■ ほえなが ■

形づくれ!芸術家よ!語るな!
ただひとつの息吹だにも汝の詩たれかし。 (よはん)

 2/28 input

本日は2/1から2/28までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)

■本■

 「ゲーテ詩集」 ゲーテ (新潮文庫)

 「人間にとって科学とはなにか」 湯川秀樹・梅棹忠夫 (中公新書)

 「宇宙船地球号操縦マニュアル」 B・フラー (ちくま学芸文庫)

 「あゝ伊号潜水艦」 板倉光馬 (光人社NF文庫)

 「書斎がいらないマジック整理術」 ボナ植木 (講談社+α新書)

 「福野礼一郎の宇宙 甲」 福野礼一郎 (双葉社)
 「福野礼一郎の宇宙 乙」 福野礼一郎 (双葉社)

 「雀鬼流 無敵の勝負論」 桜井章一 (青春出版社)

 「ゴッホの手紙 上」 ベルナール編 (岩波文庫)

 「風邪の効用」 野口晴哉 (ちくま文庫)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 03白河・会津のみち」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 04高野山みち/紀ノ川流域」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 05三浦半島記」 (朝日新聞社)

(再読)
 「発想法」 川喜田二郎 (中公新書)

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……こ、今月はオススメしにくいものばかりを読んでる……
オススメしにくい、というのは質が低いという意味ではなく、
作者の個性がキツすぎる、という意味で。
逆に言うとどれもよかったですけど。

えー……うーん……えー……
雀鬼の本か、礼ちゃんの本かな……

雀鬼のは、私はすごく「おお!」と膝打つところ
多かったです。
特に「流れ」が大事だ、っていうのは、
その数日前に同じこと考えて、ここにも書いて、
でAmazonから届いて読んだ。
まさにユング万歳(笑)

ただ、ちょっと抽象的な話が多いので、
すぐ効くお薬が欲しい方には薦められないかな。

「風邪の効用」もそうですね。
「違う視点からの考察」というのが、
こうした書物の一番のウリのはずで、
そこに知的好奇心を抉られる……はずなのですが、
出版する方=売る方はもっと地べたな売り方を
志向するから、
だから雀鬼の本は麻雀ファン向け、
野口先生の本は健康オタク向け。

違う違う、これらは
「ぜんぜん違う世界/見方/考え方もあるで」
ってところこそがポイントで。

その点では礼ちゃんの本はかなりいい感じですが、
「福野礼一郎の宇宙」と銘打って礼ちゃんファン以外の
誰が手に取るというのか(笑)

難しいですな、出版ってのは!

「福野─」は、モノフェチ、メーカー関係、広く一般にオタク、
であれば面白いと思います。
というか、この本が面白くないようだったら
オタク止めた方がいい。
素質無いから。

むろん、その方が幸せなのですが。

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今月はなんだかかんだか、
いっぱいいろいろ考えたりやったりしたような、
なーんにもしてないような、
なんかそんなヘンテコな月でした。

「あっという間に過ぎた」ってのは、
やっぱり充実してる証拠ですよね?
え? 単に2月だから早い?

とりあえず今月は、
「流れ」っていうのが大事で、そこへ乗っていこう、
と思った月でした。

もちろん、そのことを悟ったからといって、
すぐできるわけではありません。
むしろ、「流れ」を見つけたり、あるいは起こしたり、
そこには細心の注意と努力、集中力が必要、
そんな気がしてきました。
でもそれは、楽しむこころとか、あそびごころ、があれば、
結構簡単に実現できるような気もします。

たとえば25日のはノリノリだったので
15分ぐらいで書いてます。
7日8日9日のも早かったなあ。
まあ、得意のパターン、っていうのもありますけど、
出来もいい。

つまり、問題は、簡単に言うと、
「いかにノリノリでやるか」
ってところなんです。
つまり波にノリノリ、流れにノリノリ、ですな。
そうすると、オートマチックに、
早くて出来が良くて楽しくてしょうがない。

逆です。
うまいこと行ってるから、ノリノリじゃない。
ノリノリだから、うまいこと行ってる。

自分の「ノリ」を、
強い意志や普段の観察や小儀式や小習慣、
そういったものでコントロールしていく。
もちろん完全にはできませんから、
そういう時はジッと耐えたり、「守備即攻撃」みたいな
姿勢でチャンスを窺う。
あるいは心身を休めることでリセットを掛ける。

「調子こいて失敗する」というのもあります。
ノリは波ですから、上下するわけです。
これを見失うと、
「今の俺ならなんでもできる」
と思うわけですな。
全然本人の実力ともなんの関係もない大きな波に
乗ってただけなのに。
逆ももちろん。
ゴッホの手紙読んでるとほんと切ないですよ。
ここまでピュアで理性的で真摯な魂が、
なぜ認められなかったのかと。
流れがこなければ、
人類史上最高の画家の一人でさえ、一顧だにされない。

傲らず拗ねず。

……傲りたいわ(笑)

ともかく3月はノっていきたいものです!



 2/27 かたづける

みなさんは「おかたづけ」はいかがですか。
得意ですか苦手ですか。
あたしゃ得意なような、苦手なような。
仕事机などはいつも殺風景なまでに片づけるのですが、
自部屋はコンビニのバックヤード状態です。

先日読みました雀鬼桜井さんの本にて、
「準備・実行・後始末、これを円のように」
と書いてあって、なるほどと。
よい後始末はよい準備につながる。
そのサイクルがうまく回ると、よい「流れ」が生じる。
後始末することによって、
ゼロ・リセットが掛かったり、
高低がついて波が起きたり、
するわけですな。
区切ることで、逆に次を意識する。
それが円になる。

つまり、おかたづけは、
流れを自分で起こす、ひとつの手段なのです。

で、その日の日記とか、メールとか、
できるだけその日のうちにすることにしました。
今までは割と、次の日に持ち込んで、
起爆剤代わりに使ってたんですね。
やらなきゃならないことがハッキリしてると、
動き始めやすいから。

でもそれすると、それが一巡終わると、
「ふぃ〜」とか一息ついちゃう。
ありませんか、
巡回web見てるだけで午前中が終わった日が。

結局一緒やなあ、と思って、
ならばゼロ・スタートの方が気持ちいいですかね。
職人さんとか、道具毎日キッチリかたづけはりますよね。
よい職人さんほど、道具の手入れは完璧です。
釜本さんなんか、バッグに入れる着替えの順番まで
決まってたそうですよ。靴下のどっちが先とかそこまで。
あれは、スイッチというか、儀式のような
ものかもしれません。

寝る前にやったことを振り返って反省して、
次の日はまっさらの一日を始める。
ちっちゃいことですが、やってみようと思います。



 2/26 よりよく負ける

トリビア1つ。
年号を西暦に戻す方法。

明治+1867
大正+1911
昭和+1925
平成+1988

で、「67歳のいい双子の母」と覚える。
歴史物・伝記など読んでる時便利かも。

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「雀鬼流 無敵の勝負論」 桜井章一
は、本としてのまとまりは酷いですが、
目から鱗の考え方が一杯詰まっててとても面白い。
その中で、
「あがりは攻撃、振り込みは防御」
つまりどの回も勝負であって、
負けてもいい負け方、納得のいく負け方をすればいい。
オリ、つまり勝負を逃げてしまうと、何も得るものはない。

「負けるとより学べる」
という言葉はよく聞きますが、
「よりよく負ける」
という言葉は初めて聞いたように思います。

麻雀に限らず、なんでも相手のあることですから、
勝ち負けは生じますし、運の良し悪し、
人間ではどうにもならないことも多くあります。
しかし、負けるにもしても「よく負ける」と、
それは勝ちと同じ価値。

ヨハン・クライフいわく、
「美しく負けることを怖れるな、無様な勝ちを恥と思え」
今もクライフ率いる当時のバルセロナを相変わらず
「ドリームチーム」と呼ぶわけです。
土方歳三など負けも負け、大負けですが、
でも人の心を引きつけます。
あれは、美しく負けてるからで。

そういえば……自分振り返っても、
意識はしてなくても、今にして思えば
「負けに行った」いや、もう少し正確に言うと、
「負けを覚悟してなお戦った」ことが確かにあります。
そして負けた。
でも、そうやって負けた時って、
やっぱり、なにかしら得てる。
思い出しても、それは嫌な記憶ではない。
ほろ苦くはありますが、いい思い出です。

つまりは「勝ち負けを意識するな」ってことですが、
人間ですから、そのこと自体難しい。
だけど
「いい負け方をする」
「納得のいく負け方をする」
なら、まあ、なんとか。

よりよく負けよう。



 2/25 むちむちにも愛を

「「わかっとらん!!」」
O君とまた、意見があった。議題はいつものように、
「むちむちは愛」
という真理についてである。
雷鳥が吼えるに任せるまでもなく、
原始女性は太陽であった。
縄文遮光式土器を見るがよい。
あれがあるべき女性の姿であり、
豊穣の女神こそすべての女神の中央に
位置するべきなのだ。

しかるになんだ今のこの風潮は。
やれダイエットやれスレンダー、
そんなに体脂肪率を落としたいのなら
マラソン選手にでもなるがよかろう。
瞬く間に一桁だ。

違う。断じて違う。

むろんスマートシャープ痩せ型、そこにも美はある愛もある。
わたしだってそういうタイプも大好きだ。
しかしそれ一辺倒では生物の多様性、
あるいは地球の人類のホメオスタシスは成立しない。
方向性の偏った恐竜的発達は、いつの日にか
大クライシスを迎えるであろう。

我々はたった二人でも反旗を翻そう。
そう心に固く誓い合い、秘密レジスタンスの謀略を練る。
地球が人類が掛かっている。
熱が籠もる真剣勝負だ。

「Oさんエルちゃんみたいな大柄な女性好きですけど〜、
 わたしはこのジャンルだと小柄な方がよくてですね」
「身長153cmぐらい?」
「わかってらっしゃる!
 もちろんぱっつんぱっつんでですね」
「深緑とか地味な色のカーディガンでしょう。
 こう、身体のラインの妙に浮き出る」
「ああカーディガンもいい。カーディガンもいいが
 もうここは直接的にとっくりセーターですな」
「セーターいきますか! 小さめですか!」
「もちろんですよくっきり浮き出るんです、文字通り。
 色は黒、あるいは逆にベージュ。
 そうヒューマン・バディ・カラー」
「よいですなあ。ちいさめ。よいですなあ」
「そうですそれが彼女の涙ぐましいがんばりなのです、
『すこしでも痩せて見られたい』。
 当然縦の縞模様なんか入ってるわけです」
「すこしでも、すこしでも細く見られようと」
「そのとおり。しかしそれこそ逆効果、
 ラインがあることによって、胸の凹凸など
『恒星の重力によって光が曲げられる様子』
 を説明する科学雑誌の挿絵のように
 わかりやすく浮き立ってしまう!」
「むをー。
 下はジーンズですか。またもちろん小さめを」
「もちろんですよふともものところなんか
 繊維が伸びちゃってる感じです。
 もちあがっちゃうセーターの裾を気にして直す動作も
 グッドですな!」
「髪型は。また田舎臭い」
「そうとも、おかっぱとショートボブの中間みたいな
 わけわからん髪型です。それにメガネ」
「マストアイテム」
「普段はコンタクトなど使ってるのですが、
 今日は待ち合わせの時間に遅れそうで慌ててきたので
 目を入れてる時間がなかったのです」
「うぬぬ……
 もちろん甘いもの好きですよね」
「三度の飯より甘いもの。基本です」
「それもちょっと古い定番お菓子を好む。『オレオ』とか」
「『オレオ』! それはナウ過ぎます。
 できれば『ビスコ』ぐらいで」
「『ビスコ』! オ、『オレオ』でも駄目ですか」
「もう夜寝る直前でもチョコレートとか喰っとるわけです。
 ダブルベッドの中で」
「『キットカット』が手放せない」
「いやむしろ明治の板チョコ。それを私が注意するのです。
 『そんな甘いもの、寝る前に食べちゃ駄目じゃないか』」
「そうすると拗ねるんですよね。
 『だってだって、チョコ好きだもん!』」
「『……どうせ、どうせまた太るからとか言うんでしょ!
 いいもん! どうせわたしもう太ってるもん!』」
「ぷいと向こうを向いてシーツで顔を覆う!」
「そこでひとこと。
『バカだな……
 おやすみのキスが、甘くて困るからだろ』」
「ぅフォーーーーッ!」

O君27歳独身実家住まい、口癖は
「ついでにゲーム買ってきてよ、ママン」
ながた33歳独身実家住まい、口癖は
「おかん、駒川でコーヒーの粉買うてきて」

明日、未だ見えず。



 2/24 ダイレクトライティング

ん、またどうでもいいことを。

ながた最高速は500KB/月なんです。
原稿用紙(1KB=約2枚)に換算すると1000枚ね。
これは条件がものすごく良い時に出した速度で、
モチベーション高くアイデアすでにあり、
環境も体調も申し分なし。
だから理論最高値に近い。
これ以上となると、できんこたないですが、
睡眠等日常時間を削るか、
しっかり練らず書き散らかすかになって、
品質保証ができない。

でも世の中にはこれより速い人がいっぱいいる。
マンガ原作というジャンルになりますが、
梶原一騎先生は1700枚/月。

寝る間惜しんでメシ喰いながらキー叩いて……
ならなんとかなりそうな数字なんですが、
先生はこれを赤坂で豪遊しながら達成していた、らしい。

ということは、抜本的にシステムが違うわけです。

いろいろ考えてもわからなかったのですが、
昨日okbちゃんに薦めてもらった
「雀鬼流 無敵の勝負術」 桜井章一
(おもしろいです、むっちゃ)
を読んでて、コロンブスが卵をぐちゃっとテーブルに立てた。

そうそれこそ「ダイレクトライティング」。
つまり推敲なし・イメージ寝かせ作業なし。

たとえば僕の場合、おおよその投下時間の割合は、
単純化して言えば、
・イメージ:実作:推敲=2:1:1.5
ぐらいです。
つまり、実作時間は作業時間のわずか22%しかない。
そして実作時間だけが生産量を決定している。
これを
(1)推敲なし一発書き
(2)イメージをすぐ描いていく
ことによって、
・イメージ:実作=1:1
こんな感じに持っていけると、
50%使える、2.25倍ぐらい作業時間増大=生産量アップ、
つまり1125KB弱、1MB強、2250枚。

これなら遊びに行ける。
別に睡眠も削ってない。
これだ!

「推敲しなきゃ」というのは間違いで、
よりよくするのが推敲ですから、
最初からよけりゃ必要ない。
イメージを湧き立たせ構想を練る、と言いますが、
一番イメージが湧いて構想が練れるのは、
書いてる最中です。

今まで「こうしなきゃ」と思いこんでたことを捨てれば、
なんの、別に特殊なことでもなんでもない!

そもそもさ、水彩画とか失敗許されないワケだし。
風景画とか、イメージも何も現場直接スタートですよね。
「いつでもできる」「どこまででもできる」
という文章の良さを、活かすのはいいですが、
甘えちゃいかん、甘えちゃ。

……実現にはちょっとヒマと鍛錬が要りそう……

---

赤川次郎さんとかバケモノかと思ってましたが、
(現在著作455冊らしいです)
理論上、1976年から実働28年ちょい、
28*12*2000/600(文庫一冊600枚ぐらいとして)
1120冊ぐらい書けてる計算になり(笑)
あ、ぜんぜん理解の範囲内。
逆の計算してもいいですね、
455/28/12*600で月産平均は
「わずか」810枚(笑)

すげえなやっぱり。
常人じゃない。

もちろん、量と質はぜんぜん別ですよ。
また、多ければいいってもんでもないし。

ただ、それは、やろうとすれば、
そして訓練を地道に普通に積めば、
誰にでもやれることで、
別に神様からなんかもらってるとか、
特殊な手足を持ってる、というわけではない。
問題はやるかやらないか、やろうとするかしないか。
そして
「やれるやり方はどんなやり方だ?」
と考えることも大事かな、と。

とりあえず理論はわかったので、
実践。

……で、できるかな……不安やな……



 2/23 工夫せよ工夫せよ

ホントなんか、
「工夫するこころ」
を忘れ果ててるなあ、と思います。
金がすべてを解決して(いるようにみせて)くれていた
バブルのせいもあるんでしょうし、
生まれてこの方右肩あがり一辺倒の時代だった、
というのもあります。

そんな大げさな話じゃなくて頭の硬化現象?
そおかも(泣)

いや、どうしても寒かったんです。寝室が。
エアコン掛けたりパネルヒーター掛けたり、
いろいろやっても寒い。
ついに3万円の羽毛布団までも大投入。
でも、思ったより暖かくないんです、羽毛布団。

が、ある日ふと、
「あれ? 寒いのは地面方向か?」
と気がついた。
今使ってるのは「マニフレックス」ってメーカーのマットレス、
それに薄いコットンのカバー。
マニフレックスはすごく通気性良くて、
夏などは涼しいのですが、
てことは逆に冬は寒いのか?(初越冬)

そこで上に掛けてた電気毛布を下に敷いてみました。
上は羽毛布団。つまり上から、
羽毛布団−電気毛布−わたし−マニフレックス。
を、
羽毛布団−わたし−電気毛布−マニフレックス。
にしただけです。

これがあーた。
ぜんっぜんあったかい。

羽毛布団の売りは軽さもですが、保温性。
人間の発熱を閉じこめどんどん溜め込み
どんどん暖かくなってくれます。
まさに親鳥に包まれる雛。
直接触れると、綿の布団より数倍あったかい。
なるほどこれが羽毛パワーかと。
さらに電気毛布はもともと暖めるために
設計されてますから、冷気を遮断する能力にも優れている。
上で熱を蓄え下から逃がさない&冷気を通さない。
ヘタすると寝汗かく勢い。
その日からエアコンもパネルヒーターも使わなくなりました。

寝る隙間一つ上にズラしただけなんです。
それで問題全解決。こうした
「本来の力発揮させればなんの問題もないものを、
 あたら無駄遣いしてる」
ことって、日常多いような気がします。
どれも素晴らしい力を持っているのに、
使う人間がアホウだったから全然使えてなかった。

工夫、つまり頭で考えることなくしては、
どんなすばらしい道具も技術も、ほとんど無駄。
バカバカ、俺のバカ。

みんなで工夫しましょう(泣)



 2/22 「流れ」を起こす

……と、昨日、
「「流れ」が肝心っぽいけど、
 それにどうやったら乗れるのか、
 イマイチ良くわかってない」
と言いました。

今日わかった(笑)

つまり、外へ出すんです。
自分の中に生まれたものは、できるだけ早く外へ出す。
すると、自分の中に真空が生じて、
負圧が発生して、
新しい知識や体験に対する好奇心ややる気が生じる。
そしたら、お腹減ってるんだから、ばんばん食べちゃう。
取り入れる。

このサイクルを効率よく早く回せば、いいわけです。
ジェットエンジンみたいなものです。

プロダクティブな人、やたらめったら生産力高い人
居ますよね。
あれはどうも、生産が生産を呼んでるらしい。
出しちゃうから、製造ラインが空いて、次の作れるんです。
(中には同じことを微変化で繰り返してる
 ニセモノもいるので、ご注意)

これが「流れ」です。
だからある程度は、自分で作れる、いや、作る。

しかし、自然環境や体調もあるから、
ゴリゴリ回転を速めるだけではダメでしょうし、
充分な加工なしで右から左へ出すだけでは、
市場の信頼を失います。
その前に自分がおもしろくない。
あくまで「いいものをつくる」ためにやってるのであって、
回転を速めるためにやってるわけじゃない。
POSは道具の一つであって、目的ではないのです。

「強い」というのは、自・他をクールによく観察できて、
この「流れ」の勢いを自由にコントロールできる状態、
のことを言うようです。
早めたり遅めたり、止めたり一気に噴出させたり。
それが目標。

で、それは、
外へ出す経験と、
中へ取り入れる経験と、
自分の内部でこね回す経験と、
3つがバランスよく進行してないと、なかなか得難い。
どこかが突出して優秀なのではなくて、
サイクルになってて、それが早く、美しく、無理なく回る、
そんな感じ。

ということで、流れのサイクルを意識しつつ、
がんがん出して入れて考えて、
これが「流れに乗る」っていうイメージの
もう少しだけ具体的な方法論ではないかな、と。

---

わたしの話しますと、梅先生のカードをやり始めたのが
去年の11月20日頃なんですが、
3ヶ月で自分でもビックリするぐらい
考えの整理が進んだんです。
自分の中もそうだし、
通り抜けていった思考や感覚も数多い。

なにがポイントか振り返ってみれば、
自分の中に湧いたもの(できたもの)を
徹底してカードにして外へ出してた、
たぶんこれが効いてる。

以前にも引きましたがドラゴンボールZの主題歌、
「頭空っぽの方が夢詰め込める」です。
空っぽにすると、次のが入ってくる。
逆に言うと、空にしないと入らない。
人間の頭と心は、そんなに優秀じゃない。
いや、むしろかなり優秀だから、
いつまでも同じことを続けられる……のかな?
ま、それはどっちでも。

仕事でもなんでもたぶん同じで、
「目の前の一個をやる」
と、CPUとメモリに空き時間ができて、
「次の一個をやれる」
ようになる。
うるとらちょー当たり前のことなんですけど、
人間というのはなぜかこれをすぐに忘れる。
「稼ぐに追いつく貧乏なし」という名文句がありますが、
やってれば、成果はどんどん積み上がっていくもので、
そして成果が成果を呼ぶ。
「学問に王道なし」(この場合の王道は近道の意)
というのはまさにこれで、
「目の前の一個をやる」
という一番愚直なやり方こそが、最短距離なんですわ。

うひー。
めっさ納得。
ネズミの婿取りみたいな話になってきましたが。

そりゃま、楽でもありますわな。
「目の前の一個」なんだから、なにも悩まなくていいし、
サイズも小さいし、ホット&フレッシュだから楽しいしね。

そーゆーことかー。

わはは、見切った!
これでもうだいじょうぶ!

……たぶん。

---

もちろん、「流れ」のペースは人それぞれです。
早けりゃいいってもんじゃなくて、
「その人に快適なペース」っていうのが、
大事なんでしょうね。
そしてそんな流れが生まれるように、
入出力を調節していく。
こちらは、ある程度意識すればできることですから。
ムリに出さずムリに入れず。
詰まってたら出してお腹減ってたら食べる。

「やる」ことが大事だ、と言ってましたが、
結局それも、やることで出力して、
自分の中に真空起こして、
新しいイメージを沸き立たせる、
そんな意味もある。

また外に出すと、出力どうしが化学反応を起こし始めて、
またそれが入力になりますし。
あれですな、高速増殖炉。

出すことは入れることであり、
入れることは出すことだ。
それは一度きりの直線ではなく、
循環してるのです。
エコ。

そそ、ほらほら、こないだ出したものがまた入力になれば、
すごい効率上がるじゃないですか。
エコ志向はとても大切なんですよ。
大事なのは、そればかりだと縮小均衡みたいな
地味な感じになっちゃうので、
ガンガン新入力もぶちこんで
(物理資源と違っていくら使ってもかまわない!)
拡大循環、みたいな感じにすることですかな。
パワー・エコ。

なんかええこと言うてるような気になってますよ。いま。

思えばウチの友人達はみんな、
わたしのムボーなアウトプットに
辛抱強く耳を傾けてくれてます。
「出せる」ことのありがたさと、
それに対して直接のレスポンスが帰ってきて、
これがまた強烈なインプットになる。
めぐまれてるなあ。

また、数日前に「己空しうする」みたいなことを言いましたが、
こうして流れを作りそれに流されていれば、
海を進むマグロみたいなもので、
中には何もない。
これがゼロ。
わざわざゼロを志向しなくても、
持ってるもの全部手放せば、
それがゼロです。
捨てるんじゃなくて、出して置いておく。
勝手に持ってって、と。

現代人はどうしても入力過多なので、
こう考えるとやっぱり、
なんらかの形で出力した方がいいですよ。
表現系でも、スポーツでも、
プラモ組み立てるのでも、blogでも、なんでも。
いや、古典的な家族友達とのおしゃべりでも。
それでなにが起きる、起こす、
っていうことじゃなくて、(ことだけじゃなくて)
出力してること自体が、大切なんですね。

ま、つまり、最初に戻ってまとめますと、
「いいから出せ」
ってことで。

流れを起こして、乗っていきましょう。



 2/21 ヨット的

ほんと奇妙なもので、なんのきなしに書いたもので
あっと思うこともある。
「なんのきなし」もキーワードかも……

--

「ものの見方」としては、逆とか裏とかズームインアウト、
つまり「視点移動」が肝ではないかと思うのですが、
では見た後、つまり「ものの表し方」の、肝はどこか。
今イメージしてるのは、
自然な「流れ」を大事にして、それに上手く流される、
そんな感じです。

ヨットとか。
自分がやるのは、帆を張って、
舵をちょんちょんあててるだけ。
あとは風と潮がぴゅーっと運んでくれる。
もちろん腕があがれば、
タックして逆風でもぐいぐい進める。
エンジンぶん回してガソリンがばがば使ってすっ飛ぶ
パワーボートとは、逆のやり方。

「得手に帆をあげて」です。
エンジン屋本田宗一郎までもが言うんだから間違いない。

でも、我々は今までパワーボートに馴染んできたから、
ヨットは不安ですね。
ヨットにしてみれば、
ガソリンがなければ動かない、エンジンが壊れたら終わり、
その方がよっぽど怖い、と言われるでしょうけど。

実際はどっちも大事で、
パワーボートは豪華客船や巨大タンカー、
そしてスペースシャトルに至る。
それは社会に必要なものです。
これを「要らん」と言うからしみったれた、後ろ向きな、
萎縮した話になる。対立も起きる。
それが風や光や潮で走りゃいいだけの話で、
あるいはそもそもヨットだってカーボンやFRPやナイロン、
新素材をじゃかすか使ってる。
救命胴衣だってそうだし。

ただ、我が身振り返れば、
ヨット的航海ができないのはどうなのか、と思うんです。
星も読めない風も読めない潮も読めない。
最近、教育についてよく考えるのは、
ヨット的なものは子供の頃から身体で覚えた方が
絶対いいからです。
我々みたいに、パワーボートしか運転できない
人間になってはいかん。
あれはいつでも乗れる。
(いつでも乗れるようにできてるのがパワーボート)
ナウシカが子供達にグライダーを教えてあげる、
あれです。

……ただ「流れ」を大事に、
ヨットみたいに、といっても具体的には
なにをどうやっていいのかさっぱりわからず、
大阪湾をただただ漂流しております。
漂流しながら「うわ、潮はえー!」とかそんな段階。
最近ぜんぜん「がんばろう」と言わないのは、
そゆところをがんばってるからです。
スターターボタンを押せば、
やれることはわかっているのですが、
ということは、わかってることしかやれない。

人間は欲深いですな。
でも、それを失ったら、人間じゃない。



 2/20 タイムボカン・フォーマット

「タイムボカン」フォーマットって、
ものすごい優れてると思うんです。

まず何よりもキャラがいい。
勇敢な男の子とカッコイイ女の子のフラットなペアが、
心を持つ優しく強い巨大メカを駆る。
敵役は最後まで謎の黒幕らしい黒幕、
そしてコテコテのキャラ立ちまくり三悪。
何もせんのに偉そう、セクシーなくせに抜けてる女幹部、
骨の髄からマッド・エンジニア、
すこぶる辣腕のくせにどうしようもないスケベオタク、
力強く頼りになるが積極性はなく頭を働かせるのは苦手な
レツゴーで言えば長作ドワーフ。
もうこれだけでお腹一杯ですな。

ところが話もいい。
世界中、時には歴史を前後して有名な人物に会ったり
大きなイベントに立ち会ったりしながら何かを探す。
おもしろくないはずがない。
三悪はムチャ悪いことするんですけど、人は死なない。
子供向けの基本です。
ちゃんと30分で起承転結。
毎回ユニークなメカ戦までちゃんとやって。

演出も効いてますよ〜。
なぜ脱出装置が三人乗り自転車なのか。
やられて爆発する緊迫の瞬間に「おろか・ぶ」。
正義側も悪側も、ここ一番の必殺技を繰り出す時には
わざわざファンファーレですよ。
そんなこと源平合戦でもしない。
意味あるかないか言うとないんですけど、
演出というのは意味なんかないものです。
だから演出っていうの。
言葉(セリフ・ストーリー)で説明できないモヤモヤを、
全部の要素を使ってなんとか表現しようと努力する過程、
それらすべてを演出というのであって。

そしてセリフ回し、いや日本語の新しい地平。
「ポチッとな」「アラホラサッサ〜」「やっておしまい!」
なぜそこまで底抜けに陽気なんですか。
時代か?
いや待ってそもそもタイトルからして直球すぎる。
「ヤッターマン」て。
絶対なにかやってくれそうですよね。
「ドロンボー」て。
黄金バットの「ナゾー」以上に何者かが良くわかりすぎる。

作り手の個性もフィットしてましたなあ。
天野デザインのやたらアートなキャラと、
大河原デザインのカッコカワイイメカ、
彩りを添えるのは山本正之のテンション高く
「なんたるか」を世界一よく知っているテーマ・ソング。
タツノコですから、甘いマンガ絵じゃなくて、
頭身とか高くて結構リアルなんです。
絵として万人に見心地がよく、経年耐久力もある。
声優さん方は……もう言わずもがなの役者揃い。

どう考えても素晴らしい。
日本が作りだした世界に誇るフォーマットです。

各作品微妙に差があって、
ベストが人によって違うのも楽しいものです。
やっぱり元祖、アドベンチャー色が一番強い
タイムボカン、
フォーマットが確定した安定感でたぶん一番人気
(これだけ2年)ヤッターマン。
何と言ってもゼンダライオンの歌声が
トラウマになってしょうがないゼンダマン、
主人公ペアのラブコメ路線全開、三悪が職場仲間という
スリルもあるオタスケマン。

で、ここで大転換が起きる。
次のヤットデタマンではペアを解消、
男の子だけがヒーローになって、
女の子はそれをアシストするだけになったんです。
ここがターニングポイントでした。
ヤットデタマン自体は、大巨神のキャラもよく、
ジュジャクを巡る人間模様もより華やかで、
完成度高くファンも多いのですが、
「タイムボカン・フォーマット」からは外れてしまった。
「ヒーローがロボットに乗って戦う」
半ロボットアニメみたいになっちゃったんですね。
もちろん三悪とか、他の要素は全部残ってるんですけど。

で、ここで(おそらく)評価高かったので、
ドラマティックなイッパツマンにつながる。

これも難しいところで、イッパツマン自体は
すごいおもしろいんです。
たしか高校の夏休み、合宿に行くバスの中で
「あー……イッパツマン(再放送)見られへん」
と漏らしたヤツがいて、
それがさざなみのように拡がっていった瞬間を
よく覚えています。
高校生でも充分楽しめた。

ただ、もはやフォーマットで戦う番組ではなくて、
「イッパツマン」というドラマが、
タイムボカン・フォーマットを一部借りて作られてるだけ、
という形になってしまった。

普通そうじゃないのか、って?
いや、違う、フォーマットにも力があるんです。
たとえば時代劇。
「暴れん坊将軍」では、たとえハレー彗星の話をやろうと、
め組内ラブコメをやろうと、
健が出てきて「成敗!」をやらないと誰も納得しない。
いわば、「暴れん坊将軍」が「鬼平半科帳」になっちゃった。
「時代劇」から、
「ドラマ:時代が江戸」になったんです。

そのこと自体は悪いことでも何でもなくて、
現にイッパツマンはおもしろいんですけど、
それをやると、次もそれでいかないと駄目ですよね。
高校生でも楽しめる濃厚なドラマを叩きつけないと。
ところがなにがどうなったのか、
次のイタダキマンは、ドラマものでもなく
懐かしいフォーマットでもなく、
モチーフを西遊記に取る
「新フォーマット」
という冒険に出た。

僕はリアルタイムでヤッターマンから
ずーっと見てた口ですが、
ここでポッキリ折れ、途中で見なくなりました。
卒業しちゃったんですね。
どうも僕みたいな人が多かったようで、
イタダキマンは打ち切り(20回)で終わって、
次のシリーズは無し。

完全に同じフォーマットを続ける、というのは、
やっぱり作り手にとってモチベーションが
落ちていくものです。
ところが実は、今も続く東映戦隊物のように、
あるいはそれこそ水戸黄門のように、
受け手は代替わりし続ける。
つまり、「同じでないと困る」のです。
タイムボカン・シリーズは、
ヤットデタマンのところで、作り手が舵切っちゃって、
前々から支持してる受け手もそれに乗っちゃった。
だからそのコミュニティ自体が持ち上がりで、
一年ごとに一つ歳を取る。
もちろん下からも入ってくるのですが、
彼らは僕らのように「シリーズとして愛してる」のではなく、
単品の番組としてしか見てない。
おもしろくなければ、すぐ切るわけです。
そして僕らも、「ムリして支持するほどでは」
という年齢に達していた。

フォーマットとしての寿命を最優先するなら、
あえて、マンネリでなければならない。
飽きた受け手は離れてもしょうがない、という覚悟。
それでもそのフォーマットが優秀であるのなら、
必ず下から入ってくる。
受け手のモチベーションは、ちょっとずつ
血を入れ替えていくことや、
作品の世界観を微妙に変えていくことで、
なんとか誤魔化す。

一度、キラメキマンとして復活したのですが、
あまりに「前のように」が鼻について、
「ああ、これだと今の子は辛いだろうな」
と思いました。
ディテールではなくて、精神を継いだ
「今の」シリーズが欲しい。

続きゃエエってもんじゃない、それはそうです。
舵を切ったからこそヤットデタマンもイッパツマンも
あったわけで。
でも、あれ食べて育った我々としては、
「今の子があれを観れないのは可哀想」
とまで思うわけです。
今はライダーもウルトラも帰ってきてる。もちろん戦隊も。
いやガンダムさえ。
なぜタイムボカンが無いのか。

国が補助してでも作らせるべきです。

これあれだよ、黙ってると韓国人が作ったりして
逆輸入して大人気とか。
アメリカ人というかPixarがフルCGで作って
大人気とか。

そんなことになっちゃいますよ、ホントに!!

その時どうするの、また居酒屋の290円の発泡酒呑みながら
「あれはタイムボカンだよ……」
って嘆かなきゃならないの!?

ドロンジョ様の声がシガーニー・ウィーバーとか。
「殺っておしまい!」
ゼンダライオンの声がマイケル・ジャクソン。
「歯を磨いて寝ない子は、ボクが食べちゃうぞ☆」

イヤでしょ!?
そんな解釈されんの!

なんとかしましょうよ。
知的財産なんだから。
国民的文化財なんだから。


ま、とにもかくにも、
ヤッターマンでアイちゃんが変身するたびに
ドキドキでしたな。
わたしの「カッコイイ女の子好き」は
「コンバトラーV」のちずるさんからだと思ってたのですが、
ひょっとすると彼女だったかもしれない。
シビレステッキですからね。
これがシビレずにいられますか。
金髪碧眼好きでもあって、これはたぶん
「クラッシャージョウ」のアルフィンか
「ガンダム」のセイラさんの
どちらかだと思っていたのですが、
……安彦ファンか!俺は!(今発見)
よく考えればアイちゃんもそうだわ。
時期的には一番早い。
そもそも「電気屋の娘」「おもちゃ屋の息子」という
肌触りありすぎる設定がたまりませんな。
そう、街に商店街があった時代の作品なのです。

などとしょーもないことを延々思い出しつつ、
獅子の十六、愛の目覚め。



 2/19 混沌をして語ってよおねがい

混沌から何かが生まれ出てくる過程こそ、
おもしろい。

先日からM澤先輩に深夜にもかかわらず
長電話つき合ってもらったり、
鉄心先生に長文メール叩きつけて
お手を煩わせたりしてるのですが、
おかげさまで自分の中ではどんどん丸まっていく。

そばを打つ時に、そば粉を大きなお盆の中で
水を差しながらまとめて丸めていくじゃないですか。
あれ、職人さんに言わせると
「まとめるんじゃない、まとまるんだ」
そんな感じ。

この「ほえなが」もそうで、
全然要領を得ない回とかありますけど、
それはコネ現場(ライヴ)なのです。
言ってしまう・書いてしまうことで、まとまることを期待する。
本人もよくわかってない。
(わかってることを綺麗に出すのは、本にすればいい)

混沌をして語らしめる、というか。

でもこれってすごく大切なことのように思います。
「議論」なんてカッコイイもんじゃなくて、
おたがい「ああでもない?こうでもない?」とやりあう、
その中から、どちらも思いもしなかったものが
ぽん、と生まれ出る。

方法論もなければ予測もつかない、
これこそが創造のよろこび・おもしろさの、
根幹のようにも思います。

今は、そういう「ぐちゃぐちゃから何かが」というのは
非効率だとして流行ってませんが、
実はこのやり方、うまーくやれば、
めちゃめちゃ効率高いかもしれない。
うん、じゃなきゃ、そば職人さんが
そんなこと言うはずないもの。
職人さんというのは、一番正しいやり方、
つまり成果よく早く楽で楽しいやり方を、
身体で知ってるもので。

あたしにはそういう混沌につきあってくれる
(つきあわせるとしょうがなくつきあってくれる)
友人がたんといるので、それはもう幸せなことだと
感謝してます。いやもう、ホントに。
ということでまたよろしく(笑)
……というより、わけのわからん回を
黙って読んでくださってる貴方、
貴方にも感謝を。

人だけでなく、書物にも自然にも、そういう混沌は潜みます。
こいつを味方につける方法……姿勢、気持ち、
なにかはわかりませんが、これが味方になってくれると、
楽しかろうなあ、と思います。

もちろん秩序には美があるわけで、
楽しさと美の間を、輪廻くるくる回るのが
理想っぽいですね。



 2/18 よい本は、よい人と語り合うのと同じ

昨日は久しぶりにゲラゲラ笑いながら、
「会話」というものを楽しみました。
しかし、そういう会話は実は少ない。

これは人によりけりですが。

「よい本は、よい人と語り合うのと同じ」
だと思います。
つまらぬ人物と会話するよりも、
よい本をめくる方がずっと楽しい。

だから僕には、「その人」が出てるような本が、おもしろい。
ジャンルは関係ないです。
たとえば司馬遼太郎叔父。
開けばそこに、竜馬が歳三が真之が、
そしてもちろん遼太郎が、いる。
巧拙も関係ないですね。
本職文章書きじゃない人の本にも、
「語れる本」はいくらでもある。

語りかけてくる本、こちらが語りかけられる本。
会話が成り立てば、泣きそうなほど感動できますね。

だからね、そういうのが書きたいのです。
開くと、登場人物が躍りだし語りだすようなのを。

楽しい会話の後に、いい本を読んで、
「ああ、同じか」と気づきました。



 2/17 できるようにやる

家族で香川は金刀比羅さんにお参りしたことがあります。
小学校4年か5年です。
金刀比羅さんといえば長い長い参道の階段で有名、
一家は本宮より遙か下の方で「もういいや」気分。
わたしは常にもったいないオバケを怖れる人間で、
「せっかくだから行けるところまで行ってみる」
と、独りで登りはじめました。

結局、最奥の奥の院まで行って帰ってきました。
えらい時間掛かってえらい怒られたんですけど。

だから、
自分のペースで行けば、
誰だってどこまでも行けるんです。

どこかで、すり替ってしまった。
どこかで。

「これだけの時間(空間・要素)でこれだけのことを」
これ、制限が二つある。
「1時までに奥の院まで行って帰ってこい」
こうするから難しい。
「1時までに行って帰ってこい」
「奥の院まで行ってこい」
どっちかにすればいいわけです。

初等教育では、一応
「できるまでやらせる」じゃないですか。
あれが大事で、それと
「できればOKだよ」と温かく見守る姿勢も重要ですよね。
実際、そうなんですよ、仕事なんかでも。
理屈捏ねて「できない」より、
遅くとも効率悪くとも「やりとげる」のが
まずなにより。

目的の一元化は作戦立案の大原則のはずです。
なのになんか、どっかで欲張り二方面(以上)作戦に
なっちゃって、早くもないしやりとげもしない、
そんなやり方が刷り込まれてる、染みついてる。
もちろん、自分を振り返ってそう思うのです。

「10キロ歩け」と言われたら、
「うわ、大変だ!」と思いますよね。
でもね、歩くだけなら、ごく普通の健康な人間なら、
10キロぐらいほんと屁でもないんです。
この運動音痴の僕が言うんだから間違いない。
ただ、「どれぐらいの時間で」言い出すと途端に大変になる。

もういいじゃないですか、と思うんです。
10キロ先にたどり着く方が大切なこと、は多い。
とにかく着いてくれ。
なら、もう、時間は一日かかったっていいじゃないですか。
「ゆっくり行こう」って言うんじゃなくて、
もう時間のことは考えない。

時間だけじゃなくて、やり方とか、成果の量とか、
とにかく欲張らない。
自分の歩く速度と体力考えて、
歩きやすいように歩いて、
そうすればいつか、
たどりつく。

できるようにやる。
するといつかできる。



 2/16 大ジャンプ小ジャンプ

昨日の続きみたいになりますが。

モノにはあるジャンプの瞬間がある。
それも大ジャンプと小ジャンプがある。
そこを越えると、あとは微進化なので、ジャンプ前とは
あんまり違わない。
その微進化に使うエネルギーは、
極小(もしくは当人が充分リーズナブルと考えられるところ)
でよい。

電話でいうと、
「携帯電話」というのは大ジャンプです。
持ってると持ってないでまるっきり違う。
小ジャンプがメールとカメラかな。
そのモノの使い勝手には大きく影響するんだけど、
そのモノ自体の存在意義までは左右しない。
(たとえば、カメラしか使えず電話ができない
 携帯というのは存在しない)
小ジャンプレベルになると、人によってばらつきますね。
ある人にとってはwebかもしれないし、
ある人にとっては着メロかもしれないし。

ジョブス先生のようにビジョン溢れる人をめざすなら、
「なにが大ジャンプか」
を嗅ぎ分ける力を持つことかも。
あの方はたとえばGUI、カラー&サウンド、
ハードとソフトの密な連携、オールインワンパッケージ、
ポータブル、ネットワーク、光学ドライブ、無線技術、
モノとしてのデザイン……
どこが大ジャンプか、よ〜くわかってますよね。
だからシンプルで美しい。

この感覚、難しいことではなく、
子供の方がそういうの上手い。
我々は、自分でつけた手垢にまみれて、
ピュアな好奇心を失ってるだけで。
それを取り戻すには……
チャイルド・プレイはなかなか恥ずかしいので、
要するに
「俺はアホや」
という真実をいつも確認することじゃないですかね。

真っ白だから、どんな刺激が来ても
「おっ?」
と思える。そんな感じ。

それにはまた、昨日と同じで、
どんなものにも囚われない、こだわらない、
ピュア・ホワイト・ハートがいいのかなあ、と。
自分が今まで積み重ねてきたものも、
いつでもポイと捨てられる心の軽さ。
手に入れる・積み重ねるのも大事ですけど、
捨てる・壊すのも同じだけ大事ですよ、
とくりかえし思う昨今です。



 2/15 チラシと定規

おっちゃん、最近生物的にも脂抜けてきましてね。
ついにシャンプーを使わなくなりました。
お湯だけでも洗ってると「ま、こんなもんで」と思えるように。
もちろん、翌朝は職を失ったサリー・パパみたいに
なってるんですが。
「シャンプーを使わなければならない」
てのは、思いこみかもしれません。

「なにかがある」というのは、
そんなにありがたいことなのか。
なにかのためになにかを用意するのですが、
すると、どこか別のところがへっこんでる。

と考えるとやっぱりスティーブ・ジョブスは偉大で、
たとえば僕の今使ってるマウスは、
無線で5ボタンでもちろん割り当て変更できて、
光学式でスクロールホイールが左右にも動く。
これがじゃあ、最初のMacに付いてきた1ボタンマウスより
何10%も作業効率上げてくれてるか、
というと全然そんなことないわけです。
よくて数%、それも高価格とか電池のメンテとか、
故障可能性とか(実際壊れた)
そういうのとトレードオフで、
ムリヤリ手に入れてる。

ま、その数%を多数寄せ集めることこそが進歩だ、
という考え方も重要なのですが、
つまりそうすると、トレードオフのマイナス点も
多数集まっちゃう。
匍匐前進です。
効率はさておいても、まずスマートではない。

意固地のようにあの1ボタンデザイン変えないのは、
そういう「魂の表現」かもしれません。
消極的に・ビンボくさくシンプルにするのではなくて、
積極的に・心地よくするためにシンプルを守る。

道具も機械も便利な生活用品も、
すべて人間をアシストしてくれるものであって、
それ以上ではない。
アシストしてくれる以上の手間をそこに取られては、
差し引き損。

むかーしTVかなにかで、
大手電機メーカーの社員がCADフル活用しても
うまく設計できなくてウンウン悩んでいるのを、
下町零細企業の職人社長が、
チラシの裏に定規で設計図ひいてちゃんとできた、
というエピソードやってました。
かっちょよすぎますよね。

それは、
「チラシと定規でもこんなことができるなんてすごい!」
じゃなくて、
「チラシと定規だからそんなことができた」
という面がある。
もすこし言うと、彼にとって
「そこはどうでもいい」
わけです。

ここで「チラシと定規じゃなきゃダメだ」と言うのは、
またそれは違うんです。
CADに疲れると、人はそっちへ行きがちです。
山奥へ行きたがる。
それは、「なにかを求めている」という点で、
最新ワークステーションでCAD使ってるのと同じですな。

こだわら・ない。
流れるように流される。
自然にそっちへ流れ着く感じ。

それが、チラシと定規だけじゃなくて、
いろんなとこがそうだったりすると、
いいなあ……

とか、思うんですけどどうでしょう?



 2/14 己空しうする

これは僕だけにフィットする話かもしれないので、
いつものとおり話半分で聞いてください。

「己空しうする」
というのが、またひとつポイントかもしれません。

「自己流・個性・自分らしさの確立……を、捨てる」
というコロンブスの卵です。

自分を描こうとするからしんどいですよね。
一本終わるとスカスカでヘトヘトになってる。
しかも引き出しの中身さらえちゃってるから、
次の起動が遅くて辛い。

昨日言ったこととは矛盾するようですが、
ひょっとして表現っていうのは、
自分を表すもんじゃないのかもしれません。
以前、「独自意味」という言葉を使って、
「自然の中から自分なりの意味(情報の形)を抜き出して、
 それを誰にもわかりやすいように描き出す」
のが表現だ、と思ってました。

そのとおりなんですけど、
実は、そんなたいそうなものですらなくて、
観たままをぽんと白紙に載せる、
そんな感じじゃないですかね。

個性というのは、入れようとせずとも
その過程で勝手に入ってくる。
だってどうやったって
自分の「からだ」を通過してるわけですし。
むしろ理性や理屈で無理に入れようとすると、
邪魔になるばかり。
「ヘタな考え休むに似たり」とか。
子規(写生)や漱石(則天去私)は
それを言いたかったんじゃないですかね。

ああ、そうかも。

そりゃあ楽で楽しいですよ、そんなもの。
遊んでるも同然だもの。
いやというか、遊んでるだけだし。
いっくらでもできる。
題材なんて、そう、そこの鉛筆だっていいし、
空のビール缶だっていい。

たぶん、そうやってのびのび描いたものは、
いいものになってる。

ほら、子供の絵とかど付きの素人さんの絵で、
たまにえらい「いい感じ」の絵があるじゃないですか。
あれです、あれ。
それを、蓄積された技術と鍛えた眼でやれば、
もう十二分なわけです。
ここちよい。
だって自然そのものだもの、
ここちよくないはずないじゃないですか。

あるいは、ものの見方が違えば、
恐ろしさであったり、哀しさであったり、いろいろ。
でも、どんな「感じ」だったにせよ、
偉大なる自然そのものから受けるものが最強に
決まってますからね。

---

……せやけどそれは怖い。

「説明できる良さ」を付加する、
という方向性とはまるっきり違う。
(一概に反対ベクトルとは言えない)
ま、いえば往年のThinkPadの良さと、
他のノートPCの良さで、
TPの良さを言葉で説明するのは極めて難しい。
でも、「TVがこんなに高画質!」
「こんなに軽量バッテリ長持ち!」
ならとても簡単に説明できる。

「『ウケ狙っちゃダメだ』っていつも言ってるじゃん!」
って?
いや、そうなんですけど、それだけじゃなくて……
ThinkPadが滅んだように、
気を抜くとあっという間にどうしようもないものになる、
そこも怖い。
説明競争なら、なにが足りないなにが余ってる、
簡単にわかるわけです。
そこを離れると、自分の立ち位置がはっきりしない。
全く届かない言葉を叫んでるおそれがある。

「それでもよし!」という蛮勇を持つのか、
それはそれとして、自分の位置を冷静に見つめる
しっかりした目を持つのか、
はたまたその両方か。

どちらにせよ、
やってることは非常に簡単ですが、
そこに至るハードルは極めて高い。

ま、勇気でしょうな。
「家庭教師しててもいいからこれを書く」
っていうだけの話で。

---

なぜこんなことを思ったかというと、
実はイラスト描いてて、
久しぶりにグラビア見ながら描いたんです。
昔から模写とかすーごい苦手なんですけど、
(全部そうです、形を練習するのがひどく苦手。
 だから楽器が扱えない)
まあ、いいグラビアだったのでたまには、と。

写生・模写と考えると肩が凝りますが、
あくまで自分の絵の参考だ、と思えば、
その通りでなくてもいいし、適当に替えちゃってもいいし。

するとね、割といい(当社比)のが描けてですね。
うほほ、という感じ。
「模写なんて上手くできてもつまんねえ」
とか思いこんでたんですけど、
確かに、無茶なポーズ考えたりするところの楽しみ、
これは全然無い。
でも、楽しみが無いのはそこぐらいで、
線引っ張る喜びもあれば色を塗る喜び、
形を想像する喜び、
より根元的な、ものができていく喜び、
全部あるわけです。
しかももうベースがあるからむっちゃ楽。
「ああ、観て描くのもいいなあ」
とか現金に。

考えて見れば、名作にも数多く
「観て描いた」ものがある。
もちろんそうでないものも多々ある。
すくなくともこれは両輪ではないか。

今まで僕は、
「観たものを全部自分フィルタに掛ける」
と思ってたんですけど、そうではなくて、
「観たまま描くもの、想像で描くもの」
と、もう最初から分けて描くと、
愕然とパフォーマンス上がるんじゃないですかね、
とハッと気づいたわけです。
だって、観たまま描く方は、想像で描くのより
もう何倍という単位で速い。
しかも修練によっていくらでも(というと少し大げさですが)
能力上がる。
で、あまった時間とパワーを、
想像部分にブチ込むのです。
こうすれば、同じエネルギーを使えば
フルスクラッチより比較にならないぐらい
濃いものができるし、
同じ濃度なら遙かに簡単にできる。

司馬遼太郎叔父が、
「散文というのはアルコール分3%で」
とよく言ってたのは何度もご紹介してますが、
そうなんです、たぶん、そういう感じ。
アルコール分が、「自分」で、
あとは自然をして、事実をして語らしめる。
アルコール入ってないところは無味乾燥か、
ってそんなこと絶対無いわけです。
だってどこをどうやったって書いてるのは自分ですもの。

---

なーるほどねえ。
あとはこのコンセプトを
手先の技術にどう落とし込むか、かな。
ちょっと検討してみます。

間違えてはならないのは、
やっぱりアルコール分は必要です。
やっぱり、模写ほどツマランものはない。
ビール缶描くにしろ、
「自分の絵としてビール缶を描こう」
とは思わなければ、それはただの「行」です。
ドラマ溢れるビール缶を想像するわけです。
2万キロぐらい海流に乗ってきたヤツであるとか。
そうすると、そんなビール缶になる。

あ、表現について言ってますけど、
たぶんビジネスとかでも同じで、
基本は「市場なり」で走って、ムチはここぞで叩く。
これを、すごい馬力すごい追い込みで勝ちきろうとすると
想像を絶するエネルギーが要りますし、
(日本の成功物語はそういうのが多いのですが……
 それはそれで尊いのですが)
市場ばっかり見てやる商売ほどつまんないものは
ないわけです。

ま、具体的な方法論は別にして、コンセプトとしては
「己空しうする」
で。
自然の言葉に、素直に耳を傾けたい。



 2/13 粗雑感

2日ほど前から、「web拍手」を設置しました。
←のフレームの一番下。
押していただくと、「拍手した」というデータが
わたしに届きます。
はげみにさせていただきますので、
おもしろかった日などに「ぽち」とどうぞ!

押していただくとわかりますが、
さらに一言送る機能もございます。
特にレスはいたしませんが、
(することもあるかも)
ちゃんと読んでますので、お気軽にどうぞ〜。

---

日曜ですので、気張らず、たらんかたらんか参ります。
無駄な長文なのでご注意。

もうひとつ、もう鎖ひとつ、ってところです。

11月から1月の「ほえなが」の「意味」シリーズを
ずっとまとめていました。
おおよそイイタイコトは、
・自分のものの見方は自分で作る。
・それは完成などしない。
・だから楽しいんだ。
こういうことです。

自分で言うのもなんですが、
これは、間違いなく真理だと思います。
実際そう思ってます。
ただ、自分で書いてるもの読んでも読んでも説得力がない。

で、どうして説得力無いか考えるに、
やっぱり「いったんは完成した」という形が無いと、
なにをしゃべっても空虚なのです。
全く同じバッティング理論でも、
イチローが言うのと僕が言うのとでは
インパクト違いますよね。

社会的な結果という形でなくともいいのですが、
少なくとも本人が「あるやり方」を用いて、
本人的に大満足の成果を得て、
それでなおかつ
「いやいや、これはまだまだですとも」
それで初めて、言葉に重みが出るんだろうなあ、と。

これだけでは、ゲーデルの不完全性原理みたいなもんで、
「いや自分でつくらなあかんねん」
「ほなどうやってつくんねん」
「いやだからそれも自分で考えてやな」
「ほな何も言うてへんのと一緒やん!」
「自分でつくらなあかん、ってハッキリ意識してた?」
「意識も何もそれ以外にどんな方法があるっちゅーねん」
「ホンマに〜?」
こんな感じ。これがね、
「……ということなんですけど、
 僕のやり方っていうのはこんな感じなんですよ、
 ご参考になれば」
と言えると、だいぶ違う。

---

ただ、言い訳がましいようですが、
それを明示できたとしたら、
それはそれがテーマの文章になっちゃうのです。
たとえば「ながた式認識術」みたいなのを
開発したとしましょうよ。
そうすると、その文章のテーマはそれになっちゃいますよね。
タイトルももちろん「ながた式認識術」です。

違う、今回言いたいのはそこじゃない。

世の「知」にまつわる本には、そういう本が多いのです。
もちろん、良心的な・古典的に評価が高いものは、
(たとえば梅棹先生の「知的生産の技術」、
 立花さんの「知のソフトウェア」)
「これは僕のやり方だから!
 自分なりのを作らないと!」
と念を押してるのですが、
(逆に言うとここを念押ししてないこれ系の書物は
 クズなので、ゴミ箱に捨てていいです)
どうしても読んでる方の意識は、
その「術」「技」そのものに行っちゃいますよね。
いやそもそも、そういうのを知りたいから読んでるんだし。

でも、今回僕が言いたかったのは、
くりかえしになりますが、その前段階のことで、
「どんな対象であれ、
 やり方ってのは自分で作るしか無いよ」
ということです。
それは、ダイエットでも、セールス向上でも、整理術でも、
なんでも同じです。
howto本には、参考書としての役割しかない。
それを忠実にこなせば必ず成果があがるものではないし、
逆の効果が出ちゃうこともある。
いろんなやり方を自分なりに消化・再構築して、
「自分式」を生み出すのが大事です。

そこにフォーカス当ててちゃんと言ってくれた本、
って記憶にある限りでは「知的生産の──」
ぐらいしか無いんです。
(だからあれは超ロングセラーなんでしょうけども)
具体的なやり方の本なら、
毎日のように腐るほど出てるのに。
方法論も大事だけど、その前の大前提は
もっと大事ですよね。

まあ、今回はそれがテーマですよ、と。一応。

---

で、「そんなの当たり前じゃん!」と言い切れるほど、
今の我々は、自分の頭でモノを考えてないような
気がするんです。
もちろん自分を含め。

ちょっと変な例ですけど、振り込め詐欺の被害が
大阪は変に少ないじゃないですか。
あれね、オバハンという生き物は、
自分を中心にすべての世界が回ってるんです。
だから、「息子さんが事故を起こして──」
という電話が掛かってきたら、
「どないしたん!だいじょうぶかいな!ケガは!どこの病院におんの!相手は!相手にケガさしたんかいな!お父さんに連絡は!警察の人は来たはんの!保険屋さんに連絡は!JAFは呼んだんか!……」
と、「自分の世界」を構築する材料を
集め始めるんだと思います。
たぶん、安易な設定だとここで崩される。
(それ以前に野生の勘がスゴイのもある)

でも、それってとても必要な能力ですよね。

最近の子供は外で遊んだ経験が少ないから、
物理的な危機回避能力が低いんじゃないか、
などと言われます。
同じことで、「ものを考える」という点での、
ヤバイ情報・地に足のついてない情報から
自分の身を回避する能力が、
ずいぶん落ちてるんじゃないかな、
と思ったりするんです。

考えすぎですかね。
あるいは、全体的にダメ、ってわけではなくて、
ダメとイイとの格差が拡大してるだけかもしれません。
でもそれでも、民主主義である以上、
困った事態ではないかな。

選挙行かないのに政府に文句つける人いるでしょう。
あれ、ダメですよね。
同じ話で、NHKに受信料払わない、
という抗議行動があるじゃないですか。
あれはメチャメチャな話でね。
払ってない時点で文句なんか言えませんよ。
スジミチもなにも、あったもんじゃない。
(頭から払わないというのは、観なければ
 ひとつの見識だと思いますが)

これだけ情報が溢れてても相変わらず
大手マスコミは大本営発表。
60年前から進歩一ミリもなし。
カザフやシリアみたいな弱国相手のフレンドリーマッチで
何万点獲っても実力なんか反映してるかっちゅーねん。
おそろしい話ですよ、
サッカーファンならみんなわかってる。
ジーコジャパンがどれほど危うい存在かを。
ところが、ファン以外はみんな知らない。

情報に、ものすごい温度差がある。
本来それを埋めるべきマスコミは
全く機能しないどころか逆に働き、
インターネットはもとよりその差を拡げる一方。

情報も、お金と一緒で、
「持つものがさらに持つ」
という性質があるようです。
……ってまあ、当たり前ですけどね。
いい話持ってる人と話す時には、
できるだけいい話持っていきますからね。

となれば、情報化社会が発展すればするほどますます、
情報の取り方・持ち方・使い方、
要するに「ものの見方」に、
各人なりのやり方が必要になりますね、
というかなってますね、
と。

ま、難しく考えなくても浪花のおばちゃんのように、
「こんなんどない使うたらええかわからへん!」
「うわ!それ高いわ!」
でええと思いますけども。
あれはあれでディフェンシブながら強力なシステムでね。
負けない。
発展性はあんまり無いけど。

---

ほいほい。
それはそれとして、今回の主眼とは別に、
説得力として、やっぱり「ほおら!」が欲しい。
自分のやってること(文章作成ですな)について、
最後の鎖、わっかひとつ、
これが見つからない。
で、うんうん言うてるわけです。
あとホントにいっこ、って感じなんですけどねえ。
その鎖自体がすごい大切なもの、っていうわけじゃなくて、
その鎖がどこかとどこかを繋げてくれると、
全部開通する、っていう感じです。

世の中のモノっていうのは、
結構こういう感じでできてるモノが多いような気がします。
確固たる無駄のないシャープな構造体ではなく、
テキトーにエーカゲンに組み合わさってて、
なんとなーくお互いに融通しながらなんとなく動いてる。
すごい冗長性があって。
日本の企業組織とかは、そうですな。
たぶんトヨタみたいにめちゃくちゃ調子のいい大企業でも、
ものすごい無駄が一杯あると思うんですけど、
その無駄は実は無駄ではない、というか……

余談ですがトヨタ本社って
「テプラのテープ代」が月に2000万かかるらしくて、
さすがになんとかしようという話になったとかならないとか
聞きました。もうだいぶ前ですけど。

あ、違うかな、
「いい無駄わるい無駄」
とか。
いい無駄、っていうのはイメージとしては別種ネットワーク。
異業種や異世代の親友とか。
悪い無駄、っていうのは、単なる冗長や行きすぎた特異性、
同じ思考の単純反復やヘラジカの角です。
どっちも直接本丸に関わらないんだけど、
いい影響を与えたり、悪い影響を与えたり、
してますよね。

ネットワーク化、というのは、
詳細観から少し離れて全体観を得る、
ところがポイントですから、
全体観を得るに近い無駄がいい無駄、なんでしょうね。
詳細極めていくのは、ネットしなくてもできることで。
(むしろしない方がいい)

その辺がヒントかなあ、と思います。
総合化、というか、
別のネットワークをひっぱってくる感じ。
それが新しさとか驚きとか可能性とか、
そういうものを生むんじゃないかな。

いい友達と語らうのがとてもおもしろいのは、
みんなそれぞれ別ネットを持ってて、
どばーっと膨らむからですね。
そういう文章、ってのを実現できればおもしろそうだ。
結局それは、たとえばnagata.netなんですけど、
「自分」じゃなくて「自分のネット」という感じですね。
「いやこんなことを聞いたんですけども」
みたいな。

……それって「ほえなが」じゃん?
むーん。そうかも。
あいや、こういう直接的なものじゃなくて、
もうちょっと練り込まれた感じ。
これはおさしみみたいなものですから、
ちゃんとした料理にしないと、ねえ。
(刺身が料理じゃないというと板前さんに怒られますが)

いや、もうちょっと違うか。
意味のネットがキューッと圧縮されてたくさん詰まってて、
人によってそこに触れると、
それが一気に膨らんで爆発するような。
相性のいい本読んでると、
思考や想像が膨らんで、
なかなか先へ進まないじゃないですか。
あれ。あんな感じ。

それは含蓄深い人間性が無いとダメ?
いや、それはそうなんです。
そうなんですけど、そこをシステムの力で
誰にでもできちゃうようにしてしまうのが
科学ってヤツでね(笑)

たぶん、わかってしまえば
すっごい簡単なコツだと思うんです。
自転車の運転と同じで、寝ててもできる程度の。
ヨガみたいに、大変じゃないけど
凄い負荷掛かってる感じ。

脂の乗った作家さんが鬼みたいなペースで
作品発表するじゃないですか。
あれは、「自転車に乗れてる」んだと思います。
「どこまででもいけますよ〜」
って感じだと想像します。
乗れない人間にすると、まるっきり信じられない。
けど本人はぜんぜん苦でもなんでもなく、
むしろ「風がさわやか」とか抜かすわけですね。

ああ、乗りたい(泣)

それはなんじゃらほい、なんじゃらほい、
と思いながら、今日もこんなものを書いてます。
言わんでもいい蛇足を加えますと、
これはどの分野でもあることで、
たぶんそれを掴んでる人は、
らく〜に凄い果実を得てるわけですよ。
悔しいじゃないですか(笑)

そういえばスティーブ・ジョブスがMacを作った時に
「自転車」と名付けようとしてみんなに泣いて止められた、
という逸話がありますね。
やっぱあの人は間違ってるけど合ってる。
すごいわ。

たぶん、これもまた何段階もあるのだと思いますが、
とりあえず死ぬまでに一段は登りたい。

ごちゃごちゃ言う前に鍛錬が足りないのは認識済み、
がんば……というか、
とりあえず自分の努力でも神様のイタズラでも
なんでもいいからとにかくさっさと降ってこい、
というのが最近の気分です。



 2/12 弘法筆を選ばず

などといいますが。
これはもちろん、弘法大師(空海)ほどの達人になると、
「どんな筆でも素晴らしい書が書けた」
という意味なのですが、
もひとつ意味があるかも。

それは、
「筆にあった書が書けた」。
つまり、その筆に合った書がパッと閃き、
たぬき筆ならたぬき筆、ウサギ筆ならウサギ筆、
柔らかいの固いの太いの細いの、
その特性を生かした書が書けたんじゃないかなあ、と。

こりゃなかなか簡単じゃないですよ。
「道具選ばない」ってだけでも簡単じゃないですよね。
トッププロでも道具うるさい人が多い。
というかほとんどそう。
自分の能力が出せる、という面と、
安心できる、そこに不要なエネルギーを使わなくていい、
という面、両方あるのでしょうけども。

え? わたし?
最近ねえ、道具欲が抜けてきましてねえ。
こりゃ空海力が上がってきたんじゃないかと(笑)
それは冗談ですが、
文章ってのはそもそも抽象化が極めて高い技芸なので、
ま、文字識別さえできりゃいい。
あ、というよりもですね、
「どんな環境で読んでもステキ」
というのが、本来いい文章なわけです。
フォントやサイズや閲覧メディアを問わず。
いい音楽はアカペラで聴いてもラジオで聴いても
CDで聴いてもいい音楽でしょ?
ちょっと環境が変わったぐらいで違和感ある文章
書いてては、いかんのです。
てなわけで、逆に、
「こだわらないように」とこだわるようにしました。

もちろん、でかい液晶モニタとか純粋に欲しいですけど……

まして一歩進んで、
「道具のクセを生かした芸を魅せる」
なーんてのは到底遠い遠い彼方。

……というよりも、結局同じことなのかな。
昨日の「最小の努力で最大の効果」じゃないですけど、
ポイント、肝の肝をグッと掴んでるから、
どんな道具を用いてでも、どんな芸でもできる。
応用範囲がバカに広いわけです。
道具側にも、アウトプット側にも。

そーそー、絵がほんとに巧いヤツって、
なに描かせても巧いんです。
巧いというか、「それ」に見える。
アムステルダム・ゴッホ美術館で、
習作のジャガイモの鉛筆画見て感動しました。
どう見てもゴッホで、どう見てもジャガイモなんです。
あれもポイント掴めてるからでしょうな。

ポイントのまったく掴めとらんわたしは、
今日も暗闇の中部屋の灯りのヒモを探すように、
ぶんぶんと両手を振り回しているのです。
(振り回すだけでも、一生懸命振り回せば、
 まぐれで当たることがある)
今は、「あ、俺はぶんぶん両手を振り回してるのか」と
理解したところ(笑)
ヒモさえ掴んで、電気がつけば、
話はガラッと変わると思うんですけどね。
……球切れてたりして。

ま、道具なんかどうでもよくなるぐらい、
ポイントをつかめ、ってこってすな。

ともあれ、こういう立派な人と、
一度しゃべってみたいものですけどね。
「タイムボカン」シリーズのフォーマットって、
その辺の憧れとかもうまく吸収していたのかな。



 2/11 最小の努力で最大の効果

こないだテンセグリティについていろいろ見てて、
そのフラーさんの言葉で一番ハッとしたのが、

「最小の努力で最大の効果」

これです。
さすがアメリカ人、いいこと言う。
え? そんなの目標としては当たり前じゃん?
え? ながたさんそういう「効率主義」とか嫌いじゃん?
えとね、違うんです。
皆さんが今想像されてるのは、
効率主義・コストパフォーマンス至上主義、です。
それとはぜんぜん違う。
後ろの方よく見てください、「最大の効果」。
つまり抜群の結果が出る策を探れ、と。
すなわち最高の案を練るのだ、と。
効率主義とは、
「同じ努力でよりよい結果」もしくは
「少ない努力で同じ結果」を求めるものです。
志がまったく違う。
返す刀で前の方も見てください。
「最小の努力で」
しかも使うエネルギーは極小にしろ、との無理難題。
むろん、効率主義とは全く違います。
結果さえ良ければエネルギーブチ込んでもいい、
とは言わない。

両極端、二つの視点を、しかもゼロから組み立てろと。
究極の成果を生み出すには、どうすればいいか。
寝ててもそれができるには、どんな知恵が必要か。

難しいですねえ。
でも、これぐらい難しいと、既存のやり方を改良したり、
8時間働くところを10時間働いて、
なんてやり方ではぜんぜん間に合わない。
その混乱と制限から、全く新しいなにかが生まれる……
かもしれない。
現実はそう甘くなく、容易に効率主義に堕するのですが、
ま、それでもボンヤリやるよりはマシですね。
「全く新しい視点」を得るための心構えとして、
いい念仏だと思います。

僕は割と自分に酔っぱらう方なので、
「一生懸命やってる!」
とルームランナーを踏みまくることが多いのです。
それとは真逆のこの考え方、いいなあ、とね。

最小の努力で最大の効果。



 2/10 ああ北朝鮮戦

さすが神様、神様が憑いてる(泣)

ここ分けで終わったら
「もうダメだ」と言おうと思ってましたが、
勝ててよかった。ホントに。
あっ、勘違いしちゃダメですよ、
この程度の相手にホームなんだから勝って当たり前で……
(以下130行省略)
ああ。とりあえず勝ててよかった。

ずっとこんな調子なのかな(泣)
えらいエンターテイメントやな(泣)
映画観に行くより面白すぎる(泣)
しかもタダ(泣)

いやほんともう、われわれは、
こんなドキドキを味わわせてくれる
二人の神様に感謝しましょうよ。
もうほんとに、イヤミとかじゃなくて、マジで。
こんなのをあと5試合も楽しめるんですよ!?

うわーん。

一次予選、アジアカップ、そしてこれ。
山本権兵衛は明治天皇に
「東郷は運の良い男ですから」
と推したそうですが、いや、ほんと、
指揮官の一番大事な性能は運じゃないでしょうか。

我々は歴史の目撃者ですよ。



 2/9 ラブコメの日(ドラマ編2)

昨日の続きをば。

もちろん百貨店では書籍コーナーで。

「あっ、『ミラクルズ!』とかどうかな」
「エー、ヤだよそんな甘ったるそーなの」
「ラブコメは甘ったるい方がいいと思うんだけどなあ」
「虫歯になりそうだもん……あ、でもあんたがいいっていうなら、別にそれでもいいけど」
「僕はなんでも。君の好きなもので」
「そんなのダメだよ、あんたが選ばなきゃ意味ないじゃん。いーよ、あんたの好きなので。あたし、ラブコメとかあんま読まないし」
「あ、そうなんだ、じゃやっぱプレゼント止めようかな」
「あっ、あっ、ででも貰ったら読むよ? ちゃんと読む」
「ほんと? でも押しつけてるみたいになっちゃ」
「いいから選べ! そしてちょだい!」
「……はいはい」

そして中に入ってるCDショップを物色。

「あ、このラブソング集いい感じ、あんまりこういうの歌わないアーティストが並んでるー」
「どれどれ……あ、いーねー、CDでもいいね」
「試聴してみよっか」
「うん……っていいよそのイヤホンと違ってヘッドホン半分こって難しいから僕あっちの機械で聴くから」
「同じの聴かなきゃダメじゃん!」
「だからあっちの機械でも同じCDがだな」

一階には宝飾品ブランド店が入ってます。

「ねねね、テハニーいこテハニー」
「えー、あからさまに冷やかしだとわかるから止めとこうよー」
「いーじゃない購買力の無い若い時から刷り込んでおくといざ金握った時に買いに来るのよ」
「なんで店側の論理に立ってんですか。
 ここはあれだよ、ファンシーグッズ屋の500円ぐらいの指輪買ってもらって感激するところだよ。
『……あなたに買ってもらったものだから』」
「あはーはーはーはーはーはー! どこの安物のラブコメですか、今時そんなもんでそんなこと言う女が居たら、あたしが首絞めてやる」
「じゃ今僕にもらっても嬉しくない?」
「…………うれしい」

2時間ぐらいかけてようやく地下食料品売り場。
もうこの頃になると彼氏の左側面と彼女の右側面が全面ぺっちゃー貼りついてるわけです。指どころか腕中こんぐらがってるのですが、これを前後に振ると隙間ができちゃうので、身体の前で左右に振る。二人三脚のように歩く。

「……あ、あのチーズもおいしそ!」
「試食荒しですか」
 ぱく。もぐもぐ。
「ん。いけるいける。ほいほい」
「む。……よこしなさい恥ずかしいから」
「いいから口を開けろー半開きに開けろー」
「しょ、しょーがないなもー……あ」
ぽいっ。……ぱく。……もぐもぐ。
「ん。なかなかだね。……んー、じゃこれとか」
「む。……い、いーよー」
「報復だ」
「う、うー……こ、これ、する方はいいけどされる方はめちゃめちゃ恥ずかしいね」
「いいから口を開けろー半開きに開けろー」
「ううー……えい、ぱく」
「あっ、反則」
「ふふん、もぐもぐ」
「放り込むところがいいんじゃないかー、もー」
「……ん。じゃね、
 ……マ、マックとか、行きますか」
「マック?
 ……ひょっ、ひょっとしてフライポテトですか」
「しかもL」
「う、うひー……え、越後屋、お主ワルじゃのう」
「お代官様ほどではございませぬわ」
「よし行こう! こんなものは気合いだ!」
「ねね、差し向かいがいい? 横並びがいい?」
「どっちがいい?」
「ん〜……両方」
「ばっちこーい!」

そして『SPAM』を買い忘れ、翌日もこのくり返し。


そんな青春の一ペエジをお手伝いしたいと。
……あれ? 視界が歪んできた。歳かなあ。



 2/8 ラブコメの日(ドラマ編)

昨日の続きをば。

「……えーっとさ、あの」
「な、なによあらたまって夏休みはもう終わったよ? ちなみに今週の金曜日が9日だけど」
「あー……その金曜日の件なんだけどさ」
「う、うん。べ、別に空いてるけど、あ、あんたのために空けてたんじゃないからね!?」
「あ……あ、ああ。えーっと、それなら話は早いくて、えと、その、要するにだ、あのー……本とか、受け取てもらえるとけっこー嬉しいような気がするんだけど」
「…………い、いーよ別に」
「そ、そか。やた。あ、ありがと」
「う、うん」
「……」
「……」
「……」
「……あ、あのさ、中はなにがいいの?」
「はい? 中?」
「具。おにぎりの」
「えっ!? そんなの作ってくれるの!?」
「バッ、バカ、声が大きい!!」
「あっ、ご、ごめん! う、うわ、まさかそんなことありうるなんて思ってなかったからぜんぜん考えてなかった」
「しっつれーな人ねえ。あたし、おにぎりはけっこー巧いよ?」
「握力すごそうだしね」
ゲヒッ。
「……ぅつー……べ、弁慶が泣いてます。びよびよと」
「もういい。粒ガムかなんか入れとく」
「そ、それはヤだなあ……あ、そうだ。じゃあね、『SPAM』でお願いします」
「へえ? すぱむう? 『SPAM』ってあの、豚肉のソーセージだかコンビーフだかわかんないヤツでしょ?」
「そそ。沖縄行ってコンビニで食べた『SPAMおにぎり』、これが美味くてさ!」
「はぁ……あんたも変わってるわね」
「そうかなあ。あ、いやそうかもしれないねえ。だって……」
「……な、なによこっちジロジロ見て。わかったわかった、それにするわ……って、でもそんなのどこで売ってるんだろ」
「駅前のデパートの食料品売り場なら、きっと」
「なるほどね。
 ……ん〜……ちょっと待って、それって高い?」
「一缶400円とか500円だったと思う」
「ふ〜ん……あ〜、じゃついてきて」
「は? どこへ?」
「デ、デパートに決まってるじゃない。そーんな高いの、あたしお金もってないもーん」
「あ、お金なら……」
「……」
「……あ〜……え〜……」
「……」
「……いこっか」
「うん。
 あっ、言っとくけど手なんかつながないからね!?」
「そっか〜……そりゃざんねん」
「あっ、あっ、ででもあんたが勝手にあたしの手取って引っ張ってくのは、あたしはし、知らないから」
「あ……はは。うん」
きゅっ。

(明日につづくんかい)



 2/7 ラブコメの日

大阪にもいいところがありました。
振り込め詐欺の全国金額シェアわずか1%。
おばちゃん達強すぎる。

節分の巻きずし丸かじりは、
もともと大阪の風習だったそうです。
(豊臣秀吉がどうのとか伝説がありますが、
 江戸末期あたりが発祥の模様)
ここ数年で全国認知度が急上昇とか。
お寿司屋さんがんばってますねえ。
豆ってほら、食べてもそんなに美味しいものじゃないし、
他のお寿司食べる口実にもなるし。
これ、やっぱりバレンタインや土用の丑の日のように、
当時のお寿司屋さんが仕組んだマーケティング
なのでしょうか。
季節感と食べ物、小さなイベント、
そこに若干の理屈づけをすると、
記念日一丁あがり。

寿司屋や鰻屋に負けていられません。
我々の商売にもそういう日を作りましょう。

題して「ラブコメの日」。
気になるあの子・あの人にラブコメ(メディア不問)
を贈る日です。
9月9日(重陽の節句)って比較的地味じゃないですか。
この辺で。バレンタインの裏。
ちょうどこれから秋、人恋しいシーズンですよ。
夏休み終盤の気怠さも吹き飛ぶ、
夏休みボケの予防にもなる。

本屋CD/DVD屋ゲーム屋が結託して盛り上げてゆくのです。
ほら、クリスマスにミュージシャンが
それ用CD出すじゃないですか。
あんな感じで、普段ラブコメと縁のないクリエイターも
手を出すのです。
生きておられたらたとえば司馬遼太郎。
ぜったい上手かったと思う。

理屈?
えー中世あたりのバスク人若神父とケルトの敬虔な美少女との信仰と愛に揺れ動きながら最後はハピーエンドの伝説かなんかをでっち上げてですな。
食べ物?
ラブ「コメ」の日ですよ?
新米食べるに決まってるじゃないですか。
恵方を向いて二人並んでおにぎりを食べるんです。
ラブコメを贈られた方がおにぎりを用意する。
そこにドラマが起きるわけです。

(ドラマ編は明日)



 2/6 クラッシュも

またわけのわからん話をしまーすー。

ずっと人の頭の構造、つまり「知」の構造は、
ネットワーク型だと思ってました。
ひとつひとつの情報が神経細胞、
その繋がりが軸索であり樹状突起である。
あるものごとについて「わかった!」っていう瞬間は、
今まで試行錯誤を繰り返し、長い経路を辿っていた
(長い時間が掛かっていた)情報伝達回路に、
直結もしくはバイパスみたいなのが形成され、
そこに電気が走る瞬間ではないかと。

このモデル、脳の物理的なアナロジーとしては
わかりやすいのですが、
なんとなくこれでは物足りない気がしてきました。

たとえば、ですよ。
世にある「情報」ひとつひとつに脳神経細胞がひとつずつ
対応してるとします。
(現実にはどうか知りませんよ)
それが情報のネットワークを形作る。
「リンゴ」を見れば、「赤」とか「リンゴ形」とか「apple」とか、
そういう情報細胞それぞれが興奮して、
リンゴ・ネットを形成して、
それが「わかる」になる。

でも、こんなことやってると、
たとえば「赤」っていうセルは過労で死んでしまいませんか。
四六時中発火してないといけませんよね。

そうしないためには、
「赤」という意味を、どこかのセルに追加してしまえばばいい。
つまり一回一回リンゴ・ネットを作るのではなくて、
リンゴ・セルを作ってしまう。
「赤」とかは、そこにもう内包してしまう。
「赤」本店は関知しない。

ネットで一度ずつ作ってた認識が、
セルとしてデビューする瞬間が、
「わかった!」じゃないのかな、と。

実物の神経細胞を、刺激が走るスピードって
すごい遅いんです。
数字忘れましたけど、基本的に化学反応なので、
とても「一瞬の」思考・判断で使い物になるスピードじゃない。
まして長い経路辿って細胞もいくつも通って、
とか言ってると全く間に合わない。

リンゴ専門の細胞が居るか、
もしくは細胞群だとしても、
「赤」本店からコピーされたヤツとか、
「香り」本店からコピーされたヤツとか、
リンゴ・ネット専任の連中が固まって発火を待ってる、
そんなイメージではないかな。

それも、物理的な形状としてはネットワーク型なんですけど、
論理的な形は単純なネットワーク型ではないですよね。
密度差がある。
現実のPCネットワークなんかもそうですかね。

んで、なにが問題かというと、
もしこういうシステムだった場合、
知識を入れれば入れるほど、
「既成概念」というガチガチなものを
取り込んじゃうことになるのです。
「赤」が内包されてリンゴ・セルが出来るとするなら、
リンゴ・セルをよそから直接輸入すると、
「白いリンゴ」というのは全く想定外のものになる。

これを、一から組み立てた経験があると、
「「赤」以外の色セルも取りうる」
という記憶が残りますから、
「白いリンゴ」も「ありえる」と余裕を持てるんです。
でも、頭から知識で「リンゴとは」を入れてしまうと、
「白いリンゴ」は出てこない。
リンゴ・セルにはそこの記憶(記録)は残ってない。
それを残さないことで高速化・効率化を図るのが
リンゴ・セルの役割ですからね。

知識によって「既成セル」を手にした場合生まれる
「固い頭」を避けるためには、二点。
・いつでもバラす覚悟と用意を忘れないこと。
・現場・現物にできるだけ近づいて、
 そのセルがどのようにして成り立ったかを追体験すること。

よく「頭でっかちは使い物にならん」と言いますが、
まさに使い物にならんのです。
知識だけの知識など、千変万化の現実の前には
なんの力もない。
それどころか現物の白いリンゴを見て「赤い」と言い張る。

特に子供さん相手でなくても、たとえば自分が相手でも、
「教育」というのは結局ここですね。

基本は
「ゼロからパーツ寄せ集めて専用セルを作る」
の繰り返しで、たまに楽するために・効率上げるために
「買ってくるセル」もある。
料理は、いつも材料から作るんだけど、
たまに煮豆の缶詰も買えば、
もうできてる冷凍食品を買ったりもする。
ただ、冷凍食品を自分の料理だと思ってはいけないし、
それが美味いとかよくできてるからといって、
それは自分の力でもなんでもない。
もちろん料理の喜びもないし、
誰かに誉められたらうつむいてもじもじするべきです。

現代社会には便利な材料パックはもとより
冷凍食品も溢れてる。
ヘタに料理するより、美味かったりするわけです。
圧倒的に簡単だし。
でも、そこには、「知」の喜びはない。
誉められようと冷凍食品出しちゃう人も多い。
それはね、見る人が見ればバレるんです。
また、レシピ集集めて喜ぶ人も多い。
(いやわたしもその気があるんですが)
悪いことじゃないですが、料理の腕とはなんの関係もない。

セル構築のスピードが速い人を「頭がいい」と
言いますが、それだけではダメで、
いつでもそのセルをクラッシュできる人、
その人が本当に「頭がいい」のです。
いや逆に、構築スピードが遅くても、
いつでもゼロ近くから組める人の方が、
強いのかもしれませんね。

この二つ総合して「思考力」という。
ここをこそ鍛えないと。
料理の腕あげるのに
「ニッスイのエビピラフ美味いよ」
という情報は要らん。
せいぜい使えるのは
「むっ、この炊いてるスープの隠し味はなんだ?」
と考える、その機会がある、そんな程度で。

今まで構築ばかり考えていましたが、
クラッシュもなかなか大変ですよ。
それは、自然の方向(身体が勝手にやってくれること)
に逆らう行為ですからね。
ただそろそろ意識してやらないと、
「古いオヤジ」になりそうで怖い。
古いものを大事にするのはいいことなんですが、
新しいものを取り込めないのは、
壊せないからではないかな。
そうなると、進化が止まるわけです。
おわり。

こどもと一緒に砂場遊びですかね。
砂山を「だーん」と蹴り壊す、あれを。



 2/5 センスなしおちゃん

アニメ関係のweb見てて、「FFXI」のキャラ選択画面の
モーション監修をしたのが、
「うる星やつら」の原画で有名な山下将仁さんだと
知りました。

どーりで変にみぞおちに入るモーションだと思ってましたよ。

結局、「動かすセンス」みたいなのは
2Dだろうが3DだろうがセルだろうがCGだろうが
同じなんですねえ。

よく考えると、わたし、なんでもいいんですけど、
自分で「センスがいい」と思ったことが、
生涯たった一度もない。
運動もダメ音楽もダメ詩もダメ演劇もダメ
色もダメデザインもダメつまり服もダメ、
味もね、鼻が悪いから実は微妙なところわからんのです。
だから濃ゆいの好きで。

センスって面白いもので、わたしは大雑把に人数比として、
いい:ふつう:悪い=1:8:1
だと思います。
ふつうの中でも上下ありますけど、
それは鍛えればある程度誤魔化せる。
僕のやってること見てもらえばわかりますけど、
全部知識と計算と経験で誤魔化してるんです。
だから、良くて「ふつう」。「いい」ではない。

「いい」っていう人は別格なんです。
ぜんぜん違う。
そこには段差がある。
以前にもおはなししましたが、中学の時に絵のうまい友達に
年賀状貰って、その絵見て
「ああ、これが『絵』ってものか」
と衝撃を受けて以来、それはよく意識して見ています。

どんなジャンルにも「いい」っていう人は居て、
そういう人見ると憧れるわけです。
どうしてこんなことができるんだろう、ってね。

でも最近、「待てよ」と。
センスいい人のやることって、
たぶんその人には説明できないですよね。
生でそういう性能を持ってるので、
「できない」というのが想像できない。
しかし、センス持ってないなら、
よく見てよく考えて、何がポイントか見極めて
そこを重点的に頑張って、力つけるしかない。
となれば、ある程度は説明可能である。
自分でも修正や改良がしやすいし、
それを誰かに伝えることもできる。
中途半端に最初から何か持ってるより、
そっちの方が可能性があるんじゃないか。

前向き過ぎてつんのめってますかね。

ただ、まあ、ものはなんでも考えよう。
そういう人は、選手としてはそこそこでも
コーチとしてはとても優れてるかもしれない。
得られないものを求めるより、
持ってる何かをどう生かすか、
そこを考えた方が建設的ではないか──
なんて思っちゃったりしたわけです。

とりえあずわたしは仕事的に
「ダサいけどおもろい」
ですかね(笑)
そう考えれば、それと「お洒落でおもんない」なら、
比べ物にならないぐらい前者が好きですな。
ちょっと病的なほど。
ははあ、あれは嫉妬か。
男の嫉妬は見苦しいので、これからはそういうものを見ても
ニコニコするようにします。

顔から転けてみました。



 2/4 テンセグリティ

「テンセグリティ」という構造を今日知りました。
こんなおもしろいものがあるなら早く言ってよ(笑)
ここここあたりが参考になるかも)

「おもしろい」というのをもし量で計るとするなら、
「どれだけ新しいネットワークを自分に連れてきてくれるか」
かも。
このフラーっていう考えた人も面白そうですねえ。
「宇宙船地球号」っていうフレーズは
この人が考えたそうです。
「ダイマキシオン」とか、概念を表す言葉がカッコイイ。

アメリカ人はこういうの巧いのよ。ホントに。
なんていうんだろ、演出というか、プロデュースというか、
エンターテイメント化というか。
量子力学の概念の命名とかもイカしてますよね。
NBAやNFLのショーアップ加減
(コーチのヘッドホンさえF1のそれより遙かにカッコイイ)
見てもわかりますように、
パリジェンヌが鼻水出るほどお洒落なように、
子供の頃から叩きこまれるんでしょうなあ。

余談でした。
あとわたしにとっては懐かしい
「カルロス・カスタネダ」なんて名前も出てきて微苦笑。
今となって冷静に見れば、
文化人類学的な知識と若干の体験を物語風にしてみたら、
異様にウケて引っ込みつかなくなった可哀想な人、
ってイメージなんですが、
初めて知った中学生の頃は(1980年代中盤)
結構新しかったですよ。
まだ世が(日本が)上向き前向きだったから、
ニューエイジ系は「ちゃんと眉唾」だったものです。
「こういう世界があるのか!」

でも日本人にとってはあの世界は、
割と免疫があるというか、
「自然との交感」みたいなことをさせるシーンで
ごっちゃらごっちゃらドンファン(精神的な師)が
細かい注意事項言い出すと、
「んなめんどくさいわけねえだろ」
とか思っちゃうわけです。
巫女やマタギを現物として知ってる我々はね。
そこが違和感になって、ハマらない。
本も一冊読んで投げ出しました。

ニューエイジ系は軽く囓ったのですが、
これ系の本は必ず読後感が爽やかではない。
「肝心のこと」が何も言われてないのです。

あたりまえだ、誰も知らないからね。

「知らん」ということを前提にせず、
知ってるかのように書くから、なにも伝わらないんです。
つまりこの人達は、
「自分がなにも知らない」という事実を知らない。
(もしくは忘れている)
簡単に言えば、バカです。
んなぐらいなら「キッパリ」でも呼んで上向いて
大声出してる方がはるかに役に立つ。

若者というのはバカ者でして、
だからもちろん自分がバカということは知らない。
だからシンパシーがあるわけですな、バカに。
で、引っかかる。
真面目な優等生ほど引っかかるのは、そこです。
「自分は知らないけど、誰かが知ってる」
と思う。
違いますね、誰も、何も、知らないのです。

だから若いうちはバカの方がいいんです。
「オレも知らないけどたぶんみんなも知らないだろう」
その方が、真実に近い。

……などとその頃の自分を笑いつつ。

もとへ戻ると、
わからんようなら、その書物には、
その時点で必要なことは書いてないです。
わかるように書けてない時点で失格なものもある。
物理学の理論書のように、
世界でわかってる人が3人しかいなくても、
現物がそのように動くならそれは真理でしょうが、
人間や社会を相手にする書物が難解であれば、
それはその時点で失格ですよ。
わからない真理は「その人にとって」真理ではない。

心配しなくたって誰も知らないんだって。
キリストだって釈迦だってちゃんと死んでんだから。

……空海は生きてるかもしれんとか言いますが。

なんの話でしたっけ?

そうそう、寒波来て家が寒いんです。
めちゃめちゃ寒いんです。
先週の日曜、新しいエアコンが来る予定だったのですが、
設置して試運転すると堂々の初期不良。
イエス!ノー・ムーブ壁の飾り!
ちなみに日立のです。
ちなみに日立のです。
ちなみに日立のです。

モンゴルの人々の住む、フェルト製モバイル住宅
ゲル(パオ)がとても温かいと聞きました。
なんでもモンゴルから東京に来た人が、
「寒くて」腎臓だか肝臓だかを壊したとか。
(もちろんモンゴルの冬はマイナス十数度になる寒さ)

日本の住宅は高温多湿の夏対応の伝統が長すぎて、
冬は寒いんです。(関東以南)
ウチの家なんか特に築が古いので、
「どんなに暖房しても結露しない」
という圧倒的気密性。
オイルクーラーではもちましぇん。

で、テンセグリティを見て、
なんか棒とロープと皮膜材をパタパタ組み立てれば
1時間ぐらいでできちゃう「インスタント住宅」
みたいなのがあるといいなあ、と思いました。
災害の時のも役立つし。というかインスタントでなくても、
こういう住宅だとあっという間に復旧しそう。
テント? テントってねえ、外乱にすっごい弱いんです。
あれはやっぱり緊急仮住まいで。

(確か)関東大震災の際、東京に来てた外国人が
「日本人は木と紙と土であっという間に家を建てる」
と驚いた、という話をどこかで読みました。
ゲルって今でもウランバートルの都市部でも現役で、
ちょっと中心を外れると「ゲル村」みたいなのがあって、
そこでみなさん生活しておられるそうです。
それはそれで、羨ましい生活体系かも。

引越とか楽そうだしねえ。
前に葬儀会館が建つなら逃げればいいしねえ。
動かないエアコンを買わなくてもいいしねえ。

ま、もちろんそれは極端な話なのですが、
ああいう知恵を最新の技術と知識で蘇らせる、
それはカッコイイな、と思うのですよ。

……などなど、いろんなことが浮かびました。
テンセグリティの圧縮材のように。



 2/3 なんでもこーい

なんべんも同じことを繰り返すようですが、
「進歩への意志」こそが人間を人間たらしめている
ものだと思います。
だもので、縮小均衡・静的均衡を志向すると、
生きてるってことがものすごくつまらなくなるんじゃないかな、
と思うんです。

愛が深いほど哀しみが深いのですよ。
それは、悪いことじゃないのです。

「仏教的無常観」とか安易に言うから仏教も迷惑してて、
空海なぞエンタティナー以外の何者でもないですし、
親鸞もアヴァンギャルド過ぎてこっちが照れる。
フラットになることは死を意味する、
それは昔からみんな知ってる。

タイタンの話を観て、同じことを思いました。
(単に「宇宙が流行りじゃない」てのも
 あるとは思いますけどね)

衣食足りて暇なら礼節でも磨けばいいじゃないですか。
やるべきことはいくらでもある。
「そんなの磨いてどうなるんだ」と返されるのは、
多様な価値観を提供できてない我々大人の責任です。
ピシッとした動作と丁寧な敬語がどれほど美しいかを、
伝えてない我々の。

30超えるとね、一世代回っちゃうので、
子供側から大人側に否が応でも放り込まれちゃうのですよ。
あたしだって子供でいたい。
でもあれだよ、最近結婚式場のポスターに出てる
新郎新婦、自分よりぜんぜん若い(泣)

責任は、果たさなあかん。
いろんな果たし方があると思うのですが、
わたしゃその、「いろんな『カッコよさ』があるで」と
伝えることかなあ、などと、
最近洋装一辺倒の式場のポスター見て思いました。

とりあえず、鬼でも福でもなんでも、ウチ!



 2/2 自分達は……

わかったわかった、トルシエにあってジーコにない視点。
「自分達は弱い」という視点ですわ。

俊輔とアレックスもそうなんですけど、より顕著なのは
小笠原と藤田という二人のMFで、
この二人要するに強いチームをコントロールして
同格以下を叩くには長けてるんですけど、
「格上を相手にどうやって身を粉にするか」
という視点があんまり無いんです。
そりゃそうですよね、強豪鹿島や磐田の主軸なんだから。

そして物見遊山の若手ドイツにボッコボコにされる。

中田(英)にはそれがある。
トルシエが中田のバックアップとして俊輔ではなく
森島を選んだのも、このへんですな。

選手起用もそうなんですけど、たぶんチームコンセプトや
採用戦術もそうで、
「アジア予選はだいじょうぶっぽいけど
 本戦ではなにもできないっぽい」
という以前からの感触の原因は、
その視点の欠落かと思います。
小笠原も藤田も、もちろんそういう戦い方はできると
思うのですが、たぶん指示は出ない。

神様にそういう視点はありえない(笑)

ま、相変わらず選手のモチベーションは
すごく高いように見えるので、それが救いでしょうか。
それも指揮官の大切な技能ですしね。
そういうチームは、戦いながら成長して……
うーん。

戦いにおいては、「自分を知る」というのが、
ひょっとすると「敵を知る」よりも大事なのではないか、
と思う昨今です。



 2/1 ひとりごと

今月は書こう。

生活の時間とエネルギーすべてを何かにブチ込む
全開運転を100とするなら、
1月はそうですな、65って感じですかね。
目標は90、達成は80ってノリで。

最近覚えた「やりかたのコツ」のひとつとして、
「おもしろいうちに止める」
というのが結構いいtipsなんです。
そうするとね、次の日もすぐエンジン掛かる。
たぶん寝てる間とかも無意識が働いてくれてると思う。

1月にまとめてたのは、そんなやり方をしてみました。
トップパフォーマンス仏知義理からすれば
かなり時間掛かりましたけど、楽しかったし、
なによりかなーり楽でした。

1日120で走って翌日ゼロより、
80を2日並べた方がいい。
やっぱり、「休息」というのも非常に大切なんです。
脳の別部分使うこと、身体使うこと、あるいは眠ること。
いろんな休息が。

それじゃ効率悪いじゃない?
そこで「併走」ですよ。
1日の生産量が1/3なら、3本走らせればいいわけです。
(得意のトラタヌ)
あんた併走苦手って言ってたじゃん……
ま、成長もすれば退いや変化もするってことで。

そういう感じで、並べて走らせて全体パフォーマンスを
上げよう、というのが2月の狙いです。

---

あと、コレ(ほえなが)を書いてなんかやった気になる、
というのがやっぱりマズイと思いますので、
こっち気楽にやりたいと……
なんてことは半年に一回ぐらい言ってる気がする(笑)

どうしても客前では頑張っちゃう芸人さん魂が
ほんの少し理解できます。
そこで一人のお客さん喜んでくれるのが、
視聴率20%のTVに出るのと同じ喜びがあるんです。
いや反応ダイレクトな分ヘタするとそれ以上の。

ま、あいかわらずヨロヨロ行きますかね。




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