■ ほえなが ■

No dream is impossible. (アームストロング船長)

 3/31 input

本日は3/1から3/31までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)

■本■

 「太平洋戦争 日本の敗因2 ガダルカナル学ばざる軍隊」 NHK取材班 (角川文庫)

 「古の武術を知れば動きが変わるカラダが変わる」 (MCプレス)

 「身体から革命を起こす」 甲野善紀・田中聡 (新潮社)

 「ゴッホの手紙 中」 J・V・ゴッホ-ボンゲル編 (岩波文庫)

 「なめくじ艦隊」 古今亭志ん生 (ちくま文庫)

 「司馬遼太郎 歴史歓談U 二十世紀末の闇と光」 司馬遼太郎 (中公文庫)

 「司馬遼太郎が考えたこと 4」 司馬遼太郎 (新潮文庫)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 06 韓のくに紀行」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 07 神田界隈/甲州街道」 (朝日新聞社)

 「スピリチュアルな人生に目覚めるために」 江原啓之 (新潮文庫)

 「思考のレッスン」 (文春文庫) 丸谷才一

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実質8冊ですか、もっと読んでない気がしましたが。
「身体から──」
が甲野本としては現在ベストではないでしょうか。
よくまとまってます。
「手紙」は評価難しいところ。
ポツポツいいセリフ吐くんですけど、
手紙であるがゆえにS/N比は低い。
「上」の方がおもしろかったな。
毎日「俺の絵はもうすぐ売れるから金返せるから」と
夢想を語る兄を、羽毛でくるむように護る弟。
テオ、あなたは本当に偉い。

4月はもすこし古典に当たりたい。

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さてと。
今月はいろんなことを学んだような気がします。
本も大切ですが、やっぱり実体験以上の鍛錬の場は
ありませんね。

とりわけ、言葉というものの力を思い知りました。
わかってたようなつもりで、なにもわかってませんでした。
厳しい言葉一つで、今までやってきたことすべてが
台無しになることもあります。
優しい言葉一つで、「おや!?このひとは!?」と
見直すこともあります。
あたりまえのことなんですが、厳しい時ほど、
それが効きます。

逆説的ですが、言葉は本当は無力なんです。
力、知恵、金、コネ、
物理的なパワーで日常生活は動いている。
言葉など、糞の役にも立たんのです。
部屋に飾る絵と同じ。
なんの物理的役割も果たしてない、無くてもいい。
が。
だからこそ、最もパワフルなんです。
まったく同じ部屋でも、
ゴッホの「ひまわり」のある部屋と、
おぞましき悪魔が描かれた黒々した絵のある部屋では、
180度部屋の性格が変わる。
もちろん、その絵ひとつ見ることによって、
勇気づけられたり、落ち込んだりする。
誰もが居たい部屋になったり、誰も来ない部屋になったり。
大切です。
無力だからこそ、なによりも大切。

「こんなもの道具だ」とでも言わんばかりに、
奴隷のように扱っていた自分を猛反省。
すこしでも、ていねいに。

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おなじみ「ものの見方」シリーズでは
「前提」という考え方で切ってみた27/28日分が、
自分の中ではよくまとまってました。

「信じる」ことの力と強さ、
それを自分の中に湧き起こすにはどうしたらいいのか。

環境(特に周囲の人・言葉)に振り回されず、
自分を保つには、「自分をとりもどす」ことが必要です。
その手段として有効なのは、
読書、散歩、あるいは趣味の手業、
つまり「自分の時間」を持つこと。

寝床で妄想も悪くないですが、
内観と白昼夢は微妙に大いに違いますので、注意。

そんなことを、久しぶりのドトールで
ブレンドを飲んで思い知ったり。
難行苦行の果てミルクがゆもらって「うまい!」と泣いた
シャカの気持ちもほんの少しわかったような。
おおげさですね、すいません。

できることからパッパカやって、
大きな流れを呼び込みたい。
4人の守護霊と共に(笑)

さて、春ですよ。



 3/30 くるま雑談

ダッジ・チャージャー・ポリス仕様
が死ぬほどカッコイイと思うのはあたしだけ?
こういうの大事よ、大事。
やっぱポリースメンは子供が憧れる職業でないと。
もちろん、現職者も誇りと自信を持てるような。
日本にもR32・GT-RやFD3S・RX-7のパトカーがあり、
高速道路機動隊に配備され、
専用エレベータから発進するらしいですな。
そういうの、もっとアピールすればいいと思います。
カッコイイに越したことないもの。
「はたらくクルマ」は素でカッコイイしね。

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最近のアメ車の開き直りっぷりたるや、
見てるこちらが恥ずかしくなるほどです。
クライスラー300Cとか、フォードGT40のリメイクとか、
マスタングのシェルビーとか、
ちょっとこの京都議定書の御時世にどうなのよ、
というノーテンキ・マッソーが目白押し。
いや、あるいは世界がそうだから、
反動のようにして目をつぶっているのかもしれません。
無駄にジャバジャバ使ってる分、アメリカの方が原油高が
直撃すると思うのですが。
オイルショック直前の狂い咲きの再来でないことを
祈るばかり。

ちなみに。
20年クルマ見てて思いますが、
今世界で一番バラエティ豊かな、設計思想がまともで
工業製品として精度・信頼性に富み、手頃な価格なのは、
日本車です。
アメリカはご覧の通りですし、
イギリス・イタリア・スウェーデンはほぼ壊滅状態ですし、
フランス車は個々はいいとしてもバリエーションすくない
ですし、
ドイツ車はどのメーカーも変な方へ走りすぎてます。

ドイツが変になっちゃってる象徴はゴルフ5で、
あれみんな、「いいよいいよ」って言うんですけど、
ただ「いい」っていうだけなら、
アウディ買えばいい。
ゴルフは、「スタンダード」として考え抜かれて
作られているからこそ価値があるのであって、
上級志向持った瞬間にそれはゴルフではない。
それは4からそうだったんですが、
客がちゃんとそこをマイナスの評価しなかったから、
(つまり欧州人も日本人と同じで、
 カローラよりクラウンが偉いと思う人ばっかりだった、
 ってことです)
5でもっと酷いことになっちゃった。
4はまだ今にして思えば
「一生懸命作り込んだ結果オーバークオリティに」
というエクスキューズが効きましたが、
5はあきらかに間違ってます。

マクドナルド行って300円で黒毛和牛バーガー、
ってのはおかしいでしょ?
それはモスのポジションですよね。
しかもスタンダード・バーガーが無いときた。

だからこれ、日本車が90年代中盤、
つまりバブル絶頂期に企画したクルマがデビューする頃に
血反吐吐いて苦しんだ事態なんです。
世の中はしょぼくれちゃったのに、
ブクブク着ぶくれた(モノは悪くないけど)
ちゃらちゃらしたクルマばっかり出てきて、
なおのこと冷え込んだ。

BMWの次の3が全幅1815mmって、
NSXやオデッセイより広いじゃないですか。
限界を超えてる。
街で使えない。
「客の不満が(欧州では)ない」
とか言ってますけど、そりゃ欧州人が幅の広いクルマに
乗ったことないから、それがどんなにめんどくさいことか
知らないだけです。
それもね、90年代前半に日本で起きたの。
クロノス8兄弟にアコードにギャラン、
みんなして1700mm超えて、みんなしてそっぽ向かれたの。

あれですよ、今中国の経済地区で酷い公害が起きてる
(と風聞が伝わる)のとまるっきり同じ。
あと10年経ったら、今の幅広い欧州車はえらいことに
なると思いますよ。

人間ってな、バカなもんですね。
歴史はおろか、同時期のどこかで起きたことからさえ、
学べない。
「自分達は違う」とでも思ってしまうんでしょうか。

こんな混迷の時代に一番頼りになるはずの
メルセデスも、気が触れたように新シリーズを
次々にでっち上げ、もはやなにがなんだかわかりません。
ヴィトンのバッグかなにかにでもなったつもりでしょうか。
メルセデスっていうのはトレンドではなくトラッドで
あることが非常な価値だと思うのですが、
それを自ら捨ててなにか得るところがあるんですかね。

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……と、いいつつ日本車も
「総体としてはマシ」という話であって、個々で見れば、
たとえばホンダから「らしい」クルマがこれっぽっちも
出てこない寂しさとか、決して順風満帆ではありません。

ひとつ、キーになる動きとしては、夏からスタートする、
トヨタの「レクサス」店展開ではないかと睨みます。
いわばトヨタの上級ブランドです。
Panasonicに対するTechnicsみたいなもんですな。

アメリカでは大成功しました。
でも日本ではどうでしょう。

日本では、高級車が欲しい人というのは、
プロダクトとしての完成度よりもブランドとしての歴史や
知名度、満足感が欲しいわけですよね。
「レクサス」には、それらすべてがゼロなわけです。
極端に言うと、
寒漁村から立身出世、レクサス買って田舎に帰る。
「けんちゃん、それなんてクルマ?」
「レクサス」
「? 外車?」
「いや…………トヨタのもうちょっとええのん」
「トヨタか」
それだったら、
「マジェスタ。トヨタのいっちゃんええのん。
 クラウンよりええのん」
と言った方が早いですよね。

トヨタであることを隠さないとプレミアムは出ないけど、
トヨタであることを見せないと、なにもない。

「トヨタ・セルシオ」だからこそ存在する意味、
ってのがあって、それは
「レクサス・LS450」には無い。

クルマは、鞄や時計みたいにメディア煽れば
すぐポーンと反応が出て、極端言えば
1万人の関心惹けば商売になる商品ではないわけです。
浸透させるのに「10年勝ち続ける」ぐらいの
すさまじいエネルギーが要る。
だからこそアメリカでの15年の成功体験を持って
満を持して勝負を掛けるのでしょうけれども、
さあ、果たして日本人に通用するかどうか……

別に「失敗するに決まってる!」とか、
「こんなやり方よくない!」ってわけじゃなくて、
ただ興味津々なのです。
日本で客層を上下で切ったダブルブランドで
成功してる商品って、ちょっと思いつかないですよね。
むずかしいんですって。
やっぱり、従業員のメンタリティからなにから全部違う。
で、組織としてキッチリ分けちゃうと、
今度はシナジーが全くないから、
「なんでこんなことやってんだろ?」
ってことになる。無駄(冗長性)も飛躍的に増える。
二世帯住宅みたいなもので、
キッチンもバスもトイレも二個ずつある。

あと、なんといってもクルマは商品力です。
肝心のLS(セルシオ後継)が見えてこないので
はっきりとは言えませんが、
IS(アルテッツァ後継)とGS(アリスト後継)はずいぶん
ピンとこないクルマです。
飾り物のスーパースポーツもびっくりするほど
フック掛からないデザインで、びっくりしました。
「スーパーカー」っていうジャンル自体が
マクラーレンF1の登場を持って幕を閉じており、
エンツォもカレラGTも今やホンダや日産の新型ミニバン
ほどのインパクトも無いわけですが、
それにしてももう少しなんとかならんもんでしょうか。
正直、このラインナップで戦うとなると、
LSがものすごく良くないと厳しい。
今度は、トヨタ車(マジェスタ)も敵に回るし。

根性次第ですかねえ。
三河人は根性ありますから、やってのけるかもしれません。
消費者もほんと暴風雨のようなもので、
どこでどう動いて、どんな災害を引き起こすか、
まるで予測ができません。
10年後にはメルセデスよりプレミアムな
ブランドになってたりして。

それはそれで、とても幸せで誇らしいことです。

西陣織なり、老舗温泉宿なり高級料亭なり、
まあそれこそ法隆寺なり、
ジャパンオリジナル・プレミアムっていうのはちゃんとある。
クルマだって、自分達の作ったクルマが一番すばらしい、
と素直に思いたいもの。

お手並み拝見。



 3/29 生活再構築!

「中庸」とか、「吾唯足を知る」の手水鉢とか、
あれは
「ほどほどが一番だよ」なんて消極的な主張じゃなくて、
「いらんところにはエネルギーかけるな!」
という積極的な人生訓じゃないでしょうか。

今風の言葉で言うと
「生活リストラクチャリング」。
生活のリソース(資源)は決まってるわけです。
主に時間とお金とが限定要因。
それをどう割り振っていくか、
ここがとても大切ですよね。

で、なにが大事かはその人によるとして、
その大切なことのために、他のことは、
犠牲にするんじゃなくて、適当にする。
「積極的最小限」とでも言いましょうか、
「気を遣わない範囲で用をなせばOKとする」。

いくら食費切りつめるって、野草を採ってきて
天ぷらにするのは別のコストがたっぷり掛かってる。
でも知恵と工夫で200円料理を作るなら、
さほどエキストラコストはかからない。
そう、むしろそこに「楽しみ」というマイナスコスト
(利益ですね)が返ってきさえする。

一度ゼロから組み直してみると、
生活には驚くほど無駄があります。
結局、昼のTV番組の収納コーナーでも
赤字解消コーナーでも、
別段特殊な知恵で万事解決してるわけじゃなくって、
リセット掛けて最小限で組み直してる、のがメイン。

そうはいっても人間は、
いつの間にかどんどん着ぶくれしていきます。
モノだけじゃないです、サービスもそう、
知識も、体験も、人間関係も。
欲張りなんでしょうね。
そしてその欲が成長のエンジン(の一つ)であることは
間違いない。
あるいは、
ありとあらゆるモノが欠乏してた原始時代の記憶、
「いったん取り込んだモノは手放すものか」
っていうDNA刷り込みがあるのかも。

それが習性とするのなら、
それを直すんじゃなくて、むしろ利用しましょう。
逆に欲望を全開にして、
「すべてのものごとを、楽しく楽にやっちゃうには
 どうしたらいいのか?」
そう考えて、生活を再構築し、
最大効率で目的地にたどり着く。
これぞバッキー・フラー先生の
「最小の努力で最大の効果」です。

……この考え方でもの作ると、
いいものできそうな気がするんですけど。

創造とはよき再構築ではないか。
同じ一本の糸杉を見て、
ゴッホは誰にも真似のできない色、形、調子で、
キャンバスに再構築したわけですね。

そんなことを考えつつ、
頭はお湯で洗って、お風呂で歯を磨きます。
すこしずつ、すこしずつ。



 3/28 空ル.2

もうすこし続きをば。
さらに私的にドリーミーにまいります。

---

なぜ昨日のようなことを言い出したかと言えば、
最近、「空」な方の自分がよく出るのです。
数ヶ月前からぽつぽつ出てたのですが、
ここんとこしばらく出ずっぱりになったりする。

(こんなこと言い出すと二重/多重人格みたいですが、
 そうではなくて、どっちも経験も知識も記憶も
 もちろん性能も同じですよ)

そこで人生よくよく振り返ると、
うまく行ってる時はこっちが多い。
「空」だからうまく行ってるのか、
うまく行ってると結果として「空」になるのか、
因果関係はよくわかんないのですが、
対にはなってる、らしい。

しかも着心地は割といい。
とにかくスムーズなのです、すらすらっと無理がない。
あたりまえですよね、「空」だから。
なら、とりたてて脱ぐ必要もない。

この、「空」と「我」の行き来ってたぶん、
自転車の運転みたいなものなんです。
一度マスターすると、
理屈はわかんないけどできるようになる。
「帽子のツバを後ろに回して」みたいな特別な儀式なしでも、
割と簡単にできる……っぽい。

僕はまだ、自由自在な行き来はできませんが、
「今どっちだ」というのは意識できてます。
そこで、「我」の方でも、ぐっとこらえて時を待てば、
(ぜいたくに時間を使う/ぜいたくな時間を持つ、
 のがコツっぽい)
「空」の方へ変わりやすい……気がします。

変な表現ですが、手慣れたエロ本で興奮できない
自分がいる。
こいつはあきらかに「空」で、
興奮していたいつもの「我」じゃないんです。

というよりも、彼はその時、
「エロ本片手に唾をつけてページをめくる『我』」
という像を見ているだけなんです。
それじゃ興奮もなにもないですよね。

最もビビッドな感情のひとつでさえこんな勢いですから、
生活全般がすいーっと動いている。

「我」の方に変わるのはそんなに難しくなくて、
「怒ろうと思えば」人間いつでも怒れるものです。
悲しもうと思う、興奮しようと思う、笑おうと思う……

ちょっと変ですよね。
でも、そんなモードの時間が、長いんです。

こいつはすごくクールなヤツで、
思い起こせばいつも居るのは居る。
そいつの言うことを聞かない、無視する、
あるいは意見すら言ってくれない、
そんな時には痛い目に合う。
うまく行く時、っていうのは、そいつの言う方向と、
「我」が向いてる方向とが、結果であれ意識的であれ
合ってる、似ている時なんです。

だったら……
ちょっと、こいつにまかせてみようかな、と。

---

「流れ」の話で言いますと、
流れにぴゅーっと乗っちゃうのが「空」のやり方です。
流れとは関係なしに、
自分の行きたい方向へもがくのが「我」のやり方。
と考えると、
自分の行きたい方向へぴゅーっと流れに乗る、
には、両方の協力が必要ですよね。

人工衛星のスイングバイとか。
基本的に重力とか引力とかにすっ飛ばしてもらってて、
方向だけ小さなロケットをパッと噴いて変える。
これが「空」と「我」の関係のような気がします。

「我」って、むしろ抑えきるぐらいでちょうどよくて、
どうしても最後の最後に出てしまうものです。
好き嫌いとか、どうも居心地が悪いとか、
空気が合わないとか、舌に合わないとか。
だとすれば、意識するのは「空」の方なのかなあ、とか。

---

すいません、えらい抽象的で。

さて、生活全部まかせるわけですから、
もの書くのもまかせちゃうしかない。
その経験はない。だから不安。
……なのですが、でも他の活動の経験と結果から
類推すると、悪い結果は出ないような、気がする。

海音寺潮五郎が新人・司馬遼太郎を激賞して
「世間の連中はどうしてあの天才がわからんのだ」
とボヤいていた、とか。
司馬遼太郎は、徹底して「我」を消し飛ばすことを
意識し続けた作家です。
たぶんそこが、潮五郎に「違う」と思わしめた点では
ないでしょうか。
別に中身はどうだっていいのです。

「我」を張りたいからものを書く。
それでなおかつ「我」を消すように書く、
この矛盾を自分の中で消化するのは、
簡単なことではないのです。
遼太郎自身でも、「燃えよ剣」と「坂の上の雲」では
「我」の量がずいぶん違う。
(前者の方がずっと多い)

こんなこと言ってますが、
僕も全然「具体的にどうやっていいものやら」は
皆目検討つきません。
ただ、生活姿勢そのものが「空」の方なら、
まあ、結構な割合で書き物からも「我」が消えよう、
そんな甘い見通しがあるだけです。

と、ここまで考えて
「あ、やっぱ司馬遼太郎すごい!」。
どうして自分があんなに一生懸命彼の本を読んでるのか、
ようやく理解できたような気がします。
そこの姿勢を学びたい。
師匠のお茶を汲みつつその噺に浸るのと同じです。

彼のその姿勢は、天才でもなんでもなく、
意識と努力のたまものです。
だから悲鳴上げるように何度もエッセイに書いたり、
講演でしゃべってます。
「自分をゼロにするんだ」と。
まあだから、僕でもがんばりゃできるんじゃないか(笑)

その視点で見れば、
超一流アーティストってのは分野問わずそうなんです。
「我」がなくなったところから勝負が始まる。

つまり、「ほんとうにいいもの」を作るには、
どうしてもそうでなければならない。
必要条件らしい。
となれば、できるかどうかは別にして、
待ったなしでとりかかる必要がある。

そう、考えました。

---

そんな風にすごしてると、起伏のすくない、
おもしろみのない人間に見られるかもしれない……
なんて、若い頃なら怖れたかもしれません。
しかし今となってみれば、
「なんと思われようとしょうがない」とも思えますし、
わかってくれてる友人もたんといますし、
「とにかくなにかをなしとげるにはそれが必要だ、
 しょうがない」とも思います。

いや逆に言えば、
そういうクールでフラットなところを
突破して訴えかけてくるもの、
それこそが自分にとって大切なものではないか。
あるいは、せっかく「空」モードであっても
すぐ「我」に引き戻されるようなセンシティブな部分、
それが自分にとっての弱点、気をつけるべき点、
うまくひっくり返せば長所にもなりうるスパイクな部分、
ではないかな。

なーんてカッコよく言ってますけど、
今日も帰りに家の車庫の前に誰かのクルマが停められてて
ムカッと来ました(笑)
「なんで路傍はいくらでもあいてるのに
 よりによって人ん家の車庫の前なんだよ!」
そんな時はね、
「あのクルマを停めたのはネコだ」
と思うようにしました。

ネコなら、しょうがないですよね。

これ、イヌじゃ駄目ですよ、
「しつけが」って話になるので(笑)
あ、ネコ好きでない人には余計腹立たしいだけか。

そんな感じです。
偉人聖人になろうっていうんじゃなくて、
自分が適当にここちよく力を出せる、
そんな自分でありたい、と。



 3/27 空ル.
 
日曜日ですし、今日もダラダラと。

一昨日書きましたように、
二枚の「自分」がいると、自分の立ち位置を見つけやすい。
それはいろいろ有利に働く。

本生の自分、「我」の方はそのままだからいいとして、
問題は作った方の自分です。
これの作り方が非常に難しい。
方針無く作るだけでは、ただの虚像、仮面に過ぎません。
それは、作れば作るほど虚しくしんどい。

信仰では、神様仏様精霊、なんでもいいですが
万能人をイメージさせる。
となれば、「万能自分」「スーパー自分」
みたいなものをイメージすればいいのか。

でも、自分の「我」の方が、
「自分なぞ万能では無い」と知ってるわけです。
文字通り骨身に染みて。
だから、「万能自分」というのは、10代や20代前半なら、
つまり可能性がまだまだ溢れていた頃なら
夢見ることができますが、30超えると辛い。
ということは、それは正解にはしにくい。
栄養と同様、その時代にはいささか多めに必要なのかも
しれないけど。

で、最近よくよく思うのが、
「空」ってヤツ。
「空自分」とでも申しますか、要するに、
「今できる範囲でMAXカッコイイ自分」

たとえばですけど、
ちょっとしたことでムカッとしたとします。
「我」がポーンと反応しちゃった。
それを押さえきるのが、やっぱりカッコイイですよね。
やりゃできるんです。やりゃ。
だから、やる。
それが「空」の自分。
「ま、ま、落ち着いて落ち着いて。たいしたことじゃないから」
そうやって「我」を押さえてくれる。

「我」そのものを改良して、
「怒らない人間になろう」というのは、無理。
それは無理。
だって持って生まれたものだもん。
顔とか性別とかと同じ。
だし、怒れる人、っていうのは、
それをエネルギーに変えて激しく戦えたりするのです。
それを潰すことになってしまう。
そういうやり方は、よくない。

だもので、「我」の自分はそのままおいといて、
それをカヴァーする自分、「空」の自分、
こちらをうまく育てて、そっちにがんばってもらう……
というのはどうでしょう。

信仰がある人はそれでいいんですよ、
「神様が見てるからこんな悪いことはできない」
「いいことをすれば阿弥陀如来が見ててくださる」
それでOK。
でも、それが無いなら、その代わりの「なにか」には、
やっぱり「自分」が一番身近で手っ取り早くて、
使いやすいんじゃないかな。

それも仮面の一種ではないか、と言われれば
それはそうです、
でも、着心地がよい服で自分を覆って風と寒さを防ぎ、
見映え良く相手にも見心地よくする、
それは悪いことじゃないですよね。
すくなくとも、着る物や持ち物に
エネルギー掛ける分ぐらいは、
ここに掛けてもいいんじゃないかな、と思います。

最終的には、「空」と「我」と、
どっちがどっちかわからんぐらい混ざっちゃえば、
いいのかもしれません。
それはなかなか難しそうですが。

いや、最後までその二相が入り組みながら
時に牽制しあい時に協調しあってる、
それがいいのかもしれませんね。
「ムカッ」っていうのは、確かに毒ではあるんですけど、
正しいことでもありますよね。
電車で降りる人待たずに乗り込むオッサン。
「ムカッ」が無くなったら、それはそれでマズイ気がします。
ポンとピーク出て、すぐスッとフラットに戻る。
そんなセンシティブな方がいい。

生きていくって大変だなあ(笑)

ともかく、
「カッコよくなりたいなあ」と思ってるだけでは
いつまでもなれない。
「カッコよくなれるところ」からカッコよくなっていくのが、
一番近く早く正しいのではないですかね。

誰にも迷惑掛けない、どころかいいことだと思いますし。

---

あ、でもこれは非常に僕(ながた)的な考え方の
気もしてきました。
万人向けじゃないような気がもりもりします。

ま、そういう考え方の人も、世の中には居る、という
おはなしのひとつとして。

---

ついでに以下個人的な話。

「ものを書く」というのは、「我」を剥き出しにして、
テンション上げて、それを叩きつけるものだ、
と思ってました。
そうやって書いてきました。

別にそれは間違ってはいない、と思うのですが、
もうひとつやり方がある。

それがこの、「空」の方の自分、
「今できる範囲でMAXカッコイイ自分」が
COOL(笑)に書いてくれる、そういう書き物。

いやむしろ、「ものを書く」っていうのは、
本質的にはこっちで、
そこにいくらかの「我」を混ぜていく、
ものではないか。

抽象的に過ぎるので、絵画なぞに置き換えてみましょう。
絵を描くって、自分を描くことですか?
違いますよね、
自分は勝手ににじみ出るもので、
本質的には、ネコをオレンジを糸杉をアルジェリア兵を
描いてる。

なにをまた当たり前のことを?
いやいや、これはねえ、たぶん表現の人間は
結構見えてないような気がしますよ。

なぜなら、「我」を出したいから表現を始めたわけで。

僕が絵に置き換えるとわかりやすい気になるのですが、
たぶん若い絵描きさんだと、上みたいなこと言われると
「いや違う!」と言う。
「パッションをキャンバスに叩きつけるんだよ!」とか。
他人のことはよく見えるものです。

それじゃ楽しくない?
いや、逆です、考え方逆。
そうやって押さえに押さえてなお出てくる「我」、
そういう「我」でなければ意味も価値もない。

「相手が居る」からそれに受け入れられるためには、
こちらの「我」と相手の「我」をうまくすりあわせて……
みたいなことを考えたりもしましたが、
それは実は、結果にすぎない。
共通の言葉で語ってなお通じる自分の意、
そこに核がある。

でもそうなると、
書き方からなにから全部変えなきゃならない。
それで今、止まっているのです。

おそらく、ちょっとエゲツないほどクールにやらないと
いけないのかもしれません。

「この部隊全滅してもらって6時間稼ごう」
とか、そういう大局観。
最後勝ちきって、ようやく小さなガッツポーズひとつ。
そんな感じ。
局面局面の一進一退で一喜一憂してるようでは、
ひとつ大きな戦いはできない。
現場の兵士はそれでいいんですけど、
それでは、体験記は書けても、戦記は書けないわけです。
もちろん、戦記が偉くて体験記が低い、
なんてことは全然無いのですが、
体験記は結局、
「怖い」「しんどい」「腹へった」
になるわけです。
ガダルカナルだろうと、ヴェトナムだろうと、湾岸だろうと。
それでは、バリエーション出ませんよね。

一般的にも、クールになれてる、ということは
充分に客観視できてる、評価できてる、ってことで、
そうなればイメージをよく描けて、伝えられますね。
興奮している人の話は、聞きづらい。

気分のキーワードとしては「クール」でいいとして、
具体的にはどうなのかな。
「シンプル」とか、お馴染みの言葉が並びそうですね。
そこのところは、実戦でまた練っていきます。

テンションは上げなきゃいけないもの、
すくなくとも上がってる方がいいもの、
と思っていましたが、
逆に冷めてる時、フラットな時、
それはそれでいい状態ではないか、
いやむしろそっちの方がいいかも。
これもまた、極めれば両方をシームレスに
行き来したりできるようになるんでしょうね。
あるいは、どっちのモードでもアウトプットが変わらない。

ああ、これもでも、僕的な話にすぎず、
世にはまったく逆の、
「ものを書く時は知的に理性的に書かねばならんと
 思っていたけど、たまには自分を剥き出しに
 書くのがよいのかもしれぬ」
なんて頭ひねってる人もおいでかもしれません。
どうも書く物に血の気が通わなくて苦労してるような人。
……そういう人は、あんまりものは書いてないような
気もするけど。

ま、ちょっと「空る」にいってみよかな、
と次回作練ってます、てところです。



 3/26 ビジョン
 
イラン戦は……もういいでしょう。
つまりはビジョンもプランもなにもなく行き当たりばったり
ブラジル式が我らが神様代表なので、
(もちろんそれを放置(支持)したJFAにも
 ジャーナリズムにもサポーターにも責任は等しくある)
結果が出なくても手の施しようがない。

逆に言うと、何も変えなくても
また結果が出るかもしれない(笑)

強いて言えばもうちょい走ろう。
とにもかくにもがんばって。

---

それはそれとして、
もちろん次戦30日バーレーン戦(ホーム)、
勝てばなんの問題もなし。
ただ、負けた時どう動くか、これは考えておくべきです。

僕は、今から内々に候補に打診しておいて、
(してるかな?)
負ければ神様クビでいいと思います。

冷たいようですが、6試合で3試合終わって1勝2敗なら、
まだ立て直しは効く。
残り3連勝して(そして本来の日本の力なら充分可能だ)
4勝2敗ならたぶん行ける。
ですがこれが、4試合終わって1勝3敗、
つまり立て直しても3勝3敗までしか稼げない状況だと、
物理的に非常に厳しい。

負け方が、
本当に強い相手に今一歩及ばない、とか、
事故みたいな点を守り倒された、とか、
そういう負け方ならまだしも、
ただなんとなく負けてるので、擁護のしようがない。

「ビジョンが無い」というのはどんな場合でも辛いもので、
「次はだいじょうぶ」
と言われても信じられないんですね。
リーダーっていうのは、やっぱり、
それを見せる人、であって、
それ以外の性能はもうどっちゃでもいいんですね。
特によい参謀がついてればなお。

それ、ビジョン、は、
先天的に持ってる人も居ますが、
たいていはリーダーになってからひねり出すものです。
あるいは、それを掲げることで、
そしてそれが人々に受け入れられていくことで、
リーダーにまつりあげられていく。

人は、リーダーについていくというよりも、
そのビジョンについていくようです。

だから、それを見せたこともない人を、
いきなりリーダーの位置に置くのは、危険です。
もちろん、誰しも始めは新人リーダーなのですが、
ステップはどこでなりとも踏めるはず。
また、リーダーになったとして、
それが見えてこない人は、向いてない。
あるいは、あったとしても、それが周囲に理解できなければ、
(理解されえない環境に踏み込んでは)
結果としてダメです。

「この大将はこの戦に勝てる」もしくは、
「この大将ならば勝てなくてもついていきたい」
という安心感の大小こそが、
リーダーの「器」と呼ばれるものかもしれません。



 3/25 前提
 
守護霊についてなど生半可に書くものではなく、おそらく
「私はもっといい人ですっ!」
とヘソを曲げた守護霊チームに
バチを当てられるようにして風邪。

一人フランス人が居るような気がしてきた……

---

結局、「信仰」というものは、
「別視点の自分」というものを得られるのが、
一番のメリットではないですかね。
今あるコレ
──よく知る物理法則が支配する、因果律の世界──
ではない別の「前提」みたいなものがあって、
その前提で話を進めれば、
おや不思議世の中こんなにわかりやすい。

説明がつく=納得できる
ことほど、心に安寧をもたらすことはありません。
それすなわち、幸せという。

だから、その前提はその人が信じやすいものであれば、
なんでもいいわけです。
イエスからイワシの頭まで。
大事なのは、その前提の性能とか精密感などではなくて、
その前提を得て、
そこから自分を見つめる視点を得て、
で、どう動くか、どう生きていくか。

だもので、前提はまあ、なんでもいい。
他の前提へ必要以上に高い攻撃性さえ持たなければ。
いわばクルマのメーカーみたいなもので、
「私はトヨタで」「僕はホンダ」
そんな程度の話です。たまに
「ミーはシトロエンざます」
て人も居てね。
中には、クルマじゃなくてバイク乗る人もいるし、
自転車一本槍の人もいる。
だからってそれは劣ってるとかそんなことはなくて、
それはそれなりのいいとこあるものです。

ただ。
古き良き時代のそうした「前提」が、
大げさにいえば人類規模で、
技術と知識の増大により、現実とかなり苦しい乖離を
起こしつつあることは、
わたしが指摘するまでもありますまい。
「それはそれこれはこれ」ですまされないところまで来てる。

吊るしの洋服がしっくりこないなら、
オーダーで作るしかない。
つまりその「前提」をこそ、
「自分で作る」ことが必要になる……
と思うのです。
作るというか、見出すというか、構築するというか。
イコール、「ものの見方を作る」。

自分の生の生物体を離れた視点。
イエス様の目であり、大日如来の目であり、
精霊の目であり、イワシの頭の目であり、
それらを、自分の中にとりこみつつ持っちゃう。
取り込み方はなんでもいいと思うんです。
好きな要素を世界中から適当にトッピングして、
取り込めばいい。

そして、日本人はそれが非常に巧い。
結局仏教も儒教もキリスト教も、くちょくちょにして
呑み込んでますよね。
そのくせベースに八百万神信仰がバッチリ未だに通ってる。
よく言われることですが、
神棚と仏壇のあるリビングでクリスマスケーキ喰ってる
っていうのは異常事態ですよ。
でも、結果から見れば、
「それで幸せならそれでいいじゃない」。
信仰の目的というのは、結局はそこで。

自分の信仰を自分の中に作っていく。
これを一般化・普遍化して広めることができれば、
(できれば世界規模で)
空海や親鸞など小僧呼ばわりできる
大宗教家になれますよ(笑)

もちろん大素人なので聞きかじりで
ぺらぺらしゃべり続けますと、
プロテスタンティズムとか浄土真宗は、
つまり絶対者と1ON1での関係を確立するものですよね。
教団教義仲介者の類を持たず。
さらにそこから、
絶対者の相対化というか、
自分の中に絶対者をとりこんでしまうというか、
そういう信仰形態があるのではないかな、
と思うのです。
その取り込まれた絶対者とは、おそらく、
客観視している自分。
「我」である自分を、離れたところから見つめ、
冷静により正しいと思われる道を指し示すことができる
自分。

まあ、難しいんですけど。

ただ、政治システムだって徐々に進歩して
なんとかかんとか民主主義に辿り着いたわけだし、
経済システムだって徐々に便利になったわけだから、
生活に密着している認識システムも、
進歩しないはずはない、とも思います。

トヨタかホンダか、でケンカするほど
バカバカしいことはない。
「同じクルマじゃん」という視点があれば、
そんなケンカは避けられる。
だから。
子供達には、トヨタ車の作法を教えるのもいいのですが、
他のメーカーが世の中にあるという事実はもちろんのこと、
一歩踏み込んで、
「これはクルマという移動手段だから、
 身に合わなければ別のクルマを使っても、
 あるいは自分で作っても、
 いいのだよ」
という点を教えていく……
という勇気が要るんじゃないでしょうか。

世界がこんなに狭くなったのだから。

---

なにかを畏れれば、
自分を正しい位置に導きやすくなる。
それが結局、謙虚にも自信にもつながるように思います。
あと成長にも。
親や社会システムや神様がそれをやってくれないのなら、
やってくれても信じられないなら、
自分がやるしかないでしょう(笑)

「サムライ」の真髄は、
「客観化した自分が、我としての自分をも殺すことができる」
という一点ではないですかね。
「死ぬことなりと見つけたり」
殺してるのは誰かといえば、これもまた自分です。
この崇高さと凄みが、耳目をひくのだと思います。

もちろん、二つの自分の相克が無ければ、
ただの安っぽい狂信者(作った方に酔って我を失う)か、
ワガママ自分勝手(ただ我を剥き出しにしている)
にすぎません。

それはしんどい?
んー……とでも、「自由」というすばらしいものを
得たわけですから、それに対するコストは払わないと。
日曜ごとに神父さんのお説教聞くのなら、
そんなコストは要りませんけど。
そこは、お好きな道を選べば。

---

それはともかく、
世にはいろんな「前提」があります。
せめてその事実は忘れず、動きたいものです。



 3/24 守護霊たち

古い友人とともに。また司祭とともに。

「僕がモテない理由がわかったよ」
「ほう」
「昨日、スピリチュアル・カウンセラーの本を読んでたら」
「だからだ」
「オチを先に言うな」

ヤだよね、古い友達は。

今をときめく江原啓之先生によると、
守護霊は、役割別に4人居たはるそうです。

・主護霊……メインでついててくれる担当さん
・指導霊……職業や才能を指導してくれる先生
・支配霊……出会いや環境など運命を支援してくれる方
・補助霊……以上3人のお手伝いさん

さしずめわたしですと。

指導霊は平安時代の若き女流作家ですな。
仲間うちのウケは割といいんだけど、
器用貧乏とネタの細かさと単純さで
紫やキヨや和泉ほど波に乗りきれず、
そんなこんなで死ぬまでシニカルだった宮廷女官。
ちょっとつり目のネコ系で、言うことキツめ。

支配霊はイラチで慌てん坊の
女旅芸人あたりじゃないですかね。
プチ阿国みたいな。踊るし歌うし鉦も叩くし寸劇もやる。
好奇心だけは旺盛で、見聞は広いんですけど、
それがゆえにまるっきり腰が定まらない。
それとやかましいんですよ。とにかく。
しゃべりだすと止まらない。言いたいことがありすぎる。
でもきっとちっちゃい可愛い系で、
居るだけで華、って感じ。

補助霊は6代ぐらいまえのおばあちゃんかな。
仕事は今で言う看護婦。
思いやりはあるんだけどありすぎて、
絶対もの食べちゃいけない患者さんに
かりんとうをあげちゃうダメ看護婦。
患者さんは天使(観音様か)を見ながら喉詰まらせて
死んでいくわけです。
ぽっちゃり太めで大柄の〜んびりタイプでしょうな。

肝心の主護霊ですが、
400-700年前の先祖がついてくださることが多いそうです。
南北朝時代から関ヶ原までですか。
まさに武士の時代ですね。
どこかの小さな大名の部将みたいな人の奥方かな。
「今度は勝ち馬に乗って欲しい」
と思いつつも、
「でもそれがこの人のやりたいことなら」
と笑って送り出すタイプ。
僕を見てる時もいつもそうで、
「あー……そっちは……
 でも、和久さんがやりたいのなら」
耐える、とか尽くす、ではなく、見守ってくれるタイプ。
まあ、ウチ(といえばミラクルズ)のキャプテンですな。
あればっかりは理想像でもなんでもないんですけど、
すらすら書けますゆえ。
書かせられているに違いない(笑)

以上4人が普段、
まるで違った方向にひっぱりあってるのです。

「和久は絶対今はバリバリ書かなきゃならないのッ!」
「あに言ってるんだよ、せっかくヒマなんだから
 いろいろ見に行かなきゃ体験しに行かなきゃ、
 旅だよ旅!」
「でも、のんびりするのもいいですよぅ〜
 温泉でもつかって、おいしいもの食べて〜」
「ま、和久さんのやりたいようにやれば……」
「だからあんたいつも甘すぎる!
 ここはケツ叩かなきゃダメだって!」
「そうそう! 東京いこ! 札幌いこ! 名古屋いこ!
 長崎いこ! フロリダいこ!」
「まぐろにビールに味噌カツにちゃんぽんに……
 えーとジェリービーンズ?」
「でも……」

も、バラバラ。
そんな彼女達が一致団結して立ち向かう外敵こそ
現物の可愛い女の子
なわけです。

「大変だよ! こんな可愛い子が
 和久の『運命予定表』に!」
「「「阻止ッ!!」」」

近づいてくれば道筋など変えてかわす。
接触すれば環境を変えて遠ざける。
いい感じになればぶっ壊す。

あっはっは、そりゃモテませんな。
納得納得。
そーかそーか、僕のことを想ってくれてる
守護霊達のせいともなれば、
怒るわけにもいきませんなあ。
あっはっは。

「……すいませんねえ、高校時代はもうちょっと
 まともだったんですけど」
「やかましい」

ヤだねえ、古い友達は。



 3/23 クルマ対大阪

大阪人の公意識の低さは
生粋の大阪人でさえめまいがするほどで、
一例を挙げれば、
混雑する場所にいけばいくほど
路上駐車車両が多くなります。
(一般傾向かな?)
ボトルネックがさらに絞られるわけですな。

それ故にか、大阪という街は
実にクルマでの移動時間が読めない都市で、
行って乗せてもらって感じるに、
東京や名古屋の比ではありません。
混んでいても混んでいるなりに、
「1時間掛かるな」と読めれば動きやすいですが、
1時間掛かると読んで20分で着くと、困る。
あと駐車場が本当に無い。
(だから路駐せざるを得ない)
これも首都圏・名古屋圏とは比較になりません。

駅前のロータリースペースなども実に
細かく厳しく設計されており、
場合によってはタクシー・バス専用で、
一般車両の降車場すら設けられていないことも。
(これ本末転倒のような気がするのですが……)
お使いになった方ならご存じだと思いますが、
大阪の玄関口である新大阪駅にしてからが
そうですね。
また大阪人は降車場で平気で人待ちするので、
また詰まりに詰まる。
というよりも駐車場がたいてい果てしなく遠いので、
人情からしてそこで待ちたくなる。

人情といえば、
ここで大阪人の公意識の低さがあからさまになり、
ウチのまま上なども
「パパは駅の近くまで行ってくれた」。
ウチの父は地下鉄長居の交差点、曲がってすぐで
(つまり交差点の中心部)
停車して下ろしてくれたものです。
わたしゃそんなことようしません。
まま上、自分免許も持ってるのに平気で
そう言うわけです。
我が家だけじゃなくて、大阪の人間は
クルマをバイセコーかなんかと勘違いしてます。

ともかく、大阪はクルマという移動手段にとって
かなり厳しい都市ではないかと思います。

しかし、こうした状況を力尽くで解決しようとしても、
・古い都市であるがゆえにもともと「道」に使っていた
 スペースが狭い。
・クルマ社会にアジャストしたのが70年代であるがゆえに
 対応部分も規格が古い。(狭い・小さい・すくない)
・高齢化と生活の変化でクルマの量は減らない。
・もう金はない。
という四重苦が待ちかまえている。

でも逆に言えば。

この大阪にしてうまくいく
「クルマと都市の共存の姿」
を見つけることが、開発することができれば、
それは世界中の都市への福音に
なるのではないでしょうか。

でっかい改革はいろいろ難しいですから、
まずは今あるインフラを徹底的に使いましょう。

交差点直近での駐車車両は中身確認ののち爆破。
あ、いやその場でネットオークション。
これが活動費(飲食代)になると言えば
大阪府警がんばりますよー。
あるいは駐車違反は全部web晒し。
代理人立てて逃げられないように、
登録から車両の使用者も同時にweb晒し。

カネか名誉かなにか掛けさせないと、
大阪の人間は動かない。
合理的ですからね。
逆に言うと、なにか掛かればピシッと動くわけです。
振り込め詐欺にべらぼうに強いように。

マイナスだけでなくてプラスもいいですな。
ゴールド2回目取得(つまり15年無事故無違反)で
1万円のご褒美とか。
交通違反罰金を財源に。
次(20年無事故無違反)で2万円。
ペーパードライバーが有利?
ま、実際クルマ動かしてないんだから、
そのご褒美ってことでいいじゃないでしょうか。

もちろん、本来は
「いいことはいい、悪いことは悪い」
なのですが、それで解決できない問題があって、
解決できる(できそうな)方法がほかにあるのなら、
それを積極的に使わないのは「怠慢」です。

そんなこんなで、
とどのつまりはもう少しクルマで動きやすい街に
ならんもんかいな、と。



 3/22 雑感

ふしぎなもので、数年やってきても、
ネタが全然ピンとこない日があります。
月に一〜二回。

これは腕には依存しないらしく、
昔から頻度はあまり変化ありません。
体調も関係ないらしく、
風邪ひいてずるずるでも書ける時は書けますが、
(物理的に無理な時はあります)
書けない時は書けません。

もちろん、蓄積ネタでその日をしのぐことはできますし、
それ系のスタンバイネタも山のようにあります。
(ボツネタは取っておくタチなので……)
あるいは、得意のネタ(クルマ、サッカーetcetc)で
ダラダラ語ればゴマカシは効きます。
ただ、それはコレの本義ではないので、
やってもあまり意味がない。
お金貰って書いてるコラムなら、
ちゃんとゴマカシますけどね。

そんな日です。

ネタが無いわけではなくて、
今日もカードを何枚も書きました。
その中だけでも、膨らませればおもしろくなりそうなネタも、
いくつかあります。
でも発火しない。

ということは、ネタというよりも、
魂の部分ですな、問題は。

しかし、これもふしぎなもので、
燃えてるからいい結果が出るとも限らず、
結構イヤイヤ始めたことが思いもよらず
いいものになったりします。

こういう場合は慌てず騒がず、
ぐっすり眠ったり、なにか遊んだりして時が経てば、
また魂の起電力が臨界を超える。
のは、じゅーじゅーわかっちゃいるのですが、
たまにはこうして、
書くこと自体で電圧を高めてみようともするのです。

そんな日は、「雑感」になります。

---

ということでサッカーの話でも(笑)

今季のチャンピオンズ・リーグ(CL)で一番の注目カード、
おそらく現在世界一カッチョイイサッカーを魅せる
リーガ首位・バルセロナ対、
おそらく現在世界で一番つおいサッカー戦闘集団、
プレミア首位・チェルシー。
結果は壮絶な殴り合いの果てにチェルシーに軍配。
(一戦目バルサホーム・2-1、
 二戦目チェルシーホーム・4-2、
 トータル5-4でチェルシー)

つまりはこの2チームが現在のサッカーの最先端を
走ってると言ってもいいのですが、
バルサ監督にして現役時代はACミランの核として
名声と栄光を欲しいままにした
ライカールト、
チェルシー監督にして選手経験はほとんど無いのに
昨年CLを制して今や世界最高の指揮官の評すらある
モウリーニョ、
このまるで真逆の二人の採るシステムが似てるんです。

ちなみに、選手層も、
ロナウジーニョ・デコ・ジウリー・エトーを始め
世界的「巧いヤツ」を取りそろえるバルサ、
テリー・ランパード・マケレレを始め
さほどスターでは無いが泥だらけで戦う人材を
揃えるチェルシー、
逆です。

監督も選手もまるで違うのに、採用システムが似てる。
4-1-2-3、以下のように。

     CF
WG          WG

   DH   DH
     DH
SB   CB  CB   SB
     GK

CF……センターフォワードタイプFW
WG……ウイングタイプFW
DH……ディフェンシブハーフタイプMF
SB……サイドバック
CB……センターバック

「サイド攻撃」(およびその守備)
という近年のサッカーの主戦場を検討すると、
必然的にこうなります。
・サイド高めに突破専門職が要る。
・サイド低めにそれへの防御要員が要る。
結果、4バックと3トップ、残り3人でMF。
ボールを獲ったら素早く両サイドアタッカーに渡し、
サイドバックがそれを支援、
逆サイドFWやDHの手の空いてる方が
中央スペースへ殺到、
というのが基本です。
ボールを獲ってから、ゴールまでをできるだけ早くする。

守備では、DFラインとMFラインの間、
「バイタルエリア」と呼ばれる、
攻撃側にとって使いたいゾーン、
守備側にとって使われたくないゾーン、
これを潰す役を専門で置いてるのが特徴です。
もちろん普通はダブルボランチでも、
どちらかが守備に重点どちらかが攻撃に重点、
と役割を分担するものですが、
明確に「そこを守る」のを主任務とさせる。
MFというよりは5人目のDFと呼んだ方が
いいかもしれません。
チェルシーの方がそこをやらせれば世界一間違いない
マケレレを置いてるのでより鮮明です。
バルサはどちらかというと、MF3人で適宜分担しながら。
もちろんこれ、間延びするとMFの数的不利が
弱点になるので、できるだけFW-DFラインが
コンパクトである必要があります。
すこし懐かしい言葉、「プレッシング・サッカー」です。

フォーメーション/システムは、
「それを使うから強い」というものではなく、
「強いチーム」を作っていく上で導かれた結果に過ぎません。
しかし、現在最強の2チームがそうなっている、
という事実はある。

---

さて。
上のフォーメーション図見て、
なにかぽっかり心に穴が開きませんか。

そう、「攻撃的MF」という職が、存在しないんです。
「10番」が、「翼君」が、いない。
いわゆる「司令塔」という、攻撃時にボールを配球し
組み立てる役は、MF3人で分担して行う。
時にはCBのフィードも交えつつ。
バルサの司令塔はデコでもシャビでも
ロナウジーニョでもない。
強いて挙げれば中盤底にいるマルケス、
強いなければつまり「いない」というのが正解です。
チェルシーはもっと極端で、
はっきりと「10番」調の選手がどこにもいません。

攻撃はみんなで組み立てる。
守備はもう随分前から「みんなでプレス」です。
攻撃もそうなってきた、と見れば、
しごく真っ当な流れです。

中盤の役割は、
ボールを獲って・ボールを出す
ですが、これがなかなか一人の選手では両立しない。
ならば、ということで、
バルサやミランはMF3人セットでそれを行い、
チェルシーやユーヴェはもうみんなでやっている。

---

で、ここから苦言になるのですが。

つまり、世界の先端はこんな感じです。
「司令塔が誰か」
とか、そんなアホなこと言うてるチームは無い。
小笠原だ俊輔だ、いや中田だろ小野を使え、
そういう問題では、無いのです。

サッカー史上最高の10番が、
10番の居ないシステムを考えるのは
ものすっごく難しい。
また、「サイドアタッカー」というジョブがあまり一般的でない
日本で、ウイングやサイドバックに良質の人材を
しかも右左揃えるのは大変です。
日本代表には、はっきり言って使いにくい。

それでも、「潮流はこう」
あるいは、最新システムの考え方の核、
「攻撃もみんなで守備もみんなでできるだけ早く」
を意識しておくのは、大事ではないかな、
と思うのです。

以上のようなことは、
ちょいコアなサッカー・ファンならば
「今さら何を」なことなんです。
でも、一般マスコミではまだまだ
「どこそこのポジションを争う──」
なんてバカバカしい記事が当たり前のように
量産されている。

4バックだ3バックだ、
2トップは誰と誰、
そんなこともう、誰も言ってません。
別にスペインにイタリアにイングランドに行く必要もない。
web開けば、そこかしこに日本語で書かれてる事実です。

この国はまだ、いろんなところで鎖国しています。
お気をつけあそばせ。



 3/21 「勘」とは

「流れに乗る」ってのにこだわってる昨今ですが。

以前、
「勘」という確固とした第六感みたいなものがあって、
それを鍛えればいろいろ有利だろう、
と思っていました。
神経を研ぎ澄まし集中すれば、それが発動して、
未来の予知……に近いことができる。
「あれはしない方がいい」
「これはなんだか先にしておいた方がいいような気がする」

ニュータイプですな。

富野御大の影響だけではなく、
そういう時代(80年代)だったんです。
地上波TVで「マジェスティック12」なんて単語が
しゃあしゃあと放送されててね。
今みたいにホワイトとブラックがある程度はっきりしてて、
「ブラックをホワイトで切ってみましょう」
って世界ではなくて、ホワイトがまだ拡大中で、
「そのブラックもひょっとしてホワイトでは」
と疑えた時代。

それはともかく、生活実感として「勘」というものは存在する。

後から「そういえばなんとなく感じてたよ」という経験は、
誰にもいくつもあるはずです。

でも実はこれ、
スペシャルな独立した6th感覚じゃなくて、
ほか五感のトータルされたもの、
ではないでしょうか。
微細な変化のシグナルを五感で掻き集め、
蓄積された経験のフィルタを通し解析すると、
シナジー効果が生じて、
結果として突拍子もなく感じられる
「予想」が生み出される。
これを、「勘」という。

昔の漁村には「雲見」みたいな専門職の人がいて、
その人が丘に立って雲を見て、
明日の天気を予想したそうです。
これがよく当たる、というか、まず外れない。
そりゃ村のみんなの命が掛かってますからね。
雲だけじゃなくて、いろんなものを見るのでしょう。
気温の変化、海面の状態、地熱の模様、
気流の動き風の流れ雨の匂い、
動物植物の動きも見たかもしれません。
しかし、これは別にESPではなくて、
当たり前の器官を研ぎ澄ませてフル活用してるだけ、
ですよね。
ただ、そうした個別情報をネットワーク化し、
ひとつひとつからは導き出されるはずもない
「嵐が来るぞ!」という予想をはじき出す能力、
統合感覚みたいなもの、
つまり「勘」が鍛えきられている。
だから外れない。外さない。

現代の我々には、この統合感覚は、
かなり失われてしまってます。

多少なりとも取り戻すには、
たぶん方法としてはとても簡単で、
丁寧に詳細に幅広く、よくよく、
見て・聞いて・嗅いで・触って・味わう。
それだけのことです。
その経験を多々積むことで、
その統合ネットワークが形成されて、
精度が上がって、
勘が鋭くなる。
もちろん勘が鋭くなれば、波に流れに乗りやすくなる。
ヤな流れに無理に抵抗しなくなる。

ただ、このシンプルなことこそが難しいですよね。
人は、事実ではなく、自分の見たいものを見ますから。
クリアな頭ピュアなハート、言うのは簡単ですけどね。

あまり難しく考えずちょっとずつやりましょう。
友達の変化に気づかないのに、
新聞読んでる場合ではない。
別の話じゃないですよ。
人生は、24時間しかない。



 3/20 上手くない方がいい

またそんな負け惜しみを、
と言われそうですが、
なんかピリッと感じました。

工業製品と違って表現においては、
「上手い」
というのは必ずしも有利にばかりは働かない。
なぜならそれは、人間のやりとりであるから。

僕でも調子に乗ってる時には、
すらすらすら〜と実に美文(当社比)が書けるわけです。
でも、それが心を打つかどうかと言えば、
関係ない。
どころか、「うまいことゆうねえ」と思われてしまえば、
終わりです。
言いたいこと飛んじゃって、
「うまい」という感想になっちゃう。

近松だったかが、
「五七調は濫用するな、リズムが良すぎる」
てなことを言ってたと記憶します。
うっとりしちゃって、観客の頭に何も入らないまま、
話が進んでしまうと、ドラマとしては失敗ですわな。

「上手くなくてもいいけど、
 上手いぶんにはかまわないだろう」
と思っていましたが、どうやら、
「上手くない方がいい」
とさえ言えるようです。
上手くなるなら、「上手さを感じさせないぐらい」
上手くならないとダメ。
野球の守備でも、難しいゴロをなんでもないように捌くのが、
名手ですよね。
我々がめざすのは、
「おもしろい!」
であって、
「上手い!」
ではないのです。
ま、たまにはそういうのもいいと思いますが。

ホッとするような、
よけい難しくなったような。



 3/19 口は悪いが

わたし「いや、胸の奥が熱くなるようなのを書こうと」
ミスターO「それ、胸焼けしてんじゃないですか?」

中高一貫お坊ちゃん学校の出は、
口が悪い。

ひとつには男の子生意気盛りの13〜18あたりを
一緒に過ごした「疑似兄弟」みたいなのがたくさん出来、
つまりは「なんでも言える」がゆえに
なんでも言っちゃう。

もうひとつには(最近はわかんないですが)
お坊ちゃん校に入ってくるようなガキは
脳だけ肥大したマセガキと相場が決まっており、
それがさらに世間の荒波から隔離されて純粋培養される。

でもって大学もそこそこいいとこ行くので、
「歯に衣着せぬ」「議論好き」
などと変な色眼鏡で見てもらってちっとも治らない。

こうして社会出てからも、
「それは言っちゃだめー」なことを
平気でポロポロ言っちゃう人間一丁あがり、なわけですな。

でもね。
言葉っていうものは刃物でしてね。

刃物である以上、取り扱い方を知ってる方がいいのです。
口が悪い人間は、普段からその刃物を振り回しており、
それがゆえに傷つけたこともありますが、
傷ついたこともあります。
使いこなせてないにしても、
おおよその使い方は知っている。

しかし、使い慣れない人が振り回すと、
ロクなことにならない。

やっぱり、人の心に一生残る言葉とか、あるのです。
その一言で、「ダメだ」と思う言葉。

もちろん逆に、その一言で救われる言葉、
そんなステキな言葉もあります。

もしも言葉の力を信じ、それを活用したいと思うのなら、
多少のリスクは覚悟して、子供の頃から
ガンガン使った方がいいと思うのです。

言わなきゃ、なにもわからん。

……ということで、また友人とスパーリングをやるのです。
「あんなもな産業廃棄物ですよ」
「世の中には『味蕾のない人』ってのがたくさん居てね」

やっぱりあんまりやらない方がいいような気もしてきた。



 3/18 弟の彼女

弟が彼女を連れてきました。

そんなことは一家もちろんはじめてですので、
母・祖母・わたし、みんなでオタオタしました。
朝起きると弟は母に開口一番、
「余計なことは言わんでええねん」
しかし後ほどやってこられた彼女さんにも前もって、
「余計なことは言わんでええねん」
弟が一番オタオタしてるようです。

「ひょっとするとうまく行くかも」
と感じたのは、二人はよく似てるのです。

仲良い二人、というのは、よく似てます。
価値観が似てると、立ち居振る舞い、言葉、
そして顔形も似ているようです。
まして一緒になると、食べものや住む場所も同じになるので、
さらに似てきますな。

うちの弟は、中田(英)を「へにょっ」とさせたような男前
なのですが、今日来られた娘さんも、微笑む時に
「へにょっ」と微笑まれました。(失礼!)

ああ、なんとなく似てる。

ほんの挨拶だけでもしっかり者の風がぴゅーと吹き、
良くも悪くも子供っぽいうちの弟の方が、
ずっと年上なのに、ずっと弟みたいです。
その方がいい、その方がいい。

たよんないなあ、と思ってた弟が、
ステキな娘さんを連れてきた事実に、
残り一家三人で驚いています。
やるじゃん、マイブラザー。

縁は異なもの味なもの。

まあもしご縁がありましたら、
よろしくお願いいたします。



 3/17 空心

「私心をなくする」
とよく言われます。
でも、私心を無くして何をするかといえば、
「こうしたい」ということをするわけですよね。
それは、私心そのものでは?

そこのところが、僕にはまだ、よくわからない。

「全体としてやりたいことは持つけれど、
 要素としてはやりたいことは持たず、是々非々で」
そんな単純なもの?

「号を『空心』にしようか」
なんて冗談言ってますが、
空というのはすなわちゼロです。
ゼロというのは、「有って・無い」ものですよね。
そういう感じでしょうか。
やりたいこと有るけど、やりたいこと無い。

……文字通りの禅問答ですね。

でも、みなさんもそうだと思うのですが、
一番上手くいったミッションって、たぶん
「これがこうだからこうするんだウワーッ!」
ってものじゃなかったと思うんです。
大きい流れに乗っかって流されて、
その一部になって一生懸命没頭していたら、
なにかできた。
そんな感じではないでしょうか。

人間の「行動」というものは、
私心そのものです。
そんなものなければ動かなければいい話で。
動く以上は、なんらかのその人の心が有る。
その上で、無い方がうまく行くという。
実際、そういう体験をする。

なんぼ考えてもよくわかりませんね。
一番うまくいくためには、
うまくいくことを一切考えない、
なんて。

---

ひょっとすると、ここが
二つの認識システムの境目、潮目かもしれません。
東と西、悟りと科学、言い方はなんでもいいんですが、
パワーとスピードとロジックの世界と、
慣性とタイミングと個人的開眼の世界の。

二つの世界は、決して相反するものではなく、
もちろんどちらが上位でも劣位でもなく、
相互補完してます。
「何も考えない」って、本当に何も考えないと、
何もできません。
すくなくともバットを振る力と技が無ければ、
ホームランは打てないのです。

とすると。
「考えない」ということができてる時点で、
考えずとも動くカラダ、オートマチック・ボディが
できあがってるということで、つまり、
「私心を無くす」
ではなくて、
「私心は無くなる」
のでしょうか。
私心あるうちはまだまだで、
私心がなくても動くほどの基礎体力基礎技術、
それを鍛えて手に入れろ、と。

ふむふむ。
じゃまだまだだ(泣)

イチローが去年ハチャメチャに打ち出したあたりで
明らかにフォームがムチャクチャになったのですが、
あれがたぶん、「私心なし」という状態なんだと思います。
「このフォームでこのタイミングならヒットになる」
ではなくて、
「なんかしらんけどとにかくヒットになる」
あの人の凄いところは、
それを艱難辛苦の末手に入れたところ。
ヒデキの凄いところは、
どうやら高校生時代から、すくなくとも打席に立つ瞬間は
それができてること。
わたしゃワールドシリーズでヤンキースの4番打たされたら
お小水ダダ漏らしですよ。
あんな場面であんなシレッとしてる、
それだけであの人はおそろしい人です。
いやむしろ打率とか本塁打数とかより、
それが一番おそろしい。

もひとつ言うなら清原さんの凄いところは、
それを力尽くで何度も乗り越えた&
今も乗り越えようとしているところ、
ですな。
ただ、スポーツの厳しいところは、
なんぼ乗り越えようとしても乗り越えられないと
評価されないところです。

いや、別にスポーツだけじゃないか。
ぜんぶそうですね。ぜんぶ。

---

そうは言っても、
「私心を捨てよう」とすることにも
ちゃんと意味があると思います。
やろうと思わないと、やれないもので。
また、捨てれる人、捨てやすい人は、
たぶんいろいろで有利です。

教育の大きな役目の一つに、
「人間の社会的側面を育てる」
という点があると思います。
「公の」自分ですね。
それはもちろん、「私」を捨てないと実現できない。
全部捨てろというわけではないが、
この場合は公人にならねばなりません、
そのタイミングと心構えを教える。
教えなければ、24・365私人になる。
そんな人間ばかりでは、社会が成り立たない。

もっと砕いて言うとマナーとか躾とか
そんな言葉になるのですが、
それらがなぜ必要かと言えば、
社会の一員として生きていくためのパスポートだからです。
社会の一員だから困った時には誰かが助けてくれる
(かもしれない)わけで、
一員でなければほっとかれるだけです。
快不快とか、迷惑かどうかとか、
そんな生やさしい問題ではなくて、厳しく言えば
「社会」の一員ですか、
そうでないタダの野生動物ですか、
そのぐらい厳しいことですな。

……なんか中学の社会の時間みたいになってきた。
もちろん、野生動物として生きていければ
無理に社会人になることもなかろうと思いますが。

まずは切り替えですかね。
ドーナツ選ぶ時は私心全開、
仕事を管理していく時は私心全捨て、
ゆくゆくは、
そういうことを意識しなくても、
心のおもむくままに動けば、それが「私心なし」。
まさに「空心」。

いやはや、ムズカシソウですぞ。

おそらく、こういう心構えになるには、
生活全部をそういう風に持っていって、
ようやくすこしなれる、そんな感じではないでしょうか。
人間、しょせん動物ですから、
欲があります。
困れば困るほど、ピンチになればなるほど、
もちろん波に乗れば乗るほど、チャンスになればなっても、
生々しい欲が出る。

それを軽やかに乗り越えるには、
つよいこころ……意志とかそういうレベルではなくて、
もう存在そのものとして「つよい」こころ、
でなければならないのでしょう。
だって道元禅師だってまだなお座り倒してるわけで、ねえ。

ですが、そういうこころにすこしでも近づくことができたら、
すごく楽しいでしょう。
めざしてみますか。



 3/16 やっぱり、「そのひと」

今ちょっと走り回っているのですが。

こうやってると、先月までの自分がちいちゃいことで
悩んでたなあ、と反省してます。

「書くこととはなんぞ」
みたいなことばかり考えていました。
それは、実際とても大事なことですし、
今でももちろんそうなのですが、
大事なことと、やらなあかんことは、
違う。

……というようなアタリマエのことを、
思い出しているのです。

フリーで居てますと、いくらでも
「大事なこと」ばかり考える時間があります。
それも尊いのですが、
世の中はそうじゃなくて、
「やらなあかんこと」でぎゅんぎゅん動いている。
その事実を忘れてしまうのは、よくない。

---

もうすこし考えると。

昔から頭ではわかっていたけども、
認めたくなかったことがひとつあります。
「書くものは結局その人」
という事実です。

そうなるとね、駄目な自分だと、
駄目なものしか書けないじゃないですか。
僕は自分に自信がとんとない人間なので、
それだと困るんです。
だから認めたくなかった。

けどもやっぱり、それはそうなんです。
技術とかテーマとか気持ちとかで書けるのは
おおよそ25%ぐらいなもので、(割合は適当です)
残りの75%は「そのひと」ですわ。

ここで必要なのはひらきなおり、で、
結局それはそうなのだから、
25%を鍛えるのを続けつつ、
75%ももちろんすこしでもいいように努力しつつ、
あとはありのままの自分を出していく、
しかない。
ありのままでも、もちろん欠点だらけで
ロクでもないダメ人間ですけど、
たとえばたとえば、
「電機メーカーに就職したい!」
と思ってる人にとっては、多少不良ですが
経験談も語れるもので。
そんな感じでいくしかないのかなあ、
と思っています。

---

僕は色男なので、金と力が無いんです。(持ちネタ)
するとね、「走り回ってる」って言っても、
なにもできないんです。

でも、それはもうしょうがないので、
できないなかからできることを、
やるしかない、のですな。
土壇場では。
自分が実弾持ってなくても、
持ってる人から借りてこれれば、
そこに実弾がある。
それが一番やらなあかんこと。

もう贅沢言わないです。
前の工事うるさいから書けない、
とかそんな泣き言は、言いません。
逆に言うと、
うるさくて左右しちゃった細かな要素より、
そんな中でも書き留めた、という力の方が、
訴えるものなのです。

恥ずかしくもあり、
また自信もなく、
「われは何者ぞ」
なんて書けっこない、と思っていましたが、
テーマや登場人物やストーリーや世界観にかかわらず、
それ以外に、書くものなど無いようです。



 3/15 慣性

どんなものにも「慣性」てのがついてるようです。
動いてるものは動き続けようとし、
止まっているものは止まり続けようとする。
なんでも。
人の心でも政治経済社会システムでも。

M澤先輩という方は若い頃から
「ものの運動」に興味津々、
それが昂じてエンジニアになったような人なのですが、
彼の腕相撲マシン必勝法。
「ああいうののモーターは初動トルクが小さいから、
 スタートの瞬間に大入力を入れれば勝てる」

最近、「ひょいとやる」ってのに凝ってるのですが、
それは結局、
「慣性を感じないような動き始め」
と言い換えることもできます。
・小さくでいいから動き出してしまうことで、
 大きな動きを出しやすくすること。
・連続する動きにして、始点・終点をなるべくつくらないこと。
 (円の動き)
・動いてしまえば、逆に止めるのにコストがかかる。
 だから方向転換も、動きながらターンするような感じで。

「動き続ける」のが結局、よく動く身体と頭。
小さなことでもバカにせずやる、というのはつまり、
「動き続ける」燃料にしてるわけですね。
そこは燃料使ってコスト掛けて、
常時運転状態にしておいた方が、
結局は膨大なコストの掛かる
「エンジン停止」や「再起動」を頻繁に行うよりも、
はるかにローコスト。

わたしは、どちらかというと考えすぎる方です。
結果も効率も。
それはそれでいいことだと思ってますが、
振り返ってみれば、上手く行ったミッションは、
ポンとやっちゃった、あるいはやらざるをえなかった、
そんなもののことが多い。
走り出してから考えたものの方が。

---

ウチのネコの運動神経ナンバーワン、マイケルは、
「ひょっ」と動作に入って、
「シュッ」と動作を行って、
「ふわっ」と動作を終わるのです。
あれは、慣性コントロールがではないか。
極小トルク起動でキッカケを与え、
動き出したらガツン!と全トルク一気に掛けて
方向と移動量を決定し、
最後は身体と環境に無理を掛けないように、
スムーズにしかしできるだけ早くゼロにする。
食品関係の達人の動き
(タイ焼きとかたこ焼きとかタンを150g揃えて切る大将とか)
が非常にリズミカルで、見てて楽しいのは、この、
はじめ−なか−おわり
の慣性コントロールが見事なのでしょう。
そしてそれは、目に優しくこころに優しいわけです。
ということはきっと、優れている。

ながたさんはなにやら、
いつのまにかやってきて、
いつのまにか帰っていった。

そんな風な行動がいいかもしれません。
詐欺のベストは騙されたと気づかせない詐欺であって。
それは違うか。

テクニックとしては、
大人しいところから入る、とか、小さく入る、
っていうのとはちょっとだけ違って、おそらくは
「相手が受け入れやすいところから入る」
て感じですかね。かつ、
「自分がやりやすいところから入る」
この二つがぴたっと合ってると、
スタートとしてはベストのような。

で、これってね、
「気合い入れて行くぞー!」
っていうのとは、まったく逆の考え方です。
もちろん、気合い方式も大事で、
効果的なことも多いのですが、
この「すっと入っていく」方式、
慣性方式とでも申しますか、
も、使いこなせばすごく良さそうな気がするぞ?

---

これを使いこなすには、
意識をどこかに集中するのではなくて、
拡散しきって飛ばしてしまう必要がある。
全体視・全体観と言いますか。

中嶋悟さんが運転について、
「見ようとして見ると間に合わない」
なんてことをどこかで言ってたと思います。
どこかを見つめず、ぼんやり全体を見ることで、
変化を素早く感じる。

鳥や魚の群れの一斉方向転換が、
(先頭の変化を)目で見たり音で聞いたりでは
物理的に間に合わないはずなのにできてる、おかしい、
というのはよく「集合的無意識」なんかの話で引っ張られる
事例ですが、
あれはこういう認識をしてるんじゃないでしょうか。
見えてなくても、環境すべてに大きく意識を拡散してると、
スパイクの立った変化がどこか極小部分で起きても、
把握できる。

我々は子供の頃から集中しろ集中しろと
やかましく言われて育つので、
「集中の仕方」ならまあ、それぞれやり方ある程度は
持ってます。成功可能性や持続力はともかく。
ですが、「拡散の仕方」なぞほとんど持ってない。
言い換えればリラックスですが、
弛緩ではなくて、戦えるリラックス、
も一つ言い換えると自然体ってヤツですな。

---

普段の生活でもそうなのに、
わたしなぞでっち上げてる作品でももちろん、
集中一本槍なわけです。
ゆるいシーンでもみっちり説明可能なように構築しちゃう。

たぶん、これがダメなんです。

押すところ押すのはいいとして、
引くところは、手を力を抜くのではなく、
自然体というか受け身というか拡散させてみるというか。
ストレートの代わりに渾身のフォーク、
それはちょっと違う。
それ、渾身という意味では同じなんです。
それは見られちゃう。
ではなく、どまんなか棒球打ち頃打たれ頃、
それをぽかーんと投げる。
「えっ!?えっ!?なに!?それなに!?」
ストラーイクバッターアウツ。

むずかしいなあ(泣)

野球ついでに言いますと、
落合さんのフォームは「なんでもない感じ」でしたね。
で、こともなげに右方向へホームランを打つ。
筋骨隆々でもなく、目を見張るスイングスピードでもなく、
天才的バットコントロールでもなく、
ぽかーんと打ってましたね。
あれも結局、
スッと入ってシュッとやってフワッと終わる、
達人の動き。

そうするからそういう結果が出るのか、
極めると自然とそういう姿になるのか、
それはわかりませんが、
どちらにせよ最後の型がそうである、
と覚えておくことは悪いことではない。

---

歳をとるに従って、いいこともありますが、
悪いこと筆頭といえば、
身体が、そして頭が固くなってくることです。
同じこと繰り返すと身体が慣れを起こして、
最小の動きしかしなくなる。
機械的にね。
そういうバディは、突然の入力、環境の変化に
すこぶる弱いわけですな。
やっぱり、すごい人というのは、いくつになっても、
いや歳をとればとるほど、
微細な変化にも「おっ」と飛びつける。
それは、身体と頭とこころの慣性が小さいのです。

もちろん、慣性小さいと、流れから流れへ
ひょいひょいひょーいと跳び渡っていける。

「自分を操縦する」という感覚は、
こんな感じかもしれません。
キッカケ(運転で言うとステアリング操作)だけ与えて、
あとは慣性をアクセルとブレーキだけでコントロールする。

難しそうな気もしますが、
コツを掴めば意外に簡単そうな気もします。

いろいろやってみます。



 3/14 雑感

13日のイベントは楽しく過ごせました。
「サインください」というのは久しぶりでしたので、
その場ででっちあげました。
ごめんなさい。
わたしのサインはいつもワンオフモデルです。
スケブも久しぶりでしたので冷や汗が出ました。

でもこの冷や汗こそイベントの醍醐味。
体力しんどくても準備めんどくさくても、
また行こうかと思う源泉でございます。

ありがとうございました。
「もえるるぶ」活用させていただきます。

あ、もちろんお手伝いのMazdaさん、遊びに来てくれた
okbちゃん、J代さん、おりっひ、M澤先輩も。

---

そうそう、テネレッツァの声を演じてくださった
かかずゆみさんが新しずかちゃんだそうで、
おめでとうございます。
実物もお声同様とてもカッコイイ&美しいお姉さんです。
末永いご活躍を。

自画自賛っぽくなっちゃいますが、
「テネ」は声優さんに恵まれた作品で、
少なくとも僕のイメージから外れてる方はおられません。
おかげさまで声録りも非常に楽しかったです。
またあんなお仕事がしたいなあ。

---

2車中泊で行ってくると、
ものすごい旅をした気分になる割に、
とどのつまり丸1日しか家を空けておらず、
webチェックしてもいつも+α程度で、
なんだか拍子抜け。
その間来た30通のメールが全部スパムで
また拍子抜け。

いい時代なのやら、そうでもないのやら。

---

最近、マイ携帯が大活躍です。
2/12にN251iS(母のお下がり(泣))
に換えたのですが、それ以来いろんなデキゴトがあって、
充電台を温めるヒマもありません。

機械にも相性があります。

してみると、この子とは随分相性がいいのかもしれません。
前のSO210iは、本人はずいぶん気に入ってたのですが、
実は相性そのものはそんなによくなかったのかも。

むずかしくまたおもしろいものです。

なんだかわたしは昔からそうで、
ポンと誰かに買ってもらった服とか、もらい物の鞄とか、
自分が「コレだ!」って買ったもの「じゃないもの」を
延々使っちゃう癖があります。

最初から思い入れがないから、
欠点を許せるのかも。
もともと思い入れキツイ方なので、
「いい!」と思ったものには、同じだけ
「それはよくない!」と思ってしまう。
それが、長くつきあってると疲れや飽きに結びつくのかも
しれません。

こんなこと言うと失礼かもしれませんが、
お見合い結婚とかこんな感じでしょうか。
いいも悪いもまず「ある」という状態からスタートするわけで、
それがイヤなら結婚しなければいいわけでね。

(以下妄想120行略)

もちろん、「コレだ!」と思って買って、
使い続けてるものもたくさんありますが。

運命というのは、へんなものです。
自分でガッチリ掴めることもあれば、
まるっきりどうしようもないこともある。

それは、トータルで「どうしようもない」と
諦めることでもないし、
「自分の手で切り開く!」と
偉そうに断言できることでもない。

謙虚に、かつ勇気をもって。

いやはや、やっぱり、むずかしいものです。



 3/13 分

これは僕だけなのか、それとも結構多くの人が
そうなってきた・そう思っているのかわかりません。
とりあえず書き留めてみます。

エコ社会、循環型社会というのはつまり、
「『分』をわきまえる」社会ではないでしょうか。

というとえらく陰気で固陋なイメージになっちゃいますが、
「器」といいかえてもいいし、もっと綺麗に言えば
要するに「価値の多様化」です。

大工さん社長さん農民芸人主婦老人、みんなえらい。
村に高規格村道やコンクリ固めの農業用水路は要らない。
逆に、東京都心には摩天楼がまだまだ足らない。

みんなそれを感じつつあるのでは、
と思う証拠のひとつが、
ティーダ/ラティオ/ノート、あるいはプレマシー、
先鞭をつけたのはフィットですが、
ああいう「道具感丸出し」のクルマがよく売れてる点です。
あれは、クルマじゃなくて、生活道具。
それこそ真理です。

今もクラウンは売れ倒してるのですが、
昔ほど盲目的に買ってるわけではなく、
ある程度選択的だと思います。
寒漁村から出て苦学してある程度の成功を
おさめて田舎へ帰る、こんな時にはクラウンです。
フェラーリでもロールスでもない。
それは、「手頃で使いやすい足」としてティーダを
選ぶ人と、視点としては同じですよね。
クルマではなくて、「故郷への錦」という道具。

工場労働者は工場労働者で
自分の仕事と人生に責任と誇りを持ち、
バリバリのビジネスマンはビジネスマンで
自分の仕事と人生に責任と誇りを持てば
いいのではないか。

アタリマエのこと言ってるようですが、
90年まではそうじゃなかったですよね。
ブルーワーカーは低い仕事、みたいな意識があった。
今でも相当ある。
ほんとはそうじゃないですし、
そうでないシステム、たとえば工場に「匠」や「マイスター」を
生み出すシステムを導入して上手く行ってる例もある。

「自分でない『分』」をめざして
無駄な・無理な徒労を繰り広げるよりも、
分に応じたことをちゃんちゃんとやってれば、
ちゃんちゃんと楽しい。
そして──ここが大事なのですが──
子供達には、親から「分」を受け継ぐのではなくて、
どんな「分」をも選べる自由とチャンス、
それを与えてあげる。
そして、その子が自分で選んだ「分」に、
自分で責任と誇りを持って暮らす……

というのが、「いい社会」じゃないでしょうか。

みんなが胸を張って、ニコニコ笑って過ごせる。
きらびやかな高級車は確かに羨ましいけど、
ウチの20年モノオンボロトラックだって、
イイ味出してるだろ?
お爺ちゃん芸人、お父さん農民、息子高級官僚、とか。

村道を全部アスファルト二車線にしようとするから、
田舎の風景が無くなった。
みんながいい大学へ行かなきゃと思ったから、
(思わざるを得ないようなシステムを放置したから)
教育がズタズタになった。
頭いい子にはバンバン教えて、
もひとつ回転数が少ない子にはゆっくり教えたげる。
あたりまえのことですよね。
なぜ、できてないのですか? いま。
なぜ、どっちもが不幸なのですか?

「みんな同じ」なんて、できもしないことです。
そして、できてしまったら大いに困ることです。

同じにすべきものがあるとするなら、
幸せの量です。

頭いい子には知の喜びをあげて、
動くの好きな子には運動の喜びをあげる、
だけのことですよね。

---

そう思ってみれば、「分不相応」という言葉ほど、
古臭くも痛いところを突く言葉はありません。
あれは、封建的なくびきであるだけではなく、
(もちろんそれが一番大きいのですが)
「分相応の方が幸せだよ」
という親切からの言葉、かもしれませんね。

高度経済成長とそれをガッチリささえた
商業主義・成長神話は、いわば
「次の『分』をめざせ!」
とみんなを煽ったやり方です。
で、それは、その時はよく機能して、
おかげさまで日本はこうなった。
(世界はこうなった)

でも、それはまず日本ではもう無理になってきている。
もう、「次の『分』」という虚構が存在しない。
実は「分」というのは、並立して存在すべきもので、
それぞれがそれぞれなりに幸せであれば、
それがベスト社会だろう、と。

間違えてはいけないのは、
「昔に戻る」っていう意味ではなくて、
昔というのは、「分」の間の移動が極めて不自由だったし、
物理的リソースがあまりに足りなく、
またそれの活用法(=科学)が未発達だったから、
上位とされた一部の「分」に対してしか、
(主に物理的な)幸せが存在し得なかったのです。
こんなんじゃダメ。

職人は職人らしく腕を誇り、
落語家は普段ぴーぴー言いながら喝采を浴び、
大名はえばりながらもお世継ぎに悩む、
そういうフラットな社会が、
しかもみんな物理的に飢えと寒さをしのげなければ。

そう考えると、アメリカって国は結構いいところまで
それを実現してる。
工場労働者が楽しそう、というのはいいですよね。
(ただ、それを実現しようとして払ってるコストはものすごい。
 未だにままならぬガンコントロールとか)
いいところは、どんどん真似ればいいと思うのですが、
具体的方法論を移植するだけではなく、
その後ろにある、それぞれの「分」がフラットである、
という思想と、人々の持つ意識、
これをも移植もしくはうまく翻訳する必要がある。

たとえばアメリカの大学もちゃんと高い授業料とりますが、
奨学金が山のようにあって、頭いいヤツはタダになる。
日本はどうですか、ダメですね、
じゃ、頭いい子みんなアメリカ行きますね、
物理法則です。
政府ばかりを責めてもおられず、奨学金のバックボーンは
個人や企業も多く、それは
「儲けたら還元しなきゃ」
という高い意識のあらわれです。
それが日本にあるかっていうと、まるで無い。

だからみんなで、ってところです。

潮流の境目にいるわれわれは、
だから二つの考え方の間で翻弄されてるわけですが、
逆に言うと、なかなかありえないチャンスの中にいる。
楽しむのがいいのかなあ、と思います。

都市計画でも、単純成長は東京(首都圏)に
おまかせで、人類の到達できる極限都市を
めざしていただくとして、
大阪以下はみんな循環型地方都市を
模索していくべきだと思います。
選択と集中で、その中でも成長と循環を混ぜていけば。
大阪でも梅田は必要以上に元気ですからね。
それ以外は、なにも梅田になる必要はないのです。
別の何かになれば。

その「別の何か」っていうのになるのに、
「知恵」が必要なわけですが、
「金」がない以上それを使うしかありますまい。

---

以上は、社会そのものと、社会と個人の関わりについて
でしたが、個人の中でも、同じだと思います。

吉本隆明さんの
「自分の自己評価以下のことをやる」
という言葉がまさに「分」だと思います。
「無理をしない」ということと、「チャレンジする」というのは、
両立する。
それが「リスクコントロールド・チャレンジ」です。
できる範囲内で、できる挑戦を次々にやっていく。
逃げず、倦まず弛まず。
焦って背伸びをして無理をすると、痛い目をみたり、
無駄な心労を重ねて、負担になる。
それは、楽しくないわけです。
楽しむために人生やってるのであって、
「あとで楽しむために今苦労しよう」というのは、
嘘です。いや、無理です。
それが「流れに乗る」ってことでもあり、
無理なくできる範囲で動いて、
大きな流れに自分を載せていく感じ、
なんでしょうね。

わたしはまだ、しっかり流れを読めませんが、
読めるようになりたいと、ちょっとずつチャレンジしてます。

冷静な自己認識、飽きない進化への意欲、
「負けは逃げより100倍偉い」と思う勇気、
丁寧な状況の観察、動物的に効く嗅覚……
それらが一体となった「自分システム」が、
できあがり進化し続ければ、いいですねえ。

そうなると無敵ですよ。
すくなくとも本人は無敵だと思ってる(笑)

---

「フルートの為に息を研究してきたが、
 今では息の為にフルートをやってる気がする」
というフルート奏者の方のおはなしを、
甲野先生の御本で読んだのですが、
最近僕も、
「『書く』ためにものを考えてきたはずなのに、
 ものを考えるために書いてる」
気がしてきました。

ま、別にどっちでもいいか、と思っています。
どちらにせよ、楽しくやれてますから。



 3/12 背負える荷物の量

「死ぬまで期待の星」
っていうのはどう?

---

「がんばらんでええから結果を出せ」
というのは、冷たいようで、温かい。
がんばらんでええんですからね。

イヌ派ネコ派、キツネ型タヌキ型、
世を二つに分けるなら、
頑張るのが得意なタイプと、
結果を出すのが得意なタイプがいます。
いや、もう少し精密に言うと、
頑張るのが大好きで勝手に結果がついてくるタイプと、
結果を出そうとして第三者視点でいえば
頑張っちゃってるタイプ。

どっちも尊い。

頑張れ頑張れ言うじゃないですか。
でも世の中では結果もとても大事にされる。
どっちやねん、と若者は悩む。
「どっちもだ」という結論を得るのに、
わたしなぞ30年掛かりましたよ。
どうしてくれるんですか。

それはいいとして、
「頑張らんとこ」
とここんとこ思っています。
やるべきことをちゃんちゃんとやればいい。
それこそがとても大変なことで、とても大切なこと。
それ以上はまあ、趣味の領域です。
結果を求めるのも、必要以上に頑張ることも。

デキゴトの大きなうねりの中で、自分のできることなど
ほんのすこしです。
だから、そのほんのすこしを、できるだけきっちり、
たんたんとやるしかない。
自分の手の届かないところは、諦めるしかない。
なるようにしかならない。
そう思ってよく見れば、やれること、っていうのは、
やれるだけの量しか用意されてなかったりするのです。
だからそれを、きっちり・たんたん。

背負える荷物の重さは、決まっているのです。
それだけを背負って、歩き続けるしかない。



 3/11 言葉よりも。

お見舞い帰りに「ガスト」行きました。
悪い時には悪いことが重なるもので、
ユミ姉さんのオムライスに
ビニールのカケラが入ってたんです。

店員さん呼ぶと謝ってくれて、
「取り替えます」「もういいです、お金引いてください」
もう一つ上の役職の人出てきて
申し訳ありませんと謝ってくれて、
レシートが返ってきて、
オムライス分だけ引いてドリンクバー分は引いてない。
下の端の方に「クレームの為」と手書き。

もひとつですね。

それでいて
「こんごこのようなことがないように──」
なんてありえない言葉をたくさん並べてくれるのです。

言葉は、気持ちとぴったり寄り添って、
あるいはそれ以下で、はじめて力強く機能する。
気持ち以上の言葉は、マイナスにしかならない。

同じ話で、「牛角」なんかで
「はいよろこんで〜!」
って言うでしょう。
そんな喜んでるはずないですよね。
「よろこんで」なんてものすごく美しくステキな言葉、
国民の共有財産ですよ?
こんな風にザバザバ無駄遣いすると、
きっとバチが当たる。

……あ、すでに当たったかも……

不言実行少なくとも有言実行、
言葉は、大切にしたいものです。



 3/10 そんなこと言ってるから。

ある人が数十台の車歴に数台しか日本車がないことを
得々と述べ、
「日本車はカッコ悪いから乗らない」と。

逆説的ながら、
だからこの人は世界戦を戦えない。

つまりは、そういう尺度でしかものを計れない人間は、
活動範囲が狭いのです。
自分で国単位で区切っちゃってる。

ものごとは、「いい」か「わるい」かの二つしかなく、
国境などない。

いわでものことですが日本車にも世界に通用する
グッドデザインは山のようにあります。
僕個人の思いこみではなくて、
ガンディーニ(カウンタックのデザイナー)が
初代ワゴンRに乗りたくってるとか、
ユーノス・ロードスターがニューヨーク近代美術館に
入ってるとか、例はいくらでもあります。

そもそも、今は外人が日本車のデザインやりますし、
外車を日本人がデザインします。
最新のフェラーリ、612スカリエッティは
チーフデザイナ日本人です。
「日本車」というくくりをしたい、ってことはつまり
「日本人ダメ」とか言いたいようですが、そんなことはない。
そもそも日本人がダメなら、どこのクルマを選ぼうが
あんたがダメだ。

いや、あのね、どういう主義持っててもかまわないとは
思うんです。
日本車に乗らない、それはいい。
だけど、事実に反する根拠を持ち出すと、
バカだと思われるわけです。
僕だって「ノートPCとはThinkPadとそれ以外だ」とか
言ってましたよね。
でももう言いませんよ。時代と状況が変化しましたから。

結局、言葉というものは人を現してしまう。
おそろしいものです。



 3/9 直接触れてみないと。

「一次情報が大切だ」
とはジャーナリストの鉄則ですが、
それを痛感する日々です。

ほんまね、間に人一人入るともう全然違う。
二次情報なんかこれっぽっちも信用ならん。

2chはじめweb掲示板の活用ポイントはどうやらここで、
「匿名であることを活かして
 一次情報が書き込まれやすいもの」
はかなり情報価値が高いわけです。
社員暴露系、ユーザーの本音系。
S/N比はとても低いけれど、慣れれば見分けつく。
逆に、
「どうも二次情報しか書き込まれてないもの」
はどんなに伸びが良くても、
情報としてはほとんど価値はない。
おしゃべり/読みものとして楽しむのはいいけれど。

それはどんな情報でも同じです。
特にひとに関して。

たくさんの人からあまりいいように言われてないことが、
実はすごくいいことの裏返しであったり、
たくさんの人から誉められていることが、
実はかなりメタメタな舞台裏があってのことだったり。

根拠のない二次三次四次情報で知った顔をして
ペラペラしゃべるのはよそう、と大反省しています。



 3/8 愛語

bにも書きましたがこちらにも。
okbちゃんに教えて貰った道元禅師のことば。
人と接する4つの姿勢。

1.布施 物でも心でも。
2.愛語 やさしい言葉を。
3.利行 ためになることを。
4.同事 相手と心を一つに。

特に2.の「愛語」というのは、
とてもいい言葉だと思いました。
言葉使わせてもらって日々生きてる人間のはずなのに、
こういういい言葉を今まで知らなかったのは、
いや、お恥ずかしい。

人と接する時のみならず、愛語で i go.

---

言葉も生き物ですから、
大事にするとしっかり成長する。

おもしろいもので、便利すぎる言葉は、
みんなが粗雑に使いすぎるので、
寿命がみじかい。
最近の言葉なら「ウザい」というのは、
もう10年するとかなり聞かないと思います。
便利なので、多用されすぎて、意味が拡がりすぎて、
飽きられて、捨てられる。

お覚えのところなら、
たとえば「ダサい」は、今でもたまーに使いますが、
80年代中盤はことあるごとに言ってましたよね。
あんな感じ。

だから僕、「ウザい」使わないでしょ?
その時、その言葉の実力以上を出してる言葉を使うと、
経年耐久力が無いのです。
10年経ってみるとものっすごく古く見える。
会話ならまだしも、僕らのやってるものは残っちゃうので、
怖いのです。
(だから人が使う分にはぜんぜん気にしてません)

あ、あるいは美意識関連の単語は
基本的に寿命がみじかいのかな。
「違い」を表現する言葉ですから、
みんな使っちゃうとマズイわけですね。

これだけではないですが、
意識して使わない言葉、使う言葉はあります。
「なにげに」も便利すぎるのでなにげに使ってません。

それを日常に応用しろっつーの、このおバカさん。
反省。

---

4.同事 というのもいい考え方だと思います。
ボクタチはみんな、宇宙船地球号の乗組員……
などと恥ずかしいことを言わずとも、
一つ視点をずらすと対立ではなく協調できることもある。
変な例ですが国共合作とか。

誰もが、短すぎる人生をどう楽しく生きていくか、考えている。
ただそれだけの話で、それはもう、
みんなで協力した方が、楽しくできそうですからね。

---

最近学ぶことばかりです。
でもそれが多いことは、
自分のアホさを着々と知ってるということで、
ええことなのかな、
とひとり喜んでいます。



 3/7 救世主など来ない

「ごくせん」を斜めに見てました。
仲間由紀恵さんは綺麗ですね。
嫁に来てもええで。

日本人の大好きな「変形水戸黄門」ですな。
次元の違うスーパーパワーによる、
有無を言わせぬハピーエンド。

「暴れん坊将軍」は言うまでもなく
「仕事人」もその亜種ですし、
いや、そもそもライダーとウルトラは全部そうです。
ガンダム以前の多くのロボットアニメもそう。
ああ。
ドラちゃんもそうですな。

日本人は、といいましたが、
考えてみれば「Aチーム」も「ナイトライダー」も
それこそ「スーパーマン」もそうで、
万国共通かもしれません。

してみるとあれは、大衆の
「救世主願望」
みたいなものかもしれませんね。
どんなに苦しくても、
いつかとんでもない力を持つ
ジーザスクライストスーパースターが降臨して、
自分達を救ってくれる、
and/or
自分達の代わりに戦ってくれて
十字架にかかってくれる。

甘い。

イエズスも由紀恵も実在の人物ですから、
そりゃ無いとは言えませんが、
それはやっぱり、ほとんどありえない。

そもそもこの社会、作ってるのは我々自身です。
圧政だと暴政だと思うなら、
その政治家を政党を選挙で落とせばいい。
ただそれだけのことです。
誰でもできる。簡単に確実に安全に。
教育だって同じことです。
スーパー先生を求める前に、
やれることはいっぱいある。

作品自体にケチつけるつもりではなくて、
(というかわたしの仕事もそんなん多いです……)
これは夢、これはファンタジーとして、
明日からやれることやりましょう。

状況は最悪です。
でも、だからこそ知恵と勇気を絞り出すしかない。
チャンスとも言えます。



 3/6 オートマチック・ボディ

またぞろ甲野先生の御本読んでるのですが。
最新刊の「身体から革命を起こす」です。
最新でもあり、また田中聡さんという本職ライターの方が
実筆を担当してるだけあって、とても読みやすいです。
甲野入門としてオススメ。

これは他の本でもよく出てくる例なのですが、
「身体の装置化」
というキーワードがあります。
オートマチックに動く身体を、意識で操縦する感じ。

昔の、木組みの「ほぞ」を専門に掘る職人さん達の
ノミ使いはもう猛烈なスピード。
たまに木くずがついてたりすると、ノミが滑って、
太ももに大怪我をする。
もはや意識して叩いてるんじゃないんですね。
だから不可抗力があるとどうしようもない。

いいオートマチックマシンを作る、というよりも、
オートマチックマシンになってる時点で、
すでに桁外れのパワー/スピード/正確性が出る。
それはもう一体なんです。
強さ、速さ、正確さ、ぜんぶ一緒、その源泉は、
オートマチック・ボディ。

じゃそれをどうやって作るか、というと、
昨日のリスクコントロール・チャレンジの果てしないくり返し、
でしかない。

ただの「根性式千本ノック」ではダメなのは、
あれはリスクコントロールされてないからです。
ヘタにそれしても、
捕れる球捕って、捕れない球見逃すようになるだけで、
まさに逆効果。
だからといって、
いかにギリギリのナイス・チャレンジであっても、
1本ではダメなんです。
絶対的な伸び量が足りない。
リスクコントロールド・チャレンジをできるだけめいっぱい。
ここがポイント。

雀鬼桜井さんが、「1秒で打て」とルールを決めてるのは、
リスクコントロール・チャレンジせざるを得ない
状況に追い込んでるんですね。

成長計画は、
絶対量や絶対時間で決めるのではなく、
「チャレンジ量」
で決めるのがいいようです。

そしていったんオートマチック・ボディが作られれば、
とんでもない力を発揮する。
毎度の例ですが自転車です。
あれ、運転できない人から見ると
驚異のバランス感覚ですが、
一度コツ掴んでみれば寝てても運転できる。

これですな。

司馬叔父の文章などもう完全にオートマとしか思えず、
同じこと何度も何度も何度も何度も書いてるんですが、
そのたびにおもろい。
身体が勝手に書いてるから、その時によって
たくまざる微妙な変化が与えられて、
そこが新鮮なんだと思います。
「ちょっとずつ変えて同じこと言ってやろう」
と意識してては、絶対にこんな仕上がりにはならない。

オートマチック・ボディ〜〜〜!!!

---

で、昨日の話とだぶりますが、
実戦こそ最高の練習。
サッカー・アトランタ五輪組が「あの」ブラジル戦で、
「このまま終わらないで欲しい」
と思うほど、「今伸びてる」実感があったそうです。
あたりまえですよね、
最も厳しいリスクコントロールを
自他から求められる状況ですから、
最も伸びるチャンス。
手塚治虫さんが原稿料わざわざ上げずに
若い者に張り合うようにマンガ描いてた時期が
あったそうですが、そんなのも結局同じ。

リスクコントロールド・チャレンジである、
という一面で見れば、実戦も練習もない。
アーセナルの練習とか
ものすごいモチベーションらしいですが、
トップ選手達は結局、これをよくよくわかっているから、
練習でも本気全開なんですな。
あるいは量が少なくても、質的に極めていれば
「伸び量」としては問題ないわけです。
天才型は練習嫌いが多いですが、
そこの見極めが巧いんでしょうね。
だから量しなくてもだいじょうぶ。

とりあえず、すべての根本は、「伸びたい!」という意志。
それがあるうちは、だいじょうぶ。
そして「伸びた!」という実感、
あのなんともいえない喜びに飢えているうちは、
だいじょうぶ。

「ダメだ」と思う時は、
なにかと比べてダメだと思うわけで、
つまり良くなりたいからダメだと思うわけで、
まだだいじょうぶなんですよ。

ささ、リスクコントロールド・チャレンジ。



 3/5 リスクコントロールド・チャレンジ

いつもチェックしてるサッカーニュースサイト、
スポーツナビで湯浅健二さんが書いておられました。

「バランスのとれたリスクチャレンジ。
 それこそが選手の発展を支える唯一の基盤なのだ」

自分の言いたいことを巧く言われると、
膝を叩くと同時にすこし悔しい。

自分、相手、状況、それを冷静にもしくは直感で分析し、
リスクを計算し、あるいは感じ、
その上でチャレンジする。
それだけが、「成長する」「進化する」方法です。
実戦でも、練習でも、まったく同じ。
相手の気迫と能力が違うだけです。
練習でも実戦形式でも要素特訓でも、同じ。
単独でも、自分の限界へのチャレンジはできる。
そして、とにかくそれを数多く数多くこなす。
密度をあげ、ギリギリ度を極め、
チャレンジにチャレンジを重ねて、
成長を続ける。
勝利はその結果です。

私事になりますが、
コレ書いてて楽しい時と全然楽しくない時があります。
楽しい時、それはやっぱりチャレンジなんです。
溢れてくるイメージを書きなぐるにしろ、
自分の中のもやもやを形にするにしろ。
楽しくない時、っていうのは、チャレンジがない。
内容にしろ形式にしろ、昔やったことあるようなもので、
書いてて退屈してくる。

かつ、「バランスのとれた」というところも大切です。
自分の手の届くギリギリ外、
「できるかな、いけそうだな、でもわかんないな」
それが一番。
できることをできるようにやっても進歩ゼロ、
しかし遠すぎることをやっても、
徒労に終わってガックリきます。
これこそ、「敵を知り己を知る」ということですよね。

絶対通らないパス出してもダメ、
絶対安全なバックパスばかりでもダメ。

しかし、ということは逆に言えば、
「たのしい」と思えることを探していけば、
それこそがチャレンジであり、成長につながる……
のかもしれません。
「楽しさ」「おもしろさ」を感じられる方へ感じられる方へ
進んでいけば、それが進化のみち……

ものすごく都合のいい強引な解釈な気もしますし、
ものすごく同語反復くさいのですが、
いいんです。
真実とは事実ではない。
その人の思いこみです。

思えば……
通らないパス山ほど出してるなあ……
大反省。
パス成功率がやたら低いので下がった方がいいのかなあ、
なんて自信失ってたのですが、失敗多いってことはつまり、
パスの本数自体は多いんですよね。
……と、思おう。やっぱり前で。

全部そうです、生きてること全部。
リスクコントロールド・チャレンジ、
やりまっしょい。



 3/4 Open & Say myself

「オープンであること」と、
「意思表示をちゃんとすること」が、
これからはとても大切だと思います。

古来の日本社会が持っていたベースとしての
共通認識みたいなものが、今はもう無い。
ここなんです。
今はもう、10年前後するだけで
「話が全く通じない」
ということを、まずみんなで認めなければならない。
もちろんわたしも、
10歳上の人の言ってることは
バカじゃないかと思ってますし、
10歳下の行ってることは、
バカじゃないかと思っています。
でも、わたしも、10上10下の人から見れば、
バカじゃないかと思われてるのです。
ほりえもん、わたしの一こ下。

違う違う、バカではなくて、「違う」んですな。
世代だけじゃない、男女でも、貧富でも、
思想でも、とにかく社会的位置が変われば、
もう全く考え方がぐちゃぐちゃに違う。

徳川幕藩体制……とまではいかなくても、
敗戦前の日本には、濃すぎるぐらいに、
社会的な「こういう場合はこうだろ」というのが
あったようです。
だから、「以心伝心」や「言わずとも、」という話ができた。
それが、今は「まったく」ない。
ないのに、あったという伝統はあるから、
その幻想は残っている。
だから、そういう、
「よらしむべししらしむべからず」
が相変わらずまかりとおっている。
具体的には、
秘密主義と、根拠のない「まかせておけ」です。

だから、どの世代の、どの社会階層の人も、
まず、自分の意見と考えを、はっきりと述べる。
やりたいこと、やってることを、「こうです」と述べる。
そこではじめて、話し合いなり、殴り合いなりが
はじまると思うのです。

これを、民主主義という。

今はなんだか、ゴング前のチェックも礼も無いままに
お互いが凶器攻撃したり、無断欠席したり、
時には毒ガスが持ち込まれる。
ファイトにもなにもなってない。
本当に正しければ、あるいはよいことであるのならば、
時間と手間は掛かっても、通じるはず……
というのは理想論過ぎるとしても、
賛同者も出るはずで、あるいは、
いい知恵もよそから出るかもしれない。

いま、社会は、あらゆる場面で、
「そんなこと言うとる場合やない」
と思います。
環境、食料、エネルギー、教育、科学、財政、金融、
地方自治、福祉、医療、年金、軍備、
どれもこれもズタズタではないですか。
とにかくみんなで知恵を絞って、
ちょっとずつでもいい方に、
失敗をくり返しながらでもチャレンジしていく他はない。
その最初の最初の第一歩は、
「今こんな問題があって」
「わたしはこう思います、あなたはどう思われますか」
というところだと、思うのです。

なによりも自分を振り返って、強くそう思いました。
オープンに、自分を話す。



 3/3 (無題)

御大が倒れられました。

冗談じゃないです。
これから、これからじゃないですか。

早くよくなってください。
ほんとに。
ほんとに。



 3/2 精一杯精一杯

「精一杯今を生きる」と、
「今を生きるので精一杯」では、
だいぶニュアンスが違いますな。

わたしは両方……

「おおよそこんな感じやろな」
という方向性は見えてきたので、
あとは実践、実戦、というのが今のわたしです。
3月はそんな感じでいきたい。

うち、メーカー出身なので
どうしてもこの考え方が抜けきれない。
というよりも、
こういう考え方の人間だからメーカーへ行った。

文章というのは商品でもあり製品でもあります。

両者は時に相矛盾し、時に相互補完する。
あたりまえですわな。
人気があって良品もあるし、人気のない良品もあるし、
人気のある粗悪品もあるし、人気のない粗悪品もある。

頑張ったり、腕があがると、
少なくとも「良製品」は実現できるのです。
「買って損なし」
だから、メーカー(作り手)としては、
せめてこれは。
それが良心というもので、良心というものは、
そうしようと思ってそうするのではなくて、
そうしなければいてもたってもいられないもの、なのです。

でもそれと、商品としての良し悪しとは、
ぜんっぜん別なんですな。
表現物は特に、生活必需品や食料品と違って
「無くてもいいもの」なので、「買って損なし」というのは
魅力になりがたい。
それでは困るので、みんなウンウンいいながら、
「良商品」をめざすわけです。

わたしは、でもやっぱり、まず「良製品」であって
その延長に「良商品」でないと駄目なんじゃないかなあ、
と思うのです。
本当に時空間耐久力がある、
いわゆる「いいもの」っていうのは、
たいていがそうです。
ヴィトンの鞄は、やっぱ出来がいい。

というよりも、自分はそうでないと作れない。
カッコつけてるわけではなくて、そういう体質なのです。
気が弱いというのもあるし、
自分が一番楽しみたいという欲もある。

んで、最近は、二兎を追わずに、
とりあえず己の考える「良製品」とはなんぞや、
というところをぎゅーんと極めてみればいいのかな、
と思って、そんな風に進めています。

ところが、そう思ってやってみれば、
実はそれこそが難しい。
「好き勝手」と「自分の思うベスト」ってのは、
ぜんっぜん違うんです。
わたしこれほど毎日お仕事としていやいやながら
妄想に耽っているではないですか。
それでも、webにあるとっても可愛い「男の子の」
写真一枚でぶわーっと新展開が起きる。

「自分の考えるイイモノ」すら、
まだなーんも確立しとらんわけですな。
いや、そんなものは永遠に確立しない。

つまりさらには、
そういう商品と製品の区別をつけること自体が無意味で、
「いい」と思うものを
その場その場手探り手探りで見つけていくのが、
つくる
ってことですかねえ、とも思ったりするのです。

となると、ですね。
やっぱり、「ぱっとやる」っていうのが凄い大事で、
雀鬼流に言えば1秒、甲野先生流に言えば「居つかず」。
パッとイメージしてパッと。
「これだろーどーだー!」ってのでは、ダメなんです。
いや、それも有効ではあるのですが、
そればかりではない。
それよりもずっといいやり方がある。
ここが罠で、
普通、この「これだろどうだ」力を
パワーアップさせようとする。
それは、ある程度上がるんですけど、頭を打つんです。
比較的早く。

ていうか打った。
打ったからこうやってフラフラしてる。

今までの「これだろどうだ」式を捨て……というか
いったん横へ置いて、
ひゃっ!・ぱっ!・はっ!
という感じで、攻めてみたい。

……と、書いてるうちにその気になってくるものです。

たまーにできるようになってきたんですが、
それを常に出すのはまだできません。
おなにーみたいなもので、一回コツを掴めば
あとは死ぬまで出しっぱなせる
──ヤな例えだな──
と思うのですが。
まあ、おなにーみたいなもんですしね。
いや。
それそのものか。

くり返しになりますが、
イメージ作ってキャラ考えてプロット作ってシノプシス組んで
構成固めてシーン描いてはい行こう、
っていうのとは違うやり方、
(それを否定してるわけではないです)
それ全部が描くのと同時並行に行われる、
そんなやり方を現在模索中。

これができれば相当気持ちよさそうです。

いや、上の例えから連想したわけではなくて、
ごくわずかな成功例を思い出すに。
「ドラグーン」とかそうでしたよ。
あれはまあ、プロットがあるからズルイといえば
ズルイのですが。

どうしてこんな、あんまり代わり映えのしないことを
いちいちいちいち書いてるかといえば、
こうして書き残しておけば、
明日交通事故で死んでも、
すこしは世のため人のためになれるかもしれない、
という淡い期待もあって。
僕が今いる地点までの道のりで、
同じ悩みを持つ人はきっといるはずで。
いまんとこ子孫も居なければ
教育に携わってるわけでもない、
わたしのせめてものせめてものです。

精一杯今を生きるので精一杯。

ベストじゃん。



 3/1 世の中の方が間違うとる

また大風邪ひいてしまいました。
一昨日「治ったかな?」と思って
夜更かしして本読んだりしたのが運の尽き。
昨日どしゃーっと。

ほんと治りかけこそしっかり安静、ですね。
ご自愛めされ。

---

不思議だと思うんです。
ミスドとかドトールとかよく行くんです。
バイトの女の子が上がって着替えて出てきますよね。
おおよそ、バイトしてる時のが可愛い。

仕事中の緊張感、キリッとしてるところが魅力的に
映る、それはもちろん大きい。
でも、それだけじゃなくて、
物理的にも、今のファッションとかメイクとか、
「抜本的に」
間違ってんじゃないですかね。
根本的に。

一例ですけど、僕あの「青いアイシャドウ」って、
日本人女性には100%似合わないと思うんです。
今まで合ってる人見たことない。
ただの一度も。
あれは白い肌専用、いやむしろ黒い方がまだマシ。
黄色には絶対ダメです。

おかしい?

アイシャドウってシステム自体を否定してるわけではなく、
色とか付け方とかあると思うだけなんですけど。

そんなことを考えてくとね、いろいろ
「抜本的に間違ってんじゃないか?」
ってことは世の中どんどん溢れてくる。

たとえばウチの住んでる超下町の狭い道を、
クラウンが走り倒すわけです。
1階がオール車庫で実質2階建ての3階建てから大発進。

そんな大事なもんですか、クルマって。
高い土地の1階層分を割り当てるほど大層なもんですか。
梅田の難波の真ん中ってならまだしも、こんな下町で。

「そんなもんだ」「そんなもんだ」「そんなもんだ」
を繰り返してるうちに、
宇宙空間での姿勢制御噴射みたいなもので、
とんでもない方向へ向かってませんかね。

ひとつひとつ考えてくと、気が狂いそうになるので、
ええ加減なところで感覚と感情にフタをする。
ほんの微かに「それじゃダメかな」と思いつつも。

それじゃ、ダメなんです、ほんとはね。
実は、世の中の方が間違ってるんです。
それでいいんです、君は合ってる。
ただ、「直そう」とか、「それじゃダメだ!」とか
言ってても、ストレス溜まるだけなんです。
それは、損。
だもので、間違ってる世の中と、
どう折り合いをつけるか、ここがプロブレム。

最近僕のよく取るイヤラシイ作戦は、
「これを俺のやってることに応用できんか?」
という目で見ることです。

たとえばミスドの話だったら、超ベタですが、
クラスではめだたなーい女の子が、ちょっと離れた駅前で
バイト始めて、ひょんなことからそこへ行った主人公が
その凛々しい姿にビックリそしてハッとする。
彼女は忙しくて気づかなかった。
彼は実は結構イケメンで、女の子にはモテモテ。
そんな彼がある日突然彼女にアプローチしたもんだから、
クラスは大騒ぎですよ。
(以下120行略)

とか。

これがね、効くのよ(笑)

多少ずっこいような気もしますが、
どうせどうにもならんのならせいぜい利用してやろう、
そんな厚かましい気分がいいかな、と思います。
そうやって関わるうちに、
ちょっとずつなにか変わっていく……かもしれない。
こみっとこみっと。





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