■ ほえなが ■

知者不言、言者不知。 (老子)

 7/31 今月の反省点

まずは7/1から7/31までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)

■本■

 「木のいのち木のこころ 地」 小川三夫 (新潮OH!文庫)

 「司馬遼太郎が考えたこと 8」 司馬遼太郎 (新潮文庫)

 「自助論」 スマイルズ (知的生きかた文庫)

 「ゴッホ ──燃え上がる色彩」 パスカル・ボナフー (創元社)

■ 「クルマの神様」 NAVI9月号増刊 (二玄社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 8 沖縄・先島への道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 11 越前の諸道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 12 本郷界隈」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 13 肥薩のみち」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 14 大徳寺散歩 嵯峨散歩」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 15 佐渡のみち 潟のみち」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 16 奈良散歩」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 19 信州佐久平みち」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 21 北海道の諸道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 22 竹内街道 葛城みち」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 23 叡山の諸道 甲賀と伊賀のみち」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 24 北のまほろば 陸奥のみち」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 25 播州揖保川・室津みち 神戸散歩」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 26 島原・天草の諸道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 27 種子島みち」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 28 中国・江南のみち」 (朝日新聞社)

■CD■

 「With Love」 藤村麻紀 (cool aid!)

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「クルマの神様」はM澤先輩に教えてもらったのですが、
福野礼一郎がいよいよ「オレ雑誌」を作ります。
この本が売れて月刊になって欲しいなあ……
フェラーリを通販で買う話、非常におもしろいです。

「木のいのち──」は今度三冊合本が出るようです。
こちら。そちらの方がよろしいかと。
小川さんは西岡さんと違ってもうちょっと視点が低いので
(もちろん誉め言葉)読みやすく、別種のおもしろさです。

「司馬遼太郎の──」はいつもどおり。
この辺から歴史・紀行に主題が集中してきて、
ファンにはたまらないと思いますが、
もう少し若い頃にある微妙な可愛げが減ってきます。
どちらがイイワルイではないのですが、そんな感じ。

「自助論」は明治の若人達を熱狂させた本ですから
読んでみようと思い。
要するに「がんばれがんばれもひとつがんばれ」。
「がんばった先に何があるのか」という
現代の問いにはまるで答えてくれません。
20世紀向け、いや現代でも中高生ならば。
しかしそれでも一応は古典なんですから、
ロクな文庫がないというのはいかがなものか。

「ゴッホ──」は展覧会で衝動買い。
作品、人生、書簡、環境、バランスよく小気味よく
まとめられておりゴッホ入門に最適では。

で、「週刊 街道をゆく」がやっと追いつきました。
毎週ってやっぱりキツイねー、精神的に。
でもつきあいますとも最後まで!
海外編10冊の追加も決まって、後半戦突入です。

来月は……うーん……
特にノーコンセプトでまいります。
今読んでる本もどれも面白いので、
またご紹介できますれば。

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今月のまとめ。

「自分らしく」なんて言いますが、
自分を一番知らないのはたいてい自分です。
だから、「自分らしく」っていうのは
非常に高度なことであって、
よく成功したミュージシャンや芸術家が
天使のように微笑みながら
「あなたらしく生きればいいのよ」
などと言うのですが、そしてそれは間違いないのですが、
それこそがべらぼうに大変。

だから、そこんところをガンバルのですよ。
血反吐を吐きながら。

子供の頃にクレヨンを渡されて
「なんでも好きなものを好きなように描いていいわよ」
というのは考えてみれば酷い話で、
そんなこと言われたって、
まず根本的に好きなものが何かわからないから
何描いていいかまず困るし、
技術ゼロだから線一本引くのでも四苦八苦、
色一つ選ぶのでも数分悩む。

つまり、好きなものを、好きなように描くためには、
自分の好きなものを知り(あるいは感じ)、
描くための力(経験)を複数所有(もしくは知っている)
することが必要なんです。
そしてそこのところは、要するに
経験の多寡、情報量の多寡、
思索と仮説と試行錯誤の多寡だけで
勝負が決まりますから、それを延々着々とやる他はない。
ま、つまりがんばるってヤツです。
その努力を重ねる時のベクトルは、
あくまでも自分向きであって、
自分が気持ちいい、心地いい、やりやすい、
ナチュラルであること、
が、好きなものを好きなように描ける、
ための前提なんだろうなあ、
と思いました。

がんばらないと、やっぱ人生はつまらんのです。
がんばらんという選択肢は、ない。

「がんばる」ためには、目的と方法論と方向が大切です。
どれ一点に無理があっても、長続きしないし、辛い。
それをまとめるのは、実は逆転の発想で、
(多少詭弁くさいですが)
「がんばれる」目的と方法と方向はどこか、
これをよくよく見極めるのがいいんじゃないでしょうか。

で、それってひとそれぞれ違うので、
自分のそれを、自分をみつつ、
そして人に社会に自然にも教えてもらいつつ、
(これがないとどうしても暴走がち)
反省と修正を注意深く執念深くやる、
そのくり返しじゃないですかね。
それは人から見れば努力なんでしょうが、
でも本人にしてみれば、大変だけど楽しい。
ちょうどハマったゲームを不眠不休でやるような感じ。

私事ですがそれに気づいてから、
それっぽくやろうと試みた月でした。
まだまだ慣れてないので、見失ったり
うまくいかなかったりストレスが溜まったり
いろいろしましたが、
でも当たってる時はまずまずな感じ。
なによりもそうするとようやく、
「ああなんか書くって楽しいなあ」
というのが戻ってきました。
本人的には、これがいちばん嬉しい。
そして、そういうやり方が、いちばん。
自分が楽しいやり方が。
正しいとか好きとか向き不向きとか効率とか
全部どうでもよくって、そうじゃなきゃ。

苦悩してんですよこう見えても!(笑)

自分も楽しみつつ、人も楽しませつつ。



 7/30 ナチュラル

「ナチュラル」にこだわってるよ〜。

スポーツ映画問わず名監督と呼ばれる人には、
エキセントリックな性格の持ち主が多いのですが、
つまりそれは、ナチュラルなんじゃないでしょうかね。

ナチュラルであると、それが多少デコボコトゲトゲしてても、
信頼できるのです。
「これをやったらあの人は怒る」
「これをやればあの人は納得する」
そこのところがハッキリしてると、「これ」がどうであれ、
動きやすいじゃないですか。

リーダーって言うと、またちょっと違って、
「与えられている集団をまとめねばならない」
という要素が加わるので、そんなバクチみたいなこと
言ってられませんから、人格、人間性までも
磨き込まねばならないのかもしれませんが、
監督の場合、プロデューサーやオーナーやGMが
そこのところを補佐しますから、
むしろ生、ヴィヴィッドな方がいいんでしょうね。
それを含めて我々は楽しませて貰ってますしね。
ファーガソンvsヴェンゲルなど、もはやしゃべくり漫才の
世界です。

もうすこし拡げて言えば、
たとえ「悪」と呼ばれることをしていても、
そういう鮮烈にナチュラルであった人というのは、
どうしても魅力的です。
土方歳三や織田信長は、冷静に考えれば
完全に狂人なんですけど、でも後世、好き嫌いは別にして、
「できるやつ」と誰しも一目置いてしまいます。
ただの犯罪者と彼らを分かつものはなにか、
と考えますと、なかなか答えはでにくいのですが、
社会性というか、「志」というか、
それの有り無しかもしれません。
あるいは、それは誰しもあって、ただその時の
社会情勢に受け入れられた・られなかった、
という運不運だけの問題かもしれません。
ナポレオンや豊臣秀吉や毛沢東のように、
当人のナチュラルに変化が無くとも
とりまく環境が変化して、
ある時期は英雄ある時期はボケ老人、
という例を見ていると、
人間長生きするのもどうかな、と思っちゃいますね。

ただ、善人であれ悪人であれ、そういう自然人、
自分のめいっぱいを出し切った人々、
そういう人々から教えられることは多くて、
勇気づけられることも多くて、
つまりカッコよくて、
だから好んで描かれるのだと思います。
ぼくは悪人を描くのがヘタクソなのですが、
そういうタッチでいけばなんとか描けるんじゃないかなあ、
などと思ってみたり、します。

カッコイイというのは、善でも悪でもなく、
ナチュラルであること、なのではないかな。



 7/29 ファクト&エア

今日はそろそろ情報カードが切れそうなので
ふらりとアベ近へ行ってみればまだ未入荷。
家に帰って泣きながら検索掛けるとようやく
こちらを見つけて、10冊まとめ買い。
ちなみにこれのA6、型番J881を使ってます。
A4の上質紙と裁断器を買った方がいいかなあ……

あと、天王寺ソフマップでマジェスタッチを触ってみれば
いやはや、なかなかいい感じ。
コト、コトコトコトコト……という打鍵音もいい。
Realforce持ってなければ間違いなく買ってる。
リアはやっぱりかなり特殊なので、普通の人には
イチオシのKBではないでしょうか。
ただKBに1万円出すのは普通の人じゃないような
気もしますが……

最近キーボードのトレンドが、MS、ロジクールをはじめ各社
「パームレストに手首置いたまま打鍵させる」
ためにショートストローク化、ステップを低くする方向に
変化してきてます。
簡単に言うとノートPCのキーボードみたいになってきてる。
そういう中では「旧世代のイイモノ」という感じがします。
逆にこういう古典的ストレートタイプが好きな人は、
そろそろちょっと予備機蓄財等考えておかないと、
形状自体が変わってきそうですよ。
ま、無くなりゃしない気もしますが。

---

と言いながら要素解析も好きだから続ける。

まだモーローとしか考えてないことなのですが、
「ハッキリ書く」というのは、
そんなに上策ではないのかもしれない。

世阿弥先生の
「秘すれば、花」
っていうのがどうにもずっとひっかかってしょうがないのです。
チラッと見せると効果倍増、
そんな簡単なことを最終奥義とは言わんだろう。

ものを表現する時に、我々は、
「事実」と共に「空気」を伝えます。
(報道でも上質ならば空気まで伝わる)
「すがすがしい朝」とはなんぞや。
何月何日場所どこそこ、気温何度湿度何度、
それだけじゃダメ。
たとえ少々ずれててもいいから、受け手が
「おお、そりゃすがすがしいな」と思う、
もっといえばサラサラと清々しい風が吹く、
そういう「空気」を伝える、伝えたい。

事実、ファクトを伝えるのであれば、
正確無比、機械のように簡潔に平明に、
要素を徹底的に並べればいいわけです。
これは、鍛えればできる。
しかし、空気、エアー、雰囲気を伝えるのは、
そういう問題ではない。
何万言費やしても「清々しさ」を伝えられないこともあれば、
「フリスクを10粒同時に食べたように清々しい」
とか(ひどい例ですけど)一言で伝わることもある。

ここで問題は、ファクトを伝えるための
正確な描写そのものが、空気を伝える邪魔をする
可能性がある。
具体的には、想像する余地を妨げる。

近眼でぼーっと見てたらすごい美人に見えたけど、
メガネ掛けてみればすごいアバタですごいつけまつげで
ルージュが完全にはみ出してる、ダメだこりゃ。

で、表現というのは「美人ですよ〜」という印象を
伝えたいわけですから、
詳細カッチリ描かず、ある程度ぼんやりまたは省略して
描いた方が、実は目的を達するのではないか。

物理的な腕っぷし、観察眼と描写力は、
経験と蓄積でどんどんあがるんですけど、
そうではない部分、
「このぐらいの方が美人に見えるよね」
っていうのは、
じゃあどうやって鍛えるのかというと……
もうなんていうか、(もって生まれたものまで含めての)
総合力というか、思いこみというか、
過剰な自信での言い放ちというか、
とにかくそういう得体の知れないものだけに
依存している気がするんです。

あと、やっぱり社会性。
「俺はこれは美人だと思う」だけではダメで、
「田舎のおばあちゃんが見たら美人と思うかなあ?」
ってのがあった方が、絶対ゆったり構えられると思う。

じゃあなんだ、努力しても無駄かよ、
というのは早計で、そこであーた、ながた理論ですよ(笑)

つまり、そういう得体のしれないものは、
ひとひとりひとりにオリジナルなので、
そこを伸ばしていけば、まあいいんです。
だって、「これは美人だろうか?」なんて
そんなアホなこと日がな一日考えてるヒマジンは、
表現やってる人間だけです。
というか、それが仕事、役割、そのプロですから。
それをもってして
「うん、たぶん、これ! こんな感じが、グッ!」
と提示すると、それを見て好んだ人々がまた、
「グッ!」
と親指を突き返してくれる、ような気がする。

そこの提示こそが、個性であり、
受け手が自らの新しい面を引き出されたり、
あるいは世界と人間の多様性を確認して豊かな気持ちに
なる、つまり感動する、種ではないですかね。


それがないと、まったく……とまでは言いませんが、
かなり意味がない。
ファクトばっかり並べたって。

やり玉に挙げるようで申し訳ないのですが、
コンビニの商品というのは、ファクトが多いのです。
苺のショートケーキらしい苺のショートケーキ、
祝儀袋らしい祝儀袋。
空気がない。
それはそうで、そのように作っているからです。
どんなひとのどんな「苺のショートケーキ」にも
フィットするように作ろうと思えば、
つまりブレるヨレる「空気」を徹底的に排除して、
「事実」を積み重ねて作るしかない。

表現作品でも、巨大シンジケートで作られると、
失敗を怖れマーケティングに惑わされるあまり、
事実だけを積み重ねてしまうことがあって、
そうなると、スカスカ。
立派なホトケなんですけど、動きそうにはない。
ただ、空気というのはまさに個性なので、
他人とはなかなか協調しにくく、大組織になると
そこんところのすりあわせが難しいんですな。
クルマみたいな工業製品でも、売れ筋の基幹車種より、
ぜんぜん新ジャンルのクルマの方が魅力的だったりする。

先日「なんとなく」というキーワードを出してみましたが、
あれが「空気」であって、
なんとなくいいのが、理屈攻めでいいよりも、
ずっといいのです。
その空気を出すためには、書けても書かない、っていう
コントロール……というか、そういう意識さえもなく、
空気を描くように適度に抜いたり略したりする、
そういうチカラが要るようです。

やらないチカラというか、
力を出さないチカラ。

ツボを押す時に、力尽くでぎゆううううっと押すのではなく、
巧い人はほんとにフワッと押します。
そのくせじわああああんと効く。
問題は効くかどうかですから、
正確にツボをついてるかどうかとか、力はどのぐらいだとか、
そんなこたどうでもいいのです。

甲野先生の御本とかビデオ見てて思うのは、
スピードにはタイミングっていう要素が
分かちがたく一体になってて、
つまり、相手の予期しないタイミングで拳を出せば、
スピード関係なく止められない。
これを、ほんとうの「早さ」という。
理屈とか理論の上では非常に胡散臭い考え方ですが、
(ていうかそういうメタな話持ってくるのは反則だ)
実践では非常に有効です。
で、その「早さ」って、
要素特訓でサンドバックめがけてえいやーえいやー
言ってても、死ぬまで身に付かないですよね。
冷酷なことに。
いやむしろ、そんなしょうもないことにエネルギーや
時間をロスして、そこを鍛える機会を失っている
とすら言える。

世阿弥先生の「秘すれば」っていうのは、
そこのような気がします。
演じないことで、空白を置くことで、語らないことで、
語る。
「空気」を醸し出す。
実はこっちの方がより大事なんだよ、チミィ。

---たぶん、デコラティブな方は方で、同じように、
積み重ねつくすことで、各要素が渾然一体となって、
全体として空気を醸し出す、という方法論が
存在するような気がします。
やっぱり、ロマノフ王朝の王宮の写真とか見れば、
あれはあれで全然ありだ、と思いますしね。
ただ、日本人は、どっちかというと
間をもって語らせる、のが伝統的に巧いんじゃないかな、
と思うのです。
そういうものに慣れ親しんでるし、そういうDNAもある。
DNAってバカにできなくて、
日本の男の子は高校生ぐらいになると
実は相撲が好きなんですって。
だからナチュラルに言うと、
そっちの方が向いてるんじゃないかな、という程度です。
ひとによってはもちろん、日本人でも、
積み重ねる方が得意な人もいると思う。---

日本の売り物のひとつに「マンガ」がありますが、
マンガは絵の記号化の時点から
作者本人の「空気」をこめることができるはずで、
で、そここそがマンガの表現としての素晴らしい点で、
だから「絵が巧いマンガ」っていうのは本来言語矛盾です。
マンガの絵について巧いか巧くないかを論ずるというのは、
歌手の声質を問題にするようなもので、
そんなもの問題にしたってどうしようもないというか、
論ずる対象ではない。(好みは別)
最近どうも巧い方へ巧い方へ価値観がシフトしてるのが
ひっかかります。
ただあれは、無垢なひとが無垢な状態で見ることが
多いものなので、あんまり大崩れはしないような
気もしますが。
大衆化、というのは、そういうメリットもあるようです。
ユーザーはもっとも愚かではありますが、
もっとも賢明でもあります。


ほな具体的にはどこに注意するねん、
と訊かれればノーアイデアなんですが、
ま、そういう考え方もある、ということで、
過度に書き込むことでおのれの心の平安のみを得ようとする
さもしい気持ちを留めることができれば……
そんなことを考えること自体がさもしい気もしなくもないが。

あ、ひとつあるとすれば、
抽象的になりすぎるかもしれませんが、
時間軸を練り込むような感じかなあ。
「空気」っていっても難しいわけですが、
「ドラマ」っていうとだいぶわかりやすい。
(この二つが真に同値かどうかはまだわからないのですが)
ドラマは流れてますから、
その一点をすぱっと切り取る感じでいけば、
実は情報量が少ないようでいて、
前後の状況をドバッと盛り込めて、
花々しいのではないかと。

ものすごく具体的にたとえると、イラストで、
ちいさな女の子がつまずいて牛乳瓶が手から滑ってる、
そんな瞬間を描くと、そこに込められている情報以上の
情報を受け手は手にするわけです。
なぜつまずいたか、なぜ牛乳瓶持ってるか、
あれは割れるのか割れたらどうなるのか。
牛乳瓶持ってニコッと笑ってるよりは、
ぱあっと膨らむ。
別に身体の動きでなくても感情でも思考でも、
時間は練り込めると思いますが、一例として。

ふむ。
僕が会話にこだわるのもそこかもしれませんねえ。
会話というのは結構流れやすいのです。地の文よりも。
そう考えると、「書かないで書く」とか禅問答みたいなこと
言わなくても、「空気を書く」っていうのは、
具体的にできそうな気もする。
さっきの「タイミングが早いパンチ」と同じで、
あるシーンを、時間込みパッケージで描く……
スライドショーではなくて、全体が動くような感じで……
あ。アニメじゃん。

となると、アニメにはいい面もあるのですが悪い面もあって、
書き手の時間コントロールに受け手が乗っからないと
いけない、あるいは自由度が低くて窮屈になる。
文章のいいところというのは時間コントロールが
受け手にまかされているというところにもあるので、
(しかも、おおよそそれを実現しているのは
 文章だけではないかと思うので、大きな武器のはずである)
これはやっぱり、
邪道とまでは言わないまでも、搦め手ですかねえ。
ナックルボーラーみたいな。

もひとつ押し進めて、「時間軸が無い」というところまで
いきつくとスゴイのかもしれない。
スライドショーは順番決まってるわけですが、
そうじゃなくてどのスライドも渾然一体と……
って机上の空論くさいなあ。
だんだん実感がなくなってきた。

今日は暑くてですね。
外の工事も相変わらずうるさくてですね。
こんな答えの無いことをもねもねと考えていました。


視点を換えて言うと、
「これでどうだあああ!」
と事実だけを言い放つのではなくて、
「……と思うんですけどどうでしょう?」
という空気を含める姿勢が、
送り手には必要なのかもしれない。
普通の会話と同様に。
それは、自信がないってわけではなくて、
自分はこうだ、っていうのはあって、
その上で相手にもっと他のものや、相手のアイデアを問う。
楽しい会話、馴染みの友人との会話ってそうですよね。
自分の言葉が相手のなにかを引き出し、
そこからまた自分のなにかが引っ張り出される……
表現作品も、そうだと思うんですよ。
「こう!」って叫んで終わりじゃなくて、
「ああ、俺ならそこはそうじゃない!」っていう気持ちを
(もちろん、「俺でもそうだ!うんうん!」でもいいんだけど)
湧き起こさせる、
そういうのが、いい作品なんじゃないかなー。
余地というか、余裕というか、あそびというか、
そういう言葉とはちょっと違うと思うんですけど、
そういうものがある感じ。

んで、それっていうのは、
やっぱり作者の「こうだと思うんですけど」が無ければ
まったく成り立たず、
TVでこう言ってたとかそんなんだけじゃ、
どんなに豊富な話題でもピンポンしない。
そう考えるとむしろファクトは邪魔ですらあって、
ホラでも嘘でも妄想でもなんでもいいので、
空気をひねり出さねばならない、ような気がします。

特に「ものがたり」ってのは元来そういうもののような
気がしますね。
誰がどうしてどうなった、というのは結構どうでもよくて、
そこにある空気を伝える。
「ももたろう」は、たぶんお母さんごとに違う
「ももたろう」があるわけです。
で、それでよい。それがよい。

ただ、あんまり捨てすぎると、
吉本新喜劇みたいにドロドロのスライムみたいになって
歯ごたえまるでなくなりますから、
(わたしは大好きですけど)
ある程度の枠はいるのかなあ。
古典落語とかそうですよね。
あ、クラシックもそうか。
枠あって、で、その中でどんな空気を作るかを競う。

そこでやっぱり大事なのはどんなベクトルであれ、
「個性ある自分」であることで、
ま、あとは、そんなに嫌味とトゲがなければ、
普通にお客さんがつくような気がするなあ。
ファンじゃなくても、落語なんかまさにそうなんですけど、
「あの噺ならあの人だよ」
っていう評価がありますもんね。


ファクトが要らないってわけじゃなくて、
ファクトを追い求めすぎると、
(求めやすいし、社会的にも求められる)
もっと大事なエアが抜けてしまいますよ、
それはマズイですよ、という警句。
特にわれわれは、お米を作り魚を獲り鉄を叩き
みかんを運んで売る、
ファクトを扱う人々に食わせて貰ってるのだから、
不足しがちなエアを提供する義務があるのです。

心構えとしては、
自分の楽しいものを、相手にも楽しいように、
ってところですかね。



 7/28 雑。

まだまだ昨日の続き。
ゴッホの書簡集でも読むように読んでいただければ……

---

ちょっとやっぱり反省しますのに、
根性が足りないのかなあ。
「自分」というのは求めるものではなくて、
現場でモノに当たって砕けて当たって砕けて
当たって砕けて当たって砕けて、
最後に残った芯みたいなものかもしれませんね。

となると、まだまだ修業が練習が足りない。
本人は四六時中考えてるつもりでしたが、
(除くFF時間)
まだまだ、甘すぎちゃんだったようです。
細かいことはどうでもいいから起きてる間中
めいっぱいキー叩いてるぐらいで
ちょうどいいのかもしれません。
そこから、なにか見えるのかも。

マンガ同人誌作った時に
(いくらアシさんがたくさんいても)
「週刊連載なんて人間のやることじゃない」
とプロの恐ろしさを痛感したのですが、
逆に言うと、そのぐらい追い詰められると、
生の自分自身でなければ立ち行かなくなるので、
「作る」という余裕が全くなくなり、
絵柄とか筋立てとかに「自分流」が
確立するのかもしれません。

小トライ小エラーを気が遠くなるほど繰り返した先にだけ、
「自分らしい自分」があるのやもしれませんなあ。

今日知ったんですが、
「ADOデンハーグ」っていうオランダのサッカーチームの
「ADO」って、「すべては練習を通じて」という
チームスローガンらしいです。
ちょっとカッチョイイね。

練習のための練習にならないように、
テーマ決めたり、結果の反省を丁寧にやったり、
「自分のナチュラルにより・沿ってるかどうか」
「そしてそれは社会的にはどうなのか」
という二点をにらみ続けつつ、
ゴリゴリ行くほかないのかね。

なんかそれもあたりまえすぎて
つまんない結論のような気がする。
でも、胸の底にすとんと落ちるのなら、
あたりまえでもいいような気もする。

---

どっか一点、細かいセオリーを持っちゃうと、
それにこだわりすぎて、他が引きずられて、
崩れる。

たとえば「これは重要」と思う点を10個思いついたとして、
その10個をすべて満たしていても、満足いかないこともある。
逆に全部ダメでも、「当たって」いることもある。
(だからといって、自分の「これは重要」を考えたり
 チェックしたりすることが無意味だとは思いませんが)

しかもそこに好き嫌いが入る。
今日はこってりが好き、でも昨日はあっさりが好きだった。

「当たり」ってのは、そういうのを超越してて、
だから結構、本人の中でも賞味期限が長い。

欲深い話ですが、「オール当たり」が理想なんです。
少なくとも、打率は上げたい。
で、たぶんいろんな話を総合すると、どうも、
「打率を上げたい」という考え方で小改良に
取り組むのはダメで、
「オール当たり」を取れるようなシステム・チェンジが
要るはずだ……と思うんです。
だからまあ、いろいろ考えたりやってみたりしてるのですが、
最近どうも、その方法論自体が、
実はコツコツやりまくるしかないのかも……
と思い始めた。

ただし、現実にやってる方法はそれしかないんだけど、
ベクトルというか方向性というか、
コンセプトというか気の持ちようというか、
それは一応進歩してて、今のところは、
「自分の気持ちいいように」。
でも、これも弱いというか自家撞着しちゃうのは、
自分の気持ちいいとこって自分は結構知らないので、
それを探るためには、
これまた乱れ撃ちでやりまくるしかないようだ、
ってとこなんです。

なんじゃそりゃ。
つまりごちゃごちゃ考えたり言ったりしてるヒマがあったら、
手を動かせっていうことか?(笑)

まあ、それは永遠の真理ではありますな。

ちくしょう、なんか楽できる方法は無いものかと
思ってきたけど、結局無いのかよ。
すごい時間と労力を無駄にしたぞ(笑)

ま、「無い」とわかった、というのは巨大な資産ですけどね。
胸張って言えますからね、若者に。
「近道はありますか」
「ない。」

おっちゃん相当探した。
こんなこと自慢にもなんにもなれへんけど、
おっちゃんぐらい近道探した人も珍しいと思う(笑)

でも、ない。

ああ、子供がいたら自信持ってぶん殴れると思う。
「俺も探したんや!」
そうするときっと子供に叱られる。
「おとんは探し方が甘い!」
「…………そうかも」

ダメですなあ。
でも、あるかも、あるかも、っていう気持ち自体は、
やっぱり向上心のひとつではあるし、
それはそれなりに進歩も生むので、
だいじなことだと思います。
すくなくとも、なにも考えない感じないよりは。

---

そんなこんなで、最近ようやく諦めがつきつつある
わたしです。
コツコツやろう。
とりあえず、白い紙を目の前に鉛筆を握ることから。



 7/27 自分?

夏紅茶 黒砂糖入れたら コンソメの素。

はぁ……なんか考えれば考えるほどようわからへん。
もう考えるの止めよかしら。

てゆーかさー。
やっぱり、「ナチュラル」っていうのは難しいよう。
自分が何か、なんて誰も知らん、っちゅーねん。
やっぱなんか軸があって、
それに沿って歩を進めるべきですかね。
自分とか言い出すのはまだ早いんですかね。
もうあとちょいで34やっちゅーのに……
あるいは、もうちょっとお手本になりうる、
自分に沿ったモノを探すのを
もうちょい頑張った方がいいのかな。

わからへん。

特にどこにも軸足を置かないと困るのが、
今日の自分と昨日の自分は違うんです。
しかも、どっちが正解とか、どっちがより自分とか、
そんなことなくて、
昨日の自分も自分だし、今日の自分も自分です。
昨日はあんなにフィットしたものが、今日は全然ダメ……

そりゃそうですよね!
毎日カレーばっかり食べられるのはキレンジャーだけで、
カレーが美味しい日もあれば、ハヤシが美味しい日もあり、
またお茶漬けがたまらなく美味い日もあり……
「美味しい」ということに一番の価値を置くと、
毎日違う料理作らないとダメです。
「美味いカレー」って決めちゃうと、
とりあえずカレーであることだけは確かなのに。

こりゃ大変だ。
やっぱり原理的に無理なのかな。

あるいは、妥協というか、大目標として
「うまいものを狙う。」
と額にして道場正面に飾って、
で、実際としては毎日カレー作ってる、
そんな感じが良いのかしら。

いや、そうではなくて、
たとえば真っ白のごはんと梅干しと味噌汁のように、
毎日毎日飽きないものもある。
それをこそ見つけなければ、作らなければ
ならないのであって、
「あーこのカレーもういやー」
と言うようでは、まだまだまだまだ本物ではない、
ということか?

でもそれってさー。
ごはんしかないじゃん(笑)

味噌汁ですらちょっと辛いですよね。
たまには吸い物がよかったり、ポタージュがよかったり、
せめて具は変えてくれ、とか思いますよね。
銀シャリ以外では無いぞ、そんなもの。

……ということは、やっぱり、
自分のごはん
を作る、ってことか。

しかしそれだと……
猛烈にあっさりあっさりになるような気がするなあ。

やっぱりね、ハートバーンで
「うぉりやあああああああ!!!」
っていうのが、熱いんですよ。
そういう時にできあがるものって、こってりたっぷり……

いや。
ハートはそれでも手や頭はクールで、
さらっとできちゃう、
ってのが名人芸なのかしら。

なんだかすっごいマッチポンプというか、
扇風機を回す電力を起こすために自転車漕いでる感じが
するんですけど。

つまりですね。
人間には、欲が必要なんです。
向上心とか挑戦心とか、言葉はいくらでもキレイに
できますけど、つまりは欲。
それがないと、干からびる。
あるいは、進化というのは、生物に先天的に与えられている
ドライビングフォース、「そっち向きに走る」ものだと
考えてもいい。
これを無くそうと考えるのは、やっぱり不自然なのです。

人間だけがその不自然を可能にしている特殊な生物
なのだ、という考え方もありますが、
それはちょっと傲慢でもあり辛くも寂しくもあると思うので、
私的には却下。

で、反面しかし、その欲こそがありとあらゆる悲しみと
哀しみと嘆きと辛さ、マイナスの原因です。
愛さえなけりゃ涙などこの世には無いのですよ。
ね?
となるとやっぱり、これをこそ取り除いてしまえば
この世は春だ、という理論が成り立つ。
理論は、成り立つ。

ただ、それはそれで数十年掛けて血反吐吐いて
達成される、かどうかもわからないという道なので、
それはそれでどうなのよ、と。
辛い思いをしなくなるために辛い思いするってのは。

「欲を持たない」という欲も持っちゃいけない。
理屈はね、わかりますよ。
で、誰しもそれに似たプチ経験があって、
「ああ、ああいうものなんだな」
てのはわかります。
でもそれを好きなように24時間365日出せるように
なりなさい、ってスーパーマン養成所じゃないんだから。

そこでわたくしがこないだ鼻ほじりながら考えたのは、
ま、要するに人間自分が可愛いわけです。
自分以外は可愛くないと言ってもいいぐらい可愛い。
ということは、欲は持つ代わりに、
「自分を大事にする」という点一点に絞る。
他は我慢する。

ほら!
これならほとんど捨ててるけども、
持ってるからエネルギーは無くならないし、
無くすのはスーパーマンにしかできなくても、
方向変えるだけなら頑張ればなんとかなるよ、きっと!

……という理論を立てたのですよ。
んでまあ、それに沿ってやってみてるのですが……

ムズカシイ。

まあ、一週間やそこらで音を上げるな、と怒られそうですが。


ヒントとしては。
イチローが、去年後半めちゃめちゃ調子良かった時に
使ってたフォームは、子供の頃のフォームとほとんど
同じだったそうです。
やっぱり、ナチュラルなんですね、それが。

もうわたくしごときで恥ずかしいのですが、
落描きしてましても、もう疲れ果てた脳と心と体で、
ヨダレ垂らしながらへろへろへろ……と描いてると、
5年ぐらい前とあんまり変わらない絵が出てきます。
線のキレとかパーツバランスは多少マシになってますが、
なんてんでしょう、全体の雰囲気は。
世界に5人ぐらい居るコアなながたファンなら
ご存じかもしれませんが、お恥ずかしながら
5年前にマンガの同人誌作ったことがありまして、
あの時の絵が出ちゃうんですなあ。

好きかと言われるとそんなに好きでもないんです。
でももちろん、嫌いではない。

好きとか嫌いとかじゃなくて、
だってしょうがないじゃないですか、
自分だもの。

……ということはやはり、
それをベースにして、でもディテールとか、
各部で使うテクニックとかをどんどん勉強して、
アップデートして、
しかし大枠の雰囲気は、さらに自分のナチュラル方向へ、
手が勝手に描き上げるような形へ、
進んでいくべきなんでしょうかねえ。

もちろん一番考えてるのは文章の方ですよ。
(ここ数日にモロにでてますが)
絵描いててよかったなあ、と思うのは、
絵は下手だと自分で思えるので、
冷静に何が良くて何が良くないか考えられるところです。


しかしそう考えると、
わたくしごときがなにか言うのは
まったくお恥ずかしいのですが、
芸の世界って大変だねえ!
だってさ、その自分のナチュラルに
お客さんつくかつかないかなんて、
どこにも保証ないじゃない。

タモリさんが昔、
「いやあ、この世界は運だけだからねえ」
と言ってて、あんた精一杯計算してるやん、
と突っ込んだのですが、問題はそこじゃないんですね。
自分がベストを尽くしても、それでOKかどうかは
神のみぞ知る。

あ、そうか、うま〜いこと時流の真ん中のスパイスを、
自分のに振りかけていける人が息の長い人なのかな。
同じラーメン作ってるんだけど、
綺麗な店内でないとダメってことになると、
店の改装はする、ぐらいの。

強烈な個性持ってる天然製ならそんなこと考えなくても
いいんでしょうが、我々みたいな「作った左」は
その辺の小ずるさも持たないとダメですな。

なるほどねえ。
たいへんだねえ(他人事モードー)

それは受け手のことを考えてないのではなくて、
作り手が全力を出し切ることが、結果としては
受け手にも最良のものをお届けできる、はず、なんです。
なぜならこういうもので一番大切なのは「個性」であって、
それは、そのひとそのものからしか、生まれない。


最近のこのダラダラした書き方も、思い起こせば、
まったく文字を書き出した中学生ぐらいの
書き方そのままでして、まったくお恥ずかしい。

あの頃から成長したことと言えば……
小難しい単語や漢字を使っていい気にならなくなったことと、
経時耐久力をすこしは意識するようになったこと、
ぐらいですかねえ。
あとべしゃりがおっさんくさくなったのは成長とは
言わんだろうし。
あ、そうそう、当時は正義を語ってましたが、
今は自分の思うところ、つまりは自分の正義なんですけど、
を語ってますね。
そこんとこが一番大きい進歩かなあ。
まあ、さすがに20年も歩けば、すこしは進みますよ。

作為とチューニングの違い。
び、微妙だなあ……


ということで、
「かくあるべし」を見つけていくやり方は
放棄してしまった以上、
毎日毎回、どれが一番気持ちいいか、
自分に尋ねながらちょっとずつ進んでいこう、
という所存なのであります。

いやあ、しかし……
自分っていうのは、自分が一番わかってませんねえ。
ほんとに。



 7/26 雑。

帰省した友人夫妻にお肉奢っていただいてご満悦。

おかあちゃんに気なんか遣わんでええんやで。
あんたらが帰ってきてくれる、
それがおかあちゃんには一番嬉しいおみやげや。

お返しは出世払いで(泣)
溜まってるけど(泣)

美味しいお肉食べながら思ったのですが、
旨い肉の一番旨い食べ方は、焼いてそのまま、です。

ということは、シンプルなやり方をした時にうまく行くもの、
それがいいものじゃないかなあ、とか思ったり。
「シンプルなやり方をしたらうまく行く」っていうんじゃなくて、
シンプルなやり方がスマートに通る、ということは、
本質的に優れている可能性が高い。
のではないかと。

ぼくですと、たとえば、
面白い話なら、紙に鉛筆でもスラスラ書ける。
でも面白くない話は、PC使ったってなかなか進まない。
そういう、ものです。
PC使うと生み出されるけど、紙の上だと出てこない、
そんなもんはダメじゃないかな、と思うんです。

これとか!

生活のあらゆる場面をシンプルにしていくと、
そこで分別が効くんじゃないかしら。
それでもどうしても足りない、というものは、
だいじなものだったり、
それでもどうしても守りたい、というものは、
やっぱりだいじなもの、だったり。
分別していかないと、もうなんだかわけがわかんない、
そんな気がします。

で、シンプルを志向しますと、
もうほんとに2000年ぐらい前から人間やってることは
だいたい同じなので、昔の人のエライ人の言ってることが、
なるほど、と思えるわけです。

お勉強でも、結局一番効果高いのは、
朝から晩まで机に齧り付いて(適宜休憩を入れつつ)
問題集や参考書にぶち当たり続けることで、
仕事でもだいたいそうです。
変な小細工考えるよりは、資料拡げてジッと睨んで
イメージし続ける方が、
なにかが湧いてきたりなにかができあがったりする。

超絶アタリマエのことなんですが、
なんとなく我々は、もっといい方法がないものか、と思って、
ついつい無為な時間を費やしてしまいます。

これは、逆に言えば、けっこう切ない結論で、
「つまりがんばれ」
って、まあ身も蓋もない話です。
でも、真理というのは、たいてい、身も蓋もない。
それでもその真実をありのままに受け入れて、
「……はぁ。しょーがないか」と、
いいように言えば覚悟を決める、
悪いように言えば諦める、
そこからスタートですね。

複雑化する世の中の恩恵を受けて、
めっぽううまいお肉もいただけるのですが、
それはそれこれはこれとして、ちょっと小ずるく、
自分の生活の方は整理整頓していきたいなあ、
と思いつづける昨今です。

あ、あたまの中身もね。
ガラクタがいっぱい、詰まっているよりは、
何も無い方が、まだまし。

なかなか、できないんですが。
ちょっとずつ。



 7/25 雑雑雑雑

夏風邪らしきものをひいたかもしれません。
明確な症状は無いのですが、
身体が怠くて仕方なし。

てなことで今日は軽めで失礼をば。

---

そうだ、鉛筆で思い出しましたが、
鉛筆(シャーペン)は何がいいかと言って、
「間違いを消してやり直せる」
ところだと思います。
つまりトライ&エラー。
このハートが子供達には何よりも大事。
すくなくとも中等教育までは鉛筆(シャーペン)中心で
行くべきじゃないでしょうか。

毛筆持たせて
「世の中にはやり直せないこともある」
って教えてもいるしね。

何度か「ネット止めようかな」と思い詰めたことがあります。
ここを閉じるという意味ではなくて、webを見ない。

去年の春に突然ADSLが調子が悪くなり、
1ヶ月ぐらいダイヤルアップ生活に戻ったのですが、
その時ずいぶん時間が余りました。
それがひとつ。
もうひとつ、最近いつもぶつくさ言ってますけども、
要らん情報が多すぎるので、
摂りすぎると捨てるのだけでものすごい重労働です。
人間の身体器官ってすごくよくできてて、
聞きたくない(聞く必要のない)音は脳に届かなかったり、
匂いでもあっという間に麻痺したり、
ある程度防御機構はあると思います。
でも、それでも滑走路真下の騒音みたいなのは
さすがに無理でしょうし、夏場の放置されてる公衆便所の
アンモニア臭は厳しいですよねえ。
もう、そこまで行ってるんじゃないかと思うんです。
で実際、そちらの窓を閉ざしている人もいる。

実感でない言葉には、力がない。

というのが、幾年かこんなものを書き続けてきた結論で、
webはじめ雑誌でも新聞でも他人からでも、
人から得る情報っていうのは、
そのままでは意味がない。
それを見て感じて、じゃ自分はどう思ったかどう感じたか、
どうなったか。
そこが、むしろそこだけが大事で、
そこのところをしっかり振り返る作業に費やす
時間とエネルギー、こっちの方が、
どこからか情報を入手する時間とエネルギーよりも、
ほんとうはたくさん投入しなければならない、
はずだ、と思うのです。

さらにいえば、情報の入手自体も自分でやるのが
なにより一番で、
つまり、自分で作った料理は(ある程度まともにできれば)
他人がなんといおうと美味いですし、
自分で育てたプチトマトは20点上乗せされる。
仕事になると、さすがにそうも言ってられず、
農家は農家、仲買人は仲買人、料理人は料理人、
その方が最後のパフォーマンスは出るのですが、
耕した経験のある料理人の方が、
やっぱり目は確かなんじゃないかなあ、とか思ってみたり。

わたしの例でいきますと、
なんだか書きにくいものを書いてる時って、
伝聞推定ばかりで書いてることが多いです。
それは随筆に限らず小説でもそうで、
もちろん、しょせんは架空のできごとなのですが、
肌触りもってイメージできること、
これの方がずっといい。
最近は書く時間のほとんどはこれに費やされます。
むしろそこだけが大事で、
形作るところなんてどうでもいい……
とまで言うと言いすぎで、形作ってる最中にも
アイデアというのは湧くものですが、
以前みたいに四六時中PCの前に貼りついてることは
なくなりました。

言い方を換えれば、戦争の準備というのは
決戦前こそが一番大事で、
敵を圧する量・質の兵力を有利な地形に準備万端で
用意すれば、まあ負けない。
あとは粛々と各個撃破、そんな感じ。
各個撃破の所で悲運の猛将が何人道連れに奮闘しようが、
そんなものどうでもいいことなんです。
講談としては泣ける場面ですが、
歴史には残らない。


一日が300時間ぐらいあれば、
無用な情報でケタケタ笑う時間もあると思うのですが、
妄想し実作する、その時間考えると、
仕込みにそれほどは時間掛けられないなあ……
というのが正直な感想で、そんな中でもさらに、
ひとと語らう時間やメシを喰う時間があるし。

そう思っていくと、「もう切っちまうか」とも。
うまいつきあい方ができればいいんだけど、
どうしてもずるずる引きずられてしまいますねえ。
多様性が、すごいから。
次々におもしろいネタが湧いてきますからねえ。
もう目を閉じるしかないかなあ、とか。

まあ、んなこと言いつつできゃしないような気もしますけど。
捨てるには惜しいメディアなんですなあ。
新聞とテレビを切っても、これだけは残したい。
やっぱり、うまいつきあい方を模索しましょうか。
お酒とのつきあい方のように。


情報というのは
「驚きのあるもの」と「それ以外」なのです。
実はとっても非連続で、
驚きのあるものはある日突然出てくる。
そして他を圧する。

そう考えると、最悪、
「驚きのあるもの」だけチェックしていればよく、
で、たいがい、そんなものは、
いかに情報から遠く離れていても、
ちゃんと届くものです。
iPodだって、あれ冷静に考えればムチャクチャに
マニアックな電子ガジェットですけど、
普通の人の手に届いてますからねえ。

逆に、「それ以外」とあまりに接しすぎていると、
「驚きのあるもの」と「それ以外」との差が、
わからなくなるかもしれない。
巨人の戦力補強とかどんな素人が見てもおかしいのですが、
それはつまり、玄人になると、
そこがわかんなくなるんじゃないかなあ。
とするとやっぱり、「それ以外」にはあまり接しない方が
いいのかも。

ちょっと消極的すぎるかな。
でも、昔のえらい画家の人が
「一流でない絵は観ない」
と言い放ったという話なんかもあって、
(つまり中途半端な絵に影響されるのが嫌だと)
ひとつの方法ではあるような、気はします。

食べることが好きだからって、
毎食ごちそうにするよりも、
たまにごちそうの方が、よりごちそうの良さがわかる。
ふと寂しくなるとiTunesのラジオとか掛けっぱなしに
するのですが、
要らない時には、切った方がいいかな、とか。
まま、細かいことですが。


つまり、我々みたいな仕事だけではなくて、
どんな仕事でも、いや、
どんなひとのどんなシチュエーションでも、
「驚きのあるもの」
の方がいいわけです。
「なんだかうまいことできてるけどぜんぜん驚かない」
よりは、
「ムチャクチャだけどびっくりした!(笑)」
てのがいい。

それにはやっぱり、月並みですが、
個性の発揮しかありえず、
(無理に奇をてらうのは、ちょっと厳しい)
それさえうまくできれば、
「驚きのあるもの」になるはずなんです。
だって、人間ってのはひとりひとり違うので。
ビックリさせられるじゃないですか。友達の行動とかに。

それはつまり「自分になる」ってことなんですが、
これにも、必要以上の情報は無意味です。
なぜなら、自分になるための情報は、
自分の中か、せいぜい自分の身の回りにしか無く、
日経にもCNNにも無いんです。
情報が入っちゃうと、日本人小器用だから、
すぐ方法論だけコピーして採りいれちゃう。
すると、似てきちゃうわけですなあ。

繁華街へ行くとめちゃオサレな各種飲食店が
わんさかあるんですが、
味も雰囲気もインテリアもサービスも、
どっこも似たり寄ったりですよね。
不満はないけど、満足も無い。
ああなっちゃうのです。


……と、いうことで、
「自分になる」ってのを、やってみてるんですけど、
いや、なかなか難しい。

なんだか、考え方とかやり方とかが、
今までと180度が違う。
ついつい癖で「よいもの」を志向するんですな。
でも、「よいもの」のイメージって、つまり今もう既に
世の中にあるもの、の、
集合体というか最大公約数というか、
そんなものでしかないのです。
そいじゃだめだ。
そうではなくて、自分にとって素直に「これだ!」と
思えるものを探す……
大変だしめんどくさい。
教科書も参考書もないわけだから。
できあがりにも首を傾げ続ける日々です。
「手で書けばもうちょいキレイにまとまるのに……」
と不安にもなり。
全部自分風ってのも難しくて、どうしても
どこかしらから持ってきたモノ使っちゃったりね。

これだってそうですよ!

でも、ここ頑張らないと、一皮剥けないだろう、きっと。
ガンバルシカナイノデスヨ、ガンバルシカ。

---

すみません、毎日愚にもつかぬ独言につきあわせまして。
体調が悪いと特に酷いな。
でもあれですよ、今からつきあっていただいておきますと、
金なら5枚、銀なら1枚でおもちやの缶詰が……
プレーン、桜エビ、ゴマ、ヨモギ。
ま、ま、ぼくが嫁さんを貰うまでの辛抱ということで。
「あい、かじゅひちゃ、おかゆたべちゃちぇてあげまちゅよ〜」
「いいってもう!」

ああ、熱が。



 7/24 文具・雑

実に数十年ぶりに「鉛筆の補助軸」を買い求めてみました。
最近の子供達の好みに合わせてか、
キラキラのブルー・グリーン2本セット。
でも基本構造はまるっきり昔と同じ。
メラニンフォーム水なしで削ってみるとすぐ地金。
その薄い塗装膜にメーカーさんの涙ぐましい努力が
感じられて、ちょっとホロリと来ました。

鉛筆は、三菱・ユニを使っています。
上にハイユニっていうのがあって、
価格がユニ95円ハイユニ145円と1.5倍も違い、
実際かなり滑らかになるのですか、
逆に滑らかすぎて好みに合わないのです。
轟一番が使っていたので
(劇中では「四菱ハイユニ」だったと思います)
ハイユニ憧れてたんですが、
何度かチャレンジしてやっぱりユニでした。

もうひとつベーシックな9800(緑色の軸がお馴染みの)は
カタログ落ちしてるんですね。
ぼくら子供の頃の一番の定番だったので、驚きました。
ちょっと粗くて、かつあの緑色の塗装膜が
剥げてくるんですよね、あれ。
ぼくは鉛筆のおしり噛んじゃうので
口の中に緑の破片が飛び散って文字通り苦い思いを
したのも何度か……
そのへん、ユニやハイユニは塗装の強度も高くて、
なかなか剥げないんです。
やっぱり価格なりのことは。
今でもシャーペンやボールペンのおしり噛みます。
そういう理由で、消しゴムつき鉛筆は使えません。

消しゴムつけるより耳かきつけた方が売れる気がしますが。
もうあるかな?

おもしろいもので、
あんなプリミティブなものでもメーカー・カラーがあって、
友達の持ってるトンボの黄色いのなんか
ちょっと使ったりすると、どうにも書き心地が違って
とまどったり。
大学生の頃かな、江坂のハンズでステッドラーの
青いの使って小首を傾げたりしたものです。

えらそうに(笑)

ただ、時代の流れでしょうがないとは思うのですが、
最近のユニはボディにバーコードが直接塗装されてまして、
ひじょうに見苦しい。
いや、現実問題として、エンジに白っていうコントラスト
高い模様が、視界に常に入ってるっていうのが、
文字通り見難いのです。
まあ、回して視界から消せばいいですけどね。

細かいなあ、われながら。

同じ100円でもゲルボールペンだとちゃんと剥がれる
シールにバーコード印刷してあったりして、
あれでいいじゃん、とか思うんですが……

ダース入りパッケージも昔と同じプラスチックの大げさな
ペンケースに入っており、昔と同じ消しゴム入り。
あの消しゴムがまた使い心地悪いんだ。

消しゴムってのもこれまた好みの分かれる物品で、
特に絵描きや字書きは鉛筆よりさらにこだわるかも
しれません。
消し心地、持ち心地、消え方と力の入れ具合、
消しクズの状態、経時劣化性などなど、微妙に違う。
ぼくは最近はトンボのMONOLIGHT。
同じMONOでも標準じゃダメ(笑)
サイズも小で、大じゃダメ。
なんかタバコみたいですね。

紙は普通のコピー用紙とかレポート用紙使ってまして、
これも適度な粗さがいいんです。
漫画原稿用紙とか確かに描き心地はいいのですが、
つるつる滑りすぎて……
切れすぎる刃物みたいな感じで、
ぼくには手に負えないのです。
逆に、スケッチブック系は粗くて、
描き手書き手の主張というか自信というか、
そういうものが必要になるような気がします。
ぼくにはそういうものが一切無いので、
あれも苦手です。

まあ、子供の頃から慣れ親しんでるから、
というだけの理由かもしれないですが。

キーボードも同様で、Realforceを使ったり使わなかったり
するのは、あれは非常に滑らかすぎる。
調子いい時はいいんです。
でもちょっとぽつり、ぽつり、と考えながら書いてる時は、
その滑らかさがストレスになる。
「おらもっと書けもっと書け」って感じで。
つるつるの原稿用紙に万年筆使うとこんな感じですかね。
道具に気を遣わなければならない。
あれはあくまで職人の道具のような気がするなあ。
とてもいい道具なんですけど。
日曜大工に宮大工の道具与えるようなもので、
オーバースペックです。
さりとて、あるラインを切って低品質だと、
触ってるだけでイライラしますしねえ。
難しいところ。

そうそう、こないだキーボード見に行った時に、
Microsoftのキーボードを上から順に
いろいろ触ってみたのですが、
「おや、わりと」と思ったのが実は一番下の方の2機種、
これこれ
Basicの方はミネベアのOEMらしくて、(たぶん500も)
メンブレンのキートップのスライダ一体成形機
(今キーボードはほとんどコレです)
の弱点である、スライダの四隅が引っかかるような感じ、
あれがすくなくてよかった。
MSはハードウェアの評価高いのですが、
さすが、というか、1400円のでも手を抜いてないです。
キーボードが調子悪いけどお値段安いので、
という方にはオススメ。どこでも手にはいるし。
もちろん2万近い高級機とは比較になりませんが、
用は充分足せる、という意味で。

最近はノートPCみたいなパンタグラフ構造の
キーボードも増えてきてて、あれもいいですね。
ちゃんと作れば往年のThinkPadのような
かなりいいタッチのキーボードが作れるはず。
(IBMも売ってます。これこれ
ストロークが短いので、古強者に多い強打鍵の人には
合わないかもしれませんが、普通の人ならすぐ慣れます。

いやもう、キーボードはコダワリ出すとキリがないですよ。
ギタリストの方が何本も何本もギター買うじゃないですか。
あんな感じ。
ほんのちょっと、ほんのちょっとの違いなんですけど、
使ってる人間にはもう全く違うんです。


昨今は、放っておくと身の回りのモノがどんどん
「脳化」していきます。
機能別に要素分解することでモノを見たり、
含まれる「記号」だけでモノを判断したり。

そうじゃない、と思うんです。
それも大事なんですけど、同じぐらい、
空気とか雰囲気とか、全体の感触とか、
そういうのが大事。
萌えキャラというのはスペック・記号だけではなくて、
むしろスペック以外の部分の方が大事。
ちょっとした仕草とか。
このタイミングでこのセリフですか!とか。

それを忘れないようにするには、
全身使って実際の時間の中空気の中で、
なにか物事を感じる、ことを続けるのが大事だと思います。
そんなささやかな抵抗のために、
手に直接触れる時間の長い、文房具にこだわってみる。

ほなら外へ出て夕張メロンでも作れ、
というご意見は拝聴しつつも暑くて蚊がいっぱいなので……

ま、今日はそういう理屈武装で。



 7/23 ボケ?

いいなあ、IT長者。
ぼくも女優さんと結婚したい。

ゴミって、どこの家庭からも毎日大量に出ますよね。
人数によって多少はあれど、年齢層や生活スタイルに
あまり関係なく出る。
頭や心の垢も、これに似てると思うんです。
ほおっておいても毎日溜まる。
だから、毎日捨てていかねばならない。

昨日見えてたと思うものが、今日は見えてない。
徳の高いお坊さんも毎日修業してるのを見ますと、
人生ってのは修業だなあ、ゴミ出しは毎日、
なんてちょっと憂鬱になったりもするのですが、
むしろ人生はダイエットみたいなもので、
いったんコツを掴めばムチャさえしなければ
比較的簡単に体重キープできるのかもしれません。

掴みたいところ。

先日気づいたんですけど、
人間にはボケ成分とツッコミ成分がありますね。
思い切って言い換えれば愛嬌と度胸です。
自分では、ここんところ、
ボケ成分をないがしろにしてきすぎた気がします。
でも、マジメにモノゴトを追い込んでいきますと、やっぱり
ツッコミの連続になって、ボケる余裕、
優しさみたいなものを忘れがち。
ボケとは、相手への思いやりです。
キレのいいツッコミを信頼して、ボケる。

関西のおもしろい子が就学・就職などで東京へ出て一番に
「パス出してんだから返せよリターン!」
と夜の下宿で泣き崩れるのは、
つまり寂しいんですな。

ま、それでも。
さびしくても哀しくても、ボケの生きる道はボケ一本。
ツッコミだって裏拳のハマリ心地のよいボケを探して
泣き崩れているのかもしれないのです。
ボケの方がどちらかというと少なめですからね。
隣の芝生は青い。

いま社会がちょっと余裕無いので、
ますますボケの肩身が狭いのかもしれません。
しかし、であればなおさら、
積極的にボケて、空気を和ませるのがよいかな、
と思うのです。

松本人志以降ボケというのは天性の何かが必要だ、
という誤った認識が広まってしまいましたが、
なに、ボケは慣れれば原理的にはツッコミより簡単です。
つまり、アホになればいい。
「え? それてどゆことですのん?」
お手本は現役なら坂田師匠。もちろん寛美さんでも可。

しかし、原理的に簡単なのに実行する人がすくない、
ということはつまり、難しいんですな。
相手を思いやる、ってことが。
あるいは、自分の持ってるしょーもないものを捨てて
アホになる、っていうことが。

そんな難しく考えなくても、
自分で自分を笑かしてると、結構楽しいものです。
無理矢理にまでやることはないと思いますが、
ふと、鼻の穴にボールペンを差し込んでみるのも、
いいかもしれません。

飛行機に乗らなくても、遠いところにはいけるものです。



 7/22 水えらい

あっ、ノートン先生ダメじゃん!
辺見えみりからのメールを勝手に削除しちゃ!

暑いですな。

「朝飯前の仕事」なんていいますが、
もう7時半で充分暑いですよ。
4時頃起きろってことらしいです。
長居公園散歩してますと、確か2年ばかり前に
「亜熱帯にしか生えないキノコが生えた」
と話題になったと思いますが、
もうみんな慣れっこになっちゃって見向きもしない。
今年もまた、ブラウンの美しい見慣れぬキノコが新登場。
美味しそうです。
食べると天国へ行けそう。

そんな石垣島にでも避暑に行こうかという大阪の夏、
遂にぼくの部屋が臭い理由がわかりましたよ!
ぼくが臭いのではなくてですね。

アーロンチェアを買った時に、
20kgもある椅子では畳が耐えきれまいと、
結構高級なタイルカーペットを机の下にだけ敷いたんです。
これ。
これがぼくのベタ足の汗と脂をたーっぷり吸い込んで、
頃合いよく大発酵。
鼻を近付けて嗅げば近江名物・鮒鮨にも似た
「いにしえ」を感じさせる複雑玄妙なスメルがスメル……

ぼくが臭かったんです。

もうこのベタ足には子供の頃から
ずいぶん悩まされてまして、
ぼくが家で靴下履かないのはそういう理由です。
スリッパも無理。
あのね、一週間ぐらいでべっちゃんべっちゃんになるの。
だからどうしてもスリッパが必要な場合は、
足裏につく部分がプラのものを選んでました。
合皮なら? ふっふっふ、私の足裏脂は合皮など
簡単にすり抜け、下のスポンジを直撃して
異臭を発するのだ!

のだ! とか言ってる場合じゃなくて。
このままではお婿に行けない。

だから原因ってのはひとつずつ潰していかないと
ダメじゃないですか。

そういえば若かりし頃ガールフレンドと
誰にでも18歳は訪れるの。
「ながたくんは、自分のどんなところがきらい?」
などと甘ったるい会話をしてた時に
「足が臭いこと」
と言うと思いっきり笑われました。きっと彼女は
「優柔不断なところかな?」とか
「ちょっとマルクス主義なところさ」てな感じの
もう少し形而上な答えを期待していたのだと思います。
しかし当人にとっては何よりも嫌いな点で……

そんな身体の脂ですが、
どうも一番それをサッパリと飛ばしてくれるのは、
「水」
のようです。
こびりついた汚れを落とすのは、もちろんケミカルの方が
強いのですが、なんといいましょうか、「さっぱり」が足りない。
結局、水で拭き直す。

福野礼さんの本で読んだのですが、
やっぱり服はどんな高級品でも水で洗わなければ
サッパリとはしないらしく、プロでも
皺にならないように・痛めないように・
最新の注意を払って水を使うようです。
ぼくも以前からやってます水洗髪と水歯磨き継続中で、
なんの問題もないです。
掃除の基本は、水拭き、すなわち雑巾掛けなんですねえ。

最近は強アルカリにした水そのものを掃除用に売ってたり
なんかしまして、これも殺菌効果非常に高いようです。
うちのまま上は一度使ったジップロックを洗ったあと、
これを吹きかけて乾かします。
すると前の食品匂いとか全然しない。

あと、これは科学トリビアなのでご存じの方多いと
思いますが、H20っていうのは浸透力とか溶解力とか
もの凄く強い劇薬らしいですな。

いやはや、水というのは奥深いものです。
しょうがない、足裏もこまめに水拭きするかな。

今まで拭いてなかったのかよ!!



 7/21 進化とは

最近、鉛筆もけっこう使います。

わたしゃごぞんじのごとく新しいモノ好きですから、
小学校も4年生ぐらいからずっとシャーペン一筋
だったんですが、
(当時はシャーペン使う方が珍しかったの!)
久しぶりに使ってみれば、
筆圧や角度による太さ・濃さのコントロールが効きやすく、
逆運筆(行きも戻りも紙の上から筆先を離さない)
がやりやすい。これはシャーペンでは難しい。

また、太ったら太ったで、そのにぶさが
いいバッファになって、かえって使いやすかったりする。
水性ゲルボールペンは、あまりに滑らかすぎて、
逆に気合い入れないとふにゃふにゃの線に
なったりもします。
徒然草で紹介されてたのですが、
「当代一流の彫師の刀はちょっと鈍い」
レースカーのセッティングなんかでも言いますよね、
あまりピーキーだと使いづらい。

若い頃は(笑)
「良くも悪くも自分どおり」な道具を好んでたものですが、
最近は「アシストしてくれるならしてくれた方がイイや」と
思います。
トップ性能ピーキーなものでさえすくないご時世ですから、
なかなかそれ以上に難しそうな注文ですが、
案外ごくアナログ・ローテクなところに転がってるような
気もします。

あ、あと、鉛筆は、削った時のほのかな木の香りもいいね。
鉛筆削りをコリコリやる時間も、
昔はイライラしたものですが、
今はちょうどいい一休み。
ということでweb見ては
「あの鉛筆使ってみようか……」とか
「あの鉛筆削りが欲しい……」とか
また妄想しています。

あ。妄想しなくても買える値段じゃん。
プリミティブな道具は、そのへんもいいですね。



進化っていうのは、ひととして自分一個の視点で見れば、
「AがBになる」
のではなくて、
「AがパワーAになる」
のかもしれません。
ちょっと勘違いしてました。

思い起こせば自然界もそうで、
ゾウリムシだってヤツメウナギだって
今も元気に生きており、
生きている以上は成功者です。
もっと高度に進化したはずなのに滅びた種もいくらでもある。
つまり、Bになる必要はない。
脳の構造同様、古い自分を中身にくるむようにして、
新しい自分を膨らましていけばいい。
よりパワフルなAに。

そういうイメージで捉えると、
まるきり別の何か(全体像でも、部分的なイメージでも)を
羨ましく思ったり、それにならねばと無理をしたりするのは
あまり意味が無い。
(ある程度の方向性はあってもいいように思いますが)
逆に「自分らしく」と言っても、
「自分」に固執するのはおかしい。
自分をベースにして、なんとなくふわっと膨らみつつ、
悪い方からちょっとズレて、良い方へにゅるっとにじる、
そんなジェリーな感じ。

結局小賢しくパフォーマンスアップを考えているのですが、
そのためには、
・新システム導入
・旧システムの効率向上
の2方向がある。
30超えるとね、新システムの導入は厳しい(笑)
というよりも、人間である以上は、物理的身体的に、
どのシステムとってもそんな劇的に変わるはずもない。
ならば、慣れ親しんだシステムをチューニングして
整備してアップデートする。

もうちょい具体的に言いますと、
「自分を100%使いきるにはどうすればいいのか」
時間的身体的精神的に。
真新しいことをやらずとも、それだけでも、
相当パワーアップすると思うのです。

学生さんのお勉強に直して言えば、
わからない単元に齧り付く割合を減らして、
(やらないわけではなく)
わかってるところを寝てても100%できるようにする。
そんな感じ。
そういう単元が溜まっていけば、自信もつくし、
新しい単元にも後顧の憂い無く挑戦できますよね。

それが、「進化」ってヤツじゃないかなあ、と。


鉛筆には鉛筆の、シャーペンにはシャーペンの、
水性ゲルボールペンにはそれの、
それぞれよさがあります。
どれが優れているというわけではなく。
誰かのどのシチュエーションに向いてる、
というのはあるにせよ。

鉛筆であるのなら、シャーペンになろうとするのではなく、
ステキ鉛筆を狙う。



 7/20 日の丸弁当

我々が思ってるほど野生とか本能というのは
信頼できないもので、
我が家の放蕩息子リッキーさん(オスネコ6歳)が
またどっかいって帰ってこない。
最近またスズメとか狩っては家に持ち込んで怒られたり
してたから、はて拗ねたのか。
あるいは自由に狩りのできる境涯に憧れて……

2日したら帰ってきました。
で、ほがほが言いながら鰹節をカッ喰らう。

道に迷ってたようです。

うん、だから性善説とか性悪説とか、
決めつけること自体あんま意味無いように思う。

ゴッホ見つつ思ったことを、ひとつ。

絵は特にわかりやすいんですけど、
モノにはなんでも、物理的限界があるのです。
絵ならサイズ。
観る人の時間もそうかな。だいたい一瞬ですよね。
で、その制限の中でインパクトがあったりなかったり、する。

ということは、
必要以上の情報は、こめない方が良くないですか?

画面見た時に「むっ」と思うポイントがあれば、
形でも色でもレイアウトでもテーマでも
なんでもいいんですが、
またポイント自体は数点あってもいいようにも思いますが、
そこを際だたせるように、全体を構成すべきでは。

それは基本の基本で自明だと思うのですが、
そのために、それ以外を、
切る、捨てる必要がある。
ここまではなかなかいかない。

日本の伝統文化および美意識が割とユニークなのは、
たぶんこの一点で、
捨てて捨てて捨てて、最後に残ったのは何か。
茶室に花一輪。
絵で言えば省略・デフォルメ、線を色を形を光を、
これ以上無い、というところまでシンプルにしていく。

しかしこれがなかなか、捨てられない。
すこしでも、なにかあった方がいいと思う。
お花ならお花、部屋いっぱいに埋まってる方が
いいじゃない、と我々は信じこんでる。
毎日毎晩、3食7日、御馳走が出た方が幸せだと
思ってる。

ほんとにそうかな?

6日と2食粗食で暮らせば、週に1度の御馳走が、
もっともっと御馳走になりますよね。
それが後ろ向きだというのなら、
粗食じゃなくてヘルシー食とか、
方向性が違うものだと認識すればいい。
バランスとチャレンジがものごとの両輪だとするのなら、
チャレンジばかりではなく、
バランスの中にチャレンジがあった方が、
よりチャレンジになるんじゃなかろうか。

ぼくは、今までチャレンジに大きな価値を置いてきて、
エッヴリディ・エッヴリタイム・チャレンジ'nチャレンジ
をめざしておったのですが、
そうではなくて、
バランスにチャレンジを交えることができれば、
もひとつ大きく展開できるんじゃないかなあ、
と思ったんです。

今まではそれ、すっごい「ヤラシク」感じてたんです。
やれるのにやらない、というのは。
ヤクザさんが情婦にたまーに花一輪持って帰る、
みたいな。
それは不誠実だろうと。

いや、そうではなくてですね。
やれるのにやらないわけではなくて、
やれるエネルギーは、別の所に行ってるだけ。
粗食と言っても、手を抜いたわけじゃなくて、
ちゃんとした玄米をちゃんと炊いてちゃんとした梅干しで
ちゃんとした味噌汁と共に食べてるとすると、
それは現代では実は、すごい御馳走ですよね。
そういう感じなのではないかな?

で、じゃあ、どっち方向に出すのか、っていうと、
最近凝ってます考え方が、
「自分の本然を出す」
という方向です。
自分のナチュラルを引きずり出して、表現する。
ただ、こればっかりだとひとりよがりなので、
(それでもいいとも思いますけどね。
 多様性を確認できるだけでも、表現は意義深い)
そこにチャレンジ、つまり社会性といいますか、
「言いたいこと」、
その表現が存在する意義、
それをひとつ、カーンと埋め込んでおく。

コムズカシク言ってますけど、要するに、
「やりたいようにやるけど、テーマひとつ持って」
って感じでしょうか。
それがきっと、一番のびのびうまく行って、
観てる方にも、わかりやすい。伝わりやすい。

文章で一番辛いのが、
「何が言いたいのか良くわからない文章」で、
言いたいのに言えない、のはともかく、
どうも特に言いたいこと無さそうなもの、
これは辛い。
だからやっぱり、種がひとつは要るんです。
それをくるむのは、その人の雰囲気とか空気とか、
そういうのでいいとしても。

その、白いごはんに梅干しひとつ、
その両方が美味しいと、バッチリ決まるだろうなあ、とね。

で、ナチュラル、ってのが、これが実は難しい。
今まで手にしたいろいろを、
徹底的に捨てていく必要がある。
理性、知識、古い体験(特に成功体験)、
あるいは欲望、上昇志向とか、
必要以上の好奇心や挑戦心でさえ。
それこそ、意図、意志ですら。

ギャル絵だって、できれば可愛く描きたいわけですよ。
愛するキャラを。
でもそうじゃなくて、「可愛く描きたい」っていうのを
捨てていかないと、自分のナチュラルは出ない。
すっと引いた線の上から、
「いやもうちょっと胸大きく」
それがダメなんです、その意識が意図が間違った愛が。

ネコに気に入られるコツは愛情を押しつけないことで、
「ん〜〜 むちゅ〜〜 もふもふ〜〜〜」
とかは、彼らが機嫌良い時にしかしてはいけません。
愛は大事なんですが、万能薬じゃない、
むしろ劇薬。

「HAHAHA、日の丸弁当なんか簡単SA!」
と思っていたのですが、
つくってみればこれこそがむちゃくちゃ難しい。
しかし、やることはスッキリするので、
(うまいごはん炊くことと、うまい梅干しを漬けることだけ)
難しいながらも、やりやすい。
しかも面白いもので、
日の丸弁当のはずなのに、個性ってやつが出るのです。
たぶんぼくの日の丸弁当は、なんだかクドイんです。
ほっとけ。

てなことで、
うまい日の丸弁当を。
考えてみりゃ、うまい日の丸弁当作れないのに、
トンカツも懐石もあったもんじゃないじゃないですか。



 7/19 ゴッホ雑。

先日久しぶりに会った憎いあんちきしょうにいきなり
「なにまだプーしてんの」
「フリー言うてくださいよ」
「あかん、んなもんプーや」
と扱き下ろされました。
それで思い出したんですけどわたし小学校の頃あだなが
「ぷーさん」。

すごい先見の明あるな、みんな。

あだ名って来歴がわかる物とわからない物があって、
今思ってもなぜ「ぷーさん」なのかさっぱりわかりません。
当時は今ほどアメリカクロネズミの文化侵略もなく、
『ガーフィールド』のコミックなんか持ってるだけで
ハイソだった時代です。
常に壺抱えて下半身裸の彼がモティーフではなさそう……
いや、アホで食いしん坊で微エロか。
俺だ。

すごい先見の明あるな、みんな。

それでは今日からラジオネームながたぷーで。
ながたぷー。
ごっつ気の抜ける字面やな……では、
永田プー。
なんかエロゲライターのペンネームみたいじゃん。hehe。

……。

ま、まあ細かいことはさておき。
ゴッホ展行ってきたよ。最終日しかも連休中。
入るまで炎天下1時間ざます。
いいダイエットになりました。

5/31からやってたのに粘ったのは、
はじめて実物を見た「あの日の自分」から
できるだけ変化した自分で、見てみたかったからです。
こう書くとめちゃめちゃカッコイイですね。
まるでライターみたい。
いやほんとに。

で、変化してるかどうかはわかりませんが、
とにもかくにも見てみればやっぱりゴッホは魅力的で、
とても楽しい一時でした。
小難しいこといろいろ考えなくても、
シンプルで、ダイナミックで、ヴィヴィッド。
だから日本人に非常にフィットしてるんだと思います。
浮世絵から影響を受けたと言いますが、
フラットな所に浮世絵がズバッと切れ込んだんじゃなくて、
はまるべき所に幸運にも浮世絵がはまった、
という感じがします。

彼の素晴らしい点は、
自分のナチュラルが全開に出ている点で、
その一点で見れば、(もちろん世にあるすべての絵を
観たわけではないのですが)
空前絶後の存在です。
やっぱりね、どんな絵描きも「絵」を描こうとしているのです。
でも、彼はそうではなく、常に「自分」を描いている。
そして彼にとっては切ないことに、
我々にとっては嬉しいことに、
彼は最後までそれに気づかず、あるいはこだわらず、
絵を描いてるつもりだった。
もちろん自分自身を常に認めず、偉くなりたい、
いい絵が描きたい、と求め続けながら。
なのに描いているものは、現在の自分。

人間を描けばその人間の本質に迫りすぎ、
モノを風景を描けば、それを描いているようでいて、
描いている自分自身に迫っていく。
しかも、当人は、それを意識してやってるわけではないので、
ますます本質に迫ることができる。
そこんところが、えもいわれぬ迫力になる。

ともあれゴッホを持ったということは、
人間の可能性と多様性を知ることができるという意味で、
大変幸福なことだ、と思います。
いつも、絵を観るたびに。

自分を通じて人間に迫り続けた彼と彼の絵は、
これからも多くの人に感銘を与え続けるのでしょう。
人間というのは、自分と人間に、いつも興味がありますから。

いやはや。
翼を生やしてオランダに行きたいところ。

ぜんぜん関係ないですが浮世絵の影響は現代にもあり、
オタク魂が目覚めた年若い男女がまず描く絵は
バストアップ右斜め45度、デフォルメの効いた
大首絵であり、次に描くのが大見得を切った全身像。
影を意識しないフラットな色づかいはつまりアニメ塗り。
これもまた、影響があると言うよりも、
そういう人々だから、江戸時代には浮世絵を描き、
現代はオタク絵を描いている、のだと思ったりもします。

ま。
もがき苦しむことそれ自体が尊い、
と思い出すだけでも、
ゴッホを見る意味と価値があるのです。
やはり、芸術とは、
姿勢、そして生き方ですな。



 7/18 雑々。

昨日の続きをさらにつらつらと。

つまり、人間の根本にあるのは
「姿勢」、ではないかと気づいたんです。
コンセプト、っていうと、頭の方だけになっちゃう。
身体の方、行動とかやり方とか、実際にそれを
するのかどうかとか、全部含めて、「姿勢」。

そして、どういう「姿勢」が今の自分に合っているか。
憧れとか好きとかを削り飛ばして、
(こういうものは、自分に無いから魅かれることが多い)
自分のナチュラルな姿勢はどうか。どれか。

私事で恐縮かつたいへんお恥ずかしいのですが、
わたしは、ソロモン王みたいになりたいのですよ。
森羅万象全てを知ってる賢者ね。
でもつまり、なりたいということは、無いんですよ、それは。
アホですな。
「あ、そうか、賢くなりたいということは、俺はアホか」

大発見でしょ。

で、あるならば、賢くなりたいという欲はそのままに、
アホであるという自分を認めて、
そのようにやってくのが、いちばんやりやすい。

アホになってみれば、
実はすごく眼が視線がシンプルになるものでして、
今までこだわってたことがどうでもいいことだったり、
実にカッコ悪いコダワリだったり、ってことが、
よく見えてきます。
ど素人の目というか、こどもの無垢な目というか、
いい言い方はなんとでもできますけど、
つまりアホの目。
ディテールが飛んで、問いが本質になる。
それが大事。

---

先日、
「何がOKで何がOUTかは、
 OUTの方はわかるようになってきた」
と暴言を吐きましたが、
つまりこれは一体で、
OKとはその人のナチュラルに沿ったもの、
OUTは無理してやってるもの。
(これは、ぼくの基準なので、普遍的なものではないかも
 しれません。いや、普遍的ではないと思います)

無理もね、めいっぱい頑張ると、それに没入してしまうので、
ある程度ナチュラルになるんです。
無理矢理ですけど。
プロってのは、そこの「力ずく」だけはなんとかしようと、
それこそ薬物に頼ってでも精神を壊してでも
そこには殉じるので、だから見映えがするのです。
それを失ったら、もう終わりだというのがよくわかってるから、
そこは守ろうとするんです。

しかしそれはあまりにしんどいので、
どこかでシステムを全入れ替えして、
自分のナチュラルで、対象を把握できるように、
していかないと、潰れる。
人間50年だった頃は、潰れる前に死んだかもしれませんが。

ぼくは、
「これはしんどすぎる!
 もっとちゃんとしたやり方があるはずだ!」
などと、楽をしたくて探し始めましたが、
あるいは、しんどい道を突き詰めていくと、
結局同じ所に辿り着くのかもしれません。
守破離とかそういうもので。
しかし、それはほんとうにしんどい道で、
途中でブッ潰れてるケースがとても多いと思います。
それはベストじゃない。
人間を百把一からげで捉えて、
百人のうち一人残りゃいいって時代じゃない。

……と、思うんです。
なので、その時折に気づいたことを、
お恥ずかしながら書き留めています。
誰かのなにかに、すこしでも引っかかれば。

---

「自分のナチュラルでやる」
っていうのは、簡単なようで実は大変に難しい。
まず、
・自分の本分なんか誰も知らない。
というのがあります。
それはいつも変化し続けており、
誰が教えてくれるわけでもなく、
(気の利いた友人や家族の鋭い一言は真理を突いている
 こともあります。まったく間違ってることもあります)
自分でも正しく振り返ることなど、
そのこと自体が極めて難しい。
ひとは、自分のことは、
いいように見たがるか、
悪いように見ているフリをしてそれを免罪符にしたがるか、
のどちらかです。
冷静で正確な判断などできない。

ことに日本人はそうです。
われわれは、決定的に判断能力が低い
(ゆえにまっとうな評価ができない)
民族国民であることは、
事あるごとに振り返っていい絶対の事実です。

ちょっと話はそれますが、この話をくどくどと言いますのも、
民族や国というのは、ヘタすると滅ぶものだからです。
1500年続いたからって、今後も続くとは限らない。
そして歴史上滅びた国も民族も大変に多い。
どんなに繁栄を誇ろうとも。
せめて自分が死ぬまでは、
栄えずとも滅んでもらっては困る(笑)

東京の人にはわかりにくいと思いますが、
「滅びつつある」っていうのはめちゃめちゃ寂しいですよ。
中央環状沿いのガソリンスタンドが次々に閉まっていくとね、
気分がくらーくなります。

で、「これは良いこれは悪い」というのを判断・評価する
っていうのは、次の意志決定に大変大切なことです。
間違いを繰り返さず、良い方向へ向かうために。
なのに我々は、ここが、きわめて、苦手です。

(ただ、あえて判断しないことで
 なんども同じ間違いを繰り返す代わりに
 なんどでも同じ再生を繰り返すのかなあ、
 と呑気に思ったりもします。
 読めば読むほど気が滅入る一方の愚かしいWW2から、
 わずか60年しか経ってないこの繁栄を見るにつけ、
 「評価しない」というストラテジーは、
 それはそれでありなのかもしれない、
 とうっすらとは思います)

はい余談でした。
次に、自分が「これで」と思っても、
我々は社会に生きています。
・それが社会的にOKかどうか、
という問題がある。
これがダメだと、やっぱりダメなわけです。
自分だけ逝っちゃってれば、
そりゃ本人は春かもしれませんけど、まわり大変ですし、
そもそもそういう人にはなりたくないですよね。

しかし、社会というのは実はそこそこ許容力があって、
わりとなんでもOKなんです。
仕事ひとつとっても、実に様々な仕事があって、
それに適した人はいる。
恋愛でもそうで、街を歩けば蓼虫カップルがうようよしてる。

そこで大事なのは、
「いや、これでOKやろ」と胸を張って言えることであって、
よく「自信」などといいますが、
自分の判断だけでなくて、やっぱり客観性もある程度は
交えて、
「これでいいですよ」
と押せるきもち、これが大切なのですな。
で、それを得るのは、
経験か、評価か、実績しかない。

たくさんやってると目が肥えますから、
自他関係なくそこそこ正しい評価できるようになります。
正しい評価できるようになれば、腕もあがる。
もちろん、他者に評価してもられば、
それにこしたことなし。
ビジネスなどでは、儲けが数字で出てきます。
それもとても大きな判断材料になりますね。

だからまあ、つまり、やるしかないんです。
やらないと、これらは出ませんからね。

さてこうすると、
「やりたいようにやって、社会にも適合してる」
という夢みたいな状態になる。
こうなってくると楽しくてしょうがないわけですよ。
ノリにノってる人が実に楽しそうにハード・スケジュールを
こなしていくのは、こういう状態なのだと思います。

そうなってのちも、
ますます自分のナチュラルに迫りながら、
ますます社会適合性も増すようにすると、
ますます楽しくなると思います。
きっと。
そこまで行ったこと無いのでよくわかりませんが(笑)
ただ、そのどちらも大事にすることを忘れてしまうと、
どちらかにズレすぎてしまう恐れはあるのでは。
だから、ま、一生修業なのです、きっと。

もうちょい言い換えますと、
「これでいいの!」と断言できるチカラ、
で、ジーコ監督みたいなものです(笑)
日本中のサッカー好きが「あれじゃダメだ」と
思ってたのですが、ダメなのは我々でした。
人間ですから、無理な断言はやっぱり難しい。
するからには、根拠が、言葉にできなくても身体で、
全体的に、ある。
そういう断言ができなければ、ということです。

え? ぼくですか?
ほら、ぼくはいつも目を閉じて耳を塞いで断言ですから。

「説得力」って言ってもいいかなあ。
いいもの、って説得力ありますよね。
店頭でPOPとか無くても、ズイッと前へ出てくる。
細かいディテールなんかどうでもいい。
それには、やっぱり言ってる方が
断言してなきゃダメですよね。
自分にもひとにも説得力もたせるためには。

---

蛇足をだらだら続けますと、
キーワードとしては
「なんとなく」
じゃないかな、となんとなく思って、
topの文言を変えてみたのです。

いいかげんなようですが、
というか実際いいかげんなのですが、
「なんとなくいい感じ」
っていうのが、やっぱりいちばんいいんですよ。
「こういう理由で」なんてのは、頭の独裁。
「これがいいッ!!」っていうのは、逆に、
麻薬や劇薬だったりして、危なかったり、飽きたりする。
「なんか、いいな」
ぐらいが、いいんじゃないかなあ、と思うのです。
薄味とか、上善如水、っていうのは、
たぶんそういうことで、
薄いからいい、飽きないからいい、っていうのではなく、
フィットの加減がちょうどいい、そんな感じだと思います。

そういえば私も5台クルマを買ってるアホウですが、
いちばん長く続いてる今のエグザンティアは、
「なんか、いいなあ」
と思って買いました。
最後まで競ったのは2代目レガシィのRS
(これもイイクルマでした!
 今街で見てもすごいカッコイイ!)
で、たぶん頭で考えるとRSだったのですが、
「なんかいいな」感が強いのはエグだったので、
最後は自分の直感を信じました。
で、7年半です。

結局いちばん強いのは、
いちばん弱々しい結びつきのような気がします。
結びついてなくても結びついてるというか、
空気のようである、のが。

あ、言い方換えれば、
「全体観」
なのかもしれませんね、「なんとなく」というのは。
総合観というか。

宮大工の、小川三夫さんだったか西岡棟梁だったかが
言ってたのですが、
「研ぎ」というのはむちゃくちゃ難しくて、
まずまともに道具を研げるようになるのに3年は掛かる。
私もたまーに台所の包丁など研いで思いますに、
「なにがベストか」
まず、さっぱりわかんないわけです。
研いだことある方はご存じだと思いますが、
片面研ぐと、巻き返しが起きて、
し ←こんな感じになって、キレが鈍る。
それを避けるために、ある程度逆面も研いで
頂点が一番鋭いようにするのですが、
さてそれがホントに上手くいってるか、
ぜんぜんわかんない。
「うむ、研げた」
この感覚自体を手に入れるのに、
毎日しこたまやって3年かかるのです。
表100回裏10回とか、そんなもんで数値化・法則化など
できようもない。

そして本人の能力向上と共に、
「うむ、研げた」のレベルがさらに上がっていく。
そうなると、刃はますます鋭くなっていく。

「なんとなくOK!」って、自信を持って言うには、
そういう総合的な感覚が、身に付いてなければならない。
それは、「こことここがOK!」よりも、
ずっと高度な感覚なのです。

---

そうねえ、あとなんかあったかしら。

あそうそう、数日前に
「ながた節などと認識していただくのは嬉しいものだ」
と書きました。
が、実際そうなんですが、それと同時に、
「まるっきり書き手のことなど意識しない」
というのもまた、ステキな境地です。ぼくでいうと
「『ミラクルズ!』って誰が書いてたっけ?」

「自分」が消し飛んでるからです。

いずれ、そういう境地で全編書けるようになれば、
そういうものも書けるかもしれません。
こればっかりは、思っちゃったら当然のごとく
できないことなので、
ま、いずれそんな風になったらいいなあ、ぐらいで。

「え? あれあの人? マジ?」てな感じで。

---

すみませんダラダラと。
しかし
「各枠組みごとに要素を詰め込みに詰め込む、
 そうそれが俺のナチュラリティ!」
とかわけもわからず盛り上がっておりますので、
その実践をば……

無理だ!
おれにはシンプルな懐石料理などとうてい、無理だ!
ミックスモダンお好み焼定食カラシマヨケチャップ入り
食後のドリンクは特濃ピーチネクター!
ついてこれるヤツだけついてこい!

……すみませんまれには食べに来てください特濃特生を用意していつもお待ちしております……

そんな心境です。

つまりね。
まだ続きますか。
ええ、つまり。

正解というのはなくて、
ひとそれぞれに自分の解があるだけなのです。
見つけるべきは自分の解で、
それを見つけられれば、だいたいOKなんですよ。
それすら大変で、しかも変わっていくので、
ずっとずっと、それを追い求める。
青い鳥です、青い鳥。
幸せは、鳥の姿して羽ばたいてるんじゃなくて、
そこにいる妹ですな。

「これが、今のぼくには、青い鳥だな」
と思うことを、ちょっとずつ見つける。
その連続ではないかな、と思うのです。

「正解」を追う努力を止めると、
突然楽になりますよ。

ただ、止めるだけではアッパラパーになっちゃうので、
なにかを求めなきゃ。
ならば、「自分の解」しかない、のでは。

学校教育(特に受験)の
良いところは根性とものを成す方法論が
身につくところですが、
悪いところは正解が常にあってそれを求める習性が
ついちゃうところかもしれませんね。

世の中にも人間にも、正解なんかありませんからねえ。

あたしゃこう見えても学校自分は優等生でしたからね、
そういう習性がついちゃってついちゃって……
と言ってみてから、ああそんなこと言うと
ひょっとすると先生方に怒られるかもしれないと思い直す。
不良ではありませんでしたが、
アンコントロールな生徒だったと思います。
わはは、三つ子の魂ですね。

「自分に嘘はつけない」
なんて申しますが、まさに自分の本性、
ナチュラリティに嘘はつけず、
そこを強引に理性や感情やイデオロギーで無理をすると、
確実に嫌なトゲになってしまう。

個性とは、隠しても隠しても出るものであって、
出すものではない。
「これがオレ流」なんて思った瞬間、
それは止めた方がいい。

むずかしいようでかんたん、
かんたんなようでむずかしい。

以前、「やれるようにやる」ことの大事さを
切々綿々と自分に向かって説いた記憶があるのですが、
すこし修正しますと、
「一番やりやすいように、めいっぱいやる」
って感じですかね。
それが結局は、一番パフォーマンスが出ると思う。
それがどんな結果を生むかは、神のみぞ知る。
自分のMaxをどう絞り出すか、
それが、自分のできる最大の努力のはずです。
んだば、それをやりましょう。

まあ、なんとなく、いっしょうけんめい。



 7/17 雑。

梅干しパワーで夏バテ解消中!
昨日なんか朝8時に寝て起きたのは
夜10時!

びっくりしましたよ。

あ、でもほら、年とると長寝できなくなるって言うから、
長時間睡眠は若さの証拠……

そんな話題をすること自体ジジイだ。

最近のもひとつオススメは、
膝上キーボード打鍵。
古いNaturalに戻しつつ、いろんな策を考えたり、
ヨドバシ梅田のコーナーで1時間近く粘る変な人に
なってみたりしたんですが、どうもダメ。
しかし、角が引っかかる感じなら、指を打ち下ろす角度を
変えればいいのではないか、と考え、
膝上に置いて打ってみたところこれがだいぶマシ。
マシってだけで「良い」ってわけじゃないんですけど。

そういえば友人にもキーボード膝上に置く人
2人ばかりいるなあ、(どちらもSE)と思い出しました。
キーボー道では5歩先をゆく国立大学助教授の権威、
F氏に訊いてみれば
「いや私愛用のデータハンドも膝上置きがデフォルトですよ」
とのこと。
これはこれでひとつの解かもしれませぬ。
もちろん、これでキーが良ければもっといいのですが……

あとは今日発見したのですが、
大粒のぶどう(巨峰)を冷凍庫で凍らせると
すごい美味しいですよ。
しゃりしゃりした食感もさることながら、
巨峰って、皮と実の間が濃厚で美味しいじゃないですか。
でも剥くと剥けちゃう。
凍らせると、一番上の薄皮だけめくれるので、
(もちろんそのままもいけますが、ちょい苦い)
パンチ効いてて美味しいですよ〜。

寝過ごすと1日短くて書くこと無いです。
すいません。

そうそう、ついに靴を買いました!
ホームセンターで2000円で……
なんかすぽっと履くタイプの、なんかやすもんです。
でもこれがあーた、履きよい。
ベストでもなんでもなく、そりゃ足に合ってる高級
スニーカーの方が歩きやすいの間違いないんですけど、
近所へ散歩行くだけならぜーんぜんOK。
18000円ぐらい出して真剣に選んだ靴が
大ハズレだったトラウマがちょっと残ってて、
「もおこゆのでいいや;;」
と半ば諦め、半ば喜んでます。

やすもんに使われてる技術というのも
最近はバカにできないようで、
100均のガラスのコップとかに使われてる技術も
昔なら超高級品でしか使わなかったようなもの
なんですってね。
良い技術が一般化してコストダウンして降りてくるものも
あれば、
安くするために考え出された技術が結果として
性能にも結びついたりします。

歩けない高級品より、歩けるやすもの、です。

---

自分自身も変化しますし、
状況も変化しますし、
状況に合わせてどの面を使うか変えたりもしますから、
一概には言えないと思うのですが、
ひとはほら、それぞれです。

くてくてに疲れるまでなにかやってみると、
そういう最後の「なま」なところが出てきて、
「ああ、ぼくはこういうタイプだったのか」
というのがわかることがあります。
(だから、くたくたになるまでやってみる、
 というのはすごく大事なのではないかと思います。
 だからか、ぼくは結構すきです)

私ごとでお恥ずかしいですが、
サッカー(見てる方)ではボランチが好きです。
ご存じのようにサッカーというのは攻守が一点・一瞬で
切り替わるスポーツで、そこを司るポジションが、
ボランチ。あのスポーツの醍醐味は、
ここに最もあるのではないか、と思うのです。

ということは、他のことでも、
そういうポジションのことが、好きらしい。

ひとはいろいろですから、
「といやー!」と猪突猛進してシュートを撃つ人も必要
ですし、気が触れたように走り回って空間を埋め、
状況を有利にしてくれる人も必要ですし、
どんなにぶん殴られても巌のように突っ立って
波浪から人々を守る人も必要です。
そして、いろんなポジションができる人もいますけど、
たいていは、向いてるポジションがあって、
それに合わせてそういうプレーをした方が、いいんです。

なんかそんな感じで、私の場合は、
シュート撃って点取るのかっこいいけど、
もうそれはあんまり考えないようにしようと(笑)
諦める、っていうのとは違って、
どうしてもそういうシチュも起きるし、起きれば前へ行って
撃とうとは思いますが、
それよりもまず、やれることと、やりよいことで、
TODOリストを埋めていく。
1日なんて短いもので、
そうやってみると、それだけでたいてい、
あっという間に終わるんです。

まあ、その方がいいですよね。

「無理しない」っていうのはやっぱりちょっと後ろ向きで、
「合ってることに全力投球」っていうとかなり前を向く。
そんな感じ。

そう考えると、
自分と関係あるものないものがハッキリして、
ずいぶん楽になります。
関係あるもののなかでも、プライオリティの置き方も
ハッキリする。
そしてそこがハッキリすると、逆に、
自分の知らないものに対して、憧れたり、敬意を払ったり、
自然とできるような気がします。
何を知ってて何を知らないかを知らないから、
知ってる気になって注意を払わない。
知らないと思えば、人間には好奇心がありますから、
知りたくなるものです。
またそこから、進歩できるかな、とも。

「なにができるだろう」
「なにをやるべきなのか」
ではなくて、
「いまこれをやりたい」
「これができるはず」
を小失敗にめげずずいずい突いていくと、
結果いつかは当たり鉱脈に当たるだろう、
そんな感じです。
エラーが出てるってことは、勝負してるってことで、
いいことなんですよ〜。

さらにシンプルに言えば、
「○○をやる」ではなく、「やったら○○」。

ま、世の中そんな簡単にはやらせてもらえないのですが、
なんとかかんとか、そういう状況に持っていくのも、
それもまたよい試練。
どこまでできますことやら。

そんなこんなで、最近、
思いついたことをペラペラしゃべっているのです。



 7/16 雑。

惚れっぽい方ではないと思うのですが、
今までの生涯に何人かは
ズッきゅーん

もうね。
一人80年代はそろそろ終わりにしないといけないと
思ってはいるのですが、
たのしくて。

と来た人はいます。
「お、いいね」どころじゃなくて、「これだ!」って感じ。
小学生の頃から順に並べますと、
ガウ・ハ・レッシィ、森沢優、澤倉美咲……

ダメですなあ。
ええもう昔からダメですとも。

そんな私の久しぶりのストライク空振り三振な方は
エマ」さん。
ちょいと前にアニメもやってましたからご覧になった方も
おられるかもしれませんが、
いやもう、いいですな。
地味でメガネで清楚で控え目でメイドでね。
パーフェクツ!

ていうか。
嫁に来てくれ。

あんなイギリスなら住みついてもいいね。
もう一日中曇り空でも心は天晴れ。

おもしろかったのは作者の森薫先生が1巻のあとがきで
エマは自分の趣味爆発だと告白し、
雑巾のように自らの身をキューッと絞っておられるのですが、
そのお気持ちわかりますわかります。
自分で描いててキューッとなるキャラ、
そのぐらいのキャラでないと迫力でないもの。
登場人物全部それだとしんどーてしゃーないんですけどね。

絵描きは自分に似た絵を描くと言いますが、
森先生実物も相当な美人でいらっしゃるそうです。
同様にもの書きは自分に似たキャラを書くもので、
つまり僕のキャラは常にアホばかり……

もういいじゃないもう。

最近気づいたんですが、
僕はつまりあらゆる機会に延々と
「落語」を書いてるんじゃないかと……

今頃気づくな。

---

そんなこんなで、
原点回帰して、
落語風に落語的に書こうかなあ、
なんて思っています。
正確には落語と講談の中間ぐらいですかね。
落語は非常に演劇的で、人物はイキイキするんですけど、
状況や心境の描写が弱い。
(もちろん本物の落語家さんはそれを芸でカヴァーする)
講談はその辺もう少しキッチリしてますが、
落語ほどのリズムとテンポは無い。
会話というのは興味がなくても聞けるものですが、
地の文、描写というのは興味がないとすごくつまらない。

僕の文はさくさく読めるとほめていただくことが
あるのですが、秘訣はここで、
つまり会話が多すぎるんです(笑)

会話ってふしぎなもので、
喫茶店で隣のおばちゃん同士が会話すると、
ずるずる引き込まれちゃいますよね。
テレビやラジオのニュースを無視できても、
ライブで会話されると負ける。

基本的に会話で成り立ってる芸、落語は、
だからフォーマットとしてすでに
聞き手を引きずりこみやすい。
そいつをうまく応用できないかなあ、と思うのです。

でも、文章のいいところというのは、
読みながら考えたり想像したりもできる点で、
というかそこをあまりないがしろにすると、
それこそ落語や演劇やラジオ・トークに負けるわけで、
その点は講談のような想像しやすい描写を交えて
強化していこうと……
欲張りですが。

落語と漫談の差と言えば、
「おはなし」か、「自分の話」か、の違いだと思います。
だからこれ(ほえなが)は漫談。ミラクルズが落語。
本質的には同じですが、
練りと完成度を取るか、生々しさと新鮮さを取るか、
重点の置き所が違う。

---

なんでこんなことを考えてるのかと言いますと、
自分に向いてるコンセプトを見極めておきたい、
のです。

サッカーでも、ものすごく大雑把に言えば、
「ポゼッションサッカー」と「カウンターサッカー」の
二つにわけられると思います。
ボールをたくさん持って、意図を押しつけるか、
籠城して相手に攻めさせ、隙を突いて速攻でひっくり返すか。
結局は「勝つ」という目標に向かうのですが、
そのために取るスタイルは180度違う。
そしてチームによって、選手層や監督の得意不得意、
好み、合う合わないがある。
合わないスタイルを持つよりも、
合うスタイルでのびのびやった方が
絶対にいい結果が出るし、また楽しい。

ここでまた難しいのが、
「憧れ」っていうのがあって、
人間自分に無いものを欲しがるもので、
つまり合ってないものをこそやりたがる。
ぼくは子供の頃から好みと適正の違いに悩み続けて
早34年弱なのですが、どうもぼくだけではなくて、
人間というのはそういうもんじゃないかな、と
最近よく思います。

その、ピュアな憧れというか欲というか、
そういうものを振り払って、
「いや! やっぱり勝つためにはカウンター!」
と覚悟を決める。
そのために、「自分とはなんぞや」をしつこく、
繰り返して、いつも見定める必要があるなあ、
と思うんです。
ナルシスティックな気分じゃなくて、
自分もわからんのに人なんかわかるか。

そして見定めることができたら、
それにしたがって、欲望や意志を捨て去って、
自分の自然、本然といったものに戻っていく。
(マタ ハジマッタ ゾ)
それが、空、ってやつで、
無になる、無にする、という気持ちや意図さえも、
無にしてしまう。

ま、そりゃなかなかできへんのですが、
状況としてはみなさんもたくさんご経験されていると
思います、「忘我」の状態です。
だが、あれにはなかなか至れない。
自分がほんとうに興味あるもの、好きなもの、
あるいは覚悟を決めて取り組んでいるもの、
に対して、心身ともにエネルギッシュで、
無理なく自然な手法や状態で立ち向かわねば、
なかなか。

そのために、梅干し食べて口元をすぼめたり、
「オレって何が好みよ!?」と「エマ」読んでニヤついたり、
そういうことが全部、必要なのです。
というよりも、
そうやって日々なんとなく生きている一秒一秒が、
よくよく見つめてみれば、
自分と世界について、
いろんなことを教えてくれる。

願わくは、いろんなことが見られる眼を養って、
見たものを誰かに伝えられる腕っ節を鍛える、
そこまでいければまたなおよし。

悟りっていうのは、
我慢することでも諦めることでもなく、
自分の本念にしたがって、
のびのびと生きるってことなのかなあ、
と思います。

一休さんってアニメの印象で優等生なイメージありますけど、
実は息子が居る(らしい)立派な破戒僧で、
酒は呑む老いてなお盲目の美女を愛しそれを日記に
書き倒す。
あれですわ、さよちゃんや弥生さんはもとより
新右エ門さんだって危ない。
いやむしろ和尚さま……
そんな人ですが民衆の人気は大変なものだったらしく、
つまり、悟った人というのは、
様々な矛盾や悩み苦しみを抱えつつも、
素直に生きた人のことを言い、
その境地未だ遠かりける我々民草は、
どうしてもそういう人に憧れてしまうようです。

私も、死ぬまで生々しいまま行ってしまうと思いますが、
それが自分自身であるならば、
それでよかろう、と思います。
そんなようなことをちょっとずつ思っていきたい。
許すとか諦めるというよりも、
認めるというか、「あ、そうです」とうなずくというか。

いいもの書きたいと思ったら、
いいもの書きたいと思っちゃダメなんですよ。

想像力の翼など実にか弱いものなので、
めいっぱい思いっきり広げなければ、
飛べません。



 7/15 男は度胸女は愛嬌

などと申しますが。
ジェンダーなんとかのご時世ですから、
男が女が言わずどちらもどちらでよいですな。

愛嬌ってのはわかりやすい。
「媚び」とは違い、場を相手を和ませる、ゆるやかにする、
言葉、仕草、行動、それにはとても価値がある。
特に人類の花であるところの若い女の子に
そうしていただけると、場がぱあっと明るくなりますな。
これはもう理屈抜きに。
ほんとですよ、お兄さん断言してもいい。
化粧品屋や洋服屋の言うことは聞いたらあかん(笑)
若いうちこそ顔が多少デコボコでも愛嬌がある方が
いいのです。
もちろん年とるとみんなデコボコになるから、
やっぱり愛嬌のある方がいい。

さて、じゃ度胸というのはなんでしょう。
わたくしいろいろ考えますに、今風の言葉で言うと
ものごとに「コミットする」という姿勢ではないでしょうか。
かかわる、ということ。

「いざ鎌倉」って時に問題なのは、
能力とか資質とか経験とか、そういうものら一切ではなくて、
「やるかやらないか」だけです。
優しいハンサム賢いいいひとお金持ってる、
そんなもの一切これっぽっちもなんの関係もない。
擦り切れそうな鎧を着つつ、骨と皮だけの老馬に跨り、
錆びた槍と刀を帯びて、でもしかしやってくる。

関わり方はいろいろですから、現場へ出るのも、
金を出す、知恵を出す、コネを使う、なんでもいい。
あるいはそれこそ、「関わらない」という宣言でさえ
関わることです。
つまり要するに、「コストとリスクを背負いますよ」という
姿勢ですね。離脱にもコスト&リスクはある。
頼りになるのは、そういう人々なのです。
男女問わず。

頼りにならん人に限って言い訳が多く、
「ボクはいい人じゃないから」とか。
いやそんなことはどうでもええねん。
腹の黒さ白さはどうでもいいので、今問題は、
村の神社の夏祭りの寄付を出すか出さないか。

あー……耳と心が痛くなってきた。

学校教育は、役立つ能力は鍛えてくれますが、
度胸という姿勢は教えてはくれません。
し、そういうところまで期待するのは酷で無責任です。
まあ、おたがい、
「ここは度胸の見せ所やで」
と確かめ合うしかないんじゃないでしょうかね。

度胸も愛嬌も欲しいところですが、
古人は存外優しいもので、
半分に分けることで、半分だけやればいい、
と義務を軽減してくれていたんですなあ。
いや、ジェンダーなんとかの21世紀ですから、
がんばって両方いきましょう。
人間は、度胸と愛嬌。
これで。



 7/14 コンサート With Love

 まきをちゃんのコンサートに行ってきました。
 休憩挟んで正味2時間がほんとうにあっという間でした。
 ホールに着くまでは娘のピアノ発表会を待つ親のような心境でしたが、見事裏切られ浸らせていただきました。
 わたくしごときがゴテゴテ言うより、こちらからCDどうぞ。
 女性ヴォーカルの好きな人、ジャズを囓ってみたい人、サックス・ピアノ・ベース・ドラムを楽しみたい人(どなたも関西一流の名手揃い)、女王様に踏まれたい人、いろんな人に間口広いと思います。
 実際、コンサートも老若男女、下は大学生から上はおじいちゃんおばあちゃん、右はアート系ボーイから左はフツーのおばちゃんまで、いろーんな人が楽しんでました。とてもとてもステキなことです。

 もしお気に召しましたらぜひライヴで、本人のキャラにも触れてみてください。ますます好きになると思います。

 「まきをちゃんを聴きに行く」というのは、羨ましい表現です。ぼくも「ながた節を読みたい」と言っていただけるよう、精進せねば。

 いやあ、道は遠く遠く果てしないですが、
 一歩一歩歩いているのが楽しいのですよ。



 7/13 EQ2を見て

本日はゲームの話題にてご興味無い方には申し訳なく。

EverQuestII」の実働するところをたっぷり眺めました。
いやあ、面白そう。
絵柄が濃いので敬遠していましたが、
さすが老舗EQが心血を注いで作りあげた続編、
奥行きの深さが不気味なほどです。
要求マシンスペックがちょっと高いおかげで
即買い即プレイは避けられたのですが、
やばい。あれはやばい。

なにより、MMORPGとして「FF11」で
ストレッシブな部分を相当解消してあるようで、
それが羨ましい。
RMT業者が入ってこれないような工夫、
(公式RMTの導入、高レベルプレイヤーが乱獲しても
 宝箱の出ない仕様)
レベル差を解消して遊べる工夫、
(レベルダウンと同時に自動的に装備品の性能が下がる、
 また低いレベルでないと手に入らないクエストアイテムが
 あるが故に積極的に低レベルをしたくなる)
移動の面倒の解消、
(Lv1から街間移動手段の確保、
 1時間に1度街へ帰る魔法が全ジョブで使える、
 高速移動魔法も使用可能)
倉庫キャラとのやりとりの面倒を解消、
などなど。
どれもFFで今すぐにでもやってくれ、
と絶叫したくなる工夫です。

ここで見物なのは、サービスやってるのが
「FF11」と同じスクウェア・エニックスである点。
さて、FFにはどのように反映してくれるのでしょうか。
大量のPS2ユーザーを抱える以上、
メモリとかHDDとかいろんな部分が切迫してて、
ジョブにしろ装備にしろクエストにしろ、
これ以上の追加が難しいのはわかります。
しかし、上記のような「工夫」でなんとかできるところは
たくさんあるはずです。
バリスタにしろプロマシアミッションにしろ、
レベル制限での装備品をEQ2式にするだけでも
気軽さがぜんぜん違う。
あるいはENMのように、ミッションやBCで、
お手伝いさんにも経験値が入るようにするだけで、
なんぼほど活性化するか。

FFは大好きなので、もう少し遊びたいと思います。
まずもう少し人手を掛けて、
「ゲーム」ではなく「サービス業」の視点をもうちょい持って、
ますます工夫してもらいたいなあ、と思うのです。
EQもいいのですが、やっぱり虎男よりミスラがよくて、
ネズミよりタルタルがいいのです(泣)

見せてくれた方がおっしゃるには、
「3時間やるとたっぷり満足するけど、
 翌朝起きたらまたやりたくてしょうがない」
そういうのが、理想かなあ、と思います。

がんばって〜。



 7/12 必死さが足りない

最近、必死さが足りないと反省してます。

やっぱり大事ですよ、必死さ。
いっぱいいっぱい、一所懸命脇目もふらず。
これも罠のひとつでしょうか、ある程度できるようになると、
「いいものつくりたいねえ」
とか贅沢言いだすようになって、
初心者の頃の「つくるだけで一杯一杯」だった頃の、
あの「なんとかしよう!」「どんな手段を使っても!」
というピュアな気持ちがどこかへ行ってしまいます。

昨日「ほぼ日」読んでると、クフ王のピラミッドが
本格的ピラミッドの3つめか4つめだったというのを
知って驚きました。
つまりもう、みんな必死だったから、あれだけのものが
できたのかもしれません。

だからどこかに、「必死のタネ」みたいなものを
(トライのタネとほぼ同じかもしれません)
見つけ出し、あるいは自分で植え付け、
その力を借りつつやっていきたい。

たとえばですけど、もしぼくが今
「今度出るゲームの『音楽』やってくれない?」
と言われて、しかもどうしてもやらなきゃならなかったら?
そりゃもう、必死も必死ですよ。
右も左もわからないから、ありとあらゆる手を使って、
人に訊き倒して本読み倒してコッソリパクっ……いやいや。
結果わかりませんけど、そういう「必死さ」はたぶん、
すくなくとも悪くない「印象」をもたらすと思う。
「うわっ、レベル低っ……まあしかし、嫌味ではない」

それが大事だと思いますよ。
レベル高くて面白み無いより、
レベル低くても微笑が出るぐらいの方が。
だって……楽しむために触れるものですからねえ。

あまりキーキーとなってもよろしくなく、どんなものでも
ニコニコ笑ってやるにこしたことはないです。
でも、笑顔と「なんとしてでも!」という気迫は両立する。
というよりも、
気迫を、笑顔でやってるところに叩き込む感じで。

昨今の風潮として、「必死」がカッコ悪い、と言われます。
それは、必死の向きと対象によりけりであって、
その姿勢自体が悪いわけでは決してない。

「なんとかよいシステムを」と考え込みすぎて、
ど基本である「エネルギー全開!」をちょっと
サボっていたような気はします。
システムが優秀だろうが非効率だろうが、
エンジン全開は基礎の基礎、パスポート。

がんばろうっと。



 7/11 伝統食で頑張ってみる

三ヶ月ごとに新しい健康法に凝るながたです。

最近は、伝統食品に凝ってます。
梅干しとらっきょとショウガの甘酢漬けがあれば、
もうあとは何も要らない。
うわ、キムチだ、ごちそう〜。

ジャパニーズ・トラディショナル・フーズ……
というか、おそらく、トラディショナルであれば
どこの地方のどこの民族のものもそうではないかと
推測するのですが、
基本的に「そんなには食えない」ことを前提に
組み上げられている気がします。
からだのバランスを整えて、
最小のエネルギーで最大効率で動かす。

明治期までの日本人の粗食たるや
近代栄養学が全く通用しないほどで、
話読んでると平気で
「魚が出るのは月一度」
とかそういう描写が出てくる。
普段は雑穀混じりの、時には雑穀オンリーの主食を
むさぼりつつ、あとはタクアンなどの保存食が副菜で、
それでまあ、明治維新もできたわけです。

たぶん、そのぐらいでなんとかなるんだと思う。
今は、余剰に入ってくるものを
どんどん捨ててるんじゃないでしょうか。
生活習慣病とは結局、捨てきれない余剰が
体内に蓄積して腐ってしまったものではないか、
と勝手にイメージしてるのですが。

私も若い頃脂っこいもの大好きで、
というか今でも大好きなんですけど、
焼肉のロースなぞをタレに浸けた後白ごはんに乗せ、
そのごはんごといただいて生ビールで流し込む瞬間など、
「至福」以外に表現しづらい。
こうしたパワー・フードはパワー・フードでいいんですけど、
実際滋養強壮にガツンと効く感じもしますけども、
それはやっぱり、身体に無理も掛けてるので、
たまに、がいいのではないでしょうか。
その方が、より美味しく楽しめるしね。

夏バテの季節ですが、パワー・フードは矛盾したことに、
それを消化すること自体にすごいエネルギーが必要です。
こういう時こそ、伝統食で身体のバランスを整えた方が、
結果としてはうまく行くような気もします。

梅干し食べて「これは効くかも!?」と思って以来、
ちょっと凝っちゃってそんな食べ方ばかりしてます。
また、伝統食には保存食が多く、塩気が効いてるので、
結果として米、すなわち基本エネルギー源をより多く
摂ってしまう、という効果もある。
炭水化物キッチリ摂ってりゃ死にゃあしない。
日の丸弁当(白いごはんの中央に梅干しだけが輝く
シンプルな弁当……ってこんな註を入れようと
思っちゃうような時代ですなあ)っていうのは、
実はとても合理的な昼食かもしれません。
昼食なぞ間をつなげばいいわけで、
御馳走は夜食べればいいですしね。

いやあ、こんなこと言うと長渕剛さんみたいですが、
日本人はどんどんバカになってってるんじゃないかと
思いますな。
もちろん自分も含め。

「ちょっと我慢すると、だいぶ幸せ」
というのは、結構いろんなことが
そうであるような気がします。



 7/10 お米を研ぐところから

与えられた知識は、年賀状ソフトみたいなものです。
誰でも簡単に、綺麗なイラスト入り年賀状が刷り上がる。

しかしそれは、「あなたの知識」ではない。

今我々は、身の回りすべてで、
当たり前のようにこういう「与えられたもの」で
生活しています。
食事の用意をしてくれと頼まれれば、
スーパーとコンビニと自販機を巡り、
webでお取り寄せすれば、
ゴージャスな世界の珍味が山のように食卓を飾る。
それはとても幸せなことなのですが、
しかしこと「知」に関して言えば、
そんなに手放しで喜べることか。
先人達が人生賭けて稼いでくれた成果を、
簡単にもいで食んで、なにか得た気になってはいないか。
その食卓は素晴らしい、
しかしでは、君はいったいなにをしたのだ。

つまり、米一つ研いでないわけです。

知識を得ることが悪いことではもちろん無い。
しかし、そうやって得た知識は、
買ってきたものをそのまま並べただけだ、
と認識しておかねばならない。
そしてできれば、ほんとうは、自分でもそれを作れるように、
なりたいところ。

で、作ってみようとすると、これがたいへん難しい。
「サトウのごはん」ならパックをちょっと開けて
2分チンすればすむものを、
土鍋でごはんを炊くとなると、プロの主婦でも
毎回確実にやってのける自信ある方は
最近ではすくなかろう。
ましてローストビーフとかエビフライとか言い出せば
またこれが面倒なんだ。春巻きとかね。
そしてお漬け物。何ヶ月単位の時間までかかる。
「ん〜 チリワインはやっぱり粗いねえ」
作ってみなはれ。

人間の能力なんて、縄文の昔から1ミリだって
進歩してないのです。
14代続く薩摩焼の当主が
「伝統は守るだけで一生かかってできるかどうか」
って言ってますよ。
考えてみればそりゃそうですよね、
何百年掛かって完成した体系、受け継ぐのだけでも
めいっぱいめいっぱい。

本来、「かしこい」という誉め言葉は、
観察力・洞察力・合理的な論理の組み立て能力、
そういったものを総合して評価されたもののはずです。
それが今では、売り物の知識の多寡、
せいぜい、「どこでなにが安く売ってた」とかそういう
知識の量を示す指標になってしまっている。
それは、マズイ。
(もちろん、オーバーラップもしてるんですけども)

世で賢そうに振る舞ってる人でも、
一枚剥けば寄せ集め、の人は多いですよ。
寄せ集め自体が悪いのではなく、
寄せ集めは寄せ集めであって、「賢明」ではない。

ソクラテス大先生のおっしゃった
「ワイはアホや!」
というのがすべての出発点で、
つまり、土鍋でお米炊くところからはじめてみないと
いけないんです。
普段はサトウのごはんを食べるにしても、
やったことあるとないとだけでも大違い。

教育というのはほんと難しくて、
若い時に道具の便利さと使い方も、
しかしそれは道具の性能であって君の能力ではない、
ということも、両方教えておかねばならない。
一応、段階的に追体験させようとはしてるんでしょうけど、
はたして……
図工とか家庭科(いまは生活科でしたっけ)はまだしも、
いわゆる主要教科の方が、厳しそう。

こういうことは、とても時間の掛かることです。
期限切って「ここまでにこれだけのパフォーマンス」と
迫られると、時間さえあればできた人が落ちてしまう
可能性がある。
そういう人は、本質を一から理解しようとしている
かもしれず、そうであるならば、もったいないですね。
どこぞの塾のキャッチじゃないですが、
「やれるまでやる」
というのは非常に大切なことで、
主題としては、「やれればいい」わけで、スピードや効率は
二の次のはず。それが、そちらを重視しすぎるあまり、
やれなければ記憶と答案集でごまかす、
というのは本来間違ってる。

んなこたわかってるよ! と現場の人に怒られそうですが。

---

しかし逆にヤラシイ言い方しますとそれはチャンスで、
飯ごうで米炊くだけで、都会の子には魔法に見える。
「ど、どうして電気もないのにお米が炊けるの!?」
いや冗談抜きで。
特に最近は、そういうのが多いような気がするなあ。
なんかね、むしろ
「手作りであれば、美味いマズイはもう問わない」
とかそういうレベルにまで行ってしまってる分野も
あるような。
そのことの是非はともかく、
そのぐらい「つくる」ってことから人々が遊離しつつある。
「知」の面で言えば、「かんがえる」ってことから。

だっていま、芋版の年賀状とか貰ったら
「お!手間掛かってる!」って結構びっくりしますよね。
ついこないだまで割と一般的な技法だったのに……

もうすこし、人間の行為そのものに価値を置き直す、
そんな意識をもたねばならぬのかもしれません。

ひとつひとつの料理を手間暇掛けて揃えるのは、
たいへんですし、結果としては、味も落ちるかもしれません。
でも、味はどうでもよくて、
そのこと自体に意味があることも、多い……
というか、人間社会というのは、
人間同士が顔つきあわせて生きてる世界ですから、
それこそが一番の意味ではないですかね。

あの人の、かんがえたこと。
あの人の、つくったもの。

なるべく一から、やろうとはしています。



 7/9 ど素人

明け方まだ日も暗いうちに起きてしまったりして、
しょうがないので頭の中を散歩していたりすると、
実は人間、「考える」ってことは
すごく短時間しかしていない。

「考える」ことは、たいてい正解がないことなので、
おおよそ何パターンか方向が出ると、
堂々巡っちゃうんですね。

あるいは、全然関係ない話題へ飛ぶ。
特にいつも自分が好む話題とか。
ぼくならやっぱりサッカーやクルマだったり。

そんな時、メモでもなんでも、そうやって浮かんだ要素を
外へ追いだしてみると、意外とスッキリします。
たいそうなこと考えてるようで、メモってみれば
ごく小さなことだったり、
ほんのヒトカケラが、書いてみればみるみる膨らんだり。
人間の脳って良くも悪くもすごくいいかげんです。
それが、紙に書いた文字、という客観化を通じて、
自分自身でも客観的に見ることができたりする。
そうやって重みづけができると、
次の考えへ行ける。

メモの効用は、再利用性とかよりも、ここ、
つまり「思考を促す」ことが一番じゃないかな、
と最近思います。
もちろん、もらもらとした海をいつまでも漂うのは、
それはそれで楽しいのですが……

この、「考える」という点については素人もベテランも
実はあまり変わらない。
いや、へんなベテランは、慣れ切っちゃってて考えない
ことも多い。
考えるというのが頭よりに過ぎると思われますならば、
手を動かすことを交えて、工夫と言い換えてもいいですね。
そこは、どんな立場に居ても、変わらないのです。
逆に素人の方が、本質的工夫を思いつくような気すらする。
新しいビジネスの立役者が、
たいていぜんぜん違うところからポッと出てくるのは、
そういうところじゃないでしょうか。

昨日のトライとも関わりますが、つまり、
「あれ? こうかな? いや、やっぱりこう?」
っていうところが、進歩を生み、
その様そのものが、魅力的なんだと思います。
悩むからこそ青春。

若い頃はプロという響きに憧れたものですが……
いや、ほんとのプロとは、実はそんなスマートなもんじゃなく、
毎日現場で
「あれ? こうかな? こうしたらどうだろ?」
とやってる人のことをこそ、言うのでしょう。
まったく初心者のように。

いつまでもこんな感じの、
ど素人でありたいなあ、と最近よく思います。
思わなくても、毎日泣いてるんですけど。



 7/8 トライには意義がある

五輪じゃないですが。

パッとエンジンが掛かる時、っていうのは、
やっぱり新しい体験に立ち向かう時。
脳も身体も、「むむっ!」って感じで、
どうすりゃいいんだ!?と働き出す。

トライ&エラーってのは、そういう意味で、
それそのものとして大切である。

結果はエラー、まちがいでいいのです。
「間違った」というのは、なんの経験もしてないよりも
ずっと素晴らしい経験ですし、
すくなくともその方向は違うという知識を持ってることですし、
効率は悪く成果は出ないかもしれないけど、
一応の方法論を持っている、ということでもあるし。

それよりも、「トライする」というところで、
自分自身が活性化する、というのがいいんですな。
別に仕事(とかメインでやってること)でなくても、
今日はパスタを茹でてみよう、とか、
そんなことでもいいんだと思います。
同じパスタでも、今日はミルクで茹でてみようか、とか、
トライはどこででも、どんな形でもできる。

どんなことでも、慣れてくると、
(つまり歳を取るというのは人生に慣れたつもりになる)
変な垢ばかりこびりついて、トライが減ってきます。
全く新しいことに無理に挑戦しなくても、
そこかしこにトライは転がってるはずで、
そういうのを、こそこそ見つけてはうひひとやっていたいな、
と思うのです。

アテネ五輪で走った長ズボンのアフガンの少女に、
みんな感動したじゃいですか。
トライってのは、それそのもので尊いのですよ。

最近は、応接間のソファで寝てみるのがマイ・トライ。
涼しいけれど、首を寝違えた。



 7/7 潤滑剤

結局、古いMultimedia Naturalを
引っ張り出して使っています。
やっぱりもうストレート型には戻れません。
でもやっぱりキータッチはなんだか角が引っかかるような
精度感のないもので、ガックリ。
Naturalタイプの方が、キーが叩かれる角度が様々なので、
パーツの精度が必要なのかもしれません。

我慢するというより、打ちにくいキーなら、
余計なものを打たないかもしれない、
とマエムキニ(笑)

---

おぼろげながら見えてきたような、
そんな気がしてるだけのような、日々です。

「これじゃない」というのは、わかりはじめてきたんですけど、
「これだ」というのは、まだあんまり。
まして、それを自分が使いこなす、となると、ずっと先。

「これじゃない」の例をひとつ挙げましょう。

人間は普段、自分の周りに潤滑剤を塗って暮らしています。
そのおかげでスムーズに喧嘩無く生きていけるのですが、
やっぱり、潤滑剤ごしではつまらない。
しかし、家族(の一部)や、親友は、
この潤滑剤が極めて少ない稀なケースがあって、
そういう場合、非常に居心地がいいんです。
まあ、表現物にせよサービス業にせよプロダクトにせよ、
狙うはそこ、もしくはさらに先、
「親兄弟にも見せたことのない
 『自分』が引きずり出されるようなもの」
かなあ、と思うのです。

勝負の方向は2種類あって、
自分丸裸にしてお好みの方だけついてきてください、
と、
あくまで冷静なまま、ええんかええんかこれがええのんか。
まあ、それはどっちでも。

ダメなもの、というのは、つまり当然の如く、
向こうから潤滑剤塗ってやがるもので、
そんなもんね、わざわざお金や時間や労力使わなくても、
人生やりゃ済む話です。
そうじゃない・から・こそ・価値があるのであって。
すくない方が価値ありますよね、一般的に。
違うのカナ?

しかし多いですよ、街歩いてるとね。
ほぼそういうのばかりと言ってもよい。
「気を遣う」っていうのと、
「君のためを思って」というのは、
じぇんじぇん違う。
嘘で結構虚構で結構、「君のためを思って」というのが、
欲しいわけです。
オレは、「お客様」なんかじゃねえ。

サービスってさ、本来は、肌と肌の触れあいだった
わけじゃないですか。
魚屋のおっちゃんが顔知ってて、
「奥さん毎度!今日はイカ安いでイカ!ええイカやで!」
それがいつの間にかスチロールトレーと
バーコードとレジのおばちゃんの事務手続きいう
潤滑剤で処理されるようになった。
そんなこんなで、世の中中ヌルヌルなわけです。
人の手の先に、人の手がない。
息苦しい。
さりとて、「生人間」というのは(普通)実に刺々しく、
目障り耳障りの悪いものですから、
(あれですよ、自然には蚊やゲジゲジがいっぱいいるのと同じ)
ここんとこはやっぱり、懐石料理のように
素材そのままにみせて実は手が込んでる、
ってところに持っていかねば、ならない。

ね? わかったようなわからんような、でしょ?
そんなようなこっちゃないかなー、
とは思うのですが、
ほなどうすんねん、
というのがさっぱりさっぱりな、
まだ梅雨開けぬ日々です。



 7/6 野面積み

新型ホンダ・ステップワゴンのサイドに、
結構派手なキャラクターラインが跳ね上がってます。
ああいうケレンはぼく本来嫌いなんですが、
あれに限ってはなんとなく懐かしい感じがして
嫌いではない。

理由に昨日気づいた。
Aチーム・バン」だ。(WEB ART>TAT Van Tiles)
てなことで黒のボディにこのラインに沿って赤い貼り物貼り、
赤いホイール履かせる我々世代のゆうしゃ希望。
ていうかぜひHONDA AccessのパッケージOPで!
たぶん男の子いたらウケるよ!
いやインターチェンジで我々アホ世代に大ウケ。
指さして笑ってあげる。

しかしなんて派手な。「地下へ潜った」んじゃないのかよ。
正義の味方は、こうでなきゃいけませんな!

あー……ワゴンRぐらいでチョロQっぽくやっても
いいんだけどね。
恥じらうと恥ずかしいものだから。こういうのは。

話は変わりますがタカラとトミーが合体すれば
できるクルマおもちゃは「トミQ」でしょうか。
「チョロカ」でしょうか。
スマートスケールがゼンマイで走るのか、
デフォルメが金属製で佇むのか。
気になって夜も眠れません。昼寝てます。

---

以前「福野礼一郎の宇宙」で、礼ちゃんが除湿器を
オススメしていたのですが、
この季節、ほんと除湿って効きますねえ。
部屋のエアコンは今除湿運転です。
もうね、ぜんぜん快適性が違う。
部屋の外へ出るとぺっちゃーと空気が貼りつく気がします。
温度は下がってないから身体にも優しいしね。
あ。
喉は渇きます。
だもので、水分補給はより頻繁なのですが、
そのデメリットを補ってあまりある。

除湿運転おすすめー。

---

今日は「穴太積み」という日本一と呼ばれる石垣積み
職人さんのおはなしを読んでますと、
「石の声を聴け、
 そして石の行きたい所へ持っていってやれ」
だとか。10年やってると聞こえるようになるらしいですよ。
いいねえ。こういう話。

ぼくなぞまだ言葉の声なんか
これっぽっちも聴けやしない(笑)

それでも、「おさまり」みたいなのは経験積むと
ちょっとずつ上手くなっていきます。
大事なのは石垣と同じで、
「無理にはめ込む」
のではなくて、
「はまる言葉見つけてくる」
ってところだと思います。

あのねえ。
やっぱ長年やるというのは大きいもんでねえ。
「はめ込んでる」ってのは見る人が見りゃ一発で
わかるんですよう。
文章書き始めの頃は、もちろんぼくもそうでしたが、
いいフレーズ思いついたらそこへ持っていきたがる。
でもねえ、それねえ、たいてい巧くくっつかないねえ。
名実況アナが口を揃えて
「いいフレーズはその場で自然に出たもの」と言いますね。
あれですねい。

もちろん、言葉は石垣と違って
堅牢に組めばすべて満足というものではないです。
ただ、堅牢に組もうとするなら、そういう感じですね、と。

「無駄がない」というのは、
「あるべきものがあるべきところにある」という感じであって、
決して少ないとか薄いとか骨格だけとか、
そういうものではない。

ポロッとひとりでにハマるようになるまで、
泣きながら修業が続くのです。

---

本を読む時、気になったところをカードに取ってるのですが、
これをして痛感したことがあります。
古典・名作の方が、「ここぞ」を抜き出しやすい。
つまり明確で簡潔。

そういう意味で言うとね、やっぱり司馬遼太郎は
バケモノじみて巧い。
抜きどころがぽーんと出るんです。
海音寺潮五郎が
「世間はどうしてわからんのだ、あの天才を」
とボヤいたそうですが、それはもうむべなるかな。
新聞記者歴も影響してると思うんですが、
そんな人はゴロゴロいるし、
やっぱり天性と意識と意志が重なったものだと思います。

たいへん無礼を承知で言いますと、
「週刊 街道をゆく」で、一番読みにくいところが
リレーエッセイの部分で、揃って腕利きが書いてるはず
なんですけど、いちいち引っかかる。
すごいヒネた言い方すれば、
「ほら、司馬紀行やっぱりよくできてるでしょ?」
という証明のようになってしまっている。
ものすごく失礼ながら。

なにが違うのか。

考えてみて読んでみて思うのは、そこしかなくて、
「要らないものがない」
「要るものばかり」
なのです。

部屋を片づける時、ほんとうは、
「必要なもの」「要らないもの」「ゴミ」
と3種に分けられて、「要らないもの」は、
捨てればいいんです。
そうすると一人の人間の生活必要資財など
まさにボストンバッグひとつです。
兵隊さんや修行僧は、そう。

しかし、人はそれがなかなかできず、
「要らないもの」を貯め込みます。
文章もそうで、「トゲにならなければいいだろう」と、
要らないものを詰め込む。
「ああでもないこうでもない」を途中式として全部書く、
というのはいいと思うんです。
でも、要らないものは、要らない。

ここ意識するだけでも、ぜんぜん違うと思います。

見苦しい言い訳くさいものをしますと、
ぼくはここでは、「しゃべるように書けないか」という
ことをさぐりつづけています。
結果たいへん無駄が多い。
それでも実は嘘っぱちで、会議起こしなどのご経験
ある方はよくご存じだと思いますが、
「しゃべる」というのはこんなものよりはるかに
無駄が多いものです。
しかし、その無駄を通じて、雰囲気とか、ニュアンスとか、
が、伝わる。
極力、「無駄ではない無駄」を適切に配して、
(「無用の用」というヤツです)
そういうぬくもりみたいなものが伝わる、
文章になればいいなあ、
と思っています。

極端なことを言うと、
「なに言うてるかわからへんけど
 とにかくながたさんが感動したのはわかった」
という方が、いいかな、と。
文章というのはコミュニケーションなので、
そっちの方が、大事です。

---

という具合に、言葉のおもむくままに野面積みしてみました。
野面石(安土城)→割石(大坂城)→切石(皇居)
と進化したらしいですが、
後世勝手な意見としましては、野面がいいです。
手のぬくもりがあって。



 7/5 なんでそんなに偉そうやねん

真実はシンプルであるというか、
シンプルでなければ真実ではないというか。

25日直後に銀行行くと相変わらずATMには長蛇の列、
インターネットバンキングしようと思えば
「ただいまのお時間のご利用には手数料がかかります」
お客様から預かってるお金を悪人に盗まれても
「いや当行は善意のなんちゃらですからあんたが悪い」
どう考えても銀行というのはまだまだオカシイのですが、
これはなぜか。

こないだ邱さんと糸井さんの本読んでたら書いてあった。
「どうしてその頃(高度成長期)
 銀行はそんなに偉そうだったのですか」
「借りる人の方が多かったからです」



そのまま来ちゃってるわけね。
そして貸すあても無いのに無理矢理お金を押し込んでいく
預金客というのは、実は小うるさい存在なんですなあ。

銀行のことはどっちゃでもよくて、
つまり世の中というのは、
やっぱりぜったいどこかに真実があって、
しかもそれはe=mc2のように
誰もが納得する美しくシンプルな解であって、
しかしわかっている人しかわかってない。

そういうことを、たくさん知ってる、というか、
そういうことが即座にわかるシステムを
自分の中に作りあげたい、と思ってます。
そういうシステムが存在するか否か、
また、そのシステムは構築可能かどうか、
また、はたして構築できたとして広大な自然の前に
本当に使い物になるのかどうか、
それらはわかりません。
が、
作ろうとすることと、作ってること自体、
楽しいですし、
その過程で、ちょっとでもそれに近づけて、
「借りる人の方が──」と、すぱーんと言えれば、
カッコイイなあ、と思うのです。

毎日、とりとめもないことを、
あれはなぜだろう、これはなぜだろう、と考えています。



 7/4 道具とは

最近、キーボードがへたりました。

なんでもそうですが、毎日使う物って、閾値があって、
それを切ったその日に「あ、へたった」と思いますね。
身体中の多数の・多種のセンサーが、
多数決で決めてるのか、
重みづけされててどこかがダメを出すとそうなるのか、
それはわかりませんが、
「普通」から「不快」に、ある日突然なります。

具体的には、以前なら入力してた打鍵で
入らないキーが出てきました。
しっかり押せば入るのですが。

面白いのは、へたると、何の関係もない機能も
ダメになっていくことで、
なぜかキートップに手垢が溜まる(笑)
以前はこんなことなかったんです。
見た感じ、キートップのシボは特にツルツルにはなって
おらず、原因がわかりません。
微妙に違和感があるから、微妙に指先が擦るようにして
強く打ってるから、かな?
わかりませんが、とにかくそうなっちゃった。

宮大工の小川三夫さんのおはなしを読んでますと、
やっぱり大工道具も毎日使わなきゃダメで、
3日もおくと「どうしようもないように見える」そうですよ!
それでも西岡棟梁の道具は、長年使ってなくても
「いつでもいけまっせ!」と身構えてるように見えるそうです。
いやはや。

さて長年親しんだマイクロソフトのNaturalタイプですが、
最近のモデルはキータッチがだいぶ悪くなっており、
対応に苦慮しています。
Naturalタイプは、手首や肩が相当楽です。
ただ、タッチ悪いと指先と指関節が辛い。
確かに慣れるまでは異様に見えるかもしれませんが、
慣れれば手放せませんぞ。

……タッチタイパー(つまり指の動きが確定している)
で、かつそんなに超高速打鍵ではない
(パームレスト利用が前提になる)
という人がニッチであることは事実なんですが……

RealForceを引っ張り出すのは最後の手段として、
ロジクールのフラットなヤツに挑戦してみるか、あるいは
FILCOのCherry茶軸のキーボードをお買い求めようか、
いろいろ迷っています。
いや、この2社のも試したことはあるのですが、
なんとなく思想的にソリが合わない。
そういうのありませんか。電化製品でもクルマでも。
ロジクールは、どのプロダクトも常にスイッチが嫌い。
コチコチコチコチってすごい安っぽく(私には)きこえる。
FILCO(ダイヤテック)は、アイデアは豊富なんだけど
実際に手を動かさない人、って感じ。
変態配列が多いし、キーボード下端のぶ厚さ
(手首しんどい)はいつまでも直らない。
製品をほんとにお使いですか?って感じです。

それでも一時期に比べればバリエーションは増えたかな。
本当にイイモノは少なくなったと嘆かれますが、
まあ、どっちみち消耗品であることは確かですし、
いろいろ試して楽しんでみるのもいいかもしれません。
キーボードばかりはほんとに相性で、特価580円の
ふにゃふにゃキーボードがいい、という人もいます。
いいと思えばそれでよし。
それ以上に、ノート型への流れを考えると、
単品キーボードという存在自体が貴重になる日は近い。

道具ではなく使う人だとよく言いますが、
いい道具が人の力を引き出してくれるのもまた真実です。



 7/3 異臭issue

居間のエアコン(日立・2002年購入)から異臭がするので、
サービスの人を呼びました。
「これは部屋の匂いですわ」
そんな馬鹿な、取り立ててなにかある部屋でもなし……
と取り外したあるフィルタ(普通のあのでかいヤツじゃなく、
どうも空気清浄用かなにからしい)を嗅いでみると、
これがそのものズバリの濃縮した匂い。
ぐへえ。

それをハイター等々で徹底的にやっつけて動かしますと、
どーんと軽減されました。
つまりはメンテ不足だったんですけど、
そういうメンテは昔は要求されなかったはずでごにょごにょ。

で。
マイ・ルームのエアコン、以前三菱製で、
これがまた匂うんです。
やりましたとも、フィルタ掃除に拭き掃除に市販クリーナ、
やれることはなにもかも。
どっこい臭くてねえ。
きっとこれはエアコンが悪いんだと。
でも、ちょっと後に買った他の2台の三菱製は
そんなトラブル無いし……
で、こないだ別の事情で買い換えたんです。
日立製。

はい、もうおわかりですね。
こいつもまた、臭い。

イエス、臭いのは俺の部屋!
そしてこの部屋の異臭源になりうるものと言えば……
イエス! この俺!

ああ。
臭かったのは俺か……
10年近く臭い臭いと冤罪を被せてごめんよ、前エアコン。

ということで。
エアコンから異臭がした場合、
フィルタ周りを徹底的に掃除し、
フルパワー暖房運転数時間等々で
エアコン内部を乾かしたのち、
おもむろに空気清浄機を買いに行きましょう。

臭いのはエアコンじゃなくて部屋、そして失礼ながら、
貴方!

なんだか、変な教訓がこもってるような気がしますね。
なぜ臭い空気が出てくるのか。
臭い空気を吸ってるからに決まってんじゃん。



 7/2 梅干しの想い出

「疲労回復には梅干しがいい」
とまま上が叫ぶので、そんなもんかなと思い
食べ続けてみると、これが結構効く。

調べてみますと、どうもクエン酸が効くようです。
夏バテの原因は蓄積疲労が寝苦しさからくる睡眠不足と、
胃腸の弱りからくる栄養消化不足、だと思うのですが、
クエン酸がその両方をガードしてくれる様子。

漬けてるのになぜ梅「干し」かといえば、ごぞんじの通り
土用の丑の日あたりにいったん干すからです。
あれがなんか、おひさまエネルギー吸い込んでるのかも。
大根のお漬け物なども、きっちり干して漬けると
大変美味ですよね。

梅干しというのは漬け方にバリエーションがあり、
どうしても「我が家の」が、慣れもあって
一番になってしまいます。
特に売り物は、ハチミツ系の甘いのとか、
減塩のために妙な旨み系の味がしたりとか、
はなはだしきはどう考えても「それっぽい汁に漬けただけ」
という乱暴なものまであって、困ったものです。

それでもプロが本気で作るとやはり違うもので、
ウチの高校は本場・南部に学舎を持ってるのですが、
ここの頑固管理人さんが漬けてらした梅干しは、
べらぼうに美味かった。
酸っぱさと辛さと旨さのバランスが絶妙で、
フルーツのようでした。
いや、梅はフルーツですけど。
あんな梅干しは死ぬまで二度と食べられないような
予感がして、さみしいほどです。

管理人のYさん、口うるさくて神経質で、
我々暴れ盛りのガキ共には嫌われていたのです。
梅が干してあるところにソフトボール叩き込んで
怒られたりねえ。そりゃ怒られますけど。
ウチらが出てからだったかな、引退されて、
別の方に変わりました。
その後すぐ、亡くなられたそうです。
後任の方はずっと穏やかでふくよかな笑みを絶やさぬ方で、
OBとして行くと、無礼にも「いい方見つかったね」
なんて思ったものです。

ところが。
梅干しが、食卓に出なくなってね。

いや、出るんですけど、それはその辺で買ったものでした。
その辺ってももちろん南部ですから、クオリティ高め
なんですけど、でもそれは、「売り物」でした。
アレとは、比べものにならない。

カムバーック、Yさーん!

人生なんて、ゲタを履いてもなおわからないものです。



 7/1 コンフェデレーションズ・カップ

こう書くと安物のキャバレーみたいですが、
ニュー・ブラジルには感動しました。
ニコニコ笑う攻めるチームが圧勝した。
これ以上幸せな、楽しいことはないのです。
ヒーロー・アニメを見るようでした。
あんなに短い90分は久しぶり。

そのスタイルを引っ張ってったのはやはり
キャプテン・ロナウジーニョで、彼が笑わなければ、
ロビーニョやカカーは笑いにくいと思う。
リーダーの新しい姿、というか、
昔からたぶんあるんだろうけど、
プロ・スポーツでは珍しい。
なんとなく、時代の変化が香ります。
しかもヤツは、一番上手い。
これぞヒーロー。

怖い顔をして「負けない戦い」をする、というのは、
勝つためには近道かもしれませんが、
おもしろくはない。
できればみんな、笑いながら「スゲー!」って勝ち方を、
したいのです。
プロ・スポーツはエンタメやからね。
やってるもんがまず楽しんでないと。
モウリーニョ哲学やユーロ2004のギリシャ、
そういうのばかりが幅を効かせつつあった昨今、
それを叩き壊す原初的ヒーロー達の大活躍が、
痛快で。

ホッとしました!
サッカーはまだまだ、おもしろい!

---

以下余談。

アドリアーノの身も蓋もない一撃、
あれで火が点いた前4人が撃って撃って撃ちまくるのですが、
してみるとストライカーってのは、技術や能力ではなくて、
「姿勢」ですな。

ああ、今やっとわかった。
野球の四番もよく特別視されますが、
それはつまり、「やってやるぜ!」という姿勢であって、
それ以外はない。
フィニッシャーというのはそうで、
「結果はともかくやる」
という人が、やるべきポジションなのですなあ。
それでないとチームのみんなが納得できない。
泥だらけ血みどろになってボールを繋ぐのは、
それをやってもらいたいからで、
そこでパス出されたらガックリきますな。

もちろん、チームにはいろんな役の人が居てしかるべきで、
勝利のためにより確率の高い方向を選ぶ人も、
また常に臆病で、「そんな攻めるな、今は守れ、守れ」と
後ろから裾を引っ張る人も、
必要なんです。適材適所。

R・マドリードが図に乗ってた頃、ボランチ、
マケレレに逃げられヴィエラやエメルソンとの取引が
まとまらなかったのは、
攻撃陣に比して給料が安かったからだ、と言われます。
なにも彼らはそれ以上をくれと言ってるわけではなく、
「俺達の存在を認めろ」であって、
プロにおいてはそれは報酬ですからね。
価値を認めないチームで、世界最高峰の選手達が、
働くわけはないのです。

ただ、生まれ持っての資質もありますが、
こういうものこそ本人が一番わからないもので、
そこに当てはめられて突然開花するタイプもいる。
教育とか、トライ&エラーって、大事ですねえ。

いや、メキシコのがんばりとか、
もちろん我らが日本代表もそうですが、
なんか盛り上がってきましたよ、2006(笑)
悔しいことですが、やっぱり、
「ドイツでやってる大会」というのが効いてる感じで、
サッカーはまだまだ欧州と南米のものだと思いました。
負けてられませんぞ。





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