■ ほえなが ■

Failure is not an option. (Mission Apollo13)

 5/31 input

本日は5/1から5/31までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)

■本■

 「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」(上) 杉浦明平 (岩波文庫)
 「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」(下) 杉浦明平 (岩波文庫)

 「おくのほそ道(全)」 (角川ソフィア文庫)

 「人間の土地」 サン=テグジュペリ (新潮文庫)

 「イチロー262のメッセージ」 (ぴあ)

 「日めくり文庫 にんげんだもの」 相田みつを (角川文庫)

 「司馬遼太郎が考えたこと 5」 司馬遼太郎 (新潮文庫)

 「司馬遼太郎が考えたこと 6」 司馬遼太郎 (新潮文庫)

 「風塵抄」 司馬遼太郎 (中公文庫)(再読)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 08 沖縄・先島への道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 16 奈良散歩」 (朝日新聞社)

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今月ベストは「人間の土地」。
特に中高生にオススメです。
ぼくも高校生の時こんなの読んでたら、
近眼にもめげず飛行機乗りになろうとしたと思う。
もうそんな時代でないとは思いつつも。
人間についての深い省察の書であって、別に
ヒコーキ野郎の冒険談ではありませんので
(そういう話もあります)
万人にお勧めでーす。

あとは……イチローの言葉って結構文脈が大事なので、
これよりも糸井さんとの対談の方がいいと思う。

「ダ・ヴィンチの手記」は名編と誉れ高いですが、
ちょっと冗長かもしれません。
妄想と今となってはなんともならない仮説と
下手な抜き書きの部分がやたら多いので、
読みにくい。
読みにくい部分は飛ばすが吉です。
ただ、「レオナルドすげえ」というのは痛感します。
幅が広すぎる。

そんな感じ。
ま、「人間の土地」読んどきなはれ。
訳・堀口大学、イラスト・宮崎駿、新潮文庫。

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ついこないだ「ああ世間はGWかー」と思ったところなのに、
もう終わりですか。
5月もなんだか時間が早かったなあ……

でも、結構充実してました。
4月はわけもわからないままフラフラしてた感じでしたが、
だいぶ落ち着いてものが見れるようになったかな。
もともと、物理的にも精神的も前のめり気味の
人間ですので、疲れてくると、
しゃんと背筋を伸ばして、目線を遠くに送って、
というのができなくなるのです。
最近なんとか、それが戻ってきました。

ぼんやりながら、自分の「軸」に相当するものが
幾多郎の一言でハッと気づいて、やっぱり、
「人はいかに生きるか」
こそが自分の一番の関心事で、
だからそれを描きたい、のだな、と思っています。

そしてそこをセンターにして組み立てると、
びっくりするぐらい見晴らしがよく簡単になったので、
自分でも感心してるぐらいです。
核、センター、中心、見つけるのってほんと重要な
ことですね。
(もちろん、また変化するかもしれないし、
 常に注意が必要でしょうけれども)

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唐突ですが、勝つためには、
「がんばります」じゃダメなんですねえ。
それは前提条件であって、
それしか言うことが無いようであれば、
勝利はおぼつかない。

太平洋戦争の日本軍ってそうじゃないですか。
がんばれ、がんばる。
それは当たり前のことで、アメリカもイギリスも中国も
がんばっとんねや。
がんばるもの同士が戦うとして、
そこで差がつく「何か」はなにか。
そここそが問題で、それは物量でも高性能兵器でも
作戦でもなんでもいいんですが、
それを言え。

千葉ロッテマリーンズが調子いいのですが、
今マリンスタジアムすごい面白いらしいですよ。
いわゆるボールパークをめざし、
駅降りたところからもうエンターテイメントが始まってる
そうです。
JRが協力して本日のカードをどんと前面に打ち出し、
チアリーダー(しかもコントロールは元NFLチアの女性)
が気分盛り上げて、デーゲームの試合後にサイン会とか
やるらしいですよ? 選手の皆さんもおつかれでしょうに。

でもま、そういう一個一個の積み重ねが、
勝利を導くのですな。

「ピンチです、どうしますか?」
訊かれた時に、
「がんばります!」
ではなく、
「元TV局のDをイベント監修に雇います、チアのリーダーは
元NFLの本物で、あとJRにもご協力をお願いして……」
これですね。

これが、目線を遠く、ってことなんじゃないかな。
ぼくも、なるべくそんな感じでいこう、
と思う6月ですよ。

がんばります(笑)



 5/30 「好き」になんてなれるもんか

「どうして僕はモテないのだろう?」
と思っていた青春のある日、
ある若干の人生の先輩に諭されていわく。
「俺は、自分が好きだ。
 俺は、自分が女なら俺に惚れる」
「僕は好きじゃないです。
 僕が僕なら絶対イヤです」
「それじゃあ、ダメだ」

よく「自分を好きになれ」などと無責任に言われますが、
そんなこと言われたって、ねえ。

そういわれると好きじゃないなあ、と思って、
しかしふと気づいた。
嫌いでもない。

最近、ふとそんなことを思い出し、客観視してみました。
自分から幽体離脱して、まるっきり他人の目で見てみる。
「他者になってるつもりの自分」じゃダメですよ、
それは自意識過剰ってヤツで。
まずその辺の女の子になってみた。

やっぱダメ(笑)
僕が僕なら願い下げです。
社会性は無いわ責任感は無いわ生活力は無いわ、
それを打破しようと言う根性も無いわ、
そのくせプライドは高く気むずかしい。
こんなの絶対ダメですよ、
妹が僕と結婚すると言い出したら「よく考えろ」と言う。

ああ、こりゃモテなくて当然だ。

よくない結果でも、それが予測できることだったり、
合理的なことなら、「納得」ができます。
納得して、では男の子になってみたらどうだろう?

……自分で言うのもなんですが、
コイツ、友達としてなら悪くない(笑)
つきあいが良く腰が軽く、その割にベタベタしない。
なにより、なにやってるか・なに考えてるか
常によくわかんないところがいいですな。
珍しい生き物です。
僕でも、友達になって呑みに行って、
たまには「ほえなが」読むと思います。

そうかなるほど、それでいい友達が多いんだな。

自分というものはまったく、
自分が一番わからないものですよ。

好きでなくてもいいし、嫌いでなくてもいいと思います。
どうせ、好きだろうが嫌いだろうが変えられないし、
そもそも、それがいい方に作用するか
悪い方に作用するかなんて、
誰にもわかんないのです。

だってほら、ダメだからこそそういうのを救う使命を
帯びた観世音菩薩のような人が……

それはさておき、
好き・嫌いというような本来アンコントロールなものを、
「なれ」というのは結構無思慮で乱暴なモノ言いだと
思います。
口当たり耳当たりのいい言葉ほど、
栄養が無いような気もする。
コンニャクとかところてんと同じですね。

世の中というのは、油断できない。



 5/29 モノとつきあう

3DK3人家族のマンションから、
2トントラック3杯で足りない量の
「モノ」が運び出された時には、
現代の生活とはつまり、「モノ」との戦いではないか、
とクラクラしました。

いろいろと考えたのですが、いや、
ぼくも大変にかたづけが下手なので偉そうなことは
言えませんが、モノの整理にはつまり、
「買わない」
「片づける」
「捨てる」
の3能力が必要ではないか、と思います。
3つ揃ってはじめてビューリホーな空間が
維持できるのであって、
どれか一点だけ優れててもしょうがない。

世に「捨てる技術」とか「整理技術」とか、
いろんな本や情報がありますが、
ここトータルで考えないと、
ダメなんじゃないですかね。
捨てれても、買いまくる人なら、
あっという間に追いつかれる。
モノ買わなくても捨ててても、
雑然とした部屋に棲んでる人もいる。

えと、ぼくはたぶん、「片づける」は人並みだけど、
あと2つの能力がない。
机の上はキレイだけど、押入はムチャクチャです。

それでも2点ばかり気をつけてる点があって、
それをご紹介しますと。

・「収納」は敵だ。

収納というのはあればあるだけ使います。
ハードディスクでも本棚でもタンスでも全部そう。
すべてのモノは、活躍度に応じて

テンポラリ
バッファ
永久保存

の3種類に分けられると思われますが、
つまり、このバッファっていうのは
本来小さくていいはずのものなんです。
要るものなら手元にあればいいし、
要らないものなら倉庫奥深くに眠らせればいい。
ところが、収納用品っていうのは、このバッファ向けに
作られてるものがほとんどで、
(前述の三つもそう)
だから、必要でない部分について膨大な空間コストを
投じさせられてるわけですな。
だから敵。
あんなものは無ければ無い方がいい。
と、本棚4つを満杯にしてなお段ボールに本詰めて
押入に直しつつ思うわけです。

捨てなきゃ……

・床にモノを置かない。

つまりこれ、「もとあったところになおす」という
片づけの超基本の言い換えなんですけど。
これがなかなかできないんですねえ。
でも、いったん置いちゃうともうそこに
根が生えてしまいますから、
絶対に置いちゃダメなんですね。
テンポラリに昇格させるか、バッファに一々戻すか。

確かに、床というのは空けておいても
別に何を生むものでもないのですが、
そもそもそこを空けておくために収納があるわけで、
システムに矛盾が生じるわけです。
これがよくない。
「例外を認めるとすべての秩序が崩れ去る」
というのが法治国家の基本でございます。

──という2点だけは気をつけて、
以前よりはずいぶんマシになりました。
ご参考まで。

---

……と、この稿を書きながら考えたのが、
「じゃ、ほんとうに大切なモノってなんだろう?」
つまり、B−29がやってきたら持って逃げるモノです。

無いんですな。

ほとんどが、お金出せばまた買えるものです。
二度と手に入らないものでも、
写真とかは、まあ、その時の想い出ってのは
消えないので、まあ、いいわけです。

現金とかは無い(笑)

ぼくの場合、原稿とか言いましても、
実はほとんどが本になってどこかに
同じモノが存在したり、コレのようにデジタルで
どこかのサーバにあったりします。
多少、アイデア段階でモノになってないものありますけど、
それって大切なのはアイデアで、
それは頭の中にありますから、
最悪書き直せばいい。
むしろその方が2回目だからスッキリ書けるかも。

まあ、言わずもがなのくさいセリフを吐くと、
家族ぐらいです。持って逃げるものは。

そう考えると、
人生って割とさみしいものだなあ、
と思ったり、
いやいや身軽でいいじゃないか、
と思ったり。

まあ、モノなんてそんなモノです。
たいしたモノじゃない。



 5/28 いかに生きるべきか

司馬遼太郎の随筆の中で、
桑原武夫が西田幾多郎に、
谷崎潤一郎の「春琴抄」の感想を問うた場面があって
(ややこしくてすいません、つまり発言者は幾多郎です)

「何しろ人生いかに生くべきかに触れてないからね」

それだ!
さすがキタロー。
天才が自分の中のボンヤリした輪郭を
ピシャッと決めてくれると、
無条件で尊敬しちゃいますね。

ぼくも、そういう本が好きで、
そうでない本は、あまり興味がありません。
以前は、もっと大雑把に、
「要するに人間が描いてあるのが好きなのだろう」
と思っていたのですが、
よく考えればそうとも限らず、
事実コッテリと人間が描いてあっても、重苦しい
自然主義的なものは、あまり好きではないのです。
思うに、「いかに」の部分が薄い、
もしくは中心主題ではないからです。
(書き手の意図は別にして、ぼくの主観で)

もちろんこれはキタローやぼくの個人的感想であって、
普遍性のある価値観だとは思いません。
いやむしろ、そこに線を引くというのは、
かなり変わった引き方のように思います。
本というのは、知識の源泉であったり、
喜怒哀楽のびっくり箱であったり、
自分の方向を定めてくれる羅針盤であったり、
いろんな効用があります。

ただ、生で事実を見たいのならば
他に遙かに優秀なメディアとチャンスとアーカイブが
山のようにある現在、
書物、「本」の強み、といえば、
実は時間空間ユビキタスな性能を活かした、
ここにこそあるのではないか、と思ったりします。
「いつでもどこでも、いかに生きるべきか考える燃料」。

司馬叔父の作品がいつも人気が高いのは、
「いかに生きるか」を考える人間が
常に主人公になっているからで、
だからこそ普遍的に価値があると思います。
作品の出来映えから言っても、
義経より竜馬の方がよく描けてる。
それは、その人物の「いかに生きるか」度を反映している、
ような気がします。

いわゆる読書家が司馬作品をくさして言うに、
「要するに目覚めた人だけを描いている。
それでは人間を描いたことにはならない」
というものがあります。
前半は事実としてそうだと思うのですが、
後半は半分あってて半分間違い。
なにせ目覚めた人も人間であって、
そして、そういう人が、
ひっぱっていってくれるわけです人類を。
どっち向きにしろ。
そして、前に、上に、見知らぬ方向にこそ興味を持つのは、
人間の素直な気持ちではないでしょうか。

「いかに」の大切なところは、ベクトルがあることです。
目的地というか、あるべき姿というか。
「どう」っていうのとは、違う。
それはその場の向きと速度の描写しかしておらず、
したがって、どっちへ向かうかはわからない。
(それが悪いわけではなくて、別、っていうだけです。
特に対立もしないと思います)

歴史小説、は、登場人物がはじめから終わりまで
どう動いたか、史実としてある程度わかっているがゆえに、
そのベクトルを、つまり「いかに」を
よく際だたせて描くことができます。
「あ、なるほど、そういうことか、考えたなあ」と、
あらためて遼太郎の深謀遠慮にビックリしました。

ちょっと話は逸れますが、
あの人は、なにげない大阪のおっちゃんを
韜晦してますけど、実は昨今のいい方で言う
セルフ・プロデューシング、というかメディア対応が
すこぶる繊細で的確な人で、
(さすが元新聞記者)
それはもうイチローなんかよりずっと巧妙です。
むしろヒデキに近い。
着飾る、仮面を被るという方向ではなくて、
余計な雑音を発生させない、という方向ですね。
気の置けない友達には、
夜中布団に入って天井トークしながら
「俺は日本一の小説家になるでー」
と吼えてる。
が、そんなもの公で書いたこと言ったことは
一行たりとてない。
それは目標ですから、別に言ったって構わないと
思うんですけど、絶対言わないんですね。

それはともあれ。
ぼくも、そういわれてみれば、
なんとなくそんなことをやりたがってたような気もする。
しかし「いかに生きるか」なんて大げさなことじゃなく、
せいぜい「晩のおかずはなににしよう?」
というレベルかな……

このように、自分のやってることすらどっち向きか
わかってない、これが凡人です。
やっぱり、「いかに生きるべきか」をたくさん知って、
参考にしないとね。

ぼくみたいなヌルヌルスベスベの人生では
「こう生きろ!」
なんて到底言えませんから、
「ああ、こう生きれたらカッコイイよなあ……」
みたいな感じで、
憧れを描きとめていきたい。
そんなことを思った一夕でした。



 5/27 簡単に、とは言うものの

簡単に簡単にと言ってきましたが。

ただ、あまり簡単にやりすぎると、
手段が空気のようになりすぎると、
身体がオートマチック化してしまうと、
それはそれであんまり楽しくないのではないか、
という危惧が、今からちょっぴりしてます。

なんでもそうですが、「やってるだけで楽しい」ものです。
たとえばぼくでも、サッカーでも釣りでもカラオケでも、
超ヘタクソのど初心者ですが、やれば楽しいのです。
「することの喜び」。

そしてそのやり方、手段を突き詰めていき、
技術が向上し経験が蓄積されていく、
自分のパフォーマンスが上がっていく、
そして結果が成果が上がっていく、
この「上達の喜び」、これもまた大変に楽しい。

しかし、それを超えてしまうと、
手段そのものに囚われず、
インプットとアウトプットが直結するようになってしまうと、
そうして「手段に耽る」ということが、
できないようになりますね。
それは、ちょっぴりつまんないことじゃないかなあ、
と思うんです。

逆に言うと、その段階に至ってようやくにして
「どう」「いかに」料理するかというところに
全神経を注ぎ込めるようになるわけで、
そこが本当のスタートラインとも思えます。
また、そうなったらそうなったで、
別のどこかに、興味視点をズラしてしまう、
あるいは勝手にズレてしまう、
そういうやり方もあると思います。

司馬せんせは、ご存じの通り狂人のように
モノを調べて書いてるのですが、あれ、
ご本人も書いてるとおり、調べに調べて、
その人間や風景がふわっと自分のモノになる、
その過程と結果こそが面白かった、のだと思います。
書くことそのものではなく。
「めんどくさい」って自分で言ってますからねえ。

ま、結局、そこまで言って一人前、そんな気がします。
それがたぶん「カタチ」ってヤツ。

司馬叔父は「めんどくさい」言いながら
それこそ狂ったように多産であって、
ハタから見てればそこに全神経を集中しているように
見える。
でも、実は、本人の中ではそうじゃなくて、
もうそこはたぶん、「作業」。
(作業は作業なりに集中してやってると思いますが)

たとえばピカソもそうで、あの人ももう普通に描くのだと
左手で描いてもムチャクチャに上手かったらしくて、
飽き飽きしてたんでしょうね。
「描く」ということそのものには。
そこで、そうじゃなくて、
どう認識して・どう表現して、というところに
全ての重点をガチョン、と置き直した瞬間に、
たぶんパーッと視界が開けたんだと思います。

そのためにはやはり、自転車には乗れなきゃダメで、
乗る前から、
「いや自転車なんてものはどう乗ってもいいんだよ」
とか言って足で地面蹴って進んでるようでは、
いけない、とは思います。

今日TVで、天才少年の絵がなんとかかんとかみたいなのを
やってたのですが、でも、その絵では、感動はない、
もうちっとヤラしく言うと、お金にならない。
ああ、よく描けてますね、とは思うけれども。
で、それじゃあ、天才じゃないんです。
ひばりさんみたいに、その時点で金にならなければ、
天才と呼んじゃダメですよ。
ああいう番組は見せ物として非常に罪深い。

それはさておき、
そうなったらそうなったで、
どこか「手段に耽る」以外のモチベーションを見つけ出して、
ぐんぐん進めばいいのかな。
ウケる売れたとかそういう結果でもいいし、
自分の中の何を絞り出せたか、
みたいな自己満足でもいいし、
どんな問題を提起できたか、
という探求者的欲求でもよいでしょうな。
いや、やっぱり、そこからが本当の勝負ですよ。
そこがようやく、スタートライン。

わたくし? まだまだまだまだ、とてもとてもとてもとても。
ただ、なーんとなく「簡単にさばく」というのは
こういう感じじゃないかな、
というのがわかりかけてきたところで、
それを用いてやってみると、
さばけるのはさばけるんですが、
これでホンマにえーのんかいな、と。
手応えがない。
しかし、出来はそんなに酷いものではなく、
まあ、冷静に数日後見直してもそんなには悪くない。
これが「簡単に」っていうことか、
とちょっと拍子抜けしてるんです。
もっとなんか、
ものすごいことかのように思ってたんですけど、
本当に簡単だった。

それでちょっと寂しくなって、
簡単になった後には一体何をするんだ、
と訝しんで、こんなことを考えてみました。

何をするんだもなにも、
そこから始まるんだってばさ。
バカ。



 5/26 65%

モチベーションも湧かず、センサーも曇天であることを
鈍く示すだけの日、というのがある。
人間であるから波が上下するのは当然で、
鈍い日もあるから、輝く日もある。
わかってはいるが、便秘は辛い。

そんな時にはネタ帳を繰るのだが、
思いついた時にはものすごく面白かったであろうネタも、
干からびてかつそういう気分だから、
実につまらない。

「ヘブン=イレブン いい気分」

そりゃいい気分だろう。

それでもなんとか書こうと思うのは、
なんというか、もはや、「自分への義務」である。
誰のためでもない、自分の安心立命を得んがために、
その夜をぐっすり眠るためだけに、書く。

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「事実」とは最も驚きに満ちたもので、
さくらももこさんがアニメ版まるちゃんの脚本を
途中までずっとやってた、というのには非常に驚いた。
週一であの中身(量だけならともかく)を量産し続けるのは
専門の脚本家でもなかなか大変で、
それをかつマンガの連載を持ちつつやったのだから、
偉いという他はない。

あのひょうひょうたる絵柄と内容、
お気楽極楽にテケトーにやってる……
ように見えて、実はたいへんな重労働であった。
しかもそれを、楽しんでやっておられたらしい。

実に、外からは、なにもわからないと言ってよい。

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恋の歌というものはとても大げさなもので、
「どんなに愛しているか」
「どんなに悲しいか・嬉しいか」
のようなことを、イヌがしっぽを振り切らんばかりにして
歌い上げる。

日本人がこのモードに入った時には、一種異様な力量を
大発揮して圧倒的恐竜進化を遂げ、ついには自滅する。

ど素人がたまにぼんやり古い本を読んでると、
新古今の古歌などが出てきて、
なるほど、ムチャクチャにこねくり回してある。
この歌枕が前提で、この縁語で、
こことここが掛かってて……
そりゃ子規も唾棄するわ。
しかしそれはつまり、懸命に「大げさであろう」としたわけで、
その結果に過ぎないのではないか。
そして、恋の歌である限り、いつの世でも、
それでいいのである。
「貴方の恋はビッグバン」
とかなんとか、できるだけ大げさに歌い上げればいい。

子規はあのとおり男っぽい人であるから、
そこんところが理解できなかったか、もしくは、
理解しつつもそれこそが「歌」を歪めているとして
あえて切った。
革命者としての子規を貶めようと言うわけではない、
むしろ逆、そこを見切って叩っ斬ってくれたからこそ
今も和歌はいくらかなりとも命脈を保てているわけで、
で、なければ今頃謡いのような伝統芸能として
京都のマツリでしか見られないものに
なっていたかもしれない。

ただ、それとは別に、やはり歌の華は恋の歌であって、
恋の歌である限り、貴方の恋はビッグバンなのである。
何度でも子規が出てきて、
「いやいや、普通の歌は普通に歌おうよ」
と揺り戻さなければならないだろう。

歌ばかりではない。
我々散文だってまるで同じことで、
恋の話は簡単に大げさになる。
生きる死ぬ愛がすべてさ君が宇宙さ。
それはそれでいいのだが、
大げさでない、しかし大切な人生の話もある、
それを誰かが描かなければならない、
ということは、頭の片隅に置いておこう、と思う。

---

親切というのは、
自分でやる分には大変に気持ちがいいのだが、
他人から求められると途端に重苦しくなる。

結果も同じならば評価も同じなのに、
「自発である」「強制された」
この一点が違うだけでずいぶん違う。
逆に言えば、ここをうまーく転換していると、
しらないうちにいい気分でやらされてるかもしれない。

「トム・ソーヤー」に、面倒な塀のペンキ塗りを命ぜられて、
一計を案じ鼻歌交じりに実に楽しそうにやってみたところ、
友人達が次々に小遣いをはたいてでもその仕事を
したがった、という描写がある。
トムの悪知恵というよりも、人間心理の鋭すぎる描写であり、
あんまりこんな目で見すぎるから、トゥエインは
晩年厭人的になってしまったのだろう。

愚かであり裏に陰謀があっても、
楽しそうな仕事をやってみようと思う好奇心や挑戦心は、
尊い。

---

できるだけゼロにしようと思っているが、
すぐ忘れてまた積み重ねようとする。
長年のシステムはそう簡単には揺らがない。
ある程度実績もあるし使い慣れてもいるし。
だから困れば困るほど、頼る。

先は長い。
おちついていこう。

剥ぐ、というよりもむしろ、いったんリセットを掛けて、
ゼロにして、そこにひとつずつ今必要なものを置いていく、
そんな感じが望ましい。
OSの再インストール……というか、まったく新しいOSを
弄る感じで。

しかし、ということは、いずれ垢が溜まるのだろうなあ……

---

時折、銀紙でくるんで捨てた方がいい
つまらないプライドの虜になっている人が居る。
仕事や人生について客観判断とは違う自尊心を持つのは
勝手だが、そうでもないどーでもいいものにも、
一々について持つ。

あれはどういう精神構造なのだろう。
「私は神」とでも思いたいのだろうか。

特におばはんに多いことを思い浮かべると、
なるほど、やはり神気分なのかもしれない。
おばはんは、家における荒ぶる神であるから。

ただ、そういう人は、伸びない。
人の話を聞かないからだ。
新情報も入らないし、欠点も直らない。

「なんでそんなしょうもないことにこだわるんですか、
 これで別にいいじゃないですか」
というセリフは、それ自体が逆にこだわってる証に
なってしまうので、賢明な人ほど寸前で口をつぐむ。
ますます、言われないから、直らない。

「誉めて育てろ」などというが、
誉めるべきところで誉めず、むやみやたらと誉めると、
こんな風になるような気もする。

何事も、不自然なことは、良くないのだろう。

---

イチローは事あるごとに打率は考えず、
ヒットの本数を問題にするのだが、
その訳はつまり、
「一厘を守る」
ではなく、、
「一本を積み重ねる」
とポジティブに考えたいから、だそうだ。

とても参考になった。

いいものばっかり書きたいわけだが、
それはたくさんの失敗の先にある。
だから、次のナイス一品をめざして、また書く。
彼の歴史的打者にして、実に65%は失敗なのである。



 5/25 上ジャンクション

人間ももともとは動物、
サル、その前は四つ足ほ乳類、その前は四つ足は虫類、
その前は四つ足両生類、その前は魚。
つまり、四足歩行時代が長かったわけです。

ホンダのCMを見て世界中が祝祭のように沸き返ったのは、
二足歩行こそが人間を人間たらしめたひとつの要因で
あって、あれはまさに赤ん坊が立つ瞬間を手を叩いて
喜ぶ、あの心境そのままですな。

それはいいのですが、
あまりに二足歩行が画期的だったために、
四足時代の肝をいくつか忘れちゃってるような気もします。

なんでこんなこと言い出しましたかというと、
「肩こり」ってのは大地が支えててくれたはずの
腕そのものの重量を負担しなければならなくなった
肩の悲鳴ではないか、と。
もちろんながら各種腰痛は受け持つはずもなかった
上半身の重量を負担せざるを得ない腰の悲鳴。

で、四足歩行を考えてみると、
カラダには、第二支点があるのではないか。
つまり人間の身体を「大」の字で表せば、
交差してるところ、
二つの肩関節を結び、背骨と交わるところ、
ここが、上半身のジャンクションではなかろうか。

一般に「首の付け根」と思ってる骨(出っ張ってるヤツ)
の、一個下です。
仰向けになって首を上げていきますと、
ちょうどここで一回折れる感じがする。
ここが「首」と「体幹」(背骨)の分かれ目、
そんな気がします。

下半身の、というか全身の中心は臍下丹田でしょうけども、
昨今のデスクワークでは、下半身微動だにせず、
上半身だけ(頭脳を含めて)酷使するじゃないですか。
となると、そこまで意識下げなくても、
ここだけ意識してちょうど丹田の真上に持ってくるように
すれば、「いい姿勢」なのかもしれない。
四足時代には、きっとこの辺が上の腰、って感じ
だったんじゃないでしょうか。

単に妄想なんですけどね。

で、鍛えるというか、適度に刺激与えてほぐすには、
肩回しとか前後左右へのストレッチもいいですが、
ハイハイとかいいのかも。
ああ、負荷掛けるなら、背にいくらか重量物を
載せればいいね。

つまりSMのMプレイが気持ちいいのは理に叶っていると……
イヌと呼ばれて大自然への謙虚な気持ちも思い出すし。

わたしゃ猛烈な肩こりゃー・首こりゃー・背筋こりゃー
なんですけど、要するに、と言うことは、
このジャンクションが弱いんじゃないかなあ、
と思ってこんなことを。
最近、そこをよく意識して伸ばしています。



 5/24 雲

人間はちいさな核をおおきな雲でくるんだようにできている。
その比率は人それぞれで、
核がアメリカンドッグのように
大きくしっかりしている人もいるし、
核など無いのではないかと思われるほど
ちいさい人も多い。
それは、信念とかそういうものだけではない。
歯磨き粉の銘柄とか、そういうものを含めて全部である。

大きければいいというものでもないし、
小さければいいというものでもない。
大きければ馬力は出るが、自由が利かない。
小さければ雲のように生きられるが、
パワーは絞り出しにくい。

その核のことを、価値観という。

多少の違いは呑み込んで、
これを尊重しあうのがいい人間関係である。
これをつつき出すと、どんな人間関係でも壊れやすく、
(たとえ親と子でも)
これを大事にすれば、
環境や生活ががどんなに違っていても、
わりとつきあえるものである。

これそのものを大切にしない、テロリストを除けば。
そしてそういう人は、結構多い。
ぼくにもその気がイヤになるぐらいあるので、
気をつけようと思ってはいる。

が、どうしても
「ひとこと言ってやりたい」
気になることがある。

やはり世には「常識」と呼ばれる、
「おたがいの核が衝突しないようにする知恵集」
みたいなものがあって、
そこに抵触している場合、
その抵触自体を知らしめてあげるのが、
余計なお世話だと承知しつつも、
親切というものではないか、と思うのである。
特に、相手が自分より若い子の場合は。
知らない可能性が多く、使う使わないは自由としても、
知っておく、ということが大事だと思うからだ。

すくなくともぼくならば、知りたいし。

ただ、みなさんご存じの通り、
そんなことをそんな風に言っても、結局は
「自分がいい目をしたいからではないか」
という疑いの目が投げかけられる。
そもそも、ただ単純に鬱陶しいものでもある。
また、それはその人の核かもしれず、
若い者だからと言って核が無いとも限らず、
「それが俺のジャスティス」
と言い返されれば徒労である。

やはりこういうものは、人格者が言うべきか、
あるいは、本人が空気を読んで自ら学ぶ他ない、
ような気もする。

さりとてさりとて、言って悟ればそれは
間違いなく進歩に結びつくわけだから……
成功確率や自分がどうか、というのはさておいて
語りかける必要があるのではないか。
数%は、社会的責任みたいなものも感じる。
だってそうやって叱ってもらって、我々もすこしは
進歩してきたわけだし。

ぼくは長年、完全ディフェンシブで「言わない」ので
やってきたのだが、そんなわけで、ここんとこちょっと迷う。
ま、迷う程度なら何も言わない方がいい、とも思い、
ただ、「迷うことってありますよね」とだけ。

やはり、核を小さくして雲みたいに生きる方が、好きかな。



 5/23 はやすぎずおそすぎず

また宮里藍選手が勝ったそうですが。

19歳の小娘にええように暴れられて
(しかもプレーオフを争ったのはアマチュアの子だ!)
他のプロは実に情けなかろう、と同情しかけて、
あ、と思ったのが、ひょっとするとこれこそ
「10年やりゃなんでも一人前」
の証拠みたいなものかもしれません。

藍さんは4歳から、良きライバルのさくらさんも小学生から
ゴルフをやっており、キャリアと実践回数から言えば
そこいらのおっさんなど足元にも及ばない。
ああ、そういえばタイガーも3つからやってたような。
水泳や音楽もそうですよね、高校生がオリンピック出たり
ソロ張ったりするわけですが、たいていが小学校に
あがる前からやってたりして、
若い若いと思わせて実はキャリア10年以上のベテラン選手。
野球やサッカーもそうかなあ。
一桁歳からやってる子も多いし、特にサッカーは
子供の頃から世界戦に放り込まれますからねえ。
(ただ、団体競技は相手との対戦・接触がありますから、
個人競技ほど劇的ではないですけども)

これをサラリーマンで言えば35歳前後。
ようやく一仕事まかせられる、ってところ。
だから、実年齢なんかアテになんないわけですな。

逆に言えば、つまり頑張れば、
25で始めても35ぐらいには格好がつくような気もします。
スポーツはちょっと言い切る自信ないですが、
それでも、カラダっていうのはスポーツの
ほんの一部であって、
あとはメンタルや経験や判断や作戦でいかようにでも
カバーできるんじゃないかなあ。
カラダ自体も、四十路を越えたランディ・ジョンソンが
100マイル投げてるわけで、
使い方次第のような気もしますね。

ま、はじめるに遅すぎるもの無し、ってことで。

しかし、そこ一壁越えれば、次の壁っていうのは
(もしあるとすると)
かなり果てしなく遠くて高いのですな。
藍ちゃんを確実に倒せるベテランが存在しない、ってことは。
もちろん、藍ちゃんがあと25年やっても、
越えられるか越えられないかはわからない。
それはなかなか切ないような、
しかし藍ちゃんのような人に越えてみてもらいたいような。
人間の可能性を、見せてもらいたいものです。



 5/22 ブレイク!ブレイク!

今日は、ちょいと知り合いの引越の手伝いをしてきました。
ちいさな家に越すので、家具を処分したい。

でもこのご時世、捨てるだけでも一騒動なわけです。
自治体の粗大ゴミは年々厳しくなっており、
ウチだと(大阪市東住吉区)モノを申請して日にち決めて、
2週間ぐらいしてやっと来てくれる。
一度に7つかな、制限付きです。
もちろん電化製品は電器店経由のリサイクルに出せ、と脅される。

さりとて街にリサイクルショップはたくさんあるのですが、
家具は本当に弱いですな。
「リサイクルショップ」というとエコないいイメージですが、
要は中古なんでも屋であり、つまり、
売れなければ買わない。
そして家具は残念ながら、在庫スペース取る割には売れにくい。
だから渋い。
サイドボード、本棚、炊飯器、ウィンドファン、しめて1000円。
あとは25型現役トリニトロンTVも洗濯機も婚礼用の
いい鏡台も衣装ダンスも見向きもされず。

糞の役にも立たん。

ならば壊して捨てるしかない。
家具はつまるところ壊せば板・板・板ですから、体積が愕然と減る。
ブレイク・ブレイクでございます。

……これがね、結構楽しい(笑)

あ、もちろん自分の思い入れが無いから、
っていうのもあるんですけど、
あの日本ブレイク工業の社歌って、気分によく合ってます。
「タンス壊すぜ 物置壊すぜ テーブルバラすぜ 居間へ和室へ
 走る〜走る〜 にほーんプチブレイク工業〜 だだっだ〜」
という感じで電動ドリルをギュンギュン回して、
指巻き込んで皮めくって血だらけになりました。

解体業というとなーんとなく根拠もなくイメージ悪いですが、
いや、古いモノ・汚いモノを葬り去って
「サラにする」という意味では、いわば織田信長です。
これから、高度成長期に作ったはいいけど人減って使わなく
なっていくものがボロボロ出てくるでしょうから、
いい仕事になるかもしれませんね。
キツイ・汚い・危険な仕事ですが、楽しいのは楽しいです。

伊勢神宮式年遷宮がほんと象徴してると思うのですが、
こういう日本人のメンタリティには、
プラ製ボックスですらもったいない。
段ボールでじゅうぶんです。
溜まりきったら中見ずに捨てる。

収納は、あればあるほど埋まる。
収納は、増やさないのがコツだと思います。



 5/21 ゴタクはいらない

メーカーって厳しいなあ、と思いましたのが。

先日、IBMがPC事業を売り飛ばし、ThinkPadユーザーを
絶望の淵に飛び込ませたのですが、
最近PCWatchで「レノボ」の一部門として再出発を
はかる彼らへのインタビュー記事が出てるんです。
まだ途中ですが、第一回第二回第三回第四回

で、こんなゴタクには我々は一片の興味もない。

現在のモバイルPC
(ノートというと最近はデスクトップ代替機の方が
羽振りがいいので、こっち使います)
のベンチマークはPanasonicのR、T、W、Yの
Let's各シリーズだと思います。
特にW4のバランスはずば抜けており、
宗教的理由から私は買えませんが、
今、誰かに訊かれればまずW4イチオシです。

つまり、これと張り合えるのが、欲しい。
百万言の言葉よりも、
W4と張り合えるThinkPadTもしくはXが、一機種、
これが欲しいわけです。

こういうインタビューって、聞く方も話す方も、空虚ですね。
この段階では、スポーツ選手と一緒で、
「来年の抱負は?」「がんばります!」
でいいんじゃないかな。

薩摩隼人の金言に
「泣こよっか、ひっ翔べ」
という言葉があるそうです。
ぜひ、翔んでいただきたい。

天から降ってくるツバにずぶぬれになりながら、
そんなことを思いました。
もう、うちのThinkPadis30もそろそろ限界なのです。



 5/21 スランプだったのかー

ここ2年ぐらい
「壁にぶち当たっていた」
と表現してきましたが、
(中級と上級のステップのところ、とか言ってましたよね)
もっと簡単に言うと、
「スランプ」
だったようです(笑)

お前さんごときがスランプなんて文字通り10年早いよ、
と怒られそうですが、
書けてたものが書けなくなるというのは、
それはどんな低レベルでもスランプですね。

評価とか出来とかは関係ないのです。
打ち損じでもヒットになる。
要するに、「自分のものとして」(タイミングで、間合いで)
やってるかどうか。
ぼくは、ここ2年半ぐらい、
書いたものと自分とがぴたっとくっついてませんでした。
たまに繋がる一瞬があるのですが、
あとはそれを必死にまとめてる、そこへ持っていってる、
という感じです。

というより、今ナウまだ自信なし。
ただ、「ああ、俺ダメだったわ」と分析できるように
なってきた、というのは上向き……に違いない。

事実、「書くのは書ける」というところまでは
なんとか、かんとか復帰気味。
あとはそれに対して自分が納得できるかどうか、
なのですが、それも、
「ま、悪かない」
というケースがかなり増えてきました。
以前は、数日すると「ああダメだ」と思ったものですが、
いや、書いてる最中から泣きながら
書き直し続けたものですが、
最近あんまりそんなことが起きない。

え? 書けるように書いてるだけじゃないの?って?
ええ、まあ、その香りも無きにしもあらずなんですが、
それも重要なことなんです。

もうちょい別の例えをすると、
5年前の私は、ちょうど教習所で運転覚えたてのドライバー。
「これで俺はどこへでも行けるぜ!
 日本一周だってできる!」
違いますな。
街へ出てみると、「クルマを動かす」なんてことは、
「運転」の実にちいさなパーセンテージしか占めないことを
思い知るわけです。
「わああ、ダメだああ!」
そして運転恐怖症。

んで最近ようやく若葉マークが取れて、
実際に、「……日本一周でもできそうかな?」という感じ。

ああ、長い。
いやまだ予断を許さない。

そこには、でも、特段の「これ!」といった
シルシや電撃的変化があるわけではありません。
ただなんとなく、
「……まあ、なんかだいじょうぶ」
そんな感じ。

最近は、書いたものに対して、
いいか悪いかもわからなくなってきました。
いったん「見識眼が狂ってしまったのか」とも思いましたが、
そうではなくて、
いわばぼくの血肉そのものがぼてっと剥き出しで
置かれてるのが今の書き物なのです。
(ちょっと格好つけすぎ)
自分そのものに対して、いいも悪いもない。
つまりそれがよく言われる自然体、等身大ってことで、
そのこと自体は、いいことなのでしょう。

こうして、自分そのものを切り出していく分には、
いくらでも・なんでも書けるわけです。
いろんな意味でのごはん食べてますから、
身体は再生産されてますので、
また明日も書ける。
万が一眼を鼻を耳を口を閉じ手を合わせ、
空気すら吸わない一日があっても、
33年のストックがあるので、そう簡単には、
使い切ることなんかありえない。

さあここで問題は
それにある程度以上の社会性を持たせることで(笑)
まあ、無くてもいいといえばいいのですが、
せっかくですから。
でも、そこは、いやそここそが、いわゆるテクニック、
技術に分類される部分だと思います。
たとえば、勝手な言葉遣いを止めて、
できるだけわかりやすく普通の言葉を使う、とか。
論旨はまっすぐ通ってる方がわかりやすいよね、とか。
一昨日言いましたような、
自分を前に出さず自然を描いた方がいいよね、とか。
それはもう経験で蓄積していくものなので、
貯めていく他ない。

でもあくまでプライオリティ的にはかなり低いわけです。
最悪なくてもいい。

それは決して読んでくださる人を
ないがしろにしてるのではなく、
むしろ読むに値するものをひねり出すには、
やはりその人の持ってる全部がバーンと出てるのが
MAXなわけですから、
そうできるやり方、これが一番いいわけです。
頭と口とで「読む人のことを考えて」なんて
いっくらでも言えますが、そんな言葉に意味はない。
モノが、読めるか読めないか、それだけです。

たとえば多作の作家さんがやってるであろう
「一発書き」みたいなのもつまり、
それで自分が出ていれば、それでいい。
むしろそうしないと出ない、
と言う方もおられるかもしれません。
勢いって大事ですし、書や焼き物のように
「やり直し無し」の仕事だっていくらでもある。
これを目的化するのも間違ってるし、
闇雲にそれを排撃するのも間違ってます。

そんなこともなんとなくわかってきました。

なんとかこの自分探険の旅も、
オアシスにたどり着きそうです。
あとはそこで、歌ってみましょう。
なにを見てる聞いてるってわけじゃないですが、
旅の話は、できるはず。
そしてそれは、誰もができる旅なのです。



 5/20 簡単と楽

「簡単なこと」は、「楽なこと」ではない。

「簡単なこと」をたくさん積み上げることが、
一番効率と成果のあがる方法、のようです。
そしてそれは実は、みなさんご存じの通り、
めちゃめちゃたいへんなことなんですねえ。

「簡単なこと」は、「できること」だから、やれる、やる。
でもそれは、楽なことでもないし、
実際にたくさん「やる」から、しんどい。
むしろぎゅうぎゅうと一杯一杯につめこむために、
つまり最高の性能を出すために、
ひとつひとつをシンプルにしている。

最近のCPUなんかも、複雑化をある程度犠牲にしてでも、
シンプルな設計のコアを何個も並べたり、
CPUそのものを何個も並べたりしてるみたいですよ。
トータルパッケージで見れば、
複雑で重厚で高性能なシステムをぐおんぐおん動かすより、
軽くて小回りの利くシステムを多数(多種)回す方が
よいようですねえ。

生物の進化ってそうですよね。
機能分化がどんどん進んで、それを統合していく。
細胞内から生物内、そして社会へ。
ということは、精神活動の方も、
なんかそんな感じで進化していくの、かも?

最近、「やれることをやればいいんだ」
が流行りフレーズになってますが、
このように、それこそが実はいっちばん大変な、
(しかし一番性能は高い)
ことであると思われます。

難しいことを難しくすれば難しいし、
簡単なことを淡々とやればそれも大変だし、
まあなんと人間というものは、
哀しくできてんだか、上手くできてんだか。



 5/19 ゼロ・ドライヴ

今日もまた同じ話の言葉替えですので、飛ばしてください。

---

新システムですが、
つまるところ一言で言ってしまうと、
「自分自身をゼロにする」
というやり方です。
電気の通る導電体のようにして、
あるいは自動機械のようにして、
あるいは水と米を入れれば美味い酒のできる酒蔵の
ようにして、
ちいさな刺激に反応して、
(この刺激自体は特別なものではなく、
 ガスコンロのスパークやエンジンのセルモータなどと同じ、
 動き出してしまえば不要だし要点でもない)
周囲の素材を集めて変化させるように、
全人的に身体が動く。
(頭は、「使わない」のではなく、身体の一部として協働する)

「頭が身体に命じて、細部を計画通り詰めて動く」
のでは「ない」やり方。
(このやり方を否定するわけではない)

で、検討を重ねましたところ、
ゼロにする前に、そういうオートマティズムを手にしないと、
何も始まらないわけです。
「寝ててもできる」からこそ、ココロを空にできる。
(空だからオートになる、という逆の要素もある)
そのためには、結局、
「身体を動かした経験がどれだけあるか」
この一点に尽きる、と思われるのです。

ただし一度手にすると、自転車の運転と同じで、
失われない。
そういうオートボディに作り換えられてしまっている、
つまり、身体にそういうパワー・ネットワークが
完成されているからです。

この方式のメリットは、
自分から何もかも追いだすことで、
逆に自分の可能性が広がることです。

逆説的ですが、なにか持ってる、と、
そこに頼るし、そこに縛られてしまう。
自分にも経験がありますが、
特に「これでいける!」と思ったものほど、
強いそういう作用があるので、そればっかりやってしまって、
結果幅を狭め成長を阻害します。
内面にあるものを活用するのは
もちろん悪いことではないですが、
それに縛られない、その主人でなければならない。

それより単純に、
身が軽くなるほど、なにも持ってないほど、
空気が入れ替わって新鮮になって、
新しい感動もスパークしやすい。

古の芸人が旅に出たがったのも、
地方豪族の庇護をもらう、という物質的メリットと共に、
この「ぜんぶ捨てていく」という精神的メリットが
巨大だったのではないか、と思います。

ございませんか、突発的にフトやった(やらされた)ことが、
驚くほど上手く行った経験が。
仕事でも趣味でも。
肩の力が抜けてる、遊び心が湧いた、それはなぜか。
ゼロ、もしくはそれに近いからです。
だから、身体の力が100%発揮できる。

そう、自分の全人の力すべてを発揮しようと思ったら、
頭や意識の支配下になんか置いててはダメなんです。
火事場のバカ力、あれを常時発動させるには、
(火事場に飛び込むという無茶なやり方もありますが(笑))
ゼロでなければならない。

では、ゼロになろうゼロにしようと思っても、
これがなかなか難しい。
人間も動物なので、食欲睡眠欲性欲、
各種の欲望は常に泉のように沸いてきますし、
また、自己防衛本能等々で、怒りや憤りも沸いてきます。
喪失感、哀しさ、悲しさ、
泣きたくて泣くんじゃない、でも勝手に泣いてしまう。
そこんとこはやっぱり、「ゼロでいこう」という、
工夫とコツと意志とすこしの努力が、必要なのでしょう。
それが「参加費」あるいは「入場料」みたいなもので、
それを払って初めて楽しめるのは、カードでも遊園地でも
同じ。
なにも払わないと、楽しみのMAXは
動物的快楽に留まるのです。たぶん。

これができれば日々の生活にも大変に有効で、
とてもしあわせ〜に暮らせます。
ゼロにしないから、サービスの悪い坊主にカリカリ来たり、
Vinnyに必要以上に感動しちゃうわけで、修行修行。

---

で、わたくしのやってる書き物であるとか、
そういうのに当てはめてみましょう。
(たぶん仕事一般に普遍性があると思うのですが)

つまるところ、芸事や表現は、そこが肝だと思うんです。
人は、「お前がどうか」なんてさっぱりまるっきり
髪の毛ほどにも興味がなくて、
(ないでしょ!?)
「『それ』がどうなのか」を、
彼らの口や頭や身体を通じて、知りたいのです。
琵琶法師が今朝何を食べたかではなくて、
平家の英雄達がどうなっていったのか、そこを知りたい。

つまり、ゼロにならんといかんわけです。
すくなくとも、そうであろうと努力する、その姿勢を持つ。
それは、表現者・芸術家にとって
必須のことではないでしょうか。

……と、僕は思うようになりました。

その努力の結果に比例して、
アウトプットに「普遍性」が宿るのです。
作品が、人間一般を描いたモノになって、
作者は、そこに溶け込んでしまって、
だから、時間と空間を越えることができる。
いつどこで誰が触れても、おもしろいものになる。

そしてこういう目で見ると、
そういう努力をしている人や作品は、
かなりすくない。

古典は、やっぱり残ってるだけあって、みな、
ほとんどそうなのです。
たとえば太宰治、あんな典型的ダメダメ・ボーイのくせに、
作品になると、紀行であるはずの
つまり自分を描いたものであるはずの
「津軽」でさえ、
ちゃんと読者向きでほとんど自分はゼロなんです。

やっぱり、ここが、ポイントなんですよ。

それがなければ駄目だとか、下等のものである、
というつもりはぜんぜん無いです。
ただ、自分がやるなら、
ずっと楽しめる、楽しんで貰えるものの方がいいよなあ、
と思うんです。
エエカッコばかりじゃなくて、欲ってわけでもなくて、
「もったいない」。
せっかくやるんだもーん。

---

てなことで、私はそのようなゼロ・システムに
作り替え途中で、毎日毎日、
今日もヒーコラ苦しんでるわけです。

ただ、ちょっとずつでも進歩してるな、となんとか思えるのは、
1年前にはこんなにサッパリ言語化できてなかったわけで、
じり・じりとはにじり寄ってる……はず。
ま、このままやってりゃいつかガバチョと扉が開くでしょう。
たとえ不慮の何かで道半ばで倒れたとしても、
ここに記録が残ってるわけで、それだけでも、
生きた甲斐がちょっとはあるというものです。

また、人間の潜在能力は偉大で、
火事場でならど素人が金メダリストにたぶん勝てる。
才能とかセンスとか努力とか、
そんなもの全部吹き飛ぶわけです。
だからそういうものがどれも無いわたくしとしては、
割と切羽詰まって逆転のシステムを欲してるわけですな(笑)

結局欲かよ、というループは、
「進化への欲求こそが
 生物の唯一のドライビングフォースである」
とかなんとかでっち上げて切った気になってみる。

理屈はともかく、楽しいものを楽しく書きたい。
そのためには、という道ひとつを、追いかけています。



 5/18 ボーズネット

今日の法事の坊さんがさ。
焼香客まだたっくさん居るのに、
お経終わったからって黙ってボーッとしてるのね。

「南無阿弥陀仏」ぐらいリフレインしろと。
あるいは般若心経みたいな短いのをアンコールしろと。
もういい歳まで生きてきてそんな機転も効かんか。
サービス業やろ。

暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう。

そこでながたは考えた、ニュー・ビジネスを。
坊主派遣業、「ボーズネット」。

明朗でお手頃な料金体系で全国どこでも24時間365日
すぐに出張いたします。
目玉は経験や業績、得意技や人気がwebで一目でわかる
ボーズ選択システム。
「お経が上手」「枯れた味わい」「時間に正確」
「なんとかかんとか千日修行を達成」「○○家御用達」
「新教旧教コンバーチブル、ロシア正教も可」
もちろんスター・坊主はすこしお高い。
スケジュール押さえるのも大変でね。

あなたのお気に入りのマイ・坊主がきっと見つかります。

ダメだと思えば即チェンジ可、
通夜と告別式で交替などという屈辱もありえあるわけです。
そういう厳しい評価システムこそが自己研鑽の
モチベーションになるかと……
また登録さえすればフルタイム坊さんでなくても、
アルバイトもやりやすい。
普段はしがないサラリーマン、
しかしアフター5は超人気パンク坊主。
どうです?

ってゆーかさー。
別に霊能力とかは要らんからさー。
ふつうにサーヴィスしようよう。

思いやりのない宗教家、っていうのは、
はっきり言って「駄目」だと思うんです。
子供の嫌いな教育者、正義の嫌いな警察官、
火の怖い消防士と同レベル。
いますぐ辞めるべきです。

でも、彼らも最初からそうだったわけではなくて、
たぶん「おっしょさん」「おっしょさん」言われてるうちに
腐っちゃったんだと思う。
それは、ひとつには、批評が飛んでこないからですよね。
だったらはっきり、「あんたダメだ」と言われる機会が
あった方が、おたがいいいことのように思うなあ。
青雲の志を抱く若いお坊さん達にも迷惑掛けてますしね。


……まあ、そんなカリカリせんでも、と自分でも思います。
ただ、人生に一度しかないスペシャルな場所に、
多くの人々がさまざまな喜怒哀楽を持ち寄る神聖な場所に、
そういうもの一切を持たないロボットみたいなのが、
しかもど真ん中どセンターにいやがるのが、
極めて腹立たしいのです。

だからそんなのなら、要らないと思う。



 5/17 サボるためのメンドウ

結局、そんなことを言いながら
実はサボリたいだけなのかも。

bにも書きましたが最近爆発的普及の兆しを見せる
超高性能超エコロジカル・フィットネスシステム
「Vinny」など見てますと、
「真実はすぐそこにある」
のですよ、間違いなく。
だのに我々は、いやすくなくとも私は(笑)
こんな素晴らしい真実を知らずに過ごしてきたわけです。

しかし考えてみれば、私は、それほど懸命に
この事柄を考えて試して挑戦して戦ったわけではなかった。
ただ漫然と、回数だけこなしていただけです。

やっぱり、それではダメなんですな。
サボるためには、システムを開発する
エネルギーが必要なのです。
プログラマっていう人種は
「楽をするためならどんな面倒も厭わない」
という連中なのですが、
要するにそういうことですなあ。

僕にはまだ、正直に白状しますと、
それがないのです。
いや、ないというよりも、
あるかないかもわかっちゃいない。

振り返ると、上手く行った時って、
──と言ってもそんなに例はないのですが──
いちおうは、大雑把なりとも掴んでる。
そしてなんとなく適当にそれに沿ってやりとげた。
ところがどうにもならなかった時って、
やっぱり五里霧中。

そういうシステムの必要性は認識していて、
具体的な方法論はいろいろ検討したり挑戦したりも
してるのですが、いまひとつ自信なし。
だけども、過去の例でも、
やってる最中は自信ないもので、一段落ついてから
「ああ、そりゃああいうやり方すれば上手く行くよな」
と他人事のように振り返るものです。
だから「まだ無い」とも言い切れない。
「こんな感じだと思うんだけど……」
と、おそるおそる試行中、って感じ。

他人事みたいですが。
他人事みたい、っていうのは、悪いことではないのです。
冷静な判断ができてるってことで。

何度も繰り返してますが、
達人というのはこの自分システムを(手段はどうあれ)
手にした人々だと思います。
まあ、せっかく生まれてきたわけですから、
一個ぐらいはこういうものを手に入れて、
「まあ、人生なんてそんな難しいもんじゃないよ」
とうそぶきたいじゃないですか。

「釣りは短気な方がいい」
なんて言いますが、
(短気な方が釣り方を一生懸命工夫する)
サボリ癖がある方が、サボりたくて上達する……
こともあるかもしれないし。

……などと自分を慰めてるんだか正当化してるんだか。

しかしとにかく、手段はともあれ、
方向性として成長方向を向いてないといけない、
というのはそれは条件だと思います。
無理にでも。
ま、そのぐらいは参加手数料として必要なんでしょう。

逆に言うとここが折れると本格的クライシスなのですが、
これを直す方法は……難しいですね。
だからまず、詭弁みたいですが、
「折れないようにしておく」
のもいいかもしれません。

よく目的を持て、目標を持てと言われますが、
持たないなら持たないで、折れませんよ(笑)
「持て、持て」と言われすぎて、
窮屈になってるんじゃないかなあ。
喰うに困る時代の人って、そんなもん持ちたくても
持てない人がほとんどだったわけでしょう。
でも、なんとか幸せにやってきてたわけでね。
無責任に「持て」とは言わない方が
いいのかもしれませんね。
もちろん、持てればそれはイイコトですが。

粘るのは大事です。
それには、折れない方が。

いつしか、
「こうすればいいんですよ!」
みたいなものをスカッとおはなしできればなあ、
と思います。
でも、たぶん、それは、聞いても、
「はあ……」
という類のものだと思います。
それでも、そういうのが集まれば、
なにかしら普遍的な真実が見えてくるかもしれません。

だってVinnyのように、
人類はちょっとずつ進歩していくのです(笑)



 5/16 真実の性格

ここんとこ数ヶ月のテーマなんですけど、
真実であればあるほど、隠されるのかもしれませんな。
気づかないだけではなく。

一番端的な例が、
「儲け口」というのは誰にも明かされませんね。

FFを3年やって一番痛感したのがこれで(笑)
LSの仲間にだって話さないですよ。
(まあ、訊きもしないですけどね)
そして修正が来てから、「うわあ、そんな儲け口が!」
ここでポイントは、
修正のくるようなヤバイ、グレーな儲け口は、
すぐ潰れるし、すぐ広まる。
だけども、まっとうな、しかし気づいてる人間だけが
まさに泉のごとく湧き出る金の使い道もない、
そんな正当な儲け口になればなるほど、
いつまでも秘められたまま。

たとえば僕がクルマ作りをしてたとして、
他社の事情にもよく通じていて、技術にも明るくて、
販売現場の実態もよーく知ってたとしたら、
新型車出れば、自分とこのでも他社のでも
出来も売れ行きもすぐわかりますよ。
「あ、主査あの人か、あの人なら間違いないだろ」
「ミッションの開発はあそこでこういう作りか、
 じゃあ鉄板だな」
とか積み重ねれば、乗るどころか実車見なくてもわかる。

でもそんな声は絶対聞こえてこないですよね。
理由はいろいろ。

まず、深い関係者、当事者に近くなればなるほど、
発言そのものができなくなる。
影響力大きいですからね。
社長が新型車について
「これはちょっと実験的な要素のたぶんにある
クルマなんですけど、ま、こういう変わったモノも
お好きな変わった方もおられるかと……」
なんて言えませんよね。

もしできたとしても、
たとえばプライベートで友人に、
でも、伝える言葉が無いわけです。
その感覚はトータルで手に入れた物なので、
本気で説明するとなるとそこからしないといけない。
僭越ながら僕のクルマ評価軸に
「クルマは排気量」っていうのがあるんですが、
これだけ聞いてもなんのこっちゃわからんでしょ?
でも好きな人ならピンと来て
「あー、それはひとつ考え方としてはあり」
なんて思ってくれるかもしれない。

真実へアプローチする手段そのものも、結構遠い。

あと、邪魔が入ります。
カネ積まれた嘘であったり、
なんの真剣味もない無意味情報の氾濫。
特にネットというのはよろしくないですな。
(これもだよ)
ダイヤモンドもある代わりに、
(そしてダイヤがあまりに輝いてるから、
すぐ忘れるのですが)
基本は泥だらけです。

平凡な人が
(そのフィールドにおいて平均的な能力しかもってない、
という意味で)
発言できる時代ですから、
平凡な発言で空気が埋まるわけです。
ますますS/N比が落ちる。

そして……多くの真実というのは、
ミもフタもないことが多い。

「クルマは排気量」説も実に実も蓋もなくて、
じゃあ動弁系の小細工とか燃料噴射がどうのとか
過給とかそんなんはどうなるんだ、って要するに
全部無意味です。
かざり。
カー・ショップで売ってる芳香剤ぐらいの意味しかない。

で。
そういわれたって困るわけですよね。
じゃあなんでそんな無意味なことやってんのか、って。
なんかしんないんですけど、
人間は無意味なことが大好きなんです。
でなきゃ戦争なんかしませんよ。
ひょっとすると、進化とサバイバビリティ向上のために、
無意味・無駄を好むようにプログラミングされてるのかも
しれませんね。


・倫理的に言えない。
・物理的に言いにくい。
・言ったとしても伝わらない。
・伝わっても困る。

こんな感じで、真実はいつも、霧の向こうベールの向こう、
どころか、どこにあるのか手がかりさえ掴めない。

また、もの哀しいことに、なんとか手にしたとしても、
「……ほんとにそうだろうか……」
と思い続ける。
たとえばFFでものすごい儲け口見つけたとして、
1億10億のギルを持ったとしましょう。
「で?」

たくさんの真実同士が複雑に絡み合って世界は動いており、
ひとつの真実を知ったからとて、
だからどーってこともないわけですな。
神様には、なれないわけです。

それでも、「ああそうかなるほど」と思うことは
純粋に楽しいことです。
ひとつふたつ見えてくると、応用も効くようになって
さらに見えてくる。
視界が視野が広がるのは、きもちいいものです。

そしてまた、真摯に探求しようとすれば、
いつしかなんとなく見えてくるものでもあって、
その過程自体が、おもしろい。

隠された真実求めて、
今日もぐでぐでと物想い、そして手仕事。



 5/15 魂のゴムひも

最近すごい勢いでチラシの裏化が進むほえながですが、
さらに進めてみましょう。

魂というのは身体にゴムひもみたいなので
くっついてる。
そんな気がします。

このゴムひもの強さは人によって違います。
また、ゴムひもを伸ばす力、
この種類も人によって違います。

たとえばイデオロギー。たとえばカルト、たとえばテロ。
簡単に手段が目的化して暴走します。
その人にとっては、ちぎれるぐらい伸ばす力強い。
それはマイナスの方ですが、
我が身省みず人命救助に活躍した英雄の話は
古今いくらでもあります。
これはもう、身体から魂が遊離しちゃってる。

ということは、どっちがいい状態か、ということはない。
離れるからこそ高邁な話もできれば理性的な話もできます。
くっついているからこそ、ナチュラルな、
身体の欲求する、まっとうな話ができます。
テロリストは愚かですが、
エロリストも駄目でしょう。

それならば、このゴムひもの伸び加減、
魂の距離を自在にコントロールできればいいのか。
そんなことできるのか。

どうも難しいんじゃないかと思います。
それをコントロールしきれるのは、
禅で悟れるような
1万人に1人のスーパーマンじゃないかなあ。
お釈迦さんみたいな。
やっぱり、電車降りようとしておっさんが
強引に乗り込んできたら、ムカッとしますよね。
この「ムカッ」を完全に取り去るなんて、無理ですよ。
これがあるからこそ人間だとも思うし。

また、それに近しいところに行ってみれば、
(たいていは自分と直接関係がないことで、
 つまり切迫してないからこそ行けるのですが)
それは決してそんな素晴らしいことでしょうか。
つまんないですよ。
怒ったり、泣いたり、があるから、
笑ったり、喜んだり、できる。

ながたが今考えておりますのは、
二重構造みたいな妥協システムです。

とにかく、怒りたいなら怒っていいんだけど、
一回外へ出ろと。
生で怒るな。
「ムカッ」が来たら、禁じるのではなく、発散させるのでもなく、
別の形で、怒りを表現する。
それは保証する。

そう言われてみると、逆に、
世の中そうそう怒ることなんかなかったりするものです。
すると、かなり穏やかになれる。
楽しいことの方も、ぴくん!とくすぐりで笑うのではなく、
本質的なおかしみ、じんわりした楽しさ、
そういうものにより近づける。

……かも。

別の表現をすれば、
自分をできるだけ「空(から)」に保つ。
なにかワーッと湧いてきたら、
どんどん外へ出して、鳥みたいなところから見てもらって、
それでなおかつ、言うべきことか、やるべきことか、
見てもらう。

もし、そこで、
「いや、やはりやるべきことだろう」
と決意したならば、
びちゃーんと魂を身体に戻して、
魂の重みを身体に乗せて、
あらためて力一杯シャウトする。

そんな感じ。

僕は自分でもイヤになるぐらいのものすごい
ホットテンパーなんですが、
つまりゴムひもが強い人なのですが、
これはもう治んない。
ので、まあ、こんなバッファシステムを作れば、
もう少しはマシに生きれるんじゃないかなあ、
と思ってみた次第ですよ。
思ってみたというよりも、
手探りではじめたこのシステムも、
最近はなんとなく使い慣れてきて、
うまく行ってることも多いです。

でも、生まれつきのゴムひもの強さは否定しがたく、
体調が優れなかったり、ふとしたことで
びたーん!とばかりに身体に魂がくっついちゃいます。
こうなるとまた剥がすのがたいへんで。

できるだけ、魂は遠く高くにあった方がいいと思います。
その方が、たくさん見れる。
ひとつ上の段階から見れば、
いや、ちょっと横の集団から見れば、
世の中ってのはほんっとーにどうでもいいことばかりです。
どうでもいいことにただ夢中になるのと、
どうでもいいとわかってかつ夢中になるのとでは、
かなり違う。

文化というのは、
どうでもよければよいほど素晴らしい、というものです。
ということは、
「こんなことどうでもいいことなんですけど」
といいながら作るどうでもいいものの方が、
よりどうでもよさで優ってるような、
つまり素晴らしいもののような、
そんな気がするのです。

……冒頭、「ちらしの裏化」と言いましたが、
つまりそういう感じです。
役に立つことや面白いこと、興味深いこと、
それはもちろんイイコトなのですが、
それ以上に、
「どうでもいいこと」
の中に本質があるのではないのかなあ、と。
まるっきり藪の中、ですが。

「太陽の塔」をご覧なさい「太陽の塔」を。
あれですあれ。
あんなくだらないもの見て、みんなにこにこしてるんです。

できれば自分で作りたい、
作れなくても「あれはいいよ」と見極めたい。



 5/14 真実は

僕の数少ない人に誇れる成功体験のひとつに、
ダイエットがございます。
173cmで76kg超(現在67kg)、
「もう10kg痩せてればね」の典型例だった私が
どのようにしてその10kg弱を削ったか。

何度か書いてますので検索してください(笑)
えっと、簡単に言うと
「一日のうち連続12時間何も食べない」
これだけです。
あとはなーんにも無し。運動無し食事量・質制限無し。

だからあのラマダンってのはすごく理に叶ってます。
上手く考えたもので、あれなら体調崩さず
断食の苦しみを得て、
敬虔さや食べもの・つまり神様への感謝を思い出す。

体重でお悩みの方は、ま、いっぺんやってみそ。

---

……と、今日の本題はここから。
わたくしこれで成功したので、
自信を持ってオススメするわけです。
「よそのダイエットは私のが失敗してからお試しください!」

ま、聞いてくれませんな。
わかりますよわかります、僕だって聞かない。
そんな簡単なの効きそうにないもの。

でも、僕もいきなりこれを思いついたわけではなくて、
半絶食みたいなのも経験ありますし、
自転車漕いだこともあるのです。
いろいろやってみて結果、
「なによりも、なによりも大切なことは……
 続かなきゃ駄目だ!」
それが最優先なんです。
効率はかなりどうでもいい。
続きさえすれば、どんなやり方であれ、
じり・じりと落ちていく。
でも続かなければ、そこで終わりです。すべてが終わり。

大げさな言い方しますと、生きるってことと同じです(笑)
生きてなきゃなにもはじまらないでしょ?
生きてるから楽しいことも辛いこともあるわけで、
生きるの止めたらそこで終わり。

ということで、「ダイエット法の性能」っていうのは、
どこでまず判断するかっていうと、
「続けられ得るかどうか」
この一点です。
ここを突破してから、向き不向き好き嫌い考えればいい。
別にダイエット業者に恨みがあるわけではないのですが、
まあ、続きませんわ。
たいてい。
特に食い物を弄る系は無理無理。
だって食べるの好きだから太ってるわけで、
それを覆そうなどというのは
お日様を西から引っ張り出すようなものです。
それこそ
「食べることを嫌いになって痩せるぐらいなら、
 太りすぎで死んだ方がマシだ!」
なんて強者揃いですからね。

この体験はしかし、
僕に非常に大きな教訓を与えてくれました。
「やり続ける」ことがとても大切、
これはどなたもご存じだと思うのですが、
「やり続け『られる』」っていうことも、
同じぐらい大切なんです。
やり続けられるようにもっていく。
やり続けられるようにやり方を考える、工夫する。
しかるのちにやり続ける。

そしてそこんとこの工夫は、その人次第です。
前述のダイエット法も、
僕にとって「やり続けられる」方法だっただけで、
(もちろん強い普遍性があると思うからこそオススメする
 わけですが)
自分の「やり続けられる」方法を見つけられれば、
それでいい。

そしてなんでもそうなんです、なんでも。
やり続けさえすれば、
結構いいところ行くし、
結構いいことができる。

だから、やり続けられるようなやり方、
こいつを探るのが、とても重要。
くり返しになりますが、
そこは個人個人で違うので、誰も教えてくれない。

特に今は、生声って聞こえないんです。
僭越ながら僕の簡単なやり方より、
「肉類でダイエット!」なんて聞いた方がピンと来ますよね。
誰も彼もがじんわり効く正道を進みたがらず、
ケミカルなすぐ効く今効くものを求めてます。
ついつい、そっちに飛びつく。

でも、身体使うことは、急激なのは無理ですよ。
頭使うことも同じ。頭も、身体ですから。

情報が溢れれば溢れるほど、
真実は隠されていくような気すらします。
というよりも、
真実はすでにそこにある。
でも、いつもひとつでいつもシンプルなので、
それ以外がぶわーっと乱立すると、埋没しちゃうのです。

真実は、自分で見つけるものです。
誰も教えちゃくれませんよ。



 5/13 やる>言う

ひとのやったことの分析や批判は
もうどうでもいいんだ。
要は、結局、
君が何をするか、
何をしたいか、だ。


……うわっ 空からツバが!

---

人間易きに流れるものでね。
そっちの方が100倍簡単ですからね。
仕事で言われる側に回ってると、
オフタイムぐらいは言う側に回りたいしね。

でもそれは99%糞の役にも立たんことでね。
うわ、またツバが。

せめて、やる量>>言う量ではありたいもの。
それも言う量減らす、って消極策じゃなくて、
やる量増やす方向で。
いや、やるのに忙しくて言う暇無い、って感じで。

ガンバリマショウ。



 5/12 吼える

新しいやり方というのを具体的に一言で言いますとそう、
「シャウト」。

……全然新しくないですね。
ていうかお前毎日なんてタイトルの文章書いてんだよ。

ま、つまり「身体性」がキーワードだと思ってたのですが、
自分のやってることにカンタンに結びつけることに
気づいてませんでした。バカバカ、俺のアホウ。

全身を使って書く。
これです。
叫ぶように歌うように踊るように。
魂のエッセンスだけが、指先を通して文字に変わる、
そんな感じで。

文章というのはあらゆる表現手段の中で
究極に抽象化された手段ですので、
逆に手段に支配されて、
「頭で書く」ようになっちゃうんですねえ。
これがヒジョーによろしくない。

言葉というのはそもそもなにかを伝えたい、
コミュニケートしたいという欲求から生まれ、発達し、
吐き出され続けてきたわけですから、
大元の元に還れば、赤ちゃんの
「おぎゃーーーー(腹へったー)」なわけです。
シャウトですな。
それをどんどんソフィスティケートするのはいいんですけど、
その課程でこの「腹へった」という魂を忘れてはいけない。

何を書くに置いても、
たとえば小説であるならばその人物になりきって、
あるいはその場面全体になりきって、
「君が好きだーーーー!!」

……芸風そのままじゃないですか……

それがいいんじゃないかな、と思った次第です。

そしてそれを引き出すには、
実はディスプレイ&キーボードの前の自分自身も、
「君が好きだーーーー!!」
と叫んでるのが一番かな、と気づきました。
近所迷惑なので夜間は控えますが。

---

「あ、そうかも」
と思ったのは芭蕉師匠の俳諧で、
苦心惨憺の旅の身空で腹の底から絞り出すように
「荒海や!佐渡に横たふ!天の河ッ!!」
気分的にはたぶんこんな感じだと思うんです。
まさに絶唱。

もちろん、それでは迫力あるけどゴツゴツしすぎるので、
懐石料理のようにお刺身にするわけです。
ここが芸なんですけど、
芸というのは普遍性があるがゆえに、
個性とは関係なくて、
つまり、どっちゃでもいいんです。
キレイに切るだけならコンビニのパック刺身だって
キレイに切ってある。
そういう問題じゃない。
しかししかし、「キレイに切れない」というのは
刺身にならないという点でおはなしにならないので、
そこまでは修行が必要なのです。
ここが、いったんはいろいろ試しながら
のたうち回らなければならないところ。
シャウト一本で行くと、いつまでも磯辺の漁師料理に留まる。
ま、それもありといえばありですが。
特に現代ではね。

今までも登場人物にのめりこんでるつもりでしたが、
どうもやっぱり、微妙に
「その場にいる傍観者」ちょっと神視点
みたいなところがあったと思います。

それはやっぱり、
「言葉化」「文章化」するところが気になってたから、
ではないかと分析します。
・その情景を、できるだけいい文章で表現しよう。
この気持ちですね。
もちろん悪いことではないのですが、
そういう意識を持って書いてるうちは、ギクシャクする。
「あ!ストレートだ! ……テークバックを素早く、
荷重移動をスムーズに、腰を充分回して、
最短でヘッドを当てに行って、フォロースルーを大きく……」
バッターアウツ。

ああ、だから修行というのはここで必要かもしれません。
「自分の身体を自動化する」
・魂→脳→身体→文章
ではなくて、
・魂→文章
こんな感じ。
もちろん脳も身体もフル回転してるのですが、
それは意識されるものではなくて、勝手に。
非常にわかりやすい例なのでよく引かれますが、
自転車に乗る時に、誰もバランス考えて乗ってない。
あれです。

──と、ここまでは今までもなんとなくそうかな、
と思ってたのですが、
では具体的に何を変えていこうとしているのか。

それは、表現するために手法があるのではなくて、
手法にひっぱってってもらう。
つまり、とにかく叫んでみる。
叫ぶことで、自分の魂を引きずりだしてもらう。

逆です。
今までは、
「上手くやるためにこういうやり方がある」
という考え方だったんですが、
「このやり方でやる」(できれば上手く)
そんな感じ。

歌わなきゃ、歌は上手くなりませんからねえ。
まず歌おう。

「まずやりながら」というのは以前から思ってたのですが、
手法を探りながらやる、ってイメージだったんです。
違う。
手法を決め打って(僕の今回で言うならシャウト)
それでやり続けることで、
「魂=言葉」
に、自分の身体を作り替えていきたい。

そのために自分に合ってる手法がどれなのか、
ずっと探してた気もしますが、
結局、無意識の力というのは本当に偉大で、
「吼える!ながたさん」
とか自分で6年も前につけてやがんの(笑)

まあ、それ以前から、中学生ぐらいからずっと、
考えてみればシャウト一辺倒でしたなあ。
困ったら叫んでた気がする。

個人的には、こんな感じです。
これは僕の場合、ですが、でも、
「手法によって自分を作り替えていく」
というやり方には割と普遍性があるようです。
最近のトレンドでもありますよね。

だってね、そんな天職にピタリつける幸せな人って
そんないなくて、
僕みたいな親不孝者のように、
それを探して右往左往できる環境にあった人も
そうはいなくて、
でもなんとなく多くの人は幸せじゃないですか。
仕事が、その人をその仕事向きに
作り替えていくんですね。

その力は、すごく大きいのです。
あるいは、意志の力と同じほどに。

漢の劉邦でしたっけ、統一なって皇帝なって
何百人がハハー言ってるのを玉座から見て、
「いややん、昨日までみたいにざっくばらんでいこやん」
と言うと家臣が
「これからはこうしなきゃまとまんないの!」
と怒った話は。

そうやって、叫びながら作り替えていこう、
と思ってるわけです。
エネルギー使うのですが、
ま、叫ぶことは健康にもたぶんいい。

忘れてましたが、叫ぶ、吼えるってのは、
怒りや憤りなどマイナスのことばかりでなく、
「感動だーーーーー!」とか、
「うめえええええええ!」とか、
なんでもいいのです。


とりあえず、毎日、すっからかんになるまで
「あーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
と吼え続けてみたい。

……魂の叫びが足らーーーーーーーーん!!!



 5/11 タオレルトキハ マエムキニ

やり方をガラッと変える、っていうのは
ほんと勇気が要りますね。
特に確信がない場合は。
しかし、やらねばならぬ、とは思うので、
ビビリながらコソコソやってます。

手応えですか?
うーん……あるようなないような……
自信ですか?
うーん……あるようなないような……

自分自身が、やり方だけじゃなくて、
判断軸までモデルチェンジしてるので、
ぜんぜんよくわかんなくなってるんです。

今の軸で言うと悪くないんだけど、
今の軸自体に合ってるかどうかわかんない。
世の中に対しても、自分自身に対しても。

基準も新しい、やり方に対する信頼もない、
こうなるともうぐちゃぐちゃで、わけがわからんのです。
でもキーを叩けば、文章が並んでいくわけで……
かといってカタチとしては支離滅裂でもないから、
絶対駄目ってもんでもない。
そこは大丈夫なんですけど……

良さを説明できない。
……でも、それってすごくイイコトじゃないですか?
説明できる程度の良さになんて、
みんな飽き飽きしてるじゃないですか。
「太陽の塔」がいいんですよ、やっぱり。
……でも、説明できないってことは、
良くない可能性もありますよね……

そんな感じでふらふらふらふらしてます。

いやいや、そんなこと言ってる場合じゃないんですって(笑)
旧型のやり方では目が詰まってるのは明白なので、
こけつまろびつ進むしかない!

ほら、風邪って一番重い時が、
快方に向かうターニングポイントじゃないですか。
激しい戦いの結果、ツライわけで、
激しい戦いというのは、勝っても負けても、
財産がすごく残ります。
つまり、とてもツライっていうのは、とても喜ぶべきこと。
「ん! つらい! つまりいい方に向かってる!」

タオレルトキハ マエムキニ。



 5/10 赤心

ちいさな子供というのは、実に上機嫌。
遊びを限りなく勝手に見つけて楽しんで、
疲れたらポテと寝る。
すばらしい。
これだと思うんです。基本はね。
子供だけじゃなく、いい感じに枯れたお年寄り、
そして犬猫たち。
悔しいですよね。
じゃ、どうすりゃ戻れるんでしょうね。

老荘をまだ読んでないのはお恥ずかしい限りですが、
老子も「赤子に還れ」と言うらしいです。
一度一通り手にして考えてやってみて、
なお赤子に還る、というのがポイントなんでしょうなあ。

剣の達人は剣の持ち方について、
「ごはんのお箸を持つように」
つまりなんの意識もせず自動で自由に使う、
あの感じが望ましい。
無心=赤心
って感じですね。

でも、「考えない」ってのはなかなかできない。
こびりついちゃってて。
そもそも、「思考停止」とはちょっと違うのです。
思考も自動化されて、自然に生み出された答えが
いい答え、そんな感じでしょうか。
もすこし具体的に言えば、
難しく考えすぎない。

最近感じるコツのひとつとしては、
(コツを意識して持つこと自体すこし違うとは思うのですが)
「インコントロールなこと(自分に制御不能なこと)は、
 無視する」
とか。
このフィルタだけでずいぶん楽になりますよ。

だってねえ、そんなの考えても考えても、
結論も出なければ、
状況が変化するわけでもないですからね。
そのエネルギー、ぜんぶコントロールできるところに
使った方がいいのです。
だって俺は俺やしなあ。

「なりたい自分」を持つのはいいのですが、
あまり高く持ちすぎるといつまでもなれず、
燃料になるはずが重圧になるばかりです。
さりとて、「そのままでいいんだよ」なんて口では言いつつ
それをなかなか許さないのが今の日本の……
というより人間社会ってヤツでねえ。

是々非々といいますか、
「ま、こんなもんで」みたいなE加減さが
コツっぽいです。
調味料は計量カップでなくて、目分量で。
「わはは、入れすぎた、ごめん」
おたがい、入れすぎたりすくなすぎたりしてるので。
そこを叩き合うよりも、入れすぎたらどうするか、
すくなすぎたらどうするか。

……と、心構えだけはあるのですが、
ちょっと風邪ひいて頭痛でもすると、
全部見失って八つ当たり。
いやあ、まだまだあ。



 5/9 芭蕉すごい

「おくのほそ道」を読み終えました。
ようやくあの人の凄さがわかる年頃になってきました。

 荒海や佐渡に横たふ天の河

スケールが違う。
高さ方向に視野が広いってことは、
すばらしく自由自在な視点を持ってないと不可能です。
芭蕉師匠の強さはここではないですかね。
荒海、佐渡、ここまではまあ詠める。
次にずがーんと「天の河」でひっくり返されるわけです。
「満月夜」とか「星明かり」でも駄目なんですね、
天空で最も広がりを感じられる光景は天の河でしょうから、
これしかない。
しかもこれ、だから夜。
光の羅列と対比して黒々しい荒れた日本海、
当時いわば獄門島であった佐渡島。
二つセットになって異様な迫力で迫ります。
またこの地平が黒いからこそ煌々たる天の河光る。
ハウリング起こしてます。
荒々しくも神秘的、しかもただのメルヘンじゃなくて、
「佐渡」ひとことで人の世くささも出る。

すげえ。
こんなものどう考えたって組めねえ。

あるいは、

 夏草や兵どもが夢の跡

「夏草」ってそこにあるちいさな対象じゃないですか。
マクロレンズで見るような。
それが次の言葉でいきなり「つわものども」ですよ。
眼の前一杯に大戦場が拡がる。
望遠一杯から広角一杯への一気のズーム。
しかもさらに「夢の跡」で、時代、時間までも
ズームイン・アウトしてしまう。
うひーって感じです。ジェットコースター。

どんなちいさなものにも宇宙を見、
宇宙そのものを我が身に置き換えることもできる。
人物動物植物無機物情景おかまいなし。
それも、サイズだけでなくタイムスパンでも。
パーフェクトフリーダム!

そこいくと弟子の曾良ちゃんの句は可愛らしい。
 波越えぬ契りありてやみさごの巣
 松島や鶴に身を借れほととぎす
「本人」がぐっと前へ出ます。
もちろん、それは悪いことではなくて、芭蕉の句にも
そういうのたくさんあるのですが、
そこをベースキャンプにしてものを見てる。
やはり師匠とは羽ばたきのレベルが違うわけですな。

つまり、これが日本のこころではないですかね。
ワビサビなどと言われますが、
それは決して枯れたものでも、諦めたものでもなく、
あまりに自由であるからこそ、石ころにも価値を認められる、
そこから生まれた、ものの見方ではないでしょうか。

こんな目ははたして手に入れられるんですかね。

芭蕉、51で死んでるんですよ。
時間無いですよ〜。



 5/8 さわやかへの挑戦

自分に無理をしなければ、
他人にも無理をさせない。

ま、たまにどーしても無理しなきゃならない時も
あるのですが。

 5/7 たんたんと

いろいろ考えてきたんですけど、
なんとなく最近は、
「考えない方がいいかも」
なんて思っています。

考え出すから、堂々巡りの泥沼にハマるのであって、
あんまり考えずに、たんたんとやるべきことをやる、
それがいいのかなあ、と。

でも、それだと進歩が無いような気がして怖いですよね。
だからやっぱり、「悩む時期」、つまり堂々巡って
いろんな可能性を取消線で塗りつぶしていく時間、
それが必要なのだと思います。
それがあると、たんたんとやってて疑問が生じた時に、
「ああ、でもあれはあれでこれはこれだから、それでいこう」
という判断が身体でできる。
新しい情報を目にしても
「たぶんこの流れでこの辺にハマるだろう」
と、スッと取り入れることができる。

このモードに入るのに、たかーい一山越える必要が
あるようです。
ただ、この山さえ越えていれば、自信がつくので、
たいていのことはやれる。

野球でもサッカーでも、プロスポーツの世界で
「成績たいしたことないのにずーっとレギュラーの選手」
って居るじゃないですか。
7番レフトとか、ボランチの片割れとかで。
そんなもの若いのに出場機会与えるか、
外人のパンチャー買ってきて一発狙った方がいいように
思いますが、そうじゃない。
経験だけがもたらす自信と落ち着きがあって、
それがピンチやチャンス、特にピンチで発揮されるんですな。
「1点取られても2点差だ、長打だけ気をつけろ」とか、
「まだ10分ある、1点なら充分追いつける」とか、
長年やってる人だからこそ言葉と行動に重みがある。
若いのがそれを言っても、それは理論上の、
頭の中の言葉にしかならない。
それでは、伝わらない。

そういう落ち着きを手に入れるためには、
もうすこしたっぷり堂々巡りしつつ、
かつたんたんとガツガツとやるべきことをやるのだな、
と思う昨今です。

「考えない」のではなく、「考えるか考えないかも考えない」
もし考えたら、それをちゃんと消化して先へすすむ。
そんな感じで。



 5/6 オーディオとか

ブログ書くと書くことなくなる日もあり、
これを書くとブログ書くことなくなる日もあり。

ONKYOのINTEC275が我が家にやってきたので、
その続き。
エージングとか要るんでしょうか。
そんな大層なクラスじゃない?
今の工作精度なら要らない?

こう見えてもおっちゃん中学生ぐらいの頃は
ベストテンとトップテンを両方見る歌謡曲ボーイでしたよ。
そんな風になったキッカケが、
中学入学祝いに買ってもらっい、先ほど
INTECに現役を譲ったPIONEERのコンポさんでした。
レコードプレーヤー(これが当時の主役!)、
Wカセットデッキ(ただしオートリバース直前!)、
イコライザー(原音再生?なにそれ)
チューナー、アンプ、スピーカー、全部で20万強。
それまでは親父が独身時代に買ってクルマと共に
数少ない婿入り道具として持ってきた
TRIO(現KENWOOD)の壊れかけのプレーヤーと、
小さなラジカセ。
それから比べれば、もう目が覚めるぐらい音がいいのです。
あたりまえですけど。

学校から「やりなさい」と言われてた「NHK基礎英語」の
録音に活躍したり、もちろん録るだけで聴かないんですけど、
あるいは当時は洋楽が流行ってて、
でも若者はレコードなんか高くて買えないので、
(「誕生日にレコード買ってもらった」って時代です)
FMSTATIONとか買ってエアチェックしてましたなあ。
そそ、レコードと言えば安田成美先生の
「風の谷のナウシカ」をね。
『どうしてこの名曲が本編で使われてないのだろう?』
と思いつつ聞き込んだものですよ。
きんいろのーーはなーーびらーーちーらーしてー

あの頃はみんな一生懸命、
カセットにベスト盤とか作ってましたよね。
家電量販店行くとカセットのコーナーの横にインレタとか
売ってて、お気に入りのテープなどあれでコツコツ
タイトル貼ったりしましたよね。
まっすぐになるように下に薄くライン引いたりなんかして。

あんなに手間掛けてたのに、
いつごろから「ステレオの前で音楽を聴く」ことを
しなくなったのでしょう。

と思い返せば、僕個人的にはPCの存在、
特にmp3が普及してからですな。
だって便利だもの。
「ちょっとさみしいから音楽でも聴きたいな」
という時には、飢えてるわけで、
音質はかなりどうでもいいんでしょうね。
スナック菓子と同じで、そこにあるからパッと口に放り込む。

それはそれでとてもいいことなのですが、
久しぶりに「音楽を聴く」という行為「だけ」を
オーディオの前でやってみますと、
やっぱりこれはこれでいい。
ノリが違います。頭振って口パクで歌ってね。

僕もなにか書きましたら、
そりゃ読んでもらえないよりは読んでいただく方が
ずっといいのですが、
贅沢を言えば流し読み斜め読みよりも
ゆっくりじっくり読んでいただきたいもの。
iTunesのパーティシャッフル垂れ流しだけじゃなく、
もうちょいとちゃんと聴こう。

20年の月日は使い勝手を抜群に引き上げてましたが、
音質なら先代も全く負けておらず、
(というより方向性が違う)
ああ、あの頃はみんななんだか「オーディオ」に
一生懸命だったな、と思い出しました。

壊れるまで現役、これぞイイモノ。
おつかれさまでした。



 5/5 野菜

パリやソウルへ行くと
「日本の野菜はすごくマズイんではないか?」
という疑念に囚われます。
韓国というと焼肉ですが肉なぞ日本のチェーン焼肉店の方が
よっぽどマシで、そうじゃなくてあれは巻く野菜が美味い。

昔、通販で「りょっけん」のトマトを食べて
「なんざこら。
 これがトマトだったら普段食べてる赤い丸い水っぽいの、
 あれはなんだ」
とひっくり返ったんですが、
それは「スペシャルだから」と理屈もつく。
でも、パリやソウルの野菜は普通に美味い。

我が家も去年の台風被害による野菜高騰で慌てて
猫額庭に野菜を植え、冬越えて収穫してるのですが、
これがねえ、美味いんです。
味はまあ普通ですが、セリ柔らかく香り高く、
大根は葉まで味が濃く漬物にぴったり、
エンドウ豆などとろけるように柔らかい。
そりゃ穫りたては美味い?
でも、パリやソ(以下略

子供が野菜嫌いだって、そりゃ当たり前ですよ。
マズイんだもの。
パリやソウルで育ったらそういう子はだいぶ減ろう。

戦後食糧難〜高度成長期の収量至上主義みたいなのが
もしあったとしたら、それを引きずってるのですかね。
笑い事じゃなくてこの国は未だに新幹線作ってるわけで、
30年ぐらい前のやり方を(多くの人が)
まだやってるのかも。
新しいやり方にチャレンジする若い人がいかにも
すくなそうな業種ですしね。

いや、むしろ逆かもしれない。
この品薄の時期に出せば売れる!てな調子で
無理な育て方をして、野菜にストレスになってたり。

原因を素人が妄想してもしょうがないのですが、
それはともかく結果として、素人が庭で作る片手間栽培より
マズイもの売ってるというのはお仕事としてどうなのかな。
たとえば、大工さんに頼めば椅子とかあっという間に
ちゃんとしたもの作ってくれるじゃないですか。
お父さんより。
「家庭菜園など趣味にしかならんッ! 片腹痛いわ!」
と豪語できるのがプロってヤツじゃないでしょーか。
そこではじめて、職業としてやりたがる人も
増えるような気が。

てか、最近こんなところでも二極化が進んで、
えらい美味そうな手間掛かってそうな野菜が
(高価に)売られてたり、お取り寄せだったり……
もうちょい平均レベルを上げる方向には
行かんもんですかね。

なんでもいいのでおいしい野菜が食べたいですな。
それは贅沢じゃなくて、ちょっと方向を変えるだけで
できることかもしれないですよ〜。



 5/4 鬱陶しい思いやり

ふと思っただけですが。
日本人って人のこと気にしすぎるから、
それが行きすぎるとまったくトンチンカンになりますよね。

大手マスコミが駄目だと言われて久しいのですが、
つまり「これが見たいんですよね?」という作りを
意識しすぎている。
だから、そこが本当に人々の欲してる最大公約数から
外れてしまうと、ぜんぜん的はずれになってしまう。
嘘とか誤報ではなくて、欲しい情報じゃない。
なのに一生懸命流してくれるから、
よけいイライラするわけです。

拉致被害者のご家族が帰ってきた(来られた)
時の報道など、きもちよくズレてるように感じました。
ニュースだけではなくて、広くマスコミというくくりで、
欲しい番組が無い・欲しい情報が無い、
とお嘆きの方も多かろうと思いますが、
それはつまり、作る方が「これに違いない」を
間違い過ぎてる、そんな気がします。

そんな時には「これどうです?」あるいは「これだよ!」
みたいな情報がよりおもしろく感じられますが、
そういうのもあんまり無い。
お客さんの好み掴み切れてない、という自信の無さが、
込める言葉から力を奪うのかもしれません。

逆にごく小さい集団・個人の方が、
あんまりそういうの考えない(られない)から、
新鮮に映る。

考えてみればそれはマスコミのみならず、
商売でもメーカーでも、あるいはそれこそ教育でも、
なんでもそうかもしれませんね。
「これが君にとっては良いことだろう」
それは確かに大事な思いやりなのですが、
そんなものが100%通じると思った瞬間、
ズレる。

押しつけられる親切ほど、
鬱陶しいものはないのです。

「俺はこれがいい!
 ……と思うのですがどうでしょ?」
ぐらいで。



 5/3 経済学

経済学をくさして言うに
「じゃ経済学者が株でもなんでもいいから儲けろよ」
というのがありますが、
それは美学の教授に
「いい絵を描け」「いい音楽を演奏しろ」
というようなもので、
なんの相関関係も無い。

学問というのはおしなべて「世界の真実」、
もう少し狭めれば「人間とはなにか」を
自然と人間の諸相を詳しく分析・考察することで
研究していくものです。
経済学も同じで、経済という人間達の行動を通じて、
「人間はどういう時にどう動くのか、
 つまり人間とはなにか」
を検討する。
それがたまさか予想・予測につながったり、
過去こういう例があったからこれはまずい、
という教訓・方策につながったりはしても、
それをやるために学問があるわけではない。

100年前ならともかく今
「いい絵を描きたいから美大へ行きたい」
と言い出されたらものすごく反応に困るでしょ?
もちろん、間違ってはいないけど、
それはクリティカルファクターではない。
(特殊な施設を必要とする活動に対して、
 その特殊施設がある組織に所属する例は除き)

しかし経済学だけはなんだかそういうことを
未だによく言われる。
数学者に「じゃあワリカンの計算してよ」みたいな事を言う。
裸一貫の若者が巨大企業を興せば、
MBAを何十人も揃えた巨大企業が潰れるわけです。
関係ない。
カネが絡むと、
人間なにかにすがりたくなるんですかねえ。

いや、そもそも経済学にたずさわる者も
勘違いしているかもしれない。
僕が初歩の初歩を囓っていた15年前は、
「なるべくヒューマンファクターを除外して考える」
という印象がありました。
たとえば、同じリンゴ3個とリンゴ5個が同じ値段ならば、
消費者は必ずリンゴ5個を選択すると仮定する。
これは嘘ですよね。
すくなくとも3個300円と5個400円とか、
ちょっとずれただけで完全に崩壊する前提です。
化学や物理学で理想状態を仮定するのは、
仮説や理論を立てやすく検証しやすくするためで、
その向こうに「真の姿」があるわけですが、
人間を極めるはずの人文科学で、
人間の姿を曖昧に理想化するのは、
目的を見失いすぎている。
そう感じました。

今は知りませんよ。
それはバブル最後の年90年。
(もちろんその当時そんなハッキリ
 理屈立てられたわけじゃなく、
 「ナンカ ヘンダゾ」ぐらいだったんですけど)

ということで、経済学というのは、
・知識として今世界でどういう経済が動いているか知る
 (これはビジネスにも役立つかもしれない)
・経済という活動を通じて人間とはなにかを考える
そういうものだと思います。
ああ、カネがらみというのは社会学や政治学と違って、
土地勘や肌触りが無くても通用する(部分が多い)ので、
そういう意味では汎用性は高いかもしれません。
変な目的を持たなければ、
とてもおもしろい学問だと思います。

そういえばGWぐらいにはすっかり経済学への興味を
失ってたなあ、と思い出して、昔の自分を叱ってみた。



 5/2 朝でも夜でも真昼でも

言い古されたネタではあるが、
夜書いたラヴ・レターは死ぬほど恥ずかしい。
いや、ラヴ・レターなどというものは
基本的に恥ずかしいものだが、恥ずかしさの質が違う。
見るに耐えない。

もちろんわたしもそうで、例えば4/30の分などは
夜半に寝ながら書いた。
書いてる時はいいこと書いてる気になってるが、
昼間まともな精神状態の時に目をつぶって読み返せば、
これまたまったくどーしよーもない。
もうすこし詳しく言えば、
考えてることは別におかしくないけど、
些細なことを重大事に思い大事な点を無視し、
極めて自分勝手な重みづけをしている。
あと、表し方は明らかに変。
こちらもかなり手前勝手で読む人を軽視している。

「モノを書く」という行為は、いや表現全般そうだが、
やはりおのれの何かを表す行為である。
それは昼でも夜でも変わらない。
のだが、「考えてること」と「表し方」が180度変わる、らしい。

考えてることについては、
・人間も動物だから、昼と夜で興味の対象が違う。
・夜は外部刺激がすくないがゆえに、
 必要以上に内面を掘り下げてしまう。
 (昼は逆にワイドに見れるのはいいが、集中が足りない)
この2点だろうか。
表し方で言うと、夜は驚くほど
「人に伝える」という点を甘く見積もりがち。
「ま、伝わるだろ」あるいは「伝わらなくてもいい」。

こんなこと言うとファンに怒られるかもしれないが、
だからジャズというのは夜の音楽なのだ。
基本的に「俺の話を聞け」だから。

……む。
ということは、「夜の作品」というのもあるのかしら。
コアなファンが多い作家さんや作品は
そうかもしれませんね。
酩酊波長がぴったり合うと、これはすこぶる気持ちいいわけです。

ただやはり基本的に、
人間酔っぱらうのは大好きだが
酔っぱらいの相手をするのは大嫌いである。
例外として自分も酔っぱらってる時は
優しい目で見てあげることはできるが、
それでも基本的に近寄りたくはない。
いやまて、そもそもマスターが泥酔してては
いい酒場ではあるまい。

酩酊は芸ではない。
酩酊のおそろしいところは、
当人は芸になってると思いこめる点にもある。
昼の文章を夜読むことはできるが、逆は不可能だ。

早起きしまっす。



 5/1 4色問題

我らが鉄心さんが4色ボールペンを愛用しだしたと言う。
僕も僕も、とマイ・4色ペンを持ち出して、
「これってどれか一色切れちゃったりするとどうなるのかね」
「捨てるしか無いんじゃ……あ、取れた」
手持ちのPILOTとZEBRAのペンで調べたところ、
軸を回転させると上下に分かれ、
しかるのちボールペン本体を引き抜くと簡単に抜けた。
つまり交換リフィルさえ手に入れば
本体は永久に使える仕様である。
リフィルを商品化してるかどうかは疑問だが。

それは枕で、彼、日本の誇る若手数学者は
「なぜ4色か」という秘密を発見したという。
「『4色問題』ってあるじゃない、あれなんだよ」

4色問題とは、
「すべての地図は、4色用いれば、
 隣接する国を同じ色で塗らなくても済む」
という命題である。
地図作製者の間では経験則として数百年も前から
知られていた問題らしい。
2000を超える場合分けをコンピュータでゴリ押した証明は
存在するが、スマートな数学的証明は未だに存在しない。

つまり、4色使えばノートやメモをぐりぐりと
丸や四角で囲んでも同色が並ばず、
各々の項目を見やすい。

「よし、齋藤先生(「3色ボールペン情報活用術」著者)
 にケンカを売ろう」
といきり立ってみたが考え直せば齋藤先生も
黒にくわえて赤・青・緑の3色で、計4色であった。

「わかった儲けよう。
 『鉄心先生の4色ボールペン活用術』
 僕が書くから。印税は半々ね」
「だってそんなのさっきの一行で済んじゃうじゃん」
「だからそれは生い立ちから書きはじめてだな。
 『私は1971年、東京に生まれた。愛犬の名はチビ。
 今でも時々馬のサイズになって夢に出てくる……』」

日常の小さな経験則が論理的に喝破されるのは
軽い快感である。
学問万歳。





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