■ ほえなが ■

とりあえずいくぞ〜!

 9/30 9月決算

本日は9/1から9/30までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)


■本■

 「街道をゆく」40 「台湾紀行」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

 「街道をゆく」41 「北のまほろば」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

 「街道をゆく」42 「三浦半島記」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

 「街道をゆく」43 「濃尾参州記」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

 「司馬遼太郎全講演[2]」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

 「司馬遼太郎全講演[3]」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

 「司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」」 朝日新聞社編 (朝日文庫)

 「司馬遼太郎からの手紙[上]」 週刊朝日編集部編 (朝日文庫)

 「司馬遼太郎からの手紙[下]」 週刊朝日編集部編 (朝日文庫)

 「ふるさとの生活」 宮本常一 (講談社学術文庫)

 「「いい人」をやめると楽になる」 曽野綾子 (祥伝社黄金文庫)

 「井上ひさし と141人の仲間たち の作文教室」 井上ひさし他 (新潮文庫)

 「自動車アーカイヴ vol.11 80年代の日本車編」 別冊CG (二玄社)

□CD□

 「荒ぶる日本の魂たち」 グループ魂

 「竹内力」 グループ魂

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今月はしば漬け。
DVDで大作映画を観た後、映像特典を楽しむように。
でもやっぱり、本編が一番おもしろいですな。
街道については先日まとめましたのでそちらで。
講演集も面白いのですが、年代順なので似たテーマが2つずつぐらい並んでしまい、
それがちょっとくどいかな。

常一先生は相変わらず面白い。
これ、このまま学校の副読本で使える勢いです。
印象的だったのは、私のような現代の都市生活者は、近代の日本人を
「幕府のお達しに従ってエエ加減に寺と結びついた仏教徒」
なんて思いこんでたのですが、さにあらず。
八百万の古神道に、仏教要素も含めた、「雑神道」とでも言うべき信仰心が、
人々の生活を支えていたようです。
(ちょうどバラモン教+仏教=ヒンドゥー教が今のインドを覆うように)
もちろん檀家制でどこかの寺に所属し、葬式もあげてもらうのですが、
でも日々は小さな祠にお参りし、ムラのお祭りは神事がベース。

自分の力の届かないもの、自然なり運命なりに、
謙虚な気持ち、畏敬の気持ちを持つのは人間の本質的姿勢のようです。
そしてそれは、人造新造ででっち上げられたシステムではカヴァーしきれない。
大昔からそこにある、苔むした石の祠一つの方がよほど効く。

こういう理屈抜きの「水分」みたいなものが現代生活には不足してます。
あまりに乾きすぎると、最悪はカルト、そこまで行かずとも
モノ・サーヴィス狂いのようなところで、そうした信仰心を満足させてしまう恐れがある。

どこで補うかは人それぞれ、毎朝神棚に手を合わせましょうとも言えませんが、
どこかで補う必要は、ありそうです。

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9月は(主に自分の)認識・表現システムについて理解が進んだのが一番の収穫です。
合理的に、ありのままの把握と表現が必要な場面がある。
また、詩でなければ、イメージで気持ちで伝えなければならない場面もある。
(これは割合の問題で、シームレスだと思うのですが、
 二極化して考えるとわかりやすい気がするのが、すでに合理性寄りの証拠)
いわばストレートとフォークで、どちらもがどちらもを補完します。
直球でごり押しされると人は疲れますし、
フォークばかりもだんだん腹立ってきますね。

「長嶋監督・魂の『3』が見守っています!」というのがフォークで、
「指揮官不在じゃ難戦は勝てねえな」というのがストレートです。

どちらも大切なんですけど、特に日本人はお酒に弱い。
世の中酒精分一杯で、私なぞリヴァース寸前です。
もう少し「そのまま」、リアル寄りでもいいかもしれません。

一例挙げるとプロ野球の球団経営とか、
7割が選手年俸で「経営が成り立たない」と言う。
こんな阿呆な話ないですよね。
NOMOクラブでプレーしてるような、プロ野球選手になれるならお金払ってもいい、
そういう選手掴まえてプレーさせれば成り立つじゃないですか。
それは極論ですけど、入りのmaxが決まってるならコスト切るしかない、
そんなもの学園祭で喫茶店やる高校生でも知ってる。
そりゃベンチャー両社長も自信満々で乗り込んできますよ。
あまりにもリアリティがなさすぎる。

こんな話は酒飲んでクダ巻いてればいいのですが、
世界に打って出ると、やっぱり共通して使われている認識方式は
「リアルをリアルで」なのです。
ビジネスでもサイエンスでも戦争でも。
英語が共通語になってるのと同じで、
アルコール分の部分は国や民族によって違うから、
誰もが理解し使える、「合理判断」で物事を進めるわけですね。
スジミチダテテ。

だから、せめて使い分け。
この場面ではこれ、お葬式では黒スーツ、という訓練を、
国民みんなでやっていかないといかんのかなあ、と思います。
酔っぱらってグデグデになっていいのは、お坊さんのお経が終わってから、でね。
混ぜるなキケン。
勝つなら監督を用意する。
長嶋監督が大事なら、勝敗は一切言わない。

世の中ねえ、そんな甘いもんや無いです。
どっちかでないと通用しない。

仕事でも人間関係でも、なんでもそうだと思います。
僕の個人的な問題でいうと、
文章書く時に、
ここは事物をリアルを積み上げるところなのか、
ここはポエジーで押せばいいところなのか、
そこをハッキリさせる。
事実が要る時に描けないからと印象で誤魔化すと、ふにゃふにゃになります。
徹底してこれでもかとリアルを積み上げる。
気持ち書く時に書けないから事象並べて想像してくれ、それでは味わいが足りない。
「君が好きだ」と全身で吼えるわけですな。
もうちょっと言い換えると、

嘘をつく時は全力でつく。
必要のない事実もある。

繰り返しになりますが、どっちも大事です。
いろんな場面で、この配球を磨きたい。
臨機応変、みんな楽しく。
10月の目標はそんなところで。

ようやくエンジンが掛かってきました。
秋は大好きです。



 9/29 絵っ!?

【しあわせとは】

アテネ五輪野球観戦。

okb 「……このコーチ陣で良識派は大野だけか……」
たーこ 「せやけど大野は広島のピッチングコーチ、1年でクビになったよ」

そんなリビング。

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似た話ばかりで恐縮ですが。

一昨日、自分に向いてる散文のスタイルに気づきました。
事物をまるまま切り出してドンと置く。
つらつらそれを考えてみますと、
結局、自分の世界の「認識のしかた」と、「その表現」が全部そうだと気づいたんです。
枝葉飛ばして、できるだけ本質をギュッと凝縮して掴み、描く。
そういうものが好きだし、どうやら自分もそういう志向。

絵を描くのが、好きなんです。
でも、下手なんです。

子供の頃から暇があれば落描きです。
階段の壁一面に人間の顔を描いて、家人を呆れさせたものです。
まあ、描き慣れれば模写とかは上手くなりますから、
小学校の頃とかは「上手い」言われるのです。
当人もその気になります。

ところが、あれは中学3年生かな。
ある「絵が上手いと言われている」友人から年賀状をもらったんです。
彼の絵はぜんぜん見たことなかったのですが、
その時の私は、「絵の上手さ」とは、
「事物をより正確に描写できる」
ことだと思っていました。
きっと、なにかをものすごくリアルに描けるのだろう。

違いました。
今でもポストから、玄関まで歩きながら見た時のショック覚えてます。
当時1986年とかそのあたり。
そんな時代に、まず題材からしてメジャーリーガー。
赤いヘルメットはシンシナティ・レッズあたりかな、
左の強打者がホームランを打ってる絵なんです。
年賀状なのに。
画面にはバッターのフォロースイング、バストアップ、だけ。
ボールの行方など描いてませんし、背景もない。
ですが、その力強いスイングはどう見てもホームラン。

ああ、これが絵だ。

「絵とはなにか」をその一枚で思い知りました。
細部の描写とか正確性とか、そんなものどうでもよくて、
ドラマをストーリーを切り出し描き出す、
カッコイイ言い方をすれば、「生の一瞬を閉じこめたもの」が、絵です。

そんなもの無論描けません。
どんなに教室で自転車の写生させれば上手くても、
どんなにガンダムなら360度どこからどのポーズが描けても、
僕には、ドラマを描く能力は無いのです。
そして、どうやったらそれが身に付くか、そんなこと考えようもありませんでした。
猛烈な修行を重ねればできるようになるのか。
しかし彼は同い年だぞ。別に父親が世界的画家ってわけでもない。
あまりに途方がないものなので、「センス」ということにして、
「あれは生まれつき」と投げ捨てることにしたのです。

そしてコンプレックスを抱えたまま、現在に至る。
やっぱりねえ、好きな以上は、上手くなりたいじゃないですか。

で、話は最初に戻るのですが、
そう、要するに、「合ってなかった」んです。
絵という表現手段と、僕の認識・表現システムの志向・性能とが。

絵とは、事物をそのままに塊として握り出すものではなく、
詩と同じ、
自分の感じたもの、イメージを、そのまま現すものです。

つまり、たとえばボインボインな女の子を描きたいとしましょうよ。
そう思ったら、魂を込めておっぱいを描くのです。
「ここについてたら骨格がおかしい」とか「立体としてありえない」とか、
そんなことはどうでもいいのです。
自分の煮えたぎるような熱い気持ちを2つの、
まあ3つでも4つでもお好きな人はいくつでも、
まあるい物体に叩きつけて、納得いくまでこね回せばいいのです。

それが「絵」です。

頭ではわかってるつもりでしたが、
いざ実践になると、「ながた標準システム」が働く。
どうしても「事物そのままを」という方向へ流れていく。
「こう描かなきゃ」が働いて、余計なものを描いたり、大切なものを描かなかったりする。
そりゃ下手ですよ。上手くもなりませんよ。納得もできませんよ。
「絵」描いてないんだもん。

しかしとりあえず、何が悪いかわかる、それは第一歩です。
こころ晴れ晴れ。

「おっぱい!おっぱい!」でパトスで描くようにするのか、
風景画のように、あるモノから本質を、より濃く、
エスプレッソのように抽出する方向へ行くのか、
どっちにしても、中途半端にリアリティを意識するのではなくて、
「これはこうぢゃうりぁあああああああ」
という、「想い」いやそれはカッコよすぎで、
「思いこみ」を叩きつけていきたい所存です。


一軸、新しく切れる軸が見つかると、いろんなものが見えてきますね。
散文の書き方を考えていて、どうして絵が下手なのか知るとは。

蛇足するなら、
人生にはどちらも必要だと思うんです。
詩も散文も。ホットハートもクールヘッドも。
だから絵も小説も、両方が適度に混ざっていればなお良し。
いや、作り手が、両方を持ちつつ、コトに当たれば、
きっとあたたかくてキレのいい、イイモノができるように思います。



 9/28 健康万才

持病になりつつあった、腰の軽い違和感が消えました。
これ以外の要素は同じなので、
この二つ、もしくはどちらかが効いたのだと思います。

【椅子】 ハーマン・ミラー社製「アーロンチェア」
【寝具】 マニフレックス・マットレス

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アーロンは、人に薦められるものではないです(笑)
80年代にデビューしただけあって、考え方が古い。
要するに「背筋に竹のものさし入れて姿勢良くする」のと同じ、
「正しい姿勢」しか取れない椅子。
ダレて座ると、辛い。だから自然といい姿勢で座る。
ギプス。医療器具です。
そりゃこんな椅子座ってりゃ負担も掛かりようがない。

この束縛感が耐えられない人は、たくさんいると思います。
事実僕も、最初すごい嫌で、いろいろ試しました。
クッション敷いたり、当てたり、高さ変えたり。
でも結局、今は小細工無し、普通に座ってます。

腰に良い椅子とはどうやら、
「背骨のS字カーブを維持する」
のがポイントのようです。
具体的には、ランバーサポートなり、座面と背もたれの位置関係なりで、
背骨の下1/3ぐらいのところを、横/下から支える。
こうすると、S字が綺麗に維持できて、腰に負担が掛からない。
それを補助するために、座面の後ろを落として、腰が前にずれないようにする。
最初は太腿裏にすごく圧迫感あって気になるのですが、慣れます。

アーロンチェアは、要するにこの2点で、あの設計の古さにして、
名椅子の名を欲しいままにし続けている、と思います。

でも、サボりすぎ。
座面は張りが強すぎます。今なら低発泡ウレタンでもなんでも使うべきです。
また、金属フレームが縁取りのように剥き出しになってるのは痛く冷たくいただけません。
ウチの個体だけの問題かも知れませんが、
アームレストがあげてもあげても下がってきます。
設計そのものが間違ってる。
ポスチャーフィットのような小手先で誤魔化さず、20年分の進化を詰め込んだ
新・アーロンが強く望まれるところです。

文句つけましたが、身体が馴染んでしまうと、もう離れられない。
今は他の椅子座ってると、「ああアーロンに帰りたい」と真面目に思います。
なにより結果から言えば腰痛が消えたわけで、
これはいくら誉めても誉めたりない。

「しかしいくらなんでも12万は……」とお思いの方は、
これの輸入代理店やってるイトーキとか、いろいろ工夫して自社製品作ってたりします。
PRAOとか明るくていいですね。
それでもお安いものではないのですが、
結局椅子は、真面目に作るとこのぐらいはするみたいです。

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マニフレックスの方は、
以前枕を買って、ふわふわした感触が気に入ったので、
「マットレスだとさらに気持ちいいかも」と導入してみました。
シングルサイズ29800円。

結論から言えば、「よーわからん」。

正直、アーロンのように「もう離れられない!」とは思わないのですが、
「こりゃ駄目だ」とも思わない。
発泡ウレタン系にありがちな「蒸れ」はほとんど無く、その点は快適です。
また、思ったより沈み込みがなくて、祖母など「固い」と言うぐらいです。

ただ、アーロンとセットで使うようになって約2ヶ月、
「ありゃ、最近腰がぜんぜん痛くないな」
と思い、何パーセントか貢献してるかもしれませんので、挙げてみました。
マットレスお探しの方、
椅子作業はあまりないけど、最近腰とか気になるな、
と思われる方は挑戦してもいいかも。
松井稼頭央選手や沢松奈生子選手も愛用(と広告してる)ので、
まあ、それもプラシーボで。

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というよりも、アーロンでなくてもマニフレックスでなくても、要するに
腰痛に椅子と寝具は大切
です。

慢性の不調は、対処療法よりも原因を探りそれを潰すのが一番。
肝臓が弱まればアルコールを控えるべき。
ここを放置したままマッサージ行ったり電気あんま機買ったり湿布貼ったりしても、
一時しのぎに過ぎないのです。

……と、偉そうに言いつつ、
実は腰が治ればその負担が全部いってるのか、肩こりが酷くて(泣)
多くは眼精疲労だと思うので、大きなモニタかなあ(泣)
スタパの兄貴などは黒バック白文字でエディタを使ってるそうですが、
僕個人的には、今や、PC上の他の要素(webやメーラー)が
全て白地ベースになってる以上、
その方がコントラストの増減が激しくて目に厳しい気がします。
気がしますというか、「あ、厳しい」と思ったので止めました。
一日中そのエディタだけ見てるのなら、問題ないのかもしれませんが。

まあ、同じ姿勢で同じことを長時間続けるのだから、
どこかに「凝り」が出るのはしょーがないですな。
万年筆時代の作家さんより、指とか手首とか随分楽させてもらってるんだから、
文句ばっかり言っててはバチが当たります。

そんな時にそっと優しく温かい蒸しタオルを優しく首筋にあて、その上から優しく
「もみもみもみ♪」
などと優しく優しさを優しくしてくれる優しい可憐な嫁プリーズ。

プリ〜〜〜ズ。



 9/27 散文とは

司馬叔父曰く。
「散文というのは、肉屋の店頭の肉の塊から、
 肉そのものをグッと掴みだして取り出してみせる、ようなものだ」
(詩は、その肉を眺めて色や形を表すもの)

なんども目にしたこの言葉ですが、昨日ハッと気づきました。
要するに「中身が詰まってないと駄目」ってことでしょうか。
極端に言うと、肉を描くなら、
「煮えたぎる煉獄血の池を彷彿させるクリムゾン」
とかよりも、
「バラ。グラム300円」。
情報の濃度が濃いのは後者です。

私は、「文章を読む」ことの一番の楽しさは、
書かれている文・単語から想像する、
その想像する行為自体、また想像してできた自分専用オリジナルスペシャルイメージ、
これだと思います。
ですから、それをより味わわせてくれるもの、つまり、
自分の想像力をより強く刺激してくれるものを、
より楽しい作品、と評価します。

そのためには、中身が詰まってる方がいいんです。
煉獄血の池もいいんですけど、「バラ」という情報よりは優先順位が低い。

でも、事実から浮き上がれば浮き上がるほど、
つまり詩になればなるほど、
つまり芸術になればなるほど、
普遍性と世界性を持つ。
大江健三郎さんの作品は、アフリカのどこかの国の高校生が読んでも
「すごいイメージだ!」とわかる。
(おもしろいと思うかどうか別にして)
でも、司馬遼太郎「坂の上の雲」は、凄いとは思いにくいし、
たぶんおもしろいとも思えない。
日本人だからこそ、そこに詰め込まれている「事実」から
より多くの「自分イメージ」を引き出すことができて、それを楽しめる。
(ただし、遼太郎がモンゴルのことを書いてモンゴル語訳されれば、
 モンゴル人大喜びするので、そういう形での普遍性はあります)

もちろん、「客観的事実」など存在しません。
どんなものも観察者の主観を通じてしか表現されえない。
それは司馬さんもよくわかっていて、
「地面から1mmだけ浮いてなければいけない」という。
そしてそれが大切だ、とも。
結局のところバランスなのですが、どちらに軸足を置くかで、
できあがりの香りはずいぶん変わるように思います。

自慢できるような読書量ではないので、ただイメージで言うのですが、
日本の小説群には芸術が多く、
逆の、散文としての魅力を引き出している文章、
これが割合として少ないように感じます。

ですからうがった見方をすれば、遼太郎の挑戦状とも受け取れる。
なんといっても20世紀後半を代表する超人気作家、
「俺のんウケてるやろ? このやり方もあんで?」
露骨に言うとヤラしいですから、「散文」とかぼかしてるだけじゃないかな。
これは妄想ですが。

小説はさておき、なにかの事実を誰かに伝える、
機能・効用としての散文を考えれば、
「事物を事物そのままとして描き出す」
という力、これを「文章力」と言ってもいいように思います。
丸谷才一さん曰く
「日本の国語教育は全員を詩人か小説家にしようとしている」
それも悪くはないなのですが、日常生活でまず大切なのは、
伝える道具としての文章、それを書く力、ではないでしょうか。

肉の塊をそのまま掴み出す訓練、
これが誰にとっても必要なようです。
その第一歩はまず、「そのままに描き出す」という意識を持つこと、だと思います。


---

本日は以上。
あとは「ほえなが」的独り言。

私も、「バラ。グラム300円」が好きなのです。
読むのも、書くのも。
街でよく見るものと、自分のものを比していつも、
「酒精分が足りんなあ」と思っていたのですが、
これで合点がいきました。
足りなかったわけではなくて、そういうのが好きなんです。

自分のことは、自分が一番わからないもの。

しかし問題です。
そこを考えると、やっぱり向き不向きがある。
「ドラグーン」の出来がいい理由がやっとわかりました。
同時に「ミラクルズ!」があんまりウケない理由も。
当人の描き方はなにも変わってません。
だからマズイんです。
「ミラクルズ!」は、たぶん、ああいうものを欲しがる人にとっては、
アルコール度数が低すぎるんです。
逆に、「リアルそのまま」を好む人には、
企画からして顔を背けたくなる。
(ただ、そういうわけで「あまり世の中には無いもの」ではあるので、
 珍重していただける人もごく稀においでになる)

困ったな。
そういえば大昔から「そのまま」式のほうがウケがいいですわ。
当人はどっちでもいける、と思いこんでいたのですが、
どうやら「そのまま」式がより向いている。

私は良くも悪くも、最後の最後まで冷静な自分が何パーセントか残ってる人間です。
酔えない人間が、アルコール分高いものを作るのは難しい。

「そのまま」式を一番やりやすいのは歴史小説でしょうか。
でも、フルフィクションでもできるはず。
要するに人間ドラマであればいいわけですから。

しかし、くどいようですがどちらが正しいとか、優れてるとかではありません。
我々は作文業だからそんな呑気なことをのほほんと言うてられるのであって、
画家なんかは「そのまま」とか言い出すと写真家、いやデジカメに
追い詰められてしまいます。
やっぱり、人が欲しがるのは人のエネルギーであり、
意味ではなく、表現が欲しいのです。
だから、たとえば文そのものとしては事実だけを列挙していても、
その事実の取捨選択に作者の「気持ち」を入れたりして、
結局は表現になる。

まあ、いろいろやってみます。

デモ ミラクルズハ オモシロイ ヨ?

駄目なら駄目でいいんです。
理由がわかっていれば。
それは、そこを潰せば駄目でなくなるし、駄目でいいからそのままにもできる。
そんな、お話。



 9/26 忘れました

羽生名人が強さの秘訣を訊かれ
「忘れることです」
松井秀喜は済んだ打席をこれっぽっちも悔やまない。
高校時代からチームメイト曰く
「アイツが打席終わって悔しがってるところを見たことがない」

「忘れる」ことは、力です。

私の、治したくても治らない生まれ持っての性癖に、
「執念深さ」があります。
時と場合によっては非常に有効に働くのですが、
細かな物事でさえなかなか忘れられないので、辛いことも多いです。

でも、よく恋の歌に歌われますように、
「時間」は最高のお薬。
どんな出来事も、いつしか、辛さ悲しさ苦しさが風化して飛んで、
ただの記憶になる。
例え私のように執念深い生き物でも。

実は、永年、あれはこうだこれはこうだと想い続けてきた、
ぐっさり刺さった心のトゲがあったのです。
それがある朝起きると、「あれ?」というぐらい、トゲでは無くなってました。
突然です。ほんと突然。
前日まで確かにトゲだったんですけど、
ある朝いきなり、トゲじゃなくなってた。

また変な話持ち出して申し訳ないんですが、男性諸氏よ。
「ちん毛」なるものが生えてきた時ってそんな感じじゃなかったですか?
「あれっ?! 生えてる!?」
それって僕だけ? 皆さんはうぶ毛の成長をワクワク一杯に見守りました?

それはともかく、
随分七転八倒したそのプロブレムが、実にあっけない終わり方、
劇的でもなんでもなく、派手なイベントもなにもなく、別の衝撃があったわけでもなく、
また、全人格的に宗教体験的になにかを悟ったわけでもなく、
ただ、消え去った。
そのほかは、いつもと同じ私。
それに驚きました。

人間というのは、実によくできてます。

「俺はこれを抱えたまま棺桶まで行くのか」
そのこと自体が苦で、
それが人生だというのなら、
人生というのはなんと苦々しい、辛いものなんだろう、先人達は偉すぎる、
そう思っていました。
しかしどうやら、これに関しては持ち込まなくて済むようです。
僕にとっては「これ」は、とても大きな問題だったので、
これが大丈夫なら、たぶんなんだって大丈夫だ。
そんなことすら思えてきて、ずいぶん、楽になって、楽しくなりました。
この二つが同じ字、っていうのはとても含蓄深いです。

──若者達よ。
全く自慢にならんけど、おっちゃんの身の回りで、おっちゃんより執念深い人間おらんで。
そのシツコイおっちゃんが、ものすご大事にこね回し続けた大難問、
それでさえ、いつかは、溶けてなくなんねん。
せやからやな。
ちょっとしたことで不必要に落ち込んだり、自暴自棄になったりしたらあかん。
なんと言われようとも、ジッと身をかがめて時の過ぎるのを待て。
そのうち突然、なんでもなくなる。

なんでもなくなるのも嫌だ?
ならば、なんでもなくなるまで、「もう嫌だ」と思えるまで、こね回せ。
こね回しが足りんからこそ、いつまでもトゲが残るんやと思う。

トゲが抜けてふと見上げてみれば、青空でした。
たぶんいつも空は青かったんですけど、それを見ていなかったようです。
喜びが永遠に続かないように、
苦しみも永遠には続かない。
今思えばむちゃくちゃにあたりまえのことですが、
そんなことすら気づかない。

空はまた晴れる。
それは、自然の摂理なのです。



 9/25 ユースクリーム

【本日の特選詩】
 榊原郁恵「夏のお嬢さん」より

 砂に書いたよ 照れながら ラブレター
 アイ・スクリーム
 ユー・スクリーム
 好きさ お嬢さん お嬢さん

ユースクリーム?

サビは勢いです。
歌、特にポップスはノリが何より大切ですから、
ノれりゃなんだっていいわけです。
(一応、英語のscreamを掛けて、二人でキャーキャー言ってる、
 という理屈でしょうけど)

イチローがメジャー記録に向かってひた走っています。
どうも、シーズン中盤にあったボーンヘッドがキッカケではないかと睨んでます。
なんでもない外野フライを理由もなくポロリしちゃって、
本人曰く「人生で記憶にない」。
これで火が点いた。
あまりに情けないミスに、あまりに自分自身で自分に呆れ果て、自暴自棄半分、
「こんなにやってんのに、なんでこんなことが起きるんだ!」という怒り半分、
それが、
「打てりゃいいんだろ打てりゃ!」
という気持ちを引き出したのではないか。

最近、TVでヒットのシーンをたくさん見せてくれるのですが、
どれひとつとして同じヒットはない、という感じで、もう、ぐちゃぐちゃ。
フォームとか、タイミングとか。
でも、「これがイチローだ!」って思いません?
210本打った時も、そうでしたよね。
なんかしらないけど身体ぐにゃぐにゃ曲げて、バットに当たるとヒットになる。
あの頃の感じ。

彼は理想のバッティングを求め、
毎年のようにバッティングフォームに改造を加えているそうです。
しかし、変化が良い方に向くばかりとは限らない。
試行錯誤を繰り返し、やっぱダメだ、と結論を出すのに、何ヶ月もかかる。
あるいは逆、運や調子その他で、自分と関係なくヒットが出ることもある。
そういう不確定要素を全て排除して「理想のバッティング」を構築していくのも
とても偉大なる活動であると思います。

ただ、野球という複雑な運動の中で、そんなものが存在しうると考える方が、
実は間違いなのではないでしょうか。
これは別に野球だけじゃなくて、僕で言うなら文章とか、
まあ、なんでも。

「理想の形」「勝利の方程式」は、たぶん、ない。

ただ、それを求めようとして、各々の要素を綿密に観察したり、
自分をよく省みて足りぬところを補い優れているところを伸ばす、
それはとても大切なことです。
だから、求めることは悪いことではない。
が、求めてもたぶん、無い。

天下の王貞治だって最後のシーズンは3割30本、
「ああもう30本しか打てない」と引退したわけで、
本当になにか「掴んだもの」があったなら、
引退直前のシーズンが最高の成績のはずです。

そう結局、誰も、そんなもの手にすることなどありえない。

「アイ・スクリーム ユー・スクリーム 好きさ〜」
こんなもの、どこの教科書にも載りようがない。
音楽の教科書にも、詩の教科書にも。
ただ、「ノせてる」という事実、結果があり、これが何よりも大切。
ノせてる以上は、どんな公式よりも正義です。
作り手も受け手も、これを忘れてはいけない。

最初は、「ヒットを打つため」にいろいろ考えていたはずなのに、
それがいつのまにか、「理想のバッティング」という得体の知れないものを
追い求める行為にズレてしまっていた。
それが、あるキッカケによって、
「なんでもいいからとにかくヒットを」
という、がむしゃらさ、手段の選ばなさ、
知力体力技術を全てその一瞬に注ぎ込む集中力……
そこに気づいたのが、今年後半のイチローの快進撃を支えた、
と、勝手に想像しています。

ノせれば正義、とにもかくにも、
アイ・スクリーム、ユー・スクリーム。



 9/24 残一ヶ月

とはいっても「ほえなが」のいいところはノンジャンル性、
随筆もあればショートもあれば日記もあるのです。
……またすぐそうやってごまかす……


季節の変わり目、きっちり風邪をひきました。
お彼岸中日にひくとは、律儀なものです。
でも、整体の野口先生曰く、
季節の変わり目には風邪をひいて熱を出し、
体質を変えて次の季節に備えるのが「正しい身体」だとか。
そういう意味では極めて健康。

でも鼻はズルズル。

最近、たまに体調を崩すと、そういうお年頃なのか、ふと
「このまま死んだらどうなんだろう?」
と思います。

僕は70点。
やり残してることも残念なことも辛かったことも山のようにありますが、
しかしいいひとに恵まれ、いろんなことをやれた一生でした。
過去形にするな。
大満足とは正直言えませんが、文句言うと罰が当たる、とは、本気で思います。

それはいいとして、では、この風邪がなにか不治の病の表れで、
お医者さんに診せると「あと一ヶ月ですな」と言われたらどうでしょう。
この一ヶ月で何をするか。

実はこの「ほえなが」を書く前も布団でけひけひ咳をしながら、
そんなことを考えていました。
それでやっぱり、思いついたのは、
「あれを書きたい」。

ちょっと嬉しかった。
豪遊したいとか何が買いたいとかどこへ行きたい、じゃなくてね。
また、今はずっとこね回してた「はなこ」が一応目処がついたので、
次何するか考え中だったのです。
でも、こう考えて「あれ」だと思ったのなら、「あれ」を書くしかないだろう、と。

鼻はつばってばすが、頭と心はスッキリしました。
風邪には、こんな効用もあるようです。



 9/23 すごく難しい。そして、すごくおもしろい。

今日もお恥ずかしい告白を一つ。

随筆って、難しいですね。

6年やってきて、昨日初めて感じました。
昔からこれ系の書き物が好きで、十代の文藝部の頃もこんなもの書いてました。
一番書きやすくて苦労しないはずだったのですが。

随筆、エッセイはお総菜のようなものなんです。
たとえば、9/16のは人気が高いのですが、
あれはいわばすき焼きとかステーキとか、御馳走を小振りに出してるだけで、
美味くて当たり前。
美味いモノが正義だ、と考えれば、あれもありなのですが、
いつもいつもステーキ出てくると困りますよね。
(作るのが大変なのはさておき)
毎日、何気なく食べられて、栄養になって、美味しい。
それが随筆の真髄ではないかな、と思ったのです。

そうすると難しい。

たとえば昨日の分↓なんかはいつものようにいつものごとく、なんですが、
これは果たして美味いのか。
言いたいことは言えてるが、それでいいのか。
もう少しアミューズメンタルな味付けが必要なのではないか。
いや待てしかし、そういうものが濃くないからこそお総菜になりうるのではないか。

むっちゃムズイやんけ!

小説書くよりよっぽど難しい。
小説はまあいえば、なにがなんでもおもしろければいいので、
全能力全開で突っ走ればいいわけです。
(読み手がおもしろいと思うかどうかは別にして)
読み手もそういう覚悟で読みますし。
しかしその方法論を、随筆には持ってこれない。

フェラーリやメルセデス・Sを作るんじゃない。
マーチを作るんです。
土台を支える技術は同じですよ、サスの考え方、エンジンの特性、室内空間の作り込み。
でも、最終的にできあがるものが違えば、やっぱり違いは出る。
いかに小さく燃費のいいエンジンで、プリミティブな形状のサスペンションで、
キビキビ走らせるか。
いかにバッファロー本革やメープルウッドを使わずに、
居心地良い空間を演出するか。

やっぱこっちの方が難しいじゃん!

そら清少納言も吉田兼好も尊敬されるわ。

9/16をもう一度例えればロードスターで、
なりは小さいけどスポーツカー文法で作ってるので、
キビキビ走って当たり前。
もちろん否定してるわけではなくて大いにアリ、アリアリなんですけど、
あれが随筆の本来の姿ではない。

……と、いうようなことに今気づいたわけです。
どうぞお笑いくださいませ。
ただ、自分がいかに愚かであるか知ることは、賢くなるための第一歩。
つまりようやく、スタートライン。
泣きそう。

---

泣き言はともかく、毎日泥だらけになって得た原則じみたものをいくつかメモします。

・イイタイコトはよくわかる。
 売り物でもワケわかんないものは多いです。
・ネタに頼らない。
 いいネタがおもしろいのは当たり前。
 そこに依存しすぎると、最後はニュースサイトになります。
・無理はしない。
 楽しんでもらおう、という気持ちはいいのですが、気迫入れすぎると読み手が引きます。

あと、「できるだけコンパクトにまとめる」のがコツだと思いますが、
私それ苦手なのであまり言えません。
クドいのが持ち味でね!(ぴらきなおり)

---

でも皮肉なもので、
「難しい」と思った瞬間、「おもしろい」と思えるようになりました。
パズルとかゲームとかもそうですよね。
漫然とやって解けるものより、攻略一生懸命考えてやり遂げた方が、おもしろい。

いや、ホントにスタートラインです。
がんばりたいと思います。



 9/22 俺としては上手くできたと思うんだけど

お彼岸、さすがに今日は涼しいですね。
久しぶりに「Tシャツじゃ寒いな」と思いました。
秋の匂いがします。

司馬叔父が自身で選ぶマイ・フェイバリットは、
「燃えよ剣」だそうです。
ご友人幾人かがそう書いておられました。

作り手というのは一面とても寂しいもので、
「会心の作」と、世評、あるいは人気とが必ずしも一致しません。

司馬ファンを100人集めベストを尋ねれば、上からおそらく
「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「翔ぶがごとく」「街道シリーズ」
あたりが占めるのではないでしょうか。
「燃えよ剣」は「菜の花の沖」とかあのあたりと共に中位グループでは、
と勝手に想像します。
(ちなみに僕のベストは「坂の上の雲」)

「燃えよ剣」の弱点として言われるのは、フィクション性が強い、点です。
顕著な例では歳三の恋人おゆきさん。実在しません。
他の部分が非常に精密な史実描写に彩られているだけに、
ここが鼻につくといえば鼻につきます。

しかし小説の魅力としてみれば、
彼女の存在が、特に後半の歳三をベラボウにカッコよく見せており、
おゆきさんなしの「燃えよ剣」など存在しようもありません。
史実じゃない史実じゃないといいますが、
我々は土方歳三本人ではないわけで、
ひょっとするとこういうことがあったかもしれない。
真実など誰にも永遠にわかりません。

「小説を書く」という「人の行為」として見るに、
狙った行為が思いもかけぬ大きな効果を上げるほど楽しいことはなく、
そういう意味で、会心の作、だったのでしょう。

もちろんこれは誰にでも起きることで、逆も起きます。
手塚治虫といえばまずなによりも「アトム」ですが、
晩年「あんな駄作はない」と言っておられたと聞きました。
シンプルに過ぎる勧善懲悪、平板で都合のいいアトムの性格、
欠点を挙げ連ねると、そして作者は誰よりもその作品の欠点を知り抜いてますから、
若い時の作品ほど、不要に酷く見えたり、不要に巧く見えたりするものです。

広島の前田選手に有名な逸話があって、
あまりの完璧主義者っぷりに呆れた記者が質問、
「理想のバッティングができたことってあるんですか?」
「……ファールならあります」
実に愚かしいでしょう?(笑)
まあしかし、作り手なんてものは、そんなものなのです。
「いや、あれ、ダメだダメだっていうけど、俺の中ではかなりいい線行ってんだよ!」
それは強がりじゃなくて、本心であることが多い。

大きな名前出してから実にお恥ずかしいのですが、
初めて銭湯に行った内風呂の坊っちゃんのような気持ちで白状しますと、
私にも同じような気分はあります。
「ミラクルズ!」は今チェック中も含め8本あるのですが、
どれが一番かと言われれば3番目に書いたナナのです。
もちろん今となっては粗いところ目につくのですが、
何がいいと言われると、無理に答えるなら、
「バランス」。
私はいつもお好み焼きを焼くのですが、
タネの混ざり具合とか、具の鮮度とか、焼き加減とか、
いろいろがたまたま上手くいって、
「おや、今日のお好みは美味しいね」
そんな感じです。

あの、死ぬまで成長を続けたように見える司馬遼太郎にして、
どれがと聞かれて若かりし頃の「燃えよ剣」をあげたのが、
「ああ、このズレは誰にでもあるんだ」
とおもしろく。

ただ少しうがってみると、後年どんどん歴史家文化人扱いされるなかで、
河内のオッサンらしい軽い反発心と普通へのこだわりが、
あのアミューズメント性の高い小説を選ばせたのかも知れません。
逆に「司馬遼といえば娯楽小説の王様」みたいな扱いをされていれば、
「いや僕のベストは『街道』ですよ」
みたいなことを言い出しかねなかったり。

言いたいことがそのままに伝わるとも限らない、それは確かに寂しい。
でも、予期しないことが起きる、そう考えれば可笑しい。
モノは捉えようです。
逆に、人気がバラけてる方が、いろんな味わいの作品が書けた証ともいえ、
誇っていいようにも思います。
ビートルズとか、そうですしね。

そんな呑気なことを、秋の夜長に。



 9/21 Give me liberty, or give me chocolate.

法事でした。
自分がやりたくもないイベントを主催するのは、凄まじい苦痛です。
「狂おしい」という日本語がほんとぴったりで、狂いそうでした。
参加者、内容、進行、別になんの問題もないのに、ただただ疲れ果てました。

人生からこういうことを無くしたいと日々法然上人にお祈りしてるのですが、
無くならないものです。

葬式も同じでした。
喪主のはずなのに、自分に何一つ決定権が無く、いや、何一つもできずに、
ただただ大きななにかに、ボンヤリ流れていただけでした。
「悲しませてくれよ」と悲しかったです。

そこまで辛いなら逃げればいいんですけど、
男の子には、逃げちゃ駄目なものもたまーにはあってね。
負けても死んでも、「逃げない」ただ一点に意味のあることも、あるのです。

ま、そんな大層なもんじゃないですが。
その時に、それができるように、日頃から鍛えなきゃ。

それと、あらためて「自由」の大切さを痛感しました。
人は、自由がなければ、死ぬのです。
リバティが与えられなければ、殺せ、ではなくて、死ぬのです。勝手に。

どんな体験も、活かす活かさぬは己自身。

最近の坊主はマーケティングを学ぶのか、エエこと言うんです。
「いやあ、法事というのは、生きてる我々が楽しいのがいいですな」
おっしゃるとおりですわ。
ホンマにおっしゃるとおり。
僕が死んだら、もし誰か寂しく思ってくださる方がおられるなら、
「ながたさん出立一周年記念宴会」
てな感じで、天王寺のチェーン居酒屋で2時間制でやっちゃってください。
オーダーは個別で。

すみません。半日頑張ったんですが、上手いこと書けません。
巧いこと書けてないこと自体が気持ちの荒れを表現してるかとも思い、そのままに。



 9/20 「書く」ことについて。

もう少し「書く」ことについて。
自分なりにまとめてみます。

良い作品のために必要な要素を三つだけあげるなら、おそらく、
(1)手堅い設計図を描いて、
(2)心の電圧をポーンとあげて、
(3)自分なりの姿勢を保ちつつ実作する。

(1)
設計図はシンプルで無理のないものを。
手に負えない素材や筋やキャラクターを用意すると、そこで澱んで苦しみます。
どのみち書いてるうちには、当初想定しない方に話が流れ、どうせ苦しみます。
だから最初から無理はしない方がいい。

作戦目標は一つ。
言いたいこと、つまりテーマは、一つがいいです。
具体的イメージであれば、
ラストとクライマックス、1つずつでいいように思います。
もちろんいくつでもあればあった方がいいのですが、
それは最初から用意するよりも、
書いているうちに刺激されて連鎖反応が起きて湧いてきたものの方が、
シズル感(大雑把に言うとおいしそうな感じ。コーヒーのコーヒーらしさ、鯖の鯖らしさ)
があるように思います。経験上。

いちおう、「ここへ行こう」というゴール決まってると、
途中遊びやすくなります。
その作品における実家みたいなもので、「最後はあそこに帰ればいい」という
落ち着きと自信が出る。
(1)に持ってきたのは、これが決まってると、「ちゃんと読める」ものになるのです。
「まず完成してないと話にならない」
なんでもそうで、性能や味わいを語るのは、その後です。

(2)
人間、気持ちが乗らないとどんなことでも低パフォーマンス。
自分のノせかたは人それぞれですが、文章作品においてはやはり、
テーマやキャラクター、その作品への思い入れを強めることが一番のようです。
私はキャラ設定などを作って弄るのが好きですが、
これも思い入れを強める行為です。
膨大な資料を集め、読み込む行為なども、それに近いように思います。

それとは直接関係なく、生活者としてやる気を起こすのももちろんいいことです。
案外、制限付き困り果てて無理矢理でっち上げたモノが、
肩の力抜けててイイモノになったりするものです。
100%でなければ誠実ではない、と思いこむことこそが傲慢です。
100%なら凄いの書ける、って言ってるのと同じですからね。
あんたが100かどうかは関係ない、ワシがおもろいと思うかどうかや。

(3)
さて。
以前にも、「書き方」要素を3つにまとめたことがあり、
ハート・イメージ・テクニック
と表現しました。
今回も要すれば(1)がイメージ、(2)がハートです。
これは万古不易の二本柱、
つまりこの二つさえあれば人はたれでも詩人になれるのですが、
問題はそれを下支えする物理能力です。

些末な各論を言うなら、
「できるだけ短く」「係り受け関係を明白に」「主語は削れるだけ削る」
いろいろあるのですが、それは野球で言うと
「腰を落としてゴロを捕れ」「ボールをよく見てバットを振れ」
というレベルの話で、もちろんとてもとても大切なのですが、いわば土台。
それが出来たから良いプレーができる、という類の技術ではないのです。

実はもう一段上に、
個々人々に応じた「基本メソッド」みたいなものがあるように思います。
「常にセンター返しを心がける」とか、
「中盤の守備意識を高めてボールを奪われたらまず獲り返す」とか。

細胞ひとつひとつ、セルのレベルではなく、
それがつながりあった、ネットワークとしての技術体系。

これは、自分で自分を見極めて、いろんなチャレンジを繰り返して、
実作の経験を積んで、「これか」と見いだす他ない。

人によっては「何でもかんでも引っ張る」の方が大物が打てるかもしれませんし、
「守備は自陣に誘い込んでから、そして速攻」の方が勝ちが稼げるかもしれません。
それは、その人によるのです。
悩み間違え時に成功しまた変化しながら、ネットワークは育っていきます。
育ってくると、特性と適性が見えてくる。
そうすると、それを伸ばせば、さらに強いネットワークになっていく。

それを、「自分なりの姿勢」と表現してみました。
「自分製のテクニック集」みたいな言い方をしてもいいのですが、
それだと具体的メソッドに縛られすぎてるように思います。
大きく言えば、テーマの選択やハートの燃やし方、つまり(1)や(2)に関わることも
全部そうなので、「姿勢」。

これには、毎回変化する部分と、その人なりに不変の部分があるようです。
「結局のところ、わたしという人間はこれか」
それを自分で再発見できるのが、「文章を書く」という行為の、
嬉しい副産物です。
そして見つけたら、それをまたフィードバックし練り込んで、
少し新しくしかし馴染みの姿勢で、また書いてみる。
その繰り返しが、書く力を向上させていくように思います。

--

(1)と(2)がなにより大切なのですが、
(3)も無いと、進歩が無いんです。
素人芸、「下手の横好き」と言われますが、あれは(1)と(2)だけが溢れるようにあって、
(3)が無い状態ではないかと思います。
もう、それやってるだけで嬉しくてたまらない。
だから出来上がりは、極端に言うとどうでもいいんですね。
私のカラオケもそうです。

もちろん、それはそれで非常に幸せなかたちなのですが、
より的確に深く強く熱く表現するためには、
「腕」があった方がいいことも多いです。
なんとなればやはり相手のあることなので、
耳を傾けてもらうには、傾けてもらえるだけのなにかが必要です。
となると、歌声も伸びやかな方がいいし、音程も心地よくとれてる方がいいですよね。

逆に言うと、自分なりの姿勢にそぐわない力なら、つける必要が無い、
と断言してもいいと思います。
センター返しのアベレージヒッターが向いてるなら、長打力は要らない。
堅守カウンターチームを仕上げるなら、ファンタジスタなど必要ない。
もちろん、多角度から勉強・修行を重ねることは非常に有意義です。
が、現代はあまりに大量の情報が錯綜し乱れ飛んでいますので、
「これができないうちは……」
なんて思ってると、いつまでもなにもできない。
参考書1p読む暇があったら、悩みながらも実践1度。
その方が、絶対にためになります。

---

先日、私の場合の(3)は、「語りかける」ことではないか、と気づきました。
するといろんなところがすっきりして、
「なるほど、俺のネットワークは『語りかけ』システムだったのか」
と自分で自分に合点がいった次第です。

これも、そういう姿勢で書いてます。

語りかけたいことは、「書く」ことの要素、ながた流まとめ。
語りかける相手は、「書く」ことに興味があるみなさん、そして自分自身。
イメージは前回同様大まとめから入って、詳論。
+「これもそういう風に書いてますよ」
電圧は、まだ気づいてすっきりした感動が残ってるので、それと、
「まとめたいなあ」という欲望をまぜこぜで。

上のようにまとめてみますと、
ものすごいシステマティックで計画的に見えますが、
それはタイ焼き屋のおっちゃんがどのタイ焼きにも100gのあんこを乗せるのと同じで、
計画立ててやったわけではなく、やったら計画通りだった、
という感じです。
これを手にするには、10年タイ焼きを焼くしかない。
吉本隆明さんが「10年やりゃあなんでもものになるんだ」とおっしゃったそうですが、
この、自分内・自分用ネットワークが生成され、有効に働き出す、
そのための栄養は時間と経験しかないようです。
身体動かして作って、頭動かして悩んで。両方です。

それじゃそのぐらいやらないとダメなのか、
というとそんなことはなく、
たとえ初めて原稿用紙に向かう人でも、その一回限りの「一日周遊券」みたいな、
その時用の姿勢を持てばいいのです。
「書くぞ」と思うからには「何を」「誰に」「どのように」があるはずで、
そこをよく見つめれば、その時に着せる服がなんとなく見えてくる。
「妻に長年の感謝をこめて」でも「コミッショナーダメだヤツは!」でも、
その小品に向かう姿勢をただせば、自ずと文章は、スカッとまとまるものだと思います。

バラしますと、
やはり文章の決め手は(1)と(2)で、
細かい修辞上のテクなどゴミのようなものです。
今これをお読みのあなたが、今晩ちょろちょろっと書いたモノが歴史に残り、
1000年後にも読まれてしまうかもしれない、そんな恐ろしい表現手段です。
ただ(3)ができあがってると、コンスタントにクオリティ保証ができて商業的に使いやすい、
それだけの違いです。

あまり深く考え込む前に、メールでも打つ感じでお書きになってはいかがでしょう。
あなたが常日頃お感じのとおり、
上手い下手などはどうでもよく、
ただ私達は、「そのひと」(と、そのこと)を知りたいだけです。
それを伝えるのが、「書く」ということです。

実に簡単な、ことです。



 9/19 僕らのアイドル


・自動車アーカイヴ 80年代の日本車編

「CG」の二玄社です。
歴史と伝統を丁寧に守る作業は、非常に地味ですが非常に意義深く、
この本も「CG」だからこそ成り立つ本。
豊富な写真はメーカー広報写真のみならず本誌からも、そして添えられる的確な短評。
「CG」にはいつまでも「CG」であって欲しいものです。
彰太郎先生を冷凍保存する会はまだ発足しませんか。

表紙が赤/黒ツートンの日産スカイラインR31鉄仮面RS、
ホンダ・バラードスポーツCR-X黒、もちろん前期型、途中投入のZC搭載Si、
そしてトヨタ・セリカXXのシルヴァー・メタリック。
わかってらっしゃる!
というか我々と同世代、つまりメカドック&西武警察世代の仕業と見た。

リアルタイムでその時間を生きた人間にしかわからない
「大切さ」
というものがあって、この3台はやはり、僕らの世代にとっては
スーパーヒーローなのです。
いや。
時代背景を混ぜて言うなら、「アイドル」。
シンディ・ローパーはアイドルなの。
ケバイおばちゃんじゃなくて、ワールドワイド・アイドルなの。

いつまでこの名称が使えるかわからないので今のうちに使うと、
「5大メーカー」であと2台集めるなら、
マツダからはもちろん、初代サバンナ・RX-7。
三菱からは……難しいですがラン・タボでしょうか。
ギャランVR-4も捨てがたいのですが、あれになると90年代の香りがします。

公正を期するためか、各車どの車も1ページまとめ。
三菱・トレディア/コルディアやダイハツ・ラガーにも1ページ。
名車もしくは人気車だからといって、例外は……
一車だけあって、それはわれらが
R32スカイライン・GT-R。
もちろん通常型スカイラインからはかけ離れたチューンのされてるクルマですが、
それを言うならスープラのGR.AとかセリカGT-FOURもそうで、
原則を破ってまで1ページを割いた編集に思い入れを感じます。

89年はご存じ日本車空前(おそらく絶後)のビンテージイヤー、
もう15年も昔の話です。
僕がGT-Rにセルシオにロードスターに目を見張り、
「ああ、日本車もついにここまで……」
と高校の図書館で「CG」を手に涙ぐんでいた、
その時生まれた子供達が、中学卒業。
つまり彼らにとっては生まれた時から日本車=世界最高だったわけで、
そういう人達に大門軍団の駆る鉄仮面や、
風見のチューンしたミッドシップ・フルタイム四駆CR-Xのカッコヨサをいくら熱弁しても、
なかなか伝わりますまい。

いま、優れているもの、それはもちろんいいのですが、
優れたものになろうと向かう姿、
それはなによりも、美しい。

今から見りゃね、ガラクタなんですよ、こんなクルマ。
R31はセールスこそスカイライン最後の華となりましたが、
苦心惨憺根性入れて作ったエンジンでレースに勝っても、
「いや6気筒じゃないし」と栄光の「GT-R」の名を戴けなかった醜いアヒルの子。
CR-Xは特にエンジン・コンパートメントの整備性極悪、
壊れると直すのにお金掛かりすぎるから、バンバン廃車されて個体が残ってない。
XXに至ってはただのアメリカ向け直線番長、
「メカドック」の中ですら「セリカXXってのは重いクルマなんだぜ」と
ライバルにバカにされる、単なるスペシャリティカーに過ぎません。
スポーツカー魂など、カケラもない。

でも、でもね、
それは、「今見れば」なんです。

80年代、トヨタ2000GTやホンダS800の栄光などはるか昔、
フェラーリもないポルシェもないコルベットもないアルピーヌもない、
日本のクルマ好きはみな、大人も、子供も、
「結局俺達はカローラとサニーを売りまくるしかないのか」
そう思い瞼を伏せ胸塞いでいたんです。
そんな時に、
「いや、これからだよ!」
と我々を勇気づけてくれた、それが、この、80'sアイドル達なのです。
時を同じくして、ホンダがF1で勝ちはじめる。
「いけるんじゃないか!?」

まがい物かも知れないけれど、
スペックシートばかり派手なただのビッグマウスかも知れないけれど、
ちゃんと曲がれずちゃんと止まれないかも知れないけれど、
いつか、本物になってやる。
その気迫が、一番漲っていた頃でした。
そこが、美しく、尊かった。
今も彼ら(彼女ら?)の勇姿を見れば、懐かしくその気持ちを思い出します。

頂点に立ち、逆に追われる立場になってみたり、
いろいろあって大人になる。
今も日本車は、「商品力」なら世界一です。
でもそうなっても、あの青春の日々、
ただがむしゃらに背伸びをしていた日々を、
忘れるのはもったいない。

挑戦は、終わりません。
次は環境であり安全であり。
60キロで人を跳ねても絶対にケガをさせないクルマとか。
リッター50キロ走れる凄いヤツとか。
いくらでも、いくらでも立ち向かう問題は、ある。
RSの輝きを、プリウスにチラリと見るのは贔屓のしすぎでしょうか。

日本は環境の厳しい国です。
石油無いし、道路狭い。運転も未だアジア式の強者優先、実にスマートでない。
でも、だからこそ、次の輝きを持つアイドルが、
生まれてくるような気がしたり、
また、生み出さなければならないような、気がしたり。

クルマ作りの前線で頑張る皆さんにエールを送りつつ、
また、80'sアイドルを生み出した皆さんに感謝と敬意を表しつつ。

---

蛇足。
こんなこと書いてたら「メカドック」Tシャツが検索に引っかかり、
めっちゃ欲しい。
思い出されましたかこのたまらなくダサカッコイイロゴ。
「MD」の方は航空機メーカーのマクダネル・ダグラスのものによく似ています。
(と、記憶するのですが、曖昧です)
またこの「マクダネル・ダグラス」っていうのが80年代な名前で、
航空自衛隊にも導入された名機、F-4ファントム、F-15イーグルのメーカーです。
つまり「世界一ナウなジェットファイター・ファクトリー」。
「エリア88」に「トップガン」に熱中してデンジャーゾーン。

そんなマクダネル・ダグラスもボーイングに吸収され、
セリカXXはスープラになってしかも廃止、
CR-Xはデルソルを経由して廃止、
RSは3代のGT-Rでこの世の春を謳歌するも、
現行スカイラインではスポーツグレードもろとも廃止。
たった15年で、今はなにもかもが歴史です。



 9/18 語りかけ (はんぶんこ3)

もうちょい。


ものごとの草創期においては、「新しさ」だけで
「おもしろいかも!?」という得点を稼げる。
1970年の時点では、「万博である」という「新しさ」は明らかにゲタを履かせてくれていた。
しかし、時間が経つにつれ「慣れ」が生じ受け手も経験値を稼ぎ、
「それである」というだけでは得点を与えず、むしろ厳しい目で見るようになる。
少し古いメディアなどがそうである、例えばラジオ。
「今さらラジオ番組におもしろいものなどあるはずもない」
と、聴きもせずに判断されることもしばしば、随分損をしている。
「万博」も古いメディアであることは、言うまでもない。

こうした事態はもちろん、万博に限らず、どんなコンテンツでも起きている。
映画もそうゲームもそう小説もそう、
もう「それは何か」など充分に知れ渡っており、また、絶対的に評価の固まった
古今東西不朽の名作も簡単に手に入る。
で、あるから不安に煽られるようにして、ますますインフレが起きる。
より精密なシンジケートで、より多量のエネルギーを掛けて、
社会の意識の独占を狙う。

だが、青臭いことを承知でいうと、
コストを掛けるから回収が困難になるわけで、
それは自分勝手なマッチポンプではないか。
帝国主義と同じである。
植民地を持ったはいいが、その維持管理に莫大すぎるコストが掛かって、
結局、割に合わない。

昨日分冒頭でも述べたように、
それ(コスト)とこれ(おもしろさ)には、なんの関係もないのである。

では、おもしろさに直結する本質、
もしコスト(エネルギー)を掛けるとするなら掛けるべきポイントはどこか。
それこそ、この3回の中心話題であるところの、
「参加可能性」
ではないか。
これでは具体的イメージが湧かないならば、
「語りかけ」
という美しい日本語で置き換えてもよい。

語りかけることにり、受け手を、
動かす、動きたくさせる、思わず動いてしまう、
その「動き」を引き出す、
──つまりはこれを「感動」というのだが──
その行為そのものと、そのための要素を作り込んでいく、
語りかける力と技を磨く、
もう少しキザにいえば
語りかける言葉とこころを磨く、
これが、作り手に最も必要とされるただ一点ではないか。

コンセプトでもいい、モノの品質でもいい、作者のパーソナリティでもいい、
それこそパッケージでも広告でも流行でも「祭り」便乗でもいい、
とにかく全ての手練手管は、ここに向かってなされるべき、つまり、
「動きたくなる語りかけ」
であるべきだ。

それがどういうスタイルで、どこにどれだけエネルギーを割り振るかは、
作り手の趣味趣向に寄る。
一般的に、品質にエネルギーを注いだ方が経年劣化に強く、
結果的に名作になる可能性が高いが、
一過性の時代要素に乗って荒稼ぎするのも、それはそれで一つのやり方である。
意味がないわけでもないし、劣っているというものでもない。
受け手が楽しいのは、確かであるから。
ただコカインか有機野菜の炊き合わせかの違いであって。

---

「え?長々書いて結局
 『読み手のこと考えて書きますね』
 ってこと?」
と言われると身も蓋もないんですが、まあ、そんなところです。

ただ、自分なりの「E=mc2」みたいなものが見えた気がして、
はしゃいじゃいました。

正直なところ、僕もお祭りみたいなのに乗ってはしゃぐのは大好きなんです。
ええ、揃えましたとも「週刊わたしのおにいちゃん」。
33独身男性・実家住まい。
終わってます。
モノ的にもそんなにめちゃめちゃ欲しいワケじゃなくて
ホントよ?
でもまあ、可愛いなあ、とは思って、買っておかねばなるまいと思わされて、
買って満足してるわけです。少なくとも値段分ぐらいは。

でも作り手の顔になれば、
「いや、こんなエサで俺が釣られクマー」
と思ってるわけです。
(もちろん大木さんのフィギュア始め、これそのものもモノとしてイイモノですよ)
そこのところの乖離が、別にこれだけじゃなくて、
昔からずーっと、それこそシャープに勤める前後ぐらいからずっとあったんです。

「イイモノ」って、なに!?

好き嫌いは別にして、流行りだからといってワッと被せる手法もよくわかりますし、
またフィールドが違えば自分も乗るわけです。
それを否定することは、自分の否定すらなる。
ある側面、僕でいえば書き手としての側面に人生を殉じさせる、
そんなカッコイイ生き方も模索したのですが、
それもちょっと違和感がある。
辛いとか難しいのではなくて、
みんなニコニコしてるわけです。
そこへ土足で乗り込んで、
「こんな頭の黒い富士額のネズミのどこがええねや!」
とは、言えないというよりも、人として言ってはいけない。

作り手としての顔が、人間としての顔を上塗りする、
それはいけない。
美学としてありかもしれないけど、少なくとも僕に合う感性ではない。

それを突き詰めると、極端な話、テロリストになるのです。
人の顔は、いつ何時でも失ってはならない。

というわけで、
なにをもってして、価値の軸にするのか、
そこを作り手と受け手との関係に置いて、整理しがたくて苦しんでいたのですが、
そこを、くりかえしになりますが、
「作り手と受け手の良好な関係が成り立つもの」
特に、
「作り手側にその意識が高くあるもの」
こそが、ポイントでは無かろうか、
あとの要素はまあ、どうでもいい、という軸で見てみれば、
「いや、デズニーいいじゃん」
と初めて心から思えたわけです(笑)
その切り口でいえば、やはり世界の最高峰なわけですね、あそこ。
ゴミ掃除のバイト一人から徹底して叩き込んでるわけで、
他の調子の悪いテーマパークは、じゃあそこまでやってんのか、と。
そこで見れば非常に尊敬すべきであり、見習うべきモノである、と。

それと「ウケ狙い」とどこが違うのか、と言われると、
結果的には同じです。
同じなんですけど、徹底したウケ狙いは、徹底して受け手のことを考える。
簡単でも、楽でもない。
友達から笑いをとるのだって、狙ってはなかなか取れません。
相手の様子をよく見て、畳み掛ける時には畳み掛ける、
温度上がってないようなら下ネタとか老人ネタとか、動かし易いところから当ててみる。
ものすごい力と繊細さを使うわけで、
「これが流行ってるからこれでいこう」
そんないい加減なものは、本当の意味でのウケ狙いではない。
つまりウケ狙いかどうかなどどうでもよく、
受け手のことをしっかり考えているかどうか、
そこの方が、より大切なポイント、なのです。

ああ、個人的にスッキリ(笑)

もちろん、これも感じ方人それぞれですから、
「そうかなあ?」とお思いの方も多々おられると思います。
それはそれで、いいと思うのです。
絶対クオリティを軸におく生き方ももののふですし、
流れにただのっかるだけでも、そういう動きがなければ動かない山もあって、
たとえばメーカーではやりたいやりたくないに関わらずやらねば死ぬ、
という環境もよくあったりして、
それはそれでおもしろかったり、必要だったりします。
ただ僕にとっては、これかなあ、と思ったまでで。

---

もう少し個人的無駄話を続けます。
一時期すごく、といっても最近ですが、
「本質以外の部分でエネルギーを掛ける」
ことに嫌悪感を抱いていたことがあります。
具体的には、「ミラクルズ」の表紙にキャラクターのイラストを描くことさえ、
止めようかと思ってました。

面倒とかそういうことではなくて、
不誠実な気がしたのです。
「そのエネルギーあるなら、その時間推敲するのが、本来の姿ではないか?」
と思い詰める。
もちろんそんなこと聖人君子でもなければありえない。
自分がそうでない以上、できないことを思っても願ってもしょうがない、
それもわかってるわけですが、モヤモヤは消えない。

でも、こうして考えてみれば、
表紙のイラストも、僕の「語りかけ」のひとつです。
やりたくないことならともかく、最初に描こうと思っていた時から自然とやってたことであり、
その自然に従うこと、
どんな形であれ、「語りたい」ことを語りたいようにやる、
ということは、悪いことではない。
むしろ、それによって僕の色が付く、個性が出る、という意味では、
とても大切なことです。
人の語りに、その人の声色が、その人の身振り手振り、表情の変化が、
鮮やかな、その人にしか創り出せない色を、つけるように。

もう一度言い換えれば、
「やりたいことをやりたいようにやるための大方針が立った」
という感じでしょうか。
やりたいようにやりゃいいんだ、と言われてもめちゃめちゃ難しい。
例え遠くても実現可能性がわからなくても、
「インドを目指すぞ!」と叫んで出港した方がいい。

まあ、この「インド」は人それぞれなので、
「これがいいですよ!」
とオススメするわけにもいかないのですが、
ただ、モヤモヤがあるなら、いつかハッキリするわけで、
モヤモヤに対してしっかり考えることは、無駄ではない、と思います。
おにいちゃんがゆえることはそれだけだ(笑)

時間掛かりますけどね。
僕の場合、「あれ?」と思い始めてからなら10年以上。

特に書き始めてからは常に喉に引っかかった小骨状態でした。
半分ノイローゼみたいになって、
本屋さんに行けなかった時期もありましたよ。
本屋さんって特に、あまりにも玉石混淆じゃないですか。
紙屑より価値の無いモノから、人類の宝までが一緒に並べられている。
その状態がもう、やるせなくてせつなくて、
それを思い詰めると、「人間は滅ぶんじゃないか」ってとこまで行くわけです。
でもこうして改めて考え直せば、
それぞれはそれぞれなりの「語りかけ」を、お客さんに対してしてるだけで、
どの語りかけにどう応えるかは、その人その人。
どの本が偉くてどの本がダメ、そんなことは、無いんですね。
だって、どの時代の本屋さんも、こんな感じだったんだもの。
これからもそうでしょうし。

もっかいだけまとめます。
コンセプトでもいい技術でもいい情熱でもいい、流行でもいい、
手段はなんでもいいから、とにかく、

語りたいことを、語りたいように。
相手の目を見て。

人間は結局、人間が一番好きでおもしろい。
だから、欲しいものは、作品やサーヴィスやモノの後ろに潜む、
人間の声、なのです。



 9/17 はんぶんこ2

一昨日の「はんぶんこ」拾遺。長文失礼。

現代では多くのコンテンツ作成が「産業」と化している。
本来、作品の香り付けというものは作成者側に委ねられるべきものだが、
シンジケートが組まれ投資がされ「失敗は許されない」となると、
それ以外の部分からの要求・横やり・監視が入るのは当然である。
その場合、作戦の組み立てとして必ず「わかりやすい魅力」を追求する必要に迫られ、
結局、「凄さ」をアピールするという作戦が50年前から変わらず続けられている。
誰にでもわかるのは、
・作成チームの実績
・ヴォリューム
・ワンカットで圧倒できる詳細クオリティ
の三点セットで、つまりこれを追い続けるとコストが青天井になる。

しかし誰でも知ってるとおり、
この三点と作品の面白さとは「まったく」因果関係が無い。

この事実は誰もが痛いほど知っているはずなのに、
作る側も受ける側も、まるで忘れたいかと思ってるかのように常に忘れて、
今日もハツカネズミの回転車、エネルギッシュにつまらないものを生産し消費し続ける。

ではその罠に陥らないためにどうすべきか、
作り手としても受け手としても、と考えて結局は、
・作り手と受け手が一緒にやる
ことが、一番必要なのではないか、と考えたのが、一昨日の「はんぶんこ」である。

---

もちろん、作り手側がやりたくてやりたくてしょうがなく、
受け手のことをあまり考えずやってしまうものもよくある。
それを情熱というのではないか、と反論されるかもしれないが、
果たして本当に作り上げたいものと、
それをオープンにしたい欲とは、
分離独立しているものだろうか。

個人的には、そうは思わない。
こうして毎日6年近くweb日記っぽいものを書いている私だが、
紙日記の経験は、強制されたものを除けば、ない。
つまり(私の場合)相手に伝わることを前提とするからこそキーを叩くのであり、
思考実験としてインターネットが無くなった時に、独りでほえながを更新し続ける自信は、
まるで無い。
その時間書き続けていることはあるだろうが、それを同人誌にするなりなんなり、
「伝えられる」形にしようと努力するはずである。

むろん私も作り手たる一面を持つので、
作り上げること自体の悦びを知らぬわけではない。
ただそれも、より綿密にみれば、自分の中の受け手、
もう一人の自分を喜ばせている行為と考えられなくもなく、
(ちょっと無理矢理くさいが)
やはり、作ることと受けることは、セットになっているものなのだ。

作者がほとばしる情熱だけで作ってしまったモノをオナニーなどと揶揄することがあるが、
それを商売にしてる方々もいるわけで、そうであるかどうかは問題ではなく、
見るものが楽しめるかどうか、それだけが問題である。

---

そういう視点で見てみる。

私は人に自慢できるほどヘビィなゲーマーではない。
特にアクションは苦手で、「スーパーマリオ」でBボタンダッシュができず、
「ストII」は昇竜拳が出せない時点で諦めた。
RPGでも解ければいい方で、やり込み要素には余りこだわりはない。

そんなライトゲーマーが頭真っ白になるぐらいやっているのが「FF11」であり、
これ、MMORPGの何がおもしろいかと言って、
つまりは半分は受け手のモノなのである。
用意されている舞台と大筋は、非常に綿密にエネルギー掛けて作り込まれているのだが、
その舞台の上で動くのは我々。
おもしろく遊ぶもつまらなく遊ぶも「半分は」自分次第、
自分の工夫で面白さをかなりブーストできる。
この状況自体が、おもしろい。
(MMORPG……数百〜数千のプレーヤーが同時に同じサーバに接続してプレイする、
 ネットワークロールプレイングゲーム)

友人と鄙びた温泉旅館に遊びに行くのと同じ。
メシ喰って寝てるだけでもよし、風呂に入り続けてもよし、
あたりを散策して心休めるもよし、カラオケと麻雀もまあよい。
全てが作られ押しつけられた快感ではなく、
楽しい気分を自分で生産する。

自分で作ったものだから、自分にフィットしているのは当たり前のことである。
だからおもしろい。
たとえそれが半分でも。

ゲームが、草創期に、今にして思えばなんであんなレヴェルの低いものに
あんなにエネルギーを掛けたのか、と考えるに、
要するにエネルギーを掛けている自分自身を楽しんでいたのだ。
友人は「ファミスタ」のとおやまのけなげなシュートをドット単位で出し入れし、
ボールと見せてギリギリでベースの角をかすめる、打てない魔球を編み出した。
「対戦」の悦び、人間相手に勝つ、予期しないことが起きる、
それももちろんあるのだが、
「自分が・積極的に・その舞台にコミットしているという手応え」
こそが、懐かしのゲーム達の面白さの幹ではないか。
「スペランカー」など今の基準でいえば一顧だにされぬ糞ゲーである。
だがあの理不尽な難易度に歯を食いしばって立ち向かう、
そのワッと燃える情熱こそが、ゲームの本質だった。

と、過去形にするのは言いすぎで、今もその要素は受け継がれてはいる。
「DDR」や各種音ゲーでギャラリーを巻き込むのもそうだし、
広く言えば、新着エロゲーでネットで大騒ぎするのも、その変形であろう。
みんなで騒げる素材があって、それで騒ぐ楽しさ。
「祭り」とはよく表現したもので、まさにその楽しさである。

余談。
ボロカス言われながらも2年以上のサービスを順調に続け、
純国産MMORPGとしては最強の位置を欲しいままにするFF11が、
これでもか式のCG映画をブチ上げて傾いてしまった会社が作っている、
というのがまたおもしろい。
「失敗は成功の─」という教訓として見るか、歴史の皮肉を感じ取るか、
それは見る人次第であるが。

ともあれ、ゲームは特に参加を強制させるものでもあるので、本来はこの、
「作り手と受け手がコラボレーションして楽しさを作り出す」
点で非常に有利である、はずだ。
が、技術の進歩とマーケティング上の要求から、
「受け手側の参加の余地」を随分削ってしまっているのが、
昨今のゲームシーンではなかろうか。
任天堂はそこのところを常に意識していて、
無理にでもユーザー自身の「おもしろがり魂」を引きずり出そうと
ソフト・ハードとも努力を重ねている。
ユーザーも最近はノリがよくて、我々の世代がお布施のようにしてファミコンミニを
集める姿があったりもする。
あれも結局は、懐かしさだけではなく、そのものをやりたいという気分だけでもなく、
「ああ、このころは楽しかったなあ」
という涸れかけたゲームに対する思いに、水分を与える行為なのではないか。

ゲームが、ゲームらしい楽しさを取り戻すのは、もう少し時間が掛かるかもしれないが、
しかし光明がないわけではない。

---

ただ、いかに全てのコンテンツが受け手の参加を要求するものだといっても、逆に
「舞台だけ用意しました、あとは楽しんでね」
というのは作り手としては怠慢である。
いわば野を切り拓いて「オートキャンプ場です」と強弁するようなものだ。
不便を楽しんでもらうにしろ、やっぱりトイレも要れば水道も必要、
1本250円でもいいから自動販売機もあった方がいい。
電源が無いと車載TVで「笑点」を見ることもかなわない。
「お祭りやりま〜す!
 こんなイベント、こんな盆踊り、こんな屋台、
 ご先祖様もやってきます、この神社にはこんな歴史あってこんなもの見られます、
 こんなに楽しいです、ぜひみんなで来てください〜!」
それを聞いて人々は、「お、楽しそう、行ってみようかな」と思う。
その判断を下せないようなら、
「お祭り」というだけで価値のあった江戸時代とは違って、
今は居ながらにして世界中のお祭りに参加できるのだから、
誰も来てはくれない。

愛知万博には、そのケがある。
お祭りだから来てくれるだろう、と思ってる節がアリアリで、
もうそういう時代ではない。
どんなに楽しい
(それは知的好奇心でもいいし、単なる流行でもいいし、ミッキーでもいいのだが)
ものか、はっきり見せてくれなければ、つまり、
「そこで僕達はどう楽しめばいいの?」
という絵を描いてくれないと、説得してくれないと、興味の持ちようもないのである。

「テーマパークの限界」などと評するのは、
ローマ帝国の崩壊の理由を「ローマの限界」などと言うのと同じで、
全く意味の籠もらない言葉である。
それが証拠にデズニーはサイクロン掃除機のように人々を吸い寄せ続けており、
本気で勝ちたいなら「デズニーよりデズニー」をやればすむことだ。
逆に採算度外視で中学生の社会見学にぴったりな、
そんな地味ながらも良い展示を目指す、のならば、それはそれで見識だ。
ただその場合は、その期間に限っては、大英博物館に行くよりもルーブルに行くよりも、
愛知万博に行った方が勉強になる、
そのぐらいの迫力を目指さねばならず、それはそれで茨の道ではある。
しかしもしそれが実現できたら、逆に人出もかなり稼げるのではないか。
今、日本人は大変暇であり、金も無くはなく、
「おもしろそうなら」行くのである。

つまりはどのコンセプトでもいいから、どこを狙っているかはっきり見せてくれないと、
受け手的に判断不可能になる。
と、参加も何もあったものではない。
ハコ、舞台の用意、それだけではコンテンツにならない。
その舞台でどんな踊りを踊るのか、踊らされるのか、
そこまで含めて説明しやってみせて、初めてコンテンツになるのである。
大阪ドームを見に来る客は非常に少ない。
みんな近鉄の試合を見に来ているのであって、
「ドーム建てます」だけでは、コンテンツにならない。

作り手はよくこの魅力的な幻覚の虜になる。
みんなギリギリなのだ。
「ドームでやるから客来てくれるやろ」と、信じたいのだ。
来ない。
びっくりするぐらい、来ない。
今日もどこかで、ハコの良さ舞台の良さパッケージの良さを誇り、
そして潰れる料理店が商品が映画が、不幸を量産し続けている。

長すぎるのでまた明日。



 9/16 たった独りの、戦い

本日はストレートに尾籠な話ですので、食中食前食後にはお控えのほどを。

以前ほどではないが今も生姜紅茶を愛飲している。
体温上昇効果によって風邪もひかない毎日を送れているのだが、
たった一つ困ったことがある。

便が固くなった。

私は生まれついての軟便家であり、心身共に糞切りの悪い人生を歩んでおり、
故に水しぶきをあげてのウォシュレットの登場は
ビデオデッキやコードレス電話が我が家に来た時よりもはるかに嬉しかった。
お尻だって洗って欲しいどころか、忙しくなると風呂に入らない悪癖があって、
そんな時などお尻しか洗わない。
そのような生粋の軟便家を持ってして、固く勁くなかなかに出現を拒む反乱軍のような
硬便を生産するに至った。
ために日々一々の行為がため息が漏れるほどの大事業であり、
それはまさに「便・ハー」。

──その日も激しい内乱に手を焼いた。
皆様ご存じのとおり出口付近で糞張られると、実に気持ちが悪い。

倦怠期のマンネリに手を焼くカップル、特に冒険心豊かな二人などでは、
この部位を用いてなんだか楽しいことをしたりするとも聞く。
恋人同士の世界ほど他人に窺い知ることのできない世界はなく、
この気持ち悪さを楽しむ女の人がいるとは、あまりに世界は広く間口は狭い。
いや。
それを楽しむのは女性ばかりではなく、男性もそうである。

医療関係者の友人に聞いた話である。ある患者が
「肛門に250ml缶が入って取れない」という「事故」
により救急車で担ぎ込まれた。
あまりにありえないレントゲンを見て笑いを噛み殺すのに必死だったそうだが、
当人にとっては生死に関わるクリティカルプロブレムである。
このままでは不要物排泄が不可能になり、膨れあがって死んでしまう。
文字通り糞死である。

もちろんしかるべき処置が執られて事なきを得たのであるが、
件の250ml缶は美しく薄いゴムでぴっちりとラッピングされていたそうで、
つまりは事故ではなく故意ではないか、という疑いがある。
しかしそこは恋する二人のやることだからお小言など言わないのが粋というものだ。
文脈からおわかりのとおり、患者は男性である。
「ハッハッハッ、お望み通りぶっといのをブチ込まれてやるぜ!」
そんな見得を切ったのだろうか。
漢らしい。
彼女が付き添っていたらしいが、
局部痙攣で繋がったまま運ばれるよりも恥ずかしい事態だろう。
逆に言えばこの辱めを経験した以上なんでもできるとも言え、
ぜひ国連か何かで地球の平和のために働いて欲しい。

──そんなことを思い出しているうちにいよいよ苦しみは深くなるばかりである。
こんなものが快感だとはどう考えても思えぬのだが、
ひょっとするとこの抜き差しならぬ感触を味わうのが、大人というものかもしれない。
鮎のほろ苦さ、サザエのワタである。

子供の頃は子供であった。
薄ボンヤリとこうした知識の入ってくる小学校高学年あたりで、
「男同士の恋」というフレーズを聞いては、
それは非常にプラトニックな、場合によっては美麗とも取れる風習なのではないか、
だって戦国大名だってそうだし、などと夢想してみたりした。
しかしそれはもちろん、子供の子供らしい間違いである。
やはり男性と男性のカップルも、その場所を中心として複雑な運動を為すわけであり、
それによって二人の絆を確かめ合いつつほのかに心地よさも得たりなどする。

そのような心身共に睦み合う男男の関係を描くマンガ・小説のことを
「エロ」とは言わず特別に「やおい」と称する。
語源は一般的に
「『や』ま無し、『お』ち無し、『い』み無し(で、ただそういうシーンだけがある)」
といわれているが、私はそれよりも魔夜峰夫先生の
「『や』めて 『お』しりが 『い』たい」
というロマンティックな説を採りたい。
「パタリロ!」の魔夜先生が言うのであるから間違いは無い。

──ところで、あまりに辛い。
指を突っ込んで掻き出したい衝動に駆られるが、
それをやってしまうと人として何か大切なものを喪くしてしまいそうなので、こらえた。
代わりに、普段から使用しているある手段に訴える。
そう、科学の力、我らがウォシュレット大明神である。
「未だ為されず」の状態でも水流による適度な刺激を周辺に与えれば、
目覚めた括約筋が力強い動きでもって当該物を破断、もしくは圧延してくれるに
違いない。
意を決し「洗浄」ボタンを押し込んだ。

作戦は失敗した。

括約筋と腸蠕動を活発にするところまでは良かったのだが、
それを持ってしてもなお頑強に糞張る抵抗軍。
まさに前門の虎肛門の狼、進退ここに極まれり。
手に取っていた「趣味の園芸」を地面に取り落とし、ジーンズもパンツも脱衣して
あらゆる方向へ身を捩って排出を試みるも、事態は発展しない。

アヌシュ選手のことである。
ドーピング検査で他人の尿とのすり替えを疑われているのだが、
その尿を入れた容器を、なんとここに隠していたかもしれないと言うではないか。
「さすがアヌシュ!」
と男子中校生のような喝采を送ったのは私だけではあるまい。
詳しい方法はもちろん闇の中だが、もし競技中もそのような物体を
装着したままだったとするなら、その健闘を讃えるほかない。
そんなハンディを背負っていや詰め込んで、あれだけの大投擲ができるのなら、
普通にやれば間違いなく金メダルだ。
一枚ぐらい返さなくてもいいような気もする。

──脂汗を掻き涙を流して悶えるうち、
ふと状況が変わったのは思わず便座に片膝をつくような格好をした時のことである。
いわゆる「気張り」が効いて、敵の前線が僅かながら崩壊したのだ。
そう、日本古来のスタイル、1500年の伝統「和式」の力と魂が宿った瞬間である。
ここだ!
タイミングを逸せず戦力を一気投入、ありとあらゆる手練手管を用いたところ、
遂に抵抗軍は軍門を下り、軽い急性切れ痔のために鮮血にまみれた水の満々と満ちる、
淡いベージュの陶器へとその黒々とした身を横たえた。

戦後処理を行い立ち上がると、
また余計なことに我が家のトワレットでは正面にかなり大きな鏡がある。
そこに写し出される汗みどろで憔悴しきった、下半身裸の己の姿は
わずかに情けなかったが、しかし、勝利の充足感に満ち満ちていた。
たった独りの戦いを終えた戦士が、そこに居た。

「……まさに、孤軍糞闘だな」

なぜカッコつけてるのか自分でもよくわからない。
こういう精神状態を、「尻滅裂」という。

後ろがよろしいようで。



 9/15 はんぶんこ

僕は幸いにして、自分の書いたものが未だ大好きです。

それは「俺オモロイ」といううぬぼれではなく、
いや、その部分もいくらかはあると思うのですが、
「自分で書いたから」おもしろい、というものです。
自分で作ったカレーが美味しく思えるのと同じ。

最初はともかく、作り慣れてくると自分好みの味付けにしますし、
自分好みの具を自分好みの配分で、辛さもライスに対する比率も、
福神漬けのメーカーまで自分で決めれるもので、
そりゃ、美味いと思わないほうがおかしい。

時が経てば、それが数日でも、
冷静な第三者の、食べる人の目になれますから、
「もうちょっと辛くても……」とか、
「いや、付け合わせにタクアンはやっぱりおかしいやろ」とか
思うのですが、書いてる時はそれでいい、と思ってるわけですね。
それを、誰が食べても美味しい「だろうと思う」ものにチューンするか、
いや、俺はこれが美味いと思う、みんな食べてみてくれ!と突き出すかは、
その人や場合によるのですが。

おもいまするに、
一番おもしろいところは、美味しいところは、ここなんです。
つまり、「自分がやった」っていうところ。

もちろん、文章書いたのは作者です。
絵を描いたのは画家です、歌を歌ってるのは歌手です。
でも、本当に良いモノというのは、受け手のどこかを刺激して、
──これが「感動」ですね──
なにかをワーッと湧きあがらせるものです。
小説ならイメージ、絵ならストーリー、歌なら声やリズム。
楽しい小説は文面にあるものの何倍もの絵を、読者自らが創り上げて、
それを動かして楽しめる。
良い歌を聴けば、黙って聞いていればいいものを、
声が出て首を振り手を叩き身体を揺すってしまう。
自分が、なにかを、する。

逆に言えば、そうさせるものは、なんでも、素晴らしいものなのです。
技術の良し悪しとか、完成度とか、そういうのはあんまり関係がない。
見るもののどこをどう刺激して、その重い腰を上げさせるか、
それが作品の力、ではないでしょうか。

正岡子規が万葉集を、岡本太郎が縄文土器を、というのは、
そういう文化あるいは表現の、さきがけたる部分は、
最もそこがビビッドに現れてるからのように思います。
稚拙だからこそ、受け手の想像、そして創造の幅が広い。
そしてストレートです。だから受け手も、打ち返しやすい。

半分こです。
作り手と受け手は、はんぶんこ。

だから逆に、めちゃめちゃに良くできていても、
受け手の何かをくすぐらないものは、空間を埋めるという意味での商業的価値はあっても、
(これも大事なんですけどね)
文化的価値はあまりない。
でも、娘がパパの絵を描くと、パパ泣いて喜ぶわけです。
家族以外からすればただの落描きなんですけども。

全部そうです、写真でもそう、科学記事でもそう、
「お、これは!」と思うのは、受け手自身が、なにかを作り出すもの。
「アラスカ行きてぇ!」とか、
「どうしてこんな馬鹿でかいハリケーンが発生するんだ!?」とか。
そこでワーッと動く頭と心が、「おもしろさ」。

よく言われることで、いろんな形でご経験のことと思いますが、
ある作品について、作者のお薦めポイントと、受け手にウケるポイントってのは
びっくりするほどズレてることが多いです。
作者のお薦めポイントって要するに作者が一個人としてウケてるところで、
そして人はそれぞれですから、それとは関係なく、
他の人々はどこかに揺さぶられてるわけですね。
だからズレてても別におかしくないし、
むしろ作者というのは、ズレを生み出すことで価値を生み出してる人なわけですから、
自分のウケとみんなのウケとが、外れていれば外れているほど喜んでもいいぐらいです。

「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」、あるいは東映戦隊シリーズのような、
100%筋のわかってるものがどうしてあれほど喜ばれ続けるか、というと、
たれにでも参加する喜びがあるからに違いありません。
悪人が善人を追い詰める、そこに現れる新さん、
その時に我々はその後に展開されるストーリーは愚か、
セリフまで全部頭の中に用意しちゃう。
そして健・マツダイラが吼えるわけです。
「成敗!」
ほれみい、ワシの思ったとおりや〜!

あたりまえです。

でも、だからおもしろいんですね。
ジェットコースターはどんな奇抜な動きをしても、振り落とされることはありません。
あれと同じ。

おしなべて文化、というのは、要するに遊びです。
食料生産に余裕ができて、遊んで暮らせる人間を養えるようになって、
まず宗教家、そして軍人、医者、売春婦。
あと記録者としての語り部だの、祭りのヒーローヒロインである歌い手だの踊り手だの。
「あの人は俺よりも上手くやってくれる」
と思うからこそ託すわけで、単独で存在したものでは、ないのです。
小難しいことをゴチャゴチャ言って眉間に皺寄せてますが、
結局のところ、火を囲んでみんなで車座になってるところで、
そのみんなの心を沸き立たせるかどうか、
そこが、まず、第一の、決して無くしてはならない、ポイントではないかな、と思います。

時代と環境によって、閉塞する文化・文物もあります。
どんな民族も、どんな分野でも優れ続けるわけではない。
技巧や流行の袋小路に迷い込んで、この一番大切な、
受け手とはんぶんこ、の部分を無くしちゃうと、そうなる。
でも、誰かが出てくる。
夏目漱石が「坊っちゃん」を書く、
言葉もわかりやすくて、主人公のイメージも描きやすい。
つまり、みんなが参加できる。
すると、わーっと盛り上がる。
明治の人々にとっては、まだ浄瑠璃本で近松を読んでたかもしれない人々にとっては
今では考えられないほど強烈なインパクトがあったのではないでしょうか。
汎用性の高い素晴らしい文章日本語を築き上げた、
明治の若者のイキイキとした描写、
それももちろんなのですが、
この多くの人を一気に味方に付けた、
多くの人に小説に参加する楽しさを教え込んだ、
というところこそが、あの作品とあの方の素晴らしさではないか、と思います。

始めに戻りますが、どんなことでも「楽しそうにやってる人」を見ると、
人間楽しくなれるもので、
またそのことが楽しそうに見えてくるもの。
考えてみれば作り手と受け手を両方できるのだから、作り手は贅沢なもの。
受け手の2倍楽しまなきゃならんな、
と、今日もコーヒー・スタンドでニヤニヤ笑っているのです。



 9/14 お茶だ!お茶だよ!!

人間などというものはまことに意志薄弱なものでして。

9/2で書きましたように「半断茶」にチャレンジしていましたが、
すでに破れております。
もうね、毎日ガッポガッポ飲んでる。

だって、お茶好きなんですもの。

これも司馬叔父からの受け売りですが、日本文学研究者として名高い
ドナルド・キーンさんが、京都大学大学院に留学、
「よし、私はこれから、日本語だけしか使わない!」
と決意して2年。向こうからアメリカ人が来れば避けて通るほどです。
が、友人に無理矢理誘われて新京極でシェイクスピアの映画観ちゃった。
そして身体を震わせて泣いて感動。
「ああ、英語の国に生まれて良かった」

そんなもんです。

僕もそれのプチプチ版の経験があって、
初めてのパリ・ロンドン旅行の時です。
8日間日本食(中華も)一切無し、パン含め洋食大好きですので、
全然苦でもなんでもなくて、
「いけるいける。こりゃ向こうでも住めるな」
なんて思ってたんです。
帰りのANAのディナーでも、わざわざ明らかにコメの出てきそうな「なんとか丼」を避けて、
スズキの餡かけかなんかを選んだんです。
で、ナイフとフォークを用いて優雅に一切れ取り分けて食べてみるや、
その下に覗くのは白米……

美味かった。
もう、めちゃめちゃに美味いんです。
思わずナイフ&フォークを窓の外に投げ捨てて、割り箸を割っていただきますを
やりなおし。
スズキも要らない餡も邪魔、とにかくまっちろい白米を食わせろと。
パリで食べたいろんな料理も美味しくて想い出深かったのですが、
この旅行で一番インパクトのあった料理は、この白米でした。
ああ、お米の国に生まれて良かった。

お茶、結局、週末までガマンしたものの、確か土曜日にFFやって、
割とシビアな戦いをやって、終わって疲れて、
「今日は土曜だしお茶飲むかな」
と思ったのが運の尽き、750mlぐらい(マグカップ3杯)飲んじゃって、
「ああ、お茶うめ〜〜〜」
あとは元の黙阿弥です。
次の日は起き抜けから飲んでやがんの。

好きなことを断つ、というのは、なにか目標がないとダメですな。
なんとかクリアできそうな期間でね。
……3日間とか。

「節制」のつもりではじめたものが、
いつの間にか無判断思考停止での「禁止」になってたのですね。
だから逆に不足になって、バランスが崩れてた。
いやあ、難しいわ、こりゃ。

どこかに規範・基準めいたものを持たないと、健康で健全な生活は難しい。
しかしそれを持ちすぎると、ストレスになって、また健康も健全も害する。

ま、しかし、自分と対話しつつ失敗も成功も何度もしつつ見つけた
(1)毎日15分は歩く
(2)日に連続12時間は何も食べない
というのは非常に効いてまして、
たぶん(1)のおかげでほとんど風邪をひかず、
(2)のおかげでなんとか体重も68前後をキープできております。
昔はすぐ鼻炎が出て鼻ぐしゃぐしゃにして、75を超えるぽっちゃり型だったんですけどね。

あとは睡眠関係と、落ちつつあるスタミナのカヴァー方法の開発をやりたい。
断茶はスタミナ方面だったのですが、失敗でした。
ハラマキもスタミナ系ですが、こちらはちょっぴり保留中。
悪くないのですが、以前の「にんにく卵黄」同様、エネルギーを使いすぎる感じがします。
一発にはいいのですが、あとヨレヨレになっちゃうという……
その方がメリハリ効いていいといえばいいのですが、
だらけたい時、っていうのも人生にはあってですね。

こういうものは、「自分にあったなにか」を自分で見つける、また開発せねばならず、
そこが大変なのですが、そこがおもしろかったりもします。
また新しい作戦にチャレンジする時はご報告をば。



 9/13 B5いろいろ

似たようなコンセプトのB5クラスノートPCが2社から発表されました。
Sonyの「VAIO Type T」というのと、
メーカー名はあえて申しませんが某社の
Mebius MURAMASA PC-MP」です。

もう1スピンドル機(HDDだけで光学ドライブを載せない)では商売にならない、
(12インチ級ですら厳しい)
という社会的趨勢があり、
また技術の進歩で光学ドライブを載せてなお、マジックナンバー1.3キロ
(持ち運ぶ気になるならないはこのラインでかなり変わるそうです)
を切れるようになってきたため、
「光学ドライブ+B5サイズ(10インチ級ディスプレイ)」
というマシンがいくつか存在を許されるようになってきました。
サイズは12インチ級ですがウェイトは10インチ級、
そろそろ次期型が来そうなLet's note W2も名機中の名機です。

個人的には、MURAMASAの方に好感が持てます。
「Transmetaの新CPU」というあまりのレア加減、
小さいながら大型AV系ノートと同様にDVD/CDが独立起動する機能、
どうせ安物ですがついてくることに意義があるリモコンイヤフォン、
実に型後れですが(デビュー3年前だよ!)MOBILITY RADEON 7500でFFもできる、
目に痛そうですがまっちろな筐体でiBook風、
けなげなまでに頑張ってます。

サブノートPCというのは今や趣味物品ですから、
この「頑張ってる」という点がなにより大事なんじゃないでしょうか。

対するTypeTですが、渋い天板塗装に目を奪われてはいけません。
自慢の8時間駆動を実現しているのは無様に出っ張った
「それはやっていいのか?」的バッテリ。
勝手に想像するに、最初は1列3セルで4時間駆動でデザインしてて、
途中で6セル8時間行こう、ってことになったと見た。
(1スピンドルなので直接競合はしませんが、Let's note R3は9時間動きます)
いや、昔から後ろに下に「出っ張る」ということはサブノートではよくあったことなんですが、
それでも、存在価値はなくても「標準バッテリ」を用意してすっきり見せるとか、
あるいは折れ曲がって足になったりとか、なんとか意味を持たせようとしていた。
ここまで開き直ったデザインは初めてじゃないでしょうか。

そして大型化はされたものの、TRで悪評高かった
(実際ものすごく使いにくかった)
キーボード中心線から外れたタッチパッド。
いや、「どうせマウス使うからタッチパッドなんかありゃいいんだ」
それは確かですが、そんなこと言い出したら障子は立ったまま足で開ければいいという
ことになる。
どうやらDVD/CDも、Windowsが動いてないと見れない聞けないようです。
つまり、もう一歩、もう一歩が足りない。

でもこの2機種、たぶん店頭で見るとTypeTの方がカッコイイんだ。
店頭だとバッテリ抜かれてること多いし。
そして横長の液晶で映画かなんかデモされて、
「こっちの方がいいね!」なんてことになる。

サブノートPCというのは今や趣味物品ですから、
この「これ欲しい」という点がなにより大事だったりして。

がんばれシャープ(泣)

この2機種見比べると、非常に両社らしさが出てます。
MURAMASAは真面目に、技術的に新しいことにもどんどんチャレンジしてて、ソツもない。
だけど「商品」となると、ダークブルーべったり塗ってくるTypeTに追い詰められちゃう。
ただSonyにしてもキワキワで、そのバッテリはねえだろ、いやしょうがないにしても
もうちょっと恥ずかしそうにしろよ、と、サブノートオタクの多くが呆れたはずです。
ここをなんとかしようと頑張るのがSonyだったはずで、
そこを頑張らなくなったら、Panasonicと同じなのです、よ。

---

昔、ライバルメーカーに勤めていた私にとっては(ここ笑うところ)
Sonyの最近のこうした雰囲気が、非常に気がかりです。
やっぱりSonyが無茶な商品で引っ張ってくれるから、
パナ始めとする他社が「なにをう!」と盛り上がれるわけでね。
アタック隊というか、チャレンジャーで、
たまに高い峰登っちゃうこともあれば、ズルズル滑落して白骨を晒すこともある。
でも失敗は失敗で他者にとっては非常にありがたい栄養になっており、
「ありゃダメだ」というのをあそこがやってくれる(ユーザーも巻き込んで〜)
おかげで、自分達はもうちょい練れる。
それが業界全体の底上げと進歩の早さに繋がっている、いや、いた、と思います。

原因はわかりません。
案外ああいうのって中にいればわかるもので、
「いや社長がしょーもない奴で」
とかそのぐらいでも士気はまるで違い、よって成績もかなり変わるものです。
逆のパターンですがゴーンさん一人で負債2兆と言われた日産が立ち直ったわけでね。
(出井さんは素晴らしい経営者ですからそれはなさそうですが)

ただ、ひとつ野次馬の気持ちとしては、
チャレンジングスピリッツを喪ってるようには思います。

携帯電話事業とか、一番Sonyらしいデバイスで、粘れば粘れたと思うのですが、
簡単に半切りしてエリクソンと手を結んだ。
日本的メーカーのいいところでも悪いところでもあるんですが、
協業ってすごいしんどいんですよ。
力足りずとも単独でやってる方が、まだ動きやすい。
それやってると、いい意味の気違いがたま〜に出てきて、
一発逆転超ヒットの目があるんです。
あんなもんね、一商品で関わってる技術者や企画者の数なんてほんの数人で、
気違いが一人居るだけでその商品の魅力って全然違うんです。
各分野に一人ずつでもいりゃあもう、歴史に名前の残る名機が生まれるってものです。
どこかと組むともうありえない。スケールメリットでゴリ押すしかない。
それは、Sonyの風土と最もかけ離れてる戦い方なので、
身も入らなければ戦いにくいのだろう、と思います。
液晶事業もそうですよね。

経営の効率化とか、言えばそうなんですけど、
効率と挑戦は実に相反することです。
効率を求めれば、挑戦も文化も一切無い方がいい。
古のパナやトヨタ車のように(今は両者ともそうじゃないですが)
枯れた技術で鉄板の信頼性のブツを、より安い値段で提供することだけ考えていれば、
お客もたくさんついて儲かる。
それはそれでいいのですが、それでは進歩が無い。
それを担当してくれるメーカーもあっていいのですが、そればかりではつまらない。
つんのめって倒れようとも、新しい一歩を踏み出すところが、ないと。

---

TypeTには、「なんとなくカッコイイ」という魅力があるので、
たとえばMURAMASAと比べれば売り上げでは遜色ないか、いやむしろ勝つ。
でもそれは、メーカーの「本来の」勝ち方ではない。
そういう勝ち方してもいいんですけど、
それは拾い勝ち、ちゃんと勝てるためのつなぎ勝ち、その意識を忘れては、
滅びます。

逆に言うとこれで勝てちゃう、というのがSonyの不幸で、
いつまでも病巣が明らかにならず、ズルズル手術遅らせてるうちに、クライシスが来る、
……かもしれない。
杞憂に過ぎなければいいのですが。

ま、それはそれとしてこーなるとLet'sの動きが気になりますな。
R3の技術で「W3」を作るとどうなるのか、夢のアンダー1キロ2スピンドルが実現か。
いややはり同ウェイトで10時間駆動とか、そのあたりを狙うのか。
楽しみ、楽しみ。

……IBMが舞台から降りてるのが返す返すも残念です。

男のノートはTPだっちゅーの!(号泣)



 9/12 撲滅にはこれが効く

昨日は911から3年、たけしさん司会の陰謀説番組など観ながら。

ロシア南部の学校テロもそうですが、
結局、そんなことしてもなんにもならない。
それを、まだ正気を保っている我々は、ずっと心に刻みつけておかねばなりません。
ある日突然、日本だってなにかが起きて、自立を喪うかもしれません。
その時戦う/戦わないはその人の自由ですし、
戦う場合に暴力を手にするかどうか、それも自由といえば自由です。
でも、最後まで忘れてはならないのは、
「なんのために」戦うのか、という点で、
それ一つ考えれば、ああいう無様な戦い、意味も意義も効果も効率もなく、
ただ逆効果と、さらに多くの同胞の血を要求する戦い方、
そして歴史に消せぬ汚点を残し子々孫々にまで世界中から蔑まれるような、
そんなものに手を染めようとは思わぬはずです。

大脳が必要以上に発達し、身体的な本能をはるかに凌駕してしまった
人間という生き物は、常に目的が手段化する恐れがある。
テロを野蛮な行為と口を極めて叩く欧米諸国も、ついこの間まで、
人類丸ごと何十回も地獄に送れる核兵器を気が触れたように蓄え続けており、
人のことなどこれっぽっちも言えたものではありません。

でも考える頭脳があるからこそ、
いつか「いやちょっと待て違うな」と思えるもので、
イラクでテロが相次いでも、アメリカがブチギレて、
バグダッドに核ミサイルを叩き込んで全部灰にしようとは思わない。
1945年に2回もやったことを、60年後には選択肢にものぼらない。
一応、進歩はするものです。

日本だってついこないだまでは立派なテロ国家で、
要人暗殺など日常茶飯事、高橋是清も原敬も浜口雄幸も日本人に殺されてる。
対外的にも張作霖を爆殺してね。
テロは野蛮だ、無意味だ、
それを身をもって知るにはしかし、時間が必要なようです。
そして教育と反省と。

まだまだ、日本で言うなら明治維新あたりの国は多いです。
近代への市民革命を済ませていない国。
そうした国々と人々は、テロが何も生まないことを、知らない。
昔なら要人刺殺程度しか方法が無かったのが、今は旅客機を突っ込ませることができる、
その違いでしかありません。
許すべからざる卑劣な犯罪として取り締まるのはもちろんですが、と同時に、
これが如何に無意味なことであるか、骨身に染みて知っているちょっぴり先輩の各国が、
訴え続ける必要もあるのだと思います。

殴られた時に殴り返すのは、ほとんど意味がない。
「殴っても何も変わらないよ」と思い知ってもらうのが、
殴るのを止めさせる一番手っ取り早い方法ではないか、と思うのです。

具体的に何が出来るかと言われれば何もできないのですが、
せめてその事実は忘れず、
友や知人にウサマのような輩が出てきたら、懇々と教え諭すしかありません。
結局、その地道な努力の他に、テロを撲滅する方法はないように思います。
でも、みんなでやれば、何十年かかかるにせよ、できるはず。
だって天然痘ですら撲滅できたのですから。

ガラにもなくそんなことを考えてました。
ひとつひとつ、だれもが、
それがどんなことでも、とても効果薄く時間が掛かるようでいて、
一番の近道ではないかな、と思います。



 9/11 街道をゆこう

「街道をゆく」全巻読了。
おもしろかったです。
「竜馬」も「坂の上の雲」も「空海の風景」もいいのですが、
司馬遼太郎は「街道」に極まれり。

43巻ハズレ無し、単品ごとに充分楽しめますが、個人的にオススメは外国行く巻です。
2、5、19、20、22、23、25、28、30、31、35、39、40。
中でも、
5 モンゴル紀行
22/23 南蛮のみち
30/31 愛蘭土紀行
の3編は、3か所とも昔から行ってみたかった場所ということもあり、遼太郎節全開。
土地の人との交流も楽しい逸品です。
単品でもどうぞ。
20巻台は海外が多いです。
司馬叔父円熟期、色彩の濃い、充実した巻が多く、読み応えあります。

国内で印象に残ったのは、人文科学的題材を扱った
7 砂鉄のみち
38 オホーツク街道
かな。これも個人的な好みですが。
山陰の山奥で、今も砂鉄からの製鉄を細々とやってるそうですが、
これが抜群に質の良い鋼だということで、ジレットがまとめて買ってるんですって。
誇るべきか情けなく思うべきか、難しいエピソードです。
あとゴッホ好きとしては
35 オランダ紀行。

10 佐渡のみち
12 十津川街道
15 北海道の諸道
17 島原・天草の諸道
は、江戸期明治期に苦しんだ庶民の姿が浮き彫りにされてて、
締め付けられるような作品です。
この10巻台はこうした作が多いですね。少し重いかも知れませんが、
こうしたなかなか語られない辛い歴史、日本史の裏、も知ることができます。

文学好きなら、
33 赤坂散歩
36 本所深川散歩・神田界隈
37 本郷界隈
の東京三部作がおもしろい。
30巻台になりますと、小説の方のペースを落としていらっしゃるので、
こちらのペースが上がります。
1巻分一気にお書きになってる感じで、軽妙でとても読みやすい。
あと、1980年代とかになってきて、自分の知る風景とも合致しやすいんですね。

あとは東アジアもの、
2 韓のくに紀行
19 中国・江南のみち
20 中国・蜀と雲南のみち
25 中国・びんのみち
28 耽羅紀行
40 台湾紀行
を読むと、東アジア観がだいぶ変わります。
朝鮮の悲しみ、中国の苦しみ、台湾の切なさ……
近いというだけで知ってる気になってますが、
アメリカよりも知らない国かもしれません。
アジア好きの方にはこのあたり。

毎巻素敵な挿絵とエピソードを披露してくださった須田画伯が亡くなられた時は、
(35 オランダ紀行)
私も非常に寂しくなりました。
あのね、キレンジャーが代わった時より寂しかった。
でもあとをリリーフした安野画伯の淡い絵がまた、徐々に枯れてくる筆致とマッチして、
趣深いのです。
幸運、というよりも、もはや神様含むみんなでよってたかって、
ピンチすらチャンスに変えてしまう、そんな印象でした。

しかしラス前の 42 三浦半島記 では、司馬遼太郎ともあろうものが
凡ミスとしか言いようのない引用ミスを犯します。(編集部註が入ります)
43途中で急逝されることを知ってる身としては、体調その他に思いを馳せ、
胸が痛くなります。

いうても詮ないことながら、あと10年、あと10冊。
アフリカはどうなのとか、遼太郎 in Indiaとか、アマゾン紀行とか。
国内でも、実はホームタウン大阪は 3 河内みち しかない。
古神道好き、ならばやはり伊勢神宮は単独で……
惜しまれます。

連載開始が71年1月、ちょうど私の生まれた年です。
96年1月まで25年間にこの濃度の作品を43冊、
もちろん他にも精力的な仕事を続けながら、です。
中途半端なエネルギーではない。
私がその25年間に何をしてたか考えると、あまりに哀しくてヤケ酒を飲むほかありません。
しかし、しかし同じことはできなくとも、
その数分の一でも、やれることをやるほかない。
43巻でなによりもそのことを教わりました。

結局のところ、作家や教育者は、いや、たれもがみな、
何を言うかではなく、
何をしてみせるか。

がんばらなきゃ。



 9/10 絶対に、絶対に、落ちてる

こないだ。
ズヴァール城に宝箱を開けに行ったんですよ。
あ、FFね。
webで宝箱出現ポイントをバッチリ下調べして、
人の居なさそうな時間に乗り込んで、グルグル回ってみたんです。
ところが、歩けども歩けども無い。
ライバルもあまり居そうにないし、宝箱って一度開けると、次のは30分ぐらい後に
出現するんですけど、30分経っても1時間経っても出てこない。
泣きながらいろんなこと考えるわけです。
「あ、さっき闇の炎取りに来た一団の目の前に出ちゃったかな」
「あ、あそこでソロでエレ狩りしてる忍者さんが開けちゃったかな」
「いや、30分単位でログイン・アウトを繰り返すシーフが……」

2時間ぐらい巡回してて、さすがにおかしい、と思ったので、web調べなおしたんです。
情報が間違ってるんじゃないかと。
4つ5つサイト当たって、ようやく新情報にありついた。
回ってないところでの出現報告。
もしやと思ってそのポイント行ってみりゃあ……
ありました。
これ以上ないぐらい敢然と。

結局、寓話としては、
特にweb上では、「一次情報」、つまりその人が自力で稼いだ情報など、
実に実に希有なのです。
これは別にwebに限らず、ジャーナリストを志す人がまず叩き込まれるのが
「自分の足で歩いて自分の目で見て自分の耳で聞け」
そのために、砲火をくぐって戦場を駆けるわけですな。
つまりは、ジャーナリストにとっては一次情報は自身の安全よりも大切なもの。
webでデジタルデータ化されますと、
それを丸コピーするのは非常に簡単なので、
コピーが溢れる。
それは情報ではないわけです。
まだしも、リンク貼っておいてくれた方が誠実。
もっと扱いが難しいのは「まだらコピー」で、
自分の検証済みの部分と、どっかからちょっぱってきたデータが同列で並ぶ。
どこかに信頼を置いてしまって、他の部分を見て、裏切られたりする。

もののわかったサイト管理者の方ですと、
そうならぬように自己検証済みの情報しか載せなかったり、
あるいはここそこからの転載です、と明示したりするのですが、
それもまあ、テーブルマナー程度の拘束力しかなく、
「自分のメモみたいなもんにそんな細かいこといちいち付けてられるか」
と開き直られれば、確かにwebの良さはそこにもあるな、とうなずかざるを得ません。

「無い」という状態の時、人は不安に駆られ懸命に全力で判断しようとします。
しかし、
中途半端に「有る」と、それをそのまま受け入れてしまう。
情報が有ることの困難は、取捨選択の難しさの他に、
「落ちてることもある」という事実を大いに忘れてしまう、
ところにこそあるような気がします。

そう思って考えてみれば、一番端的に言えば、
「儲かる方法」
なんてみんな黙ってるわけです。
FFごときゲームでもそうですよ。
私マッチロックガンの話とか発火薬の話とか相当後になってから聞きましたもん。
現金なことに、ペットベータとか人参汁とか、
「教えても(つまりライバルが増えても)自分が困らない」金儲けは、
瞬く間に拡がるんですけどね。

webに携帯、人類のコミュニケーション能力は恐ろしく向上していますが、
けっきょく、
いちばん、
だいじなところは、
「明かされないまま」
と覚悟しておいた方がいいのかもしれません。

別段ペシミスティックなことやなくて、
かくゆう私も、こんなところでハゲてきた己を嘆き、まま上の専横を嘆き、
弟の遅刻をみっともなく紹介するのですが、
でも、言えないこと言わないことだっていくつかあるわけです。
昔から、誰でも、どこでも同じ。

つまり人間のコミュニケーション、ふれあいってのはそういうもんなんだよ、
仲介するモノ・サーヴィス・そしてヒトに関わらず。

という教え方をしてあげれば、子供達にはわかりやすいように思います。
なにもデジタルだからネットだから、ってんじゃなくて。
どんなに精密で便利でも、最末端は人間対人間である以上、
落ちてる情報がある。
こちらも伝えきれてない情報がある。
そこで生じる誤解を解くのは、自分で誠意持ってやるほか無い、と。

話し合えば通じる、ってもんでも無いですが、
「お互いわかってないことだらけ」という前提の元に、
しっかりその穴を埋めるように語り合うことが肝心です。
わかりあえるもの、とか空虚な理想を焦点の合わない眼で呟いてみたり、
わかりあえないもの、と自動小銃を手にしてみたり、
せずに。

2時間歩いてそんなことを思いました。
トレジャーハンターには向きません。



 9/9 「祈りの道」

「祈りの道〜吉野・熊野・高野の名宝〜」
(大阪市立美術館 特別展)
行ってまいりました。

平日昼間だというのにおじいちゃんおばあちゃんで館内立錐の余地無し!
熟年パワー恐るべし。

展示物は……ん〜……日頃し慣れぬ暴言をあえて無理に吐くと、
中途半端
かなあ。

忘れがちですが、仏像仏画は、芸術品である前に宗教用品です。
正しい仏像仏画は信仰グッズとしての性能が高いものをそれというのであって、
我々みたいな焼香の仕方もしらず仏様の枕元で柏手を叩く輩には、
その良し悪しなど検討もつきません。
ここに展示されているような仏様は、やはり、
熊野古道を天狗や台風による増水や南方熊楠に脅されつつ泣きながら歩いた末に
拝見するからこそ、尊いような気になれるわけで、
クーラーの効いた美術館でぽややんと見てもインパクトに欠けるわけです。

そんな無信心な我々にも「美」という側面からだけの性能ならわからなくもなく、
いやわかってないのかもしれませんが少なくとも多少はわかった気になって生きる自由を
政府に与えて貰っており、
心斎橋転がってるブランドものに身を固めたお姉ちゃんでも
ただ「美」である
という理由だけでフィアット・バルケッタとか買って3ヶ月でビーエムに乗り換えるわけです。

で、そういう意味で言うと、しょせん山奥、
法隆寺百済観音とか広隆寺弥勒菩薩半伽像、薬師寺聖観音といった
エース級に比べれば二段も三段も四段も五段も落ちます。
ぶっちゃけ、「ああ、これ、美しい」と思えたブツは一つもない。

今回見に行ってほとほと感心したのは人の世の世知辛さ、
要するに「国宝」だの「重要文化財」だのといっても小難しい基準があるわけじゃなくて、
「カッチョイイかどうか」
で簡単に決められてるようです。
ちょっとマシやな、と思ってみれば重文、
まるで服屋で値札確認するような作業でした。
つまり小綺麗に言えば、時代を超えて訴えられる普遍的美があるかどうか、ですな。

円空自彫(と伝の)木彫りの熊みたいな仏様もあるのですが、
口から仏様を6体だか7体だか同時に吐けるほどの歴史的人物が自ら作っても、
そのブツ自体にあまり美しさが無ければ、さほど省みられないわけです。

ま、正しいと言えば、正しい。

というわけで、「熊野の秘宝!」という言葉の響きからイメージされる、
・人生を変えてしまうような、オーロラと降る天使と法悦を伴う宗教的ショック。
・得体の知れぬ前衛表現ながら魂の震えが止まらず思わずバリ島旅行を計画してしまう
 美術的ショック。
ありません。
ただ、侘びて寂びての和風黒・白・金の仏教世界からは結構離れてて、
エキゾチックではあります。
そういう意味では珍しい。
どのぐらい珍しいかというと、ゴルフIIIが作りたくて作っちゃった初代プリメーラぐらい。
ああ、そりゃ江戸の人はこれ見て天竺にでも思いを馳せたろう、
と。

難癖もうちょいつけるとするなら、
やはり熊野であり高野山であり吉野であり、というのは、
その永年地生えの信仰とセットでなければ語り得ず、その部分が薄い。
鳥羽上皇(熊野詣狂い・21回行ってる)の肖像画とかあるんですけど、
展示品相互の連携が……
たとえば、もっとほら、紀伊半島の自然を、展示の余白にガンガン飾ってみるとか。
現在の修験道に生きる方々の姿を再現してみるとか。
すると、秘宝達のありがたみがグッと引き立ったような気がします。

繰り返しになりますが、
やっぱりね、紀伊半島の真ん中って、ほんと人跡未踏のすごいところなんですよ。
私バイクで縦断横断したことあるんですけど、ビバーグ中泣きそうでした。
なんかそのまま山に取り込まれちゃうかのようなね。
で、そんなところで修行してたり、あるいは頑張って何十キロ歩いて辿り着いたりして、
拝む仏様なわけです。
それがほのかに、京や奈良にない原色をまといバタ臭い造形してれば、
「やっぱり別世界!」
って感激するじゃないですか。
かの秘宝達は、そういうのコミで評価しないと。

いやまあ、おじいちゃんおばあちゃんに揉まれてちゃちゃっと見てた私の見方が
甘いのかもしれませんが。
あと常設展ではないで、そこまで精密に追い込め、というのは客の勝手な言い分ですな。
すいません。

1200円は高いですが、まあ、アレ系お好きならば珍しいもの代、というカンジです。


余談ですが、
平日昼間はランチ・タイムのメシ屋を除けば、
観光地客商売にとって暇でしょうがないわけですが、そんな時こそ高齢者。
どうも彼ら彼女らは金を持ってないわけではなく、
財布の紐が固いだけではないかと推察します。
だもので、「孫のために」筆頭に、こうした「これなら」という心理的後押しのある
催し物ならば、若者と変わらぬ動員力があると思いますな。

大変多くの方がポータブル解説機の貸し出しを受けており、
僕でも読みにくい小さな解説を食い入るようにご覧になる姿を見ていると、
理解してるしてないなど小さな問題、
その勉強熱心こそが日本をここまでにしてくれたんだな、
と落ちる涙をそのままに。
きっと弘法大師も高野山で微笑んでおられまする。
すぐに会えますよ。

負けてはいられない、と、天王寺ソフマップで
「週刊わたしのおにいちゃん特別増刊号」を買って帰りました。
勉強します。



 9/8 憤死上等

ノモさん白星おめでと〜。

直前にならないと騒がない標準マスコミは無視を決め込んでますが、
日米通算196勝目ですよ。(日本78勝46敗 MLB118勝101敗)
今季は無理っぽいですが、来季には必ず200勝。
もちろん通過点に過ぎませんが、偉大なる英雄にはやっぱり記録に残る勲章も欲しい、
ってところで……

……と、書き始めたら止まらなくなってしまい、結局は
「今のプロ野球はいかーんヽ(`Д´)ノ」
という絶叫に。

最近読んだ本に、
「人間は平和が好きだが、同じぐらい喧嘩が好きだ」
とありました。
私も、名前に「和」が入ってるほど平和好きですが、
ものすごく短気で怒りっぽいです。

人間的にすごく欠陥なのですが、治りません。
こないだokbちゃんに
「30過ぎたら遅刻も個性」
という実に魅力的なフレーズを教わったのですが、
30過ぎたら自分のどんな側面とも一生のおつきあいを覚悟した方が良さそうです。

怒り、がエネルギッシュな状態であることは確かなので、
これを上手くタービンを回す力に変えて、電力を発したい。

人には誰しもなにか、そういう「発電に使えるエネルギー」があるのかも。
切なさだったり、哀しさだったり、優しさだったり。
「楽をするためになら、どんなめんどくさいことでもやる」
とはプログラムの極意らしく、3人ばかりのプログラマの口から聞いたことがあるのですが、
怠惰さえ、電力になる。

負の力でも、力は力。
どす黒い感情でも、それを昇華する何かを持っていれば、
無害な何かに、あるいはむしろ、美しい結晶にさえ、できるかもしれません。
創作や表現の衝動なんて、一皮剥けばこの程度のものかも。
「あのテロリスト許せねえ、ブッコロス!」
それはいかんのですが、沸き起こる気持ちに嘘はつけない。
そこで、対テロ特殊部隊隊員の美少女の大活躍など描いてみたりする。
それじゃ『攻殻』か。
そこをこまっしゃくれて、「人類愛」とか言い出すと途端に肌触りがなくなる。

テーマ、っていうのはそういうもんじゃないかな、と思います。
魂の震えを、あえて言語化すれば、そうなる、ってだけのもので、
そのために描いてるわけじゃない。

震えないと実に描きにくいわけで、ごはん食べてくためには、
・震えて無くても手でそこそこ描ける。
・無理にでも震えられる。
どちらかあるいは両方が必要のようです。

最近より大事なのは後者の方かな、と思ったり。
前者はまあ、やってりゃ身に付くものですが、満足感どうしても薄いんですね。
「こなした」って達成感がある程度で。
もちろんそれも大事なんですけど。
で、後者。
しかし、繰り返し同じようなことやってますと、
若い頃あった、表現を考えたり組み立てたり、
すなわち手段そのものにワクワクしてた要素が、どんどん無くなってくるんです。
どんな趣味でも仕事でもそうだと思うんですが、
最初は「それをやってるだけで幸せ」だったはずです。
けどそれは、根底では流れ続けても、相対的に微量になっていきます。
休息をおいて、手段そのものへのワクワクを取り戻すのも一つの手ですが、
そうも言ってられない場合も多い。
なれば、生身の人間としての当人の、タービンを回す何か、電力を発生させる何か、
それを引っ張り出してくるのはどうだろう?
と思うのです。

振り返れば、自分の場合は、割と「怒り」エネルギーなら、簡単に取り出せる。
今も、そこらじゅうの虚空に向かって吼え続けてるわけです。
ボクがプロ野球の事について何を言ったって、なんのインパクトもない。
元プロ選手でもないし、強烈なマニアでもないし、つまりは立脚点が無いので、
言葉になんの力も無い。
ただ、でも、怒りの気持ちは割と本物で、
(たぶん、日本人的な危機に対する認識の甘さと、出てくる解決策の空虚さ、
 その辺のいつもの姿がいらだたしくてしょうがないと思うのですが)
ならばこれを、生でぶつけるんじゃなくて、
発電機通して何にでも使える電気に変えて、そしてどこかで使う。
そういうのが、やれりゃ便利だろうなあ、と思ったわけです。

……と、思って、今日のほえながを書いてみました。
そこそこ上手くいきました(笑)

そんなことばっかりやってると、末は脳溢血で憤死かもしれませんが。
まあそれも、らしいかな、とか。
ダメなところ、治しようがないなら、有効活用するしか。



 9/7 表現の骨

地震は来るは台風は来るわ。
不安を抱えてTVを見てればロシアの悲惨な事件の続報。
そんな中、デリマさん(マラソン・銅メダリスト)が例の乱入男について
「いやあ、全然恨んでなんかないですよ〜」
とブラジル人にたまにおいでの甲高い声で応えておられたのがとても印象的。

陰が濃いほど、光は輝いて見えます。
陰はほおっておいてもいくらでもあるので、我々にはやはり、光が必要なのです。

というわけでレンブラントやフェルメールは陰と影が第二の主役、
光を際だたせるために闇と黒の使い方が実に巧い。
油絵と対極にある水墨画でも、見ようによっては白と黒、
つまり高コントラストの極地と言えなくもない。
文章でもまったく同じで、光と陰、両方描けてこそだなあ、と思います。
私はどうしても同じ色調で塗ってしまいがちなのですが、
キャラが甘くても出来事で、出来事が平凡でも世界観で、
まあいろいろと陰をつける方法はあるので、精進せねば。
陰がない描き方もなくはないと思うのですが、
塗れないのと塗らないのではとても差がある、ので。

話は変わりますが、
日本で「マンガ」という表現手段が異常発達した理由の一つに、
水墨画と、あれを尊べる精神性が挙げられるのではないでしょうか。
もちろん、モノクロは出版上の制限だったわけですが、
あの制限のおかげで、日本人の『匠魂』が刺激され、
マンガ独特の表現が大いに興隆した、と睨みます。
軽自動車とかと同じ。家電製品も同じ。
理念などという腹の足しにもならないものを捨て、
制限の中で性能追い込ませたら間違いなく世界一。

たとえば、少女マンガやギャル絵で、頬にくにゃくにゃっと意味不明の線が
引かれてることがあります。

(モデルはウチ(といえばミラクルズ)の難波鳴海)

これは、頬の健康的なピンク色とか、立体としての盛り上がりとか、
そういうものを表現しているのですが、
もちろんこんなもの人間の顔にあるわけではない。
にもかかわらず、誰に教わらなくても、我々は自然とそういう風に捉えられるわけで、
つまりは普遍性のある記号である。
(マンガ慣れしていない人には解釈は無理かもしれませんが、
 少なくとも目障りではないはず)

こういう表現を考え、実行する人々がたくさんいて、
そしてそれは、有用であればあっと言う間に拡がって固定される。
真似もですが、科学の発明などと同様、同時多発的に起きることもありますね。
もちろんそんな中にも、受け継がれるものあり、時代と共に捨てられるものもあり。
たとえば、先ほどのナナが何かに驚いたとしましょう。

2004年現在なら、まあこんなもんでしょうか。 →

これが20年前、1984年ならさしずめこんな感じ。 →

ディテールを見ると何から何まで変わってるわけですが、
変わってない部分もある。
・後ろへののけぞり
・大きく開いた口と目
・つり上がった眉
変わってない部分があればこそ、20年前のを見ても、おそらく20年後のを見ても、
「ああ驚いてる」
と、古今東西老若男女が理解できるわけで、
これを「表現」というのです。
あとは些末事であり、どっちゃでもいいというか、なんでもいいというか、
好きなようにやりゃあいいというか。

今84年スタイルを用いれば、そりゃ「懐かしい」あるいは「古い」と言われます。
でもそれは、大事な部分ではない。
大事なのは「しっかり『驚き』を表現できている」
そしてその驚きに、物語的な、作品的な意味がある、
そこなのです。

素人さんは普通ディテールしか見えませんから、そこをつつき回します。
玄人であってもディテールから組み立てる人はいくらでもいて、
(特に日本人にはこの傾向が多量に含まれてる気がします)
結果、作品取り巻く環境みんなで、ディテールの突き合いをする陥穽に陥りがちです。
そのこと自体を楽しむ、それはそれでいいのですが、
その場合は、そういう意識を持ってないと、
本当に正しい幹を叩き折り、間違った枝を撫で回して大切にする、
そんな結果を導き出しかねません。

それは別に表現的な物事ばかりではなく、
ものづくりでもサーヴィスでも行政方針でも人と人の関わり方でも、なんでもそうです。
我々には、そういう固有の癖がある。
もちろん、それがいいように向くことも多いのですが。

台風で暇なのでこんなことを。
何が言いたいのかまとめれば、
80年代万歳。



 9/6 スト

プロ野球がストをするとかしないとか。
しかし、興行商売にストは合わないのではないでしょうか。

舞台裏の事情で、お客に迷惑を掛ける。
それは人気商売では、絶対にやってはいけないことのように思うのです。
劇団で、座長と劇場支配人がギャラでもめた、だから休演にします、
そんな話聞かないですよね。

思考実験として極端に言えば、
メーカーや炭坑ですと、ストで会社が潰れれば、よそで働けばいい。
でもプロ野球選手には「よそ」はない。
逆に電鉄会社バス会社ですと、なにをされようと住民の方が立場弱いですから、
四の五の言ってたって諦めるしかないわけですが、
プロ野球の場合、客にはアナザーチョイスが山のようにある。

先の惨敗にドラフト裏金、悪いことばかり続き信頼回復が何よりの重大事になっている
この時期に、最後の一押しになりかねない。

趣味とか好みとか思いこんでますが、半ばは習慣です。
毎晩ビール飲んでても、なにかのきっかけ、
たとえば健康診断で肝臓の値がちょとマズイ、
止めてみるかと止めてみれば、止められるものです。
与える側にしてみればポイントは、
「止めてみる」チャンス、キッカケを与えないところで、
要するに夢から醒めてもらっては困る。
覚ますような策は、誰にとっても利益にならない……
と、思うのです。

選手会側の気持ちもわかりますし、言ってることも常識の範囲内だとは思うのですが、
それでも、ストという手段は、プロ野球のためにならないと思います。
なんでもかんでも「やってはいけないこと」の社会的最低ラインが世界で最も甘い
アメリカの真似をすればいいというものではない。

思い起こせばおかしくなり始めたのはやはり、
93年のFA制度導入(&ドラフト逆指名解禁)あたりでしょうか。
なんでもそうですが、疲弊は徐々に、しかし破断は一瞬。
崩壊は、一旦始まるとこうも見事に、
やっはいけない方へやってはいけない方へ走ってしまう。

見てる分にはおもしろいとも言えますが、
どうにもできない歴史の波の荒さと、人間の愚かさを見せつけられるという点では、
少し切ないです。



 9/5 菩薩行

中村元・大先生の著作を拝読して初めて知ったのですが。

菩薩は、衆生を救うために、様々な姿になってこの世に生まれるそうですが、
そのために、自らは悟りの境地に入ることはないそうです。

エライじゃないですか。

西洋式の神悪魔対決伝奇系──たとえば「バスタード」とか──だと、
当然天使様が牙剥いて小悪魔と戦うわけですが、
そういう矛盾に子供の頃随分悩んだものです。
悪魔が欲望を剥き出しに血なまぐさい真似をするのはわかりやすいとして、
天使側が同じ手段取ってはいかんだろう、と。

僕はてっきり、菩薩だの天使だのってのは、全知全能宇宙そのものである
仏様神様のコンパクト分身版みたいなものだと思っていたのですが、さにあらず。
人であり仏である、そんなところでしょうか。

とどのつまりは人のために自らの道すらも断つ、
それが菩薩なり天使なりの心意気。
弥勒も観音も普賢も文殊も、しかしそれがゆえに、
(そういう教義上の細かいことはよく知らずとも、なんとなく伝わって)
皆に愛されているわけですな。
悟った顔して上から「やってやってる」わけではなくて、
自らを捨て、あるいは病人の間を駆け回り、あるいは仏敵を倒すため剣を取り、
あるいは知恵を膨らまさんがために日夜理を学ぶ。
まさに尊敬すべき人間そのものの姿ではありませんか。

人間しばらくやってりゃ、いろんな苦しみを背負うようになります。
消えるものもありますが、間違いなく一生消えないものもある。
あの渥美清さんでさえ、どなたか忘れたんですが共演の俳優さんにしみじみ、
「○○ちゃん、人間なんてみんな、ボロボロだよ」
と温泉に浸かりながら嘆息したとか。
寅さんがですよ?
その苦しみから逃れるために、悟りを開きたいと念じるものですが、
んなものそう簡単には開けません。

しかしそうなった時に、
「俺はいいから、
 みんなが苦しみから逃れるために、楽しく生きられるように、
 ひとつ頑張ってみっかな」
と思う、菩薩な心意気は、ありです。
まさに寅さんですな。
というよりも、みんなそう思ってたら、間違いなくえらいいい世の中になりそうです。
それこそ、みんなが仏様みたいになっちゃってる世の中よりもね。

古今東西を問わず、衆生のため身を粉にした偉人は神様になり祀られます。
悟らなくともいい、信じ切れなくてもいい、そういうものを超越して、あるいは忘れて、
「やるか」
と立ち上がれば、それでもう、「居場所」がある。
「捨つればこそ浮かぶ瀬もあれ」というのは、ヤケクソばかりではない。
あの柔和なお顔の菩薩様達もそう、というのは実に心強い。
さすが昔からあるシステムは、ちゃんと全部拾ってますな(笑)

トモアレ、サウイフモノニ、ワタシハ、ナリタイ。



 9/4 限界5

今日はFFです。

お爺ちゃん倒しました。
先人達のありがたい情報を元に、一発突破です。

最後の限界を超えようとする黒魔さん達のために、ポイントをメモ。
・お爺ちゃんに近づかない
・慌てない
この2点さえ守れば、黒は相当楽です。
(他ジョブの経験はありませんが)
ま、このぐらいの難易度でないと、アクション苦手な人もたくさん居るわけですし。
要するにタイマン勝負のドキドキを味わえば「突破したー」って気分になれるわけで。

流れは
フレア>印>スリプル>泉>フラッド>スタン>サンダーIII>ブリザドIII。
ダメージは順に
657、314(ハーフレジ)、170(ハーフレジ)、347、合計1488です。

細かく言いますと、
・準備として、
 呪符リレイズ、
 メロンパイ(お好みの食事で・ボイルシザーで守備力アップもよし)
 ヤグドリ(要らないといえば要りませんが、精神安定剤)
 ハイポ/エクスポ系いくつか(これもお守り)
 を用意。もちろん証も。
・突入曜日ですが、私は風。
 水(フレアの火の逆)光(スリプルの闇の逆)だけ外しました。 

・オカルトかもしれませんがエプロン姿でBC入り
・ブラクロ一式+氷杖
・呪符リレイズ、メロンパイ+1、ヤグドリ使用、ヒーリング少し。
・円形闘技場のちょっと手前あたりから、こちらの魔法が届きます。
 フレア詠唱
・フレア発動、と同時に全速後退(坂を下りる)
・少し距離を取ったら、
 AF+闇杖に着替え
 精霊の印
 スリプルマクロを用意しながら、お爺ちゃんの出方を伺う。
・お爺ちゃん、魔法は届かなくてもログは届きます。
 ガとか撃ってる時は絶対に近づかない。(着弾する)
 そうしてるとどうでもいいものを詠唱します。(私の場合はブレスパ)
 この時ササッと近づいて、スリプル詠唱。
・スリプル着弾、お爺ちゃん寝る
 レジられても慌てない。相手の攻撃間隔は結構長目なので、
 ソロ戦のように攻撃を見切ってスリプルII、それでもダメならスリプガ、スリプガII。
 諦めない。
・もしこれ以前にダメージを受けてたら、ハイポ/エクスポ等で回復も良し。
・また後退して距離を取って、
 泉発動
・フラッド詠唱
・詠唱中にでもブラクロ+氷杖に着替え
・フラッド発動、と同時にまた全速後退
・お爺ちゃんの様子を見て、また危なく無さそうな魔法の時か、
 あるいは詠唱の長い古代(私の場合はフラッド)、すぐ走ってくる時はその場で、
 スタン
・サンダーIII詠唱
 ここからは泉の効果で詠唱中断無いので、ダメージ構わずぶっ放す。
 ノーレジだと、ここで勝負ありになります。
・ブリザドIII詠唱
 私はフラッドとサンダーIIIがハーフレジだったので、ここで勝ちました。
 残留効果?ナニソレ?

・それでもダメなら
 ファイアIII詠唱
・それでもダメならこの辺でこちらのHPがヤバイと思いますので、
 バイオII詠唱
 これを入れると、こちらが死んでる時のお爺ちゃんの回復が止まるそうです。
・倒されたら、すぐリレイズで生き返って、
 何か魔法をぶちかます。

離れているとお爺ちゃんは魔法をよく撃ってきますので、
範囲外に居ればダメージ受けません。
ミミズみたいなアルゴリズムです。
近寄ると物理攻撃が飛んでくる。
私のダメージは、サンダーIII詠唱後に浴びた物理攻撃一発ですが、
250ぐらい持っていかれました。

話を聞いてて、レジられなければなんとかなる、と思ったので、
70になってからも精霊と弱体が青になるまでレベリング行って、
残留効果順に並べて、杖の持ち替えもやったのですが、見事にレジられました。
つまり逆に言うと、レジられてもかなり余裕があるので、
泉の後は3系か4系を目をつぶって連打してれば勝てます。
リレイズで起きあがるゾンビアタックもありますし、
スリプルIIでもう一度寝かせる手もありますし、
「絶対勝てる」と信じて、与ダメージログとか変に計算せずにガンガン魔法を撃てば
いいです。
66での突破例もあるそうで、ええ、なんとかなりますとも。

---

限界1、2、3と違って、一人でなんとかできる
(証もレベリングで取ったのを置いておけばいい)
という点で、これが一番いい限界突破じゃないかな、と思います。
だって限界って、その人の限界ですからね。
……なんて思うのは、甘い方と言われる黒だからかもしれませんが。

ゲーム史に残る名言、
「イヤならやめてもいいのじゃよ?」
を残した限界ジジイMaat氏。
あの言葉を思い出すたびに、
「お前を棺桶に送り込むまではやめん!」
と己を奮い立たせたものでした。
しかし送り込んでしまえば、
「あの長く辛いレベル上げもあと5レベルか」
とちょっぴり寂しい気分も……

あるかあ!

……まあただ、闇王倒したのと同じぐらいホッとしました。
「たかがゲームじゃん」
といわれればそれはそうなんですが、
達成感は本物です。
山登りと同じです。
意味なんかゼロ、いや、やることにのみ意味がある。

人生と、同じです(笑)

同じように70を超えカンストに向かう人々、またもう75の先人達、
自分が苦労すれば、人の偉さもよりわかる。
そんな夜でした。
すべての「ヴァナ・ディールのスター」達に、氷結レモンで、
乾杯。



 9/3 丁寧に、より丁寧に。

絵を描いてみました。
先月に引き続きはなこ先生、コスチュームは
「FFXI」からシーフ・アーティファクト(除く頭装備)です。
今回のテーマは「ちょっと丁寧に描いてみよう」。
で、シーフ装備、攻略本など見て描いたのですが、
ディテールが凄くて相当はしょりました。

3Dデータだと、最初の作成時に凝ろうと思えばいくらでも凝れるから、
ほおっておくとどんどん密度が上がります。
ある程度までは、その密度がいい方に作用すると思うのですが、
限度を超えると、「なんだかワシャワシャしてる」という悪印象に繋がる。
FFの例で言いますと、
このアーティファクトはレベル60で揃うものなのですが、ここぐらいまではまだいい。
ところがもっと上、レベル75付近の装備は、どのジョブもなんだか派手派手で
ゴチャゴチャしすぎてるような気もします。
シンプルなデザインで高級、高性能、貴重さ、それを表すのは非常に難しいので、
どうしてもロマノフ王朝式に「これでもか」作戦になるんですね。
2Dアニメならあった限界が無い、もしくは大幅に緩和されている。
しかし、それはこのように良いことばかりとは言えません。

なんでも便利になって、アシストするモノやサーヴィスが世の中溢れてますので、
油断するとこの種の「過剰」についつい巻き込まれます。
「それは要らん」と思える精神と感覚のバランスを失わないでいたいもの。

---

ズルして借り物借りてきただけあって、
本人の中では結構小綺麗にまとまりました。
描き終えて「よしよし」。

でも1日で見飽きた(笑)

・やっぱちょっとズル
というのが3割ぐらいはそうなのです。
創作というものは無から有を生み出してい(る気にな)るところに酩酊のタネがあるので、
有をそのまま貼り付ける作業はあまりおもしろくない。

職人肌といいますか、そういう方はたぶんそれも全然苦にならない、
むしろ好きなのかもしれません。
「あれと全く同じものを作ってみせる」
もちろんイイワルイではなくて、そういう特性がある、っていうことで。

ちょっと違うかな?
スポーツの反復練習も、上級者がやれば密度濃いものができるように、
上手い人ほどコピーや模倣も効果的修練になるのかも。
てことはまだそこまでいってない、ってことですかねー(泣)

逆に、
・まとまっちゃったからおもしろくない
てのもまた大きくて、
それは「完成度が高い」というのとは微妙に違って、
「ああ、はい、できあがり、終わり〜」みたいな感じです。
満足してると、終わった後もヘラヘラしながらそれを眺めたりするものですが、
そこまではいかない。
特段どこにもチャレンジが無いのが、高い満足感が無い原因だと思います。

極端なことを言うと、
「こんなんいつでもできる」
ことで、そんなんを何度やっても進歩は無い。

……のですが、しかし最近は。

そこまでストイックに考えなくても、また感じなくても、
これはこれでほら、トップに飾ったりという実用性は高いわけだし、
意味がないわけじゃない。
めちゃめちゃ細かい技術的なことでたとえば、陰をほんのちょっぴりつけてますが
これは50%グレーを50%の乗算で重ねただけという手抜きもいいところの陰です。
でもほら、このぐらいの画像サイズだとそんなに違和感ないでしょ?
……よね?
私陰付けがすっごい苦手な平面人なんですが、
やっぱアレはあると無いとでは大違い、
無しで成立させようとすると、相当ポップなセンスある絵柄でないと無理。
そんな絵柄でない以上はつけねばならず、ならば苦手だと呻いてる場合ではない。

そう、「丁寧にごまかす」のもまあ、誠実の一つだろうと。
本気のウソはウソじゃない、というヤツです。

そんなことも手にしたりして、やったこと自体は無駄ではないわけです。
なんか自分を納得させようとしてますが。

---

とどのつまりは、「僕にしか描けない絵が描きたい!」わけです。

しかし、コレを書きながら思ったのですが、
それっていいことなのでしょうか。

ゴッホ、ルノワール、セザンヌ、ピカソ、漫☆画太郎、
誰がどう見ても「これはこの人」とわかるわけです。
あれがやりたい。

でも、彼ら偉人は、果たして「オレ流!」なんてことを意識してたのでしょうか。
してなさそうです。
表現すべき何物かを、なんとかしてより良く表現しようとした結果が、
彼らの絵柄、個性。
それらは、そのようにしてしか、得られるものではないのです。
「○○さんみたいな絵を描きたい」ではダメなのです。
「僕にしか」とかうじうじ考えている暇があったら、
より可愛く凛々しいはなちゃんを描くにはどうすればいいのか、
具体的な技術・作戦について頭をひねった方がいい。

文章もまったく同じで、
「僕風」とかそんなのを考え出すと、ドツボにハマリマス。
そんなんはあくまで結果で、今、描こうとしているものを必死で書き留めよう、
なるべく正確に、的確に、伝わりやすく、
そのままに、美しいものは美しく醜いものは醜く、
描こうとした結果が、
「文体」と呼ばれるものです。
改行の癖とかセンテンスの長さとか、それはどうでもいいところで。

ただ、人間には調子がありますから、
不調でエネルギー足りなくて、でもコンテンツはある、って時なら、
「まあ殻はいつもので」と、エネルギーを傾斜配分することはありえます。
逆もまたアリ、どうでもいいことをパワーで持っていく、それもまた芸です。
しかし、本質としては、文体のために文体があるのではなく、
描かれる事物のために、文体はある。

言い換えれば、
「なんでも描ける」
それが難しければ、
「幅広く描きやすい」
というのがその人にとって一番優れている、その人らしい文体なのでしょう。

かくゆう私も未だ一生懸命修行しているところで、
たぶんこれは生涯続くもの。
コレ(ほえなが)では、いろんな話題を取り扱ってますが、
それがきっと足しになる、と思います。
ほら、忍者は野山を駆け回って足腰を鍛えるではありませんか。
あんな感じ。
いや真面目に。

---

表現手段、
すなわち絵柄や文体のチューニングというのはそれそのもので楽しいものなので、
ついつい耽溺してしまいがちです。
そう、3Dポリゴンを作りに作り込み、テクスチャを描き込みに描き込むがごとく。
でもそれは、ある程度以上は、意味が無いどころか有害ですらある。

中級を超えると、そこに耽溺する楽しみを覚えてしまう、
それは罠です。
すっごい美麗な文体で、スカスカのものを書けるようになっちゃうんです。
もちろん、トータルではあまりおもしろくない。
世間の人というのは厳しいもので、
いいものを見つけ出す能力はまるでありませんが、
悪いものを見限る能力はビックリするぐらい高い。
中途半端な専門家なんかよりずっと厳しい。
ところが当人は美文を積み上げる喜びに浸ってますから、
「イケテル」と思ってるわけです。

その壁を越えていらっしゃる方々に共通して見られるのは、
冷静に自分を振り返る目、
ではないでしょうか。
マンガの単行本にもライナーノーツみたいなのついてることがありますが、
ていうかHコミックには割とついてんですけど、
やっぱり息の長い人気作家さんは、自己分析が冷静で的確で、
また正直です。
「あ、コレダメですすいません頑張ります」
みたいなこともちゃんと書いてある。
それを、時間がないとか、才能がないとか、そういうこと言うててはいけません。
キツイ言い方ですが、それはこっちにとってはどうでもいいことでね。
そういうこと言うこと、それそのものが、
責任は自分に無い、と言ってるのと同じです。
なんとしてでも、
「えい、これで何を言われてもしょうがない!」
と思えるところまでは、持っていかなければならない。

で、ここでようやく最初に戻るのですが、
その際のキーワードは2つ、
・丁寧
・めいっぱい
ではないかと思うんです。

文字を思い出してくださるとわかりやすいのですが、
どんなに字の汚い人でも、ゆっくり、丁寧に、判別されやすいことを
最重点に置いて書けば、読めなくはないはずです。
ところが、字の汚い人ほど、これをやらない。
ちゃちゃちゃちゃ〜っと草書みたいにシャーペン動かして、
で「俺は字が汚いから」って言う。
バカ言いなさい、字の綺麗な人はもっと時間掛けてエネルギー掛けて、字を書いてる。
才能の問題でも外的要因でもない。
せめて同じだけ丹精込めなさい、と。
「あ」が「あ」らしく、「い」が「い」らしくあることを最大限心がければ、
伝わるはずです。
伝われば、逆に、「俺は字が上手い」と思いこんでる人の、
崩し字みたいな字よりずっと読みやすかったりするものです。

モノの本質、ベースとなる芯の芯を、
堅実に頑丈に、丁寧に精一杯、実現する。

どんなことであれ、それを繰り返していれば、幸せが訪れるように思います。
というよりも、
それを繰り返すことそのものが、幸せ、ですね。

---

先ほど「ズルしたからつまんない」と言いましたが、
お手本があった分久しぶりに「お手本通りに」丁寧にできました。
それはそれで楽しかったので、こうしてダラダラ書き留めておきます。

勢いもキレもセンスもアイデアも大切ですが、
「丁寧」はそれら全てを下支えしてくれる、
魔法の調味料のように思えました。



 9/2 節制ゲーム

お茶を断ってみました。

といっても、週末までです。あるいはどうしても呑みたい時まで。

どうしていきなり、と申しますと、
どうもお茶好きなもので、今年の夏の暑さにかこつけて、呑みすぎました。
バテてるから、冷たいもの摂ろう、で、呑みすぎて、またバテる。
よく注意されることですが、ふと気を抜くと、がっぽがっぽ呑んでました。

酷暑もありましたが、今年の酷いバテの原因がここかもしれない。
ここは一念発起、「もう呑まない」という方向しかない、と。
もちろんながた水気星人ですので、喉乾いて仕方ないです。
その時はさして美味いとも思わない安物ミネラル・ウォーターでガマンガマン。

若い頃は、少々ムチャをしても、強制的に休んだり、
また別の方向に身体の注意を逸らしたりできて、それでなんとかなったものです。
ステロイド飲んだ後に中和剤飲むようなものね。
でも30超えるとそういうのが効かなくなります。
弱ったら、負荷掛けない、それしかない。
「節制」ってヤツですな。
食べ過ぎたら、胃薬じゃなくて、翌日はおかゆ少々。
休むのも意識しすぎるとストレスになります。
寝なきゃ、休まなきゃと思ってお布団で悶々とするのほど辛いことはない。
そんな時には何回も観てる「カリオストロの城」でも見直すのがいいのです。

おかげさまで、割と持ち直しました。
盆過ぎからガックリ涼しくなったのも効いてると思いますが、
今元気。
いや、元気というよりも、「普通」です。
「普通」のありがたみをひしひし感じてます。

お茶は節制のシンボルみたいなもので、
「いや、お茶ガマンしてんだから」他のはもっとガマンできるだろう、
というところです。
疲れたらダラダラせずすぐ寝る、ゲームはやりすぎない、本は読みすぎない、
美味いおかずがあるからって食べ過ぎない……

いや、ガマンというのとは少し違う。
「楽しいな」とか、「美味しいな」とか、「いいきもち」、
そこで見切りをつけて、サッと引き上げる。
これです。
食べ過ぎて動けなくなると、折角の美味しい料理の印象も悪くなってしまいます。
し、もちろん、身体にも良くない。
そうなる前に、別のことに意識と身体を移してしまうと、
気分良く一日が回るみたいです。
もちろん、んなこと言ってられないスクランブルなこともよくあるのですが、
そういうピンチの時って、割と身体の免疫機構がガンガン働いて元気なもので、
まあ、終わってからしばらくゆっくりすれば良し、てなもんで。

特にオススメは身体使う何かで、
現代人はやはり脳主導、脳はイヤってほど使ってるのですが、
身体はあまり使ってないことが多い。
なに、スポーツまでいかなくても、手仕事とか、掃除とか、鼻歌を歌うとか、
そういうのでもだいぶ違います。
僕は下手の横好きで絵を描きますが、
あれも手仕事なので、随分頭がさっぱりします。
(頭も使いますが、ぜんぜん違う部分みたい)
楽器とか最高なんでしょうなあ。ピアノ、ギター、太鼓の達人。
ボケ防止に効くぐらいですからね。

「節制」を「ガマンしてる」と考えると辛いものですが、
「いい感じピークで終わる」ゲーム
と考えると、ま、なかなか、悪くないものです。
「今の俺のコーヒー気分は、マグ7分目ぐらい」とか。

我ながら最近、ずいぶん安上がりになってきました。



 9/1 ほえなが

今日の新聞見てますと鐘淵化学工業が「カネカ」になるって広告が載ってまして、
「うわ、奇遇!」

ということで今月から「吼える!ながたさん」は
「ほえなが」
になります。

いやまあ別にどーでもいーことなんですけど、
より抽象化した文字の羅列にすることで、本体の持つ意味を拡げる、
まさにカネカやオムロンと同じ作戦でございます、はい。
シャープやソニーのように、サイト名も主力ブランド名に変えてみようかとも思ったのですが、「ぱわね」は「ぱわね」で愛着ある言葉ですので、こちらそのままで。
いずれ変えてしまうかもしれませぬが。
(あまりに一般的単語の組み合わせにしてしまったので、いつまでも色が付かない……)

別段、だからといって内容は変わらないのですが、
常連の皆様におかれましては
「俺は『ほえなが』が『吼える!ながたさん』だった頃を知ってるぜ?」
と威張っていただけるものを、さらにさらに目指して参ります。

愛称というのは面白いもので、使っているうちにこなれてくる。
「ほえなが」って造語・新語ですから、すごく言いにくくて変な言葉なんですが、
今や友人と話す時には当たり前のようにこの略称が使われます。
5年半も使ってりゃ、たとえ小さなコミュニティといえども、
言葉一つが立派な少年になるようです。

良い言葉を良い出典から引っ張り出して使うのも、とても素敵だと思いますが、
この4文字は自分で創った、
そしてもちろん、読んでくださっている皆さんに創っていただいたものですので、
ちょっぴり誇らしい。
いやいや、まだまだこれから。

「良いもの」とかよりも、「ありゃあそこでしか読めない」というものを。

簡単なようですが、これが意外に難しい。
人間、エエカッコもしたいです。高尚なこと言うてるような気にもなりたい。
難しいことをわかりやすく説明してるつもりになりたい。
新しそうな、人目を引くようなことも言いたい。
しかし、ま、時にはそれもいいんですけど、
それよりも生声っぽい、手触りと体温と、気持ち籠もってるものの方が、
読んで快いものです。あるいは不快でも、歯ごたえがある。
それは、読むべき価値のあるものではないでしょうか。

いくぶん切ない真実ながら、文章にはその人が出ます。
なもので、それ以上のものを出そうとしてみたり、違うものを出そうとしてみたりすると、
変なものしかできあがりません。
おもしろいと思う人が多いか少ないかは別にして、
「とってもその人なり」
というのが、一番素直で、ストレートに気持ちが伝わるものではないでしょうか。

文の巧拙などではないです。
実は、内容さえ関係ない。

もちろん、巧くて良くできてて新事実に溢れてる方がより良いのですが、
そのために犠牲にしてはいけないものが、「その人なり」という部分です。

長年やってますと、どうしてもこの辺が曖昧になります。
慣れが、つまらない殻を作ってしまいます。
そうならないように、「またおんなじこと言うてる」と思われても、
古典落語でも聞くかのように、
「いやでもいつものネタだけど今回のは良かった」と、
毎回、思っていただけますように。
手書きにならぬよう気をつけながら、ぼちぼち行こうと思います。

「ほえなが」、変わらぬご愛顧のほどを。




以前のほえなが
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