■ ほえなが ■

やれることを、めいっぱい。

 11/30 input

本日は11/1から11/30までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)


■本■

 「津軽」 太宰治 (岩波文庫)

 「井伏鱒二全詩集」 井伏鱒二 (岩波文庫)

 「困ります、ファインマンさん」 ファインマン (岩波現代文庫)

 「戦艦大和ノ最期」 吉田満 (講談社文芸文庫)

 「道元禅師の話」 里見ク (岩波文庫)

 「魔法の発音カタカナ英語」 池谷裕二 (講談社)

 「知的生産の技術」 梅棹忠夫 (岩波新書)

 「絵巻物に見る 日本庶民生活誌」 宮本常一 (中公新書)

 「芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録」 岡本敏子 (小学館文庫)

 「蟻の自然誌」 バート・ヘルドブラー/エドワード・O・ウィルソン (朝日新聞社)

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今月はまれに見るヴィンテージ・マンス、どれも当たり。
無理矢理からベスト選ぶと、もちろん、
「知的生産の技術」。
老若男女とにかく読むべしです。
ノウハウ本ではなく、自分なりのやり方を考える上で指針になります。

感動を求めるあなたには、
「戦艦大和ノ最期」。
人間の愚かさと尊さがいっぱいにつまっています。
これこのまま映画とかにすると、なんの救いもないけどガツンと来る映画になりそうです。

もう少し軽めに楽しみたいなら、
「困ります、ファインマンさん」。
スペースシャトルの事故調査など、とてもおもしろい。世界最高の頭脳とはどういうものか、クリアーでシンプルでストレートな「思考」そのものを見せつけられます。

あー、でも今月はどれもおすすめです。
池谷さんのも、練習帳なんですけど、知的読みものとしても面白かった。
10月と比べてもFFやってる時間とかあまり変わらないのによく当たってたのは、
ラッキーなのか、それとも思考がクリアになり目が澄んで嗅覚が鋭くなったのか……

あと余談ですがこうして見れば、
「さすが岩波」。
情報が溢れかえる昨今に置いては、「編集」や「信頼の付加」にとても意味と価値が大きいのですが、
「岩波に入ってるならマズイもんじゃない」
という力を持ってるのは極めて大きい。
これは新潮文庫には無いんです。
(もちろん、だからこそ幅広く拾ってるという強さもある)

下手な拡大に走らず、地道にやってきたことが今花開く……かも。

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11/11から始めました通販の方も、いくらかご注文いただき、
とてもとてもありがとうございます。
まだまだ在庫たっぷりありますので(笑) ぜひお気軽に。

来月もがんばりましょう〜。



 11/29 潜む、違い

コーヒーが好きなもので、粉でペーパードリップをよくします。
以前はコーヒーメーカーをよく使っていたのですが、たくさん作っても味が落ちる。
(コーヒーは時間で味がどんどん落ちるのです)
作る作業も息抜き、ということで一杯分ペーパー落としを。

で、今まで3-4人分用の、少し大きめのドリッパーと紙を使っていたのですが、
今日初めて1-2人用のドリッパーと紙で淹れてみました。

作りやすい!

コーヒーの淹れ方にはコツがあって、
細流にして「粉がフワッと膨らむ」状態をキープするように少しずつ淹れるのです。
一気に淹れると水浸し(湯浸し)になってしまいます。
こうなると、ドリップ速度が速すぎて水くさくなります。
逆にあまり少しずつですと、湯がコーヒーと触れてる時間が長くなるので、
嫌な苦み成分まで出ちゃうそうです。
「ガッテン」で言ってたから間違いない。

1人用は、1人用の分量で、(約7g〜10g)
その「フワッと膨らむ」状態をキープしやすいのです。
実際、非常によい状態のコーヒーが入って、ごきげん。

宮本常一先生や司馬叔父が言うのですが、
日本の農家というのはその道具の種類において異常に発達しているらしく、
鎌なら鎌でもなにを刈る鎌なにを刈る鎌と、さまざまな種類がある。
豊富で再生速度の早い森林資源を背景にした、
旺盛な鉄器量産技術がモノを言ってるらしいのですが、
それに加えて、日本人の道具に対する異常な執着心がその発展を増長したのではないでしょうか。

で、やっぱり、専用化すると、それはそれなりに使いやすいのです。
3-4人用で、少しにすれば1人でも、パンパンにやれば5-6人でも、
そういう問題じゃない。

そういえば、消しゴムでも。
僕はトンボ鉛筆社の「MONO LIGHT」を愛用するのですが、
サイズが大きい方と小さい方あって、小さい方じゃなきゃダメ(笑)
当然材質同じだと思うのですが、持ち心地とか、重量差から来る慣性のつき具合、しなり方の違いによる消し心地の違い、そんなところに差があるんです。

神経質だと笑われるかもしれませんが、
まあ、「少しでも良いモノを/自分にあうモノを」という探求心の裏返しでもあります。

ECOについて書いてるとM澤先輩よりレス、
「そういや職人は自分で自分の道具作るねえ」
道具選び道具作りは、結果としての効率向上ももちろんですが、
それそのもので楽しい面も。

「まさかこんなもんそんな差はなかろう」
と思ってたドリッパーひとつにも偉大な差があったので、驚きながら、
「よくよく気をつけねば」
といましめ。
我々の日常には、こうした、「ちょっと変えてみると驚くほど効果的」という
道具や手段が、いろいろと潜んでいそうです。

ああ、コーヒーが美味い。



 11/28 本ではないところから得た。

昨日のを↓書きながら思いついたのですが。

カードでもノートでも、脳内思考を外部キャッシュに書き出すと、
(1)再利用のしやすさを大幅に改善する。
(2)頭をフラッシュしてすっきりし、次の思考に取りかかる。
ことができるわけです。加えて、
(3)作成中にどんどん新しい思考が湧いてくる。

「ほえなが」も場所と物理的な方法は違いますが、やってることは同じでした。
最後のが楽しいから、ずっと続けている、ようです。
この面ではPCは実に強力で、
思考を次々に文字化/言語化する能力は、カード+鉛筆より高い。
使いわけ、というより、
カードは苗床みたいなもので、PCが畑かなあ。
芽が出るまで、がとても大事で、ある程度育てばあとは間違いなければちゃんと育つ、
そんな感じ。

そうそう、(2)も、そういや書き終わるとスッキリするし、書かないとスッキリしないし、
あれは習慣だからかと思いましたが、
物理的に書き出すとリセットがかかるんですね。
うーむ。
もうちょっと早くからやってればもっとスッキリしたのに。

「ドラゴンボールZ」の主題歌「CHA-RA HEAD-CHA-RA」は、
いい曲いい詩いいシャウト。
中でも好きなフレーズは
「頭からっぽの方が 夢詰め込める」。
ホンマにそうや。

別にアホになれとかサイヤ人になれって意味ではなくて、
真っ白な頭と気持ちになると、
新しい何かが芽生えてくるよ、あるいは飛び込んでくるよ、
ということですね。

梅棹先生も
「覚えるためじゃない、忘れるためにカードに書くんですよ」
とおっしゃってました。
いや、あの、話逸れますけどあの「知的生産の技術」って本は、
金言金言雨金言って感じでおそろしく密度が高いです。
高校の教科書に指定すべきではないですかね。

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そうだ、それで思い出しました。
読後に「これこそ若者に読ませるべき本だろう!」と感動して、
「高校生に読ませるべき本20冊」
なんてものを考えようとして、
自分の本棚を覗いて、
ゲンナリ。

ロクにありませんな!(泣)

いや、文学作品ならね、20はきついけど10ぐらいすぐ埋まるんです。
「いいから読め」ての。
でも、大きな知的刺激を受け、
「この本を読んだという事実と体験が死ぬまで使える」なんて本は、
そうめったにない。

そしてそれは、最近の本がダメなんじゃなくて、
僕がダメなんです。
いや、ダメというよりも、我々は、(私で1971製)
情報を摂取するデバイスが、本では無くなった時代の産物なんです。
つまり、TVであり、ラジオであり、雑誌であり、マンガであり、アニメであり、映画であり、ゲームであり、最近では、ネットであり。

だから、「知的刺激を受けた表現物オールオール」なら、20ぐらい出ます。
でも、その中で「本」書籍の占める割合は大きくはない。

我々の世代も、上の世代に「最近のヤツらは本を読まん!」といわれたのですが、
つまり我々に言わせてもらえば、別の手段で情報を仕入れているだけで、
そんな怒られるようなこっちゃない。

紙の百科事典で「戦争」の項をいくら眺め、「坂の上の雲」を10回繰り返し読むよりも、
「映像の世紀」を一回見る方が、「戦争とはなんぞや」により近づけませんか。
(もちろん、実際に体験するのと比べれば五十歩百歩ですけども)

いや違うか、アプローチの仕方が違うんですね。
「より近づく」、というのはウソで、「別の近づき方をちゃんとしてる」かな。
やはり、本を読む、その行為と、時間の流れ、思考の流れの関係は、独特です。
それは他のデバイス・メディアでは代替が効かない。
だから、やはりいい本は残し、読み継いでいかねばならない。
そこは反省。

学校の教え方もアレですね。
ブンガクの媒体としての本と、知識・経験の塊としての本とは、
分けていいと思うんです。
それこそ、「国語」と「文学」にわけるとか。
国語の方は基礎的な読み書きから、事物の具体的な描写、手紙や報告文(というと硬いですが、生活文書の基本はこれです)の書き方、読み方に至る部分。
文学はまあ、好きなように。美術や音楽と似た扱いでいいと思います。
あの要素が入るから、嫌いな人苦手な人が増えるんじゃないかな。

だから「知識・経験の塊としての本」を紹介される機会が
学校教育では非常に少ないですよね。
されても「羅生門」とかと並んでる。
これはちょっとおかしいかな、と思います。

あるいはこれを発展させると、
「考え方」
そのものをいろいろやってみたり、発表し合ってブラッシュアップしていったりする
時間があれば……てことになります。
「読み方」「書き方」「考え方」。
教える、というよりも生徒が自分の「考える方法」を築きあげるのを手伝う、導くような。
難しいかな。

ともあれ、「読ませたい本は?」と訊かれたら
20ぐらいはスラスラ出るよう、いろいろ読みます。
これがね、「見せたいアニメは?」って言われたら
20ぐらい簡単に出るんです(笑)
そこで気づいたことでした。



 11/27 ECO その2

ECOカードシステムそのものに凝ってます。

システム開発の真髄はやはりトライ&エラー。
アイデアが出たら「即やってみて評価」が一番早くて確実です。
エラーにも「もうそこはやらなくていい」という価値がある。
人生と同じ。

それをもう一本blogでも立ち上げてリアルタイムでお見せするのが面白いかも、
と思いつつめんどうでごめんなさい。
22日から80枚ぐらいカード作ったのですが、
内2割ぐらいがECOシステムそのものについてのアイデアだったりします。

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たとえば、ですが。
収納ひとつ取っても大問題。

A6サイズというのはハガキとほぼ同寸(わずかに横が大きい)なので、
ハガキ用品使えば楽勝だろ、と思ってました。
しかし、ハガキ収納は「文面(あるいは表書き)が見える」ことが大事なので、
そういうつくりの品しかないのです。
ECOの収納は、
全部をガバッと入れて、
持ち歩きの時に汚損からガードしてくれて、
使う時はガバッと取り出せてぱっぱと繰れる、
つまりトレーディングカードやカードゲーム(Magicとか遊戯王とか)と似た
収納が向いていると考えます。
ところがああいう、薄いプラスチックでできた箱みたいなの、これが無い。

んでは厚紙か段ボールを用いて展開図ひいて自分で作るか……
と考えて、いやまて、やっぱり箱というのは中身出した後邪魔になる。
ということで現在は、
「ビニール袋に入れて持ち歩く」
という極めてプリミティブな方式です。

しかしこのビニール袋にもノウハウがあって(笑)
ジップロックのファスナーつきとか、
トーセロついてる同人誌見本袋とかいろいろ試した結果、
一番使いやすいのは、
郵便局でハガキ買うと入れてくれる薄い半透明のアレ。
さすがハガキ用、縦横ジャストサイズ。
フタ開いてるので気を抜くとバラバラ落ちる欠点がありますが、
そこは取り出しやすさとのトレードオフです。

これを、白(ブランク)用と、記入済み用と、2つ。
分けておかないと、記入済みの裏に白だと思って書いてしまうミスが起きます。
というか起こしました。
あと、白の残量が一目でわかるメリットもあります。
白が切れてる時に限っていいアイデアが出るんだこれが。
そういう時のために、予備で裏紙なりなんなりを鞄に突っ込んでおきましょう。

そうそう、それで余談ですけど、
「バックアップ」っていうのは緊急時にしか使っちゃいけませんね。
そして使ったらすぐ元に戻しておく。
鞄に、ペンを一本は必ず入れておくようにしてるはずなのに、
いつの間にか無くなるのです。
今日もペンが無くてしょんぼり。
緊急時に使って、そのままレギュラー入りしてどこかで活躍してるんでしょうねえ。
特に、「困った時でもいつもと同じように」って、いつもと同じ品を用意しておくと、
使い心地が変わらないものだからそのままズルズル使ってしまうようです。
自動車のスペア・タイヤはテンパータイヤという緊急用の、
「少し走れるだけ」の薄く小さなタイヤが多いですが、
あれはあれでひとつの見識かもしれません。

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内容による分類は、もう少し運用してからご報告します。
今のところ、

(1)白
(2)現在進行形
(3)アイデア(いちおうfix)
(4)お言葉(自分のものじゃなくいただきもの)
(5)タネ(アイデアというほどではないもの)
(6)システム(TODOとか買い物リスト、スケジュール)
(7)メモ(一回使い捨ての情報)

の、Magic7かなあ、と思っています。
内、(1)白は物理システム的に分けた方がいいから分けてるだけで、
もちろん論理的には意味ありません。
また、(6)と(7)までをカードに載せなくてもいいのでは、と考慮中です。
使い勝手的には薄手の手帳でいいような、というより、そっちの方がいいような気も。
ただ、
「自分の頭を通る全ての情報の入出力を一元管理」
という面で見れば、カードに載せた方がいいかも。
(管理してても後から見て「懐かしいな」と思う程度の情報だと思うのですが)
現状では、TODOリストだけを透明カードフォルダに入れて特別扱いしています。
これだけは1カード1項目の原則から外れて、シーケンシャル追加記入です。

大事なのは(2)(3)(4)(5)。

(3)と(5)は本来分けなくてもいいのかもしれません。
ただ、(5)の、たとえば「鎖片平なぎさ」というカケラからは
どうにも発展のしようがないので、分けた方がいいのかなあ、と。

(2)は(3)になる前段階で、もやっとしたものを書いたけど、
まだちょっと足りない時に、いったん止めておく。
時間置いて膨らめばそれを書き、どうも止まったままならそこでクローズする。
そんな感じです。

(4)も微妙で、「お、これはええこと言うてる!」と思って書き留めても、
そこから発展しないことって多いですよね。
発展・消化しない限り借り物と同じですから、
やっぱり分けた方がいいような気がするのです。

(2)(3)(4)(5)は現在のところ超整理方式で、
アップデートしたもの、繰ってて気に留まったもの、
を最上面に持ってくる管理方法です。
厳密なものではなくて、ものすごくいいかげんですけど。

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こんな感じで、まるでポキモン・カードを集める子供のように、
カード作ること自体が楽しくて、なんだかそんなことばっかりやってます。

一番影響を受けたのは、意外にも「ほえなが」です。
今までは、思いついたことをベースに、
その場で即興で展開してトピックにしていたのですが、
それをいったんカードにして時間をおくと、
冷静な目で、客観的に見ることができるのです。

で、ほとんどがたいしたことないトピックで(笑)

梅棹先生もおっしゃってたのですが、
「わたしたちにはいつも、無限の世界とのつながりを心のささえにしているようなところがあるらしい。カードは、その幻想をこわしてしまうのである。(中略)
 有限性に対する恐怖に打ち勝つだけの、精神の強度が必要だ」

「うへえ、くだらねえことばっかり考えてるな〜」
と自分で自分を嗤えますよ。
くだらない、っていうのは面白くない、って意味じゃなくて、どうでもいい、って感じの。
となると、今までなら確実にネタにしてたような話題でも、
「……まあいいか」
と思ってしまうわけです。
すると、量も質もいずれはシェイプされる……はず。いずれは。

しかし、「ライヴ」なのも「ほえなが」のいいところだと思いこんでいたりもするので、
これ(このトピック)はライヴで書いてます。
といっても、上段のECOシステムの変遷などはカードを参照しながら、ですが。

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カードはCPUの側に控えるキャッシュメモリと似ています。
インもアウトもキャッシュに溜めることで、CPUは効率よく、
目の前のスレッドに対して全速運転ができるのです。

例えに過ぎないといえばそうなのですが、
キャッシュの大小などさほど影響なさそうでいて、
NorthwoodのP4-2.4(512KB)とCeleron-2.0(128KB)では劇的に違いました。
FF11ベンチが半分とか。
CeleronのFSBを533にして2.66で回して、ようやく3/4といったところ。
いかにベンチが向き不向き得意不得意があるとは言っても、
あまりの違いに感心したものです。

CPUそれ自体を改良し速度を上げる努力ももちろん必要なのですが、
それは皆様ご存じの通り最も大変です。
しかしそれを取り巻く外的要素で、もし効率化、パフォーマンスアップが図れるなら、
こんな安上がりで楽な手段は無い。

事実、アイデアの書き出しを行うことで、
「完全に空いた時間」
が増えました。
全開運転とアイドルタイムが割合クッキリ分かれて、脳的にも楽です。
思いがけない副産物です。
妄想を全部キャッシュに書き出すことで、脳がフラッシュされるんです。
で、ゼロからまた妄想スタート。
言葉ではよくわからないと思いますが、
やってみればスカッとして、結構気持ちいいです。

なによりなにより、手を動かすのが単純に楽しい。
懐かしいペンだこへの刺激も、また嬉しからずや。

ということで、割と楽しくやってます。
途中経過でした。



 11/26 電子辞書(PW-A8200)

久しぶりの物欲胸騒ぎ。
電子辞書、買ってしまいました。

前から欲しいな、とは思ってたんです。
でも私、家ではPC用のHDD格納型電子辞書(システムソフト製)を使っており、もちろん広辞苑もジーニアスも入っており、PCまでたどり着けばすぐ見れる。
外行く時もノートPCに入ってるので、要らないといえば要らない。

でも欲しい。

というのも、最近ECOシステム(カードシステム)を運用しています。
カード束抱えてPC前を離れることが多くなったんです。
しかも、実際に手で文字書いてると、わからん文字わからん言葉がいっぱい出てくる。

あれ、気をつけた方がいいですよ。
ATOKはあまりに素晴らしすぎるので、気がつけばやらんでええことまでいっぱいやってくれてます。

しかし店頭で値段調べるとトップモデルは30000円近くするではないですか。
今それはキツイ。
ああしかしふとJohinのレシートを見ればポイントが25000ぐらい。
ありがとうおかあたま、あなたの炊飯器のおかげです。

メーカーは古巣一択(私にだって郷土愛てのがある)。
現在のフラッグシップはPW-C8000というモデルで、液晶がカラーでブリタニカ百科事典が載っている。
こりゃすげえ!と思うのは素人のあかさたな、やはりというべきか連続駆動時間は専用リチウムイオンバッテリ使って約20時間。ACアダプタ同梱。
こんなものまでバッテリに悩まされたくないので早々に候補落ち。
よく見ればブリタニカもフルではなくて抄本みたいなもの、これが入ってるゆえにか広辞苑が落ちてる。(代わりに大辞林)

このタイプはあと3年待ちですな。
方向性としてはこっちだと思いますよ。
私もPCにはMicrosoftのエンカルタ(2003)突っ込んでますが、よくお世話になります。
百科系はもはや絵がなければ成り立たないし、
外国語系には音声がついてくれると非常にありがたい。

コンベンショナル・タイプでの最上位機はA8200、薄型軽量版にS7200
店頭で15分悩みました。
液晶はサイズ違いますが解像度は同じ、
ウェイトはS7200の方が軽いですが電池持ちはA8200のが上。
いつもの「ちいさいの好き魂」なら間違いなくS7200なんですが、角川の類語新辞典と、古語辞典が載ってるのが最後の一押しでA8200にしておきました。
シソーラスてのは無くてもいいけどあると便利。
古語辞典は、ちょっと昔の作品(日本の)読む時にそういう知識を前提とした部分が出てくる時に役立つんですよう。

余談ですが、日本語にはシソーラス文化があまりありませんね。
書籍版でも「これが!」ていうのは無くて、上述の類語新辞典がまあメジャーかも、という程度。(まっ黄色のカバーのヤツです)
英語には……と思って早速電子辞書ひいてみますと(笑)
イギリスのロジェっていう人が1851年に刊行した辞典の名に由来するんですって。
原義は「宝庫」とかそういう意味だそうです。
案外英語でも歴史は浅いんですね。
……というかまあ、印刷物を多くの人が活用すること自体、比較的新しいことですが。

使ってみればやはり専用機は鬼のように便利。
Windowsに電卓ソフトありますけど、手元に電卓があればそっち使いますよね。
その違いです。
しかも最近のは操作体系とかよく練れてて、解説文中にわからない単語が出たら、そこを指定してすぐジャンプする機能とか、同じ語句を内蔵してる辞書全部で検索する機能とか、電子辞書ならではの使い方がとても簡単。検索履歴とかもバッチリ。
いや、PCのソフトより使い勝手がいいぐらい。

うーん。
もうちょと早く買っておくべきだたよ。

あとね、電車待ちとかの暇な時間潰すのにすごいいい。
辞書ってパラパラめくってるとなんとなく楽しいじゃないですか。
でも持ち歩いてまではやろうと思わないですよね。
それができる。
下手な雑誌読んでるよりぜんぜん面白い。

我が家では祖母も母も電子辞書を持っており、ナンクロ解きに大活躍しております。
昔から言うておりますが、入学祝い就職祝いにはぜひこれを。
あげて喜ばれもらって嬉しいものです。
超つきのおすすめです。

今や市場規模は紙辞書をはるかに上回るそうです。
1on1で争ってるぐらいだからカシオのもきっといいのだと思います。
てかこんなもん、コンテンツが勝負ですしね。
いずれ平凡社の世界大百科事典(35冊組)や、諸橋大漢和こと『大漢和辞典』(諸橋轍次編・大修館・15巻)がガツンと載った電子辞書出てくるんでしょうなあ……
がんばってください。

「ジーニアスがフルで載っていれば3万でも買いますよ!」
とアイデア会議で吼えて、事業部の方に
「……辞書単機能機はねぇ……」
と半笑いで流されたのが、入社したての94年頃。
まさに十年、一昔。



 11/25 エッセイとは粉ものなりと見つけたり

エッセイとは、「粉もん」ではないでしょうか。
お好み焼きとか、ピザとか。

6年近くこういうもの書いてますと、見る目だけは肥えるものです。
エッセイには、スカそのものから、「枕草子」「徒然草」のような1000年級のものまである。
どこに違いがあるのか。
思いついたことを思いついたように書く、なのにどこで差がつくのか。
作家の力か。素材の良さか。
いや、微妙にそこじゃない。

そこでハタと思い浮かんだのが、ジャンク以上料理未満の「粉もん」達でした。
素材のクオリティは大きな問題ではない。
だってほとんどメリケン粉だし。
調理法なども火まかせひどい時にはひとまかせ、具を載せて焼きゃおしまい。
しかしそれでいてやっぱり、美味いのとマズイのがありますよね。
微妙な配合のバランス、生地の取り扱い、やっぱり具の質も少しは、あるいは作り手の味覚、ジャンク寄りならではの熱さとかエンタメ性とか、
(生地をクルクル回して放り投げるとか、コテで喰わせるとか、恐ろしい速度でタコ焼きをひっくり返し続けるとか、クレープみたいに無限に具の組み合わせがあるとか)
いろんな要素がさまざま積み重なって、差がつく。

簡単なようでいて、決め手がない分、奥が深い。
あるいは、いい素材揃えばマズくはならないちゃんとした料理よりも。

本芸(小説など)持ってる人のエッセイは、たとえば司馬遼太郎、やっぱり美味い。
日経BPと同じで、昨日の夜の懐石で使った材料の残り使ってるから、まちがいなく美味い。
また、「美味さとはなんぞや」をよく知ってるし。
ただ、「粉もん」の美味さはそこだけではない。
お好み焼きは料亭で喰うもんじゃないですよね。
ピザはメインディッシュで出てくるもんじゃない。

その辺に、ヒントがあるような気がします。
手軽さ、度を超えなさ、気を遣わなくていい、なにも考えずもしゃもしゃいける、他のジャンクとの親和性、「3時」という退屈な時間にふと手が延びる感じ……
まとめて表現するのは、「お好み焼きの美味さとは何か一言で表現しろ」と同じだけ難しいのですが、あえて言えば、
「ふらふらっと『あ、おいしそ』と食べてしまう感じ」
でしょうか。一言になってませんが。
本格料理のように、構えていただくものじゃない。
しかし家庭料理のように、ただ栄養だけ摂ればいいってものじゃない。
なにかひと味、「あ」というヒキが無いとダメなんですね。
そして、ひかれた時にパクッといける程度でないとダメ。
短編小説ってのは短くともちゃんとした料理、すなわち幕の内弁当のようなもの。
日記というのはお総菜ですよね。基本的に本人の腹が膨れればいい。

美味い粉もの的なものこそ、「美味いエッセイ」ではないかと。
そういうものならば、命脈はすこぶる長い。
なにせ人間の「あ」なんてポイントは、前何千年も後何千年も変わらないのです。

わかったからって書けるもんでもないんですが。



 11/24 山盛りのおばさま

車検上がりのクルマを拾いに天王寺を通るので、
ついでに動く城見物でもしようかとアポロシネマのチケット売り場。

おばちゃん山盛り。

平日の10時なのに……と思い横をふと見ると
「水曜日はレディースデー 1000円」

男女差別や。
ジェンダーフリーとやらはどこへいったんや。
マンホールはパーソンホールと言い換えなきゃ!

どうも水曜というのは客商売にとっては動きの悪い中日のようで、
駒川商店街にほど近いお好み焼き屋さんも水曜日がレディースデー。
しかしここはスゴイよ、男女同権思想が徹底してるから、
ちゃーんと男性優待日も設定されてある。店の看板に曰く、

「月曜日は男DAY(マンデイ)」

前通るたびに笑いが漏れます。
お客商売には笑顔が大切ですな。


あ、映画は萎えたので帰ってきました。
アニメとしてどうこうというより、その様を見て、
「やっぱり新規顧客層(普段そのジャンルには見向きもしない客)を
 開拓すると商売は強い!」
と痛感。
デズニーランドとかも完全にそうで、普段ひらパー行く客じゃないんですね。
むしろ、ひらパーやあやめ池遊園には行かない客なんです。

「ラピュタ」を最後に宮崎監督はまるでアニメファンを無視してる気がするのですが、
「そっち向かない方がいい」という判断ですな。
で、スーパーの特売品のように山になってるおばちゃん達を見ると、「成功」している。
アニメどころか映画すら久しぶりっぽい老夫妻とかね。

好き嫌いとかいい悪いを別にして、含蓄深い。



 11/23 ニュー・カードシステム

前言を2秒で撤回するのがそうそれがHスタイル!
あ、Hは「ほえなが」のHね。

ちょうど今使ってるメモ帳が終わったので、カードシステムに挑戦してみます(笑)

性能がいいのはわかっているので、弱点を潰すように。
再掲ですが、カードシステムの弱点は大雑把に2点。

(1)ネタ同士の「文脈」がわかりづらくなる。
(2)物理的なハンドリングが非常に悪い。

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まず(2)からつぶす。

●サイズ
梅棹先生オススメはB6ですが、A6にしてみました。文庫本サイズです。理由は2点。
・他目的で設計されたステーショナリーが豊富で、応用が利きそう。
・現在のスタンダード・A4との親和性が高い。
あと個人的には、今まで使ってたメモ帳がA6で、大きすぎず小さすぎず不満がなかったのもあります。

●紙
110kg級の少ししっかりした紙(マンガ用原稿用紙の薄い方です)。
私は無地。
罫線は好き嫌いだと思いますが、自由が売りのカードですから、無い方が。
また、気持ちの問題ですが裏紙などではなくきれいな白い紙の方が、気分いいです。

●持ち歩き用ホルダ
これが問題です。
既製品はかなり探したんですがフィットするのありません。
2穴開ければ縦でも横でも伝票用が使えるのですが、パンチの手間とバインディングの手間が増えてはカードの意味がない。
とりあえず長3形の封筒を、上切って長さ縮めて入れました。
文庫カバーも試してみましたが、やはり3方向開いてるとバラける危険高く、それを防止するために輪ゴムなど巻くとまた手間です。

今考えてるのはDVDトールケース。
あれの中のゴチャゴチャをカッターかなにかで削り取ればいい感じかも。
(ゴチャゴチャがあるままだと収納枚数稼げません)
ペンも入れられそうです。

これで今までのメモ帳と、「持ち歩き」に関しては大差ないハンドリングに。

●使用上の注意
バラけるネタを串刺す唯一の指標として記述「日」を入れます。
面倒なようですが、まとめてちゃちゃっとやればいいので(それこそ次の日でも)、やってみれば案外たいしたことなかったです。

●保存・閲覧
A6にした理由のもう一つがこれで、縦にすると市販のCD整理ケースが使えるんです。
ほんとは横がベストなんですけど、それは首を90度傾けるか(笑)
あるいは慣れてくればインデックスだけ右辺に書くのも。

カードそのものを縦で使う案も検討しましたが、
A6は縦だと微妙〜に横文字数が足りない気分がします。
僕自身、同じA6を縦→横にしただけで「お、広い」と錯覚しました。

一般に日本語の場合、横書きで適切な文字数は20〜35、できれば40までに留めたい、と言われます。(縦はもっといけます。眼球の動きやすさと関係があるらしい)
電子メールなども40(38)以下に抑えられてると思います。
今数えてみましたら、僕の字(小さめ)でちょうど40弱ぐらい。
ジャストフィットくさい。
縦は瞬く間に無くなりますが、まあそれは枚数を増やすことで対応。

●電子化
ここでA4との親和性がより活き(る予定)。
もうおわかりのように、4枚並べてスキャンすればA4になり、印刷やPDF化がすこぶる効率的になります。
(やるかどうかは別にして)
物理コピー取る際でも同じ。

どういうシチュでこの性能が活きるかまだピンと来ないのですが、少なくともバックアップやカードそのものをそのままに誰かに伝える時には、電子化が少しでもやりやすいのは大きい……かな?

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(2)についてはこんな感じ。
では(1)について。

いきなり抽象的になるのですが、
書き留めておくべき文脈、セルとセルとのリンクの仕方、それがもしあるなら、それもセル的にパッケージしてしまえばいい。
えっと、理論的(理屈的)にはそれは成り立たないというか破綻してるんですけど、完璧を期さず近似値ある程度で、最大効率を目指せば落としどころはここではなかろうかと。
セルa−リンク−セルb
を書き留める時に、
セルa セルb セルaとセルbを結ぶセルc
と。

小難しく言ってますが要するに、あるアイデアが出た過程が大事なら、それも書いとけ、ってだけです。アイデアに歴史あり。
これだけで随分拾えると思う。

カードではなくノートなら、まったく毛並みの異なるセルaからセルbが生まれた場合、矢印→一本でつながりを表現しておくことができます。
その分、その矢印をわざわざ別セル化しなければならないのはコストですが、ま、他の優位点とのトレードオフで。

全部拾う必要もありません。
「つながってる」ことだけがわかればいいことも多いし、つながってることにどう考えても意味がないことも多いし。
人間関係と同じです。
つながりが薄いからといって距離が遠い(互いの影響が薄い)わけじゃないし、
つながりが濃いからといって距離が近いわけでもない。
記すべきがあるとするなら「影響を与えあっている」という事実であって、
つながりの物理的側面そのものではないんですね。

……と、自分なりに無理矢理納得してみた。

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まあ、次のラブコメのいちゃいちゃシーンのネタの下で道元禅師が
「有心にて修行し、無心にて修行し、半心にても修行すべし」
と吼えてたりするのも悪くはないのですが、
というかそういうのが大好きなんですが、
そろそろおっちゃんも歳で脂っこいものが苦手になってきたし、
クリアな思考にもちょっと憧れるので、
切り分けてみたい。
どうせペラペラ繰ってみれば同じことだし。

Enjoyable Card Odyssey(愉快なカードの大冒険)で
ECO
と命名。
その名の通り、
「アイデアの海を大冒険するがごとく」を縦軸に、
「特別なリソース(お金、時間、手間、物質)を使わない」を横軸に。

やってみます。



 11/22 ネスカフェ・エクセラ

といえばネスレの最下層いや最普及品で、私なぞコーヒー好きですから
「こんなもの飲めるかブー」
と霧にして吹いてたんです。

ところがいつものインスタントが切れたので、
(レギュラーを作るのが面倒な時にインスタント飲みます)
しょうがなく。
しかしただ作るだけではまずいのわかってますから、いろいろ試してみたんです。
すると。

超薄目だと飲めなくない!

あれはアメリカ人用の色水です。
日本人がUCCオリジナルという「乳飲料」を好むように、
ありゃ「コーヒーじゃない何か」そうすなわち「ネスカフェ・エクセラ」だと思えば悪くない。
いやほんとに皮肉じゃなくて、
ベストはカップに対しティースプーン一杯程度の超アメリカン、
もしくはクリープや砂糖をたくさんブチ込んだコーヒー味つき乳飲料。

ラーメンでもそうですよね、「サッポロ一番塩ラーメン」とか「ワンタンメン」って、
もはや「ラーメン」じゃなくて、「インスタントラーメン」という別ジャンル食品。
「ラ王」とか出た時に僕は全くピンと来なかったんですが、
あれとか昔からある4分煮させる凝った袋麺とか、
要するに「ラーメンになりたいラーメンじゃないもの」じゃないですか。
あの心構えがさもしい。
インスタントラーメンなんかどこまで行ってもインスタントラーメンですよ、
進化するったって、それを上回る勢いでお店のラーメンも進化するもの。
10年前とだって比べても、今や百花繚乱、ありとあらゆる種類のラーメンが食べられるこの御時世に、ラーメンめざしたってしょうがない。
「俺はインスタントラーメンだ!」と吼え、
新たな地平を切り拓き続ける定番たちの方が、
素直で美味いのです。

なにかになりたいなんて思わなくていいよ。
君は君のままで最高さ。

それはさておき、なんでも楽しみ方は自分で見つけるものと言うか、
はたまた定番には定番になる理由があるというか、
33年間も、そう「エクセラ」がつかない頃からあの寸胴の瓶を見続けてるのに、
一番美味い飲み方を知らなかったとは。
スプーン一杯分、反省。



 11/21 進化の意味は(「意味」シリーズ9)

そろそろ尽きてきました。
あとは「ほぅら」とやってみせるだけ。

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「悟り」とはすなわち、
「『自分のシステムは自分で作らんとあかん』と識ること」
ではないでしょうか。

偉人達が悟りを開いてなお修行に励むのは、つまり、
「自分システム」の構築は終わりなどないわけで、
悟っていようといまいと一生続くのです。

ただその、自分用のシステムを作る、といっても基礎は既存のシステムであり、あるいは機械を作る工作機械、プログラムを作るプログラミング・ツール、がある。
それは昔から伝わる思考方法や論理の組み立て方や、気持ちの持ち方。
そこに深く馴染みつつ、自分なりの疑問と向上心を持って改良検討を重ねて、自分のものにしていく。
と、ある日組み上がったネットワークが発火して、「これだ!」となる。

そのネットはその人のフルオリジナルでもないし、既存のものそのままでもない。
真理は、正解は、方法は、人の数だけある。

ただ、「こうじゃないのかな?」と思った人が、
「僕はこうやると(考えると)上手くいくんだけど……」
とその知識体験を広く知らしめることは非常に有意義で、それに馴染む人がいるかもしれないし、それに触発されてまた新しい展開を拓く人もいるかもしれない。
だもので道元が「ただ座れ!」と一喝するわけですが、ご自身が「ただ座ればいいんだ!」と「わかった」のは叡山にいて栄西に会って宋へ行ったからであって、ただ座っててわかったわけではない。

このようにして、人間は進歩していくものです。
揺れたり戻ったり、フラフラしながら。

---

魚の獲り方を教える人、考える人が貴いのは、
次の世代はもっと獲れてもっとしあわせかもしれないからです。
学者、芸術家、教育者に社会的尊敬が無条件で付加されるのは、そういう理由です。
魚をものすごく獲れる人、は、
その世代ではいくらか貢献できるかもしれませんが、次の世代にはなにも残さない。
ただお金を儲けるだけの人ね。悪いことでは、ないけれど。

「進化」とは、それそのものでドライビングフォースがあるのかもしれません。
「どこそこに向かう」ではなくて、「とにかくどこでもいいから向かう」。
生物の戦略が
「とりあえずバラエティ富まして数うちゃ当たる」
方式だとするなら、進化、つまりバラエティを富ませる方向に力が働いているのは、なんとなく理解できます。

さらにその先、なぜ「当たりたい」のか、つまり繁栄したいのか、という問いは、古来多くの哲学者や芸術家や自然科学者が挑戦に挑戦を重ねてきた難問です。
私はシンプルに、
「だって楽しいじゃん」
でいいんではないかな、と思います。
たくさんの子孫達に囲まれて、居心地のいい住処で、美味しいものを食べて、外敵の不安なくニコニコ笑って過ごす。
そのために、みんながんばってるわけで。

限定された資源をめぐる競争や社会的役割の細分化が絡むと、話はヤヤコシクなるのですが、基本的には、誰もダメになりたいと思って生きているわけではなく、よりよく生きたいと思うからこそ悩んだり、迷ったり、間違えたりするものです。
(バラエティを確保するために、「ダメになりたい」という個体も稀に生産されてるとは思いますが)

そうやっていろんなベクトルがあっちこっちに向いているわけで、そのベクトルに沿って「いや、こういう方法があるんだけど」とよりよい方向を示唆できる方法論は、あればあるほど、いいと思います。
そういう意味で、学問は芸術は教育は、いろいろあった方が、いい。

こう考えると、生きていく上で最も「手応えのあること」とは、
自分はもちろん、人の、少し長い時間で見れば人間社会の、
「進歩」に貢献してくなにごとかを作りあげたり、気づいたり、見つけたり、掘り起こしたり、
することではないかなあ、と思います。
自分はもちろん、どこかの誰かのなにかに、ぽっと火を点けるような。


そんなこともうっすらとだけ期待しながら、コレを書いてます。
でもやっぱり説得力も大事なので、だもので
「あのながたさんが言うんだから、そういう考え方もありかも」
という人になりたいのですよ。



 11/20 プリミティブ・ポイント

早朝のミスドに、クラブ勤め上がりとおぼしきお姉さま方がたむろされてるのです。
本日は6人ばかり。
みんな同じ姿。
バービーちゃん。
明るい茶髪のセミロング、目張り入れまくって眉を吊り上げ、茶色っぽい襟にファーつきのコートはおってミニスカート、足元はブーツ。
どうせウソなら、1人ぐらい清楚っぽいのとか、あるいは時代遅れかもしれないけどゴージャス・スタイルとか、個性出せばいいのに……と思うのは素人だからでしょうか。

日本という国はモノでもサーヴィスでも常にこうで、
「こうだ」となれば全部が「こう」になります。
でも、ホントにそうでしょうかね。

楽天とライブドアのシャチョさんお二人が必要以上に自信満々、
「やってみせますよ」
と胸を張るのも、要するに彼らにすればプロ野球の現状など穴も穴だらけ、いっくらでもやりようがある、とお思いだったからではないでしょうか。
中にいる人間には、見えない穴が見えている。

というか、中にいる人間ほど、穴が見えないものなのかも。

せっかくあのお二人が
「これこれこうしてこうしたらほら、ビジネスになりますよ」
と一生懸命訴えてるのに、旧体制側の判断は
「金持ってるから(赤字でも)持つだろ」
ぜんぜん論点が違う。

清楚なタイプを好む人は、クラブやスナックには来ない?
んなわけあるかいな。
よしんばそうであったとしても、「来ない人を来させる」というのが最高の戦略であることは間違いないです。新規顧客層を切り拓く商品こそほんとの大ヒットになりますよね。

もちろん、ただ「変わっている」「珍しい」ではダメです。
そういうものはおおよそ、既存の価値観を中心に据えてさらにその周辺へ行きたがるから、当たることも稀にありますが、大抵は明後日の方向へ行ってしまう。
そうではなくて、案外「あたりまえのこと」にヒントがあるような……

モノもサーヴィスも、今の世の中は凄い勢いで進歩します。
しかし、その進歩の過程で失われる何かがある。
「お姉さんの居てるお酒のめる場所」
というスタート地点からなら、どんなお姉さんが居てもいいはずなのに、
いつしか「クラブ」とか「スナック」とかくくりができて、そのくくりの中で発達していくから、
最初の意味から外れてしまう。

ここなんです。
「最初はこうだった」
というプリミティブなところがたぶんヒント。
そこに戻ると、いろんなものが見えてくるような気もする。

---

畏友・鉄心さんが「讃岐うどん旅行」の写真を見せてくれまして、
15件。
「くっそー、美味そうだぁあ」
製麺所の横でおばちゃんがやってるお店で、つゆとネギは自分で入れる。
そんな原始そのものの姿が、なぜグルメ本のプロが撮った美しい写真よりもはるかに食欲をそそるのでしょうか。

それは、「うどん」とは、
熱いダシが、麺をすするあの快感が、安価で立ち食いで、
ネギぐらいしか具がなくてあるいは卵は高級具で、
ちくわ天を入れれば衣がダシを吸って、
難しい料理ではなくておばちゃんが作ってくれて、
原点ですよね。
そして全て。
それが「うどん」なんです。
讃岐のお店にはそれが全部あって、それしかない。
100%ピュア。

あとどうでもいいんですよ、ファミレス風店内とか具のバリエーションとかどこの小麦使ってるとか制服可愛いとか値段とか季節の炊き込みご飯とか。
もちろん付加価値ですけど、あくまで「付加」。
ところがいつしか、「付加」の方に力が入って、気がつけば中心の価値がおろそかになっている。

真ん中の方が見えにくくなっている、というのは時代なのでしょうか、
それともいつの時代でも、人間の営みというものはそういう傾向があるのでしょうか。

ともあれ、「うまいことやる」コツは、たぶんここ。
そういうとなんかヤラシイですが、効率とか儲けとか抜きにしても、
「うまいこと進んだ方がいい」ことは世の中にたんとあります。
「なんかうまいこといかんなー」と思ったら、
中学生ぐらいの子供に説明するつもりで見直してみる、のが良いのかもしれません。
あるいは70歳ぐらいのおばあちゃんとか。


かんたんなことを、かんたんなように。



 11/19 二つの机

もう一件、「知的生産の技術」から。
よく言われることですが、事務と知的生産(創造)とで机を分けた方がいい、と。
(というよりココが元ネタか!)
事務やってるとなんかやった気になって、実はなにもしてない。

特に最近はwebっていう悪魔みたいなものがあります。
これ(ほえなが)書く時も、いつもスラスラ作れるわけではないです。
ちょっと詰まった時、論旨がどっかいっちゃって収拾つけれない時、
ふらりと巡回してるニュースサイトなんか見に行こうものなら気がつけば1時間。
あるいは仕事の調べものでGoogle使って、そのまま面白いサイト見つけて
読みふけって1時間。
どなたにもある経験かと。

webは情報が更新されるのがタチが悪いですね。
本やCDなら手元にあるものはもう馴染み深い(飽きも来てる)ので、
「いかんいかん」と思えるものですが、webはいつも新しい。

今年の3月頃にADSLが止まった時は
「なんて暇なんだろう!」と。
じゃなくてそれがあたりまえ。

んでもって私の解決策は、机の代わりにノートPCです。
だもので、無線LANとLANカードのセット買ったんですけど、
(当時45000円!今だと12000円ぐらいでありますね、
 しかも11gでルータ部もちょっぱやのが……)
使ってません。
それやるとまたおんなじことになりそうなので。

そしてそれを持ち出してデニーズやミスドやドトールにお邪魔するとなおよし。

思えば中学ぐらいから自室で勉強できない子でした。
いつもテスト勉強はなぜか台所。
立派な部屋に立派な机あるのに、一式持ち出してなぜか台所。

結局、「いつものポジション」には「いつもの自分」が染みつきすぎちゃってて、
戦闘態勢になかなか入れないんですよね。

本来は逆だったはずなんです。
リビングで一家団欒、戦闘態勢は書斎で。
絶対その方がナチュラルですよね。

これをぶちこわしたのが、テレビじゃないかと。

僕は特にひどいのですが、人の声聞こえるとなにもできなくなるんです。
そこは団欒の場ではなくて、TV見てる場になる。
それがヤだから自部屋に逃げ込んで、しょうがないからそこでモソモソと遊ぶ。
で、ずっとそこにいるから仕事と遊び、というか、
本気とリラックスの区別がつかなくなる。

だからって、ウチの家族は普通にTVの好きな3人なので、
「消せ」とはよう言いませんしね。

最近でこそあたりまえになったのであまり聞かなくなりましたが、
「子供部屋にTVを入れるのは善か悪か」
みたいな話がありました。
閉じこもるからよくない、とか、自主性を育てるには最初から馴染ませるべき、とか。

思うんですけど、逆がいいんじゃないでしょうかね。
リビングにはノー・TV。
部屋には自分のTV。
え?そうすると「おかあさんといっしょ」が一緒に見れなくなる?
それはおかあさんが移動する方向で……

ええわかってますよわかってます、夕飯の用意する時にTVでもついてて欲しい、
そのお気持ちはよぉくわかるのですが……
置くと点いちゃいますしねえ。
ほら、iTunesの曲飛ばすヤツでインターネットレイディオとかどうです?
私のおすすめはSmoothJazz.com。
ムリかな……
というかラジオだと同じ気もする……

---

というより、あのデバイスだけあまりにも立場がスペシャルに過ぎるんです。
webも出版物も新聞もCDも、ラジオは微妙ですが、基本的に
「選択したコンテンツを積極的に楽しむ」
昔流行った分類で言えばpull型なのに、
あれだけものすごいpush型なんです。
「ポケッと空けた口にコンテンツねじこまれる型」。
特にPPVではなくて、地上波。
PPVはいわばDVDやビデオと同じ、積極選択なので、本やCDと変わらない。
興味ある人から金を取れるけど、興味ない人にはなんの影響力もない。
この御時世でもプライムタイム・スポットのCM枠がクソミソに高いのは、
現在ほぼ唯一のpushコンテンツ、
ねじこめるコンテンツ、
もっと言うと、
洗脳できるコンテンツ
だから価値が高いんですね。

(携帯)電話もすごいpushですけど、あれはまあ、回避方法がいくらもあるし、
そもそもpushされてる先がある程度信頼おけるソースなので(特に携帯は)
そんなに危機感までは感じないですが、
TVは最近ほんとヤバイんじゃないかな、と敬遠しています。

TVで流されるコンテンツ自体は問題ではなくて、
私もアニメやナイターやニュースやバラエティや花王名人劇場で育ててもらってので、
とても素晴らしいものだとは思っています。
ただ、簡単に易きに流れる特性が問題で。
それはまあ、webもそうなんですけど。

---

TVに限らず、全てのコンテンツを
「その前で正座してじっくり楽しむ」
ようにすれば、もすこし何かを見直せるかもしれません。
正座して1時間凝視するに足る番組か。
60分瞑目して耳を傾けるに足るCDか。

世の中が便利になって、なんでもかんでも同時にできるようになってますが、
なにかやりながらできるようなことなど、
実はものすごくたいしたこと無いようなもののような気もします。
「簡単な手仕事は……」ってだって、ロクロ回してる陶芸家の後ろでロックかかってるとこなんか、見たことないですよね。
……居たはるかな?(笑)

ぐちょぐちょある中からも何かが生まれる、
その考え方もよくわかりますが、
でもやっぱり、ギャッとやるタイミング、っていうのは必要な気がします。
その、「ギャッとやる」用の、フィールドなりデバイスなり儀式なり時間帯なり、つまり
「集中一式」
みたいなのをこさえたいなあ、とか。


なんかこの本がバイブルあるいは「論語」みたいなもので、
これの詳説・訳注本が溢れてるだけのような気がしてきたぞ(笑)



 11/18 「知的生産の技術」

またM澤先輩に薦められた本。
■「知的生産の技術」 梅棹忠夫 (岩波新書)

超オススメ。5つ星。
情報処理の原点を丁寧に見つめ直せます。
「自分なり」の方法論を考える起爆剤に。
記述は平易かつ簡明、一日で読めます。しかし目から鱗の金言満載。

1969出版、当時大ベストセラーになったそうですが、一ミリも古くなってません。
いや、今書店にあるキラキラした中身のない本を買うぐらいなら、これを買うべきです。
全ての高校生に持たせましょう。

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梅棹先生、国立民族学博物館の創設者として有名ですが、
(司馬さんの本を読んでると始終出てくる)
いわゆる「京大型カード」の発案者だとは知りませんでした。
B6判少し厚め、表罫線裏白、のあのカードですね。
最近はどうなんでしょう、やっぱりシステム手帳とかに押されて下火なんでしょうか?

カード型情報処理は、「セルを自由に並べ替えることでネットワークを最適化する」
という素晴らしい利点があります。
並べ替えているうちに、頭の整理が進むだけではなく、新しい閃きが生まれる。

ただ、私は何度も挑戦して思いますに、

・セルそのものもネットを持っており、しかも単純な階層構造ではなく、下位のネットから上位のネットに直接延びているシナプスなどもある。
 これを表現しにくい(切らざるをえない)
・似た話ですが、セルそれぞれが生まれた「文脈」や「背景」を表現しにくい。
 それを切り飛ばすからこそ再利用性が生まれるのですが、再利用性のために現在ボンヤリとでも持っている「意味」を剥がしてしまうのはいかがなものでしょう?

最近は特に、このセルに付属する「モラモラ」こそが
そのセルの独自性を強める、非常に重要な要素である、と感じます。
ゆえに、もう、できるだけそれを捨てたり切ったりする危険は避けたい。

カード型情報処理が有効に機能するためには、
・最初からカードを再利用前提で書く。(これは梅棹先生ももちろんご指摘です)
・このモラモラが落ちないようにできるだけ工夫する。
の2点が重要で、それにはすごくコストが掛かるんです。

知的生産をある場所への移動に例えてみますと、
移動にはいろいろあるわけです。近所のスーパーから、大阪から東京まで。
カード型はスーパー行くのも常にF1で行くようなものです。
いやもちろんそれが一番早いのですが(笑)
他にかかってるコストが凄いですよね。

とどのつまりは研究職の本番仕事など、
「どれほどコストを掛けてでも早く着くことが重要な移動」には、最適、
少なくとも現在見つかっている方法論の中ではファーストチョイスかもしれません。
ただ、我々の日常生活における小さな知的生産にとっては、大げさすぎるのです。

他にも、こうした「ペラ紙」式は、物理的ハンドリングの凄まじく悪い。
システム手帳でもルーズリーフでもお使いの方はご存じでしょうけども、使用後、もしくは使用頻度の極端に減ったリフィルを保存・管理する方法論というのが、無い。
結局簡易バインダーに項目別もしくは時期別に挟み込むぐらいでしかなく、そうなるとノートと変わらない。
よしんば本棚一面をカード・ボックスにして、引き出して自由にくれるようにしたとしても、今度は閲覧性と検索性の悪さがクローズアップされます。
「電子化してサムネールを高速表示させれば……」
そういう問題でしょうか?

これは梅棹先生をくさしているわけではないのですが、
おしなべて研究者の方というのはひとつのドグマ見つけるとそれで押し切ろうとするので、その点、我々平凡な生活を営む人間は注意が必要です。
野口先生の「超整理手帳」なども、(弟が買ってきたので眺めたのですが(笑))
「すべてのA4を縦四つ折りにする」
その行為自体、そして毎度利用のたびにそれを開いて閉じてするという凄まじいコストが掛かっています。
紙折るってのは大変なことでねえ!
そのコストに見合うだけのメリットが「常に」あるようには、思えないんです。
「規格化」と「大判化による閲覧性向上」はよくわかるのですが、それが目的ならA4のペーパーをそのままクリアファイルで持ち歩くのは?

ああいうものの体験談ってダイエット体験談と同じで、
痩せた人しか話してないので、絶賛の嵐になるわけです。
その後ろに死屍累々が横たわっていることを、お忘れ無きよう。
もちろん、ジャストフィットする人もたくさんおられると思いますが。

---

くどいようですが梅棹先生も「こうしろ」と言ってるのではなくて、
「僕はこうしてる」という問題提起です。序文でも述べておられます。
現に僕がこうしていろいろ考えたり書いてる時点で、
梅棹マジックに引っかかってるわけですね。

物理的情報処理システムを考えるのは、それそのものが非常にクリエイティブです。
だから世にはあれほどの文房具が溢れ、電子ガジェットの中でもPCが特別な位置を占めているのでしょう。

発火薬として、オススメです。



 11/17 ミズ!

うちのまま上は「森永ヒ素ミルク事件」あたりがトラウマになっており、
メーカー製の食品をなかなか続けて買いません。
続けて買ってると、つまり続けて摂取していると、
なにか「あったことがわかった」時にもう取り返しがつかない、と。

ミネラルウォーターですらそうで、南アルプス、六甲、ヤマト運輸の、生協の……
最近やってきたのが「森の水だより」、コカ・コーラのです。
最強コカ・コーラボトラーズの水ですから、間違って自販機でお買い求めになりお飲みになられた方も多いかと思いますが、

まずい。

コカ・コーラって妙な会社で、コーラ以外は全部まずい。
ファンタやスプライト、まあジョージアシリーズ、それに復活気味のアクエリアスは目をつぶるとしても、お茶系/ニア・ウォーター系の商品開発力の無さは半端ではありません。

これ皮肉でもなんでもなくて本気で聞きたいのですが、
どうして「まずい水」っていうのを開発できるんでしょう?

すでに世には上述どおり六甲も南アルプスも、ボルヴィックもエビアンもあり、
飲みゃあ彼我の差はわかるじゃないですか。
それともあれですか、コカ・コーラ的にはあれが「美味い水」なんですか。

……とゆーよーにいつもどおり愚痴愚痴言いながら、しかし2Lが6本来てしまった以上は、これを飲み干さなければ次が来ないわけです。
一時などは水を全く飲まずお茶をコーヒーを紅茶を飲んでました。
ところがしばらくすると。

慣れた(笑)

美味く感じるようになるんですよ、これが!

普通そんなことありえないじゃないですか。
清涼飲料水で、「これは口に合わないな」と思ったものを再評価するなんて。
いや、もちろん歳と共に好みは変化しますから、若い頃コーラよく飲んだけど最近飲まないなあ、そういうのはあります。
でも、たった数週間で!

やっぱり水というのは人体にとってきわめてクリティカルなものなので、
アジャストする能力がバカに高いようです。
「ごちゃごちゃ言うなコレで行くぞ!」と、身体がフィットしてしまう。
人間の身体ってよくできてるな〜、と感心すると同時に、これってとても怖いことですよね。

だいじなものほど、感覚が麻痺しやすい。

会社勤めなどしてますと、矛盾だらけなわけです。
でもいつかその矛盾に、身体をアジャストしてしまう。
矛盾にいちいち反応してては生きていけない、だからある程度は必要だと思うのですが、
行きつく先は巨額の背信であったりリコールを隠したり偽装をしたり。
仕事だけじゃなくてなんでもそうです、社会もそう、人間関係もそう。
ある「あたりまえ」が、よそから見ればとんでもない「異常」であることも多い。

ということで、水も、いや水だからこそ、
いろいろ変えてみなければ。


余談ですが「水」という単語は生命に直結するだけあって、
大声で叫べばどこの国の単語でも通じるらしいです。
「ウォーター!」でも「ミズ!」でも「オー!」でも「アックア!」でも。
その時無意識に出てるコップをかざすようなボディランゲージも効いてるとは思いますが。
Tips。



 11/16 シンプルネス(「意味」シリーズ8)

M澤先輩に薦められたので、
■「困ります、ファインマンさん」(岩波現代文庫)
を。
前々から気になっていたのですが……気になったらパッと買ってパッと開くべきですね。
めっちゃおもしろい。
さすが原爆を作った男、なにかが違う。

特にスペースシャトル・チャレンジャーの事故調査のくだりは、
まるでシャーロック・ホームズです。
いや、ホームズよりすごい。
ネタバレになるから詳細書きませんが、彼は特別なことはなにもしないんです。
驚異的な観察力があるわけでもないし、適当に立てた仮説が間違ってたりもするし、
シャトルのことは委員会に入ってから一から技術者に教えてもらう。
しかし、真実を簡単に拾い上げる。

真実は、ごく簡単なことなんです。
現場の人間は知ってる。だからそこへ行けば簡単に見つかる。もうそこに落ちてる。

しかし、人はなかなか、それができない。
まして「大統領直属の国家プロジェクト事故調査委員会」なんて肩書きがつくと。

「なにが違うのか」しきりに考えさせられました。

---

昨日、「ズームズーム」とマツダの回し者のように連呼しましたが、
確かにズームイン・アウトも大事なのですが、実はもっと大事なのは、
観察者自身が近寄る(遠ざかる)ことか。

カメラ、ちょっとだけ囓ったことがあるのですが、その時に街のカメラ屋のオヤジに
「初心者はズームレンズ使うたらあかん」
と言われました。
初心者こそ、同じ風景をいろんな切り取り方のできるズームレンズを使った方がいいような気がするのですが、オヤジ曰く
「フットワークが悪くなる」

なるほど、と。
ズバリ切り取りたいなら近寄れ。風景の中に封じ込めたいなら下がれ。
得られる結果は、ズーム機能付きカメラ使われたことがある方ならおわかりのとおり、
似ているようでぜんぜん違う。

「ズバンッ!」と一歩踏み込む。
まさに相手に同化するかのように近づく。
距離近く顔つき合わせるだけでなくて、
「その立場に立つ」なんて甘いものでもなくて、
「それ」になってしまう。

ノーベル賞学者が工場の技師とランチかっ喰いながらパーツについての話をするんです。
向こうはもう「話聞いてくれる人が来た!」てノリでベラベラしゃべっちゃう。
すると、そこにあたりまえのように真実がある。
問題のOリングに使われたゴムの弾性が、
温度によってどう変化するか計算しようとして、
「サンプル取り寄せて実験した方が早いな」と気づく。
さっそく委員会で使う模型からはぎ取って、
会場で配られる氷水に浸して
「やっぱり弾性が失われる!」

聞けば簡単なことなんです。
でもこれがどれだけキレが要ることか。
世の垢にまみれた私などにはクラクラするような切っ先の鋭さ、
斬り込みの深さと強さです。

似た話で、田中角栄元首相が、技術者が高速道路の幅で悩んでると聞いて
「アホか、クルマ二台とバイクと人間並べりゃそれが幅だろ」
と一喝した逸話があります。
もう、それがなにより100%正しい。
文献調べたり心理実験したり計算したりなんやかやしなくても、
1時間もあれば決着のつく話です。しかも完璧に。

頭のキレる人、というのはことほどかように問題をシンプルに解く。
問題に同化することで、原因を身体で感じることができるのかもしれません。
「あの選手不調やな」
その選手になってみれば、右の足の親指が水虫で猛烈に痒い。
一瞬で原因がわかります。
フォームがどうとかライバルとの心理的葛藤とか、なんの関係もない。
これは例えですが。

---

しかしもちろん、「切れ込め」言われて切れ込めりゃ、誰でもノーベル賞貰えるわけです。
相手に同化する意志と努力と方向性は必要として、
では具体的にはどういうことなんでしょう。

こっから先は自分の考えへの無理なすりあわせにも思えるので、聞き流してください。

誰しも独自ネットを持ってて、キレる人のそれは性能が高いわけです。
「切れ込み」やすい、「それ化」しやすい、シンプルに考えやすい。
ああそう、つまり、シンプルなネットなんです(笑)
勘所−勘所−勘所−勘所
で、少数がネットされてるので、これかなこれかな、と当たる数が少ないし、
おおよそポイントが見えやすい。
で、たぶんそのセルの中でもまたシンプルなネットが構成されてて、
またポイントがすぐ見える。またその下でも……
ということで、真実へのアプローチがおそろしく速くなる。

「海馬」の池谷さんが「九九なんか覚えてられますか」、
僕が(笑)「共通意味なんて無意味なんじゃないの?」、
結局、それらは自分のネットのシンプルネスを邪魔するモノなんです。
必要以上の複雑さは、ネットそのもののパフォーマンスをがっくり落とす。
もちろん、付則・おまけ・ぶら下がりシステムを組み込むことで、
ある局面での効率は上がります。
シンプルネスと、その効率上昇とを天秤に掛けて、
人は自分のネットを育てていくわけで、
僕としては九九は覚えた方が早いと思う(笑)
ただ、それを言い出すと、いつしかそっちへそっちへ流れる。
エントロピー増大の法則を持ち出すまでもなく、
シンプルにするには、部屋を片づけるのにはエネルギーが必要で、
複雑にするには、散らかすのは簡単。

スティーブ・ジョブスは物事をシンプルにすることに異常な執念を燃やす人で、
特に人と触れあう部分がシンプルになるのならば、どんな犠牲でも払う。
コストであっても技術的困難であっても、
時には合理性であっても利便性であっても。
マウスのスクロールホイールは、九九と同じでつけた方がいいと思うんですけど、
それを譲り出すとアイデンティティが丸ごと崩壊するんですね。
で、ここを守るがゆえに、トータルでのシンプルネスを確保して、
独特のキレを保ち続けている。
そしてキレるがゆえに美しく魅力的……
なのだと思います。
(「シンプルであること」そのものが目的化しすぎる嫌いはありますが)

も一個例出しますと、Palmが出始めの初期、開発者の方が
「どんどん多機能・高機能なライバルが現れてきますが?」
とのインタビューに応えて、
「機能詰め込むのはアホにでもできる。
 我々のノウハウは『どこを切るか』その選択にこそあるんだ」
と大見得切ってました。
惨憺たる現状を見ると理想と現実との乖離に涙が溢れるばかりですが、
最初の考え方としては、そして人々がどこにひかれたかと言えば、
そのシンプルさです。

そしてシンプルに行くためには、
自分のネットは自分で構築する工夫と気持ちが必要だと思います。
さらにそのための具体的方法論が、ここんとこずっと言ってます
「独自の『意味』を見つけ以下略」ってヤツで、
ニワトリタマゴですが、いいネットができると動きにキレが生まれ、
その結果得られるキレてる情報がまたネットをいい方向へ整備してくれる。

この本の最初のエッセイは奥様とのお話(泣けます)ですが、タイトルは
「人がどう思おうとかまわない!」
はじめは真面目一辺倒だった奥様を煽る彼の言葉だったのですが、
いつしか奥様がこの言葉を使いこなしてファインマンさんをたじたじにします。
この言葉は、おたがいの独自性を、つまりネットを磨くいい言葉だと思います。
もちろん、磨きあえるネット同士というのが、
より強力な上位のネットであることは言うまでもありません。
そう、僕とM澤先輩のようにね!(泣)

---

ちょっと左右に振れましたが、
いくらいいネットを持っていても、
「ずばんっ」と切れ込む意識は常に持ってないとダメかも。
いや、ネット育つと、当人にとってのあたりまえが、
周りから見れば「スゲー」てなことになるのかな?
とりあえず、意識は持って悪いことではないですよね。

ずばんずばん。

ともあれ、「困ります──」はおすすめです。
早速「ご冗談でしょう──」も買いに行こうかと。



 11/15 それ化(「意味」シリーズ7)

昨日↓のを書いてましたら、ちょうどM澤先輩から電話もらって、
3時間。

さすがM澤さん変態だなあ、と思ったのが、
クルマを運転する時に、マルチビューなんだそうです。
ゲームのレース/ドライブゲームって、今は3Dデータでできてるから、視点替えられるじゃないですか。あんな感じで、ドライバーズビューはもちろんのこと、斜め上から見たり、バードビューサテライトビュー、あるいはコーナーから眺める、地面から眺める、そしてご本人が「虫の目」というのですが、ものの内部から見るような感じもある、と。

なるほど〜。

視点移動というのはなににつけ、ポイントだと思います。
視点をカメラの位置だとすると、まずもちろん3次元、上下左右前後。
そしてズームイン・アウトの+1次元。
ドライバーズビュー(主観視点)は標準だから考慮しなかったですけど、それも1次元。
これをパカパカ切り替えて、同じ情報から違う「印象」を引き出して、その意味づけをする。

ここに加えてやはり、次のレベルとして「時間」軸をもう1次元持てると、面白そう。
それがドラマとかヒストリーで、同じ情報に違う意味を付加できるんですね。
同じ先発投手の一勝でも、エースが普通に勝つのと、2年のケガを乗り越えてカムバックした人の勝利と、新人のプロ初勝利と、意味は全部違う。
でもペナントレースの結果からすれば同じ一勝。

ものを把握する時に、今ナウの意味だけではなく、
「流れ」の中で、
どういう方向に向いているのか、いい方向なのか、本質的な方向なのか、あるいはいい結果は出てるけどほころびは見えるのか、
それが把握できると、より正確・高度な判断ができる。
認識の幅がどーんと拡がる。

---

ただ、時間軸を認識システムに取り込むのは、
それこそセンスが要るんじゃないかな。
というより、向き不向きか。

僕は明らかに「高速シーケンシャル処理」の人間で、
一要素にかかる時間を極小化することで最大出力を稼ごうと考えます。
つまり、「時間」という変数を消してしまいたいわけですね。
だから農業に向かない。
サラリーマンにも向きません(笑)
無駄なアイドルタイムができるのが耐えられない。それは明かなパフォーマンスダウンだから。
いや、物の本には「そういう時間こそ有効活用しろ」とか書いてあるんですけど、それはパラで物事走らせられる人ですよ。そんな人ばっかりじゃない。

だあーって僕、文庫本でも2冊併走させるの未だにようできませんもん。
2冊持ち歩いても、必ずどっちかの比重が重くなって、あんまり意味が無くなる。

でもたぶんこれ、集中力の副産物なんです。
なんでも、ええことばっかりやないですね。

---

時間軸はともかく、視点にはいろんなビューがあります。
客観視はもちろんですが、主観視も実は意識してみれば新しい視点かも。
たとえば僕が何か書いてるとするなら、
主観視とは「作者の視点」だけではなく、「作品からの視点」も含まれると思います。
自分が、たとえばこの「ほえなが」になってみれば、どう見られるのか、どう読まれるのか。
ディスプレイの中から、誰か──16歳ぐらいの可愛い女の子がいいですな──が「僕」を読んでいる……
と、考えると、ものづくりにどうしても出てくる臭み(それが個性だとも言えますが)も、消せるかもしれません。

究極の主観視、ものになりきってしまう、ということが、究極の客観視かもしれません。
衛星の位置からものを見ても、見るのは自分の目ですが、
ものになりきってしまえば、自分の目を失う。

極限の集中というのは、そういうものかも。
一体化、「それ」へのにじみ込み、それ化。
また、それを引き起こすものが、「よいもの」なのでしょう。
さすればすなわち、「よいもの」つくるにはやっぱり「それ化」が必要で、
そのためにはやっぱり、集中も必要で……

漱石の「則天去私」とはこの辺でしょうか。
芸術は結局、だって誰かが作るものだから、その人の主観そのものでしかない。
ですが主観も突き詰めて作品そのものになってしまえば、小さな「私」を去る。
そこまでいかなあきませんぜ、と。

……むずかしいな。

---

ビューポイント、視「点」だけでなく、時間軸まで含めたり、主観/客観を別次元と考えれば、ぜーんぶまとめて「どういう絵でものを見ているか」、これをビジョンという。

もちろんのことながら、良いビジョンを描ける人が、より大きな成果を残せる。
しかし「ビジョン持て」言われてもそう簡単に持てるものじゃない。
ではなくて、自由度の高い視点を持ち、自分のユニーク・ネットの再評価・再構築力が高い人の、
「見ている絵」
それそのものがビジョンではないでしょうか。
特別なものじゃなくて。それ用に新たに用意するべきものでもなくて。

プロ野球チームやメーカーの年頭挨拶などでスローガンが打ち出されますが、
あれがすごく空虚なのは、「こうやりましょう!」なんてのはビジョンでもなんでもないただの掛け声だからです。
結局「優勝だ!」「シェア1位!」てのとまるっきり同じ。
掛け声に意味がないとはもうしませんが。
ビジョンは日々刻々描き換えられるもので、アップデートされています。
年単位で変化するものでも、期間で区切られるものでもない。

いい絵を用意するのではなく、見てる絵がいい絵になるように。
びゅんびゅん動いて、時にはそれになってみる。


──とかなんとか、これ自体、新しい視点でした。
やっぱり持つべきものは友やねえ。



 11/14 専用認識システム(「意味」シリーズ6)

昨日のはちょっとわかりにくい。RX-8が出て脱線しちゃいました。
今日はなるべくがんばって。

---

モノに対して自分なりの独自の「意味」を見いだす……
ことこそが驚きと喜びを生み、エネルギーになるわけですが、
これを繰り返していくと、
自分専用かつ自分製の意味ネットワークが形成されます。

これを「悟り」という。

「悟り」型認識方法と要素分解による科学的認識方法には、
真逆の性質と、しかしそれでいてお互い補完する意味があります。
細分化して部分を見つめても決して全体を把握することにはならないし、
だからといって「悟れ」言われてもどこをどうやっていいかわからない。

ではなくて、部分部分を精密に見て、
その周囲にある部分との関連を見て、
そのネットの中でどのような「意味」をもち、
その中で最も「効いている」意味は何か、
最もネットが全体として輝く「意味」、軸はどこなのか、
ズームイン・アウトを繰り返して、要素解析と全体把握を同時に進める。
すると、徐々に把握が進んで、
ある日その中心「意味」みたいなものに気づいて、
(最適なネットワークが形成終了して)
「悟る」ことになる。
いったん、そのネットワーク把握システムができあがってしまいますと、
あとは微調整を繰り返しアップデートを続ければ、
おおよそ大丈夫。

つまり、悟りと要素解析は相反するものではなくて、
悟るために部分を精密に見るのであるし、
要素を極め、要素間の関係性をよく極めることで、ついには悟る。

そう、具体的手法としては、手を動かすしかないのです(笑)
ただ、手を動かしながらも、気持ちや方向性としては、
「コレとはなんぞや?」
という全体把握への意識は常に持ち続けなければならない。

(あるいは無心に手を動かすことが近道かもしれませんが……
 それは現代社会では厳しすぎるし、取りこぼしが多すぎる。
 我々は武蔵でも道元禅師でもない)

---

現代社会の不幸はつまり、
社会的役割の細分化(効率化)が進みすぎて、
個々が、仕事でも人間関係においても、
ごくごく細部の進歩革新をになうパーツにしかなってない、
ことではないかと思います。

もちろん、おしなべてこういうものはフラクタルな構造になってるので、
その細部においてもまた全体と部分があるのですが、
それがもはや、人間の生活感覚、最近の流行り言葉でいえば「身体性」から
外れてしまっているのです。

変な例ですが、就職活動した時に、クルマ系巡ったんです。好きですから。
で、やっぱりクルマ好き多いから、話弾むんです。
ブリジストンの人とか世界一のタイヤメーカー目指すぜ、と意気軒昂で、
「マツダさんなんか行くぐらいだったらうちですよ!」
ところがマツダの人はもう、鼻にも引っかけてない。
「……タイヤ屋さんですからねぇ」

ここなんです(笑)
もちろん、どっちが正しいとか優れてるとかそういう話じゃないですよ。
人にはそれぞれ、自分にとって、よりしっかりと「意味」を把握できる階層がある、
と思われます。
こう、ものすごく無茶を承知で並べますと、

自然>社会>交通システム>クルマシステム>クルマ>タイヤ>ゴム>石油

単純ヒエラルキーではなく上下にも絡み合うのですが、とりあえず。
だからたとえば官公庁入って道路族になりたい、なんて人からすればマツダも
「……クルマ屋やからねぇ」
でしょうし、ブリジストンの人も○○化成さんとか指して
「……ゴム屋さんですからねぇ」
もちろん逆方向もありますね。BSの人がおっしゃったように、
「うちのタイヤは世界中のありとあらゆるクルマに使われてんだよ?
 大衆車メーカーと一緒にせんといてよ」
とね。

で、このぐらいならまだ自分の生活との関わりが見える。
メーカーというのは、たとえファイナル商品でなくても、
パーツ単位になっても原料単位になっても、
「あそこで使われている」のが見えるものです。
ところがサービス業であったり、巨大複合メーカーの変なポジションに居たりすると、
「自分が一体なにをやってるのか」
よくわからなくなったりする。

まして、タテマエでも
「ウチの会社はこんなことで社会に貢献してるぜ!」
と言えればまだ頭で納得もできようものですが、
不祥事を繰り返して社会から叩かれてみたり、
なんのビジョンもなくただ「いただきストリート」のようにサイズを大きくすることそのものが命題になってたりすると、
「俺はいったいなにをやってるんだ」
となるわけですね。

いや、単純利潤追求でもいいんですけど、それをやる場合は
社員に対して明確な責任分担と公平な信賞必罰システム、
それと人件費だけはばらまく覚悟が必要です。
でないとモチベーションが保てない。
で、そんなものなかなかできないから、持たないんですね。

この、「なにをやってるんだろう」という不安こそが、
現代の不定愁訴の素かなあ、と思うんです。

---

ほいでは、その不安を取り除くにはどうすればいいか、というと、
モノの見方を変えるんです(笑)

どのような活動であれ、活動には意味がある。
その意味が自分にとって強く高い意味を持っていれば、
社会的に一般的にものすごく虚しいことであっても、
その人にとってはすごく大切なことです。

これを生きがいといい、これによって安心立命できる。
それは、見つけるというよりも、今やってる、普段やっているいろいろに、
新しい意味を見いだしたり、再発見したり、位置づけを変えてみたりすることで、
手に入れられるのではないでしょうか。

一例を挙げればプロ・スポーツは、
あれほど何も生まないバカなことないですが、
しかし、コロシアムの昔から、人類が最も大切にしてきたものでもあります。
イタリアやスペインやイギリスのパブには、「おらがチームこそが人生」みたいな人がいっぱいいる。

結局、モノが意味を持つわけではない。
自分が意味を見いだすのです。
そしてどういう意味を見いだすか、それはその人次第。

そこで。
見いだし方には方法論が二つあって、
それが要素解析と悟りなんですけど、
この二つは相反する2メソッドではなくて、実はひとつのやり方。
部分を見つめることはその部分における全体を見つめることですし、
全体を把握することはそこにある部分部分を把握することに相違ない。

---

ただ、そのためにはおそらく、3つの基本的姿勢が必要です。

1つ目は、視点を上下に動かすこと。

なんでもそうですが、経験を積むと
「力の入れどころ」と「手の抜きどころ」がわかってきます。
ネット全体を詳細にわたって詰めていくのは不可能です。
各要素自体もその下に要素がぶらさがっていますし。
ではなくて、全体を把握して大切な部分にはエネルギーを入れればいいし、
そうでもない部分はそのままにしておく。
それには、鳥の目で見たり、虫眼鏡持ち出してみたり、する必要がある。

2つ目は、「関連」に注意すること。

要素要素を取り出して詳細に詰めることは必要ですが、
要素同士の関わり合いこそ、要素そのものに負けないほど重要です。
エンジンとシャシー、おたがいイイモノ作ろうとしても、
片や強力スポーツエンジン、片や高級車向け乗り心地シャシー、ではダメですよね。
せめて方向性揃えることが必要です。
もう一段進めれば、1+1が2以上になるような、
「このエンジンのためのシャシー」と、「このシャシーのためのエンジン」が
コンビを組むとなお良し。
そのためには、要素と要素を結びつけている線、ライン、
ここに注目すべきでは。

そして3つ目が、最近こだわりの、
「独自の意味」に最も注意すべきだ、ということです。

そのようにして作られていくモノの見方のネットワークは、
全体としてその人独自のものです。
ですが、その人によって「力の入れどころ」が違うはずで、
もし、「一般的には」そこは大事じゃないよ、と言われていても、
本人がどうしても気になるのならば、そこに力を入れるべきです。
そうするとますます、そのネットがその人オリジナルになる。
意味が強くなり、個性が強くなり、発見に満ちて、驚きと喜びをもたらす。

せっかく自分ネットをエネルギー掛けて作るのですから、
目的は、一般解の追認みたいなしょうもないものにする必要はない。
また、神様が織り込んでいるだろう絶対解の発見、そんなもの無理。

人と違うところ、それは要素でもつながりでも、
そこを大事にすることで作り上げられる自分専用独自ネットこそが、
「悟り」システム。

自分がこうだと思ったら、他人はどうでもいいし、神様もどうでもいいのです。
その人にとって世界はそういう意味を持つのですから。

---

思いこみではなく、「こうだ」を得るには、上記3点に留意しながら
手を動かし身体を動かさねばなりません。
ただそれは厳しいことではなく、楽しくやればいいし、
別に期限も無ければ到達点もなく、優劣もありません。
ただ個性があるだけで。

結局、「人生ってなんでしょう?」という問いは、わかってる人ほど答えられない。
「ワシはサッカーやけど」とか言ってもしょうがないじゃないですか。
つまり自分で見つけるもので、せいぜい見つけ方の経験則を思い出混じりに
伝えるぐらいしかないんですね。

宗教はその具体的方法論で定評あるものを懇切丁寧にシステムとして
刷り込んでくれるだけで、
「歌ってなんでしょう」という問いに対してボイス・トレーニングを施すようなものです。
なんの解決にもなってないのですが、解決を求め続けるという効果は期待できる。
(たまにそれで巧くなって問題が解決したように勘違いする人がいますが、
 勘違いでもしあわせならばいい、という考え方もあります)

また、「悟り」そのものもまた、ネットワーク化が可能ではないかと思います。
おおよそ人間など単純なものですから、
あるパートでそういう意味システムを手に入れることができれば、
普通、どんなものにも応用が効くはずです。

どなたか忘れたんですけど、あ、エリザベス1世かな、
語学学習が生涯の趣味だったらしくて、10何ヶ国語できたそうなんですが、
3つ目か4つ目あたりで「わかった」らしくて、
あとはルーチンでいくらでもいけたそうです。
要するに、語学学習用独自ネットができちゃってるんですね。
だからそれさえ使えば、ネコ語でも火星語でもマスターできる。

「なにかを極める」ことはすなわち、
「独自の意味ネットワークを形成する」という体験であって、
究極的には、教育とは、これができるようにしてあげる、ことではないでしょうか。

どんな分野でも、勉強でもスポーツでも音楽図画工作習字そろばんでも、
お遊戯でも学芸会でも、それこそ人間関係でも、
どこかでこれができれば、どこででも(ある程度は)できる。
そうすれば、
社会へのフィットという点でも、
自分への自信と安心という点でも、
生きていきやすい。

というようなことは、生まれ持ってはできる子ばかりではないので、
できるように導いてあげる必要がある。
特に、こうした「悟り」は、ナチュラルには、ある程度の極限状態、
追い詰められた条件でなければ開かれないことが多いです。
最近は経済的/社会的環境が満たされているので、
なかなか「追い詰める」のが難しくて、それが教育の邪魔をしているようです。
だから追い詰めろ、って言ってるのではなく、
要するにこの独自意味ネットを形成すればなんでもいいのだから、
面白さ・好奇心で誘導する方向が、一番素直ではないでしょうか。

---

ただ、あまりにも違う内容に関しては、やはり調節する必要がある。
「クルマとはなんぞや」と「サッカーとはなんぞや」ではかなり隔たりがあるので、
無理な大統一理論を持ち出すよりも、各々に即した視点・視野角で見いだして、
それをネットした方が適切かもしれません。
またそこから新しい見方も生まれるかもしれませんしね。

また妙な僕的例を出してみますと、
「クルマとは排気量」「サッカーとはボランチ」だと思います。
無理にネットしてみますと、つまり結局、
「運動は肺活量やな」とか(笑)
まあ、半分冗談ですが、
こうやってネットさせたり上下に視点動かしたりすると、
新しい「意味」がまた見えてくるかもしれません。
それがまた、楽しい。

こうして「悟る」までの道のりこそが夢中になれる面白いところで、
いったんある程度悟って、固まってしまうと、
意識的にそれを壊す努力をしないと、興味が薄れてしまいます。
クルマもサッカーも、一時期は狂ったように観てたのですが、
ある程度自分内ネットができちゃうと、上のように「力の入れどころ」「手の抜きどころ」がわかってしまうので、
よく言えば効率よく観ることができ、
悪く言えば夢中になれなくなっちゃう。

たとえば、Rマドリードが今ひとつ波に乗りきれない、
そんなものは僕のネット(「サッカーはボランチ」)に照らせば、
お日様が東から昇るよりあたりまえのことです。
だから、退屈。

(くどいようですが、それは「僕の」ネットが導き出した独自意味であって、
 結果としても、ネットそのものとしても、押しつける気はありません。ただ、
 「僕はこう思いますし、この見方をすれば、ね、やっぱりそうでしょ?」
 という見方と見た結果をお知らせするのが、「ほえなが」です)

ところが、モノを描くことに関しては、僕はいまだになんにも悟っていません。
だからこうして、毎日毎日飽きもせずに夢中でできるのだと思います。
悟れないからクルシイけど、
悟れないからオモシロイ。
一生のテーマというのは、たぶんそういうものの方がしあわせです。

だってさ、自分も納得して超ヒットにもなる作品を毎年2本ずつ20年出し続けるとか、
そんな人生イヤじゃないですか。
……いや、やってみりゃ楽しいのかもしれませんが。

---

もいちど最初に戻ります。
「悟り」とは自分オリジナル・独自ネットワークの完成のことです。
それを作りあげるには、
視点を全体と部分に往復させつつ、かかわりあい方に注意して、
自分が強く感じる独自の部分を大切にしながら、
ソレにできるだけ繰り返し当たり続ける。
そうすれば、いつかできあがる。

……と、悟り方を悟ったわけです(笑)
が、まだ、まとめあげてしまうと微妙な部分がボロボロ落ちている気がします。

達人のシステムは凡人のそれとは違う。
方法論やどこにウェイトを置くかはともあれ、
専用の認識システムを作りあげている、はずです。
本田宗一郎がミクロンを感じる指を持ってたと言いますが、
触点の解像度の限界とか、第六感とか、そういうことは関係なくて、
おそらくはその点を含む小さな全体に「違和感」みたいなものを感じる。
「んっ!?」という。

なにかの道を極めていかんとするならば、
遅かれ早かれ専用認識システムの構築に取り組まねばならず、
これが成長曲線のS字の踊り場ではないか、と思います。
教えられた借り物、既製品の認識システムを、
壊したり直したりつけ加えたりあるいは全く新しくしたりして、
自分専用のものを作り出す。

これさえ得られれば、あとは理論上天井知らずなはずです。
身体使うことの場合、劇的な数値差にはならないのですが、
でもイチローが言うように「3割と3割3分は天と地ほど違う」。
3割バッターにしてみれば「3割3分なんてどうやって打つんだ!?」てことになる。

では、作るのは覚悟決めたとして、
具体的にどうやって作ればいいのか、
というのが、わたくしのここ1年ぐらいのメイン・テーマなわけです。

そしてそれを導き出す方法論は、古来親しまれた気の遠くなる反復練習だけではない。
自分用なのだから、まず自分がどう思うか、感じるかというのを大事にする。
その上で、他の要素とのリンクを、視点を前後左右だけでなくズームイン・アウト、
4次元に動かして見ていく。
そうすると、「勘所」の把握が速くなり、
その小さな認識システムをまたネットさせていくことで、
さらに強力な認識システムが生まれる。

ここ一週間のキモは、ここ、
「自分用やから自分が思ったように作ればええやん」
というところです。
今までは、そういう「達人認識システム」というのが、統一的に存在すると思っていました。
それを目指すべきだと。
そうではない。
達人は仕事の道具を自分で作っている。
(買ってくるにしても自分の方向性がよくわかってるから、正確なチョイスができる)

そしてその自分製の道具を使って、世界を切り出していくから、
できあがりもユニークな、自信に満ち溢れ、当人に非常に納得できるものになる。

社会的適合性は不問ですが、現代では「ユニークである」というのは、
別段表現でなくても、なににもまして価値のあることですし、
社会の側としても「あの人はあの人」と色がハッキリしてると、使いやすい。
それはオマケですが。



世界は塗り絵のようなもの、色を塗るのは私。
おもしろいと、ここちよいと、そしてうつくしいと思える色に、
そして、塗ってもらいたそうにしている色に、塗っていけばいい。
さすればできあがりは、(私にとって)世界一の絵に。
だから世界は美しい。



 11/13 「意味」続々々拾遺

あとすこし。
あとすこし足りませぬ。

だから説明もできない。
自分も見失うことが多い。
だもので、こうしてまたあーでもないこーでもないとこね回してみるのです。

ただ、見えてる時間も割とあるので、結構楽観的なんですが。

---

独自「意味」というものの正体は、
その人がそのものについて捉えた、
”その人なりの”そのものの「本質」ではないかと思います。
「柿」を見て「法隆寺」であったり「石田三成の最期」であったり、
「亀田とでん六のマッチアップ」であったり、
ワンポイントだけに絞れと言われた時に、
その場でズバリと絞りきった「それ」こそが、
大切な独自「意味」です。

ではどうやって本質に迫るかというと、
「そのものから派生するネットワークを俯瞰で見る」見方(テレ端)
「ものの部分・要素を極めてズームして見る」見方(マクロ端)
があって、両方が必要だ……
と、思っていたんです。

どうも、ちがう。

両方と言うよりも、それは、
ズームレンズが一本で28mmから200mmをカヴァーするように、
同じものの見方なんです。

おしなべてモノは、その細部もどこを見てもソノモノですし、
全体としてみればやはりソノモノです。
フラクタル構造みたいな感じ。
ここの構造が成り立ってないと、ソノモノとは呼べない。

今トップ絵はキャプテンですが、彼女は眉も瞳も口元も髪型も専用品なんです。
だからコアなミラクルズファンなら(笑)眉だけ見てもキャプテンとわかる。
しかし。
逆に、眉をちょっと変えても、全体の雰囲気が変わらなければ、
それはキャプテンに違いありません。

部分の持ってる意味と、全体の持ってる意味とは、
おたがいにおたがいを補完しあってる。
そしてこの、全体にもなり部分にもなる「意味」こそが、
とても重要な、より本質に近い「意味」なのではないでしょうか。

ということは、ある「意味」──
それは「コンセプト」でも「精神」でも「方向性」でもなんと言い換えてもいいのですが──
それが細部から存在まで全て一貫していると、非常に強いインパクトが出る。

---

先日、オートバックスへタイヤとオイル交換に行ったのですが、
刺激受けると欲望は膨らむもの。
「よぅし、次の車検までにはぜひ新車を!」
とかあてどもなく妄想して待ち時間潰してました。
結果きわめて消極的に「……RX-8……かなあ」。
で、いろいろ考える。
RX-8って、びっくりするぐらいイイクルマなんですよ。
速くてカッコよくてフル4シーターで世界で唯一のロータリーで、オマケに安い。
なのになぜ、こんなに「ビビッと」来ないのか。

あれは非常に志の高いクルマで、未だに成功例を思い出せない
「スポーツカーにセダンの実用性を持たせたクルマ」
なんです。(逆はいっぱいあります。「速いセダン」は)
で、変にある程度それが成功しちゃってるから、
「どっちやねん!」となる。
詳細語り出すとまた3ページダウンキーが必要になるので省きますが、
スポーツカーとセダンとは求められる要素が全く逆なんです。
それを、ロータリーエンジンのコンパクトネスというアドバンテージを活かしつつ、
知恵を絞ってなんとかまとめあげてきたのがRX-8。
だからエライのは間違いない。

でも、どっちかわからない。

セダン好きにはあんなぺったり・ぬるぬるしたデザインはゴメンでしょうし、
スポーツカー好きにはあんなどってりした巨大キャビンや観音開きドアなど許せない。
インテリアも、椅子が4つあるのにどれもバケットシートみたいな形してて、
居心地いいのかスパルタンなのかまるっきりわからない。

だからクルマ好きはみんなして「エイトはイイクルマだよ!」と言うのですが、
じゃ薦めるかと言われると小首かしげ、買うかと言われるともっとかしげる。
しかもまたマツダというメーカーの可愛いところであり誠実すぎるところでもあるのが、
スポーツカー好きにはロードスターが、
スポーツセダン好きにはアテンザが、
ちゃんとある。

だから本来、欲を言えば。
この「わけのわからなさ」をうまーく消化して、
「俺はRX-8、世界にたった一人」
みたいな独自の価値観をでっち上げ、無理矢理押しつければよかったのです。
ではなくて、従来のスポーツカーの文法とセダンの文法とがまだらに混じってるだけだから、
「うん?!」となる。
カレーうどんにするべきだったんです。
これは、うどんの上にカレーライスがかかってる。
いや、まずくはないんだけど、まずくは、ないんだけど。

惜しい。
実に惜しい。

で、ここで話を戻しますと、
つまり、軸が2軸あって、その2つがせめぎ合ってるから、印象が一定しない。
もちろん、だからやるな、っていうわけではなくて、志自体は非常に買えます。
(だからみんな暖かい眼で褒めちぎるわけで)
ただこういう場合は、
・軸をどちらかにして、もう一つはあくまで味付けに止める。
・まったく新しい軸としてアピールする。
どちらかが必要のようですね、と思ったのです。

で、その軸を持ってして細部から全体までを押し切る。
そうすると非常に強い印象が生まれたんじゃないかなあ、と。

RX-8なら、志は高いのだから、デザインにしろディテールにしろ、
ビビらずにワケのわからないものをガツンと出していれば、
「なんだこれは!?」
とまっさらな眼で見てくれた……かもしれません。
変に共通意味、従来の文法を使ってるから、そっちのフィルタ掛けた眼で見てしまう。
すると、そうでない部分が鼻について、あーだこーだといちゃもんをつけたくなる。

やっぱり、共通意味は表現にとって諸刃の剣で、
使えばいいというものでは、絶対にない。
それで空間を埋めれば埋めるほど、これこのように副作用が大きいのです。

---

モノ作る側からすればそういうことですが、
「表現」が自然の「作り直し」だと考えれば、
「強い表現」をするには、強い軸を持たせて、それで押し切る。
派生してくる諸要素は、その軸を強めるような感じで絡めていく……のかな、と。

そういえばベスト盤とかオムニバス盤ってすぐ飽きますもんね。
印象が拡散するんでしょうね。4番バッターばっかりだから。

また、モノの見方として、
自分の持ってるネットワークを考えて、
ソノモノになにを持たせれば、一番ネットワークが活発に発火するのか、
その視点から考えるのもいいかもしれません。
歴史が嫌いな人が、「柿」を見て無理に三成に結びつける必要はない。
「『姉』という字に似てるな」と思うお姉さま好きならば、そっちから攻めればいい。

そればっかりやってると、常に必勝パターンへ持っていく危険性がありますが、
持っていければ、また、そんなものがあるならそれにこしたことも無いですしね。
それに、ネットは時間と環境で変化するものですし。

……と、いろいろ書いてるとこれ自体の印象が拡散してきましたが(笑)
えーっと要するに今日は、

「部分から全体まで貫く「意味」があるなら、
 見るのも作るのもそれを大事にすべきである」

(それが無いものは惜しいものである)

てなところかな。



 11/12 どうもありがとうございます。

さっそく何件かご注文いただき、
まことにまことにありがとうございます。

いい時代ですね。
振込み確認が自宅でwebをぱかぱかやるだけなので、とても楽です。
お振り込みの方もネットバンキング対応口座なら自宅でぽちぽちぽち、ですもんね。
郵便小為替も現金書留も風情があっていいのですが、
「封書作る」っていう手間がすごい障壁なんですよね。
ええ、私も若い頃は通販で買いましたよ、「オレンジロード」の同人誌とかね!
もういいの歳はばれてるから。

面白いもので、亜麻木硅先生が確か「ハーフリータ」の同人誌紹介欄で紹介された時、
あんなちっさい縮小画像なのに、
「うおっ」
とか声が上がるんですよね。
我が畏友にネッツのエリートセールスマンが居るのですが、
この人なぞ「カーセンサー」のあの小さな写真見て中古車の程度を判断できる。

伝わるんですよ。
なにかが。

……伝わってますでしょうか(泣)

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ああでも小銭いぢりってどうしてこんなに楽しいだろう。

パタリロ・ド・マリネール8世殿下は1万円札1枚より100円玉100枚がお好きですが、
気持ちはよくわかります。

あれたぶんね、幼児経験が尾を引いてる。
口唇刺激とかと一緒。
お金という魔法のアイテム、なんにでも、自分の好きなどんなものにでも変化するスーパーウェポンを手に入れたあの感激、あの喜び、
で、それを引き起こしてくれたのは、たいてい小銭だったわけです。
100円玉や50円玉や10円玉。
今の子なら500円玉も射程に入るのかな。
だから楽しい。

小学校に上がった頃には家の店番してました。
たばこ屋っていうのは適度に暇で、でもたまにお客さん来るので、だからおばあちゃんが店番に最適なんですね。
そして大抵1つ、2つ、そうでなければカートン単位1種類だから、合計計算の手間がほとんど無い。
小学生でもすぐできる店番なんです。

そこで180円もらうと、嬉しくてね。
自分の自由になるお金じゃないんですけど、「ふえたふえた」って素直な喜びです。

商業も、第三次産業と言われますが、この気持ちは、
シカ追って獲れた獲れた、イネ育てて実った実った、桶作ってできたできた、
と、変わらないといえば変わらない。
労働ってのは、どんな労働であれ、すべからくこういう部分がないとダメですね。
今は役割分担があまりにも細分化されてて、
自分のパートでの達成感が無いことが多い。
「潰れることが仕事」なんて仕事も、でかい組織には絶対ありますしね。
そうすると、すごくしんどいわけです。

なんか、今やってる仕事がしんどい方は、
日曜日にフリーマーケットでも出てみてはいかがですか(笑)
できれば似顔絵とかストリートミュージックとか、自分を売るのがいいでしょうが、そうでなくても不要品バザーみたいなのでも、手元に小銭が転がり込むのはとても楽しいものです。
100円でも、10円でも。
ムリしてボランティアにして、「いや!笑顔が!喜んでいただくことが!」
それももちろん尊いのですが、「うひひ、100円」というのも間違いなく嬉しい。

嬉しけりゃいーんじゃないかな、と思う昨今です。
さあレッツ小商い。



 11/11 新装開店!

です!

・同人誌通販始めました。
 よそではめったに手に入らない(笑) ながたかずひさの本が買えます。
 同人誌というのはコストとても高いモノでして、ちょっと高めですいません。
 でもその分内容は! 内容は……いつもどおり(泣)
 充実させていきたいデス。
 再販はあまりありえないと思いますので、おのぞみの方はお早めに!

・文筆業
 の方も、お気軽にお問い合わせください。
 ゲームシナリオから恋文代筆まで、どんな内容でも、どんなサイズでも、できるかぎりがんばらせていただきます。
「俺のためだけに『グイン・サーガ』ばりのを書いてくれ、50年1000巻100億円」とかはちょと難しいかもしれませんが……メールアドレスはこちらです↓
 nagata@mti.biglobe.ne.jp

よろしくおねがいします!

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11月中にできれば
・「Miracles! Early5」(仮称・CD-ROM)
を出したいです。
「ミラクルズ!」初期5作品の詰め合わせCD-ROM。
基本的に内容は同じですが、経年劣化してる部分を加筆・修正します。
だけでは寂しいので、描きおろしCGを何枚か。
あとは懐かしいイラストを緩衝材のようにブチこんでお届けの予定です。

その他いろいろ進行中の新作もあります。
お楽しみに。

通販久しぶり(4年ぶりぐらい)ですのでモタモタしちゃうかもしれませんが、
そこはひとつ生ぬるい目で見守ってやってください。
ご不明な点ございましたらお問い合わせください。

はてさてどうなりますことやら〜。
本人がいちばんわくわくしています。



 11/10 「意味」続々拾遺

 まだもうちょっと続くぞい。
 てか長文なので覚悟しろい。

 ぐっと地べたに降りて、テクニカルな方向から見てみます。
 言い方換えた同じことなので、退屈かも。

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 あるイメージを表現したい。

 完璧、ベストを目指して頑張ろうとすると、たどりつけません。
 我々は神様ではないので、100%などありえない。

 そこで、ぼんやりとしたイメージを、手を動かしながら、いくつかの具体的な「意味」に分解してみます。
 できれば、独自の。
 でも共通の普通のでもいいです。
 とにかくバラけてみる。

 して、その「意味」のピースをバラバラ見つめつつ、くっつけたり、別の似たピースをどこかから持って来たりして、全体として当初目標にしていたイメージに、あるいは途中から「この方がいいかも」と思ったイメージに、近いものになるよう組み上げていく。
 足りないところは共通意味継ぎ足して、理解しにくいところは共通意味で薄皮張って、あるいはそういったものもその場でひとひねり加える。

 ……というのが、「つくる」ってことのようです。

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 人間と同じで、作品には構造があります。
 「意味」という骨があって、それを連結して、ひとつの作品になる。
 ということは、意味が同じで、連結方法が同じなら、そこに被せる皮とか、付属品とか、そのディテールとか、どこから見るとか、どれだけリアリティがあるかとか、そういうのはほとんど重要ではない。

 3Dキャラクターを思い出してください。
 カメラ位置やアクションを変えても、モノは同じですよね。
 まずガッチリ作り込むのは、素体としてのモデル。
 どんな骨を採用するか、できるだけキッチリ把握して、よい結びつきを検討して、組み立てる。
 その後、テクスチャを貼ったりカメラ位置考えたりする。
 モデルがキッチリしてないと、どうにもなりません。
 逆に、モデルさえちゃんと組立ってると、まず間違いはない。

 また一例。
 お日様を描くとします。
 別に描きたくないけどとりあえず太陽とわかってもらいたい、そんな時には赤のぐるぐるに放射線入れとけばいい。
 いや、お日様はいつも僕達を暖かく照らしてくれるほがらかな存在だ、と思えば、ペンギン村にいるような(鳥山明さんが描くような)楽しそうな表情の太陽にすればいい。
 どちらも太陽ですが、絵面はまるで別物です。
 持たされている「意味」が違うと、表現はかくも変わる。

 「意味」を持たせるために構図がディテールが構造が存在するわけで、
 こういう構造だからこういう意味を持つ、わけではない。

 なぜそれを選ぶか、といえば、必然性、というとちょっと狭くて、「こっちのがなんとなくいい」その程度でいいのです。
 ただ、「いい」という方向を向くために選んだ、というのが大切です。
 「こうすればいいはずだ」と選んでは、いけない。

 全然違う文章で全く同じ内容を書けますし、
 ほぼ同じ文章でまるで逆の内容も書ける。

 あたりまえの事実ですが、やってると忘れます。
 初心者のころ、ひとつ伝えるのに四苦八苦してる時の方が、丁寧にそこのところを考えて、
「中身伝わればなんでもいい」と謙虚だから、伝わるのは伝わる。
 太陽を描きたい、上手く描けないから、ぐるぐるを描く、でも、伝わる。
 それがいつの間にか、「いや太陽とは……」と中途半端に描き出して、なんだかわけのわからぬ光球を描いてしまう。伝わらない。
 もちろん、「伝える」ことが第一義ではないので、ここにこだわることはないのですが、自らが「意味」として現したものが、どの程度通用するかは意識してた方がいい。
 自爆覚悟で祈る気持ちも良し、鉄板で安牌を切るのも良し、むしろそこんところを楽しめるようになると、しあわせかな。

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 マンガ(やアニメ)には、一般化共通化した「意味」の便利なテンプレートがいろいろあるので、とても参考になります。
(というか、「意味」を骨組みだけで表現する、その極限がマンガであるとも)

 たとえば、安永航一郎大先生の名作「県立地球防衛軍」、悪の組織の下っぱ構成員は「下っぱ」というお面をつけて出てきます。これほどわかりやすい下っぱはない。
 下っぱなどというのはエキストラなわけですから、存在だけわかればいいわけで、宝物のように大切な独自意味を浪費する必要はない。
(もちろん、どんなところにもそうやってエネルギーを注入し、全く隙無く画面を埋めてしまうのが(本来の意味での)大作であって、それはそれでいいんですけど)

 あとは吉本新喜劇なんかもそうです。
 ヤクザはヤクザ、社長は社長、店員は店員、駐在さんは駐在さん、「意味」だけを丸投げする。
 だから、辻本さんがヤクザやったとして、「辻本」と「ヤクザ」を簡単に往復できるんです。
 落語もそうですが、モードがデジタルなので、見てる方も気にならない。
 これが真面目な芝居だと、役と役者の個性とを上手くミックスしなければならないのが難しい。
(ミックスしやすいようにキャスティングするのが、監督やDの腕の見せ所……ただそれをやりすぎると、「また探偵の助手は船越英一郎か」となるわけですが)
 それがいいとか悪いとかではなくて、そういうやり方がある。

 最近はちょっと社会的にヒステリー気味なので、「意味丸投げ」が怒られる風潮かもしれません。
 メディアと技術が発達して、ギリギリまで練り込めたものを、昔のものであれ、今の巨大シンジケート制作のものであれ、見慣れすぎてて、それを基準で見てしまう、のかもしれません。
 ただ、人間が人間である以上、使える時間と空間は限られており、絶対に限界はあります。
 その限界の中で、パワーをどのように割り振るか考えますと、下っぱの顔をひとりひとり美形に描き込むことなどやってられない、というのが、僕の感想です。
 そもそも、「独自意味」にこそ価値があると考えれば、そこは無価値なんですってば。

 あんまり言うと、イイワケくさくなりますけど。

---

 「巧い」というのは手段のひとつにすぎず、「巧さ」だけで価値を持たせようとするのは、不可能に近い。
 繰り返しになりますが、それは単なるパワー戦になりますので、ヒトモノジカン、要するにカネをどんだけぶっ込めるかだけの話になる。
 それでも圧倒できてるうちはまだいいのですが、一度方法論が確立するとあっという間にコピーされますし、刺激は等比級数的に与えられないと刺激にならないので、瞬く間に麻痺する。
 要は、それは、すぐにクラッシュしてしまう手段である。

 独自の「意味」とは、その本人が捉えたそのモノの本質です。
 だから、できるだけそこをクローズアップする。
 中心に据える。
 ハッとすぐわかる位置にドンと置く。
 それにプラス、受け手が納得できる範囲での共通の意味をこちょこちょと持たせれば、あとはまあ、どっちゃでも。

「それってモチーフとかテーマとかって言うんじゃないの?」
 と訊かれますと、
「そうかもしれません」
 としか(笑)
 ただ、こういう言葉遣いますと、「友情」とか「戦争反対」とか、抽象概念をセンターに持ってきて、それを表現させるために要素を配置し動かすように聞こえてしまいます。
(私の理解が浅いだけかもしれませんが)
 それとは、ちょっと違うと思うんです。

 たとえば、困ってる時に助けてくれた友達が居て、それを「おはなし」にする時に、描くものは「友情」ではなくて、その友人です。その友人を描いた結果、「友情」が描かれる。

「はじめに『意味』ありき」ではなく、
モノやヒトやデキゴトから、「意味」を見いだして描きこんでいく。
「このテーマを描きたかった」、ではなくて、
「これを描いてたらこんなテーマになりました」、ではないかと。
 もちろん、大雑把にどっち向くかぐらいは、最初に決めておいた方が良さそうですが、それもひょっとすると描いてるうちにもっとイイ方向出てきちゃうかもしれない。
「天才バカボン」はバカボンが主人公のはずだったのに。

 テーマオリエンテッドの怖いところは、簡単に人物やイベントが傀儡、人形になることで、これほど見ていられないものはない。
(これは私の好き嫌いかもしれませんが)
 そういうツクリの何かに出てる役者さんより、プリンプリンの方がよほど人間です。
 我々はどこまで行っても結局人間を見たいのであって、人形は要らん。
(いわでものことですが物理的に人間かどうかは関係ないですよ、ドラちゃんも人間だし、マルチも人間だし、ミキーも人間です)

---

 あと、意味というボーンが連結するのであれば、つまり、関連が、関係が、ネットワークがあるのなら、どんなムチャをしてもいい。
 逆に言うと、連結されてない単発の意味、
 独自意味の場合、これに説得力を持たせるのはかなり苦しい。
 共通意味の場合、あってもなくてもどうでもいいもの。

 これはテクニックというより、本能的に「あ、これはやばい」とかわかるものです。
 が、便利だから、とか、こっちと整合性をとるために、とか、言いたいことを手っ取り早く言いたい、とか、ウケるだろ、とか、いろいろでついつい突っ込んじゃいます。
 ここはガマンどころで、おでんにウィンナーを生で入れますと、ダシがものすごいウィンナー味になって泣きます。
「美味しい具であるから」というのは、つっこむ理由にならない。
「おでんに入ってると美味しい」でなければ。

 すみません、私はいつもこの気があります。
 サーヴィス精神のつもりなのですが……ガマンも覚えます。

 しかし、意味さえちゃんと連結できるのなら、逆に言うとなにを突っ込んでもよい。
 おでん種は本当にいろんなバリエーションがあり、おおよそ、入ってれば入ってるほど、楽しい気分になるものです。

 削る時は意味のつながらないものを、
 増やす時は意味のつながるものを。

 それさえ守られていれば、多少展開にでこぼこや変な山谷があっても大丈夫だと思います。
 名作でも、教科書どおり45分に犯人が捕まるものばかりではない。構成や展開は苦しいものもある。
 でも面白ければいいわけで、おそらく、いいボーンの「つなぎ」をしてるから、その場その場で納得でき、全体展開が気にならなくなるのではないでしょうか。
 人間の記憶なんていー加減なもので、ちょっと前のことも覚えてないものです。

 ここだけ気をつければ、修正して完成度を上げる作業に一つの軸ができます。
 修正作業って悩ましいもので、(ミスつぶしはいいとして)どこか盛り上げるとどこかが凹む。キリがない。
「全体のバランスを考えて」なんてのは、わかったようなわからんような。
 それは結局、メイン張ってる大きめの「意味」、舞台で言うと主役とその周辺、これを輝かせるように、盛ったり削ったりすればいいわけです。
 さすれば、詰め込まれてる意味の量と質からして、つまり、そのネットワークの総キャパシティみたいなものからして、限界がある。
 そこまで行きついてなお不満があるのなら、それは正直失敗というか、キャパが足りてないんです。
 すなわち、描きたかったイメージに、盛り込もうとした意味が足りてない。
 この場合、相当大改造しないとダメ、おそらくやり直した方が早いと思います。
 物理的なLANのトポロジーを考える時でも、改修に改修を重ねるより、一度ゼロに戻して配線引き直す方が早くていい結果になりますよね。あんな感じ。

---

 こんな言い方をするとめっちゃディフェンシブなんですが、
 これさえ守れば、「間違いがない」と思います。

 僕も、なにかを描く時には、それはできるだけおもしろいと思ってもらいたいです。
 しかし、なにをどう描いても、僕は受け手の誰でもありませんので、おもしろいかどうかはわからない。
(もちろん、「せめても」ではないですが、自分のおもしろいと思うものしか描いてません)

 でも、やっぱり、なにかしら「好き嫌い」を超えた「良い悪い」が存在します。
「悪いモノではない」できれば「好きじゃないけど、良いモノは良いモノだ」と、誰しもに認めてもらうことは、ひとつ頑張ればできそうな気がするんです。

 そのキーが、この「意味」という考え方で、
 僕の持った独自の「意味」を、バンバンバンと置いて、
 それを誰にでもわかる共通の「意味」でジップロックする、
 無駄は省きでもサーヴィス精神はたっぷりで。
 そういうモノであれば、好き嫌いはともかく、
「ああ、これはちゃんとできてる」
と誰にも思ってもらえるのではないかと。

「ちゃんとできてる」ことばかり意識してつくるのは、非常に辛いです。
 ある程度腕あがると、「ちゃんと」なんて鼻水とヨダレ垂らしながらできる手業にすぎません。
 好きなものがルーチンになってしまう苦しさは言語を絶するもので、つまりは死のうかと思います。
 世の中で一番好きなことが、一番辛いことになってしまうわけですから。

 そうじゃなくて、よりよく、より楽しく、つくりながら、
 しかし結果としては、間違いのないものになっている、
 そんな都合のいい方法は無いもんかいな、と思ってたのです。

 それがこれかな?

 ひとかけらのイメージに、自分なりの意味を見つけ、
 そのイメージからネットワークされる別のイメージに、また意味を見つけ、
 意味どうしをどんどんネットさせていく。
 できればオリジナル、ダメならまあアリ物借り物の中で、いいのを。
 そうやって濃縮していくと、とりあえず中身の詰まった「世界」がそこにできあがって、キザな言い方しますと「いのち」が芽生えるのではないでしょうか。

 結局、神様も人間ひとりひとりをつくるなんて面倒なことはせず、ぎゅーっと圧縮したエネルギーと物質が、ある法則に従ってぐちゃぐちゃと動いてるうちになんとなく人間になってしまったわけです。
 確固たる道筋があったわけじゃないし(たぶん)、
「人間を作ろう」と思って作ったわけでもない(たぶん)。
 それが、「つくる」ってことじゃないかな、と。

 反応を起こしたい意味を、ぽぽぽいのぽいと入れ、がっしゃがっしゃ振り回して、ぷしゅーっとなったものを注いでみる。
 で、本人も思いもしなかったわけのわかんないものができてくる。
 これが醍醐味。
 でも、その意味の選び方と、振り回し方にはやっぱり気をつけないとダメ、かな。

---

「どうしてこれはよくできてるのに一向にピンと来ないんだろう」
「これはヘタクソなのになんか引っかかるなあ」
というのは、おそらくここです。

 あまりにも無茶苦茶なのを承知でムリカラ図式化すれば、
 独自意味1つで、50点+★1つ。
 共通意味1つで、5点。
 めざせ100点。
 しかし、★が最低1つは無ければ、まず参加資格が無いのです。

 ★が無ければ、5点を掻き集めに掻き集めて80点でも、まったく心に残らない。
 つまり、0点。
 逆に★さえあれば、引っかかる。
 最低でも50点保証されてて、それが好きな人には一気に100点にもなりうるわけです。
 どんなエッジなアーティストにもコアなファンがつくのはここで、その人にとってはその作り手の★が100点なわけですね。
 共通意味など要らん。
 そんなもん世に腐るほど転がってるわけです。

 ここんところがたぶん、「いわゆる」素人芸とプロの差で、自分なりの★をキープしていれば、さっき申しましたように「間違いがない」。
 数は少ないかもしれないけど惚れ込んでくれる人もいれば、腕上げて共通意味載せていけるようになれば点数はぐんぐん上がる。
 逆に、最初は楽しくて始めた物事でも、手業に目が眩んでいくうちに自分の★を忘れてしまうと、もうダメ。
 よしんば手業で80掻き集めようと100掻き集めようと、それは、怖いことに、0なんですねえ。
(そもそもそれは不可能事に近いのですが……だって50持ってる人でもなかなか100にはできない)

 世には「空間を埋めるために得点だけ80必要」とか、そういうモノがあります。
 私が「コンビニの祝儀袋」と呼ぶモノで、これは逆に★など無い方がいい。
 プロの中には、「★の無い80」を延々と作り続けるプロも居て、でもそれは、その信頼性と生産能力自体がその人の★になってて……てのは詭弁くさいですかね。
 でも実はそういう分野は、制限(コストとか消費できる時間とか「常識」とか)や、盛り込まねばならない要素がとてもたくさんあって、それを粛々とこなせるだけで圧倒的に技芸だと思います。ほんとに。

 世にはどー見ても★がなさそーなものや、あるこたあるけど別にそないぎゃーぎゃーいうほどじゃ……というものが大ウケしたりしてます。
 それは、ウケてる尻馬に乗る、いわゆる「祭り」が面白いのは間違いないので、一概に否定はできません。
 ただし、経時耐久力は驚くほど無い。
 同じコミカルソングでも、「恋のぼんちシート」とか今もう聞くに耐えない。
 が、「完全無欠のロックンローラー」ならイケる。
 前者にはまったく中身が無く、後者にはキッチュでゾーン極狭だけど、ちゃんとある。
 その違いだと思います。
 で、作ってる方としてはどっち作らなきゃならんかといいますとやっぱり、後者ですよね。
 いや、なきゃならんというより、前者は、さみしい。

 もちろんそれは理想論で、キャベツが高くて手に入らないこともあるのです。
 トンカツの下にパスタが敷いてある。
 でもその時にも、トンカツは「ああいつもの」と思ってもらえるようにしておかないと。

---

 さてと、今日はこんなもんで。

 自分が後から読んで「ああそうそう、そうでした」と思えるものを書こうとしているのですが、なかなかうまく行きません。
 まとめ切れないのはそういう内容だからか、あるいは理解が半端だからか。
 しつこいですが、少しでも、「感じ」だけでも伝わればいいな、と思って書いてます。
 それと、書いてるうちにイメージが沸けばいいな、と。

 また続くと思います。



 11/9 飽きないナムル

 駒川商店街も古くは「大阪三大商店街」と讃えられただけあって、捨てた物ではない。

 美味しいキムチ屋さんがあるんです。
 最近の我が家、キムチ始め韓国物産といえば、そこ。
 僕は特にナムル大好きで、中でも豆モヤシ。
 なんかやたらめったら好きで、いつも独占するように食べてます。

 ハタと気づいたんですが、飽きない。

 なぜ飽きないかと考えるに、たぶん、化学調味料を使ってない。

 化学調味料、旨み調味料、簡単に言えば「味の素」というのはとびきり便利です。
 ちょろっとでも料理された方ならご存じの通り、あれをサラサラするだけで一発で味が調う。
 まさに「調味料」です。

 しかしつまり、「味の素味」になる。
 なにに使っても、誰が使っても。
 だから、同じ味がする。
 だから、飽きる。

 懐かしの「料理の鉄人」で陳さんが出てくるたびに疑問だったのが、あの方ガツンガツン旨み調味料使うんです。
 使うこと自体を頭から否定するわけではないのですが、アレを使うと味が似てしまう、のは僕程度の鍋とカレーとサラダしかできない人間でもわかります。
 で、思い出すに中華料理って、最高級クラスは知らないんですけど、割と味が一本調子なお店が多いですよね。
 餃子食べても、八宝菜食べても、酢豚食べても、春巻き食べても、同じ味。
 あれたぶん、旨み調味料の使いすぎなんじゃないかなあ、と思うんです。
 中華は濃い味付け、強い調理法が多いので、ついそれに負けないように多めに入れちゃうのでは。
 もちろん、素人の勘ぐりに過ぎませんが。

 中華でほんとに美味しいなあ、と思った店は実は2店ばかりしか無くて、その2店には隙あらば「行きたいな」と思うんです。
 やっぱり、飽きが来てないんですね。
 そのキムチのお店もそうで、一週間してまたキムチ買ってきても、ぱくぱくいける。
 そりゃそうですよ、韓国のお漬け物なんだから、向こうの人は毎日毎食食べてる。
 本来そういうポテンシャル持ってるもののはずです。

 で、また、自分のやってることに振り返りますと、「味の素」に匹敵するようなことは、いくつか思い浮かべることができます。
 自慢じゃないですが使ってないつもりです。
 だから味は調ってないのですがほっとけー。
 でも、「さしすせそ」で「あっ入れすぎ」「あ、甘過ぎ」「いかん、味がごちゃごちゃに」と泣きそうになっても、やっぱり、使わないでおこうと思うのです。
 その場で味が調っても、二度とお客さん来てくれないような気がするのです。
 その味は、そこらにあるから。
 そうなるとあとは、値段とか立地とか内装とかウェイトレスさんの制服とか、そんな話になる。
 料理人、それはちょっと、寂しいのです。

 「おふくろの味」がなぜ美味く感じるかというと、愛情とかそういう副次要素は別にして、物理的には旨み調味料あんまり使わないからではないかな。
 料理上手いお母さん、つまり食べることが好きなお母さんは、なるべく使わないですからね。

 本質は、あんがい実に単純なところに潜んでいるような気がします。
 こわいこわい。

 豆モヤシいただきながら。



 11/8 パチモンズ

舌を疑うほど味も香りも無い超安物の特売紅茶と、
柚子茶が流行ってるからとハチミツ屋が考え出したらしい
「ゆずのハチミツ漬け」ならぬ「ゆずかけら入りハチミツ」。

この単独ではどうしようもないお二人がタッグを組むと、
これが結構いけるんです。
もちろん「めっちゃ美味い」ってほどじゃないですが、そこそこ。

マイナスとマイナスが組んでも、普通はマイナスがブーストされるだけですが、
たまには、こうして補い合ってプラスを生む。
逆もしかり、プラスプラスでもぶつかり合ってマイナスにもなる。
仏教でいうところの縁起、実になんでも相対的なもの・関わり合うもの。
ここをしっかり見て、うまいセットになるように組んだり、はがしたり、足したり引いたり、というのが、それ自体のパフォーマンスよりもずっと大切なことかも。

まったくどうしようもない者同士が手を組んだだけで、なんとなくうまくいく。
例えハズレても、最初からマイナスだったものですから、そりゃしょーがない。
当たればめっけもの。
アイデアと視野を広げて頭柔らかく、「よいコンビ(チーム)」を見つけていければ、
とてもおもしろそうです。
簡単で、エコで、楽で、斬新で、楽しい。
無価値(もしくは逆の価値)から有価値を生む。いや、見いだす。
これを知恵というようです。

落合竜やユーロのギリシャ代表をそうだといえば怒られそうですが、
視点変えて強みをより強く、弱みを消すような組み合わせ・戦い方を着々とやれば、
どんなセットにも勝利の可能性がある。

自分の中でも、いろんな考え方ややり方があるはず。
その組み合わせとか。あるいは人は言うに及ばず、自分とモノとの関わり、場所との関わり、あるいは時間との関わり。
組み合わせを変えるだけで、びっくりするような効果があるのかもしれません。

「それがなかなか見つからないから苦労するんだよ!」
ですがまあ、そこは、それ自体を楽しむ感じで。
パズルみたいなものだと思えば。

最近、脳天気すぎますでしょうか。



 11/7 「意味」続拾遺

もうちょと。

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「意味」の再発見こそが生きるエネルギーを生む。
驚きと喜びがありますから。

子供の頃はなにを見ても目新しく、毎日が新鮮な驚きと感動に満ち溢れていたはずの世界も、成長するに従って「同じこと」が繰り返される毎日、と感じるようになります。
特に現代社会では、様々なメディアを通じて他人の拡大再生産した「共通意味」が怒濤のごとく押し寄せ、それを受け入れずにはおられません。
好むと好まざると、意識するしないに関わらず。

もともと、人間が生物として持っている、
「刺激に対して順応し、刺激を刺激と感じなくなるエンジン」がバカにがんばって働き、
与えられる刺激ではもう満足できなくなってきている。
それが現代生活ではないでしょうか。

趣味ですらそうです。
「うまくやる」ためのノウハウがあらゆるところに転がっており、
海外独り旅も、アウトドアも、情報がモノがサーヴィスが手ぐすね引いて待ってます。
両方とも本来辛い思いだけして泣いて帰ってくるはずのものなのに、いくらでも楽しめる。
ゲームのようにシナリオだてて、起承転結つけて楽しませてくれる。

でもそれでは、おもしろいはずなんか、ない。
面白いとわかってるものなど、面白いはずないじゃないですか。

こうして世界が意味を失い、灰色ののっぺりとしたものに見えてくる。
なにをやっても結局は同じじゃないか、
あれをやっても結局は無駄じゃないか、
なにより、どうせ最後は死ぬ。
むなしい。

それは本当はウソで、
RPGだって解けば終わりなのわかってて、みんなプレイするわけです。
生きることは過程が楽しいのであって、結果を求めているわけじゃない。
しかし、その過程が楽しくないように思えてきているのが、問題です。

---

80年代後半までは、日本にもまだ成長の余地があって、
立身出世が、お金持ちになることが、家建ててモノ買うことが、
その過程と結果がやっぱり楽しかったんです。
が、いったんある程度裕福になってみたり、
すごく経済的に恵まれた人々をメディア通じて見てみたり、
さらには震災や戦争やオウムを経験してみたりすると、
「結局お金握って、だからどうなのよ」
と、夢/余地/可能性、それも人類が何千年も「あれさえあれば」と思っていた最後の聖地みたいな経済的欲求、これを失ってしまった。

しかし、これが無いとあまりに灰色なので、どこかに欲しい。なにかが欲しい。

ひとつ大きいのはコミュニケーションでしょうか。
しかし、デバイスがいかに進化しようとも、
人間個々の自己のフィールドはかなり不可侵のもので、
結局最後は信じるか信じないか、です。
何千年前でも本当に腹割って話し合える友達は友達ですし、
今でも表面だけの知り合いはそれだけのものです。
それに、相手が人間になればなるほど、そこへ焦点を当てれば当てるほど、
生老病苦の哀しみが増えていくばかりです。
どんなに仲のいい家族でもいつか一人ずつ死んで行きます。
世界中の友達といつでも連絡が取れれば取れるほど、
会って話せる機会の少なさが寂しいものです。
いろんな病気が治る現代だからこそ、治らない病気は耐え難い。
すがりつけばつくほど、ボロボロと崩れ去る砂のロープのようです。

では、と言われるのが「自己実現」というわかったようなわからんような単語です。
「生きがい」とも言う。
そんなもんそこらに転がってるはずないのです。
私みたいに向き不向きと好き嫌いが違う人間はどうすればいいのですか。
また、あったからってそこへ邁進できる状況かどうかは、人それぞれ。
妻も子も社会的地位もあるエリートサラリーマン(45)がある日突然
「俺はアメリカでロケンローラーになるんや!」
言い出したらみんなで止めるでしょ?
それは止めるのが正しい。
夢のキーワードみたいに取り扱われてますが、そんな万能薬ではないのです。

もちろん、金でも家族でもロケンローでもそれでいい人はそれでいいのですが、
じゃそういうのが無い人はどうすりゃいいのですか、と。
そうこう悩んでるうちにも、情報の洪水が、世界からどんどん意味を奪っていく。

そう、意味を奪われるなら、
共通の意味を押しつけられるなら、
自分独自の意味を、見つけ出せばいいのです。
あるいは、創り出せば。

柿を見て手にとって、無心に思いを馳せてみれば、
「法隆寺や!」
そこで世界に色が付く。

私は、「表現」を用いてこの「発見」を行うわけですが、
その手段は人それぞれです。
人間の活動全てに、意味の発見と色つけができる可能性がある。
いや逆に、その人にとって意味の再発見が行える活動、
それをこそ「生きがい」という。
人によってはボランティアであったり、ビジネスであったり、
中にはルパンのように泥棒が楽しくてしょうがない人もいるでしょうし。
これをまた別角度から見れば、
どんな活動にも「意味」を再発見できるポテンシャルがある、ということで、
なんでもやってみれば、
自分が思いもかけなかったようなところで、
いろんな意味を見いだすかもしれない。
だから食わず嫌いや意固地を捨てて、なんでもかんでもやってみれば、
なにかひっかかる、
世界に色のつく、
そんな活動が、見つかるかもしれません。

---

中でもやはり私のお薦めは「表現」で、
なんとなればまさに、表現は、芸術とは、
「(自分も含めた)自然を自分なりに再構築する」
ことに他ならず、
それは自動的に、自分なりの独自意味を見いだす訓練になります。
またその繰り返しこそが、
「この世界に私は私ひとり」
という当たり前の事実を気づかせてくれて、
「で、あるがゆえに尊い」
という、理屈では証明不能ながら感じればそうとしか言いようのない、
自信や安らぎに結びつくような気がします。
もちろんそこから、
「ならば、他人もみんな尊い」
というところにも、すぐ気づかされる。

ひとりでできますし、空いた時間でできますし、
凝らなければ道具とかほとんど要りませんし、
お金かかりませんし、
それはまあ、文章でも絵でもアートでも音楽でもパフォーマンスでも、なんでも。
やれば楽しいものですよ。
最初はあまりに思うとおり手が動かなくて焦れますけど、すぐ慣れます。
カラオケみたいなもんで、技量によらず楽しいものです。

そして、「表現」の素晴らしさは一に掛かって、
この「意味の再発見力」にあると思いましたがゆえに、
それを邪魔しようとする動き、
技巧偏重やビジネスに乗っ取られた力尽く作戦、
その本質に迫らないスタイルだけのフェイク、
そういうモノにはあいもかわらず「がー」言うていきたいな、と思うのです。
あってもいいとは思うのですが、それに埋められては、困る。

つい先日まで、情報の洪水に怯えていたのですが、
こう考えてこういう姿勢でこう見れば、
むしろどんどん来ていただいてウェルカム。
あろうがなかろうが、自分にとっての意味を見いだせるかどうかは、自分とその時次第。
いい意味見れれば、どこから来たどんな情報でも良し、
それがないなら、スルーすればいいだけで。

教育というのも、結局はこの「再発見力」が強いひとを育てるのがキモで、
それが「魚の獲り方がわかってる人」ではないでしょうか。
「理解力」というと、隠された正解を現す力みたいなイメージになってしまいます。
正解なんか無い。
というよりも、その人独自の意味こそが、正解。

---

一度捕らえたと思った「意味」も、
時と共に場所と共に、あるいは関連するモノと共に、変化していきます。
また、その意味と他のモノの意味との結びつき具合、
これはまさに無限で、しかも時々刻々変化する。
世界は、退屈してる暇なんかないのです。

「意味」は商売におけるお金のようなもので、
慎重に丁寧に使えば増えていきます。
「意味」が「意味」を呼ぶ。
増やし方やそのペースは人それぞれだと思いますが、
本来は、学問も芸術も商売もそうですが、
つまり人生とは、
やればやるほど奥が深く、やることが増えておもしろくなっていくものです。
ただ、ここに共通意味で塗り込めようとする社会的圧力がかかり、
せっかく「柿」は「法隆寺」だと思っているのに、「カキ色の果物で」「アマとシブがあって」「盗ると頑固オヤジが飛び出して」と塗り潰しにくる。
一つ塗りつぶされると、一つ世界は意味を、色を失うわけです。

しかしその社会的圧力はもちろん、避けられるものではなく、
社会を上手く回すためには必要不可欠のもので、
我々もその恩恵をたっぷり受けてます。
憎むべきものでもない。
いわば新しい価値を生み出すための原価・コストのようなもので、
これを払って、自分の独自意味を導き出して、差し引きで彩りを加えていく、
のだと思います。

ただ、お金は黙って口を開けてれば転がり込んでくるものではありません。
たとえ封筒貼りの内職といえど手を動かさないと。
そして、無駄遣いすれば100億ぐらいあっという間に失うことができます。
先物でもやりゃ一瞬です。
意味も同じで、稼ぎ出そうとする意志と行動、
丁寧に使い・貯め・運用する注意深さ、
これは必要だと思います。
でもそれは、そんな大層なことではなくて、
柿を見る1分から、考える1分から、書き留める1行から、はじまって、
結局どこまで行っても、その繰り返しにすぎません。
ゆくゆく、見えるネットが増え、見つかる意味が質量とも変化して行くにせよ、
やることは、同じです。

とてもとても簡単なことであり、
しかしどんな抜け道も無いがゆえに、これしかやりようがないがゆえに、
とてもとても難しい。
そんなところだと思います。

じっくり、ひとつひとつ。



 11/6 「意味」拾遺

まだバラバラしたままですが、
先日(11/3)「意味」の落ち穂拾いを。

---

「いいマンガ家さんが(絵面が)白い」というのはとても象徴的で、
ホントに凄い人というのは、
自分なりの独自意味を作り出し、
それに加える共通意味を必要最小限で揃えられる人です。
そうすると、1:4でも20%にもなる。
それが個性になる。

そこまでではない場合、独自意味をひねり出すのに時間が掛かり、
それだけの説得力を共通意味で補おうとする。
そうすれればするほど、1:4が1:10へ、1:20になる。
上がる密度に反比例して、インパクトがどんどん減っていく。
ただ、共通意味は誰にでも見てわかりますから、
「よく作り込んでいる」という評価は下ります。
だがこれにはなんの意味もない。
これが「すごい」という感嘆符の正体で、すなわち最近の多くのハリウッド映画です。
映画観た人に
「どやった?」「すごい」

誰もそんなことは訊いてない。
「おもろい」か「おもんない」かを訊いている。

前述通り、共通意味を描きこむのは力業で、センスも要らない知恵も要らない、
ただパワー戦です。
もちろん、それが必要な場面もたまーにはあるのですが、
多くの場合はどうでもいいことです。
お金使った方は、使った自分にイイワケをしたいから、
「すごい」という言葉で元取った気になるんですが、
一週間後には忘れている。
意味がないとは言いませんが、ちょい寂しいですよね。

巨大シンジケートでマス相手に勝負かけるのは失敗できませんから、
ミスさえなければ間違いのない「すごい」方向へ行きたがるわけです。
もうそれはしょうがないし、僕だって300億の映画のプロデューサーまかされたらそっちで作る。
下手さえ打たなきゃ回収はできますからね。
330億回収すりゃ大儲けです。
それは別に表現モノでなくても、一般の製品でもサーヴィスでもそうです。

でもやっぱり、原点に戻れば、人間が見たいモノ楽しめるモノといいますのは、
「こんなのんどう!?」という珍奇な提案であったり、
「なんかわからんけどめいっぱい作ってみたー!」というパッションであったり、
そういう「ワケのわからんもの」、すなわち独自意味です。
もうね、共通意味なんか日常腐るほど経験してるんだから。

少しズレました。

つまり、首尾良く独自意味を現わせたのなら、
共通意味は少なくてもいい、いやむしろ少ない方がいい、
というより、どっちでもいい、のです。

どこをどう料理するかの着眼点、そのイメージ通りに定着させるその人なりの手業。
これが全てです。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
ものすごい名句ですが、
これは子規の感じた「秋」をぎゅわっと凝縮してるからすばらしいのです。
あの方食いしん坊ですから、秋と言えば柿をまずイメージしたのかもしれません。
それを喰うとしたらどこがいいか。
本人は東京の草屋で病に倒れてます。想像力の翼拡げて、
「お寺の境内とか……奈良の法隆寺なら。京都の寺より木訥で、歴史も古くて」
いつ喰うか。
「秋なんだから夕暮れだろう!」
かくして子規の独自意味が凝縮結晶してこの句になる。
この句詠めば誰もが夕暮れをイメージするんですが、どこにも夕暮れとは書いてない。
ここがポイントで、
「夕暮れの法隆寺にて柿を食う」
ではいまひとつなわけです。
鐘が鳴る、それが子規なりの、その人なりのイメージです。
子規のイメージに引きずられて我々も夕暮れをイメージしてしまう。
その自らの心の動き──感動──に驚いて、
「すばらしい」と声が上げるわけです。

いや、こんな風に作ったかどうかは知りませんが。

子規は「写生だよ写生!」と言うわけですが、
確かにここで大切なのは「柿」であり、「鐘が鳴る」であり「法隆寺」です。
どんな柿かとか、どんな鐘がどう鳴るとか、そういうのは枝葉末節。
ましてその時自分がどう想ったとか、
んなことはどおっでもいいことなんです。
真っ先に切るべき情報。
さらに言葉同士の修辞とかこの句はどこから引いてきたかとか、
そんなことはゴミみたいなことで、
そりゃ古い歌調べてこういうモノがゴロゴロしてりゃ病も悪化しますわ。

自分の目で見て、耳で聴いて、手で触れたもの、
そこから自分なりの「意味」をガッと掴み出す。

僕が「独自意味」と言ってるものが、要するに「写生」で得られるわけです。
……たぶん。

秋とは何か、柿とは何か、法隆寺とは何か、夕暮れとは何か、鐘とは何か……
そしてそれを組み上げる。再構築する。

かくしてその人のイメージを違う人に伝えられるもの、
すなわち感動を次の人に伝えられるもの、
それは間違いなくヨイモノ、
ができあがるわけです。

---

さてと。
ということで、気分としてはこれでいいのですが、
具体的にどうするか、
これが問題でねえ(笑)

とりあえず、
こびりついてる要らないものフラッシュして、
ゼロから見つめ直すのが出発点だと思います。

塩野七生姉さんがカエサルを称して
「天才とは価値の再発見者だ」
と言ってた(と思う)のですが、
そう、「意味」というのはどこにでも転がっているものです。
割と全てのものは、その他全てのものと関連があって、
だって「柿」と「法隆寺」だってこんなに近しいんですもの。

この、見えない糸──ネットワーク──を見つけられると、
強い。
人に見えない糸が見えれば見えるほど、
人が知らないイメージを現せる。
すなわち感動を呼ぶ。

そしてこれを、見えない糸を見るのは、実は特別な資質も技術も必要なく、
誰にでもできることです。
……たぶん。
気づくか気づかないかだけの話で。
ここの勘所を生まれ持って持ってる人を「センスがいい」と言い、
確かに居るのですが、それは経験とか意識とかモチベーションとかで
充分カヴァーできる範囲だと思います。
まれに突然変異種が居ますが、それはまあ、人類史に何人という世界なので、
神棚に祀っておけばいい。

たとえば義経なんかも天才ですが、
鵯越を見て「これ行けるやん」と言ったのは何も神の啓示ではなく、
若い頃東北地方で馬乗りまくってその限界性能を十分知っているから
「あたりまえのこと」として言っただけ。
天才もバラしてみれば、わりかし経験や思考から推論して仮説たてて実行してる、
ごくごく科学的なことが多いです。
司馬叔父に言わせると信長も奇跡の勝利は桶狭間一勝だけで、
あとは十二分の戦力で押し潰す、誰にでもできる作戦しか取ってない。
(もちろんそれを見切ることや、常にその兵力を用意する戦略・政策力を含めて天才と呼ぶのですが、ここでは限定して)

また、先日も書きましたが、子供の頃なら見えてたことも多い。
我々は、理由はともかく、見えてたものが見えなくなっていることも多いのです。
だからそれを、もう一度見つける。

ひとつ種になるイメージがあったら、
そこから張られているネットワークを見つけて紡いでまとめていく。

「創作とは再発見である」
と言ってしまうと随分グレードが落ちちゃうような気がするのですが、
その再発見は、大げさに言えば、
人類史においてその人がその場でしかできえないものであり、
そういう意味で他に代え難くまた尊い。

---

ではもう一段。
その「再発見力」をどうやって向上させるかといえば、
好奇心と物事へコミットしていく意志、(似たようなものですが)
つまり「かかわり合っていく」
もーっと簡単に言うと、
「やる」
ってことかなあ、と思うんです。
慌てず、焦らず、丁寧に、よく見てよく感じてよく考えて、
常に周囲に気を配りながら、変化を感じながら、
しかしなにものにも囚われず。

何万キロ走ってもサッカーは上手くならないと思うんです。
サッカーの試合しないと。

もちろんこんなことはクソミソに当たり前のことであって、
書いてて恥ずかしいのですが、
ま、実践する時に、常に「自分なりの意味を見つけ出す」ことを意識し、
それをなんとかして現世に見える形で定着させていくことを意識すれば、
だーいぶ違うんじゃないかな、と思うのです。

誰しも死ぬまで発展途上ですから、足りない部分あります。
それを全て補おうとするのは、無茶です。
ボンズの長打力、イチローの脚と守備、ヒデキのクレバーさ、ラミレスのチャンス強さ、ペドロの闘志……
ムリ。
そうではなくて、自分が今足りない部分をその場で手当てする、
いやむしろ、その場でやり方を導き出して当てはめていく。
そのこと自体が力になる。
池谷さん(「海馬」の脳研究者)が試験問題に当たるたびに、公式それ自体から導きだしていた、それが理想の姿です。

---

今日もぐちゃぐちゃですが。

※自由なこころで大胆に「意味」つかんで、
※その「意味」をより正しく表現できるように丁寧に作り、
※あとのところはまあ、適当に切り飛ばして、まとめる。

するとイイモノできそうですね、と。

その各段階を具体的にどうやるのかは、
皆さんご自身で工夫していただくとして(笑)
というよりも、「見えない糸の見方」なんて人それぞれに決まってますからねえ。

ただ、ここに気づいて、
僕個人的にはずいぶんスッキリしました。

描くべきは、リアルでもなく、ウソでもなく、
天性、神から与えられた直感力に依存するイメージでもなく、
どこにでもある柿の、誰でも知ってる法隆寺との関係、なんです。
イメージは、湧き出るものではなく、そこに落ちているもの。

そりゃウンウン唸ってたって出ないはずですよ、
寺山修司の名セリフ「書を捨てよ街へ出よう」
ぜったい街の方がイメージ落ちてる。それはどうしようもない真実です。
街じゃなくてTVでもいいしネコと遊ぶのもいいんですけど、
つまりは、どこにでもある。

表現物の「良し悪し」というのは、
そうすると、突き詰めれば、
そういうイメージ同士の「ネットワークの密度」かもしれませんね。
各々が緻密に絡み合えば合うほど、見るものの発火点が多く強くなる。
もちろん、そういうものを作り上げるには、
現実のモノ同士のネットワークを見つめる目と力が必要ですけども。
モノだけあっても、ネットされてないスタンドアロンだと書き割り以上の意味が無い。
それはノイズと言ってもいい。

※独自意味を最小限の共通意味でくるむ。

まとめきればこのひとことかなあ。
これが文字通り骨(コツ)って気がします。
シンプル、っていうのはそういうことで、ただ単純なだけじゃない。
無理に削ったり省略することでもない。
「秋と言えばステキシチュで柿を食いちぎるこったろ!」
この、「言い切り」ですね。

腕前というのがもしあるとするなら、この、
得たイメージに対して必要最小限の共通意味を素早く抜き出しパッと着せる力、
これは修練で身につけるものくさいです。
腕があがればあがるほど創作速度が速くなるのは、
ここが早い・速いのと、
結果的に無駄なものを描かないから、楽で楽しく疲労少ない。
からではないかと。

---

ここ、すごいポイントくさいんです。線路のポイント。

ここで違う方、共通意味をゴリゴリ練り込む方行くと、ますます茨の道が。
進めば進むほど茨の道が。

でね、私はこの一年近く
「そっち行っちゃダメだ、それはムリだ」
と思っていたのですが、じゃあ「そっち」じゃない「あっち」はどっちにあるのか、
それが全然わかんなかったんです。
でまあ、あーでもないこーでもない、
またチラッとわかった気になったら、正解ではあるけど部分解だった、
そんなことを繰り返してきたのです。
それはずっとお読みいただいた方にはおわかりのとおり。

それが、11/3のと今日のとでだいたいまとまった。
……ような気が。

他人に言ってもまるっきり通じないかもしれません、
というか通じないと思います。
これ、たぶん、自分ひとりひとりが自分の公式を導き出すしかない。
だから僕とはまるっきり逆の公式、たとえば
「共通意味を極限まで書き込むことで、虚構に生命を持たせる」
のが創作だ、という方もおられるかもしれません。
好き嫌いや向き不向きによって全然違う。

ほら、「サッカーとは」と言ったって、選手ひとりひとり全然違う。
FWなら「ゴールが全てだ」と言うでしょうし、ファンタジスタなら必殺のパスを、GKなら一対一を防ぎきるスリルかもしれない。
どれも正解で。

ただ、ながたはかように七転八倒して、
なんとか見えてきたような気がしますよ、と。
だから転げ回っていれば、いつか見えることもあるような気がしますよ、と。
がんばりましょう、と。

いわでもの注釈をしますと、
とりあえず表現について言ってますが、
このシリーズは仕事とか人間関係とか全部に当てはまるような気がします。

さて、気づいたからには具体化せねばなりませんな(笑)
しかしそう簡単には参らないのが参るところで(泣)
がんばってみます。


──世界は意味に満ちている。
   見いだすのは、あなた。



 11/5 そのやり方はずるい……がうまい。

「和久、スイッチ買うてきたで、スイッチ」

スイッチにはうるさいわたくしではありますが、
なんらかのスイッチを買ってきてくれと頼んだ覚えは。
「ホラ見てホラ」

……スウォッチでした。

「ホラこっちも!」
女学生やないんやから欲しいから言うて2ついっぺんに買いな。
自制心を持ちなさい自制心を。

しかしスウォッチというのはズルイですな。
Swatchって書いてあるだけで、女学生から還暦前まで、
米大統領から浪花主婦までオールオッケーですもんねえ。
もちろん、その地位を手に入れるためにものすごい努力が
(主にデザイン面で)払われているわけですが。

モノ好きとしては、モノそのもの以外の付加価値で勝負決められている
(そして無茶苦茶に勝ち切ってる)
ので、あまり楽しい存在ではないのです。
ですがなんかモノ書いたりしてる、つまり空気を売ろうとしてる人間になってみれば、
あれほど見習うべき姿も無い。

まあ、使い捨てはエコくないとか、ツッコミどころはあると思いますが、
時計というモノがヒトの顔を持ったと思えば微笑ましい。
本来、モノでもサーヴィスでもなんでも、
ヒトとヒトとを結びつけるものであって、ヒトの顔がくっきり見えるはずだったのに、
産業革命からこっち、マス対マスのシステムバトルみたいになって、
そこがボンヤリしちゃったじゃないですか。

コーヒー屋さんで立って待たされて「こんにちわ〜」
「いらっしゃいませ」やバカモノ。

本来マスもマス、ぎっこんばっこん工場で量産されてる時計が、
スウォッチ式だとデザイナーと買い手の1ON1になってますよね。
「誰がどう言おうと僕はこれ!」
それが、モノやサーヴィスとしては、一番正しいと思うのです。
だってほら、50すぎのおばはんをウキウキさせるのは、
なかなかできるこっちゃないですよ?(笑)

他ブランドと違って爽やかなのは、最初から「高級」とか「高品質」という
階級意識を用意しないからです。
これもいさぎよい。

また大まじめにバカやってるのもステキ。
僕が友人におみやげでもらったSwatchが、IRONYシリーズ。
文字盤にマークが一切ナシ。
数字はもとよりドットとかも全くないので、
今何時かおおよその角度で計るしかない。
だから上下もわかんないんです。
左手に巻いて右に竜頭持ってきて、「こっちが上……だよな」
そこで気づくのが、ああ時計というのは180度回転してもちゃんと時計の用をなすんだ、と。
文字書くからなさなくなる。
「これ気づいた人偉いなあ……」と感心しました。

「結局、一番価値があるのは人間です」
ってところに戻れたモノは、とても幸せです。
こっちも、戻れますから。



 11/4 悪口

昨日のは気合い入れすぎて、軽くバーンナウツ。
ここの耐久力が欲しいような気もするし、
そのぐらい燃えたって証でもあるような気もするし。

---

小さなキッカケで「ピンと来る」ことって、ありますよね。
ほんとうは無意識にもそちら向きの適性があったりするんだけど、
あるキッカケで、想像力がイメージを結んで、
「そうか、僕ってこうだったんだ!」
ちょっとした買い物でもそうだし、新しい趣味とかに引っかかる時もそう。

長山洋子さんが演歌に行った時もそうらしいですね。
アイドル時代から歌うたわせるとコブシぎゅんぎゅん回ってたらしくて、
みんなで歌ってると指導の人が「誰ですか今コブシ回したの」とか言われたそうです。
ホントは最初から演歌。
でも、ピンと来てないだけで。

いやまあ、お恥ずかしい話。
こちらではネタで「奥さんが欲しい」などと言いますが、
実は正直なところそういうイメージがまったく持てず、
友人達の幸せな家庭を見ても「ああ幸せそうでいいですねえ」とは思うんですけど、
自分がそこには収まらない。
「適性が無いのかな」などとホントに余計な心配をしていたのですが、
こないだピンと来た。

司馬さんが居なくなってどうですか、と訊かれた愛妻みどりさんが
「他人の悪口を言い合えなくて寂しい」

これだ!
それは欲しい!
おもいっくそ悪口言い合える人は欲しい!!
それは、それは欲しいッ!!!

うちの家は4人とも酷く口が悪いので、
(亡き父もそうでした……なんかそういう磁場がある家らしい)
TVで誰かが嫌いなタレントさんが出てくるとえらいことになるのです。
ですがいずれ祖母も母も先立つでしょうし弟も独立するわけで、
その時悪口が言える誰かがいないのは寂しすぎる。

え?webで書き散らかしてるじゃない、って?
生はこんなもんじゃないですよ。
それに、悪口はやっぱりコール&レスポンスでないとね。

たとえばつい最近なら。

blogでは有名な木村剛さんという方が、すごいアクセスのあるご自分のblogで、
新潟地震で取材してるマスコミの酷い実態をあげ、
けちょんけちょんに叩いたのです。
阪神の時も、我々地元に近い人間はその手の話をいろいろ伝え聞いてたので
「またか、だろうね」てなもんですが、
今はHPやblogがあるから話がややこしくなる。
マスコミ関係者が逆に噛みついた。
曰く
「酷いのも居るかもしれんが使命感持ってやってる連中だってたくさんいる」
「現場と関係ない第三者がベラベラ言うだけならそりゃ楽だろうよ」
みたいなね。

もうね、以下略。
いやいっぺん、以下略。
てか普段それをやって以下略。
問題なのはそれが当人達に以下略。

まあこういう話をビールでも煽りながらぶちまけられたらどんなにスッキリするだろうかと。
もちろん向こうからもぶちまけていただいても結構なんですが。

言えない悪口が溜まると、ほんと「腹ふくるる思い」で、体調にさえ影響が出ます。
「悪口を言える」、人であれ場所であれポジションであれシチュエーションであれ、
それがある人は幸いなるかな。

悪口は、無責任です。
だから、発言力があればあるほど、言えない。
しかし、無責任だからこそ真実を抉ることもあり、
人生にはとても必要です。

そうつまり悪口が言い合える人すなわち本当のことを言い合える人。

……いないもんかねえ(タカハシの望遠鏡ぐらい遠い目)



 11/3 「意味」

またいつもどおりのあーでもないこーでもない。

ものごとには「意味」みたいなコアがあって、
それを連続して繋げていけば、形になる。

人間の認識というものはどうもそうやってできてて、だからトイレの標識が、
● ←男性用 ○   
▼ 女性用→ △
これでわかる。
男性の逆三角形の体型を、抽象化して描いてるわけですが、
「両者で逆三角体型は男性の方」という「意味」がそこにあるので、すぐ伝わるわけです。
現実には、下ぶくれの男性も居ますし肩幅の広い勇ましい女性もいます。
でもそれ、つまり「現実」と「意味」とは違うんですね。

「表現」というのは、「意味」を並べていくもの、
と捉えてみると実はすごくサッパリするのではないか、
と思ったんです。

「意味」は、社会的に認められるバリエーションがあって、
たとえば前記のマークならほぼ万国共通でしょうが、
チョンマゲと島田髷で男女を表現されても、日本以外では伝わりにくい。

で、ここを逆手にとる。

「子供のイメージが素晴らしい」と言われるのは、
リアルを見て、あるいはイメージに描いたものを、
社会的に確定した「意味」を使わず(使えず)、
技術的に描写することもなく(できず)、
そのままに現すからで、そりゃユニークなはずです。
となれば、同じことをやればいい。
社会的に確定した「意味」から意図的に外れることで、
その人なりのユニークさ、個性が確実に出ます。

ただし、それは非常に難しい。

当たり前ですが我々は日常生活を普通に営んでおり、
その中で流通する「意味」に溺れて生きていますから。
トイレの標識見てどちら用かわからない人には、なかなかなれない。
外すだけなら頭使えばできます、それがチョンマゲ・島田髷であって、
でもそれはインパクトとしてはあまり強くない。「よく考えましたね」という程度で。
緊急避難としてはありですけど。

やっぱり、難しくとも、観察を通していちいち「意味」を見つけ直す訓練を通じて、
描きたいものの意味をそのつど、自分なりに再構築する。
これしかないのではないでしょうか。

多少ディフェンシブですが、この作業をしっかりやると、
「はずさない」という副次作用も期待できます。

妙ちきりんな例えですが、「メイドさん」を描くとしましょう。
「メイドさんとは何か」をよく考えよく観察しよくイメージして、
自分なりの「メイドさんの『意味』」を掴まえる。
たとえば、ですが、寂しい独身男性らしく
「何はさておき美味しいご飯を作ってくれる人」
なんて捉えてみましょう。
するとそこから具体的なイメージが派生します。
たとえば、スーパーでメモ見ながら買い物してるとか。
ジャガイモの種類で考え込んでるとか。
そこんところを描けば、たとえTシャツジーンズでもそれはその人のメイドさんになります。
ただ、それでは他の人に伝わりにくいですから、メイド服着せる。
すると汎用性の高い「意味」も付加されて、
誰にでも「ああメイドさんがご主人様のためにお買い物を」とわかってもらえる。

この、「意味」の捉え直しと再構築、
ここにこそ作り手描き手の個性があって、
そこが「他にない」という意味で尊い。
だからこそ人は何かを表現したくなるし、する。

---

ところが、商業的にいろんな制約から(量産であるとかマーケティングであるとか)
共通した「意味」だけをバラバラと並べたものが、よくあります。
それは別に表現作品だけでなく、モノでもそうです。
ホームセンター行きますと、「プラダっぽい」黒のビニール鞄が1000円で売られているのですが、プラダ的な意味、「黒」であり「素材」であり逆三角シルバーの「エンブレム」であり「シルエット」であり、意味を抜き出してコピーして並べてあるわけです。
でも、そこには作り手の意図も意志もない、
もちろんだから工夫も愛情もない、
ゆえに価値はない。
だから1000円でもワゴンで売れ残る。
本物が中古品でも高額取引されるのに。

物理的効用が大切な場合、一次産業品であったり勃興期のジャンルの家電であったり、
という場合はモノがそのものとして持ってる意味だけで勝負できます。
上の例で言えば、どんなにしょぼくても鞄としての意味があるわけで、
鞄が存在しない世界へ持っていけばバカ受け間違いなし。
ただ、サーヴィスや空気、
溢れかえってしまっているほとんどのモノ、
そしてなにより「意味」そのもののやりとりである表現作品は、
それではダメなわけですね。

---

逆に言うと、本人の中で「意味」として確立するなら、
ウソつくのは全然OKです。
あるいは、言い切ってしまうのもいい。
メイドさんの例だと、さすがに制服ではスーパーに行けないので、
着替えてカットソーとジーンズで行くのですが、
カチューシャだけ外し忘れたままだったりしたらどうでしょう。
ドジで萌えません?
で、その時大切なのは
「これはこういうシチュなの!」と自信を持って言い放つことで、
それは、だって自分がそう思ったんだしイメージしたんだから、それでいいのです。

世にはいろんなこと言う人がいて、
「ミカエルの羽根は6枚だよ!」とか吼えるんです。
「じゃかやしや! 俺のミカエルはアゴ出てんねん!」と吼え返すのが正しい。
だって、「そう」ですからね。
表現作品の評論の類で一番愚かなのがコレ系で、
しかも一見スジ通っているように見えるからタチが悪い。
いや、私も自分で描いてみるまで、
こういうことがどれほど愚かなことかわかってなかったのですが。

---

少しテクニカルな話になりますが、「良いモノ」というのは
要点を掴んだ共通意味と、個性溢れるその人の意味とが、
うまくミックスされているものではないでしょうか。
価値の源泉は個性意味の方なのですが、それだけだとわかりにくい。
パスタならパスタとわかってる方が、小麦料理とくくられるよりも味わいやすい。
作品たるもの、作り手受け手のコミュニケーションが必須です。

本当に能力ある人、それは先天的でも後天的でも同じですが、
それはその人なりの独自の意味を、
誰しもに押しつけるだけのパワーを身につけた人ではないでしょうか。
「太陽の塔」は、共通意味としてはあの赤い放射線、
あとは赤と金のカラーリングぐらいなんですけど、
でもあれはどう見ても「太陽の」塔ですよね。
この説得力。
これが目指すべきところです。

ここんとこのバランス感覚、
今の自分の力ならどこまで押しつけられるかどこは説得力がないのか、
今の自分の好みならどこを押しつけてどこは引くべきなのか、
これを意識できてると、すごくのどごしが良くなる。
(のどごしが良すぎると良くない、というのはもっと上のレベル、
 というよりちょっとギリギリゾーン。
 良い方なら鉄板で間違いがない。
 お酒も料理も、そうですよね)

逆に、繰り返しになりますが、共通意味だけだと実に味わいがない。
そこをいくら練り込んで、いくら精度高く、いくら数並べても、
いつまでもインパクトなんか出ない。
これが「中級の罠」のひとつで、
技術上がると「今まで見てきたアレ」(社会的な共通意味)を表現できるようになるんです。
だからそれを表現してしまう。
「いかん」と思うセンサーは鋭くなってるので、
自分が今作ったモノが「いかん」ことはよくわかる。
で、ドツボにはまる。
もっと正確に、もっと要素を、もっと奇抜に、もっと人目を惹く……
すべて間違いですね。
そんなところには何もない。

例え間違っていても平板でも陳腐でも地味でも、
その人ならではの、その人が発見した、その人が組み立てた、「意味」、
そこに価値がある。
いや、そこにしか価値の源泉は、ない。

---

まとめますと、
対象の「意味」をしっかり捉え、
それを自由に膨らませて再構成し、
それを思い切って描く。
「表現」というのは、それだけのことです。

ほんとうは、だから誰にでもできることです。
技術なんか、ない方がいい。
共通意味を楽に紡ぎ出すための方策に過ぎませんから、邪魔なことさえある。
ただ必要なのは、
こびりついたいつも使ってる、押しつけられたあるいは無思慮に受け入れている、
共通の意味、
コイツに囚われずモノを見る、集中力、勇気、柔軟性。
そしてそれこそ、実は誰にでもできるものではなく(笑)
真面目な人、ちゃんとしてる人ほど共通意味の使いこなしが上手いから、
なかなか外れられない。
センスある人以外は訓練が必要です。
でも、やれば少しずつできようになると思います。
簡単に言えば「子供に戻る」ってことで、誰でも昔は子供だったわけですから。

子供に戻れるから、やってて無性に楽しく時間を忘れるのかもしれませんね。

なんとなく文化の日っぽいのになりました。



 11/2 先を読んで

カルーゾーさんが日本に招かれて、シェフ達をしごくのですが、
「フライパンに入れてからの塩・胡椒を禁じた」そうです。
先を読んで下味を調和させておかねばならない、と。

CGは便利なもので、後からいくらでも色替えできるのですが、
後から替えるつもりで塗るとロクなことにならない。
やっぱりその場その場で、周りの色を見ながら、
色を作って合わせて行くに越したことはないんですね。

文も同じ。
後からなんとでもなるから、とパートパートを走らせたりすると、これがヒジョーに大変。
せっかくいい場面作ったのに、前から固めていくと要らなくなったり、不自然になったり。
板金加工のように均したり変形掛けたりするんですけど、なっかなか巧くいかないです。

昔は新聞連載とかとてもできないと思ってましたが、最近、
「結局先読みして、頭から描いていく他ないんじゃなかろうか」
と思うようになりました。
これ(「ほえなが」)も、最近は割と頭から書いてます。
あとから微調整はしますけど。

昔は書いた後、段落変えたり移動させたり、
言葉尻変えたりするのに倍ぐらい時間掛かりました。
今は書く前に、「ぬー」と考えてる時間が長いです。
書き始めたらパーッと。
たぶん、その「ぬー」といってるうちに、完成イメージが自分の中でできていくんでしょうね。
僕の場合はあまり確固たるものではなくて、
「あたま」「主題」
ぐらいで書き始めてしまいます。
「肝心の『結論』は?」と言いますと、
実はそれナシで初めて、書いてるうちに導かれる方が面白い。
もちろん導かれずに最後になって四苦八苦すること多いんですけど、
思わぬ結果が出てきて本人もびっくりしたりします。
このびっくりこそが、表現なんでもの面白いところではないかと。

もちろん、オチにキレイに持って行くのも腕の見せ所です。
いいオチがあればそれに越したこと無いんですけど、
あまりオチにこだわりすぎるのも良くない。
オチが決まってれば物語決まると勘違いする。
やっぱり、いい物語あっての銭形警部の名セリフであって。
クライマックスがちゃんと盛り上がってりゃオチなんか要りませんよ、
『スターウォーズ』の最初のん、ルークが白アナライザーと一緒にXウィングで突っ込むところはみんな覚えてると思いますが、ラストシーンなんか誰も覚えてませんよね。

ともあれ、
この全体の流れを先読み先読みして、
暴れそうになる話を制御しながら、たまには流されながら、
共に歩んでいく、
のが理想です。
それにはやはり経験が大切で、
・自分の力ならこの流れをどのぐらい、どちら向きに持って行けるか。
・どうしようもなくなった時に、どこに不時着させられるか。
つまり己を知って自信が要る。
時間が掛かりますね。
毎日やってても10年単位じゃないでしょうか。
僕でも、6年弱ですが、
「ようやくこういうことがなんとなくわかってきた」というレベルで、
じゃそれを実践できるかというと、心許ない。

なんでもそんなような気がします。
18でなんとか音楽コンクールの優秀賞とかって、
だってそういう人って3つ5つからやってるじゃないですか。
野球選手だって、遅くても中学からはやってるから、
高卒でプロになっても6年のキャリアがある。
天才的センス持ってる人はこの辺が生まれつき見えてるんでしょうけれど、
そういう人はその道のプロの中でもものすごく希少。
でも、逆に言うと、年月掛ければ、始めるの遅くても割となんとかなるんじゃないかな。
スポーツはさすがに肉体的に厳しいかもしれませんが、手業とかは。
もちろんそりゃ子供の頃からやるのが一番なんでしょうけども、
いや、大人の方が戦略的にやれるしモチベーション高いこと多いから、
本気でやればチャランポランにキャリアだけ長いよりはずっと強いはず。

後戻りが物理的に効く・効かないにかかわらず、
イメージを描き、先読み先読みでその場で手を打っていく。
それがいいものへの道のようです。
できるできないは別にして、その意識は持っていたい。



 11/1 bほえなが

言い忘れました。
いちおう、今月からblogへのリンクをトップに張りました。
その名も「bほえなが」!

イエス!これでも元プランナー!

歳取るともう「『Be』で現在進行形」とかそういうのイヤになるんですよ!
「ほえろぐ」とかもイヤでしょ!
横ギレ。
……いや待て、「ほえろぐ」は悪くないな。

手軽になればなるほど、腰が入らないかも。
個人HPとblogでは、物理手紙と電子メールぐらいの差があります。僕には。
コメントとかつき出すとまた違うのかな……あまりそういうコンテンツではないですしね。

見ていただければおわかりのとおり、こちらよりさらにユルユルでやってます。
blogの方でゆるゆるできれば、こっちはもう少しピシッとできるかも、という効果も狙って。
賄いメシとかそういう感じかな。
たぶん、物欲系のPCパーツや電化製品、ゲーム、そしてクルマ、あとサッカー。
それとほんとにちょっとした、誰と呑みに行ったとか、
この辺の話題はb行きになると思います。
ま、ほんとーにおヒマーな時に、斜めに覗いていただければ。

本人もまごつくほどe加減にやってますので、
コメント、トラックバックどうぞお気軽にご自由に。



 11/1 懸案2点

【今月のお言葉】

「意志して作れ、必ずおいしくなる」
  ─ アントニオ・カルーゾー(イタリア国立料理学院・校長)

がんばります!校長!

今月は11日に、ちょいとリニューアル予定。
たいしたことはできませんが、ほんのちょっぴりお楽しみに。

---

自分なりに「なにか表現すること」について、
いろいろ考えたことをまとめようとしてみました。

そして考えれば考えるほど、困り果てます。

結局のところ、こうだと言えばこうではなし、ああだと言えばああでもなし。
料理と同じで、レシピはみんなわかってる。
問題は素材と調理のコツなんです。
スパゲッティゆであげるタイミング、オリーブオイルの一滴の出し入れ。
ここはやるしか身に付かない。
レシピ集や素材の選び方の基本みたいなのは書き表せますが、
それより先には進めない。

いやしかし、それでいいのでは、とも思ったり。
僕は料理はロクにできませんから、そういう場合買いに行くのはレシピ集だし。
存在意義はちゃんとある。
ただそれは、著者にとってはメモ代わりにしかならない……
いや、まあ、まとめることで理解が進むのかな。
理解が進まないってことは、浅いのかもしれません。

精進精進。

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もう一点。
以前からずーっと、書きたいなあ、と思ってるアホ企画があるのですが、
あと一押しが無くて、エンジンが掛かりません。

要するに、世には暗いニュースも多いことですし、
あくまでもスィートで穏やかであったまるような。

でも、甘さ引き立てるためには塩が必要で、その塩が思いつかない。

しょうがないので無い知恵絞って懐かしのアイデア出しとかしてみますと、
出るわ出るわ、陳腐なヤツが。

ミステリというジャンルが隆盛を極めてますが、
ファン・書き手ともに大変無礼を承知で無茶を言いますと、
人が死ねば軸ができるんです。
その軸に色鮮やかな糸を巻いていけば、キレイに仕上がる。
若者向けで言うと大昔はSF、ちょい昔はファンタジー、
今なら伝奇系でしょうかセカイ系でしょうか、
それは世界観そのものが軸になるので、
そこに浸れるだけですごく満足できる。
ま、あと裏口としてはエロというのは破壊力大きくて、
それだけあればオールオッケーになるんですが、
裏口だけに間口ものすご狭めてしまうので、
核ミサイルと同じ、解決になってない解決法です。

ではその、ストーリーを追わず世界観を作らず、で、
もちろん人も死なず天使も堕ちてこず、
何かできへんもんかいな、とウンウン唸っているのです。

念のためですが、それがあかんとか嫌いだとか言うわけじゃないですよ。
チャレンジとしてできへんもんかいな、と個人的に思ってるだけです。

「ミラクルズ!」はスポーツという疑似戦争が軸になってるから、
なんとなく成り立ってるわけで、あれからサッカーシーン外すと
すごいスカスカになってしまいます。
いや、シーンが無くても、「サッカーチームとしての仲間」というのがあのキャラクター達のコミュニケーションのベースにあるから、バカ言ってても頼りになる、とか、こんなにがんばるから慕われる、とか、バックボーンがきっちり通る。
それもないのに「親友で」と言われても、薄い。

淡々たる日常をただ淡々と描いて、ヤマも無くテーマも無くオチも無く、
それでモノになるもんでしょうか。

やってみやなわからんのですが、
どうも自分自身が一番納得できないような気がして。
それでビビッてるわけです。

それともやっぱり、街のパスタ屋さんがペペロンチーノ出すように、
アイデア陳腐でも作り込めばok、と考えるべきなのでしょうか。

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その2点が今のところコネてるものでございます。
困ってるフリしてますが、こういうものは面白いもので、
なにか発火薬ひとつでばーんとエンジン掛かっちゃいます。
それを探してるところ。
案外つまんないところに転がってるものですけどね。

今月もこんな感じでフラフラしつつ、ガンガン頭ぶつけつつ、
しかししかし前進前進で。




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