
多くの人が持つようになってるわけです。
組んだ白タルさん、
バーミリオクローク200万G(日本円にして2000万円)
光杖30万G(300万円)
闇杖25万G(250万円)
イレース30万G(300万円)
の半年前ならどこの金満家ですかというフル装備。
そしてもちろんタルタルという種族は魔法使いに最適な溢れるMP、
しかもご丁寧にサポ召喚でオートリフレシュ+MPブースト。
完璧も完璧、こんな白引いたら小躍りしちゃうぐらい、絵に描いたような白魔導士。

で、麻痺治すの遅い。

なんでバックスが白黒詩であたし(黒)が治してるのよ。
あたしにだってMB(前衛の連携攻撃に合わせて魔法をブチ込む)
って大事なお仕事があるんだから。

仕事は、プレイヤースキル。

それ以上も以下も無し。
道具とか環境とか氏育ちとか、そんなもんいーーーっさい関係無し!!

(もちろんゲームですから、楽しみ方は人それぞれ、
 レベリングはオマケで、お金を集めてアイテムを揃えるのこそ楽しい、
 というプレイ・スタイルもあります。それもよくわかりますし、楽しいです。
 ここでは、最後の三行のための例示として。
 あ、あともちろんですけど私のプレイヤースキルも鬼のように低いです。
 ♪いーつも しっぱいばっかり しってるんだっよー)

でね。
人はそれをもちろんわかってないわけではなくて、
わかっているから、こそ、お金を稼ぎ装備を整え環境を整えるわけです。
でも、上の例を挙げれば、
「そんな暇があったら実践で麻痺治す練習しろ!」
誰でもそう思いますわな。
でも、自分のこととなると、なんとなく装備買いに行っちゃう。
んで、現代社会はそれにつけ込む商売人(半分が詐欺師)が多いので、
その気になるわけです。
それを、自分の言い訳にする。
これだけやってんだから。
なにもやってない、っちゅーねん。

気持ちは純粋なんだから、その努力のベクトルを、ちょっぴり変えるだけでいい。
だってそれだけの装備揃える(お金を稼ぐ)努力、半端じゃないもの。
やればできるんですって、やれば。

……と、これは自分向けに。いやホントに。

「この『事』の芯はなんやねん」
そこを、常に忘れないようにしたいですな。

---

芯を見極めそれを極める、
そのシンプルなことこそが、一番難しい。
ご飯と味噌汁だけで勝負しろ、といわれると、ゴマカシが全く効かない。
今までゴマカシ一辺倒で来て、
「いややはり芯で勝負しないと」
と思い直すと、これが大変だどうしよう、というのが昨今の悩みです。

どうしようもこうしようも、解決法は上述通り、
「やれ。」
ってだけなんですけど(笑)

ただ、やるために考えること、考えるためにやること、
そのバランスや間合いや混ざり具合、これを手探りで探しているところです。
どんどんわけがわからなくなってきてますよ?
わけがわからないことが、わかってきてはいるのですが。



7/15 雑感

理論と実践が一致しないのはよくあることで、
その時に実践しきれない理論の見直しを進めた方がいいのか、
理論が合ってると仮定して実践のやり方を詳細に検討し直す方がいいのか、
またその両方なのか、いつも迷うところです。

いやまあ、また書いてるんですけどね。
最近開発した「そのまま」理論と一致しない。

できるだけ、作者として盛り込みそうになる「何か」を排除気味に、
その場その場の空気を大事に切り取る……
それが「そのまま」理論なのですが、どうもしっくりこない。
いやそれとも、
選んでる主題自体が間違ってる(合ってない)だけで、
方法論的には間違ってないのか……
はたまた単に新しいやり方、スパイクがグラブが合わないだけで、
しばらくすると馴染んでくるのか。

とりあえず、「そのまま」でいくと、
「これは面白いのか?」
という疑問が湧いてくるんです。
ええ、普通、そういうのはダメなんです。
でもね、このやり方で行く以上、どうしてもこうなる、場面が多い。
当たり前ですわね、目指すは「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」なわけで、
いわゆる感情の上下動という意味での面白みはない。
修辞の華麗さも無いし、どんでん返しの驚きもないし、キャラクターへの感情移入もない。
いわば「コンテンツ」が無いんです。
「これは、どこを、楽しめばいいの?」

白いご飯と味噌汁とお漬け物が最高。
ハンバーグは!?

ですがしかし、ずっと申していますとおり、
コンテンツ・オリエンテッドを極めてしまったが故に、
身体性、人間の適度な認識限界を超えて、
モノなりサーヴィスなりが一人歩きしてしまっているところに、
現代日本の不幸はあるわけでして、
(そしてそれが不幸だとまだあまり認知されていないのが最大の不幸)
そこで立ち止まり、後ろへ帰るのではなく
新しい何か、を見いだすためには、やっぱり、
「白いご飯『も』美味しいよね」
というところに、もう一度目をやる必要があるわけです。

で、エゲツナク始末に負えないことに、
これはどうもその、「両極端」とか「二つのアプローチ」とか、そういうものではない。
お互いがお互いを内包しており、
秩序立てられた無秩序であったり、整然としたものがグジャグジャとあったりする。

また耳囓ったことを申しますと、
モダンというのがキッチリを極める方向だとするなら、
ポストモダンはもーなんでもえーやん、という方向(と認識してます)。
モダンでは行ききれない、というのは70年代頭ぐらいにすでにバレてしまったことで、
そこからグジャグジャワールドがずーっと拡がり続けているのですが、
それが、単なる無秩序とはどこが違うのか。

ラスベガスのホテルとか、最近はもうすごいことになってて、
ホテルの中をジェットコースターが走ったりするわけです。
外装もピラミッドそのままのヤツとか。
各々のホテルがカジノがそれぞれの意趣を勝手に凝らしている。
写真で見てるだけでも、もう無秩序極まるワンダーゾーン。
ただ、しかしそれが見苦しいものか、本当の無秩序かというと、そうではない。
いえばテーマパーク。
目的がある。コンセプトがある。
「ウチへ来てもろたら、おもろいでっせ!」
この目的のために各々がそれぞれのやり方で頑張っているから、
無秩序であって秩序立てられている、わけです。
ここに、シリコンバレーのIT企業の研究所みたいなのがあると、
それが無秩序。どんなにその建物が合理的で機能美に溢れていようとも。

それを書き物に当てはめて見るや、
「『おもしろい!』という目的のためには手段はどうでもいい」
という当たり前極まる・そしてよく知る結論に舞い戻る。

ええ、それはわかっとるんです。
しかし、その目的のために今まで使ってきた技法、
「企み」と「意図」を練り込んで合理的にちゃんちゃんとやっていく、
それでは限界があるな、と思ったからこそ、
新しいやり方をやってみてるわけで、
しかしそのやり方では、まだ馴染んでいないからか、
その目的自体が、達成されているかどうかさえわからない。

今までですと、二極の間のどのあたりに位置するか、
シンプルとコンプレックスのどのへんを狙うのか、
そんな話に簡単にしてしまったと思います。
でも、単純なものほど奥深く、複雑なものほど浅薄である可能性を散々見てきた以上、
そういう見方自体は捨てた方がいい。
(もっとも見れたとしてもそれを実現できるかどうかはわからないのですが)

対立軸などではない。
真実はひとつ、視点の置きようが違うだけ。
だからこそ据わりが悪い。
視点、それは上の例で言えば「ウチはオモロイよ!」でしょうか。
てことはなに、自分がまず自信を持ってアピールすればいいってこと?
もちろんのことながら、自分でおもろいと思うものを書いてるわけです。
いつも。
でも、客観的な目もあって、それでいうと
「ああ起伏が足りない」とか、
「冗長だと言われても返す言葉はない」とか、
いろいろある。
で、それも正しい。
まず第一読者である自分自身をある程度以上満足させられねば、
どうにもなりませんからね。
視点はシフトしてるのに、身体がついてこないのか。
逆か。
こうやりたいと思っていることに、古い視点が意義を唱えているのか。

ひとつ前、「忍」を書いた時に、
「ああこのやり方ならいくらでも書ける〜」
と思ったのですが、また袋小路。
ただあれは、メーカーで言ってみれば
「製造ラインを合理化した」、
というものであって、製品の設計に関わることではない。
今回は製品の設計・開発に関わる部分です、ちょっと次元が違う。

やっぱり
「確固たる軸をバシッと通せ」
というところでとりあえずは結論なのかな。

なんにでも使える便利な結論ですけど。

モダンとポストモダンの差は「人間」という要素だと思うのですが、
そんなことを言うててもなんか言ったような気になってるだけで(笑)

まあ、人さえ書いてりゃ間違いは無いってことかな。

---

んな理屈捏ねてる暇があったら手を動かせ、
というのは絶対の真理で、
新しいスパイクに馴染めなくてイライラしてるから、
FKが上手く蹴れないのをスパイクのせいにしてる、
てなところが正味のところ。

今から予防線を張るかのごとく言ってしまえば、
あまり「書きたい!」という欲に忠実に書いてるわけではなく、
「こういう風に書いたなら、どんなものでも書けるのでは?」
という甘すぎる考えから泥沼に踏み込んじゃったのかもしれません。
詞藻無くして詩はできぬ、かな。
さすがにこれは、ボールが無かったらサッカーできへん、という程度に
根本真理のようです。

しかしこれも修行、これ書ききって丁寧に整えられれば、
それはそれで経験値貰えそう。

もう少しがんばろう。



7/14 U・F・J

予想が当たりで、やっぱり(吸収されて)名前変わるようです。
そこに書いてあるとおりです。
問題は名前そのものではなく、その名前通しちゃう体制。
三菱自動車と同じ。

自慢したいわけではなく、
相場とか株とかで信じられないぐらい儲ける人などは、
(年率200%とかそんなけちくさい話じゃなくて、何十倍とか)
この辺の匂いを嗅げちゃうんじゃないでしょうか。
分析的に変動の周期性がどうのとか、
こんな材料があるから長期的には上がる下がる、
そんなこと言ってるうちは素人プラスアルファで、
玄人はたぶん、全然別の感覚器官がある。
少なくとも、誰もが見てるようなところは、見てない。見ても参考にはしない。

で、それに従って行動するから、信じられない大当たりとか、
これは鉄板だろ、とみんなが思うものを切ったりとか、
できる。

あと、悪臭は比較的嗅ぎやすいですけど、良臭は嗅ぎにくい。
「オーラが出てる」というヤツです。
これがなかなか。
私Hコミック歴17年、今でもハズレ引きますもん(泣)
特に本とかCDとか、規格が決まってて手に取れて回数こなせるモノですと、
ある程度鍛錬でわかるようにもなると思いますが、
「企業活動」という非常に大雑把なものだと、さらに難しそう。

それから、「欲の抑制」というのが大切なのかも知れません。
勝ち、結果にこだわる。
僕のスケベ本探しは、「挑戦」の要素がどうしてもあるわけです。
「こ、これはゾーンではないがなにか新しい境地を我にもたらすやもしれぬ……」
もちろん、これはほぼ失敗するのは皆様ご経験の通り。
いやあるいは、挑戦も管理下に置ける、強固な精神。
それを挑戦というのかどうかは別にして、少なくとも
「負けてもいいから挑戦自体に価値がある」
なんて思ってるようではいかんわけですね。
「負けても価値がある挑戦しかしない」。
微妙な差ですが、大きな差。

話を元に戻しますと。
そういう感覚は鍛えに鍛え抜かれた超人的感覚、あるいは先天的センス、
そういうものに思われがちですが、
上述通りやはりどこかにシグナルは出てるもので、
そういうシグナルさえ見抜ければ、あるいはどれがシグナルか掴んでしまえば、
比較的容易になにが良くてなにが悪いか、その判断がつくようになる、気がします。
長じた自動車評論家の方は、スペックシート見るだけで
後席居心地の良さとか、そういうところまである程度読んじゃう。
そこには当人なりの判断基準があって、この数値とこの数値の割合がこうで、
写真見た感じのデザインはこうだから、こんな感じ、
つまりその人オリジナルの「ものさし」がある。

もちろん、そのものさしを作り上げるには多大な努力が必要ですが、
そのものさし自体には、結構な客観性があって、
使ってみれば素人でもある程度は使える、かもしれない。

ただ、そのものさしはどんなジャンルの人にとっても商売道具なので、
そう簡単には譲ってくれません。
また、他人に渡して「こんなん役に立たへん」とか言われてもけったくそ悪いですしね。
罠、というか「こういうことにしといた方がカッコイイかな」ということも言いますし、
いつも言いますように、逆罠もあります。
「シナリオは導入が大切」
いやだからいいシナリオは導入がいいんですって。
んなパートごとにクオリティ変えれるかアホ。
そんなことできりゃトップクオリティで全部埋めるわ。
だからこんなこと書いてあるシナリオの書き方とかなんとかいう本は
全部ウソ
です。もしくはあんまりなんも考えずに書いてる人の書いたもの。
その人はなんも考えずに書けてるので、言葉や理論に意味はありません。
「上手な結婚式スピーチ」
題名からして間違ってます。結婚式のスピーチのポイントは、
上手い下手ではなく短さなんですってば。

とかね。

そういう自分のものさしを手に入れるには、
もちろん自分なりの試行錯誤が第一なんですが、
変わったものさしを持ってる人の話を素直に聴く、これが大事。
自分のジャンルだけではなく、よそのジャンルでも。
あるいはその方が変な先入観無いだけに、ズバッと本質に迫れるかも知れません。

まあ何が言いたいのかと言いますと、
HDDウォークマンでmp3が聴けない以上、SONYの復活はまだ先やなあ、ってことです。
あと、
新しい銀行の名前はぜひ日本語で。
日本の銀行なんだから。
ほら、ウチのサイトも……



7/13 アロン先生

iPodのリモコンの根本、一目見て設計がかなり甘く、
柔らかい樹脂コードにストレスがかかるためにちぎれてきます。
そんな時にはアロンアルファ。一番ベーシックなヤツ。
これで一周くるりと固めてしまいます。
上手い溶接のように、接着したところの方が強くなってる感じ。

アロンアルファというのは556と並びとても応用範囲の広いケミカルで、
日産・ADバンだったかで超カジュアル・スポーツドライブ・ライフを
送っておられる方のHPで見かけたのですが、
ハッチゲート(後ろのガバッと開くドアです)周り、
ライトバン・タイプの一番剛性の弱いところ、
その接合部にアロンアルファを垂らす。2本分ぐらい。
クルマの溶接には、糊付けのように板と板を全部くっつける溶接と、
ホッチキスのようにバチンバチンと数カ所留めるだけの溶接があるのですが、
ホッチキスを糊付けにしちゃうんですね。
これだけで驚くほど剛性向上、リアのしっかり感がまるで違うそうです。
(車種やボディ形式によって効くポイントが違うことと、
 アレは浸透性が強くサラサラなので、迂闊にやるとエライことになりそうですが)

ちょっと調べてみると、ギタリストの方なんかで、
本番爪が割れました、つけ爪をズバッとこれで貼り付ける、とか、
フェラーリのメカの方が(あれはエンジンルームキツキツなので)
ケガしたら布で押さえたあとコイツで止血、とか、
意外な場面で活躍しているようです。

以前は一旦開封するとあっという間に乾いちゃった気がするのですが、
今は乾燥剤がいいのか中身が改良されたのか、結構持ちます。
うちのも1年半ぐらいポツポツ使ってる感じです。

ゼリー状とかさらに強力とか、いろいろあるんですけど、
結局赤福は赤福が、フォルマはエストニアがいいように、
基本が一番、応用範囲が広い。

幼い頃、指につけてしまってカピカピになって、
慌ててティッシュで拭おうとしてさらに貼りついて泣きそうになった、
そんな経験はありませんか。
何かと何かをくっつけて驚かせるCMが、年代わりぐらいでいつも驚かされたものです。
子供の頃はあの「魔法の液体」を使ってみたくてしょうがなかったのですが、
「プラモには適さない」
などと狂四郎が言うので、
(実際適さないのですが、事故防ぐための教育目的もあった……のかな?)
そうなると「接着」なんて場面、日常そうそうないんですね。

大人になって使ってみると、思ったほど魔法では無かったのですが、
でも、効く時はベラボウに効く。
目が覚めるほど強力で即効性があり、そのくせなんでもない風情で
どこにでも売ってて誰にでも使える。
それは魔法ではなく、まさに「科学」、そこに憧れていたのかもしれません。



7/12 ハマー先生と奥様

あいよ。今帰ってきたとこ。

Dr.ハマーとその奥様と軽く呑みに。
ハマー先生、天王寺区生まれフロリダ在住、前回日本に帰ってきたのは2年半前、
ってことでここはやっぱり日本流ジャンク居酒屋なんぞへ。

チェーン居酒屋というのは日本の誇る3大システムの1つで、
(あとの二つはコンビニとファミレス)
和洋中なんでも揃ってるし、お酒もぐじゃぐじゃなんでもあってしかも安い。
我々は普段行ってますから、「もうちょっといいとこ行こうよ」なんて贅沢言ってますが、
いざ無くなると寂しいもの、らしいです。

なにせフロリダ、ようやく辿り着いたそこそこの寿司屋は住んでるところから
クルマで2時間、イエス、200キロ。
大阪で言うとあれよ? 寿司食べに行く時には名古屋まで行かなあかんのよ?
「もう、なに食べても御馳走」
とは奥様の弁。
「じゃアメリカは何が美味いんですか」
「「……」」
「肉とか?」
「「肉は間違いなくこっちのが美味い」」
「S上さんが向こう行った時は野菜とか結構美味しいと」
「そりゃあなた、カリフォルニアだから。意識高いから」
イチローは大変なようです。

Consumer Reportのクルマ版をお土産にいただきました。
これ系の完全消費者視点の雑誌って日本ではほんと少ないですよね。
クルマ系では「マガジンX」だけですよ、メーカーから広告取ってない雑誌。
ハマー先生は向こうでは紫色のドッジ・ニーオン
(クライスラー・ネオン。昔日本でも話題になった。3速ATの。3速ATの。3速ATの)
にお乗りになっているのですが、
「買ってはいけない」
という烙印が煌々と輝き、「あれがダメになってこれがダメになってそれがダメになる」
と書いてあるそうですが、もうそのまんまそこがダメになるそうです。
日本の中古車雑誌なんかでも、婉曲表現抜きのダイレクトで、
「ゴルフ3は窓が落ちる」
「プジョー205/309はエアフロメーター壊れて10万」
とハッキリ書けばいいのにね、
……ってまだ特集記事組まれるような外車はマシなんですけどね。

しかし日本は物価が高い、らしいです。
向こうでは$40も財布に入ってれば成金気分らしいですが、
こっちだと一晩呑みに行くのも不安な数字。
M澤先輩が遊びに行った時に、気軽に銀行から$500おろしてるのを見て
ひっくり返ったとか。
奥様も、留学してもう何ヶ月もしてからようやく$100札を見た、と。
店で$100札を出すと、間違いなく「すかしチェック」を客の目の前でするそうです。

いや、いろんな土地がありますなあ。

浦島なお二人は「スルッと関西」が便利だ便利だとおっしゃるので、
「ICOCA」(東日本でいう「Suica」)を見せ
「これがもうすぐ始まるのですよ地下鉄私鉄でもー」と言うと、
まるでコーラの瓶のように物珍しげに見ておられました。
日本万歳。

写真、いろいろ見せてもらって、アメリカ名物ホームパーティの様子なども
楽しそうなのですが、なにより自然が雄大です。
こう、デジタル・ピクセルからでも絶対サイズ、量感の持つ迫力は伝わります。
あんまりその、マンハッタンの建物とか「はあ、映画と同じですね」みたいな感じでしたが、
Natural Parkの写真はなかなか美しいものでした。
ああいう、人の手でどうしようもないものにこそ、憧れますな。

---

人々の様子とか見せてもらうに、
まあなんというか、普段の自分達がかなりギスギスしすぎてるような気もします。
向こうには向こうなりのギスギスがあると思うのですが、
狭い土地でたくさんの人が蠢いているがゆえに、
緻密なルール作ってそれを詳細に守らないと破綻する、
そのことに対する恐れが、日本人の根底には流れすぎてるかもしれません。
ヨーロッパも似た感じでしたが、
それでも地下鉄ではベラボウにカッコイイお姉さんがリンゴを生で囓ったり、
車両連結部を使ってストリートパフォーマーが指人形ショーを始めたり、
もうすこし、「ゆるみ」があったような気がします。

しかし都市生活、というのは必然そうなるもので、
そこをガッチリキッチリやるからこそスムーズに成り立ってる、
そうとも考えられます。
「まあ、このぐらいは」を言い出すと、どこかで誰かの「これぐらい」と
違う誰かの「これぐらい」がぶつかって、喧嘩になる。
それを抑えて抑えて行くと、ちいちゃいちいちゃい最大公約数になる……

しかししかし、それがあまりにも縛られすぎてるような気もします。
そこまで縛らなければ成り立たない都市、いや社会自体がそもそも
成り立ってるとは言えないのではないか、とすら思います。
だからといって日本の国土にこれだけの人口がいると、どうしようもないんですけどね。
どこ向いても家建ってますからなあ。
なんとかなんないものですかね。
コメの人口扶養力は小麦の2倍あるそうですが、
いや物事なんでも、メリットこそデメリットです。

なんとなく最近、大阪ごときでも「きついなあ」と思うことが多いので、
アメリカ南部の雄大な自然に心奪われてしまいました。
でもご夫婦は「「日本がいい」」と重ねて言っておられて、
まあ、芝生みたいなものです。

帰り際のコンビニで買った冷えたビールと、ジャンクなしかし味が濃く旨いつまみを手に
こうしたことを書いてますと、人間は欲深い、と思います。
これをあの大自然のただ中でやれたなら。

欲深いからこそ人間はここまで来たわけで、
それ自体は、いいことだと思いますけれども。

---

えらい後回しになりましたが、
ハマー先生、奥様、ご結婚おめでとうございます。
ステキな、そしてとてもお似合いのカップルで、まったく、いつものことながら、
羨ましい。
ハマー先生は硬派なので、「奥さん」なんて想像できなかったのですが、
現実にお会いしてみれば、これは誉め言葉になるかどうかわからないのですが、
「もう10年目」という勢いでフィットされてました。
いやもう、羨ましい。
一緒に写真を見てる時に、奥様がハマー先生の肩に手を回されてたところに、
激しくアメリカンを感じました。
スバラシイ。
YMCA。

末永くお幸せに。



7/11 特異点

最近。
ようやくクラッチが繋がりつつあるような無いような。
こないだからエンジンは回ってたんですけど、
やっとそれがじわり、タイヤを回し始め……てるかな?

日曜日、今日もいつもの話を繰り返し。

---

智慧の実を食べてアダムとイブはエデンから追い出されるわけですが、
この事件の大切な側面は、神に背いた(言いつけを守らなかった)点ではなく、
「人間は、智慧の実を食べてしまったものである」
点にあるように思います。
「原罪」の重要性はただ罪を犯したことのみにあらず、
その罪の中身が重要、
いや重要な中身であるからこそ、神様が怒った。

言葉と論理を用いて要素要素に還元し深く追求し掘り下げて考え試し増幅していく。
それをやるといつか「神は死んだ」になるわけで、
智慧をつけることそのものが神様に対する裏切りに他なりません。
しかし神様も客が居なくなるから怒ってるのではなくて、こっちのためを思って、
「それをやってはいかーん」という意味で怒っておられるのですな。
実際、そう吐き捨ててニーチェは狂い死んだわけです。
それじゃ何の意味もない。
(個人的には。社会的意味は非常にあるので大変な偉人ではあるのですが)

さりとて智慧を捨てエデンに帰れとは、(少なくとも主流派の人々は)
誰も言わないわけです。
そんなの無理に決まってる、さすがにそこはわかってる。
人間は一度手にした変化を元に戻そうとはしないものです。
すでに知ってることは、退屈なことですからね。

んと、社会的にはいろんなポジションがあればあるほど豊かな社会だと思われますので、
古いモノを古いままに守る、というポジションをやってくれる人が居る、
それは非常に尊いことなのですが、
それに取りすがるようなことをしてはいけない。
あれは天然痘ウィルス保存しましょうコレラ菌保存しましょうっていう意味合いで、
バラエティと、システムそのものとしての学習教材になりうるから残すべきなのであって、
「そこに還る」などというものではない。
というか、無理。
だってさ、アメリカインディアンだって血みどろの部族間抗争やってんじゃん、
愛と平和、大自然と共に調和と謙虚、どこが!?
そんなもんなんですって。

戻りたい戻れない気持ちうらはら。

しかしそう言うててもしょうがないので、では、
「智慧の実を囓りつつ、どうやったらあの、
 エデンでヘラヘラ笑ってた頃みたいになれるのか」
を求めていくしかないわけです。
いやもう、ゴチャゴチャ言ってたって、要するにこれしか、生きる道はない。
行けば死ぬ、行かねば滅ぶ、
人類的に、岐路に立っ
……と、いつの時代の人類も思っていたのかもしれないですが(笑)

リンゴを囓りすぎてリンゴを囓っていることも忘れてしまっているので、
取りあえず横に置くのか代わりにオレンジを囓るのか、それはともかくとして、
リンゴが無い幸せと、リンゴがある幸せを、一度再確認する。

これは極めてその人に依存することなので、
「考え方としてこうですね」
と指し示すことはできても、
その人にとってエデンはどこか、智慧の実は何か、
どれぐらい戻りたいのか戻りたくないのか、
その辺はその人が掴んでいく他はない。

言葉では、言葉に依存しないところは表現できないんです。
ホールドアップしてもしょうがないのですが、それは事実なので、
ここごまかしてもしょうがない。
何度書いても、何度話しても、たぶん話しきれない。
でも、話すこと自体が意味無いことではなくて、解決法をスパッと提示できなくても、
「そういう問題が存在する」
という声を上げることは大切だ、と思うので、こうしていつも書いてます。

で、それだけでなく、次は、
「この問題に、僕はこう行動してます」
というのを胸張って言えることではないかな、と思うのです。
ナベツネは下品だから読売新聞取るの止めました。
(いや、例ですよ、うちは昔から毎日)
ゴチャゴチャ言う前に、それですよね。
というか、言うためにも、それはやっとかなあかん。
やってなかったら、言われへんのです。

---

てことで、ひいひい言いながらなんとかかんとかでも、
いろいろ書いていくのが僕にとっての「行動」ですので、
こうしてひいひい言うてます。
んで、最近「クラッチが繋がりつつあるな」と思うのが、
そのエンジン(考え)が、タイヤを動かしている(行動)ような実感が、
ほんのちょっぴりあるんです。
もちろん今までもちゃんとエンジンと繋がってたからタイヤが動いてたわけですが、
実感として、エンジンの燃焼と回転の感じと、クラッチの圧力と力を伝える感じと、
タイヤが回る感じ、そしてそれが地面に伝わる感じ、
それがなんとなく感じられるようになったのですよ、これがまた。

そういう瞬間ってありませんでしたか。
自転車の運転とかで、最初全然わけわからなかったのに、
ある瞬間からスイスイと前に行く。

最初、全くなにもわからないから、転けると理屈考えたりする。
部分部分で、「もっと脚を速く回す」とか「視線はこう」とか「上半身の力を抜いて」とか、
要素考えるんですけど、そんなんいくらやっても、さっぱりわからない。
でもそれが繰り返してるうちに、ピシャッとフォーカスが合うんですね。
いきなり。

なんとなく、ですがそんな感じで、
理論を実践にするところのシナプスが通った、ような気がします。

---

これはM澤先輩との書簡からなのですが、
ギリギリっていうのを、人は楽しむようになっているのではないか、と。
秩序とカオス、安定と不安定。
バイクでもサーフィンでもスキーでも、その両者の狭間をドリフトする、
そこに人は得も言われぬ快感を味わい、楽しむ。

たぶんね、なんでもそうなんです。

そのギリギリ、限界、は、なにも高速や物理バランスの上だけにあるのではなくて、
どこにでもある。
神様と蛇、エデンと智慧。
二色の潮がぶつかる、っていう「境界」のイメージではなく、
それはあくまで結果なんですね。バランス崩して転けるのは。
「転ける」と「乗れる」の限界ライン、という考え方では、たぶん無い。
両者は全く同じものの別側面でしかない。
高い高い波の頂点に、サーフボードで乗ってる。
そのポイント(点というとまた変だと思うのですが)においては、
物事の諸相が全て含まれてしまう。
「あたりまえ」が、「極めて特別」になってしまう。
ブラックホール、特異点、なんかわかりませんが、そのポイントの周囲は、
そのポイントに近づけば近づくほど、密度濃く、
正常ではないという意味での異常な世界が拡がってる。
あるいはそれが、宗教的体験とか至高体験、全能感や多幸感を伴う
特殊な精神状態、あの妙なる瞬間を引き起こすポイントなのかも、しれません。

そしてそのポイントは、宇宙の果て「にしか無い」のではなくて、
どこにでもここにでも転がっている。
それを見つけ出し指し示し触れてみる、
それこそが生きることの妙、
なのかも。

結局、表現者が志向するところのものは、
その人にとってのそのポイントを見つめて取り出して自分なりに並べてみる、
そこに尽きる。
それをする人々を見て、またその結果としての何かを見て、
その他の人々は、そうした特異点が日常にいくらでもある、
という知ってるけど忘れる事実を再確認し、
「まあ、なんだ、人間捨てたもんじゃないな」
と思う。
もちろん、繰り返しますが、どんな行為でも同じことができるのですが。

どこにでもある、と思って見れば、ほんとうにどこにでもあるものです。

……と、ながたここまではわかった。
次はそれを具体的な物体にするところだ(泣)

しかし、だいぶ整理されてきましたよ。
もちろん深度の深い浅いはあるのですが、
そして得意のゾーン不得意のゾーンがあるのですが、
繰り返します、
日々に潜むそうした特異点を見つけ出し掘り出し描き留める、
これこそが極意です。
……たぶん。
そこ上手くやりきれてないと満足できないし、
やれてると、量とかネタとか関係なく、満足できる。
他の人を知らないので「これが真理だ」とまでは言えないのですが、
少なくとも僕の場合は、そうです。
逆かな?
それを描きたいが故に、これをやってる。
いやこれこそ、どちらでもあり表裏一体、ですね。

---

別にもの作りだけではなく、どんな時にも、生きてる限り、
この「おもしろさ」はついて回るものだと思います。
「今、この瞬間を楽しむ」っていうのはそういうもので、
今起きている波にぽいと飛び乗る、
起きてないなら自分で起こしてでも飛び乗る、
ごく地べたな例を出せば、
自分でダジャレ言って自分で笑う、
あんな感じ。
周りが見れば
「なんて低い波でゲラゲラ楽しんでるんだろう、あのサーファー」
と思われるかもしれませんが、
思わせとけー。
楽しんだもん勝ちやー。

笑うためならなんでもしまっせ。
ただ、それだけのことです。




7/10 こまばえ

こまばえは、らっきょうの汁の中で死にます。
アホちゃうか、思うわけです。
食べるにしても卵を産むにしても、死んでしまってはなんにもならん。
そんなヤバイところへ近寄るな、と。
「桃とか」
そんなことを言うてますと、まま上が。
「こまばえは、中まで入ってきて、食べる」
「桃と間違うてるんか。らっきょうの汁を」
「そうかも」
「やっぱりアホや」

ぷ〜ん
「むひょひょ、甘酸っぱいいい香り。
 これはステキ・フルーツに違いないぜゲットだー」
ぷ〜ん
「むひょひょ、ナイス・ジュースの海〜。
 こまばえやってて良かった〜。
 さあ呑むぞ〜!」
ずぼ。
「ああ、甘い酸っぱい甘い酸っぱい、美味しい美味しい」
ずぼずぼずぼずぼ……
「ああ、幸せ。ああ、幸せ。おなかいっぱい」
……ちょぽん。
「もう飛べないよ〜……ぷくぷくぷく」
ち〜ん。

アホやけど、幸せそうですな。



7/9 ぎりぎりのところで

今日鉄心さんからメールが来て、いろいろ考えさせられました。
やはり、人間というのは最も広帯域ですので、
人と語らう(できれば面と向かって)以上の情報収集手段、
そして娯楽は、ありませんね。
友人、家族……FFの仲間でさえ、辞めると言ってた人が戻ってくると、
とてもとても嬉しいものです。

話は「力の抜き方」についてでした。
彼は本物の剣道家ですから、とことんまでやる。
体力の限界まで上手く引き出してくれる師を相手にやってると、
もう全く力が入らなくなる。
でも、その経験が、「力を抜きながらにして全力で掛かる」ようなコツを、
体得させるのではないか……

私もそう思います。
千本ノックの意義は、根性をつけるのではなくて、
千回の試行、純粋にその回数の多さ、
そして身体も頭脳ももう全く「意識的には」動かない、
それでも、「やる」。
そこで、身体が脳が、本能的に自発的にどう動くか。
長距離歩行の行などを観察すると、最後は最高の効率で無駄なく動けてるらしいです。
無駄な手の振りとか余計な体重移動とか一切無しで、
淡々とシェルパのように歩を進める。
歩みは確かに健脚よりも遅いかも知れませんが、
「歩まねばならない」時に、パフォーマンスは問うて居られません。
そして、現実社会では、パフォーマンス、結果よりも、
「歩いていること」そのものが問われるシチュエーションが多いです。
努力目標とか、誠実さのアピールとかではなくて、
例えば眼前に危機が迫ってる。
「いやちょっと待って今万全じゃないから」
そんなヤツはなんぼ普段力があっても、糞の役にも立ちませんわね。
「よしわかったなにすればいいの、できることならなんでも!」
小さくともその力が集まってこそ、危機が打開されるわけです。

で、その、ギリギリのところで
「とにかく動く」
というのは、そういう経験をいくつかしてないと、なかなか出来なかったりもします。
生得的に出来る人や、最初のピンチで最大の働きの出来る人も居ますが、
まあやっとくにこしたことはなくて、
そういう小さなギリギリをいくつか体験させてあげるのも、
教育特に学校教育の大切なところなのかもしれません。
テストとか林間学校とか文化祭とか、そういうプチなものだと思うのですが、いかが。

というより私自身が毎年の文化祭で常にギリギリでして……
その時の経験は今もとても重宝しています。
結構辛いことでも、「あれにくらべりゃ、まだ」とか思えますしね。

そしてそのギリギリは、要るものと要らないものを、
実に巧く、しかも自動的に、取捨選択してくれます。
TVなんか1秒も観る暇ありませんよそんな時期。
散髪も行けないので、しょうがないから遅刻して朝行ってから学校行きました。
まっ、不良!
それが、「力を抜く」ことのもう一つの側面。
「力の集中」ですな。
基礎力100あって、状態としては20しか出せなくても、
その20を全て出せば、20のことが出来る。
今ダメだからダメですー、言うてては、0です。
で、「全て出せる」ということを体得していると、
100の充実時にその100を出せる。偶然とか、そういうものに頼らなくても。

ということで、私も千本ノックのように20KBライトをやっておるのですが、
厳しいッス!(泣)
でもまた、そうした厳しい環境が、新しい何かを生んでくれる可能性も、あります。
表現などは特に、「ズレ」を求めるモノですから、
クリーンルームみたいな理想の環境で全力投球、
それももちろん素敵なことなのですが、
母にお使いを頼まれネコがキーボードを横切り公明党の選挙カーが雄叫びを上げ
クーラーのフィルターが詰まってる、そんな「おかしな」環境こそ、
巧まざる何か、を生み出してくれるような気もします。
幅、やわらかさ、天然、ズレ、歪み、だいじなもの「だけ」。
茶道のお茶碗、あんなガラクタみたいなものがしかし、
見れば「う〜む」と思っちゃう、そんな感性はここから来てるように思います。
日本人は、これが得意ですね。

そしてそういう、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃぬるぬるとしたものの一番のものは、
やはり人間で、肩肘張らずしかし大切にしたいもの、です。

「追い込む!」とかそういうストイックな感じじゃなくて、
「眠いよ、もう目が開かないよ〜」と、FFのレベル上げみたいに(笑)、
ぎりぎりいっぱい。
そんなのがいいように思うのです。

「死ぬまでやる」のを、毎日やる。
それが、生きるってことかもしれませんなあ。



7/8 あつい。

わたし最近自分がアホやと思うことが多いのですが、今日もひとつ。

野球帽って、ツバが長いから眩しくなくていいですね!

知らなかったです……

---

クーラー大好きッ子だったのですが、最近寄る年波か、だんだん嫌いになってきました。
いや、温度低いのは構わないんですけど、
どうやら風が苦手。
で、クーラーってのは大抵冷風をゴオゴオと吹き出している。
喫茶店ファミレスなどでもこの季節は天井見上げないと、
吹き出し口近くは長居できません。
風が苦手なので、扇風機もダメです。
掛ける時は首振りにして、連続で当たらないように。
そうするとこれがぜんぜん涼しくない。

困った。

逆転の発想で、オイルクーラーのように、その機械の周辺だけをめちゃめちゃに冷やして、
「ひんやり」が上から降ってくるようなものはないでしょうか。
スーパーの陳列棚みたいな感じで。
無風局所クーラー。
スタンドライトみたいにアームで机上をくねくねと動いて、
欲しい時だけキュッと向けれたりすると、嬉しいです。
いやむしろ床暖房の対になるわけだから、
冷天井
とでも言うべきシステムを作りつけで……
それは業務用クーラーや。

もうお金持ちになって軽井沢にでも避暑に出かけるしかありませんな。
そろそろ日本も7月中旬〜9月中旬の8週間はバカンスにしましょうよう。
観光とかステイとして楽しむのではなく、ただただ避暑。
ならばこのインターネット時代、なんの特徴もない寒村で充分で、
コンビニも一軒2ヶ月だけ限定で開くとか。
ボロ屋、3DKクラス2ヶ月で10万。
そこで利益あげるんじゃなくて、村がパーッと盛り上がる効果が大事で……
夏祭りつき花火つきでね。
こじんまり。
ほら、一家揃って蜘蛛・ムカデ・蛾、嫌と言うほど自然に親しめるし。

……というのは、あくまでその期間がクリーンになってないと現実問題難しいですね。
だものでもう、その8週間は休みですよ、と。
都会に残る人も、ついてるクーラーが減り排ガスが減れば、だいぶ楽になるかも。

ま、希望にすぎませぬが、
以前「こち亀」で両さんが、
「夏は日本中アロハを制服にするべきだ!」
と主張してて、うなずきました。
もうその2ヶ月ぐらいはスーツ止めましょうよ。
別に民族衣装でもなんでもないんだから。
僕もさんざんやってましたから嫌というほど思いしってますけど、あれ、
「死ぬほど暑い」という客観判断に基づく自律行動が取れてないという意味で、
「バカ」みたいですよ。
ほんでペットボトル抱えて球汗噴き出してそれハンカチべとべとにして
センスで仰いで、ネクタイ締めてるの。
冷静に見りゃ首長族より奇習ですよ。
日本にUFOが来ないのは、宇宙から観察してて理解できないからじゃないですか?

夏はできるだけ楽しましょ、楽。
人間にはどうにもできないんだから。

---

すっかり沸いた頭でテキトーなことを、溶けかけた練乳宇治金時のように
ぐちゃぐちゃと。



7/7 Moving On

ながたさんリニューアル、4か月目のコンセプトが決まりました。
「知行合一」。

いや、中学の教科書で陽明学でイモで平八郎で打ち壊して、というのを習った時には、
「なるほど、知識と行動を一致させることやな」
とわかった気になっていたのですが、なにもわかっとりゃしませんでした。
もうちっと奥が深い。

しかし説明はしにくい。

頑張って言語化してみますと、
結局なんでもそうですが、「やる」、行動しないと、アウトプット出ないわけです。
一ミリも。
しかし、やるだけではダメだというのも、みなさまご存じの通りで、
その根幹にはしっかりとしたコンセプトなり、ビジョンなりが必要です。
でないと、ただ暴れ回ってるのと、程度の差こそあれ、そして社会的インパクトとして
イイワルイの評価が下ろうとも、同じなんです。子供と同じ。
しかししかし、そうやって己を縛りますと、これがまた大変な茨の道です。
また大変なだけでなく、状況は時々刻々変化します。
ある日素晴らしかったコンセプトがシステムが、
次の日には地球を滅ぼす悪になる。
極端に言うと。
蒸気機関車の技術とか。VHSの技術なんてついこないだの話ですよ、でももう要らない。
もちろん、時の流れと共に要らなくなったからといって、本質的に要らなかった、
そんなことはありません。
ただこだわると、今大切なものが見えなくなる。

それは、行動してる、やってると感触としてわかるわけです。
やってないから、わからなくなる。
米国帰りのM澤先輩と話してて、やっぱりスケールがまったく違って、
「ようそんな国と喧嘩しようと思ったな」
「いや、やっぱり実感としてわかってなかってんで。この目で見てないねん」
目で見ればすぐわかる、一度触ればすぐわかる、
でもそれをやらずに判断を下すこと、この罠が現代社会ではとても多いです。

やっぱり、やらんと。
やりながら考えんと。
やってることに根拠のある、考えでないと。
また、やれるような、考えでないと。

で、やるうちにフィードバック掛けて、行動→知識で、
軸となってる頭脳、考え方、感じ方、コンセプト、方向性、
それを修正していく。
そしてまたそれに基づいて知識→行動で、より良くより強く早く気高く美しく、
やる、わけですな。

うわ〜ん、またあたりまえのことゆうてる〜。

これは無理に二分して言ってるのですが、
本当に「達する」というのは、この両者が不可分であり、
一体となってるわけです。
動けばすなわち知が増え、知を増せばすなわち動く。

しばらく前まで、インプットアウトプットを割と峻別して考えておりました。
そうじゃない、
一番強力なインプットは自分のアウトプットです。
また、即アウトプットにならないようなインプットは、あまり重要ではない。
行動に移せないようななにか、ね。

「こういう感じで行こう」「こうあらねばならない」
それも大切なのですが、それであまりに身を縛る、それは避けねばなりません。
しかしもちろん逆に、ぐでぐでになりすぎても、
結局言うてるだけでなにをしてるんですか、ってことになるので、
それも良くない。

結局、行動自体で己を磨き、己を磨くこと自体が行動になる。
それがベストベストなわけです。
で、自分にあったフィールド・やり方で、これを目指す。
「ああ、さすがあの人はああ言ってるだけあって、ああするんだな」
言葉の迫力はここからしか出ない。
また、行動の迫力もここからしか出ない。

「貧者の一灯」、あれはこの取り組む姿勢の強さ弱さが問題であって、
寄進者が富めるか貧しいか、それは問題ではない。

言ってることがやってることになり、
やってることが言ってることになる。
そう、働くお父さんの後ろ姿みたいなものです。

どっちを重んずる軽んずるではなくて、
想いのままに行動することが、生きることになっている。
それが理想……
で、まあ、なかなかそうはいかないんですけどね。
気分としてはそんな感じ、
それをば「知行合一」というのではないでしょうか。

言うたことはやる。
やれることしか言わない。

---

いきなり地べたに個人的に「では、どうするか」って話を
落合の三冠王のようにしておきますと、
「20KB/日」
を目標に手を動かしたい、です。

僕の最速は50KB/日、500KB/月なんです。
だもので20KBっていうのは興がのれば割と簡単な数字なんですけど、
月最速を見ておわかりのように、それが毎日、っていうのはなかなか無理なんです。
ある日35KB進んで、次の日はゼロ、そんなものです。
だもので、これを一月続ければ、月最速すら出る。

もちろん作成スピードになどなんの意味もありませんが、
「どんだけやったか」という自分目安には結局のところこれかなあ、と思い、
設定してみます。
さて、どれほど突っ張れますやら。

---

行動自体が考え、考え自体が行動、になってますと、
悩みや苦しみからも、かなり解放されるような気もします。
気もしますというより、皆様もご経験あると思いますが、
なにかでベラボウに忙しくて頑張ってる時って、寝る前に
「あ〜も〜ど〜にでもなれ〜」
って寝ますよね。
あんな毎日を送れれば、これほど幸せなことはない。
また言えば開き直り。
「俺はこんだけやってんだ!これ以上出んものは出んッ!」
吼えますよね、そういう時って。
吼えずに愚痴愚痴悩んじゃう場合、やっぱりほんのちょっぴりでも、
後ろ暗いことがあるように思います。

---

「それって要するに『がむしゃらにやる』ってこと?」
と訊かれますと、
「形としてはそうです」
と答えるしか無いのですが、気分が、その言葉が表すものとはだいぶ違うんです。
頑張れ頑張れ言うて頑張れるなら、誰だってもっとエライ人になってますよね。
ではなぜ頑張れないか。
しんどいからです。

そう、ここ。

ここをひっくり返して、
「頑張ることはなんにせよ、とても楽しい」
にできれば、なんぼでも頑張れるわけです。
楽しいから。
疲れ果てて寝るまで頑張れる。

理論的には、こんな感じです。
ただ、それを具体化するためには、「ひっくり返す」ためには、
ホントにギリギリまで没入できる「何か」を見つけるとか、
そういう下ごしらえが必要ではある、と思います。
(また見つけてもそこからがベラボウに大変なのですが、
 それは「ほえなが」を最初からずーっと読んでみてください(笑))
ただ、見つからないなら「見つけること」を頑張ってみるという手もあり、
見つからなくても生きていくこと自体を頑張るのはとてもとても尊いことであり、
それで充分なようにも、思います。

結局、ハートに火をつけるのは自分で、
走り出してみると身体もあったまって、火もつきますよ。
そういうおはなしです。

---

蛇足をダラダラ続けます。

結局のところ、要素分解を繰り返し、論理立てて細かく分析検討し、
理論を構築し目標を立てシステムを作りそれを動かしてみても、
簡単に破綻するのです。
大自然は驚異でね。
するってえと、もうそういうの一切抜きで、
ていやー
っていうのと、どれほど効率に差があるねん、と。
今この現代社会では、ひょっとすると、
「ていやー」の方が高効率なんです。

現代社会は特にネット社会は、非常に「脳化」が進んでます。
いや、だから言いたいことはわかるんだけど、あんた一体なにしてんのん、と。

……いててててて……

著作権とかデリケートな話題で無意味な議論が起きますと、
ものすごい難しい単語と論理が飛び交い合うんですけど、
そんなこと言ってたってコピーする人は減りませんし、する人はしますし、
例えば日本で撲滅できても香港台湾あたりからジャカスカ入ってきますし、
「とはなんぞや」なんて論議はイヌも喰わなくて、
要するに、
レコード屋さんはCCCDで一枚でも守りたいし、
聞き手はコピーさせろやアホが!ですし、
ただ力の綱引きがそこにあるだけです。
「もうええ」という客が多くなればレコード屋さんもいつまでもそんなことできないでしょうし、
それでも聞きたいというお客が多ければCCCDばっかりになる、
それだけのことです。
理屈は、理論は、理想は、
なんの意味もない。
ただ、現実にあとからこちょこちょくっつけてるだけです。

SONYがHDDオーディオを出したのですが、これが
ハードウェア的には非常に魅力的ながら、mp3が聴けずATRAC3オンリーという仕様。
これを指して「糞が」というのは簡単ですが、
「それでもいい」という客が多ければ売れ、
「やっぱmp3聴けなきゃ」という客が多ければ売れない、
ただそれだけのことなんです。
SONYはもちろん、前者だと思うもしくは前者を多くする、という意志を持って勝負を掛け、
勝つか負けるかはまさに神のみぞ知る、
結果、つまり現実に対して、つねに選手は非力に過ぎます。
せいぜい、目一杯頑張るだけで。

それが、「ていやー」。
失敗したら、「わはは、ミスったー」って、また次「ていやー」。
それがいっちゃん、早くて結果がいいような気が、してしょうがないんです。
脳化が進みすぎて、やる前に考えすぎて、
肝心の「やる」ことへのエネルギーが随分削がれてる。
それは本末転倒のはずです。
なんといっても、「うまくやる」ために、考え始めたはずなのに。

システムを作ると、管理コスト掛かります。
効率は、管理コストまで計算に入れて組まなければなりません。
そこを丁寧に検討すると、実は効率悪そうな、前近代的なやり方が、
効率高いことも往々にしてあります。
お片づけの最高効率は「使ったらすぐ直す」。
ノーシステムがシステムになってる。
ええ、言い過ぎだと思います、たぶん、「最適解」っていうのは、いつもちゃんとある。
ただ、そんな難しいところには、たぶん無い。
だって人間だものー。
やるのも人間、相手も人間です。
そして人間は、そんな大層なものではない。
「原則は3つ」とか、やりすぎなぐらいシンプルでちょうどいい、
そんな気がします。

---

現代社会は、あまりにも「やらなければならないこと」が減ってしまってます。
それまでの長い人類の歴史に無かったほどに。
そのくせ、社会要求から自分の要求と違う面で「やらねばならないこと」が多くて、
これがストレスになる。
今日の晩ご飯の魚を釣りに行く、そんな時「鬱だ」などと言うてられませんが、
秋の親戚の七回忌におかんがつけていく真珠のネックレスを買うために
近鉄友の会の商品券をアベ近まで取りに行かねばならない、
それは死ぬほど鬱です。
ここ。
要るところはガツーンと頑張って、
要らないところはばっさり切る。
それが面倒なら、考える前に動く。
釣り竿持ってアベ近に行く。
稼ぐに追いつく貧乏無し、効率がどんなに悪くても、動けばゼロではありません。
動かなければ、ゼロです。

運動しなくて済む、それに安住しすぎると肥満や不調を呼ぶように、
「やる」ことがないと、心が健康ではないようです。

とりあえず、Moving on。

---

そんなこんなで、
「すいませんこれがめいっぱいッス!」
とニッタリ笑ってバッタリ倒れる、
そんな7月を目指します。

これが軌道に乗ると、次の展開が見えるような気がしまーす。



7/6 大展開

「a corpse of...」(FLASH)

けむさんのHPの日記で見て。
最初はよくあるMMORPGの愚痴FLASHかと思ったのですが、
途中からの大展開が大展開過ぎて大笑い。

笑いって、やっぱり「驚き」「ズレ」って要素がすごく大事ですね。
「なんでそれやねん!(笑)」と。
しかしそれだけを追い求めすぎると不条理系になっちゃったり、
楽屋オチになったりしますし、
さりとて手加減すると、つまり驚きが小さくズレが小さいと、笑いは起きない。
この辺が難しい。

このFLASH見て思ったのですが、
確かに展開直後は「なんでやねん!(笑)」ってツッコミ入れるんです。
でも、その後の流れは、「それ」であることが存分に活かされている。
たぶん、ここがポイント。
特にこのFLASHは出来がよくて、音楽に合わせて、それも主題歌の歌詞に合わせて
物語を展開していくので、カタルシスというか、「ノリ」が生じてるんです。
すると明らかな「無茶苦茶」が、割とその場に馴染んじゃう。
ズレてるのに、ノッてる。
これがめまいの感覚を起こして、精神の平衡感覚が崩れて、
嘔吐のようにして「笑い」が出る。

パロディ、というのは比較的容易に「ズレ」を「ノせる」ことができるので、
割と簡単に笑いが取れます。
しかし全部生からその「ズレ」を作るのは難しい。
だって人間個性ありますから、どうしても色は一色になりがちなのです。
ひとつ参考になるのは落語とか、ああいう「多人格を一人で演る」という芸でしょうか。
春団冶師匠といえばイカス男前、でも落語の中では、アホ役では徹底してアホ。
あんな感じで。

……と分析的になるよりも、
要するにこのFLASHは大展開部分の1ネタ、
つまり「大ズレ」を思いついた時点で勝ちで、
そういうのってなかなか出ないですよねえ、と。

---

この辺のアニメって、僕らみたいに子供の頃リアルタイムで観てて
もうすっかりうろ覚えになってる人間より、
今の子の方が「スパロボ」でよく知ってたりするのかもしれませんね。
思わずmp3リストから主題歌(男・イサオ先生)を探しました。
音楽の力は、強い。

webって、(同人もそうですが)非商用である限り、
いつもこういうムチャがやれる場であってほしい、ともチラリと。



7/5 おみごと (ユーロ2004決勝 ギリシャvsポルトガル)

決勝 ギリシャ 1-0 ポルトガル

ギリシャの得点:57分チャリステアス
(ギリシャ初優勝)


わっはっは、やってしまいました。
お見事!

もう解説もなにも要らないです、いつもと同じギリシャ・スタイル、
人でガッチリ掴まえて、ボール大事に繋いで我慢に我慢を重ねてチャンスを待って、
セットからドカン。
得点時間が後半早め、ポルトガルの途中投入ルイ・コスタが結構いいプレーを
見せたこともあって、「もしやここで限界が」とも思われましたが、
根性で弾き返しました。
1点取られてからのポルトガルの攻めが、ごり押し一辺倒だったのが
悔やまれるというかなんというか……
あれ、イタリアやフランスだともう少し変化つけられたかもしれません。
浮き足立っていたのはむしろポルトガルでした。
そして次第にデコ、C・ロナウドの脚が止まって、終わり。
切り札ヌーノ・ゴメス、ほとんど足元にボール貰えませんでした。

いや、お見事。

中堅国に非常な勇気を与えた快進撃で、当然、そこには日本も含まれます。
先のW杯までは、「いうても最後はブラジル」という結果が残ってましたが、
これからは違う。
「最後までギリシャ」
その実績を残したのは大きい。
92年にデンマークが優勝したのとはわけが違います、デンマークなら、
「確率低いけどありうる」
でしたけど、これは、
「ありえない」
ですからね。

ただまあ、ちょっと苦言を呈するなら、ギリシャには悪いんですけど、
正直見ててあんまり面白いサッカーではない。
先日のチャンピオンズ・リーグ決勝から思ってるんですけど、
「守って守ってセットから」
という風潮が広まりすぎると、サッカーそのものが危ない。
カウンターサッカー自体はいいと思うんですけど、別に見ててワクワクするような
カウンターでもなんでもないんです。
これではいかん。
やっぱり、これぐらいの国はどこかの強豪がベスト8ぐらいで
「控えおろう」とねじ伏せなきゃダメなんです。
それができないのは、いわゆる強豪の力が落ち、中堅国の力が上がってる、
それだけならいいのですが、ひょっとすると現行のルールの限界かも。
タッチラインからのキックインとか、攻撃有利になるなにかの手を
打たねばならないのかもしれません。

しかしもう少し幅広く考えると、
非常に古臭い戦い方なんですけど、あまりにも古臭いが故に新しい、というか、
要するに「めずらしい」から敵の対応が後手後手に回った、そんな気もします。
故きを温ねて新しきを知る、
よく言ったもので、どんな古いものにもなにかしらその中にある考え方の芯、
それを抽出してリフレッシュすれば、充分新しいものになる。
それをやったのが古い国ギリシャだ、というのもまた、素晴らしい。

ともかく、ルールは敵味方変わりないわけですから、
それに則って一番になった、その偉業の素晴らしさは1ミリも曇ることはありません。
くりかえしますが、いや、お見事でした。
ポルトガルも、もっとダメだと思ってましたがよく頑張りました。
こちらは充分に準優勝に相応しいチームでしたよ。

16ヵ国中、ラトヴィアの次ぐらいの超大穴が優勝してしまい、
ドラマとして非常に面白い大会でした。
「まさかそんなことはありえないだろう」が比較的起きる、
これがあるからサッカー観戦は止められません。

同じ青と白のユニフォームの中堅国、
ギリシャの監督が「王様」ならこちらは「神様」、
負けてられません。
とりあえずアテネで優勝でもしますか。



7/4 家を造る

お米の国に出張していたM澤先輩が帰ってきて、ちと電話。
「向こうのホームセンターすごいぞ! ドア売ってる、ドア」
どうやらあちらでは、「家」は買ったあと、
自分好みに「自分で」作り上げていくもののようです。
それこそが「Do It Yourself」、修理・改造だけではなく、もうちょっと積極的。

先日、御大の久宝寺基地へ行ったのですが、
御大のお住まいになるマンション、もう半分入居してないとか。
で、横のマンションも俯瞰で中身見えちゃうのですが、すごい歯が抜けてる。
初めて久宝寺基地に行ったのは確か22とか23、つまり10年前。
もちろんその頃は満室の勢いでしたよ、どちらも。
すごい勢いで、家やマンションが余ってきている。

ちょっと前から疑問に思ってたんです。
日本はすでに生産年齢人口が減少しているというのに、
全国どこでも、マンションがすごい勢いで建ってる。
都心に便利そうなヤツが、バブル期に比べれば隔世の感のお値段で。
もちろんそれでも高いんですが、大阪だと天王寺徒歩3分で手頃のサイズの新築3000万円台とか、まあ、物理的なコストから逆算するとそんなもんかも。
あの頃は地面が無茶苦茶だったから高かっただけで。
新しいの安く建つ、古いのは古びながらも残る、人数は増えない、
そりゃ、余りますわな。

#首都圏はあらゆる物事が完全に別物なので、地方都市の話。

大家さんにとっては死活問題、あるいは住み替える気力と経済力は無いけど、
家が古びてきた、そんな人もたくさんいる。
建築家や家のデザイナーのような専門家は当然、こうした事態に目をつけており、
「ビフォーアフター」のように「同じものは殻だけ」という大リフォームの提案が
流行ってるみたいです。

基本的には、ちょっと古い日本式一戸建て/マンションの悪癖の「小さい部屋がいっぱいある」というのを、ぶちぬきぶちぬきして、それこそ玄関も取っ払って壁抜いて、いわばホテルみたいな内装にして実寸を稼ぐ。
壁も剥いで打ちっぱなしみたいにしておしゃれに、天井も取っちゃって配管剥き出しだけど、逆にそれがかっこ良くて解放感。
写真見ると、「おお」って今風の(当たり前ですけど)カッコイイ内装ですよ。
で、背に腹ですから、入居もSOHOとかもOKにしていくわけですね。
こうなると、価格競争力出るわけです。
同じ築25年でも、部屋見せた時のインパクトが違う。

ただ、コストはやっぱり、そこそこ掛かる。
中クラスのマンションで、600万からとか。ちょっと凝ると800万1000万。
さて、それを分譲にしろ賃貸にしろ、負担できるかどうか、そこがポイントですな。
「いい建物」っていうのは径時耐久力がありますから、築30年でも40年でも、
直せば住み心地が上がるものです。
でも、抜本的にダメな建物は、もうどうしようもない。
ちょうど気になり出す15年前ぐらい、そうバブル期、っていうのはホントに罪な時代で、
おそらくとんでもなく贅沢なヤツもある代わりに、びっくりするほどボロボロのヤツもある。
「なんとなく住み心地悪いー」
ってな建物にお金掛けたくないのは誰しも同じ、
明暗がそろそろ分かれてくるのかもしれません。

高度経済成長期はとにかく都心で物理的に数が足りませんでしたし、
バブル期は主に高額品(高級品とは言いにくいのが切ないところ)がまた多量に作られましたし、
しかし高齢化進んでお年寄りの独居もしくはご夫婦だと、2DKでも大きすぎる。大きいほどメンテ大変ですからね。労力もコストでも。
そしてゴミと環境の問題から、「壊すのも大コストが」なんてことも。
放っておくとスラム化しますからね、それもできない。
「家あまり」で困る、なんて僕らが子供の頃には考えられなかった事態が、
すぐそこまで来てるのかも知れません。

そんな時よかろうことが、こうしたDIY精神とそれにフィットした各種ビジネスで、
上手く直す・効率よく直す・ヴァージョンアップする、そんな勢いで
「ハイテク長屋」「デザイナーズ長屋」みたいな小さな家が、ウケたりして。

あの、私は当たる商品創ったこと無いので、偉そうなことは言えませんが(泣)

あるいは二極分化かなあ。
一戸建てでもマンションでも100年ものの贅沢品と、
もう最初っから25年目標で「壊す」ことを前提にした(ここ重要)
紙でできてるような超安物。
筆記用具と同じです、モンブランの万年筆0.01%、あとは水性ボールペン一択、
あんな感じで。

関東大震災の直後に日本に支援に来てくれた外国の方が言ってたセリフだと記憶するのですが、焼け野原から日本人が立ち直る様を、
「彼らは紙と木で瞬く間に家を作る。驚異だ」
だから紙で出来てるからって、別に悪いわけではなくて。

我が家も建てた時期が悪く(和洋折衷ブーム)小間取りが多い割に密閉性が無く、
非常に居住効率の悪い変な家なのですがしかし、
基幹部分が鉄筋でできてるだけあってやたら頑丈、
もう築50年に近いというのに、基本は揺るぎません。
だからかなんとなく、いやそんな予定もお金も全然無いのですが、
「あそこをこうしてここをこうすれば住みよくなるよな」
なんてことを考えてみたりもします。
こないだ風呂を作り替えて愕然とQOL(笑)が上がったのも効いてます。

なんやかんやで、まあ要するに、
「金出して買う」
ばかりが楽しみではない、ということで。



7/3 わっはっは (ユーロ2004 準決勝 ギリシャvsチェコ)

準決勝: ギリシャ 1-0 チェコ (延長前半シルバーゴール)

ギリシャの得点:105分デッラス


ノリとしては。
日本がWユースで準優勝した時に似てます。
あの時も、ウルグアイもメキシコもポルトガルも、
「まさか日本には」というノリで挑み、
「あ」と思ってるうちに先制点を挙げられ、
それをガチガチに守られてるうちに、
「こんなはずではこんなはずでは」と焦りが雑なプレーを生み、
結果守りきられて、負けてました。

フランスの敗退を見てかチェコ、前半前半からカッ飛ばして、
「とにかくなんでもいいから先制点をもぎ取る」
ギリシャが前に出てこざるを得ない状況を作ろうと目論んでましたが……
失敗。
結果論ですが、ここでの飛ばしすぎが後半後半に脚が止まるという事態を呼び、
時間が経てば経つほどに
「これ、ギリシャペースじゃん」
と世界中の人が思う。
もちろん、ピッチの選手達も監督も。
チェコも守備悪くは無かったですが、セット(最後はCKから)はもう、
しょうがないですからね。

うーん。
そういう精神面での優位劣位以外、説明のつけようがない。

チェコ、Wユースで日本と戦った国のように、決してギリシャを舐めてたわけではなく、
むしろ真剣に倒さんがために、最初から飛ばしたわけです。
攻めもそう悪くはない。
大きい展開があまり無かったのが気がかりですが、それは今大会どこもですからね。
ネドヴェドの離脱は確かに痛かったのですが、彼一人居ないからといって
崩れるようなチームでもない。
ギリシャの守備も確かに固いのですが、あれぐらいの守備ならやろうと思えば
どこでもできるはずで、カウンターといってもそう滅茶苦茶なキレがあるわけでも
ボール持つと即ヤバイタレントが居るわけでも……

守備も古臭いというか、基本人人で、コーラー(電柱FW)とか、
かなり下がってもついていくんです。
あんなもん電柱ですから、下がったら意味がないわけで捨てればいいのに、ついてく。
そしてディフェンシングゾーン決めて、そこへ侵入すると、
ワラワラワラワラってブルーの人壁、いや人塊を作って、弾き返す。
ひとりひとりがゾーンで受け渡しするんじゃなくて、
人掴まえてとことんついていって、そのDFが抜けた穴を誰かが「絶対に」埋める。
アタックに絶対に人手掛けない。
獲られたらすっぱり諦めて、また人塊。
それをずーっと90分やるんです。
糠に釘とはこのことか。

まあ、お見事と言えばお見事、
「格上はこう倒す」
という見本のような戦い方を、こう精密に何試合もできれば、
それはもう賞賛に値します。
なんていうんでしょう、弱者に勇気を与えるチームです。
見てて楽しいのはプレーじゃなくて、強者が弱者に徐々に追い詰められていく様。
その意外性。

決勝も、同じことが起きるかも知れません。

ここ数年強く思っているのですが。
表現作品に対して「荒唐無稽」などという評価を簡単に下す人が居ますが、
そういう人は911とかこの決勝とかに現出されるドラマをどう表現するのでしょう。
これこそ荒唐無稽以外の何物でもないですよ。

開催国・華麗なるポルトガルに挑む負け犬ギリシャ、
敵将は前回W杯優勝ブラジルを率いた世界の名将フェリペ磐田、
対するは2部のチームを1部に上げた翌年ついでに優勝までかっさらった「キング」オットー、
しかも両者は開幕でぶつかってギリシャが勝つアップセット。
復讐込み、ポルトガルにとってはこれ以上ない勝利の女神への生け贄、
しかしギリシャにとってももちろん、最高の相手。
満場の後押しを受ける開催国を、その観客ごと地獄へ叩き堕として
我こそがオリュンポスの神々だと世界中に吼えて見せるのか。

ポルトガル、妙に張り切って前半飛ばしすぎると、チェコの二の舞の怖れ。
あのフォーメーション、4-2-3-1系は「3」、特に真ん中トップ下に
非常なストレスのかかる陣形で、ここまで酷使されてきた3人、
デコ、フィーゴ、C・ロナウドのパフォーマンスが気がかりです。

しかしギリシャも、人掴まえにこだわりすぎると、ポルトガル人の個人技に振り回される。
2点獲られれば返す力は無いので、個人技もしくは事故による1点以内に抑え切れるか、
どうか。

0-0で煮詰まりきった後半終了間際、デコに替えてルイ・コスタ、
個人技で一点、終わり、
ってのがドラマとしては一番目に優しいのですが、
筋書きが狂わされっぱなしの今大会、それこそが一番起こりえなさそうな気も。

試合のクオリティは別にして、ドラマとしては今回かなり面白いです。
「どっちもがんばれ」なんて小学生みたいな言葉が浮かんじゃう。
これこそがスポーツですなあ。

決勝は5日早朝、ヨレヨレ同士でゲームとしてはあまり面白くないかも知れませんが、
どっちが勝っても、一応、歴史的な試合です。



7/2 『釣り(ぴー)三平』

「言葉狩り」などという物騒な言葉がありますが、私ももちろん反対です。
いやなに、表現の自由とかヤヤコシイこと言わなくても、要するにメンドクサイ。

どんな言葉も使いようで蔑称になりますし、
どんな言葉も使われようで手垢が付いて汚れる。

そして、縛れば縛るほど、社会に陰影がつくのです。
その陰が濃いほど、陰を喜ぶ薄暗い気持ちと人間が、そこに巣くう。
管理すればするほど、膨大な管理コストがどんどん掛かります。
自分で自分を縛って、もっとぶってもっとぶって。
我々は変態ですか。
それはあまり否定できないんですが、ともかくそんな無駄なコスト払うの、
イヤです。

韓国では少し前まで、日本から輸入された日本文化物(マンガとかアニメとか)を
自己検閲通して、削ったり歪めたりしていたそうですが、(今でもそうなのかな)
こっちから見てりゃアホみたいな話でしょ?
でも、おんなじことやってるんですって。
いや、目的が無いだけもっと無意味で、もっとアホ。

頭の不自由な方をまとめて表す便利ワード「キチガイ」もダメらしいですね。
それはまあ、3万歩ぐらい下がって譲るにしても、
熱烈なタイガースファンを「トラキチ」と表現することさえ
否定するのはいかがなものでしょう。
もうトマト煮込まれてケチャップになってるじゃないですか。別モノです。

そんなこと言うてたら矢口高雄先生の名作、
「釣りキチ三平」
も名称変更せなあかん。

「釣りマニア三平」ですか? 「釣りオタク三平」ですか?
それともより正確に
「釣り統合失調症三平」とでも?

個人的にはあるゲーム・ディレクターのポロリと漏らした
「釣りフェチ三平」
が気に入ってますが。

茹だるような日々が続きます。
釣りフェチのように、山中の渓流でヤマメでも釣って直火で焼いて
貪り喰いたいところですな。スーパードライ片手に。



7/1 どの人が、より自分を活かしてくれそうか

ごくごくあたりまえのことですが、システムというのは人を活かすためにあります。
したがって「優秀なシステム」というのは、人的要素、ヒューマン・ファクター抜きには語れません。理論上のピークパフォーマンスばかり考えても仕方が無いのです。
大変な名君であれば絶対専制君主制が最もよい治世でしょう。
一見よいシステムに見える共産主義がまったく成り立たなかった理由は、ヒューマン・ファクターの完全な無視(もしくはあまりの抽象化)ただそれ一点です。

トルシエ3-5-2のシステムとしての利点は、戦闘力以外にこそあり、何度か書いてますが
・サイドバック系の選手を「まったく」必要としない。
 左右のSBは大抵取り替えが効かないので、サブも含めると少ない選手枠のうち4つ(20%弱!)を他のポジションに割り当てることができる。
・余るほどいる中盤のタレントを存分に活用できる。
 右・左のアウトサイド(小野、明神、俊輔、酒井、望月)にも使われれば、CB(中田浩、服部)でも使われることもあり、また1トップ+2トップ下という組み合わせまで含めると、最大で
2-7-1の割合にもなり、手薄(だった)FW、DFで無理に選手を選ぶ必要がない。
結局俊輔が落選して話題になりましたが、あれがオーソドックスな4-4-2指向の監督であれば、まず福西や明神を用意する贅沢は許されないでしょうし、それこそ虫垂炎のシンジなども落とされる候補に挙がり、結果として決勝トーナメントに出れたかどうかもわかったものではありません。

システムの優劣を論ずるならば、そこを含めてやらねばなりません。
それが本当に手持ちの人的資産を活かせるシステムなのか、どうか。
トルシエ3-5-2は(たぶんたまたま)日本のあの時点の人的資産を非常に上手く活かせたシステムだった、だからこそ結果として成功もしましたし、「いい」システムだった、と評価を下してもよいと思います。

しかし、時の変化状況の変化と共に、人的資産は変質していきます。
トルシエ3-5-2もいつまでも日本代表にフィットするとは限らないように、どんなシステムでも人の変化に合わなくなっていくものです。
ところが、その変化に対応できるような余裕を残しておく、軟性のシステムは、システムとしての力が薄いことが多い。
逆にある状況に強烈にハマるシステムは、状況が変われば逆に害毒にさえなる。しかもそれに、「これで勝った」という過去の栄光までがまた変革へのブレーキになる。
ここが難しい。

ベルカンプが居ない、すなわち4-2-1-3の「1」が居ないにもかかわらず、まだそれにしがみつくオランダ代表などが好例です。
「小さい頃から強化方針が4-2-1-3だから……」とよく言われますが、スター選手達はよその国よそのチームで3-5-2でも4-4-2でもやってるわけで、言い訳に過ぎません。
あれは、監督(とそれを後ろ盾する協会)の手腕です。

かように合理性の国・オランダでさえそうなのですから、まして東洋の極みの果ての島国・日本では「システム」自体の優劣を論じるのは非常に難しい。
論じること自体に慣れてませんし、視界の狭さと低さはまだまだいかんともしがたい。
しかし「非常に難しい」言うててもしょうがないですから、その場その場で、今どんな資産があって、それを上手く活かせるシステムはどういうものか、常に模索し続けるほかはない。
目の前で問題は次々に発生してるわけで、ボンヤリ見つめるぐらいならたとえバケツリレーでもした方がマシ。
転がしながら、変えていく勇気と、変えずに我慢する忍耐を、共に持たねばならない。
小綺麗にまとめるとそういう言い方になりますが、とにかく、
「今これでOK!?」というのを常に冷静に真剣にチェックする、ってこってすな。

もう少し膨らませて言えば、
「資産」は人に限りませんが、結局人さえ活躍すれば、知恵と情熱はおおよそ全ての他の要因をひっくり返せますので、とりあえず人。
つまり、その時々に応じた、
「人の活きるシステム」を考え・構築してくれるのが、
政治ってヤツではないかな、と思うのです。

今月は、参院選。

無力感なんて味わってる場合じゃないですよ、投票率ベラボウに低いんだから、
みんなで・行って・逆に入れりゃ・100%・勝つ
んだから。こんな行き甲斐のある選挙ありますか。

最近、試されているのは他でもない、自分だ、とよく思います。




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