■ ほえなが ■

自分も楽しみつつ、ひとも楽しませつつ。 (ながたかずひさ(笑))

 9/1 ちょと変更

えー。
なんとなくまた、もがいてみようかな、と思います。

まいど自分のwebをどうしますこうしますという
おはなしほど恥ずかしいものはないのですが、
ほら、ここは一応日に100も回る巨大サイトですから。
説明責任ってものが。

最近ほえなが書いててちょっと違和感があった。
で、それを分析してみた。
どうやら自分の中でほえながというのは、

(A)考えたことを「ちょっと聞いてよ聞いて」と書きたい。
(B)日常起きたことをメモっぽくまとめつつ、
 それをよすがに書きながら考えてみたい。
(C)修行。

この3要素がある。

このうち(A)が、どうも最近、
「考えたことを書く」んじゃなくて「書くために考える」に
なることが多い。
それはそれで悪いことでも無いんですけど、
(仕事はたいていそうだ)
不自然ではある。

そしてそんな(A)に押されて、(B)の出番がすくない。

でも、(C)のためには、
「毎日やる」というのは絶対に譲れない。

てなことで、(C)のために(B)を中心に回す場所が
欲しいなあ、ということで、
blogをもう一度使ってみることにしました。
以前と違う点は、
(A)の弊を避けるために、
こちらは頻度を落としてみようと思います。
「書きたい時に」
というのが最もナチュラルなのですが、
そんなこと言ってるとまあまず間違いなく
止まっちゃうので、
一週間に一度ぐらいは、
「がんばる」っていう時間を持ってみようと……

無理かもしれません。
というかもう、言っててやらなそうな気がする(笑)

ヘイそこのボーイ悲しむことはないぜ。
たぶんblogでまったく今までと変わらない
ほえなが節「も」聞けると思う〜。

つか。
ビルダーでこちょこちょ更新するより、
blogのシステム使った方が楽で速い。
それも大きい。それが大きい。

名前もまだ迷い中です。
「『ほえなが』がブログになりました!」
でいいような気もするし、
でもやっぱり、ガラだけでもとりあえずは
6年半で初のフルモデルチェンジと言ってもよく、
違うと言えば違う。
とりあえず、「bほえなが」ではあまりにもなので、
hoeru nagatasan blog
で、「ほえのぐ」としてみました。

でもどうなるやらわかりません。
なんか3ヶ月ぐらいしたらむこうが
「ほえなが」を襲名してこっちが引退してそうな……。

それはそれで、そんなイベントも楽しいかも。

カタチって、はじめはナカミを包むためのもの
だったはずなのに、
いつのまにか、
カタチに合わせて、ナカミが作られるようになったりします。
それはそれで、いいこともあるのだけれど、
でもやっぱりぼくは、
ナカミを大切にしたいのです。
そのためには、思い切ってカタチもたまには壊してみたい。

では明日からほえのぐの方でお会いしましょう〜。



 8/31 input

まずは8/1から8/31までに仕入れた何かを列挙します。
(先頭の■がAmazonへのリンクです)

■本■

 「日本の歴史をよみなおす(全)」 網野善彦 (ちくま学芸文庫)

 「麻雀放浪記(一) 青春編」 阿佐田哲也 (角川文庫)

 「日本語と日本人」 司馬遼太郎 (中公文庫)(再読)

 「国家・宗教・日本人」 司馬遼太郎・井上ひさし (講談社文庫)(再読)

 「司馬遼太郎が考えたこと 9」 司馬遼太郎 (新潮文庫)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 29 本所深川散歩 赤坂散歩」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 30 芸備の道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 31 北国街道とその脇街道」 (朝日新聞社)

 「週刊 司馬遼太郎 街道をゆく 32 仙台・石巻」 (朝日新聞社)

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まあ、今月もいつものように。

「日本の歴史──」とてもおもしろかったです。
今月のイチオシ。
我々は、中世までは完全な農業経済だったのかと
思いこんでますが、まったく違うようですね。
「水呑百姓」というと極貧小作人を想像しますが、
実はそれは登録上兼業農家だからそう表記されてるだけで、
なかには大船持って運送業貿易商を営んでる者もいたり。

宮本常一さんの著作を読んでも思いますが、
日本という国はむかーしから「二重構造」の国ではないか
(あるいは「国家」というものはすべからく二重構造を
 その国民に迫るものではないか)
と思います。
檀那檀家制が敷かれ理論上国民皆仏教のはずなのに、
日常的な宗教儀式はプリミティブな神道
(とも言えないような原始的自然崇拝……
 もちろん悪い意味ではない・
 むしろナチュラルという意味では非常に好ましい)
をべースに行われている、とか。
現在でもそうですよね、お盆の話するとマジメな坊主は
ちょっと困るわけです。
あんなもの仏教儀式でもなんでもないので。
いつのまにやら原初的な風習がなすりつけられている。

ここにもってくるのは無茶苦茶な話かもしれませんが、
民間ギャンブルが禁止されているはずなのに
パチンコが巨大産業であったり、
売春が禁止されているはずなのにソープランドが
大手を振って営業していたり、
まあ、もっといえば、9条と自衛隊の関係もそう。
さらにいえば……天皇制もそうですかね。

「無くてはならない」ものと、
「かくあるべし」との微妙な接点を、
こんな感じで
「ままままままま、まあまあ、まあまあ」
と言いつつ悪い言葉で言えばごまかす。
良い言葉で言えば両立させる。

ここんところが、子供達や若者達には、わかりにくい。
だもので大人としては、
ちゃんと説明すべきじゃないですかね。
「『ない』というわけにはいかんものが、人間にはある。
 しかも正面切って『ある』ともいえない。
 そんなものをどううまくまとめていくか、
 それが人間の知恵だ」
とでも。
犯罪もそうだし、差別もそうです。事故もそう。
放置自転車だってそうです。スパムもそう。
ゼロにはできない。
「ゼロにゼロに」という叫びと工夫は、
それはもちろん大切なのですが、
絶対に無くならないなら、
どううまく最小限で食い止めるか。
そっちの知恵も、とても大事です。

「麻雀放浪記」もおもしろかったです。
これリアルタイムでかつ自分が二十歳前後だと、
もっとおもしろかっただろうな。
今読むとちょっと麻雀のテクニカルな部分とか多くて
ちょいしんどい。続きはいいか、って感じです。
でも、じゅうぶんおもしろいですけどね。
続きが気にならないのも欠点ではなくて、
大衆文学の一方向にすぎず、
だって水戸黄門だってそうですしね。

あ、一見ピカレスクなんですが主人公はかなり真っ当で、
結局ヒーローものって気がしました。
でなきゃあんなにウケない。

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てなわけで。
いつもどおり8月のまとめをしようかと思いましたが、
うまくまとまらない。

「汎用必勝法」探しをいったん置いて、
手を頭を直接動かす方向で行ってみたのですが、
なんかもうぐでぐでで(笑)
あんまりぐでぐでになりすぎてもいかんかなあ、
とかちょっぴり反省しつつ、
しかし、嫌いじゃないぜこのぐでぐで感、
という気もしたり。
具の見えない煮込みすぎカレーみたいな感じなんですが、
だからといって美味くは無い、という悩ましさ(笑)

まあ、でも、なんかこういうぐでぐでが、
「ながたかずひさらしい」
のかもしれない、とも思います。
思い起こせば、そういう時の方が、元気があったような
気がする。
ちゃんとちゃんとやってる時の方が、
肩に力入りすぎて、
こなしてはいるけど窮屈、というか。

なんかねえ。
昔からねえ。
ぴょぴょぴょぴょっとやったものの方が
ウケがよかったりねえ。
困ったもんです。

それに対して、
「こっちのググッとやった方を見てよ!」とか、
「ぴょぴょっとやった感じのものをググッとやりたい」とか、
「やっぱりググッとやることこそが人生の云々」とか、
長年いろいろ考えてきたんですが、
ようやく最近、
夏の終わりと共に、
「あー……ウケりゃいいや」
と思えるようになってきた。
ウケたい、っていうんじゃなくて、
いやもちろんウケた方がいいんですけど、
自分がやりよいようにやって、
ま、結果はどうぞお好きなように、
という構えない構えが、いちばんですよね、と。

結局のところ、
こういうものを「つくる」のが大好きで、
ま、それはほぼ間違いないので、
表現手段とかフィールドとかにこだわらず、
いろんなものをあいかわらずつくっていきたいなあ、
と思うのです。
9月は、そんな感じで。
ぐでぐでぼりぼりと。



 8/30 徒労

夏も終わろうとしているこの30日に
なにが言いたいかつーとね。
つまり、人生なんて徒労なんですよ。
徒労。
わかります?
いたずらな労働。
もうシーズン最終盤ですが公園の噴水の周りで
ナイトショット魔改造したハンディカムを振り回すんです。

高原ってFWがいるでしょう。
スシボンバーね。
あの人よく、「決めてくれ!」ってシュートを
できもせんヴォレーで天空に解き放ちますよね。
あれさえ無ければ。
もうちょっとだけ決定力があれば。
日本はどれだけ楽ができるだろう。
FWなんか一枚センターが決まれば
後は鈴木でいいんです、鈴木で。

でもね。
シュートを外すシーンをよく見る、
それはつまり、
たくさんチャンスに顔を出してる、
ってことなんです。

だってあーた、グダグダ言ったって、
Jで得点王獲ってる日本人はたった4人ですよ?
キング・カズ、ギネス・ゴン、アジアン・ハイウェイスター・オブ・ミスター・レッズ福田正博大先生、そして高原。

よいですかここ広辞苑に書いてあります。

徒労が多ければ多いほど、
がんばってるってことなんスよ。
そして得点王も狙えるってことなんスよ。

「……はぁ……俺はダメだ……」
そんな日もある。
そんな夜もある。
しかし、そう思えるのは、
失敗があり反省があり後悔がある、
それはチャレンジの証拠、
それは、イイコトなんです。

ぼくも、鬱入ってる時には、
応接間のソファの、背もたれと座面の間に
ぎゅーっと顔を押し込んで、
「……なんてトローな人生なんだ……」
と無為な日々を嘆くこともあります。

やるせない。
ぼくの場合はほとんど自分で選んできてるので、
どこにも怒りの矛先も持っていきようもない。
やるせない。

でもよくよく考えてみると、じゃあ、
今、金ダライが上から落ちてきて死ぬとして、
最後の瞬間に何を思うかというと、
「……まあしかし、悪くはなかった」
と、思えるとは思う。
なら、やっぱり、悪くはないんですよ。
徒労であることは、悪いことではない。

まあ、もうちょっとスマートにスラスラっとやりたい
気もしますが!
トロー:ミノリの割合を上げたい気がしますが!
それはまあ、おいおい!

過ぎ去った過去をグデグデ考えても何も得られず、
まだ見ぬ未来をゴチョゴチョ考えてても何も始まらない。
徒労でいいので、
いやむしろ積極的に徒労を、
これからもいたずらに積み重ねて行こう、
と思う所存ですよ。

「なんにもならんかった。
 けど、なんかしてた」

それで、じゅうぶんです。



 8/29 3代目ロードスター(補足2)+α

ちょっと違う方向に寄り道してしまいました。
より言いたかったのは、
ロードスターそのものの話ではなくてですね。

巻き戻してみます。
「おおそうか」と気づいたのは、
つまりスポーツ・カーである限り、リーズナブルな範囲で
できるだけ小型軽量であるべき、なんです。
の方が好ましい、じゃなくて、あるべき、で、
その方が、スポーツ・カーとしての資質は上がっていく。

そのためには、
ここ大事なんですけど、
強力なエンジンなんか載せちゃいけないんです。
強力なブレーキが必要になり、太いタイヤが必要になり、
車体の剛性が必要になり、つまり、
重くなる。

S2000というクルマが、
ぼくはクルマとしては好きなんですけど、
ずっとずっと、デビューしたての時に馴染みのベルノで
実車見た瞬間から、
「あれ?」
と思いつづけてきたんです。
ロードスターに対抗できるクルマだと思ってたら、
全然違う。
メルセデスのSLとか、あっちのクルマで、
GT-Rとか、あっちのクルマで、
つまり、ハッキリ言えば、
スポーツ・カーじゃない。

その理由はこれなんです、
S2000は芸術品のような強力なエンジンを
シャンシャン回して筑波ラップを1秒ずつ刻んでいく
クルマなんです。
スピードを追うクルマであって、
スポーツをする車ではない。
その精神性の最たる象徴が途中で追加された
可変レシオのパワステで、
「意のままに操る」ためにこんなものが必要か。
否。

だからあれは、スポーツ・カーじゃない。
だからダメって言うわけじゃなくて、
それはそれでいいんですけど。

その伝で見ていくと、もちろんZ3もぜんぜん違う。
いや、ほぼ全てのあれ系のクルマは、ぜんぶ違う。
もちろん……この考え方でいけば、
ポルシェもフェラーリも、
スポーツ・カーではない。

これもなんです。
ぼく911は好きなクルマなんですけど、
年々魅力が無くなっていってる気がする。
なぜか。
年々大きくなり排気量を増し四駆にして、
つまり、スポーツ・カーから離れて行ってるんです。
世のポルシェ・パラノイア達は、
それをわからず、もしくはわかってても目をつぶって、
未だに、
「最新のポルシェが最高のポルシェ」
とつぶやき続けている。
違う、最新のポルシェが最低のポルシェです。
930ターボがデビューしたあたり(74年)で、
ポルシェは、終わった。
スポーツ・カーとしてはね。
あとはもう高性能ラグジュアリー・GTなので、
んな面で言えばセルシオでも買ってる方が楽だし速いし
セールスから年賀状も届く。

「最新の──」などとうそぶきながら、ナロー・ポルシェ
(930ボディ(74年〜)になるまでの古いポルシェ)
の人気が衰えないのは、
この絶対の真実を無意識にも知る人々が、
「スポーツ・カーとしてのポルシェ」
を欲しているからではないでしょうか。

---

で、つまり、たったこれだけのことなんです。
「スポーツ・カーが作りたいなら、
 スピードやパワーは諦めろ」
ところが、みんな諦めない。
いろんな理由もしくは言い訳を口にして、
なんとかでかいエンジンを積みたがる。

どうしてでしょう?
なぜでしょう?

売りたいから?
ロードスターはギネスにも載ってる、
史上最も売れた2座オープンスポーツですよ?
売るならばこそ、
ロードスターのマネをすべきではないですか?

効率が悪いから? パーツを共用化したいから?
それを言い出したらこんな台数見込めない車種
作る方が間違ってます。
やめるのが、一番効率的だ。

では、なぜできない。
なぜやらない。

知らない?
んなはずないじゃないですか、彼らは10年20年30年、
毎日クルマのことだけ考えて生きてきた人種ですよ、
そんなプロフェッショナルが、こんな簡単なことを
知らないはずがない。

では、なぜ。

そして、このことは、
スポーツ・カーだけじゃなくて、
日常ありとあらゆるところに転がっている。

やれば、簡単なことなんです。
やることわかってるし、やり方もだいたい確立してる。
でも、なんのかんのと理由をつけて、
ちゃんとやらない。

もちろん、この愚か者共め、っていう意味じゃなくて、
ぼくもそうで、ありとあらゆるところが、
「こうすればいい」とわかっているのに、
そうできない。

この週末は、ずっとその「なぜ」を考えていました。
なぜ、世界にはロードスターしかスポーツ・カーが無いのか。
それはつまり、
本質を見極めて、そこに鋭くシンプルにアプローチする
人々のすくなさを証明してるようなものです。

わからないのか。
わかっててやらないのか。
やってるけどやりきれないのか。

でも、マツダごとき(失礼!)にできることが、
他のメーカーにできないはずないでしょう。
なら、上の3つじゃないんですよ、理由は。

本質的なものごとほど説明しにくい?
んー、それはなくはないと思いますが、
でも上のぼくの説明わかりやすかったでしょ?(笑)
本質的なものほど、解はシンプルでわかりやすいはずです。

解がひとつならバラエティに富まない?
そんなこと絶対無いですよ、
現実に5ナンバー・ミニバンって枠で
ノアとセレナとステップワゴンは全然違う。
作り手は違うわけですから、
同じ頂上をめざしても、ルートは異なるはず。
それをこそ個性という。
変な場所を目的地にすることじゃない。

楽をしたい?
いや、だから本質を求めるのが一番楽で近道の
はずですって。
ロードスターご覧なさい、なにも特別な技術は使ってない。
ターボもV10も四駆も電子制御サスもオールアルミボディも、
何もない。
なのに、楽しい。そして、安価にさえできる。

なぜこんな簡単なことを、マツダしかやらんのだ。
そこに宝の山がある、
その宝は手を伸ばしさえすれば誰にでも手に入る。
なのに、
なぜ、なぜ、なぜ。



で。
理由考えても考えてもわからないので、
なかば諦めた。
理由はともあれ、
現実がそうである、ということを覚えておいて、
自分は、そうではないアプローチを取る、
こっちのが大事。

より速くより強くより大きく、
より美しくそして、より正しく。
それもいいけど、そうではないやり方がある。
無理に言えば、
よりそのままに。

スポーツ・カーとはなにか。
愛とはなにか人生とはなにか人間とは、なにか。
あなたはなにか、わたしは、なにか。

ど本質に深く深く斬り込んで、
それをそのまま、誰にでもわかるカタチにする。
抽象的に言えばそういうことです。
方法論としては……
欲を一つに絞ることか。周りを見ないことか。
無理をしないことか。厳しく優しくあることか。

やり方やその成否はともかく、
ハートはそんな感じで行きたい、
とよく思う最近です。

ロードスターのように。



 8/28 3代目ロードスター(補足)

……と、昨日はテンション高めにロードスターの
素晴らしさを訴えてみましたが、
今日ちょっと関係文書見てますと
「RX-8のプラットフォームではない」
らしいです。
失礼をば。

昨日の書いてて自分でも
「おおそうか」と膝を叩いたのが、
つまり、スポーツ・カーであること、
タイムを競うレーシング・カーじゃなくて、
クルマの物理運動をコントロールする楽しさを
追い求めるクルマであるためには、
やっぱり、できるだけ小さくなきゃだめなのです。
理由は簡単、
慣性が小さくなるほどコントローラブルになるから。

だから究極はすでにあって、
スーパー7。

ただ、そうは言っても、この現代クルマ社会での
使い勝手も考えねばなりません。
50km/h衝突での安全性や、エアコンや、ナビや、
そして120km/hペースの高速道路を
せめて東京-大阪600km、余裕で走れる
居住性と巡航速度、力感が欲しい。
それを考えると、60年代のMG-Bだのカニ目だのといった
サイズには戻れない。

で、ここからは考え方次第なんですが、
ぼくは、初代の幅1695の排気量1600で十二分に
その条件を満たしていると思います。
日産のティーダ。
あれで充分東京大阪やれますよね。
居心地充分、装備充分、性能充分。
要求は年々厳しくなりますが、
技術も年々向上するのです。
だからサイズは、変える必要は、ない。

やっぱり、大きすぎる。

「大きくしないと欧州やアメリカで負ける」
というのはもうぼくが生まれた時から聞き続けている
軟弱セールスの言い訳に過ぎず、
それに従えば小さいからこそ勝ってた層を切ることになる。
第一、でかいそれ系のクルマは腐るほど
あるじゃないですか。

しかし、「いや、必要最低限で2000要る」と言われれば、
そこのところは量的な程度の差なので、
作り手の言うことに耳を傾けなければなりますまい。
考えてることの質は似てて量が違う時に、
数字だけ見てヒステリックに叩くのはよくない。
そう考えれば確かに、
峠でちょっとでもトロッとされたりすると
スポーツドライビングもなにもあったもんじゃないですし、
ロング(ツーリング)が多くなりがちの車種ですから、
ティーダみたいな実用車よりはちょっと大きめの方が
楽と言えば楽。

びみょーなところですね。

ぼくはなんでもちいちゃいの好きなんです。
んで、クルマもプジョー309GTIというそこそこちいちゃいの
乗ってたことあります。
いいクルマでしたよ、確か1000ちょっと程度の車重に
1900のエンジンだったんで、実に軽やか。
「重い質量をハイパワーで移動させる」時の感覚と、
「軽い質量をそれなりのパワーで移動させる」時の感覚って、
結構違うんです。
前者が「ぐ・いーーーん」
後者が「スわーーーっ」
てな感じ。
「ホットハッチ」と呼ばれる小さなスポーツタイプを
好む人が常に少なからず居るのは、
そのタイプでしか味わえないこの感覚が、
好まれているんだと思います。

これも要するに慣性ですよね。
大きく重くなればなるほど、
それを動かしはじめる時の一瞬のラグ、
これが少しずつ大きくなる。
人間の敏感なセンサーは、数字に出ないそれを
捉えちゃうんだと思います。

で、基本的には気に入ってたんですが、
やっぱりロングはちょいしんどかったですよ。
いや、エンジンもサスもシートも最高なんですが、
音と振動がどうしても。
でかい声張り上げないと隣と会話もできんようでは、
やっぱり。

むろん初代ロードスターにも何度か乗ったことありまして、
正直、後席に人を乗せる機会ゼロだとしても、
これ一台というのはちょいキツイ、
と思いました。
うちのエグっぺなら「今から福岡まで走れ」と言われれば
苦になるのは持ってくCDのセレクションぐらいですが、
初代ロードスターだとちょっと気合いが要る。
本当は、それってちょっと寂しい話ですよね。
運動自慢のアスリートじゃないのかよ、と。
「こいつとなら福岡どころか釜山に渡って
 北京まで走ってみせるぜ!」
と来ないと。

だからといって快適性ばかり追い求めてブクブク
太ってはどうしようもないのですが、
そこは必死でそうならないように頑張ってる、
というのは伝わって来ますので、
「……まあ、こんなもんかな」
というのが、今回のモデルチェンジに対するぼくの評価です。

すくなくとも、R33がデビューした時みたいな
「でっかくなってガックリ」感はなかったですよ。

デザインもよくまとまってると思います。
目が初代ばりのファニーな表情とRX-8っぽいシャープさの
中途半端なところで迷ってるような気がしますが、
まあ、オカシイというほどではない。
テールライトのコチョコチョした小細工が、
いくらマツダ車共通だからってクルマと合ってない、
というのは誰もが思うと思うのですが、
目くじら立てるほどでもないし。

これを1stカーとうそぶきつつ、
普段はC4(シトロエン)とか、そんな二玄社野郎な
カーライフを送りたいものですな。
あ、ステップワゴンでもいいね。
家族みんなで日帰りキャンプ行く時に、
ステップで行けばいいものを
息子がロードスター乗りたいというわけです。
そうすると愛娘も「おにいちゃんだけずるい、
わたしもおとうさんと一緒に乗る」と。
じゃ2台出そう、というと嫁はんが
「じゃ私がロードスター」
しょうがないからSAごとにドライバーとコ・ドライバーを
交替しながら……

趣味の妄想はこのぐらいにして、
仕事の妄想に戻ります。



 8/27 3代目ロードスター

ユーノス……じゃないマツダ・ロードスターがデビューした。
3代目である。

ロードスターは言わずと知れたスーパー・ヒーローであり、
日本の誇る大傑作車である。
実車見るまでもなく、今回もどうやらギリギリ、
その偉大さを失わずに済んでいる。

なぜロードスターは偉大なのか。

スポーツ・カーとは、クルマの運動そのものを楽しむための
クルマである。
そのためには、物理的なサイズやウェイトは、
小さい方がいい。
小さい方が、慣性の法則にのっとって、
動きやすく止まりやすく曲がりやすい。
つまり乗り手からすれば、楽しい。

ならば、小さな大衆車を改造すればいいのか。
ところがどっこい、旋回性能の障害となる
回転の慣性というのは、車体の端の方に重い物が
あればあるほど大きくなってしまう。
つまり、重量物はできるだけ真ん中に寄ってる方がいい。
大衆車の思想は逆である。
できるだけ人間のスペース=客室=空の空間を
極大化するために、重い物、エンジンをはじめとするメカを、
端へ端へと追いやっている。

ならば車体は、専用で作るしかない。
パーツそのもの、たとえばエンジンやミッションは
大衆車から流用するとしても、
ボディとその組み立ては、専用で、できるだけ小さく。
そして、旋回・加速・減速の安定性を高めるために、
できるだけ低く。

あとは若干趣味だが、
駆動は後輪駆動が良い。
前輪が舵、後輪が駆動と役割を分担する後輪駆動は、
タイヤの能力を使い切りやすく、
ドライバーに舵と駆動の微妙な変化が伝わりやすい。
では、エンジンはどこに置くか。
ミッドか、フロントか。
回転慣性だけを考えればミッドがいいが、
やりすぎたそれはコマのように、回り始めると止まらない。
コントロールが難しい。
また、エンジンと客室を区切る隔壁をもう一枚余分に
必要とするので、重くなる。
冷却も大変だ。トランクも無くなる。
フロントでいいのではないか。

(ホンダ・ビート(ミッドシップ)の偏執狂的パズル・
 パッケージングを持ってして、
 スズキ・カプチーノ(FR)のパッケージ効率には、
 トランク・車重ともまったくかなわなかった)

ただ、フロントにエンジンを載せても、
できるだけ車体の真ん中に寄せたい……
となると、ドライバーの位置が後退し、
2座しか取れないかもしれない。
それでも構わない、ここは後席を切って、
できるだけ後ろに持っていく。

まとめると、
小型量産車のパーツを多用しつつ
(価格が下がる効果もある)
専用の小さく低い車体の、
フロントできるだけ真ん中よりにエンジンを置いて、
後輪を駆動する。
これで、スポーツ・ドライビングが楽しめる、
スポーツ・カーの完成だ。
実に簡単なことである。
だから60年代には、たくさんあった。

ところが、オイル・ショックを契機として、
世界中がクルマを白眼視した時期に、
そういう「遊び専用グルマ」はほとんど絶滅してしまった。
そこから立ち直って、余裕ができても、
誰もがその存在を忘れ去っていた。

特に日本では、社会そのもの(特にクルマ社会)が
まだ未熟だったこともあって、
スポーツ・カーといえば、
イタリアン・エキゾチック・スーパーカー的なものを指した。
あるいは、大型乗用車のエンジンをさらに強化し、
脚を固めたものを、そう呼んだ。

それらは、重く大きい、その一点だけ取ってみても、
スポーツ・カーなどではない。

四輪駆動、ターボチャージャー、空力ボディ、
力を誇示し速度を貪る技術はいくつかあったが、
なにかが違う、そう思っている人は、少なくなかった。

そして栄光の89年、日本車空前おそらく絶後の
ビンテージイヤーが来る。
我らが初代ユーノス・ロードスターのデビューである。

「その手があったか!」と古強者は手を叩いたに違いない。
私のような免許年齢になるかならないかの若者は、
初めて見るその小さいながらも得体の知れない
存在感に、目を見張った。

そう、小さいのである。
そして低い。
エンジンは、大衆車ファミリアのものだという。

スポーツ・カーといえば速度を誇るもの、
フェラーリ・512BBの302km/hより
カウンタック・LP500の315km/hが偉い、
そう思いこんで育ってきた80年代の申し子である我々は、
そのパラダイム・チェンジに、金槌で頭をぶん殴られた
ような気がした。
こんなものがスポーツ・カーであるはずがない。
しかしなんだ、このCG誌の小さな写真、
緑の森の中にたたずむ赤いロードスターの、
この異様な迫力は。

当然だ。
今に至るも、ロードスターは、
世界で唯一のスポーツ・カーなのである。

後に。
ホンダとスズキが、おっかなびっくりで、
軽の枠で保険を掛けた。
ビートもカプチも非常な傑作車だが、
両者とも「これが1000、あるいは1300なら」という
悔恨は否めない。
ビートはあまりに実用性が無く一泊旅行さえ気合いが要り、
カプチは幅が足りなすぎ、ターボでトルクを補った
エンジンは、好き嫌いがある。
(あー……S2000はまあ、そうだといえばそうですな。
 大きすぎるのをガマンすれば)

トヨタと日産と三菱は、結局やらなかった。
既存車の屋根を切ったモデルは出したが、
それだけである。

「MR-Sは?」
量産車プラットフォームを(位置を変えて)
そのまま使ったモデル、これは各社にある。
かなりある。
BMW・Z3、メルセデス・SLK、フィアット・バルケッタ、MG-F……
しかしこれらはまず、ブサイクである。
ボディが、分厚い。
ボディとパーツの関係をいったんバラバラにして
ゼロから組み直したものではないので、結局、
空間効率優先で組まれた上下方向に分厚い
(その方が、前後や左右にスペースを食わない
 =客室を広くできる)
パッケージングになってしまう。
だからボディが分厚く車高が高くて、
そんなには、カッコよくない。
もちろん、走らせてもベース車に比べ
さほど低重心でもないから、
劇的に「違う!」とまでは思わせることができない。

だから、スポーツで勝負できないから、
Z3は狂ったようにでかいエンジンを積んで己を誇示し、
SLKは電導屋根開閉オナニーに耽る。

トミーカイラZZやロータス・エリーゼ、
ルノースポール・スピダー。
これらはもちろん専用車体で、能力的には文句ない。
ただ、少量生産品であるが故にかなり高価で、
メンテ等の不安もある。
誰もがほんのすこし勇気を持てば気軽に買え、
楽しめる。
大学生でもリタイヤードな元走り好き親父でも。
それには、すこし敷居が高すぎる。

いいですかここ大事、試験に出ます。

世界中の巨大メーカーが、
電気自動車を作り燃料電池を使いF1を作り
3000万の高級車を作るメーカーが、
雁首揃えて、
たったロードスター一車種が作れない。
あんな簡単なものが、
作れない。
クルマの基本中の基本、
スポーツ・カーの王道中の王道、
いやしくもクルマ・メーカーであるならば、
売れる売れないは別にしてどこのメーカーにも
一車種持って当然といってもいい、この手のクルマが、
作れない。

それでもS2000でもコペンでも、
多少言いたいことあってもまだ持ってるだけなんぼもマシで、
持ってないメーカーのなんと多いことか。
持たない、それは考え方だから構わない。
ウチは実用剛直一本槍、それは構わない。
だがそれなら、スポーツのスの字も口に出すな。
特殊条件のモータースポーツでプロフェッショナルが
何百勝勝ちまくろうと、
お客さんの喜びには一ミリも直結しない。
売り物のスポーツ・カーを持たずして、
F1もルマンもGTカーもへったくれもあったものではない。

お料理コンテストで賞取ってる暇があったら、
家族に美味いメシを食わせろ。

3代目にも、言いたいことはある。
「世の流れ」を言い訳にして、
サイズと排気量を大きくした。
スポーツ・カーが、一番やってはいけないことである。
パワーを求めたら、その瞬間スポーツ・カーは終わる。
理由は上述の通り。
重く大きくなり、スポーツ・ドライビングができない。
また、どんどん高価になっていく。
手に入らなければ、あたりまえのことだが、
楽しめない。
そしてRX-8のプラットフォームを使った。
エイトそのものが頭からスポーツを意識して
作られているクルマだからまだ影響は小さいものの、
発表会速報写真、貴島主査とCEOが乗ったショットを見て、
「ああ……大きくなったなあ……」
とため息が出たロードスター好きは
世界中に少なくあるまい。
頭で「どうやらギリギリ」と言ったのは、この点である。

それでも。
それでも、マツダが、ロードスターを、
新しく作ってくれた、
作り続けてくれる、
様々な環境要因から完璧に理想を追えなくとも、
しかしソウルだけは忘れず、
大きくなったボディをグラム単位で必死で軽量化して、
なんとかスポーツ・カーであり続けようとしている、
その努力、
それこそが偉大なのだ。
そこに、拍手を送る前に、
涙がにじむ目を拭わざるを得ない。

広島の片隅に、今日も、
世界中の誰にもできないことを、
偉そうに胸と虚勢を張っている巨大メーカーができない、
いや、やれるくせに目をそらしゴマカシを並べて
やろうとしないことを、
黙々とやり続ける人々が居る。
そしてそれに応える人々が、
世界中に居る。

それだけでも、勇気が湧くではないか。
まだこの世の中は、捨てたものではない。

真実を追うこと、それは物理的には、
とても簡単なことである。
問題は、やるかやらないか、
ただそれだけだ。



 8/26 こっちを笑わせろ

「笑い」とは、
全ての価値が相対化されるところから生じます。
どんなマジメなことも笑い飛ばし、
どんなフザケタことも真剣そのものにやる、
普段の価値観が逆転する、
その目眩や破壊の心地よさに、
思わず頬がゆるむ。
多少おおげさに言えば、笑いによって
人間の多様性、バラエティ=生存可能性を
見せつけられることで、安心し、
未来への可能性を信じることもできる。
笑いは、そんな日常の風穴になる。

この笑い、すなわち価値の相対化が許されないシステム、
多様性を否定し、健全な批判を許容できない、
またそれに真正面から応えることができない、
イコール変化できない、
そういうシステムは、滅ぶ。
ナチスしかり、ソヴィエトしかり、
もちろん戦前戦中の日本しかり。

芸人というのは、化外の民として、
あるいは古くは神に属するものとして、
このために無礼講が許されている。
システムの中からシステムを壊す分子は
なかなかでてこないのです。
だから、システムの外に、その可能性を残しておく。
芸人のやるべきことはこれです。
またそこをこそ民衆は評価し応援する。

最近の若いお笑いの人は、
ちょっと売れるとなんだか体制側にへっぱりつく人が多くて、
ちょっと寂しいです。
あなたが関心を引くべきは、
大物タレントでもプロデューサでも局のエライ人でもなく、
あなたの声を聴きあなたの姿を見る、
目の前のお客さんではないですかね。
というよりも、彼らこそそういうことに非常に厳しくて、
彼らが組みたがるのは自分の利益になる
「笑い取れるヤツ」です。
おべんちゃら使うヤツでも、お中元が高価なヤツでもない。

価値を自分で作り出さず、
価値に擦り寄るようでは、
芸人ではない。
もちろんながらそんな人間からは
新しいものや珍しいもの、驚きは出てきませんから、
すぐ捨てられる。

最近の世の中はほんと冷たいので、
それを叱ってくれる人居ないんですよね。
正論吐いて批判浴びるの損、みたいなノリで。
だから、自分で、肝に銘じてないと。


 8/25 セオリーは売ってない

日本伝統の家事用ファッションとして
ネコミミメイド
っていうのがありますが、僕どーにもあれ、
違和感あったんです。
可愛いとは思うんですけどね、なんか変。

なぜかわかった。

ネコはメイドなど絶対にせんッ!

特にメスネコは地球上で一番偉い物体ですからね。
「そのミスマッチこそがいい」
と言い張られれば二の句は継げませんが。

---

セオリーというのは、基本的に罠です。

書店で「文字を美しく書くために」みたいな本を
めくっていると、たとえば、
右肩少し上げ目にした方がいい、とか、
漢字大きめかな小さめで、とか、
見たことあるセオリーが並んでます。

間違うてます。

我々が最も読みやすいと思うものは長年慣れ親しみ、
また字母作ってるところも百年近くにわたって改良を
続けてきた明朝系の活字です。
明朝が右肩上がってるでしょうか。
明朝がカナ小さいでしょうか。

書道は基本的に芸術で、「美しくあること」を志向します。
でも、われわれが、「キレイな字を書きたい」と願う時、
それは芸術的美しさを指すでしょうか。
じゃない、読みやすさ、目標はこれ一点。

罠なんですよ、だから。

もちろん、その本をお作りになってる
ものすごい上手の人は、
ご自分の経験と知識を活かして「かくあるべし」を
真剣に書いてくれてるんでしょうけれども、
でも、実効はない。
むしろ逆効果。
そして死屍累々。

セオリーっていうのは、自分で作るしかないんです。
自分に向いてるものを。

もちろんその過程で他者参考品を学んだり、
オーソドックスにいいと言われてるものを学んだりする
のはまことに結構なことだと思いますが、
それは所詮借り物であり、生で使ってしまうと、
食卓に漬物屋の漬物が並ぶようなものです。
なんの意味もない。

昔と違って今は
「んなもんてめぇで考えろ!」
と完璧な正論を吐きつつ殴ってくれる
父親もオヤジさんも師匠もロクに居ません。
だから、より一層「自分でセオリーを作る」という意識が
必要なように思います。

情報は氾濫していますが、この類ばかりです。
それはせいぜいその人のセオリー、
それならばまだマシで、
それの単なる粗雑なコピーだったりする。

えらそうな口きいてますが、もちろん僕も
「あ、これはワナ」
なんて思えるフィールドはいくつもなく、
日常そのほとんどをワナにどっぷり浸かって生きてます。
ただそれでも、
「セオリーは、売ってない」
と知っておくのは、だいじなことだと思うのです。



 8/24 美味いパン

これからしばらく独り言ばっかりになるような気がします。
今までもそうだったんですけど、なおひどく。

昨日のジェントルメン掃除機、Henryさん。
わたし、メーカーでは、全社の企画を見てる部門
(統括とかそんなえらそうなことはない)に居ました。
やれネットワークだやれコミュニケーションだ
やれシステムだ、難しい単語と概念が飛び交う全体会議
の席で、みんなでホッと息をつくのが
「端までゴミを吸える改良ヘッド」
などと誰にでもわかる便益を訴求してくれる白物家電部門。
説明に立った掃除機の技術の人の
「このヘッドに10年かかりました」
という誇らしげな笑顔は忘れられません。

まあ、そういうやり方があるわけです。
一方で、Henryさんみたいなやり方もある。
買い手に立ってみれば、どちらが良いというわけではなくて、
どちらも良い。
プロあるいは職人芸として、道を究める、
それは尊いのですが、
それとは全然関係ない、楽しい、おもしろい、
毎日が豊かになる彩られる、
そういうやり方も、世の中にはある。

それはもちろん相反する概念ではなくて、
Henryさんに端までヘッドがついてるのがいいんですけど、
しかし、独立の概念ではあって、
Henryさんを考えつくのはプロとは限らない。
むしろ子供の方がやってのける可能性が高い。
プロはパターン表いっぱい持ってますし、
よそのジャンルのパターンとかも勉強してるので
(それが仕事ですから)
似たことはできるんですけど、
本質的に「あ! それだ!」というところに至るのは、
そういうこととは全く関係のないチカラです。

このチカラが今は欲しい。

念のためですが、Henryさんは、
キティちゃんのステッカーを貼ったモデルや、
虎ジマにしたタイガースモデルなどとは
抜本的に違う。
もっと上の方で、もっと根元的なところで、
「掃除機とはなにか」
を追い求めた結果生まれたものです。

だから、そういう、モラモラしたモノゴトの核のあたりで、
「愛とは」とか、「気迫とは」とか、まあつまり、
「人間とは」っていうところを、
がっしり掴んでいきたい。

パン、でも豆腐でもいいんですけど、
製法も材料も決まってるわけです。
でも美味いベーカリーのパンはガツンと美味いのに、
スーパーに並んでるのはさほどではない。
この差はなにか。
特選素材や職人芸のせいにしては本質を見誤る。
たぶん、わたしが一ヶ月ぐらい練習すれば、
もちろん職人には遠く及びませんが、
スーパーのパンよりは美味くできる。

それは、なぜか。
それは、なにか。

そして我々はなぜ、それにも関わらず、
スーパーのパンを買って食うのか。

そこまでは全然わからないのですが、
すくなくともわたしは、
美味いパンを作ろう、
と思うのです。



 8/23 雑雑

昨日見つけたイギリス製掃除機。これ
これはずっこいですよねえ。

でも、いいアイデアだと思いました。
技術じゃなくてアイデアで負けるのは悔しいね(笑)

---

最近またスパムがひどくて。
「国宝級のパイズリ!」
だからその「金融」を略したが故に
わけがわからなくなった
「日本版ビッグバン」
みたいな表現はやめなさいと……

しかし「人間国宝級」だったとしてどうなんでしょう。
ぱっと思いつくのは桑原和男さん扮する
おばあちゃんなんですが……

---

海の向こうでは漢字流行ってるらしいですよ。
HERO人が船作ってる時にもイタリアン内装屋が
「どうだいこれCOOLだろ」
と持ってきた壁紙に
「虫」
とか描いてあって必死で説得してまかせてもらったとか。
あとこちらのブログとか。
(「日本語への憧れ?!」というエントリ)

なかには、セクシーな女の人が胸がばっと開いてる
服を着て、谷間にtatoo。その字も
「女」
見りゃわかる、つーの。
あと「(諸行)無常」Tシャツを作ろうとしたらしい
「無畳」
Tシャツとか。ああ無畳。

そんな話を、聞きました。

東南アジア諸国では日本車が
もちろんステイタスなのですが、
中古の営業車が行くと漢字がモテモテだそうですな。
「田中工務店」
とか土手っ腹にでっかく描いてあるのが
最高にクールだそうです。

まあ、アメリカントラック買って
「James' Express」
とか描いてあるようなもんですかねえ。

ゲラゲラ笑ってますが我々もたぶん20-30年前は
英語圏はともかくフランス人イタリア人あたりには
ゲラゲラ笑われてたはずで、
いやまったく。

---

てなこって。
そろそろ抽象的な「きもちのもちよう」みたいなところは
だいたいOKとして、
次は具体的な戦術戦法のレベルを練ろう、
と凝りもせずにモヤモヤしたものをコネコネしています。

結局、「得手に帆上げて」というのが一番ではないか、
と思うので、たとえばぼくですと、
スジも世界もなくただキャラ同士が延々
アホな会話と行動を続ける……

新喜劇ですか。

つまり、三つ子の魂ってわけです(笑)
おもしろいですよね、
うまく行ってる時は、うまくやってる。
うまく行ってない時は、うまくやってない。
セオリーは、与えられるものでも学ぶものでもなく、
自分で持ってる。

自分を自分で確認して、
あとはいかにそれをうまいことやってのけるか。
ここまで来れば、結構楽しくなってきました。

---

どこまでシンプルにグデグデにできるか。
マンガでいうと、画面真っ白なのになんか濃い。
そんな感じですかね。
言葉として濃いんじゃなくて、
登場人物がぽそりと漏らす普通の言葉に、
なんだか変な奥行きがあるような感じ。

やってみよう。



 8/22 強く見せたい

かまえずに行こうと思っても、かまえますね。
終わって横になると、
ため息のような深い息をする自分が居て、
かまえていたことに気づく。

平常心自然体、かんたんなことじゃないですよ。
簡単なことじゃない、なんて思っちゃうと、
またそれは構えなんですけどね。

とにかく淡々と。

罠なのは、意識してフラットというかクールというか、
それもまた微妙に違う。
ぼくの書いてるものなんか、自分内賞味期限が
最近特に短いので、
(それはいいことだと思っているのですが)
あんまりクールに見過ぎると、
どこもかしこもつまらなく見えてくる。
本質的ではないように思えてくる。
そうじゃなくて、それ記した時はやっぱり
なんらかの気持ちの盛り上がりがあったはずで、
そこに共感できるはずなのにそれを止めてる
今の気持ちの方が、ちょっと不自然なんです。

やっぱり、
集中して一発書いてそれでできあがり!
という域に達しないと駄目ですね。
道は遠いががんばらう。

あ、でも最近、「ここダメだろ」っていうのが
よくわかるようになってきたよ!

……ダメだったらダメじゃん……

まあ、なにごとも一歩ずつ。

---

それに類して最近よく考えることが、
「本当の強さというのは、強そうではない」
こととか。

RX-78(ガンダム)の画期的だった点は(笑)
あれ、「強そう」じゃないんです。
ヒーロー、二枚目面ではありますけど、
ザクの方がよほど強そう。
肩に盾とスパイク、斧振りかざしてマシンガンで
実弾を撃ちまくる。
どっこい、ガンダムの方がまったくつおい。
ビームサーベルはザクをまっぷたつに叩っ斬る。
あれがえらいカタルシスだったんじゃないかなあ。
強そうじゃないのに、強い、ての。

その、「強そうじゃない」、ってのは
「さりげなさ」であって、
自然体であったり、構えのなさだったり
するんじゃないですかね。
スポーツでもそうですよね、簡単に処理したように見えて、
玄人が思わず唸るようなプレーがある。

自分がそういうのを出せるかどうかは別にして、
まわりを見る時に、
「強そうにしてる、っていうのは、たいしたことない」
っていう見方はできるんじゃないでしょうか。

そしてその見方をしだすと、
世の中というのはほんっと、びっくりするぐらい、
そしてすこし辟易するぐらい、
「俺は強い」「私は強い」の大合唱なんです。
耳も目も心も痛いぐらいに。
それか逆。
「私は弱い」と関心を引こうとする叫び。

もういいから叫ぶな!

と叫んでみる。

みんなね、一生懸命生きてるのよ日々を。
かまっちゃいられないというわけではありませんが、
かまえる量や割合はそんなに多くない。
そこんところを理解しないようでは、
いつまで経っても表面的な受け入れられ方しか
しないような気がします。

ああもちろん自分に言ってるんですよ!

選挙報道見ててもそうですが、
「俺は強い」とか「ヤツは弱い」とか
そんなことばっかり。
そういう、本質ではないことを言えば言うほど、
本質を伝える時間がなくなり、
なにより、弱く見える。
……というようなことを知らんようではダメだろ、
とも思われますしね。

「強く見せたい」のは動物的本能と
言っていいと思うのですが
(この文章だってそうです)
それと、強さとは、なんの関わりもない。

で、あるならば、
強さを内に秘める、とまでいかなくとも単純に、
そんな無駄なことは極力やめていきたいなあ、
と思っているのです。



 8/21 もう、買わない

今日は落ち込んでます。
たとえて言えば。

ビックリマンチョコってある(あった?)じゃないですか。
子供の頃欲しくて集めたくて、でもおこづかいそんなに
無いからちょびっとずつでガマンして、
お金持ちの子を羨ましく思ったり。
そして大人になってふと再会して、
ふとキーが入っちゃって、
箱で大人買い。

そして部屋で独り大量のチョコを前にして
がっくりうなだれる。
チョコはもちろん要らないし、
よく考えてみれば、シールだって、ぜんぜん要らない。
もったいない、というほどのお金でもないし、
食べ物を粗末にどうこうというほど倫理的な毎日を
送ってるわけでもないけど、
こう、
ガマンできなかった自分が、
情けないような、
いかんともしがたいような、
さりとて、
怒るほどでもないような泣くほどでもないような。

そしてしょっぱーい顔つきで、
ボソッ……と一枚噛みしめてみればやっぱり
ぜんぜん美味しくなくて、
逆にポッキーとか食べたくなるぐらいで、
できることなら今日の朝に戻って
すべて無かったことにしたいような、
そんなたいそうな話でも、ないような。

ふとそんな気紛らわしにwebなど見れば、
「ビックリマンで超レア当たったーーーー!!!」
って絶叫してる人居て、
ふと見れば手元にそれがあって、
ネットオークションすれば数千円になるんだろうけど、
それすらもめんどくさくて、
というより気が紛れないじゃないか……と
さらに沈んでみたり。

やっぱりいやまて、そんな沈むような大層なことじゃない、
とかぶりを振ってみたり。

そんな日に限って弟が四国旅行で買ってきた
讃岐うどん、しかし「3Lの水で」なんて巨大鍋が我が家に
あるはずもなくできあがればドテドテ。
おのれでそう仕上げておいて麺類の嫌いなまま上は
「んなゆうほどたいしたことないな!がはははははは」

昨晩はそんな彼に道後の地ビールを奢ってもらい、
旅行に行って兄に(うちはビールぼくしか飲まないので)
ビール買ってきてくれる優しい弟に比べて、
友達にお中元で貰ったサッポロ・クラシックを
ひとりでかぽかぽ飲んでる自分が
情けなかったり情けなかったり。

こんな時には手作業だとばかり金曜の
ガンダム祭りをDVDに録画しようとすると
3部どれも2時間とちょっぴりで、
レコーダのジャスト機能を使うと「2時間待て」と
出てきてはウキー。

セイラさんマジ最高ッス。

ぼくの金髪碧眼萌えはたぶん原体験がセイラさんか
アルフィンかどっちかなんですが、
と書いて「違う、安彦先生だー!」と今気づいた。

あれ? 前も気づいたっけ?

もちろん土器手ダーティペアは1話しか見てないという
どうしようもなさです。

ていうかブライトさんカッコイイよね。
ぼく20前後ののんべんだらりんと大学生やってる時に
なにがショックだったかって
「ああもうこの頃ブライトさんは英雄に」
怒りっぽいけど理不尽ではない、
理想の上司じゃないですか。
人を白眼視しないしね。

そんな感じで落ち込んでます。

つまり……
もう、ビックリマンチョコは、買うな、ってことですよ。
いつまでも子供じゃない。
たとえ子供で、いたくとも。



 8/20 常識とは

ちょっと聞いてよし。

昨日ケムさんとこのニュース見てたら、今って
「PC作業の場合、画面の周辺(つまり部屋)の明るさは
 かなり暗い方がいい」
というのが常識らしいですね。
バーぐらいの薄暗がりでちょうどいいとか。
(もちろんまぶしく無いように画面の輝度は落として)

あのねえ、ぼくねえ、
昔から会社でVDTやってると、
「まぶしいなあ」って思ってたんですよ。
ディスプレイに庇みたいなの取り付けたり、
自分がキャップ被ったりしていろいろやってたんですが、
これで疑問氷解しました。

ああ、そういやさ。
MicrosoftとかAdobeとかPixarとか向こうの
シリコン系の会社の模様がTVで流れたりすると、
確かに薄暗いんですよね、個人開発ブースって。
あれ、てっきりほら、ちょっとスカしたクリエイターが
趣味でそうしてるのかと思ったら、違う違う。
普通に常識なんですね。

……てことは日本の会社は一体……

集団訴訟が起きないうちに
ちょっと考えた方がいいですよ(笑)
というのは半分冗談としても、
とりあえず開発系とかシステム系とか
ヘビーユースな部署だけでもまずなんとか。
作業効率に直結しますから、
業績にも直結します。
たぶん。

「部屋は適度に明るく」は、
自発光デバイスの無かった頃の、
つまりデスクワークといえば対象が紙だった頃の
常識でした。
見るものがディスプレイ>>紙となった今でも、
それを引きずったままなんですな。
で、ぼくらが親になって子供に注意するときっと、
「もっと部屋を明るくしなさい!」
って言っちゃうと思う。
そして子供を疲れさせる。

こわっ。

先日、バンドエイドが間違ってましたすいません、
っていう話があったじゃないですか。
貼った方が治りが遅くなる、っていう。
あれもね、ぼくなんとなく体験上小さな傷なら
貼らない方がいいと思ってたんですけど、
まあジョンソンが2人揃って言ってることだから
間違い無かろう、それはぼくの妄想だろう、
と思ってたんです。
ところが、実感の方があってた。

もう、ほんと、なにも信じられない世の中(笑)

ほら、だって「伊藤家」でやってたけど
ゆでたまごは熱湯にいきなり放り込んだ方が
殻がつるりと剥けるんですよ!?
全国の家庭科の先生は嘘を教えてたんですよ嘘を。
あと
「マーガリンは身体に悪いっぽい」とか、
「木は水を猛烈に食うので砂漠に植樹はしっかり考えないと」
とか、もうこないだまでの常識が次々にグラグラしてる。
フロンやアスベストだってまあ言えばそうですよね。
便利だからあんなに使って、こんな羽目になってる。

情報時代ネット時代には功罪あると思いますが、
功の部分として、そんな大上段にふりかぶらなくとも、
「みんなはこうだって言ってるけど、
 俺はどうもこう思うんだ。
 おかしいのは俺かな」
「あ、いや……
 私もそうじゃないかと思ってた」
「だろ!?」
てな話がサーッと拡がる可能性、だと思います。
(デマも拡がりますけどね)

「常識」は覆されるためにある。
なにごとにも囚われず。



 8/19 それはおいといて。

マイナスの執着を起こさせるものからは、
目をそらしてしまえばいい。

いやあ……あのね。
最近そういうことが多くてさ。
今までだと一々について「フォー!」言ってたのですが。

やめた。

バカバカしい。
自分のエネルギーを浪費する方向に使うのは。
まだFFでスシでも握ってる方がよっぽど生産的だ!

でも、それこそが難しい。

……と、思っていた。
最初の失恋のことなんか思い出してごらんなさいよ、
どれだけ落ち込んだか。
どれだけ忘れようとしても、忘れられない。

ところが人間歳取ってくると
いろんな芸を手に入れるもんでさ。

具体的な方法論考えてみるわけです。
「それは心の問題」と我々思いこんでますが、
結局、感情を司ってるのは脳。
脳の活動であるならば、
しかもそういう新皮質事項は、
訓練次第でなんとかなるんじゃないか。

「考えるのをやめる」っていうのは、
脳のネットワークの、
そこの部分が働いてなければいいだけです。
削除する必要もないし、
新しい内容で上書きする必要もない。
放置する。
そしてそこへ行きそうになったら、スラッと回避する。
それだけ。

だからそれが難しい?
いや、たぶん、これ、訓練なんです。
だから歳取ると上手くなる(笑)
とりあえず、
・「それはできない」という思いこみを無くし、
・忘れたり楽しいことを考えたりするのではなく、
 考えないだけに集中する。
てのがポイントじゃないかな。

ぼくは今まで、
「どんなことでも、
 それについて考えて、それについて表現する」
というのを、苦行のようにして自分に課してきたのですが、
苦行は効果が薄いことに気づいた(笑)
お釈迦さんだって苦行の果てにヨーグルトがぶがぶ飲んで
涙流して喜んだわけで、
大事なのは苦行じゃなくて、ヨーグルトなんですよ。

最近お気に入りの「流れ」論でいくと、
心の動き、つまり思考や感情にも流れがあって、
いい流れ作っていくのは自分の力、
なんです。
それはなにも特別なセンスや人格や猛烈な努力を
必要とすることではなくて、
悪い方に行きそうになったら止まる、
しかるのち別の方向を探る、
いい方行ってる時はどんどん行く、
そのトライ&エラーの繰り返しにすぎない。

その繰り返しを何万回かやってると、
ある日フト気づくと、
実に巧くヤなことを素早く回避し
(たぶん達人になると近づくことさえ無い)
良いことの方へ寄っていくことができるようになっている。

上岡龍太郎さんが、「パペポ」で毎週のように
おもろい話を持ってくる笑福亭鶴瓶さんに向かって
「君の周りにはどうしてそんなおもろい話が起きるねん」
と笑い呆れてましたが、
たぶん、子供の頃からああして
「なんかおもろいことはないか」
と探してる人は、おもろいことに吸い寄せられていって、
おもろいことも集まってくるんです。
お金なんかもたぶん同じ、儲ける・儲からないを
繰り返してると、「流れ」が読める様になってきて、
ある方へすーっと寄っていけるようになる。

これはもう、訓練しかなくて、
でも、訓練すれば、誰でもできる。

最近はそんな感じで、ヤなことがあると、
「知るか! そんなことよりラブコメだ!」
とキーボードに向かいます。
ま、もちろん、まだまだですが。



 8/18 〜の構え。

ちょっとテクニカルな話すぎるような気もするのですが、
「構える」
っていうのはどうなんでしょうね。

矢吹ジョーがノーガード戦法やるじゃないですか。
つまり「構える」と、攻撃の方向ややり方が、限定される。
可能性が小さくなる。
そこを読まれる。そして防がれる。

我々は「なぜか」よく間違えるのですが、
パンチはまず当てなきゃダメで、威力はその次の話です。
(当て方を鍛えるのは難しいけど、威力を鍛えるのは
 やりやすいからかな?)
とすると、読まれない方がいい。
(ボクシングの場合構えは守備を兼ねてるので
 問題はそんな簡単なもんじゃないんでしょうけども)

……と、いうようなことは以前も考えたんですけど、
しかしたとえば「構えない」として、
それをどうやって具体化するかというと、難しいんです。
「構えない、構えない」と意識することは、
そういう「構え」ですしね。

憎むのは簡単だけど、
忘れるのは難しい。

そうは言っててもはじまりませんから、
超一流のマネしてみましょう。
世界一巧いサッカー選手、ロナウジーニョ。
始終ニッコニコ笑ってる。
世界一巧かったバスケット選手、マイケル・ジョーダン。
ここ一番では舌を出してプレーする。

つまり舌を出して笑いながら仕事を……

まあ、そのぐらい肩の力身体の力を抜いて、
抜いてといっても脱力ではなく、
しなやかに柔らかくなめらかに、
どの方向のどんな動きにも
柳の木のように猫のようにいなすように
ふわっ・するっ・にゅるっとこう……

苦手やなあ(泣)

ま、逆の剛直電車道直球一本、というのも
それはそれで体捌きとしてはきっとアリで、
間違いではない。効果的であることも多い。
まっすぐがなにかわかってないと変化球も
投げられないし。

でも、ちょっとそっち側そっち側すぎるのが
現代生活じゃないかなー、と思うんです。
疲れたらメチャメチャコッテリの食事取って、
ビタミン剤飲んで栄養ドリンク飲んで、
エアコン効いた部屋でテンピュールの上に寝る。

うん、そうなんだけど、そうでもない。

案外、おなか減らしたまま、玄関先の板の間みたいな
とこでへばった方が、要らない汗が出て楽になったり
することもある。
ところどころからだ痛いけど、嫌な痛みじゃないというか、
あたりまえの痛みで。

やっぱりヨガでもやろうかな。
これもしかし、「ヨガするぞ!」という気持ちは、
「構え」なんですな。
あんまり構えず。

具体的になにをするかは別にして、
そういう気分とそういうやり方は手段としてある、
という意識は持ってて損じゃない、と思います。
現代社会のノーマルなやり方とあまりに逆なので、
勇気要るんですけどね。

「流れ」のたとえますと、「構える」と、
自分の周りにハコを作っちゃうようなもので、
流れに乗りにくくなる……ような気がします。
というより、流れと一体化できなくなる。
できるだけそういうものを無くし、
周囲の流れのいい流れを自分の方に引き寄せたり、
利用したり、悪い流れからすーっと逃げてみたり、
それは、構えない方が、やりやすそう。

あと、
「結果考えない」
っていうのも「構えない」ことにつながりますね。
デキ悪くてもいいじゃん、と開き直って、
デキのことは忘れる。

もちろん、物理的に意識的に、
ギリギリの時間や空間を設定することで、
あるいは多少無理にでもそういうモードに切り替えることで、
「構えていられない」
というシチュを作るのも可。

それからちょっとスピリチュアルがかっちゃいますが、
「感謝する」
ってのも物理的に効果的ですよ。
「ああ、いまこれができるだけで、幸せ〜」
そう思えば、余計なモノがボロボロ落ちる。
どんな宗教でも感謝感謝とうるさく言うのは、
具体的メソッドとして力があるから、かもしれませんねえ。

えーとそれから……
ウチのマイケル(ネコ)見て思うんですけど、
あいつ始終寝てるんですけど、ほんと何分って単位で
寝相が大胆に変わるんです。
これもしなやかさのひとつ。
「ベスト」を求めすぎると、
それではないすべては、90も70も40も0に近くなる。
そうじゃなくて、
「ベター」を次々に探りながら並べていくと、
結果トータルもしくは平均としては、
ベストを求め続けた場合よりも、はるかに強いんじゃないか。

と、思って、最近アーロンチェアの上で
めちゃくちゃダラしないです(笑)
ただ、同じダラしないポーズを長くせず、
いろんなダラしないポーズを次々に、
たまには背筋も伸ばしつつ……

固まらない、流れてる、っていうのは、
すごく大事なことのようです。

---

そしてここからはわたくしごと。

ドラマツルギーと言いますかね。
「起承転結ここで山作ってここで谷作ってこうー!」
っていうのは、止めようと思うんです。
もちろん大雑把なメモぐらいは書きますけど、
それより構えなしで、その場その場の思いつきで
書いた方がいいような気がしてきた。

だってさー。
「北斗の拳」だって「キン肉マン」だって
設定破綻してるじゃん(笑)

こう書くとずいぶんエーカゲンなようですが、
最近凝ってます岩パカーンというのを考えると、
実はそれはエーカゲンではなく、
大岩割るためには、むしろそれでなければ割れない、
そんな気がします。

宮大工小川さんの本で(西岡棟梁だっけかな?)
ちょっと驚いたのは、お寺のお堂も途中で設計変更とか
段取りの変更とかつじつま合わせとか
あたりまえのようにやるんですね。
考えてみれば当然で、どんなことでもでかいプロジェクトに
変更はアクシデントはつきもの、
それをいかに乗り越えるか、むしろいい方向へ転がすか、
こそがDやPの腕の見せどころ。

文章も、ある程度のサイズ超えてくると
完全に全体を詳細で把握するっていうのは無理で、
(ぼく個人的には50KB前後(100枚)が
 そういう認識方法の限界)
それ以上、となると、
もちろんブロックに分解してひとつひとつ処理するのでも
いいんですけど、それだけでは足りなくて、
全体観というか、
流れで把握するというか、
そういう能力が必要になるような気がします。
書いてる途中も、書いた後も。

で、そういう能力は、いつまでも地べた這いずり回って
50KBの時使ってた虫眼鏡使ってても、得られない。
視点とかセンサーとか、抜本的に変えないと。

それに向かうひとつのメソッドとして、
「構えない」。

仏像は仏様を彫るのではなく、
木におられる仏様を掘り出すもの、
みたいな感じ。
構えて、「こうしてこうしてこう書こう!」じゃなくて、
「だいたいこんな感じでいこうかな?」ぐらいで、
あとは現場でその場で、カンコン掘り出していく。

いやまあ、結構今までもそうだったんですけどね。

ということで、最近コレはノーガード。
無構え。
種も持たずに直書きが多いです。
練習、練習。

あ、でもやっぱり、最初は、
お手本通りの仏様彫れるようにする、
っていうのは大事だと思う。
ただ、お手本それ自体にこだわる必要はない。
その訓練のポイントは、
「こうであろう」という自分のイメージを、
自分の腕が実現できる、
という点であって、
だから対象は別になんだっていいわけです。
むしろ彫りやすい方がいいから、
お手本どんどん変えてもいい。

師承方式のヤバイところはここで、
師匠が合ってない場合
変えればいいだけのことなんですけど、
努力が足りないとか思っちゃうと、
マズイことになる気がします。
噺家さんなんかも昔は出稽古に行ったそうで、
(別の師匠のところで稽古つけてもらう・
 噺によって得意不得意もあるので)
それはそういうマイナスを避けるシステム
だったんでしょうね。
合ってれば、爆発的に伸びるんでしょうが、
このシステムがいいあのシステムがいい、
というわけではない。


いやー、それにしても「構えない」って、むずかしい。
しばらく、構えないようにがんば……るってのは
構えることになるので、えー、なんだ、あー……

笑って舌出します。



 8/17 雑布

涼しくなってきましたね。夜中なんか。

何もない日は適当にまた妄想でもぶちかましますかね。

「流れ」にも「大流れ」「中流れ」「小流れ」があって、
やっぱり一番見とかなきゃなんないのは
「大流れ」なんだと思います。
モノゴトにはコアがあって、そこを通ってパッカリ二つに
割れるのが、言ってみれば大流れ。
そこ割らないとダメなんです。
中小でいくらキレイに割っててもダメ。
タマネギみたいに、ちょっと小さくなるだけです。
「これが種か!」
というのが「割る」という作業には大切、
いや目的なのであって、
割れなければ表皮をどんなにキレイに剥いてもしょうがない。

まあ、それも芸かもしれませんが。
あるマンガ家さんが居て、めっちゃくっちゃキレイに
剥かはるんです。
でも、コアは一ミリも見えない。
「どう? この桃。上手く剥けてるでしょ?」
確かに。
美しい。
だが、その桃が美味いかどうか、
まして「桃とはなにか」なぞ永久にわかりそうにない。

考え方次第、好き嫌いですね。
キレイならそれでいいじゃん、
というのは、それはそうです。
わかったってしょうがないじゃん、
というのもまた、真実ではあるし。

しかし、ぼく個人的には、このコアってヤツを
ガシーンと掴みたい。
それはもう、好き嫌いを超えた習性というか性分というか。
「ケツの穴から手ェ突っ込んで、奥歯ガタガタ言わせたる!」
てな勢いで。

岩の例えで言うと、
筋が見えてきても、それはいっぱい通ってるのです。
どの筋が「大流れ」なのか、それも見極める必要がある。
あ、筋だ、と思ってカン、と当ててしまうと、
ポロリと欠けるだけ、とか。
そして当人は大きく割ってコアを見た気になっている。
これはマズイですよね。

その、大流れ見れて、コアをカコーンと割れる人、
っていうのは、あまりしゃべらないんじゃないかな(笑)
たぶん、言ってみればもんのすごく簡単な原理が
支配してるんだと思います。
(もちろんそれは、そのシチュエーションごとに
 変わっていくので、常にアップデートが必要なんですけど。
 アンチウィルス・ソフトのように)
言ってもあまりにあたりまえのことしか言わないから、
みんな耳でスルーしちゃうんじゃないかな。

典型例が株で儲けるプロ・トレーダーの方とかで、
彼らはトータルするとほぼ100%勝つじゃないですか。
今や武器は素人となんら変わりない。
でも勝つ。必ず勝つ。
きっとそれぞれにその大筋を見極める切り口があって、
最悪見切れない様な革命的出来事が起きても、
見切れないからディフェンス一辺倒、とか、
そういう進退をコントロールできる。

僕が勝手にアマチュア博打打ちを観察して思いますには、
まず「撤退戦」ができるようになるのが、
常勝への第一歩じゃないですかね。
博打は基本的に射幸心から行うものですから、
流れ悪い時にも頑張って突き進んじゃう。
それやってると、勝率5:5でもテラ銭で絶対に損をする。
あかんと踏んだら降りる、見る、ができるようになって、
(あかんとわかるようになれば、いけるともわかる、だろう)
ようやくスタートラインって気がしますね。
しかもそれを、弱り目ってのは強目の直後に来ますから、
強目調子に乗ってる時に見切る必要もある。

テラ銭割合は決まってますから、胴元が儲ける割合は
堅実ながらも決まってて、
じゃみなさんが損してるちょっとずつはどこへ行ってるか、
というと全部かっぱいでるヤツがいるわけですな。
ラックで当たってる人を除けば、
1000人に1人とか。

敵はコイツですよ(笑)
パチンコ屋でも台そのものでもない。

だから、なににつけ、
そういう目が無いと思ったら、
その目を、鍛えるか、止めるか、どっちかですな。
でないと出入り出入りで自転車漕ぎまくるハメになる。
好きでやるなら、それもいいんですけど。

天才、というのはたいてい、
この流れを見切る能力だと思います。
あ、見きった後流れの方向に自分を乗せていく能力と。
あるいはもっと行くと、流れを変える能力。
それはなにも、ダムみたいな力ずくではなくて、
流れAと流れBが合流して、A側に流れていくんだけど、
Bの延長方向にコツッと一発当ててやると、
今度はB側に流れるようになりました、
てな感じ、ではないかな。

---

で、経験積んでくると自分の中にも流れはできてくるので、
その流れと、対象の流れとが、
うまーくシンクロするとか、交わるとか、
ぶつかるにしてもうまくぶつかったりすると、
スムーズに進むんだと思います。
無理に自分流(まさに)を押し通すと、流れない。
相手流に流されても、自分が死ぬ。
相手に流されてる時には自分の流れを感じ、
自分が流している時にはあまりにも自分ばかりに
なりすぎないように感じる。
そんな感じですかね?

自分の流れを強く激しくする努力も
必要といえば必要なんですが、
それよりも、持ってる流れをどう活かすか、
っていう工夫の方が遙かに有効。
だって300psあっても400psあっても、
その力を路面に伝えられなければなにもなりませんから。
100psでも、それを全部伝えてる方が速い。

そして、そこんところを工夫するのが、
おもしろい。

マッチョマンになるのも楽しいと思うのですが、
100kgを軽々持ち上げるのと、もっと便利。
で、それを為すには、
別にマッチョにならんでもいいですよ、と。

---

もうちょっと単純化して1対1にしてみると、
僕だと文章書いてるじゃないですか。
僕が得意の、あるいはその時の流れ持ってて、
で、できあがっていく文章も、流れ出すと
独特の流れを持ち出す。

するとですね、
自分と自分が書いた文章とが衝突しだすんです。
もちろん、両者の流れがバッチリ合致してるところも
あって、そういうところはまさに流れるようで
手の入れようも無いことが多い。
でも、ぶつかり出すと、ギク・シャクする。
もちろん読んだ人にもそう思われる。

だいぶ前にそれに気づいて、
当初はなんとか自分を通すために何度も何度も書き直し
してたんです。
で、最近、どうもやり方はそれだけじゃないぞ、
と気づいた。

それがさっき言った「撤退戦」で、
自分の流れじゃないのなら、文章の流れにまかせる。
押し通したい我をガマンすることで、
流れの美しさに納得と満足を見出す。

(切る、という手もあるのですが、
 一部でも切ると全体の流れがかなり変わっちゃうので、
 ものすごい大手直しになる。
 もちろん、盲腸みたいな本質的に流れを澱ませている
 部分もあって、そういうところは切った方がいい)

で、やってみれば、
案外、そっちの方がいいなあ、と思うようになりました。
できあがりがうまく流れてるのもあると思いますが、
無理しないから自分にもあんまり負担かからない。
ぶつかるんじゃなくて、
相手(自分の文章を相手というのもちょっと可笑しいですが)
にも譲ってもらったり、
こっちも第三案を考えたり。
妥協というのではなく、双方納得できるまで
流れを寄せていく。
アウフヘーベンですな(笑)
すると、当初予定と全然変わっていても、
作りあげた実感はさらに強い。
それが満足感になるんですね。

以前は推敲というと、「ミスを潰す」だったのですが、
もちろんそれもあるのですが、
今は、「流れを整える」というか、
「もうちょいいい流れはないものか」と
考える作業になりました。
んなもので、出来が悪いパートほどやってて楽しい。
流れてるところはもう流れちゃってるから
つまんないわけですよ。
以前は、流れてるところ読んでニヤニヤして
自分を慰めていたのですが。

で、それができようになって、
ようやく最近、
「(時間さえあれば)自分納得80%なら確実に出せる」
という自信がついてきました。
あ、以前はですね、
「70%なら力尽くでも出す!」
だったんですけど。
あんまり変わらないように見えるかもしれませんが、
この10%と、「いつでも」と「なんとしてでも」の差は、
すごく大きいんです。
例えて言うなら、受験勉強で
「あ、この教科は大丈夫」っていう教科あるじゃないですか。
そんな感じ。
以前は、必死に勉強してなんとか合格者最低点をもぎ取る、
って感じだったんですけど、今は上乗せ得点源にできてる。
くどく例を出すなら、マラソンで、
「走りきるのが精一杯」
から、
「走るのは走れるのでタイムをどれだけ縮められるか」
に変わった感じ。

あくまで自分納得であって、
客観的にはどうかわからんという罠があるのですが(笑)

で、最近すごく機嫌がよくて、
秋風が涼しいなあ、
なんてうそぶいていられるのです。
まあ、ここまでくればあとは純粋に効率向上ですから、
なんとかなるんじゃないかなあ。

ただ、物理効率自体はその副作用で、
実はかなり落ちてて、一時自分でも心配してたんです。
でも、最終的にみてみれば、
「5やって1当たり」
だったのが、
「2やって1当たり・ただし1回は以前の3倍のコスト」
になったようで、
実質はそんなに落ちてない。
当たりしか使い物になりませんからね。
これを、1回あたり以前と同じコストを実現しつつ、
しかも当たり精度をさらに上げていけば、
容易に以前以上に復帰できるどころか数倍の効率を……

カワザンヨー。

まあ、そこは努力ですが。
たとえちょっと落ちたままでも、楽さ楽しさが全然違うので、
これでもいいやと思うぐらい。

……と、こんなこと言っててもまた3ヶ月ぐらいしたら
「……えらいことですよ」
とか深刻な顔してるかもしれませんけどね〜。

---

大変に抽象的で、
「なにを言っちょるのだ、問題はその流れの見方だろう」
と突っ込まれるのは大正解。
でも、その流れの見方っていうのは、当人が
真剣な現場当たりをやり続けて身につけるしかない。
で、最近なんとなく見えてきたので、
「見方を身につける方法論を探すこと」
についての興味が急速に減少中(笑)

結局、いろっいろ考えましたけど、
「真剣さ×試行回数」
でFAじゃないかなあ。
素質とか関係ない。
持ってない人一見不利ですけど、
持ってる人は、方法論を考えるチャンスが少ないので、
パワーアップが実はより困難。
一長一短です。
ホントに真剣なら、10年も要らないと思う。
方法論が見えてくる頃には掴んでる、
って感じだと思います。
それこそ、好きでなくてもいいんじゃないかな(笑)
ただ、真摯に向き合えば。

つまり、まとめると、
方法論としては「とにかく・一生懸命に・たくさんやれ」で、
結果として得られるモノの見方について説明を
求められれば、
太極図とか中庸とか空とか流れとか道とか、
それこそ霊波動とか、
各個人で捉え方が違う。

たぶん、おんなじもの言ってるんです。
宗教が、結局は愛を説くのと同じ。

ただ、言葉になんない。
僕に(いまんところ)フィットするイメージは、
流れの結節点にタガネ叩き込んで、
岩を割ってコア掴み出すイメージなんですけど、
んなこと言われたってなんのこっちゃわからんでしょ?
頭にその絵面は描けても、
自分の行動にぴたっと被さらない。
そのイメージも、自分で作るしかないみたいです。

それでも、「僕の場合こうなんですよ」というのは
微々たる参考にはなるんじゃないかな、
と思いつつ印す。


なんだか試験勉強が終わった後のように
ホッとしてるのですが、
これからが本番だ(笑)

がんばろう。



 8/16 AppleStoreにて

ついにわがまま上が「iPod mini」という呪文を覚えたので、
「すわ心斎橋」とAppleStoreに行ってまいりました。

実はAppleStore、はじめてです。
おっちゃんのMac事始めはまだ元気だった頃の日本橋で
ソフマップ2号館MacCollectionにてLC475を……

チレーなお店ですな。

吉本隆明さんが
「仕事ってのは綺麗な場所で働きたくてやるもんだ」
みたいなことを(うる覚え)書いておられましたが、
まさにあんな場所ならバイトしてみたいぐらい。

デザインってのは偉大だなあ。
「空気を作る」っていうのは、
生へコアへと潜り込んでいく我々とは対極なのです。
だから尊敬。
……いや、根っこは同じなのかな?

シルバーの4GBモデルを購入しました。
「ポテトもご一緒にいかがですか?」と保護シートを
勧められたのでそれも。23000円ぐらい。

家に帰って手渡し、30分ぐらいiTunesの説明をして、
自分の部屋戻ってメールなど打ってますと、
しばらくして。
「……へへ、Cliff Richardの曲を買ってしまいました」

はやっ。
僕もまだiTMS(iTunes Music Store)使ったことないのに……

というより、実はまま上は
iTMSが始まったというニュースを聞きつけ、
「BackStreetBoysの新譜をネットでゲットしたい。
 ゲットしたからには外で聴きたい」
という理由で、iPodminiを買ったのです。
サービス先行。

恐ろしい時代ですな。
日本の特殊事情として着メロ・着うたという文化が
すでに存在するので、あっという間に普及するかも
しれませんねえ。

iPodの有利な点はiTunes、iTMSとコンビ組めるところで、
しかも汎用システム・サービスではなく
お互いがお互いのために作られている、その使い勝手。

いやぼくもねえ、最初はねえ、
「普通にフォルダ管理でいいじゃん!
 なんでこんなめんどくさい管理方法なんだよ!」
みたいに思ってたんですが、
いや、もうね、10GB分とかなると、
ああやって管理しないとしきれない。
同じようなことはMusicMatchとか他社のソフトでも
できるんですけど、もうね、以下略。
iTunesばかりはAppleの底力を見せつけられた一本でした。

ハード、ソフト、サービスのナイス・セット、
対抗できるのは……
SONYぐらいしか思いつかないのですが。

皮肉抜きでホンマ死ぬ気で頑張ってくれ。
日本の製造業の意地と誇りを賭けて。

いや、逆転の目はありますとも。
まAppleは別にして、有象無象のプレーヤーはやっぱり
「音響機器」としては弱い。
あたしも有象無象のシリコン系2つばかり買いましたけどね、
iPod買って最初に思ったのが
「……あ、音がいい」
でしたもの。あのぐらいで。
128のmp3でなにを言うねん、と言われそうですが、
元データがしょぼいからこそそれを上手く聴かせるのが
技術ってヤツで、それをやらせればもちろん
SONYは(まだ)世界一(だと思う)。

忘れちゃいけない、あれは「オーディオ」です。
ホンマ頑張って。

---

あ、miniですが、クリックホイールは便利ですね。
タッチセンサーっていい面悪い面あって、
連続動作は滑らかだけど、
ワンクリック動作には向いてない。
タッチセンサーとクリックスイッチとのいい面を
見事に一体化した、いい知恵いい工夫です。
あれ以上の洗練は無理かな。

……ということで、Apple初のマルチボタンマウス
「mighty mouse」はクリックボタンがタッチセンサーと
聞いて触りもせずにダメ判定、触ってやっぱりダメ判定。
意地でも「複数のボタン」を外目に出したく
なかったんでしょうけれど、
そういうくだらないなにかのために操作性という
マン・マシン・インターフェイスにおいて最大の以下略。

Appleはたまにこういうまったく筋の通らない
変なことするので、
(初期の液晶ディスプレイの入力端子を独自規格にしたり)
注意せなあきません。

まあ、その
「ちょっとでもなんとかしよう」
という革新へのエネルギーこそが、
あの会社のエネルギーですけれども。

---

あとは適当に、「30インチやっぱりでっかいなー」とか。

あ、これってMacユーザーにとっては
「それは、言っちゃダメ〜」
なことかもしれませんが、
Tiger(MacOS10.4)ってメチャメチャ重くないですか?
特にG4しか載せられないPowerBook勢で
「ちょっとこれ……」
というぐらい重いように感じるのですが。
P3-600ぐらいでWindowsXP動かすよりヘタすると重い。

もちろんそのトレードオフで、
画面なんかとてもキレイなんですが。
次期Windowsもこんな感じでまたえらく重くなるのかしら。
人間の欲望って限りないねえ。

Macの方のminiのいいところは、
サイズが小さいことそのものじゃなくて、
それによって「存在感が希薄になること」ではないかと
思います。
どうもジョブス先生は常にそれを意識してるみたいで、
Macを作ってる時に「自転車」って名前にしようとして
猛反対された、てな噂もあったりなかったり。
要するに、
「それそのものはどうでもよくって、
 それでなにをするかが問題だ」
という視点。
これがあるから、枝葉末節に囚われず、
常にシンプルを志向できるのかな。

……あ、IntelMacになるとこれ無理なのかな……
PentiumMの系統の方使えばなんとかなりますよね。
FF専用にDELLあたりからこういうの出ないかしら……

---

ひととおり見て感じたメッセージは、
「同じことができるなら、ウチでやってもらったら」
という逆転の発想。
どうせ同じことを──メールにwebにmp3リスニングに
DVDウォッチにデジカメ写真整理にせいぜいブログ書き──
やるんだったら、カッコイイコンピュータで
おされにシンプルにわかりやすく軽やかに
やっちゃった方がいいんじゃないですか?

おっさるとおりでございます。

それはもう、メーカーの発想ではない。メーカーは、
「よそのよりウチのはこんなにスゴイ、こんなにスゴイ、
 100cc多い!」
違うことができる、と吼えまくる。
むしろサービス業の発想ですね。
ホテルとか、レストランとか。
泊まる食べるは同じだけど、ウチは、心地いいですよ。

いい居場所を見つけたもんだ。

LC475を買った狭い店内の、異国からの新しい風に
沸き立つ様な熱気も、モノ好きとしては懐かしいのですが、
ま、このおされな店舗も、これはこれで悪くないな、
と思いました。



 8/15 タガネ

ちょいとだけ苦言を。
「言霊」っていうのはやっぱりどう考えてもおられましてね。

「刺客」っていうのは、ちょっとイメージコントロールの匂い
がありすぎるのですが、どうでしょう。
イメージコントロールというのは、
それと感じさせずしてはじめて効果があるのであって、
「恣意的な語法でなんらかのイメージを
 なすりつけようとしているな?」
と思われると、失敗どころか逆効果だと思うのですが。

首相に衆院解散権があるのは憲法で決まってることで、
三権分立の大原則です。
ルールに則ったアクションを起こして悪者扱いされる、
というのはどうにも解せないのですが……
そんな隠し球した高校球児をいじめるようなことは、
もう止めましょうよ。

今回は、財政改革という巨大な命題に対しての
真っ向勝負で、ひとつ。

ていうか、
言葉って無力だよね(笑)
特に政治は、行動と信念ですね。

(8/18追記)
 昨日綿貫さんの「国民新党」立ち上げのニュースを見てましたら、
 「刺客と称し今までの仲間を〜」と吼えておられまして、
 ひょっとすると「刺客」という用法は小泉さん周辺が
 言い出したことなのですか?
 でしたらここまで、意味無くなりますので取り消します。

---

昨日の石工さんの例が自分でハマってて、
いろいろ考えています。
「筋」を見極めてタガネを打ち込む。
タガネもハンマーもその力もほとんど問題ではなくて、
「どこ」か、だけが問題。

司馬遼太郎という作家は、
ここがずば抜けて優れているんです。
僕は大好きなのですが、彼の書くものを読み込んでも
どこがおもしろいのかさっぱりわからない。
ストーリーは無い(というより事実そのまま)、
キャラも立てない、シーンを作らない、
会話(言葉)の面白みもない、
世界観やそこにある空気が独特でないどころか
無いに等しい。

でもおもしろい。
でもおもしろい。

だからこれ、タガネ一発で巨岩を割る、その快感なんです。
割ってどう、とか、割った後仏様になってる、とかじゃなくて、
割ること、割れたことそのものの衝撃。
松井のホームラン見て「おー」っていうのと同じ。
R・バッジョのシュート見て「おー」っていうのと同じ。

海音寺潮五郎が
「他のヤツはなぜわからんかあの天才を」
と吼えた故事は、つまり自分も岩割ってると、
「30そこそこのあんな若造があんなにパカッと!」
とビビることができるわけです。
でも、岩割ったこと無い人とか、
割った後仏様にするとか墓石にするとかいう人には、
その凄さがわからない。
いいとか悪いとかではなくて、着眼点の違い、なんですけど。

遼太郎自身も早い時点で
「あ、俺の武器はこの割ることそのものだ」
と把握したらしく、時間の経過とともに
「燃えよ剣」で見せたようなサービスを止めていきます。
ホームランはホームランそのものが美しいのであって、
ベースランニングやハイタッチはおまけ、
極端に言うとその試合勝とうが勝つまいがいい。
そしてタガネ一本で明治維新、関ヶ原、日露戦争、空海、
巨大な岩をカンコンカンコン割っていく。

やっぱり何も知らない人こそが一番いい読者なわけで、
その巨岩割れる様を見て素直に「すげー」と言える。
これが、ちょっと岩割りに慣れてると、
「いやあの割り方はおかしいよ」とか、
「割った後放り出してるじゃないか、ちゃんと仏像にしないと」
みたいなことを言い出すわけですな。

ちょっと待って、じゃあ他の誰が、
あんなにパックリパックリ日本史のあらゆる場面を
美しく割って見せたの?
それって単純にすごくない?

やろうと思えばたぶんできたんでしょうけど、
というか「燃えよ剣」なんかはその立派な証拠なんですが、
で実際自分もお気に入りだったりするのですが、
そこで
「……いや、これを書く人はいくらでもいる」
という冷静な判断ができたのが、
すごいなあ、と思います。
それと、潮五郎は天才といいましたが、
もちろんその「筋」を見つけるために、
トラック1台分本を買い、関西中の中古書店主を
「いい本は全部司馬さんとこへ行ってまう」
と嘆かせ、かつ明らかに出不精を押して、
頑張って旅に出て現地の空気を吸いに行く。
そこの努力も、すごい。

そして、ここで現れる二重構造。
描いている主題、人物も、
現実を見事に「割った」人々なのです。
その割る過程を描く。
司馬さん本人の割り様にも感心しつつ、
登場人物達の割り様にも感心する。
(だから彼は、割らない人物や、割り切れてない事象は
 なるべく描かない)


いろんな考え方があるので、
これは僕の考え方に過ぎませんが、
芸術というのは突き詰めれば、
ここんところの「芸」であり「術」ではないでしょうか。
現実もしくは自然という巨岩に対して、
タガネを打ち込んで割ってみせる。

人間が、動物と違う点を挙げるとするなら、
現実と自然に対して
「なんとかしてやろう」
という気を抱いてしまった点です。
それがエデンのリンゴ。

いつでも安心して食えるようになりたい、
夏暑くなく冬寒くなく過ごしたい、
病気やケガを治したい……
セミのように数日鳴いて終わることを受け入れず、
1秒でも長く鳴いてやろう、と思いまた実行する。

それが人間の原点だとするのなら、
その、「カーン!」というタガネの響きにこそ、
我々はその原点を思い出し
感動するのではないでしょうか。
割れた後にコチョコチョ加工するのは、
比較的どうでもいいことなんです。
もちろん、それも小さく割ってることには違いないので、
悪いことではないですが。

そして芸術に限らず、
つまりはなんでもそうだと思います。なんでも。
現実という巨岩に対して「筋」を見極め、
必殺の一撃を叩き込む、
その目とその経験。
それを、「力」という。

司馬文学が、特に経営者に好まれるのは
そういうところではないですか。
描き出した「力」を持つ人々が、
どのようにして現実を割っていったのか、
また遼太郎本人が割るのか、
そこが、自分の境遇と似て、共感を呼ぶ。

くどいようですがこれは一つの見方で、
割ること自体にさほどウェイトを置かないという
考え方はあるわけです。
ホームランなんかどうでもいいんだ、
目的は勝つことだろ、とか。
しかし、「割り方のすごさ」という一点に限ってみれば、
空前にして今のところ絶後じゃないかなあ、と思います。
もちろん、すべての書物を読んだわけではないので、
断定はできませんが。


ほんでここからまた書かんでもいいわたくしごと。
この例で行きますと、最近ようやく
「あ、筋を見極めて叩けば簡単に割れるのね」
という事実に気づき、無茶撃ちをしなくなり、
撃っても筋でなければ気づくようになり、
結構な時間を掛けてトライ&エラーさえすれば、
なんとか筋に行きつくようになりました、
ってところです。
これを、司馬達人のように見ただけで
「ん。あそこがポイントやな」
と判断できる様になるには……
時間掛かりそうですなあ(泣)

昔はパワーで粉々になるまで砕いてたんですが。
今その頃の見ると、ホントに粉々です。
ただ、そうやって乱れ撃ってるとたまたま筋を叩く
こともあって、そういう時はキレイにパッカリ割れてる。
だからやっぱり、時期っていうのはあるのです。
そういうのを通らなきゃならない時期が。

コツコツちょっとずつ当てて手で感じ耳で感じる
トライ&エラーっていうのは、
正しいやり方の一つなのですが、
対象が大きくなると通用しがたくなる。
やっぱり、石なり岩なりを見ただけで、雰囲気で
「む。あのへん」
という力が必要なんです。
そりゃもう、実践繰り返ししかないんですけどね。
1/1ボトムズ作った人が書いておられたのですが、
鉄仕事の事始めは
「材をまっすぐにする」
ことだそうで、特に丸材は最初途方に暮れるらしいですが、
やってるうちにできるようになる。
「なんだかあの辺がおかしい」とわかるようになるらしいです。
まさにそんな感じ。

まあ、結局
「やらなあきまへんな」
っていつもの結論なんスけどね。

司馬さんゴッホが好きなのですが、
僕も同感です。
彼もまた、カーン!って一撃にいのちを注いだ人でした。
普段身体の奥底に潜む原初のなにかを直撃するような
絵は、たしかにリビングには置けませんね。

死ぬまでに一本でいいから、偶然でも全然いいので、
そういうタガネが撃ち込めますれば。



 8/14 チラシの裏

昨日の補足を。

石工さんが巨岩の「筋」を見極めると、
タガネ当ててカコン、と一発叩くだけでいとも簡単に
割れますよね。
まあ、北斗神拳でもいいんですけど。
ツボでもそうで、「流れ」の結節点なんでしょうね、たぶん。
だからそこをほぐすと、そこだけではなくて
すごく広範囲に影響が波及する。

私も極端にめんどくさがりなので、
カコーン・パカーン
がいいなあ、と思うんです。
ていうか。
石工さんはカコーン・パカーンができないと
駄目なわけですよね。
程度の差こそあれ、発破とかダイヤモンドカッターが
存在する前は、「石工さんであるならば」誰でもできた。

便利な道具ができて、
「流れ」という本質を見なくて良くなって、
つまり人間の機械化が起こって、
というよりも人間を機械化するために
どんどん便利な道具が開発されている、
のが現在だと思います。
いくらかそれに反対する動きはあるにせよ。
むしろ工場なんかの方が本質を見ることのできる人間の
力を痛感して、大事にしようと揺り戻しが来てる。
サービス業一般の方がおかしなことになっている。

自分を機械で終わらせないためには、
その目その腕を鍛えるしかなくて、
それはどんな仕事でもどんな生き方でも同じ、
ではないかなー、と思います。

だからね。
昔は働くというと15、6から無理矢理そんなことを
やらされたわけですが、
今はなんにもせぬまま25ぐらいまで
のほほんと行ってしまうので、
ヤバイんですよ。
わたしも27ぐらいですよ、まじめに考え出したの。
そしてまだわかってない見えてない。
昔なら、その頃はもう石の筋はなんとなくわかってたはず。
まる10年以上遅い。
まあその分寿命も延びてますが。

なにやってんのかようわかりませんな、
人類ってのは。

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最近なんだか忘れていたことをよく思い出します。
もう死ぬのかな(笑)

自分がイヤだったのを思い出しましたが、
イヤなことのひとつに感情感覚の起伏が激しくて、
かなりアンコントロールであることが挙げられます。

こういうこと言う人に限って客観的にはたいしたこと
なかったりするものですが、
 「お父さんは昔ガキ大将だったんだぞ!」
かなりヤバイ。
この私が言うんだから間違いない(笑)
見境が無くなることはないのですが、だからこそ危ない。

しかし、人はそれぞれに量の多少と質の差はあれ
暗部を備えています。
成長するにつれ、それをごまかす、封じる手段を
なんとなーく見つけてしまうものです。

僕の場合は、どうも「なにか作る」ということでした。
落書きだったりプラモだったり文章だったり劇だったり、
それがこうじて家電やゲームを作ることを
仕事にしてしまったのですが、
作ることは、
「フォー!」
となってる時は余分な高ぶりを取り除いてくれ、
「ああもうだめだだめだだめだ」
となってる時は現実に引っかかる鈎縄になってくれます。
だもので、ずっと。
いまも。これも。

ということで、僕にとっての「つくる」ということは、
つくる過程そのものが「喜び」というよりはもはや
「救い」です。
できようができまいが出来映えはどうあろうが、
つくっていればいい。
もちろん達成されて出来がいい方がいいんですけど。

それが誉めてもらったり、なんらかの物理的な利益を
もたらしてくれることは、ボーナスであって、
それがなくても、(もちろんあった方がいいですよ!)
そんなに気にはならないのです。

仕事にしてしまうと、
いろんなことを考えすぎて、
そういう(自分にとっての)外周の部分にずいぶん
惑わされてエネルギーを浪費してきましたが、
ふと思い出せば、そういうことでした。
まあ、何事も経験です。

でも、……と、いうことはですね。
ここから前向きに。

感の起伏が激しい方が、
その起伏の山を削り谷を埋めなければならない
「つくられたもの」は、
エネルギッシュになりますよね。

そりゃいいことだ。
なんだ、俺も案外いいとこフィットしてるとこあんじゃん。

なんかめちゃめちゃマッチポンプで
論理的に破綻してる気がするのですが、
まあそんなことはいいんです。
なにより、「いいとこあんじゃん」と嘘でも間違いでも思える、
これが大事。

ということで、
時に沸騰し時に氷塊となるナマの自分を、
流れる水に戻す作業を、今日もまた。



 8/13 流れ

さあ今日もまた妄想スペシャル〜。
週末・盆・そしてコミケだしね!

来年の夏は行けるかしら……

なんといいますか、ここは
「手打ちうどんの実演所」で、
うどん自体は「Routes」でも同人誌でも買ってくれ、
という感じで……

---

以前私、
「モノゴトには「流れ」がある、
 その流れを大事にすると、上手く行く」
とかなんとか言ってたじゃないですか。

……と思って検索すると書いたのもう2年近く前か……

最近ようやく、その「流れ」を、ちょっとだけですが
頭じゃなくて体感で感じられるようになってきた気が
しなくもないですよ。
調子いい時だけですけどね。

というより、
「流れ」こそが本質
なんです。ここ太字。
本質は「流れ」である、
とひっくり返しても可。

あ、と思ったのが、
こないだの仙台での佐々木大魔神の登板劇。
佐々木の横浜へのプロ野球への貢献度はもはや
語るまでもなく、もちろんのことながらプロ野球史5指の
リリーフピッチャーだと断言してもほとんどの方が
肯かれるでしょう。
あの程度の花道は用意してやって当然です。

5年前までならね。

そう、今回あれ見て顔しかめた方多いと思うんです、
正直言いますと私も「うぇー」と思いました。
あのね、「流れ」があるんです。
今年のプロ野球の「流れ」っていうのは、
去年のゴッタンゴッタンを受けて、
「もう、ほんとにちょっとなんとかせなあかん」
原点に戻って一生懸命プレーしようぜ、
ってとこですよね。
ロッテがファンサービスに努め、仰木オリックスが生き返り、
一昨年の質の高い野球の戻ってきた阪神と、
相変わらずしぶといオレ竜のデッドヒートもあり、
交流戦があって楽天が泣きながら地道に戦い、
巨人戦の視聴率は悪いけれども
阪神は相変わらずすごい勢いで客を集めてる。

この、「みんなでなんとかしよう」って「流れ」の時に、
ペナントのど真っ最中に、自分のためだけの舞台を用意させる、
っていうのが、やっぱり「流れ」に棹さすことなんですよ。
その不自然さに、見がたさに、我々は目を覆うんだと思う。

だから、この「流れ」が一段落ついた後、
たとえばペナント終わってから仙台で
「大魔神シリーズ」とでも題して引退した大洋の選手とか、
それこそイチローあたりまでゲストに招いて
3試合ばかり派手にブチ上げても、
誰も何一つ文句は言わない。

問題は、
「引退の舞台を用意させた」という事実そのものではない。
その事実の、空間的時間的位置。

かんたんにいうと
「タイミングって大事だよね」
とか
「空気読めよ」
なんですけど。

でも、そういう風に簡単に言いますけど、
そして我々はその重要性を良くわかってますけど、
タイミングって何、空気って何、
っていうことになると、実に曖昧ですよね。
わかってるつもりになってるけど、
まるっきりわかってない。
だからこそハズしたことをよくやって、失敗する。
(ならばこそ格言のように言い合って確かめ合うのですが)

モノゴトの事実関係の網の目、ネットワークは、
それそのものも時々刻々変化しながら、
しかも外部のネットとも繋がりを変えて行きつつ、
成長したり縮んだりします。
でも、視点を時空間的に適切な場所に置き、よくよく見れば、
粘菌の集合体のように、あるいは銀河系のように、
ひとつひとつのセルは適当な勝手なそれぞれの動きを
しているのですが、
ネットそのものとしてはどこかしらに向かうベクトル、
方向と速度がある。
そいつが「流れ」です。

その流れ自体に、各要素のベクトルの合力としての
すさまじい力があるので、
これに逆らうと、どんなに頑張っても粉々に吹き飛ばされる。
乗ってると、ハナクソほじっててもぴゅーと進む。

流れに乗ることそのものを目的とするのは本末転倒ですが、
本来目的とするなにかがあって、
それを達成すればいいのなら、
(佐々木の場合なら華やかな花道ですね)
流れに棹さすのではなく、
(自分にとって)いい流れ見つけて、そこに乗る。
それは「知恵」と言っていいんじゃないかと思います。

また、無風・凪ぎの状況であるならば、
意外に簡単に、自分の力で「流れ」が起きる。
モノゴトが転がり出すためには止まり続けようとする
慣性の法則を打ち破る初期トルクが必要で、
流れる寸前だけど止まってる、っていう場もある。
そこだと、ちょん、と指先で押すだけでゴロゴロと
巨岩が転がりだす。
あるいは流れがある場合でも、伏流水みたいに
「今は流れに合流してるけど、実は別の流れ」
みたいなのがある時もある。
そういう場合も、なにかのキッカケで
さっきまでと180度逆の流れになったりする。
この、流れを起こしたり変えたりする力、
それが「努力」ってヤツで。

「知恵」と「努力」あわせて一人前かなあ、
と思ったんです。どっちかだけじゃなくて。
流れを読んで、流れを起こす。

おっちゃん自慢やないけど
鼻づまりやしナマケモノやからどっちもダメやで(泣)

というのは半ば冗談で、
この流れ読む能力、潮目を見る力、
これは天性のセンスがとても大きいんですけど、
努力(経験量)でもなんとかなる。
だってそりゃ、流れが速くなったり遅くなったり、
止まったり起きたり変わったり、ってのを
何度も何度も経験すりゃ、なんとなく覚えますがな。
自転車に誰でも乗れるようになるのと同じ。


おおざっぱな「流れ」で見ると、大局の判断を間違わない
ような気がするなあ。
各論でどれほど理路整然としてても、
世界って因果律半分偶然半分なので、
とどのつまりはなんの役にも立たないんです。

たとえば政局なんですが、8/13現在「流れ」は
驚くほど完全に小泉側です。
まさか靖国まで止めるとは思わなかった。
反小泉側へのエサとして撒いて食いつかせて、
「本質はそこじゃない」という戦術に出るかと思いましたが、
いや、鉄板で行きますね。
これ、だから、絶対流れ読んでるヤツがいますって。
もちろん本人かもしれないけど。
(本人だとするなら、ずいぶん成長したもの)
流れを澱ませるようなことはせず、
怒濤を9/11まで流しきるつもり。
反小泉側としては、緒戦は惨敗と言っていいので、
国民のバランス感覚に期待しつつ粘りの撤退戦ですかね。
ロシア軍のような。
でもそれすると負けたってことにされちゃうんですよね、
今回は。日露戦争のように。
180度流れが変わるようなアクロバットがあれば
いいんですが……
それはもう暗殺ぐらいしか思いつかない(笑)
でも、こんな想像したってしょうがないんですけど、
たぶんここまで流れができちゃってると、
暗殺しても後継がすぐ立って弔い合戦にもちこまれて
もっとボロボロにされる。

モノが売れる売れないとか、もっとハッキリしてますね。
流れに乗ってるとカスみたいなもんでも売れますけど、
乗ってないと相当良くできててもそんなに売れない。
RV流行ってた時とか酷かった。
今冷静に考えれば「なんだこりゃ」ってクルマが
飛ぶように売れてましたな。
で、ここでも同じで、「流れに乗せろ」じゃなくて、
流れに乗ってない商品の場合は、
広告などのハイコスト覚悟で流れを起こす方向で行くのか、
流れとは関係ないところで堅実に行くのか、
そこんところをキッチリ把握する、とか、
そういう戦略立てができるのが、
いいプロデューサーなんでしょうね。
売れる(流れに乗ってる)商品ばかりではないわけで、
売れない(流れに乗ってない)商品をどう取り扱うか。
取り扱わないのか、バラエティとして意味を持たせるのか。


個人的な話させていただきますと、
「なんとなく引っかかるから変えてみよう」
というのが徐々にわかってきた、って程度です。
物心ついた中学生ぐらいからずっと、誰よりも自分に、
この、「なんとなくこう」というのを説明したかったんです。
僕とおつきあいしてくださってる方は、
この理屈っぽいながたが
「ダメっぽい」
などという雰囲気用語を根拠なく言い出すシーンを
いくつもご記憶だと思いますが、
それがこれ。
普通、「勘」という言葉で表現されます。
自分の全センサーからの情報を
重みづけして総合判断する、
というイメージですよね。
どうも僕は、それだと要素が足りない、と思ってたんです。
(もちろんそんな理論的に考えてたわけじゃないですけど)
わかった、時間軸だ。
勘、って瞬間のもの(というイメージ)ですが、
流れ、っていうと時間軸持ってますよね。

今までは、「説明しろ」って言われると、
「できないから信じてくれ」としか
言いようがなかったのですが、
これからはこんな感じで説明してみよう。
「流れがこっちじゃない」とか。

同じかな。
わけわかんないですね。

でも、さっきの
「なぜあの引退登板はダメなのか」
っていうのは、なんとなく納得いきません?
「あれだけの貢献者なんだから、
 どんなことしてやっても当然だろう」
っていう意見には、時間軸入ってないんです。
それは正しい。
正しいけど、流れには乗ってない、いや逆らってる。
だから、やらない方がいい。

つまり、時間軸や周囲の状況をノイズとして落としてしまうと、
なにも評価できなくなる。
因果律の弱点は、科学的思考がそのシステム上
持ってる欠点はここです。
ノイズを落とし、要素化モデル化した時点で、
それは個々の現実の事象と関わりを失う。
そして得られた結果を現実にもう一度戻そうとすると、
「どう考えても正しいけど、誰も納得しない」
という事態が発生する。
もちろん、だからダメだ、やるな、っていうわけじゃなくて、
その有用性の範囲を謙虚に認めつつ行うのであれば
強力な武器であるのは間違いない。
友人の学者達のお話を聞き囓ってみれば、
それは研究者こそがよくわかっていることで、
スタティックな捉え方からダイナミックな捉え方へ、
たとえば計算機を使った大規模なシミュレーション等々を
活用して変化していってるようですが。

そこに気づいて、どうしてもそれをねじ込みたい、
と七転八倒するのが21世紀の科学じゃないでしょうか。
20世紀はそれは言っただけで魔女狩りに遭いましたけど、
もうそんなこと言ってられる余裕はない。
使えるものはなんでも使うべきだ、
って感じではないでしょうか。
古武術もそうだし身体性もそうだし、それこそ
スピリチュアルナンチャラっていうのも、
「いーじゃん結果が出りゃ!」
という一面寛容一面焦り、みたいなものかも
しれませんね。


「今流れはどうなんだ」
ということがこれほどクリティカルであるならば、
逆に言えば、「流れ」こそがモノの本質と言い切っても
いいのではないでしょうか。
表現、あるいは芸術が、あるモノの本質をその人なりに
表してみせることだとするなら、
この「流れ」をワシッと掴み、ギュッと取り出して
ズバーンとキャンバスに叩きつける、
これ以外にはない。

ふむ。
なぜリズムにこだわってきたかがわかったぞ。
リズムつけて無理にそこに流れを起こしたかったんだな。
なんと本末転倒な。
……というのは言いすぎで、
自分ででっちあげた「流れ」を楽しんでいただくというのも
それはそれで芸ではありますわね。
料理じゃなくて駄菓子、って感じですけど。
わたしゃ駄菓子も好きでしてねい。

それはともかくとして本道を行くのならば、
「流れ」は起こすものというよりも、
そこに起きている「流れ」を丁寧に追うもの、
って感じですかね。
せいぜいできるのは護岸工事とかその辺で、
蛇行したら蛇行したでそれもまたナチュラル、と。
あんまり、ダムとかいっぱい作らない方がよいのかも。
盛り上がり、というとどうしても我々は、
そういうダムみたいなのこさえて、
貯めて一気に、とか考えるんですけど、
そういう作為は良くないのかな。
自然の中で滝になるならいいんでしょうけど。


ぜんぜんまとまらないんですが、
流れのままに放置して、またあした。



 8/12 雑飯

以前「最新エアコンの除湿機能最高!」なんて
おはなしをさしてもらったと思うのですが……

そうでもない。

いやあ、あのね、急な温度変化って
体力奪うじゃないですか。
バテというのは冷えそのものより、
冷と暑の激しい切り替えから起きるのじゃないかと
思うのですが、湿度もそうなんです。
ウチのエアコンだと40%まで下げられるのですが、
これをちょっとじっとりな日にしますと、
20-30%の格差ができちゃうわけです。

これ、すごいですよ、結構。
あのね、40%の部屋を出ると、
人が出て5分後の浴室に入るような、
そのぐらいの体感。

これで充分バテます。

まあ、北海道の冬の建物のように、
全館エアコンディショニングっていうのがまだマシなのかな。
「この夏は除湿で乗り切るぞ!」
と思ってたのが挫折して、今は冷房・除湿・扇風機を
ザッピングして気を紛らわせています。

あ、そうそう、タダでは金は取らないといいますかね、
扇風機も、高級品はいい風くるんですよこれがまた。
羽根の枚数が多くて、モーターの制御が細かいから、
やわらか〜い風が来るんです。
駆動音も静かだしね〜。
なんていうか、こんなものでさえ研究を重ねる
家電メーカー各社はほんとエライと思いました。
半OB(中退)として誇らしいです。

でも高原へ行きたい。
こないだ行った名張g石邸は良かった。

---

ウチはまま上が物欲女番、亡きぱぱ上が安物物欲番長
でして、しょうがないんです、ぼくはもう。

そんなまま上のハートを最近鷲掴んでる逸品は
電動(アシスト)自転車。
「近所の自転車屋さんでカタログ貰ろてきたんやけど、
 ネットで買う方が安いやんなあ」
もう買うことは前提ですか。
「せやろな」
「ネットやったらこのぐらいになりますけど、
 言うのはヤラシイかなあ」
「うーん……量販店ならともかく個人商店にそれは
 厳しいんじゃないかなあ。メンテとかの時も」
「あ、メンテはできへんて言うてた」

自転車屋さんも大変ですな、最近は。

電動自転車をもうちびーっと規制緩めると、
(20km/h以下なら完全アシスト可とか)
でかい市場がありそうですな。
てか、そういうのなら僕も欲しい。
楽するというよりもメカとして。
あれもよくできたハイブリッドシステムで、
「いざとなったら漕げる」という点で、
電動スクーターより安心感がありますよね。

カタログ見てますと種類も豊富で、
バッテリもずいぶん目立たなくなってきており、
(デザイン的に洗練されてきてて)
もうすこしかなあ、と思いました。

一応、「60になるまでは足で漕ぎ」とは言ってあります。
でも、こと物欲に関しては、息子の言うことは
聞いてくれたことありません。
もちろん逆も同じですが。

---

ケガの功名と言いますか、ちょっとちゃんと
本読むようになったひとつのキッカケがありまして。

okbちゃんがある日、結婚しますということを伝えに
わざわざ来てくれたんです。
その時手みやげに何冊か本を貸してくれました。
慌てた私はお返しに何かお貸ししようと本棚を
見回したのですが、これがロクな本がない。
泣きながら貸したのが
「よつばと!」と「妄想戦士ヤマモト」というテイタラク。
(いや両作品とも良作ですが)

「ああ、おれ本読まなきゃなあああ」と大痛感。

完全に忘れてました。
多少マシな本は全部応接間に持っていってました。
先日片づけろと言われて持ち出すと出るわ出るわ。
グールドの「ワンダフル・ライフ」とか
完全に旬をブッぱずしたいい本が結構ありました。

駄目じゃん。

うい〜 本読みま〜

---

つきつめてつきつめてつきつめて最後に出てくる一滴。
それをよしとするなら、お前にそれは出せるのか、
という迷いは今でもあります。

というよりも、たぶん無理じゃないかと
うすうすはわかってる。

しかし。
ならば暴発めいた「感」の高ぶりを、
ハンバーグづくりのように叩き捏ねることもできるはずで、
そういうものをそういうふうにつくればいい。

やりようというものは、無限にある。
いつも問題はただひとつ、
やるかやらないか。



 8/11 ……

戦局についてもう一度書いてたのですが、
よく考えれば傍観者に過ぎず
(もちろん一票は入れに行きますよ!)
そういう姿勢そのものがい神崎、
と思って消しました。
現在代替品考慮中。

---

……と、昼に書いて、今もまだ考えてます(笑)
3日ぐらい全部ほっぽりだしてこのことばかり
ウンウン考えてるのですが、
なんだかうまく自分の中で固まりません。

なんだかエライことにいつの間にか巻き込まれた気がする。
みんなね。

ぐるぐる巡って結局つまるところ、
「自分の行動と表現には責任を持とう」
ってところかなあ。
今回ゴーを出すと、消費税15%の世の中もありえる
わけですが、それも借金を返すためだと言われれば
しょうがない……とかそんな風に。
もちろん逆を選んで新しいシステムに賭けるのも
リスクがあるわけで、選んだからには腹をくくろう、
ってとこですかね。
選挙って言うのは本来そういうものだと思いますが、
今回は特にそう思います。

---

自分の手に負えない主題を考え続けていると、
徒労ばかりが蓄積しますね。
ひどく疲れました。
こんなものを人生中やってのける政治家ってのは
やっぱりプロだとほとほと感心。
ほんとうのプロの誠実な言葉は、どっち向きであれ
人の心を打つものです。
あまり勝敗に惑わされず、
考え抜かれたご自分の意見を、
素直に吐露していただきたいものだ、
と思います。



 8/10 俺は俺なんかイヤだ。

飲みすぎてふと、
なぜ自分が「ナチュラルであること」を捨ててたのか、
捨てようとしたのか、思い出しました。

忘れてた。
僕ねえ、イヤなんですよ、自分が。

嫌いとか好きとかもう超越して、
合理的に冷静にイヤなんです。
人間を自分の好みで好き10嫌い1で評価すると、
2か3ぐらい。

んでね、そんなこと言ってられないじゃないですか。
四六時中つき合う自分だもの。
だもので、小6ぐらいでそれに気づいて、
中1ぐらいでタクティクスを練った(笑)
ストラテジというほど先を見すえたものではない。
つまり、好きなやり方をやる好きな人間であろう、と。
そして頑張りましたよ。わりと。

しかし以来20年、あきません。
せいぜい4とか5とか。
せめて7や8ぐらいのいい男になりたかった。

あー……じゃあもう無理だ(笑)
時間も限られてるし、この努力は止めますか。

と、思ってみればしかし、
代わりに襲ってくるのは、この戦術によってぎゅっと
抑えられていた自己嫌悪。
「ああ、そうかそうか、イヤだったんだ、思い出した」

困ったもんですね。

しかしまあ、20も歳を取るとふてぶてしくもなるもので、
アルコールの抜けた翌朝には、
「そうは言ってもしょうがないから、
 なるべく折り合いをつけつつ」
全人的に好ましい人めざすという高貴ながらも
無理な目標は放棄して、
イヤな点を正面から見据えてそれはガマンし、
あるいは「怠惰」を「効率追求」に、
「怒りっぽさ」を「正義感」にするといった類の
変換を掛けてしのぎ、
わずかな好ましい点をぐっと前面に後押しする、
そういう地道な努力を重ねましょう。

めんどくさいんですけど、
それしかなかろう。

いやむしろ、イヤな点が多い方が、
自分の中をより空虚にでき、
そこに素直に事物を詰め込めるかもしれません。
あるいはイヤな点を無視することによって
自分の重量が軽くなって、
ひとやものに素直に当たれるかもしれません。

俺は俺なんかイヤなヤツだと思っているけど、
そんなことはどうでもいいんだ。

せめてそう思えるようになればいいなあ、
なんて思いながら、今日もキーを叩く。
あるいはキーを叩くことによって、
そんなこと一切を、忘れようとする。



 8/9 郵政解散

ついに郵政解散ですな。
幾分不謹慎ですが、中身ではなくて、
戦局そのものを野次馬的に楽しんでみましょうか。

財政投融資改革をやらねば行財政改革はできない、
(役人とそれに結びつく特定の政治家の手から
 自由になる金を剥ぎ取らなければ
 いつまで経っても真に有効で効率的な財政はできない)
そのためには郵政事業を国の手の届かないところに
置かねばならない。

という小泉さんのメッセージは明確でわかりやすく、
いや、あまりにも明確すぎて、ちょっと引いちゃうほどの
踏み絵になってしまっています。
ここで反対理由として郵便サービスの細目問題や、
国会運営上の手法論を持ち出すことは、
かなり弱い。
持ち出すだけで、言葉悪いですが、アホに見える。
それは今問題ではないわけです。
「いや、郵政じゃなくてここにまず手をつけるべきだ!」
というのが対論としては有効なのかな?
でもそれも郵政に手をつけることに反対する理由には
ならないですしね。

野党大弱りでしょうなあ。
これじゃ戦術が立てらんない。
さりとてこうなった以上反対しないわけにもいかないし……
もちろんくり返しになりますが共産党のように
「郵政サービスは国民の関心がそんなになく……」
とか問題をすり替えようとすると、それだけで大減点になる。

口を開けばなにを言っても減点対象、
開かなければなにも訴えられない。
巧い。
実にイヤラシイぐらい巧い。

これ小泉さんの頑固な信念からナチュラルに導き出された
流れだと信じたいのですが、裏でタクティクス練ってる人が
いるとするならその人ほんと優秀ですよね。

「俺の金が変なところに使われている」
という憤懣は、特に都市部の現役世代には、
他のゾーンのひとびとにはちょっと想像しづらいぐらい
渦巻いています。
それをなんとかしましょう、と言われると、
これは甘美な誘惑なんですよ。
小手先の減税や景気対策より、よほど嬉しい。

ただ。
それは都市部現役世代だけであって、
その重要な点よりも郵便サービスの詳細を問題にする
人はまだまだ多そうです。
野党・反対派も選挙期間中必死で
そのすり替えキャンペーンを張るでしょうし。
ちょいと疑問なのは小泉さん側がその攻勢を
結構正面から受けてることで、
「問題はそこじゃないよ」
とは(あんまり)言わないところです。
しかし考えてみれば本来の焦点ばかりをクローズアップ
すると、
「じゃ今までの政治=自民党はダメだったのかよ!」
ということになるので、
そのへん匙加減してるのかもしれません。
そこの加減を恣意的にしてるとするなら
やはりそこもスゴイ。

フォローするわけではありませんが、
郵便サービスの民営化そのものに反対する、
だからこの法案には反対、
という態度を取ること自体は理に叶っていると思います。
医療も福祉も教育もそうですが、国がサービスを縮小して、
「自己責任で」というのが嫌/面倒/困る人も、
実はとても多い。
自己責任を前面に打ち出す場合、アメリカのように
「のし上がるチャンス」は精密に確実に均等に
与えられる、もしくは与えようとする努力がなされて、
かつ最低生活保障が(法律でも、物理的なリビングコストの
安さからでもいいのですが)なされている必要がある。
ですが日本は現状すくなくともチャンスは縮小傾向、
コストは高止まりなので、
「サービスだけ縮小すると言われても困る」
という判断は、それはそれで理性的で常識的だと思います。

いやそもそも。
行財政を改革するのに郵便サービスという
国家事業の最たるものでさえ解体の必要がある、
というのは本来実にヘンテコな話で、他にもこういう
「ワケがわからなくなっている血栓のようなドロドロ」
がこの国にはたくさんあるんでしょうなあ。
山林関係とか、フタ開けるのも怖いぐらい
グチャグチャだったりして。
古い国ですから、しょうがないとは思いますが。

古い国ですが、変化・進化していくためには、
世界標準である使い始めて100年程度の
新しい手法を使うしかない。
今回のように実践を重ねて、
その手法に馴染んでいく他ありません。
日本人はいったん馴染めば遂行力は異常なほど高いので、
「自分で作った自分の国」
という誇りを持てるようになるのも、
そう遠くない未来のような気もしたり、
いやいや、土着の肌感覚みたいなものはそう簡単には
変わっていかない、いつまでもお上はお上、なのかなあ、
という気もしたり。

今回の選挙の結果は、その試金石になると思います。
いや結果以前に現在のこの状況そのものが
「あんたちゃんと考えてる?」
という踏み絵みたいになってて、
僕もこれを非常にビビリながら書いてます。
(そ、そんなにハズれたこと言ってないよね?)
書かない、という選択肢ももちろんあるのですが、
ビビリつつ書きました。
踏み絵というのはそこで、
「書かない」という選択肢を取ること=無関心(を装うこと)、
が今回に限っては許されてないような気がしたんです。
だもので、個人的判断は別にして、
関心はありますよ僕だって考えてます、
という証拠品として残しています。

発言について突っ込まれる怖さよりも、
逃げた、と思われる怖さの方がよほど怖い。

でも、民主主義とは、こと政治に関しては、
どんな方向であるにせよ、
「僕はこう思う」
あるいはまかせるならまかせる、考えが無いなら無い、
というのを明確に表現せねばなりません。
言葉もしくは投票で。
あたりまえのことなのですが、このあたりまえを
今回ほど思い出させられたことはないです。

小泉純一郎おそるべし。



 8/8 Dreams

昨日は第二の実家(たくさんある)名張g石邸に
お邪魔しました。

夕刻の名張川河畔をトロトロとクルマで流すと
実に空気清浄で気持ち良ス。
緑いっぱいで気持ち良ス。

g石さんとはなんだかラップばかり流れるMTVtop30を観て
「ラップみたいなもんなら俺達でもできるだろ」
とアメリカなら確実に撃たれる幻想を抱いて
まずはコンビ名。
カタチから、なにごともカタチから。

「『Dreams』か。いいね、シンプルで。こういうのがいいね」
「うん。……あ。上は曲名」

「くま」
テディ・Gとながたぷー。
あるいは
「和s?」
ワッツって読む。
作為的過ぎるかな。でも世界市場を睨むと英語の方が……

歌う歌はでっかい歌だよ。そんなね、もう
彼女とどうしたとか憂鬱がどうとか
そんなちいさなことは歌わないの。

『宇宙世紀』
 憧れのヒューストン 観光旅行の写真には
 雄々しくそびえる コロンビア

「「作詞は僕がやるとして」」
どっちが作曲するんだ。
歌はうまいg石さんにお願いして
僕の担当はオノマトペ。

ぴしゅいーん!
ズギャーーーン!
ドバッシューーーン!

ちょっと音が古いな。
ま、むしろこのぐらいの方が30〜39にはウケるかも。
なんたって「ポパイ」の表紙をドムが飾るご時世ですからな。
つまり我々は20年時代を先取りしてるのだ。
もう一本。

『ドム』
 ドム ドム さだまさし
 ドム ドム さだまさし
 出会い系〜

いけそうな気がしてきた。
DonDokoDonの芸達者にあやかって
「パンパかパーン」というのもいいね。
もひとりヒマそうな人見つけてトリオ。
(訳注:念のためですがg石アナはめちゃめちゃ多忙です)
通常ならばおぐりえさんにお願いすべき所ではあるが
アイドルをめざす彼女をそんなヨゴレ仕事(自覚はある)
に引っ張り出すわけにもいかず……
そもそもそんな場にぼくが居たら夫婦漫才に
スナフキンではないか。

もう、スナフキンは、いや。

ああ、g石さんのお母さんがいい。

g石さんのご母堂というのは辺見マリさんと
西川ヘレンさんを足したままのような
美しく優しくロングドレスとロールパン頭の似合う
お蝶夫人である。
息子に対する偏愛ぶりたるや凄絶なもので、
息子の番組に「28歳・OL」を装ってFAXを送りつける
ほどである。
縦書きだったためにヤラセがバレた。

360度尼崎の暴れん坊である寅男さんとのツーショットは
実に「元祖・美女と野獣」であり、
世の中縁だけはわからないものだ。

ああそうか、やっぱりお母様が登場するなら
寅男さんとの夫婦漫才であろう。
名張g石邸に行くたびに椅子から転げるようなお話を
いつもしていただく。

クルマを停めると、家の外壁に足場が組まれていた。
お迎えいただいた寅男さんに
「どこか改築されるんですか」
と尋ねれば外壁塗り直しと言われる。

ああ、もう10年を超えているのかこの家も。
ついこないだ建ったばかりだと思ったのに。

時の流れはいたずらに早い。
けれども最近、このぐらい早い方がいいのではないか、
とも思う。
哀しみもすぐに流れて、次の喜びがやってくる。



 8/7 もしも

ということで34になったのですが。

ある日上からレンガが落ちてきたとして、その一瞬に
「……まあ、しょうがないか」
と思えるような瞬間瞬間でありたいですな。

今んとこですか?
やりたいこともやるべきことも何もできてませんが、
たぶん思えるような気がしなくもない。
挫折と失敗と失意と間違いの連続ですが、
どれもなんとなく選んできた結果なので、
恨むとするなら自分。
ところが人間良くできたもので、
自分というのはなかなか恨めないのです。

それでいいんじゃないかなあ、と思うんです。
むしろそれが。

今日も明日も、そんな感じで。



 8/6 発言力

変な言い方ですけど、
せっかく原爆落とされたんですから、
その事実をもっと「みんなのために」
有効に使った方がいいんじゃないかな、
と思うんです。
たとえばイラクさん相手になど、
「気持ちはよくわかるけど、(アメリカを)
 憎んでも恨んでもなんにもはじまらへんで」
というのを、説得力持って言えるのは、
日本のこの現状そのものをもってする外
無いんじゃないでしょうかね。

たった2個の原子爆弾で非戦闘員30万の犠牲。
60年経った今も心身の後遺症に苦しみ続ける
おじいちゃんおばあちゃん。
しかし我々は幸せのヨダレを垂らしつつ、
ディズニーランドに並んでコカコーラ飲みながら
リーバイス履いてメジャーリーグ見て
ハリウッド映画借りてきてiPodにダウンロードですよ。

「君達にはプライドが無いのか!」
とか彼の地の若者に突っ込まれたとしましょう。
ならこういう答えはどうでしょう。
「その代わり我々はホンダとソニーとキヤノンと
 ポケモンとスシとイチローをくれてやっている。
 君達は何を与えてやってるのかね彼らに? ん?」

「あいつらはダメだ」とか「あいつらは嫌いだ」
などと言ってても何も生まない。
つまり、誰も幸せにならんのです。
それよりは、誰もが幸せになる方がいいじゃない。

銃の手入れをしているヒマがあったら、
観光客向けバグダッドまんじゅうでも作ってる方が、
5000倍ぐらい未来に向いている。
その絶対の真実を語れて、しかも相手に聞いてもらいうる、
っていうのは、
「ウチもアメリカにムチャされたムチャ。
 わかるわかる。気持ちはよーくわかる」
と言える日本ぐらいしかないんじゃないですかね。
(まああとはヴェトナムぐらい……)

と同様に、ロシアとも中国とも(近々に)
本気で喧嘩した経験があるのですから、
どこへ出て行っても、
「気持ちはわかる、気持ちは。……でもな」
と言いやすいと思うんです。
もちろん、逆向きもできますよ、大国に向けても、
「君らもうちょっと考えなはれ」と。

なんか「あいつらの一味」みたいに思われるの
損じゃないですか。
なぜコミットしてるのか、という疑いを持った問いに対して
「いやウチもひどい目に合ったから、見てられないんだよ」
というのは説得力あると思うんですが、どうでしょう?

9条の存在も大きい。
「ほら、銃なんか(いちおー)持たなくったってできるのさ!」
と胸張って言えますからね、一応。

んだもので、日本とドイツが常任理事国に入るというのは、
「立ち直った敗者」
という意味で有意義だと思うんですけども。
特に日本はそれ以前は弱者でもあった。
敗者が、弱者が、強者になるためには何が必要なのか。
多くの国が欲しがってるノウハウは
それじゃないでしょうか。
サマワで道路造るのもいいんですけど、
それはどこの国でもできることのような気もします。
お手本になるとかそんなえらそうなタッチじゃなくて、
ただ60年前に同じこと一回やってる先輩として、
「あーあーあー、それはあかんそれはあかん。
 そうじゃなくてね、たぶんこうしたらいい」
そのぐらいは言える、いや、言うべき、では。

それが敵味方問わず第二次大戦で亡くなった方々への、
今のほほんと暮らさせてもらってる我々の、
せめてもの献花にならないでしょうか。

発言力というのは、自分のことではなく、
相手のことを思ってはじめて出るものだと思います。



 8/5 本質性

応接間に読み終えた本を放置しておりますと、
「片づけなはれ」というおかあたまの下命。
部屋に持って帰ると溢れかえってしまいました。

いい本もあれば、くだらねえ本もあります。
最近、雑誌はとんと買わなくなったのですが、それでも。
買った記憶すらないんですけど
「チーズはどこへ消えた?」
とかあるんですよ。
なんじゃこりゃ。

本ってば、重要度順に
(1)座右
(2)よく使う実用書(html辞典とか)
(3)感銘を受けたので残しておきたい本
(4)友達に貰ったり思い出があったりして残しておきたい本
(5)もったいないから残しておきたい本
(6)いらない本
って感じですかね。
(6)はもちろんですが、(5)と、思い切って(3)の一部を
捨てられるとだいぶ違いますよね……
(1)と(2)って言ってもたいした量じゃないですからね。
学者さんやライターでも無い限り。
(4)もそんなに多くないし。

エロ本がどこに入るかはその人によります。
ぼくは(3)と(4)の間かな……
それでも枯れたもので昔は(1)よりも……
いやいや。

面白くても、人にあげてもいいな、と思う本と、
手元に残しておきたい、と思う本がありますね。
再読可能性なのかな?
また、ガッチリした単行本は、
モノ的にMOTTAINAI度が高くて、
もう二度と読みそうになくてもキープしてしまう……
中途半端なニューエイジ系のなんかもう恥ずかしくて
捨てたいんだけど、MOTTAINAI……
文庫はその点内容だけで選べるのでいいのですが、
痛みやすいのと、あと実は検索性が悪いのが難。
ひとはイメージで記憶するので、凝った装丁の単行本の
方が「たしかあの辺にあった」と思い出しやすいのです。

やっぱ本棚買うかな……
ぼく、文庫がやたらめったら多いので、
最近よくある奥行き15cm前後の浅いのでも……

ま、でも床に山積みにした本に囲まれてるのは、
なんだかおりこうさんみたいで気分いいですよ(笑)

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カストロ議長って平日の夜4時間ぐらい演説するらしくて、
それが国営テレビブチ抜きで放送ですって。
もちろん国民も辟易してるんでしょうが、
それでも支持は高い。
そのぐらいマジメに真剣に一生懸命、
というのが伝わるから、ガマン、というか
「まあ……」という寛容が成り立つんですかね。

そんな感じで、「あ、また今日ほえなが長い……」と
辟易してもらう感じで……

最近は自分への書簡集ではないかと思ったりしてます。
死んだ後に「あの人はいったいなにを考えていたんだろう」
と読み返すのね。

誰が?

カストロ議長の陰に隠れがちですが
小泉首相の今打ってる博打は博打として爽快ですな。
(中身はノーカウントとして)
「失うものが何もない」っていうのはホントに強いですよね。
あれで成立はもちろんOK、不成立で解散してどうなろうと、
小泉さんにすれば知ったこっちゃない。
「はいゴメン辞めますー」で終わりですからね。
王手飛車取りですよ。

権力っていうのは、しがみつかなければつかないほど強い。

あらためて思いますが、
銃を手に「金を出せ」って言ってる相手に対しては、
金を出すか、殺される覚悟で抵抗するか、
二者択一なんですね。
それがいいとか悪いとかそういうことは
その際問題ではない。
というより、問題にしててもなんにもならない。
平和に暮らさせてもらってる日本人には
すっかり忘れがちで、いやもちろん僕も忘れてるんですけど、
その事実を思い出させてくれてます。
政治っていうのは、そういうものですしね。
そのどうしようもない二択の連続を、
いかにさばいて、すこしでも良い方向へ向かい続けるか。

自分が法案に納得してない自民党議員だったらどうするか、
考えるのも一興かも。
ああいうのが頻繁にあると国民も政治に興味を、
というのは不謹慎ですかねえ。

やり口に対する指摘は構わないと思うのです。
ですが、「では自分はどうするか」というのは、
自分で考えるしかない。
そこがマスコミ・メディアの限界で、逆にそこについて
なにか言うのはメディアの本分から外れてますしね。

溢れかえるマス・メディア(この場合はネットも含む)
の情報に触れていて忘れがちなのは、
「どうするか」まで教えてくれている考えてくれている、
と勘違いしてしまうことで、
これは怖いですね。

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そしてまた結論の無い第三部。
「題名のない音楽会」っていい題名ですよね!

結論がない、っていうのが、いいんだと思うんです。
またスパークはイトイ師匠なんですけど、
「大多数の本は半分から先は読まなくていい」
つまり、結論は要らん。

言葉で説明できないところに、本質がある。

自分のやってることを全否定してるみたいですが、
いや、だからこそ、そこでもがくところに貴さが
あるのですよ、文章ってのは(笑)
言葉にできないものを言葉にするところに。

愛、ってわかったような気になってますけど、
ぜんぜんわかってませんよね。
「愛してるよ」っていうのは、
なんにも伝わってない気がしませんか。

わたしゃこればっかりはどうも言えなくてねえ。
機会が無いだけじゃないよ!
つまり、これじゃ全然伝わらない気がするのです。
まだ「好きだ」の方が100倍マシ。

んでもって、その、「愛」って言葉では表現しきれない
ところをこそ、表現するのですよ。なんらかで。
「和久は激しく尾を振った。」
とか。

「つまり、愛だよ」というのは、無用の言葉なのですな。
あってもいいけど、何も語ってない。

別の視点で言いますと、
物事には「本質」があるんです。
むかーし(今年の頭ぐらい)
それを「意味」と呼んでみましたが、
つまり、「それ!」というものです。

えー、ラーメン。
ラーメンとはなんであるか。

いろいろ思いつくわけです。麺、スープ、こってり、ネギ、
熱い、天一、店員、650円、ギョーザ、脂、しゃかしゃか、
行列、腹一杯、ラーメンライス、はらへった。
もちろんここにないものも全部合わせて
「ラーメン」ですよね。
だから、
「うまいとんこつラーメン」
では、全然うまいとんこつラーメンにならないのです。
なんでもいいから、その体験をズバッとえぐり取る
表現をせねばならない。
「太陽のようなラーメンを食べた!」
だと、多少違ってきますよね。
「その瞬間俺はグーで殴られた!」
そのぐらいショック受けたのか、と。
「僕のおばあちゃんは……熊本出身で……」
ドラマがはじまりそうですな。

より根元的なところを、より多くの人の魂をゆさぶる
ようなところを、がしーん、がばーん!と取り出すのが、
よい表現なわけです。

そう考えると、「太陽の塔」ってすごいでしょ?
あれどう考えても「太陽の」塔で、なんの理屈もなくても
巨大なマツリのトーテムですよね。
Taroがいて良かったですよ、
世界中に赤っ恥かかなくてすんだ。どころか、
世界中に「うわ日本スゲエ!」と思わせることができた。

言葉にはなってないところを表現するのが
詩であり散文であり、
絵にはなってないところを表現するのが絵で、
音になってないところを表現するのが音楽です。
たぶん。

(ただ、言葉で表現できるところを言葉で表現できる
 ようになってないと、表現できないところを表現するのは
 難しいかもしれない。
 しかし、いわゆるgiftedな人は、それができちゃうのかも
 しれない。
 とはいっても、ゴッホもピカソも太郎も本気でちゃんと
 描けば異常に巧くて、giftというのは
 そこまで含められている気もする)

ひとこと「○×△」と書いただけで、
「ああ、うまいラーメンだ! それは!」
と思えるような表現、めざすはそこです。
いや、表現だけじゃなくてなんでもそうで、
ビジネスでも学問でも職人芸でも、
「ものの本質とは」をがばちょと掴みしめる手、
これをこそ鍛えねばならない。

やっぱインプット・フィルターが大事ですかね。
アウトプットの方はさほど重要じゃない気がする。
というよりも、インがズレてなきゃ
下手は打たないって感じかな。
アウトの能力高いと社会的ゴマカシは効きますが、
一番ゴマカせないのは当人ですから。

司馬遼太郎はインが非常に優れた作家で、
(というよりも、興味と好みと努力がすごい)
だから常にヘタ打たない。
筆の伸びにはやっぱり差があるんです。
街道でも、いいのと今ひとつのでだいぶ違う。
でも莫大なインが堅牢に下支えしてるので、
読めるのは間違いない、っていう感じですかね。
アウトの能力も、つまりインの能力や方向性に
向いた方向に伸ばしていかないと意味がないわけですな。

本質を志向していくと、
必然的に余計なもの要らなくなりますから、
シンプルにもなるわけです。

ギャーン! とひっ掴みたいもの。

(オノマトペというのはだから言葉でないものを言葉にする有力な手段で云々かんぬんというのが一番要らんねや)



 8/4 あとはもう知らん

今日は金魚鉢を作っていました。

結局ですな。
クレバリーさんの通販でまた買いました
Microsoft Natural Keyboard Elite。これ。
3枚目です。
いやぼくがじゃなくて。
Naturalerはもう元へは戻れないみたい。

ああ……腕が楽……手首が、楽……

ついに中国製になりました。(前2枚はメキシコ製)
目につく相違点としては、Microsoftのロゴがグレーから
シルバーに変更になったところぐらいかな?
「CHINA」の文字を見た瞬間ちょっと心配してしまった
タッチですが、微妙に精度感落ちてる気がしますが、
まあ、気のせいかも。
先日MSのキーボードをぐでぐで見てますと、
どうもメーカーが二つあるらしくて、
高価な機種担当のところと、
(MSが自社で作ってるとするならこっち)
安価な機種はミネベア。
ただ、メカトロニクスっていうのはOEMといっても
仕様書いて丸投げはいお願いというわけにはいかず、
相当立ち入ってやりとりせねばならないものなので、
(もちろん丸投げの場合もある)
ミネベアだからいい、悪い、というものでもない、です。
これはミネベアじゃない方。

この一枚がヨレヨレになる頃には、
もっと素晴らしいNaturalタイプが登場していることを
切に願ったり願わなかったり……
いやホントマジメにマジメに。
もう脇を締めるのは、いや。

今日作った金魚鉢にお願いしておこう。
なむなむ。

新しい機材による新しい経験ができなくて
ちょっぴり残念ですが、
ま、満足し切れてないということは、
まだまだ楽しむ余地もある、ってことで。
マエムキニ。

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ほいあとはいつもどおりダラダラと。

「さっとやる」というのがいいなあ、と思うのですが、
またせずともいい分析してみますと、
「さっとやる」には、
・準備動作なしでできるぐらいの力の加減
 (自分のコントロールできる範囲)
・無理のない内容
・結果がわからなくても、
 「そんなに悪くはなりそうではない」という自信と、
 「これで結果が悪くても
 (めいっぱいやってるので)わしゃ知らん」と
 自分と他人にいい切れる力の出し方
が揃ってる必要があるような気がします。
当然、これだけ揃ってりゃ悪いことにはならないはず。
気合い入れてねじり鉢巻きで取り組んだものより、
頼まれ・ヤッツケの仕事が案外小気味よく
できたりするのは、このように、
「やれる範囲のことを無理なくみっしりやった」
やらざるをえなかった、
からではないかと思います。
無理に焦ったり軽く軽くと思いすぎるのもよくなくて、
「さっと」と言いながら力を充分にこめる、
というのはなかなか難しいのですが、
まあ、意識しておくのは悪くないことではないかと。

ぼく個人的には、最近あんまり
結果を心配せずに行動するようにしてます。
うまく行かなかった時のアナザーチョイスを
条件分岐ごとに豊富に用意するのではなくて、
うまく行かなかった時はその時その場で対応する、
ぐらいの気分で。
失敗と能力不足を恥ずかしがらない。
「できませんでしたー!」
「まちがえましたー!」
もちろん、自分のできるリーズナブルな範囲での
なるべくな用意はするんですよ、
でもその結果までは責任持てません、と。

というよりも、くりかえしになりますが、
「いや俺こんだけやったからさすがにそこまでは責任持てん」
と自分も言い切れて、そう言われれば人も
「……まあ、たしかに……」
と肯かざるを得ない、ところまで
みっちり追い込んでいく、という感じですかね。
それ以上は、知らん!

こんな感じで、毎日、
「あー知らん知らんあとはもう知らん……」
と思いながら眠りたいところです。



 8/3 夏サビ

本日はまた、妄想健康システム検討会。
いつもどおりなんーの根拠もないので、ひとつ。

「クルマの神様」に載ってたのですが、
「サビ」っていうのは温度と湿度が揃ってはじめて
進行する現象らしくて、
だからイギリスのような、高温になると湿度が下がり
湿度が高い時は気温が低い気候や、
中東のようにそもそも湿度が低い地方では、
そもそもクルマは錆びないそうです。
で、つまり日本でも、錆びるのは夏。

とすると、「夏バテ」の原因って、サビじゃないですか?

身体の中の微量金属だけじゃなくて、
なんというか酸化反応の進みすぎが身体全体で
起きてて、それで体調が崩れる。

もちろん
暑い→冷たいもの飲食→胃腸弱る→消化弱る→
パワーダウン、
っていうのが一番大きいとは思うのですが、
じゃあだからって冷たい物我慢すればバテないかって、
そんなことないですよね。

となると、抜本的なバテ対策とはつまり、
「サビないようにする」もしくは
「還元反応で中和する」ではないでしょうか。

食べ物にも酸性アルカリ性ってあるじゃないですか。
調べてみましたところ、
代謝後排泄されない部分が酸性かアルカリ性かによって
決めてるらしいです。
この指標が合ってるかどうか、
また仮にそういう分け方ができるとして、
はたしてアルカリ性を食べればいいのか、
そこはわかんないですけど、
まあ、いつもの「ではない」系統を食べた方が利きそうだ、
という予想は成り立ちますよね。
あ、人によっても違うかも。
肉好きな人は野菜がよくて、
野菜ばっか食べてる人は肉食べた方がよかったり。

あと、食べ物だけじゃなくて、「汗をかく」っていうのは
老廃物排出なので、水分と塩分の補給さえすれば、
むしろ積極的にやった方がいいんだろうとは思います。
とすると冷房のうまい使い方は、
(機械的にではなく、健康的に)
ずーっとゆるくかけるんじゃなくて、
汗かいてきたらガーッとかけて止める、
そのくり返し、かな?
気化熱であまり冷えすぎないようにしつつ。

具体的にわたし、今年は去年よりはかなりマシなのですが
(去年はほんとこのまま死ぬかと思いました)
気をつけてるのは、寝る時の冷房をぐっと減らしたのと、
(冷房のある)部屋に連続して籠もらないことと、
梅干しを貪り食っていることだけです。

……で、梅干しかな? と思い(笑)

以上、なんの根拠も無きことながら。



 8/2 ハナービ

HERO人にもらった「養々麺」がかなり美味い。
インスタントには珍しいあっさり味、けっこうおすすめです。

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ああそうさバーンナウトだよ毎日毎日アクセル全開なんてわけに行くか!(泣)

今日はまたすこぶる暑かったね。

大阪は風物詩のPL花火だったのですが、
あたしゃ昔から花火というものにさほど喜びを感じられず、
それでもまだみんなでやる線香やねずみやロケットは
「みんなで」という部分に価値が置けるのですが、
見るだけのあれはどうも退屈で。

ゲーム脳かな(笑)

「ほんでなんやねん」という気がしませんか。
ああ、そういや見るもの全部あんま好きじゃねえや。
友達に連れられて葵祭とか見物した時は
ほんと退屈でねえ。
やっぱり、お祭りって参加してなんぼですよね。
阿波人えらいですよ、「踊らにゃ損損」って超・真理。

イベントトリガとしての価値は頭では理解できるのですが、
毎日が祝祭のようなこの現代社会では
あれだけでは弱すぎると思うのですがいかがざましょう。
いかがざましょうとか言っても、
現に全国あちらこちらで何十万人もの人が
河原で蚊に喰われてるわけで、
要はいなせじゃないんですな、あたしゃ。

トリガにポーンと飛びついて初鰹を万札叩いて買う、
これが江戸っ子。

……江戸っ子じゃないもん……

合理性で鳴らす(決してケチではない・ここ間違えないように)
古の上方商人達も花火には酔いしれたのでしょうか。
どうも上は見ずに屋形船の中で皿の上か杯の中を
見つめていたような気がしますね。

あーそうそう、集団心理も怖い。
どうにもああいう半トランス集団の真ん中に居ること自体に
恐怖心があって、だから単一目的人混み自体が
あんまり好きじゃないんです。
コンサート、特にノる系統とかすこぶる苦手。
ああいう場って、自分を見失わないと逆に
平静で居られないという実に特殊な空間で、
(だからこそ酩酊させる力がある)
それがイヤなんですなあ。
学生や会社のコンパぐらいのサイズだと、
いざとなれば単独自力脱出も可能でしょうけど、
数万人とかになるとそれも難しい。

コミケとか何度も何度も行って思いますけど、
日本人ほどああいう場に慣れ親しんでる民族は
居ないんじゃないでしょうか。
あれ異常(誉め言葉)ですよ、どう考えても。
それができる、っていうのは、やっぱり根本的に
マツリが好きなんでしょうね。
結局なんのかんのといいつつ
万博も1500万いけそうですしね。
あんなもん100パー無理だと思ってたんですが、
いや、日本人のお祭り好きをナメておりました。

棲息密度が上がるとそのストレスによって
突然変異が起こる、と高校の生物の教科書で
学んだのですが
(だから今どういう学説があるのか知りません・
 あの分野ばかりは進歩が早すぎる)
してみるとああやってお祭りを続けてますと、
ある日羽ばたける人が出現するかもしれませんね。
デビルマンみたいにぱらっぱっぱっぱらーと
突然羽根が生えて。
あるいは自然発火できる能力を身につけるとか。
一生に一度しか使えない能力ですが……
あ、でも使い道は豊富そうだ(笑)
最低でも遺族が焼き場行く手間省けますしね。

まあ、死ぬ能力もロクに与えられてないんだから、
死ぬなってことですな。

こんなことをブツブツ言いつつ、
「和久、和久も浴衣着なきゃダメだからね」
なんて言われると鼻の下伸ばして
金魚入りのビニール袋を代わりに持ってあげるに違いなく、
まあなんというか、セ・ラ・ヴィ。



 8/1 ワールド・シミュレータ

毎日同じことばかり書いてすいません。
もう読まないでください(泣)

……ということで今日も同じ話。
「クルマの神様」読んでああそうかと思った話。

「グランツーリスモ(GT)」シリーズは、
レース・ゲームではなくて、
「ドライビング・シミュレータ」と自称します。
ちょっとおおげさに言えば、「GT」の中には
この大自然がちょっとコンパクトに再現されており、
そこで現実に近い物理法則に則って、
現実に近い物理特性を持たされた、
仮想のクルマが走るわけです。

ゲームあまりされない方はこれがどれほど画期的だったか
おわかりになりにくいと思いますが、
それまでのレース・ゲームというのは、
入力に対する出力がパターン化されており、
それを切り替えてクルマの挙動を表現していました。
極端にいえば「今どうなってる」という絵を多数用意して、
入力ごとに分岐させて「この絵」っていうのを表示する、
ようなもの。
対する「GT」は今そこで各条件を計算して
おもむろにこれだという絵を描く。
ムービーとリアルタイム描画の違いみたいなものです。

それの何がスゴイの、と言われると、
リアリティが全然違う。
(古典的タイプも、演出次第で
 現実離れした爽快感を出せるので、
 それはそれで楽しいのですが)
あと、物理法則さえガッチリしていれば、
あとはパラメータ次第で車種でもパーツでもコースでも、
いくらでも用意できる。

最近思いますのは、
表現というのは、「GT」のように、
シミュレータであるのがよいのではないかと。
自分という物理法則シミュレータを構築し、鍛えて磨いて、
入力を入れると、演算されて、自動的に出力が出る。
こうすることによって、いちいちパターンや条件分岐を
考えていては到底出ないような、
リアリティと多様性が出せるんじゃないかなあ、と。
そして、その大元となっている物理法則をこそ、
「個性」っていうんじゃないかと。

たとえばポリフォニー・デジタルではないチームが
同じ概念同じ規模でドライビング・シミュレータを作っても、
たぶん「GT」とはまったく違う味つけになると思います。
世界はあまりに複雑玄妙ですから、
どの要素に着目するか、重みづけするか、
それでアウトプットはまったく違ってくる。
初代「GT」だって
「(現実にはさほどではない)GTOが異常に強すぎる」
と批判されたものです。
どこをどうやったって、現実そのものにはなりえないし、
「事実は小説より奇なり」というのはまさにそうで、
シミュレータでは排除する不確定外乱要素によって
──たとえば路面の小石一つで──変わっちゃう。

パターン切り替えでやってますと、
どうしてもパターン使い切った時点で行き詰まります。
バリエーション増やすと言っても、パターンを
切った貼った変形した数増やしたになってしまう。
それでは、実質的な変化があまり無いので、
どんどんつまらなくなってしまう。
受け手はともあれ、まず自分が。

「GT」ではサス形式やダンパーの減衰特性などは
パラメータに入ってないそうです。
それらは要するにタイヤを接地させるためのメカニズム
なので、タイヤの挙動そのものに比べればかなり
影響が小さいそうです。
でも、そういうこと知らない我々は、
「ストラットでもいけるんだ」
「いやもうマルチリンクにしないとこのパワーじゃ持たない」
とかぐでぐでぐでぐでしょーもないこと言ってますよね。

つまりシミュレータというのは、
それそのものを構築する過程においても、
真実に肉薄できる。
自分自身が、自分の作ったシミュレータから導き出された
結論に、びっくりする。
これがまた、楽しいわけです。
「神様が降ってくる」という状態は、たぶんこれですね。


またわたくしごとでまことに恐縮なのですが、
ぼくがどんなに辛くても「ミラクルズ!」なら描ける、
と思ってきたのは、また描いてきたのは、
(最近サボってますけど)
あれはたぶん、プリミティブながらそういう
「ミラクルズ・ワールド・シミュレータ」
が自分の中にすでに存在するんです。
だからあとは、ほんのちいさな入力を
ぽい、と入れるだけで、
勝手にキャラが踊ってくれる。
ぼくはその踊ってるのを丁寧に記録するだけです。

ぼくはひとつ新しい世界を作りあげるのに、
誰も見もしない設定資料を作ったり
本番では使うかどうかもわからない
セリフ回しを書き留めたりして、
非常に長い時間が掛かる方なのですが、
それはつまりこうした「ワールド・シミュレータ」そのものを
構築している時間だったようです。
(それさえできてしまえばあとは早い。
 筆の早い遅いはその時間をどこにどう割り振ってるかの
 作戦の違いではないかと思ってみたり)

と、なると、理想としては。
「ながた式ワールド・シミュレータ」
がひとつあって、それが汎用できれば……
楽になるなあ。
どうせ描くのは人間ですから、人間である以上、
多少環境が異なっても行動原理つまり物理法則は
あまり変化しないのではないかと……

じゃどうやってそいつを構築するか、
というと、いや実は、もうあるんです。
ぼくだけじゃなくて、みんな持ってる。
自分のものの見方、ものの感じ方、ものの考え方。
それらをまとめたものが、
マイ・ワールド・シミュレータです。
となると、
ものを見る目感じる心考える頭、そして出力する手かな、
これを鍛えて磨けば、シミュレータの性能は上がる。
より精密に、リアルに、多様に、表現でき、
そして法則の重みづけを弄れば、自分の思う
「楽しさ」「美しさ」「善さ」「しあわせ」
といったものを、より際だたせて表現することができる。
「カローラが勝ちまくるんだけどリアリティのあるGT」
だってやろうと思えばできる。
それは、嘘ではなくて、そのひとの真実なんです。
そのひとのシミュレータがそうなってるだけで。
ただあまり外れすぎるとみんな引いちゃうので、
その辺の呼吸は大事なんですけど。

「作為」っていうのは、このシミュレータを
チューニングする時に、
「カローラはなにがなんでも最強」
としてその法則からはみ出た特例にしてしまうことです。
そうするとそのシミュレータ自体が信頼を失うので、
「すべて」崩壊する。
そうではなくて、物理法則に則ったら
カローラが勝っちゃった、
という法則を作るべきなんですな。
どうしても勝たせたいという愛があると、
そういう法則ができあがったりするものです。
イイワルイとか別にして。
たとえば年間販売台数によって与えられる
ロケットブースターの数が違うとか……
「きたねぇ!w」とは思いますが、シミュレータは崩壊しない。
いやむしろ、生真面目で正座して納得させられてしまう
シミュレータもいいのですが、
なぜかいつもカローラが勝つシミュレータも
それはそれでおもしろい。


「もの書き」というのはかなり特殊なジョブで、
若くからすごいの書く例も史上多々あるわけですが、
つまりなぜかというと、物理的な手業の部分での
技術を「まったく」必要としないので、
このシミュレータの精度と個性が先天的に際だっていれば、
それでOKだからです。
逆に言うと、世間的に溢れかえる
パターン・スイッチングの洗脳を浴びないうちに
マイ・シミュレータに信頼を置いて
インプット・アウトプットするという習慣がつく方が、
強いかもしれない。

この傲岸不遜人を人とも思わない私でさえ、
ふと気を抜くとパターン表見つめてる時があります。
最近ようやく、調子のいい時なら
「ああパターン表見てる、いかんいかん」
と思えるようになった程度。
ホンットにコワイですよ、情報化社会っていうのは。


……と、「表現」について考えてみました。
絵でも音楽でも、なんでも同じだと思います。
なにかの主題が、「その人のシミュレータ」
つまりそのひと自身を通じて出てきているかどうか。
エンターテイメントとしてはパターン・スイッチングタイプも
悪くないと思いますが、表現としてみれば、
ここのところがひとつ大きな段差があるような気がします。
現実には、どちらかだけということはなくて、
パターンも混ぜて味をまろやかにしてみたり、
(よく知ってるものが出ると人は安心する)
シミュレートするところを絞り込むために、
あえて他の要素は極端に単純化=パターン化
することもあるかも。

というか、マンガっていうのは元来そういうものですよね。
絵はパターンにして、アイデアやストーリーこそが
作者のシミュレーテッドな部分。
手塚治虫先生の絵は気の利いた小学生でも
模写できますが、じゃ作品としての「ブラックジャック」が
描けるかって、100%無理ですからね。

日本人というのは伝統的にどこかを強調するために
どこかを単純化するのが巧いのかもしれません。
高温多湿つまり基本的に臭くて汚いので、
清らかなものへの憧憬が強く生じ、
(大昔から清浄な場そのものを聖域として拝む
 (聖域だから清浄に整えてあるのではなく))
それが単純化への変わらぬ欲求になってるのかも。
まあ、妄想にすぎませんが。

それは別にしても、
真理というのは往々にしてシンプルであり、
(地動説でも複雑な計算さえすれば星の運行を
説明できるらしいです)
このシミュレータも性能いいやつの方がシンプルで、
演算も速いし結果もスマートなんだろうと思います。
シミュレータ自体もいくらでも洗練させていく余地がある。
美しい法則を作ること自体も、非常に楽しい。


わたしのシミュレータはまだまだまだまだ
構築中整理中試験運転中。
ご覧のとおりの乱雑さ加減です。




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