■ ほえなが ■

自分は敗けてばかりいた。しかし自分は逃げなかった。 (秋山好古)

 6/30 input

本日は6/1から6/30までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)

■本■

 「徒然草」 ビギナーズ・クラシックス (角川ソフィア文庫)

 「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」 山田真哉 (光文社新書)

 「イギリスはおいしい」 林望 (文春文庫)

 「老子・荘子」 ビギナーズ・クラシックス (角川ソフィア文庫)

 「武装解除」 伊勢崎賢治 (講談社現代新書)

 「木のいのち木のこころ 天」 西岡常一 (新潮OH!文庫)

 「経済ってそういうことだったのか会議」 佐藤雅彦・竹中平蔵 (日本経済新聞社)

 「法隆寺を支えた木」 西岡常一・小原二郎 (NHKブックス)

 「司馬遼太郎が考えたこと 7」 司馬遼太郎 (新潮文庫)

 「お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ」 邱永漢・糸井重里 (PHP研究所)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 10 長州路」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 17 壱岐・対馬の道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 18 南伊予・西土佐の道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 20 モンゴル紀行」 (朝日新聞社)

■CD■

 「guitar improvisation」 野上竜太

---

「経済って──」は目から鱗です。
ほーんとに経済学さぼったなあ(泣)

「武装解除」おもしろいです。
いったい紛争周りの国際貢献って具体的には
なにをどうすればいいのか、現場からの実感が
すごく伝わりました。
というより、こういう話こそ本来は大マスコミから伝えられる
べきでは……

西岡棟梁のおはなしは、「法隆寺──」の方がいい。
小原さんの話も面白い。
「木のいのち──」の方は連載だったので、
重複多いのです。

「お金を──」は、個性的な二人の対談集として読めば
とても面白いです。
でも、具体的なお金テクニックみたいなのは
載ってないですよ(笑)

話題の「さおだけ屋──」ですが、
立ち読みでいいと思います。

「イギリスは──」はよく売れた本ですが、
よく売れるだけのいいエッセイ集です。
ぼくがなんの先入主もなく行って見たイギリスは、
メシが不味いとか横柄とかルーズとか、
ダメなとこばっかり見てたようです。
いいとこも、いっぱいある、ってことで。

「考えたこと7」、「山姥の家」394p-が名エッセイです。
多少の司馬文学を読んで思いますが、
遼太郎はこっちもやっぱりやるべきでした。
小説の筆を折ってから、もちろん街道や多数の対談を
遺してくれてはいるのですが、
こっち方向の文章をもっと遺しててくれれば……

しかし、感情をむき出しに刃を振り回さないからこそ
国民作家として位置づけられたわけで、
その点、難しい。

「老子・荘子」、期待したほど
びっくりする内容ではなかったです(個人的に)
孔子(儒家)へのカウンターカルチャーという色合いが
かなり濃い。
ある確固たるシステムがある時に、それに対して
「くだらねえじゃねえか」と言う事、言う人は
とても大切ですが、
「じゃ、どうすんだ」と切り替えされた時に、
「ふむ、オレならこうだよ」
というものも持たねばならない。
それがどうも、老荘には薄い気がするんです。

というよりも、「うまくいくシステム」の存在そのものを
否定する所こそが老荘の根幹ですから、
代替システムなんてあるわけないですわな。
だからやっぱり、孔子システムとセットになってるのです。
老子自身が、議論相手の恵子という人が死んだ時に
「ああもう喧嘩できないのか」ってしょぼくれてるのですが、
それなど象徴的でした。

ただ、そうはいってもユニークではあって、
こういう考え方は西からは入ってこないので、
(いや、あるかもしれませんが、不勉強で)
知って損なし。
「道」(タオ)というのも、
自然の摂理そのものを指すと考えれば
神や仏や科学と同じ、別にそんなにスゴイものでも、
変なものでもなくごく一般的概念です。

ま、にしてもやっぱり、中国人は奥が深いですな。

あ、CDはウチの高校の同期です。
ギター一本サラシに巻いて頑張ってます。

---

今月はやりたいこと多いのに時間無いような気が、
たくさんしました。
それはいいことだと思うので、来月はもっとそうであるように。
がんばろ〜。



 6/29 さすがメルセデス

メルセデスの新型S(Response)が

……という書きだしで書こうと何度も粘ったのですが、
なかなか書けずに難渋しております。
今も。

あー、つまるところですね。
世の人々が、もう人類丸ごとですが、クルマに対して
持つ希望の軸が、「高級」とか「高性能」じゃないんです。
「使い勝手」であったり「環境負荷」であったり、します。
もともと、クルマとは大変罪深い製品です。
このゴミ7種分別クール・ビズのご時世に、
一人用エアコンをかけ排ガスと騒音をまき散らして走る。
「なんとかもうちょっと軽いものならな」
と、例えばスーパーの回収ボックスに
スチロールトレイを持っていく主婦でも、
たぶん無意識に思ってる。

そういうベクトルが、かけらもない。
じゃ、ぜんぜん魅力的じゃ、ないのです。
「さすがメルセデス!」と、思えない。

もちろん、社会的ポジションによって「でかい箱」というのは
どうしても必要なものです。それはわかります。
でもそれと、そういう環境的ベクトルとは、
合致させられないわけじゃない。
極端なことをいいますが、たとえば外見だけでも、
ネコバス(@「となりのトトロ」)だったらどうでしょう。
機関車トーマスとか。
それが行き過ぎなら、屋根が家庭菜園になってるとか。
ネギとか植わってるのです。
ドイツ車なら、フランクフルトかな。ビア樽とか。
社会還元、停車中はそこからご自由にお飲みくださいとか。

そんなそぶりさえ見せない、というのは、
そういう冗談にさえなってない。
フェラーリもそうで、新しいレーサーレプリカみたいなの、
はい500馬力600馬力、いつまでもなんの進歩もない。
たとえば3600×1700で1500ccの精密時計12気筒車重650kg、
とか、そういう方向はないのか。

売りにしている「高級」や「高性能」を、
「今」にフィットした方向に盛り上げる、
そういう姿勢は。

このままでは早晩滅ぶ。

アウディとかも危ないと思う。以前あった技術魂みたいなの
すっかりなくなって、つんつるてんでキレイなだけ。
アメ車は言わずもがな。
というか実際アメ車は、売れなくて困ってるわけですが。

そのタフネスとバイタリティを尊敬していた
親戚の叔父さんが、自分が成長してみれば
さほどの人物でもなく、
「ええとこ連れてったろ!」
とついていけばそこだけ70年代のようなママさんのいる
クラブで、カラオケで「兄弟船」歌うのです。
型は古いが時化にゃ強いぜ。

確かに、時化には強いかもしれないが、型は古い。
ひとことで言えば、さびしい。

そんなコムズカシイ理屈こねずに、
ワケがわかってない中国人に売りまくればいい?
いや、ごっつやらしい言い方しますと、
発展途上人の欲しがるものって、イイモノじゃなくって、
お金持ちの持ってるモノ、ではないでしょうか。
まだ自己価値観の確定がなされてないから。
80年代の日本だってそうだったじゃないですか。
だからハイブリッド小型車がそれだとなれば、
それを欲しがる、んじゃないかな。
あるいはそうでなければ、わかりやすい成金趣味ですよね。
パチンコ屋みたいなケバい外装に、
無意味にでかいサイズ、価値以上の高価格、
前席ヘッドレストに液晶テレビがはめこまれてるような。

あっ。

さすがメルセデス!



 6/28 楽しいもの

昨日ネット見てたら大変含蓄深いお言葉がぽろりと。

「オナニーは、気持ちいいもの。
 セックスは、楽しいもの。」

初出は誰ですか、アリストテレスですか。
ソレだけではなくて、つまり、
芸術でも人間関係でもビジネスでも、
相手があることは全部そう、ですよね。

我々はついつい気持ちよくなりたがるものですが、
そこを離れた時に、いや、
それ以外があると知った時に、
社会化というかネットワーキングというか、つまり、
進歩が始まるわけですねえ。

若い頃は三度の飯より、だったおっちゃんも、
最近はエロい本見てもピン!と来ず、
遅まきながらそれはそういう社会性を得つつあるという
証拠ではないかと喜ばしく思いつつ……
「枯れてきた」とか言うな。

昨日の晩は鰻でした。



 6/27 飽きる

「飽き」ってなんでしょうね。

よく巡回してたwebや、よく見てた雑誌を、
ある日、見なくなる。
するともう、ずっと見ない。
「卒業」とはよく言ったもので、もう二度とそこへは行かない。
たまには、どころか、近づきもしない。

何が原因でしょう。
(単純に相手のクオリティが方向あるいは上下に
 激変してしまった場合は除く……それは「飽き」ではない)
大きくは二つありそうで、一つは、
・自分が変化してしまった。
時間と共に、興味の対象も持ち方も変わります。
それと、その相手とのズレが大きくなって、
「自分の世界のもの・自分の世界と関わるもの」
ではなくなってしまう。
相手も変化するかもしれませんが、すくなくとも自分と
リンクして変化してくれるわけではないですからね。

もう一つは、
・「わかって」しまった。
というのがあると思うんです。
だいたい、相手の言いたいことや言う姿勢が、
呑み込めた。
「お前に教えることはもう何もない」ってヤツです。
免許皆伝。
雑誌で言うと「CARTOP」とか、
若いクルマ好きライト層を引っ張り込んで、
総花的にあらゆるクルマ周りの話題を提供します。
新車、メンテ、用品、メカ、レース、ニュース、
ユーザーグループ……
でも深くはないので、しばらくするとそこを卒業して、
もうちょい各ジャンルで深めの雑誌に行ってしまう、
ようです。
「少年誌」とか、「○○まわりニュースサイト」とか、
コンセプトがはっきりしていればいるほど、
そこが把握できてしまうと、「もういいかな」って感じに
なるようです。

雑誌やwebはそれでいい、というより
そういう使命だと思いますが、
ちょっと怖いことにひともそうで、
「あの人同じことばっかり言うなあ」
と思われてしまうと、飽きられてしまいます。
その前に、自分が自分に飽きてしまう。

成長続けて、飽きないように。
それは、自分自身のためであったり。



 6/26 わかりやすい

80年代というのは過剰なまでに「わかりやすい」時代で、
というよりもそこに価値の源泉を置いた。

F1が流行っていたのだが、そのオープニングは
T-スクウェア演ずる「TRUTH」をバックに
小林克也翁が絶叫する
「エッフワーングランプリッ・イン・ザパーン!」
である。
つまりジャズとベストヒットUSAであり、
つまりアメリカであり、
F1すなわちヨーロッパとはなんの関係もない。

関係もないのだが、だが、以降20年様々な試行錯誤が
繰り返されてなお、「TRUTH」+克也のシャウトに優る
血湧き肉躍るオープニングは存在しない。
つまり、ならば、正義なのである。
「それがなにか」などという青臭いことはどうでもよく、
「F1を盛り上げる」というただ一点に向かって放たれた矢は、
見事我々を撃ち抜いた。

世の中は、ほおっておけばわかりにくくなる。
「わかりやすい」ということは、
相当の努力が払われている証かもしれぬ。
というよりも、周りを見渡してみれば、
「わかりやすい」ものが、
やっぱり人の心を引きつけている気がする。
で、実際自分がそういうものをめざしてみると、
これが簡単ではない。

ノーテンキすぎたが、やはり、力のある時代だった。
今も、ないのではなく、発揮の仕方を忘れているだけだと
思う。



 6/25 紙で書く・PCで書く

「手書きは簡単に書けないからいいんだ」
と「ほぼ日」で保坂和志さんが。

おっしゃるとおりです。
バーが高いほど、「書こう!」と思って書くわけで、
その方がいいものである/になる可能性高い。

えとね、ぼくが思う手書きがいい理由としては、
・コストが高いので、言葉を無駄にしない。
というのがあります。
手で文字書くのは大変な作業なので、
大事なことを簡潔に述べようと、身体が欲する。

あーた、キーボード叩いてATOKに漢字選びまかせてると、
ものっそい雑文でもいくらでも量産できますからね。

↑たとえばこんなの。

それはそれで、
「新しいデバイスが生む新しい表現」
と言えなくもないのですが、
文章の本質をそこに描かれてる中身だとするなら、
プラスばかりではなくむしろマイナス。

あと、アナログ時計をパッと見た時に、
イメージ(映像)で時間を把握しますように、
・分量(=エネルギーの掛け具合)がパッと見でわかる。
書いてる時って自分でもわからないものです。
慣れてくると、量の多少だけではなく、
そこから導かれる「密度」(デキと割と比例関係にある)
もなんとなくわかるようになります。
「あ、ここ無駄っぽい」とか、「ここはダラダラしてるけど
しょうがないかなあ、言っときたいこと多いしなあ」とか。
(不思議と、デキのいいところにさらに詰め込みたい
 という欲求は起きません)
これが、改修の精度を上げます。

だから僕は、ほぼどんなものも推敲は
プリントアウトしてやります。
プリントアウトですら、やっぱりあんまりよくないところは、
読み心地が悪い。目をひかない。
手書きならなおさらだと思います。
(あ、あと音読すると非常に効果的です。
 でき悪いところは、読んでてもリズム悪い)

それから、手で書いてると、
・手と目の刺激から、新しいアイデアが沸きやすい、
というのもあります。
キーボードも手業ではありますが、
同じ動きのくり返しですから、
この作用は弱いように感じます。
というか、実際自分でカードやノート書いたり、
キー叩いたりしての実感です。
(だからPCやPDA上でのアイデアメモみたいなのは、
 アイデア湧出性能が低いと思います。
 もちろん、管理の容易さ・再利用性と
 トレードオフなのですが、アイデアの一番大事なのは
 その独創性と豊かさであって、それを考えると……)

しかし、弱点もあります。
一番は、手書きすると、
・原稿にモノとしての愛着が沸いちゃう
点で、結果、冷静な自己評価の妨げになる。
もちろん、たとえば手紙なんかなら、(あるいは書とか)
その筆跡とか気分とか、そういうもの含めた
総合評価でいいと思うのですが、
一般的な作品はそうではない。
内容だけが問われる。
きれいな同人誌にすると、マシなものに
思えたりするんですよ、これが。
もちろん商品としてはそこも力入れればいいわけですが、
書いてる最中には必要ないですよね。

また、コスト高いから、
・改変を渋る
という面もあります。
「もうちょいいじりたいな」と思っても
「ま、いいか」と思ってしまう。
ま、いいかと思うぐらいの改変ならしない方がいい、
という考え方もありますけどね。

---

でも、メリットもデメリットも、よく把握した上で、
うまく潰すように・あるいは回避して使えばいいわけで、
手書きに限る、PCに限る、ってことはないと思います。
当人が、気持ちよくやれるやり方が、ベスト。

ただやっぱり、 PCでキーを叩くと、昨今では、
「ぺらぺらしゃべってる」感のある、
よく言えばライブ、言文一致、
悪く言えばS/N比が低い、無駄が多い、
ものにどうしてもなりがちです。
(この文章のように!)
webで読む分にはいいと思うのですが、
これをそのまま活字にするとかなり辛い。

「その産地のものを使った料理が一番」
なんて言いますが、実は、
紙で読むものは紙に書き、
PCで見るものはPCで書く、
のがいいのかもしれませんねー。



 6/24 繁盛

マクドの収益が落ち込んでるそうですが。

特売キャンペーンによる客単価低下が原因らしいのですが、
特売というものは客単価を下げてでも客数を稼いだり
新規顧客を獲得したりするのがポイントで、
そんなものは覚悟の上のはずです。
それにともなう相対的な人件費の圧迫も、
マクドほど豊富な蓄積データがありゃ
予想つかないはずはなく、それも覚悟のハズ。

散歩みちにマクドがあるので覗きますが、
べらぼうに繁盛してますよ。
ちょっとここ10年で見たことないぐらい盛り上がってる。

つまり、たぶん、盛り上がりすぎなんです。
単価高い客、というか、値段考えずに入ってくれる客、
「ほっとひとやすみに入る」客、それを、
安い客が埋まることで、追い払っている。

マクドの店舗ってほんと感心するほど
「さっさとでていけ」って作りなんです。
もちろんそれはそういう風に作っているわけですが、
その居心地の悪さたるや芸術的で、
固い椅子、メラミン机、明るすぎる蛍光灯、バタつく店員、
トイレ狭く水の補給手段なくできても耐久力無い紙コップ、
僕の散歩ルートにも2店舗存在するのですが、
休憩地点指定から外れて久しい。

それが行き過ぎちゃったんじゃないですかねえ。
それでも「まあ、たまにはいいかな」と思っても、
ぎゅうぎゅうに人が入ってる様みると
「やっぱやめ」ってことになりますよね。
だからってそっち方向をさらに過激にすると、
(たとえばテイクアウト専業みたいな)
マクドを支えているブランドイメージ全般が崩壊しますから、
それもできない。
それを言い出すとコンビニってライバルも居るし。

「高級バーガーが不在」というご意見も新聞で
見ましたが、それは違うと思います。
モスは普段から一々について健康・安全・品質を
アピールしており、その延長上で
「ちょっと頑張ってみました、1000円になっちゃいました」
だから、客も試そうか、と思うわけです。
マクドの売りは社長も言う「納得感」、こなれた言葉なら
コストパフォーマンスですから、「1000円です」と言われれば
「なんや、テラマックか」となるだけです。

まあ、ファーストフードの客層などところてんより
つかみ所のない客層ですから、
なにを起こせばなにが起きるかなんて、
誰にもわかんないですけどね。

だから、あんまり商業的な手練手管でこちょこちょやるより、
「これが200円なら満足だよなあ」
という基本で押せばいいんじゃないでしょうかね。

あの大繁盛で儲かってない、というのが結構驚きでした。
商売って難しい。



 6/23 理屈武装

17万超えました。
ほんといつもありがとうございます。

どうでもいいですが昨日のは自分で書いといて
すごいタイトルですな。
わけわからん。

そして自分の方へ引っ張り込んでみる。
えー、「表現」というのは、とどのつまり、
自分の神様=自分=自然
を描くものであり、それだけのものです。

技巧は本質的問題点ではない。
ただ、当人にとっての表しやすさと、
「受け入れられやすさ」という社会性が向上する、
というメリットはある。
(後者は人と気分によってはメリットでもなんでもないかも
しれないが)

逆に考えて、
客観的に見て普遍性高く、多くの人に、
受け手の神=受け手自身=受け手の認識する自然
を惹起する(この言葉他のに替えたいのですが、
いい言葉がない)能力が高い、
これを表現作品の中でも特に
「芸術作品」と定義すればよいのではなかろうか、と。
「芸」とか「術」、という言葉は、
他者(社会)との関係無くしては成り立たない。
そしてどの部分が芸であり術になるかは、
時代と受け手によって変わる。
当然のことですけど。
もちろん、どの時代誰に対しても、「すげー」と思わせる
芸も術もある。

書きもので言えば、ごくごく素人の書くものでも、
思わず「にやっ」としてしまうものがたまにあります。
それは、その人がその人なりにその人の稼いだ
真実を描こうと努力するからで、
その努力=魂こそが伝わるものであり、
意味と価値のあるものです。
問題はその一点だけで、
それ以外はどうでもいいことなんですよ。

プロは一応、どんなにしょぼく見えてもそこは外さない。
だから合う合わないは別にして、
それは一応は、「作品」になってるのです。
たとえ商業まみれの制限まみれになっても、
なんとかしてそれをねじ込もうとする。
非常に皮肉な言い方ですが、限られたスペースに
自分自身をどれだけねじ込めるか、
そこが腕と言ってもいい。
あとやり方としては、ねじ込みやすい仕事しかしない、
というやり方もある。
ともあれ、意識的・無意識的を問わず、また方法を問わず、
ここを守れる人がなんとか職業としてそれをできる人、
なのです。腕とかセンスはなんの関係もない……
というと言いすぎかな、ある一定の線を超えると、
周りがなんとか止めさせまいとしますね。
ま、こんなこたまさにどうでもいいことなんですけど。

元に戻ります。
くりかえしになりますが、
自分の中の神様を描きだすということは、
自分自身のフレーム・ワークが見えてしまう、
ということで、
丁寧に綿密に正直に描けば描くほど、
おちんちん丸出しで心斎橋を歩くようなものです。
もし、表現者・芸術家に向いた「資質」があるとするなら、
この一点だと思います。
それが恥ずかしげもなくできる、
いやむしろ「見て私を!」という
多少のナルシシズムもしくはマゾヒズム。
ただし、しかるのち夜半に顔から火を出しながら、
布団の中で般若心経を唱えるクールな一面。
(それが無いとなんらかの手段で定着させる、
 という手業に結びつかない)

でも、それだってペンネームとか顔出しNGとかで
いくらかカバーできると思いますよ。
(物理的にどんな風に隠せるか、が問題ではなくて、
 「隠した気になれる」という点がポイント)

逆にいえば、「なに描いてんだ俺」っていうような
ものでなければ、表現作品ではないのです。
かりそめの社会性を剥ぎ、
生センスで捉えた間違いと独断と偏見だらけ
(誤解を招く言い方をすれば、これを個性という)
の自分自身が、そこに出てるようなものでなければ。
じゃなきゃ存在する意義がないじゃん。
最大公約数的一般的な「世界」を追認識してるだけじゃ。

その伝でいくと、学校での作文や音楽、美術の時間
というのは、
「自分は世界をどう認識しているか」
を再確認し、
「それを人に伝える努力をしてみる」
という大切な時間です。
リコーダーがちゃんと吹けますとか、
文頭は一字下げますとか、
んなことはもう五の次六の次ぐらいのことで。
そう考えれば読書感想文というのがいかに愚かしい
ものか、よくわかるでしょ?
本、というのは他人が自分の世界認識を述べ連ねた
もので、それで感動するも自分の認識を補強するも
大変素晴らしいことですが、
それを他人に伝える必要性はゼロです。
サッカーの試合見て
「ヒデかっこよかったー」
というほどの価値もない。
それは、当人の世界認識です。
サッカーの本読んで
「ヒデって偉いなあ」
というのは、二次的な認識に過ぎません。
意味がないとは言いませんが、ダイレクトなそれよりも
何百分の一のインパクトすらない。
そんなもん聞いたってこっちも面白くないのです。
そこが遠足の作文とか母の日の作文とは
まるで性質を異にする。
谷川俊太郎先生をはじめ文字屋自身が口を酸っぱくして
あれは止めろといい続けてるのにまだ止めないのは
あれですか、出版社から賄でも流れてるんですか。
だとするとそれこそ愚かですよ、あれは本嫌いを
量産し出版文化を減速させる効用しかない。
あれが廃止になるなら誰も乗りそうにない新幹線を
許してやってもいいと思うほどの愚行です。
国を滅ぼすつもりですか。

人の話を聞いてそれを手堅くまとめる、
「レポート」という社会的技能はもちろん存在します。
しかしそれは高校生になってからそれそのものとして
鍛えればいいだけの話で。

もちろん細かい話なんですけど、
システムの弱点というものは細かいところに
キッチリ出るものです。
なんども出す例で恐縮ですが
スペースシャトル「チャレンジャー」が墜ちた直後に
同名のクルマをデビューさせる組織は、
やっぱりチェック機構が壊れている。
読書感想文の存在は、国語教育そのものの間違い、
つまりひいては初等教育そのものが根本的に
おかしいのではないか、という疑念を持たせるに充分な、
「チャレンジャー」なんです。

なんの話でしたっけ?

……と、いうことで、
「おもしろいものを描く」
ならば、手段はなんであれ、
自分のものの見方を鍛え……鍛える、というのとは
ちょっと違って、なんといいますか、
さらに自分なりにする、といいますか、
自分独自の方向を中心に尖らせるといいますか、
特殊化・個性化……うーん、ちょっと言葉思いつき
ませんけど、
まずそれ。
そしてその目を用いて、
自分と自然にうつりゆくよしなしごとに、
丁寧に慎重によくよく見て、
神様を見つけ、
多少は手慣れた手を使って、
自然に無理せず、
それをうつしとっていく。
と、結果として、人が見て、
「おお、この人の世界の捉え方は面白いぞ!?」
というものになるんじゃないかなあ。
そしてそれは、受け手の世界をも
ガバッと広げてくれるので、
非常に心地よく、嬉しく、楽しい体験なんです。
子供の頃、ほんの隣町へ行くのが大冒険だったように。
描かれてることが「指輪物語」みたいな冒険そのもの
じゃなくても。

逆に受け手の範囲の中で進んじゃう話や手業は、
いかに良くできていようと、つまんない。
別にだからといって珍奇なものへ進む必要もなく、
世界というのは、つまり自然というのは(むろん人間含む)
非常に豊かですから、
描いても描いても描ききれぬものです。

ゼロ・クラウンカッコイイでしょ?
なんか珍奇なとこあります?
無いですよね、オーソドックス一辺倒。
珍奇であることを否定はしませんが、
それが価値を生むわけではないのです。
いや、そういうものは往々にして非・自然的であり、
違和感だけを残して受け入れられないことが多い。
ガウディやフラーは一見奇抜に見えますが、
あれは彼らの認識、彼ら自身を通した
自然そのものであって、
だから不必要なトゲがない。


……というような強力な理屈武装をして、
私が今日も描いてるものはといえば
「ハグちて」
なわけですが、
ま、それはもう運命なのでしょうがない。

それが私の、神様なのですよ。



 6/22 愛が神2

おとついの補足みたいなものを。

つまり腕の立つ宗教家は、
「そこんところ」がわかってるわけです。
わかったら次にやることは、
無知蒙昧な我々を導くことで、
その導き方には、個性が出る。
今風の言い方をすれば、ターゲットユーザーに合わせた
サービス内容のアジャストです。

教科書に載ってる例で、
「南無阿弥陀仏」を、
親鸞の浄土真宗は「1度唱えれば救われる」
法然の浄土宗は「何度でも唱えるほどいい」
と言いますが、
それは本質的な違いというよりも、
ただサービス方針の違い程度のことです。
「愛が神だ」という真理を悟る、
悟らずとも信じ切る、
(これは信仰に置いては同値ではないかと思うのですが)
それはもう自転車の運転みたいなもので、
一度そうなってしまえば、信仰を手に入れてしまえば、
終生変わらぬ「認識」「ものの見方」です。
だから親鸞は、
「それを信じた時点で救われるじゃん、あたりまえじゃん」
と説き、法然は、
「ま、わかったというても人間はアホですぐ忘れるから、
 常に確認せなあきませんな」
と説く。
背後には二人の、人間に対する認識の違い、
とりもなおさず二人の性格が出る。
ストイックでラジカルな親鸞は、
「わかったらわかってるやろ」
と言い切るわけですが、
心優しく人のいい法然は、
「いやいや、人間そうは言うても間違うもんやで」
と温かい視線を向ける。

で、人間というものは割り切れたものではなく、
英雄的一面とクズみたいな面とが、
折り重なりつつ、どちらかが強くなったり弱くなったりして、
生きているものです。

本来、同じことを言ってるわけですから、
自分の感覚に合う方を選べばいい。

日蓮が宗教家とも思えぬ激しい口調で他宗排撃を
やりますが、あれは情熱のあまり、
人を間違った方向へ
(間違っては居ないんですけど、偶像崇拝的・
 自然信仰的・神が他に居る的方向)
導くような行動・活動が許せないわけです。
だもので東大寺の運慶・快慶のように(間違い)
「あほっかああああ!」
と目尻を吊り上げている。

一遍や道元は「身体使わんと始まらん」と
思ったのでしょうし、
栄西はたぶん骨の髄からインテリで、
考えて考えて考え抜くところにしか、
認識の飛躍的拡大はありえない、
とでも思ったんじゃないでしょうか。

どれも間違ってない。

別に鎌倉新仏教六人衆だけじゃなくて、一般的に、
宗教的回心を起こした人々っていうのは、
教祖にしろ名僧にしろ殉教者にしろ、
結局、その「真理」を伝えたい、
伝えるためにはどういうシステムと方向と戦略で
いくべきなのか、知恵を絞る、身体を使う、
そこの各人の個性が出てるだけ、だと思います。

だからこそ逆に、
「愛は神だ」「神は愛だ」
どっちでもいいのですが、
その中心命題から外れてしまっていると、
それは信仰(宗教)と呼ぶべきものではない、
と断言していいと思います。
信仰の自由という高邁な思想は、
信仰をこう定義してはじめて成り立つ。
反社会的カルトに対して我々が持つ違和感の源泉は、
ここにある。
信仰はそれそのものの本質として愛以外ではありえず、
であるならば反社会的であるはずがない。
たまさか社会そのものが例えばナチ政権下のように
愛なき社会であっても、
信仰がそこに抵抗する手段と方向は
テロリズムではありえないわけです。
だから、オウム真理教は、駄目なわけですな。

宗教心・信仰心は、かように人間の存在にとって
とても心強い感情・感覚です。
神さびた古い神社で自然敬虔な気持ちになる、
賛美歌の調べになんとなく居住まいを正す、
一心不乱の読経の響きにこちらも半トランスになる、
どれも我々の根本を揺るがし、
「生きるとはなんぞや」
という人間だけが悩みうる贅沢な悩み
(いやイヌネコになったことないからわかんないですけど)
を思い返す、大変貴重な瞬間だと思います。

で! あるからこそ。
そういう「本気になるべき時間」は本気になるべきであって、
それは怖い顔をしろという意味ではなく、
人格を掛けて立ち向かえ、というぐらいの意味ですが、
だから
「はいお経読みました焼香続いてても私の役目終わりー」
なぞという人間は、宗教人ではない。
プロであるならば、その信仰の光で周囲を圧するばかりで
なければなりません。
子供が松井のホームランを見て「すげー」言うような、
そういう存在でなければならないはずです、
すくなくとも宗教儀式の時間は。

というところが、いつも腹立たしい。

そういう存在が、ふつうの人々の間に、
「宗教なんてうさんくさい」
という気分を広めてしまっていると思います。
敬虔に神に祈る姿を茶化して笑う。
でも本当は、どんな人の中にも敬虔なこころというのは
あるはずで、その根元的な感情と、
理性が判断した「宗教なんて」という感情とが、
ぶつかって歪んでいる、というのが日本の、
というかたぶん世界的な、現状ではないでしょうか。

ウチの母が説法を聞きに行く知人を評して
ゲラゲラ笑い、
「わたしは宗教とかそんなん興味ないからな!」
彼女は死んだ旦那のために巨大な仏壇を買い
ちょっとした手違いで墓を二基も新造し、
毎月坊主呼んで5000円です。
年に一回は大神か清荒神に参り毎年神棚の
お札代えてます。
もちろん榊も神花もポイントごとに代えますよ。
そして長男は鬼門にはいるなと怒る。

どこをもってして非宗教的というのか。

この妙な歪みを取り除くためには、
宗教家が頑張るのももちろんですが、
ひとりひとりも、
「わたしの信ずるものとはなんぞや」
を組み立て直すのが良いのではないでしょうか。
で、まあ、恥ずかしがらず無理もせず、
自然に神社や寺や屋久島に行けばいいんでは
ないでしょうかね。

たとえば海外に出た時に、
「宗教はなんだ」という本質的でない問いに答えねば
ならない時には、
「自分自身!」
という男子高校生みたいな答え方でもいいですし、
「ハイブリッド」
と煙に巻いてしまうのもいいかもしれません。
ほんとうは、自分のこころの中で自分なりに
そういう宗教心を育てるカタチ、
これを一般化したナマエがあると便利なのですが……
(結婚式における「人前式」みたいな)

いやあるいは、いずれ行儀作法に名前がないように
(小笠原流とか、そんなこと言う人今はいませんよね)
それが、あたりまえになるんでしょうかね。
というよりも、日本は既に実質的にそうなってるような
気がしますが。
人々がはっきり認識してないだけで。
ちょうど江戸期の貨幣経済のように。

それを輸出できると、
近代的な個我や科学技術と、
宗教心との矛盾が回避できるから、
世界に貢献できる気もします。
(余計なお節介かな……風土に恵まれすぎている我々にはわからない、「縛られること」への強い欲求もあるのかもしれません)

でかい話はともかく、
我が身振り返ってみますと、
ゴミの分別からかなあ、と思います。
それでもやっぱり、バカみたいな話を聞いて、
「アホかぁ」
と叫んでしまう。
そのたびごとに、ペットボトルのカバーを、
「なみあむだぶつ」と唱えながら、外すのです。

人生とは、簡単に言えば、
そのくり返しかもしれません。



 6/21 暑いっちゅーねん

暑い。
早くもバテはじめてる予感がします。

散歩から帰ったらあまりに暑かったので、
上を下着だけにしてみました。
するとこれが落ち着かない。
半袖肌着とTシャツって、ほとんど何も変わらないのに、
なんであんなに気分が変わるのでしょう。

昔から日本人男性はすぐ上半身裸になりたがるらしく、
中国や韓国の古い書物に
「だから野蛮人はイヤなんだ」
みたいなことが書かれているらしいです。
(向こうは礼の国ですから、恥ずかしいよりも
相手に失礼にあたる)
古い絵巻物など見ても職人はすぐ諸肌脱いでます。
身体の保護のためにはあまり良くないと思うのですが。
(現在の建築関係の方なんかでも、
長袖長ズボンのフルカバードですよね)

南の島から渡ってきた海洋民族一派のDNAでしょうか。
あるいはまた、ただ単純に高温多湿で服なんか
着ちゃいられないのでしょうか。
砂漠など乾燥していれば、逆に肌を覆った方が
光線を遮断して涼しいようですが、
そのメリットよりも汗その他による不快のデメリットが
大きいんでしょうな。
でしょうな、っていうかそう感じるからこそ
我々は脱ぐわけですが。

クール・ビズ等々「無理はせんとこや」という姿勢が
拡がっているのはとてもいいことだと思います。
もうね、Tシャツにネクタイと襟のガラ描けばいいじゃん。
がんばるべきところと、がんばらんでええところがあって、
「そこはがんばらんでええ」
という方面で政府がお墨付きを与えてくれるのは、
ええことやと思います。
「ここをがんばれ」
方向でのお墨付きは、いろいろ問題も
あるかもしれませんが。

次はそうねえ、仏壇の最大サイズでも決めてもらおうかな。
もちろんいくら大きいの作ってもいいのですが、
累進懲罰特別課税がかかるのです。
高さ150cmを超えると1基につき200万ぐらい。
5ナンバーみたいなの決めといて、
120*50*50ぐらいですかね、
それ超えると一律100万ね。
で、目的課税にして、死んだ人の分は新しく生まれた人、
子供達の養育・教育関係に回すのです。

あんなものモノはどうだってよくて
(なんて言うと仏壇匠に怒られそうですが)
サイズと「なんぼ」というのだけがクリティカルファクター
ですから、「なんぼ」はなんぼ上がってもいいのですよ。
いやむしろ上がれば上がるほどいい。
クラウンが400万するんです、
50年持つ仏壇買うのにそのぐらい出させりゃいいでしょう。
もちろんその代わり軽自動車みたいな枠もあって、
50*30*30以内なら無課税。

消費税導入時に引き替えに無くされてしまいましたが、
貧乏人になってみますと(笑)
物品税っていう考え方はありやなあ、と思うのです。
所得税を厳しい累進にするよりは、働く方の
モチベーション的にはいいかな、と。
「イヤなら使わなければいい」という選択肢があるだけでも。

なんの話でしたっけ?

つまりすなわち、6月でこれだと先が思いやられる、
って話です。
大阪はやはりアジアです。
むしろ心斎橋を砂浜にして、
水着で歩いてもらう方向はどうでしょう?
主な観光資源は、たこ焼きと太陽。
あと日本のアニメキャラが歩いてるUSJと、
東京から来た大型家電量販店ね。

ああ……そういえばランニングと短パンで
道頓堀を走ってる人がいますな。
あれは大阪のおっちゃんの象徴だったのか。
さすがグリコ大阪の会社。
ああ……そういえば万博に突っ立ってるシンボルも
「太陽の」塔ですな。
ミノルタも太陽みたいなシンボルだったし、
んで、アサ「ヒ」ビールでしょう?

きわめて暑苦しいこの土地が、
わたしは大好きなのですが、
好き嫌いとは別にして、
しんどいです。



 6/20 愛が神

数日来、書こうと思ってまだ熟成の足りない考えがあります。
そういうものは自然とポロリと書ける日を待てば
いいのですが、試作品のライブ感も……
ってまあ、ごたくはいいですね。

つまり、神が愛なら、
愛が神じゃないですか。

「そうかなるほど!」と太ももを叩きました。
幾多郎先生の本を読んでてハッと気づいたので、大感謝。

おそらく、プリミティブな信仰と、イエス・ブッダ以降とは、
ここが画期的に違うんです。
いや、本当は違わないんですけど。

信仰心・宗教心というものは、人間が基本的に
生まれ持って持つ、自分がコントロールできない
状況・環境の変化(つまり自然と人間)に対する
「おそれ」
から生まれるものだと思います。
「山の神様のお怒りを鎮めるのじゃ」
しかし、と同時に、自分もその大自然の一部であり、
共に生きている生かされているという意識も
はっきりあるわけです。
古来からの文化を引き継ぐたとえばアイヌの
祭り(祀り)を見ると、
感謝と共に、「熊を殺すことは神の国に送り戻すこと」
なんてかなり勝手な解釈が入る。
自分達も主役である、という認識じゃないかな、
と思います。

ごくごくナチュラルな形で、自然=神=自分という
一体感があって、その中で「敬い」「おそれる」という
感情を持ってして、一連の儀式を執り行い、
日常の規範となす。

ところがある程度人間の社会化が進むと、
本来持っていたはずのこの「一体感」が失われ、
儀式に依存して、自分ではない「別のもの」としての
神様がイメージされていき、
現世利益や死後の世界を司るようになっていく。

自分と神様が別モノだと、いつまで経っても
どこまで行っても幸せになんか
なれっこないじゃないですか。
つまり、人間が神様になれないのなら、
「なんのために生きているのか」
という問いにさっぱり答えられないのです。
絶対者が居て、それに生かされている。
はあ、それで。
じゃ、どうすりゃいいの。

ここにいたって革命家つまりイエスやブッダが出て、
「ちがうちがう、人の心にこそ神は宿るものなの。
 つまり、人が神なの」
と言い出すわけですな。
あの自然と一体になって持っていた敬虔な
気持ちを思い出せと。
そして神が為すように、
愛をもって人と自然に向かいあえば、
豊かで優しい心になれて、
やるべきこといっぱいあって、
ほうら幸せ。

だから二人とも偶像を否定するわけです。
それは非常に実利的な面からの要求であって、
あんなもんあったら、神様という別物がどこかに
存在するような気分になる。
人間は、カタチに非常に弱い。
「自分が神にならねば、神などおらん」
という真摯な気持ちをすぐ忘れてしまう。困る。

さあしかしそれは難しい。
考え方自体もあまりにも理想論すぎますし、
じゃあ普段何をすればいいんだ、
という具体的な話に結びつきにくい。
「敵を愛せよ」
ってやっぱり難しいわけです。

彼らはまさに神になることで全人的に、
彼らの人生そのものを満足させたわけですが、
それって「儲かる方法」っていう本を書いて
儲けたようなもんで、
その本読んでる我々は、ほったらかしなわけです。
「いやだから『儲かる方法』って本を書けば儲かるよ」
って言われても、ねえ。

しょうがないので、直近の高弟が
古い、彼らが否定した偶像の埃を払って、
「細かいことはいいんで、つまりこれを拝んでください」
と言ってまわる。
高野聖が弘法大師の札を売る。
蓮如が本願寺教団を設立する。
今、だからイエスやブッダが生きてりゃ絶望のあまり
自殺しますよ、
「なにもわかっとらんコイツら、死んだ甲斐がない」
とか言って。

でも、しょうがないんですな、そこは。
個体発生は系統発生を繰り返す、といいますが、
人間や昆虫が発生してなお、ゾウリムシもヤツメウナギも
元気に生きてるわけで、
プリミティブであるから劣ってる、というものではなく、
存在したからには存在する意義と理由がある。

神になるより、神を拝む方が、
簡単なんです。
そして、生きるのはとてもめんどくさくて大変な事業なので、
できればそういう余計なことにかけるエネルギーは、
最小にしたい。
月1回坊主呼んで5000円払っとけば全部丸くおさまるなら、
その方が効率いいわけです。
毎日1時間、「生きるトワ」と座禅を組むよりもね。

人間は、人間である前に動物ですから。

1000年もするとこうして先祖返りしてくるので、
ルターが親鸞が出て
「いやだから違うって!」
と絶叫するんですけど、
そんなの何度出ても同じ話で、すぐ元の黙阿弥です。
たぶんそれは人間が人間である以上、
それ以上にはいけない限界ではないかと思います。

普段の行動を考えてみればいいと思うのですが、
困った時に、
「とりすがる何か」を探すタイプと、
「なんとかして自分で」っていうタイプが
いるじゃないですか。
どっちが善悪とかなくて、
それはもうタイプとしか言いようがない。
し、どっちだってよくて、
その困ったことが解消されれば。
前者が神様を欲し、
後者が神様になりたがるのです。
それだけのことです。
だから常に、両者いる。

ただ、すべての人類は(おおげさだな)そろそろ、
「両方の人間がいる」
(あるいは、どっち寄りの)
という事実は、認めなければならない、と思います。
神に縛られて生きる生き方を古いと断ずるのも
避けねばなりません。
が、神を持つ方々も、持たぬ方々を無信心だと
責めてもらっては困ります。
そういうフェーズじゃないかなあ、と思うのです。

コーランがトイレに流された流されない、
という事件がありましたが、
流す方もダメですし、流されたからって暴れる方も、
ダメです。
世の中には、それが命より大切な人もいれば、
尻拭き紙にもならない人もいる、
っていう事実そのものが、一番大切な、
とか何とか言う前に、
認めなければならないことがら、だと思います。
こういう時代ですからねえ。
それはもう、おっぱいが大きい方がいいか
小さい方がいいか、って話なんです。
正解など無い。

(もちろん、よりクリティカルな方に配慮すべきだろう、
 という考え方はあるので、
 やらんでええ刺激はやらんでええとは思いますが)

---

ぼくは、明らかに「神様になりたい」タイプなので、
「ああ、つまりそう生きればいいんだな」
とずいぶん気が楽になりました。
楽になっただけで、具体的な生活をそうしていく
努力は、あんまりやってないんですけど(笑)
ま、ちょっとずつ。
たとえばゴミの分別をきっちりやるとか……

「神様が欲しい」タイプの人も、
それは別に恥ずかしいことでも何でもないので、
それでパフォーマンスが出ると思うなら、
なんでもしっかり拝めばいいと思います。

ぶっちゃけ、そういうタイプが
あまり好きではありませんでした。
こういうタイプの方って、最終意志決定の責任を
神様にもってくるでしょう。
あれがズルイ、と思ってました。
「そりゃ思し召しはあるかもしれないけど
 決定してるのはあんたやろ」
というのが、我々サイドの意見なんですが、
その考え方自体が、こっち側すぎる考え方でしたね。
それこそそういう隣人をも愛さないと(笑)

根は、同じであって、
つまり「よりよく生きるには」を真摯に追い求めていく
過程において、どういう方法論を採るか、ってだけです。
ターゲットが正しければ、方法はあまり問題ではない。
上述のように、細かく見れば
納得とか責任問題とかありますが、
最終的には、うまく行けばそれでいいのであって。

ほんとに最後の最後では、
人間は、そういうものを乗り越えて手を携えている
ような気がしますよ。
変な例かもしれませんけど、
サッカーのビッグクラブとか、多国籍多民族軍が
他の多国籍多民族軍と戦っており、
つまりまあ、神様よりもだいじなものが、
世の中にはいっぱいあるのです。

むろん、驚天動地などできませんが、
自分のできる範囲での神様であろう、
つまり、愛であろう、と思ったわけです。

ゴチャゴチャ言いましたが、
言いたいのは最後の一文。



 6/19 食う寝る遊ぶ

 ブログをとめてみました。
 理由はブログの方に書いてあります。

 自分のwebをこうしましたああしますということほど恥ずかしいコンテンツは無いのですが(マッチポンプにもほどがある)まあ、「記録」だと思って無理矢理。

 思えば、ぼくは写真機は好きですが写真を撮るはあまり好きではないです。
 めんどくさい。
 妙なもので、写真に撮られるのは、割と好きなんです。
 若い頃はナルシスティックな感情がなかったとは言いませんが、最近はむしろ、「うわ! 俺ひどっ!」と自分を客観視できるチャンスなもので、すきなのです。
 なんとなればやはり歳を取ると、特に30を超えると、若い頃の自分の方が、カッコイイんです。姿形ではなくて、ピュアネスって意味でね。

 ああ、あの頃の俺なら南米の奥地にカトリックを広めに行けたかもしれない。

 もちろん、広めにゃ行ってないんですが。
 今はもう、その可能性も無いわけです。
 物理的にというよりも、「そんなことは本筋ではない」とかなーんとか、ヘタな小理屈をこね回して自分を納得させる妙な力がついたことと、
「そっちよりもこっちの方が自分にはよかろう」
というおおよその方向性も見えてきた(つもりになっている)からです。
 それはそれでいいのですが、単純に「可能性の減退」という意味だけとってみれば、ちょっとさみしい。
 それだけのことなんですけど。

 写真を見ると、ことに近頃は、そう思います。
 もう、残されてる時間も可能性も、とてもすくない。
 だから、ちゃんといきましょう、と。
 そんな気持ちにさせてくれるから、記録としての写真、つまり自分の写ってる写真が好きです。

 文章でも同じことが起きうるかと思って、日記的に事実事実で書き留めてみましたが、
 「自分」を写してくれる写真は他者が他者の眼で撮ってくれるものであり、それがゆえに自分の気づかない自分が写ってておもしろいものなのですが、
 「自分」を書き留める文章は自分が自分の眼で書かざるをえず、そんなもんなんぼ書いてもしょうがない。「その時点でこうでした」という証拠にはなりますが、そのこと自体になんの価値もない。

 ひとはいちおー、進歩していくもんです。

 と、いうようなことがよくわかったので、クールな記録はいったんやめにしよ、と思ったのです。
 もちろん、というようなことがわかっただけでも、やった甲斐はありました。
 なんでも、やってみんとわからんもんです。

---

 似た理由で、web拍手も取り外すことにしました。
 たくさんの拍手、ありがとうございました。
 やはりレスポンスあると嬉しいもので、励みになりました。

 ですがなんとなく、日に一回
「今日はなにか来てないかな〜」
と見に行くという行為自体がさもしい感じがして、(これは極めて個人的な感覚なので、一般的には逆に楽しい行動だと思います)そのさもしさ自体がちょっと自分の中で鼻についてきたので、止めてみます。

 このアイデア自体はHP作成者にとっても読者にとってもよいアイデアだと思います。掲示板やメールで感想を送るというのはやっぱり非常に敷居が高いので、ひとこと、ぽん、と送れるというのは、反応に様々な手段を確保する、という点でとても優れています。

 「その程度の簡単な反応は人の何をも表現しない」という憎まれ口もありうると思いますが、それを言い出せばwebという媒体自体、その「簡単であること」こそが売り物ではないかと思います。
 簡単「だからこそ」できること、簡単だからとてもやりやすいこと、がやはりある。
 web、ネットのいいところ、っていうのは、そこで。
 それを否定しては、じゃあwebなんかやめちまいなさい、と言われるだけです。

 これも、記録だけ。

---

 ほんの数ヶ月前までは、やっぱり、
「できることならいろんなコンテンツてんこ盛りの素敵web」
という方向性をめざしていたのですが、いや、憧れていたのですが、自分の今持ってるパフォーマンスと、限られた時間をどこにどう割り振るか冷静に考えていきますと、
「手を広げすぎてはダメだ」
という当たり前の結論に達しました。
 昨日の炒飯の話じゃないですが、ぼくはまだ、そんなに美味い炒飯も作れる料理人ではないのです。
 で、あるならば、そうストイックになる必要もないと思いますが、やっぱり、炒飯は一生懸命作ろう、という感じです。

 部屋の片づけみたいなもので、ひとはなぜ片づけをするかというと、ひとつには、
「新しい部屋をめざす」
というのがあります。これはわかりやすい。そのためにスクラップ&ビルドするわけですね。
 しかしもうひとつ、
「可能性を確保する」
という意味で考えると、片づけて不要な要素をスクラップすることそれそのものにも、つよい意味がある。
 そして確保された「空」の中に、なにか新しい芽が芽生えないかなあ、と期待も出来るのです。
 見上げるような大森林だって、次の芽が芽吹くチャンスは、どこかの樹が倒れた瞬間です。そこにパッと光が射すからこそ、芽が吹く。
 どんな立派な木々が立っていようと、立ちっぱなしでは、枯れるばかりのようです。

 今パッと思いついただけの数字ですが、なんでも、1/3ぐらいは、空のまま空けておくのがいいのかもしれませんね。
 ふつう、睡眠1/3、仕事1/3、生活1/3で、ちょうどいいのかもしれません。
 睡眠っていうのはすべてのバッファになってくれてて、仕事2/3になっても、1/3の「空」を確保してくれる。
 だからこれを削り出すと、生物体としてちょっと危機的なモードに入るのだと思います。
 ものごとには、「為す」ばかりではなく、「熟成」や「整理」の時間も必要です。ウィスキーも焼酎もワインも泡盛も、眠り続ける時間がある。味わいというのはそこで成立します。
 もちろん、作りたて美味いビールや日本酒の清新な美味さも、またよいものですが。

 ワークスペース、ストック、ゼロ。
 ゴリ押す時間、いつもと同じ時間、やすむ時間。

 三つバランス取れて、居心地よく圧迫感がない。
 のではないかなあ、と思います。



 6/18 おいしい炒飯

幾多郎先生いいこと言ってるよー。
本当の意味での哲学者ですね。
考えるひと。
参禅経験などの実感をベースに「こうだ」と断言するので、
純哲学的には(この言葉自体意味不明ですが)
あまり高度ではないのかもしれませんが、
実感以上に信頼おけるものもありますまい。
そこを理論化することが科学だ、というのは
もちろん大賛成ですが、
そのおかげで実感から遊離してしまっては、本末転倒です。

本質とは何か。
ズバリな答えなど見つからないのですが、
「これは本質ではない」
というのは、比較的言えそうです。

先日靴が壊れて以来ずっと困ってて、
意を決して靴屋さん行きました。
ぼくの希望は、とても歩きやすくて履き心地よいこと。
デザインも色も少々なら諦めます、
お値段も1万円超えてもかまいません、
で、どれですか、って、わかんない。

それって、抜本的に「靴屋」の存在意義を
放棄してませんか。

もちろん、靴に求める意味がひとそれぞれ、
それはわかってます、あらゆるスペックより
デザインに色にカタチに、あるいは流行に、
意味もたせる人もいれば、
またある人はお値段かもしれません。
でも、靴である以上、「歩かせる性能」っていうのは、
最低限これぐらいは、っていうのが
あるはずではないですかね。
パンツだって、股間に穴開いてるヤツは、
すごく特殊なお店に行かないと売ってないでしょう。
パンツである以上は、「そこんところを保護する」
っていう最低限の機能があって。

それはその靴屋が悪い?
まあ、そうなんですけど。

ほら、よく「中華料理店の炒飯」っていう話が
あるじゃないですか。
炒飯食べてみればその店の実力がわかる、という。
炒飯もロクに作れないような店に、何が作れるか。

っていう、話だと思うんです。
別に靴だけじゃないです。
メーカーも、ショップも、私達も、
なんか炒飯じゃないものばっかり追い求めて、
炒飯が、あるかもしれないけど非常に目立たなくて、
あったとしても、おざなりで、つまり不味い。

美味いモノを作ろうと思ったら、
まずシンプルな美味いモノじゃないでしょうか。
その上に、複雑な美味いモノが展開していく、のでは?

ひとが、たぶん、一番欲しいもの、っていうのは、
まず、それなんです。
おいしい炒飯。
んでその次に、おいしいなにか。
それからしょうがないから、おいしくなくても定番。
最後に、わけのわからないもの。

なんか今の市場には、
いや市場だけじゃなくて社会には、
4番目>2番目>3番目>1番目
の順で多いように思う。
みんな一生懸命4番目と2番目作って、売って、買って、
自分で不満足サイクルを回してるような気がする。

なにも買わずに店を出ました。
おいしい炒飯が、作れるようになりたいな。



 6/17 眼っ!

甲野先生が野口先生に
「もう眼を使うの一切禁止!」
と言われて書物も口述筆記してるとか。

ああ、あたしもそうしたい(泣)

これでもできるだけVDT作業を減らすために
・アイデア段階は紙にする。
・推敲もできるだけプリントアウトして紙にする。
・フォントも最近は12pt。
と気を配ってはいるのですが、
結局それでも眼を酷使するのは変わりません。
眼を使うと、首が張り、肩がコリ、
上半身のバランスが崩れると、支えている腰にくる。

いや、つまり、同じ姿勢で長時間固まってる、
こいつが良くないのです。
アーロンチェアも買ったマニフレックスも買った、
(当時)高価なモニタを買ったNaturalキーボードを愛用した、
結果たどりついたわたしの結論は。

「1時間に1度動き回る」。
これ!

いやほんとに。
どんなに素晴らしいデバイスであろうとも、
否、素晴らしければ素晴らしいほど、
「同じ姿勢を取る」ことからくる血行の偏り・負荷の偏りを
解消することは不可能です。
たとえばいい椅子。
面圧分布が平均化されてはいますが、
おしり全体で見れば同じだけの負担がかかってる。
(ちなみにアーロンは普通の椅子とあまりにも
 面圧分布が違うので、慣れるまでけっこう違和感あります)
その負荷取るには、寝そべったり立って歩いたり
する他、ないんですなあ。
(最近は後傾姿勢取らせる「あんたF-16のシートか」って
 大げさな椅子が文字通り脚光を浴びてますが……)

テンピュール・マットレスが
「ほらこんなに寝返りがすくない!」
と謳っているのですが、
それ、ほんとに快適な証か? というと、
誰にもわからない。
寝返りが血行の偏りを解消する身体の自然な働きだと
するなら、それを阻害しているとも考えられる。
(わかんないですよ、そういう考え方もある、ってだけで)

ネコね。
一日15時間ぐらい寝るっていわれる
睡眠のスペシャリストですけどね、
彼らは結構、というより実に頻繁に、寝返りうちます。
寝る姿勢も一定してません。
丸まってることもあれば、箱座りのままうとうとしてたり、
腕を前に出して伸びてたり、仰向けになるヤツもいます。
寝る場所も、いちおうお気に入りくさい場所は
それぞれあるのですが、頻繁に変えます。
あれは、
(外敵から身を守るとかテリトリー誇示とか
 そういう要素もあるのでしょうが)
身体への負荷を散らしてるんじゃないかな。

んなこと言い出すとね、
機械仕掛け電気仕掛けでバイブレーションとか起こして
血行促進!とかそういう話になるんですが、
そりゃいくらなんでも不自然ですよ、と。

いつもの話になりますが、
「かくあるべし」と固めないで、
「これもありあれもあり」で、ふにょふにょと
ゆるめにいろんなアイデアを持っておく、
のがいいような気がします。

食べ物とかも、「これはダメ!」とかではなくて、
その時食べたいものを食べたいだけ。
睡眠とか、身だしなみとかも、人それぞれのペースが
ありますから、その人のナチュラルなペース、
が一番だと思います。
縛らず、ダレず。

まあそうは言っても社会性ってヤツのために
いろいろ微妙なストレスもかかるでしょうから、
だから神様は安息日ってのを7日に1回決めたのかも。

わたしも7日に1日ぐらいは
「ディスプレイ(モニタ・TV)を一切見ない日」
を作ろうかな、と思ったり。
休眼日。
……ムリかなー。

余談1。
DVDで見たのですが宮崎鬼監督の座ってる椅子は
3980ぐらいで売ってそうな安物の板座面OAチェアでした。
座り方もじっつにエーカゲン。
で、あの作業量。
ああ、それより棟方志功さんの製作風景見ると、
椅子ごときでガタガタ言ってる自分がいかに
浅ましいか思い知らされます。
そういうこまかーいこと全部忘れるような
仕事をしてないといけない、
という逆の考え方もある。

余談2。
わたしノートPCが好きなのですが、
つまりあれ、全部セットになってるので、
姿勢の変化がしやすいんです。
ちょっと端っこ持ってきゅっと動かすだけでいい。
そもそもどこででもできる。
寝室でもキッチンでも、それこそトイレの中でも。
やっぱり、すべてのPCはノートになるような気がします。



 6/16 与える

ずっとずっとお世話になってる赤ガルさんが、
仮にBさんとしましょう、
「ジュワユースを取りたいのですよ〜」
と張り込みをはじめられました。

親切というのは、いつか跳ね返ってくるものです。

私は大変なめんどくさがりで、戦闘そのものに喜びを
見いだせないという変な黒魔道士なので、
正直NM張り込みなんか好きじゃないのです。
でも、Bさんがやるというならまさにおっとり刀いざ鎌倉。

本当にお世話になってるんです。
調理高弟でまるっきりモノ売れなくて、
そのくせ高価な炎クリばかり必要で、
スキル上げにくじけそうになってた頃、
たくさん炎クリもらいました。
「オークをしばいてたら落としたんですよ〜」
もちろんそんなもの競売に入れればお金になるわけです。
そんな親切、ばっかり。
お手伝い、BC、いつも自分の予定など無いかのように
駆けつけてくれます。

いつか返さねばならんのです。
それはもう、ギブ&テイクではなくて、
もらいっぱなしでは自分自身が許せない。

ということで日曜昼から張り込みに参加して、
スタンでライバルを出し抜いて奪って、
ゾンビマラソン中にまた奪われました。
夜にリベンジです。
もうね、ログインすると仲間がみんなそこにいる。
結局、みんなおんなじなんです。
Bさんには、なにか返さなきゃならない、と思ってる。
Bさんに、ジュワ持ってもらいたい、と思ってる。

私はその日朝2時に起きてたので眠気に負けて
途中退場だったのですが、結局深夜3時に
(翌日月曜だというのに!)
沸いて、勝って、出ました。
喜ぶBさんと、そんなBさんを見て喜ぶ我々。

いちばん強いのは、いちばん弱いことではないでしょうか。
すべてを得るのは、なにも持たない人。

商売人が誠実であるべきなのは、
それが一番儲かるからですが、
与えて奪わない生き方は、
それが一番、与えられるのではないでしょうか。

小ズルイようですが、そんなことを思いました。
こんなことを思うようではBさんにはなれませんが、
真似は、できるかもしれません。



 6/15 SCSつづき

さらにつづき。

つまるところ、この3ステップを自分なりの
良コスト・パフォーマンスにおいて行える
「自分システム」は、
もちろんのこと自分で作り、改良していくほかありません。
吊しのシステムではフィットしきれない。
そして、そういう売ってるシステムは、
それそのものとしては性能差は(あまり)ないのです。
あくまでシステムは、それを用いる人間とセットになって
効力を発揮するので、合わなければ、
どんなに一般的には優れていると言われるシステムでも、
無効、ヘタをすると害があります。

余談ですが教育というもののポイントはつまり、
「『何が自分に合っているか』を見わける感覚」
を芽生えさせる、ところではないでしょうか。
右も左もわからない段階で、
「なにがいいか」などわからないわけです。
そこに、「これもあるあれもある」という知識(材料)と、
「世間ではこう言われてるがしかし君は自由だ」という
評価と保証、それを与えて、
その人間が「ぼくにはこれが」と思えるようにしてあげる。
「君にはこれが」でもなく、
もちろん、「これが良い」でもなく。

メディアはおろか純粋知であるべき
学問科学分野においても、
「商売」が幅を利かせています。
そのこと自体は怒濤のような進歩発展を生むので、
一概に否定はできません。
むしろ、積極的に認めるべきだとも思います。
ただ、よろしくないのは、
商売人はつまり、「これが良い」という人々なのです。
自分の売ってる、「これが」。
それは、真実とは、
すくなくとも「貴方の」真実とは、限らない。
いやむしろたいていの場合は、違う。

ノウハウは簡単に手に入りますが、
ノウハウを選ぶ技術は、
自分で身につけて行かざるを得ない。
あるいは、師匠でありコンサルタントであり
先生である存在が、
しかも自分によく合ったそういうヒトが存在すれば、
ある程度は見晴らしもいいかもしれませんが、
それでも、最後は、自分です。
意地悪な言い方をすれば、
むしろいい師に当たりすぎて伸び悩む可能性だって
ないわけじゃない。

忙しくなったからかパック売りの性能がよくなったからか、
そこを、つまり「学ぶ」というステップを省略して、
売ってるシステムを掻き集め、
まるで学んだ気になれるご時世です。
ですがこれは、
冷凍食品を並べてチンして料理を語るようなもので、
ほんとうは、何も語れない。
それでも当座の用には立ってしまう、
しかもかなり有効に立ってしまうのが、
現代という時代の嬉しくも悲しい矛盾であって、
コツコツと小麦粉からこね上げたうどんを出しても、
冷凍うどんがいいと言われる。
それに対してその眼の不確かさを責めることができるほど、
我々各々の目も肥えては居ませんし、
そんなセンサーもすっかり衰え滅びてしまいました。
また、それを復活させることも、
現状では非常に難しいような気がします。

ただ、他者はともあれ、すくなくとも自分の道を進む時に、
やはり自分の手で自分のやり方を作っていかねば、
いつか壁の前で立ち止まらねばならない日が来ます。
ある程度までは参考書も地図もあるのですが、
真にクリエイティブなこと、新しいこと、
自分に本当にフィットしたこと、
これら新しい領域に踏み込む時には、
それは無い。
その時に、「地図がないから進めません」では話にならず、
磁石と歩幅と直感でなんとか進んでいかねばならない。

バンドエイドだって間違ってたことがわかる昨今です。
信じられるものは、自分しかない。

でも、「信じうる自分」を作るのは、
結構大変ですが、結構楽しいものです。

自分自身を作り変えながら、自分のできることを
すこしずつ拡大していく。
それが、ちょいとオオゲサに言えば、
生きていくってことじゃないかなあ、
と思うのです。



 6/14 SCS

昨日のつづき。
さすがにゴマカシというと言葉が悪いので、
やっぱりごく平凡にコントロール、と言い換えましょうか。
セルフ・コントロール・システム。
コントロール不能であることを前提として、
その上位で制御してしまうのもこれまたコントロールです。

もう小学生か中学生の時聞いたような話に
なっちゃって恐縮ですが、つまりなにかを達するためには、
(1)目標を決める。
(2)計画を立てる。
(3)実践する。
この3フェーズを経ます。

このうち、我々はどうしても(3)に注目しがちです。
「がんばる」ことに私達が非常に重きを置くのはつまり、
がんばれば(3)を達成しやすく、つまり、
目的を達しやすい。

しかし考えてみればあたりまえのことながら、
簡単な(1)であればさほどがんばらなくても軽やかに(3)が
できて、その「なにか」ができあがる。
「がんばることは必須ではない」
という最近の風潮(ぼくもよく言いますが)は、
つまりそういうことです。
目的さえ達せられればそれでいいわけで、
がんばったからって達せられなければ駄目なことも多いし
(もちろん気分や気持ちの上の話は別問題)
がんばらなくても達せられれば文句は言えません。

ぼく思いますに、この(3)偏重こそが、
話をややこしく、難しくしてるのではないか、と。
何度でもいつでも最初に返るべきで、
「いまやってることはなにか」
「最終的にはなんのためにやっているのか」
を、しつこく振り返ってみれば、
実は「実践しにくい」という時点で、
(1)か(2)か両方が、間違ってる可能性がある。

(1)の方で「できるだけ具体的な……」とか
「期間を切って……」なんていうところはまさに
中学生の夏休みのしおりか新入社員向けビジネス書の
方がまとまってるでしょうから略。

最近注目してるのは、(2)です。
「計画を立てる」
これを、私達は、大雑把にやりすぎてないか。
(2)を詳細に決めるためには、(1)の具体化も必要となります。
ゲームで、
「つよくなる。」
じゃ計画も何も立ったもんじゃなく、
「2週間でレベルを4つ上げる」
となってはじめて計画も立てられる。
(上位の計画が下位の目標・目的にもなる)

まず(1)をくっきりさせて、次に自分自身のパフォーマンスを
検討する。まさに
「敵(対象)を知り己を知らば──」
です。
実はこれも簡単なことじゃない。
なにかにチャレンジする時は、そのチャレンジに置いて
自分がどういう力をどれだけ出せるのか、
普通、知らない・わからないものです。

ここで具体的な方法論として、
「サムネイリング」
というのがあります。
ご存じと思いますがサムネイルというのは
ごくごくちいさな絵のことで、PCの画面でフォルダなど
表示させると、原画が小さく縮小されて表示されている、
あれのことです。

ちいさな期限と投下コストを区切って、やってみる。
で、その結果と効率を評価して、
それでいくのか、改良するのか、放棄して新しい案を
考えるのか、検討する。
「トライ&エラー」の一種なのですが、
最初から「サムネイル」つまり「モデルケース」であることを
認識しつつ(つまり失敗や改良を前提として)
進める、というのがポイントです。

編み物なさる方はご存じだと思いますが、
大物を編む前には、「ゲージ」というものを編みます。
一辺10〜15cm程度の四角い布で、
それは本編には使いません。
編み物というのは非常に編み手の個体差が
出るものですから、
自分が・この糸と・この編み方の時に・
何目編めば何cmになるか、
それを知るためのものです。
そして、本に載ってる図面を、その割合を掛けて、
自分なりに修正する。
詰み詰みに編む人が図面通り編んだら、
予定より小さくなってしまいますし、
逆だと大きくなってしまう。
それを避けるために、わざわざ関係のない布を編むんです。

大塚康生さんという超ベテランアニメーターも、
「いきなり原画描くんじゃなくて、
 サムネイル描いてみて動かして考えるといいよ」
DVD観たんですけど、
大塚さんほどのキャリアと能力があって、
結局やってることはトライ&エラーなんです。
なんども繰り返して、どんどん良くしていく。
そのための手法として、いきなり本番にトライするよりも、
はるかに効率が高い。

サムネイリングで、
難易度と作業総量を把握し、
難しすぎる・多すぎるようなら作戦、あるいは対象を
練り直す。
やってみれば、その時点で・それに当たる時の
自分のパフォーマンスはなにより正確に出ます。
そこで出てくる数字は、
トータル(T)÷パフォーマンス(p)=タイム(t)
という厳然たる動かし難い数字であって、
これさえ出れば
「あ、無理だ」とか「いけそう……かな?」とか
すぐわかる。
「がんばる」などという要素はそこには存在しないのです。
「がんばる」とp*1.5とか、適当な数式を考えがちですが、
そんなものが上手く行った試しなど無い。
もしそれが出ればそれはボーナスと考えるべきで、
計画は、Tは、
標準的なpと、生活を冷静に省みてつっこめるt、
だけで検討されるべきです。

非常に原始的で、夢も希望もない話ですが、
人間はつまり、「がんばりつづける」などというのは
不可能なんです。
たまにゃ、がんばれますけど。
ロケットブーストくくりつけて離陸したはいいけど、
その後飛ぶ力無くてポテッと墜ちてはどうしようもない。
「がんばらなくても、いける」
というプランを立てて、それを自分の中にシステム化し、
「がんばる」というアフターバーナーは非常用に
取って置いた方がいい。
それでも、人生ってのは、よくそいつに点火しなきゃ
ならなくなるものです(笑)

そうそう、あと、(3)に入っても、
このサムネイルの評価、修正と改良、微調整は
続けなければなりません。
もっといいやり方があるかもしれない。
どうしても飽きも来ますから目先を変えることも必要
でしょうし、
手慣れてくると単位時間あたりのパフォーマンスが
あがったり、コストが下がったりしますから、
その分また別のことができるかもしれない。

結局、コツコツタンタン毎日毎日、
というのが一番強いです。
継続は力なり。
だから、毎日すらすらと、さほど眉間に皺を寄せずして
できる方法論、そいつが実は、一番強力なシステム。
これを自分なりに、
(自分に合ってるものは自分にしかわからない・
 作れない……)
考えて実践して改良していく。

「毎日頑張る」じゃなくって、
「頑張れる毎日」を考える。


蛇足ですが、ぼくが考えるポイントとして、
「制限は一個にする」
のが最良ではないかと思います。
「やらない」(もしくは「やる」)
というのには、人間非常なストレスを伴いますので、
それでエネルギー使っちゃうという本末転倒がおきがち。
ではなくて、たとえば飲んべえなら
「酒は外でしか呑まない」
とか。その代わり外では普通に呑む。
ぼくの健康法ってのは散歩しかないのですが、
これも、「毎日行く」としか決めてません。
速度も行く先もいつ行くかもどういう風に歩くかも、
まったく決めてません。
でも結局そうとしか決めてないがゆえに毎日行ってまして、
すくなくとも行ってなかった頃よりはるかに健康です。
「連続20分歩かないと脂肪の燃焼がうんちゃらかんちゃら」
言う暇があったら歩きなはれ。

できないことを考えるよりも、できることをする。
いっこ、毎日、積み重ねるには、どうすればいいか。
そのこと自体を考えることも、
「自分を知る」ことのようで、
結構たのしいものです。



 6/13 セルフゴマカシ

ある程度技術がついて、次に問題になるのが、
セルフコントロール能力です。
こればっかりは自分の性格・気質・癖などを考えながら、
自分で組み上げていくほかない。

たとえば僕ですと、脳が上手く働く時間帯、っていうのが
わりと決まってて、なに、特別なことは無いんですけど、
充分な睡眠時間を取った後とか、
知的刺激を受けた直後とか、
やっぱりごはんのあとは鈍いよね、とか。

それはもうしょうがないので、それを前提にして
(それを改造していくのは超人的努力と意志が
 必要でありすぎる)
それをうまーく誤魔化すことが肝心ですな。
バラツキを隠蔽して見かけの能力を上げる(笑)
たとえば朝元気なら遊びたい気分はちょいと我慢して、
朝仕事をやっつけて、夜遊ぶ、とか。
寝るまぎわにエンジン掛かる人なら、ひっくり返せばいい。

技術や知識は、あるラインで飽和します。
もちろん向上続くんですけど、
人間が人間である以上、そして物理法則に従って
存在する以上、あるてっぺんというのがあって、
そこから先には行きにくい。
それよりも、限られたその資源をいかに巧く使い切るか、
つまり、エコな思考が必要になるわけです。
「もうすこしパワーがあったら、これができる」
じゃなくて、
「このパワーで導き出せる最大の結果は、なにか?」
という考え方。

「弘法筆を選ばず」
というのには、そこにもあって、
弘法大師ぐらいになると、ポイントは、
物理現象として筆を用いて墨を紙に置く、
というところではないのです。
どんなオリジナルな着想をして、
どんなダイナミックな表現をするか、
ここがポイントで、
だから道具なんか子供の使ってるのでいいのです。

道具、つまり技術や知識を貯め込んだり磨いたりするのは、
それ自体が非常に楽しいので、ついつい耽りがちですが、
人間がいかに生きるか、
という点で考えれば、ひとと触れあわないその点は、
あまり重要ではないのです。
それよりも、あたりまえですが、
それをもちいて何をどうやったか、が問題で。

師と弟子というスタイルも、結局、
中級以降はそういう部分こそが大事になり、
やはり受け継ぐもそれを超えていくも、
師というひとつの確立されたスタイルがある方が、
進めやすい。
という点では有効なんでしょうね。
師匠で一番勉強になるのはそこであって、
技術なんざ自分で磨くものです。
また、いい師匠というのはそういうところでいいものを
見せてくれる人でしょう。
よく言われることですが、
名選手必ずしも名伯楽たりえないのは、
素晴らしいプレーヤーであればあるほど、
「自分なりのスタイル」がかなりカスタマイズされてて、
応用が効きにくいんじゃないかな。
教えられる方も、もちろん教える方も。
「キンタマを前につき出すように」
って言われても、ねえ。

あるいは練習嫌いの天才プレーヤーも、つまり、
「自分はどのようにすればパフォーマンス出せるか」
がよくわかってるんですね。
それがその人にとっては夜遊びであったり飲酒であったり。
ある野球選手はお酒で身体壊して現役引退が
早まったそうですが、じゃあ、
お酒呑まなければもっといけたか、って、
そうとも限らない。
もちろん、訳もわかってない若手が真似するっていう
悪い点はありますが……

わたしもままならなすぎる「自分」というものに振り回され、
困ってるところです。
完全コントロールなんて無理に決まってるので、
自慢のダイエット法(12時間断食ダイエット)のように、
「続けられる」というところに一番のポイントを置きながら、
自分をうまくごまかしつつ、
ある程度のパフォーマンス引っ張り出すこまかい方法を、
いろいろ探っているところです。

ポイントはやっぱり、なだめすかすというか、
「結果が積み上がりすればオールOK」
という視点で、あまり倫理的な点とか、カッコヨサとか、
一発で結果が出そうな激しさとか、
あるいはよく陥る間違いですが、
システムとしての他者納得性
(要するに話せば「なるほど」とみんなが手を叩くような
 わかりやすさ)
は、求めない。
無い無い、そんな魔法など存在しない。
なんでも、いっこいっこ、地道に積み重ねるしかないのです。
ただ、積み重ね「方」には、多少良し悪しがあって、
向き不向きもあって、
それは自分で見つけるしかないですね、
っていう、おはなし。

自分ってヤツは、一番言うことを効きませんが、
結果が出さえすれば、
一番納得して粛々とそれをやってくれます。
最初はゴマカシだったはずが、いつの間にかナットクに。

もう一段先に進むには、
それが弊害になることもありますが、
それはもっと先の、はなし。



 6/12 硬システム軟システム

先日の大片づけ大会からずっと考えているのですが。
収納には、それそのものに特化した収納、
たとえば本棚でありタンスであり、と、
なんにでも使えるものを適宜応用する収納、
押入であり風呂敷であり、があります。

つまり、両方バランスよくあるのがよい。
文明というのは誰がどこでいつどう使っても
同じ効用を発揮するシステムを発明発展させていく
もののようです。
変わらない、という意味で硬システムと呼んでみましょう。
それに対して、その場合わせで人間の方が工夫したりして
適当にフィットさせていくシステムがあります。
基本的にカスタムでありワンオフであり。
対比させて、軟システム。
文化っていうのは時代と場所によって違うわけです。

おしなべてプリミティブな文化っていうのは、
軟システムだったと思うのですが、
それを近代ヨーロッパ起源の硬システムが
蹂躙中です。
それはしかし悪でもなんでもなく、その恩恵をたっぷり
受けて我々は暮らしている。
しかし、弊害もある。

狭いマンションにタンスは何本も要らん。

あまりに便利すぎて、その便利を得ようとするあまり、
軟システムで行けばいいものを、
ついついオーバースペックな、あるいは小回りの利かない、
硬システムを採用してしまう。

発展途上国にODAで立派すぎるポンプ贈って、
壊れても直せずに結局無駄、ってケースが
あるじゃないですか。
ピーク性能に囚われず、
手汲みポンプを贈った方がよかった。

日本というのは特にそうした軟システムの活用が
上手い歴史があったように思います。
着物というのは見事なもので、
布を平面裁断するだけで誰にもフィットする衣服になってる。
そこに、明治以降懸命に採りいれた各種硬システムが、
特に生活の面で十二分に発展しており、
24時間コンビニが開いて自販機でジュース飲めて
電車が5秒単位でやってくる都市は、
世界広といえども東京(をはじめとする日本の都市)
しかない。

この、「両方知ってます」っていうのを、活用したいもの。
ガチガチで行きたがる人々には、
「いやいや、こういうやわらかーい方法もあってですね」
と風呂敷を取り出し魔法のように物体をくるんでみせ、
(余談ですが欧州の小売店の店員は
 どうしてああ「包む」という行為がヘタクソなんでしょう)
プリミティブなところにしがみつきたがる、
あるいは変な郷愁を持って現実以上に憧れる人々には
「いやだってほら、それじゃその子は病気で死ぬよ?」
と注射器を振り回す。

具体的な生活技術のみならず、
「考え方」として、風呂敷がありますねん、
みたいなところを、革でもアルミでも高級高品質バッグを
買えるし買ったこともある人が、
「いややっぱり風呂敷でしょう」
というと、説得力あるじゃないですか。
知らない人が言ってる負け惜しみでも、憧れでもない。
そこんとこは、胸張って言っていけばいいように思います。
というか、言わねばならん。
どこかの真似をしてたら
幸せなような気になれた時代は終わった。

……というのは少々大げさな話ですが、
それはともかく、日々ぽつぽつ暮らしてる中で、
「ほんまにこの大仰なシステムが必要かいな?」
と振り返るだけでも、ずいぶん荷が軽くなるように
思います。
硬いシステムを諦めるんじゃなくて、
柔らかいシステムを採用する。
それは決して、古いものでも劣っているものでもない。
「足を知る」というのは、
後ろ向きな考え方ではなくて、
「ちょうどいい」という頃合いを見計らう、
非常に高度で前向きな心の働きだと思います。



 6/11 あっさりあっさり

今日は中華を食べに行ったのですが、
あっさりしてて美味しかった。

あの、「あっさりだけど美味しい」っていうの、
むずかしいですよねえ。

座右の銘が「これでもか」のぼくは、いつも
「あっさり美味い」
に憧れるんですけど、どこをどうすればいいのか
検討もつきません。
だからいつも、しょっぱなからブルー・チーズを。

おそらく、あっさりしてる人は、
あっさりしようとしてるのではなくて、
「よい頃合い」を見計らうと、自然とあっさりになってる、
のだと思います。
それすなわち修練を重ねて、「頃合い」を感じ取れ、
かつそれを自在に出せるようになってはじめて、
あっさり美味い。
が引き出せるようになるのでしょう。

人間の持ち味としてもそうで、
ベタベタせずサラッと、しかしツボをついている、
そういう人になりたいものですが、
なかなか。

つまりこれも、ツボがわかってないと、ダメなんですな。
逆にツボがわかってると、
そこだけをグッと押すから、
全体としては余計な負荷が掛からないのです。
つまり、あっさり。
しかし、じわっと効いて、美味い。

結局のところ、ツボを知るまでは
ジタバタジタバタせねばなりますまい。
一生懸命ジタバタしてれば、そのうち、
あっさりできるようにもなるでしょう。きっと。
要点は、
・最上級のものはそんな感じだから、
 こってりしすぎたら「まてよ?」と思う。
・最上級のものがそうであるからといって、
 いきなりはできっこないので、形だけ真似て
 ただ単に力を抜いても、ダメ。
なんてところを、注意することかなあ。

---

「料理人の矛盾」みたいなものを、
料理人でないぼくが勝手に妄想しますと、
素材のもつ力をできるだけ引き出すのが、
美味い料理だとするなら、
料理人というのは、隠されれば隠されるほどいい。
「この魚美味ぇ〜〜〜!」
というのが最大の評価であって、
「ナガタシェフ最高!」
というのは、次善三善。
それこそ、
「こんないい魚があったら俺だってこれぐらいは」
と思わせるぐらいが、いいのです。
(そしてもちろんやってみれば、絶対にできない)

でもそれは、ちょっぴり寂しいですよね。
「○○シェフだから」
といわれる方が、人間やっぱり嬉しいはずです。
そうではなくて素直に、
「素直な「美味い」が一番だ」
と思えるようになるには、人間修業そのものが必要……
ですなあ。
なにも厳しいこと難しいことではなくて、
「喜ぶ顔が見られればそれで」
という、ごくごく簡単な、ありふれた、あたりまえの、
ことなんですけど。

どんな仕事もつきつめれば、
そういうことだと思います。
顔が見えないほど素晴らしい仕事を、したいもの。
しかし、そういう仕事なればなるほど、
勝手に顔が見えてしまう。



 6/10 笑顔でジャッジ

昨日の話じゃないですが、「老子」読んでたら
「知る者は言わず、言う者は知らず」。

知らずに言ってますよ、ええ、もう。

でも、知らなくても、
「こうなんじゃないですかね?」
と言うことは、大切なような気がします。
最初は、「知ってるか知らないか」すらわかってないわけで、
「先生、ぼくこう思うんですけど!」
から始まる、ような気がします。
黙ってちゃ、自分がアホかどうかもわからない。

自分がアホとわかったからって、
そこでどうする、というのはまた難問ですが。

ああもう、ジーコ&キャプテンに一本取られて、
恥ずかしいそして悔しい(笑)

彼らにはつまり、説明できる言葉が無いわけです。
「知る者は言わず」。
本当に肝のところは、直感というか全人的判断ですから、
だいじょうぶとしか言いようがない。
こっちゃそれじゃ不安なわけです。
特に日本人の歴史には、「大丈夫」と言われて
大丈夫じゃなかったことがてんこ盛りなので、
信じろ言われても簡単には信じられない。
たとえ相手が神様でもね。

結局、
「言葉ではなくて人を信じる」
っていう話になるのかなあ。
頭でっかちはいけませんよ、と。

我々は知性ってヤツに全幅の信頼を置きがちですが、
ヤツはそれほど頼りになるものでもなく、
もっと全人的に、感情とか感覚とか直感とか、
そういうのも総動員して、
そうネコが食べ物を美味いかどうか嗅ぐ時のように、
全身で判断すべきなのかな。

そういう判断ができない場合は、
頭だけで下した判断に囚われすぎないよう注意する。

最近よく思いますけど、ものごとの奥底っていうのは
(老子の言うところの「道」ですな、
 とすぐ覚えた単語を使ってみる)
非常に簡単なものだと思うんです。
つきつめてしまえばGOかOUTかはデジタルで、
中間は無い。
一昨日のジョブス先生の話もそうですが、
「行くか行かないか」
がまずあって、
行くと決めたら、その行く方向へ全力疾走して、
そこで生じる問題点は、行くという前提と向きを守りつつ、
全力で処理していく。

幕末の志士たちの姿を見て、
あんなもんテロリストか殺人者か陰謀家かそれら全部か、
要するに酷い連中なんですが、
我々はいまだに「誰それのファン」だったりする。
それは、最後のスイッチがハッキリしてるところで、
自分の入れたそのスイッチに殉じて生きる姿に、
羨ましい、憧れる。

でもって、この、「行くか行かないか」を決めるのは、
頭ではなくて、身体全部ではないかな、と。
ではそれににじり寄る方法は無いのか。

わたしね。
笑顔が大事だと思うんですよ。

畏友鉄心さんが
「最近ねえ、会議を『あそび』にできないかと思ってるんだー」
とメールくれました。
この精神で、やらなきゃならんつまらんことも、
笑顔でできるものにしてしまう。
気の持ちようだけじゃなくて、実際にいろんな工夫もしてね。

人間、楽しいことやってる時はノってますから、
上手くやるものです。
ロナウジーニョをご覧なさい。
真剣勝負の最中に、笑顔満面。
そしてむちゃくちゃに、上手い。

我々は、子供の頃から、ヘラヘラしてると怒られましたが、
気の抜けたヘラヘラと、楽しさの微笑みとはまた別です。
また、そういう人には近寄りやすいもので、
さらにそのネットワークが、強い力になる。
そう、パフォーマンス引き出すためには、
笑ってなければ。

ネコは、美味いモノや快適な場所をよく知ってます。
つまりあれです。
笑ってできることは、きっといいこと。
だから、やる。
もちろん笑ってできないことも、
笑ってできるにはどうするか考えることで、
突破口が見つかるかもしれない。
で、どうしても笑えないのなら、
やらない。
言葉では知性では判断し切れないコトを、
こいつで判断する。

ま、人生短いので、なるべく笑って過ごせたらな、
と単純に思います。

笑えるように頑張る。頑張って笑う。



 6/9 あの人はわかっていた

「みんななかよく・がんばろう」
ですむんなら、努力とか知識とかって、なんなんでしょうね。
ジーコ・ジャパンが見事予選を突破。

タレント揃ってますから、突破はすると思ってました。
サッカーは突き詰めれば一対一だ、と中田もよく言います。
でも、ねえ。
トルシエ時代の、なにがやりたいかはよくわかる
あのサッカーを見慣れた目には、
「いったいこのチームはなんなんだ」
というのが最後までよくわかりませんでした。
文句があるわけでも嫌味言ってるわけでもなくて、
じゃあ、「みんながんばろう」ですむんなら、
監督なんか要らんのか。

んなわけはないですよね、
それを言うのがジーコだからチームはまとまるわけで、
もう西郷隆盛とか大山巌とか大将たるもの、
仁者がどっかり座ってればいい、とそういう話になるのか。
日本人ヘッドコーチも居ないわけです。
仁愛振りまいて細かいところは副官がやる、
ってわけでもない。

でも結局、特にサッカーは、
フィールドの、現場のプレイヤーが判断を迫られる
スポーツですから、
優秀なプレイヤーが揃っていれば、
その優秀であろう判断にまかせた方がいい、
とも考えられますな。
実際、選手同士コミュニケートしてる絵面をよく見ましたし。
(そういうところ狙って撮ってるのかもしれないですが)
で、プレイヤーの質・量なら間違いなく
日本はアジアNo.1で、こんなもん4.5も枠あったら
突破しない方が椿事です。

いややっぱり、「さすが神様」というか、
そういうことこういうこと全部ひっくるめて、
いい方に転がるようにできてるんですな。

うーん……

いやだから確かにそうですよ、
「みんななかよくがんばろう」
ってのが基本中の基本で、これなくして戦術や戦法が
いくらあっても仕方ない、それはそうです。
でも、そんなもんW杯予選ともなればどこのチームだって
持ってるもので……

うーん。

いともあっけなく柳沢先生がポロッと得点して
決めてしまったのを見て、
半日経っても釈然としません。

ジーコ監督はなにをしたのか。
なにもしてない。
では、ジーコでなくても簡単に突破できたのか。
それはたぶん違うと思う。
たとえばあそこに加茂監督でも当てはめてご覧なさい。

じゃあ、なにが、どう、作用したのか。

すっきり論理的な解答は出ず、結局、
「大将は器」
とかそんな言葉になってしまわざるを得ない。
そして困ったことに、もしそうであるならば、
ジーコ監督はそれを証明してしまったので、
ドイツ本戦でも、ひょっとするとグループリーグ突破ぐらいは
やってのけるかもしれない。
だって、グループリーグ突破って言ったって要するに
世界ランク15位前後であればいいわけで、
日本の選手の質と層の厚さを考えれば、
そんなに難儀なことではない。
あたりまえのことをあたりまえにやれば、
普通にできちゃうことのような気がします。

……と、いうようなことをツラツラ思うに、
「戦術がない」「コンセプトがない」
という点をあげつらね口を極めて
「(監督経験がないという意味で:総監督とかテクニカルDとかそんなもの責任者とはまるで違う)
 ど素人に監督させるなんて気が狂ってる」
とか言ってた自分がアホウに見えてしょうがない。

ジーコ監督には、わかってたわけです。
(あと川淵キャプテンにも)
普通にやりゃ普通に突破できるよ、と。
別に俺が何か特別なことしなくても。

いやあ……
お酒呑みながらゴタク並べるのはスポーツ観戦の
醍醐味ですが、今回ばかりは、参りました。
ゴタクを百万一億並べても、
「わかってる人間の実感」
ってヤツには、まったくこれっぽっちも1ミリも、
かないませんなあ。

さすが神様。

なんだか、ドイツが楽しみになってきましたよ。
しっかり準備すれば、あるいは、いいとこまで。

とりあえずご苦労様でございました。
みんななかよく・がんばろう。



 6/8 Macな雑談

古くからのパソコン好きには
「ああ、一つの時代が」なニュース
Mac、ついにIntelCPU採用。

まあ、一番大きいのは、
モバイル用プロセッサーが欲しかったのでしょう。
IBMは次世代ゲーム機ハットトリックで鼻息荒いですが、
であるが故にほぼMac専用となるモバイルPowerPCには
たぶん消極的。
AMDも、デスクトップ用は高性能で好調ですが、
たぶん余力無し。
PCがどんどんノートタイプ・オールインワンに向かい、
しかもそれを昔から強力に進めてきたAppleにとっては
他に選択肢の無い・やらざるを得ない
決断のように思えます。

と、同時に、ハコとしては同じでも、
中身、というか得られる「経験」で勝負できる、いや勝てる、
という自信の表れでもありますな。

Apple、というよりもスティーブ・ジョブスという男の
凄いところは、いつも思いますが、
「シンプル」
への執着心です。
(しかも最近は若い頃と違ってある程度の柔軟性もある)
シンプルに向かう技術なら少々厳しくても高価でも
積極的に採用する。
それに向かわなければ、少々意味があっても、
かたくなに使わない。

一番のいい例がマウスのスクロールホイールだと思います。
ご存じの通りWindowsユーザーにとっては
もはやあれ無しの生活など考えられないですが、
いまだにMacにはついてない。
では、じゃあMac使いにくいかというと、
そんなには使いにくくもない。

で、自分のスクロールホイールの使い方を
よく見てみれば、ほぼブラウザでweb見る時しか使ってない。
テキストとかは(ぼくは)矢印キーが好きで、
あれをポツポツ叩きながら一行スクロールさせてます。

確かにwebブラウジングは現在のPCで非常に大切な
用途ですが、そのためだけにああいう機械可動部分が
(つまり故障や寿命の要因となりうる)
必要なのかどうか。
これは、「便利さ」と「それ以外」の天秤です。
Microsoftは常に天秤の左の落とします。
Appleは、そうとは限らない。

現代文明というのは、Microsoftであって、
常に左を落としてきました。
すべてをかなぐり捨てて「この時こう便利」ということに、
血眼になって走ってきました。
で、実際大変幸せになったのですが、
弊害も、たくさんある。

そんな時に必要なのは、やっぱりAppleというかジョブス
みたいな変人であって、
「いやいや、それだけじゃないよ」
と、言うだけではなくやってみせる、
そしてまたそれを認めるちょっと変人が集まって、
「そうだそのとおりだそれだけじゃない」
奇声を気勢をあげる。
そうすると、Microsoftつまりわれわれ凡人も、
「あー……確かにそうかも……」
と考え直すことができる。

結局、みんなで幸せになれる。

そして、「それだけじゃないよ」という時に、
ジョブス先生が判断基準にしているのが、
「シンプル」ってところじゃないかな、と思うのです。
CDがスロットインで吸い込まれるところになんて、
機能上はなんの意味もない。
でも考えてみれば、
トレイを開けるボタンを探して、
押して、半分出てきたトレイを引っ張り出して、
ラッチにCDをはめて、押し込みなおす、
そのすべてが省略されている。
それを「優れている」とする。
そのために、高価であったり重量増があったり
ドライブベンダーの数が限られたり
引き込まれてから故障が起きるとものすごく困ったりしても。
もちろん別の考え方があってもよく、
そこに良し悪しは無いと思いますが、
しかし、そういう軸になる「考え方」の有無というものは、
厳然として存在する。

PanasonicのモバイルPCもまたまったく違うスタイルで
魅力的ですが、彼らもまた「軽量」「長時間駆動」
最近は「タフ」という点にピシッとフォーカスして、
他のすべてを捨ててるからこそ(ここ重要)
スカッと魅力が伝わってるんだと思います。

そういう、軸になる考え方、
つまり「コンセプト」なんてよく言われますが、
は、非常に大切で、
自分にあったそれを持つ、
そしてそれを通す、
ということが、幸せ計画第一歩じゃないかなあ、
と思ったり。

まあ、ノーコンセプト・是々非々でずっと押す、
というのもひとつのコンセプトですが。

そんな中でも、ジョブス先生がお使いになってる
「シンプル」は、
とても強力で普遍的だと思います。
真似たいところですが……
センス要りますねえ。
ジョブス先生を真似て前頭部を薄くしてみてるのですが……

形而上の話は別にして、
1年後魅力的なPowerBookが出てくるのを大期待。
後できればOSも、古いPCでも動くようなものだと嬉しいです。



 6/7 胡瓜は水

キューカンバーがね、とれたんですよ。

昨秋の台風禍から始まった我が家の庭の畑化計画
ですが、夏手前に来ていよいよナス・キュウリの収穫です。

忘れていましたが、とれたては実にみずみずしい。
胡「瓜」って書くだけあって、
やっぱりそのまま水分補給に使えるほど、水っぽいのです。
そこにあのなんともいえない青い香りがのって、
シャキシャキの歯ごたえ。
金山寺味噌をつけていただきましたが、
そのままでも美味しかったです。
ナスも漬物にすると実がフワッとして皮あくまで硬く、
いい塩梅でした。

そうそう、本当に美味い胡瓜って、
畑でネコが囓るらしいですよ。
たぶん、水分補給してるんだと思う。
ネコって実に美味いモノよく知ってて、
法事の粗供養などでお馴染み「レスポワール」の
薄焼きクッキーあるじゃないですか。
あれとかちぎってやるとちゃんと食べるんです。
もちろんそこいらのスナック菓子など見向きもしない。

あれ見るとわたしゃネコも喰わんものを喰っとるのか、
と暗澹たる気持ちになりますが、
いやいや、ネコにはこの美味さわかるまい、
などと自らを慰める。

こないだTV観てますと、
「電磁冷凍」
っていう新しい技術があるらしいですよ。
理屈としては電子レンジの逆。
磁場をかけることで電子の動きを止めちゃうみたいです。
これが凄いらしくて、高級割烹が採用したり、
一番新鮮な魚を知ってる漁師さんが、
6ヶ月(!)冷凍した魚を試食して
「これは美味い」と太鼓判。
今まだ業務用大型システムしかないようですが、
これが家庭で使える技術になると、
すべからく食品は冷凍になっちゃうのかもしれませんなあ。

でもやっぱり、ちょっと信仰がかっちゃいますが、
「今成ってるそれをもいで喰う」
というアクションを通じて、
生命のエネルギーが食物からこちらへ渡って
くるような感じはします。
そのエネルギーを隅々まで引き出すような調理・加工なら
まだしも、行きすぎたそれは、
入ってくるエネルギーを減らし、
結局栄養価だけ取ってなお本能が飢餓、
という非常によろしくない飽食状態に陥ってしまう……かも。

明治のある時期までの日本人は非常に粗食ですが、
(日本人に限らず近代までは庶民はどこも粗食だったと
 思われます)
それでも元気ハツラツであり、ちぇすとー言うて
明治維新起こしたわけで、
エネルギーってのは、「摂り方」もあるよなあ、と思います。

一時小食粗食だったのですが、
最近また欲望にまかせて御飯をおかわりしています。
いかんいかん、とみずみずしい胡瓜を囓りつつ。

……こんなことをいかんいかんと思えるのは、
あまりにもおめでたい苦悩ですね。



 6/6 フツウ?

今日の話は全然自分でもまとまってないのですが、
言いながら何か出てくるんじゃないかと思って。

「フツウ」ってなんでしょうね。

ぼく最近よく思うのが、
「フツウ」のことを「フツウ」にやる、っていうのが、
実は最強なんではないでしょうかね。

若い女の子の姿を見ても、わざわざ珍奇な格好をして
「若い女の子である」という最高無比の魅力を、
わざわざスポイルしてますよね。
男の子も同様、制服っていうのは、いじらずに
そのままピシッと着こなすのが一番かっこいいんです。
君達が思ってるような、太いの細いの、腰で履く、
ボタン外す、全部ブザマです。
そういうファッションがダメだ、っていうんじゃなくって、
そういう着こなしが合う服は別に存在してて、
制服はそれには合わん、っていうだけですけど。

でね、つまり、それは、ダサイんですよ。
やれもせんことを間違ってやってるから、ダメです。
「ここにおいてカッコイイとはどういうことか」
を真摯に詰めないと。

じゃどうして若者に限らず、あるいは服装に限らず、
多くの人が「フツウ」から外れたことをして、
喜んでいるのでしょう。

一つには、
知らない。
スタンダードとはなにか。
実は、幅広く知識経験があってはじめてセンター、フツウ、
スタンダードが見えてくる。
そもそも知らないから、できない。

二つ目には、
差別化を図りたい。
要するに、先ほどの例ですと、なぜおしゃれ
(だと本人が思いこんでいること)をするかと言えば、
それは絶対的にカッコよく(かわいく)なるというよりも、
友人間(自分のちいさなコミュニティ)で
相対的にカッコよく(かわいく)なりたい、
わけです。
ここにおいてベクトルは、絶対的な美や真ではなくて、
相対的に、アイツよりも、アレよりも、美や真になる。
もちろんそれで合ってることもありますが、
過ぎたるは及ばざるがごとし、恐竜化が進む。
「胸は大きければ大きい方がいい」という
超おっぱい星人でも、やっぱり2m超えてたりすると
しんどいと思うのですが、それがいいと言い出す。

三つ目には、つまり、
フツウには王道(近道)が無く、しんどい。
たとえば読書術。
そんなもな無いんですって。
いーっぱいいろーんな本読んではじめて、
自分に向いてる本とか、自分なりの一冊の捉え方が
育まれる。
その過程抜きに有名人のそれを真似ても、
効果は無いに等しい。
(もちろん参考にはなりますが)
ファッションの例で言えば、
「カッコイイとは何だろう?」と考えたり、
特に日本ではそれを果敢に単独で実行することの
コストが非常に高い。
しんどいわけです。
だから、やらない、または、やれない。

こんなもんですかねえ。

あ、あと「フツウ」というのは先人達が知恵と経験で
築き上げてきたものだから、
若いうちはただそれだけで反発の対象になる、
というのはありますな。
「俺はお仕着せの規則なんて守らねえぜ!」
だったら高校来るなバカ。
マグロ漁船乗って働け。

ああ、おっちゃんもバカやった。
そう思ってた。

ただそれは若者の特権で、
でも、若者だけじゃない、っていうのが今の主旨です。

つまりやっぱりみんな、
楽したいんですかねえ。

そしてそれは決して悪いことではなく、
それがあるから科学は進歩するのです。
食器なんか手で洗ったらええやん、と言っていれば、
食器洗い機は生まれない。
手紙で良いのだ、と言っていれば携帯は生まれないし、
寒ければ服を重ねろ、では暖房は生まれない。

事実日本はそういう文化だったから、
暖房器具と冬期の家の構造が文字通り致命的に
性能が低い。
日本文化っていうのはどこに出しても恥ずかしくない
素晴らしい文化だと思ってますが、
ここは明らかにダメです。
寒暖差が激しすぎてシステムを暑い方に合わせると
どうしても寒い方は人間の工夫でなんとかする方向に
なる、というのはわかりますが、
それはかなりエクスキューズくさい。
だってモンゴルのゲルとかもっと条件厳しいじゃん。
やっぱり、手を抜いてたわけですよ。
まあ、大英帝国だってメシはとことん手を抜いてるわけで、
全部が全部完璧ってわけにゃいきませんわな。

そう思えば前述の1、2、3、いずれも現代日本の
特徴であり、それがゆえに細かい電化製品の
細かい進化という意味では相変わらず世界最強
なのかなあ、と思ったりもします。
GPSとネットが連動してカメラ撮れて音楽聴ける携帯の、
キーは豆粒で押しにくい。
「フツウの(つまり電話を掛けやすい)
 携帯をくれよ!!」
という声は、ここでは、メーカーもキャリアもユーザーも
聞きたくもない声なのですな。

うーむ。

街で「フツウの定食」を食うのがどれほど大変なことか、
サラリーマン諸氏はご存じだと思いますが、
なんでこれだけ外食産業があって、
これだけ知識と技術と物流があって、
フツウの昼食をフツウに食べることができないんでしょうね。
しかしそれもこれも、
携帯にGPSがついて音楽プレーヤになって300万画素AF
カメラがつくために、いたしかたないことなのかも、
しれませんなあ。

逆に言うとね。

ここっていうのが、実はすっげえビジネスチャンスで、
フツウのことをフツウにやると、
信じられないぐらいウケる。
そして、それをやってる人は、ニヤリ笑いつつ、
「いや、特別なことはしてませんよ」
と言う。
それは本音なんです。秘密なんかどこにもない。
秘訣がない、っていうのが、秘訣です。

しかし、フツウのことをフツウにやるのは、
楽でもなければ簡単でもない。
むしろ、表に出ない地味な仕事を、コツコツ積み重ねば
出てこない、そういう性質を持っています。
成功してる人ほど口が軽いのは、
やり方そのものはシンプルだけど、
それをやるのが大変なのですよ、
というところだと思います。

そして、そういうのを見たり聞いたり読んだりして、
われわれボンクラはまた貢いでるわけですわ。
悔しいですな。

つまり今日言いたかったのは、
制服はピシッと着て背筋伸ばして歩け。
それが一番カッコイイから。



 6/5 経験は判断の母

まあ聞いてくださいよ、またFFの話なんですけどね。
3年越しの恋を実らせ、先日ついに
「太公望の竿」
を手に入れたんです。

FFの釣りは「太公望持ち」と「それ以外」に分けられるほど
その竿の性能は高く、持ち主は絶賛します。

釣りやってますと、
「逃げられる」「糸が切れて疑似餌持っていかれる」
ということが起きますが、これがほとんど無いらしい。
しかしこれ、その性能に応じて入手難易度が異常に高く
(掘フナという1時間にMax4ダース程度しか釣れない魚を
 10000匹持ってこい、というクエスト)
なっかなか手に入らない。
それでも3年も経ちますと、プレイヤーの解約その他
でしょうか、最近は競売に常に1-2本出品されており、
「金さえ出せば手に入る」ようになったのです。
で、300万(日本円にして約3000万)
頑張って貯めて買いました。

これがねえ、あーた。
すさまじい性能。

あのね、どのぐらい違うかって言うと、
ISDNとADSLぐらい。

あたしね。
そこまでは違うまい、と思ってたんですよ。
高スキル魚がちょっと釣れるようになったり、
ほとんど折れないからストレスが無かったり、
そんな程度だと思ってた。
でも、ま、
「釣り人の憧れだから、欲しい」
そんな程度に考えてました。

ああもう、その頃の自分に戻って
「目を覚ませーーーー!」
と頬をパンパン張ってやりたい。
もうね、複合竿(という竿を使ってました)を使って
釣りをするなど、「人生の時間の浪費」です。
(細かいツッコミは却下)

それでね。
痛感したんですよ。
体験しないと、なにもわからない、って。

B-29にね、竹槍で向かっていったでしょ。
あれね、今の世から冷静に見ればね、
「なにを馬鹿な」
ですけどね、
「案外いけるんちゃうか?」
とか思ってた人も結構いると思いますよ。
それは極端だとしても、ピカピカのP-51マスタングに
モデル末期の零戦で立ち向かっていったじゃないですか。
あれねえ、マスタング一度でも乗ってたら、
「ムリ」って言い出す人も多かったと思う。

「食器洗い機」普及の最大の障害は
「体験したことがない」だと思います。
買った人みんながみんな口を揃えて
「もう手放せない!」って絶叫するの。
その雄叫びを聞いてなおかつ、人は買わない。
体験してる人は、トータルで、全人的に
評価を下すわけですよ。
炊事場で邪魔、水は節約できても電気代はかかる、
専用洗剤が高い、セットが面倒、汚れ落ち不安。
ね、そんなものは買った人だって買う前は同じなわけです。
しかし経験ののち、
さまざまなマイナスとさまざまなプラスを感じたうえで、
結局のところ大きくプラスだから、
「うむ! 合格点!」
を出してるわけです。

それでなお、聞かない。

言いたいのは、だから愚かだ、とかではなくて、
つまり、ひとというのは、
聞いた話なんか、聞いちゃいないも同然なんです。
経験しないと。
ひとの認識システムなんて、
めっちゃくっちゃプリミティブなんです。

逆に言うと、
経験さえあれば、一発で把握しちゃうんです。
どんな理屈もデータも要らない。
(そして危ないことに、世の中には、
 そういう人間の本能を巧く利用して、
 騙したり利用したりする悪人どももたくさん居る)

アメリカと戦争しようなんて、
今の人々には「気違いか」としか思えない所業ですが、
それは我々が、アメリカ本国に行かずとも、
アメリカ的なモノをさまざまに経験して、
彼の国の底力を思い知ってるからであって、
当時の人々にしてみれば、
「豊かだとは聞くけども、
 まあウチの田舎の庄屋さんぐらいの豊かさだろう」
とかその程度にたかをくくっていたような気が、
してならないんです。

そのことについて後世の我々はなんとでも言えますので、
善悪とか賢愚を問うているのではなく、
つまり、我々は知っている、彼らは知らなかった。
そして、今の我々も、彼らと同じように、
知ってるようで全く知らないことだらけである、
それが、言いたいのです。

太公望握りしめてそんなことを痛感して、
涙しました。
われわれは本当に愚かです。
経験した人々の素直な声を、よく聞かないと。



 6/4 機会損失

どうにも馴染めない考え方の一つに、
「機会損失」
というヤツがあります。
たとえばコンビニのお弁当、簡単に言えば
「足りなくなるぐらいなら余らせて捨てろ」式で、
商売のチャンスをロスすることをまず怖れる。

ここまではまあ、わからんでもない。
わからなくなるのは、それを会計的に、
企業の方針を決める計画上、
マイナスに数値化してしまうところからです。
例えば、お弁当を10個仕入れて
早めに完売してしまった場合、利益を、
・単価×10個
ではなく、
・単価×10個−機会損失分(数個分?)
と考える。

FFをやっててよかったなあ、と思うのが、
こうした商売上の様々な動きを、肌で感じることが
できたことで、例を挙げましょう。
Aさんが、5000Gの材料を競売から買って、
15000Gの売り物を作って、それが売れて、
10000Gの儲けを得ました。

ところが、この材料は、1時間外へ狩りに行けば
手に入ります。
Bさんは1時間かけてそれを揃えて、作って売って、
つまり15000Gまるまる儲けました。

で、話がややこしくなるのは、実はAさんもBさんも、
1時間働けば、いろんな労働をして、
10000Gの収入が見込めるのです。
Bさんは、この機会を損失した。すると、
Aさんの儲けは、10000Gそのまま。
Bさんの儲けは、15000−10000G、つまり5000G。
よって、Aさんの方がエライ。
そういう考え方です。

これ、やってみればわかりますが、
肌感覚として儲けてるのはもう圧倒的にBさんなんです。
現ナマが・ナウ・5000G多い
っていう確固たる現実と手触りには、
どんな理屈も通用しない。

簡単なことで、Aさんの方がエライと言うには、
AさんがBさん同様その1時間を使って
別の10000Gを稼ぎ出し、手持ち20000Gにすればいい。
そうなれば、もう文句なくエライんです。
金銭面ではね。

「機会損失」とは、厳密に言えば、
「全く同条件で」こうだったなら、これだけ儲かったはず、
という数字が誰の眼にも合理的に弾き出されて、
はじめて説得力を持ちます。
「よその店じゃ多めに仕入れてほら儲かった」
なんかじゃ全然ダメで、人の流れもモノの売れ方も、
一店舗一店舗違う。
もちろんおおよその予測はつくと思いますが、
あくまで予測であって現実ではない以上、
それを過大に評価するのは危険です。

加えて、「気持ち」の問題もあります。
たとえばAさんBさん共に「鍛冶職人」を任じているのなら、
素材集めるより製品作りに邁進した方がいいでしょう。
でも、
「ウチのは素材から山奥に切り出しに行ってね!」
という付加価値にコダワリがあるのなら、
競売でできあいを買うより、素材を取りに行った方が
本人もお客さんも満足できるはずです。
そこのところの「気持ちの割合」は、ひとそれぞれ違う。

もちろん経済活動であるからには収益と利益率は
大切なものですが、そればかりに偏ると、
最後には「土地を転がせ」という話になって、
みんなで滅びる。

ただでさえ、情報やサービス、つまり「モノではない」
ものの経済に占める割合が大きくなってきて、
あるいはそれどころか、お金そのものや、
企業価値そのものを
「なんぼや」
と言い出す時代です。
単なる予測を判断にあまり過大に入れてしまうと、
いろんなものを見失う気が、するんです。

時代としては、モノそのもの、カネそのものよりも、
「あっ、また唐揚げ弁当売り切れてる!
 くそ、明日はダッシュで来て絶対食ってやる!」
という「経験」こそが、価値のある時代になってきた、
と感じます。
そうしてようやくありついた唐揚げ弁当は、
当たり前のように食べられる唐揚げ弁当より、
「美味いような気がする」。
この、「気がする」のところこそが、
ムッチャ大事な「気がする」んです。

というかその、「気がする」っていうのを、
みんな必死でなんとか作り出そうとしてるような
気がしますね。

幻のキノコだったマイタケが量産できるようになって
しまって、もう誰も舞わないわけです。
ああもっと言えばバナナですかね。
我々の父母の世代は未だに
「こんなに美味いモノが世の中にあるのかと思った」
と言いますよね。
そりゃ栄養不足の時代に一年に一本あれ食べりゃ
べらぼうに美味く感じますわ。

数字、っていうのは冷厳であるべきで、
それを見て、
「いやそれでも俺はこれをやる!」
「あー、やっぱりこっちの方がいいか……」
と判断してもらうもんじゃないでしょうか。
その数字に色や味がついてると、
判断が変な風になってしまう。

人間というのは本当によくできたもので、
それでもFFでは、多くの人がうまく自分の落としどころを
見つけて、適当に金策してます。
得意不得意はあって、ぼくも金策は現実同様
非常に苦手なのですが、
それでも、まあ、なんとかしてます。

企業がなんともならなくなるのは、
この肌感覚を忘れたところから始まるのでは
ないでしょうか。



 6/3 新陳代謝

「4世紀にもう全部出てる」
と言ったのは吉本隆明さんだが、
「徒然草」を読むと全くその通りで、
「今でも通用する」どころか、
今のことを描いてあるのではないかとさえ疑う。
いやむしろ、変な人物の変度合いや
風流人の粋な言動は今などというぺちゃつい時代より
はるかにバラエティに富み自由闊達で、おもしろい。
芋が好きで遺産全部を芋にして食べた和尚とか。

まあ現代にも似たような人は居なくもないのだろうけれど。

「片づけ論」みたいなものを手慰みに書いていて、
つまり肝は、人間のからだと同じ、
「モノを適切に新陳代謝させること」
だと思った。
買うなというのは卑屈であるし、
やはり買い物はそれ自体でさえ楽しい。
ではなく、買ったら、空気や血のように目の前を通り過ぎて、
去らしめる。そしてまた買う、手に入れる。
適切なサイクルで、適切な量がくるくる回る、細胞のように。

究極の姿が古い日本の建築物で、特に茶室だ。
なにもない空間で、
茶と、(生きることに必要な栄養と水)
華と掛け軸と茶器と、(自然と文化)
そして人間だけが新陳代謝する。

かように高度に抽象化して人間生活の真髄「のみ」を
表しめ、それを体験させることで
精神のリフレッシュを目論む、
これを確立した茶人達を天才と呼ばずしてなんと呼ぼう。
もちろんそれを受け入れ認め続けてきた、
先輩日本人の方々も素晴らしい。

いや、よその文化にも似たものがあるかもしれません。
インドとかだともっと厳しいのがありそうですが。
ああ、アメリカ人のアウトドア志向って、精神的には、
これのもっとゆるいもの、かもしれませんね。

「削ぎ落とせば、結局なんだ」
というところ。

そしてポイントは、「結局」だけではなく、
その結局の回りを、空気が清流が血が巡っている、
ってところです。
それこそが生の喜びで、
あんまり「結局」って話をしすぎると、
「結局死ぬやん」っていう大矛盾にすぐ行きつく。
あんこと皮と、揃ってまんじゅう。
両方あるから、美味しいね。

屋上屋ですが、人間の精神もまったくそうで、
変わらない「結局」ひとつと、
その回りで流れゆく喜怒哀楽、
まとめて、生きてる、ってことじゃないかな。



 6/2 飽きない

そうは言っても、楽しんではいる。

昨日言ったことと矛盾するようだが、根は同じで、
ずいぶん考え方がシンプルになってきた。

極端な話をする。
ものを見る時に、軸を一つ決めて、それで切ると、
非常にわかりやすい。
たとえば、冷めつつあるライブドア騒動。
堀江社長を、いやビジネスマンを、
「お金を儲けるもの」
と定義すれば、あんな天才錬金術師は無い。
資金すら経済マフィアみたいな連中に出させ、
口八丁手八丁で何百億の現ナマを稼ぎ出して
みせたわけで、作る作ると言いながら結局は何も
作れなかった本物の錬金術師達よりもよほど凄い。
しかし。ビジネスを、
「なにかの社会的目標を達成するための活動」
と捉えてみれば、
あんな何も生まない話はなく、
とりわけニッポン放送やフジテレビで実際に
なにかを作っている人々に取ってみれば天災以外の
なにものでもない。

天才であるか天災であるかの評価は、
この一点で決まる。

もちろん、人間というものはそんな簡単なものではなく、
ビジネスの例にしても、
「儲けたい」が何割か、「こんなことをしたい」が何割か、
それが普通だ。
だもので、もしそれが7:3の人に取ってみれば、
堀江社長は7割天才3割天災となる。

ともあれ、どこに軸を置くか、それがポイントで、
それはできれば、主軸一本で置くと、
非常に考え方が鮮明にシンプルになる。
そしてそういうものの見方、ものの考え方は、
おおよそ堅牢で、わかりやすく、外乱に負けず、つまり、
強い。
強い考えに基づいて粛々と行動すると、結果も、
おおよそ、強い。
そしてそれは、これもおおよそであるが、美しい。

どんなスポーツにもたまに「守り勝つ」チームが現れ、
常に華々しい攻撃が好まれる現代剣闘士の世界において
批判を浴びる。
しかし、そんなチームもよく見れば惚れ惚れするほど
美しいものである。
「勝つ」ことに軸をしっかり置きまたそれが成功している
からで、「守る」のはその手段に過ぎないからだ。
そういうチームは、攻めることが勝つことにつながる
状況が現れれば、即座に攻めるチームに生まれ変わる。

ものの見方のセンターライン、
すべてを叩き斬る真剣一本、
これがあると、大変に便利でかつ、有効である。

---

……5月末からブツブツ言っておりますように、
ぼくの場合、ものを描くことに置いては、(今のところ)
「人はいかに生きるか」
だなあ、とはっきりその真剣が姿を見せてくれたので、
「あ、なるほど、これで斬ればいいのか」
と振り回しているところです。
今までは、どう斬っていいかわからなかったので、
手当たり次第にいろんな道具を用いて、
いろいろな風に切っていたのを、
「これ」と切る道具が決まれば、切り方も自ずと決まる。
しかも、切る対象は、たいていなんでも切れる。
手刀でコンニャク切って「切れない」って
泣いたりすることはなくなる。
チェーンソーでさくらんぼ割るようなバカもしなくなる。
そんな感じです。
だもので、楽しいのですよ。

まあまた、別の道具が欲しくなったり、
するのかもしれませんけども、今のところは。

ただ、そういう風に決めてかかると、
よせばいいのに生きることに応用してしまうと、
これがまたずいぶん簡単になりすぎる。
自分内議論の余地が無くなって、
「あ、これはこうだね」
と即判断がくだってしまうので、
これはこれで、つまらないものです。

それはまだ新しいことにどんどん触れていけば
なんとかなるかもしれませんが、
油断すると他人にまでそれを求めてしまいます。
元来がそういうタチで、「どっちやねん!」と
すぐ迫る方ですから、それがますますひどくなる。
気をつけねば、と思っています。

そういう人物は、「凄み」みたいなのは
出るかもしれませんが、
愛嬌が無くなると思うんです。
人間というのは、悩んでこそ迷ってこそ人間であって。

自分自身を奥底まで掘り下げて、
正確ではないにせよ「自分とは」を究める作業は、
いずれ「あの人は」そして「人間とは」につながるような
気がします。
だもので、あまり飽きず、やってます。



 6/1 飽きる

いろんなことに、飽きが来ている。

最近酷く感情がフラットになる時間が長くて、困っていた。
もともと躁鬱の気がちょっぴりあって、
鬱方向では何をする気も起きないのだが、
それとはまた違って、ずいぶん平たい、
自身がコンニャクにでもなったような気分の時がある。
実害はあまりない。
鬱方向と違って身体への影響は小さく、
思考や手作業その他への影響も小さい。
ただ、不気味である。

なんだろう、なんだろう、と考えてハタ、と気づいた。
飽きてるのである。

同じ生活を、2年続けてることになる。
起きて散歩に行き、コツコツとモノを書き、
あれやこれやと話のネタを繰り、
興が乗れば本を読んでゲームしてサッカー観て、寝る。
刺激は、各々の要素の中からすこしずつあるのだが、
生活を直撃するような大規模な刺激はない。
たぶん、その同じ生活自体に飽きが来ているのだろう。
贅沢な話ではあるが、だってそうなんだから仕方がない。

……なんてことを思っていると、
「ほぼ日」で糸井さんが、百年一日の如く
同じ料理を同じように作っている料理店のスタッフの
老け込みが早いことを例示しつつ、
「『飽きる』からこそ新しいことへ挑戦しようと言う気になる。
 『飽きる』ことは素晴らしい能力だ!」
と書いていた。
それはそうかも、と膝を叩いた。
(もちろん、同じことをやり続ける中にも、
 チャレンジの芽・創造性の芽は多く潜んでいると思うが、
 老け込み料理店の皆さんは、残念ながら
 そこに気づいておられないのだろう)

つまりぼくは、書くものに対してののめり込み度が
すくなすぎて、「新しいネタを書いている」という刺激が、
小刺激の段階で留まっている。
これがいいことなのかあまりよろしくないことなのかまでは
わからない。
「平常心」といいようにも言えるし、
「情熱不足」と言われても二の句が継げない。
ただ、そうである。

そう思ってみれば、日常生活で、
嫁(旦那)を貰って家庭を築いていくというのは、
(隣の芝生かもしれないが)
「飽きが来ない」という点では非常に優れている。
子供でもできればさらにめっけもので、
年々次々にイベントが巻き起こって、
飽きている暇など無い。
それがまた孫でもこさえればもう一生
「飽かずのパスポート」を握りしめたようなものである。

なるほど、人間生活というのは良くできている。

……まあ、今そうではない2点をあげつらねて
「そーか、だから俺は飽きてるのか」
などと言っていても始まらず、
「飽きない方法」をいろいろ模索したい。

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どんなに優れたモノでも飽きは来る。
マンチェスター・ユナイテッドがベッカムを放り出してから
調子が今ひとつだが、あれはつまり、
ファーガソン体制そのものについて当事者達も周囲も
飽きが来ているのではないだろうか。
日本でもすこし前に、今にして冷静に考えれば
なんのヴィジョンもない連立政権が立って壊れた。
(いま時の首相は陶芸家になっておられるらしい)
あれも要するに「自民党に飽きていた」
だけのことだったのかもしれない。
もっと言えば、ローマだって滅んだのだ。

さらに優秀なモノとは、
飽きが来ないように変化・進化していくモノなのだろう。
血が絶えず循環し、見たこともない新しい個性と要素が
湧き出て、波はあれど続いていく。

というよりも、それこそが「生きている」ということであって、
その循環・再生・成長のサイクルを手放した時
(手放さざるを得なくなった時)が、
滅びの時である。

観念的な話をすれば、
「進化すること自体にも飽きる」
などと言い放つことも出来るが、
そんな大事には、人間100年では足りないだろう。
机上の空論もしくは思い上がりにすぎない。

……と、こんなことを書いていると、やっぱり、
自分の言いたいことの浅さと言い方のまずさに
ゲンナリする。
ちくしょ〜、もっとうまく言いたい。
しかし、この気持ちがあるうちは、
だいじょうぶに違いない。

……ということは、
一生この気持ちとつきあって行かざるを得ず、
つまり、人というのは、一生、
「俺はダメだなあ」
と思い続けるか、
「飽きた」
と言って死ぬか、二つに一つである。
いや、二択のようでいて、選択肢はない。

人間とは、なんともの哀しくも可憐なものだろう。




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