■ ほえなが ■

とりあえずいくぞ〜!

 10/31 10月決算

本日は10/1から10/31までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)


■本■


 「司馬遼太郎全講演[4]」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

 「司馬遼太郎全講演[5]」 司馬遼太郎 (朝日文庫)

 「以下、無用のことながら」 司馬遼太郎 (文春文庫)

 「にほん語観察ノート」 井上ひさし (中公文庫)

 「龍樹」 中村元 (講談社学術文庫)

 「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術」 立花隆 (文春文庫)

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今月は読んでねー(泣)
あとチバレイのヨガの本とか(泣)
ああ……やっぱりFFは本の敵やな……来年からちょっと考えよう。
来年かい。

えっとそちらの方ですが、
72になれましてエラント着てテレポ飛べるようになりましたですよ。
レベリングの際にペリカン倒してアストラルアスピス、
4人競合で530ぐらいのロットでなんとかゲット。
先日、ネコ忍者さんにアルジェントダガー(神印章マンティBCでハズレドロップ)をもらったので、それを装備してなんだかワケのワカランジョブに。

エラント着てBCドロップ短剣持ってエクレアのNM盾持って……
そんな廃人になんてなれっこないと思ってましたが、なってしまいました。
属性杖も4本(泣)

FFやっててよかったな、と思うのは、
「継続は力なり」と
「ものごとには軸線があって、効率を追うならそこ『だけ』やってればよい」という
二点を思い知ったことかな。
前者は当たり前に誰でも教えてくれることですが、
後者はほとんどの場合自分で識るのですね。

まあ、いい勉強になりました。

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「龍樹」は難しかったです。ので、読み飛ばし。
仏教は奥が深い、というかインド人ってやっぱり変態ですな。
要するに
「物事には実体などない、実体がないということもない」
色即是空空即是色を論理的に詰めていく作業をしているのですが、
そのやり方がまた汚くて、
自論を持たずに他論をけちょんけちょんにすることで
「ほら、論なんてねえだろ?」
という作戦(笑)

いやまあ、そうなんだけどさ。

ナーガールジュナは2世紀の人だそうですが、ギリシャ哲学もそう、
その頃もう人類というのは頭で考える分には終わっちゃってたのかもしれませんな。
あとはなんというか、自然との関わり合いで手を動かすにはどうすりゃいいのか、
そこを細部まで詰めていく作業で。

そう考えるといつまでも戦争も無くならないのかとか暗澹たる気持ちになるのですが、
ポリプロピレンのガス管なら地震にも大丈夫!と聞くと、
いや間違ってはいないだろう、とも思ったり。

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同人誌を2冊印刷しました。
1冊はコピー出したこともある「忍」、もう1冊はブランニューの「はなこ」です。
PP加工・フルカラー表紙!
できあがったの手にとって嬉しくてしょうがなくて、今も鞄に入れて持ち歩いてます(笑)

よし、もすこし!

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東大出の超秀才二人(中村博士、立花さん)の本を読んでて、
いつも「そこまでせんでも」と思うのですが(笑)
まあ、「そこまで」をやってくれる人も世の中には必要ですね。
だってほら、このようにそのエキスを吸って我々は生きていけるわけで……

「そこまでする」ということには、それ自体ではあまり意味が無く、単なる手段であって、
やっぱりそこまでした結果がどうであるか、が大切だと思います。

こういうの読むと若い頃は絶望にうちひしがれたものですが、歳を取ると
「本読んでるだけやん」
という開き直りもできるようになり(笑)

ま、できる範囲でがんばっていきましょう。
そのような10月でした。
11月も。

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11月からブログ形式に移行しようかと思ったのですが、
なんとなくテストがしっくりこないので、しばらく併走テストを続けることにします。



 10/31 新型3シリーズ・その2

念のためですが、昨日のは別にBMWをくさしたわけではなくて、
クルマメーカー全てへの希望と願望です。

BMWデザインの凄いところは、なんといっても
「新型が出ると旧型が一気に古臭くなるところ」
で、昨日の流出新型3を見てからオフィシャルなぞへ行って現行3を見てください。
ふるくせー!
新型見てない昨日までなら「ああやっぱり3はいいよね」とか思えてたのに。

思いますに、
コンセプト(フル4座スポーツセダン)も
ディテールモチーフも(端正な3ボックス・くさび形・キドニーグリル・丸目4灯・リアウィンドウ形状)不変だからこそ、
全体を新しく仕立て直すとものすごい変わったように感じるのでは。
背広と同じ。
あんなもん遠目で見りゃどれも同じなんですけど、明らかに流行り廃りがあって、今シングルの懐深めのVゾーン広めのパンツ太めの、って着てるとかなりこう、浮きますよね。
あれが古いBMWを見る時の感じかなあ、と。
背広だからキチッとしてるんだけど、だけど古い。

反対にメルセデスは古くならないんです。
新しいのが出る度に、「前の方が良かった」って反発が出る。
で、実際、モノとしては進化してるのですが、カッコだけ見れば、
今のCと前のCとその前の190と、どれがいいって子供に見せれば、
票はバラけると思います。
SもそうSLもそう、各代にファンがいる。
やっぱり「最善か無か」を(最近はイチオー)社是としてますから、新しい古いとかそういうの抜きで「これがベストだ!」と練り込む。
練りきられてるから、その時代背負ったカッコになるわけで、アフロヘアにパンタロン、それは今の街中でおかしいのはおかしいのですが、その人全体として完成されてるので「古い」という感覚には結びつかない。
アルタミラの洞窟壁画が美しいのと同じ。

(そんなメルセデスの中でもたまには「ああ……」てクルマ出ます。先代のEはクルマ作りを変えようとしていた過渡期のモデルなので、カッコもモノも非常に迷いが多い。あれと今のEとを比べるとさすがに今の方がいいです)

どちらがイイワルイではなくて、
BMWは新車を3年で乗り継ぐのがベスト、
メルセデスはグズグズになるまで走り切るのがベスト、
それはスタイルです。

日本のメーカーはそういうのが非常に苦手。クラウンぐらいでしょうか。
ただ、そういうシバリが無いからこそ常に「まっさら」が湧き出て来るという特性もあって、
フーガなど見てますと「確かにセドリックと言われるよりはいいのかも……」と考え込んでしまいます。

ま、スタイル持つのも、ノースタイル・イズ・スタイルと言い切るのも、
人それぞれってことで。

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余談ですがフーガ、あれちょっとカッコイイですな。
小さめの目とやたらハイデッキで、凄くパーソナル感が出ててよろしい。
押しの強いのが好きな人は、もうこのクラスは買わないだろうという考え方もありかも。
わからんのが3000を用意しない点ですが、無理に3500を買わせて
「クラウンより上だよ?」
と刷り込ませる作戦でしょうか。
確かにアスリート買おうと思ってる人なら悩むかも……あとアリストのお客さんですかね。
あ、そうか、ここで「セドリックじゃない」という一点が有利に働くわけか。
なーるほど。向こうはどんなサブネームついてようがクラウンですからねえ。

サニーもそうですが古い客でもついてこれる人ついてくればいいし、
それよりも新しい人をどれだけ呼び込むか、そこを意識する、
考え方としては極めてオフェンシブ。
スカイラインの失敗で懲りたみたいです。
あれで古い名前がなんの力も持ってないことをハッキリ悟った。

最近のお客さんはホンットに冷たい、というかcoolですからね、
もうそういう買い方をぜんっぜんしてくれないんですね。
その流れ自体に異を唱えててもしょうがないし。

同じ倒れるなら前向きに倒れないと。
前向いて倒れるとまた立ち上がれますが、
後ろ向きに倒れると何にもならない。

インテリアも好き嫌いあると思いますが、オーソドックス一辺倒のクラウンより面白いといえば面白い。
コーディネート幅がすごく広いんです。
シート周りが白・茶・黒であと素材、インパネ素材が3系統であとは色なんですけど、
色・素材・色・素材で組み合わせになるから、なんか無茶苦茶選べる気になる。
トヨタに限らず最近のクルマはどれも「これで行って!」というのが多いので、
こうして「選べる」こと自体がすごく贅沢してる気になる。
高級車の演出としては確かです。
でもアナログ時計はやりすぎかな……小さいアナログ時計って時計の用をなさないと思うのはデジタルでずっと育った私だけでしょうか。

ツインターボチャージしてもちろんアテーサ400馬力の「アルティマ」などという
バカ・グレードが欲しいところですが、ゴーンさんが現役のうちは無理かな。
アウディのSシリーズみたいなもので、日産らしくていいと思うんですけどね。

おもしろいですね、+500の余裕とインテリアでライバルに立ち向かう姿は、
日産・トヨタ、今までと立場が全く逆。
ティアナの一応の成功がいい刺激になってるのかな。
ティーダもそうですよね、もう真正面からカローラと殴り合うのは完全に諦めてる。
サニーの名を継がないことで、「ひょっとして高品質なのか?」と疑いを持たせることに成功してるし(笑)
負けてたが故に取れる戦略で、勝者にあれは絶対にできません。
今回のカローラも車名を捨てる捨てないで悩んだそうですが、
(割を食って長年親しまれたエンブレムが捨てられた)
勝ってるうちは捨てない方がいい。

次のマーク2は遂にマーク2という名を捨てるそうですが、
さて吉と出るか凶と出るか。
それで「インゲボルグ」とか全然別の名ならともかく、
「マークX」
らしいのがまたなんとも言えずトヨタ的で思わず微笑みが……

まあともあれ、窮地を脱するには、
お金出るのを締めてイイモノ創るしかない、ってことですなあ。



 10/30 新型3シリーズ

 栄光の89年までは、日本車はやっぱり欧州車に敵わなかったんです。

 89年の勝利も、いわばロナウドとロナウジーニョを用意してあとは8人が死ぬ気で走り回っただけで、ちゃんとした勝利とは言い難い。
 ただ、セルシオがGT-RがNSXがそしてロードスターが、その時点そのジャンルでは明らかに世界でただ一台であって、そういう意味で頂点に立ったという事実は事実です。

 でもその時でも、やっぱりコンパクトカー始め「普通のクルマ」では欧州車の方が魅力的だったのです。ゴルフを頂点に、ウーノに205、まだミニがパンダが現役で。
 そりゃ機械的信頼性で言えば日本車の方が30倍ぐらい優秀なんですけど、商品の魅力ってそこだけじゃないですよね。言われたわけです。
「イタリアやフランスじゃクルマは走ればいいんだ、細かいことにこだわって、やれ電気装備満載だ、ミドルセダンにV6だ3ナンバーボディだ、軽自動車に革シートだ、そんな馬鹿なことするのは日本人だけだ。実に愚かしい」

 BMWの新型3の写真が流出したんです。
 来年発売予定ですが異例なことにもうクルマはできあがってて、カタログも作ってた。その代理店かなにかでメール手違いかハッキングか、そんなことが起きたみたいです。
 怖いですな。
 画像添付メールを無暗号化で、宛先一文字間違えただけで終わりですもんね。
 それはともかく見てくださいませ。

 どうですこの堂々たる全幅、3シリーズにして遂に1800mmを超えるらしいですよ。
 カッコイイですねえ!

 アホかと。

 欧州の街をお歩きになられますとおわかりのとおり、東京や大阪より道は狭いです。
 基本的に街中ではクルマ移動をさせない考え方なんですね。
 だから動脈になる自動車専用道路は豊かに整備されているんですけど、街はタイヤメーカーのCMによく出てくる、あんな感じです。
 つまり幅広いクルマだと大変。
 BMWに限らず、欧州のクルマは今気が触れたように拡幅の一途を辿っており、ハタで見てても心配でなりません。マツダがカペラをクロノスに換えて1770mmの豊満ボディを与えた時に「だいじょうぶか!?」と思ったあの気持ちと同じです。

 ひと目はいいんです。でも乗って使えば死ぬほど不便。
 幅広くなると大抵最小回転半径増えて小回りも効きませんし。
 でもひと目はいい。
 だからしばらくはそれで売れる。
 マツダ・アクセラが向こうで大人気で、売れて売れて困ってるらしいですが、コイツも幅は1745もある。4400ぐらいの全長で1745も幅があると、そりゃカッコイイんです。
 ちょうど初代プリメーラが4400ですが、あれで片側25mmのブリスターフェンダーつけたスポーツモデルとか想像すると、めちゃめちゃカッコよさそうでしょ?
 でもでも不便。この50mmが馬鹿に効く。
 わたしゃ1700超えるクルマに3台乗ってますからいつも思うんですけど、日本ではクルマの幅は1700を超えてはいかん。そしてそれはたぶん欧州でも。

 ま、よーするに。
 欧州人もアホで、「うわー、カッコエエー!」って喜んで買って、買われるからメーカーもアホみたいに幅拡げて、いつかハッと気づくと誰も買わなくなってえらい困る。
 15年遅い。
 もう15年もするときっと同じですよ、パリロンドンローマ、ミニバンだらけ。
 両側スライド電動ドアつきの8人乗りの巨大ボックスがうじゃうじゃ走るはずです。
「同じ値段出して買うならセダンよりこっちのが便利じゃん!」
 便利のために捨ててるものも山のようにあってね。
 居心地、燃費、音振動、操縦安定性。
 鉄板倍使ってるのに同じ値段やったらどっかケチってるに決まってるやないですか。そんな旨い話あれへん。
(もちろんミニバンの特長がぴったり合う生活の人もたくさんおいでですが)

 ゴルフとかも完全におかしいですよ、なんですかあのサイズ。
 4もかなりガマンの限界的存在でしたが、5は酷い。
 結局なに、「コンパクトカーのベンチマークたらん」という高邁な理想を抱いてる、なんてのは我々が勝手に妄想してただけで、要するに
「前のに乗ってたお客さんに『よーなった』と買い換えてもらいたい」
って、んなのクラウンやカローラとぜんっぜん同じじゃないですか。
 いや、今やクラウンやカローラはそこから脱して、新しい客を掴もうと大胆なチャレンジをやってる。日産でさえサニーやセドリックを捨てるこの御時世に、なんて古臭い。
 貴様それでもゴルフか(泣)
 カローラがシビックがファミリアがその遠い背中を追い続けたゴルフか(号泣)

 やっぱり基本的にピエヒがいかんな。
 誰かクーデター起こす気骨あるヤツはおらんのか。
 もうね、ドイツ人ってどうしてあの皇帝気質に弱いんでしょうね。なりそうな人出てくるとみんなで皇帝にしちゃうでしょう。中国とかもそうかな。
 で、当人もその気になって全能力を叩き込む。すると常軌を逸した力が出る。
 オヤジ67で子供14人ですよ。活力ありすぎです。

 脱線しましたがなにが言いたいか言いますと、
 どこに居ようと考えてる人は考えてる、考えてない人は考えてない、
 お客さんはどこの人でも同じ、欲しがる要素もだいたい同じ、
 勝手に卑下するのも、傲慢に思い上がるのも、
 ともに慎まねばなりませんな、
 とね。

 もちろん私は普通のお客さんなので、新型3、とてもとてもカッコイイと思います。
 ただ、このカッコヨサを1695の幅でやってのけてこそ技術でありデザインだろう、と、普通のお客さんらしく無茶な注文をしたいわけです。



 10/29 e加減

そんなS上さんとビールで酔いながら。
ギネスの缶って、まろやかな泡が出てくるギミック
(中に仕込まれたプラスチックボールが、開けた瞬間に上昇していく際、撹拌する)
が搭載されているのですが、そりゃあやっぱりビアホールで呑んだ方が美味い。
HERO人さんの奥様、ヨメさんによると本国のは「flesh」でさらに美味いそうです。
そりゃそうですよね、サッポロの北海道限定のヤツ、あれひっくり返るほど美味かった。
私スーパードライ党なんですが、大阪に住んでるから(本国だから新鮮な可能性が高い)美味く感じたというのも……
ああ、アイルランド行きたい。

いや、ビールはいいんです。中身。

真面目というのは美点ではなくてただの特徴、
いいように作用もすれば駄目な方にも作用します。

枕さんの日記(9/20分)でありますように、
勤勉で方向性間違ってると実にタチが悪い。
我々は農耕民族の末裔です。
農耕の場合基本的にはやること決まってて仕事量多いですから、
勤勉=良いことだったと思われるのですが、今はそうではない。
刻一刻移り変わる状況に機敏に対応するためには、
いつまでもただ同じことを続けていてはいかんわけですな。

もちろんいつまでも同じことを続けることに価値があるフィールドは多々あり、
また人によってどうしてもそういうのが苦手なタイプもおいでなので、
そういう場合は意志決定をどこかへ丸投げしてしまうのが良い。
つまり「賢くて怠惰」なヤツと組むことで、二人合わせて「賢くて勤勉」になるわけです。

日本式組織団で最も成功してるのはトヨタ自動車ですが、
要するに会社という賢い機関の元に愚直に勤勉さを提供するシステムで、
とどのつまりは三河武士、死んでも死んでも突っ込む。
一端は全否定されたシステムですが、ああまでどうしようもなく結果出されると、
認める他ありません。
「結局私達に向いてるんじゃないの?」と。
ただし、それは組織が「賢い」ということが前提ですので、
それに応えられないと、つまり経営陣がアホだと、全く成り立たないのですが。

ほいで。
問題はそういうパートナーシップを個人or組織として持てない場合、
どうすればいいのか。

「いいかげん」になればいいんじゃないでしょーか。
もし賢明でいい加減なら潮目を見切れるはずですし、
愚かでいい加減なら潮目関係なく幸せに生きていける。

これを「いいかげん革命」と名付けよう。

名前売れてる人が書けば売れそうな題名ですが。
Jordanですよ。

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私こう見えてもそこそこ真面目な方です。
なんかね、いつもちゃんとせなあかんと思ってました。
力足りなくてちゃんとできないことも多かったんですけど、
気持ちとしてはちゃんとやりたいと思ってたんですよ?

で、ある日、逆から考えてみた。すると、
「ひょっとして全ての元凶はこれか?」

なにか困るたびに、
・力をつける
・もっとちゃんとする
の2方向から攻めてみるようにしてました。

でもねえ、それじゃ解決しきれないんですねえ。

そんな時、では「なんでも解決する万能策は何か」とか、
「失敗しても落ち込まないやり方は何か」とか、
いろいろ考えてみたんですけど、ダメですね。
世界は広く自然は豊かで時は移ろう。
勝利の方程式みたいなのはどこにもありません。
また、失敗して落ち込むのは当たり前で、それは動かしがたい。
落ち込まない人間になったり、落ち込まないですむようながんばり方をするとか、
そんなん全部ウソです。
そんなくだらない人間はない。
落ち込まないですむには、成し遂げるしかない。

ということは逆に、
「成し遂げられればなんでもよい」
わけです。
むちゃくちゃ当たり前のことですが。

「煙草を吸う料理人は是か非か」という話で、
個人的には客前でそれをやるのはサーヴィス業としてプレゼンを間違えてると思うのですが、オフに吸うのは構わないと思うんです。
極端言えば刺身なんて、素材見る目と包丁捌き良ければ美味いわけですよね。
舌関係ない。
焼肉屋のご主人とかも。
こんなこと言うと怒られるかもしれませんが。

「吸わないマズイ人」よりも、「吸って美味い人」が100%上で、
つけ加えるなら、
「吸って美味い人」と「吸わずに美味い人」はタイ。
つまり、吸うか吸わないかはなんのポイントにもならない。
もちろん、吸うとイイワケができなくなりますが、
そんなマイナスのこと考える暇あったら腕上げろ、と。

ということで、なんの意味もないので、
真面目ぶるのはやーめた、
のです。
いや、ちょっと違うかも。
真面目になるのは目的に対してであって、手段や態度はどうでもいい。
私の目的はおもしろいもの読んでいただくことですから、
おもしろいもの書ければ、それさえできれば、まああとはいいじゃないですか。
そういう意味で「いい加減」。
そしてダメだったら……またやる!
それだけのことです。

締めるとこ一点に絞って、あとはゆるゆる。
そうマヨネーズのチューブのように。
そうすると、ピューッと出るじゃないですか。
昔の金属っぽい歯磨きチューブ覚えてらっしゃいます?
あれってなかなか出てこなかったですよね。
締めすぎると、良くない。

山と谷、緩急は、あるものではなくて自分でつけるものらしいです。

仕事のみならず、ふだんのいろんなことを、これ式でいこうかなー、と思う昨今です。
緩めたところに、いろんなものを詰め込めるし。
締めるところ一点なら、そこに持てる力全て突っ込めるし。
楽で楽しくてパフォーマンスも上がりそう。

がんばってみる〜

……いや、あの、がんばるというのは今までのがんばるとポイントが違ってて……

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ちょいと蛇足すると、
なんでも「上手」というのは「一発で決める」じゃないですか。
あれ、それができるようになるにはものすごい修練が必要だ、と思ってたのですが、
そうでもない。
あれね、どうもね、当人も100、100、100が並んでるわけじゃないんです。
90、75、105、85……とかたぶんそんな並びで、平均90で良しとする。
作品ごともそうですし、作品の中の部分部分でも。

もちろん、「平均90出る」というところと、「75以下は絶対出さない」という部分で、
すごい力が必要なんですが、100が並んでるわけではない。
でもだからこそ、105やたまには120が出るんです。
75があるからこそ。
そのために、その120を引っ張り出すために、「一発」をやり続けるんですね。
それが神様アシストを呼ぶ一つの手段。

パートパートで100に近いものを用意して、それをブロックとして組み立てると、
100に近い物はできますが、100にはならないし、まして120はありえない。
作品というのは面白いもので、全面95より、
ボロだらけでも120がたった一点ある方が勝ちなんですねえ。

そこに意識的無意識的に気づいた人は、濫作モードに入るわけです。
司馬遼太郎なんか最初からそうですし、夏目漱石も実働年数(12年ぐらい)から考えるとものすごい濃度です。ゴッホやピカソも点数多い。
で、ハズレもあるんです。はっきり。
でもその代わり、大当たりがある。

物理的に製作すること自体は根性でいいとして、
気の持ちようとして、ある程度いいかげんに
「あ、失敗失敗。……ま、いっか」
ってところがないと、それはやれない。

だから、120を呼ぶための、
一発でやるための、
いいかげんさを、
持ち合わせねばならない、
と感じたのです。

理屈っぽくなっちゃいましたが。



 10/28 年間100日

S上さんとデート。
ラテ・肉・ビール。
おごってもらいました。
ごちそうさまッス!

いい肉はいい……
翌朝胸焼けがしないもん……

札幌にはあまりいい牛肉がないらしいです。
酪農天国なのに。
経済状況がちょっとアレだというのもあると思いますが、
基本的に関東文化圏だからではないでしょうか。
豚文化圏。
あと水産物。マグロというのはかなり牛の代わりをする食品だと勝手に睨んでます。
東京の人はビックリするぐらいマグロ食べるじゃないですか。
関西ではああいう姿はあまり見られない。
あ、忘れてました。
ラムという津軽海峡を越えると食べない存在が幅を効かせているのもありますね。

高い/少ないならともかく「無い」っていうのは厳しいなあ……
人生の3%ぐらいは焼肉でできてますよ?
なにか一区切りついた時の焼肉。
友あり遠方より来たる時の焼肉。
キャンプで忘年会で家族と仲間と焼肉。
独りでバラードを聴きながら食べるものではありません。
焼肉は楽しさと嬉しさの象徴です。

北海道の方で大阪(近辺)にお越しの節はどうぞ焼肉屋さんへ。
おすすめは生ものをオードブルに、塩タンをオープニングに、
トップクラス一段下を少量。
(トップは価格性能比が悪いです。だからって標準だとせっかくお店に行ってる意味がない)
あとは野菜とホルモンをつつきながらビールを楽しんで間を稼ぎ、
最後に食事系ですな。
いい肉少しだけにして、あとは居酒屋とか行っちゃうのも手です。
お腹一杯になりすぎない方が、「ああお肉美味しかったねえ」と思い出になる。
胃腸をバラとハラミとミノで満たす高校生ノリは30までにしましょう。

大阪ってよその土地から来ていただいて威張れるものがあまりにも無さ過ぎます。
このぐらいでご勘弁をば。

たこ焼きは持って帰るものじゃなくて、その場で食べるものなの!

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S上さん出張年間100日。
我らが鉄心さんも話聞いてると忙しくて死にそうだし、なんとかならないものですかね。
大学の先生というのは研究・教育・大学事務の三つをこなすという激務です。
高校までの先生ってだって教育しかやってませんからね。
それでも大変な仕事なのに、ましてや。

で、業績評価って研究でされるわけだから、教育や事務で時間取られると、
まあやらしい話ですが不利なわけです。
ズルい大人達は、だからそういうのをやらない。
と、若いのに若いのに仕事が回る。
研究者は20代が下準備だとすれば、
30代でようやくエンジンがかかってくるのだから、
ここで思いっきりやらせてあげないと。ねえ。

迷走する義務教育も非常に不安ですが、高等教育の質の低下は
この国にとって死活問題です。
笑って見てる間に、野球のようにロクなヤツはみんなアメリカへ
行くようになっちゃいますよ。
というかうちの同級生でも非常に優秀なのが二枚既に半アメリカ人と化してる。
向こうも向こうで非常に金に汚くて詐欺師や政治屋がドロドロ渦巻く
ヤな世界みたいですが、活気というものは清濁併せ持つものでね。

希薄な当事者意識と危機感の欠如、危ない組織の典型です。

「大学バラ色だよ!? ながっちゃんも研究者なればよかったのに!」
「ちくしょ〜」

教育機関ってのは、そんな会話が繰り広げられるぐらいで丁度いいと思います。
それになら、税金なんぼ使ってもいいと思うんですけどね。



 10/27 ヨガ・チバレイ

健康オタクっぷりはしばらくなりを潜めていたと思ったのですが、
健康友人のokbちゃんに
「ストレッチいいですよホラ!身体の硬い私もこんなに!」
と座って身体を折ってつま先をがっしり掴まれては、心やすらかで居られません。

さっそくヨガの本を買いに行きました。
ゆくゆくは火を噴いたりテレポしたりしたいのですが、
まずは簡単なところから。
その名も
「千葉麗子のキレイと元気をつくる! DVD de ヨーガ Lesson」
税込み1365円。

大失敗。

こう、ながたは以前から痩せる系、眼が良くなる系、頭が良くなる系、疲れが取れる系、
いろいろ見てまして思いますに、健康メソッドには共通した「罠」がある。それは、
「そりゃそれを続けりゃ健康だろうよ」の罠です。

まあ、縄跳びでもジョギングでもぶら下がり健康器なんでもいいんですが、
毎日きっちり適当な回数やれば、健康になって適正な体重になるんです。
それはもうほんとなんでもいい。

効果が無い人も多いと科学的に立証されてなお、
視力回復トレーニングがそれが必要な専門職の人に「効く」理由は、
被験者のモチベーションが違うからです。
「フライトアテンダントになるには視力がこれこれ以上」と決められてると、
(今はどうか知りませんが)近視治さないとなれないわけで、
それがエンジンになって治っちゃう。

問題は。
それが普通の人間できっこない、ってところでね。

ヨガなら手軽でちょろっとやれば効果抜群かと思いきや、とんでもない間違いでした。
めっちゃ辛い。
もちろん、「ここまでできない人はこんな感じで」というポーズも載ってるわけですが、
それも無理。というか無理じゃないけど大変。はぁはぁ言います。

この罠には何度も引っかかっているのですが、今回も。
まあただ、懐かしのチバレイさんがくにょんくにょん身体を自在に操るDVD観ただけで、
元は取れた気分満開なので、いいんですけど。
一児のママさんになってもあのアニメ声のままでした。

---

習慣というのは簡単に破られます。
特に「メンテナンス」というのは非常に希薄なモチベーションで動いてますので、
ちょっとしたキッカケで簡単に破綻する。
誰もPCのHDDのバックアップ定期的に取らないでしょ?
ツール使えばクリック2〜3回のことなのに、週一回でいい程度のことなのに、
それをやらない。
である日すっ飛んで泣く。
いや僕も経験ありすぎるのですが。

これを避けるには、
・それそのものをやってると意識させない。
・その行為自体がマスターベーションぐらい楽しい。
の、and/orです。
僕に取っては散歩は前者で、生姜紅茶は後者です。
(もちろんアレの方がアレですがそんなこた言わなくてもいいでしょ!)

ストレッチ系もね。
思い立って風呂とかで首を伸ばしたり曲げたりして、
「あ〜きもてぃいい〜」と嘆息するのですが、その場限り。
次の日は忘れてぽけ〜っと湯に浸かってるだけ。

そうだ。
お風呂にはいると、センサーが感知して、
5分後にラジオ体操第一が流れるってのはどうでしょう!?
さすがにあのミュージックが流れてくれば「いっちょやるか」と……

というか、PCのOSに仕込むべきですな。
一日の操作スタートは監視できるわけだから、1時間したところで
椅子に座ったままできるストレッチや眼球体操を、
動画がポップアップして指示してくれる。
OSじゃなくても常駐アプリでもいいんですけど。
どぉでしょう?
Flash職人の皆様、ひとつぜひ。
萌えられるメイドさんで声優さんついてるとなお良しですな。
もちろんメイドさんのタイプは朝昼晩で違うのね。
ほら、「朝のあの子に会いたいから早起きしよう」とか思っちゃうじゃない。
きっとすぐ誰かがパッチ作るんですけど。

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それはともかく、
「『それ』をやればいいことはわかってるんだけど、なかなかできない」
ことって、「やる」までの壁を壊すことに尽力すべきなのに、
そうではなくて、「それ」のバリエーションばかり追っちゃいますね。
楽だから。
頭使わなくていいから。

野球って、やっぱり基本的に観て楽しいスポーツだと思うんです。
それならそれを追い込んでいくのが大切で、
球団数とかそんなんホンマどうだっていいことです。
プレーオフ制度がどうかっていうのも。
それより、球場行って焼き鳥で700円取られるのがおかしいじゃないですか。
トイレ汚くて、馬鹿みたいに並ばされて、胡散臭い利権まみれの売店のおばちゃんにエラソウにされながら高いジュース買うのね。
そんなところ誰が行きたがりますか、この21世紀に。
まずそっからじゃないですか。
「年間開業日数がこれでは大手チェーンは来てくれない」
呼べと。補償金を積んで。
それが努力ってヤツじゃないですかね。

ヨガかチバレイかぶら下がり健康器かはともかくとして、
そこへ至る壁を見つけ壊していきたいなあ、
と思うのです。
それが知恵ってヤツじゃないですかね。



 10/26 私信:FF11おおよその流れ

勢いに任せてがーって書いてしまいましたが、
ちょっぴりずつやっていくのが吉です。
のんびり、マイペースで。たまにはおやすみも交えつつ。

ええ、週末は金夜から月朝までメシとフロと睡眠以外
ディスプレイ前だったこともありましたよ。

おからだだけ、壊さぬよう。

---

【レベリング】

〜Lv18
サポジョブ取りです。サンド民の場合はセルビナになると思います。
カニから「ふんどし」トンボから「腹虫」骨から「サレコウベ」を手に入れます。
カニとトンボは比較的簡単ですが、骨がそもそも個体数が少ないので、ちょっと大変。
セルビナで「サポジョブ取りですがお手伝いお願いできますか!」とか叫ぶと、
ひょっとすると暇な高レベルの人が手伝ってくれるかもしれません。
もちろん私が居れば手伝います。
グスゲン鉱山(砂丘を抜けて、コンシュタット高地にあります)のグールも落とします。
こっちは誰も狩ってないので、こっちの方が早いかも。

サポジョブを取ったら、サポを育てる期間になります。
戦士の場合はモンク、いや今なら忍者かな。白もいいです。ずっと使えます。
白の場合は黒一択かな。のちのち召喚士も非常にメリットの多いサポになるのですが、
エクストラジョブなのでLv30以降です。

〜Lv20
チョコボ免許目指して、ジュノに向かいましょう。
ジュノでも、Lv17ぐらいからクフィム等々狩り場ありますので、早めに行ってもいいです。
ジャグナーやバタリアは、1PTで戦闘を繰り返して進むにはちょっと厳しいので、
基本メタルギアで。
薬品はご存じですか。
プリズムパウダー(姿を消す・視覚感知の敵に有効)
サイレントオイル(音を消す・聴覚感知の敵に有効)
を駆使すればレベル1からでも行けます。
もしくは、本職ではなく、死んでも構わないレベル1キャラで薬品を少し持ってチャレンジするのも、別のゲームになっておもしろいかと思います。
もちろん私が居れば手伝います。

〜Lv30
このレベル帯ですと、「カザムパス」てのが
あるのとないのとでえらい狩り場の幅が違いますので、これを取りましょう。
ユグホトのオーク、パルブロの亀、ギデアスのヤグが落とすカギ、これを1本ずつ3本。
あるいは148000ギル。
後者は現実的ではないので、カギを取りに行きましょう。
どの場所にも高レベルがウロウロしてると思いますので、
(いろいろNM狙ったり、素材集めしてたり、採掘してたり)
思い切ってお手伝いお願いシャウトしてもいいかもしれません。
もちろん私が居れば手伝います。

Lv30
さあいよいよエクストラジョブ解禁です。
詩人、暗黒騎士、召喚士、獣使い、狩人、ナイト、竜騎士、忍者、侍。
この順に取得が楽です。
というよりも、酷い話なんですが、
竜騎士・忍者・侍はレベル30がいくら束になってもなんともならない話なので、
おtellください。手伝います。
この辺からジョブの個性が徐々に出てきますので、
いろいろ試してみると楽しいと思います。

で、この後は「これかな?」と思ったジョブをぐいぐい上げていきます。
サポジョブが割れないようにご注意。
次の一段落はミッション5で飛空艇に乗ることだと思います。
おおよそLv40ぐらいかな。
その次がぐっと進んでLv60ぐらいで闇王。
まあ、2年ぐらいかけるつもりでのんびり(笑)
せっかくですから。

どんな細かいことでも言ってください。
先約入ってない限り駆けつけますので。


【各ジョブまとめ】

ヴァナではPT戦では、前衛3後衛3が基本です。すなわち、
盾 物理アタッカー 物理アタッカー 魔法アタッカー 回復 戦闘補助

盾……ナ・忍・(中レベル帯までの)戦
物理アタッカー……戦・モ・シ・暗・狩・竜・侍・獣
魔法アタッカー……黒・召・(回復多めの場合)赤
回復……白・(中レベル帯までの)召・(回復少なめの場合)赤
戦闘補助……詩・赤

大雑把に言えばこんな感じ。
黒から見た勝手な感想を述べますと、

ナイト
頼れる盾、忍盾全盛期をしのいだだけあって、下手な人が少ないのも安心。ピンチでのインビンシブルはほんとカッコイイです。AFのヒーロー(ヒロイン)っぷりもナイス。サポは戦一択、自前で回復持ってるので、冒険・金策能力は割とあります。

忍者
中途半端なアタッカーだったはずが、ユーザーが工夫で盾に仕立て上げてしまいました。
忍具にお金がかかるのと、物理アクション的に腕前がいるので、上手い人が多いです。非常にテクニカルなジョブなので、やりがい充分。

戦士
全レベル帯で安定した強さを誇る基本中の基本アタッカー。生で挑発がついている故にサポ選び放題なのも(といっても最近は忍ばっかりですが)魅力。使用できる武器も防具も多く、戦いのスペシャリストとして遊び甲斐あり。あとは腹筋に自信があれば……

モンク
狩人を除けば最強の物理アタッカー。装備にお金もかかりにくく、その割には乱獲金策に向いており、プレイも複雑なものを要求されず、サポも戦とシだけで充分、と難しいことを考えずに殴りたい人向け。ただ「モンクさん単発乱撃で^^;」がちょっと寂しいかも……

シーフ
横ダマ廃止でいくぶん衰えたりとはいえ、まだまだ破壊力充分。トレハンでアイテムドロップ
も増え、不意ダマでタゲ固定も得意。戦闘だけでなく金策や冒険などの楽しみの幅が非常に拡がるジョブです。ただ、Lv15までがちょっと辛いです。

暗黒騎士
素材としては非常にパワフルなアタッカーです。命中や攻撃を充分ブーストした暗黒さんの削りはまさに鬼そのもの。びっくりする勢いで敵のバーが減っていきます。ただ、装備が天井知らずなので、凝り出すとお金がいくらあってもたりません。ちょっとテクニカル。

狩人
最強。キャップ付近でこそ肉薄されますが、他のアタッカーとはレベルが違います。ただ、矢弾でお金がまさに飛んでいくジョブ、そのくせソロ能力は低いので、育てるにはとても苦労します。最近流行ってるので装備も高い。黒はよく凹まされました。

竜騎士
可愛い子竜が楽しめる……いや真面目に子竜さえ落ちなければモンクや暗黒に負けない削りがあります。ただ、獲物が槍一択で骨に弱い、範囲攻撃の敵に弱い、など性能がピーキーで難しい。誘われにくいのも難点。もう少し手を入れてあげて……


MBチャンスが増えるので、黒的にはとても嬉しいお侍さん。世間ではトス役という認識ですが、私が最高に稼げた時(5800/h)の構成は忍侍侍白黒詩でした。毎戦2連2つ、片方不意ダマ。巧く使えばPTの戦闘力をグッと引き出す、頭脳派ジョブです。装備もカッコイイ。

獣使い
もちろんですがソロ最強。75までソロで上げられるので、オフラインゲームのようにFFを楽しめます。印章が貯まるので、BC行って結果的にお金持ちにも。乱獲能力もすこぶるつきで高い。非常に特殊なジョブですが、気ままにできるのでハマる人はハマるようです。

黒魔道士
強化につぐ強化でようやく本来の姿に(号泣) 30までと、65以降(あるいは闇氷杖のある51以降かな)スペルアタッカーが堪能できます。誘われやすくお金もあまりかかりません。魔法攻撃手がお好きなら、今はおすすめできます。ソロはとてとてヘボイですが。

召喚士
なるのは比較的楽ですが、召喚獣を集めるのが大変です。また、肝心の履行も1分に1度きりなので、戦況をよく見ないと場違いなことをしでかします。今全ジョブで最も難易度が高いのでは……BCや裏など、限定条件で神ジョブ扱いされるのですが。

白魔導士
言わずとしれたヴァナ唯一のメインヒーラー。ヘキサの破壊力やテレポの移動力、ケアル5にレイズ3、高い性能の割に本人達が拗ねまくってる変なジョブ。白赤or白詩で黒が見つからないなら前衛入れないと火力不足なんです。それだけだと思うのですが……がんばって。

赤魔道士
ソロ・PT・金策・装備・遊びの幅、疑うべくもなく現在最強のスーパー・ジョブ。これだけ居てもまだ誘われる誘われやすさも。ただし、レベリングPTではやることが「作業」に近いような……でも高い可能性を目一杯引き出すという意味では、非常におもしろいジョブです。

詩人
本人は弱いのですがPT的にはいついかなる場合でも最優先勧誘ゴッドジョブ。歌いわけとスレ・エチュ・プレそして回復補助、忙しいのが好きな人には特におすすめ。ただ55からずっと同じ作業になるので、カンストまで根気持たない人も多く……

──こんな感じ。
これは黒視点なので、本職が聞けば目を剥く感想も混じってるかもしれませんが、
その辺はご容赦。
ちょっと特殊なのは獣使いと召喚士ぐらいで、あとはまあ、
今はかなりバランス整ってると思います。
モンクさんとかも中盤不遇ですが、68前後から骨ファンになると引っ張りだこですし。
どのジョブにも、山谷があります。
何事もそうですがやってみないとわかりません。
元戦士41の私も、デジョンが欲しくて「17まで」と思って始めた黒に鞍替えしてしまいました。

ヴァナには山のような楽しみが待ってますぞよ!




 10/25 ダメならすぐやりなおし

電気釜を買うついでに、「Norton Internet Securty」を買ってみました。

いや、まま上号が自動更新でXPのSP2拾ってしまい、なんか警告とかやたらうるさい。
「アンチウィルスとか入ってませんよ!」とか。

「そんなん言う前に最初から入れとけ」とか思うのですが、
それはジャンボジェットの各席にパラシュートが装備されてるようなもので、
「自分ダメです」というようなものだから入れないのかな。
でもビルにも非常脱出装置「オリロー」があるしねえ。

で、本人がすごく不安がるのです。そういう場合に
「OSの自動更新入れとけば、うちはルーターも介してるし、
 メールクライアントもOutlookじゃないし、まあ大丈夫だよ」
とか言っても通じないものでねえ。

息子より売り物の方が信じられる。
それは正しい判断です。

ともあれ買ってインストールしてみました。
余計うるさい(泣)
NortonなのかOSなのか、
「Outlookが標準メーラーじゃないんだけど、どゆこと?」
ってダイアログがしつこく出るんです。

知らんがな。
うちゃずっと別のメーラーやねん。

ただまあ、安心料としては6000円は安いものといえば安いもの、
Norton先生シリーズはその辺の演出が巧くて、
Antivirusは僕も使ってるのですが、ウィルス入りが来ると、
真っ赤な警告ダイアログ出して
「削除しました!」
別にそんなの言わなくても黙々と消してくれればいいんですが、そう言われると、
「おお頼もしい」
と思っちゃうもんですな、これが。
一種エンターテイメントソフトと言えなくもない。

これ系のソフトお使いの方はご存じだと思いますが、最近多いですよね。
うち、プロバイダBIGLOBEで、ウィルスやスパムは相当頑張ってくれてるのですが、
それでも最近は守りきれないみたいでよく来ます。

ベストエフォートの考え方
「保証しない代わりにコストが安い」でいえば、
そういうのは来ても当たり前。
ブロックに神経とコストを掛ける方がもったいない。
PCでもHDDでもクラッシュするのは当たり前なんだから、
バックアップは取っておかない方が悪い。

……というのはそうなんですが、来てしまうとムカツクのも事実です。
ムカつかないようになるには、PCそのものが1万円ぐらいのもので、
壊れたら次のをその日に買ってその日に使える、
CDウォークマンみたいなものでないと。
もう5年もすればそういう機種もありそうな気もしますけどね。
OSはROMで、記憶媒体フラッシュで。
各種ソフトウェアは使用権をメーカーからネット経由で手に入れる形で、
具体的な方法はアイデアありませんが、
なんか物理キーみたいなの(ここに個人情報が入ってる)を
USBポートにでもぶすっと挿すと、
登録されてるソフトウェアが各メーカーからじゃーっと落ちてインストール、みたいな。

大台風に大地震、被災者の方にはお気の毒でしょうがないのですが、
映像見てると、やっぱりこの国には欧州風の堅牢確固とした文化文明は合わないような気がしてなりません。
レンガで石でバッチリ組み上げても、堤防が決壊して崖が崩れて、
ぜんぶ持っていくんだもの。
紙と木と土で作って、持ってかれたら作り直す方がいい。

昔へ帰れって言ってるんじゃなくて、
そういうダンボールみたいな素材で、素人が一週間でちゃちゃっと建てちゃう家でも、
今の技術力なら充分な家ができるんじゃないかなあ、と思ったりするんです。
ヘタすると剛構造の鉄筋コンクリ家よりも強いものが。

これも司馬叔父の受け売りなのですが、
モンゴル人ってゲル(フェルトで出来た大きなテント状の移動お家)に
住んでるじゃないですか。
その人が東京へ来て腎臓かなんか壊して、
「日本は寒すぎる」
もちろん言わでもですが、最低気温なんか向こうの方がはるかに低いですよ。
大阪だって夏はバンコクより暑いんだし。

豊かな自然と四季に、全然対応し切れてないような気がします。
また、そういう素材と建築方法だと、とてもエコかつ健康な気が。
もちろん、くどいようですが科学と技術と知恵の粋が尽くされてて、
とても住み心地がいいのは前提ですが。

持っていかれるのはもうしょうがないとして、
持っていかれてもいいような考え方はできないものか、
とセキュリティソフトの説明書を見ながら思いました。

なんでもかんでもが過剰な現在では、どこにでも応用ができそうな気がします。
その考え方を一番使ってるのが、時代の先端であるネット周りである、
というのもまた、少し含蓄深い。



 10/24 電気釜が来たよ

炊飯器が突然壊れたので、買いに行きました。

我が家は永年ガス釜派だったのですが、IHの出現とともに電気釜が気になりだしており、
今回は思い切って行ってみるかと。

凄いですね、今の電気釜は。
松下のトップモデル6万円。
なんだか6層だとか8層だとかの金だの銅だののご大層なお釜、そのサイド全面を覆うようなIHヒーターに、水蒸気がどうの圧力がどうのと美味さを引き出すギミックがてんこ盛り。
他社も負けてませんよ、三洋、東芝、象印が後を追う。
大阪ガスのガス釜も置いてあるのですが、多勢に無勢という感じ。
どうしてもそういう小技は効かせようもないですからね。

で、今まで使ってたのが大阪ガスの3万円ぐらいのだったので、
ちょいといいの、ということで三洋の4万円ぐらいのをチョイス。
なんかね、「99モデルと比べてほらこんなに旨み成分が!」みたいなので、3倍とか5倍とか不穏な数字が踊るんです。
あれ系の広告見ると、僕なぞは「前のはそんなに不味かったのか……」と思ってしまうのですが、まあ、それも自信の裏返し。

うちはコーナン併設のJoshinをやたら利用してるのですが、
やっぱり活気ある店舗だからPOPとかもよくできてて、
「美味さテスト100人の結果!」とか貼ってある。
それで見るとその松下のトップモデルが一番人気。
でも関東では象印のが一番人気とか。

これですよこれ、メーカーの資料では死んでも出せない情報で、
こーゆーのがお店の努力でねえ。

どうして日本のメーカーが比較広告あんまりやらないかというと、
「自分の長所より相手の弱点を突く姿勢が『とても』いやらしい」という事実の他に、
「持ちつ持たれつ」でしてね。
ライバルでもありますがお互いに得意先でもあり仕入れ先でもあるんです。
モノだけじゃなくて特許とかもやりとりするし。
だから変にこじれそうなこととかはやれない。
でも、お客にしてみれば「結局どれが一番なの?」というのが知りたい情報で。

と、感心。

それはともあれ炊いてみましたさっそく。
なんか圧力かけるらしいんです。
圧力かけると水の沸点上がりますから、120度でぐいぐい炊ける。
少しするとその圧力を抜く。すると、ご飯が「踊る」。
それで美味くなる、らしい。
結果。

……まあ、美味しいかも(笑)

いや、ひっくり返るぐらい美味いのを期待してたのですが、
さすがにそんなことはなかったです。
「そういえば粒立ちがよくてつるつるしてて歯ごたえいいかなー」ぐらい。
やっぱり炊き方より米かなー。
というか、最新モデルでこのぐらいだと、ガス釜の力は偉大というか。

ただ、電気モノというのは市場さえあればギミックが恐ろしい勢いで進みますから、そのうち老舗料亭で50年飯だけ炊いてる人よりも美味いメシが炊けてしまうかもしれません。
ちょうど伸び盛りって感じです。
やっぱりなんのかんの言っても、日本人はコメ。メシ。白米。
美味いメシがあればそれでいい。
また数年後壊れた時がちょっと楽しみです。


余談。
壊れた当日はお鍋で炊いてみました。
お焦げがたっぷりできましたが、びっくりするぐらい美味くできました。
家中「うほほ、これなら釜など要らんッ!」
と盛り上がったのですが、次の日のお鍋ご飯はベチャベチャに。
家中「……」
そんな感じで慌てて買いに行ったのです。

科学の力は、トップパフォーマンスだけでなく「安定性」にも発揮されております。

余談その2。
その昔、電機メーカーの企画屋をやってたのですが、
初めてネーミングした(通った)のが電気釜でした。
それが店頭に並んだ日はすっごい嬉しかったです。

今もそのメーカーは撤退はしていないみたいで、隅の方にひっそりと普及機がありました。
ちょっと嬉しかったのですが、さすがに買えとはよう言いませんでした。



 10/23 調味料の使い方

今日もまた、詞藻のみを。


キティがどうやら♀らしい、というのは皆、あのリボンや花で知る。
では逆に、リボンさえつければ♀になるのか、と考える。

なにかを表現する時に、
この一般に通用する記号と、リアルを写生することの間に、よくズレが生じます。
これは割と悩み大きい。
「こんなこと言うやつぁいないけど言う方が可愛いよな」
「事実は小説より奇なり」を持ち出す前に、おしなべて小説はファンタジーですから、
可愛い方が勝ちでございます。
リアルかそうでないかなど、犬の糞より役に立たぬ特性です。

しかしそれを進めすぎると、「いいからリボンをつけろ」になる。
そのことの良し悪し、合う合わない、意味、そういうものを全て後回しにして、
「リボン=可愛い」を最優先する。
リボンが可愛いのは本来結果であって、可愛い女の子がよく似合うリボンをつけるからこそ可愛さに磨きがかかる。
もちろんリボンにも力があるわけですが、主従はそういう関係のはずです。
それが逆転する。

こういうことに対して、非常にストイックに、
「いや!リボンは的確な場所でなければつけてはならんッ!」
と思うのも非常に美しい姿勢です。
ですが、街のお好み屋の主人が、自分が好まないからといって
マヨネーズを用意しないわけにもいかない。
「リボンが欲しいならつけましょうか」
というのもまた、親切な姿勢でもあります。

これ、求められてるとか、もっとぶっちゃけ言うと「ウケる」と考えるから
臭みが出てくるのであって、「コミュニケーション」と考えるとどうでしょう。

言葉は特にコミュニケーションで普段使ってることもあって、音楽や絵と違って、
「伝わってしまう」
ことが長所でもあり短所でもあります。
私は友人に指摘されて以来、「ゴッドファーザーのテーマ」のイントロを聴くと
「裏の畑でポチが啼く」
という詞しか頭に浮かばない身体に改造されてしまったのですが、
言葉というのは、そういうものばかりです。

「パンツ」

ほら、この3文字を読んだ時に、人々の脳裏によぎるヒストリはまさに千差千別、
もう僕の手には負えません。
司馬叔父はこれを
「どんなに頑張ったって、小説家は50%しか書けないんだ。あとを埋めるのは読者だ」
と言います。
パーセンテージはともあれ、文章というのはそういう特性のもので、
それが良いところでもあり、(パンツ周りの思い出を勝手に付加してもらえる)
悪いところでもあります。(よけいな思い出まで付加される)

なぜこんなことを考えたかと言いますと。
伝わらないことを嘆くよりも、
伝わらないものだと常に確認している方がいいような気がしたのです。

どんなに天才的作者が血のにじむような努力をしても、
伝わらない時には伝わらない。
僕が鼻水垂らしながら「ぱんつ」と書いただけで、
もう読み手必要以上に大興奮、なこともある。

そういう、もんなんです。
いいも悪いもない。それはもう物理法則で、E=mc2で、変わらない。

50%伝わるのだから、精一杯描く。
50%しか伝わらないのだから、諦めも肝心。

視点を換えると、
半分は自分のために、半分は読者さんのために。
言い方換えると、
一生懸命にいい加減。

ペペロンチーノ欲しがってるお客さんにカルボナーラ出すのも変な話で、
得意じゃなくてもペペロンいってみましょう、とか。
(もちろん、カルボ専門店を否定するわけではなくて、それも美しい姿勢です)

そう考えると、「記号の使い方」にもある程度の軸ができそうです。
そう、調味料。
「それを使うとこの味がつく」と決まってるものなんですね。
だから(文字通り)味を調える時に便利なら使えばいいし、
使いすぎるとその味しかしなくなるから、注意すべきだし。
「いや俺は手作りだから!」とか言って、お醤油使わないのは変ですよね。
お醤油手作りなのも実はちょっと疑問。
餅は餅屋、プロのそれの方が美味いに決まってる。
そこまで追い詰める気迫と努力は、とても尊いですが。
毛嫌いする必要は、ない。

ただ、ただ、気をつけねばならないのは、
記号はあくまで調味料ですから、いい素材いい調理法があって
初めて実力を発揮するもの。調味料で料理はできないのです。
日本は特にオタク文化の激しい土地なので、「カレー味ならうんこもOK」という状態が、
四六時中ありとあらゆるジャンルで商品でサーヴィスで繰り広げられます。
もうね、カレーパウダーまぶしてないと商品として認められないところまで行く。
作る方も勤勉なのか公共概念が無いのかその両方なのか、
平気でカレー味のうんこ作りますし。
それに巻き込まれてはいけない。


個人メモになってしまいましたが、
調味料という捉え方をすれば、仕事なんでも。
うーん、生活でも、たとえば挨拶や記念日、家族イベントみたいなものは、
調味料じゃないでしょうか。

「うまくいくなら、それでいい」
というおおらかな気持ちは、つねに。



 10/22 Crazy?

妄想が、好きとか嫌いとか以前に癖です。

たまに、いや、よく、変な方向へ暴走します。
そしてその妄想自体に激しく恐怖したり、嫌悪感を抱いたり、悲しくなったり、
いろいろします。
(逆もあるから、なにか書けたりもするのですが)

そんな時には、「狂っているのではないか」と怖れます。

人が、「人と違う」ことを怖れるようになったのは、いつぐらいからでしょう。
高度な社会を営むようになってから、近代でしょうか?
それとも集団生活を営むころには、つまり弥生式土器を使い始めたころから?
個人で言うならいつぐらいでしょうか。
中学生ぐらいにはもうそうなってますよね。
あるいは、それをこそ「ものごころがつく」と言うのやもしれません。
わからないですが、「変わっている」ことに対する恐怖は、
ごく稀な先天的例外を除いて、誰にも等しくあると思います。

おそらくは、それが原因になって、
その集団からつまはじきにされる、
つまり生きていけなくなる、ことが怖い。
となれば、そういう事態を引き起こす可能性、
つまり自分が「変わっている」ことを認識できない状態──「狂っている」ことを、
さらに怖れる。

「狂っていることを把握できる状態は狂ってない」
普通そう言われますが、それも疑い出すとキリがない。
可能性として持っているということは、ふとしたはずみで、
アルコール、薬物、体調、激しい感情、あるいは気候や天候でさえ、
「それ」が解き放たれるやもしれません。
いや、こうしてそれに脅えること自体が、「狂い」と指摘されても反論はできません。
いやなにより、自分が人にどう見られているかなんて、自分にはわからない。
自分が至極真っ当なことを言っていても、それは違うと言われれば、ぐらりとする。
田中正造は狂人扱いされた。

思えば物心ついた頃から、頭脳を回す時には常に、
この「狂い」の影に脅えていたような気さえします。

ただふと、昨日の夜、いつものように自分の妄想と想像に
自分自身を喰いちぎられて涙を流さんばかりにつらく苦しく、
しかしそこで。
「俺は狂っている?」

狂ってさえいれば、どんな虚妄が脳裏で暴れようとも、かまいません。
狂ってるんだから当たり前のことです。
どんな感情の大波に洗われようとも、心臓を引きちぎられようとも、
そりゃ、狂ってるんだから、あたりまえです。

悲しみに対して、
「こんなことで悲しんでいてはいけない」と思う気持ちは、立派です。
立派ですが、なんの役にも立たない。
それどころか、逆効果です。
悲しみは、そんな気持ちで打ち消せるわけじゃない。
いや、そんなもので打ち消せないからこそ悲しみです。
臭いに対して別の臭いでごまかそうとするようなことは、無理です。
いや、消えてるような気はするのですが、そこに悲しみは依然ある。

悲しみは悲しみのままで、その大いなる悲しみに浸ってしまって、
大いに悲しむほか、ない。
それが普通ではなくても、人が聞けば笑われるようなことでも。

「狂い」とは、それを自分が認識できるかどうかを除けば、
「違い」でしかありません。
それならば、人は人それぞれで、一人一人違う。
それはもう、いつもよくわかっているところです。
認めてもらうも認めてもらわないも、だってそうなんだからしょうがない。
どうしようもないものです。

ここで
「人はそれぞれ少しずつ狂ってるもの……」
というまとめを持ち出す気にはなれません。
また、「人間誰しもに潜む狂気」というフレーズにも常に疑問を持ちます。
どう見ても聖人君子、ヒトカケラの狂気も持たない人もいる。
また溢れそうな狂気を必死で抑える人もいれば、
狂気を気取りながらまるで健全な人もいる。
健全に見えて狂気そのものの人も、たくさんたくさんいます。
「違い」の量と質とベクトルこそ、人それぞれです。
またそれを他の誰かと比べることに、意味は全くありません。
繰り返しになりますが、だからといって、
それを変えることは、できそうにありませんから。

狂気とは、その人そのものの本質の、「世間標準」から外れた部分を指すだけです。
ですから、それを変質させようとしたり凹まそうとすると、
その人が、その人でなくなる。
そちらの方が、よほど弊害があります。
もちろん、狂気をそのままにすることの軽い弊害はあります。特に周囲に。
ただ、狂気を押し殺すために異様なエネルギーを使い、自分自身が変質していくこと、
その弊害の方がはるかに大きい。

微量なミネラルが水の味になります。
これを皮肉な文字通り狂ったように純化したって、なんの意味もない、
どころか、その水をとりまくネットワーク全体としては、多大なる損失です。
なかにはトリハロメタンとか入っちゃってるんですけど、まあ、それは……
ただぐるぐるとイオン交換膜フィルタを巡るばかりでなく、
多少はしょうがないとして清流を大海目がけて流れ下る方が、いいのです。
また蒸発して雲になって雨になってまた流れ下る、方が。


狂いたくない、狂ってないと必死に思っているより、
狂ってる、と認めてしまう方が、
すべてがスムーズに、スマートに流れていくような気がしました。
対外的にも、「しょうがないよ、だってあの人おかしいもん」と思ってもらえれば、
これほど自分も周りも楽はことはない。

ただそれだけのことです。



 10/21 さわやかに。

 台風23号、大変な被害を各地にもたらしたようで、おくやみ申しあげます。

 大阪もほぼ直撃でした。
 ですがおかげで今日は空が抜けるよう。
 空気もめちゃくちゃにさわやかです。
 「これが秋の実力か!」と驚きました。

 つまりは普段、どれほどどんより澱んだ空気を吸っているか。
 そりゃ不定愁訴もストレスも増えます。
 水は水道局の皆さんの努力もあり、あるいは買えば、あるいは浄水器、かなり誤魔化せますが、空気は逃げられない。
 こんな空気を吸うと、田舎住まいに強く魅かれます。
 自動車の排ガス規制も進んでますが、古いクルマはなかなか無くなりませんし、クルマ以外の工業排出ガス規制とか今どうなってるの?という疑問もあります。
 都会に住んでる限り、数十年単位でこのままなのかな。
 そのうち、全館清浄住宅みたいなものが流行るのでしょうか。
 今でも最新の機密性高いマンションで、酸素供給機能付きエアコンと空気清浄機をフル活用すれば同じかな。

 でも、違うんですよね。
 蒸留水とナチュラルミネラルウォーターの違いで、「美味さ」とは、「不純物が入っていなければ良し」というものではない。

 初めてパリに旅行したのは1月でした。
 向こう、寒いんです。面の皮がパリパリになるぐらい。分厚いアウトドアジャケット胸までジッパー上げてシャンゼリゼを歩きましたとも。
 でも、帰ってきて成田経由で伊丹について空港ビルの外へ出ると、これが寒い。
 ピリピリ寒い。
 絶対に気温としては向こうの方が低いんですけど、ヤな寒さで、「ああ、えらいとこ帰ってきてしもた」と文字通り痛感しました。

 微妙なんですけど、東京と大阪でも暑さと寒さの質が違います。
 僕は大阪生まれ大阪育ちですが、正直、大阪の方が厳しい。

 余談ですが、京都はもっと厳しいです。暑さも寒さも。
 最近、あそこに無いもの求めて夢見てる関東人が多いですが、ちょっと半端じゃなく生き辛いところなので、「目を覚ませー!」と頬を張ってあげたい。

 で、思ったんです。
 京都もそうなんですけど、住みにくいから、人情とか文化とか、それが発達したのかも。東北地方とかもそう。
 いや、別に住みよいところは人情が悪いってわけではなくて、そういうところは人も自然と穏やかになるから、ほっとけばいいんです。
 でも、住みにくい場所に居て、つらいからってお互いギスギスしてると、ますますつらい。
 それを埋めるものが笑いであったり、痩せ我慢や気の紛れという意味での文化だったりするのかな、と。
 人は結局動物でもありますから、社会システムや歴史的経緯以外にも、地理的要件、気候、そういう物理的なものが与える影響は、我々が普段想像するよりもはるかに大きいような気がします。

 ただ、そういうものにくるまれていながらも無いものねだり、秋のさわやかさがいつもいつも感じられる場所にも憧れます。
 そんなことを思った空気のきれいな、風のつめたい、一日でした。

 楽で便利な生活を目指したはずなのに、いつの間にか空気一つ胸一杯吸えない。
 「上手くやろう」と思い出すと、いつの間にか駄目になってる。
 なにはなくても、さわやかではありますように。



 10/20 縄文土器を焼きたい。

「まっさきにb-ほえながを見つけたで賞」は案の定鯖王さんでした。
また今度会った時に3日履いた下着でも。
新品を下ろして履いておくよ。
あっ、靴下の方がいい?

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岡本太郎先生の本(敏子さんが編集した語録)を
読んでいつものごとく感銘を受けてるのですが、解説者がいいことを言う。
「岡本太郎は行動する思想家だ」

そうなのです、思想は行動を伴わねば、完成しない。

そんなことはみな、頭ではわかっているのですが、
ついつい自分のことになると見失います。

せっかくblog始めるのだから、とトップページも弄ろうとして思案。
バナーとかレイアウトとか捏ねて捏ねて、でもピンとこない。
つーかねー、もう8年やってますとねー、
ネタと好みの軟着陸点なんて出尽くしちゃってるんですよー。
絞っても出ない出ない出ない。
出ても一回やったようなのばっかり。

くたびれて一家団欒で「アイ・ロボット」のパチモンDVDを観てる台所に座り込み、
「ああ……縄文土器でも焼きたいよ」
と呟いてみる。
我が家の人間は慣れてるのでこんなセリフでは微動だにしません。
僕も別に微動してもらいたいわけではないので、黙って何杯目かわからないコーシーをすする。
で、はた、と気づく。
「焼きたいなら焼きゃいいじゃん」。

お仕着せのフォントやデザイン、小綺麗なだけのレイアウト、そんなものはもういい!
心のおもむくままに、筆の走るままに、
もっと自由に、もっと力強く、
そう、
芸術は爆発だ!

……意気込みに手がついていかないんですけどね。

まあしかし「意気込む」というのはとても大切なことで、
まずなんでもこれからです。
「よしやるぞうりゃああああ」
というのはやはり、新しいもの、創造のよろこび、から生まれるのですね。
調整や整理整頓の作業から生まれるものではない。
それも大事なんですけど。

人のことならよく見えるんですけどね。
野球見てても「腕振れ腕ー!!」とか「フルスイングしろやボケ!」とかね。
「こんなちんまりまとまってちゃ駄目だろ!」とか簡単に言うくせに、
自分がまとまってやんの。

理論の構築も大切ですが、
その理論は身体動かして実践できる理論でなければ全く無意味。
また、身体がキレイに動くなら、そこから理論を導き出してもいい。
とにかくまず、おもいきり腕振らなきゃ。
行動です。

うむ。
ここで大切なのは自分で客観化する努力、そして……
敏子さんだな。
15歳年下の秘書兼嫁ね。

あのね、冗談じゃなくってもうあたしゃ33ですからね、15下つっても18、
ぜんぜん問題ナッシングどころか、もうちょい下でもいけるって世界です。
いけるのか?

──最近歳とったなあ、とつくづく思うのが。
昔は僕、小さい子供、赤ちゃんとか、別に好きでもなんでもなかったんです。
嫌いでもないですけど。「ああ、赤ちゃんですねえ」って感じ。
それが最近、休みの長居公園とかでたくさんそういう小さい子を見ると、
自然と顔がほころんで
「頼むぞ日本の将来を」
そんな気分に。

いや年金支えて貰えるかどうか不安なだけなのかもしれませんが。

しかし年齢やポジションはともかくとして、
敏子さんの存在がTaroの後半生をものすごく支えており、
そういう意味で普通にすごく羨ましい。

人は、結局孤独なものですが、
たとえそれをあらためて思い知るだけであろうとも、
その孤独を一瞬でも忘れさせてくれる人の存在は、
ありがたいものです。

まあ僕にも楽しい友達がいっぱいいるしな!(久しぶりに号泣)

いつものネタはこのへんにして、
さっそくタイトル画像作りにでもいそしむことにします。
うおりゃ〜!



 10/19 blog

風邪、引き続き身体重く頭重く。
台風も近づいて雨、雨、ふれ、ふれ、もっとふれ。
ジャノメでおつかい嬉しいな。

てなことでblogに挑戦してみました。

場所はまだ教えないよん……大手いくつかで検索すれば簡単に当たります(笑)
当てた方にはながたさん特製……特製……なにかを先着1名様にご進呈。
BBSかメールでご報告よろしく。

ブログ形式は見てくれとして煩雑なので、「どうかなあ」と思っていました。
コメントやトラックバックも、正直一見ビジターには邪魔なだけだし。

しかし、なにごともやってみねば本質はわからぬ。

……と、こちょこちょやってみますに、まず。
半端でなく楽だ(笑)
今のこれもホームページビルダー様におんぶだっこのお気楽ページなのですが、
それでもその日の枠とかターゲットとか手で弄ってます。
そーゆーのがまるで要らない……

なるほど。
こりゃウケるわ。

僕は常にレインボーカード(スルッと関西の市営地下鉄版)を持ち歩く男なのですが、
あれってプレミアムは無いので、メリットと言えば
「いちいちキップを買わなくていい」
というただ一点です。
でもただその一点が鬼のように便利。
で、数年前東京行って「Suica」使ってみてまた驚く。
「『あの隙間に差し込む必要がない』ってだけでこんなに便利なのかッ!」

人間は、どこまで楽をしたがるものなんでしょう。

しかし、楽のラインがここまで来ると、
ホントに紙の手帳に日記書き留める、
に近い使い方ができそうです。
と、いうよりも、あれは日記とか、議論とか、そういうフローなものを玉石混淆でザバザバ流していくメディアのように感じました。
流しながら、人とつながり、やりあって、自分の考えや持ってるものを磨いたり壊したりする。
相手のそれをそうしたりする。
そこに一番の良さがある。
そこに書かれるもの自体は、そう、会議のホワイトボードに書く図や文字と同じで、シンボルというかフレームというか、要するに詞藻であって、一言一句ゆるがせに出来ない完成品ではない。

今までの個人HPというのは、アーカイブ、書庫(倉庫)であり、
ストック情報の蓄積場所、だったと思うのです。
いつ引っ張り出しても色あせないコンテンツが(そこそこ)ある。
コミュニケーションは掲示板やチャットで。別々。
だから、似ているようで実はかなり違う。
雑誌と単行本ぐらい?
ちょっと違うな……

ちょっと今までに無い感じです。
楽で、コミュニケーションの楽しさもあって、となれば間違いなくおもしろい。
(もちろんコミュニケーション部分は切って、単に日記デバイスとしても使えます)
なるほどなるほど。

悩みとか迷い、ってほどではないのですが、
これ(ほえながやぱわね、つまり個人web)をずーっとやってきて思うのですが、
「ストック」ということを言い出すと、微妙に現物には敵わないんですよね。
webのモノは。
絵や写真はもちろんのこと、文章でもや〜〜〜っぱりちょっとカジュアルになる。
キッチリ行くなら、どうしても本にしたくなる。
本にしようと思わないと、キッチリしきれない。
逆かな。
カジュアルになれるのがwebのいいところで、
ガチガチで行くなら本にすりゃええやん、webの良さ活かしきってない、と。

青空文庫とかで名作がタダで読めるわけですが、
じゃそれでウハウハかっていうと、名作ならば名作ほど、文庫本買っちゃうわけです。
どっちがイイワルイじゃなくて、向き不向きがある。

ストックとしてのアーカイブ充実方向よりも、
フローとしての流れが早く・幅広く、という方が、webの進化としては向いている。
……かもしれない。

11月からしばらく試験運用してみます。
トップのURLとか変わりません。「ほえなが」のみをば。
僕も自分がどう使っていくか、楽しみです。



 10/18 雑感

日曜、okbちゃんと共に「ナンバ一番館」のたけしさんの回を鑑賞。
okbちゃん超おすすめだけあって、泣ける話、アホ話満載、特濃。

たけしさん(特にバイク事故以降)がどうして「見よい」のかと言えば、
自然体だから、ではないかと。

「自然体」はよく、「ありのままの自分」などと訳されますが、
どうもそれとも微妙にズレてるような気がしてきました。
我を出さず、その場の流れの中で、我ではない自分を出していく。
言葉で言うと矛盾だらけですがそんな感じ。
我らがヒデキに例えれば、
「ここで打てばヒーローだ」というのは捨てて、
「こう打つ」というのだけを膨らませていく。
できれば、それすらも捨てるほどに。

執念や気合いも、(もちろん計算も欲得も)それに至るまでの導火線に過ぎず、
いったんそこに入ってしまえば、あとはなにもない。
もちろん「ありのままの自分」などというものもない。

私のような凡夫は、そうなるととすぐ
「じゃそういう状態に持っていくための具体的メソッドを……」
と考え出すのです。
でもこれが、なかなか。
キッカケやその状態をつくりやすくする習慣、環境については人それぞれあるでしょうが、
だからといって「それ」がいつも生み出されるわけではない、のは皆様ご承知の通り。

ひとつ言えるのは、歯車と同じで、止めると再始動にトルクかかるし、
なにより動いてないと外界になんの作用も及ぼさないので、
動かし続ける、ことでしょうか。
たけしさんがレギュラーを減らさないのは、きっとそのためだと思います。
野球選手がやたら練習したがるのとか。
好きとかそういう次元じゃなくて、(もちろんそれもあるのでしょうが)
動いているところから、新しい動きが生まれる、と識っている。

人間を一つの情報体と考えた時に、
一番、ずば抜けて何よりも広帯域な情報源は、本人の体験です。
次が人、特によく知る人とのコミュニケーション、相互刺激。
その次が様々な媒体を通じた疑似体験。
ならば、能力とクオリティを上げていくのは、結局なによりも「やる」のが一番。
もちろんそれだけではあっという間に習慣化してインパクトが無くなるので、
常に新しいチャレンジを混ぜる。

ま、言うは易し行うは難し、ですが。

そうそう、あと連続運転と共にキーになるのが、
「高速シーケンシャル処理」
つまり一個一個の問題を、できるだけ集中して短時間にギャッとやり遂げる。
それを連続させる。
パラレルで処理させない。
パラレル処理、並行処理は一見効率がいいように見えて、
実は効率よく物事を動かすための計画立てのオーバーヘッドや、
問題ごとに違うシステムへの切り替え時間、システム再起動・シャットダウンの時間損失、
いずれもかなり馬鹿にならない。

並列処理、計算通り巧く動けばそりゃ効率いいかもしれません。
しかし単純順番処理の方が、最低効率の保証値は高い気がするのです。
子供の頃はそうだったはずで、大人になるに従って浅知恵がついて、
この辺をこね回すようになる。
これが良くないような気がして。

ただこれも、ダレとか飽きとかあって、簡単じゃないのですが。

---

それはそうと、たけしさんのアトリエらしきものが映った珍しい映像もあり。
どうも住処とは違う、小さなマンションの一室っぽい。

いいなあ、アトリエ。

「あのウナギ罠みたいなあんたの部屋、あれだって作業場みたいなもんじゃん」
と知り合いに言われそうですが、
いや、あそこはまま上が「ごはんやでー!」と攻め込んでくるのです。
夜中の1時にリッキーさんが夜遊びから帰ってきて、「開けてくれー」と言うのです。
そーゆー割り込み一切無しーでー。
贅沢かなあ。

でもこれは万人共通の悩みらしく、こないだ鉄心さん(助教授)もokbちゃん(銀行員)も
「割り込み処理が著しく効率を落としている!」
と呑み屋で喚いてました。
まきをちゃんも詩を描くのにモスへ行ったりしてるというし。
ネットもテレビも電話もなかった頃は、物理的に割り込みが入りようもないですし、
やっぱり「重厚で丁寧な思考」がやりにくくなっているのかもしれません。

割り込み処理以外にも、
「自我の空間」と「非自我の空間」というのかな。
要するにエロ本のある空間と、そうでない空間の分離が必要です。
仕事場はそれができるけど、割り込みが頻繁にある。
家の部屋は割り込みは少ないけど、エロ本がある。

ちょっとでいいんです。
「離れ」みたいな感じで。
でもそれこそがめちゃめちゃ贅沢……

え?素直にデニーズへ行け?
いや、コーヒーが40円も値上がりしちゃって……

まあ、そういうものが持てるよう、妄想しつつ、みんながんばりましょう。

---

大風邪ひいてしまいました。
脳が2回転/hという感じ。
こないだ秋への変わり目だと思ったら、もう冬への変わり目のようです。
みなさまもご自愛のほどを。



 10/17 雑感

別にライブドア支持でもなんでもないですが、ネチっこい。

エロゲーをなめんな!(笑)

ていうかそれってまさに天唾で、
讀賣や中日の系列スポーツ紙(報知、中日スポーツ)のエロ欄とかは構わないの?
もっというと借りたお金を何千億円と踏み倒す企業とか……

わからん……
世の中なにもかもがよーわからん……

---

わからないこともあればわかることもあり。

先日F1観戦への行き、高速のSAでトイレに向かう人々を眺めながら、
M澤先輩に長年の疑問をぶつけてみたんです。

「なんでヤンキーみたいな人は、
 デズニーキャラがでっかくプリントされたスウェットとか着てるん?」

だっておかしいじゃないですか。
やや特殊傾向とはいえお洒落にうるさい彼らが、
どうしてあんな気が遠くなるほどダサイカッコをしてるのか。
しかしさすがトップシリコンエンジニア、答え一発。

「彼女とお揃い」

もうね。
どのぐらいスッキリしたかって、一週間分まとめて出たぐらい。

なんでも、訊いてみるもんですね。

---

実はうちのミル吉が、木曜金曜と家に帰ってこなかったのです。
ちゃんと毎日帰ってくる人だったのですが。
それでグッタリ落ち込んでいました。

大左右衛門という昔いたネコは、そのまま帰ってきませんでした。
ミル吉の兄弟のリッキーさんは若い頃、一週間ぐらい家を空けて、
でもひょっこり帰ってきました。

可能性というのは時に残酷で、
リッキーさんの時はすぐに諦めたので望外の喜びでした。
でも今回はリッキーさんのケースがあるので、「帰ってくるかも」と思える分、
何度も思ってしまって、つらい。
まぶたの裏に笑顔が浮かぶ。

今日夕方帰ってきました。

どうやらウチによく来る野良とバトルしてるうちに、方向を見失っただけようです。
首輪が取れて、小さな生傷だらけでした。
メシをガツガツ食べて、布団で寝てます。

あまりの寂しさを紛らわせようと買って帰ったビールが、
そのまま祝い酒になりました。
呑んで酔っぱらって、寝ました。



 10/16 素人芸


素人芸、と呼ばれるものがあります。
素人でなくても「素人くさい」と表現されることが多いものは、
ただ単に稚拙なだけではなく、なにか「臭み」があります。

先日、F1観戦の帰路。
道にストリートパフォーマー、絵を描いてる人がいたのです。
F1の名車達を中心に、クルマの絵。

匂いがする。

少しばかり天に唾だとは思いつつも、
何が違うのだろう、なにがこの臭気の原因だろう、と考え込みました。
昔から、このストリート系のを見るたびに似たような匂いがするのです。

それは、「素人だから」ではない。
たとえばwebで見るCGや写真や文章の、過半は(全部ではないですが)
この匂いはない。
また、私も即売会はよく出てますが、即売会にもほとんどこの匂いはしない。
形態や目的や、参加する人の層はそっくりなのに。

長年の疑問に今回こそ決着つけようとつらつら考えてて、
ハタと思いついたのが、
「あれは『自己愛』臭かも」

自己愛は臭いです。
いや、もちろん、誰しも自分が大好きなのですが、
それをことさらに他人の前でアピールし、そして(ここが重要なのですが)
「あなたより私はすごい(美しい/エライ/賢い/お金持ち/幸せ)」
という障気を出されますと、かなり耐え難い。

なぜ耐え難いかというと、理性の欠如の証明だからです。
頭脳を働かせ人と自分を比較すれば、10代中盤当たりで、
どの項目についても、おおよそ自分はどのぐらいのものなのか、
検討がつくものです。
可能性込みで大きめに見積もったとしても。
それがついてない、となると理性や合理性が、少々足りない。
これはヤヴァイ、とこちらの理性がアラートを鳴らすわけです。
もちろん、眼前にいる他者への思いやりが足りない、のは言わずもがなです。

そういう姿勢で表現をしますと、
どんなものを主題にしても、現れたものは「彼」もしくは「彼女」そのままにすぎません。
クルマの絵を描いてるんじゃない、「彼」を描いているんです。
そんなもん、要らん。

もちろん、表現の行きつく果ては作者の個性の発露です。
ですがそれはあくまでも、
主題を表そうという気持ちと行為の中に込められてこそ輝くのであって、
それでこそ普遍性が出て、誰にでも楽しめる、感動できる
「芸術」が、「エンターテイメント」ができあがる。
だって、自分を表現したいだけなら、
素っ裸になって突っ立ってしゃべってればいいじゃないですか。
絵筆など持つ必要ない、文字など書く必要もない。

ところが日本では、いや諸外国は知らないのですが少なくとも日本では、
この類の「自己愛」表現について極めて寛容で、
売り物にさえ、結構な頻度で見受けられます。
それをカヴァーするだけの超絶技巧や全く新しい主題でもあれば、
それもありかもしれませんが、手垢の付いたありふれたテーマと技法で、
「見て!わたしを!」

そういうのを見ていると、
自己愛嫌いは私個人の好き嫌いであり、一般的なものではないのかな、
と考え込んでみたりもします。
みなさんは、だいじょぶ?
私はやっぱり、古くなったウニより駄目です。

即売会になぜこの匂いがあまりしないかと言いますと、
あそこでは「売り上げ」という絶対基準が嫌がおうにも突きつけられるからです。
どんなに「俺一番」と思ってても、シャッター前に数千人、自分のブースに人影ゼロ、
くじかれるわけですね。現実に。
だからそういう人は来なくなるか、現実に対応していく理性を取り戻す。
webもそう、カウンタひとつつければ、いかに「誰も見てないか」わかりますから、
自分を誇示することができない。

#余談ですが個人webを続けるという行為は、
#イメージと違い、自己顕示欲からは一番遠い行為のように思います。
#どちらかというとプラモデルつくってるみたいな感じ。
#つくってるのが楽しくて、できあがりをどうするかとか見てもらうとかは副次要素。

言わでもの補足をしますと、
「自分のことを描く」というのは、決して「見て私を」と同義ではありません。
主題として「リンゴ」や「坂本竜馬」を選んだのと同じように自分を選んだだけのことで。
だから、良い自画像、おもしろい日記はいくらでもあります。


この「自己愛」という切り口で見てみれば、かなりスッキリしました。
いくらかは愛嬌になると思うのですが、ありすぎるとやはり、厳しい。
これは表現物ばかりではなく、人間の行為全般に言えます。
自分に自信を持つのはいいことですが、それを他者に押しつけない。
自分を好きなのはいいのですが、他者も同じぐらい自身を好きなことを、
時々は思い出す。
そこに気をつければ、だいぶ臭みのある人にはならなくて済む気がします。

ややペシミスティックなことを言いますと、
ご自分振り返られておわかりのとおり、
人は誰も、そう親でも恋人でも、
「あなた」になどこれっぽっちも興味がありません。
興味があるのは「自分と関わるあなた」です。

よい表現物は、まるでそのテーマが(そして結果としてそこにこめられた作者が)
自分にとってものすごく重要なことのように迫ってきます。
関係を迫る、というよりも、知らずに関わってしまう。
その源泉はサーヴィス精神であったり、強い思い入れであったり、熟達の技術であったり……
人間関係同様、その関係を樹立するには、「見て私を」ではどうにもなりません。

とりとめもなく、自戒をこめて。



 10/15 本物の自分探し

こないだ鉄心さんとokbちゃんと呑んだ時に、
「本物の自分探し」という話になったらしく、
(酔っぱらってて覚えてないのですが、だからこそたぶん本音でしょう)
鉄心曰く「そんなものはつくるものだ」
私曰く「そんなものはない」

これはなにも仏教的「空」観といった高度な精神性ではなく、
・「理想の自分」みたいなのを追いすぎると、へとへとになる。
・そんなものはどうでもよくて眼前の問題を解決するのが先決である。
という実利的な意味から、
「無いことにしておいた方が幸せだよ」
という処世術だったりします。

だから、あるかもしれません。
また、鉄心さんのように、日々を精一杯生きることで作り上げられていく「自分」像を、
「本物の自分」だと思えれば、それほど素晴らしい人生はありますまい。

話逸れますが石渡哲哉という人物のおそろしさはここで、
人生に対して100%の肯定をし、楽しみ、疑わず、振り返らない点です。
この生き仏みたいな人に教わる若い人は幸せに過ぎます。
悩み迷いの多い若き時に、生の喜びそのものが物体として存在する、
これほど励まされることはありません。

ただ、自分になにができるか、なにが向いてるか、なにならば力が出るのか、
それを探したり見つけたりすることは、とても有意義だと思います。
それを「自分探し」だと言えば、そうです。
ただそれも割と難しくて、本人の判断と周りの判断が全く違うこともあり、
向き不向きと好き嫌いが違う、という軽い悲劇もそこかしこにあり、
あまりここにコダワリすぎるのも、得策とは思えません。
探さなくても、一番の軸、種子のようなところには、
自然、いつのまにか、吸い寄せられていくような気もします。

それよりもなによりも、「本物の自分」などという虚妄に惑わされ、
「今の自分は仮の自分だから」という理由をつけて、
「力が出ない」「頑張れない」「不遇である」「おもしろくない」などなどと
言い出すのは、よくないです。
そういう人は、信じられない。
新しい道ややり方、興味、面白さ、そういうものは、精一杯からしか生まれない。
めいっぱいやって、困った、力が足りない、どうしよう、あるいは満足、ひとつクリア、
そこで初めて、次が拓けてくる。
まずそれをやらない人には、本物の自分も何も、見つかるはずがない。

なかにはまともなものも混じってると思うのですが、
こんな言葉を簡単に用いて耳目をひこうとする書物や映像が多くて、
そのたびに非常に不愉快になります。
本当の自分?
それがあったとして、それがなんだというのですか。
偽物の自分だろうが、不本意な自分だろうが、
死んだ時に友達が泣いてくれる自分の方が、
よほど大事ではないですか。
そしてその自分になっていくのは、日々の生き方の他ありません。

そんなもの探す前に、やることはいっぱいあります。



 10/14 Road to Germany アジア1次予選 vsオマーン

一次予選突破。

スペインでは、チームの監督を「エントレナドール」=「訓練する人」と呼ぶそうです。
ところが代表監督だけは特に、「セレクシオナドール」と言う。
すなわち、「選ぶ人」。

ジーコ監督は、そういう文化圏の人のようです。
「俺が選んだんだからお前ら頑張れ」
ハンス・オフトやフィリップ・トルシエにささやかな夢を見せてもらった我々には、この点がなかなか馴染めなかったわけです。
監督とは、指揮官、指導者。連合艦隊の司令長官のように、あるいはオーケストラのコンダクターのように、選手を自在に操って自らの戦略・戦術プランを実行する、あるいは、自らの個性すなわち芸術をピッチに描く。
ちがうちがう。
ジーコ監督はそうじゃない。
無策ではなくて、「代表監督が策を弄する」という考え方がそもそも無い。
これを言い換えれば、「自主性を重んじる」。

結局、選手が勝手にやってるんです。
だから、このクラス相手に守備システムが修正されるのに30分もかかる。
決まった攻撃パターンが存在しないから、今日も俊輔の個人技。

でも、これで勝っていくと、アジア杯がそうでしたが、
選手には強烈な自信と自負が生まれます。
「俺達がやったんだ」と。
また、現場の状況に対応した機転、粘り強さ、度胸、そして気迫が備わる。
思いがけぬアクシデントを乗り切り、タナボタのチャンスを点に結びつける。
「生命力」みたいなものが。

この試合も冷静に事実だけ見れば、実にショボイ試合です。
これがコンフェデでカメルーンをチンチンにし、W杯でモストヴォイのビッグマウスにグーをねじりこんだチームかと目を覆いたくなります。

でも、勝った。ちゃんと勝った。

最終予選はいけそうです。
だって、選手の質だけで勝負をすれば、どこよりも日本が上。
監督は、チームをプラスに導くこともあれば、マイナスに組んじゃうこともあります。
ジーコ監督は、少なくともゼロ。
だから。

泣きたくなるような理由ですが、なんとなくそんなことを。
今の日本代表は、強いのか弱いのか、まるっきりよくわかりません。

まま、とりあえず今日は。
選手もスタッフも、胃に穴を開けたサポーターも、みなさまお疲れ様。
最終予選も一試合一試合、がんばりましょう。



 10/13 やっぱり駄目だ!!

努めて冷静にしゃべろうと思って何度も書き直したのですが、
無理!
日本語は論理的に物事を記述する性能が低すぎる。
と、人のせいにして吼えます。

いや、だから、絶対間違ってるって!

間違ってるものを間違ってるということは、いいことです。
そこで「いや複雑ですねえ」「考え直さないと」なんて態度を取るのは、実によくない。
それは、逆の立場の人間に「消極的賛成」として利用されるだけです。

パ・プレーオフね。

というか、賛成とか消極的賛成の人ね、ちゃんとTV見ました?
あの伊東監督の胴上げの瞬間のあの絵。
あんな虚無感、虚脱感、
「なにそれ?」という言葉が頭上に浮かぶ、異様な、異常な雰囲気、
私も30年近くいろんな野球見てますけど、初めてです。
敵地胴上げも確か2、3度見てるはずなのですが、あんな酷くはない。
涙、悔しさ、やるせなさ、負とはいえども感動があるはずです。
それもない。
似てる感覚と言えば超糞ゲー掴まされた時の気持ちでしょうか。
ラスボスに主人公が殺されるのがトゥルーエンドの超大作RPGなんかがいいかな。
そうそう、駄目映画一本観終わった後の気持ち。
それの巨大なヤツ。

つまり、まず大前提の、
娯楽として成り立ってない。
1ミリも。

あの絵見て、「これはマズイ」と思えなければ、
エンターテイメントに関わるのはやめた方がいいです。
能力も資質もない。

見てないなら言うな。
見てマズイと思えなければおかしい。
……それとも、僕がおかしい?

いやまあ、パのファンの多くがあれでいいというのならもう言いません。
 だからパはいつまで経っても人気が無かったんだよ!
 悪いのはセでもナベツネでも球団でもない、あんた達だ!
ちょうど近鉄も無くなったことだし、綺麗サッパリ野球から足を洗えるというものです。
でも、去り際に一つ忠告しておくと、
あんなことやってると、間違いなく滅ぶよ。

一試合一試合の選手達の力と技、汗と情熱、
それが全ての基本ではないでしょうか。
それを、人は見に行く。
それがなぜ生まれるかと言えばそれを積み重ねた先に「優勝」の二文字があるからで、
3位でいいならそんなもの生まれるべくもないじゃないですか。
それならば、人は見に行かない。

いや、おっちゃんも日ハムと西武がやってた時は
「えらい盛り上がってるなあ」程度の認識やった。
それは認める。
けどもそれは、あの西武優勝の瞬間に吹っ飛びました。
間違いを間違いと認めるところから、進歩発展が始まると思います。

笑いごっちゃないよ、興行モノってホント「空気」を売り買いするものだから、
夢から醒めると、一気に誰もいかなくなる。
5年後、パ・リーグが無い、とかそのぐらいならともかく、
プロ野球が無い、
というおそれすらありますよ?
あるいは独立リーグみたいなのが別立てでいくつも動いて、
もう素人にはついて行けない世界になる。
今のプロレス(格闘技)みたいな世界ね。
客の立場から言えば、トップクラスはメジャーで見て、若い子は高校野球で見りゃ
いい話ですからねえ。

……と書いて、「それはそれで牧歌的で楽しいかも」などと思ってしまいました。
選手とお客の距離が近くて。
いいね、45歳ぐらいの桑田が長居公園の球場で投げるの。
アイスクリン片手に立って見るのです。
セレッソの試合の帰りに。
サインしてもらお。


気分にまかせて吼え散らかしてすいません。
要するに
・プレーオフは娯楽として成り立ってないから、やっぱり駄目だ。
・間違いは間違いとしてまず認めよう。
・「考え物ですね」などという態度は良くない。
 駄目なものは駄目とハッキリ意志表示しよう。
てことです。

特に後者2点は、日本人の根元的な弱点です。
・情報、事実をまず手にしない。
・手にしたそれを、正確に合理的に、理解・比較・判断できない。
・した結果得た意見を、言わない、戦わせない、長いものに引きずられる。
今回もまざまざと見せつけられ、
それがなにより、第二次世界大戦中から綿々と続く進歩の無さを突きつけられているようで、耐え難い。
バカバカしい陰謀説などこれっぽっちも信じちゃいませんが、
アメリカ占領軍の日本骨抜き政策なんてものがもしもあるとするなら、
恐ろしいほどに成功しています。
負けた時から、いや負ける前のあの昭和10年代からの愚かさを、
日本と日本人は引きずったままです。

たまにその枠から外れる人間が出るのですが、
これがまた都合のいいことに海外へ、そう主にアメリカへ、出て行くのです。
実によくできてる!

……というのはもちろん冗談で、
そうでない人も組織もちゃんとあります。
いや、ちゃんとあるからこそ、最近は比較してアラが目立つようになっちゃったんですね。
だから別に悲観も楽観もする必要ないのですが。

あの戦いの後、野球回りのメディア、個人ブログあたりまで含めて、
わたしゃてっきり悲鳴と怒号が入り乱れてるかと思いきや、
存外冷静で「楽しんだ」などという言葉が結構見られました。
「ああ、僕はもう野球は見ちゃいけないのかな」
と悲しい気持ちになりました。
まあ、それで。

もう言いません。



 10/12 セルフ・ラブ

「バス、まだ来ないかな〜」
「来ないね」
「遅くなっちゃうよぅ」
「遅くなるね」
「でも遅くなってもいいんだ……
 だって一緒にいられるから」
「ふふ」
「あ、でもでも、あんまり遅くなるとぉ、おうち、帰れなくなっちゃうかも……」
「そうだねぇ……困るね」
「ぜんぜん困らないよ?
 だってだって、帰れなくなる理由ができちゃうじゃない?」
「うん」
「二人でどこか……お泊まりしたりして。きゃ」
「ふふふ」

一昨日の鈴鹿サーキット、白子駅行きバス乗り場待ち時間での会話である。
むろん私とM澤先輩の会話ではない。
後ろのカップルのものだ。
あまつさえ、

「疲れた?」
「うん」
「マッサージしたげようか」
「……あっ」

などという不穏な会話も聞こえてきて、浮き足立つ。

元来「いちゃつく」という行為は不思議なもので、

・自分でする。
・自分で妄想する。
・その道のプロが命を削って描いたものを賞味する。

以外ではなぜか楽しめない。
家を出たのが前日夜12時、18時間に及ぶ難行苦行の果てに
疲れ切った我々には少々荷が重い。
いや、状況は誰にとっても似たり寄ったり、
証拠に周囲の客はおそろしく無言である。
そんな中いちゃつける彼氏彼女は強い、そして若い。

その強さを若さを確かめん、と意を決しソッと盗み見る。
まず薄暗がりに飛び込んできた彼女の顔を見て、表現に困った。
これでは物書きの名折れ、と無理に疲れた脳に鞭打ってみると、
「ヘロドトス」
などと意味のよくわからない文字列が出力され、諦めた。
彼氏も同じ、糸コンニャク程度の存在感で、影がない。
しかし彼女に例の「マッサージ」、腰と脇腹のあたりを丹念にもみほぐすといういささか路上には相応しくない行為をずっとやってあげてるところを見れば、きっと驚くほど優しいのであろう。
主体性や個性など、優しさの前では無意味だ。

電話が掛かってくる。実家かららしい。
「うん今鈴鹿ぁ!今日は帰れんかもしれん!迎え!?いい、いい、いつ動くかわからんもん!あー!大丈夫大丈夫!なんとかなるから!じゃ!」
実に男らしい。
「……お父さんお酒飲んでるのに迎えに行くとか言ってたよ。
 駄目だよね、そんなの。うふふ」

バスに乗り込むまで約1時間。
二人のワンマンいやツーマンショーに、周囲のお客さんと共に酔いしれた。

乗って席に着き、それまでまるっきり無言だったM澤先輩開口一番、
「後ろの女がさ!」
「みなまで言うな、みなまで」
「あまりに気色悪かったから、背後を取られないように身体を90度横に曲げてたよ」

ラブ&ピースなどというが、このように一人向けのラブでは、あまり地球は救えない。
万人向けのラブつまりアガペのラブならばなんとかなるのかもしれないが、
この環境で一体どんなものがアガペのラブだというのだ。
私とM澤先輩が「TRUTH」をアガペラで歌うことか。
そんなものより早く来るバス一本の方が嬉しい。
宗教の時代は終わった。
どんなに傷つき過ちを繰り返そうとも、我々は科学とともに歩むほか無いのだ。
一秒でも早く来る交通システムを目指して羽ばたき続ける他、無いのだ。

しかし……
悔しいかな、彼女と彼は幸せなのである。
バスが来なくても幸せなのである。
いやむしろ来ないからこそ幸せなのである。
それは間違いない。
ならば、そう、どんな宗教系列にも、一人向けラブがたくさん集まれば世界は平和だ、
と言い出す一派が現れるのも無理はない。
てっとりばやく言えばジョンLだってそうだ。

だが、私はM澤先輩の腰は揉みたくない。
腰痛持ちのオヤジどおしが指圧しあってる様にしか見えないではないか。
いや、その通りなのだが。
ならばどうするか。
セルフ・ラブしかない。
実践。

「……和久、疲れちゃったね……」
「うん。平気?」
「うん、だいじょうぶー……でも、眠くなっちゃった」
「寝てていいよ」
「うん……肩、貸してね。枕にするの」
「はは。いいよ。いくらでも」
「……あと、手も貸して」
「いいよ。……何にするの?」
「おまもりにするの」

これだ。
やはり愛は地球を救うぞ?

愛に満たされているうちにバスは白子駅に着いた。
寝ぼけ眼のM澤先輩を叩き起こした。
我々の前途にはまだこれから、長い長い道のりが待っている。



 10/11 プレーオフ

パ・リーグプレーオフ。

こんなもん完全に間違ってますよ。
いや、僕、今は無きバファローズファンで、
ダイエーが勝とうが西武が勝とうがどっちでもいいんですけど、
それでもやっぱり駄目でしょう。

話聞いた時からそれはおかしいんじゃないの?
と思ってたのですが、西武が優勝を決めた瞬間やっぱりこれはダメだと思いました。
満座のダイエーファンの上に浮かぶ擬音は
「ぽか〜ん」。
ストライキと並んで今季のプロ野球の酷さを象徴するシステムちゃいますかね。

こんなん、レギュラーシーズンなんて完全に無価値ですやん。

そもそもこんなものをやろうと考えること自体どうかしてるとしか思えないのですが、
もしこれをどうしてもやりたいなら、
・リーグ優勝ではなくあくまでも日本シリーズ出場権
・下位チームがひっくり返した時に
 「まああれだけがんばりゃしょうがないか」と思えるシステム
でなくてはならないのでは。
具体的には、3勝先取なら1勝分ぐらいは自動付加でしょう。
4勝先取で2勝分アドヴァンテージでもいいかも。
日本のプロ野球ではホーム・アドヴァンテージなどうっすいうっすいものだし、
加えて先に3戦してる西武が不利とも言い切れない。
身体動かして調子とモチベーションをキープした方がいいかもしれない。

それか、プレーオフ前提のシステムに大がかりに変えてしまうか。
毎月優勝チーム決めて、最後にプレーオフリーグ戦。
月優勝チームには1月あたり1勝分のアドヴァンテージ、とか。
前期後期制はまだ人心に馴染みやすいと思いますが、一度失敗してますし、
年間通してのパフォーマンスと優勝を勝ち取るチームに差がある、
というのはJでもうるさく言われたところです。

メジャーのプレーオフが成り立ってるのはご存じの通り地区ブロックが多いからで、
基本的に日本シリーズを何段階もやってるのと同じ。
NFLのプレーオフは逆に、レギュラーシーズンがリーグの各チームと1回ずつ当たるだけ(16戦)なので、「プレーオフをやるためのレギュラーシーズン」という逆の重みづけがちゃんとできてる。プレーオフへの出場チームも多い。(32チーム中12チーム)
NBAもそれに近いですね。

いややっぱり、おかしい。
どう考えてもおかしい。

興行的に大成功とかパの会長が声明出してますけど、
間違ってますよ、自分の首絞めてる。
レギュラーシーズンの価値が落ちるってことは客が来ないってことですよ?
シーズン終盤、どんなに競っても、なんのドラマにもならない。

こんな凄まじい不条理がまかりとおったら、教育に悪い。
誰も努力しなくなりますよ。
普段頑張ってもなんの意味もないのなら。
子供達になんて説明するんです、
「ダイエーの人達は一位なのにどうして優勝できなかったの?」
って訊かれたら。
140試合戦って一番たくさん勝って、
そのご褒美が敗北の悔しさと日本シリーズに出れない虚しさですか。
それも満員のファンの前で。
そりゃ松中も泣きじゃくるわ。

ていうかこれ誰が喜ぶの?
西武ファン?
一生
「あああのインチキみたいに勝った年ね。ダイエー可哀想だったねー」
言われるんですよ?
近鉄ファンが死ぬまで江夏を打てなかったことと哲郎の失言をつつかれ続けるように。
わからん。

プロ野球最悪のシーズンを締めくくるに相応しい、
リーグ総出で一年がかりの愚挙かつ暴挙。
これまさか、来年はやらないですよね?



 10/10 バスに気をつけろ(火をつけてはいけない)(F1グランプリ・イン・ジャパン)

 台風による遅延にて、M澤先輩を載せた午前1時新横浜発の新幹線は三島で足止め、新大阪着は午前1時。
 堂々の12時間お疲れ様を新大阪にてピックアップ。
 出動はもちろん車検が迫る愛車、仏国製97式エグザンティア。

 新大阪も新大阪で、延着が決まった時ぐらい駐車場の一つも延長すればいいものを全閉まり。しょうがなく路駐して歩く。焦ったからかほどけた靴ひもをそのままにして、何年ぶりかで路上で転けるという醜態を晒し、左膝と右手首をいささか痛める。

 今思えば凶兆であった。
 下駄の鼻緒は、馬鹿にできない。

 疲れ切った表情の彼を拾って一旦布施のご実家に。
 思いもかけず歓待を受ける。
 妹さんももう立派なおかあさんで、おばさまももう孫かわいかわいおばあちゃんモード突入、そして見せられた甥の写真はM澤先輩そっくり。
 血というのは恐ろしい。

 午前2時半布施発。
 西名阪・名阪国道・そして一般道を通って鈴鹿サーキッツ。

 前年、4時布施集合6時過ぎ鈴鹿着で、
「あと1時間遅ければ(駐車場が)ヤバイ」
 という感じであった。
 今年は琢磨がいるし、9日の予選が中止になってることから、当日朝着の人も多かろうと読んで早めに。

 甘甘。
 もう、ミスドのエンゼルクリームぐらい甘甘。

 要するに駐車場は、前日(前々日)組と予約でどこもかしこも満杯。
 うろついてるクルマが駐車場に入っていくのでついていくと、ドリカムの歌ぐらい腕で大きく×を出されて少し泣けた。

 翌日、家に帰って余韻に浸りながらwebなど見てると、「インターナビ」というホンダのやってるナビと携帯のリンクサーヴィスの紹介。
「これで駐車場の空き情報が!」
 お上品な応援の声を掛けさせていただければ、
「くそったれが死んでくれ」
 である。
 無いのだ、物理的に、空きが。
 情報がすぐ手に入ろうが何しようが、「満」の文字が並ぶだけで1ミリも役に立たない。
 提灯記事を書くのは勝手だが、信頼と天秤に掛けるほど割に合う商売では無かろう。

 ともあれ巡れども巡れども、徹夜モードの係員さんが×を出し続けてくれる。
 ウィンカーを出した瞬間に素早く出してくれるので、嬉しくてしょうがない。

 一時間半ほど経巡って諦めた我々が取った作戦は、
「ミッション・ハイブリッド」
 四日市までクルマでひとっ走り、さすがに四日市駅前ならタイムズの一つもあるだろうから、そこに止めて電車で移動する、というもうなにがなんだかワケがわからない作戦である。

 四日市までの移動は休日朝5時台ということもありスムーズ、駅前に辿り着いてみれば目論見通り、タイムズが一つだけあった。

 だいじょうぶか四日市市。

 しかし駐車できれば文句は言わない、泊めてampmで食糧を補給して近鉄に乗る。
 もう、F1行者でいっぱいである。

 急行はおよそ20分ほどで我々を白子駅に届けてくれた。
 バスによるピストン輸送の列に並ぶ。
 歩けない距離ではないが(直線で5kmぐらい)、荷物満載の現状では辛い。
 人は多いが捌きは早く、すぐに乗れた。
 サーキットまでも渋滞の道を行くので約20分から30分。
 バス降り場からサーキットまでまた徒歩30分。

 ともあれ辿り着いてしまえばこっちのものである。

 サーキットのメイン広場で過去の名車を見てなごむ。
 マクラーレン・ホンダ・MP4/4といえばセナ&プロストが駆った16戦15勝の歴代最強車。
 (今年のフェラーリでさえすでに2戦余所に獲られている)
 今見ても驚くほどクリーンでシンプルで、めちゃくちゃカッコイイ。
 目にどぎついマルボロ・カラーがまたいいんだ。
 白が白、赤が蛍光ピンクみたいな激しい赤で。
 余計な小スポンサーのステッカーが貼ってなくてね。

 くるくると見渡してみると、
 今年は去年に比べてさらにバブル度合いが減っている。
 普通の人々が多くて、成金さんやヤングエグエグチブみたいなオサレな人がいない。
 身体にぴっちりしたシワシワの服を着てサングラスを掛けて人工皮膚貼ったようなお姉さんを連れた、服が歩いてるようなお兄さんとおじさんの中間の人ね。
 あと、お祭り特有の変な格好の人、たとえば全身フェラーリツナギの人とか、頭の上にF1カーを載せている人。
 台風一過、コンディションに気を配った結果だろうか。
 それとも、そういう人が物理的に減少傾向なのだろうか。

 加えて、トヨタも去年ほど無茶な広報活動はやっておらず、嫌と言うほど見かけられたトヨタ・グッズで固めたファミリーもあまりいない。
 去年は燃料カラカラで予選を頑張って話題を獲る、という無理ができたが、当日予選になってしまった今年はできなかった。
 スケジュールさえ予定通りなら今年もそれをやるつもり満々だったらしく、予選一回目のトップタイムをトヨタのトゥルーリが出していた。

 そして通勤電車のようなラッシュ状態で最果ての地スプーン・カーヴへ。
 スプーンも多い。
 去年は遠目に見れば芝生もチラホラ見えたが、今年は人しか見えない。
 一回目の予選は立って観た。
 その後、どうも指定席とってて予選だけスプーンに来たっぽい、観戦慣れしたお父さんがリードするファミリーと入れ違いで席にありつく。
 といっても、芝生に細い丸太が渡されただけのものである。

 去年ならここから決勝開始2時半まで待ち時間が延々続いたのだが、今年は二回目の予選、ランチタイムを挟んで過去の名スポーツカーに載せてのドライバーズ・パレード、そして懐かしのF1カーが走る。
 ホンダ初のつまり日本車初のF1優勝車ホンダ・RA272、
 ターボパワーで暴れ回ったウィリアムズ・ホンダFW11、
 ベルガーが鈴鹿で勝ったマクラーレン・ホンダMP4/6、
 そして中嶋悟先生御自らロータス・ホンダ100Tをドライブ。
 ターボ車の排気音が地の底から響くようで迫力があった。
 RA300が不調なので途中からRA272を駆ったジョン・サーティス、御歳70歳ながらもさすがは元ワールドチャンピオン、手の振り方など堂に入りすぎててカッコ良すぎる。
 あんなジジイになりたいものである。

 予選では琢磨が4位を獲った。
 ミハエル、ラルフ、ウェバー、琢磨、バトン。
 意外なのはラルフで、ケガから復帰後えらく好調。
 休養充分なのか、それとも何か開眼したのか。
 ウェバーはナマで観ると速い。
 元WGPチャンピオン・ガードナーなど、オーストラリア人には時々変に速い人がでるが、その系列らしい。
 マシンとしてはたいした仕上がりでないはずのジャガーを駆り、よくあそこまで、と思うぐらい突っ込む。

 スプーンは進行方向から見て鋭角のカーブと鈍角のカーブ、2つの複合カーブである。
 なので、ドライヴァーによって攻め方がかなり違う。
 一つの大きなカーブと捉えて、一つ目のクリッピングポイントに早く付いて、短い直線部分を膨らみながら、そのまま出て行くようなイメージの人もいれば、
 やっぱり二つのカーブと考えて、一つ目をキュッと小回りに回り、直線を直線として走って、二つ目もしっかりクリップについてキュッと回る、感じの人もいる。
 ウェバーはそのどちらでもなく、「一つの鋭角カーブ」のような捉え方で、アウト一杯から、短い直線の中間アウト一杯当たり目がけて、ぎょーんとつっこむ。そこでギャッとクルマの向きを変え、一目散にコーナー終わりのアウト一杯を目指してすっ飛んでいく。
 全力で走り・止まり・曲がる、感じで、単なるイメージに過ぎないが、オーストラリア・アメリカ系の走りだと思った。
 そのためか本戦では途中リタイア。
 パワフルな走りは、クルマへの負担は大きそうだ。

 去年、ミズスマシのように路面に貼りついて曲がっていき、度肝を抜かれたルノー車だが、ずいぶん普通のクルマになっていた。特記事項無し。

 注目はミスって下位からの追い上げになってしまったフェラーリ・バリチェロか。

 琢磨は……危なっかしい。
 速いのは間違いなく、バトンみたいに小綺麗にまとまってるよりもいいとは思う。
 バトンも表彰台10回、2位4回、確実なのはいいとしても、そんなクルマに乗ってなぜ勝てませんか。
 フェラーリが勝てなかった2つを拾っているのはトゥルーリ(当時ルノー)とライコネン(マクラーレン)であり、この人はこの人でヤバイ、と感じるのは琢磨びいきからばかりではない。
 もう一皮剥けないと、デイビッド・クルサードみたいなドライヴァーで終わる可能性がある。
 つまりチャンピオンチームのセカンドドライバー。
 ただその小賢しいバトンと比べても、危なっかしさの代償として得ているものがさほど無く、考え物である。

 どうも、バトンのようにちゃんちゃんと走ることと、アグレッシブに闘志剥き出しで走るのと、
二つの間で迷っているような気がする。
 F3あたりで有望なドライヴァーが、早めにF1デビューするのが流行っているが、そういうドライヴァーに共通してこういう癖があるように思う。
 ドライヴァーとしてある程度自分の中を固めきらないままに、F1で走り、現役最高峰の連中を相手にする。だからちょっとした外乱に弱く、粘りとイヤらしさがない。

 ミハエルがなぜあんなにむちゃくちゃ勝つかと言えば、誰も止められないからで、要するに敵がオノレだけだからだ。
 その状況を作ってしまったのはハッキネンの休養を頂点にした、そういうヤラしいドライヴァー達の減少である、と思う。
 外部からの血、具体的にはモントーヤあたりに期待したいところだが、今年は去年よりずっとおとなしかった。
 1年も前に別のチーム(しかもライバル・マクラーレン)に行くと聞かされてちゃんと働けるはずなかろう。本人もメカもチームも。誰のミスかはしらないがあれは明かなミスで、おかげさまで本人もウィリアムズもそしてF1自体も大損をこいた。
 プロだろうがなんだろうが、プロである前に人間なのだ。

 ただ琢磨、一つ勝てればこの辺はだいぶ整理されると思うので、フロックでいいから早く勝って欲しいところ。

 というわけで。
 本戦が始まるとザ・ミハエル・ショー。

 先ほどのスプーンの走り方が、ミハエルはまた他のドライヴァーと全く違う。
 二つのカーブをきっちり回る、タイプに見えるのだが、間の短い直線でスピードが落ちない。耳に届く排気音から察するにスロットル全閉のはずなのに、滑るように二つ目のコーナーに飛び込んでいく。
 おかしい。
 ウェバーの速さは理解できる速さだが、ミハエルのはクルマそのものがおかしい。

 フェラーリは速いというよりも、(もちろんどのクルマよりも速いのだが)あのミハエルの異次元ドライブを支えるクルマに仕上がっているらしい。
 いわばミハエル専用車である。
 だからバリチェロが相手ならまだなんとかなるが、ミハエルを相手にすると手も足も出ない。
 マクラーレンやウィリアムズやルノーは、
「ミハエルの乗るフェラーリ」
 というパッケージを追うと、とんでもない火傷を負う。
 というか今年さんざん負って身に染みてると思うが、具体的な目標は「バリチェロの乗るフェラーリ」を100%破れるクルマ。おそらくはそれも、ミハエルフェラーリに簡単にぶち抜かれると思うのだが、もうそれはしょうがない。黙ってトラブルと引退を祈るほか無い。
 あるいはライコネンなりモントーヤなり(マクラーレン)バトンなりウェバーなり(ウィリアムズ)の個性に合致した専用車両を開発してそれを走らせるか、だが、それを言い出せばミハエル以上に「F1で強い」ドライヴァーはこの世どころかあの世にも存在せず、それをやっても結果は同じ。
 ましてやフランク・ウィリアムズやロン・デニス、ドライヴァー選手権などコンストラクターズ選手権のオマケ、と考えてる連中には取ろうと考えようもない戦略であろう。

 F1はクルマ7割ドライヴァー3割と言われるスポーツで、実際に80年代後半から90年代前半のように、
「マクラーレン・ホンダ(ウィリアムズ・ルノー)に乗れば小犬でも勝てる」
という時代があったのは確かである。
 が、ミハエルの異常な強さと速さを見ると、時代は変わった。
 速いドライヴァーに合わせて、その速さを引き出すクルマを作らないと、勝てない。
 少なくともミハエルの目の黒いうちは。

 その考え方をしないと、来季も今季と同じような光景が繰り返されるばかりであろう。
 V・ロッシがmotoGPのチャンプを獲りそうな勢いだが、彼とミハエルは、「要するにマシンじゃん?」と言われがちなモータースポーツにとって実に輝かしい存在である。
 本当に速いドライヴァー(ライダー)は、クルマ(バイク)を速くしてしまう。
 大げさに言えばモータースポーツにおける人間性の復権であり、そしてそれは、方向性として、正しい。

 オーガナイザーはミハエルを止めるという考え方ではなく、ああした個性が出てきやすい土壌を作る、という考え方をしなければならない。
 今季採用のポイント差の小さい制度など愚の骨頂、決まるのが遅くなるだけで、追う者が勝利しても一向にポイント差が縮まらない、最悪のシステムである。
 システムでどこかに贔屓すれば、立場が変わった時にまるっきり跳ね返ってくる。

 爆音でサーキット放送はすぐに聞こえなくなり、バトンの2ストップと琢磨の3ストップの作戦差がわからなかったが、ともあれあれだけ差が付くと、ミハエル−ラルフ−バトン−琢磨の並びであることは見てればわかった。
 そのままフィニッシュ。
 ラルフはやっぱり、調子がよければ速い人で、ことあるごとにミハエルが
「いや、ヤツの方が速いよ」
と言うのもあながち身内びいきでもないと思った。
 ただ、速いと強いは別である。

 バリチェロ、ウェバー、かき回してくれそうな二人がリタイアしてしまったのも波風の小ささに繋がった。

 ともあれ、琢磨が走りきって入賞してくれたのは素直に嬉しい。
 ホンダの3位も。
 ウィニング・ランはミハエルとラルフが並んで走ったのだが、赤と青のマシンが並んで進む姿(しかもラルフいいひとで、ミハエルより半車身後ろに控えるのね)は実に美しかった。
 まるでキョーダイン。
 そしてその後ろにホンダ車が2台。
 これでラストランとなるオリビエ・パニスにも大きな拍手。
 右京の同僚であったり、リジェ無限でモナコを勝ったり、そしてトヨタをドライヴしたり、日本人に馴染み深いドライヴァーだった。
 地味ながらマシン開発能力に定評があり、中位のチームに人気のあったドライヴァーで、
本戦でもヨレヨレのクルマを引きずるようにしてコントロールラインをまたがせつづけていた。
 走りきらなければ、何も残らない。
 その彼のラストランが、参戦3年目のトヨタを駆っての14位完走、らしいといえば、これ以上らしい花道もない。
 下位の途中経過に「O.Panis」の文字が見れなくなると思うと、寂しい。
 人の心への残り方など、いろいろ、ある。

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 話が前後するが、今年の人出が凄かった証拠に、トイレに長蛇の列、それよりもさらに飲食店に長蛇の列である。
 余計な荷物を持ちたくない、温かいご飯にありつきたい、そこでしか食べれないものを食べたい、お気持ちはよくわかるが、ああいうところでそういう希望を持つのは贅沢というものである。私なぞ即売会でも大抵の場合パンやおにぎりだ。
 去年はお店の前に人だかり、って感じだったんだけど……

 鈴鹿の天気は変わりやすい。
 雨こそ降らないが寒いほどの曇天と、真夏のような太陽が照りつける(28度まで上がった)
状態とが、交互交互にやってきて、厳しかった。サーキット観戦では、重ね着体勢で、Tシャツ一枚からオーバーコートまで用意しておくべきである。
 いや、していったのだが、それでも厳しかった。クーラーボックスにアイスノンとか、できればそのぐらい。

 帰路、一波乱。
 歩こうかとも思ったが、くたびれ果てていた我々は、行きと同じ復路を取った。
 すなわち白子までバスである。
 これがミス。
 史上最高の人出に、バスシステムと言うよりも鈴鹿付近の道路が完全に麻痺、バスが出ても微動だにしない道路で、進めない・駅につけない・帰れないという事態に。
 列に並んだのが6時半頃、たしかバスに乗り込めたのが7時半頃。
 もちろん、立ちっぱなしで待ち続けた。
 そこから往路よりもさらに時間を掛けて白子駅着は8時を悠々と回っていた。
 疲れ果ててもいたし、ガマンしてもご褒美は何もなく、その先にまだ苦行が待ち受ける。
 全ての行程の中で、ここの待ち時間が一番厳しかった。

 白子から四日市に鈍行で移動してみればたっぷり30分以上かかり、急行は速いと再認識した。近鉄は、(というか関西の私鉄はどれもそうなのだが、近鉄は特に酷い)高速列車の通過待ちのストレスが非常に激しかったが、直前のバスの悲劇に比べればなんでもない。
 四日市で珈琲でも飲もうかと駅前を見渡せば、ミスドとモスがある。
 ミスドへ行ってみれば9時閉店、しょうがないのでコンビニでコーヒーを買い、ストローですする。モスへ駆け込めば夕食を喰う誘惑に耐えきれず、喰ってしまえば睡眠運転術三段を持つこの私でも、きっと名阪国道で大事故を起こして帰らぬ人になるからだ。

 朝5時33分から泊めたことになってる我がエグちゃんを拾えたのは、夜9時すぎ。料金は2800円。
 まあ、サーキット近辺なら5000円/日は固いので、安く上がったと……は考えられず、二人往復で近鉄が340円、バスが380円。2880円使っており、ガス代ノーカウントでも軽やかに上回っている。

 結局のところ。
 琢磨がこれからも数年は頑張り続け、ホンダもやる気満々である以上、鈴鹿F1観戦は、

・クルマで行くなら、駐車場予約【必須】。
・できれば指定席を取る。
・どうしても自由席で見る場合は、席を確保できるように、
 捨てシートに名前を書いてペグを打つ。
 あるいは4人以上の組になって、2人ずつ移動できるようにする。

・電車で行くなら、どの区切りでも待たされる。【覚悟】が必須。
・本戦直前に行って、立って観る。

 こうなる。
 で、なければ金にあかせて、ホテルを取るなりパッケージツアーに申し込むなり、である。
 いかにも欧州起源のスポーツらしく、金持ちは金持ちなりの楽しみ方が、貧乏人には貧乏人なりの楽しみ方ができる。

 自由席9000円は高すぎると思われるかもしれないが、終わった後無茶苦茶に散らかされているゴミ等々を考えると、こんなものかもしれない、とも思った。
 客だからなにをしてもいいというものでもなかろう。

 四日市インターから東名阪、名阪国道、西名阪、降りて中央環状の「神座」でラーメンにありついた。
 のが11時すぎ。
 880円ぐらいでお姉さんに丁寧に案内され、お兄さんが丁寧に持ってきてくれた具がいっぱいのラーメンを食べてると、王侯貴族気分だった。
 そのぐらいの事実でそんな気分になれるぐらい、ヘビーな一日であった。

 12時頃、布施にM澤先輩を送り届け、1時前自宅着。
 服を脱いで軽く睡眠を取ると5時ぐらいに目が覚め、風呂に入って
「なんだ、意外と元気だな俺。まだ若いぜ!あっはっは」
などと思いつつ、布団でパンフでも観ようと横になる。
 気がつけば夜の8時だった。
 まるで若くない。
 関節とか痛いし。

 去年も思ったが、F1は、そのもの自体は充分に観る価値のあるイベントである。
 テレビでは落ちまくってる情報がたくさん拾える。もちろんテレビでしか見れない情報も多いのだが、それは他の17戦で見ればいいことだ。
 オーラのようなものは、画面からは伝わりにくい。
 ミハエルがジーンズ姿でデイトナのオープンカーに乗り、パレードすると、やっぱりハチャメチャにカッコイイのである。遠目、あんなちっこい絵でも、なにか出てる。
 そういうものに触れるには、現場に行くしかない。

 ただ、それにしても使わされるエネルギーが洒落にならない。

 改善を望みたいところだが、向こうの言い分としては上述通り、「金を出せ」ということだろう。
 そこで、「来年は来ない!」と去年と同じことを言う、今年の言い出しっぺのM澤先輩とひとつの結論に達した。
「モナコや」
「君、今からF1乗りなさい」
 僕がモナコに超高級マンションを構える可能性と、M澤先輩が今からF1パイロットになる確率なら、どっちが上か微妙なところである。

 特筆すべきは、それでもなお、全国津々浦々から、16万の人間が詰めかける点だろう。
 様々な人がいる。
 社会的階層、年齢、国籍、一人から集団まで、そしてやってくる目的も。
 怪しい動きのマニアから、純然たるフツーのファミリー、黒カマロに乗る燕尾服のオヤジに、肉のたるみが気になるキャンペーン・ギャル。
 バス待ちの駐車場では、すぐ背後でバカッポーがいちゃついており、いつM澤先輩が火炎放射能を吐くか気が気ではなかった。
 つまりは、普段見れないいろんな人を見ることができる。
 それを見るだけでも9000円の価値がある。

 そう、これは、F1グランプリin鈴鹿は、
 人間による、人間のための、人間のイベント、
 なのである。
 What is a wonderful life.

 来年は、行かない。



 10/9 F1グランプリ・イン・ジャパン(前夜)

あれは高校3年生の時かなあ。

その頃は「ゲームセンター」という存在が、まだ正しく高校生(男子)の遊び場で、
みんなで連れだって行ったものです。
狭いエレベータの中で、すでにそういう素地のあった現g石アナ、
なぜか吼えるもちろん克也調。
「えっふわ〜ん ぐらんぷりっ いん う゛えとな〜〜む」
見ず知らずの人まで大笑い。

それから15年。
欧州の文化だったF1も、今年はマレーシア、バーレーンそして中国がカレンダーに。
笑い事でもなんでもなくなってしまいました。
そして優勝を狙える佐藤琢磨が、優勝を狙えるホンダ・エンジンを操ります。
今年はホンダも異様に気合い入ってて、
T-スクエアのサーキットコンサートもちろん「TRUTH」つき、
GP前のパレード・ランではロータス100Tに中嶋悟はお約束ごととしても、
RA300にジョン・サーティスというのはサーヴィスのしすぎのような気がします。

でも、うれしい。

文化とは継続です。
フォードがF1からも(ジャガー)WRCからも身を引くのですが、
フォードの何がエライって、常に、常に、噛んできてくれたこと。
ル・マンもそう、主役には最近なかなかなれませんが、
でもプレイヤーとして参加し続け、盛り上げ続けてくれたことには、
モータースポーツ好きみんなが感謝しなければならないところ。
また近い将来に帰ってきて欲しいです。

こういうことが、どれだけエライかっていうことを、
もう少し噛みしめなきゃ、と思います。

こうしてやってなければ、悟が走ろうがTRUTHが聞こえてこようが
感動などこれっぽっちもありえないわけで、
やりつづけることには、それだけで意味がある。
また未来にも、やり続けてくれるからこそ自慢もできれば話の種にもなる。
想い出になる。

そんな歴史の1ページを、見に行ってきます。
できれば……
日本人初優勝なんて、ステキな1ページだと、なお嬉しいのですが。

現在23時47分、M澤先輩の新幹線は午前1時発でまだ静岡、1時4分新大阪着予定。
ピックアップ行ってきます。
そのまま鈴鹿へ向けご〜。



 10/8 細部から攻めるのも、アリ!

あ、「ほえなが」が長くなる理由もうひとつ。
当人が煮詰まってる。

---

物書きは妄想が仕事。

その世界の空気になり、観察者になり、神様になり、登場人物になり、
はじめて物語が動き出す。
それを見て聞いて感じて、こちらの皆様にお伝えするのが、我々の仕事です。

シャーマンみたいなものです。

いい妄想ができると、いい物語ができる。
ところが、自分のこと考えすぎると、妄想ができない、つまり仕事になんないです。
当たり前ですよね、実生活はリアルですから、
合理的に考える、論理的に考える。
暑い寒い、腹が減った、金がない、毛が抜ける、週末のF1どうしよう。
全部です、全部。

ここを、作品モードと実生活モード、綺麗に切り替えられると強いと思われます。
純粋な人ほど、作品モードでずっと行こうとする。
仙人みたいになるか、完全に破滅方向にいくか。
しかし、実生活モードが強すぎると、書けないだけならまだしも、
つまんないもの書きかねません。
「これ書いたらどう思われるだろう」とかね。
とても良くない。

シャーマンも憑きっぱなしではなんにもなりません。
行き来できてこそのシャーマンで、でなければピーです。
もしここの切り替えもしくは混ざり具合が、
気に入らない、あるいは辛い、となると、向いてないとも言えます。

ただ、その辛さ自体は、人が人である以上、常にどこかしらにあるものです。
夢と現実の狭間、という意味では。
これがない人はつまんない人ですよ、ホント。
そこをどう処理するかはその人次第ですが。

と、いうことは、そこで転げ回る様、それそのものが物語であるわけで、
共感も呼べば勇気を与えたり反面教師になったりする。
そういう意味では非常に向いているとも言える。

なんにせよ眼前に白紙があるわけで、
それを埋めるのだけが真実でございます。

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昔、ある上手な絵描きさんのラフを見てびっくりしました。
めっさヘタクソ。
いや、冗談抜きで僕より下手。
手とか腕とか棒で、顔も小学生の女の子が描くような顔。立体としておかしくて。

普通、上手な人って、ラフから「おっ」て思うじゃないですか。
ゴッホの素描とかもすごいですよ。もうすでにゴッホになってる。
違う。
「設定資料集用にアシスタントにでも描かせたんじゃないの!?」と思うぐらい。
ところが、そのラフ画が仕上がっていく様まで載ってて、違う、まじめに、本人。
出来上がりは、バッチリ、非の打ち所無し。

考え込みました。
こういうやり方があるんだ、と。

たぶん、この人の頭の構造は、
「細部から組む」
という典型的な日本人式だと思うんです。
細部にこそ神様が宿る、ってヤツです。
簡単に言うと、職人芸。
だから、ラフは、ほんとただ当たり取るだけなので、
棒でいいし、顔も顔であることがわかればいい。
その心棒に、ディテールを貼り付け塗ったくり組み込んでいくわけです。
まさに工芸品、冷静に考えればただのハコなんです。
そこにクソ丁寧に漆を塗って、超絶技巧で螺鈿を施す。
すると一級品になる。

昔は、こういうものは、価値は認めてましたが、
今ひとつ好きにはなれませんでした。
しかし最近、ちょっと見直してます。

それが嫌いだったのは、
そのやり方は容易にインフレを起こし収拾がつかなくなる、
と感じたのが一点、
企画段階でのアイデアがなければ大飛躍はありえない、
と思ったのが一点。

ただ、そうでも無さそうです。
日本の伝統工芸品見ればおわかりのように、
絶対にどこかで歯止め、てっぺんがあるんです。
その中で技とアイデアを競う。
桂離宮というハコに入りうる襖絵は、さすがに家康の油絵肖像画ではありえない。
螺鈿を駆使するのも日用品(日用しませんけど)であって、
螺鈿のためのなにか、ではない。

ギリギリで、「そのもののためにそのものを作る」ということを避けている。
お金がなかったからその余裕がなかった、というのが本当の理由だと思うのですが、
さておき避けてきた、あるいはできなかったのは事実ではないかと。

自己フィードバックが掛からなければ、インフレとバブルはなかなか起きません。
モノの価値が、そのモノに貼りついている限り。
だから大丈夫。

もう一点の飛躍の可能性ですが、
そもそも飛躍する必要があるのか、と問われれば、
その必要がないものも、世の中にはたくさんあります。
ペペロンチーノは永遠にペペロンチーノであるべきで、
チャーハンは永遠にチャーハンであるべきです。
そこには飛躍など不要で、というよりも飛躍してしまえばそれは別物。
であるならば、それはデメリットでもなんでもない。

と、気づいた時に、
何十年もロクロを回している職人さんに「にやり」と笑われたような気がしました。
と同時に、
「よし、それならそれも取り入れてやろう」とも。

ホームラン狙いでぎゅおんぎゅおんフルスイングもいいのですが、
ヒットにできる球はヒットにしてしまうのもまた一つ腕前。
絶好球がくれば、おもいっくそ振ればいいんだから、
「あ、HRは無理だけどヒットにはできそう」という球は、ヒットにしてしまう。
(そもそもそれもできるかどうかはやってみないとわかんないし)
ヒットでも打つと気持ちいいですからねえ。

ちょっと違う面から見れば、
ちゃんとしたペペロンチーノも作れずに、創作パスタもなにもねえだろ、
とか。
そして作り出してみれば、ペペロンチーノは恐ろしく奥が深い。
すみませんごめんなさい。

まあ、要するに、
「ちからいれていきましょう」
ってことで、入れる場所はいろいろあって、でも、
とにかく入れれるところは入れていこうよ、ということです。

---

どうしてこんなことを思い出したかと言いますと。
私事ですが、最近、ちょっとずつですが、
「努力が報われるように」
なってきました。
昔は、イイモノはイイ、だめなのはちょっとね、だったのですが、
だめっぽいものを、いいもの(弱)ぐらいに持って行けるようになってきた。
ゴマカシ、とは違うんです。
誤魔化す、って自分も誤魔化すんですけど、
それでは実は、誰も誤魔化せないんですね。
ただ、時間は掛かります、手間は掛かります。
そりゃもちろん、ハナから当たってる方が絶対いいし楽。
でも、そうはいかない、その時にどうするか。

以前は、「ごまかせればいいだろう」と思ってました。
が、それはやっぱり間違い。
どんな分野のなんでもそうですが、ごまかしが通用する相手やモノは、
別にごまかさんでもええ程度の相手やモノだったりします。
その筆頭が自分ですが。

ではなくて、やり直す、作り直す、リトライする。
あきらめない。
できないところはできないとする。(省略や空白)
できるところで頑張れるところは、頑張りつくす。
そうすると、そう、細部に神様が宿ることがあるのです。
イイモノができちゃう、こともある。
自分が予想もしなかったものが。
予想してないから、逆におもしろかったり、うれしかったりする。
狙って打ったヒットは快感ですが、
出てしまったヒットも、喜べばいいと思います。

つまり、またあたりまえのことをいいますが、
両面必要なのです。
アイデアに溢れる大戦略を考えるのも、
細部を精一杯追い込むのも。
どちらにも、神様はきてくれる。

どちらかというと最初駄目だったら諦め気味だった自分自身を、
こうして反省してみたわけです。
これはたぶん、可逆反応なので、細部詰めるタイプの方は、
大戦略の大切さに思いを馳せてみてください(笑)

---

ここのところずっと、こんな話ばっかりでもうしわけなく、
いつかこういう話ばかりをまとめて本(というか小冊子)にしたいな、と思ってます。
図とか入れて、ムックみたいになってるの。32pとかで。

いつか、とは、「一通り終わってから」。
あいまいですが。
もうちょっとで一応出尽くすと思うのですが、まだ少し残っている気がします。
そしてそれを現実にフル活用して、一本、ブランニューで。
上手く機能すればおなぐさみ。

実作は実作で楽しいのですが、
こういうことを考える時間も、とても楽しいのです。



 10/7 長い理由

「ほえなが」が長いのは、一つにはサボってるからです。

文章は、短い方が大変です。
というよりも、短くするのが大変です。
電化製品の小型化と同じ。

高校時代、地歴部のZ先生に
「原稿用紙2枚で好きなこと書け、学校機関誌に載せてやる」
と言われ、気合い入れてバッチリ書きました。
ところがこのZ先生は愛すべきE加減さを今も昔もお持ちで、
会心のできあがりを持っていくと
「すまん。1枚半やった」
無理です。
内容は日本人の意志決定方法について論じたクソ生意気なもので、
(昔からテーマ一緒やな……)
とうてい2枚に収まらないものを無理に2枚に収めたんです。
でも載らないと脅されれば頑張るほかありません。
泣きながら、「。」一つ分稼ぐために2センテンス書き換えとかめちゃめちゃ努力して、
収めました。
すると、シェイプされたイイモノ(当時としては、ですよ)ができたんですね。

なるほど。
これが極意か。

「書きたい内容があるのに、きちっとしたものにならない」
というお悩みがある場合、まず具体的処方箋としては、これをやるといいです。
とにかく要らない部分切り飛ばして、伝えたいところだけ圧縮する。
驚くほどマシになります。
散文は、脳に情報を順繰りに(シーケンシャルに)入力していくものですから、
「短い」「シンプル」というのは大きな武器になります。
感情表現や風景描写でも実は同じ。
「『泣きたい』のね」
「『夜の公園』か」
まずそれが伝わらないと話にならない。
パスは通せば勝ちで、まず通さないとどんな芸があっても無意味です。
芸は、よりよく通すためのもので。

ということで、もっとシンプルにとヤスリを掛けていく作業、
これをサボってるのが一つ。

もう一つは、「書きながら考えをまとめてる」からです。

即興の力というのは侮れない。
大雑把な枠組みやテーマが決まっていても、
書いてるうちに右左、そこから自分でも新しい発見があることはしばしばです。

数年前に気づいたんですけど、随筆の妙味はここにこそある。
こんなもん書いてるぐらいなら、ちゃんとした小説書いてる方が
「小説の」腕はあがるのですが、ウンウン言いながらずっとやってるのは、
それが理由です。
ドロドロの液体状の思考が、ゼリーぐらいにはなる。
書こうともしなかったものが、書ける。(ことがある)

結局小説でも、一番おもしろいのは、当人も考えてもいなかった方向へ
物語が転んでいくところです。
と、考えると、かなり遠回りですが、役に立ってなくもない。

余談になりますが、小説と随筆はF1とWRCぐらい差があります。
いや両方走ったこと無いですけど。
それを凄い差と考えるか、結局運転やん、と捉えるかは書き手それぞれですが。

この際、作成後、一応の整理はしますが、数学の答案と同じです。
途中式が非常に大事。
フラッと右へ行った後、やっぱり左、と思った時に、
右へ行った跡を残しておくと、あとから自分にも読み手にも役立つ。
「ああ、右は潰してるんだな」とか。

だから、結論ズバーンと出すよりもずっとダラダラ書くことになります。

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最近、一昨日も書きましたが、生活に忍び寄るあらゆる「過剰」、
特に情報の過剰について考えています。

そういう意味では、「AはBだ!」と書く方がいいように思えるかもしれません。
ですが、これもまたここ数年いろいろ考えますに、
それはもう世の中にあるように思うんです。
たぶん、全部ある。
われわれは──と巻き込むのが失礼なら、私は、
それに気づかない、見えてても見ないフリをする、あるいは、
右の耳から入れて左の耳へ通している。
実感の伴わない知識は、用を為さないのです。
ピンと来ない。

本当に有用な情報というのは、単体の情報ではなく、
「どうしてその情報が手に入れられたか」
その説明であり、過程ではないでしょうか。
「ここに井戸がある」ではなくて、「井戸の堀り方」。
それこそが科学であって、
人を進歩させてきたものである、
と思うのです。

インディアンのように古の教えを守って暮らす、
それはいいのですが、そこからはビタ一文「進化」は無いのです。
白内障で失明、尿道結石で命取り。
その「教え」は様々なトライ&エラーを繰り返して、
結果的に正しいものに収斂されていることは多いと思います。
ただ、それを説明してくれないと、先へは進めない。

あふれる情報から、自分にとって嬉しい情報を選び出すには、
考え方、ものの見方、それが大切で、
それを磨くためには、
多数の情報にあたるのもいいのですが、
「私はこう考えてこういう結論に達した」
という、多くの人の「井戸の堀り方」を知るのも非常に有益ではないかな、と思うのです。

逆に、堀り方がわかっていればいつでも掘れるわけで、
情報に右往左往することもなくなります。
安定した、快適な情報生活が送れるのではないか、と。

これからますます、それが必要になるように思います。
カロリーの摂取過剰が問題になったのは、
人類の歴史でも実にここ数十年だと思いますが、
情報の摂取過剰も同様、ここ数年の出来事です。
過剰に取れること、その可能性があることが素晴らしいのは論を待ちませんが、
過剰に取ってしまうこと自体は非常によろしくない。
自分の身を守るために、
誰もがカロリーの取り方のように、
情報の取り方を考え直さねばならない時代なのかもしれません。

また子供達にも、我々も失敗を繰り返しながらも、共に学びながらも、
教えてあげなければなりません。
でないと、「情報肥満児」のような、実に不健全な人ができあがります。
それは南方熊楠のように、自ら狩りに出かけ足で歩いてもぎ取ってきたような、
そしてそれを唸りながら整理研究したような博覧強記ではなく、
ただ関連性のない情報が、頭の中に詰め込まれているだけに過ぎません。
量が質的変化を生むというのは、あくまで問題意識をもって量に当たる場合のみで、
それがなければ量は量です。
それでなにかが起きるのなら、
国会図書館は合体変形AIロボになって銀河に飛び立ってる。

本来、ものを考えること、ものを見ること、ものを知ることの、
よろこび、たのしさ、そして難しさと大切さ、
それを教えるのが初等教育だと思うのですが、
なかなかそれはやりきれてないのが現状です。
でも、「学校が悪い」「先生が悪い」「文科省が悪い」と言ってても
なんにもならないですから、
親御さんが意識高くそういう面をケアし、
それ以外の大人も自分のできる範囲のことをやる、
それを繰り返す他ないのではないかな、と思います。

人類があまり経験したことのない事態ではあると思うのですが、
摂取カロリー地獄と同様、解決策はそう難しいものではない。
ただ、その解決策、「ちゃんと考えて情報を選ぶ」を、
オートマチックに発動するほどしっかり血肉とする、
その訓練は積む必要がある。

で、最初の話に戻るのですが、
ものの考え方を鍛えるのに、
「文章を書く」は「人と語らう」と並んで非常に強力な手段です。
だから好んで随筆を書いてます。
そして──かなり言い訳くさくなりますので聞き流してくださっていいのですが──
できれば、読んだ人が、その文章を発火点として、
「う〜ん」と考えはじめるような随筆が、
いいなあ、書きたいなあ、と思うのです。
そのためには、「AはBだ!」式よりも、
「Aについてこう考えたんです、えっと、BとCとDがありまして、あそうそう、Eについてもお話ししておかないと……」式の方が、
引っかかるフックが多いんじゃないかな、と思っています。
「AはBだ!」は随筆というより小論文ですね。
そういうのは、学者さんや専門家におまかせして。

……というわけで、今日も長くなりました。
ですが、書きたいことがある時は、長さかまわず書いていこうと思います。
もちろん、シンプル&コンパクト&リズミカルはいつも念頭にありますが、
それを追いすぎて随筆の本質を見失わないように。



 10/6 生卵事件(イギリス人を横浜で殺してしまう)

ほいでは今日は軽い話で。

インスタントラーメンにタマゴを入れる時、どう入れます?

ながたのおすすめは、
「割ったままを・火を止める30秒前投入・かきまぜない」。
何口かそのまま食べ進んだ後、
おもむろに黄身をつぶし、どろりと麺に絡めて食べる。
こうすると、後から割り入れた時の、冷たさ・生っぽさ・白身のどろり感が無くなります。
黄身も温かくなり、濃度が増す感じ。
カルボナーラとかお好きな方には特におすすめ。

このタマゴと相性のいいラーメンは、名作
「サッポロ一番 塩ラーメン」「エースコック の ワンタンメン」
の2品。
というよりも個人的にこの2品は、
どこをどうあがいても打ち破れない、インスタントの金字塔のような気がしてなりません。
うますぎる。
特に塩ラーメンは、バターを入れたり、スライスチーズ一枚を入れたりしても、
かなりうまいです。ポテンシャルの高さは計り知れない。

生タマゴの弱点は上記の3点ですので、
たとえば作った翌日のカレーに入れる時も、
冷たいままお皿に盛りつけ、その上にタマゴを割り落としてから、レンジに掛ける。
だいぶ違います。カレー冷めない。
白身捨てるのはもったいないですしね。

まあ小さなTipsですが。



 10/5 全生活バブル

現代はあらゆる面で過剰だ過剰だと半鐘を鳴らしているのですが、
糸井重里さんがそれを「カロリー」に例えてて、なるほどと。
そう、カロリーと同じで、摂り過ぎるとロクなことはない。

糸井さんは「これからはダイエット食みたいなのが喜ばれるかも」と書かれてて、
それもあると思います。
個人的にはダイエットうんちゃらの類の存在意義がまるっきりわからない人なので、
(まずコーラを飲むなコーラを)
全然要りませんが、商売として狙い目なのはよくわかります。

あるいは、「食べない」という選択肢もある。
最近身の回りでも、たとえば携帯を捨てる人とか、ポツポツ聞きます。
これは非常に効果的です。
しかし大変そうです。
そんなことをすると、逆にエネルギーを使わないだろうか、と不安になります。

そこでながた気づいた。

実は、ほとんどあらゆる「過剰」に対して、我々はコストを払っている。
払わさせられている。

情報一つとっても、
携帯もそう、デジタルBSもそう、PPVもそう、溢れんばかりの雑誌もそう、
メールシステムもそう、ブロードバンドもそう、
webはタダだけど時間というコストを払ってる。
プロバイダ(もしくはADSL業者)+携帯で月5000円を下る人はすくないでしょう。
6万円/年ってすごい大金ですよ、温泉旅行一回分。
あるいはそれを支えるシステム、
大画面TVもそう、HDDレコーダもそう、PS2もそう、ノートパソコンもそう。
食べ物だってそうですよ。
コメと漬け物と味噌汁でずっと生活できるのに、
そうせずにイタリアからNYを経由して東京に上陸したお洒落なパニーニ専門店で
パルマ製生ハムとチーズを挟んだそれをカッ喰らってる。

なにをまた当たり前のことを、と言われそうですが、
びっくりするぐらい払ってる。
というか、止めてみれば、本来のリビングコストって驚くほど低い。
(それでもアメリカなんかに比べればベラボウに高いんですけど)
基本衣食住はしょうがないので、そこを計算外にしてみると、
つまり高校生の生活です。
おっちゃんお小遣い1万円やったけどぜんぜん足りてたで?

モノ経済におけるバブル式、自転車操業で
みんなが高価なモノを買って経済回して回して自分の給料も上がる、
情報でも同じことが起きている。
その他の生活のあらゆる部分でも、密かに進行している。
提供側はもちろん、回れば回ってくれるほどありがたいから、煽る。
そういう意識も無いままに。

ではこの「全生活バブル」とでもいうべき
情報・モノ・サーヴィスの奔流に耐えきる方法はなにか。
それはたぶんバブルと同じ!

なにもしない。

これです。
#という会社はバブル崩壊であまり痛手がなかったのですが、
崩壊してから入ってその理由を聞いてみると、
「ぼーっとして乗り遅れてたら終わってた」
のが真相だそうです。
この作戦で行こう。

つまり、エキストラコストを払うのを、やめるんです。

ただ、一度進んだシステムは後退するはずもない。
また、それを享受するのもとても楽しい。
ではどこでその判断を下すのか。
これは要るこれは要らないを。

もちろん、それは人それぞれなのですが、僕の場合。
いつもの話ですが、
20年前、80年代中盤は、まだ日本は貧しかったんです。
スキヤキが御馳走で、「うる星やつら」でスキヤキが出るとみんな喧嘩して食べたんです。
あの頃。
モノも情報もサーヴィスもちょっとずつ足りなくて、
「ああ、ああなったらいいなあ」
と思えたあの頃にあったモノ、情報、サーヴィスは、
大丈夫なんじゃないでしょうか。
新聞があってTVがあってラジオがあって、ビデオがなんとか、
電話はコードレスになるかならんか、FAXは高嶺の花、
ネットがまだ軍用だった頃です。
あの頃なら、戻れと言われて戻れなくもない。
八ヶ岳で自給自足までせんでええと思います。
カロリーと同じ、足りなすぎるとこれまたしんどい。
「もうちょっとあったらなー」ぐらい。

ともかく、ベースラインをどこかに置いて、そこから見て
「贅沢してる」「これは仕事で要るから最前線で」「これは……まあいいか」
を判断する。
そうすれば、バブル期に主婦やリタイアされた方までが、
株や土地に手を出して大やけどを負った、あの悲劇を繰り返さずにすむ。

おじいちゃんはAmazonで本買わなくていいんです。
そんなん若い奴にやらせりゃいい。
そんなのより盆栽の枝の整え方知ってる方がよっぽどエライ。
やりたければもちろん止めませんが、やらなければならないことではない。

このモノ好きからしてみても、
「今の世の中はちょっとおかしいんじゃないか?」
と思います。
iPodはとてもステキなガジェットですけど、3万もすることを忘れちゃいけない。
ニュースサイトやブログそんな20も30もチェックせんでも、死なへんから。
なんで鶴橋の料理屋で、隣のおばちゃんに韓国新着ドラマのあらすじ教えてもらわなあかんねん(泣)

おちついてー。

なんだかそういうのを煽る雑誌記事や新聞記事見てますと、
バブルの頃金利がどうとか株がどうとか言ってたのを思い出してしょうがない。
それが必要な人は、一部! ごく一部!

バブルの不健全性は他の価値観をすり潰してしまうことにもあり、
イチローがヒデキ30本も松中三冠王もプレーオフもオレ竜優勝も、全部すり潰す。
それは非常に危険で不自然です。
生命として多様性を確保しないのは危ない。
人類すべてが同じものを見、聞き、判断し、同じ結論に達する……
こんな気持ちの悪い世界はありません。

仕事周りはしょうがないとして、あとの生活ぐらい、
のんびりいきましょうよ。



 10/4 Bluebird on the head.

またいつもと同じような。
またいつかまとめます(泣)

結局ですね。

私はこの1年半ばかり、ずーっと悩んできたのです。
「いい文章とはなにか」
「それを書くためにはどうすればいいのか」
根元的な疑問ですね。

で、わかった。

答えはね、

ない。

というよりも。
「それはどうでもいい」
というのが、答えになってない答えです。

受験勉強に例えてみましょう。いわば、
「頭がよくなるにはどうすればいいのか」
「効率の良い勉強とは」
これを考え続けていたわけです。

賢明な皆様ならすぐおわかりのとおり、
そして実践された方も多かろうと思いますが、
「そんなこたどうでもええから勉強しろ」
これが答えです。
もうちびっと具体的に合理的に言えば、
「志望校の合格者最低点を上回る点(約65%)を獲る」
たったこれだけのことです。
頭悪くていいし、効率悪くて全然OK。
これができれば、あとはなんにもいらないんです。
またこれさえやってれば、あとはなにをやってもいい。
睡眠時間4時間でなくていいし、DHAも必要ないし、
ファミコンを毎日1時間にする必要もない。
彼女とラブラブでもいいし、デスコ行ってもいいし、
文化祭で同人誌出してもいいのさ!

逆に厳しく言えば、これができなければどんなに聖人君子でも駄目なんです。
どんなに品行方正だろうと、知識があろうと、技術があろうと、駄目なんです。
(今はあくまで「受験勉強では」というフィールド限定で)

考えねばならないフォーカスの当て方が、間違っておりました。

私が考えねばならないのは、(今はとりあえず)
「どうやったらおもしろい作品になるか」。
その数々の具体的な方策、作戦、手法、
それも汎用性あるものでなくてadhocで充分、
とにかく今眼前で書いてるものがどうしたらおもしろくなるのか、
そこに全神経を集中せねばなりませんでした。
もう少しだけ背筋を伸ばして視点をちょっぴり上げれば、
やっぱり苦手なこと得意なことあるので、
得意を輝かせ苦手を一生懸命ごまかす。
反射神経に自信がないなら常に深めに守る、とかそういう力の配分。

で、その力と技術を上げていくのは、
やっぱり実戦で数こなす以上のことはないな、
と思ったのです。
できるかぎりの力を出して、その時々で最高のものに仕上げる努力を、
ただひたすら続ける。

---

これが中級者の罠です。

初心者の頃は、誰もがそうだったんです。
めいっぱいめいっぱいやって、自分の限界までやって、
それで満足するしかない。
だから自然とそれができてる。
でも、一通りの技術がついて、やりたいことがやれるようになってくると、
欲が膨らみます。
もっといいものを、もっといいものを、と。
そこで古今東西の名品と自分を見比べるわけです。
そしてあまりの差に愕然となる。
初心者の頃は、それがどんなに凄いかわかんないんですね。
で、悩む。
「オレはあんな天才じゃない」「認めてくれない社会が悪い」あるいは思い詰めて、
「生活の全てをそれに捧げねばならない」と修行僧になってみたり。
悩み方はいろいろですが、とにかく悩み出す。

人間、やっぱりストレートに力出してる状態が、一番強いんです。
悩んでると、ポテンシャルあっても何割かしか出ない。
するとまたそれで追い詰められる。
あれだけできたはずなのに。
オレはもう限界か。

違う違う。

天才である必要などゼロ!
禁欲的である必要などゼロ!
限界とは火葬場で焼かれる瞬間!

たとえ似たようなことしかできなくても、
ひとつひとつ眼前のことを目一杯、今まで蓄えた力と知恵と経験をフル活用して
成し遂げていく。
結局、死ぬまでその繰り返しでしかない。

伸び方は人それぞれなので、それで生前もしくは死後に評価高まる人もいれば、
ずっと低空飛行のままかもしれませんが、
それはもう、しょうがない。
自分の限界なんだから。
それよりも、自分でない要素に縛られて、限られて、区切られて、
力を出し切れない、その方が悲惨です。そして、寂しい。

どのジャンルどんな仕事・学問・趣味、全部同じだと思います。

---

しかし人間というのは学習能力がないものです。

上記のように私は受験の時も同じパターンで悩んでて、
神様夢に出てこないかなあ、とか、
ある日秘密警察がやってきて、
「君は頭の良くなる薬の実験台に選ばれた」とか言ってくれないかなあ、とか、
そんなしょーもないことを夢想してました。
「受験法」みたいな本も一杯買いましたよ。
速読とか記憶術とか、そんなんも。

で、さんざんいろいろ考えて悩んで苦しんで、
ある日ハタと気づいたんです。
実力テストの成績表見てて、相変わらず数学が悪くて16/200とかで。
平均点が65ぐらいなんです。
「……む? てことは俺、数学を平均点獲ると……」
50点も上積みされりゃズガーンと順位上がりますよね。
ベスト3ぐらいだったんです。
これか!

「頭が良くなるにはどうしたら?」という哲学的大難問が、
「数学で平均点獲る」という具体的な、必要努力量の見える作業に
切り替わった瞬間でした。
そうなるとガッツも持つ。難問は無視するから必要作業量もたいしたことない。
教科書中心に基礎やりなおすだけで、猛勉強もおクスリも神様も無しに、
ベラボウにうまく行きました。

すでに一回やって、ちゃんと自分で解決してるのに……
情けない。

ただ、おわかりのように、それは私専用の解決方法だったんです。
他人には全く応用の効かない。
これを一段抽象化して一般化すると、
「苦手を克服し得意をのばそう!」
そんなこたわかっとるわ!
ってなりますよね。

常に人は、
僕における「数学の基礎をやり直せば凄く戦闘力が上がる」という
直接的な、具体的な、即効性のあるメソッドを欲します。
でも、世の中には、「苦手を克服せよ!」という一般化されたものしかない。
よい師匠、家庭教師、コーチがいれば、そのように導いてくれるかもしれませんが、
それでもなお当人が心から納得してないと、訓練効果上がりにくい。
結局、一般化された原則から、
当人にフィットした当人専用メソッドを導き出すのは、自分でやるしかない。

忘れてならないのはこの事実でしょうか。

そういえば、苦しみながらも今回は
「いやいつか見つかるだろ」
とは思ってました。前の経験、「見つけた」経験が生きてることは生きてたみたいです。

次はもっと早く(泣)

---

そんなこんなで、私的には、
「凄いの書こう!」
じゃなくて、
「今自分のおもしろいと思うものを、できるだけおもしろく書こう」
という感じで、こつこついきます。

もし仕事等々でお悩みの中級者の方の、
(ちょうど僕ぐらい、10年目とかはそんな感じではないかと思ってみたり)
背中を押す言葉になればいいのですが。

ここで思考停止に陥ったり、ルーチンを頭回さず手任せ身体任せにすると、
最後、50過ぎが伸びないと思います。
だって、同じことしかできないですから。
ここで止まるか、あとで「部長は凄い」と言われるかは、今にかかってる。
結果として出てくるものは同じでも、プロセスは毎回進化させる。挑戦する。
それが大事だと思います。

そこのあなた!
「そんなのあたりまえじゃん」と笑ってるそこのあなた!
見えなくなるの!
その一番大事なことが、見えなくなるの!

いやほんとに。
青い鳥は、頭の上に止まってやがるのです。



 10/3 自分システム

鉄心さんとokbちゃんが遠くからわざわざお越し。
久しぶりに「釜山家」でやっぱりここのチヂミは美味いと唸りながら、
あとは「和民」で朝まで。

まだ話足りません。いつも別れてから「あ、あの話しなかった」とか思い出します。
今回の勝手にナイス・イメージは、
気の合いそうな奥さんタッグにノされる旦那二人の図。
早期の実現希む。
横でケラケラ笑ってます。

おつかれさまでした。
また行きませう。

---

イチローもすごいけど、ヒデキもすごいよ?
天下のヤンキースの4番に座って、ほぼ3割30本100打点地区優勝。
あぶさんが三冠王獲るより夢物語です。

巨人時代は、「あれだけ大事にされりゃそりゃ育つだろ」と思ってました。
よそから買ってきた四番を次々に使い捨てにしてね。
でもヤンキースで名将トーリさんが誉めちぎりながら大事に大事に使うのをみて、
考え直しました。
「違う、いい選手だから大事にされたんだ」

トーリさん曰く
「彼は野球をよく知っている」。
言い換えれば
「今何をなすべきかよくわかっており、それを遂行する」
チームスポーツでは、指揮官にとってもチームメイトにとっても、
これはなにより重要な資質です。
そんなこと当たり前じゃん、と思われそうですが、
プロ選手は評価、つまり生活がかかっているので、
自己犠牲的プレーはやりたがらないものなんです。
だって、バントのサイン出ててフルスイングしてホームラン打てば、
間違いなくヒーローですからね。
でも、指揮官やチームメイトにすればこんなイヤなヤツはいない。
一人やりだせばオレもオレも、です。
もともとお山の大将ばかりの集まりですし。
そんな時にマツイがいれば、「あいつを見ろ!」と一喝できる。
これはもう、トーリさんにしてみれば可愛くて便利でしょうがない。

職場見渡して、「仕事をよく知っている」と誉められる人、って、そうはいないですよね。
数多くのメジャースターを目の当たりにしてきた名将にそれを言わせるんだから、
やっぱりヒデキは凄いのです。

そしてヒデキを単にパワーヒッターとしてではなく、
そういう冷静な着眼点で評価できるトーリさんもまた凄い。
彼が運がいいというなら、こういう人に恵まれる点でしょう。
あの恐ろしいほどの福耳は伊達ではない。

もひとつ蛇足するなら、
トーリ的評価は日本にいる頃ほとんど聞いたことがなく、
せいぜい「実は守備力も高いよね」程度でした。
あとはもうゴジラ吼える、ゴジラ吼える、ゴジラ吼える。
日本人の評価下手は、まだまだまだまだ治療の余地ありです。

落合中日がセ・リーグを征しましたが、なにがすごいって
「いや、この戦力でだいじょうぶですよ」
と言い切ってそれをやりきったところ。
独自の評価システムと戦術・戦略体系を、未経験のうちから蓄えている、
それが凄い。
現役時代から、メジャー・スラッガーの、バッティングコマ送り写真みたいなのを
取り寄せて、一人で研究してたそうです。
自分なりのものを見る目、
それを分析し評価する切り口、
それをまとめ上げて現実に落とし込む努力と工夫。
さすがです。

スポーツに限らず、なんでも、
そのひとそのひとが工夫を凝らして作り上げた、
独自システム同士が火花を散らす、
それこそが一番おもしろいところではないでしょうか。
効率優先、成果優先ではこういう独自システムは生まれにくい。
すでにある優秀なシステムをコピーするのが、一番ローコストでローリスクですからね。
それもいいのですが、それ一辺倒ではとてもとてもつまらない。

自分システムを築きあげることは、大変です。
みんなが知ってることをわかった!と叫んで恥を掻いたり、
人がいいと言ってることをやらずに損をしたり。
でも、それもまた楽しからずや。
プラモデルもいいのですが、木を削りだして作ると、愛着が沸きます。自信もつく。
まあ、少々歪んでいても。
それは借り物ではないので、F-14を作った人に、
「じゃあ次は零戦を作ってよ」と言えば、まあそれっぽいものはできる。
でも、プラモでF-14を作ると、零戦作るには零戦のプラモを買ってこなければならない。
そこで零戦のプラモ売ってればいいですが、売ってなければ。
「プラモ売ってないから作れないよ!」
そういう人は、ちょいと頼りないですよね。
ちょっと間違っててもいいから、零戦作ってくれる人の方がありがたい。

ヒデキや落合さんの、そしてもちろんイチローの何物にも動じないあのクソ度胸、
あれは、自分のシステムを持っている人のツヨサに他ならず、
歴史に残る偉業を打ち立てようが、ワールドシリーズ天王山で凡退しようが、
「ごちゃごちゃ言われたってこれがオレなんだからしょうがねえだろ」
やはりここまで至らなければ。

人の一生とは、つまり、そういう自分システムを築き上げていくことで、
築き上げてどうだ、っていうのではなくて、
築き上げることこそがおもしろい。

だからそこに深く関わっていけばいくほどおもしろく、
そんなのつまらん、と思えばこれほど虚しいものもない。

だから、やるしかない。
義務でも努力目標でもなく、それがたぶん、一番おもろい。

自分も頼れる自分システム、こつこつ作っていこう、と思った日でした。



 10/2 把握と表現

秋マック 胸焼け上等 午前2時

──ビッグマックいと好みける男ありけり。己の老いを嘆いて詠める。

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と、今日も、そのぐらいしか波風のない平凡な一日でした。
だからまた似たようなお話。

ガツンとそのものを掴み出す力、事実を事実として認識し、表現する力、
それがあると、ものごとは伝えやすく、伝わりやすい。
それに必要なのは観察眼。
本質、特徴をできるだけコンパクトに、ズバンと握りしめる力、です。

やくみつるさんの似顔絵とか、いつも凄いなあ、と思います。
あんなシンプルな線とパーツで、特徴を抜き出して誇張して、描ききる。
ファンタ・グレープ(もちろん無果汁)の名コピーに
「グレープよりグレープ味」
がありますが、本人より本人に似てる。

我々は「表現」といいますと、
自分の中に湧き出た、無から生じたものを表すものだ、
と思いがちですが、それだけではない。
基本は、そこにある事実。
その事実を下敷きに、どうすればその事実がより的確にスムーズに効果的に伝わるか、
そこを工夫することが、「表現」なのではないでしょうか。

嘘をつくんですけど、嘘のための嘘ではなくて、より本当らしくするための嘘。

こないだ、okbちゃんに「グループ魂」のCDを借りて、その時の会話。
「アルバム通してフルスロットルですからね! うるさいぐらいですよ!」
彼はバイクに乗ってる身振りをしました。
身をハンドルにのしかかるように乗り出して、手首をネコ手のように内側に捻る。

バイク乗られる方ならおわかりのとおり、これはウソになります。
バイクではスロットル開ける場合、手首を進行方向手前に回します。
手首がそうなので、ハンドルの上にのしかかるような姿勢は物理的に厳しい。

でも、「フルスロットル」を表現するには、こっちの方がずっと気分が出てました。
要するに今大切なのは、「いくぞー!」って感じを出すことであって、
正確な姿勢かどうかなんて、二の次。

つまり我々は、
冷静にものごとを見定めて本質を見抜いたならば、
大胆に強調と省略を駆使して、「それっぽさ」を伝えればいいのです。

マンガというのは、それが極端に進化した形式だと思います。
ただ罠もあって、記号化を進めすぎると、記号自体に縛られます。
「この記号はこれを表す」というみんなの認識があって、その枠から出られなくなる。
一発で伝わる反面、プラスアルファが伝わらない。
もちろん、当人がしっかり丁寧にやれば大丈夫な部分ですけど。

なぜこの話題にこだわるかというと、
「把握と表現」
というのは誰でも、日々いつでも、やってることだからです。
「それはなにか?」をリアルに掴まえて、
自分なりの強弱をつけ、色をつけ枝葉を落として、自分も含めた誰かに伝える。
この一連の流れがスムーズで力強ければ、
日々はもっとわかりやすく、そしてもっと楽しくなる、
のではないかな、と思うのです。

世界、それから人生というのは良いも悪いもなく、
(そんなこと言うてたってどうしようもないし)
ただそこにある。
それを自分の目で見極めて、自分ネットを通じて咀嚼して消化して、なにかを生み出す。
その一連の営みこそ、一番楽しいことなのでは、ないでしょうか。
エサくれエサくれとぴーぴー鳴くだけのヒナと、
天空を舞いつつ獲物を探す成鳥とでは、
おもしろさが全然違ってそうですよね。

というわけで、グッと掴んでバッと出す試みをいろいろしてみてます。
こういう時は、詩才も画才もない方がむしろ真実に近寄りやすい……
負け惜しみじゃないよ?



 10/1 自信を持つには

乱取り稽古を腐るほどやるしかない。

結局、「自信」つまり自分を信じるには、結果・実績が必要です。
小さな結果を、良いものも悪いものも散々積み重ねて、
パターンマッチをこれ以上ないぐらい充実させて、
どんな状況でもオートマチックに自分の持てる力全てを出せるようになって、
その力も通用すると合理的に予想できるようになって、
はじめて自信がつく。

「自信」とは、良い結果が出せると確信することではなく、
自分の力が出し切れると確信することです。

結果を積み重ねるには、「実戦形式反復練習」以上の方法論はありません。
そうして自信を得れば、おのずと良い戦いができるものです。

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考えてみれば当たり前です。
なのになぜ人はそれをよく忘れるかというと、
野球が悪い(笑)

あのスポーツすごい特殊で、
実戦がもっとも訓練効率が悪いんです。
走塁とチーム守備ぐらいでしょうか。
あとは打席も投球も捕球までの守備も、全て単独で反復練習した方が効率がいい。
あれ、芸なんです。
日舞とかと一緒。さんざん練習して、一瞬の舞台に全てを賭ける。
あるいはさすがアメリカ生まれ、Showです。
見せるスポーツ。

長らく日本のトップスポーツをあれが占めてきたわけで、
「訓練とは要素分解して各要素を極めること」
という悪いクセが日本人に染みついちゃった。
現代ではそれに飽きたらず、さらに下位システムまで分解を進め、
バッティングにはこの筋肉とか言って、
そこだけ鍛えてバランス崩してケガをする。

---

それは冗談ですが、
我々は要素訓練に偏りがちです。
「合理的な、科学的な感じがする」あるいは「なにかやった気になる」。
しかし実はそうではない。
言語教育などその好例。
学校教育、つまり実戦形式でない方法で英語が話せるようになるなら、
今頃日本人みんな小林克也です。
あれだけやって、ほぼ話せない。
ところが住めば誰でも3ヶ月で、日常会話ならできるようになる。

頭と身体を使ってやることは、全部同じだと思います。
実戦、もしくは実戦形式を鬼のようにやりまくって、
プチ成功とプチ失敗を山のようにやる。
するとオーダーメイドの、自分専用ネットワークができあがる。
自分の力を最大限に引き出す、
またその力を効率よく蓄えていくのに、
これ以上の方法論は、ない。

我々は、「乱取り千本」を前時代の遺物とみなしがちです。
しかし、忌むべきはその背景にある根性論とか精神論。
しかもいつの間にか乱取りが腹筋やコンダラ引きにすり替わってるし。
やり方そのものは、おそらく最も科学的かつ合理的なのです。

もちろん、要素特訓も場合によっては必要でとても効果がある。
しかしあくまでも全体を見て、その中の部分として捉えないと、
効率悪かったり、トンチンカンをやったりします。

私の場合ならば、他人様に読んでいただく文章を、できるだけ書く。
推敲の都合ありますので、量ではなく時間で。
あたりまえのことですし、
今までも一応やってきたつもりなのですが、
あらためて。

それが自信に繋がる。
 という自信があります(笑)

宮本武蔵曰く「千日を鍛、万日を錬」。
ほえなが基準で言いますと2100日、2鍛なのですが、万日は……遠いなあ。




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