■ ほえなが ■

和顔愛語 (道元先生)
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。(親鸞先生)

 4/30 input

本日は4/1から4/30までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)

■本■

 「太平洋戦争 日本の敗因1 日米開戦 勝算なし」 NHK取材班 (角川文庫)

 「太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器「カミカゼ」を制す」 NHK取材班 (角川文庫)

 「太平洋戦争 日本の敗因4 責任なき戦場 インパール」 NHK取材班 (角川文庫)

 「太平洋戦争 日本の敗因5 レイテに沈んだ大東亜共栄圏」 NHK取材班 (角川文庫)

 「太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の終末」 NHK取材班 (角川文庫)

 「歎異抄」 金子大栄校注 (岩波文庫)

 「ゴッホの手紙 下」 J・V・ゴッホ-ボンゲル編 (岩波文庫)

 「人間について」 司馬遼太郎・山村雄一 (中公文庫)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 09 台湾紀行」 (朝日新聞社)

 「失踪日記」 吾妻ひでお (イースト・プレス)

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今月はあんまり読んでないなあ。
えと、でも「日本の敗因」シリーズはとてもおもしろかった。
今も何一つ変わってませんよ。
雰囲気で動く上層部に振り回され死にゆく愚昧な大衆。
そして誰も責任を取らない。
もうね、諦めるしか。

でも、こういう弱点があって、
それは上手く活かせば長所にもなる、
それを覚えておくことは大事なことだと思います。
太平洋の国々をくちょくちょにしてしまったのですが、
日本も同じようにくちょくちょになっており、
じゃなぜこの国は今こんなアホみたいに豊かなのか。
刃物はうまく使わないと。

「歎異抄」もおすすめです。
物理的にはすぐ読めます。
中身は一生かかって読むものでしょうけれども。

やっぱすごいですよ、親鸞は。
1200年代はじめに
「人間の力なんてなんにもならんねや!」
という真理に気づいてそれをテーマにしたわけで、
それはルターより300年早いわけです。
ルネサンスよりもちょと早い。
まさに日本の誇る世界の偉人、思想家、哲学者。
本願寺は積極的に輸出すべきです(笑)
いわばエコ思想ですからね。
そう捉えれば800年早い。

結局、3段階あるのかな。
まず教祖がプリミティブな「宗教心」「信仰心」を
絶対者もしくは絶対状態を中心に据えて
一大体系にまとめ上げる。
わかりやすくなる。
しかしいずれ矛盾とボロ、そして社会が進歩して
そぐわない点が出てくるので、
「いや細則じゃなくてハートが大事なんだよハートが」
と言い出す大改革者が出る。
今はそれでも厳しくなってきた。
代替絶対者がポツポツ出るのですが、
それはヒトラーから麻原から細木数子まで。
つまり絶対者もしくは絶対システム自体が
「トイレ」というフランス語が汚れちまったように
信頼されなくなってきてますから、
方向としてはもう絶対者を捨てる方向しかない。

でもその軸というか種というか光源というか、
それは持った方が生きやすいのは間違いない。
でもそれを、仕事や家族やお金といった
「失われうるもの」に置くと、
失った時に全軸折れちゃって復帰が非常に困難になる。

となるとそれはやはり、個々のこころの中に、
自分で育てるしかないのかなあ、と思います。
わたしの中の、わたしという神様。

けして宗教が必要ないと言ってるわけではなくて、
つるしでフィットすればそれでいいわけですし、
また自分の中に作っていく時に昔から洗練された
システムは非常に参考になります。
でもま、神も仏もいないわけです。
いや、居ても何もしてくれないヤツなので、
祈る必要などない。
JRの事故でなくなった方がなにをしましたか。
フィリピンの住民が広島の人々がなにをしましたか。
なぜ、非業の死を遂げなくてはならんのですか。
これでなお信じてくれなどというのが腹立たしい。
サービス業やろ。やることやってから金を取れ。

4月は、そんな月でした。
今年は桜をゆっくり見る余裕なし。
でも、今年の若葉はずいぶんキレイだと思いませんか。



 4/29 コツコツつくる

今日はまずこれをご覧あれ。
なんでもつくるよ。」で製作中でした
1/1スコープドック、遂に展覧会にてお披露目です。
一枚目の写真、
トラックに行儀良く座ってるスコープドックがたまりませんね。

おっちゃんらが子供の頃はまだ「宇宙」に憧れがあって、
初スペースシャトルの着陸シーンとか
ずいぶん感動したものですよ。
あれなら毎週のように宇宙へ行けるんじゃないか、
僕らが大人になった時には、
数千万積めば月旅行にだって行けるんじゃないか……

いろんなところで人類はそれどころじゃなくなって、
また、ネットの普及でインナースペースもしくは
ニアリィスペースと申しますか、内面や近しい接触が
おもしろくなっちゃったこともあって、
今はガックリペースが落ちてますけども、当時は確かに
「宇宙、それは最後のフロンティア」
だったのです。

そんな中で「ボトムズ」は、
宇宙あり兵器あり陰謀あり渋芝居あり
ファンタジーありそしてロボット同士のリアルバトルあり、
なによりボンボンで連載された時の
フィアナが可愛かったんだこれが。
途中でクレーム来たのか(アニメと絵柄が違いすぎる
という点で)顔変わっちゃったんですけど。

でもまさかスコープドックがトラックの荷台に乗る日が
来るとは、ねえ。
メカデザインの大河原さんや高橋監督も製作現場に
駆けつけたそうですが、嬉しいでしょうねえ。

実質ひとりでコツコツ作られたわけで、
こういうの見ると「つくる」という行為の
とてつもない力強さを感じます。
ああ、そういやその頃(ボトムズが本放送だった頃)
エンジン掛かりだした「グイン・サーガ」が
こないだ100巻達成でしたよね。
あれもコツコツの頂点で、
あの頃は「マジですか」だったんですが、
見事にマジになってしまいました。

心と身体が、暖かくなりますな。
あたりまえの言葉ですが、
やればできる。
僕もコツコツやろう。

「つくる」みなさんに、乾杯。



 4/28 フツウ

さっき風呂で気づいたんですけど。
私は方法論オタクなんですな。

はっはっは。
頭と口はもういいから手を動かせ。

ということで今日も一席。

---

ここ数日悶々と考えるのは、「フツウ」ということです。
フツウってのが、ものすごい重要なことじゃないかな、
と思うのです。

昨日のお話のように、
フツウ=中庸、「トータルで最高効率」という
高度な結果を生む、それがひとつ。
でもそれだけじゃなくて、いろいろ
フツウの良さ、なぜフツウであるべきか、
それがあるような気がしてならない。

キッカケはですね、
えーお恥ずかしいのですが、気まぐれに
すこぅしエロティックなサイトでも覗いていたとしましょうよ。
「素人娘なんとかかんとか」
僕も長年独身男性やってますから言いますけどね、
そういうコンテンツにアタリなどほとんどありえない。
素人と言っても中途半端なプロだったり、
そもそもど素人ですと、当たり前ですが
(そしてそれが売りなのですが)
「見せる」ためにできてない。
と、やっぱり、つまんないんです。
見れば見るほど、ちゃんとしたメーカーで
ちゃんと作られたAVのクオリティってのが痛感される。
女優さん男優さんはもちろんですが、
脚本、カメラ、照明、編集、音声、
やっぱりメーカーものはよくできてる(ことが多い)。

ところがその日に限ってぼんやり見つめて居ますと、
「……むっ!?」
ぴこーんと妖気アンテナが立ったんです。
立ったのは妖気アンテナですよ。キタローのあれね。

そこにいらっしゃったのは、
実に素人くさい素人娘さんでした。
いやそれは当たり前か、えーっと無理に言うなら
「裸になんかなりそうにない」娘さん。
それは、「えっ、こんな可愛い子が!?」っていう
意味じゃなくて、ほら、そこらを歩いてる女子高校生が
いきなり脱ぐわけないですよね。
いや、たとえばそういう子を掴まえたとしても、
脱がす覚悟を決めさせると、
その瞬間にその子はAV一本目の女優さんになる。

違うんです、そこらを歩いてたまま素のそのままで、
そこに画像がある、そんな感じ。

そういうサイトには、山のようにセクシャルな
画像があるわけです。
それらおおよそすべてが、
「人を興奮させよう」という意図のもと
作られ練られ選ばれた画像です。
そんな中で、そういう意図すら感じられないほど
「素」のはずのその画像が、
やたらめったら輝いて見えるのです。

非常に逆説的ですよね。
すっごいバインボインのプロのお姉さま方が
「なんでもしまっせ」と待ちかまえてる中で、
そんな右も左もカメラもわからないど素人が輝いてるなんて。

でもよく考えてみれば、
これこそが真理ではないか。

だってその子も、まあフツウに生活してれば
フツウに誰かと恋に落ち、フツウに結婚して、
フツウに子供もできて……となりますわね。
つまりいずれは、「そのようなこと」も行うわけです。
これはほぼ間違いない。
ということは、その画像は、嘘じゃない。
特別なものでもない。
ちょっとそのフツウの真実を先取りしたもの、です。

で、逆に、プロがお仕事としてやったるで〜っていう画像は、
「フツウじゃない」。
あたりまえのことですが、嘘です。
演技であり仕事であり、虚構です。
もちろん素人娘でも、スイッチ入っちゃってると同じことです。

我々はなにを見たいかというと、
(この場合ならエロイものという)
世界の真実です。
通常それは覆い隠されているので、女優さんはじめ
スタッフが頑張って「再現」してくれてるわけです。
そうじゃない、その素人娘さんは、
覆い隠されてるはずのその真実を、
(たまたま偶然であれ)
そのままに見せてくれた。
だから「うおっ」と思ったんです。

これだ!

僕のやりたいのはこっちの方向で、
つまりは世界を救う勇者様が朝おしっこに立つと
尿の黄色が濃くて「疲れてるのかな……」と思う、
そんなワンシーン。
勇者様も、人間よね。

それが今言う「フツウ」です。

だってさ、人間って結局人間しか興味ないのです。
もっと言うと自分ね。
そしてせいぜいプラスして、それをとりまく自然環境。
だったらやっぱり、そこをぎゅーっと表していくのが
いいのかなあ、と思ったわけです。

普段メディアを通じて触れる商品というのは、
でもまるで逆なのです。
「ちょっとでも変わったことをしよう」とする。
それによって耳目を引き、付加価値をつけたつもりになる。
おっぱいを丸々放り出し胸を張って「どう!」
そんなんで興奮しますか。
いやなさる方も多いかもしれませんが、
それは、真実ですか。
だいじなのはその中にあるハート、コンセプトの部分で、
簡単に言えば、
あなたはじゃあ逆の立場になったらOKを出すのか、
そこが問題です。

……と、まあたいへんショックを受けたのですが、
じゃ具体的にそうした真実をいかにフツウの中に見出して
いかに伝えるか、というとこれがとても難しい。
そう、難しいから(ほとんど)誰もやってない、
そういう面もあるようです。
平凡とは違うし、天然とも違う。
リアリティを追求する、っていうのとも違う。
そんなこと言い出してる時点で、嘘ですからね。

ま、ひとつ思うのは、結局、
「フツウ」=「自然」ですから、
だからぐさっと刺さるわけで、
となるとナチュラルな現実をよくよく見て、
ていねいに描いていく他ないのかな、
てところです。

「ただその女の子が好みのタイプだったんじゃないの?」
という極めて真実に近そうなクエスチョンは却下だ。



 4/27 シャツとシャンプーとわたし

またどうでもよきことを。

こないだ久しぶりにブレザー着た時に、
久しぶりに一枚のシャツを着たんです。
むかーし百貨店で買った一応カジュアルブランドのもの。

これが着心地良くてさ(笑)

服って偉大ですね、着心地のいい服は疲れませんね。
僕の礼服は一番太ってた時に買ったものなので、
身体に合ってないんです。
だから一日着てるとすごーく疲れる。
(祝儀不祝儀、疲れるイベントに出るというのもあるが)
ところがこのブレザーは今の体型と合ってて、
疲れない。

シャツも安物のカッターだと、腕も首も数字的には
合ってるはずなんですけど、なんとなくしんどい。
僕はコットン信者なので、
「綿100にあらずんばシャツにあらず」なんですが、
同じ綿100のはずなのに肌触りもなにも全然違う。

健康だって左右しますよ、きっと。これ。
だって身体直接縛ってるものですからねえ。

年とってくると、経験も豊富になるし、
あと少しずつ衰えてくるので(泣)
センサーがこういうのに敏感になりますね。
お年寄りほど寝具にはうるさいものです。

ありゃりゃりゃりゃりゃー、と感心して
事実その日一日ずっとそのシャツ着てました。

考えてみれば服も工業製品であり職人芸でもあり、
「ながたさん、メーカー出身じゃなかったの?」
と嗤われそうです。
そう、同じスペック・仕様でも微妙なノウハウの差で、
最終的にはものすごーい差がつくんですな。
いや、おみそれしました。

普段は「服などどうでもいいや」と
安物ばかり着てたのですが、
確か1万円はしなかったと記憶するので、
2000円のシャツで肩が凝るぐらいなら、
そのぐらいなら出そう、と。

結局、どうでもいいなら、逆にちょっと出して
「ちゃんとしたの」をポンと買う、
それが一番気を遣わずにかつ幸せである。
そんな当たり前にハタと気づいたエピソードでした。

ここんとこ「自然に還れッ(泣)」とばかりに
無シャンプー洗髪やってたんですけど、
最近はそれじゃ翌朝の跳ねを直すのに時間が掛かると
さとり、極少量使ってます。
こっちの方が、トータルではラクチン。

中庸ってのは、こういうことなのかな。
トータルで、ラクチン。



 4/26 それそのものとして楽しめれば

「それそのもの」
として楽しめると、
生きることはたいへんに楽しいものです。
仕事、学び、書くこと歌うこと、サッカー、恋。
なんでもいいんですけど、
「○○のための××」
という因果律を考え出すと、
世の中は理屈通りにいかなすぎて、
とたんに苦しむことになる。

人に親切にするのは、
そうすると自分が嬉しいからであって、
それ以外の何を得ようとするものでもありません。

君を想うことで、自分の中があったかくなるんだ。

うひゃ。

ということで、
「そのものとしてできる」
という一点を守るように努める、気をつけるのが、
いいのではないかなあ、と思うのです。

それでも、僕ならば常に、
「いいの書こう」という欲と結果を考えちゃって、
指が止まる。
いかんいかん、と思い直して、これを書いてます。
書き出せば、思い出すんですけど。
でもそれそのものも、
つまりは進化・成長への意志であって、
決して悪いものではない。
上手くつき合って、前進への力となってもらうよう
協力を要請するのがいいですね。

そのものとして楽しめるもの、
それはそこらに転がってて、
思いもかけぬものがフィットしてるかもしれません。
また、ひとつだなんて限らない。
僕FFで調理人やってるんですけど、非常に楽しい。
調理人はアホばっかりらしく、
食品の値段はどれもこれも常に原価前後なのですが、
私もアホの一人で、
つまり、作るのが楽しいんですよ。
ちょっとルートが違えば料理人とは言わずとも、
食品関係の仕事してたかもしれません。

メインのコレも、よりさらに、
他にもいろいろ見つけつつ、
「それそのもの」で楽しみたい、です。
そういうの全部まとめると、結局、
「人生それそのものが楽しい」
になりますからね〜。



 4/25 空気

NHK取材班の「太平洋戦争 日本の敗因」シリーズが
届いたので、3冊読んでどんよりしてました。

問題は、その当時の愚かさよりも、
未だになにも変わってない、という点ですな。
このシリーズで何度も描かれているように、
「空気」に支配され、スパイクな性格と行動の持ち主に
引きずられて道を誤る、
それは今も日本のあらゆる部分で起きてることです。

えらいがくーんと身近な例にしますが、
あるプロ野球球団なぞもう3年も
「中継ぎ・抑え・機動力不足」
とわかっているのにその欠点を直そうともしない。
あの商売に目が眩んだレアル・マドリードでさえ
DFも守備的MFも一応は補強しているというのに。
中学生でもわかる間違いを直さない、
そんなもんプロつまり金取れるコンテンツじゃないですよ。
誰が見ますか。

でもこれ結局、「空気」なんでしょうねえ。
だからいったん崩壊するまで突き進む。
その球団も、成績もですし放送コンテンツとして価値を
ものすごく落としてるのに、未だに高価な引退寸前
メジャーリーガー連れてきては解雇してる。
どんな素人が見てもフィリピンが陥ちた時点で
陸海ともに戦争持続能力を物理的に
失ってるではないですか。
それをグズグズグズグズ本土決戦なんて妄想見てるから、
沖縄で原爆でシベリア抑留でまたたくさんの人が死ぬ。

同じ。
だから最近、気分悪くてナイターなんか見てられない。

いや。
当時の指導者達を非難するのは簡単です。
でも、それが我が身に同じことが起きる、いや、
「私も同じことを起こす」
と実感を持って思い知り、
そうならないように肝に銘じるのは、簡単なことではない。
否、すでにあなたはいくつも何度も、
これに類する「空気」に流されて、
やりたくないことややってはいけないことを
やってるはずです。
そういうのが大嫌いで、いつもそうなったら逃げ出す
僕でさえ、思い起こせばいろいろありますもの。

つまりなぜ気分が悪くなるかと言えば、
自分もそうなるからです。
そうだからです。

ということで、それはもうそういうものとして、
(そのエキセントリックな沸騰性があるからこそ、
 日本はここまで来たともいえる)
あるエッジに来た時にはおたがいに戒め合うしか
ないのでは、と思います。
そのためにも、家族や友人というのは大切で。
そして聴く耳が大切で。

いやはや。
どんな資質も、プラスにもマイナスにもなります。
できれば、上手く活かすことを考えていきたい。
言いたいことは、はっきり言ってね。



 4/24 サファイア・プリンセス

よい友人は宝である。
長崎の船大工Iが、日本に寄港した豪華客船
Sapphire Princess」見学の労を取ってくれた。
もちろん、彼の造った船である。

厳しくはないものの一応ドレス・コードのために
喪服以外ではいつ以来ぶりかすっかり忘れたスーツを
着こんで天保山に向かう。
大阪港駅を降りて笑った。
もう観覧車の向こうにそびえ立っている。
極めて横長の巨大ビルが突如出現したようなもので、
ちょっと目と感覚がクラクラする。
海遊館を見下ろす巨大なハコ、
体感的にはヨドバシ梅田よりまだ大きい、
と言えば大阪の方になら少々通じるだろうか。

大阪の場合、船に近づくにも関門があって、
関係者以外入れない。
長崎なら誰でも船間近まで寄れるらしく、
なぜそんな違いがあるかと言えばもちろん国民性である。
大阪は日本ではない。
アジアだ。
現に人の大きさより巨大な看板に
「立・入・禁・止」と赤で書かれてあるにも関わらず、
自転車のおっちゃんがノールックで突っ込んでいき
警備員に止められていた。
見えてないフリとかそんな姑息な話ではない。
ワシがルールブックや。

余談であるがその昔、
できたての第二阪奈トンネルを通ろうとした際、
対抗側で車両火災が起きたらしく、
トンネル前の信号機が煌々と赤であった。
もちろん私はアクセルを緩めたが、
前車は次々に吸い込まれていく。
自らの生命より右に倣え、
それを見て当時まだ20代の私は
「日本人は駄目だ」
と本気でこの国の行く末を憂えた。
なんのことはない。
大阪のおっちゃんら信号見てないだけである。
歳を取ると愚かにもなるが、同じだけ賢くもなる。

Iの同僚のMさんが迎えに来てくださった。
保証技師ということで、船に乗って船側からの
改善要求を会社に伝えたり、
現場作業を監督したりするそうだ。
Iも5月にはシアトル港での作業に飛ぶという。
さすが豪華客船。

船体入り口でパスポートと交換にビジターパスを貰う。
顔写真をデジタルで撮ってX-rayを通ってようやく
船の人となる。Iと合流する。

ひとことで言えば「密度の高い豪華ホテル」である。
限られた空間にこれでもかと施設とクルーが
詰め込まれているので、なおキラびやか感が高い。

誤解していたが豪華客船クルーズというのは
来る日もずっと船の上、というものではないらしく、
朝に港、ツアーが出てそこを観光、
夕方帰ってきてディナーでダンスで映画でと
お客が遊んでるうちに、
しずしずと船は進んで翌朝にはまた別の港へ、
そんな段取りらしい。
で、あるから基本的に夜の施設なのである。
レストランは7つ、イタリアンのスペシャル1つを除いてフリー。
(アルコールやアイスクリームは別)
24時間オープンのビュッフェへ連れて行ってもらった。

もちろんだがヘタなホテルバイキングなどより
はるかに豪勢なラインナップ。
味は意外にもとてもあっさりしていた。
客の年齢層を考えてのことか、あるいは世界各地から
集まることを考慮してか。
愚かな私は飲料のブランドを見てもさっぱり知らず、
エスプレッソをマグカップ一杯取って堪能し尽くした。
そうそう、お皿を渡される前にジェルのアルコールで
手の消毒が義務づけられていた。
やはり船、衛生にはとても厳しい。

Iに仕事自慢をしてもらう。
「冒険」をコンセプトにしたバー、
古き良きアメリカ風バー、昔の船室風バー、
星の輝くディスコ(子供向けまである!)、
あるいは「日本」をイメージしたカジノなど、
(「うどん」スロット! わけわからん)
多彩な夜の街がこれでもかと並ぶ。
シアターなど本格派もいいところで、
規模でも格式でも設備でも、
小さな街の映画館では太刀打ちできないほどだ。
映画に劇にショー、そこで本場アメリカから呼んだ
エンターティナー達があらゆる芸を魅せてくれる。
そうそこはまさにプチプチラスベガス。

西洋へ旅行に行くと常に感心するのがその「過剰感」で、
ヴェルサイユ宮殿など出るのはため息ばかりであった。
人間の欲望には際限がない。
その時、いけるところまで突っ込んでいこうとするか、
どうせキリがないならすべてを諦めようとするか、
そこに優劣は無いだろう。
向き不向きはあるにしても。

エステにサウナ、スポーツジム。
プールは一体いくつあるのかわからない。
一部は温水プールになっており、上部は開閉式ガラス張り。
むろん暖房が効いており、つまりは365日どこでも
泳ぎと甲羅干しを楽しめる。
サイバーゴルフにパットゴルフにジョギングコース、
これでもか、これでもか。

忘れていた、一般的な船室はさすがに広くはないが、
それでも都心のビジネスホテルほどはある。
あるクラスから上はすべてプライベート・バルコニー付き、
裸で潮風に吹かれても誰からも文句は出ない……
と思う。

デッキに出ると停泊状態でも実に心地よい。
潮風には、妙な魅力がある。

さて、船旅と言えば超お金持ちのもの、と思われがちだが、
これで2週間のクルーズをして、
出港地下船地への往復航空券つき、
もちろんコース・部屋・出発日にもよるが
一人25万30万である。
決してべらぼうな額ではない。
定年記念や銀婚式向けなら極めてリーズナブルであろう。
船員は世界各国から集められており、
一応公用語は英語であるが、
日本からのツアーともなれば
もちろんのように添乗員が貼りつく。
病院・医療スタッフも完備、安い海外旅行より
安心で安全。
というより、都内で2週間豪華ホテル住まいをすれば、
食事やエンタメ代入れれば
総支払いはこんなものでは済むまい。
そう考えれば、安いとも言える。

---

元々この客船クルーズを企画していたのは
イギリスの会社であり、
それがアメリカに渡ってショーアップ・ビジネスとして
大受けを取ったらしい。
企画・船旅・ホスピタリティがイギリス、
アミューズメント・サーヴィスがアメリカ、
それを容れるハコは、
内装品やそのデザインがイタリア、
船体と総製造は日本。
地球最強のカルテットが適材適所に配置されており、
なるほど隙がない。

クルーも前述通りあらゆる国から集められており、
(コストダウンになる)
バッジを見れば、インド人ガードマンや
イスラエル人ウェイター、思わぬ国から働きにきている。

地球は狭くなった。

そのイスラエル人ウェイターに声をかけられた。
日本の街に遊びに行って買った健康食品の解説を
して欲しいと、外箱を見せる。
マンナンライフの出しているEPAやDHAの入った錠剤らしい。
Iが英語でやりとりする。
今さら言うまでもないことだが英語はPCなどと同じ
コミュニケーションツールであって、
自転車と同じぐらいには操れないといけない、
というよりも、損をする。
ラジオ基礎英語でも聞こうか。

話を戻すと久しぶりの豪華客船ということで手先も慣れず、
後述の事故もあって船会社・三菱重工業は
大赤字を出したらしい。
が、やった仕事への評価はとても高く、
引き合いが次々に舞いこんでいるらしい。

やらねばならぬだろう。
というよりも、
ここからが勝負であり商売ではないか。

世界がこれだけ狭くなったのだから、
得意なことをやればいいのだ。
ハコそのものに魂を込めさせれば日本のメーカーは
世界にいや宇宙に類がない。
ビジネスや余興や飾りはよそさまにおまかせして、
魂の器そのものを鉄板から削り出すのだ。

ソフトの方が儲かる? 客商売は人商売?
言わせておけばいいのだ。やらせておけばいいのだ。
「お父さんがあの船を造ったんだよ」
白亜に輝く現代版ピラミッド、サファイア・プリンセスを
目の前にしてこの言葉より誇らしく高らかに言える
言葉はないだろう。

この船、実は建造中に大きな火事を出した。
そのため一番船「ダイアモンド・プリンセス」だったはずが
二番船「サファイア・プリンセス」となる。
口の悪い船大工達は
「ザ・ファイア・プリンセス」などと笑い合う。
それをゲンが悪いと取るのも、
不死鳥のごとき復活と取るのも、
それはその人次第だが、
前半部が丸焼けになってなおそれを復旧し、
その痕跡など跡形も残らず美麗に仕上げてしまう、
その高い技術そのものは、今現にそこにある。
苦境の続く三菱グループにとっては
「復活」のアイコンになりうる偉大な仕事であって、
もっと大声でアピールしてもよいように思う。
こんなところで謙虚になる必要はない。
どれほど自慢されても、現物を見れば乗れば、
その仕事がどれほど大きなものか肌で識る。

---

客船入り口ではIのご両親と顔を合わせた。
満面の笑顔で、後で聞けば
「これには(客として)乗らんといかんな」
と大喜びしていらしたとか。
息子の造った船で豪華クルーズ。
こんな親孝行が他にあろうか。

当の本人もこの船の仕事でイタリアへ行ってる最中に
今の奥さんと知り合った。
全く、仕事をしにいったのかピザを喰いに行ったのか
嫁さんを探しに行ったのかよくわからない。

船はいろんな人生を運ぶものである。
だからいつまでも、浪漫があるのだろう。
だから見るものももちろん乗るものも、
そしてクルーにも笑顔が多い。

同日、同船はシアトルに向け発つ。
純白の姫君が青い北太平洋を疾走する様を
想像するだけでも、笑みが零れる。

船旅、それは人生そのものである。



 4/23 僕の場合。

なんとなくわかってきましたよ。

こないだ「とっちらかってる」と言ったばかりですが、
思いっきりとっちらかってたおかげか、
なんだかトンネルの先に光が見えてきました。
要するに、

なんでもいいから書く。
見たもの・感じたもの・考えたもの、それをそのまま書く。
すらすらすらっと。
良いものを書くのも良し、
良いものに書き上げるも良し。

え、それ前からしつこく言ってたじゃん、って?
いやあ、ようやく身体で理解しつつあるような無いような。
まだちょっと自信がないのが、
本当に身に付いているのか、
それとも今調子がいいから見えてるだけなのか、
それがハッキリしない点です。
でも、今は、見えてるような気がする。

もうちょい自分で自分を分析しますと、
「なんでも」のなんでも度合いがガーンと上がってる感じ。
たとえば今目の前には
Meiji「うすまきアーモンド」の空箱が転がっているのですが、
これで一本ミニシナリオ書けと言われれば書ける。
ここまでは以前でもできないわけではないのですが、
「それがおもしろいかどうかは自信がない」もしくは、
「それがおもしろいかどうかは読む人次第」
と思っていたわけです。
それが今は、強いて言うなら
「おもしろいかどうかはわかんないけど、
 しっかりはしてるだろう」
にプラスして、
「とりあえず自分はそこそこおもしろいと思う」
こんな感じ。
そしてそれをたくさん・長く続けていれば、
いつか誰かにとっておもしろいものも、あり得る。
そもそも、僕と似てる感じ方の人になら、
高確率でおもしろかろう。

「10年やればなんでもモノになる」
とよく言われますが、それはこれじゃないですかね。
「そのこと」にはなんでも「スタンダード」があって、
そこに達しているもしくは越えていれば、
「まちがいない」ことができる。
こうなると仕事になるわけです。つまり、モノになる。

で、その「スタンダード」っていうのは、
ものすごく複合的な要素が絡んで評価される。
たとえばですけど、普通の会社で特殊業務でなければ、
「仕事ができる」ってたいへんな複合能力ですよね。
具体的な事務作業力だけじゃなくて、
コミュニケーション力やガッツ、
信頼感含めた人間性、全部揃って
「あの人はデキる」ってことになる。
レベルが低いうちは、そんな総合評価もできないんです。
だから、世評とか、事務能力の結果とか、
一元的な物差しでしか見ることができない。
から、評価を誤りやすい。

じゃお前はそのスタンダードを掴んだのか、と問われると、
「まだです」って感じなんですが、
その半分と言いますか、
「やっちゃマズイこと」「やらない方がいいこと」
という穴がだいぶ見えてきました。
家で言うなら、建つのは建てれる。

「そんないい加減に今まで建ててたのかyp!」
と怒られそうですが、いや、というよりも今までは、
設計図一生懸命作って、
施工順や材料・道具の段取りを徹夜で考えて、
現場でその書類と首っ引きで
一から十まで計画通り手際よくやって、
必死こいて必死こいて、
ようやく「できたー」って感じだったんです。
で、たぶんこれが、ほんとの頼れる親方になると、
施主からイメージ聞いただけで、
完成までのすべての絵が描けて、
段取りも実際の施工も、
紙一枚メモることもなくやってのけますよね。
しかもできあがりは早く正確で、
施主のイメージ以上のモノを創って、
泣いて喜ばせる。
それが、まだできないけど、
「ああなるほど、そういう風になれば一人前なんだな」
とわかったところです。

これだから結局……経験しかないんです。
「しごと」を全体で捉えると、
あまりに要素が多種多様に渡り、
しかもそれらが複雑に関係しあってる。
だから、身体で覚えるしかない。
こういうことってコンピュータのアルゴリズムで
すべての要素で最適化させるのって、
未だ不可能ですよね。
しかもアクシデントとか要求変更とか、
そんなものが来ればなおさら。

JRのダイヤグラムは事故が起きると
職人達が手で書き換えるらしいですよ。
このデュアルコアなご時世に!
そうそう、ウチの高校の授業時間割、
ある先生が毎年やっておられました。
で、「その先生はその一点で存在価値がある」とまで
言われたほど大変だそうです。
クラス・先生各々に多様な制限と要求と
ヒューマンファクターがあるわけで、
それをすべて加味した「おとしどころ」を探すのは、
結局人間が一番うまい。
すくなくとも、今のところは。

だから、ヘタでもなんでも、真摯に
(これ大事。進化する欲求が無いと進化はない)
ずーっと続けてると、いずれ化ける。
自転車に乗れるようになる。

そうなると、まず、
自分が納得できるようになって、
自分が納得すれば、割合や数はともかくとして、
誰かを納得させることができる、はず。
同じ人間ですからね。

でもその、
「たくさんやる」「ずーっとやる」っていうこと自体も
実は難しい。
普通にやったら千本ノック根性物語、
ただヘトヘトになるのです。
そうなると気迫も要るし努力も要るし体力も要るし、
とにかく大変。
ダイエットしようと思って、
日曜だけ10キロ走ってあと平日寝てる、よりも、
毎日2キロ走った方が絶対痩せますよね。
そんな感じ。
つまり実は、
「たくさんやる」やり方を開発できた、
それだけで道のり半分、半分OK。

で、冒頭に戻って、なんとなく
自分にとっての「たくさんやる」やり方が見えてきた……
ような気がする、というのが、今のところです。
それさえできるようになれば、
あとはそれでガッツンガッツンやってれば、
いつか実も成る花も咲く……
に違いない(笑)

---

以前から「たくさんやる」ことの有意義さ、
質量転換の可能性は認め、
具体的な方法論もすこしは模索していたのですが、
このこと自体が、非常に複雑な要素が組み合わさって
始めて可能となることであり、
つまりは「長年の経験」としか言いようがないんですね。
要するに、
「たくさんやれるようになるには、
 たくさんやるしかない」
そこにやっと気がついた。

でもその課程でこそ、
スピードアップ・クオンティティアップだけではない、
細かなテクニックがいろいろ身に付いていくのだと思います。
テクニックっていうのは単独では存在し得ず、
常に状況と前後関係と他のテクニックと
密接に関係している。
その絡み方、「この場面この球ならこのトラップだ!」という
実戦感覚は、実戦でないと得られない。
ロマーリオが練習嫌いなのは有名ですが、
じゃヘタかってクソミソに上手い。
「実戦の中での技」という捉え方、認識が
非常に上手いんでしょうね。
そういう人にとっては、基本反復練習ほど
バカバカしいものは無いわけです。
彼らにとっては、掛け値なしで何の役にも立たない。
そんなことをやってるヒマがあったら、
すこしでも実戦をやらせろ。

ということで、パブロ・ピカソの名言
「すべてがプロセスすべてが完成品」
につながっていく。
作品はもちろんそれで完結してるんだけど、
その作品で得られたなにかが、
次につながる。

僕も以前はこの「たくさんやる」ために、
道具(キーボードやノートPC)にこだわっていましたが、
こう考えてみると実は、道具はなんでもいいのです。
そりゃいい方がいいんだけど、それよりも、
ボトルネックは、人間。
その人が投下したエネルギーと時間だけが
成長に問題となるのであって、
物理的な結果の量、ってあんまり関係ないのです。
「ATOKとPCが無ければ効率10%ぐらいだ」
と思っていましたが、最近
「紙とボールペンでも」と思えるようになってきました。
(だからってATOKを取り上げられるのも困りますが)


先ほども言いましたように、
波の上の方だから見えてる(見えたような気になってる)
だけかもしれず、
見えた気になって見えてなかったことが多いので
自信はさっぱり無いのですが、
なんとなくこんな感じで、
自分なりの「たくさんやる」やり方、
つまり「やれる」やり方がわかってきたような気がします。
で、楽しい。

それは、気持ち的には書きはじめた頃の気持ちと同じで、
誰が求めてるわけでもないのに
つらつらつらつらと駄文を量産していたあの頃のことを
思い出します。
何度かそういう時期があって、
小学生の時もそうだし、文藝部の時もそうだし、
ほえながを始めた頃も楽しかったかなあ。
そういう、「ただ書いてるのが楽しい」というのがやはり、
桃源郷だと思うのです。
でもじーつはそれこそが難しい。
何度か波があるってことはまた、
わからなくなっちゃうかもしれませんしねえ。

ただ今は、目の前にある9色ポストイットでさえ
一本書けそうで、
それはなにかというと、
「なにかを書きたい」
というよりも、
「ただ書きたい」
という感じです。
「勝ちたい」とか「ゴール決めたい」ではなくて、
「サッカーやりたい」。
それがあるのは、
たとえ短くても周期のあるものでも、
素敵なことだと思います。

あああるいは、周期があるのは、
そういう時には別の部分が鍛えられてるのかもしれません。
冷静に客観的に自分(と作品)を見つめる目とか、
どちらかというと
書いたもの(と自分)と外部との接点の部分に、
自分の興味が行ってるのかも。
そうするとやっぱりスパイラルで
ぐるぐる回るのかもしれませんね。
それはそれで、よし。


思うままに、書いてみました。
我文失礼。



 4/22 機動青春

こないだふと
「マンガ家にでもなるか」
と幼き日の夢を思い出し、
マンガ用原稿用紙をアニメイトに買いに行きましたところ、
壁面にイケメンのポスターが飾ってある。
まあ、アニメキャラ特にヒーローヒロインなど
美形揃いですからイケてて当然なのですが、
4人も5人も違うタイプが並んでて
憂いを含んだブロマイド・ポーズで
視線がこちら向いてない。
隙あらば薔薇でもくわえようかという勢いです。
「なるほど、ゴッドマーズ以来の伝統は
 姐さん方に綿々と受け継がれておるな」
と自分もそろそろ両さんの歳が近づいてきて大原部長の「30過ぎにもなって人形遊びやプラモデルにうつつを抜かして」というお小言がまるで冗談ではなくなってきたのを棚に上げつつさてどういう番組なのかと目を凝らしてみれば隅の方にキャラ名の文字グラフィックより遙かに小さく、
「がんだむ」
と書いてある。

ガンダム!?!?

ガンダムのポスターというとおっちゃんらの頃は
安彦良和先生のご神筆による
「首なしガンダムが頭上目がけビームライフル」
「真っ赤なシャアとザクの生首をバックに
 アムロ・ノーマルスーツ全身がきりりと決めポーズ」
など、どこをどう見てもロボットアニメとしか思えない
ポスターばかりで、このようなキャラ単体、
歌舞伎役者の大首絵のごときものなど考えられなかった。
そもそもがそんなポスターよりも男の子達は
やはりちゃんとしたガンダムが描いてあるポスターが
お好みであり、ドラマ性やキャラクター性など
どうでもよかったのである。

どうでもよかったのである。

同じか。

つまりは大事なところが
メカから美形キャラへシフトしただけで、
相変わらずその他はどうでもよいのだろう。
素人的にはメカでないならばガンダムでなくてもええやんと
思うのだが、そこはそれ青春群像を描くのに
新選組を使ったり、
テロリストの執念と陰惨な惨殺復讐劇を描くのに
赤穂浪士を描くのと同じだ。
なんでも複雑な人間関係と、
古典的G世界にはありえなかった
恋の花まで咲くという。
時代は変わった。

しかし、おっちゃんらは寂しい。
ガンダムといえば主役はアムロでもシャーでもなく
ガンタンクだ。あるいはギャンであろう。
純白のガンダムがカッコイイから
マ・クベやコンスコンのカッコ悪さが浮き立ち、
無敵ビグザムがやられそうになってなお頑張るから
ドズル中将の諦めの悪さが輝くのである。
雷をバックに初登場のグフのカッコよさ、
あれを覚えておいでか。
ランバ・ラルの名文句二つ、
優位に立つと
「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」
負けそうになると
「そのモビルスーツの性能のおかげだということを
 忘れるな!」
つまり主役はモビルスーツである。人間ではない。

ということは、原点に回帰すればよかろう。
ラブコメがやりたいならモビルスーツでやればいいのだ。

幼なじみのガンダムを朝起こしに来るエプロン姿のザク。
ヒートホークでフライパン叩いて。

ザ「こら〜〜〜〜ガンちゃん起きろ〜〜〜〜」
ガ「朝からうっさいなあ、あと10分だけ〜〜〜」
ザ「今日は始業式でしょ!
 こんな日に遅刻しちゃったらまたみんなに笑われちゃう!
 ほらほら、ガンダリウムエッグ作ったから早く食べて食べて」
ガ「ふぉーい」

そして仲良く登校途中に。

ザ「んふふ、同じクラスになるといいね」
ガ「お前の動力パイプ顔も見飽きたなあ……」
ザ「もう!」
?「……ぅわわーーーーどいてどいてどいてーーーーーー!」

もちろんトーストくわえたグフですよ。ツンデレ系ね。
どがーん。がらがらがらがらっしゃーん。

三機「……いてててててて……」
グ「ちょっ、ちょっとあんた達!
 どいてって言ったんだからどきなさいよ!」
ガ「そんなこと言われたって……あ」
グ「ん? ……あ!」

ちらり覗くはスカートの中。
バシーン!
ヒートロッドの一撃炸裂。

グ「あ、あんたたちなんかに構ってるヒマないわ!
 遅刻遅刻ー!」
ザ「な、なにあれ!? だいじょうぶ、ガンちゃん」
ガ「……でもちょっと美人かも……」
ザ「こ、こらー」

もちろんカット切り替え教室シーン、
編入生紹介で顔を合わせるわけです。

「「「あっ!!!」」」

他にも、おとなしめぽっちゃりめのドムたん、
タカビーなお嬢様だけど超ドジっ子のゲルググ、
霊界から来た手と首が伸びて足のないジオングさん、
各種ヒロインてんこ盛り。
主人公の悪友はキャノンとタンク。
いつも三人でコアファイターの取りかえっことか
バカばかりやってるのです。
でもタンクが映画に出られなくなるイベントとか、
結構泣けますよ。
あ、メインヒロインはもちろんザクなんですけど、
好感度がある程度貯まるとイメチェン・イベントが起きて、
身体赤く塗って小隊長髪飾りがつくんです。

ザ「ど、どうかな……髪飾りはやりすぎかな?」
ガ「い、いや全然……そのほうがいいよ」

サブタイトルはどうしましょう。
ウイングとかシードとか。
当然オリジナルメンバーがやるわけですから、
それを主張した方がいいですよね。じゃ
「機動青春 ガンダムガンダム」
これで。

……書いてて思いましたが、5分ぐらいが限界ですな。
とても52話持ちそうにない。
なるほど、それで番組になっとらんのか。

てのは冗談ですが、
「ガンダム」の魅力がモビルスーツにあったことは確かで、
それはつまり、ああいう重厚長大「メカ」が
世の中のすなわち人間の期待を集めることが
できた最後の時代でしたね。
時代が変われば興味も変わる。
そういうものが出てきただけで惚れ惚れできる、
そういうメンタリティはもう失われてしまいました。
逆に言うと
「小犬サイズの愛玩ガンダム」とか
「ネットで戦うヴァーチャルガンダム」それこそ
「メイドガンダム」とかになってない分、
よく粘ってると言えるかもしれない。
「でかいメカ」に対する憧れは男の子共通のものだと
思うのですが、それは今はガンダムではないものが
担当してるんでしょうね。

ま、時代は変わるなあ、という、おっさんの独り言です。



 4/21 雑話:珈琲

コーヒーの1kg缶は買っちゃダメです。
一人では飲みきる前に油が回ります。

うえっぷ。

飲まない方にはわからないと思いますが、
コーヒーも生鮮食料品。
封を開けてできれば粉なら一週間、
豆でも一月が目安です。
もちろんさらにできれば焙煎したてが
いいのは言うまでもなく、
ドトールなどですと「いつ焙煎今日入荷!」とか
POP出てます。
むろん街の自家焙煎珈琲豆屋さんで買うのもよし。
ですからそうしたのを豆で買って、
飲む前にミルで挽くのがベストと言えばベストです。

ま、1kg缶というのは、んなこと一々やってられない
仕事場やコーヒー大好き大家族用ですな。

粉は手軽ですが香りがかなり飛んでます。
(封開けた瞬間はまだいけますが)
でも、味はそんなには落ちてないように思います。
豆がいいかというとこれが良し悪しで、
安物のコーヒーメーカーについてるカット式ミルは
挽きにバラツキがありすぎるので、
なかなか粒の揃った粉になりにくい。
(と、淹れにくい)

あ、そもそもそれ以前に、
どんなコーヒーメーカーで作るよりも、
フィルタ使用で一杯落としの方が断然美味しいです。
コーヒーメーカーは、大容量を一発で作れるのと、
味が常に同じという大きなメリットがありますが、
一人で飲むならあまり関係ない。
もちろん、作り置きのコーヒーは30分も持ちません。
砂糖とミルクたっぷりブチ込んでレンジで沸かし直して
無理矢理飲むしかない。

「腕が要りようでは?」
と引け腰になられる必要なし。
世の喫茶店をご覧なさい、若いバイトのお姉ちゃんが
淹れてるではないですか。
「高クオリティで安定して淹れる」名人芸を諦めれば、
どなたでもできることでございます。

ご参考までにポイントは
・一杯分だと、粉ちょっと多めがいいです。
・最初に全体に湿る程度に注いで蒸らす(30秒)
 これがあるとないとで全然違う。
・この蒸らしタイムにカップに湯を入れて
 温めるとなお良し。
・粉と湯が触れてる時間が問題です。
 速すぎると薄すぎ、遅すぎるとイヤな苦みに。
 ここは慣れと経験ですが、一杯分だと
 「ちょうど三回ぐらい湯を注ぐとカップが一杯になる」
 程度の速度と量がよろしいかと。
・一回目多めゆっくりめ、二回目、三回目になるに従って
 速めに少なめにする感じかな。
・あんまりしつこい回数、長い時間やっても
 まずくなる一方です。
 3分以内、4〜5回以内で決着がつく感じで。

偉そうに言ってますが、
僕も淹れるたびに味が違います(笑)
ま、それもまた楽し。
ですし、自分好みに淹れられるのもまた良し。
たっぷりのお湯でサッと淹れればアメリカン、
ゆっくりすくなくで濃いめにも。

あと、淹れる行為自体が気分転換になります。

ネスレが売ってるパッケージ式エスプレッソ・マシンてのが
ございまして、これが手軽で美味い。
コーヒーでも同じシステムがあれば売れると思うのですが、
難しいんでしょうかね。
業務用ではその場で挽いて高圧掛ける
エスプレッソ式コーヒーマシンがかなり一般化してます。
ファストフード系やファミレス系でお馴染み。
ただあれ、嫌味無く味も濃く出るのですが、
深みに欠ける気がします。
一口目はすごく美味しく感じるのですが、
だんだん飽きてくる。

デニーズのtipsとして、
マシン式「深煎り」とドリップ式「アメリカン」が
セレクタブル、
(どちらかしか置かない飲食店多い中
 コーヒー好きのキモチがよくわかってる、
 さすがデニーズ!)
どちらもおかわり自由なのですが、
頼めばだいたい途中交換可能です。

僕はタバコ喫まないのですが、
喫煙者のお気持ちが若干わかるのは、
食後に珈琲がないとなんとなくモノ足らない。
落ち着かないサッパリしない。
ひとくぎりというか、リズムというか、リセットというか、
そういうアクセントになってくれるものなんです、あれ。
エスプレッソなどその最たるもので、
あれは飲料というよりも、香りと熱さと味覚刺激で
食事をピシッと締めくくるものですな。
街のキャフェでも、「喫む」の字がぴったり来る。
身体の乾きではなく、精神の渇きを癒すものです。

だから欲しいのであって、
決してカフェイン中毒になってるのではない……
と信じたい。

──というのが、最近の珈琲生活です。
ようやく新パック開けられて、ごきげんごきげん。



 4/20 かんぱる

チラシの裏、いっていいですか。
いつもそう?

最近、自省的な内容が多いですが、
それは結局、「僕」という人間を形象化しようとする
詩の試みなのですよ。

いやホントにホントに。
いやダ・ヴィンチの受け売りなんですけど。

彼いわく
「(たとえば)天体について語るのは天体学者じゃねえか、
 そんなの画家や詩人じゃない」
つまり学者と芸術家の違いは、「形象化」という一点にある。
「それを失った詩人は、ただの演説者だ」

なるほど。さすがレオナルド、巧いことを言う。

「何かについて書く」
たとえばクルマやサッカー、時事、それであっても結局、
その中にある「なにか」をカタチにする、
という行為でなければ、
なにより本人が満足できなくなってきたんですよ。
進歩でしょ?(笑)
それは冗談として、僕はサッカー・ジャーナリストでも
自動車評論家でもないですからね。
正確な「論評」ひっくり返して「評論」なんか、
できっこなのです。知識も経験もない。
でも、自分の目で見て自分で感じた考えたこと、
それを形象化(文字化)するなら、
別に誰に遠慮があろうか。

そんな中で、ここのところずっと興味があったのが、
「モノの見方」ってヤツで、
それは当然自分にも備わってますし、
研究するには自分のそれが一番手っ取り早いサンプル
ですから、で、どうしても内省的なおはなしが多かった、
んですね。

最近ちょっとあんまりそれをやりすぎて、
疲れが来てるんですけども。
生々しい形象化の世界へ戻りたくなってきたような、
そうでもないような。

意識的な感覚はともかくとして、
「僕」にとってこの「形象化」というのは
きわめて楽しいことらしく、冗談抜きにして
「なんでもいいから書いてりゃしあわせ」
です。
裏返せば書けないと不幸せで、
そんな時は自分でも見るも無惨です。
そんなテンパらなくていいのに、と
もう一人の自分が必死でなだめてるんですが、
書けてない方はほぼ完全にイカレてます。

アニメーターの方が、自分の絵に対して
「賞味期限」といういい方をされます。
自分の古い創作物は誰しも頭を抱えるものですが、
「お。いけてるじゃん、俺」
と思えるのがいつまでか、という表現ですね。
僕の場合は、デキによりけりで、
完成した瞬間要らないものもあれば、
2-3年持つものもあります。
「部分直せばまだいける」と思うものもありますし。

最近それがずいぶん短くて、ですね。
もう昨日のがダメ。
昔は、ちょっと詰まったらその月の「ほえなが」読み直して
「結構いいこと書いてんじゃん」とか
思ったりしたものですが、
最近全然ダメ。
そんなことしたら逆に自己嫌悪でヴァナにログインですよ。

それがいいことなのか、困ったことなのかは
まだわかんないですけどね。

ただ、「形象化」という観点で捉えると、
発火から固定までの速度が上がってる、
と考えることができる。
微分の両方からの寄りがぎゅーんと速く強くなってる。
それはまあ、悪い徴候ではない。

たぶん、本物の使い手はもっと凄いのだと思います。
・ネタを繰る、練る、書く、練る、完成。
って感覚じゃなくて、
・書こうと思ったらできあがってる。
同時。そんな感じ。
(そういやゲーテの晩年はそうだったとか書いてありました。
 詩を詠い出したらそれが一字一句まごうことなき完成品)

それは、そこの能力だけが上がってるのではなくて、
日常でのスタンバイ部分
(ネタを拾ったり、それについて考えたり)が、
身体に溶け込んでるんだと思います。
ほら、達人って突然襲われても
ひらりと避けるじゃないですか。
身体が、フルタイムスタンバイになってるんでしょう。
常時全開じゃなくて、(そんなの持たない)
CPUのスリープモードとかと同じで、
何マイクロ秒とかでリスタート掛かる、
そんなイメージではないでしょうか。

以前から「スッとやる」とか言ってますけど、
逆かもしれませんね。
達人はスッとできる。
もちろん、そう志向することで訓練効率が上がることも
考えられますが……

余談ですがいつも思うんですけどこのあたり微妙で、
僕らが受験生の頃「試験に出る英単語」ってすごい
スタンダードだったんですが、あれって
「あれをやったから英語が強くなる」
んじゃなくて、
「英語の強いヤツがあれをやりきれる」
みたいなとこありませんでしたか。
で、結果として英語のできるヤツが「あれをやれ」と言う。
ちょっとこんがらがってますよね、
間違ってはいないけど、
今求めてることとは、すこしズレてる。

閑話休題。
ということで、次の目標は、
「「ほえなが」のようにスラスラと小説その他を書く」
というところに定めたいです(笑)

やっぱりまだ、そういうかちっとしたものを書く時には、
めちゃめちゃ構えて書いてます。
プロットひねって、シーン用意して、山谷考えて、
キャラをイラストまで描いたりして……
でも、結局「形象化」という点では、
「ほえなが」となにも変わらない。
形象化しているものが、
今日散歩して見た若葉混じりの桜か、
ツンデレな女の子と優しい男の子のラブコメか、
それだけの違いで。
となると、すらすらっと書いた方が、きっといい。

──とまあ、理屈はすっきりしたんですけど、
理論通りに運ばないのがモノゴトってもんでしてね(笑)
まあまあ、新スタイル定着には、
常に抵抗があるものです。
でもきっと、このスタイルの方が、楽しいと思う。

で、これって、「がんばる」っていうのとは、
ちょい違いますよね。
泥だらけになって歯を食いしばって、ではない。
でも、全力出してるしおそらく最高性能なわけです。
結果から見れば、「がんばって」る。

言葉ってのはどうしても手垢がついちゃうものです。
便利なら便利なほど。
「頑張る」っていう言葉には、勉励辛苦のイメージが強い。
じゃ、そっちの「がんばる」は「頑張る」にまかせて、
がんばってないけどがんばってる、
すごく研究し集中しリラックスしてる、
上のような状態を指し示す言葉、これが欲しいですね。
「巧くやる」「楽しくやる」とかは、
また別のイメージがあるし。

「かんぱる」とかどうでしょう……

安易ならいいってもんじゃない。



 4/19 どっちもどっち

……昨日のはちょっとガーッと吼えすぎてますね、
すいません。
要するに、
「力ずくで」+「流れに乗って」=「全力でコツコツ」
なんてアホウな等式をベラベラ叫んでいたのです。
それだけ。

くり返しになりますが、
相反するような二つ、
矛盾する二つ、
これのせめぎ合うところがおもしろい。
どっちかに突き抜けてるのもおもしろいけど。

たとえば……ってまたクルマの例になっちゃうんですけど、
ダブル突き抜けコンビ、
シボレー・コーヴェット(スポーツカーね)+
ホンダ・エアウェイブ(超絶道具グルマ)、
2台で生活してるとしましょうよ。
これに対するは矛盾する二つをまとめんと涙ぐましい
努力を世界で一番やってのけた日本の誇る
マツダ・RX-8(世界唯一のロータリースポーツかつセダン)。

エイト乗ってて高速でコーヴェットに抜かれ、
ホームセンターでネコ砂買うのにエアウェイブ便利そうだと
指をくわえてみるのですが、
2台持ってる方は、葬式へ乗ってくるエイトを見て
羨ましく思う。
ヴェットじゃ親戚のおっちゃんを駅まで乗せるの無理だから
エアウェイブで来ざるを得ない。

だからどっちも結局、最終解、最適解にはならない。

我々は、そういうものがあると信じて生きてる、
そんなところがありませんか。
それは僕だけですか?
こう、どんなことでも詰めていけば
「究極スタイル」
みたいなのがあって、
まったき平安と最高のパフォーマンスが得られると。

つまり、そうじゃないんですなあ、これが。

どっちのやり方をするにせよ、
変化、進化への要求を持ち続けなければ、
簡単にシステムクラッシュが起きる。
ヴェット乗りは、葬式用にクラウンを
用意しなきゃなんないし、
エイト乗りは、ホームセンターで軽トラ借りて往復する。
どっちにしても、諦めたらそこで終わり。

諦めるという選択肢も無くはないですよ。
ヴェットで葬式行って、
「いや、おっちゃんごめん俺のクルマ二人乗り」
言えばいいだけです。
でもそれを言い出したら……全部そうですよね。

それでホントにいいのか。
それで自分は満足できるのか。

わたしゃできない、そう思ったのです。

「なんとかしよう」と思うところから、次が拓けてくる、はず。
そのキモチさえあったなら、
システムはまあ、どっちでもいいんじゃないかな。

そんな風に思ってても、世の中ってのは、可笑しなことに、
なんともできないことが次々に降ってくるように
なってます。
まあ、見事なもので。

あ、そうそう、FFで敵がすごくタイミングよく嫌らしい攻撃を
してくることを「社員が動かしてる」と言うのですが、
神様の中には腕利きの社員が入ってるに違いない。

そのつど頭を打ちつけながら、
進んでいくほかありませんね。

そうしていつかふと振り返れば、
「おー、そこそこやったなあ」
と思えればいいのですが。



 4/18 カタチとナカミ

あっはっは、完全にとっちらかってますよ。

なんといいますか、
なにも手についてませんし、
地に足もついてません。

別段特別なトラブルはなにも起きてないのですが、
我を見失っています。
手触りも肌触りもない。

気分転換だ、とお酒呑んだり
ヴァナ行ったりしてみたんですが、
ヤですねえ、歳とるってのは。
そういうのがpause(一旦停止)にしか過ぎない、
というのが身体でよくわかってて、
ログアウトした瞬間、素にもどる。
なーんの意味もない。

原因がわかれば、それを取り除けば、直る。
と思い考えるのですが、特に思い当たらない。
強いて言えば、モデルチェンジしたいんだけど、
その理念もあるんだけど、
じゃ具体的にどうすればいいのか、
わかってない。
ファミリーカー作るとして、「ゴルフじゃダメだ!」とか
言うんですけど、そしてそうだと確信もしてるんですけど、
じゃどうすんだよ、と言われると、
考え中。

わはは、だめだー。

完全に言いっぱなし番長ではないですか。
もともとそういうケがありましたが、今回は特に酷い。
最近、それに気がつきだして、
だから歯切れも悪いのでしょう。
あんまり言いすぎると唾がいっぱい降ってくるのです。

そうやって混乱すればするほど、
人間ってのは昔のやり方に戻っちゃうもんです。
くるっと回ってにゃんこの目。
でも、そこから一歩進歩してないとやっぱりダメで、
その進歩分が、自分にはよく見えてないんです。
そうするとますます「だめだー」と思う。
ほんとはそうじゃないんだろうな、と思いつつも、
いやそもそも、自分の感覚への信頼も置けてないから、
ダメかどうかもわかりゃしないのです。

無理にやっても「無理してる」というのが
わかるようになっちゃってますしね。
それに、「そうではないやり方があるはずだ」というのが、
ここ最近ずっと考えてきたことで、
それを捨てたら、今までの努力がなんだったんだって
ことになる。

……とかとか、しらないうちにラビリンスでございます。
あれ?
こないだまではずいぶんスッキリしてたつもりなのに。
ずいぶん幸せだった気がするのに。

しかし逆に、超楽観的に考えれば、
この山越えるとすごい楽になれそうな気もする(笑)
最後の卒業試験みたいな。
状況的に、割とハードというかリミテッドな環境におかれて、
そこでほんとにお前が考えたことができるのか、と。
ここを手慣れたやり方ではなく、
新しいやり方で突破できれば、
自信になるなあ。
──というスケベ心もあるから、
手慣れたやり方でお茶を濁す、という逃げの一手を
打たない、打てない、そんな感じです。

まあ、きっと「フッ」と抜ける瞬間があると信じて、
今日もウンウン唸ってみる。

やっぱり、ガラッと変わっちゃうもんでしょうかね。
自分でもまったく見当&想像つかないんですけど。

---

ひとつちょっとだけ思ってるのは、
↓に書いたように「カタチ」と「ナカミ」の点です。
今まで、ナカミが大事だと思ってましたので、
あえてカタチは考えない、ノー・カタチでやってまいりました。

シンプルにいきたい。
でも、シンプルっていうのは最高にデザインされてるもので、
だからAppleの製品をどこも真似できない。
そう、シンプルは、
カタチにエネルギー掛けないのとは、
まったく逆の方向です。
そこ勘違いしてました。

変に「捨て去る」「単純」というコダワリを持つのではなく、
ナカミに応じた、それに適した、カタチを探していく。
人間の心身が一体であるように、
表現というのも、そういうものではないかなあ、
と。

えらっそーにエコだエコだと申しましても、
6リッターのコーヴェット見て
「うをーかっちょえー」
と思わず身を乗り出すアホも自分自身でして、
ハバが広いというよりは、
絶対的に矛盾しつくしてる、
エコでムダ、エロでラブ、知的にバカ、
そこを表現できれば、
ながたさん・すたいるではないかなあ、
などと机上の空論です。

「イエス!404馬力!」
「環境が!」
「だから年に1000kmしか走らない」

こんな感じ……
ちょっとちがうかな?

だってどっちも必要だもん。
どっちか、ってわけにゃ、いかんのです。
片方の極をやるのは政治家/ビジネスマン、
宗教者/教育家におまかせして、
我々みたいなキリギリスもしくはスナフキンの役割は、
「両方あるよ人生には〜」
と詩って回ることではないかな、と思うんです。
それは、普通の人々が、一番よく知ってることですけども。

「それが要るか?」
って訊かれた時に、我々は、
「要る!」とも、「要らんッ!」とも、
両方言えなければならない。
そんな気がします。
いや、それは別に特別なことではなくて、
誰もがみんなそうだ、と思うんですけども、
やっぱり、普段はどこかに立脚する点を置いた方が、
生きやすい。
んでもたまに、
「あんたのやってることなんざクソだよ」
「すごすぎる! 君のような人が地球を救う!」
どっちも言われると、自分を見直せるじゃないですか。
そうすると、しっかりする。

わざわざ他人の妄想を見たり聞いたりする理由は、
そのためだから、としか言いようがない。
逆に言うと、そうでないものはあまりインパクトがない、
ように僕は感じます。

---

──と、こういうことはスラスラ書ける。
問題はそれをより具体的に実践していくところだ。
実践できんからこそ毎日スラスラ書けてるともいえ、
それじゃダメじゃん! と最近気づきつつある。

ああ道は険しい。
ああこりゃこりゃ。


==========
↓ご参考までに今日「手で書いた」分。
 いつものごとくいつもどおりです。
 これではいかん……こともないけど、
 これは、従来スタイルなのですよ。
==========

*カタチとナカミ*

最近、昨日・一昨日みたいなことを考えてると、
どんどん、「先祖返り」してるなあ、と思うのです。

先祖というのは正確ではなく、
「書き始めた頃」の全体的自分、
という意味なのですが、
「初心」ともまた違う。
この言葉お使いになる方多いんですが、
僕にはどうも使いにくい。
書き始めた動機なんて今でも(正確には)思い出せず、
思い出す気も無いです。
ただ、なんかしらんが書いてたんです。
初心もへちゃらもなにもない。
でも、その頃でも
「なにかをどうにかしようとして」
なにかを書いていたわけで、
その頃のジタバタ度合いに似てる、
そんな感じを表現するのに、的確な言葉が無くて。

だから、「回ってきたなあ」みたいに思うのです。
「ああそうそう、こういうことで困ったよ」とか。
また同じことで迷ってる。

でも、同じなんですけど、同じじゃない。
コーヴェットは今でもOHVですけど、
もちろんシボレーはDOHCでもターボでも
なんでもやれるわけです。
でも、「OHVの良さ」があって、それを活かすように、
クルマを組む。
そうすれば、劣るどころか個性という強み、ですよね。

ま、そこまでなんでもできるわけではないのですが、
「あれはやった、それもやった、
 でもやっぱりこれがいい
 (もしくは、これしかできない)」
そんな感じ。

やりはじめ、というのは、なにもできませんから、
一番伸びやすい所へ伸びる。
だから実は、その時の伸び方や伸びる方向、
それは本人にとって一番ナチュラルなものかもしれません。

そんな感じで、
ああ、戻ってきてますねえ、
なんてふと、思ったりするんです。

いいとか悪いとか、よかったとか残念とか、
特に感慨もなく、
「またこれぐるぐる回るのかな、
 それとも一周すると回り方を覚えるから、
 回らなくなるのかな」
そんなことをぽんやり考えています。

---

われわれは、カタチではなくナカミが欲しい。
それは間違いないのですが、
ナカミを表現するのはやはり、カタチでもある。

たとえば「メイドさん」というカタチがありますが、
あれは従順、丁寧、貞節、気品、礼儀……
そういうナカミをカタチにしてますよね。
だから、あのカタチを見るだけでぽーっとなる
男性諸氏が多いわけです。
きっと、そういうナカミのはずだと。

そうそう、02W杯の頃にね、グラビアとかでも
代表のユニ着せるのよ。その辺の女の子に。
違うと(笑)
サッカーユニっていうのは戦闘服ですから、
そのカタチが表現するものは、
闘志、意志、執念、信頼、強さ、勇気……
そういうナカミですよね。
一見してそういうナカミから縁遠い女の子が
着てたって、どっちもがどっちもを潰すだけです。
(スイカに塩のように、引き立たせるために
 わざと逆にするやり方(ミリタリーファッションとか)
 は極狭いゾーンに存在しますが)
それは、サポーターの子がレプリカを着るのとは、
根本的に違う。

表現というのは「カタチ」を作るものです。
そこに自分の考える「ナカミ」を載せて。
どちらが欠けても成り立ちゃしません。
ただ、今は、
ナカミの欠けた、ズレた、違う、すくない、
カタチが多いなあ、
そう思います。
人のことなぞこれっぽっちも言えませんが。

で、これは個人的好みかもしれませんが、
カタチに比してナカミが詰まってる方が、
満足感は、高い。
そう思うんです。
美味いモノ好きのくせに、ファミレスやファーストフードに
よく行くのは、
「カタチに比してナカミどうよ」
という勝負なら、どこでも条件は同じなわけです。
よくいくデニーズにはもてなし力最高級の
ウェイトレスさんが居るのですが、
その人にサーブされると、
高級店で無愛想な接客されるより、
何倍も満足度が高い。
短い人生、ちょっとでも満足したいじゃないですか。

背伸びしない、無理をしないカタチに、
思いきりのナカミを詰める。

ただそれだけのことだと思うのですが、
なかなか、これができません。
僕もあんまり、できません。

その人はほんと「金の取れるウェイトレス」だと
思うのですが、たぶん待遇は普通のパート扱いでしょう。
つまり問題は、そんなところじゃないのです。

今の日本の閉塞感、見通しの暗さ風通しの悪さは、
強引に言い切れば
「評価がちゃんとなされていない」
「評価がクラス移動に結びつかない」
という点に帰着すると思うのですが、
でも、これが続くと、こういう人があらぬところに混じる、
「あれ? これが……サービスってもんだよな?」
というシェイクに結びつくかもしれません。
カタチに囚われず、「それがなにか」、
つまりナカミを思い出させるような。
……てのは脳天気すぎますかねえ。

カタチとナカミの乖離は、
ある程度はしょうがないと思います。
時代は変わるし、世界も変わる。
それもものすごい勢いで。
だからカタチにすがりつこうとする動きも
出てしまいますし、
逆にカタチを無理にないがしろにしようとする動きも
出ます。
疑いの目、というよりは、「ズレてて当然」ぐらいの
余裕ある目で見てた方が、
今のところはいいのかなあ、と。

逆に言うと、ここがスカッと「ああ納得」だと、
すごく安心感、信頼が生まれる、と思います。
それが、今は、すくなすぎる。

僕はそう思います。

逆は多い。
「可能性」を売り物にして、
オーバーなカタチ、エキセントリックなカタチが
あなたにも手に入りますよ、
と甘い言葉で誘惑する。
んなわけなくって、人には人それぞれの、
そのナカミに応じたカタチがあるはずです。
それが一番、納得いくカタチのはず。
誰かが言ってくれるカタチなんて、
親友や家族のそれでさえ、
そう簡単にはフィットしないものですよ。
まして、誰に言ってるのかもわからないレディメイドの
ものなぞ。

---

くるくる回って結局、僕は、
この「納得」を追い求めているようです。
それは自分で手に入れるしかなく、
そして自力では容易に手に入らない(笑)

今日も泣きながら、キーボードを叩きます。



 4/17 「崩し」

昨日の続き。

人間存在がそういう、
「回る」……少なくとも、A状態とB状態を行き来するもの、
(陰と陽の太極図など)
だとするとですね、
どちらかで安定してる状態ではなくて、
どちらかからどちらかへ相変化する、
その変移そのものが、
人にとって「おもしろい」と感じるところではないでしょうか。

幸せな家庭が崩壊する。
わたしゃ個人的にハッピーエンド至上主義者ですから
そんな話書きたいとも見たいとも思わないですが、
世には山のようにあって楽しまれてますな。
これ結局、他人の不幸を喜ぶという本能的快感以外に、
その崩壊の様、ダイナミクス自体がおもしろい、
という面もあるようです。
予定調和ではない。
NG集とか世界びっくりニュースみたいなのとか、
そうですよね。
本来あるべきバランスが、グラッと崩れる。
そこがとてもおもしろい。

世界の秘密を垣間見るからでしょうかね?

ハッピーエンドも、当然の事ながら、
ハッピーのままハッピーになっては
まるでどうしようもない。
スタートはハッピーでもアンハッピーでもニュートラルでも
なんでもいいのですが、
なにかトラブって、それを乗り越えて、ハッピーになる。
山の上下、ここが「おもしろさ」になる。

おはなしやシチュエーションだけではなく、
人もそうです。
いやむしろ人こそそう。
怒りっぽい人なのに、ネコの前ではふにゃふにゃになる、
とか、平衡状態が崩れると、「おっ」と思う。
深み・豊かさ・ハバ・人間味、そんなものになる。
流行りのツンデレもそうですな。
(ツンツンと気の強い女の子が、
 主人公と恋仲になるとデレデレする)

ヒデキ・マトゥイがAV大好きってのは有名ですが、
あのスーパースラッガー・世界的大スターが
高校生と変わらないメンタリティ持ってる、
そこで人の顔はほころぶわけです。
これがブロンドNY美女両手に連れてても、
なんの感慨も起きない。
そんなもな 「あたりまえ」だから、「おもしろくない」。

では、
そういう「崩れ」で組み立てて行けば
おもしろいおはなしになるか、というと、
事はそう簡単じゃない。
「崩れ」は「安定」があって始めて効いてくるわけで、
崩れっぱなしではそれが安定状態みたいになっちゃう。
きっちり安定させる力、これも必要です。

生活でもそうじゃないですか、
平穏な日々があるから、マツリの日が楽しいので。

個人的にはこうした安定と崩れを
自在にコントロールできるようになれば、
いいの書けるだろうな、
なんてスケベ心を起こしそうになりますが、
なかなか、こうしたのは恣意的には難しそうです。
「おもしろいのが、そうなってる」とは言えても、
「そうしたら、おもしろい」とは、言いにくい。

でも武道でもスポーツでもそうですが、
「崩し」がポイントだ、というのは間違いない。
戦闘機やバイクの設計でも、
「安定性」を追求しすぎると、
「機動力」運動性能が落ちる、
と聞いたことがあります。

不安定さが、崩れることが強い動きに通じる。
これ、「構えない」っていうこととも通じてると思います。
構えず、
フラッと重心傾けて、
そのまま思う方向へ自由落下。

イメージとして語るのはできますが、
はて、実際にどうすればいいのか、
ってのは難しそうですね。
でも、注目してみたいと思います。



 4/16 「回る」

結局、人はいつまでもぐるぐる回り続けるものかも
しれませんね。

最近、半ば追い詰められるようにして、
ヤケクソのようにして、
力ずくで書いてるのですが……
これが、気持ちいい。

「流れ」がどうとか「がんばらない」とか「絶対他力」とか
言ってたくせに、と自分でも可笑しいのですが、
実は自分の中では結構整合性は取れてて、
大きな流れに向かうためには、
やっぱり力一杯目一杯で進むのが必要、
そんな感じです。

動かないと、なにも起きない。
なにかが起きる可能性は、動けば動くほど、
力強く大きく速くたくさん、動くほど、大きくなる。

ま、ごくあたりまえのことですが。

ただ、昔と違うのは、
「動けばいい」という考え方ではなくて、
流れや目的地を常に・よく・しっかり見定めて、
その上でできるだけガンガン動く。
「がむしゃら」って言葉ありますが、
目をつぶってるとやっぱり間違うことも多い。
動き自体はMAXでいいのですが、
目はカッと見開いて。

……と、細かいこと言わなくても、
わーっと走るのは気持ちいいですよね。
メシも旨いし、風呂もスカッとする。
ぐっすり眠れて、酒がまた美味い。
心が平安でね。
そこから、力ある言葉も出やすい。

幸せは、自分で作れる。
それも、けっこう簡単に。

力ずくでいくのも、あり。

---

蛇足になっちゃいますが。
最近、アメ車が「間違ってるんだけど魅力的」です。
300C、コーヴェット、マスタング。
なにかを突然思い出したかのように、
伸びやかな(ちょっと懐かしい)スタイリングと、
有無を言わせぬハイパフォーマンス。
アメリカ得意の「力ずく」のいいところと悪いところ、
両方出てますよね。
欲望&本能直撃だから思わず顔がほころぶけど、
理性は止めるわけです、
いつまでもこんなことやってちゃダメだと。
原油ぐんぐん上がってるんだぞと。

それでもやっぱり、欲望は、無いと世界が暗くなる。

それがあることを認めた上で、いかに御するか。
あるいはそれを、いかにいい方向へ向けるか。
「いい方向へ力ずく」
こんなすばらしいことはない。

……と、考ええてると、
「そうやって結果と効率を求める方向自体がちょっと違う」
といつものように思っちゃうわけです。
でもでも、社会で生活してる以上さ、
出さなきゃならん結果があったり、
どーしてもやらなあかん事もあるよね。
そこから逃げるのは、男の子じゃない。

それはカッコよく言えば美学、カッコ悪く言えば小心、
ネームプレートは変わっても、
当人にとっては同じものです。

ははあ。

結局、なにを諦めてもこれが諦められないから、
人は、ぐるぐる回っちゃうのかもしれませんね。

でも、「こうでありたい」を失ったら、
人はなんで生きてるんです?

熱心な宗教家が時に他宗派や異教徒を排撃しますが、
その矛盾ですね。
悪いことじゃないけど、間違ってる。
人と人の関係だけじゃなくて、
自分の中にもこの矛盾はあって、
そしてそれは、どうも、消えない。消しがたい。

よく生きたいと渇望すればするほど、
惑い悩み苦しむ。
もういいと諦めればまったき平安を得る代わりに、
ほぼすべての幸せを失う。
労働の後のビール一杯の美味さでさえ。

回ることそのものが人生か。
それはもう、逃れがたく。

---

あ、わかった。
最近、回り疲れてきたのかも(笑)

そうですね、ここ2年ぐらいずーっと回ってるので、
さすがにくたびれてきたのかもしれないし、
飽きが来たのかもしれません。
やってる間は、すっごく楽しかったのですが。
楽しいことほど、エネルギー使っちゃいますしね。

特に3月は、おのれの無能を
まざまざと見せつけられたので、
「回ってる場合じゃないな……」
とずいぶん思ってしまったようです。身体で。

……と、そんなことを言いつつ、
またなにかピンと来たら「やっぱりこうですよ!」と
元気一杯に言い出すかもしれず、
まあ結局やっぱり、
人ってのは、「回る」もののようです。



 4/15 3シリーズ雑感

BMWの新型3シリーズのデビューというと、
クルマ好きにとってはこぶ平の襲名より
大切なイベントです。
第一印象。

ヘンナ プロポーション ダネ。

ちなみに全長・全幅・全高=4525*1815*1440、
ホイールベース2760mmの
車重は3000ccで1550kg、2000ccで1460kg。

すぐ街にあふれるであろう実車を見ないとなんとも、
なんですが、ノーズの長さと広さと、キャビン部の
バランスがおかしくないですか?
それとも我々がV6車ばかり見慣れて
直6FRのバランスを忘れてしまったんでしょうかね。

広く低くするとスポーティになるのですが、
ぺちゃっとなると、セダン好きが嫌がります。
セダン好きというのは
「箱・箱・もひとつ箱」
というデザインが好き。
だからクライスラー300Cに「やっと出た!」という
喝采を浴びせる。
BMWというメーカーは、ご存じの通り
スポーツ「セダン」専業メーカー……

あー……

最近、こんなことうっかり言えなくなってきました。
聞いた話だと去年のポルシェの台数の50%近くが
カイエン(SUV)なんですって。
もうポルシェはスポーツカー専業メーカーではない。
もちろんその伝で行くと、ずいぶん前から
ホンダはミニバンメーカーなのですが。
X3・X5、6に1、Z4。
セダンでないBMWも今やいっぱいありますな。

逆に言うと僕みたいなクーペ好きには
「早くクーペを見たい」と思わせる、
プリミティブな次元で「カッチョイー」スタイリングです。
クルマのスタイリングってほんと低次元の方が
効果高いんですよ。
低い、幅広い、長い……
少々のディテールでは勝てない。
トヨタのイストなんざ15インチタイヤ履いてる「だけ」で
あんなにカッコイイですからね。
現行型ホンダ・インテグラがクーペ好きのハートを
くすぐらないのは、全高が高すぎるからです。

あと、伝統ですが、前後のオーバーハングの小さい
デザインはやっぱりいいですね。
スポーツセダンはこうでなくちゃ。

てことで僕の印象は
「変だけど悪くはない」。

ま、スタイリングは人それぞれ。
気に入って買うとしましょう。
今度の3がガラッと変わったのはここ。
ついにミドル級(2000cc級)から
アッパーミドル級(2500cc級)へ
シフトしてしまいました。

3といえば国産でクラス的な(価格は無視して)競合車は
プリメーラやアコード、懐かしいところでは
カペラやギャラン。
外車で言うならCクラス、アウディのA4、VWのパサート、
ラテン勢では406、エグザンティア、156、
生活の友として最大適切サイズ(変な日本語ですが)の
2000cc・5ナンバーいっぱいの……

あー……

どいつもこいつもぶくぶく太ってますわ。
しょうがないですね、時流か。

だもので、エンジンが
2000ccの4発・2500ccの6発・3000ccの6発とあるのですが、
もうこのサイズ・ウェイトだと2500cc車が標準車です。
先代の後半あたりからそれとなーく誘導されていたのですが
(車名が318でも2000の4発を載せてあったり)
「3シリーズというと、オーソドックスには
 320の6気筒を買う」
というお馴染みの考え方でお店へ行くと、混乱しそう。
さすがに1460kgもあって2000ccだと
トルクが足りないと思いますよ。
大きなFRをちいさなエンジンで動かす楽しみも
あります、それはそれで楽しいのですが、
MTが前提になったり、追い越し加速でタイミング見たり、
そこそこ「運転勘」みたいなのが必要になると思います。

ということは逆に運転好きには相変わらず
「320をMTで」というチョイスはありかというと……
これは乗ってみないとなんとも。
先々代3シリーズ、E36でさえ
「これを1800というのは厳しいのでは」と思われながら
「318MT最高!」と評価もされましたし。
あちらさんでは当たり前の主力グレードですから、
キッチリ練ってあるのはあるでしょうねえ。
案外、今回こそ
「320のMT」がベストチョイスかもしれません。
毎回言われてるような気もしますが。

それより、アッパーミドル級へシフトしたということは、
以前5が戦ってた相手と戦うことになるわけです。
具体的には、国産車だとマークX。
もう一度スリーサイズ出しますと、

3シリーズ。
4525*1815*1440 W/B2760
車重は3000ccで1550kg、2500ccで1510kg。
トヨタ・マークX。
4730*1775*1435 W/B2850
車重は3000ccで1520kg、2500ccで1510kg。

軽っ。
マークX軽い(笑)
なんで全長で200mm、W/Bで90mmも長いクルマが
同じウェイトなんでしょう。
これをトヨタの軽量化技術が優れてると見るか、
BMWの身が詰まってると見るかは、
お好きなように。
そして注目のお値段は、
3シリーズ、
330で625万、325で525万。
マークX、
300Gで323万(+ナビ)、250Gで273万。
安っ。
マークX安い(笑)
Fパッケージっての選べば245万まで下げられます。
こりゃ売れるわ、そりゃ。

マークXはともかく、悩ましいですなあ。
325の525万も出せば、ゼロ・クラウン・アスリートの
一番いいのがポンと買える。
(ちなみに330の625万あれば一番安いセルシオいけます)
あれもいいクルマですよ?
カッコもV6専用で作られてるからよっぽどセダンとして
完成度高いし。

どうしてこんなところで悩むかと言えば、
だから、大きくなってクラス換わったから、なのです。
小さいままなら、
「いやいや、小さいから3にしたんだよ」
と言えた(実際にそのつもりで買えた)わけですが、
ここまで大きいとそれが言えない。
1815mmも横幅のあるクルマ買う根性出す時に、
ふと横見ると目が潰れんばかりのまっちろが輝く
日本最高のブランド、クラウンが居るわけですな。

やっぱり、サイズ間違えてる気がしますね。

しかも上級志向しだすと、身内、兄貴に5が居る。
525が約600万。
同排気量なら+75万、330買うつもりだったらそのままいける。

難しいですなあ。
このクルマだけ見てると別に問題ないのですが、
周り見だすと悩ましい。
以前なら指名買い、もしくは競合はCかA4かあたりだけ
だったと思うのですが、
さすがにこのクラスになってくると、
国産も力はいってるしデキもいいので、
「あれがいけるのか」って気分になっちゃいます。
先代までなら、クラウンと比べるなんて
考えられなかったんですけど。

「身持ちを大きくする」というのは
システム全体の変更になるので、
リスクとかかるエネルギーが大きいですね。

細かい話すると、
インテリアは諦めすぎのような気がします。
もうちょいだけなんとか新しさが欲しかったような……
特にiDriveの載ってる方の二段山インパネは
完成度が低すぎる。
あれならオートバックスで後付けナビつけた方が
よっぽどスッキリします。

6ATもパドルシフトとか、「BMWなればこそ」みたいな
芸が欲しかったような。

あと後ろ姿。
もうちょい演出できなかったもんですかね。
グラフィックも個性的でないし、
小物の小技も効いてないし、
10年前の日本車みたい。
「3xx」のレンダリングの位置も窮屈です。

それと、60Lのタンクは特に330あたりで足の短さを
露呈すると思います。
日本の都市部走行は非常に燃費に過酷なので、
ヘタするとメーター350kmぐらいで給油する必要がある。
実用上の小さな疵……かも。

褒め点としては330のバルブトロニック。
ついに量販車でバルブを直いじりする時代になったか、
と感慨深いです。
ますますソフトウェア、人間のセッティング能力が
問われる時代になってきましたね。

--

いろいろ言ってきましたが、つまり要約すると、
「とてもいいクルマだとは思うけど、
 こんなの3じゃない」
かなあ。
もうすこし具体的に言うと、
「デカイくせに安っぽい」
現行スカイラインがデビューした時のような。

どんなに背伸びしようとしても、そこは3なわけです。
5と並べりゃ5の方が(上質感では)いいに決まってる。
3のいいところ、っていうのはそんなところにはなくて、
ちいさなボディでピュンピュン走って、
くたびれるまで気兼ねなく使いこめる、
若いのが中古で買って引越の自転車を
トランク半開きで運べる、そこだったんじゃないですかね。
それは、5にはできない。
そこが3を「積極的に選ぶ」理由です。

豪華で大きな3は、チープですこしだけ小さな5にすぎない。
それでは、厳しいのですよ。
ゴルフVもそうですが、
最近のドイツ車は我を忘れすぎだと思います。

だからといって、
こういうのはおおよそ形而上のおはなしで、
メカニカルにはたぶんとてもいいデキのプロダクトだと
思います。
買って後悔するものじゃない。
し、やっぱり真面目に買う買わないと悩んで、
マークXやクラウンと比べる人はそうは居ない。
やっぱり、指名買いさせる力はまだある。

だって僕だって正直な話、もしお金がうなるほどあって
エグザンティアの後継を探すとなると、
3は候補に入ってきますよ。
330でもいいし、320をMTで乗ってもいい。
(そうなると左が欲しいですね)
まだわずかに、
「やっぱ3だよな……」
という香りは残っている。

ただ、次はない。
そんな気はします。
次はぜひ、「やっぱ3でしょう!」と顔がほころぶクルマを。



 4/14 書ける日もアルカディア

エエカッコをしようとするわけではないのです。
それはもうさすがに捨てました。
すくなくとも、
「あっ、俺、エエカッコしようとしてる」
と、気づくようにはなった。
気づけば回避できるわけです。

しかし、「いいものを」はなかなか捨てられない。
だから悩む。

なんたっていいもの作りたいからやってるわけで。
それを捨てるとなると絶対的に矛盾する。

じゃどうするか。

桜井章一さんが弟子に1秒で打つのを強制されてますが、
「考えない」ことによって、身体を
「麻雀・オートマチックマシン」
にする企みですな。
ゴッホも最後の3年ばかし異様な作品量(質)ですし、
ピカソや司馬遼太郎その他、
オートでやってるとしか思えないケースは多々あります。

これだ。

オートでバリバリバリッとやって、
その中から素質のイイモノを取捨選択し、
キャパの高いモノを選んで、
それを仕上げる。

そんな流れがいいんじゃないかな、と。
いろんなタイプがおられると思いますが、
昔から量で勝負するスタイルは合ってはいるので、
やれそうな予感がします。
というか、上記の3人が好きなので、
たぶんフィーリング合ってるんでしょう。

昨日の分(4/13)が異常に悩んだので、
そんなことを思いつきました。
ここ数ヶ月、書くので詰まることは無かったんですけど、
昨日に限って何書いてもフワフワしててダメで、
丸二日ぐらいひっくり返ってたんです。
(4/12を書いたのが11日の明け方、
 4/13を書いたのが13日の日付変更直後)
やはり、失敗は成功の母ですなあ。

---

生まれ変わったら絵描きさんになりたい
と思ってるのですが、
今もヘタな絵を描いてるのはなぜかと申しますれば、
「書く」方を客観的に見れるからです。
絵は下手なのを自分が充分に承知してますし、
実際、いつも思うように描けません。
だから、なにか見つけたら、
あるいはなにか引っかかったら、
「これはひょっとして文章でも同じかな?」
と考えることができるんです。

たとえば、
絵ってしばらく描かないと腕なまるんです。
身体使う技術なんで、そのステップの底辺近くまで落ちる。
(二度目はすぐ上がりますけどね)
たぶん文章も同じで、しばらく打たないとなまる。
だからなんとかしていつも打ってるんです、
風邪でも忙しくても酔っぱらってても。
もうこれは義務。

逆もあります、文章から絵。たとえば
「嘘をつく」言葉が悪ければ「言い切る」
文章ではご存じの通り常に強引に言い切ってますが、
絵は「下手だ」と萎縮してるので、
「つっこまれないように」と正確を期そうとするんですね。
できもせんのに。
それは間違いで、絵も言い切ればいいのです。
カメラでさえ超広角(魚眼)使えば凄い絵が撮れるわけで、
まして絵はなにをやってもいいんです。
形も色もシチュエーションも。

かようにして、
おたがいがおたがいのゲージになっています。
ゲージ一個あると、メインで困った時に
突破口になることがありますよ。
おすすめです。

それ以前に好きだ、というのがありますが。

FFで言うと黒魔の立ち回りをより極めるために
ナイトやってみるようなものかなあ。

---

こないだ、ちょっと「ドラグーン」を
真面目に読み返してみたら、
アラだらけでホッとしました。
すくなくとも目は発達してる。
もっといい出来だと思いこんでたんですけど、
いやあ、さすがに2000年秋だから4年半前、
いろんなところが恥ずかしい。

まあでもそこそこよくできてる(笑)
というか、よくあの頃にこんなもん書けたな。
ベースの話が良すぎるのと、
同人誌いっぱい作って勢いとノリが良かった頃
だったから、だと思います。
そう考えるとあんまり進歩してないとも……

書かないと、結果出ないですね、やっぱり。
書こう。

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ちょっと聞いてくださいよ、さっきちょっと用があって
パスポート見てみたら、
「コイツ誰だ!?」
って変なヤツが載ってるんです。
1996年12月。#を辞める直前かなー。

#を辞めた理由というのは
「このままでは脳が汁になって全部耳から出てしまう」
というものだったのですが、
この危機感が残ってただけ奇跡ですわ。
もう全部出ちゃってる。
慌てて閉じました。

免許証の写真なんかも常におぞましいですよね。
「写真嫌い」な方もたまにおられますが、
お気持ちはよくわかります。
まだ、観光地とか遊びで撮ったスナップは、
楽しそうだからゴマカシが効くんですけど、
こういう「素の顔」しなきゃならない時に、
「その時の自分」てのがモロに出ますね。

ああおぞましいおぞましい。
髪が変に長くて、ブレザー着て、淡い色のネクタイ締めて、
ツーポイントのメガネ・フレームが金。
うわー、やだやだ。

更新が待ち遠しいです。
今はもっとヨレヨレですが、
さすがにこんな無脳な顔ではない……
と思う。

ただ、おぞましいのですが、記録と記念のために
もうちょっと撮っておこうかとさえ思いました。
「この時よりはマシだな」
「この時輝いてるなあ、俺」
とか、それは悪いことじゃないかな、と。

-----

具体的なベクトルとして最近ひとつ考えますのは、
表現そのものは極力シンプルにしつつ、
そこになにを込めるか、
そこに充分なエネルギーとセンスを突っ込む。
そんな感じがいいのではないかと。
表現そのものをコンプレックスにしていきますと、
時間とエネルギーとセンスをそこに吸い取られますよね。
もちろん、それは悪いことではないのですが、
それよりも、「それはなにか」の方がより、いや、
はるかに重要だと思うんです。

アニメなんかでも、おっちゃん古い人間かもしれませんが、
初代ガンダムRX-78はシンプルなデザインですが、
あれが動くととてもカッコイイ。
余計な線が無いから、動きがわかりやすいんじゃないか、
と門外漢思ってしまいます。

表現というのは非常に良くできている「自然」を、
いかに自分流に再構築するか、ですから、
シンプルにしかし再構築され切ってる、という方が、
より進んだ、よりよくできた表現ではないかな、
とさえ思ってしまいます。
芭蕉は17文字で勝負したわけで。
手塚治虫はシンプルだからダメですか、
んなことないですよね。

人間って、表現ももちろんそうですけど、
ほおっておくとコンプレックスになるんです。
常にシンプライズする圧力が必要です。
Mac(Jobs)などそれだけ考えてると言っても過言ではない。

いつもそれは意識はしたいのですが、
実行は非常に難しい。
ご覧ください今日のこの無駄な長文。

まず、物理的にもエネルギーも技術も能力も必要です。
次に、「捨てる」や「諦める」には、勇気が必要です。
最後に、それでなお、いやそれ「だからこそ」
魅力無ければ、やる意味がない。

あと、コンプレックスだと簡単に「凄い」と言って貰える、
というのもありますねえ。
あれはもうそろそろ日本も先進国になって長いんですから、
脱却しないと。
シンプルな方がエライ、って、
だって昔はそう思えてたんだから。

むずかしいむずかしい言ってるだけでは進まないので、
なるべくシンプルにしたいと思います。

---

と、ど逆説で結んだところで今日はおしまい。
いかがでしたか?

思い上がっておりました。
「がんばったらいいのが書ける」
それこそが思い上がりです。
どんどん書いて、いいのができる、
それをピックアップして精度を上げていく。
そのほか、ないのです。



 4/13 書けん日もアロワナ

あー今日は書けーーーん!

そんな日もあるものさ俺。
守護霊が4人揃って花見ラストにでも行ってるとみた。

「……もうすこし早く来ればよかったねー!
 あ、そだ、どう、仙台とかあたりならまだ大丈夫だよ!
 ひとっぱしり!」
「桜ってのは散るからいーのよ、そこの風情を楽しまなきゃ。
 もののあはれ、もののあはれ」
「ぁ。……桜餅、売ってます」
「あたしも食べるー! お茶いこお茶! ……あれれ?
 主護先生は?」
「なんか花びら拾ってる。
 ……うーい、なにしてんの」
「……これを塩漬けにして、和久さんに桜湯を」
「キエェェエ、また得点稼ぎ!」
「んな良妻賢母風味がこの2005年に通用すると思うてか」
「もぐもぐ桜湯もいいですねえ」
「あ、もう喰ってる。あんた喰うか寝るか看病してるかだね」
「……んぐ。人生とは、そういうものですよ」

小学校の図画工作の時間で言われることですが、
ああ、国語の詩作の時間なんかでも言われますかね、
「好きなものを好きなように描けばいいのよ」

できません。
そんなことできません。

わたしゃ今でも
自分の好きなものを好きなように描く(書く)
なんてことできませんよ。
だって「本当の自分の好み」なんて知らんし。
これがいいと思ってても、
いつの間にか変わってることも多いし。
飽きもきますしね。
ディテールはともかく、バランスなんかは
どんどん崩していきたくなるものです。
物語なんかでいうと、途中で放り出したりとか。

「好きなように」の方も非常に難しいですよ。
そんなテクニックなんか子供持ってる
わけないじゃないですか。
桜のピンクひとつでも、観察眼あればあるほど、
どの色使っていいかわからない、
赤と白、じゃどうやって作っていいかわからない。
ほんとに「好きなように」やろうとすると、
くちょくちょに大変なのです。

ほんで追い詰められて桜を青で塗ると、怒られるしねえ。
どないせえっちゅーねん。

「できるだけ見たとおりに」
ぐらいでいいと思います。
その経験なら、すくなくとも邪魔にはならない損はしない。
特に日本人はDNAレベルで
クリエイトが苦手でメイクが得意ですから、
小学校なら全部写生でいいと思いますねえ。
なんか持ってるヤツは写生でも勝手ににじみ出て
きちゃいますしね。
ジミー大西さんが木を描けと言われて
象を描いたそうですが、
そんなもんです。

では見たまま写生してみますか。
写生は得意ですよ、写生は。
いやほんとに。

poepoepoe

マグカップの底に、ほんの少しコーヒーが残っている。
いつも、なぜか、僕は、ほんの少しコーヒーを残す。
「まだ終わっていない」
そんなキモチでいたいからだろうか。
俺の、よくばりさん。

poepoepoe

……do?
だめ?

どないせえっちゅーねん。

---
(追記)
写生が現場でやるもので写真ではやらない方がいいのは、
写真には撮影者の作為が入ってしまうからです。
いいと思わせる写真になればなるほど。
人気マンガの模写と同じになっちゃうわけですね。
絵描きさんはいつもモデルで苦労するのです。



 4/12 知らないもの

同じ所をぐるぐる回ってる気もするのですが、
ジリジリ登ってる気もします。
「ゴッホの手紙」を読み終えて。

結局、僕達は「知らないもの」を見たい。
それが、それこそが、
作り手の作るべきもの、
ではないでしょうか。

ゴッホ最後の3年の作品はどれも凄いのですが、
どれも特別な題材ではありません。
ひまわり、夜のカフェ、部屋、椅子、お医者さん、
糸杉、教会、自分の顔。
ですがそれが「ゴッホ」を通ると、この世に二つと無い、
誰にも真似のできないものになる。

感覚・知識・体験・技術……つまり全人的に
「誰も知らないもの製造マシーン」
になったような感じです。
なにをインプットしても、あっと驚くものが出てくる。

こうなるためには、いろいろ必要だと思うのですが、
まず必要条件として、
自分の心にこびりついているリミッターを
外さねばなりません。
「正しくあること」とか、「この方が良いはずだ」とか、
そんなものを全部ブチ壊して、
「こうだ!」
だって、前者のようなものは、「みんな知ってるもの」で、
僕の「こうだ!」は、「僕しか知らないもの」でしょ?

もちろん、「僕しか知らないもの」が「みんな知ってるもの」
である可能性もあるのですが、
そこはそれ、経験と仕事量と真摯な姿勢と鍛えた観察眼と
その他モロモロで、簡単にはそうならないように
がんばるわけですね。

研究は良いことですが、それで思考や感覚が
対象に乗っ取られないようにせねばならない。
常に食いちぎり消化するつもりで。
この情報化時代ならなおさらです。
いつものおはなしですが、器用であればあるほど、
研究熱心であればあるほど、好きであればあるほど、
この罠に陥りがちです。
べらぼうに上手いのにこれっぽっちもスパイク入らない
作品ってありますよね。
「良くできてる」では今やカップ麺でも許してもらえない。

二次創作が一般に低く見られちゃうのも結局は、
「知ってる」ところです。
(本当は、知ってるものを使って知らない話や空気を
 作るものですから、別に低くはないんですけどね)
十把一絡げはマズイですが、
いわゆる「大衆向け」や、日本で言えば「オタク文化」が
また低く見られちゃうのも同じで、
「約束事どおり」というところが、「知ってる」ところですね。
あるいは記号の寄せ集めだから、
既存・既知物の集合体以外の何物でもない。
(これも本当は、要素が既知であってもその繋がりや
 流れが未知である、というところにオモシロサが
 あったりするんですけども)

そしてまた、
「違ってればいい」という結論からお出迎えするのも
間違いです。
それはやっぱり、迫力がない。
自分の中から出たものではないので、根がないのです。
大衆系・オタク系から出た人がかかってしまう罠です。
「違うこと」、「知らないこと」をやろうとして、
体内から出たものでないものをでっち上げて、
誰もこっち向いてくれない。
速球派が変化球だけで組み立てるようなもので、
それでは成り立たない。

難しいものです。

でも、ゴッホでさえ最後まで悩み抜いたわけで、
なにか作ってるからには、
最後までつき合わねばならぬ悩みなのでしょう。
ガンじゃないですが、苦しむだけではなく、
お友達になるというか、
この悩みに見張ってもらいつつ、導いてもらいつつ、
力を借りつつ、ジリジリ進んでいく他、ないようです。

「なんか知らないけどとにかく全然違う」
そういうのは、いつ書けますことやら。



 4/11 起電力

笑い、っていうのは簡単なようでとても難しいです。
人を職業で笑わせるのはもちろん大変なんですけど、
日常にちょっとした笑いを交えるのも、ちょいムズ。

なぜかというと、「起電力」みたいなものが要るのです。
ギャグひとつ言うのでも。
食卓のバナナ見て、
「あ、バナナだ」
では普通。
これがフラット、電圧0の状態ですよね。
で、ここから、そいつを頭に乗せて
「イエローちょんまげー」
と言い出すには、
やっぱりココロとアタマの電圧をポーンと上げる必要がある。
当然そこには、エネルギーが必要です。
人間、というか生物はうまくできてて、
放っておけばどんどん省エネ方向に走る。
それに逆らう必要がある。

余談ですが僕が毎日、半ば神経症のように
パカパカキーボード叩いてるのは、
この起電力を自分に起こしている、のですよ?

いったん上げてしまえばキープするのはわりと楽で、
まして相方がいたりすれば正のフィードバックが掛かって、
どんどん電圧は高まり離陸していく。
さっきの例で、アホ友でも横に居れば、
きっと鼻の下にバナナのよい頃合いのカーブを持っていき
「……カイゼルヒゲ」
ぐらいの連歌引き継ぎはやってくれる。
そうやってどんどん先へ進める。

となると、起電力、
なんとしてもまずポーンと電圧を上げる、
ここのテクニックというか、心構えというか……
いや、習慣ですね、これが大事。

ウチのまま上の尊敬に値するところは、
常にこの起電力を持ってるところで、
なにかしらなところで、必ずつまらないギャグを言うのです。
伊賀の田舎のひいおばあちゃんが亡くなった時、
土葬だったもので村中の男衆が棺担いで練り歩いたんです。
まま上、カメラ持ち出してそれを撮る。
「パパ! チーズチーズ!」
ぱぱ上も基本的にアホですから、
満面の笑みでVサイン。
お棺担いだままね。
そんな様を目撃した時には
「ああ僕はこの両親の息子でよかった」
と痛感しました。
309乗ってたから7年前、26か25の時です。

なんの話してましたっけ?

そうそう、そういう、
いつでもどこでもココロをぽーん、
これができるといいなあ、
これは習慣化するしかないよなあ、
多少ミスしながらでも常にやってく他ないのよねえ、
そんな風に思います。

日本はそれ、小学校中学校の学校教育あたりで
徹底的に修正されるじゃないですか。
あれが良くないですね。
アメリカみたいに議会の公聴会でジョーク飛んだり、
旅客機のパイロットが「えーただいまから宙返りを」
と機内放送して解雇されたりするのも、
それはどうかと思ったりしますが、
まあ、もうちょっと、ゆるくてもいいんじゃないかなあ、と。

これ、つまり、笑いだけじゃないんです。
優しさとか、親切とか、気配りとか、男気とか、
そういうのも、全部同じじゃないかな。
普段から自分で意識してぽんぽん電圧を上げてるから、
ここ一番でもガーンとエネルギーを高めることができる。

ひさしぶりにFFの話になりますが、
仲良くやらせてもらってるガル赤さん、
この人は普段からムチャクチャ親切で、
お願い事お手伝い、なんでも聞いてくれるんです。
で、やっぱりこういう人は、マジバトルで
真っ先にみんなのために死んでくれる。
「みんなのために死んでくれる人だから、普段から親切」
なんではなくて、
「普段から親切だから、みんなのために死ねる」
のではないかな。

要するに、カッコヨサっていうのは、普段から。

考えてみれば、こんなあたりまえのことはないですよね。
普段から身体鍛えてるから、いざという時走れる。
普段から片づけてるから、いつも整理されている。
普段からちゃんちゃんと仕事してるから、
いざとという時頼りになる。
全部あたりまえです。
ココロもキモチも、全部そうなんでしょう。

目を吊り上げて「鍛える」とまで息巻かなくても、
バナナ見て「ちょんまげー」とやっていけばいいと思います。

ちょんまげー。



 4/10 灰色の中吊り

こんなことをわたしが言っても、
二浪中の受験生が受験必勝法を述べるようなもんですが。

マーケチングというのは、
「より売る」というものですから、
「今までお客じゃなかった人にアピールする」
というのが大原則ではないですかね。

どっかでひっくり返るんです、
「こういう人に売る」
っていうターゲット商売と。
それはもちろん間違いではないです。
そうやって作られた商品は、
ターゲットたる人々の欲求をよく満たす、ことが多い。

だけど、それだけでは、つまんないんですね。

地下鉄の車内で中吊り広告見てると、
驚くほど何一つとして「僕」を見てくれてないのです。
半年前なら、
「まあ社会の主軸から外れてるからなあ」
と拗ねてたんですけど、いや待てよ、と。
いかにメインストリームから外れてようと、
僕は男で、独身で、33歳で、デジタルガジェットが好きで、
クルマが好きで、サッカーも好きで、絵も好きで、
本も好きで、うまいもの好きで、大阪在住で、
なにより人間ですよね。
どこからでも切りようあると思うんですけど、
どこからも切られない。

つまり、ターゲットを絞れば絞るほど、
わずかに外れただけでそっぽを向かれる。

たとえばサッカー。
大きなマスコミになればなるほど、
わけがわからんことが書いてます。
「nakata.net」で言いたいこと言えない中田本人の
しゃべり読んでる方が情報が濃い。
「よく知らない人達向け」に書いてるつもりなんでしょうけど、
誰にもフィットしてないんです。

たとえばクルマ。
どのジャンルのクルマもどんどん
つまんなくなってってるのですが、
顕著に表れるのはいわゆるスーパーカーです。
最近の超高額車・超高性能車は、
「そういうものを欲しがる人」向けに作られている。
だから魅力が全然無いんです。
スーパーカーってのは、
とても買えない庶民の憧れになったればこそ、
光り輝く。
2000万あればフェラーリ買えます、
それじゃ200万あればミニバン買えます、
っていうのと何ひとつ変わらない。
そんなもん要らん。
独身用小型冷蔵庫と
ファミリー向け500L冷蔵庫の違いに過ぎない。
金なんぼあっても売ってくれない、とか、
買えてもとてもとても転がせそうにない、とか、
なんでもいいんですけどとにかく
「どんなジャンルの人でも等しく手に入れがたい」
からこそ、スーパーカーじゃないでしょうか。
だからこそ、誰もが欲しがる。

「どんな人でも欲しい」
というのが、よい商品/サービスのはずです。

人間にはいろんな切り口がありますから、
ウチのおかんでもiPod Suffle欲しがるわけです。
57歳大阪のおばはん、息子二人と祖母と同居、
趣味園芸と編み物、1mたりとて歩くの嫌な出不精。
とてもとても、額面上は、「ターゲットユーザー」
じゃないですよね。
でもこの人、機械モノ電気モノ新しいモノ好きで
音楽大好き、PCも一応使えてCDウォークマンもMDも所有、
外出時には必ず持ち出す、って言えばどうです?
いきなりターゲットど真ん中。
そんなもんです。

宮崎駿監督が
「『子供心』に向けて作っている、それは大人の中にもある」
みたいなこと言ってたと思うのですが、
そのとおり、ある人の中には、いろんな人がいるものです。
子供もいるし、オヤジもいるし、老人もいるし、
妄想上かもしれませんが、ヒーローもいれば、
賢者もいれば、皇帝もいる、乞食もいる、芸術家もいる。
ある人のなかの、
そんな「ちいさなひと」を直撃する、
それこそがよく受け入れられる、
生で言えばよく売れる条件ではないでしょうか。

だもので、ターゲットをもし持つなら、
そういう持ち方をするべきかなあ、と思ったのです。
具体的な人ではなくて、
人の中に居る人を狙う。

そういう目で見れば、中吊りなぞ等しくすべて灰色です。
おそらく、今、モノがわかってる人は、
たぶん中吊りには情報を出さないんじゃないかな。
同様に、新聞やTVにも。
高級外車専門誌に軽の広告出しても効果薄いですよね。
なら出さない。
それと同じことです。
ターゲット細分化を進めてしまったがゆえに、
メディアとしての価値を自ら下げてるような気がします。
もちろん負のフィードバック掛かりますから、
有益な情報が出てこなくなればなるほど、
ますます人は離れていく。
ま、詳しく見ていけば勃興期と安定期では
ねらい所が違うとか、いろいろあるでしょうけども。

メディアだけでなく、メーカーでもサービスでも、
あまりに「いわゆる」マーケティングを
一生懸命にやってしまったがゆえに、
袋小路入っちゃってることも多いように思います。
需要創造とか、「欲しがる人を作る」とか言うと、
むずかしく聞こえますが、要するに
「うわっ、これを買うためなら俺は18歳に戻れるぜ!」
というようなものではないでしょうか。
売り手から見れば、
「ゆとりあるくつろぎ」
とかそんな小洒落た抽象表現じゃなくて、
「ほうら、このサービスであなたも王様!」
ぐらいの生々しいメッセージが伝わる感じ。
「そうか、王様か!」
とぽーんと反応できる、そこがいいと思うのです。

と、生意気言ってみました。
じゃお前がそういうの書け、
と言われて書けないのがミソですな。
がんばってみますとも。



 4/9 スプラッタ・ショウ

あの「骨上げ」っていうスプラッタ・ショウは
なんとかなりませんかね。
アメリカなら「精神的苦痛を与えられた」とかなんとか
訴訟対象になって5億ドルぐらいふんだくれそうですけど。

あのヤケに手慣れて妙になれなれしい係員が
手際よく進めるでしょう。
「足から取っていきます、これが指の骨、
 これがひざのお皿、そして大腿骨、腰骨、
 そしてこれが……最後に喉仏様でございます」
合掌。
第二頸骨、砕けてるとご丁寧に組み合わせてくれますね。

もうええっちゅうねん。

キリスト教徒やイスラム教徒はどうやってクリアしてるの?
黙って受け入れてるの?

欧米の火葬場では高温で焼いて「灰」にしちゃうそうです。
日本はわざわざ骨を残す為に、
とろ火でコトコト焼いてるわけです。
せめてセレクトできるようにはなりませんかね。
僕は灰も残らないぐらい焼き切って欲しいです。

……と、思っていたのですが。

人間おそろしいもので、見慣れてくると見慣れます。
逆に、あれやると、
さっきまで起きあがってしゃべり出しそうだった人が、
間違いなく白骨になって出てくる。
「いなくなった」という実感が、ガツーンと直撃するんです。
しかも「骨を拾う」というアクションで、
実感として身体でもって
「これはただの骨、これはただの物体」
と迫る。
表現はおかしいですが、スッキリするんです。
「おわった」っていう。

土葬文化圏では(むろん昔の日本もそうです)
愛や恨みが深すぎると、
すぐ墓を掘り返してどったらこったらという
怪談になります。
でも現在の日本ではそれはリアリティが薄い。
なぜかといえば、「骨上げ」で全部終わっちゃうんです。
墓なぞには、なにも入ってない。
そう考えれば、区切りがつくという意味でいいことだ、
と思えないこともない。

でも個人的にはやっぱり、
灰にして桜の根本にでもまいてもらいたいです。
あのショウだけは身内にさせたくない。
あ、でも灰を甲子園の土のように
ちいさなスコップで掻き集めたりするのも、
それはそれでコミックかなあ。

生きるのも難しいですが、
死ぬのも難しいですね。



 4/8 在庫

こう見えても一時は公認会計士をめざし
簿記は三級まで極めた男。

ね? 無駄な人生歩んでるでしょ?

ほっとけ。

「在庫」というのは「負債」に分類されるべきではないかと
思うのです。
モノ、ウェイトさせてるコト、
ちょっと冷たいようですが、ヒトも。

AppleがiMacのあたりで業績をがーんと上げた時、
商品力ばかりが取りざたされましたが、
実は流通でも大革命を断行していて、
180日分あった在庫を5日かなんかに減らしたそうです。
マレーシアの工場から秋葉原の店舗に商品直送とか、
いろいろ頑張って。
そうなると、あらゆるコストが削れてシェイプされて、
身動きが軽くなって、戦いやすくなるわけですな。
なにより、半年分のお金が倉庫で眠ってるのと、
キャッシュフローになって、つまり活きた金になって
どこかで回っているのでは、ぜんぜん違う。

必要なモノを、必要な時に、必要なだけ。
カンバン方式ですな。

あれ、大学で習った時にまったく意味が
わからなかったんです。
「それって下請けに在庫リスク押しつけてるだけじゃん」
と思ってね。
ま、それも事実なんですけど、
大切なのはその精神、
「在庫持たない」という考え方なんですね。
だから下請けも各段階で同じように、
できるだけ必要物必要量を必要時に提供できるように、
知恵を絞ればいいわけです。

たとえば、土地とか債権とか、
今は簿記上でも全部資産扱いですよね。
これが、すべての元凶かもしれません。
全部負債でいいんじゃないかと思います。
だって、ピンチなって売るったって足元みられて
買いたたかれるわけでしょ?
実勢価格なんてなんの意味もないですよね。
価値あればラッキーって程度じゃないですか。
それを、まるで体力のように表示するのは、おかしい。

会社の実力・体力は、
その純粋な戦闘力・営業力で評価されるべきです。
モノやヒトやコトをどれだけ抱えてるか、
そんなもん抱えていれば抱えているだけ愚かです。
ストックゼロ、それが理想の状態で。
旧財閥系の大会社が青息吐息なのも、
そりゃ、当然です。

もちろん会社だけじゃなくて、個人個人のいろんな在庫も。

生活のあらゆる面で、
「必要なことを、必要な時に、必要なだけできる」
と、すごくうまくいくだろうなあ、
と思います。
でも実はそれをやるには、
知恵と勇気と経験が必要なんですね。
100万現金が要る時に、
一番簡単なのは貯めてあることです。
も一つ進むと、
パッと一日仕事をすれば100万になる人。
さらに極端に言えば、
「貸して」と言って貸してくれる友達が居る。
後者になるほど、むずかしいわけです。
どれがいいっていうわけじゃないですけど、
借りれる人は、たぶん作れるし、たぶん貯めれる。

なんでこんなこと思ったかと言えば、
思いっきり天唾ですが、
ライターやコラムニストのblogほどくだらないものは
ないのです。
「どこそこで打ち合わせ」「なになにを鑑賞」
そんなんばっかりズラズラズラズラ延々並ぶ。
おまえは、何を見て、何を感じたか、それを書け、
プロやろ。
そんなくだらないこと読まされるぐらいなら、ごく普通の人が、
「今日、通勤の途中で桜並木を通りました!すごく綺麗!」
って書いてある方が2000倍優れている。

……という前に、要するにこうした人達は、
自分の「在庫」に圧迫されてつぶれかかっているのです。
怖いですよ。他人事じゃない。
僕も、過剰な情報を怖れ、なるべくカロリー制限してる
つもりですが、それでもいつのまにか流されてる。

ライターの・書くモノ
だからすごくクリティカルにあきらかに出てるのですが、
全部同じ。
絵師の・描くモノとか、歌手の・音楽とか、
ビジネスマンの・仕事とか、
「在庫過多」で
「なんだかたくさんある気がするけど、
 ほとんどは勝負にならない在庫」
っていうケースは、山とある。

だってさ、冷静に考えてご覧なさいよ、
売れるモノほど、つまり必要とされているものほど、
さばきにさばけるから、在庫にならない。
残ってる時点で、なにかがおかしいわけです。

コンビニの「機会損失」みたいな考え方
(品切れで売れるチャンスを逃すよりは、
 在庫を捨ててでもそのチャンスを逃さない)
も在庫過剰を後押ししてますなあ。
あれももう、90年(バブル崩壊)までの価値観だと
思うんですけど、未だに神話になってますね。

ダイエーを筆頭に、小売店で辛いところ
出てるじゃないですか。
わたしらメーカー出身者に言わせりゃ
「小売りで困る」なんて状況が信じられないんです。
でかいところなら6ヶ月とかの掛けで買って
現金回収でしょ?
キャッシュ渦巻いてウハウハでしょうがない、
どうやったら資金繰りに困れるんだ、という感じなんですが、
でも困る。
外的要因
(土地で火傷したとか、商圏の競合店に負けるとか)
はあるとしても、基本的にはこれも、
「在庫」の怖さを現してるんじゃないかなあ、と思います。
6ヶ月掛けで買ったとしても、
6ヶ月売れなければたちまち損しか生まない厄介者、
でも大きくなればなるほど、そういうものを抱えなければ
「品揃え」を確保できない。
(もちろん巨大ショッピングモールになれば、客単価向上や
 商品以外での収益がある程度見込めるでしょうが)

逆にAmazonはじめネット通販などというのは
ジャスト・イン・タイムの極端な例ですよね。
それは、昔の油の量り売りなどへの、先祖返りなのかも。
世の中、やっぱりそっち側に徐々に
流れていくような気がしますね。
高度な技術と科学とシステムを使って、
古くからの知恵をリフレッシュして表現する。

で、具体的な作戦としては、
「やらなあかんこと」や「やりたいこと」に立ち向かう時に、
無慣性でパッとやって、あんまりこだわない、
っていうところかな、と思うのです。
簡単に言えば、
やらなきゃ、と思ったら、とりあえずやる。
そんな感じ。

あと捨てる技術も大事でしょうねえ。
ストック志向の人の言うことは、
どんどん精密で知識に溢れたものになっていくのですが、
本質はあまり向上しないように思います。
「こんな人がこう言ってる」なんてことより、
「僕はこう思う」という部分の本質突き加減、
そここそがなによりも大事なはず。
場合によっては、補強しようと打った裏打ちが、
邪魔になることも多い。

身に付いて鍛え続けている自分システムで、
その場、ナウの世界を分析してえい、と切る。
それが、「知性」ってもんではないでしょうか。

くれぐれも、在庫過多にはご用心。



 4/7 喰えないかもしれない

原油が上がっている。
ハイオク130円というのは、わたしがクルマに乗り出してから
(91年)最も高水準である。
原因の一つは、中国やインドでの消費量が拡大して、
要するに足りないのだ。
原油とはいえ商品、需給で価格が決まるわけで、
たくさん使われる=たくさん払われるところへと流れる。

やばい。

その流れが原因であるならば、
しばらく落ちることは考えにくく上がる一方であろう。
原油(エネルギー源)が上がると、
すべての物価に跳ね返る。
ただでさえリビングコストが異常に高くて住みにくい日本が、
これ以上住みにくくなって大丈夫なのだろうか。

原油(エネルギー源)が高いというのもマズイのだが、
この事態は簡単にもう一つの想像を呼ぶ。

食料は大丈夫か。

煽るわけではないが平均所得が半分でも、
10倍の人間がいれば5倍の支払い能力があるわけで、
小麦とかマグロとか中国人に
全部持ってかれるのではないか、
と薄ら寒い想像が脳裏をよぎる。

日本は、アメリカの牛肉が入ってこなくなっただけで
昼食のセレクションが一つ減る変態国家である。
小麦が入ってこなくなったら一体どういう事態になるのか、
考えるだにおもしろい。

解決策はひとつある。
北海道だ。
北海道に行くしかない。
食糧自給率200%近い豊穣の大地で、
ビールとバームクーヘンを食べて生きるしかない。

「己の実力は己が一番よく知らない」
というのはよくあることで、
北海道の人は東京を見て「都会はいいなあ」などと
お思いかもしれぬが、とんでもない誤りである。
メシも食えずに何が人間生活か。
六本木ヒルズに棲息して昼はITなんちゃらをなんちゃらして
夜はパラグアイから来たギタリストの音色に耳を傾ける、
そんなくだらないことより、
サッポロ・クラシックを毎日飲める方が
7万倍ぐらい幸せである。
「喰えなくなるかもしれない」連中は、
それがあまりにもおそろしいがゆえに
必死でその恐怖を嘘で塗り固めて
まるで己らの生活の方が豊かであるかのように
振る舞ってる。
だまされてはいけない。
リッター120円の新鮮な牛乳を浴びるように飲める以上の
幸せは、この世には無い。

喰える、それは最低限にして最強の性能である。

「新幹線? ああ、君らが全額負担するなら
 敷いても別に構わないよ?」
というのが北海道人の取るべき態度である。
あなた方は、別に誰に頼らなくても生きていけるのだ。
我々は、あなた方に頼らねば生きていけない。

首都圏や関西からも多くの人間が札幌はじめ
都市部にスパイとして流入してると思うが、
彼らは地元に血縁地縁の人間を抱えるので、
真実を言わない。
「じゃ、もういいです」
と言われて困るのは、東京であり大阪である。
そこんとこを、もう少しじっくり考えられた方がよろしい。

パラダイム、考え方感じ方が、
劇的に変わろうとしている。

昨日まで有利だった点が、ただ逆に不利に働く。
栄光のトリニトロン工場を抱えてグズグズになっている
SONYのTV事業、(いつも例に出して申し訳ないですが)
それは、どこにでも起きることです。

食糧自給率40%という異常事態を
延々放置し続けた政府も無能ですが、
その政府を選んだのは我々です。

ま、北海道がどうこうというより、
住む場所としての日本が
大真面目に大変なことになってきたなあ、
と感じるハイオク130円。



 4/6 進化しよう

当HPのトップページ(緞帳)には、
さんざん悩んだり考えたりした末、
「進化しよう」
と書きとめました。
そのままだと恥ずかしいので、嘘英語にしてますが。

結局人間というものは、
最後まで何もかもがまるで足りないものです。
実績も知識も経験も心遣いも世俗的な力も、
それから、幸せも。
だから、どこかで満足してしまうと、
巨大な世界全体の中で、
ちっちゃーいパッケージになってしまう。
しかも世界全体は日々変化してますから、
パッケージになっちゃった瞬間から、
つまり時間を止めてしまった瞬間から、
どんどん世界とフィットしないものへと変化、
キツイ言葉を使えば劣化していくのです。

時間止まっちゃってる人は、さみしい。
だって亡くなった人と、同じだから。

だもので、上を向いて、
「よし、もうすこしよくなるぞ」
という気持ちが、なによりも大切ではないでしょうか。
結果と方法は別にして。

大いなる人物になればなるほど、亡くなった時に
「彼はやりすぎた」
とは言われないものです。
「もっとできたはずだ」
と言われる。
それは、いつまでも進化する可能性を秘めていたことへの
賞賛の言葉に他ならない。
だから惜しまれる。

日々に持つべき気持ちなんて、
これ一点ではないかなあ、
と思う春、桜、入学式の日です。



 4/5 独り供養

今夜はひとりで呑んでます。
今回ほど「嫁さんが欲しいなあ」と思ったことはありません。

「物言わぬは腹ふくるるわざなり」
と申しますが、言いたいことどころか
言葉になる前の原型状態、つまり
「おぴょー!」とか
「キィエエエエエエ!」とか
「どぅらっしゃあああああ!」とか、
その段階でもぶちまけられる相手が居る、
それは非常なる幸せです。
母はね、やっぱりそれは難しいからね。
友達だとね、やっぱり気も遣うしね。

特別な秘密とかじゃないんです、普通のコトガラです。
でも、大人になると、
「たとえ真実でも、言っちゃいけないこと」
っていうのを知るじゃないですか。
ハゲにハゲと言ってはいけない、理由は二つ。
・傷つけるだけ。
・毛が生えてくるわけじゃない。

でも言いたい。
「ハゲてる!」と。
やかましいわ。

そんな相手が、欲しいねえ。

あ、あとね、やっぱり「お家のご飯」は最高ですよ。
ウチの母のが、という意味じゃなくって、
「素材から調理した料理を自宅でいただく」
という経験ね。
どんな豪華なお弁当も美味いお酒も、
家で白ご飯と共に喰う焼きナスやレバーの煮物には
敵いませんよ。

病院とか会館とかで外食が続いて、
もちろんちゃんと美味しいもの食べてるんですけど、
家帰ってミンチ鍋の残りと大根葉の漬物で
昨日のご飯チンして食べて、
「うまいなあ」と泣きそうになりました。

あれはなんなんでしょうね。
もちろんリラックスしてるのと味に慣れてるのが
一番大きいのだと思いますが、
「素材をあまり加工していない」
「調理から時間が経ってない」
というのが大きいのだと思います。
旬、というか、肌寒い日だから鍋、とかそういう微妙な
タイミングみたいなのもあるかな。
コンビニでは、いつでも焼肉弁当がいただけますからね。
それはすばらしいことなんですけど、不自然。

してみると家庭料理というのは、
「なんでもないからこそいい」
という逆転的な発想で作るのがよろしいのかもしれません。
……なーんてことはおかあさん達は
先刻ご承知なんでしょうけれども。

そういう、
「なんでもない読みもの」
を書きたいな、とすこし前から思っているのですが、
なかなか、形にするのは難しいです。
もちろん、美味しくなきゃだめなので。

そしてやはり決め手は笑顔。
自転車屋さんのKご夫妻は、ほんとに陽気なお二人で、
場が和むのです。
お坊さんのありがた〜〜〜〜いお説教が続く
初七日法要の隅っこでこっそり奥さんが。
「……ね、ね、ながた君このお坊さんのお話はじめて?」
「あ、はい」
「長いでしょ?」
「まあ」
「御大ね、いつもこの坊さんの話
 『おもんないし長い! はよ終われ!』
 って言ってた」
「ブッ……そんなこと言ってるから」
バチが当たったんですな。

その一会話で、一時間のお説教(&お読経)が
苦痛から笑い話になるのです。

てことで、
僕の罵詈雑言に合わせてくれて、惣菜料理が上手くて
いつも明るい人、けっこうマジメに募集中です。
ただし当方、甲斐性ゼロ。

……そうそう、甲斐性で思い出しました。
バッキー・フラーだったか桜井章一氏だったか、
誰かがいいセリフ言ってます。

「金は便利だが大事ではない」

ほんとね、それ痛感。
金さえあれば楽ができることが、世の中にはヒジョーに多い。
たとえば僕が年収5億ぐらいの人気作家だったらなあ、
誰の手も借りずこれができてあれができるなあ、
そんな詮ないことを夢想したりもしましたよ。

でもね。

一番最後の最後は、金ではどうにもならんのです。
金積めば御大が治るのか。
治らない。
金積めばユミ姉さんやヒロさんの悲しみがやわらぐのか。
やわらがない。
それをすこしでも癒せるのは、
遠くから飛んでくる参列の皆さんの、
気持ちと言葉だけ。
それは、金では買えないのです。

2000万の葬式が出る人生も、そりゃすばらしいですが、
200万の葬式で黒が出る人生ってのも、
すばらしいものですよ。

呑みます。



 4/4 御大亡くなる

3日朝9時50分頃、ずっとお世話になってました、
御大がおなくなりになりました。
享年あとわずかで58の57歳。
天下のローマ法王を先導役に選ぶあたりが
らしくてしかたがないです。
しかも夕刻には激しい雷とどしゃぶりの雨。
雷様を脅してるんでしょうなあ。

またこの日はわたしの即売会はともかく、
義弟念願のマイホームへの引越当日、
手塩に掛けた後継者は旅の空、
というこれ以上考えにくいナイセスト・タイミング。
「3日は避けて欲しいよなあ」
と冗談で言ってたのを聞いてたとしか思えず、
さすがとしか言いようがありません。

3/3に入院されちょうど一ヶ月、
いろんなことがありました。

入院直後の検査で肝臓ガン末期だと判明したのですが、
告知というのは、想像以上に難しい問題です。
結局、本人の意志や趣味趣向とは関係なく、
周囲が「この人には告知をした方がいいか良くないか」
を決定します。
御大の場合、まかり間違って告知でもしようものなら、
病院を抜け出そうと夜中這い回って逝き倒れる、
そんなもんですめばまだマシで、
ヘタすると「家族に一財産残すんや」とエアガン片手に
大阪信金あたりに押し込むかもしれません。
いや冗談抜きで。
となるとね、QoLとかそんなカッコイイ言葉は
遠いどこかの話、
「言わんほうがええ言わんほうがええ」
ということになるんです。

難病重病、告知されたい方は、
「この人には告知した方がいい」
という生き様を歩まねばなりません。
極端に功利的な表現をすると、
死にゆくあなたはどうでもよくて、
生きていく家族と周囲がどれだけ負担にならないか、
そこがポイントなのです。
だから逆に、
告知した方が負担にならないと思われてしまえば、
告知されたくなくてもされてしまうことも考えられます。

生が自分のものでないのと同様、
死も、自分のものなんかじゃないんです。

それにしても人間って凄いな、と思ったのは、
「言わない」そう決めると、
お見舞いの方が老若男女全員、
まさに社会的位置も本人との距離も関わりも
まるで違う人々全員が、等しく・間違いなく、
「そのように振る舞える」ことです。
どなたも本人の枕元に立つや最高の笑顔全開で
「なにこんなところで寝たはるんですか、らしくない」
「早くよくなってどこそこへ行きましょうよ」
嘘とか芝居にまるで縁遠そうな人でも、
もののみごとにやってのけます。
繊細そうな奥さんも、豪放磊落な親分肌のオッサンも、
最近知り合った若者も、子供時分からの友人も。
全員が全員なんです、全員が全員。

あれは本当に驚きました。
ドラマ等々で、
「俺は末期ガンなのか!? 言ってくれ!」
なんて迫るシーンがありますが、
ああいうことはなかなか起こらない。
まず当人も生を信じたいですし、
もし万が一疑いを持って周囲に訊いたとしても、
この、「全力の嘘」が返ってくるだけです。
当人もできればそんなこと思いたくないですから、
簡単に砕かれる。
「そうだよな、治るよな、がんばるよ」

くり返しになりますが、
言ってもらいたければ、
言ってもらえる人でなければならない。
ちいさな話ですが、告知だけではなく、
耳の痛い忠告とか、人の話は全部そうです。
「このひとは聞いてくれる」と思われなければ、
誰も何も、言わない。

---

そして我々も無力なのですが、
現代医学も本当に無力なのを痛感しました。
こうなると、なにもできない。
いかに「生かすか」ばかり考えてきたもんだから、
いかに「死なすか」は極端に立ち後れている。

もちろん、入院されてた病院はかなりいい病院で、
スタッフも献身的で明るくモチベーション高く、
医師も闇雲な延命ではなく患者の気持ちと苦痛を考えて
判断されるのですが、
だからといって現実の施策・手段としての弾がない、
という印象でした。
痛み止め一つ取っても、弱いのは効かない、
強いの入れるとあっという間に慣れて効かなくなる、
もっと強いの入れると心肺に負担が掛かって
呼吸困難のおそれがある。
「鎮静剤打つとそこで意識が無くなるおそれあります」
と言われたら、そりゃ、打てませんよ家族は。

世界中の医師や研究者やメーカーが雁首揃えて
なんで肝臓ガンなんてメジャーな病気の
「痛みを取り除く」という基本の基本が
こんなにほったらかしなんだ、
と極めて腹立たしかったです。
生体肝移植なんてアクロバットもそりゃ大事でしょうけど、
そんなスペシャルより何千倍何万倍の人が、
末期肝臓ガンの痛みを和らげる薬(施術)の
恩恵を被るはずです。

こんなんじゃ、江戸時代あたりの腹水たまって
どうしようもなくなってポテンと死んじゃう時代と、
一ヶ月激しい苦痛に悶え続ける現代と、
どっちがいいかホントわかんない。
ホントわかんない。

もちろん、「すこしでも生かす」が花形主役であるのは
当然としても、
「うまく終わらせる」医学の発達を願います。
社会ももうすこしそこに目を向けないと。

念を押しますがいい病院だったんです。
いい病院にしてこの程度のことしかできないのか、
っていうのが、人類の限界を見せつけられてる感じで、
とても切なかった。

---

いろいろ、ありますが、それはまたおいおい。

いざ、横たわり物言わぬ人になられた姿を拝見して、
出た気持ちはただ、自分でも予想もつかぬ、
「もったいないなあ」
でした。
あと10年、生きて、世のため人のために
その知識と体験を活かされたら、
もっともっとすばらしいことができたでしょうに。

とりあえず生きてないとなにもできん。
逆にまた、
生きてるうちにやりたいことはやっとかなあかん。

とにもかくにも、
仮通夜にもかかわらずひっきりなしに枕元に
客が現れ涙を流す、
そういう人生はやっぱり、
幸せな人生であるとともに、
羨ましいものです。

「やすらかに」などという言葉が
これほど似合わない人は居ません。
どうか遊び道具といいお酒を掻き集めて待っててください。
どうせしばらくしたら、みんな行きますので。
呑みましょう。



 4/3 絶対他力ドライブ

最近よく言ってます「流れ」っていうのも、
結局その全体としての「大きな力」と
考えてもいいかと思います。
阿弥陀でも神でもガイアでも霊でもなんでもいいんです、
とりあえずそういうものね。

してみると、
「流れに逆らわずに行動する」
というのは、
「自力に驕らず誇らず頼らず、
 ただ一心にいいことが起きることを信じて(救いを信じて)、
 なすべきことをなす」
と言い換えることもできます。

つまりこれ、絶対他力。

と、気づいて、「あ、親鸞偉い!」。
生活すべてにおいてそうである、と喝破している。
もちろんそれを実践している市井の人「妙好人」に
スポットを当てた鈴木大拙も偉い。
漱石の「則天去私」とか、結局はこれのような気がします。
たぶんどのジャンルの人も、特に日本人は、
最終的にはここに至るのではないかなあ。

---

「守破離」という言葉がありますが、
ものの見方の段階を3つに分け、
この言葉をながた流に使わせていただくなら、

守……やりたいことをやれる手段を確立する時期
破……やりたいことを探して右往左往する時期
離……湧き出るやりたいことに身をまかせる時期

というのはどうでしょう?
わたしは破の終わりの時期……
技術とか知識とかは全然関係ないんです、
問題は世界の認識の方法と程度。

とても巧いのに心に響かない、
その人は守をいつまでもやってるんです。
どうもヘタなのにすばらしくてしょうがない、
その人は駆け足で離に至った人か(子規)、
離に至って過去のすべてを捨てた人か(ピカソ)、
ですね。

離に至るまでに、自分の小手先の業や作為がいかに
力ちいさなものか、思い知る。
そこでそれを離れあるいは捨て、自然にまかせて
自由自在に行動することで、
自分の力以上のことができる。

それが絶対他力ドライブ。

……で、いつもどおり問題は、
「どないしたらそないなれんねん」
というところですが、
絶対他力ということはつまり、
「なむあみだぶつなむあみだぶつ」
とおすがりするしかないのです(笑)

バカにしてますけどあーたこれが良くできてて、
「なむあみだぶつ」と手を合わせて唱える、
というアクションで、
「謙虚に自然に」という心持ちを思い出すわけですね。
その心持ちこそが大切で、
別にその呪文に呪力があるわけではないのです。
だから当人さえ納得するなら「ベントラベントラ」でもいいし、
「インディヴィデュアル・プレステージ」でもいい。
別に水魚のポーズ取ってもいいし。

かなわんな昔の人の知恵には、ってところです。
なまんだぶなまんだぶ。



 4/2 ととのえない

いつも同じことを言うようですが。
何度も言いたくなるなら、
やっぱり気になることなのでしょうし、
時が経てばすこし進化洗練されてるかもしれませんし、
同じなら、大切なことでしょうし。

「丁寧に」時間を掛けてしまうことは、
進歩をはばむのではないか。

なにかやろうとする時に、心構えとしては良いのですが、
作業としてはあまり時間と労力を集中させますと、

・物理リトライの減少
それの改良という意味でも、
次や他への機会の意味でも、
丁寧に仕上げていけばいくほど、
トライ&エラーの回数は減ります。

・「整える」ことは本質には関わりがない。
ケーキで言えば生クリーム飾りの美しさであり、
大事と言えば大事ですが、大事さ度合いはかなり低い。

それよりなにより、自然は、そんなに整ってないのです。
つまり、整えれば整えるほど、ウソをつくことになる。

あるいは逆に、自然はあまりに偉大で精密すぎて、
どうがんばっても人間の所為など、
宇宙におけるアリとゾウのようなものです。
そこだけ見てるとものすごい違いのようで、
なんにも違わない。

それでもなぜ人が整え続けるかといえば、
それは、やり方がわかってるからです。ノウハウがある。
それは簡単で楽なんです。
コピーすればいいだけなので、作業量としては莫大でも、
ハナクソほじりながらできる。
要するに頭を使わない。
人間の器官で一番使ってしんどいのは、頭ですからね。
で、やった気になる。逆ギレする。「あんなにやったのに!」

現代という時代は、こうして整えに整える時代です。
まるで整ってないとスタートラインに立てないかのような
錯覚に、みんなで陥っている。
そんなことはない、というのは、「マルヨシ」の小汚い
ビニールホルダ入りメニューを見ればわかります。

メニューの美しさで夕食のお店を選びますか。
シフトノブの造形でクルマを選びますか。
TVで観たあの人のスーツが品が良かったから、
御本買ってみようかしら。

そんなことは、どうでもいい。

同じモノを売る小売業なら「整え方」も差別化の一つに
なるでしょうが、
世の多くのモノやサーヴィス、ましてヒトは、
そもそも同じものは一つとしてない。
それならば、「整える」などということは、
本質的には必要はない、
いや、
しない方がいい、
とさえ言えましょう。

無理に変わる・変える必要すらない。
整えなければ、それでいい。

神道に「なしのままに生きる」という凄絶な言葉があります。
こういうことではないかな、と思うのです。



-----
ひさびさに。

     梅田もも(Miracles!)

いつもありがとうございます〜。



 4/1 まんなか

最近よく想うのは、「真ん中はなにか」ということです。

「マルヨシ」という洋食屋さん
(当店は「フランス料理」と言い張ってるがナポリタンが出る)
がありますが、あそこ行くたびに思うんです。
内装が実に古くて安っぽく、(清潔だけど)
席数も少なく、食器はすべて純白の安物、
2FではNHKが高い位置でつけっぱなしになっており、
値段は安くなく高くなく、
スペシャルなメニューは何もなく、
そういえばメニュー表などいつの時代のか
わからないぐらい古く、
綺麗なウェイトレスがいるわけでもなく、
味もね、美味いんですけど、
そんな目の玉見張るほど美味いってわけじゃない。

だけどフラフラと行っちゃうんです。

人には、それぞれの「真ん中」があるようです。

僕にとってのそれは、たぶん、
特別なことをせず、健康でプリミティブな素材を、
あたりまえのいつもの料理にしてくれて、
普通に出してくれる、
それが真ん中なんです。
フィットしてるから、つい行っちゃう。

人によっては、「もっと高級な雰囲気を」
あるいは「高くてもいいからもっと美味いものを」
逆に「安くてしてガバガバ食べれるものを」……
いろいろあるでしょう。
作り手も同様です。
「食事はおもてなし」だと雰囲気サーヴィスも含めた
パッケージに全神経を注ぐ人も居れば、
「俺は世界一の味の芸術家になる」と
作品にコダワリまくる人も居れば、
「ファミリーに納得の外食体験を」と全国1000店の
ファミレス・チェーンをめざす社長も居るでしょう。
そこに上下も優劣も善悪もなくて、
いろんな人がいる、っていうだけです。

その一皿を媒体として、作り手と受け手は出会います。
相性ですから、似た考えを持ってる方が、居心地がいい。
だからしあわせになる。

こないだ鉄っちゃん、ヒロさんと3人で行った時も、
さんざん食べ終わってのち、
隣のテーブルにステーキが運ばれてきたんです。
「「むをっ!?」」
顔を見合わせるアホ3人。
「美味そうだな!」「次はアレ行こう、次は」
簡単なように見えて、そう思える店はそうは無い。

特に自分を縛るつもりもないのですが、
僕は「マルヨシ」のようなやり方が、自分でも好きです。
今風じゃないところが山とあるけど、
「これですよこれ」というものがちゃんと出てくる、
しかもいつでも気軽に行ける値段とサービス。

素人芸ではありませんが、
肩肘張った達人芸でも一見さんお断りの名人芸でもなく、
いうなれば愛情芸。

と、恥ずかしいことを書くのも、
そろそろエアコンのスイッチを入れなくてもいい
季節だからです。




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