■ ほえなが ■

がんがんがん。

 1/31 input

本日は1/1から1/31までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)

■本■

 「司馬遼太郎が考えたこと」1 司馬遼太郎 (新潮文庫)

 「司馬遼太郎が考えたこと」2 司馬遼太郎 (新潮文庫)

 「ゲーテとの対話」(中) エッカーマン (岩波文庫)
 「ゲーテとの対話」(下) エッカーマン (岩波文庫)

 「悪人正機」 吉本隆明・糸井重里 (新潮文庫)

 「ほぼ日刊イトイ新聞の本」 糸井重里 (講談社文庫)

 「アイデアのつくり方」 ジェームス・W・ヤング (阪急コミュニケーションズ)

 「一下級将校の見た帝国陸軍」 山本七平 (文春文庫)

 「胎児の世界」 三木成夫 (中公新書)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 01檮原街道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 02湖西のみち 近江散歩」 (朝日新聞社)

 「歌よみに与ふる書」 正岡子規 (岩波文庫)

(再読)
 「失敗の本質」 戸部良一ほか (中公文庫)

 「知のソフトウェア」 立花隆 (講談社現代新書)

 「土地と日本人」 司馬遼太郎 (中公文庫)

■DVD■

 「大塚康生の動かす喜び」 (スタジオジブリ/ブエナビスタ)

 「宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。」 (スタジオジブリ/ブエナビスタ)

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「ゲーテとの対話」ようやく読。
とても面白かったですよ。
特に大学生あたりにおすすめです。
たとえ趣味でもなにかしらの「表現」をしようという方には、
バイブルになると思います。
イチロー著の「野球とは」みたいな本ですからね。

オススメという点では、「悪人正機」は
読みやすいくわかりやすく、視点新しくなります。

「失敗の本質」と「一下級──」は、いい本ですが、
読むとグッタリします。
日本はあの頃から1ミリも進歩していない。

今月の個人的ベストは「歌よみに与ふる書」かなあ。
内容もいいのですが、それより子規がやたらカッコイイ。
そりゃ漱石も真之も虚子も羯南も惚れるってもんですよ。
病に倒れ身体ボロボロのはずなのにこの迫力、
それもこちらが息詰まる陰性の圧力じゃなくて、
若者の義憤のような明るい力なんです。
あと30年生きて、言文一致体で小説を
たくさん書いていれば、
日本の風景は変わってたかもしれません。
あまりに惜しい。

---

ここのところ、最初はカードで、今はA6ノートで
読書ノートを取っていたのですが、
次の本からは、ピンと来たポイントには
ポストイットの細いの貼って、
少し冷ましてからまだ気になったらノートに書き写す、
という二段構えにしようと思います。
梅棹先生も二段構えで、立花さんはそもそも
筆写などしない。

わたしは、筆写にはすごい力があると思います。
本当に大事だと思ったら、書き写すのが一番身に付く。
できれば手で。(PCなど用いずに)
手で筆写しようという気が起きない程度の情報ならば、
捨ててもいいことだし。
ただ、筆写にはすごいコストが掛かるので、
闇雲にやるとそれはそれで無駄です。

ならばマーキング、なんですが、
昔から何度も挑戦してるのですが、
個人的になんか「線を引く」のは中途半端で、
なにかやったような気になる割には
全く頭に残っていません。
だもので、ポストイット二段構えかなあ、と。
マーキングには、二度目読む時にそこに引きずられちゃう、
フレッシュな目で読めない、という欠点もありますしね。

今月はそんなところ。
読みたい本と読んでない本が溜まりに溜まって、
泣き笑い。



 1/30 現場感

いい歌というのは、どうしてああ勝手に
いい気持ちにさせられるんでしょう。
いい食べ物もそうですね、顔が勝手にほころぶ。

これはスゴイことですよ?
人の感覚をダイレクトに弄る。
エスパーとか言うてる場合ではありません。

やっぱり、ひとつは、身体感覚直撃だからでしょうね。
視覚聴覚嗅覚味覚触覚、センサーを直叩き。
だから反応もビビッドに。
脳を経由せずに脊髄で反射したりもする。

門外漢勝手に思うに、
ああいう業は、そこのところを叩く能力を磨いた方が
いいですな。

以前、エレカシのライブに連れてってもらったのですが、
現物の方がCDより80倍ぐらい良かった。
直に叩かれる部分が大きい。
F1初めて観た時も書きましたが、あれも現場の方が
TV中継より30倍ぐらい情報が濃い。
だからまた、フラフラと「現場」に吸い寄せられていくのです。
日常生活そのものが抽象化、情報化、
あるいはオブラートにくるまれた快適化という名の平坦化、
してるので、そういうインパクトに今の人間はとても弱い。

さらに、現場に出てみれば「特殊能力者」に対して、
畏敬の念を抱くのです。
あれって不思議ですよね、
映像とか活字とか媒体通すと、
ガックリその辺の情報落ちますよね。
オーラっていうか、そういうもの。

昭和天皇が敗戦直後にごめんなさい全国行脚した時、
炭坑へ降りて行かれて労働者達を陣中見舞いしたそうで、
その時、そこの労働組合長、もちろんばりっばりの
共産党員の人が感極まって先頭に立って
「天皇陛下ばんざーーーーーい!」

まあ、何か出てたんでしょうな。
笑えませんよ、我々も絶対同じことする。
100パー間違いない。

ん、ということで、やっぱり「現場で力強い」というのが、
まず第一だと思うのです。
そしてそうであるならば、だいじょうぶ。

私事になりますと、なかなか文章というのは「現場」に
なりにくい。
それが良さにもなるのですが、
(いったん抽象化して、触媒にするから、
 人によっては思いがけない強烈な反応が起きる)
でもやっぱり、人間の感覚を刺激するものである以上、
「現場感」みたいなものがあったらいいな、
出していきたいな、と思うのです。
なかなか、具体的には難しいんですけど。
もちろん、精密に作り込んでいく方もいいんですけどね。

なんにせよ、歌はいいねえ。
いい歌を自由自在に歌えるなんて、羨ましいかぎり。



 1/29 マグロ流体調管理

体調が悪くなると、「元気がない」などと言います。
この言い方は、良くないかもしれません。

整体とか漢方とかあっちの考え方だと、
「元気がありすぎる」のも体調を崩す。
エネルギーが
なさすぎ ⇔ 平常 ⇔ ありすぎ
こう。

過ぎたるは及ばざるがごとし、世の中なんでもそう。
体温だって血圧だって、高すぎるのも低すぎるのもまずい。
お金だって幸せだって、
持ちすぎるのは不幸かもしれません。
藤原道長が阿弥陀如来の手に結んだ糸握って死んだ、
とか聞くと、「ちょっと可哀想な人だな」と思いますよね。

そんなことを指して孔子様や確か釈迦先生も
「中庸」の大切さを説いたのだと思います。

また、同じ人でもバイオリズムみたいなのがやっぱりあって、
元気の足りない時期と、元気のありすぎる時期がある。
現代人はカロリーからして余剰ですから、
ひょっとすると「元気余って不調」が、
想像よりずっと多いかも。
「調子が悪いから」と一律ジッとしてるよりは、
思いきりエネルギー使っちゃうことで調子を取り戻すことも
あるかもしれません。
「カラオケボックスでひとり紅白歌合戦・7時半から12時まで」とか。

「ある」か「ない」か、ではなくて、
「ありすぎ」「ちょうど」「なさすぎ」で。
アナログ感覚とか言わずとも、
デジタルでも「1」「0」「スルー」とか、
なんか適当に3軸目を用意できませんかね。
イイカゲンと言えばイイカゲンですが、
理屈で白黒ハッキリさせながら追い込むのとは、
また違う視野が広がるような気がします。
日本人得意ですしね。

とりあえず、忙しい方が元気な人、というのは
そういう理屈だと思います。
マグロと同じで、泳いでないと死んじゃうんです。
同じじゃないか。



 1/28 小イワシを食べる

最近、ウチのお気に入りの魚屋さんがあります。
美味いんです。新鮮で、何を食べても。
今日はおつくりと、小さなイワシ、ヒイカという小さなイカ。
どれもグッド。

でもね。
この魚屋さんは長年同じ土地で暮らしてきて、
同じような場所に買い物に行ってて、
特別に美味いんです。
ちょっとだけ、高いんですけどね。

子供の好き嫌いって、案外こういうところから
始まってる気もします。
本当に美味しい○○を知らない。

でも考えてみれば、もっと昔は、
そんな新鮮な魚が食卓を飾るなんて、
海沿い(川・湖)に住む人でなきゃ無理ですよね。
社会が進歩したから、多少鮮度が落ちたり、
あるいは野菜なら、旬を外していても、
つまり実力がぜんぜん出てなくても、
手に入って、食べることができてしまう。

「冤罪だ!」と食べ物が怒るかもしれません。
「持っていくべきでないところまで持っていって、
 勝手に食べて、マズイという! ヒドイわっ!」

てなわけで、さらに技術は進歩しているわけですから、
ここいらでもう一度、
「この食品が本気を出したら一体どれほど美味いのか」
を見直す必要がありませんか。

その昔、「りょくけん」のトマト喰ってひっくり返りました。
「これがトマトだとするなら、
 普段食べてるありゃ一体なんなんだ」
もちろん、コストや流通条件が全く違うので、
だから普通にスーパーで売ってるトマトがダメだ、
といいたいのではないです。
ただ、「本来の姿」はここにあって、
それを安くするためだとか、旬じゃない時期にも
食べられるようにするためだとか、
産地から遠くても食べられるようにするためだとか、
そういう諸々でパフォーマンスが落ちてる、
と知っておくことは、悪いことじゃない。

そんなスペシャルじゃなくても、
普通の牛乳と低温殺菌牛乳ではまるで違う。
あの魚屋さんのおさかなは、今までの魚屋さんとは
ぜんぜん違う。

わたしたちは、知らないことが多すぎる。
いや、知らないというよりもむしろ、
正しくない姿を知りすぎている。

怖さと哀しさと、しかし「知りしろ」にほんの少し喜びを
感じたりしつつ、小イワシの唐揚げを貪り食べました。
ネコのごとく。



 1/27 試合とストレッチ

最近、新しいの書いてます。

で、思ったんですけど、
どうもコレ(ほえなが)とは違う脳を使う。
サッカーとテニスぐらい違う感じ。
「甘い物は別腹」とか。

ま、二、三日やれば感覚取り戻すんですけど、
そこまで結構筋肉痛がするんです。
やっぱ毎日やらないとダメなのかしらん。
連載小説みたいな。
それとも、それでいいのかな。
野球選手だってオフにはバット振らなかったり
速球投げなかったりしますよね。

随筆は、
作者の「思ったんですけど」を描くもの
ではないかと思うのですが、
小説や他の散文は、
作者が見たイメージを伝えるもの
ではないかと。
「伝える」ことの重さが違う。
(もちろん随筆も伝えようとはしているのですが、
 おしゃべりと同じで、最悪伝わらなくてもいい。
 しゃべること自体に快感がある)
別の視点で見れば、
(自分の中に持つ)
他者の目が厳しいかどうか、
ですかね。

厳しい他者を持つほど、完成度は上がりますが、
エネルギーを消費します。
ですが、目一杯厳しい他者を持ってるつもりでちょうどいい、
いやそれでも甘い、と思いますので、
そこは手綱を緩めるわけにはいかん。
また、厳しい他者を納得させられたら、
それこそ楽しいし。

あ、形式によらず「真剣勝負」っていうところだと
思うのですが、
形が中身に与える影響も、大きいものです。
コレもプリントアウトするとびっくりするほど冗長ですよ。
失礼ながら、書店の本でも
「この人紙推敲してないんじゃなかろうか」
というものは最近多いです。
PCやワープロ、FEPの弊害。
紙を経験してる人は、実作はPCでやっても紙推敲
(もしくはそれに近いこと)をやってると思います。
紙推敲は絶対オススメ。
やるだけでギュッと引き締まりますよ。

んじゃ、こんなことやってんと一生懸命やんなさいよ、
とお言葉飛んできそうですが、
いや、これはこれで筋肉ほぐれてる気がするのです。
試合前後のストレッチ。
「なにをやってもいい」というのも大きい。
やっぱり、ひとつの作品に向かう時には、
文体ひとつ取ってもその作品向きのスタイルで
押さないとダメですからね。
そればっかりやってると、凝ってくる。

ということで、両輪両輪。

……ていうことは、真剣勝負の方も
毎日やった方がいいのかな。



 1/26 4本でいこう

昔から体験的に。
90分1スティントと考えると、
1日4本が限界だと思うんです。

ええ、大学のコマが4つですよね。
あれが正しい。
わたし超不良学生でして、2回生の時、
学校に行く回数を減らそうと、
必須を4つ同じ曜日に集めたんですけど、
これが今思い出してもフラフラになった。
それも凄く厳しい授業はなかったんですけどね。
物理体力と頭体力がありあまる20の頃に
このありさまですからねえ。

身体使うこともたぶん同じです。
身体使ってる時も、「集中」すれば脳はフル回転してるので、
結局脳に限界がくる。
企業戦士の皆さんが8時間を大幅に超えて戦えるのは、
移動とかしょーもない会議とか、頭使わなくてすむ
時間の割合がかなりあるからではないか、と思ったり。
思ったりというか、サラリーマン時代振り返ると
そうだったな、と。

理想は朝2昼2の夜休息、だと思うんですが、
切羽詰まると夜1本入れられなくはないですかね。
予備役みたいな非常手段ですけど。
夜型の人は朝抜いて昼2夜2ですね。
だからどっちが高効率とも言えないと思います。
「朝型が効率が良い」というのは幻想で。

最近とみに、無理して1日につっこむより、
余力残して明日につなげるほうがいいように
思えてきました。
「まだのこってる」
っていうのが、明日の起動を早めたり、
寝てる間に脳と身体が勝手に整理してくれたり、
いろいろいい影響を与えてくれそうな気が、
するのです。

そんな気がして、昨日は晩ご飯を食べた後
ダラダラしてました。
ここで楽しい趣味があると楽しいのですが、
残念ながら無趣味なもので。
ゲームとテレビはもう画面見るのが嫌になってて……
話相手が、欲しいねえ。

それはともかく、そうやって「詰め込もう」とするのが
そもそも間違い、だらだらでいいではないですか。
ただし、それを楽しめる労働が前提で。
はてさて、労働労働。



 1/25 スメルキラー

通販などで一部話題の、
スメルキラー
なるものを手に入れてみました。

結論から。
効果はあるが使いにくい。

どんなにwebをめくっても原理がさっぱりわからないのは
ファイテン」と同じですが、ともあれ、効くのは効きます。
いや、プラシーボじゃなくて。
我が家はミル吉(ネコ)がおしっこをところかまわず
引っかけるキャットシットハウスなのですが、
これさえ置いて密閉すればあら不思議。
かなーり匂いません。

ただしですね。
「2時間待ってもいいから密閉空間の匂いを取りたい」
というシチュエーションが、実はほとんど無いのです。
トイレには即効性が求められます。
玄関はオープンスペースですので効果が薄い。
「匂うキッチン」など、こんなもの置く前にやることがある。

おしなべて匂いというものにはなんらかの原因があり、
それを取り除くのが根本解決です。
それを放置したまま匂いだけ取りたい、という状況は……
ああ、タバコ系はありかもしれませんね。
あとはクルマですが、クルマの中で水を使うのは
いくら専用品とはいえちょっと厳しいですな。
水の補充も割と面倒です。

そんなわけで、ちょい微妙グッズでした。
ただ、もしそういう空間があるならば、
効くのは効きます。ちょっとお高いけど。



 1/24 日産 NOTE

まじめっぽいフリをして疲れたので、
本日はまたクルマの話題なぞ。

日産のNOTE。

おそろしい。

えーっと、例の6車種一斉公開の時は、
まったくその本質を見抜いていませんでした。
アホウでした。
ていうか、こういうのがあるから、趣味ってのは
やめられないんでしょうね。

簡単に言うと、日産すなわちカルロス・ゴーンは
「クルマの白物家電化」
に狙いを定め、それを先行してやりきることで、
道具としてのクルマ=日産
という図式を成立させ、
シェアと利益を根こそぎ奪う作戦のようです。
その尖兵こそこの3車種、
ノート、ティーダ/ラティオ、ラフェスタ。

筆記具が、水性ゲルボールペンと高級万年筆に
二極化したのと同じです。
(ムラーノとフーガは高級万年筆)
実際のシェアは知らないのですが、
僕はいつもこのジャンルの商品を買う時には
ぺんてるの「Hybrid」を買います。
(初ではないが火をつけたのはこれ)
そういう信頼感を勝ち得よう、って感じかな。

言うなればクルマの作り方を180度換えた。
「できるだけ良いモノ」などという曖昧なものではなく、
「『必要なモノ』をどこまで追い込めるか」
というチャレンジです。

具体的な作り方は非常にわかりやすくて、
「一つ下のプラットフォームを使ってできるだけ安く作る」
この一点に尽きます。そのために、
「付加価値は全く追わない」
「ターゲット価格・サイズ・性能を極めて精密に考え抜く」
「過去との連続性をすべて捨てゼロから組む」
の3点を粛々とやってます。

以上3点、家電業界ではアタリマエのことですが、
(逆にそれをやりすぎて「積み重ね」がなさすぎるのが
 家電屋の悪いところ)
クルマというエモーショナルな部分、情感が金になる
商品ではなかなかやりきれた例はありません。
「道具感丸出しコンパクトカー」の最近の例では、
ホンダ・フィットと先代マツダ・デミオが
成功例と言えるでしょうが、あくまでもあれらは
全社的方向性を見定めて狙い撃って成功した例ではなく、
いわば単発の「たまたま」です。
これを、
・会社としてやると決断し、またやった、
・ついに1500ccコンパクト中核クラスまで
 (フィットとデミオは一つ下)
という点が、画期的なのです。

言うまでもなく1500ccクラスというのは
往年のカローラ・サニー・シビック・ファミリアクラス、
人々の生活に最も深く馴染んだクラスです。
つまり最も使いやすいクラス。
いかに高級志向やコンパクト志向や機能分化(ミニバン)
が流行ろうとも、人は食パンを食べずには居られない。
いや、食パンがあるからこそ菓子パンもバゲットも
存在が許される。
そこに「ちゃんとした食パン」で殴り込んだわけですな。
お値段も150円。

現在のカローラは、180円でちょっとリッチなんです。
甘いミルクがほのかに香ったりする。
それは悪くはないのですが、そのミルク分は、
別に欲しいわけでもなんでもない。
250円出せば本当にクリーム感溢れるホテルの食パン
みたいなのゴロゴロあるし、(ゴルフとか)
100円で2個入りバターロールもある。
(フィットとか)
で、ここに150円のパリッとした食パン、
「らしい」コンパクトカーが来れば、
これはドッとウケる。

デビューしたティーダ/ラティオを見て、
「うわ、なんやえらい真面目に作ってるやん」
と驚いたのですが、あれはフロックでもなんでもない、
長期的展望に基づいた作戦通り、
だということがこのノートで判明。
ということは……
こりゃ一波乱ありますぜ(笑)

個人的な予想ですが、2000cc級でも同じ作戦、
いけると思います。
日本で使う場合、フツーの人がフツーに買う上限は
2000cc・5ナンバー一杯・200万
だと思います。
(1500クラスはロングの多い人・
 子供が大きめの家庭には辛い)
ここに、ノート/ティーダのような
「食パンセダン」をブチ込むと、
これは売れますよ。
つまり、次のブルーバードですな。名前は変わるだろうけど。
次期メガーヌと同じプラットフォームを使うだろうから、
出来も期待できそうですしね。

トヨタがターゲットを非常に細分化し、
これでもかこれでもかと新型車を投入するのに比べれば、
非常にスマートなやり方です。
車型数が減れば、実験や開発も相対的に
パワー掛けられますから、仕上がりもよくなる。
もちろんコストメリット出て、さらにコストも下がる。
広告・宣伝もやりやすい。
(もちろんハズレを作るとダメージが大きいが)

Zのような高付加価値品は華やかですが、
現実の商売に大きく貢献するのはこうした
フツーのクルマです。
フツーのクルマは、フツーに作って欲しい。
どれもこれもがスポーティだったり、上質だったり、
そんな必要はないのです。

一番そういうのが苦手っぽかった日産が
一番にこういうのをやってるのを見て、
時代というのは、組織というのは変わるものだ、
と感心しました。

ええ、乗ってもいないですがたぶんイイクルマです(笑)
ディメンジョンがいいですな、4mちゃんと切って、
幅1690で高さ1535、パーフェクトです。
これで1500ccなら、結構活発だと思いますよ。
できればラフェスタにあるパドル式マニュアルモード付き
CVTのスポーティ車種が欲しいところですが、
これは追加のお楽しみですかね。

やればできるもんですなあ。
負債2兆と言われた会社が、
クルマと社会の関係にくさびを打とうってんだからねえ。

まったくの余談ですが、
これとティーダ/ラティオをどう評価するか、
っていうのが自動車評論家への評価になるかと思います。
得意の評価軸はそれぞれあっていいと思うのですが、
このぐらい(作り方の考え方を180度換えたという意味で)
エポックなクルマには、それなりの一言あってしかるべき。
これを「走りは平凡」で片づけてるようでは、
ただのクルマオタクです。

……当の日産自身もそれをどうアピールしていいのか
はっきりわかってないのが、あの会社らしくて
いいんですけど(笑)

よく言われることですが、
ある時期の強みこそ、環境が変われば弱みになる。
「フツーのクルマ」
っていうのは、トヨタには絶対に作れないクルマなんです。
サニーにプラス100ccしたあの時代から。
そ、これは歴代サニーが背後霊となって叫んでいる。
「その100cc、要らんで」と。
そして今は、そういう時代。

いや、トヨタも重々わかってますね。
マークXがあそこまで真剣味無く作れるのは、
「ここの客は味音痴」と知ってるからで、
2500級アッパーミドルまで食パンで行けると踏んでる。
お手本がありゃ真似るのは得意ですから、
すぐ追っかけてくるかな。
でも次期ヴィッツは「ちょっといいもの」方向に
踏んじゃった後なんですよね。
うーむ。
次のカローラか。
いやあ、「ちょい付加価値」っていうのに
日本人弱いからなあ。
なおのことそれで押すかもしれません。

ま、日産にはじっくりこっちで地歩を固めて、
またGT-Rなど高付加価値品でも
スゲーのを作ってもらいたい。
そう思います。
次のスカイライン(存在が許されるかどうか微妙ですが)
あるいは次のセレナ、このあたりも楽しみ。

いや、おみそれしました。



 1/23 「いや、君は○○であるべきだ」

一昨日焼肉つつきながら鉄心さんが
「最近、他人の言ってくれる
 『こうあるべきだ』みたいなのが、
 合ってるような気がしてきた」。
最近、僕も自分自身についてそう思っていたので、
膝を打ちました。

向きと好きが違う。
僕はそれで子供の頃から悩んでましたが、
どうもそれは、程度の大小はあれ、
誰にでも起こっていることのようです。
そもそも、「自分に無い」からこそ「好き」になるのであって。

自分のことは、自分が一番よくわからない。

こういう時頼りになるのが親友です。
ポロッといいキーワード言ってくれる。
いくら自分がFWだと思っていても、よく知る友が
「君は……ボランチが向いてるんちゃうか」
「むっ」
その時、「ピンと来る」っていうのは、
実は自分も薄々そうかと思ってるんですよね。

「こうでありたい自分」より、
「自分がどうなれるか」かな?

関連で。吉本隆明さんが
「自分の自己評価以下のことをやるんだ」
みたいなことをおっしゃってました。
それは決して、「楽する」って意味ではない。
コントローラブルなものをしっかりやっていく。
それが結局は個性を伸ばし、
いいことできる一歩かもしれません。

また言い換えれば、「どうなれるか」という視点とは、
他者、さらには社会からの視点です。
(「こうでありたい」というのはあくまで自分だけの視点)
これを「社会性」というのかも。

もし、社会性を持つことが「大人」だと定義するなら、
日本人には「大人」はとても少ない。
マッカーサー元帥に
「精神年齢12歳だ」と言われたのもわかります。
それは決して悪いことばかりではない、とも思うのですが、
そういう特質を我々は持っている、
ということは、覚えておいた方がいいかもしれません。

さらにいえば、いわゆる「プロ」というものは、
「自分の技能に社会性を持たせた」
人々のことではないでしょうか。また言い換えれば、
「相手を対象とした仕事ができる」
こと。

そんなのアタリマエだって?
いやいや(笑)
どんな仕事におつきになられてても結構です、
周り見渡して、そういう人ってそんなたくさん居ます?
居れば、それはものすごく恵まれた職場です。
大事にして、がんばってください。


ま、それを意識したからといって
突然劇的に何かが変わるわけでもないのですが、
意識が変わることがすべての第一歩。
「そっかボランチか……
 ロングパスとか守備とか、ちょっと考えてみるか」

思いもかけぬ自分の姿、
それもまた楽しからずや。



 1/22 らしさ

7時鉄心さんと鶴橋待ち合わせ、
今日は市場の中の超家庭的小焼肉店、
「新かどや」。
ジャンキーでとってもよかった。
「焼肉」と言われた時に喰いたいもの、想像する味、
そこにすごくフィットしていた。
肉質的にはそんなに上、というわけではないし、
安くもないのだが(もちろん高くもない)、
なんだかホッとする。
「そそ、これが食べたかったんだよ」
と、思い出させてくれる味。

これは非常に考えなければならぬ課題である。
「良いモノ」ではなく、「欲しいモノ」こそが欲しい。

……ああ糸井重里の名コピー(笑)
さすがだなあ。

簡単なようで、実はこれこそがヒッジョーに難しい。
「良いモノ」の方がよっぽど簡単。
いい肉、いい調味料、いい店構え、いいサービス、
全部類型がある、目標がある、前例がある。
それをちょっぴり上回ればいい。

だが、「焼肉らしい焼肉」となると、
途端にワケがわからない。
そういう、抽出した要素の総和からは、なにも出てこない。
ファンタの名コピー、「グレープよりグレープ味」。
笑うのは簡単だが、それを具体的に実行するのは、
とてもとても難しい。

日常と非日常の総和、
そのふんわりした雲の中からなんとなく描くものが、
「それ」というイメージかもしれない。
家でやる焼肉、キャンプでやった焼肉、
いろんな店で食べた焼肉……
いろんな焼肉を限りなく繰り返して我々は生きている。
「焼肉」と聞いた時に思い浮かぶ「焼肉」像、
それは千差万別のようでいて、
実はある程度収斂されているのではないか。
身近なものほど、つまり、経験と知識の個数が多いほど。
「クルマ」という単語を聞いた時に、
おそらく多くの人々がぱっと思い浮かべる像は、
白い中型4ドアセダンだろう。
そういう、「ザ・焼肉」のようなものが。

そこにポン、とハマると、
「これだよ!」感がすごくあって、
高い評価が下る。
いわゆる実力、スペック、他者との比較は関係ない。


昨今の世の中では、「らしくなさ」でサプライズを狙うのが
戦術として流行っている。
もちろんそれはそれでいいのだが、
この方向だと、「これだよ!」感は絶対に得られない。
また、王道と思われがちな「本物志向」も、
あまり極めすぎれば、「これだよ!」からは乖離していく。
「焼肉感」の無い焼肉を、焼肉などと言っていいのか。

客におもねればいいというものではない。
客も知らないのだ。
「焼肉感」など。
それを感じ取り考え尽くすことができるのは、
経験豊富で感受性高く観察力細やかな作り手のみである。
決して固定観念どおり、「常識」どおりであれば
導かれる結論でもない。
それは単なる「平凡」だ。

全ての作り手は、受け手でなければならない。
でなければ、「らしさ」を見失う。

そう思えば、
「○○らしい○○」
が随分すくない世の中の気がする。
多様性は大いに結構、しかし本流ど真ん中、
幹が痩せていては、その樹はほんとうに
生命力旺盛とは言えまい。
「らしさ」とは、
作り手の真摯な姿勢と受け手への思いやり、
その表現ではなかろうか。


難しく考えなくても、ここに正解がある。
オモニがさくさくと肉を切り分けるのを横目に、
そんなことを思った。



 1/21 知ること

いろいろ考えたんですが、
結局人間、いや生命にとって一番のエンジンは、
「進化する」
っていうことじゃないかな、と思ったんです。

ベクトルはいろいろあると思います。
強くなる、美しくなる、優しくなる、賢くなる、楽しくなる。
どちら向きにせよ、その気持ちがあれば、
ひとはしっかり歩いていけるのではないでしょうか。

進化する喜び、歩く喜び、というのは、
子供の頃に(本来ならば)たくさん味わっているはずです。
だから人は大きくなれる。
とすると、今悩んでる人、今がつまらない人、というのは、
「どちらに向かって歩いていいかわからない」
または「見失った」のでは。

それを見つけるのはなかなか難しい。
いや、死ぬまで探し続けるものかもしれません。

でも、「あ、これちょっといいかも」とでも思えるものに
常に触れていれば、いつか当たりがくるかもしれない。
探し求めることを諦めては、探し物は出てこない。
手を止めたにしても、諦めては。

「進化」することを止めた人、
歩み続ける意志を放棄した人、
というのは、大変さみしいものです。
「死んでる」あるいは「動物と同じ」とまでは言いませんが、
相当につまらない。
なぜなら、サプライズが無いからです。
わかりきったところで止まってるから、
同じことしか言わないし、想像のつくことしかしない。
それでは……。

キッカケはいつも、「知ること」ではないでしょうか。
「こんなことがあったのか!」という新鮮な驚き、
そこからすべてが始まります。
歳を取ると、類推が働くようになり、
蓄積された経験が邪魔をして、
驚かなくなります。
でもほんとうに世界というのは、
そんなわかりきったものでしょうか。

いや、そんなことないですよね。
我々はどんなに長くどんなに積極的に生きたとしても、
なにも知らないまま死んでいく。
あの、史上屈指の詩人・作家かつ科学者であり
行政官、80過ぎまで生きたゲーテをして、
「わしゃ音楽はわからん」

「知ること」から始めよう。


そこで、わたしができることといえば、
「こんなことがあってさ!」
と「語りかける」ことじゃないかな、と思ったのです。
いや、すでにそれをやってきたような気もします。
ならば、もうちょっと意識してやろう、かな、と。

……ま、堅苦しいこと抜きにして、
オモシロそうなこと、見つけていきましょう。
どうぞご一緒に。


 1/20 「進化しよう。」

すごい……っていうほどでもないんですけど、
結構な努力が、1ミスで吹っ飛びました。
「わたー……」と思ったのですが、
でも自分でも意外にショックがない。

それは自分が落ち着きを得たのか。
それとも、その「やろうとしていたこと」が、
実はさほど熱意のあるものではなかったのか。
あるいはその両方か。

それはわかりませんが、
どちらであっても両方であっても、
それは知らない自分。
それを知っただけでも儲けもの。

失敗からこそ多くを学ぶ、
ソクラテス先生風に言い直せば
「成功すれば幸せになれる、
 失敗すれば賢くなれる」

そ、つまり、どっちに転んでも、
「やる」のがいいです、ね。

---

そんな思いをこめてかこめずか、
少しばかりサイトを組み替えてみました。
これから少しずつ、変えていこうと思っています。

切り口は「知の冒険」、
コピーは「進化しよう。」

僕(永田和久)の個人サイトであることから脱皮して、
いろんな「知る喜び」を、
(小さなことからでも)
お届けできるページにしていければな、
と思っています。

もちろん、僕一人ではたいしたことはできません。
ので、いろんな人を巻き込んでいきたいと思います。
ので、巻き込まれたい方は遠慮なくお気軽に
巻き込まれてください。
人生短いんだから、楽しんだもの勝ちですよ〜。



 1/19 web日記は思考ツールの夢を見るか

立花隆さんの御本を読むといつも思うのですが、
この方ちょっと特殊ですよね。

速い。

こんなに「急かされる」本はちょっと他に類例が無いように思うんです。
おそらくは氏の思考の速度に起因すると思うのですが、
頭脳の回転が速い人の本、博覧強記蓄積型の人の本、
ゲーテから池谷裕二までどんな賢い人の本を読んでも、
ここまでジェットコースター感覚は無い。

じゃ読みにくいかってそんなことはないし、内容も濃密で重く良質なのですが、
あまりに速くて「腹にたまらない」という感じがします。
こってりしたラーメンみたいな。
食べてる時は「濃いなこりゃ」と思うんですが、1時間すると小腹が空いてる。

それが悪いというわけではないのですが、
やっぱりちょっと普通の人のリズムとは違う気がします。
コムズカシイ言葉をひねれば、身体性から外れてる、っていうかね。

ご存じの通り氏の読書量はハンパではなく、
それも活字中毒者が「作品」を読み漁るのではなくて、
「情報源」としての書物をものすごい勢いで読む。
同じ経験を繰り返していることもあり、
おそらくあっという間に、頭の中に、
現在のテーマに関するフレームワークみたいなのが構築されるんだと思います。
認識システムというか。

で、著作物では、それを前提にゴリゴリ押してくるわけです。
だからもちろん、わかりやすくて完成度は高い。
でも、読んでる方は、そのフレームワーク自体がわかってないわけです。
だから置いてけぼり感が出る。

超秀才に勉強教わってよくわからない、そんな感じ。
「こことここがこうなったらこうなるだろ、だからこうなってああなってそうなってこうなんだ、で、答えがこれ。簡単だろ?」
「あうあうあう」

「わからない」
ということは、
「わからないことがわかってない」
のです。

よく、「わからないことを整理してから質問しなさい」などと言われますが、
高等教育機関ならともかく小学中学では「わかってないこともわかってない」ので、
そんなことは不可能です。
だから頭イイヤツしか質問に行かない。
質問に行ける、っていうことは、半分以上「わかってる」とも言える。

「わからない」を「わかった」にする、
そのプロセスすべてを、
「理解」と言います。

わたしは、それが欲しい。
また、そここそがおもしろい。

「わかった」後の結果の集積は、ま、どっちゃでもいいのです。
サッカーでも、シュートはもうどうでもいいわけです。
入りうるところから入るように蹴れば入る。
問題は、そこに至る状況を作り出す、
そのためにどんな知恵と技と力が使われたのか、
そこです。

ただ、「自分がわかってない」と悟ることも難しければ、
「人もわかってない」ことを肌で感じるのはもっと大変。
また、時間や空間の物理的制約がありますから、
プロセスそのものを伝えることも難しい。
しかもそのプロセスは、その人の、その時一回限りのカスタム品ですしね。
たとえ伝えても、利用価値もあまり無いかもしれない。

でも、web(ネット)という媒体は、そういうプロセスをこそダラダラと垂れ流せる。
ここ、時間空間制約が実質ゼロ、
これこそが本や電波と違う、webの強みのひとつではないでしょうか。
プロセスをまるごと記録しておくことで、自分でも他人でも、
その足跡を後から辿ることができる。
「わからない」人が「わかった」過程をみれば、
自分も「わかる」足がかりを掴めるかもしれません。

そんなことを考えつつ、
今日も書きながら思考を深めさせてもらいました、と。

ひょっとしてweb日記やblogは、思考ツールかもしれない。



 1/18 17mm-300mm F2.0

いつもの話ですが、視点はズームイン・アウトさせないといけない。

日本人は特にインが得意で、ほっておくとそうなるので、アウト側を意識する必要がある。
「失敗の本質」(中公文庫)
を読みなおしてまたそう思いました。
帝国陸海軍は、決して弱かったわけではない。
ではなく、日露戦で得られた「こう戦う」にアジャストしすぎて、つまりズームインしすぎて、
大きな状況・環境の変化に対応できていない。
対ソ白兵戦ばかり考えていた陸軍が太平洋の孤島で大火力米軍を相手にし、
艦隊決戦ばかり考えていた海軍が航空機時代に苦闘する。
ま、そりゃ、合理的に、負けるわけです。

SONYがテレビで苦労するなんて、ほん数年前じゃ考えられなかったことですよ。
SHARPの製品があんな大きい顔していい場所取ってるなんてね。
よく栃木で愚痴を聞かされたものです。
最強無敵のトリニトロン管も、ほんの少し時代が変われば、戦艦大和の46p砲。

でも、誰にでも同じことは起きる。

なにかに一生懸命になることはとても尊いことだけど、
ぜんぜんしょうがないことに一生懸命になっちゃうことも、多い。
一歩引けば、あるいは後から、
「なんであんなことにあんなに血道を」
でも、そういう時って「聞く耳」もあまりありません。
やっぱり基本的には、自分でズームの切り替えができて、
「ん?これは……」
と疑問を持てる方がいい。

そのために、主芸に加えて、裏芸持ってるといいのかも。
できれば、メインからちょっと外れた感じの。

FF11でも、わたしはメイン黒魔道士なんですけど、
盾など前衛やると、前衛の苦労がわかるのはもちろん、
「前衛にとってありがたい黒の姿」も理解できるので、
結果的にメインのためにもなる。

あるいは、
いい職人はプロデューサーの目を、いいプロデューサーは職人の目を持ってる。
そんな感じで、視点がマクロなことと、ミクロなことを並行すると、いいのかな。

わたくしごとになりますが、「ものを書く」というのは基本的にはヒジョーにミクロで、
追い込んでいく芸であります。
で、こればかりやってると、まさに推敲地獄といいますか、
いつまでも「てにをは」で悩んだりする。
もちろんそれは悪いことじゃないけど、
もっと大きなところで足りなかったりするのに、
そればかりやっていてもしょうがない。

ということで、もちょいマクロな目を自然と持つようなことを、やりたいな、と思ってます。
そんなことをいろいろ考えてるだけでも、
普段とぜんぜん違う視点でものを見ざるを得ないので、楽しいですよ。

大魚眼から超望遠まで、自由自在な眼を持つ人に、なりたい。



 1/17 なまえ・なまえ・なまえ

名前の話、みんな食いつきがいいのでもうひとつ。
ペンネーム雑感。

あれも功罪あるものです。
功の部分は言わずもがな、著作物につく色や薫りをコントロールできるところ。
「韃靼疾風録 司馬遼太郎」
カッコイイですね。
思わず書店で手にしてみたくなります。
「韃靼疾風録 福田定一」
よりも。
本(やwebやなんやかや)というのはトータルパッケージで
「おもしろい」をご提供するものです。
作者名も、飾りは飾りですが重要な飾りのひとつ。
やっぱり、エンブレムや紋章はカッコイイ方がいい。

罪の方は──罪とも限らず功にもなるのですが──
作者そのものの個性と若干乖離することです。
乖離させて「自分」を守るタイプの人もいますし、
乖離させたはずの個性がいつの間にか自分になってしまって、
「そういう自分」になっていくタイプの人もいます。
司馬叔父も、人気作家になって数年すると
「福田さんと呼ばれても、振り向かないこともある」
もう「司馬遼太郎」になっちゃってる。

名前、というのはおそろしいもので、言霊のいとこみたいな「名前霊」があるようで、
そう呼ばれてるうちにそうなるものです。
「テネ」の声録りにへっぱりついた時ですが、
スタジオの中では声優さんを芸名ではなく役名で呼ぶのです。
「あれ? セリウスは?」
「控え室でまんじゅう食べてた」
そうやって役に入り込んでいくわけですな。

だから、占い師さんが
「マドモアゼル愛」(男性)
「アレクサンドロス木星王」
という名前でも笑っちゃダメなんです。
入り込んでいく容れ物は、(本人の)イメージ通りであるべきで。

「これだ!」と思う名前にしてみると、そうなっていくのかもしれません。

五木ひろしさんが芸名を3回変えてるのは有名ですが、
ダウンタウンも「てるおはるお」とか何回か変えてるはずです。
たまたまといえばそれまでですが、なにかあるのかもしれません。
名前そのものが何かを変える呪術性を持っている、とまでは言わなくても、
全体として「よし、いける!」と思える体勢の時にこそ、
ぴったりした名前が思いつく、そんな感じでは。
だから姓名判断がもし有効なものだとしても、
成功してる人の名前を分析すれば、成功する名前に決まってる。

わたしも昔からペンネームでは頭を痛めており、
今もって「これだ!」というものを持っていません。
「永田和久」は、嫌いなわけではないですが、いかにも普通の名前なので、
やっぱりパッケージの一部としてちょっと「いい感じ」のものが欲しい、です。

ひらがな書き「ながたかずひさ」でいいかなと思った時期もあったのですが、
やってみて思う、漢字という表意文字はやっぱり偉大。
意味と形、両方で意識に固着してくれるんです。
それをポイと捨てちゃうのももったいない……

あとは号方式かな。
正岡子規(正岡常規)とか、夏目漱石(夏目金之助)。
これはわたし、どっちかというと「永田」の方を変えたいので却下。

ゲームは本名で作ってますが、
あれは「スタッフの一員」なので、あまり悩まず本名で行きました。
昔、劇をやってた時もそう。
集団戦の作品は、自分の作品なんですけど、自分の作品じゃないんですね。
もちろん、いろんな考え方の人があって、どれが正解とか無いですけど。

ちょっと前まで名前の変更はあたりまえのことで、
桂小五郎がある日、木戸孝允になる。
もっと前なら「幼名」があって、変更を前提とした命名がなされていた。
節目節目に名前変えていく、という風習には、
なにか民族的に持ってる、人生観とか宗教観、自然観が影響しているのかもしれません。
さらに古くなれば蘇我入鹿や馬子など、
動物の名前を付けてその力(霊)を借りようとしたりもしたわけで。

そうそう、基本に戻れば、
本名は自分でつけたものではないですね。
仕事も配偶者も所在地もある程度自分で自由になるんですから、
名前もある程度「自分好み」でもいいでしょう。

ま、無理にこじるよりも、いつかいいのがポッと思いつく日が来ると信じて。
だからその時に、
「おまえが天空海超一郎(仮)という面構えか!」
と、いじめないでね。



 1/16 ヨガヨガ

ご好評「ながたさんの健康バカ一代」、
今回のテーマはヨガです。

さすがに肩こりが洒落にならなくなってきました。
寝覚めが爽やかでないのは辛い。
というわけである夜、自ギレして、
昔買ったムックを手にいくつかのポーズをやってみたのです。

翌朝爽やかなのよこれが!(笑)

「うわ!」と思ってその日からくねくねと身体をよじっています。
実にエエカゲンにやってますが、それでも効きます。
よくやるのは
・首回し運動
・体側ストレッチ
・座って身体ひねり
・足首もってのブリッジ風胸そらし
・足裏を合わせて膝をひらいたまま後ろへ倒れ静止
・鋤のポーズ
こんな感じ。

ま、要するに「インド式ストレッチ」だと思えば誤解が少ないです。
上級者のやってる超絶ポーズは、あれはもっと先の話で。

普通のストレッチとちょっぴり違うのは、
「ある部位を集中して延ばす・刺激する」
という考え方ではなくて、
「こういう目的のためにこの辺を刺激する」
という考え方のところ。
いわばもうすこし目的志向なんですね。
首を回すのは、筋肉をつけて強い首を作るためではなく、
気持ちよく肩こりを飛ばすため。
それが、気分的にとても楽です。

もうひとつは、「身体の構造」を極めてうまく使っていると思われるところ。
特に身体のパーツの重さです。
たとえば「鋤のポーズ」(仰向けになって腰から脚を垂直に上げ、
そのまま頭側へ倒したポーズ)だと、
首と肩に体重の大部分がどんと集中する。
そういう経験は首や肩は当然普段してないわけで、
それがとてもいい刺激になるようです。
体側ストレッチにしても、倒れ込む上半身の重さを意識すると、
ものすごい高負荷運動です。
ラジオ体操にも似た動きありますよね、
足を開いて左手を腰に右手を頭の上から回して身体を倒す運動。
あれは、「両体側の筋肉を使う」というところに主眼が置かれてるカタチと動き。
似た動きでも、考え方がぜんぜん違うと、効果がぜんぜん違うのです。
(もちろんどちらがいいとか悪いではなく)

「筋肉を使う」のではなく、「筋肉を使わない」ことで、
身体そのものの重さによって、普段と異なる部分が刺激を受け、
骨や関節、筋肉の位置があるべきところへおさまる、
そんなイメージです。

この辺はさすが数千年の歴史で徹底的に洗練をくり返して来ただけあって、
実に合理的です。
カール・ゴッチのトレーニング方法は、
器具を使わず自分の身体だけで負荷を掛けていた、と聞きましたが、
それもよくわかります。
谷亮子先生もウエイトトレはやらないらしいですね。
ウエイトが悪いわけではなくて、もっと効果的なウエイトが今そこにあるじゃない、
ということなのかも。

以前千葉麗子さんのDVDつきヨガ本を買ったのですが、
年末年始ないことにテレビ見てましたら、
牧瀬里穂さん、中島史恵さん(シェイプアップガールズの)がヨガをやっており、
ジブリのDVD見てるとあろうことか上條恒彦さんまで、
歌録音の待ち時間にやってたりして。
ハマる人の気持ちもわかりますよ。
「自分」に対する理解が進む、というのは非常に快感です。
軽い宗教的法悦に近い。
芸の世界はそこと近いですから、芸能人の人は馴染みやすいのかもしれません。

ヨガというとレインボーマンもしくはダルシム、神秘性ばかりが先行し
「いつ火を吐けるようになるのか」
「ヘビは美味いのか」
「結局空は飛べるのか、君をのせて」
という点ばかりに興味が行きがちですが、
ストレッチとしても大変な性能と合理性を持ってるようですよ。

ま、街のヨガ本の精神面は、模型雑誌に出てくる「模型こそわが人生」みたいな人と同じと思ってスルーしちゃってください。
あと、なにも教室行ったりしなくても十分できますよ、これ。
肩こり低減ぐらいなら(笑)
なーんの道具も要らないしねえ!

やっぱり、昔からあるものには、それだけの理由がありますわ。



 1/15 おかたづけ1

学生時代、勉強しなきゃいけないのにする気が起きない。
そんな時はこれ、小林製薬「お部屋のおかたづけ」。

今回は片づけというよりも本義でのリストラ(再構築)です。

片づけってやっぱり「捨てる」ことからスタートですね。

1年ぐらい前、あまりの惨状に自ギレして発作的に片づけた時、
「捨てる」ものは捨て切っちゃってた感じで、
今回チェックしてみても「捨てたい」というものはあまりありませんでした。
再構築だけだと、「あれ?」っていうぐらいはかどりますよ。

微妙に時勢を繁栄してるのが、今回一番不要品に出たのが「ビデオテープ」でした。
HDDレコーダが我が家に来て以来、ビデオはホントに
「誰かがその時間録画予約しててHDDレコーダが使えない」
という時に緊急避難で使うだけ。
テンポラリテープを2-3本も用意しておけば充分なんですね。
(あ、もちろんコンテンツ入りのは保存してますが……
 あれもDVD落としなんてやり出すとどかーんと出るな……)

あと、自分でもびっくりするぐらい雑誌買ってない。
経済的要因もあって(笑)
昔は「どこか引っかかったらとにかく買う」という作戦でしたが、
今は「できるだけガマンする」方向です。
そう決めると、(雑誌編集の皆様には大変申し訳ないながら)かなり買わない。
雑誌って、ヤクルトみたいなもので(ヤクルトの皆様には大変申し訳ないながら)
飲まないなら飲まないでもなんの問題もないようです。
それは別に「ダメ」っていう意味ではなくて、むしろいいことだと思います。
文化っていうのは、いかにムダであるか、その純度を競うものですから。
ムダならムダな方がいい。

ということで再構築コツコツ。
本棚から。
あいかわらず節操はないので、月野定規と司馬遼太郎が並んでいます。
その横にX-BOX版のテネ……
気づいたことを列挙しますと

・本棚には本を置こう。
 カラーボックス代わりに使うと収拾つかない。
・高さ変え前後2段組は思ったより効果的だ!
 たとえば後ろにA5判コミック、前に文庫本とかCD。
 目線上下の2、3段が特に有効。
・横積みは検索性が悪化するので、やらない。
 保存だけする(二度は読まないけど残しておきたい)場合はしょうがないけど。
・下段の方は検索性が悪いので、書庫というより保管庫で使うとよい。
 たとえば自分の書いた恥ずかしい反古。

つまり、「本棚は本棚らしく使え」ってことですorz

だいたい本棚は終了、次は
・自分の作ったもの以外の書類系の整理
 各種事務書類、マニュアル、手紙、領収書……
・物体系、文房具とかPCパーツとか捨てられないグッズ類の整理
・そしてPCの内部を整理
そういうのに取りかかります。
進捗30%ってとこですな。

いろいろおもしろい「自分の発見」があって、楽しいですよ。
(たとえば切り抜いて残してるグラビアが同じような人ばっかりだったり……)
というよりまず、「床に座れる」っていうのは気持ちいいですね(笑)

半月遅れの大掃除をば。



 1/15 自分がダメだと識ること。

と、部屋をかたづけていて、古い自分の書いたものとか見てると、
「これ、オレか!?」
と思います。

まるで別人。

改めて「才能無いわ!」と驚嘆しましたよ。
22のいい男が書いたものとは思えないものとか出てきてね。
今こんなこと書いてる22が目の前に居たら殴ってる(笑)
すごい、コンセプトも具現化能力もハナミズ出るほど稚拙です。
いや、稚拙っていうか、完全におかしい。

僕は自分で「高校2年生あたりが頂点で、あと長らく停滞した」と思ってるのですが、
思い違いでした。
そこを頂点にして、おそろしい勢いで劣化した。
高2の時みんなでつくった劇は、今見ても「ああオレの脚本だ」と思えるんです。
もちろんすごい粗いですけど、やりたいことと言いたいことはほぼ今と同じ。
ところがこのころの文章は、その「オレ感」がぜんぜん無い。

人生ムダに使ってますなあ(号泣)

「ほえなが」の最初の方とかになると、だいぶ「オレ感」が戻ってます。
エエカッコしたり、無理にふざけたり、嘘ついたりしてますけど、
そこから自分が透けて見える。
ということは、10年。
まさに日本経済とリンクするかのごとき失われた10年。
この10年をひたむきに文章書いてりゃ、今頃もうちょっとちゃんとしてたでしょうよ。

まあ自分を慰めるとするなら、「ひとり放蕩息子の帰還」であって、
もう放蕩には出ない……

と思う(笑)

つまり「才能」っていうのは、
「自分がダメであることを知っている」
という一点に尽きるのではないでしょうか。

自分のどこがダメだから、
どう直そう、なにをすればより良くなれるのか、そこが良い人はどうしてるのか……
それが見える、感じられる、考えられる。

絵もそうなんです。
古い絵は、死ぬほどヘタクソなんですけど、
それをまた死ぬほどたくさん描いてる(笑)
自分、納得してないんです。
でも、「自分がダメだ」ってわかってないから、
どこを直そうとか、どう直そうとか、そういう方向に向かわない。
次の絵を場当たりで描いて、また消化不良。
で、たまーに宝くじみたいな偶然でそこそこのが描けたら、とても喜ぶ。

これじゃ上達なんかしないよ!!

もちろん、才能には「持ち前のセンス」という要素もあると思います。
でも、それだけではない。
そんなんだけでなんとかなるのはモーツァルトとかああいう史上何人もいない人だけでね。
やっぱり、みんな上達しなきゃならない。
で、そのためにはセルフ・フィードバック、
自分がどこが悪い、そしてどこが良い、
それを見極める心と体が必要なんですなあ。

この、セルフ・フィードバック・システムが強力で素早く、的確なのが、
「才能がある」って状態だと思います。
それも天性で持つ人もいれば、そこから作っていかなければならない人もいる。

わたしは後者です。
たぶん、できる人は、「なんか気持ち悪い」「しっくりこない」ってあたりから
トライ&エラーを繰り返して、修正できるのだと思います。
わたしはそれではできない。
だもので、どこかに根拠を持つ、
それは他人の目でも自分の意志でもいいんですけど、
要するに「つくってるヤツ」と「それを批評するヤツ」の両方が必要なんですね。

ただ、このセルフ・フィードバック・システム自体は、
こうして力尽くで構築することはできます。
だから、どんな芸でも長くやればいつかはなんとかなる。

やっかみ半分で言わせてもらえば、
このシステムを意識的に作ってない場合、つまり「センスがいい」場合、
なんらかの要因でそのセンスが働かなくなった時に、
全システムが破綻するおそれがある。
ケガでもないのにロクな活躍できずに消える
ドラフト1位は山のようにいるのですが、
つまりそれだと思います。
環境のジャンプアップに対して、
今までのセルフ・フィードバック・システムでは全く追いつかない。
そこで改良システムを構築できることができないと、
お終いです。

いわゆる「努力の人」はこのシステム自体を自分で構築している。
だから、環境との格差が大きくても、
「俺はこれだけやればこれだけ伸びる、
 だからこの環境に馴染むには2年あればなんとか」
と、焦らず力をつけていくことができる……
のではないかと。

「のではないかと」じゃなくてわたしがいい生き例で(笑)
そう、あの錯乱状態はシステムクラッシュだったわけですな。
そりゃそうですな、高校生までは受験勉強だけちゃんとやってりゃ
誰にも文句言われませんでしたが、
大学はいると受験がなくなって「それ以外」しかなくなりますからね。
今までのシステムが不完全どころか不要になる。
しかし代替システムはどこにもない。
赤ん坊と同じです。

まあ、よく死ななかったものです。
「こんなはずじゃない」という安っぽいプライドが役に立った(笑)
なにが幸いするか、ほんとわかんないもんですね


その反古見た時は「やっぱり俺はダメか」と絶望しかかったんですが、
要するにこういうことかな、と考えて落ち着きました。
まあ、さすが17の頃よりは進歩してるし、最近、17の気分もだいぶ思い出し気味だし。
コツコツいこう。



 1/14 なまえ・なまえ

「タイトルなど変えてみるか」

我ながらなぜそんなことを思いついたか、そこの解析から。
お恥ずかしい話ながら、最近ようやく「公」意識みたいなのが芽生えてきてですね。
いろんなものをひっくるめて、「一人で生きてるわけじゃないなあ」という感じが。

それを表現したい。
今の「PowerNetwork!!」は、いわば、
「わたし(ながた)の自費出版詩集」
なわけです。それを、
「『○○』の編集長がわたし(ながた)」
みたいな感じにしたいなあ、と。

やること(コンテンツ)は、たぶんまるっきり同じなんですけどね。
雑誌だけど、ほとんどがわたしの詩のコーナー。
でも姿勢が違う、気分が違う。
それは、大きいことです。
・恋する彼女が遊びに来る、部屋中綺麗にして居心地よくしてあげよう!
というのと、
・あー……そろそろ部屋片づけなきゃ……あー……でもまだ隙間……あー……
というのでは、やってることも結果も同じだけど、ぜんぜん違うでしょ?

もちろん、「PowerNetwork!!」という名前にも愛着あるんですけど、考え方をいわば180度換えるわけですから、やっぱり新しい名前がいい。
そう思ったみたいです。

なんでも盛れる、より大きな器に。

肝心のその名はまだ考え中です。
わたしの人生の中では、中学高校の仲間とやった、
劇団「ひとまかせ」
というネーミングが秀逸でした。
(発案誰か忘れました。というか、なんとなく自然発生的にこの名になったんです。
 おそろしいものです、名前って。勝手に体を表しちゃう)
ああいう、「すっとなじむ」のが欲しいのですが……
覚えやすくてわかりやすくて、イメージがぱっと拡がるような。

あまり考えすぎてもいいの出るわけでもないので、のんびりやります。
変わろう、変えよう。



 1/13 「ハウルの動く城」

「ハウルの動く城」観ました。
おもしろかったです。

どのぐらいおもしろかったかというと、
「おもしろくなかったら直後の『Mr.インクレディブル』を観てやろう」
と決意して観て、インクレディブル観ずに帰ってきたぐらい。

宮崎監督の今回のテーマは
「あんたがた、本質が見えてますか?」
かなあ。

ツッコミどころ多いんです。
スジの唐突と不条理と慌ただしさと説明の無さ、よく言われますがヒロインの声、CGとセルとの微妙な違和感、同じテーマが繰り返されすぎて耳に残らない音楽……
でも、それは百戦錬磨の監督なら、「ならす」のはできるはず。
今回はそれをあえて、いや、意地でもしなかった、そんな感じがします。
「バリ」が出てるんですが、その「バリ」をこそ愛している。
書道でもそうじゃないですか、崩してカスレて、そこが味。

アメリカから来たコーヒーショップ、綺麗な店構えで、店員さんが「こんにちわ」、店の哲学と歴史を述べるパンフがあって、お洒落なグッズが山になってて、レモン入りの水が置いてあって。シナモンパウダーとか。
そこで監督一言、
「客を立って待たすな」。

どっちの言い分もあると思うのですが、逆の方を言う人が、今は少なすぎる。
言うとバカにされる、冷笑される、無視される。
だから、俺が言わないと。

そう思ってみれば、
「いつ寅さんが出てくるかビクビクする」なんて皮肉言ったりする自分が、
マクドで女の子の対応が何十秒か遅いだけで苛つくつまんない人間に見えてきません?

確かに、バリをカスレをも含めて完成度を上げろ、それが本道だろ、それが最高級品だろ、と言われればそうです。
しかし、そんな偉そうなことを言える人が世の中どのぐらいいますかね。
駄菓子屋のおばあちゃんが新聞紙にカレー煎くるんでくれる、その新聞紙に「不潔ザマス」とケチをつける。
それは正しいけど、正しいんですかね。

「綺麗だなあ」「不思議だな〜」「どうなるんだろう?」「わあ!」
それでいいじゃないですか。

観た後感心しなおしたのが、鈴木プロデューサーの広報展開。
これは前二作みたいな大量露出で無理矢理動員掛けると、「細かいところ」でブチブチ言う声の方が大きくなって逆にマイナスになる。
ソフィーも現場で初めて観るから可愛く見える。
できあがり観てから決めたのかな、巧いです。

ということで、「おとぎばなし」としてかなり楽しめました。
帰りに寄った書店でムック買おうかと思いましたよ。
個人的には宮崎アニメ中まんなかぐらい。
ハリウッドエンタメ希望の方には少々喰い足りないかもしれませんが、そんなものは世の中にいくらでもありますしね。
まさしく古い童話を読むような感じで観に行かれると、満足度は高いと思います。
ちょっとだけ、なにかのこりますよ。


余談
ソフィーの七変化が映像的見どころなのですが、髪型、はじめとおわりがあんな感じとこんな感じで、監督はあれとこれとが好きだなあ、と。
まだまだ、なまなましい。
あと得意の靴を履くシーン。
衣服の着脱は宮崎アニメでとてもおもしろいポイントです。ヒロインはほぼ必ず着替えさせられる。それで場面(と心情)の区切りが小気味よくついて……
ああそう考えれば今回はその集大成ですな(笑)

余々談
「ただそうは言ってもなーんかものたりない」と思ったら、いつもは出てくる「いい味ジジイ」が居ませんでした。
うーん、これは確かに残念。
あ、そうかその分ババア含有量が……いやこれ以上は劇場で。



 1/12 詩雑感

ガラにもないことやると寝込むわ。

いや、お正月にg石アナとこで一緒にテレビ観てると、
正月スペシャルみたいなCMが流れて、
「いのちがどったらこったら」言うのでああこりゃ生命保険のCMだな、と。
わたしアレ系いつもハナで嗤ってるんですけど、
今日ばかりはよくできてる。
とても耳心地いい言葉が嫌味なく選ばれてて、
『やるなこのライター』
と内心感心してたんです。
で、最後にクレジット。
「詩:谷川俊太郎」

そりゃうまいよ(笑)

それもですが目隠しテストで合格した気分で、ちょっと嬉しかった。
わたし昔から、「詩を味わう魂」みたいなのがない人でして、
言葉扱う機会が多い人間としてはコンプレックスだったんですけど、
それが少しだけ晴れたような。

あれも経験ですねえ。
ワインだって日本酒だって、いいのたくさん呑まないと
「なにがいいか」すらわからないのと同じで、
名詩・名文句に触れてると、なんとなくイイワルイぐらいはわかってくるようです。

これはながたいつもの妄持論なのですが、
現代では「よい詩人」は多くがうたの作詞をやってる気がします。
やっぱり、金と熱気とチャンスが転がってるゾーンに、
人材は集まるという物理法則がありますからね。
阿久悠さんとかありゃモンスターですよ。

あと、「詩」はもともと歌ではないですか。
喜びや悲しみや恋の気持ちが歌と口碑になり、
節を回して人々の間に流れていたはずで、
そういう意味で言えば、
メディアと技術の発達によってその本来の姿のまま、
多くの人々に伝えていける幸せな時代かもしれません。

あとはドラマ屋さんかなあ。
われわれの世代(わたしで1971製)の男の子にとって一番馴染みの深い詩人は、
富野由悠季大御大ではないかと思うのですが。

マ・クベの死に様を覚えておいでですか。
愛しのキシリア様への貢ぎ物の青磁のツボを脳裏に思い浮かべて
「あれは、いいものだ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

そんな死に方しませんよフツー。
どんな悪人も。

ドラマにバックアップされてるから純粋な詩ではないと言われるかもしれませんが、
キャラの描き込みが詩そのもの。
すばらしい。

あと相田みつを先生のように書と(あるいは他の何かと)
コンビで付加価値高める作戦はありますな。
最近はイラストと組み合わせるのがポツポツありますが。
掛け軸とかああいう伝統もありますね。
しかしその場合、やっぱり文字そのものもカタチとして成り立ってないといけませんな。
絵と馴染む、喧嘩する、協力する、なんでもいいんですけど。
安易にヘタレ文字系のフォント使えばええってもんでもないし、
もちろんヘタな手書き文字では2秒で飽きます。
てことは、2倍大変な気もします。当たれば強力ですけど。

といって、普通に紙の上に描き留める詩がダメかというとそんなことぜんぜん無い。
このように「応用範囲が広い」という強さがあるわけです。
素材性が高いほど、読者の手元に近い。
Utadaの詩をなんぼがなってもUtadaにはなれませんが、
俊太郎の詩は好きなように口ずさめば俊太郎になれる。

文字メディア(特に活字メディア)の強みというのは、
この抽象化の高さ、一般化の強さ、
かんたんに言うと「誰でも使える」ってところだと思います。
水のように、浸透力が強い。
映画やゲームは硫酸みたいなもので、
一発は強いですけど、「効きどころ」が狭い、
そんな感じだと思います。

それとも関連ですが、「時間と空間を超えやすい」というのが最大の強みで、
それは送り手側も、受け手側としても。
だから、それに乗るような、その特性にフィットしてるようなものが、
より「文字芸術」として力があるのではないかな、と思います。

詩は、短い分、その特性がさらに強い。
時を人を超えたよい詩を、たくさん読みたいもの。

以上雑感。



 1/11 Reborn

結局、自分を縛るのはいつも自分。
環境や他人じゃない。
ならば、解き放てるのは自分だけ。
それが自然体。

くびきを壊せ、くさりを千切れ、
すべてを忘れろ、ぜんぶを捨てろ、
なにも持たずに、まっ白からはじまり。

なかなかできないけれど!

せめて毎日、生まれ変わった気分になって、
古い自分から、今の自分を救い出す。

一日一生。
Each daybreak, each life.

ほんとうにだいじなものは、
壊そうと思っても壊せない。
だから、ぜんぶ壊す。

できないことなどなにもない。
きょうはなにをしてやろう。
今日の主人公はわたし。
今日の神様も、わたし。

眠りまでの短い人生を、楽しんでやる。



 1/10 ミギィ&ヒディ

右手のミギィと左手のヒディは大の仲良しです。

「うわあ、髪を洗うのって結構大変なんだねえ。なかなかシャンプーって落ちないもんなんだ〜」
「なにを言ってるんだいミギィくん。いつもシャワーヘッドを持たせて悪いなあ、って思ってたんだよ、このステンレス製シャワーヘッド搭載台さえあれば、もう君にたいへんな思いはさせなくてすむよ!」
「いやいや、あんなのただ持ってるだけだからぜんぜん大変じゃないよ! それよりこんな作業を君ひとりに任せていたなんてまったく申し訳ない!」

”……ミギィくんの方が、いつもいつも大変なのに……”
子供の頃からそうでした。ペンを持つ、あんな細かく量が多く時間の掛かる、大変な作業を受け持っているのはずっとミギィくん。
最近ではそれに加えて、「マウスを操る」という作業も彼におまかせです。
彼があのネズミを操る間、自分はジッとしてるだけ……

ヒディ、今日こそは、と長年胸のうちにあった思いをぶつけます。

「……ミギィくん」
「うん? なんだい?」
「ミギィくんはいつも大変じゃないか」
「いやあ、僕はそんなに……」
「僕は知ってるよ。お風呂の中で指をほぐしている君の姿を。パソコンに向かってる最中に肩を回して凝りを取っている君の姿を。
 ……ほら! 指なんかペンだこだらけじゃないか!」
「……」
「僕は君を助けてあげたい。だから、僕が変われるような仕事があるならなんでも言って欲しい。君の役に立ちたいんだ!」
「……ヒディくん……そんなところまで見てくれていたなんて……」

胸が熱くなりました。
なんでもしょいこむのはよそう、そう思いました。

「……それじゃあ、ひとつお願いしたいことがあるんだ」
「なんだい! なんでもいってくれ!」
「毎日、かなりハードな反復運動がある。微妙な力の強弱加減と頻繁な往復動作、汗まみれの難しい作業だ。もしこれを君にやって貰えるなら……こんなに助かることはない」
「ミギィくん……そ、それはひょっとして……」
「できるかい。無理にとは言わない。キツイ仕事だ」
「……やってみせるとも!」
「よし、早速明日からトライだ!」
「おう、がんばるよ!」

数日後。

「……ミギィくんダメだ……ボクには無理だよ……」
「なにを言ってるんだ! ここを、ここを頑張らなきゃ今までの努力が全部無駄になる!」
「ご、ご飯はなんとかなるけど、豆は、豆の煮物は……」
「根性だよ! 練習だよ! 気合いだよ!」
「ス、スプーンを使わ……」
「ダメだダメだダメだ! ボク達は日本人だよ!?」
「……ええい、こうなったら食器からイヌ食いを!」
「ああっ! なんて箸たない」


日常の多くの作業をさせてしまっているミギィくんに慰労と感謝を。
マウス、左手で持とうかしら。



 1/9 一撃を

相手のパンチは見えてきつつあるものの、どうやって避けたらいいのかわからない。
そんな昨今、みなさまいかがおすごしですか。
わたしは風邪ひきです。

パンチというものは、見えないところから打てば必ず当たる。

実は作戦というのは非常にシンプルで、究極言い切ればそれだけではないか、と睨んでいます。
速いとか重いとか数が多い、もちろんそれも意味があるのですが、見えないところから打つほどクリティカルではない。

見えたパンチの一例が、ルノーの「メガーヌ」とか。
最初見た時「うげえ」と思ったんです。
でもよくよく見れば、「うげえ」なのはボディ後半、特にリアガラスとハッチゲート周りだけで、あとはオーソドックスなんですね。追加されたステーションワゴンとかカブリオレとか見ると、むちゃむちゃ常識的なクルマです。
騙された。
逆の立場に立てば、そこだけであれだけ「うっ」と思わせる、それは勝利です。
「うっ」と思わせながら、その他は普通だから、すぐ馴染む。
馴染むと、その「うっ」ってところこそ「ちょっと変わってていいね」ってなことになる。

でも、この「うっ」ってのがなかなか得られない。
ここがプロの仕業です。
ただ変わってるだけじゃダメ、意味とか機能とかメッセージとか、嘘でもいいからなにかがこめられている必要がある。

「見えないところから打てばいい」という点にまでは、わりと誰でも到達するんです。
しかし、それを打てるようにはなかなかならん(笑)
おっちゃんが苦労しとるのもココや。

どうしても、やってきたことの延長上で話をしがち。
あるいは、今世の中にあるもの。たくさん目にするもの。いいと言われてるもの。

全部邪魔ですよね。
どれもこれも、相手に見られている。

(もちろん、見えるパンチを打って打たれた方が気持ちよく喰らって倒れる、そのこと自体を楽しむという文化もあります。「暴れん坊将軍」とか。それはそれで)

メガーヌのおしりも別にオリジナルではなくて、シトロエン・アミ6やマツダ・キャロル(初代)がクリフカット(断崖のような)やってます。
既に知られてる手法でも、忘れられていれば知られていないのと同じ。

こうした「パンチ」は、以前考えました「浸透力」と同じことです。
ぐっと相手にのめりこむ、その一撃。
世には、打っているもの、打ってないもの、打ちたいけど打ててないもの、打ったけどハズしたもの、積極的に打たなかったもの、いろいろあります。
おもしろいのが、売り上げや世評とはなんの関係もない。
でもやっぱり、打ってるものは割と、笑顔をもって迎えられているような気がします。
それが一番ですよね。

振り返れば、わたしは、いつもその時々の精一杯で打ってるつもりになってるのですが、空振りだったり、威力足りなかったり。
「まず当てないとパンチとは言わないんじゃないか?」というのが、最近の考えです。
そういう目で見れば、うまーいこと当ててる人がいる。
とても勉強になります。

パンチを当てたい。パンツを見たい。
そんなところです。



 1/8 シーケンシャル&ネットワーク

カードとノート組み合わせて、やっと気づきました。
モノゴトにはシーケンシャル処理(ノート/手帳)とネットワーク処理(カード/白紙)があって、両輪大切です。
シーケンシャルで深めて、
ネットワークでつなげる。
深めなければいつまで立ってもスカスカのままだし、
つなげなければ意味を失うおそれがある。

現代社会は複雑です。ネットワーク能力に長けていると、「うまくやれる」。
でも、それをいくらやっても、自分に何も残らない。
もちろんそれで諦める/覚悟するのもひとつだと思うのですが、鶴瓶さんのように(勝手に妄想です)途中で寂しくなるような気もします。
やっぱり、シーケンシャルに「深めていく」ことも大切。

つまり職人をプロデューサーが盛り立てるわけですが、
そのひと各々の中に、両方居た方がいい。
職人は、自分の成果をどう魅せていくか考えた方がいいし、
プロデューサーは、プロデュース職人なわけです。
モノづくり史上の名コンビ(たとえば盛田昭夫/井深大)は、両者ともお互いに対する理解がある、ように思います。

「機械」というのは、PCを含めて「深める」ことには非常に強力ですが、逆に強力であるがゆえに、そこだけが突出してしまって、「つなげる」ことが苦手です。
アイデアって、アウトラインプロセッサとか弄り倒すより、紙の上でこね回す方が簡単。

「機械」の使い方のコツはこの辺にあるのかも。
「深める」時に一気投入。
そういえば、PCの前に座り込んでも、いいアイデアって出ませんよね。

「深める」力はそこそこながら、「つなげる」ことにも活躍してくれるのが、「道具」と呼ばれるもの。
人は「道具」に常に郷愁を持つもので、だから今も万年筆が売られているわけですが、郷愁どころか、今でも「道具」は現役も現役、大変有効です。
多少煩雑でも、「統一したい」という欲はガマンして、紙とPDA、つまり道具と機械を両方使って、深めかつつなげる、そんなやり方がいいように思います。

あ、あと、特にPCのよくない点は、よい点の裏返し。
机の上がゴチャゴチャしない。
でも、あのゴチャゴチャこそ、「やってる」感を加速してくれるいいカンフルなんです。
道具は、ゴチャゴチャしてくれる。

人によってどちら向きか、はあると思います。
でも、どんな人にも陰と陽がある。
そして、陰があるからこそ陽が輝き、陽が輝くからこそ陰が静かに染まる。
どちらも自分、どうせなら両輪大切にした方が、より幅広くそして深い。
そんな気がします。



 1/7 パンツを替える

尾籠な話題で恐縮ですが。

お正月などというものは腹を壊すものである。
わたしもここ数日どうもエクスプレスだったりサスペンションだったり、安定しない。
先日など遂に朝、放尿しつつ放屁するという法悦の瞬間に液状内容物をすこし噴出してしまった。むろん、人生で初めての汚辱である。

実に情けない。

その瞬間も情けないが脱衣場でパンツを替える瞬間というのがまた異様に情けなかった。こんなところを家人に見られようものなら切腹モノである。

正月は友人とその愛妻のカップルをたくさん見て心底羨ましかった。
しかし、夫婦たるものこういう山場も乗り越えねばなるまい。
「おれが恍惚の人になったら、おしめを替えてくれるか」
絆を確かめるのに適切な試練であろう。
もうすこしビジュアル面に訴えた方がいいか。あまり直接表現をせずに。
「おれが恍惚の人になったら、液状噴出物で汚濁したおしめを替えてくれるか」
ワンツー・リターン。
「ええで。その代わり……
 ウチのも替えてな」

ダメだ。
これでは特殊趣味夫妻ではないか。
絆は強そうだが。
それ以前に結婚式で発表できないプロポーズの言葉と受諾の言葉はマズイだろう。
列席者の印象には残りそうだが。
糞飯モノとはこういうことを言うのだろうか。

「おれはこの仕事に向いていない」
と思う瞬間が、たれにもある。
わたしも、ピンと来るコンセプトが練れない時、機嫌も気分も悪ければ、体調も崩す。このように情けない姿を晒すこともある。
「おれはこの仕事に向いている!」
と思う瞬間も、たれにもある。
わたしの場合このように、おのれの情けない姿をどこか虚空の一点から客観的に見、「ネタになる」すなわち
「おもろい」
と思える瞬間である。

うまく行かないと漏れる。
人生そのぐらいでなければ楽しくあるまい、と自分を慰めつつ、寒風吹きすさむ朝の脱衣場でパンツを替える。

誰か替えて。



 1/6 脳輜重部隊

 現代人はカロリーの摂りすぎ(食べ過ぎ)ではなく、摂り方がちょっとズレてるのではないでしょうか。

 江戸時代はおろか、昭和初期と比べても「身体を動かさず・脳をたくさん動かす」生活なわけです。そして、脳というのはものすごく大食らい。

 ということは、身体全体で必要なエネルギー以上に、「俺にエネルギーを寄こせ」と空腹信号を出しているのではないでしょうか。それに素直に応えてしまうと、身体は必要としていない過剰なエネルギーを摂取してしまう。
 で、要らないタンパク質や脂質まで取り込んで、胃腸に負担が掛かる。
 それが消化不良や肥満、ひいては生活習慣病に結びついている……かも。

 ということは、糖分だけ適切に補給できればいい。
 アメリカンな映像など見ますと、プログラマとかクリエイターの類がコーラのペットボトル抱えて飲んでるじゃないですか。あれは、それのような気がします。
 そうそう、昔「テネ」のお仕事で声録りにへばりついたのですが、控え室にはお菓子が山盛りです。あれってめちゃめちゃ体力要る仕事なので(声優さんはもちろんですが、指示出す方も。ずっと出番ですから)五月雨式にエネルギーを補給しないと到底もたない。

 しかし、清涼飲料水やお菓子の類は、同じものが続くとどうしたって飽きが来ます。
 さりとて、黒砂糖なりハチミツなりをそのまま舐めるのもちょいとストイック。
 また、チョコ等々、糖分含有率の高いもの、って、食べた後口の中が粘つきます。これも不快。そもそもそのへんは胃腸へのインパクト強いですから、本末転倒です。
 わたしはそういう時、コーラや生姜紅茶なんですが、水分弱い人もいらっしゃるでしょうし、強いわたしでも3杯も飲めばちょっとしんどい。

 なんかいい方法が無いものか、考えて遊んでいます。
 「脳直撃!」みたいな食品や成分、またそういう食べ方、ありませんかね。
 逆立ちしながら食べるとか?



 1/5 福袋

買い物が大好きな弟が、ヨドバシカメラの福袋に手を出した。バーガー屋の店員にしては大枚の15000円を払う。

・310万画素デジカメ(無銘)
・ビアサーバーの泡立て器
・ヘアドライヤー(マイナスイオン発生装置付き)
・電波目覚まし時計
・LEDライト付き携帯用ストラップ

大ハズレ。

確かに15000円分を軽やかに超える品物が入ってるとは思うのだが、どれひとつとして欲しいモノはない。ということは、大失敗である。
弟も「まとめて兄ちゃんにやるわ」と投げ出してくれたのだが、わたしだって貰っても困る。
これたぶん1万円でも3万円でも同じことだろう。
家電で福袋というのは、無理なのか。

福袋が成り立ちうるのは……
食品系はかなりいけそう。あとお酒なんかも。衣料になると微妙だけど、靴下とかハンカチ、無地のマフラーなり手袋なり、あるいはレインコートとか、実用性あると「損した」という気にはならないかな。
ということは、日用雑貨ならいいね。石けん、歯磨き、トイレットペーパーetc、etc……

つまり、消えて無くなる消耗品、もしくは実用品。

もちろん、正月恒例の話題として宝飾品店が「1000万の福袋」なんてことをやるが、あれはまあ半分宣伝、買った方も「そういう行為を楽しむ」という贅沢に1000万払うものだろう。
「おお買うた買うた1000万の福袋!」
「なに入ってた?」
「……忘れた」

と考えると、もうひとつの軸もある。
「福袋を買う(買った)という事実」を楽しませる方向である。

この二点を念頭に、家電屋だとどうだろう……
大変難しいが。
15000円分以上、単三電池が入ってるとか。
これは嬉しいよ。置き場所困るけど。
売れ残りのソフトが20本入ってるとかもいいかも。素材集とか環境CD-ROMとか、去年のウィルスソフトとか去年の年賀状ソフトとか、名前知らないお絵描きソフトとか、ミニゲーム100本入ってるCD-ROMとか。とにかく20回インストールするのは楽しめる。
機材でいうと、多くの人が「興味はあるけど買う踏ん切りがつかないもの」とかがいいのかも。電動歯ブラシとか、体脂肪体重計とか、安物の電子辞書とか、安物のボイスレコーダーとか、携帯のハンズフリーマイクとか。
「ほほう、なるほど」ってことで、次はちゃんとしたのを買ってくれるかもしれない。
もちろん、すでにいいもの持ってる人には全くの無駄になるのだが、そこは数種混ぜることで。そもそも、こだわる人は福袋なんか買わないし。

一番嬉しいのは20000円分のヨドバシ・ポイントだったりして。
客も店も。

でもま、難しいね。

そんな難しい福袋の作成にチャレンジしたヨドバシカメラもエライし、
(このように失敗する=客をガッカリさせると後々に響く)
そんな難しい福袋を大枚叩いてガッツリ買ったウチの弟もエライ。

人生なにごともチャレンジですよ。

年頭にその教訓を思い出させてくれただけでも、この福袋には福が入っていた。



 1/4 eco 続報

ecoシステムと題しカードシステムを考えて実践して参りましたが、途中報告です。

これで全部行くのは難しい気がしてきました(笑)

詳細検討しましょう。わたしの場合、二ヶ月近くやってきて、このシステムに載る「情報」は以下のようなものでした。

(1)お言葉集
 「これは!」と思ったお言葉。本・TV/DVD・web・街・実物問わず。
(2)本/DVDのチェックリスト
 そのままです。どこかで知って、読みたい!見たい!と思ったものを。
(3)アイデア
 パッと思いついたことなんでも。
(4)ひとりごと
 (3)よりももっと個人的な「想い」みたいなもんです。「がんばらなあかん……」とか。
(5)TODO
 やらなければならない雑事全般。
(6)スケジューラ
 どこでいつ誰と会うとか。
(7)創作検討アイデア
 次の作品に対してのコンセプトワーク(笑)

まず、カードに載りやすいもの、これは(3)と(4)です。
パッと思いついた時にパッと書く。後からしゃこしゃこ繰って、これはと思うアイデアを清書したりさらに考えたりする。
一番カードに向いてます。実際、カードにして随分助かりました。
これはいいです。このまま。

でも、この二つぐらいなんです。

(1)ですが、よい本であるほど凄い勢いで溜まっていきます。
その割には他のカードとの関連は少なく、また繰り直す回数も(3)ほどではない。
そしてこれ、実は「何かした気になる」というよくない点がある。
「ゲーテ 『ゲーテとの対話』 中 p123」なんてのをなんどもなんども書くのがしんどい、という物理的な弱点もある。

大学ノートなんかの方がいいような気がします。
罫線入ってる方がいいし。

(2)も、載るのは載るのですが、買ってしまえば不要になるメモですから、無理に載せる必要はありません。
今はそのカードは右上角を赤く塗って識別してるのですが、こんな手間まで掛けて無理にまとめるのもバカバカしい気がします。

普通のメモ帳の方がいいように思います。

(5)もそうですね。メモ帳の方がいい。
一応、置いておくと記録にはなりますけど。

(6)ですが、これはわたし、伝統的に必要ないんです。
むかーしからスケジュールは(メーカー社員の頃でさえ!)卓上カレンダーで管理する人なのです。卓上のカレンダーに書き込んでいきますから、ポータブルな手帳に書いてしまうと、一番マズイ「情報の二重化」が起きてしまうので、書けないのです。
ただそれはわたしの特殊事情で、普通は手帳その他で管理されるでしょうから、あげてみました。これも、カードには向かないと思います。

(7)は逆に普通あまり必要ないものかもしれません。
でもどんな仕事でも学業でも「アイデア」ってのは大事なもので。
これは、ペラ紙でいいんですけど、A6やB6では小さすぎる。
せめてB5、できればA4。
そして無地がいい。
さらに大学ノートではなく、ちぎって検討できるリング式ノートもしくはレポート用紙がいいです。

まとめますと、
・カード 「アイデア」「ひとりごと」
・大学ノート 「お言葉集」
・メモ帳 「本チェックリスト」「TODO」
・リングノート 「創作ノート」

……なんて平凡な。
高校生みたいですね。

うーんと、でもですね、カードで全部やっちゃう、っていうのは、言うなれば抜群の切れ味のサバイバルナイフ一本で日常のすべての作業をやってしまうようなもの。
木を切るにはやっぱりノコギリの方がいいし、ワインの栓はコルク抜きで空けた方がいい。

カードのいいところは、そうしたすべてを串刺しにできるところですが、すべては串刺しにしなかった(笑)
これはカードでなくてもリフィル式システム手帳でもそうですし、電子化されたPDAでもそうです。
すべては載らない。もしくは、載るけど不自由。
それなら、載せない方が自然です。

──ということにハッと気づいたのが、「新年だしまったく新しいネタでも考えるか」とカード取り出して、「せまっ」と思った時でした。

せっかくこれからでっかくアイデア膨らまそうと思っていたのに、いや膨らまないかもしれないけど気分だけは壮大な時に、「せまっ」なんて思っちゃダメですよね。
で、使い慣れたB5のノート取り出すと、ホッと安心したんです。
まあそういや、中学生からこのサイズでモノを考えてきたわけで、もうどうしようもないわけですな。

てなことで、小改良。
・カードは「アイデア」「ひとりごと」で継続使用、
・サイズだけあわせて、A6ノートを
 「お言葉」用に1冊、
 「チェックリスト」と「TODO」用に1冊、(両側から使ってみようかと)
・リングノートを「創作ノート」用に。
行ってみようかと思います。

もはやカード・システムでもなんでもなくなりましたが、システム全体を指して「eco」と呼び続けることにします。

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年末年始、鯖ちゃんがPalm(CLIEですけど)を使っていて驚きました。
そうか、今のPDAはメールとwebがアタリマエにできるんですよね。
それは大きいなあ……
ウチの無線LANから繋いで「はえー」唸ってました。今やPSPにも無線LANブロードバンド時代ですか……
このあたりの電子デバイスもうまく組み込みたいもの。
すでに電子辞書は手放せないのですが、やっぱり
「『六人の会』のあと一人が思い出せない!」
なんてことは、webでないと無理なんです。
あと絵と音ね。
iPodも広く言えばこのシステムの一環かも……
英会話レッスンCD入れたり、落語入れたりする利用形態は、「知的生産支援デバイス」と言えましょう。
あとはもちろんながら、携帯とデジカメ、そしてノートPC。
いろんな部分がクロスオーバーしてきてますが。

でも、あんまり専用化しちゃうと、専用デバイスを選択・利用・管理するオーバーヘッドが発生するのです。
そのへんのバランスが大切のもより。

生活が変わったり興味の対象が変わったりすると変化していくのだと思います。
とりあえず、今のところこんな感じ。



 1/3 鶴瓶さん

この年初に、「最近、鶴瓶おもろない」という話を二件も聞きました。

モデルチェンジを目論む過渡期ではないかと。
東西中堅落語家の「六人の会」(小朝・志の輔・こぶ平・昇太・花緑)が03年に旗揚げしており、彼は西の代表。「ほぼ日」なんか見てますとよく落語を勉強しているご様子。
タレント的な、無秩序で無頼な「笑い」から、芸としての「笑い」へと軸足を移す、もしくは、その要素を自分の中に大きく取り込んでしまう、その過程のようです。

そういう時ってどうしても、ハッキリしない笑いになりがちです。
おちんちん出せば笑いは取れる。
でも、出さないと決める。
ひとつには、おちんちん出す笑いでは、限界があるから。
もうひとつは、おちんちんを出さない笑いの方が、奥が深くてやってて楽しいから。
でも、おちんちん出してた人が出さなくなると、「おもろない!」と客はペットボトルを投げる。
そういう図式です。
「おちんちん出さないなら鶴瓶でなくてもいいじゃん」。

でもね。
「出せる人が出さない」のと、「出すしか能がない」や「出せない」には、差がある。

某アナ曰く、「鶴瓶には黒鶴瓶と白鶴瓶がある」。
「突ガバ」の「TVにらめっこ」でゲストの有名人を遠慮会釈無く退場させていた(当時、スターを弄るのは画期的だった)、あるいは「らくごのご」で泣きじゃくるざこばに脇目もふらず己の噺の完成だけに没頭していた姿、「あれを鶴瓶だ」と関西圏育ちの人間は思いがち。「『いいとも』の鶴瓶など鶴瓶ではない」と。
しかし、両方とも流通している以上、つまり両方に価値がある以上、両方とも鶴瓶さん。
今はその黒と白とをうまく混ぜようとしているところでは無いでしょうか。
NHKに出るには、「あきらかに黒」だと困るわけです。でも、白ばっかりだと鶴瓶である必要はない。

むずかしいですな、芸ってのは。

とりあえず目指すは「出さなくても出したような効果がある」でしょうか。
うがった見方すると、ここ1-2年お笑いブームじゃないですか。
無秩序な「笑わしゃいい」って若手の有象無象がワラワラ出てくる。
で、実際客も笑ってる。
そんな絵を見て、「俺はひょっとしてあいつらと同じか」と思うと、50過ぎの心と身体には堪えると思いますよ。
軸が欲しい。

50過ぎんと気づかんか、とかそういうイヤミはなしで。
だって、彼をそれを求めていたのは客である我々でもあるので。
実際、今でも。
いや、真面目に、四天王(の残り三人)がいなくなった後の落語界を想像してください。
しかももう、志ん朝も枝雀もいない。
この世代が頑張ってくれないと、困る。

一山超えて、一回り大きくおもしろい鶴瓶さんが見たいもの。
気長に待ちましょう。
体質変えるのは時間が掛かります。今日明日にできるもんじゃないですよ。



 1/2 日記

31から1日にかけて、2年ぶりに復活した古友人連の忘年新年会。
鯖ちゃん、閣下、M澤先輩、HERO人+ゆきこ奥様、J也さん+ひろこ奥様。
鴨鍋。

この集まりの最初はわたしが高校1年の時、「住吉大社に初詣に行こう」ってことで行って以来。去年休んだのを除けば、17年やってるんです。
こういう時「日記つけてりゃなあ!」と思いますね。すっかりどこ行ったかとか忘れてる。
もうちょっとコレにも記録性を持たせよう……

ともあれ、やっぱりこれがあって「年越し!」って感じです。
たのしかった〜。
「会う」というのがなにより肴であって、どこへ行くとか何を喰うとか、そんなんどうでもいいのです。
閣下蟹が猛威をふるい、紅白が途中からジブリのDVDになり、鯖王さんのPSPが初期不良くさいことがわかった。
鯖王さんはおまけに仕事納めと初仕事をこなす。
今回のMVPです。

正直、ろくろくなおもてなしもできず、というか15年前と変わらぬおもてなししかできないのが、ちょっとお恥ずかしかったんです。
でも、あとで正月番組なんか見つつよく考えると、すごいイイワケがましいですけど、わたしはこうじゃなきゃダメだ、って思ったんです。
なんかね、厚み30cmの羽毛布団が用意されたお客様寝室が10コある豪邸で、タラバがピラミッドみたいに積まれてる食卓、出される酒はヴィンテージワインに1万する一升瓶、そんな生活は、わたしはやっちゃダメなんです。
たぶん。
だってそれは、普通の人じゃないじゃないですか。
でもわたしは、普通の人が読むものを書きたいと思っているんです。

大イイワケ。

いや、でも、人がやる分にはぜんぜんOKですので、誰かそういうのを一発頼む。
まかせた。

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お片づけを済ませ、ペーパードライバー輪島功一さんを青木さやかさんが叱りとばす絶妙の組み合わせのお正月番組見てケタケタ笑って、初詣。
は、鷹合神社。
ちっさい神社なんですが、由緒正しい神社なんですよ。割と。
大奮発して500円を投げ入れる。
おみくじは吉。
「ちゃんとやったらうまく行く」という非常に有意義で具体的なアドヴァイスを受ける。
おうち用にお札。は、伊勢神宮と鷹合神社と、双方1000円。
家に帰って神棚の古いのと交換して、母と二人手を合わせる。

いいことがあって、悪いことがありませんように。

通販マニアの母はついに通販おせちに手を出し、これが超失敗。
9800円も出して「泣かすぞ!」というほどの低クオリティ、いや、マジで百貨店地下街のちょい有名店の1500円ぐらいのお弁当の方が200倍美味いぐらい。
いくらなんでも酷すぎる。

「すまん、あー失敗、ごめん、もうやらん、あー悪かった、冷凍のごはんあるで、もうやれへん、あー失敗した……○○さんに頼まれた方は一番人気でこれは代替品やねんけど……あーやっぱあかんなあ」

主婦の責任を果たせなかったことで自責の念に駆られる母。
しかしあんまりにもマズ過ぎるために慰めの言葉も出ない息子。

おせちは、うまいとかまずいとか品目がいくつあるとか彩りがどうとか、
そんな問題ではない。
「(自分で)おせちを用意した」
という気分こそが、おせちの脊髄である。

---

午後6時、名張g石邸へ。7時半頃着。
元日からよそのお宅の一族水入らずに闖入するスナフキン(2代目)。

すみません本当に。
でも滅多にない機会だし名張ももう1年以上ぶりで顔も出しておかねばと……
すみません。

美味いお肉をひとしきりカッ喰らって「かくし芸」と「トリビア」を見る。
寅男さん、マチャアキに向かって吼える。
「こんなもん1年やったらできるわ!」
一瞬、
「それでも凄いですよ」
と言ってしまったが、暗い帰り道を走りながらふと考えた。

「やったらできるわ」と言うからには、「じゃやってみろよ」と言われるおそれがある。
そしてそう言われたなら、「おう、ほなやったる」と言う決意が要る。
寅男さんは、たぶんそれをやる。

決意と、好奇心と、挑戦心と、エネルギーと、「やったらできるで」という自信。

「マチャアキ凄いですよ」には、それは無い。
そういうものすべてを放り出して、あるいは逃げ出して、思考停止しているセリフである。
なんの発展性もない。

うなります。
還暦すぎの寅男さんがそう言えるのに、お前は何をわかったような口を効いてるのか。
「できますよねえ! やりましょか!」
そのぐらいのことが言えんか。

いかんいかん、と頭をコツコツ叩きながら帰りました。

お正月の名阪国道はとても空いており、非常に快適ドライブ。
自分のペースで走れると、「クルマで走る」っていうのはとてもとても楽しいことです。
あれはやっぱり単機能パワードスーツみたいなもので、地上のどの獣よりも早く走れる、それが単純に快感なんですね。
やっぱり飛行機も操縦してみたいなあ……

そんな元日でした。



 1/1 こんにちわ2005。

 あけましておめでとうございます。

 みなさま旧年中は大変たくさんのお越しをいただき、まことにありがとうございました。
 今年も、わけのわからぬことをつらつらガツガツ書きまくっていこう、と覚悟しております。
 どうかごひいきに。

 昨年末で149300、キリのいいところにちょっと足りないのが「ぱわね」らしくていいです。
 多ければいいというものでもありませんが、多いと嬉しいのもまた事実。
 たくさんの方に読んでいただけますよう、「ほえなが」に限らずすべてを、
 より突っ込んで・より楽しく・より真摯に・より意志をもって・より読む人のことを考えて、
 描いていきたいと思います。

 初詣、近所の鷹合神社に参ったのですが、生まれて初めて、こころの底から、「家族みんなが平和でありますように」と祈りました。
 生きているとヤなこともいっぱいありますが、どうせ生きねばならんのなら、どんな手段を使ってでも楽しく生きてやろう、そんな気持ちでいっぱいです。
 そして、そんなどなたかの「楽しさ」のキッカケになれれば、こんな幸せはありません。

 パワー出してまいりましょう。
 やり方次第で、世界ってのはいくらでもおもしろくなりそうです。

 ことしもよろしくお願いいたします。




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