■ ほえなが ■

やれることを、めいっぱい。

 12/31 さようなら2004。

みぞれ交じりのボタ雪、絶好の大晦日日和です。
2004年を振り返って恒例の自己採点をば。(5点満点)

「3.5」

個人的にいいことは何もありませんでした。
でも悪いこともあまりありませんでした。
それで2.5点。

あとの1点は、いろいろな人・モノ・コトに影響されながら、いろいろなことを考えて、いろんなことがわかった気になったり、見えたような気になったり、でもやっぱりなにもわかってなかったり、でも、ということはわかってないことがわかったり、そんなことをたっぷりできた点です。

いや、ほんと何もわかってなかったですよ。
なにもわかってなかったことがわかった。
それだけで長足の進歩です。

ほんとはそれで10点ぐらい上げてもいいんですけど、
自分ひとりでわかった気になっててもしょうがない。
それを伝えたり、人に感じて考えて使ってもらえる、そんな姿にする努力は足りなかったですから、(というか考えるので手一杯でしたから)トータルで4点、「優」はやれない。
ということで、3.5点です。

飛行機でいうと、滑走路へ向かうタキシーウェイをぐるぐるぐるぐる、レッカーに引っ張ってもらってうろついてた、そんな感じです。
で、ようやく滑走路の端っこに来ました。
さああとはエンジン回して自分で飛べ。

……どうやら来年は助走ですなあ(泣)
いつ飛べるかは本人にはサッパリわからないのですが、ま、なんとかなるでしょう。
ヤンバルクイナだってペンギンだって生きてるんだ!
いやだから飛ぼうよ。

来年は、「こころのフルマーク」をめざして。

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くどくどしいですが、今年最後なりに繰り返しておきましょう。
まずは
「逆から見ることができるようになった」
かな。

たとえばクルマを考えてみると、
メーカー(情報の送り手)が作りたいクルマ、売りたいクルマと、
ユーザー(情報の受け手)が欲しいクルマ、買いたいクルマとは、
違うんです。
この両者をよくよく理解し、研究し、実践として、
よく結びつけることができる、すり合わせることができる、馴染ませることができる、
そのクルマが、よく売れかつ評価される。

なに当たり前のこと言ってんだ、って?
そう、あまりに当たり前なので、みんなわかったつもりになってるんですけど、なにもわかってないんですって。
それが証拠に世の中見てご覧さいよ、欲しいクルマ何台あります?
メーカーもさっぱりわかってなければ、
ユーザーもさっぱりわかってないんです。
今は明確な「これ欲しい」さえあれば、メーカーに伝える手段はいくらでもある。
要はそんな像がまるっきり結べないから、なにも伝わらない。

わたしも昔はメーカーでマーケチングみたいなのをちょい囓ってたのですが、
「ユーザー視点」というのを完全に誤解してました。
「自分が」使う立場に立ってたりした。
それは、ユーザー視点のほんのほんの一部なんです。もちろん、基本ですけど。
そして、架空の像描いてもしょうがない。
「30代後半のハイセンスニューファミリー」
だから見せろそんな家族を。てめえのイメージボードに描いてあるその家族を。
みんなコタツでミカン喰ってんだ。モチ喰ってしめ縄飾ってんだよ!

ごくごく本当に一部、「わかってる」人達がいる。
そしてその人達は、びっくりするほどうまいことやってるのです。

そしてこれは、どんな情報に置き換えても、つまり「すべて」で、置き換えが効く。
そういう目で見ると、世の中というのはヒジョーにつじつまが合う。

マス対マスでなくても1対1でもそうです。
年末忙しい時にまま上のやってもらいたいことは何か。
わたしが手伝ってもいいと思ってることは何か。
そこの齟齬から、親子喧嘩が始まる(笑)
喧嘩する前に、すりあわせさえすりゃ済む話なんですね。

で、その時必要なのが、「逆から見ること」であって、
まま上の立場に立てば何が困るか何が欲しいか、
まあかなりわかるわけです。
となると、代案としてまま上はもっと助かる、しかしわたしは楽ができる、
そんな案を考えられるかもしれない。

ええ、くどいようですがチョーアタリマエです。
でも、我々はあんまりよくわかってないし、すぐ忘れる。
そしてまたわかってはいても、具体化するのも大変だったりもする。

しかし、どんなものでも、「送る方」「受ける方」の両者になってみれば、
理解は相当に進みます。

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──と、いうことは、受け手送り手両者にとって一番大切なのは、
「なにが一番欲しいか」
なのです。
だから、これさえガツンとあれば、あとはかなりどうでもいいのです。

これの、送り手側(特に表現において)が、わたしの言う「独自意味」です。
送り手にも、「これを受け取ってくれ!」という強い一点がなければ、伝わりにくい。
そしてそれが、受け手のセンサーに掛かればいいですが、
掛からなければ、掛かるようにする努力も必要です。
プロモーションだとかそういうことになるんですけど、
それは決してズルイことでも無駄なことでもない。

シナプスが繋がって初めて信号には意味があるのであって、
繋がらなければ信号がいかに強かろうがクリティカルであろうが、
無意味です。

で、それを探り出す力をつけるには、
センスもあるし、経験もあるし、直感もあるし、技術もあるし、理屈もあるだろうし、
いろいろありそうです。
自分の中身を掘り下げて、
「俺は一体なにがしたいんだ?」
相手となるべき対象をよく見つめて、
「受ける人はどう受けるのだろう」
両方が必要です。
そして両方とも、とても難しい(笑)

ただ、だからこそとてもおもしろい。

正解はない、絶対はない、満点の解答もない。
「〜なければならない」などということは、ひとつとして無い。
たとえ世の中からボロカス言われるアンバランス・カップルであろうとも、
恋する二人は無敵ではないですか。
あれです。

正解は、誰が決めるものでもない。
自分が決めるものです。
そして、相手に決めてもらうもの。

「俺はこれがいいと思うんだけど、DO!」
「最高ッス!」

そんな感じ。

人間は、ひとりで生きてるもんじゃない。

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──そこのところの、
「俺は(たぶん)こう」「相手は(たぶん)こう」
というところを、感じたり考えたり計算したりするシステム、
「悟り」システムは、
当然のことながら自分専用ですから、
自分で自分向きにコツコツ構築し、
先人達の知恵を拝借したり改造したりしながら、
磨き上げ続ける。

そして、これそのものも非常に楽しい。
わたしは、この1年、特に春先以降の9ヶ月間はそればーっかりやってたようなものです。

パクってきたシステムではやっぱり微妙に使いにくい。
達人達が道具を自分なりに工夫するのと同様、やっぱり何かしら変わったことをやろうとおもえば、創意工夫アイデアが、道具の段階から必要のようです。
また、時代の変化と共に、昔優秀だったシステムも古臭くなったりしますから、例え基本コンセプトは不変でも、常にアップデートが必要なのです。
終わりはない。

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そしてまた、「終わりはない」という大変さこそ、困難さこそ、
「人生はおもしろい」
という理由です。

ゲームは、クリアすれば終わりです。
終わったらもう、なにもない。
ほんとうになにもない。

実につまらないです。
それこそ、死んだ方がマシです。

そ、実のところ、苦しいことたくさん、辛いことたくさん、襲いかかる多数の理不尽、そういった味わいたくない苦労と壁こそが、生きることを楽しくしてくれている。

いやほんとにほんとに。
FFで75になったらわかる(笑)
定年迎えた企業戦士がボッキリ折れるでしょ、アレです。
春のひより、心穏やかな毎日、なにもかもが平穏な天国、
くそくらえです。
そんなとこ2日で飽きる。

「ああ、天国いいよなあ」と思いながらいろんなことにキリキリ舞ってる、
それが、いちばん楽しい。
天国自体は、どうでもいいものなんですって。

大工の息子が「貧しい者は幸せである」というじゃないですか。
あれ、ホントですよ。
いや、別に幸せではないんですが、「富んでるからって幸せじゃないぜ」てのが一番言いたい。
「ああ、お金持ちになりたいなあ。なったらこんなことしたいなあ」
というのが、一番楽しいことです。
なっちまえば、別段どってことはない。
喰えるミカンの数は同じです。

それを満喫しとるのですよ今わッ(泣)

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・正解はない
・死ぬまで苦労(することこそが楽しい)

という二点、わかっただけでも随分気が楽になりません?
「これこれをやらなくちゃならない」と、
「どうして俺はこんなに足りないんだ」という
人生の二大ストレスから解放されますよね。
やらなきゃならんことなどなにも無いし、
足りないからこそ伸びる喜びがある。

なんだか今日は宣教師みたいになってきましたが。
ま、大晦日ぐらい神妙に行くのもよろしかろう。

とにかく、おっちゃんは今年こうやって七転八倒しながら
「自分システム」のフレームを作ってきたのです。
悩める若人達よ、いつかきっと「自分システム」ができるものですから、
今はまったく五里霧中でも、できることから一個ずつ触れてみれば、
成功しようと失敗しようと血となり肉となりますよ。
ええ。
以前プラモの例出しましたけど、パーツ作ってる時は漠然としたものです。
いつか最終組み立てになった時に、一気に全部がわかる。

……というよりも昔は、近代までは、
社会がしきたりや慣習や宗教によって、
「既製品のシステム」を与えてくれてたんですね。
多少の自分にしっくりこなくても、「ま、みんなそうだし」と思えていた。
日本でのその最後は年功序列型大企業システムですかね。
オウム真理教を宗教システム最後の抵抗と捉えることもできる。
どっこい、今はそうはいかない。
そういうものが全部壊れちゃってるから、自分で自分のシステムを作るしかない、
わけですなあ。

しょうがないですよ、大変ですけど、どれもこれも信じられないんだから、
自分で作るしか。
ま、「その分自由だし」とでも気楽に思って。

「無い」のはやはり厳しい。
それするとホントなにもない人間になる。
尊敬しにくい人間になる。
それは、寂しいですよね。

うちらまだ20代前半でバブル崩壊という既存システムの一斉クラッシュが来たので、
「どうすべよ」と悩める時間と体力ありましたけど、上はキツそうですね。
(むろん、どんな世代にも確固たる「自分システム」をしっかり持ってる人はいて、
 常にいい仕事をし続けているのですけれども)
子供達がふらついてるのも、そこじゃないかな、と思うんです。
お父さんお母さんが、「このシステムで行きなさい」と言えない。
さすがにそんなウソはつけない。
だからって「自分で作ってかなきゃダメよ」とは、まだこの世代はわかってないか、
わかっててもできないか。
ウチらでもちょっと厳しいんじゃないかなあ。
ウチらにはまだ「親がそれで上手く行った」という経験則がにじんでいるので。
(だから「パワフルだけど優等生」が多いですよね。
 老人にこれっぽっちも真心の無いアタマ下げられる。
 良くも悪くも革命家にはなれない)

時間、掛かりそうですね。
しかし、木だって大きくなるには数十年かかる。

そこを乗り越えると、とても強い人の多い、活気のある国になると思います。
人口構成とか、そんなのは関係ない。
20の老人もいれば、80の若者もいます。
ひとりひとり、ではないですかね。

どのジャンルでも、「うまくやってる人」の方法論を見て、
パクれるところパクって、工夫を凝らし改良して、
自分なりのオリジナルを創り出す。
親がそれができるようになると、それを見た子供達は「自分で創らなきゃ」と思えるわけで。
がんばりましょ。

「わかった」と思っても世は無常、いつのまにかわからなくなっていることもしばしば。
無惨な老害を晒すほんの少し前までの英雄達。
ずっとです。ずっとずっと。

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育っていくこと、には本来、それ自体としてドライビングフォースがあると思います。
そのナチュラルな働きを、生命力というのやもしれません。

でも昨今は随分その生命力が萎えてます。
なぜ萎えるか、木に例えて言えば、というか木と同じで、
日照の過不足、養分の過不足、水分の過不足、大気の汚染、病虫害、その他なんらかの環境の激変、若木に覆い被さり踏ん張り続ける古木……
なんだか「そのままじゃん!」という感じですね。

そして指くわえて待ってても、なかなか回復しないものです。
少しずつでも手を入れて、回復できる方向へ回していかないと。
いったん軌道に乗れば、割とぐんぐん戻ると思います。
生命力というのは実に偉大で。

来年はそんな年になるといいですね。
わたしも、びびび力ながら、いいものつくるっていうところで、
貢献したいなあ、と思っています。

やっぱり、楽しい方がいいもの!

みんなで楽しくしていきましょう。
楽しくしようとすること自体が、楽しいものです。
パーティと同じです。あれ、一番楽しいのは一番しんどいホストですよね。
てことで、今日はウチの家にこころやすい友人達が集まるのです(笑)

来年も「ほえなが」とぱわねをよろしく。

では、よいお年を!



 12/30 input

いつもより一日早く、本日は12/1から12/30までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)


■本■

 「日本人の原型を探る」 司馬遼太郎 (中公文庫)

 「座右のゲーテ」 齋藤孝 (光文社新書)

 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(上) ファインマン (岩波現代文庫)
 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(下) ファインマン (岩波現代文庫)

 「イタリア人の働き方」 内田洋子 他 (光文社新書)

 「現場主義の知的生産法」 関満博 (光文社新書)

 「ゲーテとの対話」(上) エッカーマン (岩波文庫)

 「情報の文明学」 梅棹忠夫 (中公文庫)

■DVD■

 「『もののけ姫』はこうして生まれた。」 (スタジオジブリ/ブエナビスタ)

 「世界わが心の旅」 (スタジオジブリ/ブエナビスタ)

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今月はゲーテ・マンス。
齋藤先生に教わって「これは!」と思ったので原本を。
金言金言雨金言です。
表現に関心がある人には特に、そうでなくてもおすすめ。
若い人よりも、30過ぎの方が染みると思います。
「そうなんだよ……わかってんだよ、わかってんだけどね、なかなか……」
と胸を痛めながら読むのがいいかな。
新潮文庫の「ゲーテ格言集」は読んだことあったるのですが、単発で羅列されるよりも発言背景わかる方がグッと来ますね。
またエッカーマンという作者の能力が非常に高い。
まるでこのために生まれてきたような人です。
チーム北島じゃないですが、偉大な人物の周りにはそれを支えさらにブーストする強力な人物が集まるものですねえ。

「ファインマンさん」もやはり面白かったです。
これも読みものとして非常におすすめ。
トップレスレストランで7upをチビリチビリやりながら物理の問題を解くノーベル賞学者。
変態です。

関先生は熱いんですけど、題名から想像されるノウハウ本ではないので、それはお気を付けを。

「イタリア人──」は、カッコイイ人達のカッコイイ生き様を堪能できます。憧れます。
日本もそろそろ、こんな感じに開き直っていいように思いますけども。

で、結論としては梅先生最高、と。

消化管を満たし、筋肉を満たせば、次は感覚器官・神経系だ。
そういう捉え方で産業の発展を見直せば、まさにそうです。
そしてこれからますますすべてのモノ・コト・サービスそしてヒトの、「情報化」(情報=感覚器官を刺激するもの、すべてはその意味で価値を判断される)が進むであろう……
ということを! 1963年、40年前に言っている!
バケモノですかあなたは。
今にしてようやく世の中が追いついてきた、という感じです。

エライ人は世の中たくさんいますなあ。

そして「もののけ」のメイキングビデオ観て、「そりゃこれだけやりゃなんでも伝わるがな」と簡単に脱帽。
福野礼一郎さんがエジプトのピラミッドの中に入ってみて、その壁を触って、
「人間の感覚器官というのはすごいもので、いわばただの石の壁なのに、その後ろにある何万トンという質量に圧倒されうる」
みたいなことを書いてましたが、まさにそれだと思います。
情報の密度というか、込められたものの大きさによって、引きずり込まれてしまう。

もちろん、誰にでも同じことはできはしないのですが、しかし、自分のやっていることに関して、「ここまでやるか!」というところまでやることはできるはず。
がんばりましょ。

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ゲーテにかかりきりでちょっと偏ってました。
来月はもう少し幅広く……って高校時代読んでさっぱりわかんなかった「ファウスト」をもう一回読みたいかな……

今、司馬叔父のエッセイ集を読み始めているのですが、やっぱ抜群に上手い。
若さあふれる直球度合いがとても新鮮です。巧拙は別にして、「その時期にしか描けないもの」というのがやっぱりある。
それを逃さないようにしたいものです。



 12/29 止められないドライビング・フォース

明日が月末恒例の「input」で明後日がラスト、ということでレギュラーとしては今年最後の「ほえなが」です。気合い入れてだらだらと。

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「オタク化」という現象は、どの趣味でも起こります。
これも結局は、「進化にはそれそのものに推進力がある」という仮説で
説明できないでしょうか。

ヘラジカの角はどうしてあんなに大きいのか。
使うとしても普通のシカの角ぐらいでいいじゃない。
それは、いったん「大きくなる」方向へのトリガーが引かれると、
理由や目的は関係なく、ただ大きくなる、らしい。

イヌというのは品種改良をやりつくして、
新種が出ない状態になってるらしいですが、
それでもチワワからセントバーナードまでものすごく多様です。

自然のシステムとは、できるだけ多様な可能性を封じ込めておいて、
そのどれかがなんらかのトリガー(環境因子であったり、生存競争であったり)
によって爆発する、そして環境の変化その他に対応していく、
そういう大雑把で運任せながらとても理に叶った設計のようです。

その際、トリガーはトリガーでしかなく、そののちは、勝手にその爆発が進行する。

まさにオタク化する趣味の様子です。
カメラなり時計なり、「写真を撮る」とか「時間を知る」というところから
どんどんかけ離れたところが、ものすごい勢いで進歩する。
もちろん、その目的に対しても進歩はしているのですが、
それは微々たるもので、むしろ退化したりもする。
昔のカメラは電池無しでも動いた、とか。

その進歩はしかし、目的と関係がないので、またも環境が変化してしまったり、
あるいは別のトリガーが引かれ別の部分が進化を始めたりすると、
真っ先に「要らない部分」として切られたり、あるいは不利な集団として滅んだりします。
クラッシュは一瞬です。
角の重みに耐えかねて滅んだシカもいるかもしれません。
一瞬前までにはそここそがメリット/有利であったものが、
次の瞬間にはデメリット/弱点と化す。
今年はプロ野球始まって以来のボロボロ・イヤーです。
でも去年は、阪神の優勝にあれだけ盛り上がっていた。

そうはいっても、ある物事の進歩発展には、
この「進化の進化たる推進力」、その爆発力、それが必要だと思います。
なんだかわからないけどもわっしょいわっしょいと突き進む時期。

しかしそれを超えてのちは、本来の「目的」や「あるべき姿」を描き直し思い出して、
どこかに軟着陸点を探らなければならない。

日本の経済や教育もそうで、ガツガツがてっぺんにぶつかってクラッシュした後、
有効なソフトランディング・ポイントを見つけられず、結果今もってなお苦労を続けている。

問題は、わっしょいわっしょいではない。
それはもう、誰にも止められないし、誰が悪いものでもない。
それよりも、クラッシュが来た時に、大根本に立ち返って、
ゼロからシステムを組み直す勇気と努力、
そしてその設計図・ヴィジョンを描く能力、
これが足りなかった。

クラッシュしてしまったら思い切った設計のし直しが、
わっしょいわっしょい行ってる最中には、絶対に来るマツリの終わりに備えて、
地に足を着けて本質をキープしつづける努力が、
必要なのでしょう。

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今年という年は、
「さすがにこのままじゃマズイ」という共通認識が、
ようやくにして浸透した年ではないかと思います。
どこもかしこも、もうクラッシュしてるんです。
わっしょい言ってる場合じゃない。

顕著な例は、子供達の学力低下に対する、普段の信条の右も左も上も下もない慌てふためきぶりと、殺気のように溢れかえった憤りでしょう。
「養って貰えない」というのは、傾きの差こそあれ登り続けてきた我々には想像もできない恐怖です。
ただでさえ物理的に人数が減る上、世界が狭くなり「上から順に」外、というよりも具体的にはアメリカに行く時代です。
それでなお平均ポテンシャルまで下げられては、もう、どうしようもありません。

それでまだこの期に及んで新幹線を作るという!

でも、マズイマズイ言っててもしょうがないですから、
できることから、ひとつずつ、やっていくほかないのではないかな、とも、思います。
直接的に子供達に若者達になにかしてやるとかでなくても、
真摯にちゃんと、悪いことをせず、誇り高く胸を張って生きていくのが、
大人ひとりひとりのやることではないでしょうか。

来年はぜひ、そんな感じで。

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日本人は非常にオタク化が得意です。
理由はわかりませんが実績が物語ります。
ですから、いろんなところがすぐ恐竜化して、破綻をきたしてクラッシュする。

それはもう民族的な「クセ」ですから、そこを脱却するのは諦めた方がいい。
それに、そのクセのおかげで家電やクルマ、そして「OTAKU」趣味があの圧倒的な国際競争力を誇っているのです。
強さでもある。

ただ、そのクセがあることを自覚して、行きすぎたオタク化には警鐘を鳴らし、クラッシュに備え、してしまったらゼロからの再生を素早く図る。
それは、できることではないかと思うんです。

そのためには、誰でもない自分自身が、
ものをよく見て、ひとの話をよく聞いて、自分の頭でよく考え感じ判断して、
元気よく活動する、他はない。
もう、誰かがどうにかしてくれる、ことはない。

来年は、「わかった、俺がやる」で。

なんだか青臭い話になりましたが、
言っても世界はひとつで、ここにいるしかない。
のであれば、ちょっとでも楽しくできるように、やりましょう、その方がいいじゃないですか、ね、ておはなしです。

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肩肘張ると書くものまで固くなっちゃいますね。
年賀状描いてて買いだし終わってると、こうもヒマなものなのか……
これからは毎年早めに描こう(泣)

そうそう、年末年始のテレビなんかおもしろいものないや、と思ってましたが、
今年はちょっぴりだけ気合い入ってちゃんと作ってるものも増えてる感じ。
「あ、これは観てもいいかも」という番組がポツポツ散見。
元気が戻ってきたのかなあ。
本分を思い出したというか。
いいことです。
といいつつ観てるのは「もののけ姫」のメイキングDVDだったりするのですが。

まあ、雨ばかり続きませんよ。
夜ばかりもね。



 12/28 のびる

先日ついにFF11にてレベルキャップ(到達可能な最高レベル)のLv75に達しました。

すると突然、やることがなくなったのです。

驚きました。
「レベル上げが終わったら、あれをしてこれをして……」と考えてたことがすべて、「ま、別にいいか」ということになってしまっていました。
「楽しくないこと」になったのではなく、「重要ではないこと」になったのです。

わたしはどうも、
「○○を楽しむために、レベルを上げる」
ではなく、
「レベルを上げるために、○○をする」
というタイプだったようです。
2年半やってきて初めて気がつきました。

調理スキルを上げるのもメロンパイを、パママのタルトを自給したいためで、
なぜ自給したいかというと、レベル上げで食べたいからで、
つまりは少しでも快適に成長したいため。
釣りに行ってたのも、お金が稼げるからで、
なぜお金が欲しいかというと、いい装備が欲しいからで、
つまりは、少しでも快適にレベル上げがしたいため。
スキル上げに行くのも、スピリットテーカーが欲しいからで、
なぜ欲しいかというとソロ活動が楽になりそうだからで、
なぜソロ活動を楽にしたいかというとお金を以下略。
etc,etc.

つまりわたしにとってのFF11は、「成長を楽しむもの」であり、
その一番わかりやすい指針であるレベルが極まってしまった以上、
ひとくぎりなのです。

そしてふと、
「わたしにとっては、人生もそうなのかもしれない」
と思いました。
そして、わたしに限らず、結構大きな割合の人にとって、
「生きる」ということは、そういうことなのではないかと。

もちろん、他のベクトルの人もたんとおられると思います。
でも「成長」を、「欲望」と言い換えればどうでしょう?
より賢くなりたい、強くなりたい、お金持ちになりたい、モテたい、優しくなりたい……
そして、幸せになりたい。
欲望ですが、よく見れば、すべて成長です。
そう考えると、とても多くの人に、当てはまるような気がしました。
あまり負の方へ伸びたいという人はいないですよね。
「ワルになりたい」といってもそれは「強くなりたい」の裏返しだったりする。
縮こまりたい人はとてもとても少ない。
どこにむかうにしろ、伸びていきたい。

そしてそこに、理由など無いのです。
植物が条件が揃えば芽を出し太陽に向かって伸びるように、
わたしたちはただ伸びる。

そして伸びるために、知識をつけ経験を積み体力を磨き人と絆を結ぶ。
それを栄養にして、より伸びる。

つまり成長は、つまり生きるってことは、それ自体が目的なのです。
「なんのために伸びるか」ではない。
無理にいえば、「伸びるために伸びる」のです。

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MMORPGのもっともすばらしい点は、「小さな別人生」を送れるところです。
そして現在まで地上に現れたどんな芸術・娯楽よりも、リアリティ溢れる小さな別人生を送ることができる。
しかし、あまりにリアリティがあるがゆえに、なんとも皮肉なことに、逆説的なことに、その別人生は、本物の人生そっくりになるんです(笑)
優しい人は優しく、自分勝手な人は自分勝手に、運のいい人はやっぱりツイてて、リーダーはリーダーらしく、しでかしさんはしでかしさんらしく、教え魔もいればイベントコーディネーターもいて、
でも、それは、わりと、そのひとそのもの。

と考えて振り返れば、確かに自分の生き方もそうでした。
ぐんぐん伸びるところ、吸収するところが好きで、
壁にぶち当たるとチョロQのようにぷいと方向転換してきました(笑)
その転換はまさに壁任せ運任せ、「とにかくこっちには行きません」というだけで、とりたててビジョンなど無いのです。
その時はある気がするのですが、5つの子供の描いた宝の地図みたいな大雑把な絵で、「ある」というアリバイ以上のものではありません。後から見ればね。

でも、それが嫌いかというとそうではなくて、その時その時は、まさにチョロQのように目一杯壁にぶち当たっており、ぜんぜん悔いはありません。
シャープが絶好調なのを見ると素直に嬉しいんですけど、「辞めなければな」なんて思ったことは一瞬たりとてありません。
ま、そういう人間です。

75になって、すっかりアブラの抜けた自分を振り返って、
「そういやそうだよ、おれいつもそうだ」
と感心しきりです。

いやあ、FF11は本当によくできています。
最後の最後で、すごい大きいことを気づかせてくれた。

同じ間違いをくり返し、動きがすこぶる鈍く遅く、サーヴィス精神が常に斜め下向き、わたしはてっきり、FF11を辞める時は、罵詈雑言を浴びせ後ろ足で砂をかけて辞めるものだと覚悟していました。
実際、そういう人は多々おられます。
あるいは、娯楽としてやりすぎによる飽き、あるいはリアル事情によるやむを得ない中止。
そうではなかった。
キリのないMMORPGで、こういうキリが訪れるとは、嬉しい誤算でした。
これでいつパッドを置いても、
「いやあ、FF11はおもしろかったよ〜! いっぱい楽しんだし勉強した!」
と胸を張って言えます。堪能しました。

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おもしろいのは、上げきるまでまったく気がついてなかったことで、実際レベリングはあまり好きではなかったのです。
見ず知らずの人で気を遣うし、物理的にも拘束時間長くて、目も肩も手も腰もしんどいし、簡単なクエストみたいなのでざくざく経験値が入ればいいなあ、なんて思ってました。
ところがどっこい。
実は、一番楽しんでいたのは、「本人の意識とは関係なく」、レベリングだったのです。

なんて損な性分だろう!(笑)

ただ、最近はそれが少しずつ見えてきたようです。
だから今年一年などは、内的充実という成長があるからこそ、客観的に見れば超低空停滞でも、本人はヘラヘラ笑って「いやあ悪くない一年でした〜」なんて言ってられるのです。
もし真逆、お金ガッポガッポ稼いで可愛い恋人が空から振ってきて書いた本なんかもたくさんの人に読んでもらったとしても、自分が「伸びた」という実感がなければ、顔で笑って心で鬱々としている、だろう、と思います。

で、最近ほんとによく思うのが、
そういう「事象」というものは、わたしにはアンコントロールで、どうしようもない。
しかし、「伸びた!」という実感ならば、本人の意志と気合い次第で、いくらでもどうにもでなるわけです。
よい本を読む、よき友と語らう、ネコをじっくりと観察する、背筋を伸ばす、今日の「ほえなが」はまあまあ満足だ、
全部「伸びた!」です。

これを繰り返していくのが、自分には一番合ってるなあ、と。

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これはあくまで「わたしの場合」なのですが、前述のように成長を欲望で読み替えると、おおよそ多くの人は、どこかしらへ「伸びたい」ものではないかと思います。

そうであるならば、意志の力で、「伸びよう」として、
自分の思う方向へ、少しずつ「伸びて」いれば、
生きることはとても楽しい、んじゃないでしょうか。

生きてりゃいろんな事象が降り注ぎます。
嫌なことも良くないことも。

ちょっと聞いてくださいよウチの前の葬式会館の話なんですけどもつれにもつれて昨日の朝などプチ住民集会in我が家の応接間ですよなんかね「ワシの目の黒いうちに葬式会館を」とかわけわからん老人がいるとかいないとかとにかく誰がどんな目的でなにをどうしようとしているのかぜんっぜんわかんなくて近所の方が市に問い合わせてみてものらりくらりでサッパリ要領を得なくて……

まあ、いろいろと。

それひとつひとつに原因と結果、とくに自分の意志の通じる通じないを考えてると、今の世の中では生きていけません。
いや、たぶん、今の世の中じゃなくても、昔の方がもっと、生きていけない。

それはそれ。
で、意志の通るところは、きっちり、がんばって通す。
最近「がんばらない」とか聞きますが、とんでもない話です。
世の中はがんばらんと通らないものばかりです。
でも、がんばっても通らない、というかがんばりが関係ないものも多々ある。
がんばりどころ、をちゃんと見極めるのが、
しあわせのコツだったりする気がします。

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「進化」にはそれ自体にドライビングフォース(推進力)があるのではないか、
というのが、生物系の最近の本を読むとチラリチラリ出てきます。
進化は、目的、もしくは理由によって引き起こされると考えられがちですが、どうも、それもあるけれどもそれは微妙な方向づけで作用するだけで、
そもそも目的も理由も秩序もなく、「進化していこう」とするエンジンが積んであるのではないか。

工業製品でも、表現作品でも、最近はそうです。
ものすごい技術とエネルギーがブチ込まれて、
やってることは同じ。

okbちゃんにiPod見せたらね、家帰ってたーこさん(奥様)に
「今日ながたさんにiPod見せてもらったよ。mp3でデジタルでPCと連携してHDDが……」
「で、なに聴いたの?」
「『セーラー服と機関銃』」
「めっちゃアナログやん」

そのとーり!

10年経っても20年経っても、100年経っても同じことをやってると思います。
ものすごく進化したスーパー・デバイスで、ひろ子の歌声を聴いているのです。
デバイス達は、それをささえる技術達は、「なにをどうこう」というために進化しているのではない。
(そういう場合もあります。重いOSがシステムパワーを引きあげるとか)
ただ、進化するために進化している。

で、あるならば、なおのこと、
「思うさま伸びたい方向へ伸びていく」ことが、
「自然にかなった生き方」なのかなあ、なんて思います。
どこに住むとか、なにを食べるとか、「自然」っていうのはそういうことではなくて。
いやそれも大事ですけど。
そこを「自然」にするだけで、大きなストレスがずっぽり落ちる、そんな気がします。
まあ、そこが一番難しいのはわたしもよ〜く知っちょりますが……

---

ともあれ、来年も、ぐいぐいのびたい。
いや、死ぬまで。
いまわのきわでも、「ああ、まだあれが足りない!」と悶えていたい。
満たされて死ぬなぞまっぴらゴメンだ。

……そう考えると、楽しくなってきません?(笑)

成長することそのものを、楽しんでいたいですね。



 12/27 スウォッチ的

 わたしモノ好きですから、スウォッチなんか大嫌いだったんです。
 いや、モノは別にいいんですけど、持ってるヤツが大嫌い。
 しょーもないカー雑誌の自称ヒョーロンカとかが「マセラテー」なんて単語ひねりながら左手見るとそこにスウォッチ。
 もう許せない。
 坊主袈裟ってヤツです。

 でも友達にひとつ貰って仕方なく自分のモノになってしまうと、現金にも、
「……これはこれでありやな」。
 だって、時間さえわかりゃ時計なんてなんだっていいわけで、そりゃ昭和天皇もミキーの時計しますよ。(余談ですが、あのエピソードもあのお人の底知れぬ人間性を表してるいいエピソードだと思います)もっと言うと街にはいくらでも時計あるし、今は携帯持つ機会も多いし、時間もわかんなくていいのです。
「時計である」という自称と、腕に巻き付く物体であれば、それで。

 で、あるならば、逆に、
「『時計とは』というところにこだわっているのって、無駄じゃん」
とも言える。
(無駄がいいか悪いか、カッコイイかカッコ悪いかは別にして)
 スウォッチは、「『時計とは』以外」を一番こだわってるメーカーですよね。
 そう考えれば、一番イカしてる、というより、一番マトモ。
 よそのメーカーこそなにやってんだ。
 蓄電機能で何ヶ月持つとか、300m潜れますとか、トゥールヴィヨンですとか、それはじゃあ、「普段のわたし」に一体何をもたらしてくれるのか。
 何ももたらしてくれないのです。
 それより、パワーパフガールズが描いてある方がよほど何かをもたらしてくれている。
 「所有する喜び」って言い出せばそれこそパワーパフガールズと同じですからね。

 もちろん、これは大げさに言ってるのであって、わたしは今でもいい時計大好きです。
 でも、スウォッチ的なやり方も、「何かをもたらしている」という意味では、認めざるをえない、というより、いつのまにか認めてしまっている自分がいた、というおはなしです。

 また、このやり方が簡単だ、というわけではないです。
 これはこれでとても大変です。
 腕の立つ技術者より腕の立つデザイナーの方が何倍も高い。
 逆にいえば「そこにしか価値がない」わけで、質屋に持っていけば(レアものでない限り)クズです。
 クズを黄金に変える錬金術の方が、金鉱を黄金に精製する化学より、難しい。
 だから、わかっててもおいそれとはできない。
 そして難しいことは、カッコよかったり、驚きがあったり、するものです。

 文章というものは、本質的価値などゼロのものです。
 しかしわれわれは、それをなんとなくいいものにしていかねばならない。
 そう考えると、見習うところがある。

 そんな風に思いました。
 具体的にどこをどうするというより、気持ち的に。



 12/26 雑感

一週間ほど前から、右の胸が痛い。
心なら年がら年中痛いのだが、胸が痛いのは初めてである。
第二次性徴は終わってると記憶するのだが。
身体を動かすと痛みが走るので、外科的なものっぽいのが救いか。
どこに根拠が。
お医者さんに行けばいいのだが、その昔原因不明の脇腹痛で慌てて医院(内科)に駆け込み診てもらったところ「筋肉痛」だった恥ずかしい過去があったりもして、なんとなく。

ところが風呂場で鏡など見ると、若干凹んだように見える。
我が恩師Z先生などはある日くしゃみをして肋骨を折ったらしい。
その類かもしれぬ。
釈然としないままトロイアを攻めるアキレウスのポーズなどしていると、ふと目に入る体重計。長らく乗ってない。

……66キロ?

ダイエットにお悩みの方には怒られるやもしれないが、思い当たる節なく痩せるというのは、あまり気分のいいものではない。それも適性体重から遠ざかる方は。

釈然としないままブランデーグラス片手に白いガウンを羽織ってwebに向かうと、マンガ家の小菅勇太郎先生の訃報。

マジで!?

小菅先生はオタク文化にはとんと暗い私の数少ないデフォ買い(新刊が出れば中も見ずに買う)作家さんである。単行本も最新刊以外全部持ってる。
少女漫画風味の華奢な絵柄で人の心の奥襞を抉る、得難い個性であった。
(ちなみに他のデフォ買い先生方はあずまきよひこ、月野定規、飛龍乱、ゼロの者、鬼ノ仁、LINDA、七瀬真琴、きのした黎、玉置勉強、士郎正宗(敬称略))

ご冥福を祈る前に、「もう読めないのか!」と手前勝手なガックリ感だけが襲い来る。
しかし考えてみれば作家としてこれ以上の栄誉もない。
私とてもし今死んだら「イイヤツだった云々」などというより「ミラクルズはどうなるんだよ!」と叫んでもらいたい。
胸の痛みを押さえながら冷静に考えてみれば、それはまだまだはるかに遠い目標である。
「一個ずつやろう」
そう思って年賀状を描いた。

やってみるとやれるものである。
苦節1日半、大部30枚がイモ判で刷り上がった。
弟のPM-950Cをかっぱらって印刷したので、自分史上初の四辺縁無し印刷年賀状である。
そんなもの今時珍しくもなんともない。

旧年中に賀状を発送できたのはいつぶりか覚えてない。
父の喪中で欠礼挨拶を送って以来か。
去年などは2月上旬にずれ込み、恩師S先生に「鷹合はチベットですか」とご叱責戴いた。
それでもご返礼くださるのがS先生の優しさと真面目さであり、つくづく駄目な弟子で申し訳ない、と思ってあれからもう11ヶ月。
早すぎる。

今年は本当に早かった。
毎年早くなるのはもう慣れっこだが、それにしても「なにをしたか」すらはっきり覚えてないほど早かった。
ではなにもしてないか、というと、「なにもしなかったなあ(泣)」とはあまり思わない。
なんだか、15年ぐらいぐちゃぐちゃと積み重ね、散乱させ続けてきたいろいろなモノを、捨てたり片づけたり理解したりしてサッパリした、そんな一年だった。
それ自体は何も生んでないのだが、当人はいたく上機嫌である。
人の幸せの前にまず自分の幸せである。

釈然としたのでM-1を見た。
「笑い飯」が自爆した。
ツボにハマった時の爆発力は捨てがたい。審査員諸兄も二回目期待料込みの甘めの点だったが、それでも決勝にも残れなかった。
だからといって安定感を得る方には行って欲しくはない。ことここに至って予選用の鉄板ネタすら用意してないのがあの二人らしくて良い。
芸能人としてはダメかもしれないが、芸人としてはそれでよかろう。

「南海キャンディーズ」を初めて見た。とても新しく、もちろん、及第以上におもしろい。
ただ、すでにほのかに傾向が見られるが男女ペアはお互いの弄り合いになりがちで、悪くはないのだがマンネリになる。
ネタも知的でケレンがなく、若いコンビながら安定感・落ち着きまである。
要注目。

母が近所を走り回っている。
噂はあったが、ウチの家の正面にやっぱり葬儀会館が建つらしい。
様々な怪情報裏情報が乱れ飛んで、他人事だと思えばおもしろい。
中でもおもしろいのはその土地が病院の真裏であり、病院が建つ時に「建たせてもらったわけですから」と市に寄付した土地という事実だ。
さらにおもしろいのは葬儀会館になっちまうかもしれない事実を最初から病院が知っていることである。
養鶏場の横に焼鳥屋、こんな合理的なことはあるまい。
ちなみにこの病院、得意は脳関係である。

年賀状を描いてしまうとこんなにもゆっくりするのか、と驚く。
しかし考えてみれば私の近況なぞここへアクセスすれば何をしてどこへ行き何を考えているかまで、オール丸わかりである。
不公平だ。
来年は少しミステリアスな部分も用意するか。
いや待て、そんなもの用意せずとも僕は僕がまるでわかっていない。
古い「ほえなが」を読むと、いつもそんな気がする。
いいこと言ってる日もあれば、くだらねえチラシの裏の日もある。
と、考えると別に不公平でもなんでもない。
むしろ要らぬ情報で混乱させているだけではないか? 自分も、他人も。

今年わかったことは、「なにもわからん」ということかもしれない。

今宵は小菅先生の「きれいな恋をしよう」でも片手に眠ることにする。
お疲れ様でした。どうぞごゆっくり、お好きなものをお好きなだけ。



 12/25 Do Nothing.

♪ラースクリスマス アイムゲリマッハー

本日はワムの日である。(達郎はいつもミスドで聞いている)
ゼロの話でもしよう。

DILBERT」はITエンジニアの悲喜こもごもを描く大人気コミックであるが、アメリカ直輸入のキャラTシャツが共立電子の一階に飾られていたことがあった。胸に大きく、
「DO NOTHING!」

積極的にやらない。

物理的不足から「できない」ことが標準で「できる」ことがスペシャルだった時代は終わった。
現代は普通に生活しているだけで、物理的にも精神的にもさまざまなことが「できる」、いや、「やらねばならぬ」時代である。

だから疲れる。

「なにもしない」という時間と空間が、我々にはどうしても必要なのだ。
そしてそれは、現在では、手を止めるだけでは得られない。「なにもしない」ことを奪い取りに行かねばならない。
「緊張していない」という状態が「緩和」ではない、「緩和している」という状態を、自ら作り出さねばならぬのだ。
そう、空いた桁には、「0」を書き込まねばならない。

アイデアが風呂の中でトイレの中で布団の中で出る方も多かろう。
あれは、慌ただしい日常生活に訪れる「0」である。そこで切り替わるモード、スイッチ、それが新しい刺激になって、アイデアや閃きを生む。
脳だけではなく身体もそうである。
ダイエットしたいなら喰うな。まず喰うな。
胃腸を休めてあげる日、または時間、それがまず大切である。そこで体勢を整えて、身体が何を欲しているか、見極めればいい。
また、禅に限らず宗教・武道には必ずといっていいほど、ゼロ状態を作り出す修行、またそれを維持する修行が組み込まれている。
信仰とは、自分をゼロにすることではないか? あるいはマツリもそうではないか?
古来、ゼロはそれほど大切にされてきた。

積極的にゼロ。
ゼロがあるから、プラスもマイナスも正しく評価できる。

そしてやってみれば、なにもしないことがどれぐらい大変か。
仕事もしない、テレビも観ない、DVDも観ない、本も読まない、街にも出ない。
「どうすればいいんだ」と雄叫びたくなるぐらい難しい。
難しいからこそ、我々はその空間に恐怖し、ガラクタを並べてなにかをやった気になっている。
これが一番、始末に負えない。
人生は短い。
そんなガラクタは、もう要らぬ。

こころもカラダもアタマもゼロ。
Do Nothing.
今日ほどそれが相応しい日もあるまい。
そう、今日生まれた大工の息子のオヤジであるところの全知全能の神様でさえ、7日に1日は休みを取ったのだ。

……さて、年賀状でも描くかな。



 12/24 岐阜「更科」

クリスマス・イブである。
そばの話でもしようか。

そばは、ジャンクフードである。

本当のそばの美味さが知りたければ、冬、関東以北の駅の、
吹きさらしのホームで駅そばをすするがよい。
黒いしょうゆ汁、横たわるザラつくグレーの麺、白ネギの生々しさ、
味わいもなにもない一味、アルミのバットにならぶ冷えたコロッケ。
濃い、くどい、熱い、歯ごたえ、香辛料の刺激。
減った小腹と冷えた身体を熱くする舌と胃の体験、
これこそがそばの真骨頂である。
ここでわざわざ「ときそば」を一席ぶつ必要もあるまい。
太古の昔から我々はそうやって、そばを食してきた。

しかし現在、そばをそのように楽しむのはとても難しい。
内憂外患。
内憂は粋と気障と思想のない民芸調と主人の頑迷を調味料に、
味も栄養もない麺をソソとすする、
あの得体の知れないマゾヒスティック・フーズであろう。
あれは裏地に龍や虎が縫われた学ランと同じで、「粋」を表現する舞台装置である。
食べ物としての本質を楽しむものではない。
外患としては、日清食品が火を点けて約50年、
もはや日本のNo.1麺類に育ってしまったラーメンの存在がある。
そばと違い歴史が無い、つまり「なんたるか」が無いラーメンは、
それがゆえに原材料に具に食べさせ方、
実に多種多様な表現を生み、進化を生み発展を生み、
各々のファンを吸引し続けて現在に至る。
エネルギー沸き立つフロンティアにこそ、人材と金とチャンスと真実が落ちているのは、
古今東西変わらぬ真理である。

そうそばはジャンクフードの女王の地位を、自ら捨て、また、ラーメンに追われたのだ。

しかしここに、そんな現状に静かにしかし敢然と反旗を翻す、「ジャンクそば」の名店がある。
岐阜「更科」である。

平凡な外観平凡な店名にだまされてはいけない。
非凡なのは名物メニュー、「冷やしたぬき」。
ざるでも天ぷらでも鰊でもない、天かす(揚げ玉)が散りばめられた安そばの、
しかも冷やしとはどういうことか。
同行の数学者が吼える。
「冷やしたぬき、ダブルで2−2!」
「そば」を喰うのにはなから大盛りのしかもオプション満載とは一体どういうことか。

疑問は、それがやってきた瞬間氷解する。
黒くドロリと濃厚な汁、香り高くざらつく舌触りのそば、天かすがこれでもかと乗り、
白ネギがなまなましい白をさらし、揚げは汁の味以上の濃い味が染みこまされている。
「これだ!」
しかも丼縁にはわさびが塗られ、テーブルにはタンクからスプーンでかける一味と七味、
そしてそば湯が魔法瓶でスタンバイ。

しょうゆとんこつ背脂チャッチャ系チャーシュー麺をご想像いただきたい。
揚げは精進料理で肉の代わりを務めるが、その意味がよくわかる。
濃い味でギッシリ煮染めたお揚げさんは、タンパク質・ジューシー感・脂のノリ、まさに肉。
しかも肉ほどキツくないので、いくらでも楽しめる。
天かすは背脂より優れたことに、汁に浸らなければとげとげしく口内を物理的に刺激し、
麺類にありえない「カリカリ」という食感を楽しめる。
むろん汁に浸りそば湯に浸ってふわふわの状態を楽しむのも良い。
肝心の麺もがっしり打たれしっかり歯ごたえ、濃い脇役達に負けてはいない。
野性の蕎麦、米も麦もできぬ痩せ地にも「雑穀」としてのびのび育つ、
その姿を思い起こさせる「強さ」がある。
汁も直接すすっても濃くしかし嫌味はなく、そば湯を入れるや優しいスープに早変わり。
まるで普段気の強い娘が、雨の公園で小犬に傘を差してあげる横顔である。

濃さ・熱さ・気軽さ・味の変化、そして遊び心。
これぞまさにジャンク・オブ・ジャンク。

忘れていた、ジャンクに不可欠な、不必要なまでのハイカロリー、
エネルギー補給能力も間違いない。
これは、1時間後にはまた小腹が空くなどという、お腹に優しいダイエット食品ではない。
ダブル(大盛)など喰おうモノなら当日一食これでOK翌日朝まで抜いて結構、という
「天下一品」の「こってり」も裸足で逃げ出すハイパワー・フードである。

そばは、これだ。
これが、そばだ。

最近、ラーメンのエッセンスを取り入れた新型のうどん店が幅を効かせつつある。
そばも、やりようによってはそこに食い込んでいけるのではないか。
「更科」ならば、各地に点在する「ラーメン○○」という小テーマパーク類に
殴り込みをかけても、十二分に戦えると思う。
どうしても動物系でしつこくなりがちなラーメンに対し、
やろうと思えばさほど無理なくオール植物系を実現できるそばは、
高齢の方、女性、健康が気になる方、等々には逆に大きなアドバンテージを持っている。
いや、これから、そばの時代が来るかもしれない。

本来「そば」という食品には、こうしたジャンク系から手打ちざるソソ系まで、
さまざまな可能性がある。
それを限られた方向へ視野を狭めてしまっているのは、我々食べる方なのではないか。
そしてこういうことは、なんででも、どこででも起きている気がする。

「そばなんかあまりうまくないよ」
うまくないのは、自分の視野の狭さである。



 12/23 鉄心ゼミ忘年会・2004


鉄心ゼミの忘年会にお邪魔した。

ついこないだ顔を合わせたような気がしたが、
よくよく思えばジャスト1年ぶり。
前回は同じ忘年会、大雪の中足を濡らして駆けつけた記憶がある。

そう考えれば、今年は本当にあっという間である。
毎年早くなるのは当然としても、今年は異常に早かった。
充実していたからか、はたまた本当にすっからかんだったからか。
まあどっちゃでもよい。
問題は当人の満足度であり、それは決して低くはない。

宴会は相変わらず楽しかった。
なにもしてないのに、またプレゼントをもらってしまう。しかも寸劇付き。
今年いただいたのは鉄心ゼミスペシャルTシャツである。
後ろにでっかく「石渡研」と毛書、胸にはゼミのテーマである「和」の一文字。
街には着ていけない。
理由は、もったいないから。

ついに一期生の修士も卒業とのこと。考えれば長い付き合いだ。
いろんな宴会で楽しませていただいた。
ご苦労様はまだ早い、修論追い込みがんばって。
というより、これからが人生本番でございますよ。
挫けそうになったら鉄心さんのところへ帰って行きなさい。
いつも変わらずしばきあげてくれるだろうから。

そういう人がいるというのは、とても幸せなことです。

宴もよかったが本日の収穫は、日本数学界の誇る「トリオ・デ・イシワタ」の長男・通徳さんとお知り合いになれたことだろう。
実に楽しい人である。
歳は一つ上の学年は同じ、カビとフルートをこよなく愛するナイス・ガイ、趣味は自爆テロ。
なんといってもその芸風は、ゲストで呼ばれた宴会で真っ先に潰れるというアヴァンギャルデなもの。
ただものではない。
共に独身で境遇がちょっと似てることもあって、翌日昼まで大いに盛り上がった。

鉄心さんや博士を見て、我々一般人は
「さすが学者さんは一風変わっている」
などと感想を漏らすのだが、彼らは数学界では実にまともな(一般人との親和性と類似性が高い、という意味で)人達である。
FさんNさんNさんYさんOさん……そしてこの通徳さん、どなたも非常なる変tいや個性派揃い。
日本の数学の未来はとても明るい。
ガックリ安心してていい。

我らが源石アナも午前2時頃駆けつける。
鉄心邸でわずかな仮眠後帰っていったのだが、翌昼、ラジオをつけると元気で脳天気なあの声が聞こえてきた。芸の世界は体力勝負である。

そんなラジオを聞きながらまた美しい奥様のお手剥き製のおりんごなどいただきながらゆるゆるの80年代「ジャンプ」トークが繰り広げられた。
「ラ王、なにを目指す!」
「天!」
間違いなくいい時代だった。
みんなが、なにかを勘違いしていた。

人生の実態など、死ぬために生きている実に虚しいものである。
どこでどう勘違いするか、そこが勝負だ。

3時前に個人的に宿願の「更科」へ繰り出す。
冷やしたぬき超最高。これはまたこんど詳細。

岐阜駅で、見送る夫妻と別れた。
古いコルサの前で揃って大きく手を振ってくれるプーさんと白雪姫。
そうここは岐阜ディズニー。
みっちー談。
「ここへ来るとね、いつも、幸せな時間のあとにガックリ来るんだ」
万感をこめてうなずいた。
いやうなずいている場合ではない。
通徳さん、来年はお互いがんばりましょう。
ね。

失うもののない人間の怖さを、思い知らせてやる。

いやだからそっちじゃない。
いやそっちも大事だけれども。

岐阜はいい街である。
それは鉄心夫妻がいるからであり鉄心ゼミがあるからだ。
街の良し悪しなどというものは、その程度のものである。



 12/22 「浸透力」補足 (「意味」シリーズ13)

なんか長年考えてきたことが溶けて流れたのか、
気持ちよく眠れます(笑)
昨日など2回に分けて12時間ぐらい寝ました。
実に久しぶりです。

本日ももう少し。

---

・「浸透力」には、ピークの「強さ」と「持久力」がある。
 一般に、強いピークを持つものは持久力がない。
 おそらく、人間の刺激に対する慣れシステムが働くのであろう。同じ刺激では刺激でなくなる。また、すぐ飽和して振り切れるという面も持つ。
 逆に、ピークが弱くても持久力を持つ浸透力(を持つもの)もある。
 いわゆる「よいもの」といわれるもので、おそらくこれは、使いごこち・触れ心地といった接触してからの満足感、のようなものが効いている。

・あらゆる「浸透力」は揮発性があり、時間と共に減っていく。
 いわゆる「よいもの」は使いやすいため長く多く使われ、揮発分を上回る速度で繰り返し刺激を蓄積し、ますます浸透力を強めていく。
 逆にピークだけ強いものは、そのインパクトの強さから頻度そのものが多くはなく、また慣れから刺激の期待値と現実値の差が広がり(「思ったほどではない」ことが増え)、浸透力を落としていく。

・理想は、強いピークが長く続くことだが、強いピークそのものに慣れや麻痺といったマイナスの面があるならば、逆にあえて強いピークを選択しない作戦もありである。
(強いピークはそう簡単に得られるものではないので、贅沢な作戦ではある)

・モノ側の力ではなく、受け入れる側(社会・お客)の要求も、浸透力の一因となる。
 絶対的には無価値のものも、受け入れる側が価値を認めれば有価値になる。
 ただし、これでピークを出してしまった場合、飽きや環境の変化などで、そう長くは続かない。
 あらかじめそういう認識が必要である。

・ピークで人目を引いておもむろに本物をぶつける作戦もある。
 ただし、本物が作れるなら最初から本物で勝負した方がいい。
 奇襲はまともにやれば100%負ける場合の、最後の博打である。

---

 「意味」にまつわる一連考え方は、(自分にとっては)とてもしっくりくる考え方で、満足していました。

 しかし、身の回り(社会)でおきる諸相を理解するにはまだ足りません。
 独自の「意味」にこそ価値があるのなら、なぜその価値と社会的広がり(受け入れられ方)の間に相関関係が無いのか。
 簡単に言うと、「なんでこんなしょーもないもんがこんなウケんねん」。

 言わなくていいイイワケをしますと、嫉妬でもなく絶望でもなく、
 それは好奇心だったようです。

 どうして世の中はこんなにワケがわからないのか。
 そのワケを知りたい(笑)

 今年一年のドリフト具合を見て頂けるとおわかりのように、ああでもないこうでもないといろいろ気の持ちようを工夫してみましたが、どれもいまひとつしっくりこない。

 諦める、というのがあります。
 これは実はヒジョーに難しい。
 それに、「諦めたらそこでゲームセットだよ」と安西先生もおっしゃるではないですか。まさにそうで、ここで諦めたらどこで諦めずに頑張んねん、と。

 ワケがわからないまま受け入れる、という作戦もあります。
 高い人間性が必要です。
 無理! 無理するのは人間良くないです。駄目なものは駄目、一時期の能活のように、固まった笑顔を作っても誰にもなにも伝わらないのです。

 身体を動かして思考を止めてみるのも。
 江戸時代の農夫ならばそれも可能かもしれませんが、現代社会ではそうはいかんのです。その前に、われわれは、「考えてなんぼ」の社会的ポジションにいるわけですから。

 そこで考えついたのが、
 お得意の「意味」をひっくり返して適用する、この「浸透力」という考え方です。

 送り手は「意味」をこめて送り出します、これが半分。
 受け手は自分の「意味」をその中に、好き勝手に見つけます。これが半分。
 両方合わさって、社会は動いていく。

 この両方の馴染み具合、
 送り手の押しつける力と、受け手の受け入れる力、
 その間に発生する浸透力、
 この大小と方向によって、強い印象があったりなかったり、価値があったりなかったり、
 そしてまた、残ったり残らなかったり、するのです。

 ……あとから考えればアホみたいに当たり前のことですが、ほら、鐙の発明が11世紀ってのと同じで、考える過程ではわかんないものなんですって。
 
 でまあ、自分用に書き添えておくと、
 我々表現者的に、その「浸透力」を強く持たせるためにはどうするかというと、
 独自の「意味」を強く持たせ、その「意味」に集中して、誇張と省略を効かせること、
 が必要なのかな、と。
 社会のベクトルと自分のベクトルの違いにより受け入れられる割合(数)は異なりますが、それは作り手にはあずかりしらぬところです。
 そんなことより、より強い「浸透力」を持たせること、それができるよう訓練し研究し選択すること、そういう修練を地道にしっかりやること、それがやるべきことです。
 ま、これもあたりまえのことですが。

 両方から手を伸ばしているイメージにするには、「親和力」とかの方がいいですかね?

---

 まあいえば、2年掛けて戦艦大和のでっかいプラモを作ったようなもので、他の人にはわからない喜びなのだろうとは思います。
 でも、「できたー!」っていう気が、ずいぶんします。

 できあがり予想図がないプラモです。
 1ステップごとに「やった」と思いましたが、それは今にして思えば船体ができたり主砲ができたり艦橋ができたり、という段階でした。
 主砲ができたら、「おお、なんかカッコイイものになってるぞ?」って思う。だけどまだ使ってないパーツが山のようにある。
 次は艦橋ができあがる。またそれはそれでひとつの構造物なんだけど、さっきのと関連があるような無いような。
 そのくり返し。

 今回は、ディテールはまだ甘いかもしれませんが、「おお、大和だ」と眺めて思います。
 やっとネットが発火した、全体がつながった。
 「ああ、僕は大和を作っていたのね(笑)」

 モノってのは、最後はいきなりできあがるものですな。

 ま、最初からできあがりわかってるものを黙々と組むばかりなのも、つまんないですしね。

 そう思って自らを振り返れば、確かに、才能も技術もまったく足りない(自分が「これだけあればなんでもできるな」と思う水準に対して)のですが、
 押し込めそうなターゲットに押し込む力、浸透力なら、まあある程度はなくはない(笑)
 そこは実績もありますしね。
 それでなにをどうできるのかはやってみないとわかりませんが、まあ、なんとかなりそうな気はします。

 ……というようなところは、転げながら間違えながら迷いながらでも、なにかやってないと得られないところなので、そうやって惑う日々も、大変な栄養なのですよ。


 年の瀬の自分に、自分でクリスマスプレゼントでした。
 今日は鉄心ゼミの忘年会にお邪魔して、呑んできます。
 では!



 12/21 「浸透力」 (「意味」シリーズ12)

19日のようなことを考えてから18日に戻ってみる。

私は、「よいもの」という言葉を相対的使ってきた。
それはすなわち、他者と比べてあるいは以前と比べて、
「より○○」「より××」
それが群を抜いているものを、またその要素の数が多いモノを、
「よいもの」のひとつの基準としていた。

どうもそうではない。

以前から頭をひねっていた問題がある。
そのような要素分析では評価不能な「よいもの」が出現することだ。

クルマの例えで言えば先代K11型マーチ。
これなどは冷静に考えれば、さほど卓抜なデザインでもパッケージでも性能でも価格でもなく、もの自体以外の環境要素(市場動向、セールスパワー、流行etc……)のアシストもほとんど無い。
それなのによく売れ評価高くみなに愛される、間違いなく名車であって、
つまり「よいもの」である。
ThinkPadなどもそうである。
冷静に見れば図抜けて高価で低スペック、重く大きい。
なのにファナティックなファンを他のどんなノートPCよりも多く抱える。

これはなんだ。

「バランス」や「ユーザー視点に立ったものづくり」では理由にならない。
それは誰しもが考えていることだからだ。

ここで19日の話題に帰る。
すべてのモノが触媒であるならば、
「よいもの」とは、より強い反応を引き起こす触媒、
受け手にとって情報の濃度の濃い、私の言葉で言えば「意味」の強いもの、
と言い換えることができよう。

K11やThinkPadは、受け手に浸透していく力が強いのだ。
K11、ほどよくカジュアルで気が張らず老若男女誰にでも合わせ、経済的でポップにすぎないキャラクターは酒屋の配達車から女子大生の足までなんでもこなす。
(イメージが限定されるのを承知しながら)言えば、
「使いやすい」からよく使う、
だから距離が近い、
だからより強い反応をより長く引き起こし、強い「意味」を持ってくる、
だから「よいもの」なのである。
TPもそう、我々本気でキーを叩く人間にとってはかけがえがない、
からこそ距離が近くて、触れる時間が長くて、「意味」が蓄積して、
「よい」という判断が下る。

とすると、「よいもの」たらんとするならば、
この「浸透力」みたいなものを持つ、
のがよかろう。

それは、「より○○」というようなところとは全くなんの関係もない。
より静かに、より速く、より広く、より安く……
では、ない。

なんでもよいから受け手に浸透する一点、それだけが問題である。
(K11ならば気の置けないキャラ、ThinkPadならばプロの道具としての信頼性)
しかし皮肉なことに、こういう点を生み出すことほど至難の業はなく、
ほぼすべての性質をその一点に向かって集約せねばならない。

K11には、レトロ調にワゴンにコンバーチブル、さまざまなバリエーションがあるが、
普通のコンパクトハッチに必ずといっていいほど設定されるスポーツモデルだけがない。
それはK11ファミリーが目指す浸透力とはまったく異なるベクトルだから、
必要もないし、意味もない。
ThinkPadが重く大きく枯れたデバイスしか載せないのは、信頼性を守るためである。

しかしその道を辿る、これすなわち
市場競合他者との「より○○」合戦からは降りることになる。
それができる市場もあるし(K11はなんとかやり遂げた)、
できない市場もあるし(ThinkPadは風前の灯火である)、
した方が儲かる市場もある(ファッションのブランドものなど)。
つまり「売れる売れない」と「いいわるい」には、
相関関係がある市場もあるし、ない市場もある。

---

それは、すべてのモノについて同じである。
「モノ」には情報も人も活動も含まれる。

本当に「よいもの」を作ろうと思うならば、
この「浸透力」みたいなものを意識して、
その一点周辺に絞って練り込んでいくのが肝心であろう。

くり返しになるが、それは従来の延長線上には無い。
「xに比べてより○○」、そんなところからはこの「浸透力」は生まれない。
極論すると、「比べている」時点で終わっている。
考え方をコペルニクス的に転換する必要がある。

罠は、「よいもの」を要素に分けて分析すると、
「より○○」という要素が見えてしまい、
ならばそれを求めれば良くなるだろう、と考えてしまうところである。
ThinkPadで言うならば「よいキーボード」はすぐわかる「よりよい点」である。
ならばよいキーボードを載せれば「よいもの」ができあがるか、
といえばもちろん、そうはならない。
よいキーボードはよいものを目指す結果採用されたプロセスに過ぎない。

姿勢としても、技術としても、表す対象としても、
神経を使い手を使うのは、
この「浸透力」を得るためである。
他者と差別化するためではない。

その「浸透力」をどのような方向で、どうもたせるか、
ここはおのおのの頭のひねりどころ、力の入れどころである。
一般論はない。

ただ、どのベクトルであれ力の絶対値の大小は必ずあって、
値が大きいモノ、浸透力の強いモノは、強い賛同者を得る。
小さいモノは、弱い賛同者しか得ない。
(そしてそのベクトルが、
 人がたくさん居る方に向いていれば多数の賛同者を得、
 あまり居ない方向に向いていれば少数の賛同者しか得られない)

---

……で、また自分の話に戻ると、表現系っていうのは実に数値化しにくいものなので、
余計に「より○○」という方向には行きにくいし、行ってもしょうがない、と思います。

自分の思うユニークな(僕の言うところの)「意味」をごりごりっと描き出して、
それをぴかぴかっと輝かせて、
「浸透力」そのものを磨いていくと、
フィットする人にはよくフィットすると思います。

そして、工業製品や食料品と違って、表現物というのは完全に余剰生産物、
不必要なものなので、
「浸透力」が薄いモノ、つまりびりびりっとこないモノ、
は全く要らない。
お金積まれたって要らない。
人生の時間は有限ですからね。

だから、なおのこと、「ベクトルがどっち向きか」考える前に、
「浸透力強い」っていうところを、追い求めていかねばならないのです。

---

この、「浸透力」というのはおもしろいもので、要素に分解して考えると、
矛盾することもある。

岡本太郎先生の絵は、ワケがわかりませんが、そのワケのわからなさが
「ぐっ」とくる。
逆に「少林サッカー」なんてタイトル聞いただけでストーリーが丸読めですが、
そのわかりやすさこそがイメージしやすさに繋がって、「おもしろそうだ!」となる。

一般的方法論、公式みたいなのは無い。

「びっくりさせろ!」というのも不完全で、わかりやすいから浸透力強いモノもあるし、
「わかりやすく!」というのも不完全で、難しいから惹かれるモノもある。

自分の好き嫌いと、向き不向きと、モチベーションの持てる持てない、
そんなとこ総合してやりやすいベクトルで精一杯やるのがいいようです。

---

まとめますと
「好きなことやったらええねん。
 それが一番やで」
ということになるのですが(笑)
その根拠はこういうことかもしれませんね、と。



 12/20 それぞれに

クリスマスムード一色の街へ出でて博士夫妻と昼食を共に。

博士はやはり学者になるべく生まれた人だな、と思うのが、
見てきたこと聞いてきたことをおはなしに仕立て上げるのが非常に巧い。
これはもう才能である。
中学生の頃からそうで、昨日見たテレビ番組を語らせると本当に面白く聞こえ、
「うわあ、そんなおもろい番組見逃して損した〜!」と思う。
ところがふいと再放送を見るとさほどではない。
それは情報が先に入ってるからだとしても、
たまたま同じ番組を見て、リアルタイム本物視聴より翌日の彼の話の方が面白かったのには脱帽した。

そんな彼が近頃会った旧友の話をするのだから、おもしろくないはずがない。
抱腹絶倒であった。

やはり奥さんをもらって一個の社会的戦闘単位を構成すると、生活に幅がでる。

あるものは北の大地の広大なマイ・ストロベリー・フィールドでイチゴを狩り、
あるものは2人目を生んだばかりのおかあちゃんにレースで勝てる新型バイクをねだり、
あるものは食卓にオリーブオイルとバルサミコ酢がボトルで並ぶスコティッシュイタリアン。

これみな、中学生の頃は日本橋まで青洟を垂らしながら歩いていっては、J&PテクノランドのMSXコーナーでああでもないこうでもないとイーアルカンフーあたりについて語り合った友である。

あのころは同じようなことをしていたのに、
今ではぜんぜん違うことをしている。

それでも、会って話せばいつも同じなのだ。
たぶん、いつまでも同じなのだ。

当の博士夫妻も研究者仲間と肉を喰らわんがために近江八幡へ旅立つ。
ステーションビルのソフマップで松浦亜弥直々に年賀状を描くように脅迫された私は、家に帰るなりコタツにもぐりこんで吉本のおっさんオールスターズ(八方・ボタン・きん枝・まさと・こだま・ひびき)を鳥取に連れて行きなるみが弄るという、実に爽やかで知性溢れる番組を楽しんだ。

人生はあまりに豊かである。
果てもない。



 12/19 触媒 (「意味」シリーズ11)

↓昨日の話をもうすこし考えてみました。
「情報」とはあらゆる感覚器官で受ける刺激全般。
「モノ」とは物理的な物だけでなく人やサービスも含みます。


・どれほどの(その人にとっての)「情報」が得られるか、
 それがモノの価値の基準ではないか。

・よいモノとは、「触媒」としてその人の中の「意味」をよりたくさん引き出し、
 よりブーストするものである。
 それがその人にとって「情報の多いもの」すなわち、「価値の高いもの」となる。
 反応を強く活性化させる「触媒」こそがよいモノであり、
 それそのものに絶対価値があるわけではない。

・言い換えれば、「おもちゃ」である。
 「より楽しめるおもちゃ」こそが「よいおもちゃ」である。
 どんな材質でできているとか、どんな模様が刻まれているとか、あるいは、誰が作ったかとか、いつどこで作られたものかとか、そういうものは一切関係がない。
 「それを用いて楽しめるかどうか」それだけが、おもちゃの価値である。
 (エンターテイメントでも芸術でもなんでも同じ)

作り手の視点になってみる。

・それを生み出すのは、
 知恵であり、工夫であり、アイデアであり、イメージであり、夢であり、情熱であり、思いやりであり、愛である。
 技術でもなければ経験でもなければ努力でもない。

・その「触媒」にどう反応するか、それはその人次第。
 作り手にはどうすることもできない。
 どう思われてもかまわないし、かまえない。
 どういう情報を得ようとも、それが良いものでも悪いものでも、
 それは作り手の責任ではない。

・反応そのものをコントロールしようと試みる、
 もしくは得たい反応を望むのは、
 不遜である。
 また、不可能である。

・であるから、「出来の良し悪し」など存在しない。
 自分の基準にてらして「情報」の密度の判断はできるが、それさえも、他者にどれほどの力を持つのか、判断の材料にはならない。
 自分の基準でこね回すよりは、どんどん新しい触媒作りにトライするのが賢明である。

・ただし、当人にとっての満足いく出来映えというのはやはりあって、
 「自分の『意味』をこめつくした」
 「受け手も豊かに・ひろやかに『意味』を取ってくれそうだと確信した」
 という2点あたりだろうか。

さて、モノには人も含まれるのだから、

・人間としても同じである。
 よい触媒である、よいおもちゃである人は、とても楽しい。
 人が、そこから何かを感じ取るような人が、よい人。


こんな風なことを考えてみました。
僕は、よい「触媒」のような人になりたいですよ。



 12/18 「可能性」を (「意味」シリーズ10)

弟がPSPを買いました。

スイッチを入れると「NAMCO」の文字が現れたので、
てっきり「リッジ」だと思ってワクワクしたら、
「もじぴったん」でした。
ちょいガク。
あれ、頭使っておもしろいとは思うのですがカタルシスがあんまり無いので……

それはいいとして、やっぱりモノ、ハードウェアとして魅力あります。
あの巨大液晶がキラキラとゲーム画面を表示すると、
想像以上にインパクトありますよ。
やっぱりさすがソニー、「ポータブルデバイス」の勘所、くすぐりどころを
世界一知っている。
ソフト無くてもモノとして欲しい。

PCに接続できるUFDドライブを1万円以内でばらまくとか、
そういうことをやると、ポータブルオーディオ・ヴィジュアルデバイスとして
新しい可能性があるかも。
録画しておいた番組を携帯で、とはよくいわれますが、
正直2.4インチ程度では映像としての面白みはちょっと味わえない。
(iアプリなど、もともとその解像度・サイズをターゲットに開発されたものは別ですが)
でもこのぐらいあると、楽しめる、とまではいきませんが見れる。

……というようなことはもちろんいろいろ考えておられるでしょうから、展開が見物。

うーん。
ていうかこれ、「ゲーム機」じゃないじゃん。
NintendoDSとはぜんぜん別ジャンルの商品です。
あっちは完全にポータブル・ゲームマシンですが、
これはなんだか「エタイノシレナイモノ」で、ゲームもできる。

---

すこし前までね。

僕はそういうものが、あまり好きではなかったのです。
モノには存在の目的と意味とがあって、
そのためにムダを削ぎ落とし、シンプルでシェイプされた姿、それこそが美しい、と。
もちろん、「美」という目的と意味もありえますから、
そのためにデコラティブになってる、それはいいんです。
ただ、その場合も「美」のために全てを捨てなければならない、
すくなくともそのぐらいの気迫でなければならない、
そう思っていました。

最近、ちょっと考えているんです。

ひょっとすると、現代という時代は、
人間のいろんな面での(主に物理的な面での)可能性と限界が見え隠れするがゆえに、
「エタイガシレナイ」
というところにこそ、ものすごく価値を見いだしてしまう世の中なのかも。

月行って帰ってきて、じゃあもう誰も行かないわけです。
物見遊山はありうるかもしれないけど、コロニーなんか作るはずもない。
誰がんなとこ行きたがりますか。
アルファ・ケンタウリ?
行きたい人います?
僕はコタツで蜜柑食べてます。

でも、「はいここまではいここまで」って行ってると非常にさみしい。
だから、全く新しい地平を切り拓いてくれそうなカケラ、それを大事にする。

DSは、ゲーム機として非常に綺麗にまとまってますが、
あれでは、ゲーム以外はできない。
いや、ゲーム以外を切ったからこそ美しくまとまっている。
ところがPSPには、ゲーム以外の「何かがありそう」なんです。
今なにができるかは問題ではない。
できそうなことが実はしょぼくてもめんどうでも、それもあまり問題ではない。
その、「何かありそう」ってところに、お金を払う人はたくさんいるのです。
特に大人に。ちょっと払いすぎるぐらい。

「ゲームもできるよ、でもね、うひひ、それだけじゃないんだよ」
「おもしろいゲームできますよ!今までに無かったタイプのゲームが!」
どっちひかれます?

携帯を狂ったように買い換える人も、結局、
その「エタイノシレナサ」にお金を払っているのかもしれません。
「新しさ」「珍しさ」「増えた機能」などと具体的に指すことができない、
数値化できない、そこにこそ。
だから、「画素どれだけアップ」とか「なんとか機能搭載」というのは、
もはや「売り文句」にはならない。
数字や言葉で現せるようなことは、もう、要らない。

文化というのは、無駄なものです。
それは頭ではわかっていたのですが、芯から理解していたわけではありませんでした。
つまり、無駄なものですから、
無駄であればあるほど、
わけがわからなければわからないほど、
いいんです。

11月に書きました「意味」シリーズで、
「表現とは(作り手の)独自意味を、薄い(社会的な)共通意味でくるんだものだ」
と考えたのですが、それを追い込むと、こうなるのかもしれません。
ここで間違ってはいけないのは、
「ゲームもできます、保存映像も見れます、mp3も聴けます……」
ではないこと。
欲しいのは、大げさにいうと、
「有限個の既にわかっている要素」ではなく、
「無限の可能性」なんですね。

またもうひとつ例を出しますと、
そういう目で見直せば、すこし前までのイタリア車、ってものすごく魅力が出るんです。
ワケガワカラナイ。
なんだあのデザインは。
なんの具体的意味合いもモチーフもない。ただ感性に従った曲線がうねってるだけ。
そう、ワケがワカランからこそ、よそになくて、だから、楽しいんですね。

で、今は完全にダメです。
GMのコントロールに入って、普通の人に普通に受け入れられようとする方向へ
舵切っちゃってるので、つまり「なになにです」って説明する方へ行ってるので、
全く魅力がない。
特にわれわれ、説明的工業製品を作らせたら世界最強の日本人の目には。
パンダ?あんなもん買うぐらいならデミオですよ。

逆に言うとそういう国でそういうブツを見慣れきってますから、
必要以上に「ワケガワカラナイ」ものを崇め奉る風もあるのかもしれません。
ファッションなんかではいいようにされてますよね。

元に戻りますと、
今手元のPSPでは、なんにもできないんです。
「もじぴったん」しか(笑)
でもコイツ持ってると、「なにかが起きるかもしれない」みたいな気にはなる。
最初にノートPC買った時もこんな感じだったかも。
ええ、できることはワープロと表計算だったんですが、
(当時インターネットはない!)
でもなんとなく持ち歩いて撫でさすって喜んでました。
どうやら、「可能性」をこそ、愛でていたのです。

で、あれからできることがガバーンと増えて、性能のガーンとよくなっても、
「可能性」が削られてくると、徐々に徐々に熱意が無くなってくる。

---

「芸術家」
の使命はどうやらこれです。
人間に人生に自然に社会に世界に、「可能性」を見いだし続ける。
それを提示し続ける。
それに見て聞いて触れて、我々普通の人々は、
「おぉ、世界ってのはそんな側面も持ってるのか!」
と驚き、喜ぶ。

だからこそ、人類の発展と共に芸術に必要とされる要素も変わってきた。
具体的手法が確立しない時代は、
「写実的である」というだけでもうものすごいインパクトがある。
で、それがある程度成り立つと、美しくあらんがための「ウソ」をつき出す。
それにも飽きたらず自分の主観・イメージをぐいぐい押しつけてみる。
今や「モダンアート」などと聞くとすぐわけのわからんオブジェを連想します。
「わけのわからんさ合戦」みたいになっている。
さすがにすこし揺り戻しが来るような気がしますが、ともあれ、大雑把な方向としては、
「なんだこれは!?」を現す方向だと思います。

僕は、「いいもの」作ろうと思ってました。
それは間違いではないのですが、要素のひとつに過ぎない。
全体に占める割合は、よくわかりませんがおそらく半分もない。
2割とか3割とか。
着るもの考えて頂けるといい比喩だと思います、
着心地や暖かさ、そうした物理的性能、それは割合的には半分いかないですよね。
まずデザイン。そしてそれが似合うかどうか。
それでおおよそGOかOUTか決まって、で、
チェックとしてフィットするかどうか、生地の厚さは、お値段は。

やっぱりメーカー出身だなあ(泣笑)
いや、そういう気質の人間だから、メーカーに勤めようと思うのです。

なにかを「あらわす」ことで投げ銭、もしくはお布施をいただく立場の場合、
それではいかんわけです。
いや、いかんことないんですが、足らん。
お坊さんは「いいお経」を「丁寧に正確に」読めばいいというものではない。
「効きそう」でないと。
で、逆にそれさえあれば、お経なぞQueenでもアレンジして唸ってればいいのです。

くどくどくり返しますが、
「AがあってBがあってCがあって、だから……」
ではダメなんです。
それはメーカーの考え方。
「だから」とか言うてるようではいかんのです。
まだ上手く表現できないのですが、
「えっ!?これはなにっ!?」
って感じ。
それを醸し出すようなものでないと、足りない。

そおかあ……なるほど。
自分に足りないものがよくわかったような気がします。
しかしそれをどうやって手に入れるかはわからん(笑)
でもま、自分をよく知るのはいいことですから、よしとしよう。

---

実は梅棹先生の「情報の文明学」で、かなり蒙を啓いてもらった気がします。
『現代というのは「すべての」モノに情報が付属するのではなく、
 むしろ情報にモノが付属している』
(「情報」とは、感覚器官に飛び込むあらゆる信号)
もちろんメーカー出身モノ好きの僕にはにわかにはうなずきがたいのですが、
よくよく考えてみればそれはもう痛いほどにそのとおりです。

これだけ情報が乱れ飛ぶ世の中でも、人は
「いわゆるイイモノ」ばかりを志向するわけではない。
むしろますます、コンニャクのようななんの意味も価値もない、
ただ脳を素通りするだけのモノにご執心です。

しかしよく見れば、そうしたモノには、
たとえば「TVに出てる」とか「話題になってる」という別の、
しかも強力な「情報」が付加されています。
要するに人はそれ、その情報を手に入れているのであって、
モノ自体はまあ別段どうでもいい。

なるほど、なるほど、まったく、そのとおりです、と。

ショックでねえ(笑)

んじゃ、「これがイイモノなんですよ!」とか、
そんなことなんの意味も持たなくなるじゃないですか。
さらにいえば、「イイモノ」書こうと頑張ってきた俺の立場は。

で、考えた結果、それは間違いではないんです。
でも、それだけでは決定的に足りない。
人が、その情報(モノ)に相対する時に、なにを得るか。
その視点が必要です。

なにを得た時に最もインパクトがあるか、という点は、人により違いがあると思います。
また、好き嫌いもある。
僕はそれを、上述のように「可能性」みたいなものではないかな、と思いました。
証明もできませんし根拠もありませんけど。

すべてのモノは、それだけで完結しているのではなく、
「媒体」にすぎない。
その「媒体」を通じて、どんな情報(僕の考えで言えば可能性)を提供できているか、
そこが問題である。

ま、「可能性」ってのはきれいな言葉で言い換えれば「夢」なんですけど、
さすがにその単語は恥ずかしい。
あるいはまた盛り込まれた状態を、「豊かである」「味わい深い」と言いますな。
単純に詰め込まれた密度ではなく、
実はそれが生み出す「広がり」こそが、
そうした感覚を生むのだと思います。

また、「情報」に対するウェイトの置き方を「価値観」と言うようです。
その人がどの「情報」にポイントを置いているか、行動を分析してみると、
おおよそその人のコンセプトがわかってくると思います。
すると、認めたり学んだりできるところは大きいかも。

---

……というようなことをツラツラ考えてもんもんして、週末過ごして遅れました。

だからといって、僕がご提供するものは、今までどおり、自分にとっての「イイモノ」です。
ただ、それだけではない「なにか」を盛り込んでいこう、そう思います。

難しいことのようで、逆に、ずいぶん気が楽になる考え方でもあります。
がんばって・できるだけ・を盛り込むのですが、
手元を離れたら、そこにどんな「情報」を、僕が思うところの「可能性」を見るか、
それはもう知ったこっちゃないですからねい。
どうすることもできないし。

送り出すばかりでなく、受け手として見ても、
まあ、なんでも・どんなものでも、
それになにを見いだすかは自分次第。
本当に駄目なモノも無いし、学べない・楽しめない・感じられないモノも、そうそうは無い。
というと理想論過ぎますが、かなりゾーンを拡げることができると思います。

ごちゃごちゃ書きましたが、まとめて言うと、
「う〜む……これはいいものだ……」
というところを目指してたのをちょっと方向転換して、
「えっ!? これ……いいの!?(笑)」
みたいなものを作っていきたい、てところです。

なんかよくわかりませんが、
だからいいのです(笑)



 12/17 48万5千円

良く行くホームセンターが、ペットゾーンを大幅リニューアル。
犬猫鳥扱ってなかったのですが、どどんと。

目を見張りました。
プードルトイのレッド(チョコレート色)、485,000円!
4万8千円ちゃいますよ、48万ですよ。
安い方でもたとえば柴、レトリバー、15万コース。

ふええええ。

この国はなにかおかしくなってませんか(泣)
犬や猫は貰いなはれ。
もしくは拾いなはれ。

そりゃあ、純血種は可愛いですよ。
ウチにも血統書付きの柴がおりました。
図鑑に載ってるような端正な姿形でね。
でも、それと「かわいげ」とはまた別問題。
そしてまた、相性とも別問題。
端から見てれば「なんであんななんでもないものにあんな愛情を」というような犬猫と飼い主のコンビが居るものですが、そういうものです。

……というようなことは、一度でもペットお飼いになられた方はみなご存じかと思いますが。

長居公園には捨てられた猫や野良猫がたんと居ます。
ウチの子達も公園の側の墓地の墓花捨て場の横に捨てられてました。
野良でも、可愛い子はいるんです。
愛嬌があって、ほら、僕なぞ明らかに猫慣れしてますから、向こうもわかるんです。
ゴロゴロ転げてお腹見せてね。
撫でてやると、これでもかといわんばかりに悶えまくる。

拾たげてください(泣)

気持ちは、すごく良くわかるんです。
で、価格ってのはある程度需給関係で決まりますから、それだけ出しても欲しい人がいる、だからその値段、それもよくわかります。
でも……

これ、でも、娘とかいてそこそこ経済的に余裕があったら、
「あの子欲しい」
言われたら買っちゃうんでしょうなあ。
そのシチュの自分を想像すると、突っぱねられる自信なし。

しかもあんなんて出会いですから、運命でね。
目と目があったその日から、みたいなもので、
来る子は来る。

せやけども……
せやーけどーもー。

まあ、人間でも実の親に虐待受けて亡くなるあまりにかわいそうな子から、難病を治すために何千万のカンパを受けて海を渡る子まで居る。
そういうものだ、といえばそういうものなんですけれども。

やっぱり、生命っていうのは、なるべく、
「おかねじゃないんだよ」
というところに置いておきたいな、とそんな気がします。

ウチの子もひとり、アイ吉ですが、
どこかへ行ってしまいました。
もう一月近くになります。

拾った子ですが、5年ばかり、ウチの生活を楽しくしてくれました。
どこかで元気に、またメシを喰いすぎて、吐き戻してたりすると、いいのですが。
そして気が向いたらまた、ふらりと戻ってきて欲しいかな。

ペットというのは、想い出を飼うものです。

お金関係ないはずなのに、びっくりするぐらい大きなお金が動いてて、
びっくりしました。



 12/16 集中系開放系

 ドトールの丸テーブルでPCを叩いているとやたらはかどるのは、他に何もすることが無い、という事実の他に、あの「狭さ」が集中を生むのではないかと。

 活動には、集中系と開放系があって、両方いいところがある。
 集中力を極限まで高めないとできないこともあるし、種々雑多な情報に埋もれながら、そのぐじゃぐじゃから新しい何かがポッと生まれ出ることもある。

 僕はどちらかというと集中系が得意で好きなもので、そればっかり志向してきたのですがどうもやっぱり、両輪あった方がいいかなあ、と最近考えています。

 というのも、先日お腹いたくて寝込んでた時、集中力ゼロなんですけど、ヒマでヒマでジッとしていられない。
 ふと思えば、文章、おえかき、FF、読書、全部集中力が必要で、使えないんです。
 それがとても寂しくて。
 「集中力は要らないけど楽しいこと」を置き去りにしてきたなあ、と思ったのです。

 子供の頃って、集中とはちょっと違う、「没入」みたいなのよく起きるじゃないですか。ただ無心に手を動かしてなにかしてる。ブロックあそびとか、パズルとか、積み木とか。
 頭じゃない、身体が、全身が集中している、そんな感じ。
 ああいうの、無いなあ、と。
 全部頭リードで、「よし、こうしてこうしてこうしてやる!」から入ってる。

 そういうのじゃない、ただ純粋にぱーっと「なにか」をやりたい。

 庭いじりでしょうか。
 歌をがなりたてることでしょうか。

 でもそれは、たぶん、「なにをするか」ではなくて、姿勢だと思うんです。
 お絵描きでも、子供の頃の、とにかくなんでも好きなものを、自由自在に描いてたあの頃あれは間違いなく開放系だったと思うんです。
 それが、「なにを描こう」「こう描こう」つまり頭が入ってきて、徐々に集中系になってしまった。

 となれば、戻れるはずです。
 そして戻ると、集中系の方にもいい影響が……なんて考えること自体間違ってますね(笑)
 そのすけべ心は別にしても、これ(ほえなが)は、いつのまにやら開放系から集中系になっています。
 集中ばかりでは、よくない。
 つい先日も似たようなこと言ってますが、ここは「開放」にして、で、やっぱりしっかりまとめる方へ「集中」を使い切る、そんなめりはりがいいのではないかな、と思った次第です。

 「練習」「修行」にもどうやら段階があって、最初の頃の練習は模倣、次に自分の型を作っていく創作、そしてそこからも離れて新しい世界を拡げていく。
 まさに「守・破・離」です。
 「離」の段階では、修行は眉間に皺を寄せて行う集中系ではなくて、外界のあらゆる部分からいろんな新しい意味を見つけ出そうとする開放系なのではないでしょうか。

---

 いやもう、私ごときがんなこと言っても真実味もなにもあったもんじゃないのですが。

 ただ、「ん?開放の方も良さそうだぞ?」と思えることそれ自体が、いくらか開放されていることではないか、と思います。
 私もほんの少し前までは、「絶対集中!」ってタイプでしたもの。

 えらい地べたな例になるのですが、今日も昼間書き物でうんうん唸ってますと、優しいおばあちゃんが洋梨をむいてきてくれたのです。
 以前なら集中を邪魔されたことで(態度には出しませんが)不機嫌になるところですが、今日はこんなことを考えていたこともあって、素直にその洋梨を囓ってみる。
 するとこれがとても美味い。
 今までの自分は、これをいくばくか捨ててたな、と思うと、「もったいない」。そう感じました。
(ただもちろん、それで得たものもあるのですが)

 それから、好きなこと・大切なこと、今まで集中集中でガーッとやってきたことに、開放を入れていくと同時に、やっぱり純粋に開放なだけのことも何かひとつ欲しいな、と。
 巧くならなくていい、というか、ヘタなことそれそのものを楽しめるような。

 彫刻とか?
 いや絶対「ロダンが」とか言い出すに決まってる(笑)

 自分の技量、すなわち「他者比」があまり気にならない娯楽としては、あのカラオケっていうのはものすごくよくできてると思います。
 ありゃほんとに日本が発明した画期的システムです。
 近代化と共に失われていった「歌を歌う」という本能にマッチした、のもあると思いますが、純娯楽として「最初からやたら楽しい」「他者との比較に悩まない」というのはすばらしい特質だと思います。

 ああいうの、なにかないかな。
 いや、カラオケでもいいんですけど。

---

 最近、健康本などでも「ゆるめる」というのはひとつのキーワードっぽいです。
 緊張と緩和といいますが、緩和は非緊張ではない。
 緩和は緩和なりにテクニックと意志がいる、そこにみんな気がつきはじめたのかも。

 とりあえず、集中と開放の両方を意識しようと思いました。



 12/15 議論は議論を呼ぶ

議論は議論を呼びます。

高校時代、現国のテストで一難問。
終了後の答え合わせで、選択肢BとDで意見がまっぷたつに分かれたんです。
そこへ通りかかる学年一の国語屋そうそれはすなわち私。
「……Aちゃうかな」
「「Aは無いわ!」」
えらい怒られましてね。

私もあんまり自信がなかったので「そうか俺が間違ってるのか」と引き下がったのですが、よく考えればここで議論が
・真実は何か
から、
・BとDのどちらが真実により近しいか
にすり替わっていたのです。

オチはもうお気づきの通り、正解はA。
つまり、「BかDか」などという議論は
(結果的には)虚論空論に過ぎなかったのですな。

議論というものは、詳細を具体的に論理的に詰めれば詰めるほど、
本来の目的を外れていきやすくなります。
重箱の隅をつつき合い、揚げ足を取り合う。
この例で言うならば「BかDか」ではなく、ありうえべき「正解」に向かって、
「正解とB」「正解とD」の距離を測るべきなのですが、
当然正解は誰も知らないわけですから、それこそが難しい。
だもので、とりあえずBとDが殴りあう。

さて、ここで注目するのは、
その道のオーソリティ(笑)が登場し新しい提案をしても、
全く注目されなかった点です。
つまり、「BかDか」になってしまっている場、議論の場には、
新しい意見は吹き飛ばされる。
大事なのは目の前の議論そのものであり、
真実でもないし真実を追究する姿勢でもない。

マス媒体やwebになると、この傾向がさらに加速します。
TVは真実ではなく視聴者の見たいものを映し出し、
web掲示板は議論したい/しやすい/していることをこそ議論する。
たまさか識者が登場し新意見を述べようとも、参加人数が増えれば増えるほど、
割合が減ります。
ただ参加しているだけの人の声の大きさに、掻き消されもします。

そこで起きていることは、
「真実を追究するための努力」としての議論ではなく、
「議論のための」議論です。

もちろん、それにはパブでサッカー選手のプレーをやいやい言うような
「楽しさ」があるのですが、(だからこそ人はそれに没頭するのですが)
現実問題を解決してくれるものではありません。

我々が求めるものは、真実です。
その商品は本当に優れたものか、
その政策は果たして本当に我々のためになるのだろうか、
この人は本当のことを言っているのか。
真実が欲しいからこそ、議論に耳を傾け、あるいは、議論しようとするのです。

これは果たして真実に向かう(少なくとも向かおうとする)議論なのか、
それともただ議論を楽しむための議論なのか。
いつも注意する必要が、ありそうです。

こう考えると、議論とは、
「真実へ近寄ろうとする努力を双方が忘れない」
というとても高度な条件を必要とします。
相手を打ち負かそうなどという論戦は、議論ではない。
権力でも言語力でも、力の強い方が勝つなら、それは強い方の示威行為に過ぎない。
そこには、何一つ意味はないのです。
しかし現実には……

---

もう少し拡大して考えますと、「情報」も、「情報」を呼びます。
あらゆる情報は他の情報へのインデックスになっています。
というより、有用な情報ほど、他とのリンクが太く多い。
「情報に溺れる」という状況は、だから、情報を入手する能力が高い人、
また情報に対する興味が強い人、ほど起きやすい。
「その情報をどうするのか」
「なんのための情報か」
という方向性がはっきりしていないと、
ただ使わない空虚な情報が溜め込まれていくだけです。
しかも難儀なことに、そのこと自体はこれがまた楽しい。

議論と同じです。
「真実に近づくための情報」と「情報のための情報」を、意識していた方がいいようです。

また、上述どおり、世で溢れている情報「だから」価値がある、
という考え方は、綺麗さっぱり忘れた方がいい。
誰もが、誰に対しても発信できる現代社会です。
むしろ良質の、意味の高い情報は、割合を小さくし埋没し続ける一方です。
なにやら耳が痛いですが。

---

件の国語のテストには後日談があり、正解を抱えて
「ほら!やっぱりAやん!俺のゆーたとおりやん!」
と突きつけて回ったところ、みんなキレイサッパリ
「へ?そんなこと言うてたっけ」
と僕の意見はおろか議論の存在すら忘れていました。

人間は、都合の悪いことはおそろしく綺麗に忘れるようにできてます。
偉大です。



 12/14 赤い歌声

チャンピオンシップで一番感心したのは、レッズ・サポーターの歌声。
広い埼玉スタジアムいっぱいに美しい歌声が響きわたり、
「ここはイングランドか」と錯覚したほどです。
いやイングランド行ったことはないのですが。
日本で、というよりJでこんな応援が見れるいや聴けるとは思ってもいませんでした。
もちろん横浜サポもがんばってましたよ。
あのでかいハコを7万近くまで埋めたわけですからね。

試合としては、結果論になりますが、
浦和はセントラルMFライン(啓太、長谷部)と
FW(エメ、達也)の間のアクセントに欠けましたな。
担当はアレックスと雄一郎なんですけど、
チーム全体が「速さ」を意識するあまりにすぐエメばかり見る。
フィニッシュ一個前でエメに持たせるというのは、実は失敗です。
じゃ誰が決めるねん、ってことになる。
第一戦からそんなノリで、修正するか、
それとも「俺達の戦い方はこれだ」と押し切るか、
ブッフバルト監督も悩んだご様子。
横浜の老獪さにしてやられましたなあ。

まあそれでも横浜もお見事でしたよ。
久保、アン、ユ、遠藤、いっぱいカード欠けてなお勝てたのは立派立派。
中西退場してからの3-4-2が、1人いないと思えないほど堅牢だったのはすごかった。
サッカーは守備「から」ですわ。

それと、「PKは運」とは言えないぐらい、
PK戦になってからの両軍の落ち着きに差があったように思います。
特にGK。
ここいらあたりが、勝ち慣れているチームと、そうでないチームの差で、
ここを乗り越えないと、本当に強いチームにはなれない。

しかしフレッシュな顔ぶれと飽くなき攻撃精神、そして最高のサポーター。
浦和が今年のベストチームであったことは間違いないです。
来年もがんばってもらいたいもの。

チャンピオンシップ最終回が、やっぱり年間勝ち点最多の浦和でなく横浜が、
それもPKで勝ったことで、矛盾が浮き彫りになって良かったと思います。
99年もたしか清水が磐田にひっくり返されましたが、その頃と比べても、
その矛盾を矛盾として感じられる人が増えてるように思います。
ちょうどいい頃合い。
その意味では、運も味方して着々と進歩してるリーグだと思いました。
あの歌声もそう。

ただ、もちろん、純粋にレベルとしてはまだまだですよ。
次の日の物見遊山半分のトヨタカップと比べても、やっぱり。
来年はとにもかくにも最終予選。
ますますの発展を祈りつつ、みんなで盛り上げていきましょう〜。



 12/13 「一般化」の価値

↓昨日そんなことを言ってみたのですが、考え直しました。

「情報」の価値というものは実に多角度から切ることができます。
最低保障のある食料品(一次産業の成果)、工業製品(二次産業の成果)と違って、
ゼロからほぼ無限大まで、
それは受け手と供給者の関係によって「個別に」決まります。

いわでもの例ですが、ある人にとっては給料一ヶ月分も惜しくないブランドモノのバッグが、別の人にとってはスーパーのポリ袋より使いにくくつまり価値がない。

と、考えると、
「自分も使えるギャグを供給してくれている」
「そのギャグを社会的に認知させる活動もしてくれている(結果的には)」
という意味では、そんじょそこらの「ただおもろい」だけの芸人さんよりは、
価値がありますね。

ははあ。

「芸の一般化」、とでも言えばいいのかな。
カウスボタンの漫才はあのお二人にしかできませんが、
「切腹!」とか叫ぶだけなら誰にでもできますからね。
「これが出ればおもしろいことである」という社会的コンセンサスに乗っ取って、
みんなが簡単に笑顔になれるなら、
これほど素晴らしいことはありませんな。

受け入れられ方、「芸」のやりとりの仕方としては新しいかもしれません。
似たようなことは、カラオケで音楽に、webやblogで文章に、
起きているような気もします。
ああ、写真とかもそうかもしれません。
自分でやってみれば、上手がいかに巧いか痛感する。
ウチのまま上も「フランク・シナトラやっぱ上手いわあ!」と叫ぶわけです。
そうすると上手への敬意も湧くし、審美眼も養われるし、作品を大切にするし、
結果的にはいい方へ回るかもしれませんね。

自分がわからないからといってカッとなるものではありませんな。

ただギャグというものは「驚き」をベースにするものですから、
一般化して見かける頻度が増えるとあっという間に「おもしろい」というその価値を失う。
その点では、他のコンテンツと違う厳しさがあると思います。
まさに身を斬って新しい価値観を斬り拓くその姿には感動を覚えています。



 12/12 ちゃんとちゃんと

ひょっとして、「スタイルを模しやすい」つまり「自分で使いやすい」というのが、最近のギャグの重要な要素ですか?
カラオケで歌いやすい曲がヒットする(した)のと同じ理屈?

だとするとそれはダメ道ですよ。

当たり前で、それって本質的な良し悪しと全く関係のない性能なので、価値体系が崩壊するんです。
そうなると、提供側も提供される側も、一体何を基準にして選んでいいかわからなくなる。
自分の良いと思うものと提供頻度の高いものとが一致しないことほどつまらないことはないので、客がガクッと減る。
提供する方のモチベーションもべった下がり。イイモノが評価されないということほど、やる気を削ぐことはない。
市場がものすごい冷える。

音楽でも、そんな流れののち結局、すごく上手い人の歌声に聞き惚れる方へガバーーンと揺り戻しがきて、「それ以外認めない」みたいな話になる。
そうすると、育てていくっていう要素がなくなるから、
(キャラクター商品と本物以外のミドルレンジが居なくなるから)
ひょうたん型人口構成になって、混乱する。

よろしくないですな。

上から下まで王道正道が揃ってて、その上で邪道搦め手有象無象がワラワラある、というのが最も望ましい姿だと思うのですが、最近はなんでもかんでも搦め手ばっかり。

王道正道を突っ走ってたはずのマーク2ですらマークX(エックス)など変な名前になってしまいました。
32型Zがデビューした時アメリカで流されたCMに、「X軍団」と戦うってヤツがありまして、バイク、フォーミュラ、最後にはジェット戦闘機にZが勝っちゃう、という荒唐無稽ながら爽快なCMでした。
それに出てきそうです。
なんでこんなヤラレメカ顔なんだろう。

ガンダムが居るからザクもドムもゲルググもカッコよく見えるのですよ。
マーク2が居たから、ローレルがインスパイアがディアマンテが敵役に回れたのであってですな。

……みんないなくなってしまった。

こうして日本中から主役が居なくなったから、お隣の国から買うわけですな。
ペ様とか、ネプチューンの泰造似の人とか。

こないだ真っ昼間にBS2で映画観るという情けないんだか優雅なんだかわからん生活をしてますと、曾我兄弟仇討ちの古い時代劇で、主役が中村錦之介。
いいですな、古い時代劇はお芝居がしっかりしててお金かかってて。
衣装とかほんと綺麗なんですよ。
で、最後は頼朝の前で五郎が裁きに掛けられるのですが、子役の頼家がずいぶんしっかり芝居する。
最後にCASTみてアッと驚く、なんと北大路欣也。

主役ってのはこうやって作られるのか、と痛感しました。

簡単にはできないもんなんですって。
必勝方程式とか無いし。
それでも、「これがいいな」と思うものを地道に作っていくほか、ないと思いますよ。



 12/11 ビジネス電話の鳴らない喫茶店の選び方

喫茶店で携帯電話使う人で、一番始末に負えないのがビジネスマン。
やたら長くて声が大きい。

「社会の中核をになう連中が一番酷いなんて、この国はどうなっとるんだ」
なんて言ってても始まりませんから、自衛すべし。
つまり、そういうヤカラが近寄らない喫茶店に行くのです。

・グルメガイドに載るような、「コーヒー」を飲ませる名店。
・ドトールやミスド、スタバなど、カジュアルで椅子が板みたいなお店。
 つまり長居できないお店。

これです。
キャツラは本質的にはサボってるわけで、居心地のいい店に行きたがるのです。
逆に喫茶店にしてみれば居心地をよくすればするほど、
そういうヤカラの襲撃を受けるという……

釈迦だったかナーガールジュナだったかが、
「酒は呑むなっておっしゃいますけど、酒にもいろいろいいとこありますよ」
という質問を受けて、
「それはわかっとる。しかしそれをはるかに上回る暗黒面がある」
なんてな答え方をしてました。

最近よく思うんですけど、携帯電話ってそんな感じがします。



 12/10 「わからない」ということはだな。

最近、ショックだったことがあるんです。

こないだ初めて、波田陽区さんのネタを見たんです。
いや、それまでその人が「ギター侍」だとすら知らなかったんですけど。

わからなかったんです。

おもしろいおもしろくないじゃなくて、
どこで笑っていいのか、なにを楽しんでいいのか、
さっぱりわからなかったんです。

でも横のおかんはゲラゲラ笑ってて、TV出るぐらいだから人気もあるらしくて、
でもわからなくて、
どうも「……からっ」「残念!」というところがポイントらしいんですが、
まるで心が動かないんです。

しつこいようですが「面白くない」とか「レベルが低い」じゃなくて、
「わからない」んです。
評価できない。

ショックでねえ!

年かさの人が若い芸人さんや芸能人さんを指して
「あれのどこがいいのかわからん」
というじゃないですか。
あれ僕てっきり、「レベルが低い」「低俗である」という指摘だと思ってたんです。
違う。
ほんとに・わかんない・んです。

そう思えば、最近こういうことが多いんです。
世の中から取り残されてるのかand/orおっちゃんになっちまったのか。
すこし寂しい気もしますが、仕事的に言うとハズレてる方がいいので、
(それは前にも後ろにもです)
「まあいいか」と思ったりも。

30歳というのは今振り返ってもマジックナンバーで、
あのころに「自分の軸」みたいなのができます。
遅い僕でもこのころにはなんとかなったので、
30越えてまだの人はちょっと焦った方がいいです。
結婚なんかいつでもできますが(ここ笑うところ)、
軸作るのは早ければ早い方がいい。
それこそスポーツ選手や音楽家は小学校上がる前からできてますからね。
んで、軸ができるとそこを中心に自分のネットワークを作っていきます。
拡げたり、パワーアップしたり、アップデートしたり。
しかしそうなると、どうしてもその手の目の届かないところ、
もしくは、要らないから、あるいは別のものを取るために、
斬って捨てたところができるんですね。

そういうものが、「わからない」ものではないかと。

20歳ぐらいだと、たぶん自分の軸をぎゅーんとその時だけでもズラして、
笑えたと思うんです。
「みんなが笑ってる」っていうだけでも、笑う理由になるものです。
だから、「わからないこと」がある、っていうことは、
堅牢な自分の軸がある、ってことの裏返しでもあるのですよ。
……たぶん。

だってさ。
漆塗り職人がポリプロピレン給食食器でメシ喰うわけにはいかないでしょ?
逆もそう。

喰えるものならなんでも美味いと思えるのが幸せなのか、
美味いと思うものしか美味いと思えないのが幸せなのか、
そりゃわかりませんが、
「自分が」美味いと思うものを作ろうとすれば、
後者であらざるをえない……と思います。

なんて理屈をこねて、
「わからない」ことの多すぎる世の中に抵抗してみています。

ピン版人生幸朗師匠?
ひとりこだまひびき?



 12/9 スタンス変えてみます。

「自分がどういう考え方でwebを作っているか」
という文章は、数あるwebコンテンツの中でも
「一番しょうもない」と私も重々承知しておるのですが、
一応連日100に近いアクセスのあるPowerNetwork!!ですから、
説明責任もあるかな、と思いしたためます。

「ほえなが」に対するスタンスを、変えていこうと思います。

止めませんよ、止めません。
ご心配なく。

「ほえなが」はまさしく私がなんとなくなりとも
「文章でごはん食べれたらいいなあ……」
と思い始めるのとほぼ同時に始まっています。
だもので、私の生活やポジション、やってる内容の変化と共に、変わってきています。
おおざっぱに2年ごとに分けられます。
99-00 同人誌作ってた時代。
01-02 アクアプラスに居た時代。
03-04 今。

最初の2年は思いついたこととにかく書きまくれ、って感じで、
ほんとに「練習帳」です。
初めてクレヨンを手にした子供が、ありとあらゆるところにラクガキするのと同じ。
あるいは楽器を手にしてピープーパープーただ音を出しているだけ。
ただ、プリミティブなので言いたいことは生で伝わりやすい場合もあります。

会社員やりますと、やっぱり、書いちゃ駄目なこと、
それは自分で自分を縛るのですが、「枠」が随分つくられてきます。
特に内容において。
ほんと当たり障りないよ〜にしてますね(笑)
しかし逆に、仕事として、読まれてナンボの日々が続くので、
形式的には洗練はされていくわけです。
読み手の目を相当に意識する。

で、辞めた後は、今度は逆に、自分で作っちゃった枠をブチ壊して、
自分の言いたいことは言いつつ、
しかし読まれる目はしっかり意識したまま、
そんな欲張りなところをがんばっていた、ようです。
内容も形式も。

さて、で、05年からは、
そうやって「ちゃんとがんばる」のは普通の作品にして、
「ほえなが」の方はもっとエッジなところをやってみようと思うのです。
手を抜くという意味ではなく、いやたまには手も抜いて、
なるべくわけのわからんことを、
普通の小説や随筆ではできないことを、
(あくまでも当人的に、ですが)
「おもろかったらええやん。
 いやしかしおもろなくてもええやん?」
とにかくいろいろやってみて、
それをまた普通の作品の方に活かしていけたらな、と思います。

---

なぜそんなことを考えたか。

ひとつには11月にお送りした「意味」シリーズをまとめようとして、
プリントアウトして「こっちがああでそっちをこうして……」とやってると、
やっぱり、「ほえなが」の形式では限界がある。
ああいうネタは、つまり言いたいこと詰まったネタほど、
本気でまとめるつもりでしっかり書かないと、
冗長部多いし構造がぐちゃぐちゃになる。
本人いいこと書いたつもりになってても、これじゃ伝わらなくても当たり前だろ、
そう痛感しました。
(もちろんコレがあるからあれもああいうシリーズに育ったわけですが)
(あと、あれはまとめます、お楽しみに〜)

もひとつは、「ほえなが」というのは書きながら思考をまとめる、
アイデアを増殖させていく、という自分なりの意義があったのですが、
最近カード使うようになって、そこをカードにだいぶ取られてしまいました。
種まきは、そっちの方がいい。

こうなると、「ほえなが」がカードでまとめたアイデアの清書みたいになって、
これがまた面白くない。
と同時に、エネルギーを取られすぎます。
たとえばですけど、12/6のジーノの話なんか、
別にそんなに言いたいことでもなんでもないわけです。
友達となら、「ありゃひどいよねえ!(笑)」ってゲラゲラ笑えば済む話。
ですがそれを、仮にも読める文章に仕立て上げようとすると、
かなりコストが掛かります。
人間のコスト有限ですから、他のことに、つまり
本当に言いたいこと言うのに使った方がいいよな……と思い始めました。
簡単に言うと、
「試合前練習で疲れ切ってる」。
そりゃ体力無いのは反省しますが、いきなりはつかないので、練習量を減らそうと。

もいっこ、
軽い話題、日記的なものをブログでやろうとしたのですが、
長続きしません。
やっぱり、僕は、「記録」にはからっきし興味がないようです。
「ほえなが」は「表現」であって、それならば、重いも軽いもないのです。
ネタも、自分の行動記録でも、小難しい評論でも、同じです。
(ということで、向こう閉じます。
 また別な形でblogシステムを使うこともあるかもしれませんが)

あと、「そんなことはない……はず」と言いながらも自信がないのが、
「ほえなが」書いて満足しちゃってる面もありやなしや。
それじゃ本末転倒です。
いや、「ほえなが」書くのもすごく楽しいのですけど、
普通の作品一本仕上げる時のあの充足感と集中力ほどではない、ので。
やっぱりあちらメインで。

そんなこんなで、
「ほえなが」はシェフのまかないメシ、
人に出すもんじゃないけどおもしろいよ、
みたいなところへ、気楽に自由にやってこうかな、と思ったのですよん。

---

以上、未来の自分へのメモ的に。
ずいぶん気が楽になりました。
どないなるやらわかりませんが、
とりあえず楽しく。

……人にはいろんな笑い方があり、
「あはは」とか「えへへ」とか「うふふ」とか「わっはっは」とか「ぎゃはは」とか。
自分に一番あってるのがこの笑いかな、と思うのです。
たぶん、私をよく知る人は割と同意してもらえると思うのですが。

うひひ。



 12/8 ThinkPad

忘れないように、触れておきます。

IBMがPC事業を中国の会社に売却しました。(ニュース

単純に丸ごと売り払うのではなく、相手の株式と交換してパートナーシップを結ぶ感じですが、形態はともあれ、「IBMが直接手を下してPCを作る」という形を止める、ことに変わりはありません。

古くからのPCマニアな方々には別の感慨もあるでしょうが、
我々ThinkPadユーザーそしてファンにとって見れば、冗談抜きにして死活問題です。

「世にはノートPCが二種類ある。
 ThinkPadとそれ以外だ」

とは僕の名言ですが、キーボード&トラックポイントを中心とした「仕事の道具」としての使い勝手、堅牢な信頼性、世にはいくつのメーカーが何百種類のノートPCを作っているか知りませんが、ThinkPadの代わりはありません。
断言します。
ありません。
僕はいくつも別のメーカーの、それも選り抜きのヒット作を自腹で買って、自分で使ってきました。だから、言い切ります。
ありません。

自動車整備工にとってのsnap-on、プロ釣り師にとってのがまかつ、
いやいやそんなもんじゃ効かない。
だって彼らにはKTCもあればシマノもあるのです。
我々には、他にない。
そう例えて言えば宇宙飛行士のオメガ・スピードマスター。

そもそもがPC系のライター、一番うるさい連中が、一番ありとあらゆるハードウェアを知り抜いて触っていて、かつ一番へヴィな使い方をする連中が、こぞってTPを使っている、それがなによりの証拠です。
自動車評論家が口でなにか偉そうなことを言いながら、プロフィールには派手な車歴を踊らせながら、奥さんにヴィッツを買うのと同じです。

プロの道具が、ひとつ無くなる。

TPがIBMが、ではなくて、その普遍的な事実のあまりの寂しさと哀しさに、
涙でディスプレイが見えません。

恨み言はもう言いません。
サービスだソリューションだって、いいPCを提供する以上のサービスがソリューションがあるかバカ、俺たちゃ霞叩いて仕事してんじゃねえんだバカとか、そんなこともう言いません。

わずかな希望ももう持ちません。
イタリア一、いや世界一の生ハム名人、ロレンツォ・ドズヴァルドがこう言ってます。
(「イタリア人の働き方」より引用)
おいしさを生み出す秘訣とは。
「『情熱』と『家族が守り継承してきた伝統』と『ごく詳細にまで及ぶ、マニアックなまでのこだわり』」
ここまではまさにThinkPadではないですか。
しかし名人は最後にひとつ。
「そして『大量生産を拒絶できる勇気』にあります」

もう、TPは、帰ってこない。
どこでなにを叫んでも、帰っては、こない。

せめて幸せにもTPに触れることができた我々は、子々孫々へ伝えていこうではありませんか。その昔、ThinkPadという素晴らしいPCが、ハードウェアが、機械が、
プロの道具が、
いや、
本物が、
あったという事実を。

思い出の中でいくらでも美化して、
「そりゃおめぇ、ThinkPad600のキータッチなんざ、
 まるで天使の羽根を触ってるみてぇだったさ!」
そんな自慢ができる我々は、逆に、幸せかもしれません。
羨ましがる孫に、恍惚たる表情を見せつけてやりましょうよ。

片想いだった初恋の人が、交通事故で死んだと聞いた。
もう、あの人を想わなくてもいい。

私達はVAIOとLet'sとMuramasaとDynabookと、幸せな蜜月を過ごせばいいのです。
美しい想い出を、胸に秘めたまま。

これほどの幸せが、この世にあるなんて!

ありがとうThinkPad。
さようなら。



 12/7 おかいさんはうまい

ひどい腹痛に悩まされました。

日曜日に風邪をひき、月曜ゆっくりして治ったと思い、
お昼にみそラーメンなど食べましたところ
突如経験したこともない突き上げるような腹痛に。
何度も経験している食あたり系の「気持ち悪さ」ではなく、
胃に穴でも空いてるのでは、と思うようなキリキリする痛みです。
耐えかねて吐きに吐くとすこしは落ち着いたので、半身を起こすようにして寝ました。
完全に寝るとどの方向を向いてもまた痛むからです。

どうも風邪が治りきっておらず、
胃腸がへばっていて反乱を起こしたようなのです。
実は前日焼肉を食べており、そこへさらに脂っこいみそラーメン。
「いいかげんにしろ!」と怒られました。
その夜はおかいさんと大根の漬け物と玉子焼き、
今日の昼(8日)もおかいさんと大根の漬け物と焼き鮭、
で、なんとか生きてます。

こんな軽い生命のピンチにいつも思うのは、
書きかけの作品とエロ本の処分方法。
さすがにそろそろ
「ああ、これは若い頃に買ったものがただ死蔵されてるだけね」
風を装う必要がありそうな年齢になってきました。
そんな小細工をしたところで発行年を見ればすぐバレるのですが。

いいじゃないもう! 趣味なんだから!

あと10年経って45を超えたあたりから「特殊な趣味」として
ボトルシップや高山植物のスケッチ程度に認知してもらえるかもしれません。
ここがガマンのしどころです。

エロ本はともかく、書きかけの方は非常に心残りで、
もしほんとにそうなったら化けてでてきてでも続きを書きたい。
「そういうことが無いように毎日を燃焼し尽くせ」言うのは簡単ですが、
長編が1日でできるわけでもなし。

しかし本当に良いモノというのは未完でも充分おもしろいものであり、
たとえば夏目漱石の「明暗」。
いやまだ読んでないんですけど。

ピカソだったか誰だったかが
「完成したと思った作品などひとつもない」
と言い放っており、いい言葉だと思いました。
全ての作品はプロセスであり、結果である。
一見、完成しているように見える一品も、
次の作品を生み出す習作や母体になってたりするものです。

たまにひどい風邪をひくのも、こうして日々のありがたみを感じられるから
いいことかもしれません。
そしておかいさんがたまらなく美味しいんだこれがまた。
ああそんなことも、忘れていました。

いつもどおり、不健康の負け惜しみで。



 12/6 ミラ・ジーノ

ミラ・ジーノがモデルチェンジされましてね。

やりすぎです(笑)

漢字を仏教を輸入した頃から、いや待ってそもそも稲作そのものからして、
日本という国はよそのイイモノパクって生きてきたわけですが……
えーっと……

物事はなんでも、やりすぎると逆に爽やかですな!
いい同人誌を見てるみたいです。

もちろん、ミニそれも新型、の完パクなのですが、気合いの入り方が違う。
いいですか、これもちろんベースがミラなんですけど、ボディシェル全取っ替えですよ。
インテリアって大きな樹脂だから金型代とか高くつくんですけど、これも全取っ替え。
つまり、マーク2とクレスタより別のクルマです。
また色がすごくいい。
白・銀を押さえに置いて、クラシックなミニに塗られてるような、水色(サックスブルー)と、ブルーグレー、そしてもちろんブリティッシュグリーン。
加えて最近の小さいクルマのトレンドのピンク、アプリコットオレンジ。
あと特色でカメレオンカラーみたいな、見る角度で色が変化するグリーン。
イメージカラーのエンジも、エンジとワインレッドとマルーンの中間みたいな、落ち着いたいい色合いです。
ソリッドの赤とか黄とか黒とかも欲しいところですが、とりあえずどれもいい色です。

ミラそのものが良くできてると評判いいので、おそらく走らせてもいい感じでは。
惜しむらくはCooperに当たるグレードを、ちゃんとエンジンも足もやって5MTのスポーツモデルが欲しいところですが、ま、それは追加のお楽しみでも。

よくできてる。
どしたのダイハツさん!?

ボディサイズから見れば、オリジナル・ミニの精神、
最小の空間で大人4人が移動できるクルマ、
を受け継いでいるのはこっちかも。
5ドアだから便利だし。
燃費も維持費も、もちろん車両価格も新型ミニとは段違い。

新型ミニと、新型ビートルを見て感じる微妙なひっかかり、それは、
本来「大衆車」「コンパクトカー」を極めんとして生まれた両者を、
その小さな背に時代の全てを背負うとした、そして実際に背負った両者を、
ムダたっぷりの、いや存在そのものがムダでしかないスペシャリティカーに
変身させてしまったところからくるのではないでしょうか。

自動車の歴史からミニとビートルが無ければ寂しくてしかたありませんが、
新型のミニとビートルならば特に要りません。
となれば、ミラ・ジーノと立場はまるで同じです。
なら、安くて便利で小さい方が、いいではないですか?(笑)

最高にアイロニカルで、たまらなく痛快です。
世界中のクルマ好きが新型ミニに感じていた鬱屈を、
「これをミニと言っていいのか」「これを喜んでていいのか」
そんなモヤモヤを、会社あげてのギャグで吹き飛ばしてくれた。
さすが大阪の会社です。
ジーノのweb見てから、本物のweb見てみてください。
コロッケさんのモノマネの後に現物見るような半笑いが浮かびます。

ま、しょせんクルマなんざ自動大八車ですから、なんだっていいのです。
カッコ見た瞬間笑えるクルマなんて、いいクルマじゃないですか。



 12/5 環境は、整えすぎない

環境を整えすぎればすぎるほど、プレッシャーが重くなります。
自分にイイワケができなくなる。
結果に対する期待値が上がりすぎて、120が出ないと納得できなくなる。

これってしんどいですよね。
世には80でも充分なこともあるし、とにかくやって結果を並べないといつまでも120なんか出ないですから、「環境が整わないと戦わない」というのは本末転倒もいいとこです。
シュートを撃たないと、点は入らん。

そこで逆に考えた。
環境が整っていない時の方が、
つまり自分も「この状態で80出りゃ恩の字もいいところだろ!」と思えるような時こそ、
チャンスなんじゃないでしょうか。

そういう時って、制限が厳しいのよくわかってますから、
基本は手堅くまとめてかかるし、
逆に失うものが無いからイタズラ心、チャレンジングスピリッツ、冒険心も載ってくる。
完璧に整えられた環境で、それだけに集中するよりも、
いいものができる可能性も。

というよりも、みなさんも今までの趣味や仕事を振り返れば、
「そういえばあのピンチでよくあんないい仕事できたな」
なんていうことも多いはず。

つまり、逆境もまた、「ひらきなおり」という必殺技を使えるまたとないチャンス。
「知らん知らん、今の俺に仕事させる方が悪い」。
昨日の「工夫」とも重なりますが、順境も逆境も、どちらも推進力になるようです。
環境を整えすぎて自らの首を絞めないよう。
雑事に雑然と取り囲まれるからこそ生まれるなにかも、あるようです。
まずはDO ITですかね。



 12/4 工夫

M澤先輩に言われて気づいたのですが、
「工夫」っていい言葉ですね。

産業革命からこっち、我々は何か問題が生じると、
新しい道具新しい機械新しいシステムに、その解決を見いだそうとしてきました。
おかげさまで解けた難問も多々あり、月まで行っちゃったのですが、
逆に見失ってしまったものも多い。
蠅を追うのにミサイルを使うようになってしまった。

蠅を追うのは、蠅叩きでいいのです。
いや、蠅叩き「が」いいのです。

有名な小咄があります。

 さあアメリカ初の有人宇宙飛行だ、という時に、ひとつ問題が起きました。
 ボールペンというのはインクが重力によって下に降りてきて字が書けるものです。
 つまり無重力状態では書けない。
 NASAは必死になってありとあらゆる手段と人材を投入、
 膨大な開発費と時間と最新の技術を用いて、
 ようやく「無重力でも書けるペン」の開発に成功しました。
 おおそして見事、宇宙空間でそのペンは文字を書いて見せたのです!

 一方その頃ソ連では、鉛筆を使いました。

もちろん、「無重力でも書けるペン」を開発する努力は尊いです。
それこそが科学であり、進歩である。
しかし、「今目の前の目的を達成する」ということがまず第一です。
普段の生活、商売や仕事のギリギリの現場では、まずそれです。
「とりあえず鉛筆使いましょう」と思いつく知恵、柔軟性、視点……
つまり「工夫」が、これからますます必要です。

メーカーの現場では、高価な新しい工作機械を入れずに、
知恵を絞って簡単な構造の小機械を自作し、それを用いる、
そういう動きがあると聞きます。
空き部屋の目立つ古いオフィスビル、それを新しく建て替えず、
水回りを強化して居住もできるようにリフォームし、職住近接の新しい価値をアピールする、
そんな例も「工夫」のひとつだと思います。

こうした「工夫」を生み出すには、柔軟な思考と目的志向、強いコスト意識、それと、
「最大効率and/or最大パフォーマンスは求めない」
という考え方の転換が必要のようです。
つまり、「『ベスト』を求めない」。

「逆さでも書けるペン」がベストなのは誰にでもわかることです。
しかし、ベストさえ諦めれば、用さえ足せばいいのなら、鉛筆という解がそこにもうある。

くり返しになりますが、ベストを望むことこそ、進歩を生む原動力です。
でも、それを望むあまり、用を足すという本来の、
現在の問題から目を逸らしてはいけない。
そして現代社会というのは、案外問題だらけで、ベストなどと言うてられない気がします。

小さな例ですがプロ野球の話でも、
ベストは「黒字で常勝軍団」、それはわかります。
でもそれができないのなら、よりベターな方策を考えねばならない。
「人件費が嵩んで赤字が」
ならば選手を売ればいい。他球団を戦力外になって年収300万でももう少しがんばりたい、なんて選手はいくらでもゴロゴロしてる。
「それでは勝てない」
って存続できなければ、つまり死んでしまえば勝つも負けるもない。
そんなことを言ってるうちに、「赤字で常勝」でも「黒字でダメ球団」でもなく、
滅んでしまった。
愚かであるというより、理解不能です。

しかし最近は、「国の補助金をもらう公共事業にしてしまうとオーバークオリティだから」と、村が主導で必要充分なだけの土地改良や道路工事を、村人を雇って行う、そんな地方自治体の「工夫」も出てきたそうです。

身の回り、目の前にある小さな問題を、
ひとつひとつ「工夫」でやっつけていく、
のが積もり積もって大きな結果を生む。

難しい顔をしすぎず、ベストばかりにこだわらず、
「あ、鉛筆を使おう」といつも思えるように、
つまり工夫できるように、工夫していきたいものです。



 12/3 HGT成功例

ある知人がとある生活習慣病になり、地道な闘病を。
で、先日久しぶりにお会いすれば顔色もよくお元気そう、
実際に数値もかなり良くなったと。
「秘訣は……紅茶だよ!」
む。
「ショウガと黒砂糖をね!」
HGTではないですか。
「それは石原先生の……」
「お!?知ってる!?」

身近にこんな成功例が出るとは思いませんでした。
快方に向かってなにより、なにより。

「8万も9万もするクスリがなんだったんだと」

生活習慣病は生活習慣で起きるものですから、
生活習慣でしか治らないのかも。

石原先生の主張は
・現代人は食い過ぎや
・現代人は冷え過ぎや
この二点です。
で、どちらもそのとおりだと思います。
生姜紅茶はこの二点を解消するための手段に過ぎません。
(でも生姜の殺菌作用は極めて効いてる気がする)
だから適当に自分好みにアレンジしていいと思います。
「適切な量の食事を摂り、身体を冷やさない」
ここだけ気をつければ。

先日書きましたが「冷やさない」方で最近のオススメは、
ハラマキのマフラー使用。
もう手放せません。
喉に違和感、そんな時にはハラマキを首に巻いて
生姜紅茶を2杯ばかりカッ喰らって寝ます。
次の日にはもうイガイガが取れてます。

時節柄。



 12/2 地図を描く

客観的な視点を持つ、というのは、「地図を描くこと」です。

「おおよそ西へだいたい15分行けば、コンビニがある」
という大雑把な地図でも、なにも持たず走り回ってコンビニを見つけるよりも、
はるかに楽です。
普段から張ったアンテナと記録、自分の体験と良き人の言葉を基に、
自分の中の「地図」を描き込み続けておく。
そして自分の歩く(走る)速度を知っていれば、
「どこへいつ着くか」がおおよそわかる。

「時間の使い方が巧い」人のコツは、たぶんこれです。
自分の地図を持ってる。

みどり奥様によると、司馬遼太郎さんが小説を書くのは
「日中の空いた時間を見計らって」だそうです。
普通逆に思えますよね。
一番大事な仕事なんだから、まず小説書きがあって、
空いた時間に、他の仕事なりなんなりをする。
そうではない。
司馬さんにとって(おそらく)小説書きが最も「時間の読める」ことなのです。
地図があるから。
だから、量に応じて使う時間が読める。空いた時間を使ってこなしていける。

やれビジネス本などを読みますと、「空いた時間を有効活用しろ!」。
それはその通りなのですが、隙間を見つけては詰め込むことが収納ではない。
時間を区切ってそこに内容を突っ込む、
のではなく、
この内容ならばどこの時間をどう使うか、
それをよくよく検討するのが、「時間の有効活用」です。

---

カード使うようになって、ずいぶんヒマな時間ができたんです。
今までやってきたこと一通り全部やって、まだ時間余る。
「どうしてこんなに?」と思って考えてみました。

すると、やはり僕は、「ほえなが」始め「もの書くための何か」をツラツラ考えることに
(実作時間はより少ない)莫大な時間を浪費していたようです。
それをカード化して、さっさと外部に書き出して、
有限化して要素を眺められるようにして、
頭がそれについてパーッと集中して回りやすくしてみれば、
実にわずかな内容だったんです。
カードにして眺めれば15分ぐらいの内容を、2時間も3時間も捏ねてた。

(「そっちの方が豊かでは」とカード作る前は怖れていたのですが、そんなこともない。
 若干、落としてるところもあると思いますが、
 逆にカードだから思い出したり、連想したりしてるプラスがずっとずっと多いので、
 差し引きでは絶対プラスです)

つまりカードは方向音痴の僕にとって、地図になってくれています。
線と丸だけの大雑把なものですが、
それを手にすることで、どれだけの時間を使えばできるかが、
かなり見当がつくようになったのです。
(さすがに自分の脚力ぐらいはわかってます)
となると、「じゃお昼食べた後2時までやっとくか」とか、「5時から晩ご飯までFFで釣りやるから、それまでに上げよう」とか、見通しがつく。

カードはじゃんじゃん溜まってますから、明日も明後日も、
(もちろんその日フレッシュなのを考えるのですが、たとえ出なくても)
「ま、1時間ありゃまた書けるさ」
と思えるから、疲れてきたら割と心おきなく遊べる。

カードを薦めてるわけではなくて、
「自分の「地図」を描ける方法」があった方がいいですよ、
ということを、おすすめしています。

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小学生の頃から、夏休みの宿題などを、「計画立ててやりなさい」と教えられます。
「一週間でやる」などと無理な計画を立て、2日で挫折したりするものです。
しかし、計画とは、目標をムリに達成することではなく、自分のパフォーマンスに照らし、
「いつ・どこに至るか」を記した地図です。
より多くの成果を求めたり、より高効率を求める、
つまり結果から導き出されるものではありません。
あくまでも現状と目標から、合理的に客観的に求められるものです。
もちろん、そういう「ムリをするための」地図があってもいいとは思うのですが、
逆に、「楽をするための」地図があってもいいと思います。

日本人は非常に勤勉なので、そういう思想を嫌がりますが、
徒歩15分で行けるコンビニには15分前に出れば行けますし、
「徒歩で15分ならクルマ使えば3分か?」
と考え想像しまた行動するのも、進歩です。
地図も持たずに飛び出して、1日彷徨って「行けませんでした」というのは、
それは努力と言わない。
おもしろいけど。

小さい頃から、「がんばりましょう」「がんばりましょう」だけではなく、
「うまいことやりましょう」とか、「できるだけ楽しましょう」とか、
いろんな価値を教えてあげるべきだと思います。
「要するにやりゃあなんでもいいんだ」。
もちろん、向き不向きはありますから、どんなやり方を選ぶかは、その子次第ですが。

教えてあげるべきは「いろんな地図の描き方」ではないでしょうか。

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「ほえなが」はそんな感じで地図の描き方を身につけた気もしますが、
まだ本業の方で地図が無い(泣)
「あっち向いてこれだけ走る」と決まればそこそこ走れる自負はあるのですが、
「どっち向いてどれだけ」というところを見極めるのに、
もうちょい具体的に言うと
コンセプトを具体案に落とし込むのに、
いつもえらい四苦八苦します。

ここが12月の課題かなあ、と思いながら。

ボンヤリとしたやり方の芽はあるにはあって、
それが先月ヤカマシく言いました「独自の『意味』」ってヤツです。
平凡なモチーフにも、周りとのリンクによっては、
驚くような意味を見いだすことができる。
そこをうまくバシッと切り取れれば、新鮮でおもしろい、はず。

うまいことやりましょう〜(笑)



 12/1 愛と力

作り手には、「男描き」と「女描き」があるように思います。

司馬遼太郎さんが
「小説は、権力かセックスを書くものだ」
ご自身は権力を書くから、女性が書けない、と。

権力を「力」、セックスを「愛」と置き換えると、膨らませすぎでしょうか。
作り手は普通、どちらかが得意で、逆は苦手です。
苦手と言うよりも、割と相反する要素であるので、どちらかに力点を置くと、逆はそれを引き立てる要素に回る、そんな感じではないかと。

すごく単純化して例示すれば、
「愛の力で奇跡は起きる」
なんてものを描くと、権力はもちろん、愛の前に吹き飛ばされるわけです。
と、なると、悪役脇役としてはいい味出しても、メイン張るわけではない。
逆もしかり、
歴史のダイナミズム溢れる人間ドラマを描くと、どうしても愛は飛んでしまいます。
一人の人間の想いなどではどうにもならないからこそ、時の流れが重く切ない。

しかし作り手とは欲張りなもので、できれば両方描きたい。

ひとつ手としては、逆にしてしまうのです。
愛を象徴するはずの女性に力をふるわせる。
力を象徴するはずの男性の愛を語らせる。
ほんとは、前者もやはり力の物語であり、後者も愛の物語です。
でも、なんとなく両方描かれてるような気になる。
愛の力で歴史が動く気がするし、歴史も結局は愛で紡がれるような気がする。
前者が宮崎アニメ(特に「ナウシカ」と「カリオストロの城」)で後者が「冬のソナタ」だと言うと……冗談にもほどがありますね。

しかし個人的には、せっかくだから両方描きたい(笑)
(だから「ミラクルズ!」に固執してるのだろう、と自己分析。
 そしていつもやりきれないから、中途半端にみえるのかも号泣)
だって、両方あってこその人生ですからね。

夢は大きく。




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